アパートの屋上に出ると、吹き付ける風が髪を揺らした。
辺りは静寂。眼下のモスクワ市街は、闇に落ちている。その中で明りをぽつんと灯す街灯達は、夜の海に浮かぶ漁船のよう。それほどまでに濃く深い闇。
しかし魔は感じない。夜空の月の、銀砂の明かりのせいではない。きっとこの街が唯物主義であるが故だろう。
良いことだ。今宵、私はこの闇を纏ってゴーストになるのだから。
鉄柵を掴んで揺さぶった。そして案の定、びくともしなかった。これならラペリング降下の重みにも耐えられるだろう。
私は軽やかな手つきで、ワイヤーを腰のハーネスに通した。それを鉄柵にも巻き付け、先端のフックで固定する。
吐息が震えた。
ショータイムはもう目の前。
そう思うと興奮が電流のように身体を駆け抜けるのだ。
鉄柵を跳び越えて、後ろ向きに立つ。そしてアパートの下に向かってワイヤーの束を放り投げた。
ドクン、ドクン。胸の高鳴り。全身にピッタリと張り付いたスニーキングスーツの中で、血潮が滾っていた。
――――始めよう。
ワイヤーを握る手を緩め、縁を蹴る。バネのように飛び出した身体は、直後、弧を描くように落下した。目の前を一気に窓が流れて行き、ワイヤーが擦れる音に混じって耳元で風が唸る。
ワイヤーを握ってブレーキを掛ける。壁が迫り、私は足を突き出した。着地。膝を屈むことで衝撃を吸収する。だが間髪いれず次の跳躍を脚筋に伝達。足裏に力を込めると壁を蹴って、カエルのように跳躍する。そして再び弧を描きながら後ろ向きで降下して行く。後は機械のように一連のリピート。
7階窓の下に着地する。この下がニコライの部屋だ。今度は慎重に降りよう。ワイヤーを緩やかに握ると、ソロソロと音も無く降りて行く。そして6階の窓枠に足を掛けると、ワイヤーを支えにしながらその上でしゃがみ込んだ。
念の為、取り付く前に窓の様子を見ておこう。
腰に下げたナイロン製のポーチに右手を突っ込む。そして手鏡を掴んで取り出した。それを股の間から窓にかざす。窓は横長だが、身を屈めれば十分入れる程度に高さはある。両開きの窓には茶色いカーテンがひかれていて、その隙間から真っ暗な室内が窺えた。
クリア。行こう。
手鏡をポーチにしまって姿勢を起こす。そして窓を跳び越すと、着地して窓ガラスと向き合った。
薄いフロートガラスが、木製のサッシに嵌め込まれている。脆弱で防犯性のカケラもないが、コイツを叩き割って証拠を残すような真似は出来ない。ニコライが私の存在に気付いていない方が、当然都合が良いからだ。
その代わり私は、窓の蝶番に目を留めた。蝶番の鉄心を引き抜けば窓ごと取り外せるだろう。
私は左手にワイヤーを絡めて姿勢を保持しながら、ポーチの中から特殊工具を取り出した。そして蝶番の鉄芯を引き抜いて行く。片方の窓の鉄心を引き抜くと、サッシを掴んで窓枠から外した。そして工具と、抜き取った鉄心をポーチにしまう。
窓枠に足を付いて立ち、外した窓を壁に立て掛ける。そして、そろりと音も無く室内へ降り立った。カーテンが舞い上がり、差し込んだ月光が床の上で白く輝く。私はハーネスを開けて、ワイヤーを身体から外した。そこは廊下で、ドアがズラリと居並んでいた。
さぁ、探し物の時間だ。
私は目の前のドアに歩み寄ると、ノブに手を掛け静かに押し開けた。
するとそこは書斎だった。
しかし立ち並ぶ本棚はどれもガラガラで、まるでインテリアみたいな雰囲気を醸し出している。
何も目ぼしいモノはなさそうだった。けれど折角なので探して見ることにした。
本棚に向かい合うと、立て置かれたファイルや本を片っ端から手に取っては見開き、ページを流して行く。訳の分からない化学式、用語……。どれもどうでも良い内容ばかりだ。だが一冊の薄っぺらいファイルを手に取り、最初のページを開いた時、そこに書かれていた1文に思わず目が留まった。
『機密 持ち出し厳禁』
私は両手でファイルを目の前にかざすと、期待に輝いた目で見つめた。
いいぞ……! 早速当たりをかましてやった。これなら「祖国を守る槍作戦」についての記述がある可能性大だ。
私は弾む手付きでページを捲った。
『カスピ海研究所』
すると、そう銘打たれた紙が幾重にも折り畳まれてファイリングされていた。広げてみると、それはかの研究所の精密な地図だった。
「祖国を守る槍作戦」のものではない。だが十分価値を感じた。コイツは頂いておこう。何かの役には立つ筈だ。
…
……
………
引き続き、私は書斎を歩き回っていた。まだ何かしらの情報はあると踏んだからだ。
すると、壁際に灰色の大きな金庫が置かれていることに気付いた。
ずんぐりとした鉄の塊は、しかし今の私には宝箱だった。これほど何かが隠されていそうなモノは他に無いだろうから。
私はそのずんぐりとした図体の前で膝を付いて、観察した。ダイヤル式だ。取っ手のところに、番号の羅列された摘みが付いている。
金庫を開けるには、破錠するしかなさそうだ。痕跡を残すのは嫌だが、中を見るためにはしょうがない。ニコライもすぐには気付かないだろうし、何よりこの中に「祖国を守る槍作戦」のタイプがあるかも知れないのだ。
でもその前に。
私は取っ手を握った。
念の為、締め忘れてないか確認だ。もし締め忘れていたら、証拠を残さないで済む。
何となくだった。期待もしてなかった。締め忘れていたらラッキーくらいの気持だった。
けれど、軽く力を込めて引いたら、あっさりと金庫の扉が開いてしまった。
「Bingo……」
思わぬ幸運に、私は全身の血潮が湧き立つような興奮を覚えた。
まさかホントに開いていたとは……。実にツイている。やっぱり私とレミリアは共に巡り合う運命なのだ。そしてその運命こそが、このツキを引き寄せたのだろう。
私は金庫の中を覗いた。
さぁ、ご対面だ――――……
けれど中には暗闇が凝縮されているだけで、尻拭き紙どころか、塵一つなかった。
肩透かしを喰らったような気分になって、先程までの興奮が波のように引いて行く。
「なぁんだ……」
そう呟くと立ち上がった。
けれど金庫が空だったくらい、なんてことはない。
私は廊下に居並ぶ無数のドア達を見据えた。探す場所はまだまだ腐るほどあるのだ。
気を取り直すと、早速私は別のドアを押し開けた。暗闇の中で、ドアが軋んで音を立てる。
しかしそこは空っぽの部屋。なので次のドアを開けたら、そこも空き部屋だった。
一抹の不安が脳裏をよぎる。だがそれはすぐに振り払えた。これだけ広いのだ。全ての部屋を使っていないのかも知れない。
3つ目のドアを開ける。そこにはベッドと衣装箪笥があった。殺風景な部屋だ。小物やインテリアなどは一切ない。とは言え、また空き部屋と鉢合わせするよりはマシだろう。なので衣裳箪笥へ歩み寄ると、箪笥を引き出してみる。しかし中は空。どの棚も空だった。
部屋を出ると、次々とドアを開けては中を確認した。
しかし3つ目の部屋同様、どの部屋も殺風景で生活感が無かった。フローリングの上に、うっすらと埃が堆積している部屋すらある。
……ここは使われていないのでは?
そんな予感がした。着替えも、まともな書類も置かれていないのだ。こんなところに、部下ですら知らない機密情報をみすみす置いておくだろうか――――
そこまで考えたところで、私は自嘲した。
ネガティブ過ぎると。
生活感が無い。ただそれだけの話じゃないか。なのにどうして「手掛かりが無い」と言い張れる?
それに忘れたか。私は運命に導かれているのだ。
「そうよ。何も無い筈が無い」
私は早速キャビネット棚に取り付いて、引き出しを開けた。
しかし中身はどうでも良いガラクタばかり。1つ目の棚も、2つ目の棚も同様だった。
ならばと、ベッドのマットレスを引き剥がした。しかし資料が隠されている訳でも無い。なので次に絵画を下ろした。裏に封筒は差し込まれていなかった。
今度はカーペットをひっくり返した。黒々とした木目があるだけだった。次々と本を手にとっては見開いた。しかしメモ書きが挟まれている訳ではない。食器棚を開けた。白磁の食器が滑らかな光を湛えていた。靴箱を開けた。カビ臭さが鼻をつくだけで一足も無かった。ロッカーを開けた。語るまでもない。開けた、ない。開いた、ない。引いた、ない。取り出した、ない。押した、ない。スライドした、ない。押し上げた、ない。掻き分けた、ない。出した、ない。動かした、ない。引き抜いた、ない。裏返した、ない。持ち上げた、ない。覗きこんだ、ない。振った、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないない―――――――――――
――――ない。
私は引き出しの中身を床の上にぶちまけると、荒い息をしながら見降ろした。どこに隠されているのだ? あぁ……意地が悪いわね。私がこんなに一生懸命になって探していると言うのに。かくれんぼ? だったらすぐに出て来た方が良いわよ、だって私はアナタのことをこの上なく求めてるんだから。
私は猛禽類のような目つきで辺りを見渡した。
諦めない。絶対に見付けてやるわよ?
すると昔読んだアガサ・クリスティを思い出した。そして、そう言った推理小説の常套句――――家具の奥に隠された秘密金庫を探すことを思い付く。
私は早速取り掛かった。ソファーや机を押しのけ、箪笥をずらし、壁の感触を確かめて行く。
しかしそんな物はどこにもなかった。おかしい。では一体どこに隠されていると言うのか?
そして小机を押しのけた時だった。何かが机の上でぐらりと揺らいで、落ちる。
目に飛び込んで来たそれは、花瓶。一気に全身の毛が逆立ち、咄嗟に花瓶に手を伸ばす。しかし間にあわない――――
花瓶が床で粉々に砕ける。
その音が、女の悲鳴のごとく夜の闇に反響した。破片が辺りに飛び散り、琥珀色にくすんだ水と、萎れた花が絨毯の上にぶちまけられる。
一気に血の気が引いた。
そして焦る意識を周囲に振り向ける。どうか気付かれませんように。そう願いながら。
かなりの間、私は固まっていた。けれどその願いはなんとか叶ったようだ。周囲からドアを叩く音はおろか、何の物音もしなかった。夜の静寂は相変わらず続いている。
私は深々と息を吐き出した。
けれど……もう、探す気にはなれなかった。
……認めるしかない。そう思ったからだ。
――――ここに手掛かりは無いのだと。
私は一気に脱力すると、壁に背を押し付けてずるずると座り込む。そして震える声で呟いた。
「……どうしてなの? 」
私には運命がある。その運命に私は導かれている。
……だから道しるべが断たれるハズがない。
手詰まりになることもない、なのに……。
私は滅茶苦茶に掻き荒らされた部屋を見た。
ここには何もないのだ。
「……ッ」
拳を握りしめた。
一体どうして?
運命など、ただの思い込みだとでも言うのだろうか? 初めから存在しないとでも言うのだろうか?
私は拳で壁を叩いた。
有り得ない、そんなの有り得ない!
でも、それならどうして何も見付からないのだ?! ……私が、私がこんなにも求めていると言うのに!! 吸血鬼に恋焦がれる私への、神の罰だとでも言うのか?!
その時だった。
レミリアの柔らかい笑顔が、プロジェクターから投影された映像のように、私の周囲に浮かぶ。
それを目にした時、ハッと気付いた。そして戦慄した。
……そうだ。私は根本的な事を忘れていた。
――――そもそも、レミリアは私を求めているのだろうか?
震える手が、その笑顔に向かって伸びる。
指が触れる。すると輪郭がぼやけ、やがて靄のように薄れたかと思うと、黒々とした夜の闇に消えた。
ザーッ ザーーーッ
耳の奥で、微かにノイズが鳴り響いている。
その音に誘われて、星も月もない無機質な闇の中を私は彷徨い歩いていた。
呼ばれている、とでも言おうか。自然と私の足は動いていた。
どうしてなのかは分からない。そのノイズがどこから発せられているのかも分からない。
けど少なくとも、そのノイズは不快じゃなかった。
パキッ
不意に何かが割れる音。そして足裏に鋭い痛みと、熱を感じた。
何を踏んだ? 恐る恐る足を上げて、爪先で軽く地面を擦った。するとジャリジャリと音がして、爪先に刺激を感じた。硬くて尖った物らしい。しかしこの暗闇の中では確かめる術など無い。故に爪先で弄り続けていると、不意に白い光が差し込んで、辺りが微かに明るなった。
そこは街の通りだった。全てのショーウィンドウが虚闇を垂らしていて、灰色の無機質な石畳がどこまでも続いていた。
見上げれば、深淵にぽつりと小さな光点が浮かんでいた。最初は星だと思った。しかしその光は次第に大きさを増して行き、同時に輝きも強くなって行く。その眩さは目を細める程だ。やがて光は銀色の満月に姿を変えた。ひたすら巨大で眩い月だった。
そして私は目を見開いた。
石畳の上が、一斉に煌めいたのだ。
それは通りを覆い尽くし、彼方まで続いている。鋭く、尖った輝きだった。イルミネーションやプラネタリウムとは、あまりに趣を異にした暴力的な光景だった。
私は目を細めると、その輝きを仔細に眺めた。煌めいているのは、石畳に散乱した無数のガラスの破片だった。ビーズのような大きさのモノもあれば、掌ほどの大きさのものもある。それらの鋭く尖った先端が、滑らかな表面が、月の光を宿して光り輝いていたのだ。
奇麗だった。けれどその一方で、その刺々しい無数の輝きはただひたすら無気味だった。
足元を見降ろすと、紅い血にねっとりと塗れたガラスの破片がいくつも転がっていた。どうやら私が踏んだのはこれらしい。道理で足の皮膚が深々と切り裂かれた訳だ。
そのうちの1つを拾い上げて、目の前に翳した。滑らかな表面にべったりと血が付着しているからか、そのガラスは紅色を帯びて煌めいている。
私はその血に縁取られ、ガラスに写り込んだ自分の顔を見つめた。
その時、ノイズが耳を劈かんばかりに鳴り響いた。
そして赤いフラッシュが眩き、その上に黒点や線が飛び交う。それらは何度も途切れては、再び視界を覆う。その度に私は見た。
私の顔が
私の顔が、レミリアに変わるのを――――…………
「――――っ!!!!!」
後頭部をハンマーで叩かれたかのような衝撃だった。視界がぐわんぐわんと揺れて、私は呻き声を上げるとよろめき、膝を付いた。掌からガラスが滑り落ちると石畳の上でカラカラと音を立てた。耳の奥では、ノイズが激しさを増していた。まるで大音量のスピーカーを、耳元に押し付けられているみたいに。
一体、今のは?!
訳が分からない。どうして私の顔がレミリアに? それに何故私があんなものを見なければならないのだ?!
しかし顔を上げた時、その疑問は一瞬にして掻き消えた。
巨大な真紅の月が浮かんでいた。その圧倒的な輝きが、夜空を、街を赤に染めているのだ。
そして全てのガラスの破片が、紅く輝いていた。しかし月明りを受けているからでは無い。それらは濃厚な真紅に染まり、自ら輝きを放っている。
しかしそれで終わりではなかった。
ガラスの破片が噴き上がると、赤い霧のように通りを覆う。そして商店に殺到し、真っ赤に光るショーウィンドウに変わった。そしてそこに黒々と浮かび上がる、巨大な逆鉤十字、ハーケンクロイツ。他の窓では、様々なモノクロフィルムの映像が映り出されていた。
廃墟と化した街を、小銃を担いで駆けるドイツ兵達。
夜空を照らす無数の光線、サーチライト。
バラバラと爆弾を投下するハインケル爆撃機。
青々とした草原を侵食して行く、灰色の戦車の群れ。
道端に立って熱狂的な声援を送るドイツ人の群衆。
そして彼らを堂々と見下ろすアドルフ・ヒトラー。
ナチス!
私は驚愕し、そして思い出した。そうだレミリアにはナチスとの繋がりが存在した。だからこんな物が見せられているのか?
だが、どうして私がここに? この街並みはなんだ? 散乱したガラスは何かを暗示しているのか? 目の前の映像はなんだ?
ノイズはいよいよ耐え難いまでに音を増し、頭が割れそうだった。私は呻くと頭を抱えた。
そもそもこのノイズも何を意味しているのだ?! 何の目的があって私を誘うのだ?! どうしてここまでして存在を主張するのだ?! 私に何を訴え掛けようとしているためか?! それともただの雑音なのか?! もしくは誰かのメッセージなのか?! 一体何なのだ!!
その時、全ての窓がレミリアを映し出した。
私はそれらの光景を見上げた。そして思わず痛みすら忘れ、呆気にとられて立ち尽くした。
気が付いたのだ。
――――ノイズが、レミリアから発せられていることに。
「――――ッ!! 」
私は叩き起こされる様な衝撃と共に、ベッドから跳ね起きた。
心臓はまるでフォードの8気筒ごとく暴れ回り、身体は熱病のように火照っていた。べっとり汗を掻いたせいで、ショーツが蒸れている。
辺りは薄暗く、しんと静まり返っていた。そこにはもう街も無ければ、ナチ共もいない。ノイズも既に耳にはなかった。
私は肩を上下させながら、辺りを見渡した。するとぼんやりと光る非常灯が目に付いた。そしてその灯りに照らされて、テーブルの上に一冊のファイルが置かれていることに気付いた。
あれは……カスピ海研究所の機密資料だ。拝借したのを、帰って来てから読み漁っていたのだ。内容を覚えるために。……と言うことは、ここは私の泊っているスイートルーム。
じゃあ、さっきのは、夢……?
「……えぇ、そうよ。けれど……」
アレがただの夢だとは思えなかった。
散乱したガラスの破片。ショーウィンドウに映ったナチスと映像。
一体、アレはなんだったのか。
私は額に手をつくと、溜息を漏らした。
分かりもしない。頭の中がぐるぐると渦巻いていて、そもそも考えを巡らせるような状況でも無かった。
――――けれど、分かることが1つだけあった。
私は顔を上げた。
それはレミリア<ノイズ>が、私を呼んでいたと言うこと。
ノイズはレミリアから発せられ、そのノイズは私を誘っていた。
だから夢の中で、私はレミリアに求められていたのだ。
「都合が良すぎるわよね。……でも」
レミリアに求められる。
それは、たとえ夢の中での出来事であったとしても、手掛かりを失い意気消沈していた私の心を、微かに湧き立たせた。
そして夢であるが故に、口惜しさも覚えた。
こっちでも、レミリアが求めてくれてたらいいのにな、と――――。
溜息を吐いた。そして再びベッドに身を投げ出す。ぼふっと枕が潰れ、スプリングが軋んで音を立てた。
それにしても、あの夢はなんだったんだろう。
ガラスの散乱した通り。
一面の紅。
ショーウィンドウのナチス。
そしてレミリアから流れるノイズ。
それらが示す意味も、私があんなものを見る理由も分からない。そもそもレミリアとの記憶が無いのだから。
私は瞼を閉じた。
……あぁ、嫌になる。
何も分からない、手掛かりもない情報も無い。あるのは夢だけで、そればかりが膨らむ一方。肝心の探し物には何の進展も無い。そんな現状が。
運命を疑うつもりはない。
けれど運命とは繋がりであって、導くモノではないのかもしれない。今夜の出来事から、そう感じるようになっていた。
……だからウジウジしている暇はない。自ら動き、新たな手掛かりを見付けなければならないのだ。
だが問題はそこだ。
手掛かりを探すにもアテがない。単純だが致命的、0からのスタートだった。
どうすれば祖国を守る槍作戦の全貌を知ることが出来るのか。部下ですら殆どを知らず、また住居にすら手掛かり1つ無いと言うのに。しかも今の私に、これからどうするかなんて分かりもしないのだ。
私は溜息を吐くと、寝返りを打った。
だから今の私に出来るのは、せいぜい身体を休めることくらい。そしてそれは、なにも出来ずに足踏みしている自分への怠惰な言い訳でもある。
生まれて初めてかもしれなかった。何も出来ないことが、こんなにも悔しいだなんて――――……
……
………
…………
しかし一向に寝付けなかった。
私は呻き声を上げながら寝がえりを何度も打った。
あんな夢を見たせいか意識が研ぎ澄まされ、汗を掻いた為に体中が気持ち悪い。それらが睡魔の波を阻んでいたのだ。
私は溜息を吐いて、身体を起こした。
しょうがない。寝る前に、シャワーでも浴びよう。
ベッドから降り立つと、枕の下に手を滑り込ませる。そして隠しておいたワルサーPPKを掴み取ると、乱れた髪を手櫛で梳きながら、シャワールームへと向かった。
きゅっ
蛇口を捻るとシャワーヘッドから水滴が噴き出した。
足元で弾ける水は、まだシベリアの雪解け水のような冷たさを持っている。
しかしその冷たさは、私の気分を幾分かすっきりさせる。私はガラスに隔てられた脱衣所に戻ると、御影石の洗面台の上にワルサーPPKを置いた。黒々とした鉄のフレームが、コトリと無機質な音を立てる。そして私はその場にショーツを脱ぎ捨てた。
シャワーが温まって来たのか、浴室に湯気が立ち昇りはじめていた。それはガラスと鏡を白く曇らせていく。
浴室に足を踏み入れると、露出した肌がお湯の温かさに包まれた。
もう良いだろう。私は噴き出すお湯に、その身を晒した。
ベトナムで日焼けし、仄かに褐色を帯びた肌の上でお湯が弾け、ボディラインに沿って流れ落ちて行く。
ぼーっと灯りを見上げながら、その温かで柔和なお湯の感覚に私は身を委ねた。張り詰めた意識が解きほぐされ、心が鎮められて行く。
けれどこのやり切れなさと虚無感までもを、流し落とすことは出来なかった。
――――求められていたい、レミリアに……。
私を満たせるのは、ただその想いのみ。
求めて欲しい、求められたい。片想いなんかじゃなくて、お互いの気持ちが繋がっていて欲しい。落ち着くと、そう思わずにはいられなかった。
石鹸を掴むと泡立てた。
掌がふんわりとした泡に包まれる。柔らかな石鹸の香りが仄かに漂った。
そしてその手を、ゆっくりと肌の上に滑らせる。
褐色の上を、白い泡の軌跡が染めていく。
弓なりに反ったウエストラインの上に、泡を薄く引き延ばす。
肩のふくらみから、二の腕に向かって石鹸を這わせると、筋肉の緩やかな起伏に波打った。
もしレミリアが、私を求めているとしたら……私の何を求めているのかな。
腕の上で掌を滑らせながら、ふとそんなことを思う。
しなやかな筋肉を纏った脚?
桃色の蕾を付けた、小ぶりな胸?
それとも私の蒼眼?
……いいや、違う。
私は傍らの鏡に写る、泡に塗れた自身の裸体を眺めた。
きっと『全部』だ。
アナタを満たせるのはワタシだけ。
この魂も肉体も、全てがレミリアのためだけにある。
だから触れて欲しい、味わって欲しい、求めて欲しい。
アナタを満たす器は私だけだから――――
蛇口を捻ってお湯を浴びる。
降りかかる温かさが、肌に纏わりついた白い泡を、舐めるように流し落として行く。
紅潮した細い指先を、濡れて艶を帯びた肌の上で踊らせた。
その指に、レミリアを重ねながら。
ピアノを叩く様な、軽やかな指使い。
そのリズムに、私の心は弾んで行く。
感謝すべきかも知れない。
レミリアは与えてくれたのだから。
どんなに男に縋られ、貪られても、何も感じなかった私に「求めること」を。
掌で、つんと上向く乳房を掬う。するとそれは微かなこそばゆさを伝えて、たゆんと揺れる。
そして首筋に、桜色の爪を立てると喰い込ませた。
そう、まるで純白の牙のように。
「ぁ……は……」
鈍い痛み。
けれども、私の身体は震え、吐息は熱を帯びた。
指を離すと、首筋に深々とした爪痕が残っていた。それは赤く充血し、まるでキスマークを連想させる。そしてそこから発せられるじんじんとした熱に、私の奥は疼いた。
――――ジリリリリーン!!
突如、電話のベルがけたたましく鳴り響いた。その途端、夢から醒めるみたいに先程までの心地よさが霧散してしまう。
Damn it……。
クソ喧しいベルの音に、私は深々と溜息を漏らした。
イイ気分だったのに水を差しやがって……。一体こんな夜中に何の用だ?
蛇口を捻ってシャワーを止めた。そして髪を乱暴に掻きあげ、水滴を撒き散らしながら洗面台に歩み寄る。
「はいはい……。今出るわよ」
濡れそぼった手でワルサーPPKを掴むと、裸のままリビングに出た。そしてイライラとした足取りで電話に向かう。どうせフロントからだろう。「シャンパンでもどうですか」って。ふざけてる。苦情を入れたらさっさと切ってやろう。私は受話器を引っ掴むと、耳に押し付けた。
「――――あら、やっと出た。遅かったわね」
けれど電話口から飛び出したのは、身に覚えのない、やけに馴れ馴れしい声。
その声に、私は思わず面喰らった。
「ねぇ、何してたの? 」
……声に覚えは無い。それにどうして私がここにいるのを知っている? 足取りの隠蔽は完全だったはずだ。教会にすら行き先は告げていない。
……KGBか?
不意にそんな懸念が脳裏を過ぎる。
だが慎重さと計算高さを兼ね備えたルビャンカの番人達が、こんな大胆な真似をするだろうか? ファイルの厚みを増やすことが、良くも悪くも彼らの通常業務なのだ。ましてや私は正真正銘の修道女。潜入しているとは言え、彼らの大嫌いな工作活動をしている訳でもない。
私は電話線にチラリと目をやった。
だがいずれにせよ、ガールズトークと洒落込むつもりはなかった。居場所がバレた以上、ここに一秒たりとも留まる訳にはいかないからだ。
そして電話線に手を伸ばした時だった――――
「――――この電話を切ったところで、何も変わらないわよ? 」
伸ばした指先が静止する。まるで糸で引かれたみたいに。
そして素早く辺りを見渡した。だが監視カメラや覗き穴は存在しないし、第一私が気付かないはず無い。
「大丈夫。カメラで見ている訳ではないわ」
お前は掌の上だと言う、女の意思表示。まるで誰かに見られているような、不気味な感覚が背筋を走る。
……コイツは一体、何者なのだ?
「……誰? 何者なの? 」
すると向こうの電話口で、息が断続的に噴き出される音がした。このメス豚野郎、鼻で笑ってやがる。
「……マリア様よ」
センスの欠片も無いジョーク。だが少なくとも、女に正体を明かすつもりが無いのはこれで明白だった。電話でコンタクトしたのもその為だろう。
「糞喰らえ」
私がそう言うと、女はクスクスと笑った。
「元気そうで何よりね。なかなか出ないものだから、もう死んでるかと心配だったの」
皮肉か、それとも含みのある言葉か。その口車に湛えられた妙な雰囲気のせいで、そのどちらとも取りようが無い。
「それは用件に関わることかしら」
「まあ、そうね。……ふふ。死の雰囲気。貴方なら、その狼みたいな鼻で嗅ぎ分けられるでしょうけれどもね」
女はまるで小馬鹿にするような、あっけらかんとした口調で言う。
『貴女なら』
その言葉が心に引っ掛かり、私は訝しげに目を細めた。もしやこの女は……私のことを知っているのか?
少なくとも私の居場所はバレている。だからその可能性は大いにあり得るだろう。それ自体は別段驚くことではない。
問題は私をどこまで知っていて、それをどう知ったかだ。
「用件を聞きましょう」
気を取り直して私は訊いた。
どうにかしてこの女をこちらのペースに乗せなければならないようだった。
「信じるか信じないかは別だけれど?」
「言葉遊びに付き合う暇はないわ」
女はクスクスと笑う。そして楽しそうに言った。
「急かさないで頂戴。―――今更急いだところで、もう無駄なのよ? 」
その時だった。
ヘリの重々しいローターの唸りが、微かに聞こえた。
顔を上げる。音は辺りを震わせながら、こちらへ迫り来ていた。
カーテンの隙間から、暗幕をひいたかのような夜空を窺う。しかしそこにヘリの姿は無く、ローターの轟音が聞こえるのみ。
だが胸騒ぎがした。
ニューヨークのハーレムにも、こうして夜中にヘリが飛び交っていた。それは大抵、都市の闇影に潜むレイプ魔やヤクの密売人を上空から炙り出すためだった。
「……どうして無駄なのかしら? 」
そして何より、今夜は訳の分からない女から電話が掛かってきている。――――ただの遊覧飛行ではない。そんな気がした。
それを汲んだのか、女は答える。
「私はアカの工作員じゃないわよ。居場所を当局に伝えたりもしていない」
クズほどの重みもない言葉。だが今はそんなのどうでも良かった。
窓が音を立てて揺れる。ローターの撒き散らす音が耳喧しかった。
私は暗闇の中に目を走らせる。だがどこにもそのシルエットは窺えない。だがすぐ傍にいるのは間違いなかった。その音がデカくなる勢いから察するに、かなりの高速なのだろう。
なら一体どこにいる?
どうしてその姿が現れないのだ?
不意に頭上でジャラジャラ音がした。宙を仰ぐとシャンデリアが揺れている。天井が震えているのだ。ヘリの振動に――――
「―――――まさか」
ここはホテルの最上階。この天井を隔てた真上に屋上がある。
そこにヤツが飛んでいるのだ。爆音を轟かせながら、この私の頭上で。……その理由は考えるまでもない。
「あら、やっと気付いたの。敵さん、貴女のことを上と下から締め上げるつもりよ? 」
私は床に置かれたアタッシュケースに鋭く目をやった。
「それが用件ね? 」
「えぇ。内務省のスペツナズ共が、貴女を殺しに送り込まれて来たの」
その直後、目の前にずんぐりとした巨大なシルエットが降り立った。そしてホバリングをしながら、窓にサーチライトを照射する。圧倒的な光量が視界を白く遮り、私は眩しさに目を細める。逆光に照らされてその姿はよく見えなかったが、最早確認するまでもなかった。
そして女が囁くような声で言った。
「――――幸運を。オリヴィア」
それを最後に、受話器の奥から全ての音が消えた。
「……なるほど」
私は受話器を置いた。
全てがクソだった。これほど最悪な状況などかつて無かった。
理由なんて分かりもしない。けれど何もかもが見透かされていたのだ。私はずっとずっと掌で弄ばれていたのだ。
いつもの私なら笑っていただろう。自身の間抜けさを。だが今は自責している時ではない。レイパー共がカラシニコフ携えて、この部屋を目指して這い上がって来ているのだから。
アタッシュケースを蹴り開け、手早く装備を身に纏う。ホルスターを大腿に縛り付けると2挺のスチェッキン拳銃を差し込み、マガジンポーチも引っ掛ける。そして黒いワンピースドレスに袖を通してシューズを穿いた。
不意に心の奥がむず痒く感じた。漏らした息は震えている。
……もしかして私、興奮してる?
最後に残った2挺のスコーピオンが、ケースの中で黒く光っていた。それを握ればコッキングレバーを引く。その「カチャリ」とした音が、なんだか耳に心地よかった。
あぁ、間違いない。私はこの状況に高揚している。その理由もすぐに察しが行った。私とレミリアの運命が試されている時なのだ。抗わずにはいられないだろう?
突如、荒々しくドアノブが回された。
「(ここだ!)」
そして大量の足音がドアの向こうに押し寄せると、ドンドンとドアが激しく揺れて軋みを上げた。
私は両手でスコーピオンのグリップを握り締める。
「えぇ、やってやろうじゃないの」
これは私の運命。
誰にも変えさせないし、邪魔はさせない。
――――だから、皆殺しだ。
衝撃が蝶番を吹き飛ばした。
同時にドアへ突進し、床を蹴って跳躍、ありったけの力を込めた右脚で蹴り飛ばす。そのまま廊下へ躍り出ると、スペツナズのど真ん中で宙を舞った。
「де...?!(な…?! )」
奴らが銃口を向けるより早く、私は両腕のスコーピオンを突き付けトリガーを引いた。猛烈に吐き出される32ACP弾を浴びて周囲の男共が一斉に崩れ落ちると同時に、辺り一面に薬莢と血雫が乱れ飛んだ。
着地と同時にスコーピオンのボルトが停止した。私はそれを折り重なる死体の上に投げ捨てる。
「Иди,иди!(行け行け! )」
奥の曲がり角から騒がしい足音が聞こえた。10人程度だろうか、真っ直ぐこちらにやって来る。
私は目を細めると、足音の方へ一直線に駆け出した。
あの人数と正々堂々撃ち合うのは御免だ。懐に殴り込んでやる。
角のすぐ手前からスペツナズが姿を現した。その瞬間、爆ぜるように身体を躍らせるとアホ面を爪先で一撃。派手に蹴り飛ばして奴らの眼前に着地する。スカートが派手に翻り、レッグホルスターからスチェッキンを引き抜いて両手に握った。
「Пожар!Пожар!(撃て! 撃てぇ!! )」
奴らが一斉に銃口を向け、私は腰を屈めて突進する。雷光のようにマズルフラッシュが瞬き、無数の閃光が背筋を掠めた。だが当たらない弾など意識の外。スチェッキンを突き出し至近距離で乱射すれば、真ん中の男が吹き飛びスキマが生まれた。すかさずスライディングすることで男共の中心に滑り込む。
敵の反応は2つ、後ずさる者とその合間から狙いを定める者。脅威は後者だが、大男達が密集して動き回っているがためにその銃口はウロウロとさ迷っている。
私は獰猛に勝利を確信した。
「Это нарушение!(邪魔だどけ! )」
掻き分けるように2人がAKを構えた瞬間、その顔に鋭く銃口を突き付けて撃つ。即座に身体を捻って半回転、両脇で銃口を突き付ける男共も撃ち抜いた。ノロマな案山子だ。前後に寸断された男共がようやく銃口を向けた。反撃は不可能、床を横転することで激烈な銃撃を回避。素早くバック宙で跳ね起きると一回転し、突き付けられた銃口にスチェッキンのスライドを叩きつけて射線を反らす。外れ弾が両側の男共を貫き、私は両腕を交差すると残りも撃ち抜いた。そのまま間髪いれず正面の生き残りに肉薄する。強張る彼らの表情。
「Монстр...!(化け物が……!)」
鼻先に銃口が突き付けられ、反射的に身体を捻ると熱い火線が頬を掠めた。そのまま男の右目に銃口を突き付けトリガーを引く。弾けた頭の後ろから次の銃口が突き出され、それを片手で押しのければ右手のスチェッキンを押し付けて撃つ。だが崩れ落ちる男の背後から残りの2人が突進して来た。
「Ураааааааа!!(ウラアアアアア!!!!! )」
もはや肉弾戦しかないと自棄になったのだろう、雄叫びを挙げながらナイフを掲げている。
咄嗟に私は右足をぐっとたわめ跳躍した。突き出されたナイフがはためくスカートをするりと突き抜ける。天井が高くて幸いだった。その擦れ違いざま、両足を男の肩に押し付けて蹴り押した。男が前のめりに崩れ落ちる。そして2人目の眼前に着地すると、その両眼に銃口を抉り立てて撃つ。男は吹き飛びスチェッキンがホールドオープンする。
だが倒れた男が再び咆哮しながら迫っていた。リロードする暇は無い。
振り下ろされた白刃をスライドで受け止め、銃を傾ける。刃がスライドを滑り落ち、男が前のめりになった。その顔面に鋭く銃口を打ち込む。男がよろめけば間髪いれず身を翻し、勢いよく銃底で顎を砕く。そのまま再び回転、蹴り上げた踵をこめかみに叩き付ける。男は横に吹き飛ぶと倒れた。落ちたナイフが床で跳ねて音を立てた。
そして辺りは静まり返った。
硝煙が廊下に立ち込め、明かりを白く曇らせていた。紅絨毯の上には薬莢が散乱し、至る所に血塗れの男共が転がっている。
ふと頬を生温い液が伝い落ちていることに気が付いた。私は頬の傷を指先で拭うと、小さく鼻で笑った。
コレだけか。
スペツナズは想像以上にぬるい相手だった。あんなのがスペシャルフォースなどとは。イワン共は随分と張り合いがない。
私は指先にねばりつく血汐を振り落とした。そして死体を踏み越えるとエレベーターに歩み寄る。そのボタンを銃口で叩いた。
だが戦う相手としては悪くない。お陰で遠回りをせずに済みそうだから。私は中に乗り込むと"1階"を指定する。程なくしてエレベーターが動き出した。
さて……ここを出たらどうしよう。
私は銃底のレバーを押して、マガジンをスチェッキンから引き抜くと床に落とした。肉抜きされた空弾倉が、カラカラと軽い音を立てて転がる。
当然のことながら行くあてはない。……何一つ手掛かりを掴んでいないのだから。
新しいマガジンを叩きこみ、ストッパーを押し上げてスライドを戻した。その一連の動作を、同じく片方のスチェッキンにも行う。
希望は失ってはいないし、悲観する気もない。レミリアへの想いは揺るがないし、その為ならどんな脅威だって排除してみせる。
けれど現実を冷静にとらえれば、想いをどんなに強く持ったところで何かが解決するわけではない。手掛かりがなければ何も出来ないのだ。
だから考えるんだ、オリヴィア。この状況で導き出せる最善の選択肢を……。
その時、カスピ海研究所の地図が脳裏をかすめた。そして覚えこんだ内部の構造が克明に浮かび上がる。だが"その選択肢"を私は振り払った。
リスクが高過ぎるのだ。
資料によれば、あそこは重武装の1個師団に警護されている。おまけに最新式のセキュリティ設備と来たもんだ。色々な面倒もすっ飛ばせるとは言え、そんな自殺的な選択は正直なところ取りたくない。まさに命あってのなんとやら、だ。教会に隠すことだって不可能だろう。
そこまで考えたところで、私は溜息を吐いた。
……だけど、他に選択肢があるのだろうか?
手掛かりもない、情報もない。そんな状況でヴァチカンに帰ったところで、事態が好転するとは思えない。幸か不幸かこのアカい国は非常に臭う。そしてなにより、カスピ海研究所には最大の手掛かりであるニコライ博士がいる――――
それでも、この機会を逃すのか?
苦悩した。脳内でドロドロの液体がせめぎ合っている。
スーパーを強盗するのとは訳が違う。一か八か、もしくはそれ以下の成功率だ。
……だがチャンスを逃したくはない。絶対にレミリアと再会する、そう誓ったのだ。だから恐れてはならない、躊躇うことは許されない。それは分かっている。
けれど―――――……
――――ゴォン!
突如、エレベーターが急停止すると揺れた。私はその衝撃によろめいて背を持たれる。見上げたランプは30階で止まっていた。
……閉じ込められた? そう思った直後、エレベーターが開いて身体を隅に寄せる。
だがお約束の銃撃はなく、辺りは静まり返っていた。
なので注意深く外を窺うと、そこは広々とした展望ホールだった。人影はない。一面に張られたガラスは漆黒の夜空を写している。
身体を引っ込ませると再びボタンを叩いた。しかしエレベーターが動く気配はなく、不意にその照明が消えた。奴らが止めたのだろう。私は溜息を漏らすと外へ出た。
まだイワン共はやり合うつもりなのだろうか。だとしたら愚かな連中だ。あんな温い奴らをいくら揃えたところで、私の前には無力だと言うのに。
そしてホールの中央で足を止め、何気なくガラス越しの夜空を眺めた時だった。
重々しいローター音が聞こえた。夜空の彼方に黒いシルエットが浮かび上がる。
……さっきのヘリだ。
その影は緩やかに迫ってきた。次第に輪郭があらわになっていく。それを目にした時、なんとなく嫌な予感がした。エレベーターを停止させたことと言い、なんらかの意図を感じるのだ。
けど一体、なんのために?
ローターの生み出す風圧に、ガタガタと窓が震え始めた。
あのヘリが人知を超える何かだと言うことは無いだろう。だが得体の知れないモノはやはり不気味だった。纏った闇の中に何を隠しているかなんて分かりもしないのだから。そう、まるで吸血鬼のように。
やがて闇からその姿が浮かび上がった。
見たこともない、巨大でずんぐりとした機体。その黒々としたキャノピーが、私を見据えるかのようだった。
アレは!
その両脇に吊り下げられた武装に、私は目を見張った。蜂の巣のようなロケットポッドに最新式の対戦車ミサイル。まさかこいつは、ソ連の新型……ガンシップ?!
機首の機関砲がゆっくりと旋回する。そしてピタリと照準を合わせた時、私は気付いた。
――――これは、罠だ!!
私は走った。その直後に空気を震わせるような轟音。ガラス片が雨水のごとく降り注ぎ、周囲を暴風のような火線の奔流が荒れ狂う。
「ッ!! 」
咄嗟に柱へ滑り込んだ。閃光がバーカウンターのスコッチを薙ぎ払う。椅子や丸テーブルが軽々と吹き飛び、周囲の柱が崩れ落ちると白い粉煙を舞い上げる。この柱にも当たったのだろう、幾度となく鋭い衝撃が背中を打って息がつまった。そこへ追い打ちとばかりに熱いガラス片が降り注ぐ。回避も儘ならず、私は両腕で顔を覆うと刺すような痛みに耐える。腕の隙間から頭上を窺うと、シャンデリアのランプが弾け飛んでいた。その直後、火花を散らしながらショートする。闇に落ちたホールの中をフラッシュを瞬かせながら無数の曳光が突き抜ける。……やられ放題だ。
シャンデリアに機銃弾が直撃、その支柱がへし折られる。四方を繋ぐワイヤーが張りつめるとキリキリと軋んだ。宙に浮いたシャンデリアが小刻みに震える。いずれその重みに落下するだろう。だが周囲は暴風雨。ここにいても下敷きだが、動けばたちまちミンチ肉だ。
「…Fuck!」
細いワイヤーが千切れて跳ねまわり、辺りに目を走らせた。だがその前を荒れ狂う激流が押し流す。逃げ場はない。けれどこのまま圧死なんて絶対に御免だ! 何が何でも生き残ってやる、レミリアのために。しかしこの状況でどうすればいい――――
ワイヤーが一斉に吹き飛ぶ。そして私は気が付いた。もはや運命に祈るしかないってことに。
シャンデリアが落下すると反射的に目を閉じた。その直後に轟音。床が震えると銃撃が途絶えた。
……死んだ?
私は恐る恐る瞼を開いた。けど私みたいなクズは地獄ですら願い下げだったのだろう。鼻先で無残にひん曲がったシャンデリアが鎮座しているのを目にした時、思わず肩の力が抜けるのを感じた。けど幸運を喜ぶ暇はない。本当の地獄はまだ終わっちゃいないのだから。
ローター音が轟くと、ウェスタンみたく砂塵が吹きあがる。そして辺りをサーチライトが照らした。
……クソッタレ。
私は髪にかかった粉片を払うと唾を吐いた。下品な男共に散々弄ばれたかのような気分だった。自身の楽観さも腹立たしかったが、イワン共に痛めつけられた事実はそれ以上に屈辱的だったのだ。出来ることなら今すぐ叩き落としてやりたい。だがあの重武装を前にして、拳銃2つではあまりに無力だ。手も足も出ずに犬死にするだろう。もはや逃げる他なかった。
私は右奥にあるフレンチドアを見据えた。距離は約20メートルと言ったところ。その周りをサーチライトが行ったり来たりを繰り返している。私はその光が離れて行くのを静かに待った。
やがてサーチライトが離れていく。
今だ。私はドアへ疾駆した。ガレキだらけの床を蹴り、ソファを飛び越えホールを駆ける。そしてドアへ迫ったその時だった。
目を覆うようにサーチライトが照らされる。その圧倒的な光に背筋が凍った。
気付かれた!
奴らが見過ごすハズがない。きっとあの猛射が襲いかかってくる!
スチェッキンを乱射すると、放たれた銃弾がドアノブを吹き飛ばした。そして蹴り開けた直後、重々しい唸りを上げながら背後を無数の機銃弾が掠める。
Fuck! 今のは危なかった!
そのまま廊下を走るとローターが唸る。ヘリが動き出したのだ。
空気を震わせながら、放たれた火線がバリバリと窓を薙ぎ払った。光とガラスの津波が背後から押し寄せる。
しつこい奴らだ!
曲がり角でぐっと力むと、飛び出すように方向転換。ガンシップが爆風を吹き散らしながら飛び抜けて行く。
……まけるか?
私はガンシップを目で追った。ヤツは上空で急旋回をする。そしてこちらにキャノピーを向けると、ロケット弾を噴射した。その白煙が横一列に連なり、真っ直ぐこちらへ突っ込んで来る――――
――――動きが読まれている!!
身体をバネのように蹴り出した。耳をつんざくような爆音。その激しい衝撃に背中を圧される。
そのまま跳びはねるように廊下を走った。破片と熱を撒き散らしながら轟音が迫る。だがトランポリンみたく地面が揺れるせいで上手く走れない。蹴り出す度に失速して行く。
壁が砕けて視界が霞んだ。吐瀉物が喉をせり上がる。それを必死に飲み下しながら、チクショウ、畜生!と脳味噌がグルグル動転していた。
このままじゃ滅多撃ちだ!
だがやり過ごせる場所がなかった。延々続く細い廊下に遮蔽物は見当たらないし、ずらりと居並ぶドアを開ける隙もない。
だがここまで来て"BAD END"になるものか!! 何がなんでも生き残ってやる――――……
その時だ。
10メートルほど手前でドアが開いた。その中からスペツナズが飛び出して来る。
アレだ!! 間に合え……!
荒れ狂う爆風にビビったのか男は後ずさった。攻撃を知らされていないのだ。
「アアアアアアアアアアアッ!!! 」
叫ばずにはいられなかった。全身の力をフルスロットして走る。その気迫と爆風にスペツナズが遁走した。
失せろザコ!!
爆風と破片が身体を打つ。天井が崩れて降り注ぐ。周囲にロケット弾が突き刺さる。だがドアは目前だ!!
その時、バシッと鋭い衝撃に吹き飛ばされた。目の前がゴロゴロとひっくり返って、白い粉煙が辺りを覆う。視界がぼやけて霞むと耳の奥がごうごうと唸った。
起き上がるとよろめいた。身体が岩のように重い。支えるように手をつくと激痛が走った。右腕が焼けるように痛んでいる。
……やられた?
ゆっくりと傷を見た。上腕がえぐられるように深々と裂かれ、そのギザギザとした傷口から鮮血が滲み出ている。
ロケットの破片を喰らったのだろう。傷は深い。だが出血は見た目ほどひどくはなかった。これなら応急処置で何とかなる。
私は壁に背をもたれると、スカートを引き千切った。そしてできたシルクの包帯を腕に巻き付けていく。傷口を覆うとその片方を噛んで押さえ、強く縛った。
……傷は何とかなりそうだ。右の視界がぼんやりと赤いが大したことはない。流れ出た血が染み込んでいるのだろう。耳もよく聞こえないけど鼓膜は破れていなかった。すぐに復活する。だが下の部分は……。
傷口を押さえて深呼吸をした。そして壁に寄りかかりながら恐る恐ると立ち上がる。
だが突然、くらりと地面が揺れる。そして地面に引っ張られるみたいに重みが圧しかかった。身体がよろめいて膝が笑う。
頼む、動いてくれ……!
けど身体はズルズルと落ちていく。やがて耐え切れずに膝をつくと転がるように倒れた。
……ダメだ、動かない。
私は舌打ちした。
あの爆撃のせいに違いない。破片にめった打ちされたお陰で、私の身体が麻痺しているのだ。でもそれなら……
私は力を振りしぼり身体を前に引き摺った。埃塗れになりながら、ガレキを掻き分けて這う。
……私は呑気にへばっているつもりはない。何がなんでも逃げ切ってやる!
だがその時だった。
強い風が吹いた。辺りの煙が渦を巻きながら、ゆっくりと薄らいでいく。その隙間からサーチライトが差し込むと心臓が早鐘のように鳴り響いた。
――――ガンシップ野郎だ!
「クソッ……!! 」
恐怖が本能的に背を押した。走るために腰をあげると転倒する。立ち上がろうとしても力が入らなかった。
…クソ! 動け、動け、動け!!
ガレキに身を打ちつけながらジタバタともがいた。その度にガラス片が肌を切り、痛みが身体中を走る。
やがて私を嘲笑うかのように煙が晴れた。そして目の前にガンシップが現れる。そのサーチライトが這いずる血塗れの私を浮かび上がらせた。
私は唇を噛んだ。錆鉄のような生臭さが口の中に広がる。
――――逃げ切れない。時速300キロの巨体から這って逃げるなど不可能だ。
なら戦う? 名案だ。じゃあ早速スチェッキンを探そう。ついでに対空ミサイルか高射砲でも見付かったら最高なのに、クソッタレ!!
私はガンシップを睨んだ。ホバリングしながらサーチライトを照射している。
呑気な野郎だ。あの猛火を生き残った私に驚愕しているのか、それとも必死に足掻く私を冷笑しているのか。今となってはどちらでも良かった。パイロットが操縦桿の射撃ボタンを押せばそれだけで私は――――
「……冗談じゃない!」
私はその考えを振り払うと、身体をズルズルと引き摺った。
私が死ぬはずない。
私が死ぬなど信じられない。
だって私は運命に導かれていて、運命がそれを裏切るなど有り得ないからだ!
だがその時、想いを砕くかのように機関砲が轟いた。
周りでガレキが弾け飛び、身体が軽々と吹き飛ばされる。
なんとか四肢は繋がっていた。けど息ができなかった。身体をしならせて喘ぐと、真っ赤な血をバシャッと吐いた。すぅっと意識が遠のいて目の前がぼやけて霞む。血だまりの中に小さな肉片がポツポツと浮かんでいた。
……どうして?
目の前の光景が理解できなかった。
だってレミリアを求めているのに。
だって運命が求めているのに!
……なのに、私は死ぬのか?
暗闇へ意識が落ちていく。
爪先から冷気が広がっていく。
その感覚に私は震えた。
しかしそれは死が怖いからではない。
レミリアと会えなくなるのが恐ろしかったのだ。
ここで孤独に終わるのか?
レミリアに会えないのか?
私の運命は断たれてしまうのか?
そう考えただけで気が狂いそうになるのだ。
死にたくない、終わりたくないと生を渇望せずにはいられないのだ。
いやだ……。いやだ、いやだ!
私は駄々っ子のように叫ぶ。
もっと生きていたい。
もっと、想っていたい……。
会いたい。レミリアに、会いたい……!
なのに墨黒の液体がドロドロと辺りを蝕んでいく。
腕の痛みも口の血なまぐさも消え失せていく。
やがて光が断たれるように、私の意識も途切れて堕ちた。
……寒い。
闇が覆っていた。
それはただひたすらの黒で、寒くそして無機質だった。
その深淵に、私はゆっくりと沈んでいる。
……これが、死。
どこまでも孤独。
そしてどこまでも冷たい全ての終点。
死が誘うことはない。だけど死を拒むこともできない。……私は、死にたくないのに。
だからきっと、諦めていたのかもしれない。
もうレミリアに会えないって。
死の前に運命など無力なんだって――――
その時、闇の中になにかが浮かんだ。
それは遠い彼方でキラキラと輝いている。
……なんだ?
私はその光をぼーっと眺めた。
地獄からのお迎え?
それとも幻影か?
すると吸い込まれるみたいに私の目は釘付けにされる。
光の中にレミリアが視えたのだ。
彼女は優しく微笑んでいる。それは果てなきアヴァロンのようで、私は希望を感じた。
……会いに、来てくれたんだね……。
私はその輝きに手を伸ばした。
けどそれはあまりにも遠い。
想うにも儚くて、求めるにも高嶺だった。
それでも求めずにはいられない。死に際した私には、もうアナタに縋ることしか出来ないから。私はアナタを諦められないから……。
……でも、どうすれば届く?
分からなかった。
死ねば会えるだろうか?
死後に本当の世界があって、そこでレミリアが待っているのだろうか?
それならもう……終わりにしても良いかもしれない。
だって会えるかなんて分かりもしないのだ。
それなのに、長い戦いを続ける意味なんてない。
私も疲れた。
たとえ死んだとしても、レミリアと一緒になれるならそれで良かったのだ。
だから……もう、終わりにしよう。
さぁ、取って……。この手を、レミリア――――
すると差し伸べた指の先で、レミリアが消えた。
激しい嫌悪と死への拒否感。
それが濁流のように身体を駆ける。
……そんな、いやだ。消えないで!!
私はがむしゃらに手をもがいた。
このまま堕ちるのは嫌だった。無意味に死ぬのだけは嫌だった。
けれど光には届かない。むしろ光が遠ざかっているようにすら感じる。
やがて絶望に手を止めようとしたその時――――
光が弾けて太陽のように輝いた。その光が洪水のように押し寄せてくる。
眩しくて鮮烈だった。闇を白が覆いつくしていく。やがて辺りを包むと、私の意識がゆらめきながら浮かんでいった。
ぐるりと意識が反転する。
そして重力が圧しかかるのを感じた。
ゆっくりと瞼を開ける。するとそこはガレキに塗れたホールだった。ガンシップが窓際でホバリングをしている。
……生きてる。
血の味がこみ上げて、腕の傷がじんじんと痛んだ。
けれど現実感が無かった。
私はあのまま死ぬはずだった。
なのに何故生きている?
突如、視界で紅色のフラッシュが瞬いた。そしてレミリアが映る。ノイズが走る度にその輪郭が揺れていた。
だけど瞳だけはハッキリと見えている。まるで射抜くように私を見ていたのだ。なのにその手が差し伸べられることはない。
再びフラッシュが瞬いた。そして映像が途切れる。頭を殴られるような衝撃を覚え、喉の奥から熱いモノがこみ上げて来る。その生臭さに耐え切れず、私は胃液の混ざったドロドロの血を吐いた。
……ああ、そういうことか。
私が生きた理由。
それはレミリアの意思だった。
苦しみもがいて戦えと。
運命は自分で掴めと。
そのために私を生かしたのだ。レミリアは。
……なんて理不尽な。
アナタを想って苦しんでるのに。
アナタに会いたいだけなのに!
だけど……
私は唇を拭うと、拳を握りしめた。
……あぁ、戦ってやる。
どんな苦しい戦いだろうと、それが運命だと言うのなら!!
運命の炎が燃え上がるのを感じた。弱々しいがハッキリと脈打っている。意識がすぅっと明瞭さを取り戻し、辺りが明るくなったように感じた。
さぁ、ここから這い上がろう……。
口元の血を拭うと、ガレキの上に手をついた。そのままラリった肢体を持ち上げると、ヘタクソな腕立て伏せみたく支える。
生半可な重さじゃなくなっていた。まるで鎖を幾重も巻きつけられ、地面に楔で打ち付けられているみたいだ。身体が動かない。腕が震えて骨が軋んでいた。
動け……。
早く動け!
もうレミリアは助けてくれない。
生きるためには戦うしかないのだ!
奥底でマグマのように力が滾った。それを全身に廻らせようと力を込める。
だがその時、鋭い痛みが一直線に背筋を駆けた。
「――――あっ、ぐぅ! 」
前のめりに倒れかけた身体をすんでのところで支えた。圧しかかる重さに顔が歪む。顎の先から汗が滴り落ちた。
もう身体は限界なのだろう。当然だ。無数のロケット弾に吹っ飛ばされた挙句、12.7mm弾の至近弾を雨のように浴びたのだ。生きてるだけでも奇跡。さらに動いてまでいるんだから、まさに"天にましますなんとやら"だ。
ギリギリと背骨が軋んで音をたてた。背筋にいくつもの痛みが走り、思わず呻き声を漏らしてしまう。
……けれど、それがなんだと言うんだ?
傷の痛み? 身体の悲鳴?
そんなモノに耳を貸すつもりはない。
私の全てはレミリアのためにある。
だからレミリアが戦えと言うのなら、その使命を果たすことに疑念はないのだ。
たとえ我が身を犠牲にしたとしても。
膝をついた。そのまま縛りつける鎖を引き千切るように身体を起こしていく。
激痛が身体中を駆け巡る。もう動けない、そんな叫びが聞こえるかのようだ。腕と脚の関節が焼けるように痛んでいた。
……黙れ。
そんな雑音を、私は隅に追いやった。
ガレキを踏みしめると脚を力む。熱が身体中に流れ出すのを感じていた。
……私はまだ、戦える!
私は全てを越えてやる!!
この手で運命を掴んでやる!!
力が溢れてくる。熱流がビュンビュンとほとばしりながら身体を駆ける。そして力を振り絞ると叫んだ。
「……う、ご、けええええええええええええええええええええええええ!!!!! 」
その瞬間、奥底でたぎっていた力が爆発した。熱流が身体を突き抜けると、目の前で色鮮やかな火花がほとばしる。そして鎖のちぎれる"ガシャン"という音と共に、痛みと重さが消えた。
さぁ、クソガンシップ共!!
終わりだ、絶対に叩き落としてやる!!!
私はふわりと軽くなった脚で地面を蹴った。
機関砲が唸った。すると放たれた曳光弾が荒波のように押し寄せる。その火線が背筋ギリギリのところで荒れ狂っていたが、私は一瞥もせずに走った。
するとロケット弾を連続で噴射する音が聞こえた。そして跳び出した直後に地響き。衝撃波が背中を押したけれど構わずに走った。
背後で次々とロケット弾が着弾する。その破片が掠めると熱波が襲った。けれど恐怖はなくて心は静かだった。着弾の度に床を蹴ってアカシカのように身を躍らせる。そうやって軽々と爆風をかわしながら弾雨の中を駆け抜けていく。
遅い。
いや私が速いのだ。
足は羽のように軽い。そして身体は自在に動く、まるで弾幕の隙間を知り尽くしているかのように。
するとガンシップが動き出した。機体を前に傾けると、ゆっくりとこちらに近付いて来る。
――――悔しかったらイかせてみな。
私はそのキャノピーに向かって高々と中指を立てる。するとガンシップが何かを投下した。
……なんだ?
落下するその影を、私は目で追った。
だが次の瞬間、甲高い噴射音を轟かせながら影が炎を発した。そして白煙を引きながら突っ込んで来る。その軌道は少しずつ横にカーブしていた。まるで先読みするかのように私の方へと――――……
「……Fuck! 」
誘導ミサイルだ!!
周囲に目を走らせた。追いかけっこではミサイルを回避できない。どこかでやり過ごさなければ!
すると5メートル手前、簡素なドアが目に飛び込んで来る。アレだ、まだ間に合う!
ドアに体当たりをして転がり込んだ。その背後でミサイルが唸りをあげると、私は前屈みのまま駆け出す。だがその時だった。
凄まじい爆音が轟いた。私はその衝撃波に吹き飛ばされる。周囲を濁流のように熱風が突き抜けていくと、私は息を止めてうずくまった。全身が焼けるように痛かった。
やがて爆風が止むと顔をあげた。
吸い込む空気は噎せかえるように熱い。背中も痺れるように痛んでいた。私は壁に手をついてよろよろと立ち上がった。
……追いかけっこは無理そうだ。
まともに喰らえば今度こそ死ぬ。武器はないし、姿を晒せばミサイルが飛んで来る。正攻法は不可能だった。チャンスさえあればそれに賭けられるのだが……。
不意に辺りがビリビリと震えた。遠くからローター音が響いてくる。ガンシップ野郎が窓に機体を寄せて探し回っているのだ。
私はガリガリと奥歯を噛んだ。
上等だ、私は逃げたりしない。たとえ飛び移ってでも八つ裂きにしてやる――――
その時、ぱっと閃いた。
……そうだ、それだ。
奴らは機体を寄せている。ミサイルを操作するには標的を視認出来なければならないからだ。それにミサイルの爆風は強烈。それを利用すれば乗り移ることだって――――
私は壁から手を離した。
やるしかない。まさに自殺攻撃、JAPのカミカゼアタックだ。だが奴らの虚を突くはそれしかなかった。
それに成功すればガンシップも乗っ取れる。脱出するには最も手早い方法だった。
サーチライトが差し込んだ。
私は身を翻すと、光の先――ガンシップの前に躍り出る。彼我の距離はざっと見50メートル。マヌケ顔で驚愕するパイロットがはっきりと見えた。
さぁ、もう終わりにしようか。
私は背を向けて逃走した。いや逃走したと見せた。ローターが唸りを上げる。目論見通り、私を仕留めんと追いかけるつもりだ。
バシュッ!と噴射音が響いた。性懲りもなくミサイルだ。けどそれでいい。そしてタイミングを窺おうと振り返った時――――
黒光りする弾頭が目の前に。甲高い金切り音が耳元で轟いた。
「――――ッ! 」
速い!!
無意識に倒れ込んで回避する。直後、噴射熱が肌を焦がしながら過ぎ去ると爆発した。床が激しく揺れて、窓ガラスが割れ飛ぶ。そして白煙が噴き付けると辺りを覆った。
クソッ……。予想以上に速かった。当然か、あれだけの至近距離なら発射からのタイムラグは無いに等しい。飛び出すタイミングを窺う隙はなさそうだった。
しかしあの距離ならイケる。奴らも焦っていた。私の考えなど思いもしないだろう。
だから、今がチャンスだ。
起き上がると白煙の中を走った。そして曲がり角に差しかかった時、煙が晴れる。目の前にガンシップが降り立った。
咄嗟に横飛び、猛烈な銃撃が肩を掠める。
そんなの効かない。さっさとミサイルを撃ってこい!
だがガンシップは私を追いかけるだけだった。ローター音が轟き、その暴風に次々と窓が吹き飛ばされる。さっきよりも遥かに接近しているようだ。なのに何故撃たない?
ドアを蹴り開ける。そして中へ駆け込むと、そこは行き止まりの展望ラウンジだった。
あぁ、なるほど……。
ミサイルの発射音が響き渡る。私は窓に向かって疾駆した。そしてガラスを突き破って飛び出した直後、唸るミサイルが背後を突き抜ける。耳をつんざく爆音が轟いて、突風が夜空へ私を吹き飛ばした。そこへガンシップが突っ込んでくる。
だが奴らはぶつかるとでも思ったのか、右に回避した。すると横っ腹が晒される。そのハッチは堂々と開け放たれていた。私はもがいて腕を伸ばす。そして吸い込まれるように機体が迫り――――
「ッ! 」
私はハッチから機内に転がり込んだ。
操縦席からパイロットが振り返る。強張った表情だった。私に殺されると思ったのだろう。当然だ、こいつらを始末するのは造作もない。出来ることなら散々苦痛を味あわせてから、八つ裂きにしてやりたかった。
けれど機内で抵抗されたら面倒だ。それに私は足が欲しい。だから腹の底に殺意を押し込むと歩み寄った。
操縦席は2人乗りだった。後席は硬い表情で私を見上げ、前席の男は背を向けたまま横眼で睨んでいる。
「Orose меня из воздушного пространства. Не может если так」
(この空域から離れたところに私を降ろせ。そうすれば危害は加えない」
無言でパイロットが目を合わせる。どうするべきか困惑しているのだろう。ヘタなことをすれば躊躇なく始末してやる。ヘリの操縦なら私にもできるのだから。
再び後席の男が視線を向けた。その目が細められるのを私は見逃さなかった。
奴がスチェッキンを引き抜く。その瞬間、私は座席の裏へ屈んだ。ベルトを外す音。そして男が身を乗り出すと、私は銃を握った手に掴みかかった。愚か者は目を見開いていた。その手が引き離そうと肩を掴む。そのまま窮屈なコックピットでもつれ合った。
もがく男に拳を、膝を叩き込む。手を出す隙は与えない。アホ面を殴って、タマを蹴り上げ、関節を叩く。
足元がぐわんと揺れる。機体が傾いて私たちはよろめいた。パイロットの助太刀だ。すると男が大熊みたいな身体をのしかけてきた。だが倒れる瞬間に身体を捻り、その身体へ馬乗りになる。
奴は銃口を向けようと手をもがいた。その腕を抑えて、頭突き。何度も何度も鼻先にたたき付ける。銃口が弾けて光が瞬いた。
だが突如、機体がジェットコースターのように急降下。ぐるりと視界がひっくり返り、私達はもつれあったまま計器盤に叩きつけられる。
その弾みでスチェッキンが暴発した。そして乱射された銃弾が跳ねまわった時、悲鳴が上がる。男が吹き飛ばされると、私も座席に叩き付けられた。コックピットの景色が回っている。前席の男を見れば、奴は後頭部から血を流していた。操縦盤からは火花が飛び散っている。流れ弾に当たったのだ。
「クソッ…!」
強いGが全身に押し付けられていた。操縦桿に取りつこうとしても身体が動かない。脳味噌が揺れて視界が霞む。このままでは意識を失ってしまう。
計器盤の赤ランプが点滅した。そして甲高いアラームが鳴り響いて警告を発する。
墜落する。
薄れゆく意識の中、私はベルトを掴んで装着した。衝撃に備えて目を閉じると歯を食いしばる。
もうどうとでもなれ……!
そして意識が途切れる瞬間、凄まじい轟音が聞こえた――――……
ゆっくりと瞼が開くと、そこはコックピットだった。
キャノピーのフレームがひしゃげ、窓が粉々に割れ飛んでいる。機内の至るところからは火花が飛び散り、青い光を発していた。
……もう使い物にはならなそうだ。
とはいえ流石はソ連製と言うべきか、取り敢えずのところ私の肢体は繋がっていた。私はベルトを外すと、前席の男からスチェッキンを拝借した。そして割れたキャノピーから這い出ると、痛む身体を引き摺るようにして外に出る。
外は凍てつくような寒さだった。散々熱や爆風に晒されたせいもあってか、肌がチクチクと痛んでいる。辺りは暗い森の中。木々のベールがどこまでも続き、その合間を黒い闇が塗りつぶしている。風に木々がざわめき、遠くからはオオカミの鳴き声が聞こえた。
随分と辺鄙な場所だ。これだけ深い森ならば、朝にならない限りは捜索隊もやって来ないだろう。脱出するなら今夜中。しかしこの寒さでは、朝まで私が持つとは思えない。
息を漏らせば白い靄が立ち昇る。そして息を吸い込むと、その寒さに奥歯がガチガチと震えた。
さっさと寒さを凌ぐ方法を見付けなければ。
私は森の畦道を歩き始めた。
しばらくすると、人気のない小屋を見付けた。
そのドアを蹴破って、室内に足を踏み入れる。壁のスイッチを押しても明かりは点かず、私は奥のリビングへと進んだ。その室内にはタンスがあって、試しに引き開けると厚手の上着やシャツなどが収められていた。それらを引きずり出すとテーブルの上に広げる。サイズは少々大きめだが、着れないことはなさそうだった。
他にも抗生物質などがあれば欲しかった。腕の傷が痛み始めていたのだ。スカートの切れ端だけでは破傷風が心配だった。
なので室内を物色すると、流石に抗生物質まではないものの、未使用の包帯やウォッカを見付けた。
私は傷を覆っていたスカートを破り捨てる。そしてウォッカを降りかけるとシャツで傷口を拭い、包帯を巻き付けていく。最後に縛って固定すると、思わず溜息が漏れた。
傷がこれだけと言え、今日は散々だった。
第一、私が当局に襲撃されたのが不思議でならない。コソコソと嗅ぎ回ってるだけの人間を、何故あれだけの大部隊で殺そうとしたのか。謎の電話といい、レミリアを追い始めてから急に身の回りがきな臭くなった。もしかして私は、とてつもなく巨大な陰謀に巻き込まれてるのではと思わずにはいられない。
私はドレスを脱いだ。そしてシャツに袖を通してズボンを穿く。その上から上着を羽織ると、裏にスチェッキンを忍ばせた。
まぁ、相手が何だろうと私には関係ない。行く手を塞ぐのなら抹殺する。それだけの話だ。
そして小屋を出た時だった。
「やぁ、オリヴィア」
思わず目を疑った。
闇の中にヴェロッキオが立っていた。黒いコートを身に纏い、その両側には武装した代行者を連れている。
自然と顔が強張った。教会にバレたのを今さら驚いているのではない。どうして奴が目の前にいるのか。それが愕きだったのだ。
「何故ここに。そんな顔しているね」
暗がりでよく見えないが、きっとその表情はニヒルに笑っているのだろう。
「君の動きなど分かる。……全て監視しているからね。だから君がレミリアの機密資料を勝手にコピーして、それを隠しているのも知っている」
その瞬間、私の抱き続けていた疑問が、明確な答えを見付けたような気がした。
私の存在がソ連当局に知られたのは……コイツが情報を流したからではないのか、と。
背筋を嫌悪感が走る。だがそれを抑えて私は聞いた。
「……貴方がソ連に通報したの?」
すると奴は喉でクックと笑った。それだけで神経を逆なでされるような強い不快感を覚える。もし疑念が本当なら、このエセ紳士のせいで私は殺されかけたことになるのだ。
「まさか。私はただ、君の捜索をソ連政府に依頼しただけだよ。勝手に嗅ぎ回られたせいで、西側との外交問題になるのは困るからね」
あっさりと認めやがった。だが"捜索を依頼しただけ"という奴の言葉は、到底信用できない。
外交問題を危惧するなら、ルビャンカの爺共もそれなりに穏便な対応を取っただろう。
しかし奴らが寄越したのは重武装したスペツナズと、大規模戦用の装備を丸ごと抱えたガンシップだった。当局が私の実力を見据えた上で、全力で殺しにかかってきたのは火を見るよりも明らかだ。
だがどうしてそんなことになったのか?
ベロッキオには別の考えがあったのではないのか?
奴はソ連に、この私を始末させようとしたのではないのだろうか。
だが、何故?
「捜索……随分と物臭ね。そのお陰で殺されかけた」
「それは予想外だったよ。いやはや正式な交渉ルートがこう言う時に困る」
奴はそう言うと肩を竦めた。
その舐めきった態度に怒りを覚えた。私の疑念にだって気付いているハズだ。それなのに、はぐらかされたのが癪に障った。
「けどまぁ、こうして再会できた。結果オーライじゃないか。さあ、早く帰ろう。朝になったら軍がやって来てしまう」
そう言うと奴は背を向けて歩き出した。
冗談じゃない、馬鹿にしているのか?
我慢の限界。怒りが湧き出すかのように、その背中に向かって私は吠えた。
「はぐらかすな!! 」
ベロッキオは足を止めた。そしてゆっくりと振り返った。
奴がタレ込んだ理由など、この際どうでもいい。
だがこれ以上の茶々入れは、絶対に許せなかった。
「この際だから言わせてもらうわ」
私はベロッキオを睨んで続けた。
「――――私の邪魔をするな。もしまた手出しをしたら、殺す。たとえあんたが相手でも容赦はしない」
両脇の代行者が素早くZUIを構えた。しかしベロッキオはその銃口を両手で掴むと制止する。そしてゆっくりと前に歩んだ。
「祖国を守る槍作戦が、そんなに気になるのかね? 夢でレミリアのことを思い出すからかな? 」
頭を強く殴られるような衝撃だった。
何故そのことを知っている?!
誰にも話したことが無いのに!!
「君を止められるとは思っちゃいないよ。でも不思議なんだ」
立ち尽くす私の前で、ベロッキオは足を止めた。
そして私の表情を覗き込むようにして顔を近づけて来る。ぶっ飛ばしてやりかった。なのに心臓を掴まれたかのように私の身体が動かなかった。
「何故君は――――そこまでしてレミリアを求めるんだろうね? 」
ベロッキオは笑った。暗い瞳のまま口元を吊り上げて。
その瞬間、私は勘付いた。
コイツは何かを知っている!
だが聞いてはならない。そう本能が告げていた。理由は分からない。だが目の前にいるこの男の、本当の姿を視た気がした。
「答えられないだろう? 私もだ」
ハ、ハ、と奴は笑った。そして背を向けると離れていく。
「"だが君のことは全て知っている"」
奴の言葉が夜空に反響した。
反射的に手が動いた。スチェッキンを引き抜くと、その背中に向かって構える。奴を逃がしてはならない。そう分かっていたのに、奴の背中が消えるまで私はなにも出来なかった。
その場に私は立ち尽くしていた。
ただひたすらに混乱し、ベロッキオの言葉が頭を離れなかった。
"君のことは全て知っている"
どうしてレミリアと私の関係を知っているのか。
一体……ベロッキオは何者なのか?
そのことばかりが頭を巡っていた。
だがいつまでも思案している暇はない。そう思って歩き出した時、足元に何かが転がっていることに気が付いた。
私はそれを拾い上げる。
それはセスナ機の鍵だった。括りつけられたタグには、モスクワ郊外のドラキノ飛行場に所属することが示されている。
ベロッキオが落した、いや用意したのは間違いなかった。これを使えと。それが脱出を示唆するモノでないことは、あの態度から容易に察しがついた。
……一体、奴は何を考えているのだ?
もしや私を利用しようとしているのかもしれない。それなら見逃したことも、セスナ機を用意したことにも納得がいく。
けど何のために……。
突如、耳の奥が唸るとフラッシュバックした。
そして紅い輝き、その中にレミリアを幻視する。
私はよろめくと呻いた。心臓が跳ねまわり、脳味噌が湧き立つような感覚に襲われる。
やがて意識が戻ると激しく息をした。そして鍵を握り締めると、顔を上げた。
「……上等よ」
私がここにいる理由、それは手掛かりを探すため。
だから今はベロッキオが何を考えてるかなんて、どうでもいい。
どんなにイワン共が邪魔をしても、ベロッキオが私を利用しようとしているのだとしても。
私はレミリアに再会してやる。
そのためならどんな手段も使うだろう。
――――"あの時、そう決めたのだから"
私は疑念を振り払うように、暗い森に向かって走り始めた。
真っ赤な夕焼けの空。
眼下の湖面は黒い廃水に濁っている。
頭上をMi-8ヒップの編隊が飛び抜けていった。
辺りには警戒サイレンが絶え間なく響き渡っている。
そして正面の対岸には、カスピ海研究所のコンクリート壁がそびえ立っている。その奥には無数の煙突や、灰色のビルが林立していた。
最後の編隊が頭上を通過する。それを確認すると私は丘の窪みから立ち上がった。偽装ネットを取り払い、傍らのAKMを手に取る。
さぁ、時間だ。
もう今度は逃がさない。
ニコライ・ヴィノグラードフ。
私はカスピ海研究所を見据えて、目を細めた。
―了―
辺りは静寂。眼下のモスクワ市街は、闇に落ちている。その中で明りをぽつんと灯す街灯達は、夜の海に浮かぶ漁船のよう。それほどまでに濃く深い闇。
しかし魔は感じない。夜空の月の、銀砂の明かりのせいではない。きっとこの街が唯物主義であるが故だろう。
良いことだ。今宵、私はこの闇を纏ってゴーストになるのだから。
鉄柵を掴んで揺さぶった。そして案の定、びくともしなかった。これならラペリング降下の重みにも耐えられるだろう。
私は軽やかな手つきで、ワイヤーを腰のハーネスに通した。それを鉄柵にも巻き付け、先端のフックで固定する。
吐息が震えた。
ショータイムはもう目の前。
そう思うと興奮が電流のように身体を駆け抜けるのだ。
鉄柵を跳び越えて、後ろ向きに立つ。そしてアパートの下に向かってワイヤーの束を放り投げた。
ドクン、ドクン。胸の高鳴り。全身にピッタリと張り付いたスニーキングスーツの中で、血潮が滾っていた。
――――始めよう。
ワイヤーを握る手を緩め、縁を蹴る。バネのように飛び出した身体は、直後、弧を描くように落下した。目の前を一気に窓が流れて行き、ワイヤーが擦れる音に混じって耳元で風が唸る。
ワイヤーを握ってブレーキを掛ける。壁が迫り、私は足を突き出した。着地。膝を屈むことで衝撃を吸収する。だが間髪いれず次の跳躍を脚筋に伝達。足裏に力を込めると壁を蹴って、カエルのように跳躍する。そして再び弧を描きながら後ろ向きで降下して行く。後は機械のように一連のリピート。
7階窓の下に着地する。この下がニコライの部屋だ。今度は慎重に降りよう。ワイヤーを緩やかに握ると、ソロソロと音も無く降りて行く。そして6階の窓枠に足を掛けると、ワイヤーを支えにしながらその上でしゃがみ込んだ。
念の為、取り付く前に窓の様子を見ておこう。
腰に下げたナイロン製のポーチに右手を突っ込む。そして手鏡を掴んで取り出した。それを股の間から窓にかざす。窓は横長だが、身を屈めれば十分入れる程度に高さはある。両開きの窓には茶色いカーテンがひかれていて、その隙間から真っ暗な室内が窺えた。
クリア。行こう。
手鏡をポーチにしまって姿勢を起こす。そして窓を跳び越すと、着地して窓ガラスと向き合った。
薄いフロートガラスが、木製のサッシに嵌め込まれている。脆弱で防犯性のカケラもないが、コイツを叩き割って証拠を残すような真似は出来ない。ニコライが私の存在に気付いていない方が、当然都合が良いからだ。
その代わり私は、窓の蝶番に目を留めた。蝶番の鉄心を引き抜けば窓ごと取り外せるだろう。
私は左手にワイヤーを絡めて姿勢を保持しながら、ポーチの中から特殊工具を取り出した。そして蝶番の鉄芯を引き抜いて行く。片方の窓の鉄心を引き抜くと、サッシを掴んで窓枠から外した。そして工具と、抜き取った鉄心をポーチにしまう。
窓枠に足を付いて立ち、外した窓を壁に立て掛ける。そして、そろりと音も無く室内へ降り立った。カーテンが舞い上がり、差し込んだ月光が床の上で白く輝く。私はハーネスを開けて、ワイヤーを身体から外した。そこは廊下で、ドアがズラリと居並んでいた。
さぁ、探し物の時間だ。
私は目の前のドアに歩み寄ると、ノブに手を掛け静かに押し開けた。
するとそこは書斎だった。
しかし立ち並ぶ本棚はどれもガラガラで、まるでインテリアみたいな雰囲気を醸し出している。
何も目ぼしいモノはなさそうだった。けれど折角なので探して見ることにした。
本棚に向かい合うと、立て置かれたファイルや本を片っ端から手に取っては見開き、ページを流して行く。訳の分からない化学式、用語……。どれもどうでも良い内容ばかりだ。だが一冊の薄っぺらいファイルを手に取り、最初のページを開いた時、そこに書かれていた1文に思わず目が留まった。
『機密 持ち出し厳禁』
私は両手でファイルを目の前にかざすと、期待に輝いた目で見つめた。
いいぞ……! 早速当たりをかましてやった。これなら「祖国を守る槍作戦」についての記述がある可能性大だ。
私は弾む手付きでページを捲った。
『カスピ海研究所』
すると、そう銘打たれた紙が幾重にも折り畳まれてファイリングされていた。広げてみると、それはかの研究所の精密な地図だった。
「祖国を守る槍作戦」のものではない。だが十分価値を感じた。コイツは頂いておこう。何かの役には立つ筈だ。
…
……
………
引き続き、私は書斎を歩き回っていた。まだ何かしらの情報はあると踏んだからだ。
すると、壁際に灰色の大きな金庫が置かれていることに気付いた。
ずんぐりとした鉄の塊は、しかし今の私には宝箱だった。これほど何かが隠されていそうなモノは他に無いだろうから。
私はそのずんぐりとした図体の前で膝を付いて、観察した。ダイヤル式だ。取っ手のところに、番号の羅列された摘みが付いている。
金庫を開けるには、破錠するしかなさそうだ。痕跡を残すのは嫌だが、中を見るためにはしょうがない。ニコライもすぐには気付かないだろうし、何よりこの中に「祖国を守る槍作戦」のタイプがあるかも知れないのだ。
でもその前に。
私は取っ手を握った。
念の為、締め忘れてないか確認だ。もし締め忘れていたら、証拠を残さないで済む。
何となくだった。期待もしてなかった。締め忘れていたらラッキーくらいの気持だった。
けれど、軽く力を込めて引いたら、あっさりと金庫の扉が開いてしまった。
「Bingo……」
思わぬ幸運に、私は全身の血潮が湧き立つような興奮を覚えた。
まさかホントに開いていたとは……。実にツイている。やっぱり私とレミリアは共に巡り合う運命なのだ。そしてその運命こそが、このツキを引き寄せたのだろう。
私は金庫の中を覗いた。
さぁ、ご対面だ――――……
けれど中には暗闇が凝縮されているだけで、尻拭き紙どころか、塵一つなかった。
肩透かしを喰らったような気分になって、先程までの興奮が波のように引いて行く。
「なぁんだ……」
そう呟くと立ち上がった。
けれど金庫が空だったくらい、なんてことはない。
私は廊下に居並ぶ無数のドア達を見据えた。探す場所はまだまだ腐るほどあるのだ。
気を取り直すと、早速私は別のドアを押し開けた。暗闇の中で、ドアが軋んで音を立てる。
しかしそこは空っぽの部屋。なので次のドアを開けたら、そこも空き部屋だった。
一抹の不安が脳裏をよぎる。だがそれはすぐに振り払えた。これだけ広いのだ。全ての部屋を使っていないのかも知れない。
3つ目のドアを開ける。そこにはベッドと衣装箪笥があった。殺風景な部屋だ。小物やインテリアなどは一切ない。とは言え、また空き部屋と鉢合わせするよりはマシだろう。なので衣裳箪笥へ歩み寄ると、箪笥を引き出してみる。しかし中は空。どの棚も空だった。
部屋を出ると、次々とドアを開けては中を確認した。
しかし3つ目の部屋同様、どの部屋も殺風景で生活感が無かった。フローリングの上に、うっすらと埃が堆積している部屋すらある。
……ここは使われていないのでは?
そんな予感がした。着替えも、まともな書類も置かれていないのだ。こんなところに、部下ですら知らない機密情報をみすみす置いておくだろうか――――
そこまで考えたところで、私は自嘲した。
ネガティブ過ぎると。
生活感が無い。ただそれだけの話じゃないか。なのにどうして「手掛かりが無い」と言い張れる?
それに忘れたか。私は運命に導かれているのだ。
「そうよ。何も無い筈が無い」
私は早速キャビネット棚に取り付いて、引き出しを開けた。
しかし中身はどうでも良いガラクタばかり。1つ目の棚も、2つ目の棚も同様だった。
ならばと、ベッドのマットレスを引き剥がした。しかし資料が隠されている訳でも無い。なので次に絵画を下ろした。裏に封筒は差し込まれていなかった。
今度はカーペットをひっくり返した。黒々とした木目があるだけだった。次々と本を手にとっては見開いた。しかしメモ書きが挟まれている訳ではない。食器棚を開けた。白磁の食器が滑らかな光を湛えていた。靴箱を開けた。カビ臭さが鼻をつくだけで一足も無かった。ロッカーを開けた。語るまでもない。開けた、ない。開いた、ない。引いた、ない。取り出した、ない。押した、ない。スライドした、ない。押し上げた、ない。掻き分けた、ない。出した、ない。動かした、ない。引き抜いた、ない。裏返した、ない。持ち上げた、ない。覗きこんだ、ない。振った、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ない、ないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないない―――――――――――
――――ない。
私は引き出しの中身を床の上にぶちまけると、荒い息をしながら見降ろした。どこに隠されているのだ? あぁ……意地が悪いわね。私がこんなに一生懸命になって探していると言うのに。かくれんぼ? だったらすぐに出て来た方が良いわよ、だって私はアナタのことをこの上なく求めてるんだから。
私は猛禽類のような目つきで辺りを見渡した。
諦めない。絶対に見付けてやるわよ?
すると昔読んだアガサ・クリスティを思い出した。そして、そう言った推理小説の常套句――――家具の奥に隠された秘密金庫を探すことを思い付く。
私は早速取り掛かった。ソファーや机を押しのけ、箪笥をずらし、壁の感触を確かめて行く。
しかしそんな物はどこにもなかった。おかしい。では一体どこに隠されていると言うのか?
そして小机を押しのけた時だった。何かが机の上でぐらりと揺らいで、落ちる。
目に飛び込んで来たそれは、花瓶。一気に全身の毛が逆立ち、咄嗟に花瓶に手を伸ばす。しかし間にあわない――――
花瓶が床で粉々に砕ける。
その音が、女の悲鳴のごとく夜の闇に反響した。破片が辺りに飛び散り、琥珀色にくすんだ水と、萎れた花が絨毯の上にぶちまけられる。
一気に血の気が引いた。
そして焦る意識を周囲に振り向ける。どうか気付かれませんように。そう願いながら。
かなりの間、私は固まっていた。けれどその願いはなんとか叶ったようだ。周囲からドアを叩く音はおろか、何の物音もしなかった。夜の静寂は相変わらず続いている。
私は深々と息を吐き出した。
けれど……もう、探す気にはなれなかった。
……認めるしかない。そう思ったからだ。
――――ここに手掛かりは無いのだと。
私は一気に脱力すると、壁に背を押し付けてずるずると座り込む。そして震える声で呟いた。
「……どうしてなの? 」
私には運命がある。その運命に私は導かれている。
……だから道しるべが断たれるハズがない。
手詰まりになることもない、なのに……。
私は滅茶苦茶に掻き荒らされた部屋を見た。
ここには何もないのだ。
「……ッ」
拳を握りしめた。
一体どうして?
運命など、ただの思い込みだとでも言うのだろうか? 初めから存在しないとでも言うのだろうか?
私は拳で壁を叩いた。
有り得ない、そんなの有り得ない!
でも、それならどうして何も見付からないのだ?! ……私が、私がこんなにも求めていると言うのに!! 吸血鬼に恋焦がれる私への、神の罰だとでも言うのか?!
その時だった。
レミリアの柔らかい笑顔が、プロジェクターから投影された映像のように、私の周囲に浮かぶ。
それを目にした時、ハッと気付いた。そして戦慄した。
……そうだ。私は根本的な事を忘れていた。
――――そもそも、レミリアは私を求めているのだろうか?
震える手が、その笑顔に向かって伸びる。
指が触れる。すると輪郭がぼやけ、やがて靄のように薄れたかと思うと、黒々とした夜の闇に消えた。
ザーッ ザーーーッ
耳の奥で、微かにノイズが鳴り響いている。
その音に誘われて、星も月もない無機質な闇の中を私は彷徨い歩いていた。
呼ばれている、とでも言おうか。自然と私の足は動いていた。
どうしてなのかは分からない。そのノイズがどこから発せられているのかも分からない。
けど少なくとも、そのノイズは不快じゃなかった。
パキッ
不意に何かが割れる音。そして足裏に鋭い痛みと、熱を感じた。
何を踏んだ? 恐る恐る足を上げて、爪先で軽く地面を擦った。するとジャリジャリと音がして、爪先に刺激を感じた。硬くて尖った物らしい。しかしこの暗闇の中では確かめる術など無い。故に爪先で弄り続けていると、不意に白い光が差し込んで、辺りが微かに明るなった。
そこは街の通りだった。全てのショーウィンドウが虚闇を垂らしていて、灰色の無機質な石畳がどこまでも続いていた。
見上げれば、深淵にぽつりと小さな光点が浮かんでいた。最初は星だと思った。しかしその光は次第に大きさを増して行き、同時に輝きも強くなって行く。その眩さは目を細める程だ。やがて光は銀色の満月に姿を変えた。ひたすら巨大で眩い月だった。
そして私は目を見開いた。
石畳の上が、一斉に煌めいたのだ。
それは通りを覆い尽くし、彼方まで続いている。鋭く、尖った輝きだった。イルミネーションやプラネタリウムとは、あまりに趣を異にした暴力的な光景だった。
私は目を細めると、その輝きを仔細に眺めた。煌めいているのは、石畳に散乱した無数のガラスの破片だった。ビーズのような大きさのモノもあれば、掌ほどの大きさのものもある。それらの鋭く尖った先端が、滑らかな表面が、月の光を宿して光り輝いていたのだ。
奇麗だった。けれどその一方で、その刺々しい無数の輝きはただひたすら無気味だった。
足元を見降ろすと、紅い血にねっとりと塗れたガラスの破片がいくつも転がっていた。どうやら私が踏んだのはこれらしい。道理で足の皮膚が深々と切り裂かれた訳だ。
そのうちの1つを拾い上げて、目の前に翳した。滑らかな表面にべったりと血が付着しているからか、そのガラスは紅色を帯びて煌めいている。
私はその血に縁取られ、ガラスに写り込んだ自分の顔を見つめた。
その時、ノイズが耳を劈かんばかりに鳴り響いた。
そして赤いフラッシュが眩き、その上に黒点や線が飛び交う。それらは何度も途切れては、再び視界を覆う。その度に私は見た。
私の顔が
私の顔が、レミリアに変わるのを――――…………
「――――っ!!!!!」
後頭部をハンマーで叩かれたかのような衝撃だった。視界がぐわんぐわんと揺れて、私は呻き声を上げるとよろめき、膝を付いた。掌からガラスが滑り落ちると石畳の上でカラカラと音を立てた。耳の奥では、ノイズが激しさを増していた。まるで大音量のスピーカーを、耳元に押し付けられているみたいに。
一体、今のは?!
訳が分からない。どうして私の顔がレミリアに? それに何故私があんなものを見なければならないのだ?!
しかし顔を上げた時、その疑問は一瞬にして掻き消えた。
巨大な真紅の月が浮かんでいた。その圧倒的な輝きが、夜空を、街を赤に染めているのだ。
そして全てのガラスの破片が、紅く輝いていた。しかし月明りを受けているからでは無い。それらは濃厚な真紅に染まり、自ら輝きを放っている。
しかしそれで終わりではなかった。
ガラスの破片が噴き上がると、赤い霧のように通りを覆う。そして商店に殺到し、真っ赤に光るショーウィンドウに変わった。そしてそこに黒々と浮かび上がる、巨大な逆鉤十字、ハーケンクロイツ。他の窓では、様々なモノクロフィルムの映像が映り出されていた。
廃墟と化した街を、小銃を担いで駆けるドイツ兵達。
夜空を照らす無数の光線、サーチライト。
バラバラと爆弾を投下するハインケル爆撃機。
青々とした草原を侵食して行く、灰色の戦車の群れ。
道端に立って熱狂的な声援を送るドイツ人の群衆。
そして彼らを堂々と見下ろすアドルフ・ヒトラー。
ナチス!
私は驚愕し、そして思い出した。そうだレミリアにはナチスとの繋がりが存在した。だからこんな物が見せられているのか?
だが、どうして私がここに? この街並みはなんだ? 散乱したガラスは何かを暗示しているのか? 目の前の映像はなんだ?
ノイズはいよいよ耐え難いまでに音を増し、頭が割れそうだった。私は呻くと頭を抱えた。
そもそもこのノイズも何を意味しているのだ?! 何の目的があって私を誘うのだ?! どうしてここまでして存在を主張するのだ?! 私に何を訴え掛けようとしているためか?! それともただの雑音なのか?! もしくは誰かのメッセージなのか?! 一体何なのだ!!
その時、全ての窓がレミリアを映し出した。
私はそれらの光景を見上げた。そして思わず痛みすら忘れ、呆気にとられて立ち尽くした。
気が付いたのだ。
――――ノイズが、レミリアから発せられていることに。
「――――ッ!! 」
私は叩き起こされる様な衝撃と共に、ベッドから跳ね起きた。
心臓はまるでフォードの8気筒ごとく暴れ回り、身体は熱病のように火照っていた。べっとり汗を掻いたせいで、ショーツが蒸れている。
辺りは薄暗く、しんと静まり返っていた。そこにはもう街も無ければ、ナチ共もいない。ノイズも既に耳にはなかった。
私は肩を上下させながら、辺りを見渡した。するとぼんやりと光る非常灯が目に付いた。そしてその灯りに照らされて、テーブルの上に一冊のファイルが置かれていることに気付いた。
あれは……カスピ海研究所の機密資料だ。拝借したのを、帰って来てから読み漁っていたのだ。内容を覚えるために。……と言うことは、ここは私の泊っているスイートルーム。
じゃあ、さっきのは、夢……?
「……えぇ、そうよ。けれど……」
アレがただの夢だとは思えなかった。
散乱したガラスの破片。ショーウィンドウに映ったナチスと映像。
一体、アレはなんだったのか。
私は額に手をつくと、溜息を漏らした。
分かりもしない。頭の中がぐるぐると渦巻いていて、そもそも考えを巡らせるような状況でも無かった。
――――けれど、分かることが1つだけあった。
私は顔を上げた。
それはレミリア<ノイズ>が、私を呼んでいたと言うこと。
ノイズはレミリアから発せられ、そのノイズは私を誘っていた。
だから夢の中で、私はレミリアに求められていたのだ。
「都合が良すぎるわよね。……でも」
レミリアに求められる。
それは、たとえ夢の中での出来事であったとしても、手掛かりを失い意気消沈していた私の心を、微かに湧き立たせた。
そして夢であるが故に、口惜しさも覚えた。
こっちでも、レミリアが求めてくれてたらいいのにな、と――――。
溜息を吐いた。そして再びベッドに身を投げ出す。ぼふっと枕が潰れ、スプリングが軋んで音を立てた。
それにしても、あの夢はなんだったんだろう。
ガラスの散乱した通り。
一面の紅。
ショーウィンドウのナチス。
そしてレミリアから流れるノイズ。
それらが示す意味も、私があんなものを見る理由も分からない。そもそもレミリアとの記憶が無いのだから。
私は瞼を閉じた。
……あぁ、嫌になる。
何も分からない、手掛かりもない情報も無い。あるのは夢だけで、そればかりが膨らむ一方。肝心の探し物には何の進展も無い。そんな現状が。
運命を疑うつもりはない。
けれど運命とは繋がりであって、導くモノではないのかもしれない。今夜の出来事から、そう感じるようになっていた。
……だからウジウジしている暇はない。自ら動き、新たな手掛かりを見付けなければならないのだ。
だが問題はそこだ。
手掛かりを探すにもアテがない。単純だが致命的、0からのスタートだった。
どうすれば祖国を守る槍作戦の全貌を知ることが出来るのか。部下ですら殆どを知らず、また住居にすら手掛かり1つ無いと言うのに。しかも今の私に、これからどうするかなんて分かりもしないのだ。
私は溜息を吐くと、寝返りを打った。
だから今の私に出来るのは、せいぜい身体を休めることくらい。そしてそれは、なにも出来ずに足踏みしている自分への怠惰な言い訳でもある。
生まれて初めてかもしれなかった。何も出来ないことが、こんなにも悔しいだなんて――――……
……
………
…………
しかし一向に寝付けなかった。
私は呻き声を上げながら寝がえりを何度も打った。
あんな夢を見たせいか意識が研ぎ澄まされ、汗を掻いた為に体中が気持ち悪い。それらが睡魔の波を阻んでいたのだ。
私は溜息を吐いて、身体を起こした。
しょうがない。寝る前に、シャワーでも浴びよう。
ベッドから降り立つと、枕の下に手を滑り込ませる。そして隠しておいたワルサーPPKを掴み取ると、乱れた髪を手櫛で梳きながら、シャワールームへと向かった。
きゅっ
蛇口を捻るとシャワーヘッドから水滴が噴き出した。
足元で弾ける水は、まだシベリアの雪解け水のような冷たさを持っている。
しかしその冷たさは、私の気分を幾分かすっきりさせる。私はガラスに隔てられた脱衣所に戻ると、御影石の洗面台の上にワルサーPPKを置いた。黒々とした鉄のフレームが、コトリと無機質な音を立てる。そして私はその場にショーツを脱ぎ捨てた。
シャワーが温まって来たのか、浴室に湯気が立ち昇りはじめていた。それはガラスと鏡を白く曇らせていく。
浴室に足を踏み入れると、露出した肌がお湯の温かさに包まれた。
もう良いだろう。私は噴き出すお湯に、その身を晒した。
ベトナムで日焼けし、仄かに褐色を帯びた肌の上でお湯が弾け、ボディラインに沿って流れ落ちて行く。
ぼーっと灯りを見上げながら、その温かで柔和なお湯の感覚に私は身を委ねた。張り詰めた意識が解きほぐされ、心が鎮められて行く。
けれどこのやり切れなさと虚無感までもを、流し落とすことは出来なかった。
――――求められていたい、レミリアに……。
私を満たせるのは、ただその想いのみ。
求めて欲しい、求められたい。片想いなんかじゃなくて、お互いの気持ちが繋がっていて欲しい。落ち着くと、そう思わずにはいられなかった。
石鹸を掴むと泡立てた。
掌がふんわりとした泡に包まれる。柔らかな石鹸の香りが仄かに漂った。
そしてその手を、ゆっくりと肌の上に滑らせる。
褐色の上を、白い泡の軌跡が染めていく。
弓なりに反ったウエストラインの上に、泡を薄く引き延ばす。
肩のふくらみから、二の腕に向かって石鹸を這わせると、筋肉の緩やかな起伏に波打った。
もしレミリアが、私を求めているとしたら……私の何を求めているのかな。
腕の上で掌を滑らせながら、ふとそんなことを思う。
しなやかな筋肉を纏った脚?
桃色の蕾を付けた、小ぶりな胸?
それとも私の蒼眼?
……いいや、違う。
私は傍らの鏡に写る、泡に塗れた自身の裸体を眺めた。
きっと『全部』だ。
アナタを満たせるのはワタシだけ。
この魂も肉体も、全てがレミリアのためだけにある。
だから触れて欲しい、味わって欲しい、求めて欲しい。
アナタを満たす器は私だけだから――――
蛇口を捻ってお湯を浴びる。
降りかかる温かさが、肌に纏わりついた白い泡を、舐めるように流し落として行く。
紅潮した細い指先を、濡れて艶を帯びた肌の上で踊らせた。
その指に、レミリアを重ねながら。
ピアノを叩く様な、軽やかな指使い。
そのリズムに、私の心は弾んで行く。
感謝すべきかも知れない。
レミリアは与えてくれたのだから。
どんなに男に縋られ、貪られても、何も感じなかった私に「求めること」を。
掌で、つんと上向く乳房を掬う。するとそれは微かなこそばゆさを伝えて、たゆんと揺れる。
そして首筋に、桜色の爪を立てると喰い込ませた。
そう、まるで純白の牙のように。
「ぁ……は……」
鈍い痛み。
けれども、私の身体は震え、吐息は熱を帯びた。
指を離すと、首筋に深々とした爪痕が残っていた。それは赤く充血し、まるでキスマークを連想させる。そしてそこから発せられるじんじんとした熱に、私の奥は疼いた。
――――ジリリリリーン!!
突如、電話のベルがけたたましく鳴り響いた。その途端、夢から醒めるみたいに先程までの心地よさが霧散してしまう。
Damn it……。
クソ喧しいベルの音に、私は深々と溜息を漏らした。
イイ気分だったのに水を差しやがって……。一体こんな夜中に何の用だ?
蛇口を捻ってシャワーを止めた。そして髪を乱暴に掻きあげ、水滴を撒き散らしながら洗面台に歩み寄る。
「はいはい……。今出るわよ」
濡れそぼった手でワルサーPPKを掴むと、裸のままリビングに出た。そしてイライラとした足取りで電話に向かう。どうせフロントからだろう。「シャンパンでもどうですか」って。ふざけてる。苦情を入れたらさっさと切ってやろう。私は受話器を引っ掴むと、耳に押し付けた。
「――――あら、やっと出た。遅かったわね」
けれど電話口から飛び出したのは、身に覚えのない、やけに馴れ馴れしい声。
その声に、私は思わず面喰らった。
「ねぇ、何してたの? 」
……声に覚えは無い。それにどうして私がここにいるのを知っている? 足取りの隠蔽は完全だったはずだ。教会にすら行き先は告げていない。
……KGBか?
不意にそんな懸念が脳裏を過ぎる。
だが慎重さと計算高さを兼ね備えたルビャンカの番人達が、こんな大胆な真似をするだろうか? ファイルの厚みを増やすことが、良くも悪くも彼らの通常業務なのだ。ましてや私は正真正銘の修道女。潜入しているとは言え、彼らの大嫌いな工作活動をしている訳でもない。
私は電話線にチラリと目をやった。
だがいずれにせよ、ガールズトークと洒落込むつもりはなかった。居場所がバレた以上、ここに一秒たりとも留まる訳にはいかないからだ。
そして電話線に手を伸ばした時だった――――
「――――この電話を切ったところで、何も変わらないわよ? 」
伸ばした指先が静止する。まるで糸で引かれたみたいに。
そして素早く辺りを見渡した。だが監視カメラや覗き穴は存在しないし、第一私が気付かないはず無い。
「大丈夫。カメラで見ている訳ではないわ」
お前は掌の上だと言う、女の意思表示。まるで誰かに見られているような、不気味な感覚が背筋を走る。
……コイツは一体、何者なのだ?
「……誰? 何者なの? 」
すると向こうの電話口で、息が断続的に噴き出される音がした。このメス豚野郎、鼻で笑ってやがる。
「……マリア様よ」
センスの欠片も無いジョーク。だが少なくとも、女に正体を明かすつもりが無いのはこれで明白だった。電話でコンタクトしたのもその為だろう。
「糞喰らえ」
私がそう言うと、女はクスクスと笑った。
「元気そうで何よりね。なかなか出ないものだから、もう死んでるかと心配だったの」
皮肉か、それとも含みのある言葉か。その口車に湛えられた妙な雰囲気のせいで、そのどちらとも取りようが無い。
「それは用件に関わることかしら」
「まあ、そうね。……ふふ。死の雰囲気。貴方なら、その狼みたいな鼻で嗅ぎ分けられるでしょうけれどもね」
女はまるで小馬鹿にするような、あっけらかんとした口調で言う。
『貴女なら』
その言葉が心に引っ掛かり、私は訝しげに目を細めた。もしやこの女は……私のことを知っているのか?
少なくとも私の居場所はバレている。だからその可能性は大いにあり得るだろう。それ自体は別段驚くことではない。
問題は私をどこまで知っていて、それをどう知ったかだ。
「用件を聞きましょう」
気を取り直して私は訊いた。
どうにかしてこの女をこちらのペースに乗せなければならないようだった。
「信じるか信じないかは別だけれど?」
「言葉遊びに付き合う暇はないわ」
女はクスクスと笑う。そして楽しそうに言った。
「急かさないで頂戴。―――今更急いだところで、もう無駄なのよ? 」
その時だった。
ヘリの重々しいローターの唸りが、微かに聞こえた。
顔を上げる。音は辺りを震わせながら、こちらへ迫り来ていた。
カーテンの隙間から、暗幕をひいたかのような夜空を窺う。しかしそこにヘリの姿は無く、ローターの轟音が聞こえるのみ。
だが胸騒ぎがした。
ニューヨークのハーレムにも、こうして夜中にヘリが飛び交っていた。それは大抵、都市の闇影に潜むレイプ魔やヤクの密売人を上空から炙り出すためだった。
「……どうして無駄なのかしら? 」
そして何より、今夜は訳の分からない女から電話が掛かってきている。――――ただの遊覧飛行ではない。そんな気がした。
それを汲んだのか、女は答える。
「私はアカの工作員じゃないわよ。居場所を当局に伝えたりもしていない」
クズほどの重みもない言葉。だが今はそんなのどうでも良かった。
窓が音を立てて揺れる。ローターの撒き散らす音が耳喧しかった。
私は暗闇の中に目を走らせる。だがどこにもそのシルエットは窺えない。だがすぐ傍にいるのは間違いなかった。その音がデカくなる勢いから察するに、かなりの高速なのだろう。
なら一体どこにいる?
どうしてその姿が現れないのだ?
不意に頭上でジャラジャラ音がした。宙を仰ぐとシャンデリアが揺れている。天井が震えているのだ。ヘリの振動に――――
「―――――まさか」
ここはホテルの最上階。この天井を隔てた真上に屋上がある。
そこにヤツが飛んでいるのだ。爆音を轟かせながら、この私の頭上で。……その理由は考えるまでもない。
「あら、やっと気付いたの。敵さん、貴女のことを上と下から締め上げるつもりよ? 」
私は床に置かれたアタッシュケースに鋭く目をやった。
「それが用件ね? 」
「えぇ。内務省のスペツナズ共が、貴女を殺しに送り込まれて来たの」
その直後、目の前にずんぐりとした巨大なシルエットが降り立った。そしてホバリングをしながら、窓にサーチライトを照射する。圧倒的な光量が視界を白く遮り、私は眩しさに目を細める。逆光に照らされてその姿はよく見えなかったが、最早確認するまでもなかった。
そして女が囁くような声で言った。
「――――幸運を。オリヴィア」
それを最後に、受話器の奥から全ての音が消えた。
「……なるほど」
私は受話器を置いた。
全てがクソだった。これほど最悪な状況などかつて無かった。
理由なんて分かりもしない。けれど何もかもが見透かされていたのだ。私はずっとずっと掌で弄ばれていたのだ。
いつもの私なら笑っていただろう。自身の間抜けさを。だが今は自責している時ではない。レイパー共がカラシニコフ携えて、この部屋を目指して這い上がって来ているのだから。
アタッシュケースを蹴り開け、手早く装備を身に纏う。ホルスターを大腿に縛り付けると2挺のスチェッキン拳銃を差し込み、マガジンポーチも引っ掛ける。そして黒いワンピースドレスに袖を通してシューズを穿いた。
不意に心の奥がむず痒く感じた。漏らした息は震えている。
……もしかして私、興奮してる?
最後に残った2挺のスコーピオンが、ケースの中で黒く光っていた。それを握ればコッキングレバーを引く。その「カチャリ」とした音が、なんだか耳に心地よかった。
あぁ、間違いない。私はこの状況に高揚している。その理由もすぐに察しが行った。私とレミリアの運命が試されている時なのだ。抗わずにはいられないだろう?
突如、荒々しくドアノブが回された。
「(ここだ!)」
そして大量の足音がドアの向こうに押し寄せると、ドンドンとドアが激しく揺れて軋みを上げた。
私は両手でスコーピオンのグリップを握り締める。
「えぇ、やってやろうじゃないの」
これは私の運命。
誰にも変えさせないし、邪魔はさせない。
――――だから、皆殺しだ。
衝撃が蝶番を吹き飛ばした。
同時にドアへ突進し、床を蹴って跳躍、ありったけの力を込めた右脚で蹴り飛ばす。そのまま廊下へ躍り出ると、スペツナズのど真ん中で宙を舞った。
「де...?!(な…?! )」
奴らが銃口を向けるより早く、私は両腕のスコーピオンを突き付けトリガーを引いた。猛烈に吐き出される32ACP弾を浴びて周囲の男共が一斉に崩れ落ちると同時に、辺り一面に薬莢と血雫が乱れ飛んだ。
着地と同時にスコーピオンのボルトが停止した。私はそれを折り重なる死体の上に投げ捨てる。
「Иди,иди!(行け行け! )」
奥の曲がり角から騒がしい足音が聞こえた。10人程度だろうか、真っ直ぐこちらにやって来る。
私は目を細めると、足音の方へ一直線に駆け出した。
あの人数と正々堂々撃ち合うのは御免だ。懐に殴り込んでやる。
角のすぐ手前からスペツナズが姿を現した。その瞬間、爆ぜるように身体を躍らせるとアホ面を爪先で一撃。派手に蹴り飛ばして奴らの眼前に着地する。スカートが派手に翻り、レッグホルスターからスチェッキンを引き抜いて両手に握った。
「Пожар!Пожар!(撃て! 撃てぇ!! )」
奴らが一斉に銃口を向け、私は腰を屈めて突進する。雷光のようにマズルフラッシュが瞬き、無数の閃光が背筋を掠めた。だが当たらない弾など意識の外。スチェッキンを突き出し至近距離で乱射すれば、真ん中の男が吹き飛びスキマが生まれた。すかさずスライディングすることで男共の中心に滑り込む。
敵の反応は2つ、後ずさる者とその合間から狙いを定める者。脅威は後者だが、大男達が密集して動き回っているがためにその銃口はウロウロとさ迷っている。
私は獰猛に勝利を確信した。
「Это нарушение!(邪魔だどけ! )」
掻き分けるように2人がAKを構えた瞬間、その顔に鋭く銃口を突き付けて撃つ。即座に身体を捻って半回転、両脇で銃口を突き付ける男共も撃ち抜いた。ノロマな案山子だ。前後に寸断された男共がようやく銃口を向けた。反撃は不可能、床を横転することで激烈な銃撃を回避。素早くバック宙で跳ね起きると一回転し、突き付けられた銃口にスチェッキンのスライドを叩きつけて射線を反らす。外れ弾が両側の男共を貫き、私は両腕を交差すると残りも撃ち抜いた。そのまま間髪いれず正面の生き残りに肉薄する。強張る彼らの表情。
「Монстр...!(化け物が……!)」
鼻先に銃口が突き付けられ、反射的に身体を捻ると熱い火線が頬を掠めた。そのまま男の右目に銃口を突き付けトリガーを引く。弾けた頭の後ろから次の銃口が突き出され、それを片手で押しのければ右手のスチェッキンを押し付けて撃つ。だが崩れ落ちる男の背後から残りの2人が突進して来た。
「Ураааааааа!!(ウラアアアアア!!!!! )」
もはや肉弾戦しかないと自棄になったのだろう、雄叫びを挙げながらナイフを掲げている。
咄嗟に私は右足をぐっとたわめ跳躍した。突き出されたナイフがはためくスカートをするりと突き抜ける。天井が高くて幸いだった。その擦れ違いざま、両足を男の肩に押し付けて蹴り押した。男が前のめりに崩れ落ちる。そして2人目の眼前に着地すると、その両眼に銃口を抉り立てて撃つ。男は吹き飛びスチェッキンがホールドオープンする。
だが倒れた男が再び咆哮しながら迫っていた。リロードする暇は無い。
振り下ろされた白刃をスライドで受け止め、銃を傾ける。刃がスライドを滑り落ち、男が前のめりになった。その顔面に鋭く銃口を打ち込む。男がよろめけば間髪いれず身を翻し、勢いよく銃底で顎を砕く。そのまま再び回転、蹴り上げた踵をこめかみに叩き付ける。男は横に吹き飛ぶと倒れた。落ちたナイフが床で跳ねて音を立てた。
そして辺りは静まり返った。
硝煙が廊下に立ち込め、明かりを白く曇らせていた。紅絨毯の上には薬莢が散乱し、至る所に血塗れの男共が転がっている。
ふと頬を生温い液が伝い落ちていることに気が付いた。私は頬の傷を指先で拭うと、小さく鼻で笑った。
コレだけか。
スペツナズは想像以上にぬるい相手だった。あんなのがスペシャルフォースなどとは。イワン共は随分と張り合いがない。
私は指先にねばりつく血汐を振り落とした。そして死体を踏み越えるとエレベーターに歩み寄る。そのボタンを銃口で叩いた。
だが戦う相手としては悪くない。お陰で遠回りをせずに済みそうだから。私は中に乗り込むと"1階"を指定する。程なくしてエレベーターが動き出した。
さて……ここを出たらどうしよう。
私は銃底のレバーを押して、マガジンをスチェッキンから引き抜くと床に落とした。肉抜きされた空弾倉が、カラカラと軽い音を立てて転がる。
当然のことながら行くあてはない。……何一つ手掛かりを掴んでいないのだから。
新しいマガジンを叩きこみ、ストッパーを押し上げてスライドを戻した。その一連の動作を、同じく片方のスチェッキンにも行う。
希望は失ってはいないし、悲観する気もない。レミリアへの想いは揺るがないし、その為ならどんな脅威だって排除してみせる。
けれど現実を冷静にとらえれば、想いをどんなに強く持ったところで何かが解決するわけではない。手掛かりがなければ何も出来ないのだ。
だから考えるんだ、オリヴィア。この状況で導き出せる最善の選択肢を……。
その時、カスピ海研究所の地図が脳裏をかすめた。そして覚えこんだ内部の構造が克明に浮かび上がる。だが"その選択肢"を私は振り払った。
リスクが高過ぎるのだ。
資料によれば、あそこは重武装の1個師団に警護されている。おまけに最新式のセキュリティ設備と来たもんだ。色々な面倒もすっ飛ばせるとは言え、そんな自殺的な選択は正直なところ取りたくない。まさに命あってのなんとやら、だ。教会に隠すことだって不可能だろう。
そこまで考えたところで、私は溜息を吐いた。
……だけど、他に選択肢があるのだろうか?
手掛かりもない、情報もない。そんな状況でヴァチカンに帰ったところで、事態が好転するとは思えない。幸か不幸かこのアカい国は非常に臭う。そしてなにより、カスピ海研究所には最大の手掛かりであるニコライ博士がいる――――
それでも、この機会を逃すのか?
苦悩した。脳内でドロドロの液体がせめぎ合っている。
スーパーを強盗するのとは訳が違う。一か八か、もしくはそれ以下の成功率だ。
……だがチャンスを逃したくはない。絶対にレミリアと再会する、そう誓ったのだ。だから恐れてはならない、躊躇うことは許されない。それは分かっている。
けれど―――――……
――――ゴォン!
突如、エレベーターが急停止すると揺れた。私はその衝撃によろめいて背を持たれる。見上げたランプは30階で止まっていた。
……閉じ込められた? そう思った直後、エレベーターが開いて身体を隅に寄せる。
だがお約束の銃撃はなく、辺りは静まり返っていた。
なので注意深く外を窺うと、そこは広々とした展望ホールだった。人影はない。一面に張られたガラスは漆黒の夜空を写している。
身体を引っ込ませると再びボタンを叩いた。しかしエレベーターが動く気配はなく、不意にその照明が消えた。奴らが止めたのだろう。私は溜息を漏らすと外へ出た。
まだイワン共はやり合うつもりなのだろうか。だとしたら愚かな連中だ。あんな温い奴らをいくら揃えたところで、私の前には無力だと言うのに。
そしてホールの中央で足を止め、何気なくガラス越しの夜空を眺めた時だった。
重々しいローター音が聞こえた。夜空の彼方に黒いシルエットが浮かび上がる。
……さっきのヘリだ。
その影は緩やかに迫ってきた。次第に輪郭があらわになっていく。それを目にした時、なんとなく嫌な予感がした。エレベーターを停止させたことと言い、なんらかの意図を感じるのだ。
けど一体、なんのために?
ローターの生み出す風圧に、ガタガタと窓が震え始めた。
あのヘリが人知を超える何かだと言うことは無いだろう。だが得体の知れないモノはやはり不気味だった。纏った闇の中に何を隠しているかなんて分かりもしないのだから。そう、まるで吸血鬼のように。
やがて闇からその姿が浮かび上がった。
見たこともない、巨大でずんぐりとした機体。その黒々としたキャノピーが、私を見据えるかのようだった。
アレは!
その両脇に吊り下げられた武装に、私は目を見張った。蜂の巣のようなロケットポッドに最新式の対戦車ミサイル。まさかこいつは、ソ連の新型……ガンシップ?!
機首の機関砲がゆっくりと旋回する。そしてピタリと照準を合わせた時、私は気付いた。
――――これは、罠だ!!
私は走った。その直後に空気を震わせるような轟音。ガラス片が雨水のごとく降り注ぎ、周囲を暴風のような火線の奔流が荒れ狂う。
「ッ!! 」
咄嗟に柱へ滑り込んだ。閃光がバーカウンターのスコッチを薙ぎ払う。椅子や丸テーブルが軽々と吹き飛び、周囲の柱が崩れ落ちると白い粉煙を舞い上げる。この柱にも当たったのだろう、幾度となく鋭い衝撃が背中を打って息がつまった。そこへ追い打ちとばかりに熱いガラス片が降り注ぐ。回避も儘ならず、私は両腕で顔を覆うと刺すような痛みに耐える。腕の隙間から頭上を窺うと、シャンデリアのランプが弾け飛んでいた。その直後、火花を散らしながらショートする。闇に落ちたホールの中をフラッシュを瞬かせながら無数の曳光が突き抜ける。……やられ放題だ。
シャンデリアに機銃弾が直撃、その支柱がへし折られる。四方を繋ぐワイヤーが張りつめるとキリキリと軋んだ。宙に浮いたシャンデリアが小刻みに震える。いずれその重みに落下するだろう。だが周囲は暴風雨。ここにいても下敷きだが、動けばたちまちミンチ肉だ。
「…Fuck!」
細いワイヤーが千切れて跳ねまわり、辺りに目を走らせた。だがその前を荒れ狂う激流が押し流す。逃げ場はない。けれどこのまま圧死なんて絶対に御免だ! 何が何でも生き残ってやる、レミリアのために。しかしこの状況でどうすればいい――――
ワイヤーが一斉に吹き飛ぶ。そして私は気が付いた。もはや運命に祈るしかないってことに。
シャンデリアが落下すると反射的に目を閉じた。その直後に轟音。床が震えると銃撃が途絶えた。
……死んだ?
私は恐る恐る瞼を開いた。けど私みたいなクズは地獄ですら願い下げだったのだろう。鼻先で無残にひん曲がったシャンデリアが鎮座しているのを目にした時、思わず肩の力が抜けるのを感じた。けど幸運を喜ぶ暇はない。本当の地獄はまだ終わっちゃいないのだから。
ローター音が轟くと、ウェスタンみたく砂塵が吹きあがる。そして辺りをサーチライトが照らした。
……クソッタレ。
私は髪にかかった粉片を払うと唾を吐いた。下品な男共に散々弄ばれたかのような気分だった。自身の楽観さも腹立たしかったが、イワン共に痛めつけられた事実はそれ以上に屈辱的だったのだ。出来ることなら今すぐ叩き落としてやりたい。だがあの重武装を前にして、拳銃2つではあまりに無力だ。手も足も出ずに犬死にするだろう。もはや逃げる他なかった。
私は右奥にあるフレンチドアを見据えた。距離は約20メートルと言ったところ。その周りをサーチライトが行ったり来たりを繰り返している。私はその光が離れて行くのを静かに待った。
やがてサーチライトが離れていく。
今だ。私はドアへ疾駆した。ガレキだらけの床を蹴り、ソファを飛び越えホールを駆ける。そしてドアへ迫ったその時だった。
目を覆うようにサーチライトが照らされる。その圧倒的な光に背筋が凍った。
気付かれた!
奴らが見過ごすハズがない。きっとあの猛射が襲いかかってくる!
スチェッキンを乱射すると、放たれた銃弾がドアノブを吹き飛ばした。そして蹴り開けた直後、重々しい唸りを上げながら背後を無数の機銃弾が掠める。
Fuck! 今のは危なかった!
そのまま廊下を走るとローターが唸る。ヘリが動き出したのだ。
空気を震わせながら、放たれた火線がバリバリと窓を薙ぎ払った。光とガラスの津波が背後から押し寄せる。
しつこい奴らだ!
曲がり角でぐっと力むと、飛び出すように方向転換。ガンシップが爆風を吹き散らしながら飛び抜けて行く。
……まけるか?
私はガンシップを目で追った。ヤツは上空で急旋回をする。そしてこちらにキャノピーを向けると、ロケット弾を噴射した。その白煙が横一列に連なり、真っ直ぐこちらへ突っ込んで来る――――
――――動きが読まれている!!
身体をバネのように蹴り出した。耳をつんざくような爆音。その激しい衝撃に背中を圧される。
そのまま跳びはねるように廊下を走った。破片と熱を撒き散らしながら轟音が迫る。だがトランポリンみたく地面が揺れるせいで上手く走れない。蹴り出す度に失速して行く。
壁が砕けて視界が霞んだ。吐瀉物が喉をせり上がる。それを必死に飲み下しながら、チクショウ、畜生!と脳味噌がグルグル動転していた。
このままじゃ滅多撃ちだ!
だがやり過ごせる場所がなかった。延々続く細い廊下に遮蔽物は見当たらないし、ずらりと居並ぶドアを開ける隙もない。
だがここまで来て"BAD END"になるものか!! 何がなんでも生き残ってやる――――……
その時だ。
10メートルほど手前でドアが開いた。その中からスペツナズが飛び出して来る。
アレだ!! 間に合え……!
荒れ狂う爆風にビビったのか男は後ずさった。攻撃を知らされていないのだ。
「アアアアアアアアアアアッ!!! 」
叫ばずにはいられなかった。全身の力をフルスロットして走る。その気迫と爆風にスペツナズが遁走した。
失せろザコ!!
爆風と破片が身体を打つ。天井が崩れて降り注ぐ。周囲にロケット弾が突き刺さる。だがドアは目前だ!!
その時、バシッと鋭い衝撃に吹き飛ばされた。目の前がゴロゴロとひっくり返って、白い粉煙が辺りを覆う。視界がぼやけて霞むと耳の奥がごうごうと唸った。
起き上がるとよろめいた。身体が岩のように重い。支えるように手をつくと激痛が走った。右腕が焼けるように痛んでいる。
……やられた?
ゆっくりと傷を見た。上腕がえぐられるように深々と裂かれ、そのギザギザとした傷口から鮮血が滲み出ている。
ロケットの破片を喰らったのだろう。傷は深い。だが出血は見た目ほどひどくはなかった。これなら応急処置で何とかなる。
私は壁に背をもたれると、スカートを引き千切った。そしてできたシルクの包帯を腕に巻き付けていく。傷口を覆うとその片方を噛んで押さえ、強く縛った。
……傷は何とかなりそうだ。右の視界がぼんやりと赤いが大したことはない。流れ出た血が染み込んでいるのだろう。耳もよく聞こえないけど鼓膜は破れていなかった。すぐに復活する。だが下の部分は……。
傷口を押さえて深呼吸をした。そして壁に寄りかかりながら恐る恐ると立ち上がる。
だが突然、くらりと地面が揺れる。そして地面に引っ張られるみたいに重みが圧しかかった。身体がよろめいて膝が笑う。
頼む、動いてくれ……!
けど身体はズルズルと落ちていく。やがて耐え切れずに膝をつくと転がるように倒れた。
……ダメだ、動かない。
私は舌打ちした。
あの爆撃のせいに違いない。破片にめった打ちされたお陰で、私の身体が麻痺しているのだ。でもそれなら……
私は力を振りしぼり身体を前に引き摺った。埃塗れになりながら、ガレキを掻き分けて這う。
……私は呑気にへばっているつもりはない。何がなんでも逃げ切ってやる!
だがその時だった。
強い風が吹いた。辺りの煙が渦を巻きながら、ゆっくりと薄らいでいく。その隙間からサーチライトが差し込むと心臓が早鐘のように鳴り響いた。
――――ガンシップ野郎だ!
「クソッ……!! 」
恐怖が本能的に背を押した。走るために腰をあげると転倒する。立ち上がろうとしても力が入らなかった。
…クソ! 動け、動け、動け!!
ガレキに身を打ちつけながらジタバタともがいた。その度にガラス片が肌を切り、痛みが身体中を走る。
やがて私を嘲笑うかのように煙が晴れた。そして目の前にガンシップが現れる。そのサーチライトが這いずる血塗れの私を浮かび上がらせた。
私は唇を噛んだ。錆鉄のような生臭さが口の中に広がる。
――――逃げ切れない。時速300キロの巨体から這って逃げるなど不可能だ。
なら戦う? 名案だ。じゃあ早速スチェッキンを探そう。ついでに対空ミサイルか高射砲でも見付かったら最高なのに、クソッタレ!!
私はガンシップを睨んだ。ホバリングしながらサーチライトを照射している。
呑気な野郎だ。あの猛火を生き残った私に驚愕しているのか、それとも必死に足掻く私を冷笑しているのか。今となってはどちらでも良かった。パイロットが操縦桿の射撃ボタンを押せばそれだけで私は――――
「……冗談じゃない!」
私はその考えを振り払うと、身体をズルズルと引き摺った。
私が死ぬはずない。
私が死ぬなど信じられない。
だって私は運命に導かれていて、運命がそれを裏切るなど有り得ないからだ!
だがその時、想いを砕くかのように機関砲が轟いた。
周りでガレキが弾け飛び、身体が軽々と吹き飛ばされる。
なんとか四肢は繋がっていた。けど息ができなかった。身体をしならせて喘ぐと、真っ赤な血をバシャッと吐いた。すぅっと意識が遠のいて目の前がぼやけて霞む。血だまりの中に小さな肉片がポツポツと浮かんでいた。
……どうして?
目の前の光景が理解できなかった。
だってレミリアを求めているのに。
だって運命が求めているのに!
……なのに、私は死ぬのか?
暗闇へ意識が落ちていく。
爪先から冷気が広がっていく。
その感覚に私は震えた。
しかしそれは死が怖いからではない。
レミリアと会えなくなるのが恐ろしかったのだ。
ここで孤独に終わるのか?
レミリアに会えないのか?
私の運命は断たれてしまうのか?
そう考えただけで気が狂いそうになるのだ。
死にたくない、終わりたくないと生を渇望せずにはいられないのだ。
いやだ……。いやだ、いやだ!
私は駄々っ子のように叫ぶ。
もっと生きていたい。
もっと、想っていたい……。
会いたい。レミリアに、会いたい……!
なのに墨黒の液体がドロドロと辺りを蝕んでいく。
腕の痛みも口の血なまぐさも消え失せていく。
やがて光が断たれるように、私の意識も途切れて堕ちた。
……寒い。
闇が覆っていた。
それはただひたすらの黒で、寒くそして無機質だった。
その深淵に、私はゆっくりと沈んでいる。
……これが、死。
どこまでも孤独。
そしてどこまでも冷たい全ての終点。
死が誘うことはない。だけど死を拒むこともできない。……私は、死にたくないのに。
だからきっと、諦めていたのかもしれない。
もうレミリアに会えないって。
死の前に運命など無力なんだって――――
その時、闇の中になにかが浮かんだ。
それは遠い彼方でキラキラと輝いている。
……なんだ?
私はその光をぼーっと眺めた。
地獄からのお迎え?
それとも幻影か?
すると吸い込まれるみたいに私の目は釘付けにされる。
光の中にレミリアが視えたのだ。
彼女は優しく微笑んでいる。それは果てなきアヴァロンのようで、私は希望を感じた。
……会いに、来てくれたんだね……。
私はその輝きに手を伸ばした。
けどそれはあまりにも遠い。
想うにも儚くて、求めるにも高嶺だった。
それでも求めずにはいられない。死に際した私には、もうアナタに縋ることしか出来ないから。私はアナタを諦められないから……。
……でも、どうすれば届く?
分からなかった。
死ねば会えるだろうか?
死後に本当の世界があって、そこでレミリアが待っているのだろうか?
それならもう……終わりにしても良いかもしれない。
だって会えるかなんて分かりもしないのだ。
それなのに、長い戦いを続ける意味なんてない。
私も疲れた。
たとえ死んだとしても、レミリアと一緒になれるならそれで良かったのだ。
だから……もう、終わりにしよう。
さぁ、取って……。この手を、レミリア――――
すると差し伸べた指の先で、レミリアが消えた。
激しい嫌悪と死への拒否感。
それが濁流のように身体を駆ける。
……そんな、いやだ。消えないで!!
私はがむしゃらに手をもがいた。
このまま堕ちるのは嫌だった。無意味に死ぬのだけは嫌だった。
けれど光には届かない。むしろ光が遠ざかっているようにすら感じる。
やがて絶望に手を止めようとしたその時――――
光が弾けて太陽のように輝いた。その光が洪水のように押し寄せてくる。
眩しくて鮮烈だった。闇を白が覆いつくしていく。やがて辺りを包むと、私の意識がゆらめきながら浮かんでいった。
ぐるりと意識が反転する。
そして重力が圧しかかるのを感じた。
ゆっくりと瞼を開ける。するとそこはガレキに塗れたホールだった。ガンシップが窓際でホバリングをしている。
……生きてる。
血の味がこみ上げて、腕の傷がじんじんと痛んだ。
けれど現実感が無かった。
私はあのまま死ぬはずだった。
なのに何故生きている?
突如、視界で紅色のフラッシュが瞬いた。そしてレミリアが映る。ノイズが走る度にその輪郭が揺れていた。
だけど瞳だけはハッキリと見えている。まるで射抜くように私を見ていたのだ。なのにその手が差し伸べられることはない。
再びフラッシュが瞬いた。そして映像が途切れる。頭を殴られるような衝撃を覚え、喉の奥から熱いモノがこみ上げて来る。その生臭さに耐え切れず、私は胃液の混ざったドロドロの血を吐いた。
……ああ、そういうことか。
私が生きた理由。
それはレミリアの意思だった。
苦しみもがいて戦えと。
運命は自分で掴めと。
そのために私を生かしたのだ。レミリアは。
……なんて理不尽な。
アナタを想って苦しんでるのに。
アナタに会いたいだけなのに!
だけど……
私は唇を拭うと、拳を握りしめた。
……あぁ、戦ってやる。
どんな苦しい戦いだろうと、それが運命だと言うのなら!!
運命の炎が燃え上がるのを感じた。弱々しいがハッキリと脈打っている。意識がすぅっと明瞭さを取り戻し、辺りが明るくなったように感じた。
さぁ、ここから這い上がろう……。
口元の血を拭うと、ガレキの上に手をついた。そのままラリった肢体を持ち上げると、ヘタクソな腕立て伏せみたく支える。
生半可な重さじゃなくなっていた。まるで鎖を幾重も巻きつけられ、地面に楔で打ち付けられているみたいだ。身体が動かない。腕が震えて骨が軋んでいた。
動け……。
早く動け!
もうレミリアは助けてくれない。
生きるためには戦うしかないのだ!
奥底でマグマのように力が滾った。それを全身に廻らせようと力を込める。
だがその時、鋭い痛みが一直線に背筋を駆けた。
「――――あっ、ぐぅ! 」
前のめりに倒れかけた身体をすんでのところで支えた。圧しかかる重さに顔が歪む。顎の先から汗が滴り落ちた。
もう身体は限界なのだろう。当然だ。無数のロケット弾に吹っ飛ばされた挙句、12.7mm弾の至近弾を雨のように浴びたのだ。生きてるだけでも奇跡。さらに動いてまでいるんだから、まさに"天にましますなんとやら"だ。
ギリギリと背骨が軋んで音をたてた。背筋にいくつもの痛みが走り、思わず呻き声を漏らしてしまう。
……けれど、それがなんだと言うんだ?
傷の痛み? 身体の悲鳴?
そんなモノに耳を貸すつもりはない。
私の全てはレミリアのためにある。
だからレミリアが戦えと言うのなら、その使命を果たすことに疑念はないのだ。
たとえ我が身を犠牲にしたとしても。
膝をついた。そのまま縛りつける鎖を引き千切るように身体を起こしていく。
激痛が身体中を駆け巡る。もう動けない、そんな叫びが聞こえるかのようだ。腕と脚の関節が焼けるように痛んでいた。
……黙れ。
そんな雑音を、私は隅に追いやった。
ガレキを踏みしめると脚を力む。熱が身体中に流れ出すのを感じていた。
……私はまだ、戦える!
私は全てを越えてやる!!
この手で運命を掴んでやる!!
力が溢れてくる。熱流がビュンビュンとほとばしりながら身体を駆ける。そして力を振り絞ると叫んだ。
「……う、ご、けええええええええええええええええええええええええ!!!!! 」
その瞬間、奥底でたぎっていた力が爆発した。熱流が身体を突き抜けると、目の前で色鮮やかな火花がほとばしる。そして鎖のちぎれる"ガシャン"という音と共に、痛みと重さが消えた。
さぁ、クソガンシップ共!!
終わりだ、絶対に叩き落としてやる!!!
私はふわりと軽くなった脚で地面を蹴った。
機関砲が唸った。すると放たれた曳光弾が荒波のように押し寄せる。その火線が背筋ギリギリのところで荒れ狂っていたが、私は一瞥もせずに走った。
するとロケット弾を連続で噴射する音が聞こえた。そして跳び出した直後に地響き。衝撃波が背中を押したけれど構わずに走った。
背後で次々とロケット弾が着弾する。その破片が掠めると熱波が襲った。けれど恐怖はなくて心は静かだった。着弾の度に床を蹴ってアカシカのように身を躍らせる。そうやって軽々と爆風をかわしながら弾雨の中を駆け抜けていく。
遅い。
いや私が速いのだ。
足は羽のように軽い。そして身体は自在に動く、まるで弾幕の隙間を知り尽くしているかのように。
するとガンシップが動き出した。機体を前に傾けると、ゆっくりとこちらに近付いて来る。
――――悔しかったらイかせてみな。
私はそのキャノピーに向かって高々と中指を立てる。するとガンシップが何かを投下した。
……なんだ?
落下するその影を、私は目で追った。
だが次の瞬間、甲高い噴射音を轟かせながら影が炎を発した。そして白煙を引きながら突っ込んで来る。その軌道は少しずつ横にカーブしていた。まるで先読みするかのように私の方へと――――……
「……Fuck! 」
誘導ミサイルだ!!
周囲に目を走らせた。追いかけっこではミサイルを回避できない。どこかでやり過ごさなければ!
すると5メートル手前、簡素なドアが目に飛び込んで来る。アレだ、まだ間に合う!
ドアに体当たりをして転がり込んだ。その背後でミサイルが唸りをあげると、私は前屈みのまま駆け出す。だがその時だった。
凄まじい爆音が轟いた。私はその衝撃波に吹き飛ばされる。周囲を濁流のように熱風が突き抜けていくと、私は息を止めてうずくまった。全身が焼けるように痛かった。
やがて爆風が止むと顔をあげた。
吸い込む空気は噎せかえるように熱い。背中も痺れるように痛んでいた。私は壁に手をついてよろよろと立ち上がった。
……追いかけっこは無理そうだ。
まともに喰らえば今度こそ死ぬ。武器はないし、姿を晒せばミサイルが飛んで来る。正攻法は不可能だった。チャンスさえあればそれに賭けられるのだが……。
不意に辺りがビリビリと震えた。遠くからローター音が響いてくる。ガンシップ野郎が窓に機体を寄せて探し回っているのだ。
私はガリガリと奥歯を噛んだ。
上等だ、私は逃げたりしない。たとえ飛び移ってでも八つ裂きにしてやる――――
その時、ぱっと閃いた。
……そうだ、それだ。
奴らは機体を寄せている。ミサイルを操作するには標的を視認出来なければならないからだ。それにミサイルの爆風は強烈。それを利用すれば乗り移ることだって――――
私は壁から手を離した。
やるしかない。まさに自殺攻撃、JAPのカミカゼアタックだ。だが奴らの虚を突くはそれしかなかった。
それに成功すればガンシップも乗っ取れる。脱出するには最も手早い方法だった。
サーチライトが差し込んだ。
私は身を翻すと、光の先――ガンシップの前に躍り出る。彼我の距離はざっと見50メートル。マヌケ顔で驚愕するパイロットがはっきりと見えた。
さぁ、もう終わりにしようか。
私は背を向けて逃走した。いや逃走したと見せた。ローターが唸りを上げる。目論見通り、私を仕留めんと追いかけるつもりだ。
バシュッ!と噴射音が響いた。性懲りもなくミサイルだ。けどそれでいい。そしてタイミングを窺おうと振り返った時――――
黒光りする弾頭が目の前に。甲高い金切り音が耳元で轟いた。
「――――ッ! 」
速い!!
無意識に倒れ込んで回避する。直後、噴射熱が肌を焦がしながら過ぎ去ると爆発した。床が激しく揺れて、窓ガラスが割れ飛ぶ。そして白煙が噴き付けると辺りを覆った。
クソッ……。予想以上に速かった。当然か、あれだけの至近距離なら発射からのタイムラグは無いに等しい。飛び出すタイミングを窺う隙はなさそうだった。
しかしあの距離ならイケる。奴らも焦っていた。私の考えなど思いもしないだろう。
だから、今がチャンスだ。
起き上がると白煙の中を走った。そして曲がり角に差しかかった時、煙が晴れる。目の前にガンシップが降り立った。
咄嗟に横飛び、猛烈な銃撃が肩を掠める。
そんなの効かない。さっさとミサイルを撃ってこい!
だがガンシップは私を追いかけるだけだった。ローター音が轟き、その暴風に次々と窓が吹き飛ばされる。さっきよりも遥かに接近しているようだ。なのに何故撃たない?
ドアを蹴り開ける。そして中へ駆け込むと、そこは行き止まりの展望ラウンジだった。
あぁ、なるほど……。
ミサイルの発射音が響き渡る。私は窓に向かって疾駆した。そしてガラスを突き破って飛び出した直後、唸るミサイルが背後を突き抜ける。耳をつんざく爆音が轟いて、突風が夜空へ私を吹き飛ばした。そこへガンシップが突っ込んでくる。
だが奴らはぶつかるとでも思ったのか、右に回避した。すると横っ腹が晒される。そのハッチは堂々と開け放たれていた。私はもがいて腕を伸ばす。そして吸い込まれるように機体が迫り――――
「ッ! 」
私はハッチから機内に転がり込んだ。
操縦席からパイロットが振り返る。強張った表情だった。私に殺されると思ったのだろう。当然だ、こいつらを始末するのは造作もない。出来ることなら散々苦痛を味あわせてから、八つ裂きにしてやりたかった。
けれど機内で抵抗されたら面倒だ。それに私は足が欲しい。だから腹の底に殺意を押し込むと歩み寄った。
操縦席は2人乗りだった。後席は硬い表情で私を見上げ、前席の男は背を向けたまま横眼で睨んでいる。
「Orose меня из воздушного пространства. Не может если так」
(この空域から離れたところに私を降ろせ。そうすれば危害は加えない」
無言でパイロットが目を合わせる。どうするべきか困惑しているのだろう。ヘタなことをすれば躊躇なく始末してやる。ヘリの操縦なら私にもできるのだから。
再び後席の男が視線を向けた。その目が細められるのを私は見逃さなかった。
奴がスチェッキンを引き抜く。その瞬間、私は座席の裏へ屈んだ。ベルトを外す音。そして男が身を乗り出すと、私は銃を握った手に掴みかかった。愚か者は目を見開いていた。その手が引き離そうと肩を掴む。そのまま窮屈なコックピットでもつれ合った。
もがく男に拳を、膝を叩き込む。手を出す隙は与えない。アホ面を殴って、タマを蹴り上げ、関節を叩く。
足元がぐわんと揺れる。機体が傾いて私たちはよろめいた。パイロットの助太刀だ。すると男が大熊みたいな身体をのしかけてきた。だが倒れる瞬間に身体を捻り、その身体へ馬乗りになる。
奴は銃口を向けようと手をもがいた。その腕を抑えて、頭突き。何度も何度も鼻先にたたき付ける。銃口が弾けて光が瞬いた。
だが突如、機体がジェットコースターのように急降下。ぐるりと視界がひっくり返り、私達はもつれあったまま計器盤に叩きつけられる。
その弾みでスチェッキンが暴発した。そして乱射された銃弾が跳ねまわった時、悲鳴が上がる。男が吹き飛ばされると、私も座席に叩き付けられた。コックピットの景色が回っている。前席の男を見れば、奴は後頭部から血を流していた。操縦盤からは火花が飛び散っている。流れ弾に当たったのだ。
「クソッ…!」
強いGが全身に押し付けられていた。操縦桿に取りつこうとしても身体が動かない。脳味噌が揺れて視界が霞む。このままでは意識を失ってしまう。
計器盤の赤ランプが点滅した。そして甲高いアラームが鳴り響いて警告を発する。
墜落する。
薄れゆく意識の中、私はベルトを掴んで装着した。衝撃に備えて目を閉じると歯を食いしばる。
もうどうとでもなれ……!
そして意識が途切れる瞬間、凄まじい轟音が聞こえた――――……
ゆっくりと瞼が開くと、そこはコックピットだった。
キャノピーのフレームがひしゃげ、窓が粉々に割れ飛んでいる。機内の至るところからは火花が飛び散り、青い光を発していた。
……もう使い物にはならなそうだ。
とはいえ流石はソ連製と言うべきか、取り敢えずのところ私の肢体は繋がっていた。私はベルトを外すと、前席の男からスチェッキンを拝借した。そして割れたキャノピーから這い出ると、痛む身体を引き摺るようにして外に出る。
外は凍てつくような寒さだった。散々熱や爆風に晒されたせいもあってか、肌がチクチクと痛んでいる。辺りは暗い森の中。木々のベールがどこまでも続き、その合間を黒い闇が塗りつぶしている。風に木々がざわめき、遠くからはオオカミの鳴き声が聞こえた。
随分と辺鄙な場所だ。これだけ深い森ならば、朝にならない限りは捜索隊もやって来ないだろう。脱出するなら今夜中。しかしこの寒さでは、朝まで私が持つとは思えない。
息を漏らせば白い靄が立ち昇る。そして息を吸い込むと、その寒さに奥歯がガチガチと震えた。
さっさと寒さを凌ぐ方法を見付けなければ。
私は森の畦道を歩き始めた。
しばらくすると、人気のない小屋を見付けた。
そのドアを蹴破って、室内に足を踏み入れる。壁のスイッチを押しても明かりは点かず、私は奥のリビングへと進んだ。その室内にはタンスがあって、試しに引き開けると厚手の上着やシャツなどが収められていた。それらを引きずり出すとテーブルの上に広げる。サイズは少々大きめだが、着れないことはなさそうだった。
他にも抗生物質などがあれば欲しかった。腕の傷が痛み始めていたのだ。スカートの切れ端だけでは破傷風が心配だった。
なので室内を物色すると、流石に抗生物質まではないものの、未使用の包帯やウォッカを見付けた。
私は傷を覆っていたスカートを破り捨てる。そしてウォッカを降りかけるとシャツで傷口を拭い、包帯を巻き付けていく。最後に縛って固定すると、思わず溜息が漏れた。
傷がこれだけと言え、今日は散々だった。
第一、私が当局に襲撃されたのが不思議でならない。コソコソと嗅ぎ回ってるだけの人間を、何故あれだけの大部隊で殺そうとしたのか。謎の電話といい、レミリアを追い始めてから急に身の回りがきな臭くなった。もしかして私は、とてつもなく巨大な陰謀に巻き込まれてるのではと思わずにはいられない。
私はドレスを脱いだ。そしてシャツに袖を通してズボンを穿く。その上から上着を羽織ると、裏にスチェッキンを忍ばせた。
まぁ、相手が何だろうと私には関係ない。行く手を塞ぐのなら抹殺する。それだけの話だ。
そして小屋を出た時だった。
「やぁ、オリヴィア」
思わず目を疑った。
闇の中にヴェロッキオが立っていた。黒いコートを身に纏い、その両側には武装した代行者を連れている。
自然と顔が強張った。教会にバレたのを今さら驚いているのではない。どうして奴が目の前にいるのか。それが愕きだったのだ。
「何故ここに。そんな顔しているね」
暗がりでよく見えないが、きっとその表情はニヒルに笑っているのだろう。
「君の動きなど分かる。……全て監視しているからね。だから君がレミリアの機密資料を勝手にコピーして、それを隠しているのも知っている」
その瞬間、私の抱き続けていた疑問が、明確な答えを見付けたような気がした。
私の存在がソ連当局に知られたのは……コイツが情報を流したからではないのか、と。
背筋を嫌悪感が走る。だがそれを抑えて私は聞いた。
「……貴方がソ連に通報したの?」
すると奴は喉でクックと笑った。それだけで神経を逆なでされるような強い不快感を覚える。もし疑念が本当なら、このエセ紳士のせいで私は殺されかけたことになるのだ。
「まさか。私はただ、君の捜索をソ連政府に依頼しただけだよ。勝手に嗅ぎ回られたせいで、西側との外交問題になるのは困るからね」
あっさりと認めやがった。だが"捜索を依頼しただけ"という奴の言葉は、到底信用できない。
外交問題を危惧するなら、ルビャンカの爺共もそれなりに穏便な対応を取っただろう。
しかし奴らが寄越したのは重武装したスペツナズと、大規模戦用の装備を丸ごと抱えたガンシップだった。当局が私の実力を見据えた上で、全力で殺しにかかってきたのは火を見るよりも明らかだ。
だがどうしてそんなことになったのか?
ベロッキオには別の考えがあったのではないのか?
奴はソ連に、この私を始末させようとしたのではないのだろうか。
だが、何故?
「捜索……随分と物臭ね。そのお陰で殺されかけた」
「それは予想外だったよ。いやはや正式な交渉ルートがこう言う時に困る」
奴はそう言うと肩を竦めた。
その舐めきった態度に怒りを覚えた。私の疑念にだって気付いているハズだ。それなのに、はぐらかされたのが癪に障った。
「けどまぁ、こうして再会できた。結果オーライじゃないか。さあ、早く帰ろう。朝になったら軍がやって来てしまう」
そう言うと奴は背を向けて歩き出した。
冗談じゃない、馬鹿にしているのか?
我慢の限界。怒りが湧き出すかのように、その背中に向かって私は吠えた。
「はぐらかすな!! 」
ベロッキオは足を止めた。そしてゆっくりと振り返った。
奴がタレ込んだ理由など、この際どうでもいい。
だがこれ以上の茶々入れは、絶対に許せなかった。
「この際だから言わせてもらうわ」
私はベロッキオを睨んで続けた。
「――――私の邪魔をするな。もしまた手出しをしたら、殺す。たとえあんたが相手でも容赦はしない」
両脇の代行者が素早くZUIを構えた。しかしベロッキオはその銃口を両手で掴むと制止する。そしてゆっくりと前に歩んだ。
「祖国を守る槍作戦が、そんなに気になるのかね? 夢でレミリアのことを思い出すからかな? 」
頭を強く殴られるような衝撃だった。
何故そのことを知っている?!
誰にも話したことが無いのに!!
「君を止められるとは思っちゃいないよ。でも不思議なんだ」
立ち尽くす私の前で、ベロッキオは足を止めた。
そして私の表情を覗き込むようにして顔を近づけて来る。ぶっ飛ばしてやりかった。なのに心臓を掴まれたかのように私の身体が動かなかった。
「何故君は――――そこまでしてレミリアを求めるんだろうね? 」
ベロッキオは笑った。暗い瞳のまま口元を吊り上げて。
その瞬間、私は勘付いた。
コイツは何かを知っている!
だが聞いてはならない。そう本能が告げていた。理由は分からない。だが目の前にいるこの男の、本当の姿を視た気がした。
「答えられないだろう? 私もだ」
ハ、ハ、と奴は笑った。そして背を向けると離れていく。
「"だが君のことは全て知っている"」
奴の言葉が夜空に反響した。
反射的に手が動いた。スチェッキンを引き抜くと、その背中に向かって構える。奴を逃がしてはならない。そう分かっていたのに、奴の背中が消えるまで私はなにも出来なかった。
その場に私は立ち尽くしていた。
ただひたすらに混乱し、ベロッキオの言葉が頭を離れなかった。
"君のことは全て知っている"
どうしてレミリアと私の関係を知っているのか。
一体……ベロッキオは何者なのか?
そのことばかりが頭を巡っていた。
だがいつまでも思案している暇はない。そう思って歩き出した時、足元に何かが転がっていることに気が付いた。
私はそれを拾い上げる。
それはセスナ機の鍵だった。括りつけられたタグには、モスクワ郊外のドラキノ飛行場に所属することが示されている。
ベロッキオが落した、いや用意したのは間違いなかった。これを使えと。それが脱出を示唆するモノでないことは、あの態度から容易に察しがついた。
……一体、奴は何を考えているのだ?
もしや私を利用しようとしているのかもしれない。それなら見逃したことも、セスナ機を用意したことにも納得がいく。
けど何のために……。
突如、耳の奥が唸るとフラッシュバックした。
そして紅い輝き、その中にレミリアを幻視する。
私はよろめくと呻いた。心臓が跳ねまわり、脳味噌が湧き立つような感覚に襲われる。
やがて意識が戻ると激しく息をした。そして鍵を握り締めると、顔を上げた。
「……上等よ」
私がここにいる理由、それは手掛かりを探すため。
だから今はベロッキオが何を考えてるかなんて、どうでもいい。
どんなにイワン共が邪魔をしても、ベロッキオが私を利用しようとしているのだとしても。
私はレミリアに再会してやる。
そのためならどんな手段も使うだろう。
――――"あの時、そう決めたのだから"
私は疑念を振り払うように、暗い森に向かって走り始めた。
真っ赤な夕焼けの空。
眼下の湖面は黒い廃水に濁っている。
頭上をMi-8ヒップの編隊が飛び抜けていった。
辺りには警戒サイレンが絶え間なく響き渡っている。
そして正面の対岸には、カスピ海研究所のコンクリート壁がそびえ立っている。その奥には無数の煙突や、灰色のビルが林立していた。
最後の編隊が頭上を通過する。それを確認すると私は丘の窪みから立ち上がった。偽装ネットを取り払い、傍らのAKMを手に取る。
さぁ、時間だ。
もう今度は逃がさない。
ニコライ・ヴィノグラードフ。
私はカスピ海研究所を見据えて、目を細めた。
―了―
東方ではなかなか見られないガンアクションが中心で、やや慣れない部分もありましたが概ね読みやすくありました。
二次創作ならではの世界観を存分に堪能できました
ところでこのオリヴィアさん明らかにマッチョマン
しかし先の展開が読めない。レミリアが未だに直接出てこないってのも気になる。
そしてオリヴィアの人外っぷりが半端無い。