きゅっ……きゅっ……きゅぅ……
てのひらににじみ始めた汗と一緒に、何もないように見える空間を掴む。
閉じたり開いたりを繰り返しているのは右手。左手はふいごを持ったりハケを持ったりと様々だ。
ぱらぱら、さらさら……かつーん……
物がほとんどない、ただ広いだけの地下室だから、何か硬い物が下に落ちただけで音がよく響き渡る。
でも落ちた物には関心を払わず、それがあった場所を隈なく注視する。
大丈夫、やりすぎてはいない。むしろ手加減が効きすぎていたくらいだ。もう少しはいける。
頭の中で理想的なイメージを描きつつ、右手を握る。
きゅっ……からんっ
「ふぅっ」
思わず溜息をつくと、それにつられて砂埃が舞う。
上手くいった、ちょっと一休みしよう。
傍らに置いてあった簡素な丸机に小道具を、椅子にお尻をそれぞれ置く。
そうして、私は目の前のものをざっと見渡す。
立っているのは、等身大の私の立ち姿――真っ白な大理石で出来た彫像。
背中に二つの翼を広げ、右手には魔杖を携え、そして左手を開いて前に突き出している構えを取っている。
ただしまだまだ未完成の状態だ。頭部は顔と髪との区別がついていない有様だし、下半身に至っては「いしのなかにいる」始末。
ちなみにさっきは右の翼に細工を施していたところだった。
私は立ち上がり、像の後ろ側に回り込む。
木の枝のような形をした主骨格に、吊り下がる木の実を連想させる、しかし鏃のように鋭い羽根……
実に面倒な形をしているなぁ、と自分でも思う。この翼を彫り出すのが今のところ一番神経を必要とした。
だが同時に、ここを作り上げるのがもっとも心躍る場面でもあると思っている。
一瞬の判断ミスで取り返しのつかないことになってしまう、というのは実にスリルがあるもので、背筋がぞくぞくしてくるのだ。
同時に、成功させた時の満足感もひとしおだったりもするのだけれど。
私が彫刻を始めたのは、敬愛するパチュリー・ノーレッジ先生の奨めがあったからだった。
なんでも私の能力を制御するのに丁度良い行為だと判断したかららしい。
そうと決めるや、我らが忠実にして瀟洒なる従者・咲夜を召して、彼女に彫刻をする際の基本的な指導を任せた。
もっとも普通とは大きくかけ離れている私のやり方のせいで、咲夜には多大な苦労をかけてしまったけれど。
普通、彫刻というものは鋭利な刃物で木や石を削る行為だ。でも私はそれらを一切使わずに物を削ることが出来る。
種明かしをすると、私にはありとあらゆる物を破壊する、そんな程度の能力が備わっていて、それを彫刻に適用したのだ。
そんな程度、と私が思うのは、一度使ったらそれでおしまいで先がない、何も産み出さなくてつまらないと感じているからだ。
だから今まではあまりこの能力を進んで振るおうとはしてこなかった。
実際、彫刻を始めた頃は材料をただただ粉微塵にすることしかできず、嫌気が差していたものだ。
でも、偉大なるパチュリー先生はそんな程度のこの力に面白い応用方法を授けてくれた。
「対象全体の目を一手に集めるのではなく、部分的に集めるようにしなさい。
……一つしか無い?
無ければ自分で勝手に見出す、そのくらいの意気込みでかかるのよ。私とレミィは常にそうやってきたものよ」
物には目と表現されるものがあり、私はありとあらゆる物の目を右のてのひらに集めることが出来る。それを握り締めることで、物を破壊するのだ。
これまでは物の中には目が一つしか見えず、それを握り潰してしまえばそれっきりだった。
だから前述した先生の言葉は、私にとって目覚しい響きとなって耳を震わせてきた。何かが開眼した気分になれた。
もっとも、実際に開いていったのは物の中の一つ以上の目だったのだが。
ともかく、先生の助言のお蔭で、最初は困ったような表情しか浮かべていなかった咲夜も、次第に笑みをほころばせるようになっていった。
私自身もこの行為にだんだんとのめりこんでいった。
物の中にたくさんの目を見出し、それらのうち壊す必要があるところの目だけを集めて握る。逆に、壊してはいけない部位の目は拾わないように気をつける。
秩序だった破壊……とでも言うのか、それによって何かが作り上げられていく様は実に痛快だった。
「ケホッ……ちょっと埃っぽくなっちゃったかな」
回想に耽っていた私を現実に呼び戻したのは、大量に生み出してしまった砂埃だった。
地下室にこもって作業を続けていると、出てくる砂埃の量は洒落にならないことになる。もちろんこのまま蓄積していく一方というわけではないが。
この砂は優秀な掃除係である咲夜によって取り除かれ、パチュリー先生の錬金術を経て、紅魔館の建築資材として保管されることになっている。
そしてあの愚鈍で可愛い門番によって様々に運用されるのだ。たしか外壁や門の修築、花壇の建造などに使われていたような気がする。
「そういえば最近は会っていないけど、どうしているのかしらね、あの娘は」
言ってみて気付いたが、門番だけでなく先生ともご無沙汰だ。最近では、名前を覚えている者の中で顔を合わせたのは咲夜くらいだったか。
そう考えると、なんとなく他の皆の様子が気になってきた。口の中が埃っぽくて気分が悪い。喉も渇いている。
諸々の理由から、私は久しぶりに地上へと続く階段を踏み鳴らした。
紅魔館は窓が少ない。それは吸血鬼である私……達への配慮からそういう構造になっている。
この窓の少なさが建物内部への太陽光の侵略を遮っていた。
ただ、この館には吸血鬼以外の存在の方が多く住んでいて、そういった者達にとって採光がないことは実に不便であるらしい。
パチュリー先生はそのあたりの折り合いをつけるべく、館内に魔法の照明をいくつも設置し、生活に困らない程度に館を明るくしている。
でもこの魔法の照明も、館の大多数を占める者達――妖精メイドには今ひとつ馴染めないものがあるようだ。
まぁ彼女達は自然の具現だから、太陽の光が一番落ち着けるのだろう。
咲夜はそのあたりで抜かりなく、妖精メイド達の仕事場を定期的に入れ替えたり、太陽光の注ぐ所に休憩場を設けたりしてやっている。
紅魔館の運営を担っているのは、実質的には咲夜と先生であると言っても過言ではない。
偉そうなことを言うだけ言って威張り散らすことしかできないあいつではないのだ。
だが、誰もがあいつへの不満を口にはしつつも、本気で反旗を翻したり、逃げ出そうとする者は全く現われない。
他者を惹きつける魅力のことをカリスマと呼ぶらしいが、アレにはそういう類の物が備わっているのだろうか?
私にはさっぱり分からないことだが……
……いや、確かに私もあいつへの不満の種が尽きることは無い。でも、同時にあいつを害してやろうという気持ちも全く浮かんではこない。
理解できるかどうかはともかくとして、あいつには衆を惹きつけて止まない何かがあるのだろう。
「およ!? 妹様、今日は珍しくお出かけですか?」
考え事をしている私の耳に割って入ってきたのは、それなりに聞き覚えのある声だった。
声がした方に視線を向けると、そこには赤髪で赤紫色の装束に身を包んだ妖精メイドがいた。
この色の服を身に着けている妖精メイドの数は多くない。合計三人だったと思う。先生が選んで私に付けた、直属のメイド達。
その中でもこの娘は一つ飛び抜けた特徴を持っていたはずだ。名前は思い出せないが、たしか「直立不動は無敵の子」とか呼ばれていたような気がする。
「あら、お久しぶりね。元気そうでなによりだわ。地下にばっかり引き篭もっていると、皆の様子なんて全然分からないものなのね。
ところで一つ訊きたいのだけれど、この近くに紅茶が飲める場所はあるかしら?
いつもは咲夜が届けてくれるものだから、そういうことに疎くなっちゃったのよ。教えて下さる?」
「あぁ、ここからだとあたしら妖精用のダイニングが一番近いですね。この廊下を真っ直ぐ行って、つきあたりましたら右に折れて下さい。
そうすれば見えてきます」
妖精メイドは私の質問にすらすらと笑顔で答えていく。
彼女は強い者と対峙したときにもあまり恐れる素振りを見せない性格だった。
それは自身の持っている能力ゆえなのだろうか? 長い付き合いから、私は違うと思っているのだけど。
まぁ、私にとっては妖精メイドが私を怖がるかどうかには興味がない。あいつとは違って、別に下の者を脅しつけて統治する必要などないのだから。
「ありがとう」
「いえいえ、それではあたしはメイド長に用事がありますのでこれで失礼します。
あっと、ダイニングには窓がたくさんありますので、適当な子に命じてカーテンを閉じさせてから入って下さいね」
そう言い残すと、妖精メイドは小走りで駆け去っていった。そんなに急ぎの用事があるのだろうか?
訝しみつつも、私は彼女に言われたとおりに廊下を歩いていった。
入り口近くで談笑していた妖精メイド達に命令を発して、大慌てで作り上げさせた薄暗いダイニングに私は足を踏み入れる。
中では妖精メイド達が畏まった態度で壁際に並んでいた。皆、随分と緊張した様子だ。
視線を壁際からテーブルに移すと、その端の方に飲みかけの紅茶を入れたカップや、お菓子を載せた小皿がいくつも放置されている。
どうやら私は彼女達の憩いのひと時に水を差したみたいだった。
「ふぅ……紅茶をちょうだい。それを出してくれれば、後は自由にしていいわ」
溜息混じりに、私は一番手近な妖精メイド――黒髪おかっぱの、眼鏡の娘に告げる。
「は、はい! 直ちに」と、消え入りそうな声を上げ、その娘は小走りで厨房へ駆け出す。
それを見送りつつ、私は一番綺麗なテーブルの一席に腰を下ろした。
「それで、貴女達はいつまで壁の花になっているのかしら? さっきまでみたいにお喋りに花でも咲かせてなさいよ」
テーブルに両肘をつき、頬を両てのひらで支えるポーズをとる頃になっても、妖精メイド達は壁から離れようとしなかった。
だから私は彼女達にもう一度声を放った。彼女達の畏れる様など、心底どうでもよさげな調子で。
妖精メイド達はそれでもまだ躊躇っているようだ。互いに顔を見合わせ、ひそひそ声だけをほころばせる。
それが少し癇に障りかけたところで、厨房の方から凛とした声が響いてきた。
「せっかく妹様がご好意を賜っているのよ。それをありがたく受け取るのも侍従の勤めでしょう?」
軽く目を見開いて、私はそちらの方に顔を向けた。一瞬、眼鏡の娘が精悍な顔をしているイメージが頭をよぎる……
「……あら、咲夜じゃない。お仕事はよかったのかしら? さっき貴女のところへ妖精メイドが急いで向かっていたみたいだけど?」
しかし振り向いた先にいたのは、我らが愛する憩いの運び手、咲夜だった。その彼女が憩いの源泉をトレイに載せて近付いてくる。
なお、眼鏡の娘も咲夜の後ろにいることはいた。彼女は私の指定したものとは違い、クッキーの小皿を持ってきている。
自分勝手なことだが、ちょっとがっかりする。先程の言葉を彼女が口にしていたのならば、この上なく面白かったのに。
「ええ、これがそのお仕事ですから。あの娘にはこう伝えられただけですわ、『妹様が紅茶をご所望です』と」
咲夜は私の前にソーサーとティーカップを置きながら、質問への回答もくれた。
なるほど、あの娘の急用とはこういうことだったのか。こうなると憩いの届け手は咲夜ではなかったのかもしれない、直接的にはともかく。
それと……私は壁際に改めて視線を向ける。
咲夜の登場で空気が変わったのか、さっきまでは壁から動こうとしなかった妖精メイド達も、徐々に私が来る前の状態に戻っていった。
私はカップを傾けつつ、咲夜に命令しようとした。
「咲夜、忙しいところを悪いとは思うんだけど……」
「心得ております。大丈夫、急ぎの仕事はありませんわ。さて、最近は地下室でご熱心になさっていたようですが、作業は順調でしょうか?」
意図を汲んだ咲夜が、先手を打って世間話を仕向けてくる。
こうして私がお茶を飲み終わるまでの間、咲夜がこの場から離れなければ、この落ち着いた憩いの空間は保たれ続けるだろう。
統治の必要は無いとはいえ、咲夜と私とでは信頼感に差があるという事が、ちょっと悔しかった。……仕方がないか。
気を取り直して、私は咲夜の振ってくれた話題に乗る。
「ええ、何も問題はないわ。翼作りにちょっと手こずっているけど、そのくらいの刺激がないと楽しくはないわね。
……それにしても、パチュリー先生もどうしてこんな題材を仕向けてきたのかしら。自分の姿を作れって。
しかもその時に引用したのが……えーと、何だっけ?」
「『敵を知り、己を知らば、百戦して尚危うからず』、大陸の言葉ですわ。パチュリー様は幻想郷に来てからというもの、東洋文化に傾倒しているようですから」
「敵って誰よ、って話よね。あの人は一体誰と戦っているのかしら? 大体、己を知るってこういうことじゃないでしょうに」
「さあ? いつだったか使い魔の娘と一緒に図書館のミニチュア模型とゴーレムの集団を使って、館の一部を大いに汚していたことがありましたけど。
あの方もあれで、周囲を振り回すような言動をするところがありますから」
咲夜が言葉に苦笑を混ぜる。
同感の意を示すように私も笑ってから、クッキーに手を伸ばし、それを頬張った。
口の中で小気味良い音を立てつつ砕け散るそれは、歯に留まることなく舌の上を滑り抜けていく。
後に残るのは、上品な甘さと、香ばしい匂い。そして隠されていたフレーバー……血。
しかし、私への配慮として練り込まれたこの調味料は、かえって私の喉を焦がしてしまった。
私の中の、とある渇望が、煽られる――
紅茶のカップから手を離し、私は傍らに立つ咲夜を見上げ、無邪気たっぷりの、しかしある魔法を含めた声をかけた。
「ねぇ咲夜? 貴女の用意してくれた紅茶はとても美味しいのだけれども、ちょっと物足りないわね。濃密さが足りないの、具体的には」
「あら、申し訳ありません。薄味すぎましたか。次はもう少し濃いものをご用意致しますわ。ブラックというか、ブラッドというか……妹様?」
「ひっ!?」
咲夜の後ろ、律儀に控えていた眼鏡の娘の顔が真っ青になっていくのが見える。
無理もない。彼女は今、私の『恐ろしい波動』とでも言うべき音を間近で耳にしたのだから。
音の元である私は咲夜と向かい合う形で立ち、左手で彼女の右の二の腕あたりを掴んで横に開き、右手で左肩をしっかりと鷲掴んでいる。
そして左の頬同士を寄せ合い、咲夜の耳に甘く囁きかけた。
「駄目よ、そんなんじゃ私のこの苛立ちは治まりそうもないわ。今から貴女の首筋に牙を突き立て、干からび枯れ果てるまで血を吸い尽くす。
そこまでしないと私の渇きは抑えられそうもないの」
囁き終えた私の唇は次に咲夜の首近くまで運ばれる。
そのまま軽く開かれ、熱い吐息がそこから零れ、彼女の白い肌に浴びせかけられた。
だが、次第に昂揚していく私とは違い、咲夜の心身は小揺るぎもしていなかった。
「真に申し訳ありません、妹様。至らぬこの私に罰をお与えになるというのなら、しかとお受けしましょう。
ただ、先程おっしゃられた通りの事をなさるというのであれば……その、困りますわね」
やんわりと返って来た真摯そのものの言葉を聞いて、私は激情を冷ます。
弾かれたように咲夜の身を放し、私はまだ残っていた紅茶を一気に呷った。
そしてソーサーの上にカップを静かに置くと、わざとらしく頬を膨らませて見せる。
「おかわり! 全くもう、咲夜ったら性急すぎるよ。せっかく皆が作ってくれた薄暗い舞台があったから、ちょっと遊んでみようと思ったのに!
即興のサスペンスホラーとはいえ、もう少しくらい引き伸ばしてくれても良かったんじゃない?」
「粗末な顛末、重ね重ねお詫び申し上げます、フランドール様。とはいえ結構刺激的だったみたいですよ? ほら」
涼しい顔のままの咲夜が指し示す通りに見回してみると、妖精メイド達が互いに身を寄せ合って縮こまっている様子が映った。
眼鏡の娘にいたっては卒倒して、床に横たわっている。そんな彼女を咲夜は溜息混じりに抱き上げようとしていた。
一方の私は悪巧みが成功した時の子供のような笑顔を浮かべ、目を丸くして顔を見合わせ始めた妖精メイド達に示した。
「あらあら、大成功だったのね。貴女達、悪戯するのには慣れていても悪戯されることには免疫がなかったみたいだねぇ。
駄目だよぉ、そんなんじゃ」
「全くですわ。貴女達には突発的に始まるジョークを楽しむための、心の余裕というものがまだまだ足らないようですね。
お嬢様の『ぎゃおー! たーべちゃうぞー!』にはもう少しマシな反応をしてみせたというのに……はぁ」
「咲夜……ソレと同列に扱われるのはすっごい腹が立つんだけど?」
あら失礼、と反省の欠片もない言葉を残すと、咲夜は眼鏡の娘をそのまま抱えて、紅茶を淹れ直すべく厨房に下がっていった。
私は咲夜に追いすがることはせず、椅子に座って再び待つポーズをとった。
そして企てが上手くいってご満悦と言わんばかりの笑みを顔に貼り付け、複雑な内心を覆い隠す――
――また、つまらぬモノを壊してしまった。
咲夜が場を取り繕うのに協力してはくれたけど、渇望の衝動に振り回されて妖精メイド達の憩いの時間にヒビを入れてしまった。
何の旨味にもならない妖精達の畏怖と、中途半端な血のフレーバーが、よっぽど不快な組み合わせだったのだろうか?
私は……私達吸血鬼は、私達に恐怖を抱く人間の血をこそ至高の美酒と考えている。
だからどこの馬の骨ともわからぬ血のフレーバーをクッキーの中に覚えたとき、無性に足りていない成分が欲しくなった。
その衝動に突き動かされるまま、周りのことを気にせずに咲夜に恐怖を抱くように求めた。そんなことは無理であるとわかっていたはずなのに。
咲夜は私達の嗜好を充分すぎるほど理解している。だが、応えてくれることは決してない。
彼女は忠誠心が畏怖を遥かに凌駕しているのだ。
だから先程のように私が理不尽にも命を要求した場合、ただ困る、とだけ返答する。
そこには、身を投げ打つべきはこのような些事のためではないのに、という悩みはあっても、死をもたらさんとする私への恐怖など欠片もない。
そのあたりも自覚しているからこその、困る、という答えだった。
「お待たせしました。100パーセント植物の血税から搾り取られた、混じりっ気なしの紅茶ですわ。どうぞ心ゆくまでご堪能を」
すまし顔とおどけた口調、それから言うとおりの紅茶だけの香りを携え、咲夜が再び現われた。
「あら、さっきは濃密なブラッドティーを持ってくるとか言ってなかったかしら?」
「ですから、植物の血100パーセントのブラッドティーですわ。お口直しにはぴったりの目覚しい味だと思いますけど?」
カップを手元に置いてくる咲夜に軽口を返しつつも、私は内心、咲夜の気遣いを心身に染み込ませていた。
目を閉じつつ、私はカップを持ち上げ、ゆっくりとその中身をすする。そして一つ、静かな吐息を零す。
満たせぬ渇きに届くことはなかったけれど、気分は落ち着いていくように感じられた。
そんな折、硬質な音が小さく鳴った。見ると、先程のクッキーの小皿の代わりに、ビスケットの載った小皿が置かれていた。
私はそれを置き去ろうとする手を認め、そちらの方に顔を向ける。
驚いたことに、そこには卒倒していたはずの眼鏡の娘が立っていた。そして慄きつつも、私をしっかりと見てから喉をか細く震わせる。
「さ、先程は失礼をいたしまっ、した。こちらは、も桃のジャムをビスケットで挟んだものになります。お口に合う豊っ、と、よいのですが……」
「いただくわ」
紅茶の余韻残す口の中に、ビスケットを放り込む。
噛み締めるたびに広がるのは、濃密な甘さと、瑞々しい微かな酸味。それは私の口に滞っていた、中途半端な血のフレーバーを押し流すには充分だった。
ビスケットを飲み下した後で、私は感想を零す。
「悪くはないわね。私としてはもう少し酸っぱい方が好みなんだけどね、クランベリーとか。
でもまぁ、また食べたい味ではあるわ。次に貴女が紅茶を淹れるときは出してみなさい。期待してるから」
「は、はい!」
ようやく、眼鏡の娘にも笑顔が咲いた。
周りに視線を向けると、他の妖精メイド達も三度の談笑の様子を呈してくれている。多少のぎこちなさは残っていたけれど。
まったく、立ち直りが早くて助かる。妖精達のこの単純さが無性にありがたかった。
ふと、後ろを向くと眼鏡の娘の頭を撫でている咲夜と目が合った。彼女は私と目を合わせるや、満足そうに一つ頷いてみせた。
こうして紆余曲折を経てなんとか形になった憩いの時空間を、私は静かに満喫することにした。
ダイニングを後にした私は、当初の目的に沿うようにエントランスホールを目指した。そこを抜けて門に行けば、あの愚鈍で可愛い門番がいるはずだ。
ひょっとしたらシエスタの真っ最中かもしれない。ならば一つ、彼女の肝でも冷やかしにいくのも面白いかもしれない。
そう思ってエントランスホールと扉を一枚隔てた大広間に至ったとき、いっそう心躍る出会いがあった。
エントランスホールとの接点である観音開きの大扉を開けっ放しにしたまま、広間のど真ん中を堂々と闊歩していた人物の姿を、視野の右側に入れた。
その人物は、私が今立っている廊下へ向かおうとしていたようで、ちょうど進行方向を左に傾けようとしていたところだった。
私はその人物と目を合わせた瞬間、喉の奥に再びの渇望を覚えた。
先程、紅茶で充分に湿らせたというのに、この渇望は先刻以上の強い衝動となって内側を焦がすように駆け巡った。
そのまま黙り込んでいる私に代わって、対峙する人物の方からぎこちない声がかけられる。
「おお!? い、妹君じゃないか。久しぶりだな、ご機嫌麗しいようでなによりだ」
挨拶の中にもあったとおり久しぶりに目にするその人物は、リボン付きの黒い三角帽子を取って会釈してきた。
軽い首肯につられて揺れる、私と同じ金色の髪を備えたその少女は、少し引きつった笑顔で私を見つめ返してくる。
その表情に煽られる渇望を何とか抑え込み、私も笑顔で挨拶を返す。
「ええ、お久しぶりね、魔理沙さん。今日は一体どうしたのかしら、貴女にそんな風に挨拶されると、なんだか落ち着かないのだけれど?」
「あ~、いつものようにしているつもりなんだがな。抱かれているイメージとギャップがあるというのは真に遺憾だ」
帽子を頭に戻すついでに後ろ頭を掻くその少女の名は、霧雨魔理沙。魔法の森に居を構える、自称普通の魔法使い。
昔、私は彼女と一緒に弾幕ごっこで遊び、そして彼女は人間にして初めて私から白星を勝ち取っていった。
それ以外にも、ちょくちょくと紅魔館に堂々と侵入しては咲夜におやつをせびり、更に地下の図書館から本を持ち去っている。
そのことについて、以前私はパチュリー先生にコメントを伺ったことがある。
「え? 黒ネズミに本棚を齧られっぱなしでいいのかって? 何を言っているの、あいつは本を借りるだけ、と言っているのよ。
つまり私はあいつに貸しを作っているも同然。いずれこの貸しは返してもらうつもりよ。というか、最近一部返してもらったけどね。
蒸し暑い地底の奥底や肌寒い冬の雪山まで駆り立てて、異変の原因を調べさせたわけだし」
ということだそうで、先生もただ看過しているわけではないようだ。
そんな風に我が物顔で紅魔館に入り浸る魔理沙だけど、私の前では不自然なくらいに大人しくなる。
理由は明白、私がどういう存在であるかを知ってからというもの、恐怖心を抱くようになっているのだ。
彼女は一見大胆不敵のようで、その内実は繊細華奢なのである。もっとも、その外面を覆う鎧を難攻不落のものにする手腕は持ち合わせているけど。
以上諸々の事情から、彼女は私をなるべく刺激しないよう、鼠なのに猫を被るのである。
それが今においては逆効果であるとは露も知らない魔理沙に、私は最初に抱いた疑問をぶつける。
「ところで、門番はどうしたの? 貴女が正面から入ってきている以上、ただでは済んでいないのかしら?」
「いやいや、そんな殺生なことはしてないぜ。あいつは門の前で気持ちよく眠っているはずだ。何せ、夢見が良くなるキノコの胞子をプレゼントしてきたからな。
何なら妹君も試してみるか? 今はまだ日が昇っている時間だ。心身の健やかな成長に貢献できれば幸いなんだが」
矢継ぎ早に魔理沙は言葉を繰り出し、何とかこの場を穏便に切り抜けようとしている。
だが、彼女にとって非常に運が悪いことに、今の私の機嫌はあまり良くない……いや、直すための道筋が見えたからすこぶる良い、のか。
ともかく、彼女の望みを叶えてあげられそうもないことを哀れみつつ、私は私の渇望を満たすための言葉を紡ぎ上げていく。
「せっかくのお気遣いですけど、夢よりも楽しそうな現を前にしてしまった後ではその気になれないわね。
それよりも、最近私は地下室にずっと引き篭もりっぱなしで運動不足なのよ。だから思いっきり身体を動かしたい気分だわ、今は。
丁度良い遊び道具も飛び込んできてくれたところですし、ねぇ?」
一歩、両手をお尻の後ろで組んでから私は前に踏み出す。
「……あ、あ~、できれば気心の知れた連中と遊んで欲しいんだが?」
「あら、冷たいのね。貴女と私とはそういう関係ではないと言うのかしら? 昔はあんなに激しく一緒に踊った仲だというのに」
一歩、魔理沙とエントランスホールへの大扉を視界の正面に入れるように更に踏み出す。
それによっぽどのプレッシャーでも覚えたのか、魔理沙の足が後ろに退かれる。
「い、今だから言えるんだが、あの時ダンスについていけてたのは割と嘘だったんじゃないかと思うことがあるんだ」
「うふふ、じゃあ今日も私がリードしてあげるわ。貴女のステップ、久しぶりに私に見せて!」
私は魔理沙を見据え、後ろに隠した右手からスペルカードを一枚投げ上げた。
すぐさま左手で同側にある翼の主骨格の突端を掴み、力任せにへし折る。千切られた骨格はしかし、驚異的な再生能力により瞬時に元通りになる。
そして、左手に残った骨格の残骸も再生と伸長により別の姿へと変わっていく。
伸長の過程でスペルカードを刺し貫いたそれは、歪な曲線を描き先端に鋭い穂先を備えた漆黒の杖。
私はそれに魔力を込め、突き刺しているスペルカードに着火した。
「禁忌『レーヴァテイン』」
カードの名前を私が宣言し終わる頃には、先端の灯火は燃え盛る炎となって、杖全体を焼き尽くす勢いで飲み込んでいった。
すぐさま私は右手を添え、自らの左側を薙ぐように炎の杖を振り回す。杖はしかし、もはやそう呼べる規模ではなくなっていた。
私の左側にある壁を残さず焙っていくそれは、横に寝かされた炎の柱と呼ぶべきものだった。
「!!」
突然のスペルカードによる攻撃に、魔理沙は慌てて私の視野の右側へ飛び退く。
その魔理沙のいた場所――エントランスホールへの大扉と私を結ぶ直線上――を、燃え盛る炎の柱が飲み込んでいく。
だが、私は杖を壁際へ逃げた魔理沙のところまで振り抜くことをしなかった。否、できなかった。
杖を包んでいた炎が一瞬でかき消え、元の黒い色をさらす。
「ほら、ついていけてるじゃない? って、こんな単純な攻撃じゃ避けられて当然か」
私は壁際で青い顔をしている魔理沙に向き直り、軽く前かがみになって言葉をかける。
その間に私は、焼け爛れてしまいそうになった両手を再びお尻の後ろに隠す。
仮にも世界を焼いたかもしれない炎を素手で掴んだのだ、いかに吸血鬼の身体能力が破格といっても無事で済むはずがない。
不尽の炎をその身に纏う焼死しない人間や、愛宕のカグヅチをその身に降ろす月の姫巫女とは違い、外力に触れる以上は仕方のないことなのだが。
ともかくてのひらが再生するまで、間を繋ぐためのお喋りを試みるついでに魔理沙の表情をじっくりと窺う。
「さぁさ、エントランスへ逃げるための道はあつ~い熱気で塞がれちゃったよ。館から逃げるのが難しくなったねぇ?
先生から聞いたんだけど、魔理沙さんは自分の身を熱気から守る魔法はあんまり得意じゃないんだってね」
私の言葉を受けて、魔理沙が先程まで自分のいた場所を横目で見る。
広間の半分にいくつか炎が燃え盛る様を見つけ、そしてそこら一帯が陽炎で歪んでいる状態を認めたと思う。
そして開け放たれたままの大扉が完全に炎で封鎖されているのも認識したと思う。
ごくり、という音を私は確かに耳にした。揺らぐ両の目を私は確かに見出した、陽炎のせいではないと思う。
背筋を不快ではない何かが駆け巡った。こわがっている、魔理沙は私を、確実に。
でも、魔理沙はそんな揺れる両の瞳のまま、真っ直ぐこちらを見返してきた。
今度は、とっくに時を刻むことを忘れてしまったはずの心臓が大きく震えた。そんな錯覚まで抱いた――
――恐怖に押し潰されてしまいそうな、それでいてなおも目を反らそうとしない態度。
そんな魔理沙の在り様がこの上なく美しく、いじらしく、愛おしいと思う。
早く彼女の外面を保つ鎧にヒビを入れ、か細い首筋を露わにして牙を突きたて、醍醐味に富んだ甘露を味わいたい。
魔理沙の今の姿は私の渇望を酷く煽り立て、心を焦らしてくる。
いけない、これは神経を必要とする作業だというのに。
取り返しのつかないところまで魔理沙の心を壊してしまう、それだけは絶対に避けなければならないというのに。
今はスリルなど求めるべき状況ではない、と、いうのに……
「生憎だがな――」
「?」
「エントランスホールと繋がっているのは何もこの大広間だけじゃない、だろう!」
自らの衝動を必死でなだめている私の意識を更に乱すつもりか、魔理沙は突然口元を不敵に歪め、こちらを見据えたまま後ろに飛び退いた。
そして箒の尾を片足で踏んだまま柄は背後に向け、前を向いたまま高速で後ずさるという器用な真似をやってのける。
それだけに留まらず、スキルカード四枚を空中にばらまき、そこから緑色の球体を顕現させる。
「スプレッドスター、斉射!」
魔理沙の号令に応じて、緑色の球体は星型の弾幕をこちらに向けて乱れ撃ってくる。
その隙に魔理沙は壁に沿って後退し、やがて小さな扉のところまで至ると、それを蹴破って広間から横っ飛びで出ていった。
ご丁寧に、緑色の球体はそんな魔理沙の動きに追随しつつ、広間を出て行く最後までこちらに攻撃を加えてきた。
一連の攻撃を何とか避けきった私は、魔理沙が逃げ込んだ先を見つめ、くすくすと笑う。
「ひどい、魔理沙ったら、人を熊みたいに扱って……それにしても、まだまだ身動きが取れるくらいには大丈夫そうだね。油断したわ。
でも、絶対に逃がさないんだから。掴みかけた希望が最後の最後で取り上げられてしまうときの絶望、とくと教えてあげるわ」
魔理沙が逃げ込んだ小さな扉の先は、エントランスホールへと繋がる迂回路となっている。
長年の入り浸りの成果なのか、彼女は紅魔館内部の構造にかなり詳しくなっているようだ。
急いで追わないと逃げられてしまうだろう。彼女のスピードをもってすれば、多少の迂回など物の数ではないのだから。
私は端の焦げたカード付きの杖を投げ捨てると、新しいスペルカードをポケットから取り出す。
それを見上げる高さまで持ち上げ、筒状になるように丸めていく。
「秘弾――」
その筒状に変わったスペルカードを人の首に見立て、両てのひらで挟むように握りしめた。
「『そして誰もいなくなるか?』」
きゅっ
聞き慣れた音を耳に入れた直後、私は自分の身体が四散する感覚に包まれた。
そして私の身体のあった場所から弾け飛んでいくのは、合計九匹の、小さな蝙蝠の群れ。
一斉に翼をはためかせる私の変わり身達は、飛翔の軌跡に青白い弾幕を残しながら宙を翔け抜けていく。
向かうは標的、霧雨魔理沙の繊細華奢な首筋。
魔理沙の逃げ込んだ小さな扉を抜け、コの字型の迂回路の最初の曲がり角を折れる。
そして直線状の廊下を見ると、彼女の姿は既にこの奥にまで行ってしまっていた。流石に速い。
蝙蝠となった私達も必死で羽をはばたかせ、廊下を弾幕で埋め尽くしていく。
「来たか……!? ふん、なんだってそんな姿で追いかけてきたんだよ。私を攻撃して動きを鈍らせなくていいのか?」
魔理沙は今やしっかりと箒に跨って、廊下を矢のように翔け抜けている。
私達を見て妨害が無いと判断するや、スピードを更に上げた。みるみるうちに引き離されていく。
何とか追いすがろうとする私達をよそに、魔理沙は廊下の終わりを告げる曲がり角を折れた。すぐに扉を蹴破る音が廊下中に鳴り響く。
私達はその音を、ようやく半分を通り過ぎた廊下のところで耳に入れた。
壁の向こうではおそらく、魔理沙が安堵混じりの勝ち誇った笑みを浮かべていることだろう。ここからではその様子を確認できそうもないが。
――だから私は、視点を切り替えた。
「……今日は間が悪かったなぁ。まさかのっけから妹君に出くわした挙句、こうもあっさりと弾幕ごっこを挑まれるとは思わなかったぜ。
美鈴が突然うたた寝を始めたあたりから今日はツいていると思ったんだがな」
魔理沙の気が抜けきった声が届いてきた。
その彼女はエントランスホールを横切り、玄関に向けて真っ直ぐ飛んでいく。
と、途中で後ろを振り返り、先程通り抜けてきた小さな扉に向けて呟いた。
「すまんな、フランドール。今日の私は華麗にステップを踏むダンサーなどではなく、生理的に気持ち悪い動きをする蚤なんだ、サトリ曰く。
だからお前の期待には応えられそうもない。そんなわけで失礼するぜ」
冗談っぽく軽口を叩きながら手を振ると、魔理沙は改めて前に向き直り、玄関に向けて進みだした。
「あら、蚤だなんてぴったりじゃない。あいつらってたしかサーカスが出来るんでしょ? 曲芸が得意な貴女にとっては褒め言葉じゃないの?」
「お!?」
突然響いてきた私の声に一瞬戸惑うも、ただならぬ危険を感じたためか魔理沙は加速を急いだ。
私達はその様子を見下ろしながら、ホールの天井に吊り下げられたシャンデリアから飛び立つ。
そして玄関にいち早く向かい、二匹の私を交差させ、青白い弾幕をもって封鎖した。
「しまった!」
魔理沙の叫び声を耳に入れつつ、シャンデリアに潜んでいた私達はホールの壁際、天井、そして床を翔け抜けていく。
また、魔理沙を直接追っていた私達もようやくホールに至り、あらかじめ潜んでいた私達と同じように行動する。
みるみるうちにホールの天井、床、壁という壁が青白く塗り替えられていった。同時に、魔理沙の顔も蒼白になっていく。
その顔のまま、魔理沙は大広間への大扉のある方――今や弾幕に覆われていて見えなくなっている――を見て、苦々しくうなった。
「くそっ、忘れてたぜ。確かに今のお前達なら二手に別れて挟撃を企てる事も可能だったな。
あの炎を通り抜けてきたのなら、迂回したぶん私の方が遅かったというわけか」
シャンデリアの上に降り立ちながら、魔理沙は周囲を見渡す。
ホールの内側は猫の子一匹通る隙間もないほどに、青白い球体で覆われていた。それらは小揺るぎもせず、ただただ不気味に輝き佇んでいる。
逃げ道がないことを確認し終えたのか、魔理沙は視線を前に戻した。そこには、一匹の私が羽をはためかせて滞空していた。
「さあ、捕まえたわよ、魔理沙さん。今や貴女は籠の中の鳥。せいぜい羽ばたき囀って、私を満足させてちょうだい」
「……あ~、しょうがないなー。あまり気乗りはしないんだけど付き合ってやるぜ、背中がむず痒くなっても許してくれよ?」
(……ふふっ、背中ならさっきからずっとぞくぞくしているんだけど、ね)
ここまで追い詰められた状況に陥っても、魔理沙の鎧は未だ健在のようだ。
私を見据えるその顔からは、いつの間にか先程までの蒼白の様相が覆い隠されてしまっていた。
砕けぬ意志の尽きぬ限り、彼女は決してその内奥のか弱く儚い本質を露わにはしないだろう。
もどかしい、でも愉しい、苛立たしい、でも愛おしい――きゅっと、したい。
その想いに任せるままに、私は弾幕ごっこ開幕の宣言を下した。
「Gallows」
私は弾幕への命令を告げながら、頭の中でてのひらを握るイメージを描いた。
これが引き金となって、ホールを裏打ちしている一部の弾幕が変化する。
現在魔理沙はシャンデリアの上に立っているが、その彼女――厳密には彼女の首――目がけて、周囲から赤く変じた弾幕が収束を始めた。
「始まったか!」
首どころか全身を縛り上げる勢いで迫る首くくりの赤い弾幕を見て、魔理沙は箒の柄に腰掛けてシャンデリアからより天井側へ飛び立った。
むなしく彼女の足下を通り抜けていく赤の荒縄は、シャンデリアを吊るす鎖をくびり切り、その際の衝突の反動によって元の壁際まで戻っていく。
シャンデリアが重力に引かれ始める頃になって、私は次の命令を下す。
「Shuffle」
すると、天井側に飛び退いた魔理沙のまさに頭上から、一直線状に並ぶ青色のままの弾列が彼女を断頭せん勢いで落下した。
「おお!?」
魔理沙は慌てて頭上を見上げ、迫り来る青いギロチンの位置を確認する。
そして箒に腰掛けて見上げる体勢から、箒を支点として後ろに身体を倒した。
箒に両足を引っ掛けて宙吊りになる魔理沙の目の前すれすれを、青の弾列がうなりを上げて落ちていく。
しかし魔理沙はそこで身体を止めず、そのまま一回転するところまで身体を回し、元の姿勢に戻った。
直後、箒の真下を、壁から進み出ていた別の青い弾列が通り抜けていく。
体勢を立て直したところで、魔理沙は周囲をざっと走査した。床で甲高い音を響かせてシャンデリアが四散するも、そちらには目もくれない。
先刻回避した直線状の弾列は床と平行に直進し、そのまま向かい側の壁際にある弾幕の中に吸い込まれていく。
ギロチンの役割を果たしたものは床の弾幕と同化したのか、もはや存在してはいなかった。
他にも弾列が壁から壁、床から天井へ向けて進んでいたが、魔理沙の今の位置を脅かすものはなかった。
「Ticktack」
そんな魔理沙に向けて、私は次の命令を下す。それを受けて、彼女の真下、床の弾幕の一部が緑色に変じた。
横一直線の緑の弾列は床と壁の接点を支点として、魔理沙の右側目がけて起き上がり、時計の針のような旋回を始める。
「今度はこっちか!?」
壁までスイングされる針を避けるため、魔理沙は後方に退いた。
それを追いかけるように、床の弾幕が次々と緑色の弾列に変わり、魔理沙の両脇を狙って時計回り・反時計回りに交互に起き上がり始める。
しかし、それは素早い魔理沙を追いかけるにはあまりにも遅すぎた。振り上げられ続ける時計針と魔理沙との間の距離はどんどん引き離されていく。
ゆえに、その攻撃を中断し、私は天井の一弾列を緑色に変える。そして魔理沙の頭上を支点に定め、縦一直線の振り子を準備する。
狙うは魔理沙の進行方向上。彼女の逃げるスピードを逆手に取り、真正面から振り子をぶつけようとする。
一方、針と壁との衝突音が治まったことを不審に思ったのか、魔理沙は減速しつつ横目で背後を見やる。
今!
「……? うわ!」
だが、信じられないことに魔理沙は迫る振り子を間一髪、横っ飛びに大きく回避してみせた。
この檻の中に閉じ込める前とは違い、今回は危険を避けきったところで気を緩めることはしなかったようだ。
それでも私は魔理沙の体勢が大きく崩れたのを好機と捉え、続けざまに振り子を振る。
先程の時計針と同様、振り子もまた右、左、右と、一列ずつ交互に振るわれながら魔理沙を追い詰めていく。
「っふん、ただ追いかけるだけしか能が無いのか?」
しかし魔理沙は先程とは違う回避行動をとってみせる。
追撃の振り子が魔理沙に追いつく直前で、彼女はあえて振り子が揺れている中の方へ一気に翔けていった。
上手く潜り抜けたところの天井には、攻撃に使われただけ弾幕に隙間が出来ている。再充填するまでには少々時間が必要だった。
一度振られた振り子は戻ってこないという点に目を付けた見事な対処だと、私は密かに感嘆した。
「Choke! Hang!」
とりあえず手の付いてない壁の弾幕を彼女の首目がけて収束させておき、弾幕充填のための時間を稼ぐ。勿論、この程度の攻撃は魔理沙には通用しなかった。
彼女は余裕の体で、径を狭める黄色い一弾列の収束する瞬間に、箒を支点として足掛け後ろまわりをしてみせた。
そして首絞め縄がむなしく空を切った後で、身体を持ち上げる。
起き上がった魔理沙を、私は蝙蝠を収束させて元の姿に戻った状態で見つめる。そして両てのひらを数度打ち合わせた。
「あははっ、凄いわ! 本当に曲芸師に転向した方がいいんじゃないかしら? そしたら私、貴女を雇うよ、専属のクラウンとして。
毎日のように大スペクタクルを披露してもらえたら、それはそれは素敵なことだもの」
拍手喝采する私に、しかし魔理沙は冷ややかな視線と小馬鹿にするような笑みでもって応じた。思わず、拍手するてのひらを止める。
「おいおい、妹さまよ。こんな程度で大スペクタクルを私に演じさせているつもりか? 以前やりあった時と比べて随分とぬるいぜ。
久しぶりに地下から出てきたみたいだったし、カンが鈍ったのか?」
「! ……ふうん、たかだか小手調べ程度の攻撃を避けただけで、もう勝ったと思っちゃうんだ。それならお望みどおり、もっと激しく踊ってもらうよ!」
今やすっかり怯えの色が引っ込んでしまった魔理沙に、私は剣呑な声を叩きつける。
すぐさま右手を頭上に掲げ、一つの命令を下すとともに、てのひらをきゅっと強く握り締めた。
「Fruits basket!」
先陣を切ったのは、四色に変じた壁の弾幕。そのうちの緑色の一列が魔理沙の胴を薙ぎ払わんと旋回を始める。
上昇して回避する動きを読んで、赤、橙、黄の荒縄が径を萎ませる。
それを見て魔理沙は方向を転換、縄の円環が閉じてしまう前に、前に直進してその隙間を潜り抜ける。
すぐさま頭上に警戒しつつ下降、遅れて落下してきた青色のギロチンを後退してやり過ごした。
ふと、魔理沙がこちらを見て、口元を不敵にゆがませる――私と同じ高さにいれば、壁の弾幕は動かせないことを見切ったのか。
眉をしかめて、私は縦長の緑のカーペットを敷き、魔理沙の真下を支点にして彼女の背中へ向けて旋回させる。
しかし魔理沙は余裕の表情で、床と平行に動いて避けた。
私はその間に天井側へ動き、左右のてのひらを交互にきゅきゅっと握り、橙と黄の荒縄で魔理沙を吊るし上げようとする。
波状攻撃を回避され続ける惨状を目の当たりにして、しかし私は密かに視線に陶酔感を混ぜていた。
心の奥底では恐怖を抱き、なんだかんだとこちらを避けようとしつつも、腹をくくった時には全力で挑み、こちらの目と口を丸くさせる。
自分が恐怖心に屈してしまうのを潔しとせず、勇気をふりしぼって余裕の体を示す、負けん気の強い魔理沙の姿が私は一番好きだった。
他の、今まで出会ってきた人間にはこのような気持ちを抱くことはなかった。もっとも咲夜と魔理沙を除けば、あとは巫女しかいないけれど。
その巫女は、全てを平等に取り扱うと聞いている。実際私と対峙し、私がどういう存在であるかを知ったときも、眉一つ動かさなかった気がする。
全てを平等に、というのは何者も見下しはしないと同時に、何者も見上げないということである。勿論、何かを畏怖することもないということだ。
それは、妖の身である自分としては、ちょっと物足りなく、寂しいと思う。
「どうした、妹君!? 不満そうな顔で駄々をこねてるだけじゃ、敵は落とせないぜ?」
少し思考が他所に逸れてしまった私を、魔理沙の声が叩いた。そこには汗を浮かべ、息を弾ませながらも無傷の彼女がいる。
それでいい、彼女を捕まえるのは無粋で乱暴な弾幕などではなく、この私自身の両のてのひらでなくてはならない――
心の内とは裏腹に、私は激昂した叫びを向ける。
「ああもうっ、ちょこまかと鬱陶しいわね! もういいよ、全弾幕をもって貴女を『いなくなった』ことにしてやるんだから!」
床近くの低空から見上げてくる魔理沙を見下ろしながら、私は両手の指を絡ませ、てのひら同士を合わせた。
きゅっ
てのひらが歌うと同時に、壁から緑の列柱が左右交互に傾き始め、天井から青い断頭の刃が落下し、暖色の縄束の径が徐々に縮んでいく。
魔理沙に抱いている気持ちはどうであれ、彼女が余裕を取り戻している今の状況は私にとっては都合が悪い。もう一度怖い目に遭ってもらわなければ。
私は魔理沙の顔に視線を集中させ、表情の変化を追いかけようとする。
ところが、魔理沙は顔を身体ごと反転させてしまった。そして右手で火炉を、左手でスペルカード二枚を取り出す。
すぐさまカードを火炉に投げ込み、箒の尾に固定した。火炉は、くべられたカードを燃やし、灰の代わりに星屑を宙に焚き上げる。
「もらったぜ、魔符『スターダストレヴァリエ』!」
魔理沙は叫ぶや、箒の突端の向く先、玄関へ全力で加速を始めた。丁度、収束しかかっていた一条の縄の隙間を抜けて、私から遠ざかっていく。
彼女の航跡には光り輝く星屑が、進行方向とは逆向きにいくつも吹き荒れ――
魔理沙目がけて収束していた私の弾幕と衝突し、それら全てを相殺していった。
閃光と爆音が、エントランスホールの中を埋め尽くした。
「はっはっはー! どうだ、私の花火は? 暗闇を見通す程の目を持っていたとしても、星なる光を目の当たりにしてはひとたまりもあるまい、なんてな」
そんな中、魔理沙の愉快そうな笑い声がやけに大きく響いてくる。
「お、私のにらんだとおり、入り口前の弾幕も攻撃に動員していたようだな。随分と手薄になったもんだ。うまく挑発に乗せられてくれたようで重畳。
……じゃあな、フランドール。骨折り損だったが、スリリングなスペクタクルも儲けられて楽しかったぜ」
重々しい音を響かせ、紅魔館の入り口が開かれる――
――そこで私は、安堵の表情を浮かべる魔理沙の帽子をくわえ、下に強く引っ張った。
「うわ!」
外への希望の光を奪われ、魔理沙はその場で帽子を持ち上げようともがいた。その隙に一匹の蝙蝠となっていた私は元の姿に戻る。
そして勢いあまって帽子を脱ぎ捨ててしまった魔理沙の目を、背後から両てのひらで覆い隠した。
同時に翼の主骨格を複雑に折り曲げ、魔理沙の両腕にイバラの蔓のごとく絡ませ、磔刑に処す。
「……なっ!? ど、どうして――」
完全に私に羽交い絞めにされた状態のまま、魔理沙は驚愕で混乱しきった叫び声を上げる。
対照的に、私は努めて静かな調子で言葉を紡ぐ。
「この世で最も速いもの、それは光だってよく言われるけど、それは物理的な話。本当に一番速いのは未来を予知して先回り、らしいわ。あいつ曰く。
たまにはあいつの言に従って、貴女がどう動くかを予想してみたの」
「お前、まさかっ!?」
「運命が分かるのかって? あいつじゃあるまいし、そんな世迷言なんて言わないよ私は。ただ単に、貴女の心理と行動を洞察しただけ。
今日の貴女は徹底的に逃げ腰だった。帽子の中身を明かしてみせたり、うっかり洩らした本音も弱気なものだったり、何より攻撃精神に欠けていた。
たぶん、逃げる事を絶対に諦めないだろうな、って思ったわ。誰とも争うつもりはなくて、装備が不充分だったのかしら?
私もね、普段どおりなら見逃してもよかったの。でも、残念だけど今日の私は普段どおりじゃなかったのよ」
魔理沙の後ろで淡々と囁きながら、私は両てのひらを彼女の目から離して首元に持っていった。そして服の襟元に手をかけ、ゆっくりと解いていく。
同時に、私は自分の声の質を変え、『恐ろしい波動』を含ませた。
咲夜の心にはヒビ一つ入れられなかったこの魔法だが、心が疲弊しきっている今の魔理沙には充分過ぎるほどに通用するだろう。
思ったとおり、魔理沙は私の突然の狼藉に慄き、上ずった声をあげた。
「んぁっ、な、何を」
「今日の私はね、貴女の血が欲しくて欲しくて、抑えが効かなかったの。貴女と偶然出会ったときは、あいつの言う運命ってやつを信じてもいい気になったわ。
だからね、絶対に貴女を見逃すわけには、いかなかった……」
耳朶はおろか全身さえ震わせかねない旋律を産み出しながら、いかなる彫刻家でも作れないような滑らかな曲面に、私は八重歯を触れさせる。
「っひぃ――グッ!?」
魔理沙の喉の奥で悲鳴が生まれる兆しを聞きつけた私は、彼女のか細い首に両てのひらを這わせて、軽くきゅっとした。
気絶し、首が前に傾いた後で、私は唇を魔理沙の耳元へ持っていく。
「安心して、魔理沙。貴女の悲鳴も、涙も、身体の震えも、誰にも渡したりはしないから。勿論、私もそんなものはいらない。
……ただ、貴女の血の味に、それを感じられたら、いい」
そして私は、一対の牙を魔理沙の首筋に突き立て、紅い穴を刻んだ。
したたり落ちてくる美酒を一滴たりとて零すまいと、私は舌ですくい取り、喉に流し込む。
渇望が、満たされていく。
私は当初、魔理沙の血はえも言われぬ官能と恍惚をもたらしてくれると思っていた。
でも、今の私の胸の内に生まれてくるものは、静かで暖かな安らぎだった。
安息が訪れて衝動が薄れていったためか、私は項垂れている魔理沙に対して罪悪感を覚える。
こうして、一方的に自分の我儘をぶつけ、何かを壊さずにはいられない自分が、少し哀しかった――
私は再び顔をあげ、両腕を魔理沙の身体に回して、きゅっと抱きしめる。
そして見ることのできない顔に思いを馳せながら、唇だけを動かした。
――ごめんね、魔理沙。でも……壊すことでしか示せない、私の想いをどうか受け止めてほしい――
で
も
フランちゃん
吸い過ぎると
魔うよ
理ゃ ウ
沙ち フ
壊れ フ
普通に危ない妹君と、獲物となる魔理沙、どちらも魅力的です。
魔理沙も一枚上手の猛獣に恋されて、なんとも災難ですな。