私が買い物を終えて八百屋を出たときには、もう曇り空は泣き出していました。守矢神社まで濡れて帰ろうかとも思いましたが、そんな気分には何となくなれず、私はただ軒の下でぼんやりと立ち竦んでいました。傘を忘れた我が身の不幸を嘆くしか、やることはもうなかったのです。
目の前の通りを、私と同じく傘を持たない人々が駆けていきます。風も少し出てきたようで、道端の紙屑が彼らの足にうろちょろと纏わりつきます。
きっと誰もが、今日の空を恨めしく思っていることでしょう。天気は人間の支配が及ばないもののひとつです。傘を持っているときにだけ、雨は降ってくれるわけではありません。
そしてそれは、現人神として奇跡を起こす程度の能力を持つ私にしても同じことで。
「はぁ……」
この雨を今すぐに止ませる、みたいなことはできないのです。
例えば水止の術をやるにしても、そこには一定の術式と、多くの信仰が必要になります。太陽の出現を願う大勢の人々の祈りがなければ、天気に干渉するほどの力は得られません。
なので私は、大人しく八百屋の店先で雨足が弱まるまで待つことにしたのです。
お買い物籠を肩にかけ直していると、後ろでガタガタと音がしました。
「おっと、ごめんねぇ早苗ちゃん。風吹き込んで雨が当たったら、野菜が駄目になっちゃうからさぁ」
「あ、はい。どうぞお構いなく」
八百屋のおじさんが腰を屈めて表の引き戸を閉めながら、振り向いた私に笑いかけます。私も笑顔で応えましたが、もしかしたら少し変な笑顔になっていたかもしれません。
おじさんは私の後ろの戸を全部閉めて、もう片方の戸は半分くらい開けたままにしていました。きっとお客さんが来たら分かるように、ということなのでしょう。
壁を背後に立つことになった私は、再び視線を通りの方へ戻しました。
ぽつぽつと雨が軒を叩く音が、少しずつ強くなっていくのが聞こえます。
「はぁ……」
そして、本日二回目の溜息を吐きました。
私がこの雨の中を帰りたくないのは、傘がないという理由だけではありません。いつもであれば、これくらいの雨なら濡れることも厭わずに飛んで行くでしょう。
今日に限ってそれをせず、八百屋の軒先で雨宿りをしながら溜息をついている訳は。
「……神奈子様、まだ怒ってるかなぁ」
今朝方、守矢神社にお祀りしている二柱がひとり、八坂神奈子様と、出がけに喧嘩をしてしまったせいなのです。
まぁ喧嘩といっても、それほどひどいものではないのですが、それでも何だか帰り辛くって。
目の前を、軒から垂れる大きな雫が落ちていき、足元でばしゃりと弾けました。
「ねぇねぇ。やっぱり神様って、怒ると怖い?」
うーん。怒ってるのに怖くないひとってあまりいないような気がしますが。
あぁ、もしかしていわゆる「神の怒り」みたいのをイメージされてます? そういうのでは全然なくて。何というかほら、母と娘がそれぞれ臍を曲げたみたいな。
「ほむほむ、何でまた喧嘩なんてしちゃったの?」
そこはまぁ、売り言葉に買い言葉というか、そんな感じで。
ただ私は神奈子様に、言ってはならないことを言ってしまったんです。
「それで、早苗も怒ってるの?」
全く怒ってない、というほどではないですが。どちらかと言うと、気まずくて顔を合わせられないな、というだけです。
「そなんだ。ところでさ、早苗」
はい、何でしょう。
「そろそろ、驚いてくれてもいいんじゃない? 独りごちているつもりが会話になっていて驚くっていう、そんなパターンのつもりなんだけど、これ」
「そうは問屋が卸しません。妖怪退治をするようになってからというもの、怪しい気配には敏感になりましてね。貴女がいることもとっくに気付いていたというわけです、小傘さん」
「なんとっ!」
八百屋と、その隣の魚屋の間。細い路地からぴょこんと顔を覗かせたのは、唐傘お化けの小傘さんでした。
どうやらずっと隠れていたつもり、のようなのですが。
「その無駄に大きな傘、ここからでも丸見えだったんですけど。隠れるつもりあんのかと割と本気で疑問に思うくらいに」
「そ、そうでござるか。それは気付かなかったでありんす。よし、今度隠れるときは傘に木の枝とか葉っぱとか飾りまくって上手く擬態するでごんす」
「畳むという選択肢はないんですか。あとその語尾、キャラ作るのを通り越して崩壊させてますよ」
呆れている私をよそに、小傘さんは私の隣までとてとてと歩いてきました。軒下だというのに、やっぱり傘は差したままでした。
「うん? やっぱり早苗、元気ないね。いつもならもっとずかずかとさでずむのに」
「さでず、む? ……すいません。これでも古文の成績は良かった方なのですが、その動詞には聴き覚えがありません」
傘から突き出ている赤い大きな舌が、雨に弾かれて揺れています。
小傘さんの傘、初めて見たときは信じられないほど時代遅れだと思ったものですが、改めて見るとキモカワいいと言えなくもないかもしれませんね。
「まぁ実はさ、あんまり本気で驚かすつもりはなかったんだよね、早苗のこと」
「あら、貴女にしては珍しい」
「さっき急に雨が降り出したときにさ、沢山の人がちょっとずつ驚いてくれたおかげで、結構お腹いっぱいになったから」
「じゃあ何で私を狙ってたんですか」
「早苗の驚きは別腹、みたいな? てへ」
「ひとをデザート扱いしないで下さい」
「いふぁい、いふぁい、いふぁふぁはふぁふぁふぁ」
傘とお揃いにぺろりと舌を出す水色お化けの頬を、私はむにりと指で押し込みました。
「うぅ、やっぱり早苗はさでずみにすとだ……」
頬を抑えて涙目な小傘さんを横目にしながら、私の口からは、
「はぁ」
また溜息が漏れてくるのでした。
「それで三度目だよ、早苗。溜息を吐くと幸せが逃げていくよ」
「……ほっといて下さい」
「うぅ。大人しい早苗って、なんだか不気味」
雨は弱まる気配を見せません。先ほどまでは肌寒さを感じるほどだった風の方は、少し落ち着いてきたようです。風に煽られて時たま軒の下まで降りこんできていた雨も、今は大人しく地面を真っ直ぐに目指しています。
幸せ。それが溜息とともに逃げていくというのなら、捕まえて集める術もあるのでしょうか。
もしかしたら、その方法は誰もが生まれつきに知っているのかもしれません。でも、少なくとも私は今、そのやり方を思い出せずにいました。
小傘さんの軽口にも、いつもの様に言い返すことができません。
雨の降るさらさらという音が、私の心をも雨模様に染めていくようです。
「……神奈子様にね、つい、言っちゃったんですよ」
だから隣の付喪神につい弱音を晒してしまいたくなったのも、あるいはそのせいだったのでしょう。
いったん口から解れだした感情は、もはや止められず。私は目の前の雨の様にぽつぽつと、胸の内を小傘さんに零し続けました。
「幻想郷になんか、来なければよかった、って」
明確な理由もなく、少しだけ憂鬱だった今日の昼下がり。
お勝手で昼食後の洗い物をしていると、不意に神奈子様がやってきて言ったのです。
―― 元気がないな、大丈夫か?
沈んだ私を気遣っての言葉だということは、もちろん分かっています。
でもそのとき、私の胸の中で大きく何かが爆ぜてしまいました。
こちらで生きていく上で不便に感じることは沢山あります。例えばお皿を洗うのにも、洗濯をするのにも、神社で使うのは井戸の水です。毎日重たい思いをしながら汲み上げてこなければなりません。外にいた頃は、蛇口をひねれば水なんていくらでも出てきたのに。
いつもだったら気にもしていないそれらのことが、今日に限って刺々しく出しゃばってきていて、そこに神奈子様の言葉が止めの火を着けてしまったのでした。
私の中を燃え広がっていく感情の、その侵攻を食い止める術を、私は知らなかったのです。
「その他には何を言ったのか、もう覚えてませんけど、私……」
あぁ。巫女として仕える神に言ってはならないことを、一生分言ってしまった気がする。
私も神奈子様も、決して声を荒げることはありませんでした。
しかし明らかに狼狽えた様子の神奈子様に向かって、もうどうにでもなれと思いながら、私はただ口の滑るがままに言葉を吐き続けたのです。そしてそれを受け止める度に、無敵のはずの戦神はまるで苦虫を噛み潰すかのように、その整った顔を歪めるのでした。
「……………………」
「……………………」
沈黙のせいで、軒下からは雨が一段と強くなったように聞こえます。
小傘さんは、傘をくるくると回していました。傘布に張り付いた一つ目と大きな口が、その回転に従って見えたり隠れたりしています。
彼女との付き合いも浅いとは言えなくなってきた私は知っています。これは小傘さんが、言葉を探しているときの仕草なのです。
そんな彼女の隣で私は、再び憂鬱が首をもたげてくるのを感じていました。
買い物にかこつけて神様から、神社から逃げ出してきたものの、巫女の帰る場所は神社にしかないのです。どんなに強い風雨からでも守ってくれる神社を捨て、忘れ傘とともに八百屋の軒下に立ち尽くす私の姿を、もう一人の冷静な私が軽蔑の眼で見ています。その視線が、私をさらに落ち込ませました。
こんな気持ちになったのは何時振りだろう、とふと振り返って思い出したのは、幻想郷に移住する前の日のことです。
人生最後の学校からの帰り道。友達とさよならも無しの永遠の別れを交わし、小さな鞄に詰め込めるだけの思い出を精一杯に抱えながら歩いた夕焼けの畦道。
新たな地への希望に胸を時めかせているその裏で、投げ捨てるもののあまりの大きさに怯んでしまっていた私は、今と同じくらいメランコリックでした。帰らなければならないのに、帰りたくない。そんな矛盾した思いに、陽に焼けて褪せた世界を行く私の足は重いものになっていて。
「あれ、早苗。もしかして泣いてる?」
「まさか」
あの時の喪失感を、少し思い出してしまっただけです。それくらいで決壊するほど、私の涙腺はまだ脆くありません。
そういえば、あの時も神奈子様に怒られたんでした。
準備があるからと帰宅を約束した時間に、ぼんやりしていたせいで遅れてしまったから。
「ただ、もう割り切ったはずなのにな、って思っただけで」
「…………?」
「独り言です。気にしないで下さい」
きょとんとこちらを見る小傘さん。紅く浮かび上がる左目が、私の意識を吸い込むように引きつけました。あの日の夕焼け色を少しだけ、思い出したりしてしまった私は、ぐるぐると取り留めもないことを考えてしまいます。
もしあの日、神奈子様も諏訪子様も捨てて、私が畦道を学校へと走っていたら。
友達の輪に何でもないように戻り、パックした思い出も全部ぶちまけて日常へと還し、セーラー服の青春を続けていたとするならば。
私はもっと、幸せになれたのだろうか。
全てを捨てて幻想の住人となることが、どんな仮定の下でも抗えない私の定めだったのだろうか。
元の世界で生き続けるという道だって、私の人生にはあったんじゃないのか。
そんなことをつい考えてしまう私は、とっくに受け入れたつもりだった現在を、まだ心のどこかで拒んでいるのかもしれません。
「……小傘さんは、昔のことを後悔したりしますか?」
「ほえ?」
私がこんなに弱いのは、私が人間だからだろうか。
そう思った私は、傘をくるくるし続ける目の前の人外に、ひとつ問いかけてみることにしました。
「付喪神になんかなりたくなかった、って思うこと、ないんですか?」
彼女は、物に魂が宿り生まれた存在。その運命を、妖怪がどう受け止めているのか。
私はそれを純粋に知りたくなったのです。
「うー、難しいこと訊くね。そうだなぁ」
頬をぽりぽりと掻きながら、小傘さんは答えてくれました。
「ひもじいときとか、さびしいときとかは、落ち込んでそんなこと考えちゃったりもする、かな」
使ってほしいのに忘れられて。驚いてほしいのに笑われて。
自分はそのために生まれたはずなのに、役目すら果たすことができない。
そんな無力さをたまに感じるんだ、と小傘さんは言いました。
その表情は傘に隠れていて、見ることができません。
脚が冷たいことに気づいて、私は視線を落としました。跳ねた雨粒が、いつの間にか膝から下をぐっしょり濡らしていました。
「でもさぁ!」
突然の大声。意識を一瞬だけ足元へと逸らしてしまった私に、それはとても強烈に響きました。
「私はやっぱり、付喪神になれて良かったって思ってるよ。だって ――」
傘の陰からばぁ! と顔を出した小傘さんは、満面の笑顔。
「こうやって、早苗を驚かすことができるもの」
ね? と付け加えて、彼女はまたぺろりと舌を出しました。
風が通り抜けました。先ほどの様な冷たい風でなく、いい匂いのする暖かい風。
「ありゃ。結構驚いてくれたみたいだね」
そう言われて初めて、私は自分の心臓がどこどこと高らかに鳴っていることに気付いたのです。
声、言葉、表情。私は一体、小傘さんの何に驚いたというのでしょうか。いや、たぶんそのどれでもなく、能天気に見えた彼女が意外と難しいことも考えていたという事実にでしょう。私はそう思っておくことにしました。
顔を上げると、里の上に居座っていた鈍色の雨雲が、少しずつ薄れていっているのが見えます。
「……そうですよね。小傘さんが付喪神になって、私が幻想郷に来なければ」
空の眩しさに、私は少しだけ目を細めました。
「ここでこうしてなんて、いられなかった訳ですからね」
世界中で幾つもの運命が絡み合いながら、巡り巡って目の前で刹那の今を描き出す。
その絵が時に悲しい色を見せたとしても、すぐにその上から別の色が鮮やかに塗り潰していく。
待っていても色が変わらないのなら、自分の好きな絵の具を用意すればいい。
頭上にひとつ、雲の裂け目が生まれました。青い空がしばらくぶりに顔を覗かせます。
そのまま絵の具をパレットの上で伸ばすように、私の一番好きな色は空へと少しずつ広がっていきました。
それに合わせるかのように、私の憂鬱だった心は軽くなっていきます。大気中の塵を雨が洗い流してくれるように、身体の中のもやもやが流れ出ていくのを感じます。
今ならきっと神奈子様にも、素直な気持ちでごめんなさいと言うことができる。
まだ雨は完全に止んだわけじゃないけど、早く神社に帰らないと。
「そうだ、小傘さん。その傘に入れて下さいよ」
「え、なんで?」
「そろそろ帰らないと、晩御飯の支度が間に合わなくなっちゃいます」
傘を差してもらいながら、妖怪の山にある守矢神社まで。
いつもより時間はかかるかもしれませんが、ここでじっとしているよりはマシでしょう。
それに小傘さんだって、本来の傘の役目を果たすことができるなら悪い気はしないはずです。付喪神なんだし。
なのにこの化け傘は。
「んー、やだ」
「え? どうして」
さも当然といった風で、きっぱりと断りました。
「だって思い付いちゃったんだもん。早苗をもーっと驚かせる方法。だからあと少しだけ、ここにいてもらわなきゃ困るんだよ」
「え、ちょっと!」
そしてそのまま、小傘さんは軒下から飛び出し、ふわりと浮き上がりました。
連られて飛び出してしまった私の鼻に、最後の雨粒がぶつかってぴしゃりと弾けます。
「きゃ!」
思わず瞼を閉じてしまいました。少し目に入ってしまったようです。酸性雨は幻想入りしていないはずなので、大丈夫だとは思いますが。
……まさか今のが、「早苗をもーっと驚かせる方法」?
「まさか! そんなはずないじゃない。こっちこっち」
小傘さんの声が、いつのまにかずっと左手に移動していました。
「ほら見てごらんよ、早苗!」
その声に、私は瞑っていた眼を開いて、
「………………うわぁ」
そのまま、言葉を失いました。
私の正面、真っ直ぐ続く通りのずっと向こうに赤々と沈んでいく夕陽が、何に遮られることもなく目に飛び込んできたのです。
並ぶ商店も、所々に植わっている並木も、セピア色に照らされて輝いていました。屋根の端から零れる雨水が、宝石のように煌めいていました。
それだけではありません。でこぼこした道の上に雨が降って、通りにはそこかしこに大きな水溜まりができています。まるで鏡のように澄み渡ったその水面は、夕焼けの放つ光たちを余すところなく反射させていたのです。虫食い穴のように空を大きく穿たれた地面は、地表から10センチ下を真っ直ぐな平面でスライスして町ごと空に浮かべたような、そんな素敵な錯覚を私にさせました。
それは多分、私が今まで見たどんな夕焼けよりも美しい空でした。
「驚いた? 驚いた? この場所はね、里の中でもいっちばん綺麗に夕焼けが見られるところなんだよ」
私から見て太陽の少し上に浮かぶ小傘さんは、逆光を背中に受けながら笑います。
「私さ、雨が好きだから、雨が上がるときも何となく分かるんだ。だからさ、今日は凄く綺麗な夕焼けが見れるって思ったんだ」
そして、空中で独楽のようにくるくると回り続けました。
私は知っています。これは小傘さんが最高に楽しんでいるときの仕草だと。
「あはははは! もうお腹いっぱい! 早苗ったら驚きすぎ!」
はるか遠くの山の端に、大きな太陽が触れました。そのまま、鉄板に押しつけられた氷のように削られていきます。
町を染める紅は、いよいよ濃さを増しました。
少しだけ風が吹いて、するとすぐ側でぴちゃんと雫の跳ねる音。
視線をそちらに向けると、大きく波紋を広げた水溜まりが目に入りました。どこかから吹き飛ばされてきた雨粒がそこに落ちたのでしょう。
私はその波紋を近くで見てみたくなって、水溜まりの淵にしゃがみ覗き込みました。
そしてそこで、信じられないものを見たのです。
「……あ」
少しずつ青さを失っていく空を背に、セーラー服を着た私が、同じ顔で笑っていました。
大量の思い出がいっぺんに、不意を突かれた私の頭の中へ蘇ります。
待ち合わせて登校した通学路。退屈な授業中に、こっそりと交わす目配せ。机をくっつけたお弁当タイム。放課後の教室で、何でもないことをいつまでもお喋りしていたこと。
反射した巫女服が、波紋によって歪められてそう見えただけかもしれません。セピア色の町が見せた、気紛れな錯覚かもしれません。
でもここは、幻想郷なのだから。もっと素敵な現象が起こっていたっていい。
あの私は、もうひとつの世界の私。幻想を選ばなかった世界の私。この水溜まりは、世界と世界を繋ぐほんの一瞬の奇跡。
「もしかしたら」をうじうじと悩んでいた私に与えられた、最初で最後のチャンス。
そう信じてみたら居ても立ってもいられなくなり、向こう側の私に私は気付けば問いかけていました。
「ねぇ貴女。今、幸せ?」
向こう側の私も、同じことをこちらに問いかけました。声は聞こえなくても、唇の動きで分かります。
彼女は変わらない笑顔でこちらを見つめていました。それだけで、今の私には十分でした。
きっと向こう側の私にも、こちらの思うことは伝わってくれたでしょう。
セーラー服の私の後ろに、もうひとつの影が現れました。それは、
「え……?」
懐かしい親友の姿。
あの日、「また明日ね」と言ってくれたときの笑顔のままで、彼女はそこに立っていました。
私がたまらなくなって、思わず背後を振り返ると。
「うぉっ! なぜバレたし」
そこにはいたのは、抜き足差し足忍び足で近づいてきていた小傘さん。
いつの間にか私の背後をとっていた彼女は、最後にやっぱり古典的な方法で驚かそうとしたのでしょう。いつもの両手を広げたうらめしいポーズが、夕陽の中で無駄に輝いていました。
「……言ったでしょう。貴女の気配なんて、私はもう眠っていたって読めます」
「うー、ちくしょう。もいっぱつ驚かせてカンプなきまでに叩きのめしてやろうと思ったのに」
「そう易々とのめされてはあげませんよ。ていうか、私を叩きのめそうとするということは、逆に私に叩きのめされるかもしれないという危険を常に覚悟してきているってわけですよね?」
私が御幣をびしりと突きつけると、小傘さんは驚いて跳び上がりました。
「ちょっ! 何でそうなるの? 暴力反対!」
「人を驚かせるような悪い妖怪は、きちんと退治しておかないと。こんなこともあろうかと、いつもスペルカードは持ち歩いていますから」
「いやぁぁぁぁぁぁ!」
脱兎のごとく邪悪な妖怪が逃げ出していきます。私は、でもその背を追いかけていくことはしませんでした。
そして弾幕の代わりに、彼女に言葉を小さく放ちます。その一言は、「ごめんなさい」よりも少しだけ、私には言い難かったのです。
「ありがとう、小傘さん」
その影は瞬く間に小さくなってしまったので、この声はきっと届いていないのでしょう。
今度会った時には、もう少し優しくしてあげようかな。
そんなことを考えながら、私は夕飯の支度をするために、急いで神社への帰り道を走り出したのでした。
目の前の通りを、私と同じく傘を持たない人々が駆けていきます。風も少し出てきたようで、道端の紙屑が彼らの足にうろちょろと纏わりつきます。
きっと誰もが、今日の空を恨めしく思っていることでしょう。天気は人間の支配が及ばないもののひとつです。傘を持っているときにだけ、雨は降ってくれるわけではありません。
そしてそれは、現人神として奇跡を起こす程度の能力を持つ私にしても同じことで。
「はぁ……」
この雨を今すぐに止ませる、みたいなことはできないのです。
例えば水止の術をやるにしても、そこには一定の術式と、多くの信仰が必要になります。太陽の出現を願う大勢の人々の祈りがなければ、天気に干渉するほどの力は得られません。
なので私は、大人しく八百屋の店先で雨足が弱まるまで待つことにしたのです。
お買い物籠を肩にかけ直していると、後ろでガタガタと音がしました。
「おっと、ごめんねぇ早苗ちゃん。風吹き込んで雨が当たったら、野菜が駄目になっちゃうからさぁ」
「あ、はい。どうぞお構いなく」
八百屋のおじさんが腰を屈めて表の引き戸を閉めながら、振り向いた私に笑いかけます。私も笑顔で応えましたが、もしかしたら少し変な笑顔になっていたかもしれません。
おじさんは私の後ろの戸を全部閉めて、もう片方の戸は半分くらい開けたままにしていました。きっとお客さんが来たら分かるように、ということなのでしょう。
壁を背後に立つことになった私は、再び視線を通りの方へ戻しました。
ぽつぽつと雨が軒を叩く音が、少しずつ強くなっていくのが聞こえます。
「はぁ……」
そして、本日二回目の溜息を吐きました。
私がこの雨の中を帰りたくないのは、傘がないという理由だけではありません。いつもであれば、これくらいの雨なら濡れることも厭わずに飛んで行くでしょう。
今日に限ってそれをせず、八百屋の軒先で雨宿りをしながら溜息をついている訳は。
「……神奈子様、まだ怒ってるかなぁ」
今朝方、守矢神社にお祀りしている二柱がひとり、八坂神奈子様と、出がけに喧嘩をしてしまったせいなのです。
まぁ喧嘩といっても、それほどひどいものではないのですが、それでも何だか帰り辛くって。
目の前を、軒から垂れる大きな雫が落ちていき、足元でばしゃりと弾けました。
「ねぇねぇ。やっぱり神様って、怒ると怖い?」
うーん。怒ってるのに怖くないひとってあまりいないような気がしますが。
あぁ、もしかしていわゆる「神の怒り」みたいのをイメージされてます? そういうのでは全然なくて。何というかほら、母と娘がそれぞれ臍を曲げたみたいな。
「ほむほむ、何でまた喧嘩なんてしちゃったの?」
そこはまぁ、売り言葉に買い言葉というか、そんな感じで。
ただ私は神奈子様に、言ってはならないことを言ってしまったんです。
「それで、早苗も怒ってるの?」
全く怒ってない、というほどではないですが。どちらかと言うと、気まずくて顔を合わせられないな、というだけです。
「そなんだ。ところでさ、早苗」
はい、何でしょう。
「そろそろ、驚いてくれてもいいんじゃない? 独りごちているつもりが会話になっていて驚くっていう、そんなパターンのつもりなんだけど、これ」
「そうは問屋が卸しません。妖怪退治をするようになってからというもの、怪しい気配には敏感になりましてね。貴女がいることもとっくに気付いていたというわけです、小傘さん」
「なんとっ!」
八百屋と、その隣の魚屋の間。細い路地からぴょこんと顔を覗かせたのは、唐傘お化けの小傘さんでした。
どうやらずっと隠れていたつもり、のようなのですが。
「その無駄に大きな傘、ここからでも丸見えだったんですけど。隠れるつもりあんのかと割と本気で疑問に思うくらいに」
「そ、そうでござるか。それは気付かなかったでありんす。よし、今度隠れるときは傘に木の枝とか葉っぱとか飾りまくって上手く擬態するでごんす」
「畳むという選択肢はないんですか。あとその語尾、キャラ作るのを通り越して崩壊させてますよ」
呆れている私をよそに、小傘さんは私の隣までとてとてと歩いてきました。軒下だというのに、やっぱり傘は差したままでした。
「うん? やっぱり早苗、元気ないね。いつもならもっとずかずかとさでずむのに」
「さでず、む? ……すいません。これでも古文の成績は良かった方なのですが、その動詞には聴き覚えがありません」
傘から突き出ている赤い大きな舌が、雨に弾かれて揺れています。
小傘さんの傘、初めて見たときは信じられないほど時代遅れだと思ったものですが、改めて見るとキモカワいいと言えなくもないかもしれませんね。
「まぁ実はさ、あんまり本気で驚かすつもりはなかったんだよね、早苗のこと」
「あら、貴女にしては珍しい」
「さっき急に雨が降り出したときにさ、沢山の人がちょっとずつ驚いてくれたおかげで、結構お腹いっぱいになったから」
「じゃあ何で私を狙ってたんですか」
「早苗の驚きは別腹、みたいな? てへ」
「ひとをデザート扱いしないで下さい」
「いふぁい、いふぁい、いふぁふぁはふぁふぁふぁ」
傘とお揃いにぺろりと舌を出す水色お化けの頬を、私はむにりと指で押し込みました。
「うぅ、やっぱり早苗はさでずみにすとだ……」
頬を抑えて涙目な小傘さんを横目にしながら、私の口からは、
「はぁ」
また溜息が漏れてくるのでした。
「それで三度目だよ、早苗。溜息を吐くと幸せが逃げていくよ」
「……ほっといて下さい」
「うぅ。大人しい早苗って、なんだか不気味」
雨は弱まる気配を見せません。先ほどまでは肌寒さを感じるほどだった風の方は、少し落ち着いてきたようです。風に煽られて時たま軒の下まで降りこんできていた雨も、今は大人しく地面を真っ直ぐに目指しています。
幸せ。それが溜息とともに逃げていくというのなら、捕まえて集める術もあるのでしょうか。
もしかしたら、その方法は誰もが生まれつきに知っているのかもしれません。でも、少なくとも私は今、そのやり方を思い出せずにいました。
小傘さんの軽口にも、いつもの様に言い返すことができません。
雨の降るさらさらという音が、私の心をも雨模様に染めていくようです。
「……神奈子様にね、つい、言っちゃったんですよ」
だから隣の付喪神につい弱音を晒してしまいたくなったのも、あるいはそのせいだったのでしょう。
いったん口から解れだした感情は、もはや止められず。私は目の前の雨の様にぽつぽつと、胸の内を小傘さんに零し続けました。
「幻想郷になんか、来なければよかった、って」
明確な理由もなく、少しだけ憂鬱だった今日の昼下がり。
お勝手で昼食後の洗い物をしていると、不意に神奈子様がやってきて言ったのです。
―― 元気がないな、大丈夫か?
沈んだ私を気遣っての言葉だということは、もちろん分かっています。
でもそのとき、私の胸の中で大きく何かが爆ぜてしまいました。
こちらで生きていく上で不便に感じることは沢山あります。例えばお皿を洗うのにも、洗濯をするのにも、神社で使うのは井戸の水です。毎日重たい思いをしながら汲み上げてこなければなりません。外にいた頃は、蛇口をひねれば水なんていくらでも出てきたのに。
いつもだったら気にもしていないそれらのことが、今日に限って刺々しく出しゃばってきていて、そこに神奈子様の言葉が止めの火を着けてしまったのでした。
私の中を燃え広がっていく感情の、その侵攻を食い止める術を、私は知らなかったのです。
「その他には何を言ったのか、もう覚えてませんけど、私……」
あぁ。巫女として仕える神に言ってはならないことを、一生分言ってしまった気がする。
私も神奈子様も、決して声を荒げることはありませんでした。
しかし明らかに狼狽えた様子の神奈子様に向かって、もうどうにでもなれと思いながら、私はただ口の滑るがままに言葉を吐き続けたのです。そしてそれを受け止める度に、無敵のはずの戦神はまるで苦虫を噛み潰すかのように、その整った顔を歪めるのでした。
「……………………」
「……………………」
沈黙のせいで、軒下からは雨が一段と強くなったように聞こえます。
小傘さんは、傘をくるくると回していました。傘布に張り付いた一つ目と大きな口が、その回転に従って見えたり隠れたりしています。
彼女との付き合いも浅いとは言えなくなってきた私は知っています。これは小傘さんが、言葉を探しているときの仕草なのです。
そんな彼女の隣で私は、再び憂鬱が首をもたげてくるのを感じていました。
買い物にかこつけて神様から、神社から逃げ出してきたものの、巫女の帰る場所は神社にしかないのです。どんなに強い風雨からでも守ってくれる神社を捨て、忘れ傘とともに八百屋の軒下に立ち尽くす私の姿を、もう一人の冷静な私が軽蔑の眼で見ています。その視線が、私をさらに落ち込ませました。
こんな気持ちになったのは何時振りだろう、とふと振り返って思い出したのは、幻想郷に移住する前の日のことです。
人生最後の学校からの帰り道。友達とさよならも無しの永遠の別れを交わし、小さな鞄に詰め込めるだけの思い出を精一杯に抱えながら歩いた夕焼けの畦道。
新たな地への希望に胸を時めかせているその裏で、投げ捨てるもののあまりの大きさに怯んでしまっていた私は、今と同じくらいメランコリックでした。帰らなければならないのに、帰りたくない。そんな矛盾した思いに、陽に焼けて褪せた世界を行く私の足は重いものになっていて。
「あれ、早苗。もしかして泣いてる?」
「まさか」
あの時の喪失感を、少し思い出してしまっただけです。それくらいで決壊するほど、私の涙腺はまだ脆くありません。
そういえば、あの時も神奈子様に怒られたんでした。
準備があるからと帰宅を約束した時間に、ぼんやりしていたせいで遅れてしまったから。
「ただ、もう割り切ったはずなのにな、って思っただけで」
「…………?」
「独り言です。気にしないで下さい」
きょとんとこちらを見る小傘さん。紅く浮かび上がる左目が、私の意識を吸い込むように引きつけました。あの日の夕焼け色を少しだけ、思い出したりしてしまった私は、ぐるぐると取り留めもないことを考えてしまいます。
もしあの日、神奈子様も諏訪子様も捨てて、私が畦道を学校へと走っていたら。
友達の輪に何でもないように戻り、パックした思い出も全部ぶちまけて日常へと還し、セーラー服の青春を続けていたとするならば。
私はもっと、幸せになれたのだろうか。
全てを捨てて幻想の住人となることが、どんな仮定の下でも抗えない私の定めだったのだろうか。
元の世界で生き続けるという道だって、私の人生にはあったんじゃないのか。
そんなことをつい考えてしまう私は、とっくに受け入れたつもりだった現在を、まだ心のどこかで拒んでいるのかもしれません。
「……小傘さんは、昔のことを後悔したりしますか?」
「ほえ?」
私がこんなに弱いのは、私が人間だからだろうか。
そう思った私は、傘をくるくるし続ける目の前の人外に、ひとつ問いかけてみることにしました。
「付喪神になんかなりたくなかった、って思うこと、ないんですか?」
彼女は、物に魂が宿り生まれた存在。その運命を、妖怪がどう受け止めているのか。
私はそれを純粋に知りたくなったのです。
「うー、難しいこと訊くね。そうだなぁ」
頬をぽりぽりと掻きながら、小傘さんは答えてくれました。
「ひもじいときとか、さびしいときとかは、落ち込んでそんなこと考えちゃったりもする、かな」
使ってほしいのに忘れられて。驚いてほしいのに笑われて。
自分はそのために生まれたはずなのに、役目すら果たすことができない。
そんな無力さをたまに感じるんだ、と小傘さんは言いました。
その表情は傘に隠れていて、見ることができません。
脚が冷たいことに気づいて、私は視線を落としました。跳ねた雨粒が、いつの間にか膝から下をぐっしょり濡らしていました。
「でもさぁ!」
突然の大声。意識を一瞬だけ足元へと逸らしてしまった私に、それはとても強烈に響きました。
「私はやっぱり、付喪神になれて良かったって思ってるよ。だって ――」
傘の陰からばぁ! と顔を出した小傘さんは、満面の笑顔。
「こうやって、早苗を驚かすことができるもの」
ね? と付け加えて、彼女はまたぺろりと舌を出しました。
風が通り抜けました。先ほどの様な冷たい風でなく、いい匂いのする暖かい風。
「ありゃ。結構驚いてくれたみたいだね」
そう言われて初めて、私は自分の心臓がどこどこと高らかに鳴っていることに気付いたのです。
声、言葉、表情。私は一体、小傘さんの何に驚いたというのでしょうか。いや、たぶんそのどれでもなく、能天気に見えた彼女が意外と難しいことも考えていたという事実にでしょう。私はそう思っておくことにしました。
顔を上げると、里の上に居座っていた鈍色の雨雲が、少しずつ薄れていっているのが見えます。
「……そうですよね。小傘さんが付喪神になって、私が幻想郷に来なければ」
空の眩しさに、私は少しだけ目を細めました。
「ここでこうしてなんて、いられなかった訳ですからね」
世界中で幾つもの運命が絡み合いながら、巡り巡って目の前で刹那の今を描き出す。
その絵が時に悲しい色を見せたとしても、すぐにその上から別の色が鮮やかに塗り潰していく。
待っていても色が変わらないのなら、自分の好きな絵の具を用意すればいい。
頭上にひとつ、雲の裂け目が生まれました。青い空がしばらくぶりに顔を覗かせます。
そのまま絵の具をパレットの上で伸ばすように、私の一番好きな色は空へと少しずつ広がっていきました。
それに合わせるかのように、私の憂鬱だった心は軽くなっていきます。大気中の塵を雨が洗い流してくれるように、身体の中のもやもやが流れ出ていくのを感じます。
今ならきっと神奈子様にも、素直な気持ちでごめんなさいと言うことができる。
まだ雨は完全に止んだわけじゃないけど、早く神社に帰らないと。
「そうだ、小傘さん。その傘に入れて下さいよ」
「え、なんで?」
「そろそろ帰らないと、晩御飯の支度が間に合わなくなっちゃいます」
傘を差してもらいながら、妖怪の山にある守矢神社まで。
いつもより時間はかかるかもしれませんが、ここでじっとしているよりはマシでしょう。
それに小傘さんだって、本来の傘の役目を果たすことができるなら悪い気はしないはずです。付喪神なんだし。
なのにこの化け傘は。
「んー、やだ」
「え? どうして」
さも当然といった風で、きっぱりと断りました。
「だって思い付いちゃったんだもん。早苗をもーっと驚かせる方法。だからあと少しだけ、ここにいてもらわなきゃ困るんだよ」
「え、ちょっと!」
そしてそのまま、小傘さんは軒下から飛び出し、ふわりと浮き上がりました。
連られて飛び出してしまった私の鼻に、最後の雨粒がぶつかってぴしゃりと弾けます。
「きゃ!」
思わず瞼を閉じてしまいました。少し目に入ってしまったようです。酸性雨は幻想入りしていないはずなので、大丈夫だとは思いますが。
……まさか今のが、「早苗をもーっと驚かせる方法」?
「まさか! そんなはずないじゃない。こっちこっち」
小傘さんの声が、いつのまにかずっと左手に移動していました。
「ほら見てごらんよ、早苗!」
その声に、私は瞑っていた眼を開いて、
「………………うわぁ」
そのまま、言葉を失いました。
私の正面、真っ直ぐ続く通りのずっと向こうに赤々と沈んでいく夕陽が、何に遮られることもなく目に飛び込んできたのです。
並ぶ商店も、所々に植わっている並木も、セピア色に照らされて輝いていました。屋根の端から零れる雨水が、宝石のように煌めいていました。
それだけではありません。でこぼこした道の上に雨が降って、通りにはそこかしこに大きな水溜まりができています。まるで鏡のように澄み渡ったその水面は、夕焼けの放つ光たちを余すところなく反射させていたのです。虫食い穴のように空を大きく穿たれた地面は、地表から10センチ下を真っ直ぐな平面でスライスして町ごと空に浮かべたような、そんな素敵な錯覚を私にさせました。
それは多分、私が今まで見たどんな夕焼けよりも美しい空でした。
「驚いた? 驚いた? この場所はね、里の中でもいっちばん綺麗に夕焼けが見られるところなんだよ」
私から見て太陽の少し上に浮かぶ小傘さんは、逆光を背中に受けながら笑います。
「私さ、雨が好きだから、雨が上がるときも何となく分かるんだ。だからさ、今日は凄く綺麗な夕焼けが見れるって思ったんだ」
そして、空中で独楽のようにくるくると回り続けました。
私は知っています。これは小傘さんが最高に楽しんでいるときの仕草だと。
「あはははは! もうお腹いっぱい! 早苗ったら驚きすぎ!」
はるか遠くの山の端に、大きな太陽が触れました。そのまま、鉄板に押しつけられた氷のように削られていきます。
町を染める紅は、いよいよ濃さを増しました。
少しだけ風が吹いて、するとすぐ側でぴちゃんと雫の跳ねる音。
視線をそちらに向けると、大きく波紋を広げた水溜まりが目に入りました。どこかから吹き飛ばされてきた雨粒がそこに落ちたのでしょう。
私はその波紋を近くで見てみたくなって、水溜まりの淵にしゃがみ覗き込みました。
そしてそこで、信じられないものを見たのです。
「……あ」
少しずつ青さを失っていく空を背に、セーラー服を着た私が、同じ顔で笑っていました。
大量の思い出がいっぺんに、不意を突かれた私の頭の中へ蘇ります。
待ち合わせて登校した通学路。退屈な授業中に、こっそりと交わす目配せ。机をくっつけたお弁当タイム。放課後の教室で、何でもないことをいつまでもお喋りしていたこと。
反射した巫女服が、波紋によって歪められてそう見えただけかもしれません。セピア色の町が見せた、気紛れな錯覚かもしれません。
でもここは、幻想郷なのだから。もっと素敵な現象が起こっていたっていい。
あの私は、もうひとつの世界の私。幻想を選ばなかった世界の私。この水溜まりは、世界と世界を繋ぐほんの一瞬の奇跡。
「もしかしたら」をうじうじと悩んでいた私に与えられた、最初で最後のチャンス。
そう信じてみたら居ても立ってもいられなくなり、向こう側の私に私は気付けば問いかけていました。
「ねぇ貴女。今、幸せ?」
向こう側の私も、同じことをこちらに問いかけました。声は聞こえなくても、唇の動きで分かります。
彼女は変わらない笑顔でこちらを見つめていました。それだけで、今の私には十分でした。
きっと向こう側の私にも、こちらの思うことは伝わってくれたでしょう。
セーラー服の私の後ろに、もうひとつの影が現れました。それは、
「え……?」
懐かしい親友の姿。
あの日、「また明日ね」と言ってくれたときの笑顔のままで、彼女はそこに立っていました。
私がたまらなくなって、思わず背後を振り返ると。
「うぉっ! なぜバレたし」
そこにはいたのは、抜き足差し足忍び足で近づいてきていた小傘さん。
いつの間にか私の背後をとっていた彼女は、最後にやっぱり古典的な方法で驚かそうとしたのでしょう。いつもの両手を広げたうらめしいポーズが、夕陽の中で無駄に輝いていました。
「……言ったでしょう。貴女の気配なんて、私はもう眠っていたって読めます」
「うー、ちくしょう。もいっぱつ驚かせてカンプなきまでに叩きのめしてやろうと思ったのに」
「そう易々とのめされてはあげませんよ。ていうか、私を叩きのめそうとするということは、逆に私に叩きのめされるかもしれないという危険を常に覚悟してきているってわけですよね?」
私が御幣をびしりと突きつけると、小傘さんは驚いて跳び上がりました。
「ちょっ! 何でそうなるの? 暴力反対!」
「人を驚かせるような悪い妖怪は、きちんと退治しておかないと。こんなこともあろうかと、いつもスペルカードは持ち歩いていますから」
「いやぁぁぁぁぁぁ!」
脱兎のごとく邪悪な妖怪が逃げ出していきます。私は、でもその背を追いかけていくことはしませんでした。
そして弾幕の代わりに、彼女に言葉を小さく放ちます。その一言は、「ごめんなさい」よりも少しだけ、私には言い難かったのです。
「ありがとう、小傘さん」
その影は瞬く間に小さくなってしまったので、この声はきっと届いていないのでしょう。
今度会った時には、もう少し優しくしてあげようかな。
そんなことを考えながら、私は夕飯の支度をするために、急いで神社への帰り道を走り出したのでした。
早苗の心情や周りの風景がありありと思い浮べられました。
まぁそんなこまけぇこたぁいいんです。
今が幸せに感じられるなら、そんなこと考えもしないわけで。
たまーに落ち込んでそんなこと考えて、そいでまた明日幸せに生きれるようにすればいいんです。
ほら、明日の幸せのために あやまることが出来る今、世界がもっと綺麗に見える、でしょう?
……そんな綺麗な奇跡が見えました。
頑張れ早苗さん
とても綺麗でした