1.
「おおっと」
大きめの石に躓いた妖夢は咄嗟の判断で飛び前転をし、そのまま何度か転がった後にバランスよく立ち上がった。
「チョコパイとカスタードケーキと苺ミルクプリンとフルーツ白玉と抹茶パフェを五個ずつください」
「しょ、少々お待ちくださいませ」
フードを被った店員のお姉さんは、いそいそと奥へと引っ込んでいった。
褒め称えるべきは見事なバランス感覚で転がる勢いのまま立ち上がった妖夢ではなく、汗を垂らしながらも笑顔で応対したお姉さんと言えるだろう。まさに店員の鏡である。
妖夢は一息に吐き出した注文の文句を反芻し、その内容が間違ってなかったことを頭の中で確認してから小さく息を吐いた。
この洋菓子屋は最近オープンした店で、店主独自のオリジナル・スイーツメニューが取り揃えられているという触れ込みだった。店舗内での食事が可能ということもあってか、昼下がりの午後は里のうら若き少女たちでごった返しているという。
鋭く後ろを振り返るが、幸運なことに客は居なかった。たまたま客の空いた時間帯だったのだろう。本当に助かった。妖夢はそう思い、火が出そうなぐらい熱くなった顔に手を当てて身を捩じらせる。
羞恥に耐えるその姿とは裏腹に、心の中では頭を抱えて絶叫していた。
やってしまった!
たかが石の一つに足を取られ、そのまま飛び込み入店をするなんて! 何たる不覚。一生の恥だ!
人生に挫折したような深く長い溜息を吐く。そこからエクトプラズムでも吐き出されそうであるが、もう既に半分居る。時間とともに恥じらいの感情は増してゆき、妖夢は落ち着き無くそわそわと商品を待った。
客が来ないうちに帰りたい。こんな姿、見られたくない。
今誰かが入店したとしても、そこには商品を待つ妖夢が見えるだけだ。つまりはただの来客と同じなのだ。だが、今の妖夢にそんなことを思いつく余裕は無かった。
「――ゴホッ」
誰だ!
店内だ。張り詰めた顔で声のほうを振り返る。そこは店の最奥の席で、最初に振り返ったときには気付かなかった場所だ。店内に客は居た。彼女一人だけが――。
ひどく見慣れた顔だ。彼女は唖然とした表情で妖夢を見ている。
その唇にはクリームが付き、さくらんぼのへたが出ている。食べかけなのだろう。そのことも忘れ、何かを我慢するように黙り込んでいた。
彼女の名前は知っている。稗田阿求。幻想郷の記録者である。
2.
「待ってください!」
品物を受け取った妖夢は走り去る人影を呼び止めた。
人影――稗田阿求は走り続ける。決して捕まってはならないと逃げるその姿は、まるで、殺人者から一心不乱に逃げる少女のようだった。
「見たんでしょう! 見たんですよね! 見たと言ってください!」
「知りません!」
妖夢の必死の叫びに業を煮やしたのか、阿求は振り返って叫んだ。その眼差しは燃え滾るように熱く、彼女の内なる情熱を感じさせた。
いったい何がそんなに興奮させているのだろう。あの前転がそんなに気に障るようなことだったのだろうか。妖夢は感情を抑えずに詰め寄る。
「何故ですか……、見たと言ってください! いえ、見てなくてもいいです。見てないなら見てないと言ってください。そうしないと私が大変なことになるんです! 私の為にも言ってください!」
「ですから……、ぶふッ! げほッ、ごほッ!」
「あ、阿求さん……大丈夫ですか……?」
「い、いいえ、大丈夫です。問題ありません。ありませんから……!」
阿求は涙目を堪えつつ、今日は帰らせてください、と小さく口にした。その開かれた唇から甘い匂いがする。先ほど見たクリームの匂いだろうか。そこで初めて顔が近づき過ぎていることに気付いた。力無く離れて解放すると、阿求は顔を真っ赤にして走り去る。
脱力した妖夢はふらふらと宙に浮き、スイーツを抱えて亡霊のように白玉楼へと帰っていった。
3.
「ねぇ、最近妖夢の様子がおかしいの」
「うーん? どうしてそう思うの?」
白玉楼は静謐な室内。そこには幽々子と紫が居た。のんびりと外の桜を眺め、妖夢の買ってきた絶品スイーツを二人で味わっている。
「前にお使いを頼んだのよ。ほら、今食べてるこの和菓子。わりと評判だって言うから。それでね、買ってきた日からね、妖夢ったら、あんまり部屋から出てこなくなっちゃったのよ。いつもならもじもじして、私の分はありませんか? って聞いてくるのに」
「ふぅん」
「それでね? 少し心配になってこっそり部屋まで行ったの。そしたら……」
「そしたら?」
紫が興味をもって顔を近付ける。幽々子はそっと耳打ちして言った。
「悶え苦しむように……阿求、阿求、って、ずっと言ってるのよ」
ぎょっとした顔をする紫。
「阿求って……、里の? 稗田阿求?」
「ええ。あの女の子よ。紫も知ってるでしょう?」
「よく……知っているわ」
「私ね、妖夢にも春が来たのかなぁ、って思ったのよ」
「何。阿求と友達になりたいって?」
「違うわ。……恋よ」
紫はずっこけて言った。
「ちょっとちょっと。性別は? 阿求は女の子よ? 妖夢を見なさい。同じ女の子でしょう? 友達になりたい、っていうのが普通じゃない?」
「キューピットっていうの? 私、やってみたいわぁ。仲良くなる二人を見てみたいの」
「幽々子! 私、そういうのはちょっと……」
「ちょっと?」
「……面白そうかも」
「そうよね!」
幽々子は近くを飛んでいた幽霊に指示し、新しくお茶を用意させた。
「手始めは阿求本人がどう思っているのか、よね。紫、調べられない?」
「そうねぇ……」
どうしたものか、と紫は悩んだ。
4.
「藍様。何か御用でしょうか?」
「いや、用という程のことではないのですが……」
紫の式、八雲藍は稗田の家を訪ねていた。無論、紫の言い付けである。
稗田の家人は突然現れた藍をもてなし、阿求に取り次ぐとすぐさま寝室へと案内した。阿求自身は療養中のため、布団に入ったままである。
こんな格好で申し訳ありませんが、と黄色の襦袢を羽織った阿求が言った。
――阿求が妖夢をどう思っているのか、聞き出してきなさい。
紫の言葉を思い出す。どうにもやっつけ仕事のような指示の出し方であったし、藍としても命令の内容からして気が進まない。しかし何もしない訳にもいかず、苦々しい顔を浮かべて話題を振った。
「実は……この里で調査をしていまして」
「そうですか……。この私でお力になれることでしたらご協力致します。貴方にはお世話になっていますからね」
「そう言っていただけると助かります」
如才ない阿求の笑みを見て、藍は何とも言えない気持ちになる。紫はもう少しまともな指示を下すべきだ。式は主の言うことに従わなければならない。だから阿求の心の内にも忍び込まなければならないのだ。こういった戯れには散々付き合わされているが、未だに慣れないし、慣れたいとも思わなかった。藍は心の中で溜息を吐くと、どうやって聞き出したものかと考えながら話し始めた。
「……昨今の里の者たちは、妖怪と近しい間柄にあると言っていいでしょう。私を含め、天狗や花の妖怪が時折里に訪れるのをよく見ますから。ただ近頃は、妖怪の類ではない、まったく別の者たちが紛れ込むことも多いと思います」
「妖怪ではない者……。まぁ、そうですね。稀に見ますね」
「はい。里の者たちは、妖怪に属さない存在……例えば幽霊や天人などに対し、どういった印象を抱いているのでしょうか。彼らは妖怪の分類ではありません。私たち妖怪からすれば、彼らとはきちんと線引きをし、お互いの領分をわきまえ、尊重し合っているつもりです。ですが……人間たちの中でその認識に隔たりがあるならば、些細な誤解が大きな傷を生み出す瞬間がいつか訪れることでしょう。阿求殿は幻想郷縁起を記されている御方。妖怪だけでなく、幽霊や天人などとも顔を合わせていることでしょう。そんな貴方に対し、里の者たちが何か仰っていたことはないでしょうか? 聡明な紫様はそのことを気にされて、里で最も信頼の置ける稗田の娘――貴方に聞いてくるように、と私を使わされたのです」
まぁ、と感嘆し、阿求は開く口を手で隠す。
藍が即興で作り上げた質問を、阿求は真面目に考え込んでいるようだ。
「そうですね……。とりわけ、悪い印象は持たれていないと思います。天人の方――比那名居様などは好印象ですよ。粗野な口調ですが、とても可愛らしいお方で子どもたちに人気があるそうです。それにもちろんのこと、人間以外の存在を恐れている方もいらっしゃいます。ずっと昔の話ですが、私の身を心配してくれた方に、妖怪に殺されてしまうから幻想郷縁起を記すのを止めて欲しい、と言われた時代もあったんですよ。阿弥の頃には危機に瀕していた幻想郷ですが、今では博麗大結界の守護があります。そのお陰で、ここ百年の間で妖怪の者たちとも相互に良い関係を築き上げられたと思っています。博麗様も、結界は磐石な地盤で安定していると満足されていました。……私は御阿礼の名の元に、長きに渡る幻想郷の歴史を記して参りました。その中でも、今世の幻想郷は黄金時代を迎えているといっても過言ではないと断言できます。活気に溢れ、光と影が相互に存在しながらも、その全てを照らす、太陽のような存在を感じるのです。こんなに安らぐ時代を私は知りません。少なからず、里の方々に不安を吐露していただける機会もありますが……、妖怪である藍様とこうしてお逢いしている私には理解を示して頂いています。ですので、藍様が心配されるほどに根深いものは無いと考えますよ」
慕うような阿求の表情に、藍は思わず笑みが零れる。
今の阿求の話を紫が聞いたら、きっと喜ぶだろう。藍は紫が幻想郷を愛していることを知っている。はっきりと口にする訳ではないが、言葉や行動の節々からそういった思いが感じ取れるのだ。もちろん藍もそれを口にするつもりは無い。きっと否定するか、話題を逸らすか、何がしかの罠に嵌めてくるに決まっているからだ。
思わず優しい気持ちになってしまうが、紫の指示に身体が反応する。自分の役割を思い出したのだ。紫が知りたいのは妖怪の評判ではない。妖夢のことなのだ。
「そうですか……。それは良かった。そのお話をすれば、きっと紫様も喜ぶことでしょう。ちなみにですね、その、里の者たちが話す不安というのは、やはり妖怪が主なのでしょうか? 天人の話はありましたが、例えば幽霊などはどうでしょう? 近頃は幽霊の類が里を訪れると聞きます。私の知っている限りでは、例えば……セーラー服に身を包んだ髪の短い船幽霊が居ますね。それか、例えば二本の刀を携えた少女は覚えていますか? 抱き枕のような幽霊が近くを浮遊しているので解り易いと思いますが」
藍は阿求の顔に注目する。
「抱き枕というと――」
途端、阿求の顔が真っ赤になった。
「あ、あの方のことですね……!」
阿求は狼狽し、顔を隠して震え始めた。藍は心配して近寄る。
「阿求殿。どうかされましたか」
「い、いえ……、何でも、何でもありません!」
「しかし、様子が……」
「ら、藍様。二つ隣の部屋の、八意様をお呼び下さいませんか。すみません、どうか、お願いします……!」
藍は突然の発言に驚いた。八意といえば、知っている中には八意永琳しか存在しない。竹林の医者がこんなところを訪れていたのか。
急いで呼びに行こうと立ち上がると、音も無く襖が開かれた。そこには阿求の呼んでいた永琳が立っていた。
「呼ぶ声が聞こえたわ。阿求、どうしたの?」
永琳は俊敏な動作で阿求の傍らに座り、背中を撫でる。そのまま持ち寄った薬箱に手を出した。
「は、はい……。何も、大丈夫、です。大丈夫です。何も……考えては……いけない……。私は、大丈夫……」
阿求は呼吸を荒くし、ぶつぶつと同じことを何度も呟いた。藍には内容はともかく、その意味が解りかねた。
「狐さん?」
振り返った永琳が言った。
「御免なさいね。今ちょっと、私、この子の看病で稗田の家に通いつめているのよ。何か用事があるなら、またの機会にしてもらいたいわ。それと、このことは内密に」
内密?
いったい何を隠そうとしているのだろう。だが藍は瞬時に判断する。
「そうでしたか。それならば、またの機会に……。い、いえ、聞いて宜しいでしょうか? 阿求殿はいったい、何の――」
咄嗟の質問を投げかける直前、藍は雷に打たれたようにある事実を思い出した。
御阿礼の子は短命だ。阿求はまだまだ年若い少女の身だが、もともと病弱の気があるためか、安静にしていることが多いという。
「――いえ、失礼した。阿求殿をよろしくお願いします。では」
返事も待たず、藍は稗田の家を後にした。
里を離れ、紫の元に向かう藍は考える。
何ということか。
まさかとは思う。しかし、あの容態からして一抹の不安を覚える。
ひょっとして、此度の御阿礼の子は、代々伝わる御阿礼の子と比較しても更なる短命なのだろうか。死期が近くに迫っているからこそ、竹林の医者を傍に置いているのだろうか。もしそうならば、あの医者が内密と言ったことも納得出来よう。
しかし妖夢の話を持ち出したときの阿求の反応はいったい何だったのだろう。
いきなり顔を真っ赤にし、取り乱した。いつも冷静で落ち着きのある阿求が、だ。
まさか、それは。
藍は首をふる。
そんなことがあってもいいのだろうか?
まさか、本当に、阿求は――。
半人半霊である妖夢の寿命は、普通の人間に比べて長い。それに対し、人間であり求聞持の能力を持つ阿求の寿命は、か細いほどに短い。そうして藍は結論に至る。
阿求は、長い生のある妖夢の立場を慮り、己の想いを押し殺して身を引こうとしているのではないか――。
藍の総身が震える。
紫は何故阿求に妖夢のことを問いただそうとさせたのか。それは、このことを藍に気付かせるために他ならない。阿求の思いを間近に感じ取らせるために使わしたのだ。
阿求が隠しているささやかな願い。必ず叶えてやらねばならぬと藍は心に誓った。
5.
部屋に閉じこもってから何日過ぎただろうか。
いくら閉じこもるといっても、何もしない訳にはいかない。妖夢は白玉楼の庭師なので、庭の手入れをしなければならないのだ。それでも、今は誰の顔も見たくなかった。だから幽々子の目覚める時間より早く――それも早朝を迎えるより前、黎明の時間に起き上がり、幽霊の漂う閑散とした庭を一気に掃除してしまうのだ。生真面目な妖夢ならではの所業と言えよう。食事など、家事については専属の幽霊に任せているので問題が――無いとは言えなかった。いや、むしろ大ありだ。閉じこもった妖夢に対し、幽々子が一切声を掛けてこないのだ。そこが解らない。普段の幽々子を思えば、こちらが何をしてても団子が食べたいだの何それを買ってきて欲しいだのと時間を選ばずに注文してくる。それが全く音沙汰が無いのだ。何か良からぬことを考えているのではないかと勘ぐってしまう。善意に受け取れば、悩む妖夢に何も言わず、ただ時間を与えてくれているのかもしれない。そうであれば、幽々子に対する心象は跳ね上がるのだが……。
しかし、いつだって裏をかかれる妖夢はそれが真実で無いだろうと思っていた。妖夢のことを考えて放っておいてくれているのではない。何か良からぬことを企んで置かれているのだ。そのような考えが次第に渦を巻き始めてきた。
疑心暗鬼というやつか。
妖夢は溜息を吐く。誰の思惑も結構だが、とにかく今は誰とも顔を合わせたくなかった。思い浮かぶは阿求のことだ。顔を真っ赤にした阿求の顔を思い出すだけで、恥ずかしさに打ち震えてしまう。それと同時、阿求の桜色の唇から漏れる甘い洋菓子の匂いが妖夢を甘美の極地に誘うのだ。部屋に閉じこもってから水分以外の食事を摂っていない。だからあの匂いが幾度も幾度も甦るのだ。
あのスイーツな洋菓子を食べてみたい。阿求は何を口にしていたのだろう。さくらんぼではない。何かのクリームだ。クリームの付いた洋菓子だ。美味しそうなあの匂い。きっととろけそうな食感だろう。きっと甘くて、頬がこぼれてしまうに違いない。見も知らぬ洋菓子。それを阿求は味わったのだ。あの桜色のような唇が。だからあのとき、阿求の唇から甘い匂いが漂っていたのだ。吸い寄せられるような錯覚を覚える。自分も食べたい。阿求の食べた洋菓子を食べたい。クリームを舐めたい。
甘い匂いに付随して、阿求の顔が頭に浮かぶ。どうしていいのか解らない。どういう顔をしていいのか解らない。誰も咎めないなら、あの唇に付いているクリームが欲しい。指で取って舐めてみたい。そんな誘惑が頭を過ぎる。
妖夢は氾濫する感情を抑えるのに手一杯で、今日もまた深く懊悩し続ける。こうして甘いお菓子に対する欲を少しずつ積み重ねるのだった。
6.
「それは……本当?」
己の名のように瞳を爛々と輝かせた藍が力強く言った。
「はい。確実です。稗田阿求は魂魄妖夢に恋をしています。そのことを誰にも言わず、心に押し込めているようでした。妖夢の名を出したとき、阿求殿は顔を真っ赤にしていましたよ」
肝心の阿求の容態については一切口にしなかった。それが八意永琳との約束でもあるし、きっと、阿求もそれを望んでいることだろう。
紫は驚いた様子、幽々子は最初から解っていたという様子でそれぞれ興奮していた。
「やったわ! あとは妖夢をけしかければいいだけよね。そうして私はキューピットになれるのよ」
「まさか、そんなことだとは……」
さしものの紫も藍の報告には驚いた。阿求はきっと、妖夢のことをただの幻想郷の住民だと捉えていると思っていたのだ。それが御阿礼の子であるし、幻想郷縁起を記す公平な立ち居地にいる彼女の本来であるからだ。
藍は力強く断言する。
「紫様。ここが正念場です。動きましょう」
「ちょ、ちょっと藍? 貴方、どうしてそんなにやる気なの?」
「阿求殿の為です」
「阿求の?」
「はい。紫様。私は阿求殿の思いに感銘を受けました。彼女の幻想郷愛と妖夢への想い。それは本物です。私は阿求殿の望みを叶えて差し上げたいと思っているのです」
「貴方……何を聞いてきたのよ」
「それは後で報告致します。今はそのようなことにかまけている場合ではありません。重要なのは妖夢のことです。妖夢は阿求の名を呼んでいた……、そう仰っていましたね、幽々子殿」
幽々子は不敵な笑みを浮かべて言った。
「そうよ。頭を抱えてのた打ち回っていたわ」
「ならばもう、あとは押すしかないではありませんか。是非、動きましょう。今が好機ですよ、紫様」
「ねぇ、紫?」
有無を言わさぬような顔で幽々子が笑った。
紫は、本当は乗り気では無かった。何やら面白いことになりそうだとは思っていたが、生真面目な藍に命じたこともあり、阿求を訪ねた時点で終わると思っていた。藍は何の進展も無く戻り、場はただの井戸端話へと戻る。そして勢いの止まらない幽々子にからかわれる妖夢の絵で終了する。つまりは、白玉楼の内輪話として終わると思っていたのだ。
だが何処で何を聞いてきたのか、藍の勢いがおかしい。どうしてそこまで阿求に肩入れをするのかよく解らなかったが、幽々子とタッグを組まれてはこの場で問いただす訳にもいかない。
調子が狂ったかのように首を傾げると、紫は渋々と行動を開始するのだった。
7.
「さてさて、どうして私のような一介の天狗がお呼ばれしたのでしょう?」
余裕の笑みを見せるは妖怪の山の天狗、射命丸文だった。
文は天魔に呼ばれ、妖怪の賢者である八雲紫が直々に面会を望んでいる旨を告げられた。文は興味を示し、喜び勇んで紫の待つ、妖怪の山の滝へと向かったのだ。
彼女たち二人の背後では、流れ落ちる水流が轟音とともに滝壺に注がれていた。その間近に二人は浮かんでいるのだ。
他に音の漏れないこの場所を指定したのは紫のほうだった。耳ざとい天狗であれば、この至近距離であれば意思疎通に問題は無い。紫のほうもどういった力を使っているのか知らないが、会話は苦にならないようだった。つまり、紫は密会を望んでいると文は受け取っていた。
「……貴方にスクープを提供してあげましょう」
「ほう」
紫の胡散臭い笑みに文の白々しい笑み。この二人の場合、手の内の探りあいが深いところで行われている。
「今、とある里の人間が恋に落ちているらしいの。未だそれを知る者は無いわ。貴方にはそれを大々的にスクープしてもらいたい」
文は調子外れたような顔をして言った。
「人間の色恋に、人間以外の誰が興味がありますか? 珍しくも無いことでしょう」
「その相手が貴方の知る者だったらどうかしら?」
「その相手が誰か、に依りますね。勿論、その里の人間が誰か、ということも含めてですよ」
「稗田阿求が魂魄妖夢を慕っている。妖夢もまんざらではない。これで如何?」
「――ほう」
文がにやり、とした笑みを浮かべる。紫も同様だった。
「それによる私のメリットは解りました。それで、このことで貴方は何を得するというのですか?」
「別に無いわ」
「……それはおかしな話ですね。では、どうして私にこのような情報を? 貴方にとって何ら意味の無いことであれば、わざわざ私を呼び立ててまで情報を教える必要性を感じませんね。何か裏があるのでは?」
「それは――」
幽々子と藍に迫られて、などとは言えない。場所の指定も趣味だ。しかし紫の超常的な頭脳はすぐさま答えを見出した。
「そうね、一言で言えば、幻想郷の為でしょう」
「それはどういう意味です?」
「博麗大結界の力により、幻想郷は外の世界とのバランスを取り戻しました。その状態が続くことにより、人や妖怪の関係も安定化していったのです。ですが……そのような状態が長く続くと思いましょうか? 古くの記憶が彼らに告げるのです。妖怪を殺せ、人間を搾取しろ、と。そういった衝動は不意に訪れましょう。そしていつしか陰惨な事件が発生し、幻想郷のバランスは内部で揺らぐ羽目になるのです」
「適度な刺激を与えよう、という話ですね」
話が早い。にやり、と紫は笑う。
「さすがは天狗。頭が早いこと」
「妖怪が力を振るい、人間を餌食とする。人間が抗い、妖怪を殺す。そのどちらに振れても幻想郷は維持出来なくなる。そんなことは頭の良い妖怪たちなら誰もが知っていますよ。中立を維持することが肝要である、と貴方自身が仰っていたじゃないですか。さて……、しかしその関係性は無くなりません。表面的な安定は、内面の揺らぎにより瓦解します。スープに膜を付けないように、彼らの思惑には適度な刺激を与え続ける必要があります。その刺激を満たす至上の案が擬似的な決闘でした。これにより、人間と妖怪の関係は奇跡的な安定を実現しているのです。ですが、これで満たされるのは妖怪ばかりなり。戦うこと自体を恐れる人間には何ら関係がありません。そこに貴方の行動の意味がある。つまり……貴方の目的は、恋という人間の誰もが興味を示す話題を用い、人間側に活気を与えること。擬似的な決闘で包括しきれない者たちに刺激を与えること。そうですね?」
「うふふ。本当に頭の宜しいこと……何も言わずに済みましたわ」
「私に言わせず、御自分で仰っていただけたほうが助かりますがね。まぁ、そうと決まれば簡単ですね。どう調理されるおつもりで?」
「妖夢を阿求の家に使いに出します。後は貴方のご自由に。あぁ、少しぐらい手助け差し上げますわ」
「情報の提供に感謝します。それでは、号外を楽しみに。――あぁ、貴方の住処は所在が解りませんで、巫女からでも見せてもらってください」
言い残し、文は風のように去った。
まさかブラフを好意的に解釈されるとは思わなかった。
紫は冷や汗を掻きながらしばし文のほうを眺めたのち、うっすらとした闇に包まれて消えた。
8.
「うぅ、行きづらい……」
妖夢は里に向かっていた。彼女を解き放ったのは、やはり幽々子だった。突然に部屋を訪れ、こう命じたのだ。
――稗田の家にお使いに行ってきて。
封書を届けて欲しいという。手土産として、妖夢を暗澹たる気持ちに貶めた洋菓子屋のスイーツを買っていくことも付け加えた。
二度と行きたくないと思っていた洋菓子屋だったが、布団の中で何度も思い返す、阿求の食べていたスイーツの匂いの正体が確かめられる絶好の機会だと思い、嫌々ながらも出向いていたのだ。
前回と違い、洋菓子屋は噂どおりに若い少女たちでごった返している。今回は石に躓くこともなく並び続けた。店内はその混雑とは裏腹にやけに静かで、ひそひそ話しばっかりが耳についた。大きい声でお喋りしたらいいのに、と思っていると、ようやくカウンターまで辿りついた。
試作品がずらずらと目前に並べられている。その一つ一つに妖夢は目を輝かせる。何たるスイーツ、何たる甘い匂い。どれも逸品だ。阿求から感じたスイーツもすぐに特定した。妖夢は手当たり次第にあれもこれもと購入し、店に入る直前の鬱屈とした気分は何処吹く風のるんるん気分で外に出た。
もう布団の中で震えていた妖夢ではない。その全てがスイーツにより吹き飛んだのだ。
「あら、妖夢じゃない。珍しいわね。ご機嫌な顔で何処行くの?」
「ああ、霊夢か」
そこには布袋を下げた霊夢が居た。彼女は里へ買出しに来ているようだった。
「幽々子様のお使いです。稗田の家に用事があって」
「ふぅん。そんな沢山の手土産を持って?」
「こ、これは……!」
「あの命蓮寺の連中が始めた洋菓子屋ね? 行ったことないんだけど、そんなに美味しいの? あとで魔理沙でも誘って行ってみようかしら」
妖夢の瞳の切れ味が増す。
「……霊夢も洋菓子は好きなの?」
「まぁ、嫌いじゃないわね」
「アイスの命は短すぎる。そう思いませんか?」
「そんなの、どうでもいいじゃない。とっとと食べたら?」
呆れた顔の霊夢。
霊夢にスイーツは解らない。妖夢はそう判断した。
9.
そうして訪れた稗田の家。吹き飛んだ筈の憂鬱とした気分がすぐに返り咲いた。どのように挨拶すればいいだろう。家人に封書と手土産を渡せばそれでいいだろうか。しかし欲に負けて少々買いすぎた。こんなに渡されては阿求も困るだろう。
そのうちに現れた家人に用事を話すと、あれよあれよという間に阿求の部屋へと案内される。最近は阿求への来客が多いようで、家人は機嫌の良さを隠さなかった。妖夢は手土産だけを家人に渡し、封書を携えて阿求の部屋に入る。
「あ、貴方は……」
「どうも。しばらく……」
阿求は驚いていた。彼女は桃色の襦袢を羽織り、布団の入ったまま書を記している。阿求はくすくすと笑った後、こう言った。
「こんな格好で書き物をしているだなんて、誰にも言わないでくださいね。恥ずかしいですから……」
柔和に微笑む阿求は時間が過ぎたこともあってか、幾分か冷静になっているようだ。ついでにあの事も忘れてくれれば良いのだが。
緊張した面持ちでかしこまり、妖夢は阿求の傍に座した。
「うふふ、かしこまらなくてもけっこうですよ。近頃は来客が多くて、嬉しく思っています。それで……今日はどういった御用事でしょう?」
「これを……」
衣服に仕舞った封書を差し出す。
「お手紙ですか? 開けてもいいですか?」
「勿論です。貴方に宛てたものなのですから」
そうでした、と一人笑って封を開ける阿求。中から手紙のようなものを取り出し、じっくりと読み始めた。
しばらくの間、沈黙が流れる。
息の休まる部屋だ。冥界とは違い、ここは生の安らぎを感じる。そこで、みだりに顕界に訪れてはならないと閻魔に諭されたことを思い出した。
外はまだ陽が高い。柔らかな陽光が阿求の寝室へと差し込んでいる。弱々しい風が少しだけ開かれた障子の隙間から入り込み、阿求の髪を微かに揺らしていた。
熱なのか、顔を赤くして手紙を読み進める阿求を見つめ、妖夢は静かに口を開く。
「今更なことかもしれませんが……、あのときのこと、今ならお聞かせ頂けると思っています。貴方はあのとき、店内に飛び込んだ私を見ましたね? 教えてください。私は、菓子屋から逃げる貴方を掴まえたときの表情を思い出すだけで、悶え苦しんでしまうのです」
「あ……、あのっ!」
「はい」
阿求は顔を真っ赤にして妖夢を見た。
「わ、私は……、その、嬉しくは、思うのですが……」
「……どうかしたのですか?」
「あのときのことについては、その、何と言っていいのか解りませんが……」
手紙で表情を隠し、阿求は困った顔で妖夢を見つめている。
「はい」
「妖夢様と、その、一緒に飛んでおられる……」
「私の半霊ですか?」
「はい。その、突然現れた妖夢様と、後ろの半霊様を見ていて、ギャップ、というのでしょうか。その……」
「半霊がどうかしましたか?」
背後に居た半霊をするっと阿求の前面に移動させた。ぎょっとする阿求。
やはり、転がる瞬間を見られていたのだ。妖夢にとってはそこが判れば充分なのだが、どうにも話には続きがあるようだ。
「す、すみません。その、あのとき、妖夢様はそわそわとして、落ち着かない様子だったのですが……。半霊様のほうは、もっと凄かったのです!」
「何ですって!」
叫ぶ妖夢。
そういえば! あのとき、頭の中では身悶えし、絶叫し、苦悶していた筈だ。表向きは冷静を装っているつもりだった。しかし半霊のほうはどうだろう? あのとき、半霊を自制させる余裕は無かった。気付いてすらいなかった。つまり、そうした感情の発露は全て半霊によって表現されていたのだ。
「見たのですね!」
「み、見ました! すみません! 可愛く思ってすみません! でも、その! 私は手紙については!」
勢い込んで詰め寄る妖夢。そのとき、誰かが妖夢の足を掴んだ。
「よ、妖夢様? 何をされるのですか……!」
バランスを崩す。たたらすら踏めない。阿求に体当たりしてしまう。それは避けなければならない。ぐらぐらと揺らぎながら、妖夢は阿求の布団へと飛び込んだ。
「絶好の瞬間いただきました!」
声が響く。同時にシャッター音が連続で響き、空気をつんざく。超速で動く何者かが色々なアングルで二人の姿を撮影する。唖然とする二人は成すがままに撮られ、その影――妖怪の山の天狗が羽を残して立ち去るまで、何も言うことが出来なかった。
しばらくの間、二人は呆然とし続けていた。
「今のは……何でしょう?」
「さぁ……」
何が起きたのだろう。何が絶好の瞬間だというのか。
今のは射命丸文だった。いったい、何を撮っていったのだ?
しかしその気のない二人には全く解らなかった。
「あ、あの、その、妖夢様……」
か細い声が聞こえる。阿求だ。見ると間近に顔があった。危うく頬に口付けしてしまうところだった。その吐息が妖夢の顔にかかる。
そう、半霊を間にし、二人は重なり合っていたのだ。
「す、すみません! つ、つい」
すぐにどく妖夢。さっき布団に飛び込んだとき、四つん這いになって空間を作り、阿求に打撃を当てないように配慮したつもりだった。咄嗟に柔らかみのある半霊も間にかませていた為か、阿求に怪我はないようだ。それだけでも安心する。しかし、阿求はよく解らないことを言い始めた。
「い、いえ、私も妖夢様が嫌いというわけではないのです! で、でもですね、その、こういったアプローチをされるのは私、初めてなんです……!」
「……アプローチ?」
さっきから、何か噛み合わないものを感じる。しどろもどろになり、嬉しくは思うだとか、嫌いではないだとか、アプローチがどうだとか……。
冷静になり、妖夢は再び座した。
「阿求。さっきから何を焦るのですか? まだ何か隠しているのですか?」
「ち、違います! 妖夢様がこんなものを渡すから!」
突き出される手紙。それは幽々子の封書の筈だった。じっくりと覗き込む。
その内容は、妖夢から阿求へと綴る長文の恋文だった。
10.
妖夢の絶叫で現れたのは永琳だった。
「な、何ごと?」
「またしても! またしても! 幽々子様に! あああ!」
幽々子の悪戯だと否定した後、妖夢は頭を抱えて苦悶にのた打ち回っていた。半霊ですら打ち震えている。それ程に妖夢の心理的ダメージは大きいのだ。
「阿求。これはどういうこと? 何が起きたの?」
「や、八意様、ぶふッ、すみません、また、その、あれが……!」
「またなの、阿求……!」
阿求が苦しがっている。お腹を抱え、苦々しげな表情を浮かべ、汗を滴らせている。
転がり続ける妖夢は放っておき、永琳は打ち震えるだけの半霊に鎮静剤を打った。びくりと本体である妖夢のほうも打ち震え、見る間に大人しくなった。
「阿求。貴方は大丈夫よ。思い出しなさい。青天の空を。陽射しが暑くて木陰に入って休んだときの感覚を。寺子屋で慧音に授業を受けたときの心地良い眠気を。あのスイーツの味……は駄目ね。ほら、清涼な気持ちになってくるでしょう?」
「はい。はい……。ああ、八意様、私は、大丈夫です……」
呼吸を整え、少しずつ阿求の苦しみが和らいでゆく。
同じく苦しんでいた妖夢は、大人しくなりながらも頭の中では暴走していた。
またしても幽々子にやられた。今度の悪戯は半端ではない。何故阿求とくっつけようとしているのだ!
その手紙には、阿求との出会いで覚えた感情だとか、胸が苦しくて眠れないだとか、顔を見るだけで唇を奪いたくなるだとか、もう感情を抑えきれないだとか、年頃の少女には書けないような不埒なことが延々と書き連ねられていた。
「……まったく、どうしたことなの? 張本人の貴方がやってくるとは思わなかったわ」
呆れたような永琳の声に冷静になる。妖夢は苦悶の顔のまま起き上がり、静かに永琳の前に座る。
「どういうことですか……。私が、いったい何をしたと言うのですか。どうしてこのような目に遭うのですか……!」
後半は八つ当たりだった。
「阿求を見れば解るでしょう?」
「解りません。持病を患っている、というのですか?」
「持病……。まぁ、半分ね。というか阿求、話していなかったの?」
「す、すみません。機会が、無くて……」
阿求は弱々しく肯定する。さらに解らなくなった。
「……何のお話ですか? いったい、何が起きているのですか? 私にはさっぱり解らないのですが」
「解ったわ。話してあげましょう」
永琳は息を吐くと、静かに話し始めた。
11.
「さて、一応のこと、内密にしてもらえる? これはね、私のことではないの。私の患者でもある阿求のこと。阿求はいいかしら?」
「はい。問題ありません」
「何か解りませんが、承りました。誰にも漏らさなければいいのですね」
二人はそれぞれ頷く。
永琳が言った。
「阿求はね、笑い上戸なのよ」
「……は?」
突然の永琳の言葉を受け切れない。何が来るかと思えば、さして珍しくも無いことではないか。しかし阿求は、長年の恥が明るみに出てしまったように顔を赤くして俯いている。
永琳は繰り返す。
「笑い上戸。他の者と比べて非常に笑いやすい性質のこと」
「知っています。それが、どうかしたというのですか?」
「では、阿求の能力については知っているかしら?」
「……求聞持の能力ですね」
「そう。一度見たものを忘れない力。それが阿求が阿求である証。ではね、この能力が阿求に何をもたらすか、解るかしら?」
そう言われても妖夢には解らない。求聞持の能力は一度見たものを忘れないというのだから、全部覚えているのだろう。そこで愕然とした。
「……ということは、あの洋菓子屋で見たことも全部覚えていると?」
「そういうこと」
永琳は肯定し、阿求は力無く頷く。
あの前転は既に永琳に漏れていたのか――。
新たなる絶望にショックを隠しきれない。
「問題はね、貴方が洋菓子屋に飛び前転で入店したことでも無く、冷静を装っておきながら半霊のほうが身悶えしていてキュートだったことでも無く、それを阿求が見てしまったことなのよ」
「何ですって……」
「ただの人間なら何事も無く終わったわ。でもね、阿求なのよ。貴方の前転は阿求に甚大なる被害をもたらしたわ。彼女の笑いの壷に見事にホールインワンしてしまったわけ。一度見た物を忘れない求聞持の能力を持ち、なおかつ笑い上戸である阿求の笑いの壷にね。それがどういうことか解る?」
「まさか」
「あの日、阿求は顔を赤くして帰ってきたわ。お楽しみのスイーツを食べに行ったのだから、きっと笑顔で帰って来ると思っていたのよ。それがすぐに自室に篭ってしまうわけ。不思議に思った私は部屋を訪ねたわ。そこでね、笑い転げる阿求を見たのよ――」
それは、不憫な光景だったという。
笑い転げ、苦痛に顔を歪める。そう、阿求は笑い過ぎて腹痛を起こし、お腹を壊したというのだ。
求聞持の能力と笑い上戸。それは確定的な程に相性が悪い。思い出し笑いの際に描かれる光景が、いつでも緻密な映像として甦るのだ。それは笑いを加速させる。加えて、その映像が笑いの壷にすぽんと収まっているものならどうだろう? 全ての状況は、阿求にとって絶望的なまでに不利と言えたのだ。
「――それ以来、ちょっとした笑いも起こさないよう、阿求は精神統一する必要があったの。私は静養と称して各地を連れまわしたわ。湖を眺めて気分を落ち着かせる。聖輦船に乗せて空を見学させる。その風景を阿求の記憶に刻ませるのよ。新鮮な風景の記憶を思い起こさせて、笑いの記憶を誤魔化そうっていうわけ。少しでも思い出してお腹を痛める阿求に、私は何度も外の風景を思い出させたわ。その頻度も少なくなって、ようやっとお役御免かと思っていたのに……」
「私のせいで……。申し訳ありません」
再び腹を痛めた阿求は深々と頭を下げる。
気にしないで、と永琳は言った。そのまま妖夢に近付き、そっと耳打ちする。
「貴方が転がらなければ阿求も刺激されないと思うわ。だから気をつけてね」
顔を赤くし、妖夢は静かに頷いた。
くすりと笑う永琳は、そこで畳に落ちる手紙を見つけてしまった。
流し目で内容を盗み見る。そこには驚愕の事実があった。
二人の間に険悪な空気は無い。つまりは……そういうことなのだ。
「今日のところは帰ります。養生してね、阿求。また明日」
「あ、はい……。お世話様です。ありがとうございました」
永琳は立ち上がると、妖夢に謎の目配せをして部屋を出て行った。
12.
部屋は二人きりになる。
今や、二人の誤解は立ち消えた。
妖夢は阿求の逃亡した理由が解った。それは半人前といわれる自分でも理解できることだった。
阿求は妖夢に自分のことを理解して貰え、大きな安心感を得ていた。家の者か永琳にしか漏らしていなかった秘密を、共有する相手が一人増えたのだから。
むずがるように視線を交わしあい、くすくすと笑いあう。
そこへ、家人が食事を差し出した。妖夢が手土産として買ってきた、絶品スイーツの数々である。
そうして二人の宴が始まった。
「妖夢さーん!」
「あまーい!」
阿求の部屋は賑わいを見せる。二人とも、甘いものが大好きだった。
妖夢の感覚は阿求のそれとがっちり一致していた。好みが同等なのだ。それにより、二人はすぐに打ち解けあった。妖夢を様付けで呼んでいた阿求も、一段親しくなり、さん付けで呼ぶようになった。呼び捨ては恥ずかしくて出来ないらしい。妖夢はいつの間にか呼び捨てになっており、既にそれが定着しているようだった。自分では意識していなかったという。
「苺ショートの苺は最後に食べる。そうですよね?」
「勿論!」
「アイスの命は短すぎる。そうですよね?」
「解りますか、阿求!」
「妖夢さぁん!」
「阿求ー!」
阿求の喜びは有頂天に達しようとしていた。
それもその筈、稗田の家人は、皆がスイーツに対しての食い付きが無さすぎたのだ。阿求はそれを寂しく思っていた。それでもスイーツが好きだから、洋菓子屋にも一人でふらふらと食べに行く。しかしそれは女の子として非常に寂しい。お喋りのない食事は悲しいのだ。
一方で、妖夢もはちきれんばかりの喜びを感じていた。あまり隠しているつもりは無いが、妖夢だってスイーツが大好きである。しかし、中有の道の出店や、つい先日のように里に出来た洋菓子屋などでいくら絶品スイーツを買ってこようとも、その殆どが幽々子に食べられてしまうのだ。紫だって、呼んでもいないのにひょっこりと現れては摘み食いしていく。口には出さないが、きっと紫もスイーツの一人だと妖夢は看破していた。
「妖夢さん、今度、二人でスイーツを食べに行きませんか?」
「うわぁ、いいね! 絶対行こう!」
その日はずっと、二人してスイーツ話に花を咲かせたのだった。
13.
あくる日、永琳は稗田の家で昼食をいただいた。いつものお礼だとしてご馳走してもらったのだ。
永遠亭に居る輝夜の姿が蘇る。彼女も昼食は済ませていると思ったが、何か食べ物を買っていこうと思った。
そうして稗田の門をくぐった永琳のもとに、空からの飛来者が訪れた。彼女は少し驚いた様子で言った。
「あやや、薬屋さんではありませんか」
「あら、新聞屋さんじゃない」
射命丸文は小脇に冊子を抱えていた。いつもの文々。新聞だろう。そこに目を向けると、文は、にかっと笑って言った。
「号外ですよ! 貴方のお宅にも届けるつもりですが、ここで会いましたので特別にもう一部差し上げちゃいます。それで、これをもう一部、稗田の者にもお渡しください。私、これからもっと飛び回らないといけないんです。お願いしますね!」
言い残し、文は忙しそうに飛んでいった。
「ふむ」
貰った冊子を眺める。そこには自分の患者のことが書かれていた。
脚色付きで、様々な解説と解釈が添えられている。
くすりと笑い、永琳は静かに冊子を閉じる。
やはり、漏れるところは漏れてしまうものだ。
何もせずとも、じきに二人のことは知れてしまうだろう。
だが、もう少しだけ……。
そう、二人には、余韻を味わって欲しい。
幸せは、そこに誰かの意思が加わればその形を変えてしまう。それがいつか知れてしまうことに変わりは無い。だが、二人の間で完結している間が一番幸せなのだ。誰かの認知や声が加われば、それは静かに別の色に染まってゆく。
触媒の効果が生じ、新たに素晴らしい色が生まれることもあるだろう。
だけど永琳は知っている。私が居て、貴方が居る。それだけの世界が一番ドラマチックで、一番純度が高いことを。最終的には、そこに帰結するということを。
冊子を懐に収め、輝夜のことを思い出す。輝夜へのお土産は、阿求の好きな洋菓子屋で買っていこうと思った。
14.
冥界は白玉楼。
妖夢はご機嫌な様子で庭掃除に励んでいた。今日は阿求と約束したスイーツの日だ。時間に遅れないうちに日々の業務を終えなければならない。
先日は阿求と打ち解けたこともあり、幽々子への怒りは全て失せてしまっていた。これもまたスイーツの効果である。逆に感謝しているぐらいだ。そうでなければ、今日のイベントは起こりえないのだから。
鼻歌などを歌いながら広大な庭を滑走する。
そんな妖夢を、縁側でスイーツを嗜む二人の影が眺めていた。
「さすが紫ね。妖夢がもう元気になっちゃったわ」
「ふふ。私はそっと後を押しただけよ。なるべくしてなることだったのよ」
幽々子は自分の策が上手くいったことを喜んでいた。紫を通じ、射命丸文から、最高の記事が出来上がる、との連絡を貰っていたのだ。
傍らの紫はどうしようかと思っていた。あの後、藍に事の次第の全てを聞いたのだ。阿求の話は非常に嬉しく思った。だが、藍の感じた阿求の寿命については別だ。阿求は御阿礼の子としての宿命はあるが、それを越えるほどの短命ではない。代々続く御阿礼の子に比べても元気があるぐらいだ。
気になって阿求の部屋に紛れ込んでいたが、そのときに笑撃的な阿求の事実も知ってしまった。それは切り札として黙っておくことにしている。二人が仲の良い間柄になったことも知ったが、それは幽々子の考えるような危険な関係ではない。やはり最初に自分が想像したとおりだ。二人は女の子なのだ。落ち着くところに落ち着いたというべきだろう。
だが、事態はそれとは異なる方向へ動いている。
里への頒布が終われば、じきに射命丸文が冥界にまでやってくるだろう。
妖夢が新聞を見て豹変することは火を見るより明らかだ。
こっそりとこの場から立ち去ろうと思うも、幽々子のお喋りは長い。機を見て動かなければならない。
そうこうして悩んでいると、妖夢は元気良く出掛けて行ってしまった。春ねぇ、などと幽々子は言っているが、誰がだ、と突っ込む訳にもいかない。さしあたっての危機が回避されたことにより、紫は残り物のスイーツを堪能することに励んだ。彼女だって甘いものは好きなのだから。
15.
うら若き少女たちのごった返すお店。洋菓子屋。阿求に聞けば、店名を星蓮亭というらしい。黄色い声が闊歩する中、阿求と妖夢はスイーツを買い揃えて席に着いた。
「むふふ、今日はお楽しみですね」
「ええ、ええ!」
まるで始めてのデートのように二人は高揚している。初々しく、顔を赤らめている。
阿求にとっては始めての一人でないスイーツであり、しかもその相手がスイーツに理解のある友人なのだ。高揚しないほうがおかしい。
妖夢にしても同じだ。普段は幽々子や紫に取られてしまい、残り物やお裾分け程度のスイーツしか食べられなかったのだ。しかし今日はどうだろう。思う存分、スイーツを堪能することが叶うのだ。それも最高の友人を引っさげて、である。
「このバニラシュークリームの旨いこと!」
「タルト・ショコラも負けてはいませんよ!」
「ほんと! ちょっと頂戴」
「はい、どうぞ」
フォークで掬い取り、阿求は妖夢の口元へとタルト・ショコラを運ぶ。妖夢は大口を開け、それを一口で受けた。
満足げな妖夢に身悶えする半霊。
深く息を吐き、妖夢は静かな面持ちで言った。
「絶品です……。阿求、私はこのような幸せを感じるときが来るとは思いませんでした。これも皆、阿求のお陰です。ありがとうございます」
阿求はぱたぱたと両手を振って否定する。
「ち、違います。私こそ、感謝しています! 妖夢さんのお陰で、スイーツの時間が楽しくなりました……。私のほうが感謝したいぐらいですよ」
「阿求……。嬉しいです」
「私もです」
涙がこぼれそうな笑みを交わし、二人はスイーツを堪能し始める。
……その光景を、店の殆どの来客が横目に見ていた。
そこら中でこそこそと会話が繰り広げられている。
「やっぱり、あの新聞に書いてあること、本当だったんだ!」
「だって! だって! 女の子……だよ?」
「そうなの? 何で女の子だと駄目なの?」
「やだ! 知らないわよう……!」
「でも、あの子の半分は幽霊って書いてあったよ。ってことはどうなるの?」
「クォーター!」
「きゃー! あの可愛い幽霊がさらに半分になっちゃうの? 可愛いー! 欲しいー!」
そんなやり取りが繰り広げられていることを露ほどにも知らず、二人は幸せなひと時を過ごした。
16.
数多くのスイーツを堪能する頃には、いい加減、店内の不可思議な雰囲気に二人は気付き始めていた。
謎の注目を集めているのだ。
少しだけ、阿求と二人で騒ぎすぎたのかもしれない。静かにしてよ、という冷たい視線なのだと二人は受け取った。
妖夢は席を立つ。
「そろそろ、出ましょうか」
「はい……」
阿求も倣って席を立つ。妖夢が食器の類をカウンターまで持っていくと、フードを被った女性がにこにことしながら言った。
「応援してるわ、お二人さん」
「え?」
見れば、前転を見られた店員さんだ。急に恥ずかしくなり、妖夢は黙り込んでしまう。お姉さんは自分の人差し指にキスをして言った。
「黙っていてあげる。貴方の入店の仕方のことでしょう? ふふ、充分楽しませてもらったしね」
「はぁ」
よく解らないことを言われ、妖夢は首を傾げながらも阿求の元に戻る。
「妖夢さん、どうされたのですか?」
「うぅん、よく解りません。楽しませてもらったとか、何とか……」
「はぁ」
「いえ、もういいんです。行きましょう」
「はい!」
スイーツの味はいつでも堪能できる。幸せな気分はまだ持続している。また日を空けて来よう。二人して、店を出る前にそう囁き合った。
表に出た途端、道行く人々の注目を浴びた。何故か知らないが、自分たちを待っているらしき人も居るようだった。
何故だろう、すごい注目を浴びている。中には拍手をしている人まで見受けられ、阿求と妖夢は不思議に思いながらもそれに答える。
「やぁ、どうも、どうも」
手を振ると、さらに起こる歓声。
「おめでとー!」
「応援してるわー!」
何がだ? と思うも、高揚した気分の二人がそれに気付くことは無かった。
17.
妖怪の山、滝壷の付近で紫と文の密会が行われていた。内容は新聞の反響報告である。文は興奮して言った。
「さすが妖怪の賢者! 貴方の思惑どおり、里の者たちは熱い活気に包まれましたよ。代々続く御阿礼の子の中でも、阿求さんは空前絶後の印象を後世に残しそうですね。これで幻想郷は更なる平和へと導かれる……貴方も満足のことでしょう。私の新聞もそれを切っ掛けとして、部数が跳ね上がりました。本当に感謝します。また機会があれば、情報を頂きたいものですね」
「そ、そうね」
「おや、どうかしましたか」
「貴方、妖夢を見ませんでした?」
「いえ……、見ていませんが」
「そ、そう……そうならいいのよ」
「はい」
そのとき、滝の音を破壊するような轟音と共に何処からともなく影が現れる。
「こらぁー!」
「あやや、お話の妖夢さんですね」
「あとは頼んだわ!」
隙間の奥へと紫は消える。
「あらら。どうされたのでしょう?」
妖夢は刀を振りかぶり、滝の上流から急降下して飛んでくる。
「どうされたじゃなーい! どうしてくれるのー!」
「え?」
「叩っきられて忘れろ!」
それから数日間、幻想郷の名だたる妖怪が辻斬りに襲われる事件が発生した。
被害者は射命丸文に始まり、冥界の姫こと西行寺幽々子、境界の妖怪である八雲紫。どれも大物である。
手口が同様であることから、どの事件の容疑者も同じと見られ、目下その容疑者とされるのが魂魄妖夢だ。射命丸文の殺傷事件の際、滝の裏で大将棋を楽しんでいた犬走椛と河城にとりが一部始終を目撃したというのだ。そのときの妖夢はまさしく修羅であり、不意を突かれたとはいえ、スピードにおいては幻想郷で一、二を争う射命丸文をものともせずに追い詰めて叩き伏せたという。
魂魄妖夢はその後、人間でなくても白楼剣で忘れさせてやる! と叫び、丑寅の方角へ飛んでいったという。この際に八雲紫を襲ったと見られている。
数日後、辻斬りに見舞われた三者は何ごとも無かったように姿が見られるようになった。
幽々子と紫は変わらず白玉楼で妖夢の買ってきたスイーツを嗜んでいるという。
射命丸文はすぐに記事の撤回を求められ、渋々に訂正の記事を広めた。
しかし里では、撤回されたはずの阿求と妖夢の恋仲について、まだ熱をもった噂が持続している。
注目を集めることになった阿求は、恥ずかしくてしばらくの間、一歩も外を出られなくなったそうだ。
だが……、スイーツ愛好家の宿命は覆せない。
星蓮亭では、稀に仲睦まじい二人がスイーツを味わう姿が見られるという。
結構大きな空洞がそこに空いていましてねぇ。困ってるんですよ。
そこにこの強烈な甘味でしょ? 嗚呼、今晩からシクシク痛むんだろうなぁ……
私が何を言いたいのかわかりますよね?
さぁ、慰謝料として妖夢を渡すのだっ、勿論半霊ちゃんの方をなっ!!
mikoさんのファンとしては嬉しいです
久しぶりにスイーツいいな。と思いましたよ。
あっきゅんの魅力にも気づきました。いいですね
甘過ぎるのが苦手な自分は、この程良い甘さを求めていました!
隠し味的な永琳の立ち位置が、深みを与えていたと思います。
しかし阿求も妖夢も可愛いなあ。
糖分過多なのに百合のようで全然百合じゃないですよね、これ。上手い作りだと思いました。
シリアスなのにギャグ調に感じさせる地の文も見事でした。
己の名のように瞳を爛々と輝かせた藍が、のところがツボですw
このkb数でよくここまで凝縮して中身を詰め込んだなと。
次の作品への期待を込めて。
紫とかなんやかんや被害者よね。そう言えば藍はどうしたんだろ。まぁ何はともあれ、友情と愛情は似たようなもんだし、もう恋人で良くね?ww
ほんと良かった!