(設定の独自解釈が濃く、暗い内容を含みます。苦手な方はご注意下さい。)
――暗い。
――何も、見えない。
――何も、聞こえない。
――何も、感じない。
分厚い雲に覆われた空、その雲の向こう側で輝く月の光ほどの明るさも。
雪の降りしきる冬の竹林、遠く離れた川のせせらぎほどの微かな音も。
蒸し暑い夏の夜、開いた戸から僅かに流れ込み頬を撫でる風ほどの感覚もまるで感じられぬ、闇そのもののごとく暗い空間。
唯一つ感じ取れるのは、私の存在を縛り付ける、いくつもの鎖。
質量を感じさせぬそれは、しかしはっきりとした重みで以って私の腕を縛り。
温度を感じさせぬそれが、まるで氷のような冷たさで私の身体の芯から心まで凍てつかせる。
現在、過去、未来。対人関係、地位、名誉、罪、罰。
私という存在を様々な角度から縛り付ける“しがらみ”そのものが鎖となっているかのようだ。
失敗だ。また、ここに来てしまったのか。
自覚はないものの、ここに未練でもあるのだろうか。
いまだにこんなところに来てしまうということは、自分の中でここへの想いを断ち切れていないのだろう。
こんなところに居ても、もう何も得られはしないというのに。
さっさと他のところに行こう。
――意識が、どろりと闇に融けていく。
★
瞼の裏の妙な眩しさで、目を覚ます。
お目当ての人物の帰宅を待つ最中、うっかりうたた寝をしてしまったらしい。
眠い目をこすり、焦点の定まらないままの目であたりを見回すと
開け放たれた障子から、夕焼けの日差しが部屋に差し込んできていた。
燃えるような夕日と、それに照らされて煌々と燃え上がる妖怪の山。こんな地上の絶景もまた良い物だ。
この世界だと今は――まだ、日が沈むと少々肌寒くなってくる季節だったか。
障子を閉めておこうかと思って立ち上がると、遠くから微かに話し声が聞こえてくる。
「ただいま戻りました。」
「おかえり、早苗。ずいぶん遅かったね。外は寒かったろう。
風呂の準備が出来てるから、パパっと入っておいで。
風呂からあがったら、ご飯だよ。」
「ありがとうございます。ちょっと営業が長引いてしまって。
いや、ほんとに寒かったんですよ。
神奈子様たちはもう入られたんですか?」
「いや、私達はまだだよ。そのかわり今日は――珍しい来客がいてね。
昼過ぎにふらっと現れたと思ったら口を開くなり早苗の話を聞きたいっていうから、早苗が帰ってくるまで待つように言ったんだけど。
早苗が帰ってこないうちに日が暮れはじめてしまったし、今日はここに泊まっていってもらうことにしたんだ。
それで先に入ってもらったから、早苗は二番風呂かな。」
「わたしに個人的な来客ですか?
ブン屋の天狗とか下心丸出しな方でしたら、追い返して頂いて構わないんですけど。
そうしなかったっていうことは……何か、特別な事情があるっていうことですね。」
「そうだね……。事情というほどのものでもないけど、ちょっと変わった人でね。
幻想郷における“巫女”としての、早苗の生活を聞きたいんだってさ。」
開け放たれた障子から廊下に出てみると
首にマフラーを巻いた緑髪の少女が、藍色の髪の女性と玄関の前で話している姿が窓の外に見えた。
山の神社の風祝、青い方の巫女。東風谷早苗の帰宅である。
☆
食事の準備ができたよ、と金髪の神様に呼ばれて案内された部屋は
中央に机が一つ置かれている以外に何もない、極めて質素な和室だった。
食事をする場所に、食事をするためのもの以外には何も必要ない、ということなのだろうか。
あるいはまだ私のことを警戒しているのかもしれないが、真相はわからない。
急にやってきて大事な巫女と個人的に話をしたいなんて言われたら、相手が同性であろうと警戒するのは至極当然の話だろう。
ささ、どうぞどうぞと案内されるままに、一番奥の席に正座をする。
机には既に四人分の小鉢と茶碗に盛られたご飯、汁物の入っているであろうお椀と箸がきれいに並べられていた。
漬物や煮物なんかも中央付近にいくつか、大きな器に盛られていた。これは各自で好きなだけ取って食べろということなのだろう。
机の上の料理をざっくりと眺めていると、正面に立った少女から恐る恐るといった口調で声をかけられた。
「ええっと、初めまして、ですね。ほうらいさんかぐや さん?
こちや さなえ と申します。」
風呂上がりの風祝、東風谷早苗。
細い手指、白い首筋とわずかに覗く鎖骨、濡れそぼり艶々とした緑の髪などが持つどこか危うげな表情は、若い娘特有のもの。
山の巫女も、博麗霊夢とはまた違う方向で“少女”であった。
手に抱えた盆から皿を手際よく並べ、彼女は言った。
「これ、今日の“めいんでっしゅ”の肉料理です。
ナイフとフォークもありますが、箸で切りやすい柔らかさなので大丈夫かな、と…。
箸で食べづらいようでしたら、遠慮なく言って下さいね。」
出された料理に目をやると、どうやら鶏肉を調理したものらしい。
皮はきれいなきつね色、そこになにやらソースのようなものがかけられていて
真っ白な角皿の中央で輝きを放っていた。おいしそう。
「それではみなさんご一緒に。いただきます。」
料理が出揃ったところで二柱と風祝が席につき、食事が始まった。
正面に早苗。向かって右手側に座るが神奈子、左手側が諏訪子。
早苗と話をしたいという私の意向を汲んでの席順だろうが、同時に警戒の念も込められているのが見て取れる。
机を挟んでいればこちらから早苗には手を出しづらいし、二柱はすぐに私のところに手が届く。
部屋の入口から早苗を外に逃すことも、部屋の入口で私の逃亡を阻止することも容易。
屋根を吹き飛ばすとか異空間に逃げる、空間をねじ曲げるなんていう芸当をする相手には効果が薄いが
気休め程度でも警戒の態度を見せることで牽制しているのかもしれない。
メインディッシュに箸を入れるとぱりぱりと軽い音をたてて皮が割れ、肉は繊維にそってさっくりとその身を開いていった。
一口サイズに切ったそれをソースとともに口に入れると、身は軽く噛んだだけで崩れ、中からじわりと肉汁が溢れ出る。
心地良い食感の皮と、香辛料。それにソースの香りが程良いアクセントになって肉の旨味とともに口いっぱいに広がる。
うん、おいしい。白飯にもよく合う味だ。ご飯が進むこと進むこと。
できることなら作り方を聞いて帰りたいところだけど。それにしても――
「どうか、なさいましたか?」
思わずクスリと笑ってしまった私の顔を、緑の巫女が覗き込む。
「口に合わなかったかな?やっぱり蛙の肉の方が良かったんじゃ・・・」
「あ?蛇の蒲焼きをご所望かな?神奈子。」
「冗談だよ、冗談。悪かったって。」
けたけたと笑う神々と、それを宥める現人神を見て、自然と笑みがこぼれてしまう。
二柱の仲も――今はまだ――良好なようだ。
「いえ、とても美味しいわ。焼き加減も味付けも素晴らしいもの。」
☆
食事を終え、片付けを手伝うかと申し出たところきっぱりと断られてしまった。
客にそんなことさせるわけにはいかないよ、と。
曰く、今日は疲れたろうから私達だけで片付けは済ませておくからゆっくりしておけ、と。
曰く、お客さんが早苗に聞きたいことがあるそうだから二人で話していなさい、と。
自分も片付けを手伝うと申し出た早苗をお茶とお茶うけと共に一人残し、二柱は食器の山を持って何処かに消えていった。
食事をしていた部屋に東風谷早苗と二人きり残された私は、何から話したものかと悩んだが
流石に初対面の人にいきなり自分の聞きたいことだけを問うわけにもいかないので
とりあえず簡単に自己紹介から始めることにした。
自分が月の出身であること。月の使者とのやりとり。自分の師であり忠実な部下でもある人の存在。
月から逃げてきた兎と地上の兎。ロケットで裏の月に飛び込んだ幻想郷の愉快なご一行様の話。
私が知り得て彼女が知らないであろう部分を、軽くつまむように話して聞かせた。
初めは緊張からか警戒からか固い表情を崩さなかった彼女は、次第にその表情を緩めていった。
笑い話では口元を抑えてクスクスと笑い、こちらが話をひっぱれば視線と身体をこちらに傾けて食いついてくる。
やはりこの子も、年相応の少女なのだ。
ひと通り話し終えると、今度は私が聞く側に回った。
外の世界での暮らし。こちら側に越してきたときの決意。悩み、迷い。
こちらに来てからの生活。巫女の仕事。
「最近は――旧地獄から怨霊が湧いてでた異変を解決した後からは――
わたしに対する紫の態度も、あ、紫さんの態度も、幾分柔らかくなったようです。
ちょっとは新人のわたしのこと、認めてくれたのかななんて。
そういえば、地霊殿でさとり妖怪と対峙したときから、紫さんの口調が緩んだような気がします。
いやそれにしてもね、さとり妖怪ですよ、さとり妖怪。
なんてったってその妖怪、心の中を丸裸にしちゃうんですよ、いやん、恥ずかしい。」
そして――博麗の巫女との邂逅と、最初で最後の決戦。
そう、最初で、最後の。
「不幸な事故、だったのね。
山の神社の風祝と博麗の巫女。二足のわらじは、大変ではなくて?」
早苗の口から語られた事の顛末は、こうだ。
弾幕ごっこにおける不慮の事故。
博麗の巫女だって人間だ。打ちどころが悪ければ、あっさり死んでしまう。
幻想郷に来て早々に博麗神社に分社を建てようとした東風谷早苗と、山の上に越してきた神社の調査に来た博麗霊夢は
妖怪の山の神社の境内で対峙する。
幻想の世界に来たばかりではしゃいでいた彼女が、弾幕ごっこというものにおける力の使い方の加減を知らず失敗した。
“たまたま”弾が強く当たって“たまたま”霊夢が大きく身体を吹き飛ばされた先で“たまたま”悪い角度で打ち付けてしまった。
偶然に偶然が重なって起きた、遊びの上での事故。
「ええ、でも……。望んだ結末ではないとはいえ、これも私のせいですから。
何よりもまずひとりの人間として、責任はとらないといけません。」
故意ではなかったし、全てを受け入れるという幻想郷の方針上
早苗も山に越してきた神社もそこに祀られる神様も、大きなお咎めは受けなかった。
ただし移住を認める条件として“東風谷早苗を新しい博麗の巫女として博麗神社に住まわせる”ことが提示された。
風祝を、巫女を、失っては困る、信仰の獲得が死活問題な山の神との話し合いの結果、妥協案によって
週の4,5日を博麗神社で過ごし、残りの日に山の神社における仕事をこなすというハードスケジュールに落ち着いたとのこと。
今日は信仰獲得のための営業が、予定よりも長引いてしまったそうだ。
「それに、週の大半は博麗神社でお茶を飲んでぼーっとしているだけなんですよ。
いや、博麗神社の境内の掃除とかもしたりしますけどね?でも、取るに足らない仕事量です。
なので形式上は年中無休ですが、そんなに疲れはしないんですよ。ただちょっと寂しいときもありますけど。」
そう言って、つとめて明るく振る舞う。気丈な娘だ。
口元と目は笑っているが、眉をひそめていたのを私は見逃さなかった。
「そう……。良い心掛けね。
悩みがあるなら、身近な人に相談するのも大事な一つの手よ。
最も、あなたの場合は身近にいるのが人ではなくて神様だったり妖怪だったりするかもしれないけど、大した差じゃないわ。」
目元を緩め、柔らかく微笑みで返す。
聞きたいことは、十分すぎるほど聞くことができた。
やはり、この世界は選ばずにおいて正解だったのかもしれない。
「ありがとうございます。助言はきちんと受け止めておきますね。
それで……。わたしからも質問、いいですか?」
神妙な面持ちで、身体を前のめりに傾けながら早苗はそう言った。
「ええ、どうぞ。」
何を聞かれるのだろう。私の犯した罪に対しての質問だろうか。
罪の意識?向き合い方?それとも、罪に対する罰の考え方か。
想定される質問に対して、形は違えども同じ罪人としての自分なりの考え方を思い浮かべながら構える。
背中を、冷たい汗が流れるのを感じた。
「さっき鶏肉のグリルを食べたとき、クスっと笑いましたよね。
あれ、何が可笑しかったんでしょうか。」
なんだ、そんなことか。
骨折り損のくたびれ儲け?いや、くたびれたはくたびれたが骨折り損というほど動いたわけでもなし、これは違うか。
早とちりで滅茶苦茶焦った自分が、少し悔しかった。
「鴉天狗の多い妖怪の山の上で“トリ料理”を堂々と出すなんて、やるなーって思ったのよ。」
その後はしばらくこの幻想郷についての他愛もない話を聞いていたが、私が欠伸をしたのを見た早苗に客間に案内された。
来客への対応も良かったし、博麗の巫女としての仕事も、山の神社の信仰獲得も
話を聞く限りでは、彼女なりに頑張ってはいるらしいけど。
果たしてそれも、いつまで――
――柔らかい布団に包まれ、意識がまどろみの中に沈んでゆく。
★
――暗い。
――目に映るは、青白く燃える燐気の炎。
――耳に響くは、仄暗き奈落の底を吹き抜ける風の音。
――肌に感じるは、怨嗟の念に重く冷たく湿った空気。
噂にたがわぬ居心地の悪さ。ここは、地底の世界か。
あたりをぐるりと見渡せば、後方には雪のちらつく中、提灯の明かりが蛍のような輝きを放つ建物の群れ。
前方には薄暗い地の底においてなお圧倒的な威圧感をもって門を構える大きな館。
旧都と、地霊殿。地底の二大観光スポット――というには、いささか危険すぎる場所ではある。
こんなところに飛ばされたということは、恐らくここは――。
脳裏をよぎる疑問を確かめるべく、旧都の上空を飛び越えて地上を目指すも
竪穴の出口付近の異様な暑さと穴の入り口から覗く真っ赤な光を見て察し、地霊殿へと引き返す。
旧地獄は上空を急げば急ぐほどに、はらはらと舞う雪は吹雪のように表情を強張らせて顔にぶつかってくる。
まったく、寒い寒い。
地霊殿。打ち棄てられた旧地獄の浮かばれない怨霊を管理する、危険な厄介な仕事を引き受けた者の暮らす館。
瓦葺きの旧地獄街道を抜けた先にある、いささか旧地獄には不釣り合いにも見受けられる洋風の館。
開きながらにして他のあらゆる存在を拒絶するかのような、地霊殿の正面玄関。
番すらおらず開け放たれていて尚通りぬける者のいない門をくぐり、正面の大扉を開けて中にお邪魔する。
肌寒い外の空気と館に満ちるぼんやりとした熱気が入り混じりなんとも居心地の悪い廊下を歩いてくと
一際異様な雰囲気を醸し出す両開きの扉が目についた。
全てを見透かす赤、拒絶する黒。館の床の模様の意味するところを煮詰めて濃縮したかのような、熱を帯びた岩のごとく暗く紅く鎮座する大扉。
お目当ての人物――と、言っていいのだろうか――は、恐らくここにいる。私の直感がそう告げている。
扉を開くと、向かって右側にテーブルと四脚の椅子が、壁際にはいくつかの食器と茶器とを並べた棚が
左手側にはベッドとコートスタンドが置かれているのが目に入る。壁にはクローゼットとおぼしき扉が据え付けられている。
そして、正面には大きなソファーと、そこに浅く腰掛け大きな本を広げて読む少女の姿。
どこにでも売っていそうなコートスタンドは兎も角、家具や調度品はどれも一目見ただけで相当な値打ちものだろうということがわかるものだった。
悪趣味な豪華絢爛さはないが、姿形も素材の質感も施された装飾も決していい加減なものではなく、皆一様に「我、ここにあり。」と己の存在感を誇示している。
旧地獄の怨霊の管理、か。なり手の少ないだろう仕事なだけあってやはり、それ相応の見返りは得ているらしい。
あるいは、他に稼ぎ口あってのことなのかもしれないが。
「来客ですか。珍しい。
約束もなしにこんなところにいきなり現れたのは、あの魔法使いと巫女と以来ですから……数日ぶりくらいでしょうか。」
「数日ぶりの来客なら、珍しいという程のものでもないんじゃないの?」
広げた本から目を上げることもなくこちらに言葉を投げてよこした少女のもとへ、ゆっくりと歩み寄る。
部屋のど真ん中で寝ていた猫に直前まで気づかずうっかり踏みそうになって、少しばかり焦った。
「あなたのペットの野望は果たされたようね。」
巫女と妖怪の戦いは魔法使いの裏切りによって妖怪の勝利に終わり、世界は地獄へと姿を変えたのだ。
地上から地底へ続く穴へと吹きこむ異様な熱気と灼熱の溶岩のごとき紅き光は、地上が灼熱地獄と化した紛れも無い証拠であった。
「さあ……。うちのペットは放し飼いの放任主義でして。
生憎、地上を灼熱地獄へと変えるほどの力を持ったものはいないものと考えていましたが。」
「放し飼いにしていたとはいえ、今となってはあの地獄鴉の子が何をしたか知らないわけではないでしょう。
それとも、あなたは――山の神の企みからあの子の野望まで、全て知っていてその上で放置したのかしら。」
表紙の擦り切れるほど読み込まれた分厚い本から視線を上げた少女は
鈍く、しかし何者をも貫くかのような鋭い光を放つその三つの目で、わたしの二つの目をはっきりと見据える。
「どうでしょうね。
地上が――幻想郷が――どうあれ、地底に封じられた私達には関係のないこと。
たとえ幻想郷が灼熱の地獄へと姿を変え、幻想郷の人妖が滅んでしまったとしても。
人間が心の内を読まれることを恐れる限り、無意識の衝動を抑えきれないことを心配する限り”わたしたち”は滅びない。
他の妖怪もまた然りです。地底に封じられた妖怪が消滅するなら、きっとそれはその対象そのものへの恐怖が失われたとき。
即ち、我々が役目を終えたときなのですから。」
遥か昔に地の底に封じられた古の妖怪。
地上に対して抱くは――恨みか。羨望か。渇望か、嫉妬か。憤怒か。
心の中を読めぬ私には、少女の考えはわからない。他の妖怪のそれも、当然。
「月の使者から隠れる必要も無くなって久しい。けれど、その隠れる場所も無くなってしまった。
あの竹林も、あの屋敷も、部下の兎達も、それなりに気に入っていたのだけどね。」
――ぱたん、と。
閉じた本を傍らに置き、手を膝の上で重ねてはっきり私と対峙し、少女は問うた。
「わたしを、恨んでいるのですか。」
「私の胸に聞いてみたら?」
少女の姿において圧倒的な存在感を放つ赤い目を見遣り、そう告げた。
彼女を彼女たらしめる、第三の目。その眼光は、全てを見抜く。
「……。そうですか。それはお疲れ様です。
立ち話もなんですし、そこの椅子にかけて下さい。お茶くらい出しますよ。
いえ、結構?まあまあそうおっしゃらずに。わたしに聞きたいことがあるのでしょう。
少しばかり、長くなりますからね。ええ、こちらも聞きたいことが少しばかりありますし。」
少女からみて左手側の――私から見ると右手後方の――机を指して、息継ぎもせずに淡々と
しかし強い意思をその内に込めて彼女は言った。
心を読み暴いてしまうがゆえに忌み嫌われ、しかしその力を駆使することで他者を拒絶し、のし上がってきた少女。
噂にたがわぬ、有無を言わさぬ見事な交渉術。さすがね。
いや、相手に発言する隙すら与えず一方的にやり込めてしまうそれは、果たして交渉と呼んでいいのだろうか。
怨霊にすら恐れらるる、慧眼の君。言葉の暴力の権化のごとき存在。
とはいえ、地底の茶や菓子なんて滅多に口にできるものでもないし。悪くはないわ。
それに――
「毒を盛っても殺せないんですか。これはこれはまったく厄介なひとですね、貴女って。」
――ちょっとしたことを思ったそばから読んで、口にしてもいない言葉に勝手に返事をしてくる。
まったく、ひとの心を何だと思っているのだろうか、この妖怪は。
示された席につくべく振り返りながら、背中越しに少女に疑問を投げつける。
「他人の心を丸裸にしてしまうあなたに“厄介”なんて言われたくはないのだけど――お互い様かしら。」
椅子に座るとほどなくして、小皿に盛られた焼き菓子とカップに入った紅茶が供された。
小皿もカップも金で縁取りされ、果物の丁寧な模様と相まってとても可愛らしい。これもちょっとした値打ちものだろう。
焼き菓子は手作りのものだろうか。白と焦茶色の模様が目を楽しませる。
しかしなにもクッキーまで市松模様にしなくてもいいのに。よっぽど好きなのだろうか。
「ええ、好きなんですよ。市松模様。
それで、あなたの聞きたいことは、先の異変の顛末ですね。ええ、良いですよ。
私も合間合間に食べながら話しますから、冷めないうちにどうぞ。」
一から十まで読まれてしまうのは普段から生活する上では厄介だけど。
逆に言うなれば初対面でも会話で気を遣わなくてすむので、こういう場面では助かるかもしれない。
遠慮なくクッキーと茶を頂くことにする。
茶は作り方の問題か環境の問題か、地上のものとは少し違った独特の香りがあるが、悪くはなかった。
クッキーは程良い甘さとココアの香りとほろ苦さが絶妙で、変わった味の紅茶と良く合っていて美味しい。
「あの魔法使いが巫女を裏切るなんてね。
彼女に何があったのかしら。」
「そうですね、巫女の方はそうでもなかったみたいですけど。
魔法使いの方はここに来る道中で、緑の眼を持つ魔物に囚われてしまった。
力を持つものへの、持たざるものの嫉妬。
彼女はなんであれただの人間でしたから、神を宿したあの子の力はさぞかし魅力的に見えたことでしょう、」
橋姫。嫉妬心を操る程度の能力を持つ妖怪。
煩悩は108まであるとか大罪は7つとか、人の業に関する考え方は国・地域によってそれぞれ異なると聞くが。
なるほどたしかに、嫉妬の心がどれほど恐ろしいことかがよく分かる好例だ。
嫉妬は人の心を狂わせ、その人の性質まで捻じ曲げてしまう。
嫉妬に狂い正気を失って友人を手に掛けた魔法使いの心の中は。
信頼していた仲間に裏切られ最後を迎えた巫女の無念は、いかほどのものであったか。
嫉妬という感情が無くならない限り、彼女はその力を誇示し続けるだろう。
恐ろしきかな。地の底に封じられた理由がはっきりと見て取れる。あの妖怪に好き放題されては国がいくつあっても足りない。
先の異変の解決失敗の原因。それがわかれば、こちらとしては十分だ。
「それで、そっちが聞きたいことというのは?」
「ええ、それは……。」
カップの茶を飲み干し、皿とカップを膝の上で抱えて
どこか恥ずかしげな――言い出しづらいような、迷いの表情を見せた後
意を決したように私の瞳を見据えて、少女は言った。
「わたしの妹は“選ばれた世界”でも、元気でやってるんでしょうか。」
どんな要求をしてくるのかと構えてみたらこれだ。
情報を要求してくるとか、あるいは自分も別の世界に行く手段はないのかとか。
あるいは月から持ちだした技術や宝物。そのあたりを想像していただけに肩透かしを食らったような気分になる。
薬を売って歩いているイナバから聞いた情報をさっくり思い浮かべながら、簡潔に返した。
「ええ、たぶんね。」
こいし、とか言ったか。妖怪と人間の平等がどうこうとか言う胡散臭いお寺に出入りしてるとか聞いた。
妖怪も人間も多い寺だし、積極的に出入りしているということはそれなりに楽しくやってるのではないだろうか。
そうでなければ、いくら妖怪とはいえ魑魅魍魎の跋扈する寺にわざわざ足を運んだりはしないだろう。
「そうですか。それを聞いて安心しました。」
ずっと硬い表情を崩さなかった妖怪の頬が、にわかに緩んだ。
見た目相応の、少女のような優しい微笑み。可愛らしいというか、妹を思いやる愛情に溢れた柔らかな笑みだった。
家族を持つっていうのは、家族であるっていうのは、こういうことなのだろうか。
私は――
「家族はいなくても、大切なお仲間はいるのですね。
血の繋がりはなくとも、それだけ大事な人ならもう少し……
いえ、この先はあえて言わないでおきましょう。私からどうこう言う問題でもないですし。
ほら、お燐、こっちに来なさい。この人は危険な人じゃないから、そんなに構えてなくても良いのよ。」
そうだ。家族がいなくとも、私には永遠亭がある。
そこの住人は皆、私にとって大切な存在だ。帰ったらもう少し、相応しい態度で接してみよう。
そう考えていると、向かいに座った少女の横にいきなり二人の少女が現れた。
燃えさかる炎のような赤い髪をおさげにした、暗いワンピースの猫耳少女。
にゃーんと大きな欠伸をひとつした彼女は、こちらを見据えて訝しげな表情を崩さない。
さっきから部屋のど真ん中に位置どってくつろいでいたように見えた猫は、妖怪だったのか。
背後から私の様子を伺っていたというわけか。成程、主人想いの良くできた部下だ。
椅子にかけた少女を挟んで猫耳の反対側に立つは、椅子に腰掛けたさとり妖怪にどこか似ている女の子。
仄暗い部屋の中において、ランプに照らされてぼんやりと月の光のように冷たく輝く、ふわりとした髪。
どこか石のような雰囲気を漂わせるその髪色と、そして固く閉じた第三の目。
噂には聞いている。どうやらこの子が「こいし」らしい。
まさか“こちら”で会うのが初になるとは。なんとも珍しい経験をした。
「お話は終わったの?お姉ちゃん。
じゃあ、このヒト、死体をエントランスに飾っちゃっていいかな?」
可愛い顔して何かもの凄いことをさらっと言ってのけたような気がするが、気にしないことにしよう。
「だめよ。この人は大事なお客さんなんだから。
それにこの人――殺しても死なないもの。」
「なぁんだ!じゃあどばーっと飾っちゃっても死なないんだね!大丈夫じゃん。」
姉妹の――主に妹の――ひとりスプラッターコメディのような会話を聞いていると頭が痛くなりそうなので
突っ込みを入れるのは諦め、巻き込まれないうちにさっさと御暇することにした。
いくら不死身でも痛いものは痛い。どばーっとなんてたまったものじゃない。
「家族の団欒を邪魔しちゃ悪いし、失礼するわ。」
「さようなら。いつか会う日があれば、また。」
「ばいばーい!」
「さよにゃら、おねーさん。」
足早に館を抜け、門を飛び出し、旧地獄の街道へと続く道を歩いていると――
――地に落ちて融ける雪のように、意識は地の底に吸い込まれていった。
★
――空気が悪い。
第一印象はそれに尽きる。現世にはない濃い瘴気。
なんだか身体に良くない雰囲気が室内に充満していた。
後方には小さな扉、四方を石造りの灰色の壁に囲まれた室内は薄暗く窓もない。
家具は粗末なベッドと椅子が一脚、作り付けの机にランプが一つだけ。
ベッドの上には、白黒の魔女服を着た少女がへたり込んでいた。
以前新聞で見た情報によればUFOとかいうらしい、よくわからない色をした塊をカラカラと転がしたり振ってみたり覗きこんだり。
しばらくすると動きを止め、女の子座りをした膝の上でUFOを抱えて動かなくなる。
そのうち思い出したかのように窓や隙間を覗きこんだかと思えばまたカラカラと振ってはやめての繰り返し。
UFOを弄っているときも動きを止めた今も、その眼には光が灯っていなかった。
燃え尽き燻っている灰のように、あるいは曇りガラスのように濁った瞳。
さながら魂を何処かに囚われてしまったかのようだ。あれはたしか――
「か……輝夜じゃないか!」
名前を思い出して声をかけようとすると、その前にこちらに気づいた向こう側から声をかけてきた。
けっこう前になんかよくわからない理由でうちに殴りこんできたのは覚えてる。
難題を投げつけてやったのも、それを向こうが二人がかりで必死こいて解いてきたのも、仲直りの宴会をしたのも覚えてる。
この子も――霧雨魔理沙も、私のことをちゃんと覚えていたのか。少し嬉しくなった。
「ど、どうし、たんだよ……?こんな、ところで?
な、なあ。どこから来たんだ?いや、そうか、幻想郷だよな。それはわかってるんだ。
みんなは、元気にしてるか?ひょっとして、わたしのことを探してたりしないか?
ま、まさかとは思うけど……わたし、わ、忘れられてたりしないよな?」
こちらの返事も待たず、彼女は質問を弾幕の雨のようにぶつけてきた。
ぼろぼろと大粒の涙を流し、言葉を詰まらせ身体を震わせながら喋る様を見るに、相当憔悴しているらしい。
よく見ると、少し痩せた――といより、やつれた――ように見える
頬はこけていたし、手の指も丸みを失って骨ばって見えた。
髪色はくすんで枝毛が目立っていたし、まとまりも無くボサボサとしていた。
トレードマークの魔女の帽子も服もエプロンも白かったところが土色に変色していて、悲壮感の漂う表情と相まって
まるで全身でくたびれた箒を体現しているかのような印象を見る者に与える。
そういえば、同じくトレードマークの箒はどこに行ったのだろう。
「ちょっと待ちなさい。質問は一つずつにしてちょうだい。」
たしかに、私は幻想郷からやって来た。しかしその幻想郷は――。
「どういうことだ?この世界じゃないって、どういうことだよ?
幻想郷は幻想郷だろ、で、ここ“魔界”とは違うってことだよな?なんとかいってくれよ?」
永遠と須臾を操る程度の能力。私の存在は永遠であり、かつ一瞬より短い。
故にいくつもの歴史をその内に包括し得る。
“今の”幻想郷は、数多あるうちの“選ばれた”歴史。そして――
「私はこの世界でもただ一人の私であるけど
この世界の幻想郷からはここに来ていない。だから“この”幻想郷の人がどうしているかはわからないわ。
誰かが貴女を探しているかどうかも、誰かが異変を解決しようとしているかも。
皆が元気にしているかもわからない。」
そしてここは、私がその内に含めた“選ばれなかった歴史”“失敗した歴史”だから。
何を以ってして失敗に終わったのか、それを調べるために。
そして失敗した歴史の人々が、どう歩みを進めているのかを知るために。
選んだのが正しかったのか、選ばなかったのが正しかったのか。常に見つめ直すために。
私は私の中の“選ばれなかった世界”を旅している。
魔理沙は魔界を訪れた折に魔法使いに敗れ、追いかけていたUFO一つを渡されるかわりに箒と八卦炉を取り上げられ
この魔界に囚われてしまったのだという。そしてこの何もない部屋で、役割も与えられず幽閉されていると。
そんな彼女にとって、私はまさに“助け舟”のように映ったのではないだろうか。しかし。
「そんな、それじゃあ私は、ここから一生帰れないのか……?」
希望を見いだした人間がそれを失ったときの絶望は、ただ絶望を突きつけられるよりも深く苦しいものである。
彼女にとって私は、先の見えぬ絶望の暗闇の中に差した一筋の光だったのだろう。
残念ながら、私は彼女の“希望”にはなれなかった。
私の口から語られた“私”の真実を耳にした彼女の絶望に暮れる悲痛な表情は、筆舌に尽くしがたいものであった。
「安心なさい。きっとそのうち帰れるわ。」
たしかあの異変は、魔界から船に乗って聖白蓮が幻想郷に移り住んだことで終焉を迎えたはず。
この世界においても、あの聖とかいう女が復活する手はずが幻想郷で整えば。
そしてその時に、聖白蓮が霧雨魔理沙を許せば、の話であるが。
「ま、待ってくれ!いかないで!わたしをひとりに――」
――私を引き止める声を聞き終わるより早く、意識は魔界の瘴気に飲まれ霧散するように遠のいていく。
★
――明るい、
――見慣れた天井。
――外が騒がしい。
――布団が、暖かい。
ああ、帰ってきたのか。
布団を跳ね除け、飛び上がるように起き上がる。
博麗の巫女が風祝に敗れてしまった歴史。
地霊殿のペットが地上を侵略してしまった歴史。
UFOを追いかけた魔法使いが魔法使いに敗れてしまった歴史。
今日の旅で行き着いた歴史は三つ。どれも、失敗した未来なだけに悲惨なものではあった。
あれらの世界を選ばなかったのは、正解だったらしい。
それでも、そこに生きる人妖は逞しく生きていた。そこから、私が学びとるべきものは――。
漂ってくる味噌汁の香りに釣られて食堂に行くと、既に準備が整いつつあった。
白飯に味噌汁に漬物。卵料理も並んでいる。永琳も、イナバも揃っていた。
ヘニョヘニョの耳に紫のロングヘアー。ブレザーの後ろ姿がなんともきゃわゆい。
後ろから思い切り、抱きついてやった。
「ウドンゲー!」
「わっ!いきなりどうしたんですか?
師匠は兎も角、姫様にその名前で呼ばれるのはなんか新鮮な感じがしますね。」
「鍋をするのよ、鍋を。
今日は一家団らん、こたつで鍋を囲む。そう決めたの。さあ準備をなさい!」
「は、はぁ……。一家?どういうつもりだろう。まーた急に、変なことでも思いついたのかなぁ。
鍋をするのは別にいいんですけど。鍋、か……。
別にいいですけど、それよりまず朝ごはんを食べませんか?」
心の声がうっかりちょくちょく漏れ出してることには、この際触れないでおいてあげよう。
今日会ってきた妖怪との会話を思い出したら、自然とそういう気持ちになってしまった。
誰にだって心の中には触られたくない部分がある。
「鍋がどうかしたのかしら。」
弟子のなんとも浮かない表情に、永琳が口を挟んでくる。
鈴仙ははっとした表情で師の目を見て――首をかるく三度ほど左右に振って答えた。
「鍋っていう単語にちょっとトラウマがありましてね……。今は昔、ですけど。
それで、具材はどうするんです?」
もうちょっとこのかわいいイナバを弄ってやりたくなったので、またちょっと意地悪なことを言ってみる。
「んー、兎鍋とかどうかしら。」
「ギャー!」
妖怪兎の悲鳴が、竹林に木霊した。
「冗談だってば。鶏とか色々使って寄せ鍋にしましょう。シメはウドンね。
ちょっと、聞いてるの?鈴仙?ウドンゲ?イナバ?どうしたのよ、一体。」
白目を向いてピクピクしている鈴仙を揺すって呼びかけるも、返事がない。
永琳が呆れたような表情で、しかし心配そうに見つめている。
家族、か。ちょっとやりすぎただろうか。親しき仲にも礼儀あり、である。
――暗い。
――何も、見えない。
――何も、聞こえない。
――何も、感じない。
分厚い雲に覆われた空、その雲の向こう側で輝く月の光ほどの明るさも。
雪の降りしきる冬の竹林、遠く離れた川のせせらぎほどの微かな音も。
蒸し暑い夏の夜、開いた戸から僅かに流れ込み頬を撫でる風ほどの感覚もまるで感じられぬ、闇そのもののごとく暗い空間。
唯一つ感じ取れるのは、私の存在を縛り付ける、いくつもの鎖。
質量を感じさせぬそれは、しかしはっきりとした重みで以って私の腕を縛り。
温度を感じさせぬそれが、まるで氷のような冷たさで私の身体の芯から心まで凍てつかせる。
現在、過去、未来。対人関係、地位、名誉、罪、罰。
私という存在を様々な角度から縛り付ける“しがらみ”そのものが鎖となっているかのようだ。
失敗だ。また、ここに来てしまったのか。
自覚はないものの、ここに未練でもあるのだろうか。
いまだにこんなところに来てしまうということは、自分の中でここへの想いを断ち切れていないのだろう。
こんなところに居ても、もう何も得られはしないというのに。
さっさと他のところに行こう。
――意識が、どろりと闇に融けていく。
★
瞼の裏の妙な眩しさで、目を覚ます。
お目当ての人物の帰宅を待つ最中、うっかりうたた寝をしてしまったらしい。
眠い目をこすり、焦点の定まらないままの目であたりを見回すと
開け放たれた障子から、夕焼けの日差しが部屋に差し込んできていた。
燃えるような夕日と、それに照らされて煌々と燃え上がる妖怪の山。こんな地上の絶景もまた良い物だ。
この世界だと今は――まだ、日が沈むと少々肌寒くなってくる季節だったか。
障子を閉めておこうかと思って立ち上がると、遠くから微かに話し声が聞こえてくる。
「ただいま戻りました。」
「おかえり、早苗。ずいぶん遅かったね。外は寒かったろう。
風呂の準備が出来てるから、パパっと入っておいで。
風呂からあがったら、ご飯だよ。」
「ありがとうございます。ちょっと営業が長引いてしまって。
いや、ほんとに寒かったんですよ。
神奈子様たちはもう入られたんですか?」
「いや、私達はまだだよ。そのかわり今日は――珍しい来客がいてね。
昼過ぎにふらっと現れたと思ったら口を開くなり早苗の話を聞きたいっていうから、早苗が帰ってくるまで待つように言ったんだけど。
早苗が帰ってこないうちに日が暮れはじめてしまったし、今日はここに泊まっていってもらうことにしたんだ。
それで先に入ってもらったから、早苗は二番風呂かな。」
「わたしに個人的な来客ですか?
ブン屋の天狗とか下心丸出しな方でしたら、追い返して頂いて構わないんですけど。
そうしなかったっていうことは……何か、特別な事情があるっていうことですね。」
「そうだね……。事情というほどのものでもないけど、ちょっと変わった人でね。
幻想郷における“巫女”としての、早苗の生活を聞きたいんだってさ。」
開け放たれた障子から廊下に出てみると
首にマフラーを巻いた緑髪の少女が、藍色の髪の女性と玄関の前で話している姿が窓の外に見えた。
山の神社の風祝、青い方の巫女。東風谷早苗の帰宅である。
☆
食事の準備ができたよ、と金髪の神様に呼ばれて案内された部屋は
中央に机が一つ置かれている以外に何もない、極めて質素な和室だった。
食事をする場所に、食事をするためのもの以外には何も必要ない、ということなのだろうか。
あるいはまだ私のことを警戒しているのかもしれないが、真相はわからない。
急にやってきて大事な巫女と個人的に話をしたいなんて言われたら、相手が同性であろうと警戒するのは至極当然の話だろう。
ささ、どうぞどうぞと案内されるままに、一番奥の席に正座をする。
机には既に四人分の小鉢と茶碗に盛られたご飯、汁物の入っているであろうお椀と箸がきれいに並べられていた。
漬物や煮物なんかも中央付近にいくつか、大きな器に盛られていた。これは各自で好きなだけ取って食べろということなのだろう。
机の上の料理をざっくりと眺めていると、正面に立った少女から恐る恐るといった口調で声をかけられた。
「ええっと、初めまして、ですね。ほうらいさんかぐや さん?
こちや さなえ と申します。」
風呂上がりの風祝、東風谷早苗。
細い手指、白い首筋とわずかに覗く鎖骨、濡れそぼり艶々とした緑の髪などが持つどこか危うげな表情は、若い娘特有のもの。
山の巫女も、博麗霊夢とはまた違う方向で“少女”であった。
手に抱えた盆から皿を手際よく並べ、彼女は言った。
「これ、今日の“めいんでっしゅ”の肉料理です。
ナイフとフォークもありますが、箸で切りやすい柔らかさなので大丈夫かな、と…。
箸で食べづらいようでしたら、遠慮なく言って下さいね。」
出された料理に目をやると、どうやら鶏肉を調理したものらしい。
皮はきれいなきつね色、そこになにやらソースのようなものがかけられていて
真っ白な角皿の中央で輝きを放っていた。おいしそう。
「それではみなさんご一緒に。いただきます。」
料理が出揃ったところで二柱と風祝が席につき、食事が始まった。
正面に早苗。向かって右手側に座るが神奈子、左手側が諏訪子。
早苗と話をしたいという私の意向を汲んでの席順だろうが、同時に警戒の念も込められているのが見て取れる。
机を挟んでいればこちらから早苗には手を出しづらいし、二柱はすぐに私のところに手が届く。
部屋の入口から早苗を外に逃すことも、部屋の入口で私の逃亡を阻止することも容易。
屋根を吹き飛ばすとか異空間に逃げる、空間をねじ曲げるなんていう芸当をする相手には効果が薄いが
気休め程度でも警戒の態度を見せることで牽制しているのかもしれない。
メインディッシュに箸を入れるとぱりぱりと軽い音をたてて皮が割れ、肉は繊維にそってさっくりとその身を開いていった。
一口サイズに切ったそれをソースとともに口に入れると、身は軽く噛んだだけで崩れ、中からじわりと肉汁が溢れ出る。
心地良い食感の皮と、香辛料。それにソースの香りが程良いアクセントになって肉の旨味とともに口いっぱいに広がる。
うん、おいしい。白飯にもよく合う味だ。ご飯が進むこと進むこと。
できることなら作り方を聞いて帰りたいところだけど。それにしても――
「どうか、なさいましたか?」
思わずクスリと笑ってしまった私の顔を、緑の巫女が覗き込む。
「口に合わなかったかな?やっぱり蛙の肉の方が良かったんじゃ・・・」
「あ?蛇の蒲焼きをご所望かな?神奈子。」
「冗談だよ、冗談。悪かったって。」
けたけたと笑う神々と、それを宥める現人神を見て、自然と笑みがこぼれてしまう。
二柱の仲も――今はまだ――良好なようだ。
「いえ、とても美味しいわ。焼き加減も味付けも素晴らしいもの。」
☆
食事を終え、片付けを手伝うかと申し出たところきっぱりと断られてしまった。
客にそんなことさせるわけにはいかないよ、と。
曰く、今日は疲れたろうから私達だけで片付けは済ませておくからゆっくりしておけ、と。
曰く、お客さんが早苗に聞きたいことがあるそうだから二人で話していなさい、と。
自分も片付けを手伝うと申し出た早苗をお茶とお茶うけと共に一人残し、二柱は食器の山を持って何処かに消えていった。
食事をしていた部屋に東風谷早苗と二人きり残された私は、何から話したものかと悩んだが
流石に初対面の人にいきなり自分の聞きたいことだけを問うわけにもいかないので
とりあえず簡単に自己紹介から始めることにした。
自分が月の出身であること。月の使者とのやりとり。自分の師であり忠実な部下でもある人の存在。
月から逃げてきた兎と地上の兎。ロケットで裏の月に飛び込んだ幻想郷の愉快なご一行様の話。
私が知り得て彼女が知らないであろう部分を、軽くつまむように話して聞かせた。
初めは緊張からか警戒からか固い表情を崩さなかった彼女は、次第にその表情を緩めていった。
笑い話では口元を抑えてクスクスと笑い、こちらが話をひっぱれば視線と身体をこちらに傾けて食いついてくる。
やはりこの子も、年相応の少女なのだ。
ひと通り話し終えると、今度は私が聞く側に回った。
外の世界での暮らし。こちら側に越してきたときの決意。悩み、迷い。
こちらに来てからの生活。巫女の仕事。
「最近は――旧地獄から怨霊が湧いてでた異変を解決した後からは――
わたしに対する紫の態度も、あ、紫さんの態度も、幾分柔らかくなったようです。
ちょっとは新人のわたしのこと、認めてくれたのかななんて。
そういえば、地霊殿でさとり妖怪と対峙したときから、紫さんの口調が緩んだような気がします。
いやそれにしてもね、さとり妖怪ですよ、さとり妖怪。
なんてったってその妖怪、心の中を丸裸にしちゃうんですよ、いやん、恥ずかしい。」
そして――博麗の巫女との邂逅と、最初で最後の決戦。
そう、最初で、最後の。
「不幸な事故、だったのね。
山の神社の風祝と博麗の巫女。二足のわらじは、大変ではなくて?」
早苗の口から語られた事の顛末は、こうだ。
弾幕ごっこにおける不慮の事故。
博麗の巫女だって人間だ。打ちどころが悪ければ、あっさり死んでしまう。
幻想郷に来て早々に博麗神社に分社を建てようとした東風谷早苗と、山の上に越してきた神社の調査に来た博麗霊夢は
妖怪の山の神社の境内で対峙する。
幻想の世界に来たばかりではしゃいでいた彼女が、弾幕ごっこというものにおける力の使い方の加減を知らず失敗した。
“たまたま”弾が強く当たって“たまたま”霊夢が大きく身体を吹き飛ばされた先で“たまたま”悪い角度で打ち付けてしまった。
偶然に偶然が重なって起きた、遊びの上での事故。
「ええ、でも……。望んだ結末ではないとはいえ、これも私のせいですから。
何よりもまずひとりの人間として、責任はとらないといけません。」
故意ではなかったし、全てを受け入れるという幻想郷の方針上
早苗も山に越してきた神社もそこに祀られる神様も、大きなお咎めは受けなかった。
ただし移住を認める条件として“東風谷早苗を新しい博麗の巫女として博麗神社に住まわせる”ことが提示された。
風祝を、巫女を、失っては困る、信仰の獲得が死活問題な山の神との話し合いの結果、妥協案によって
週の4,5日を博麗神社で過ごし、残りの日に山の神社における仕事をこなすというハードスケジュールに落ち着いたとのこと。
今日は信仰獲得のための営業が、予定よりも長引いてしまったそうだ。
「それに、週の大半は博麗神社でお茶を飲んでぼーっとしているだけなんですよ。
いや、博麗神社の境内の掃除とかもしたりしますけどね?でも、取るに足らない仕事量です。
なので形式上は年中無休ですが、そんなに疲れはしないんですよ。ただちょっと寂しいときもありますけど。」
そう言って、つとめて明るく振る舞う。気丈な娘だ。
口元と目は笑っているが、眉をひそめていたのを私は見逃さなかった。
「そう……。良い心掛けね。
悩みがあるなら、身近な人に相談するのも大事な一つの手よ。
最も、あなたの場合は身近にいるのが人ではなくて神様だったり妖怪だったりするかもしれないけど、大した差じゃないわ。」
目元を緩め、柔らかく微笑みで返す。
聞きたいことは、十分すぎるほど聞くことができた。
やはり、この世界は選ばずにおいて正解だったのかもしれない。
「ありがとうございます。助言はきちんと受け止めておきますね。
それで……。わたしからも質問、いいですか?」
神妙な面持ちで、身体を前のめりに傾けながら早苗はそう言った。
「ええ、どうぞ。」
何を聞かれるのだろう。私の犯した罪に対しての質問だろうか。
罪の意識?向き合い方?それとも、罪に対する罰の考え方か。
想定される質問に対して、形は違えども同じ罪人としての自分なりの考え方を思い浮かべながら構える。
背中を、冷たい汗が流れるのを感じた。
「さっき鶏肉のグリルを食べたとき、クスっと笑いましたよね。
あれ、何が可笑しかったんでしょうか。」
なんだ、そんなことか。
骨折り損のくたびれ儲け?いや、くたびれたはくたびれたが骨折り損というほど動いたわけでもなし、これは違うか。
早とちりで滅茶苦茶焦った自分が、少し悔しかった。
「鴉天狗の多い妖怪の山の上で“トリ料理”を堂々と出すなんて、やるなーって思ったのよ。」
その後はしばらくこの幻想郷についての他愛もない話を聞いていたが、私が欠伸をしたのを見た早苗に客間に案内された。
来客への対応も良かったし、博麗の巫女としての仕事も、山の神社の信仰獲得も
話を聞く限りでは、彼女なりに頑張ってはいるらしいけど。
果たしてそれも、いつまで――
――柔らかい布団に包まれ、意識がまどろみの中に沈んでゆく。
★
――暗い。
――目に映るは、青白く燃える燐気の炎。
――耳に響くは、仄暗き奈落の底を吹き抜ける風の音。
――肌に感じるは、怨嗟の念に重く冷たく湿った空気。
噂にたがわぬ居心地の悪さ。ここは、地底の世界か。
あたりをぐるりと見渡せば、後方には雪のちらつく中、提灯の明かりが蛍のような輝きを放つ建物の群れ。
前方には薄暗い地の底においてなお圧倒的な威圧感をもって門を構える大きな館。
旧都と、地霊殿。地底の二大観光スポット――というには、いささか危険すぎる場所ではある。
こんなところに飛ばされたということは、恐らくここは――。
脳裏をよぎる疑問を確かめるべく、旧都の上空を飛び越えて地上を目指すも
竪穴の出口付近の異様な暑さと穴の入り口から覗く真っ赤な光を見て察し、地霊殿へと引き返す。
旧地獄は上空を急げば急ぐほどに、はらはらと舞う雪は吹雪のように表情を強張らせて顔にぶつかってくる。
まったく、寒い寒い。
地霊殿。打ち棄てられた旧地獄の浮かばれない怨霊を管理する、危険な厄介な仕事を引き受けた者の暮らす館。
瓦葺きの旧地獄街道を抜けた先にある、いささか旧地獄には不釣り合いにも見受けられる洋風の館。
開きながらにして他のあらゆる存在を拒絶するかのような、地霊殿の正面玄関。
番すらおらず開け放たれていて尚通りぬける者のいない門をくぐり、正面の大扉を開けて中にお邪魔する。
肌寒い外の空気と館に満ちるぼんやりとした熱気が入り混じりなんとも居心地の悪い廊下を歩いてくと
一際異様な雰囲気を醸し出す両開きの扉が目についた。
全てを見透かす赤、拒絶する黒。館の床の模様の意味するところを煮詰めて濃縮したかのような、熱を帯びた岩のごとく暗く紅く鎮座する大扉。
お目当ての人物――と、言っていいのだろうか――は、恐らくここにいる。私の直感がそう告げている。
扉を開くと、向かって右側にテーブルと四脚の椅子が、壁際にはいくつかの食器と茶器とを並べた棚が
左手側にはベッドとコートスタンドが置かれているのが目に入る。壁にはクローゼットとおぼしき扉が据え付けられている。
そして、正面には大きなソファーと、そこに浅く腰掛け大きな本を広げて読む少女の姿。
どこにでも売っていそうなコートスタンドは兎も角、家具や調度品はどれも一目見ただけで相当な値打ちものだろうということがわかるものだった。
悪趣味な豪華絢爛さはないが、姿形も素材の質感も施された装飾も決していい加減なものではなく、皆一様に「我、ここにあり。」と己の存在感を誇示している。
旧地獄の怨霊の管理、か。なり手の少ないだろう仕事なだけあってやはり、それ相応の見返りは得ているらしい。
あるいは、他に稼ぎ口あってのことなのかもしれないが。
「来客ですか。珍しい。
約束もなしにこんなところにいきなり現れたのは、あの魔法使いと巫女と以来ですから……数日ぶりくらいでしょうか。」
「数日ぶりの来客なら、珍しいという程のものでもないんじゃないの?」
広げた本から目を上げることもなくこちらに言葉を投げてよこした少女のもとへ、ゆっくりと歩み寄る。
部屋のど真ん中で寝ていた猫に直前まで気づかずうっかり踏みそうになって、少しばかり焦った。
「あなたのペットの野望は果たされたようね。」
巫女と妖怪の戦いは魔法使いの裏切りによって妖怪の勝利に終わり、世界は地獄へと姿を変えたのだ。
地上から地底へ続く穴へと吹きこむ異様な熱気と灼熱の溶岩のごとき紅き光は、地上が灼熱地獄と化した紛れも無い証拠であった。
「さあ……。うちのペットは放し飼いの放任主義でして。
生憎、地上を灼熱地獄へと変えるほどの力を持ったものはいないものと考えていましたが。」
「放し飼いにしていたとはいえ、今となってはあの地獄鴉の子が何をしたか知らないわけではないでしょう。
それとも、あなたは――山の神の企みからあの子の野望まで、全て知っていてその上で放置したのかしら。」
表紙の擦り切れるほど読み込まれた分厚い本から視線を上げた少女は
鈍く、しかし何者をも貫くかのような鋭い光を放つその三つの目で、わたしの二つの目をはっきりと見据える。
「どうでしょうね。
地上が――幻想郷が――どうあれ、地底に封じられた私達には関係のないこと。
たとえ幻想郷が灼熱の地獄へと姿を変え、幻想郷の人妖が滅んでしまったとしても。
人間が心の内を読まれることを恐れる限り、無意識の衝動を抑えきれないことを心配する限り”わたしたち”は滅びない。
他の妖怪もまた然りです。地底に封じられた妖怪が消滅するなら、きっとそれはその対象そのものへの恐怖が失われたとき。
即ち、我々が役目を終えたときなのですから。」
遥か昔に地の底に封じられた古の妖怪。
地上に対して抱くは――恨みか。羨望か。渇望か、嫉妬か。憤怒か。
心の中を読めぬ私には、少女の考えはわからない。他の妖怪のそれも、当然。
「月の使者から隠れる必要も無くなって久しい。けれど、その隠れる場所も無くなってしまった。
あの竹林も、あの屋敷も、部下の兎達も、それなりに気に入っていたのだけどね。」
――ぱたん、と。
閉じた本を傍らに置き、手を膝の上で重ねてはっきり私と対峙し、少女は問うた。
「わたしを、恨んでいるのですか。」
「私の胸に聞いてみたら?」
少女の姿において圧倒的な存在感を放つ赤い目を見遣り、そう告げた。
彼女を彼女たらしめる、第三の目。その眼光は、全てを見抜く。
「……。そうですか。それはお疲れ様です。
立ち話もなんですし、そこの椅子にかけて下さい。お茶くらい出しますよ。
いえ、結構?まあまあそうおっしゃらずに。わたしに聞きたいことがあるのでしょう。
少しばかり、長くなりますからね。ええ、こちらも聞きたいことが少しばかりありますし。」
少女からみて左手側の――私から見ると右手後方の――机を指して、息継ぎもせずに淡々と
しかし強い意思をその内に込めて彼女は言った。
心を読み暴いてしまうがゆえに忌み嫌われ、しかしその力を駆使することで他者を拒絶し、のし上がってきた少女。
噂にたがわぬ、有無を言わさぬ見事な交渉術。さすがね。
いや、相手に発言する隙すら与えず一方的にやり込めてしまうそれは、果たして交渉と呼んでいいのだろうか。
怨霊にすら恐れらるる、慧眼の君。言葉の暴力の権化のごとき存在。
とはいえ、地底の茶や菓子なんて滅多に口にできるものでもないし。悪くはないわ。
それに――
「毒を盛っても殺せないんですか。これはこれはまったく厄介なひとですね、貴女って。」
――ちょっとしたことを思ったそばから読んで、口にしてもいない言葉に勝手に返事をしてくる。
まったく、ひとの心を何だと思っているのだろうか、この妖怪は。
示された席につくべく振り返りながら、背中越しに少女に疑問を投げつける。
「他人の心を丸裸にしてしまうあなたに“厄介”なんて言われたくはないのだけど――お互い様かしら。」
椅子に座るとほどなくして、小皿に盛られた焼き菓子とカップに入った紅茶が供された。
小皿もカップも金で縁取りされ、果物の丁寧な模様と相まってとても可愛らしい。これもちょっとした値打ちものだろう。
焼き菓子は手作りのものだろうか。白と焦茶色の模様が目を楽しませる。
しかしなにもクッキーまで市松模様にしなくてもいいのに。よっぽど好きなのだろうか。
「ええ、好きなんですよ。市松模様。
それで、あなたの聞きたいことは、先の異変の顛末ですね。ええ、良いですよ。
私も合間合間に食べながら話しますから、冷めないうちにどうぞ。」
一から十まで読まれてしまうのは普段から生活する上では厄介だけど。
逆に言うなれば初対面でも会話で気を遣わなくてすむので、こういう場面では助かるかもしれない。
遠慮なくクッキーと茶を頂くことにする。
茶は作り方の問題か環境の問題か、地上のものとは少し違った独特の香りがあるが、悪くはなかった。
クッキーは程良い甘さとココアの香りとほろ苦さが絶妙で、変わった味の紅茶と良く合っていて美味しい。
「あの魔法使いが巫女を裏切るなんてね。
彼女に何があったのかしら。」
「そうですね、巫女の方はそうでもなかったみたいですけど。
魔法使いの方はここに来る道中で、緑の眼を持つ魔物に囚われてしまった。
力を持つものへの、持たざるものの嫉妬。
彼女はなんであれただの人間でしたから、神を宿したあの子の力はさぞかし魅力的に見えたことでしょう、」
橋姫。嫉妬心を操る程度の能力を持つ妖怪。
煩悩は108まであるとか大罪は7つとか、人の業に関する考え方は国・地域によってそれぞれ異なると聞くが。
なるほどたしかに、嫉妬の心がどれほど恐ろしいことかがよく分かる好例だ。
嫉妬は人の心を狂わせ、その人の性質まで捻じ曲げてしまう。
嫉妬に狂い正気を失って友人を手に掛けた魔法使いの心の中は。
信頼していた仲間に裏切られ最後を迎えた巫女の無念は、いかほどのものであったか。
嫉妬という感情が無くならない限り、彼女はその力を誇示し続けるだろう。
恐ろしきかな。地の底に封じられた理由がはっきりと見て取れる。あの妖怪に好き放題されては国がいくつあっても足りない。
先の異変の解決失敗の原因。それがわかれば、こちらとしては十分だ。
「それで、そっちが聞きたいことというのは?」
「ええ、それは……。」
カップの茶を飲み干し、皿とカップを膝の上で抱えて
どこか恥ずかしげな――言い出しづらいような、迷いの表情を見せた後
意を決したように私の瞳を見据えて、少女は言った。
「わたしの妹は“選ばれた世界”でも、元気でやってるんでしょうか。」
どんな要求をしてくるのかと構えてみたらこれだ。
情報を要求してくるとか、あるいは自分も別の世界に行く手段はないのかとか。
あるいは月から持ちだした技術や宝物。そのあたりを想像していただけに肩透かしを食らったような気分になる。
薬を売って歩いているイナバから聞いた情報をさっくり思い浮かべながら、簡潔に返した。
「ええ、たぶんね。」
こいし、とか言ったか。妖怪と人間の平等がどうこうとか言う胡散臭いお寺に出入りしてるとか聞いた。
妖怪も人間も多い寺だし、積極的に出入りしているということはそれなりに楽しくやってるのではないだろうか。
そうでなければ、いくら妖怪とはいえ魑魅魍魎の跋扈する寺にわざわざ足を運んだりはしないだろう。
「そうですか。それを聞いて安心しました。」
ずっと硬い表情を崩さなかった妖怪の頬が、にわかに緩んだ。
見た目相応の、少女のような優しい微笑み。可愛らしいというか、妹を思いやる愛情に溢れた柔らかな笑みだった。
家族を持つっていうのは、家族であるっていうのは、こういうことなのだろうか。
私は――
「家族はいなくても、大切なお仲間はいるのですね。
血の繋がりはなくとも、それだけ大事な人ならもう少し……
いえ、この先はあえて言わないでおきましょう。私からどうこう言う問題でもないですし。
ほら、お燐、こっちに来なさい。この人は危険な人じゃないから、そんなに構えてなくても良いのよ。」
そうだ。家族がいなくとも、私には永遠亭がある。
そこの住人は皆、私にとって大切な存在だ。帰ったらもう少し、相応しい態度で接してみよう。
そう考えていると、向かいに座った少女の横にいきなり二人の少女が現れた。
燃えさかる炎のような赤い髪をおさげにした、暗いワンピースの猫耳少女。
にゃーんと大きな欠伸をひとつした彼女は、こちらを見据えて訝しげな表情を崩さない。
さっきから部屋のど真ん中に位置どってくつろいでいたように見えた猫は、妖怪だったのか。
背後から私の様子を伺っていたというわけか。成程、主人想いの良くできた部下だ。
椅子にかけた少女を挟んで猫耳の反対側に立つは、椅子に腰掛けたさとり妖怪にどこか似ている女の子。
仄暗い部屋の中において、ランプに照らされてぼんやりと月の光のように冷たく輝く、ふわりとした髪。
どこか石のような雰囲気を漂わせるその髪色と、そして固く閉じた第三の目。
噂には聞いている。どうやらこの子が「こいし」らしい。
まさか“こちら”で会うのが初になるとは。なんとも珍しい経験をした。
「お話は終わったの?お姉ちゃん。
じゃあ、このヒト、死体をエントランスに飾っちゃっていいかな?」
可愛い顔して何かもの凄いことをさらっと言ってのけたような気がするが、気にしないことにしよう。
「だめよ。この人は大事なお客さんなんだから。
それにこの人――殺しても死なないもの。」
「なぁんだ!じゃあどばーっと飾っちゃっても死なないんだね!大丈夫じゃん。」
姉妹の――主に妹の――ひとりスプラッターコメディのような会話を聞いていると頭が痛くなりそうなので
突っ込みを入れるのは諦め、巻き込まれないうちにさっさと御暇することにした。
いくら不死身でも痛いものは痛い。どばーっとなんてたまったものじゃない。
「家族の団欒を邪魔しちゃ悪いし、失礼するわ。」
「さようなら。いつか会う日があれば、また。」
「ばいばーい!」
「さよにゃら、おねーさん。」
足早に館を抜け、門を飛び出し、旧地獄の街道へと続く道を歩いていると――
――地に落ちて融ける雪のように、意識は地の底に吸い込まれていった。
★
――空気が悪い。
第一印象はそれに尽きる。現世にはない濃い瘴気。
なんだか身体に良くない雰囲気が室内に充満していた。
後方には小さな扉、四方を石造りの灰色の壁に囲まれた室内は薄暗く窓もない。
家具は粗末なベッドと椅子が一脚、作り付けの机にランプが一つだけ。
ベッドの上には、白黒の魔女服を着た少女がへたり込んでいた。
以前新聞で見た情報によればUFOとかいうらしい、よくわからない色をした塊をカラカラと転がしたり振ってみたり覗きこんだり。
しばらくすると動きを止め、女の子座りをした膝の上でUFOを抱えて動かなくなる。
そのうち思い出したかのように窓や隙間を覗きこんだかと思えばまたカラカラと振ってはやめての繰り返し。
UFOを弄っているときも動きを止めた今も、その眼には光が灯っていなかった。
燃え尽き燻っている灰のように、あるいは曇りガラスのように濁った瞳。
さながら魂を何処かに囚われてしまったかのようだ。あれはたしか――
「か……輝夜じゃないか!」
名前を思い出して声をかけようとすると、その前にこちらに気づいた向こう側から声をかけてきた。
けっこう前になんかよくわからない理由でうちに殴りこんできたのは覚えてる。
難題を投げつけてやったのも、それを向こうが二人がかりで必死こいて解いてきたのも、仲直りの宴会をしたのも覚えてる。
この子も――霧雨魔理沙も、私のことをちゃんと覚えていたのか。少し嬉しくなった。
「ど、どうし、たんだよ……?こんな、ところで?
な、なあ。どこから来たんだ?いや、そうか、幻想郷だよな。それはわかってるんだ。
みんなは、元気にしてるか?ひょっとして、わたしのことを探してたりしないか?
ま、まさかとは思うけど……わたし、わ、忘れられてたりしないよな?」
こちらの返事も待たず、彼女は質問を弾幕の雨のようにぶつけてきた。
ぼろぼろと大粒の涙を流し、言葉を詰まらせ身体を震わせながら喋る様を見るに、相当憔悴しているらしい。
よく見ると、少し痩せた――といより、やつれた――ように見える
頬はこけていたし、手の指も丸みを失って骨ばって見えた。
髪色はくすんで枝毛が目立っていたし、まとまりも無くボサボサとしていた。
トレードマークの魔女の帽子も服もエプロンも白かったところが土色に変色していて、悲壮感の漂う表情と相まって
まるで全身でくたびれた箒を体現しているかのような印象を見る者に与える。
そういえば、同じくトレードマークの箒はどこに行ったのだろう。
「ちょっと待ちなさい。質問は一つずつにしてちょうだい。」
たしかに、私は幻想郷からやって来た。しかしその幻想郷は――。
「どういうことだ?この世界じゃないって、どういうことだよ?
幻想郷は幻想郷だろ、で、ここ“魔界”とは違うってことだよな?なんとかいってくれよ?」
永遠と須臾を操る程度の能力。私の存在は永遠であり、かつ一瞬より短い。
故にいくつもの歴史をその内に包括し得る。
“今の”幻想郷は、数多あるうちの“選ばれた”歴史。そして――
「私はこの世界でもただ一人の私であるけど
この世界の幻想郷からはここに来ていない。だから“この”幻想郷の人がどうしているかはわからないわ。
誰かが貴女を探しているかどうかも、誰かが異変を解決しようとしているかも。
皆が元気にしているかもわからない。」
そしてここは、私がその内に含めた“選ばれなかった歴史”“失敗した歴史”だから。
何を以ってして失敗に終わったのか、それを調べるために。
そして失敗した歴史の人々が、どう歩みを進めているのかを知るために。
選んだのが正しかったのか、選ばなかったのが正しかったのか。常に見つめ直すために。
私は私の中の“選ばれなかった世界”を旅している。
魔理沙は魔界を訪れた折に魔法使いに敗れ、追いかけていたUFO一つを渡されるかわりに箒と八卦炉を取り上げられ
この魔界に囚われてしまったのだという。そしてこの何もない部屋で、役割も与えられず幽閉されていると。
そんな彼女にとって、私はまさに“助け舟”のように映ったのではないだろうか。しかし。
「そんな、それじゃあ私は、ここから一生帰れないのか……?」
希望を見いだした人間がそれを失ったときの絶望は、ただ絶望を突きつけられるよりも深く苦しいものである。
彼女にとって私は、先の見えぬ絶望の暗闇の中に差した一筋の光だったのだろう。
残念ながら、私は彼女の“希望”にはなれなかった。
私の口から語られた“私”の真実を耳にした彼女の絶望に暮れる悲痛な表情は、筆舌に尽くしがたいものであった。
「安心なさい。きっとそのうち帰れるわ。」
たしかあの異変は、魔界から船に乗って聖白蓮が幻想郷に移り住んだことで終焉を迎えたはず。
この世界においても、あの聖とかいう女が復活する手はずが幻想郷で整えば。
そしてその時に、聖白蓮が霧雨魔理沙を許せば、の話であるが。
「ま、待ってくれ!いかないで!わたしをひとりに――」
――私を引き止める声を聞き終わるより早く、意識は魔界の瘴気に飲まれ霧散するように遠のいていく。
★
――明るい、
――見慣れた天井。
――外が騒がしい。
――布団が、暖かい。
ああ、帰ってきたのか。
布団を跳ね除け、飛び上がるように起き上がる。
博麗の巫女が風祝に敗れてしまった歴史。
地霊殿のペットが地上を侵略してしまった歴史。
UFOを追いかけた魔法使いが魔法使いに敗れてしまった歴史。
今日の旅で行き着いた歴史は三つ。どれも、失敗した未来なだけに悲惨なものではあった。
あれらの世界を選ばなかったのは、正解だったらしい。
それでも、そこに生きる人妖は逞しく生きていた。そこから、私が学びとるべきものは――。
漂ってくる味噌汁の香りに釣られて食堂に行くと、既に準備が整いつつあった。
白飯に味噌汁に漬物。卵料理も並んでいる。永琳も、イナバも揃っていた。
ヘニョヘニョの耳に紫のロングヘアー。ブレザーの後ろ姿がなんともきゃわゆい。
後ろから思い切り、抱きついてやった。
「ウドンゲー!」
「わっ!いきなりどうしたんですか?
師匠は兎も角、姫様にその名前で呼ばれるのはなんか新鮮な感じがしますね。」
「鍋をするのよ、鍋を。
今日は一家団らん、こたつで鍋を囲む。そう決めたの。さあ準備をなさい!」
「は、はぁ……。一家?どういうつもりだろう。まーた急に、変なことでも思いついたのかなぁ。
鍋をするのは別にいいんですけど。鍋、か……。
別にいいですけど、それよりまず朝ごはんを食べませんか?」
心の声がうっかりちょくちょく漏れ出してることには、この際触れないでおいてあげよう。
今日会ってきた妖怪との会話を思い出したら、自然とそういう気持ちになってしまった。
誰にだって心の中には触られたくない部分がある。
「鍋がどうかしたのかしら。」
弟子のなんとも浮かない表情に、永琳が口を挟んでくる。
鈴仙ははっとした表情で師の目を見て――首をかるく三度ほど左右に振って答えた。
「鍋っていう単語にちょっとトラウマがありましてね……。今は昔、ですけど。
それで、具材はどうするんです?」
もうちょっとこのかわいいイナバを弄ってやりたくなったので、またちょっと意地悪なことを言ってみる。
「んー、兎鍋とかどうかしら。」
「ギャー!」
妖怪兎の悲鳴が、竹林に木霊した。
「冗談だってば。鶏とか色々使って寄せ鍋にしましょう。シメはウドンね。
ちょっと、聞いてるの?鈴仙?ウドンゲ?イナバ?どうしたのよ、一体。」
白目を向いてピクピクしている鈴仙を揺すって呼びかけるも、返事がない。
永琳が呆れたような表情で、しかし心配そうに見つめている。
家族、か。ちょっとやりすぎただろうか。親しき仲にも礼儀あり、である。
あとがきに書いてあるようなアイデアについては読んでいる間に理解出来ました。しかし、だから何だという印象が強いです。輝夜がいろんな世界を見て、どう思ったとか、良かったとか悪かったとかの描写が薄く、物語としては物たりませんでした。かといって、それぞれの世界が鮮やか、あるいは生々しく魅力的に書かれているかと言えば、淡々としていて、取り敢えず用意されたパートのように感じます。
発想と作品の形式は好きなんですが、テーマが弱いと思います。
以上です。ありがとうございました。
この設定を使ってしかできないなにか、あるいはひねり。それと独立している個々のエピソード同士にも一貫したテーマ、あるいは最終的に一つに纏まっていく、あるいはなにかが氷解していくような繋がりがあれば良かった。
時系列の件も、むしろこれはごちゃっとかき混ぜて、読者を軽く混乱させるようなやり方の方がミステリアスで読者の関心をそそると思います。書き手の力は要求されますが。
ちょっと性格が良すぎるかな。もっと変化球を使って攻めて欲しい題材だった。こういっちゃなんですが、書き手次第では大化けしそうなネタではあると思います。別に悪いことではまったくないんですが、作者さんが挑戦するには少し時期尚早だったかも知れません。
ただネタの嗅覚は素晴らしいと思います。あとは調理の腕が上がれば、といったところでしょうか。次回作の健闘を祈ります。
あとがきを読むまでどういうこっちゃと思っていましたが、あとがきを読んで納得しました。
テーマはとても面白いと思います。次回作に期待大です。