<注意事項>
妖夢×鈴仙長編です。不定期連載、全12話予定、総容量未定。
うどんげっしょー準拠ぐらいのゆるい気持ちでお楽しみください。
<各話リンク>
第1話「半人半霊、半熟者」(作品集116)
第2話「あの月のこちらがわ」(作品集121)
第3話「今夜月の見える庭で」(作品集124)
第4話「儚い月の残照」(作品集128)
第5話「君に降る雨」(作品集130)
第6話「月からきたもの」(作品集132)
第7話「月下白刃」(作品集133)
第8話「永遠エスケープ」(作品集137)
第9話「黄昏と月の迷路」(作品集143)
第10話「穢れ」(作品集149)
第11話「さよなら」(ここ)
最終話「半熟剣士と地上の兎」(作品集158)
静かの海は、凪いだ水面に、夜の闇と淡い光を映している。
その光の主は、振り仰いだ頭上に青く輝く、地上の光だ。
砂浜に足跡を残しながら、豊姫は水際に歩み寄る。
真円から小さく欠けた地上の光を見上げて、はあ、とひとつため息。
――依姫は今頃、地上でどうしているだろう?
サキムニは見つかっただろうか? あるいは、昔のレイセンも、もしかしたら。
そして――自分たちの師。八意様とも、あるいは。
ずるい、と子供のように頬を膨らませてはみるものの、依姫のいない今、自分まで月を離れるわけにはいかない――ということも解っている。その程度の分別はあるつもりだ。
あるいは、あの愚かしい地上の妖怪の計画が、まだ終わっていないかもしれないのだから。
「……あの妖怪は、何を月に求めているのかしらね」
見下ろした水面が微かに揺らぎ、真円を描く地上の姿が歪に滲む。
――豊姫は、そこで気付いた。地上の形がおかしい。
月から見える、今の地上の形は真円であるはずがない。それは数日前に過ぎたはずだ。
だとすれば、この水面の地上は偽り。豊姫は咄嗟に頭上を振り仰ごうとして、
水面の光が砕けた。
その影は音もなく、水面に降り立って――右手を振るった。
顔を上げた豊姫の首元に、それは静寂を切り裂いて、突きつけられる。
八雲紫の手にした扇子が。
「こんばんは。ご無沙汰しておりましたわ、月の使者様」
「――八雲紫」
どうして、とは問わなかった。問うまでもないことだったから。
何を求めているとしても――彼女がここに来るなら、今よりも絶好の機会は無い。月の都の最大の防波堤である依姫が居ないのだ。それはほとんど、無防備と等しい。
依姫の戦力は一にして八百万。妹は強すぎた。強すぎるが故に、月の都の防衛をただひとりで妹は託されていた。滅多に侵入者など無い月の都だ、それで十分すぎた。
あのとき、地上の民が全く隠れる様子もなく、ロケットでやってきたときもそうだ。
侵入者の捕縛、撃退に動いたのは、依姫とその部下たちだけだった。
他の月の民は、侵入者に気付いても、何もしようとしなかった。
――月は、永すぎる安寧の中で、外敵を怖れることも忘れてしまったのかもしれない。
だからこそ――今、こうしてみすみす、八雲紫の侵入を許すのだ。
「……ようこそ、静かの海へ。今度は迷わずたどり着けたようですね」
「ええ、ここに来るまで、本当に永かったわ」
目を細めて紫は言う。豊姫はふっと息を吐き、薄く笑った。
しかし、自分の前にわざわざ姿を現したことが、八雲紫の敗因だ。
こうなっては、始末する他ないだろう。あのとき地上から現れた鴉のように――。
「おっと――いつぞやの前鬼のように殺されては敵わないわ」
紫が顎をしゃくった。豊姫が振り向くと――背後に、見覚えのある人間の少女がいた。
あの騒ぎのとき、依姫の嫌疑を晴らしてくれた人間の巫女、博麗霊夢だった。
「貴方は……」
「霊夢」
紫の言葉に、霊夢は小さく肩を竦めて、近くに佇んでいた枯れ木に軽く触れた。
――次の瞬間、枯れ木がざわめき、薄く光る白い花を、一面に咲かせる。
豊姫は息を飲んだ。あれは優曇華の樹。穢れに咲く優曇華の花が、あれほどの満開を見せるということは――博麗霊夢が今、背負っている穢れは。
「霊夢は今、大禍津日神をその身に宿しているわ。大量の穢れとともに、ね」
「――――」
「貴方がここで私たちを殺せば、宿主を失った大禍津日神が、その身にため込んだ穢れを月にばらまくわよ。そうなれば――月がどうなるか、貴方なら解るでしょう? 綿月豊姫」
言われるまでもない。豊姫は歯がみする。
今、月には依姫がいない。一年前のように、その力で穢れを祓うことはできない。
個人がため込んでいるなら幽閉すればいい。しかし、宿主を失った大量の穢れが月にばらまかれたら、月の民に為す術はない。
月の民が最も怖れた寿命が、月に訪れてしまう――。
「――要求は何かしら? 八雲紫」
「あら、存外と素直ね」
「わざわざこんな形で脅迫をかけてくるということは――単なるテロが貴方の目的ではない。そういうことでしょう」
「理解が早くて助かるわ。うちの式とは大違い」
紫はどこか楽しげに笑って――そして、不意にその顔から表情が消えた。
能面のような顔で、紫は豊姫を見つめる。豊姫は眉を寄せた。
今、目の前にいるのが、誰なのか――豊姫には、一瞬解らなくなった。
「―――」
紫が、誰かの名前を口にした。豊姫の知らない名だった。
「この月に閉じ込められた、地上の民がいるでしょう」
平板な声で、紫はそう問うた。豊姫は小さく唸った。――地上の民? 地上からやってきた者を幽閉などしていない。今、月の都に幽閉されている人物といえば、
「……嫦娥様のこと?」
「あら、貴方たちは―――をそう呼んでいるの?」
「八雲紫、貴方の言う名は知りませんが――地上に落とされ、今月の都に幽閉されているのは嫦娥様の他におりません」
「地上に落とされ……ね。――そう、そういうこと……」
一度顔を伏せ、そして紫は静かな笑みを浮かべて、ひとつ首を傾げた。
「彼女のところへ、案内してくださる?」
「……それが貴方の目的ですか、八雲紫」
紫は答えない。豊姫はひとつ首を振って、問いを変えた。
「貴方は――彼女の何だというのですか」
その問いに、紫は間髪入れることなく、ただ一言で答えた。
「相棒よ」
虚を突かれた豊姫の眼前、紫は――愛おしむように、ゆっくりと、言葉を重ねる。
「約束したの。――ずっと一緒にいるって。ふたりで、世界の不思議を探し尽くすんだって。どんなときも、私たちはふたりでひとつだから――どこで迷っても、必ず連れ戻すからって」
その顔は、穢れた地上に這いつくばる妖怪の賢者ではなく。
ただ、落とし物を泣きながら探して彷徨う、幼い少女のように、豊姫には見えた。
「私の、大切な、世界でたったひとりの、世界すら引き替えにしたっていい――相棒なのよ」
海は、凪いでいる。
静寂を敷き詰めた闇の中で、偽りの真円の光が、小さな波紋を浮かべて――潰えた。
第11話「さよなら」
1
永い夜が、明けた。
◇
普段より、いささか住人の増えた永遠亭の朝は、それでも穏やかにやってくる。
「……本当、鈴仙が来てからは、あの子に任せっきりだったわね」
台所に立って朝食の支度をしながら、永琳はそうひとりごちた。
鈴仙が永遠亭に転がり込んでから数十年。気が付けば家事のほとんどを、鈴仙に任せるようになっていた。おかげで、鈴仙の居なかった昨日から食事の支度をしているが、未だにどこに何があるのか、食材は何があって何が無いのか、把握しきれていない。
――これから、覚え直さないといけないかもしれないわね。
コトコトと目の前で湯気をあげる鍋をかき回しながら、永琳は目を細める。
気付けば、あらゆることが当たり前になっていた。
鈴仙がここにいること。自分の弟子を名乗っていること。永遠亭の家事全般を鈴仙が取り仕切るようになったこと。外と交流を持つようになり、鈴仙を外にお使いに出すようになったこと。――何もかも、はじめは永遠亭にとって、想定外の出来事でしかなかったはずなのに、動き出した時間は、全てを日常に取り込んでいく。
永遠とは、不変であることだ。
逆に言えば、変化のある限り、それは永遠ではあり得ない。
だとすれば――鈴仙がここにいる日常は、決して永遠ではあり得ないのだ。
解っていたはずだ。そんなことは、最初から理解していたはずだった。
けれど――自分や輝夜が永遠に生き続けるように、鈴仙がここにいる日常も、また永遠に続くかのように錯覚していた自分がいることを、永琳は否定できなかった。
「――八意様」
不意に呼びかけられて、永琳は振り返る。こちらを怪訝そうに覗き込んでいたのは、かつての弟子だった。永琳は笑って、「おはよう、依姫」と応える。
「おはようございます。……あの、これは」
「朝ご飯よ」
「そんな、八意様がそのようなことを――」
「今の鈴仙にやらせるわけにもいかないでしょう」
永琳の言葉に、依姫は押し黙る。食器を用意しながら、ふと永琳はひとつ首を傾げた。
「依姫、貴方たちは食べる?」
「……地上のものを、ですか」
「いいのよ、抵抗があるなら無理はしなくても」
眉を寄せた依姫に、永琳は苦笑した。月の民ならば、当然の反応だ。
肉、魚、穀物、野菜――いずれにしても、それは殺生には違いない。だとすれば、地上の食事などは、月の民にとっては穢れの塊のようなものだ。
しかし、食事という行為が生存のための本能であり、穢れの本質が生への執着である以上、何かを食することで己の命を保とうとする行為は、本来全て穢れを孕むのだ。何を食べたところで――たとえ月の桃であろうとも、それは変わらない。
「八意様。穢れの本質は、生への執着、と仰いましたね」
「ええ、そうよ」
「――だとすれば、穢れを怖れて地上のものを口にしない、という行為も、死を怖れる……生への執着である以上、穢れを孕むのでしょうか」
「依姫、そんなに難しく考えることはないわ」
鍋の味見をしながら、永琳はひとつ肩を竦めた。
「地上の食べ物を口にしようがしまいが、大した問題ではないの」
「――――」
「貴方たちの――月の民の怖れる穢れとは、この地上への執着。貴方があくまで月の民として、月へ帰るためにここにいる以上は、貴方は大丈夫よ」
「……そういうもの、なのでしょうか」
「そういうものよ。私の言うことが信用できない?」
「いえ、そのような」
慌てて首を振る依姫に、永琳は笑って、「そうね」とひとつ手を叩いた。
「せっかくだから、依姫。朝食の支度を手伝って頂戴」
「――は、はい?」
依姫は、呆気にとられたように目をしばたたかせた。
◇
病室の窓から、静かに朝の光が差し込んでくる。
敷かれた布団の上には、眠るキュウの姿。顔にあてられたガーゼと、毛布の下に見える包帯はまだ痛々しかったけれど、その寝顔は安らかだった。
その傍らには、うつらうつらと船をこぐシャッカと、畳に横になるサキムニの姿。
そして――キュウの寝顔を見下ろす、鈴仙の姿がある。
キュウの蒼い髪に光がさして、鈴仙は窓の方を振り仰いだ。鬱蒼とした竹林に降り注ぐ陽光に目を細め、それから鈴仙は息を吐く。眠ってはいなかったけれど、眠気は全く無かった。
前日の夜、永琳から投げかけられた問いかけ。
その答えを、出さなければいけなかったから。
「ん、ぅ……」
微かに、キュウがむずがった。その声に耳を立てて、向かいのシャッカが顔を上げる。キュウ、と呼びかける声に、鈴仙の傍らで横になっていたサキムニも目を覚ました。
「んー……シャッカ? てーことは……天国じゃないかぁ」
「馬鹿」
キュウの頬に手を添えて、シャッカが泣き出しそうな顔で笑う。キュウは身体を起こすと、シャッカの髪をくしゃりと撫でた。シャッカが慌てて再び寝かせようとすると、「大丈夫、大丈夫」と笑い――こちらを振り向く。
「ああ、そっか、サキもここにいたんだ」
「キュウ……ごめん、私」
「全く、水臭いなあ、サキったらさ。なんで相談してくれなかったのさ」
俯くサキムニに、キュウはそう脳天気に笑って――鈴仙の方を振り向く。
鈴仙は目を見開いた。キュウは目を細め、鈴仙に笑いかける。
「レイセンを探しに行くんだったら、言ってくれればあたしだって協力したのに。なんで勝手にひとりで行っちゃったのさ。ホント、水臭いよ。友達甲斐がないなぁ。自分勝手はそこのレイセンだけで十分だよ、全く」
呆れたような調子で、キュウは言う。それは、鈴仙の記憶と変わらないキュウの長広舌。サキムニはその言葉に目を見開いて、それからまた俯き、「……ごめん」と呟く。
「ああいや、責めてるわけじゃないって。やだなぁサキ、そんな辛気くさい顔しないでよ。あたしは別に怒ってないし、シャッカだって怒ってないから、ねえ、シャッカ?」
「えっ、あ、え……と、ま、まあ……」
急に話を振られ、シャッカはどこか憮然とした表情で頷く。
「それよりサキ、もっと喜びなよ。ほら、レイセンが無事で見つかったんだからさ。どのくらいぶりだっけ? いやもうホント、元気そうで良かったじゃんさ。ね、レイセン」
脳天気にそう笑って、キュウはこちらを振り向く。鈴仙は小さく息を飲んで、それからキュウの、その顔や腕の痛々しい跡に、目を伏せる。
「だーもう、だからレイセンもそんな辛気くさい顔しない! せっかくの再会が台無しじゃんさ! だーれも怒ってないってさっきも言ったじゃん」
「……キュウ。その、怪我……」
「ああ、だからこれは平気だってば。まだちょっと痛いけど、こんなの――」
と、キュウは包帯の巻かれた腕で、鈴仙の肩に触れた。
にっ、とキュウは笑う。月にいた頃と変わらない、底抜けの笑顔。
「レイセンが元気でいてくれたことに比べりゃ、なんてことないって」
「――――」
ぽんぽん、と鈴仙の肩を叩いて、それからキュウは「いてて」と顔をしかめた。「ほら!」とシャッカが制し、キュウは「ああ、へーきへーき」と苦笑して――。
「なんだ。――笑えるじゃん、レイセンってば」
こちらを見つめて、そう、目を細めた。
鈴仙は小さく息を飲んだ。隣でサキムニが、こちらを覗き込む。鈴仙は俯いた。
「そっかそっか。レイセンもちゃんと笑えるようになったか。結構、結構。地上くんだりまで探しに来た甲斐もあったってもんじゃん? ねえ、サキ」
「――うん、そうだね」
サキムニも、どこか泣き出しそうな顔で頷く。シャッカだけは、まだむすっとした顔でこちらを睨んでいたけれど――鈴仙はぎゅっと目を閉じて、両手を強く握りしめた。
勝手に逃げ出して、ずっと離れていて。自分の勝手で、散々迷惑をかけて――それなのに、キュウも、サキも、それでもまだ、こんな風に笑いかけてくれるのだ。
ぎゅっと目を閉じれば、いくつもの顔が浮かぶ。永琳の、輝夜の、てゐの、イナバたちの。そして――魂魄妖夢の顔が、浮かぶ。
――妖夢。
口の中だけで、彼女の名前を呼ぶ。今は、応えてくれる声はなかったから。
昨晩。――永琳から、あの話を聞かされた後。
帰るか、残るか。その決断を突きつけられた自分を置いて、永琳はその部屋を後にして。
『……鈴仙』
呆然としていた鈴仙を、隣にいた妖夢が、そう呼んだ。
振り向いて見つめた彼女の顔は――どこか泣き出しそうな、だけど、安堵したような。
そんな、ひどく曖昧な笑顔をしていた。
『妖、夢……』
妖夢の手が、こちらに伸ばされて、鈴仙の手に触れた。少し冷たい、妖夢の手。
――手が冷たい人は、心があったかいんだって。
いつかそんな話をしたことを、ふと思い出す。
ついこの前のことなのに、遠い昔のことのような、妖夢との思い出――。
『鈴仙、私は――』
ぎゅっと、鈴仙の手を握る妖夢の手に、力がこもって。
震えるその手を――鈴仙は、握り返そうとして。
――妖夢が、視線を落として、乱暴に鈴仙の手を払った。
『私は――鈴仙のことなんか、嫌いだ』
呼吸が、止まった。
妖夢は、鈴仙と目を合わせないまま、立ち上がって――背中を向けた。
『鈴仙と友達になって、いいことなんか、ひとつもなかった』
『よ……う、む』
『もう、鈴仙のことなんか――知らない。私のことなんか忘れて、勝手に月に帰っちゃえ。それで、私もせいせいするよ』
吐き捨てるように、そう言って。妖夢は襖を開けて、振り返らないまま。
『じゃあね、鈴仙。――さよなら』
乱暴に襖は閉じられ、足音が遠ざかっていく。
鈴仙はそれを、ただ呆然と、見送るしか出来なかった。
あのとき叩きつけられた妖夢の言葉は、だけどはっきりと、震えていた。
その震えで、鈴仙には解ってしまっていた。その言葉の意味が。
だけど――だけど、だからといって、自分に何が言えるのだろう。
あの、精一杯の妖夢の言葉に、どんな言葉を、自分に返す資格があるだろう。
――いつか、あのお月見の夜。
自分のことを好きだと言ってくれた妖夢に――『嫌いに、なってよ』と言ったのは、他でもない、鈴仙自身なのだから。
ああ、そうだ。自分はいつだってそうするしかできないのだ。
自分に関わった、みんなを振り回して、傷つけて――。
それでも笑ってくれるみんなの好意に、ずっと甘え続けている。
そんな後ろめたさを抱えながら――笑ってしまえる自分自身が、大嫌いで。
「レイセン?」
こちらを覗き込むサキムニの瞳に、自分の顔が映り込んでいる。
鈴仙はそれからも、視線を逸らして。……サキムニの胸に、顔を埋めた。
「……レイセン」
髪を撫でてくれるサキムニの手の優しさに、鈴仙は泣き叫びそうになるのを堪えて。
「もう、苦しまなくていいから」
囁かれるサキムニの言葉のあたたかさに――意識が溶けそうになって。
「私たちは……レイセンの全部を、許すから。……笑っていて、欲しいな」
全部やり直そう、と思った。
こんな自分だから、みんなをずっと傷つけ続けるのだ。
だから――もう一度、全部やり直そう。
月に帰って。
全てを忘れて――もう一度、サキムニたちと、月でやり直す。
今よりもう少しだけ、誰かを傷つけなくて済む、自分になりたいから。
――そうすることが、あのとき、震えた声でああ言って――去っていった彼女の優しさに応える術なのだと。そう、自分に言い聞かせながら。
それが、鈴仙・優曇華院・イナバの、決断だった。
2
白玉楼にも、平等に朝は訪れる。
いつもと変わりない、平穏な朝の光が差し込む庭。しかしそこに、普段ならばあるはずの影が、今はない。それは庭で剣を振るう、幼い剣士の姿だ。
日課であったはずの朝の鍛錬に、魂魄妖夢は姿を現さない。
「……さて、どうしたものかしらね~」
無人の庭、それから妖夢の部屋の方を見やり、幽々子は廊下で息を吐く。
庭に妖夢の姿がないのは、彼女が不在だから――ではない。魂魄妖夢は既に、白玉楼に戻ってきている。昨晩遅く――深夜と言っていい時間に妖夢は悄然と帰宅して、ほとんど口を利かないまま、部屋にこもってしまった。起きているのか、眠っているのかも、今は定かでない。
ぱちん、と扇子を鳴らして、幽々子は足音もなく妖夢の部屋の方へ向かう。
――あの晩、この白玉楼にやってきた八意永琳の手を逃れ、二匹の月の兎を連れてマヨヒガに向かった妖夢。そして今、妖夢はひとりで白玉楼へ帰ってきた。
その意味ぐらいは、帰ってきたときの妖夢の表情を見れば解る。
事態は、妖夢にとって苦しい方向へ進んだのだ。剣士としての日課も、従者としての仕事も忘れて、妖夢が部屋にこもってしまうほどに。
「妖夢~」
障子の前に立ち、幽々子は声をかける。
「起きてるの~? もうすぐ朝ご飯よ~。妖夢の分も食べちゃうわよ~」
返事はない。主である自分の言葉にも反応しないとなると、余程である。
幽々子は目を細め、扇子で隠した口元に――小さく笑みを浮かべた。
それなら、それでいい。妖夢は今、悩み、苦しみ、迷っているはずだ。自分の無力を嫌というほどに突きつけられ、自分に何ができるのか、惑い、もがいているだろう。
その苦しみは、幽々子の従者として、幽々子の言葉に従っているだけでは、決してぶつかることのなかった壁。――妖夢自身が、あの鈴仙という兎と友達になることを選んだ結果だ。従者としてでも、庭師としてでもなく、ただの魂魄妖夢として、彼女は今もがいている。
未熟な妖夢に、それを乗り越えられるだろうか?
いいえ、と幽々子は自らの問いかけに首を振る。
未熟だからこそ――妖夢は、それを乗り越えなければいけないのだ。自分の力で。自分自身の選択で。妖夢と鈴仙の物語は、妖夢と鈴仙だけのものなのだから。
「――妖夢」
もう一度、幽々子は障子の向こうにいるはずの妖夢に呼びかける。
「頑張りなさい。貴方の大切なもののために」
返事はやはり無かったけれど、今、幽々子に言えることはそれだけだった。
踵を返した幽々子は、縁側からふわりと庭に下り立った。
すっかり秋めいてきた陽光の下で、その大きな桜の樹は、枯れ果てたまま佇んでいる。
――西行妖。いつか幽々子が春を集めて咲かせようとした桜。
あのときは結局春が足りなかったか、満開にすることはできず。この下に眠っているという亡骸が何者なのかも解らないままだった。
その幹に手を添えて、幽々子は枯れた枝を見上げる。
桜の向こうに、うっすらと欠けた月が見えていた。
「……紫。貴方は望むものを手に入れられたの?」
そこにいるはずの友人へ、届くはずのない問いかけを呟く。
何かをずっと探し求めている、古くからの友人は。月を見上げるときだけ、ひどく無防備な横顔を見せる彼女は――抱えた空虚を埋めるものを見つけられたのだろうか?
「私、は――」
不意に、軋むような痛みを胸の奥に感じて、幽々子は小さく身を竦ませた。
――なんだろう。最近、思い出したように、何かが疼く。
自分が何か、とても大切なことを忘れているような――違和感。
けれどいつも、曖昧模糊とした違和感はその正体すら掴めないまま意識に溶けて。
幽々子はただ、そんな自分を訝しむことしかできない。
――自分はいったい、何を忘れているのだろう。
答えの出ない問いかけを繰り返しながら、幽々子は西行妖にもたれかかる。
枯れた桜は、何も言葉を返してはくれないのだけれど。
◇
竹林の中、藤原妹紅のあばら屋にも、朝の陽差しは差し込んでくる。
妹紅が目を覚ますと、ほのかに食欲をそそる匂いが鼻腔をくすぐった。
目をこすって身体を起こし、ぼんやりと視線を巡らせば、台所に立つ見慣れた背中。
「……慧音?」
「ああ、起きたか、妹紅。おはよう」
妹紅の呼びかけに、慧音はこちらを振り向いて微笑む。
いつもと変わらない笑顔に目を細めつつ、妹紅は首を捻った。はて――。
ああ、そうだ。ようやく思考が現状に追いつく。――昨晩遅く、永遠亭から戻ってきたら、家の中で慧音が眠っていたのだ。妹紅の帰りを待ったまま眠ってしまったのだろう、ちゃぶ台に突っ伏して眠る慧音に毛布をかけて、妹紅もそのまま眠ったのだ。
いや、正確には、八意永琳から聞かされた話の意味を考えているうちに、眠ってしまっていたという方が正しい。――自分自身の、永遠について。
起き上がって布団を畳んでいると、慧音がちゃぶ台に朝食を並べはじめる。
――そういえば、昨日は慧音に夜は来なくていいと伝えたはずではなかったか。
「慧音、昨日は私は遅くなるって言ったじゃないか」
「ああ……いや、うん、いつもの癖でな。帰ってくるまで待ってるつもりだったんだが……そうだ、身体は大丈夫か? また殺し合ってきたんじゃないだろうな?」
「生憎、それどころじゃなかったよ。慧音こそ、風邪ひいてないか?」
「私は平気だ。ほら、お茶」
「ああ……」
座布団に腰を下ろすと、慧音の差し出したお茶を啜って、妹紅はひとつ息をつく。ちゃぶ台を挟んで、慧音が茶碗にご飯をよそって差し出した。豆腐の味噌汁と、妹紅の釣ってきた魚と、漬け物少々。いつもの慧音の朝食。いただきます、と手を合わせる。
「……実は、ちょっと心配だったんだ」
「うん?」
「急に寺子屋に来たりするし、何か思い詰めてるようにも見えたからな」
不意に目を細めた慧音に、妹紅は小さく首を振って、漬け物を口に放り込む。
「別に、私はいつも通りだよ。今も、これからも」
「……そうだな」
妹紅の言葉に、慧音は曖昧に苦笑する。その顔を見つめて、妹紅は心の中だけで呟いた。
――なあ、慧音。もしも、もしもだ。
いや、と妹紅は目を伏せた。そんな問いかけは、きっと何の意味も無い。
もしも――たとえば、仮に今、妹紅の手の中に蓬莱の薬があったとして。
慧音に、それを飲むかと尋ねることに、どんな意味があるだろう。
「……まがい物の永遠、か」
「うん? 何か言ったか、妹紅」
「いや」
妹紅は首を振る。――自分の永遠が完全なものでないとしても、それが尽きるのはやはり、永遠にも思える時間の果てだという。そんなもの、笑い話にもなりはしない。
いずれにしても、自分は慧音と同じ時間の流れを共有することはできない。
慧音は、いずれ自分を置いていなくなってしまう。
最初から、解っていたことだ。――それでも、求めずにはいられなかったから。
「ごちそうさま」
「お粗末様でした」
食事を終え、後片付けに慧音が立ち上がる。鼻歌混じりに洗い物をするその背中を見つめて、妹紅は小さく笑みを漏らす。――少なくとも、今は幸せだと、そう思う。
それがいずれ失われてしまうとしても、今、上白沢慧音という存在を愛おしく思っている、その気持ちは確かで――失いたくないものだから。
「なあ、慧音」
「なんだ?」
「結婚しないか」
「うん? そうだな――」
今の天気でも口にするような、妹紅のさりげない言葉に、慧音は頷きかけて、
がしゃん、と皿を一枚、流し台に落とした。
「けっ、けけけっ、けっこ――も、妹紅!? な、なんだって?」
真っ赤になって、慧音は濡れた手のまま振り返る。
「結婚しないかって、そう言ったんだ」
「……ど、どど、どうしたんだ。いや、そんな重大なこと、急に言われてもだな、」
「いや、なんとなくな」
「なんとなくでプロポーズしないでくれ!」
だん、とちゃぶ台を叩いて慧音は吠える。その真っ赤な顔に、妹紅は笑う。
「だめか?」
「……い、いや、だめとかそういう問題じゃなくてだな、なんというかその、そういう話をするならするでもう少し時と場所を考えて欲しいというかなんというか……ほ、本気なのか?」
「こんなことで冗談は言わないさ」
慧音はそのままちゃぶ台の向かい側に座り込んで、ううう、と頬を押さえて唸った。
「待ってくれ、妹紅……さすがに心の準備ができてなさすぎる」
「心の準備が必要なのか?」
「当たり前だろう! 晩ご飯のメニューを決めるみたいに言わないでくれ!」
「ああ、晩ご飯はまた豆腐のハンバーグがいいな」
「そうか、じゃあ準備しよう……ってそうじゃない! 妹紅ー!」
悲鳴のように叫んで、慧音はちゃぶ台に突っ伏した。
笑いながら、妹紅は慧音の髪にそっと指で触れる。顔を上げた慧音は、照れくさそうに視線を逸らして、「……妹紅」と囁くように口を開いた。
「あの、いや、その……妹紅がそうしたいというなら、私も、依存は無いんだけどな?」
「うん」
「……いきなり言われたら、驚く。というか、どうしたんだ、急に」
どこか心配そうにこちらを見上げた慧音に、妹紅はただ、慧音の手をきゅっと握った。
そこに、上白沢慧音という少女が存在することを確かめるように。
「どうもしないさ。……慧音が好きだからな」
「あ、ああ……解ってる。解ってるんだ、うん」
妹紅の手を握り返して、慧音は顔を伏せる。いくらかの躊躇を孕んだ顔で。
「……本当に、私でいいのか?」
「慧音?」
「私は……妹紅より、ずっと先に、いなくなるんだぞ? それでも……いいのか?」
声が、どこか泣き出しそうに震えていた。握りしめた手も。その肩も。
妹紅は、その手を強く握り返して、こつん、と額をぶつけた。
「……だからこそ、かな」
「え?」
「私が今、慧音のことを好きだっていうこの気持ちの、証を残しておきたいんだ」
「……妹紅」
「何百年、何千年経っても――慧音のことを、忘れないでいられるように」
――永遠なんて言葉は、永遠に近似した自分には、軽々しくは使えないけれど。
それでも、確かなことがあるとすれば――今まで生きてきた千何百年よりも、今慧音といるこの一瞬こそが、幸福でかけがえのない時間だということ。
たとえ永遠を共にできなくても、自分が覚えている限り、上白沢慧音という存在の思い出は、価値は、彼女のくれた幸福は、ずっと自分の中に残り続ける。
「私が慧音にしてあげられることなんて……そのぐらいしか無いからな」
「――馬鹿」
ぎゅっと、妹紅の身体にしがみついて、慧音は。
「妹紅」
ただそう、名前を囁いただけで――目を閉じて、妹紅の胸元に頬を寄せた。
言葉はもう、今までにいくらでも交わしてきた。そしてこれからも、交わしていける。
それなら、特別な言葉は、今は別に必要では無いのだ。
当たり前に、いつも通りに、今日も、明日も、慧音がそばにいる。
ただ今は、その幸福を抱きしめていたい。妹紅が願うのは、ただそれだけだった。
3
――朝食の支度のことを、すっかり忘れていた。
キュウの病室を出たところで、思考がひどく現実的なところに戻ってきて、鈴仙は慌てた。いつもならとっくに朝食の時間だ。時間の感覚がすっかり曖昧になっている。
身体に染みついた習性は、簡単には抜けてくれない。鈴仙は急ぎ足で台所に顔を出す。
そこに、目を疑うような光景があった。
「お、お師匠様? ……依姫様?」
「あら、おはよう鈴仙。朝ご飯ならもうすぐできるわよ。ね、依姫」
「は、はい」
鍋の味見をする永琳と、食器を取り出す依姫。普段鈴仙がやっている朝食の支度を、ふたりがやっている。思わず、鈴仙の顔が引きつった。
「そ、そんな、わ、私がやりますから」
「あら、もう鈴仙のやることなんて無いわよ。大人しく向こうで待ってなさい」
「で、でも――」
「いいから。それとも、私の料理なんて食べられないかしら?」
「そっ、そんな、滅相もないっ」
ぶんぶんと首を振った鈴仙に、永琳はどこか愉しげに笑った。
小皿や調味料を載せたお盆を手にした依姫が、鈴仙の元に歩み寄る。
「レイセン、おはよう。今は八意様の言う通りになさい」
「よ、依姫、様……」
「挨拶は?」
「お、おはようございます」
「よろしい。――サキムニたちを呼んできて。キュウには、まだ無理なようなら部屋まで持って行くから、無理はしないようにと」
「……は、はい」
頷き、鈴仙は踵を返そうとして――けれど、思い立って振り返る。
言わなければ、伝えなければいけないことがある。……できるだけ早いうちに。決心が揺らいでしまわないように。そうしないと自分はまた、迷ってしまうだろうから。
「あの――お師匠様。依姫様」
「うん?」
鈴仙の呼びかけに、永琳と依姫が同時に振り向く。
今の師と、かつての上司。ふたりの視線を受け止めて――鈴仙は、俯いて。
「……私、月に、帰ろうと、思います」
絞り出すように、その決断を口にした。――口にしてしまった。
これでもう、後戻りはきっと、できない。
本当にそれでいいのか、と問いかける自分の中の声から、耳をふさいで。
鈴仙は――永琳に向かって、深々と頭を下げた。
「お師匠様。……今まで、お世話になりました」
沈黙。永琳は応えない。息が詰まりそうになり、鈴仙はぐっと唇を噛みしめる。
永遠にも思えるその沈黙は、けれど実際は、数秒のことだったのかもしれない。
「そう。決めたのね」
かけられたのは、ひどく優しい言葉だった。
顔を上げた鈴仙に、永琳は穏やかに笑って、それからひとつ首を傾げた。
「雑用係がいなくなるわね、困ったわ。依姫、他の兎を一匹回してくれない?」
「や、八意様、いやそれは……」
「冗談よ。忙しくなるけど、仕方ないわね」
まるで、何でもないことのように、永琳はそう言って苦笑した。
――月に帰るということは、鈴仙が永琳たちのことを忘れるということ。
けれど、引き留める言葉も、自分の決意を確かめる言葉もなく、永琳はただ、受け入れた。
それもまた――師匠なりの優しさなのかもしれない、と鈴仙は思う。
「依姫様……あの」
「八意様が認められたのですから、私からどうこう言うことはありません」
依姫の方を振り向いた鈴仙に、ぴしゃりと依姫は言い放つ。
眉を寄せ、腕を組んで、依姫はひとつ息を吐いた。
「もちろん――貴方の逃亡に関して、無罪放免というわけにもいきませんが」
「う……です、よね」
「まあ、それは月に戻ってからにしましょう。――今は、朝食です」
お盆をもう一度持ち上げて、依姫は居間の方へ歩いて行く。
「鈴仙。――朝食のときに、輝夜とてゐにも話すわね。いい?」
「……はい」
「じゃあ、輝夜とてゐを呼んできて」
「解り、ました」
永琳の言葉に、鈴仙は頷いて、台所を出て廊下を走る。
――月に帰るのか否か。サキムニがここに来てから、ずっとのしかかっていた問題。
それが、これで決着したはずだった。肩の荷は下りたはずなのだ。
……それなのに、どうしてか、足取りは軽くならないまま。
だけど鈴仙には、もう引き返すこともできないのだった。
どちらが正しいのか、それは誰も教えてくれないから、自分で決めるしかない。
だとすれば、後悔しない選択など、この世にあり得るのだろうか?
鈴仙には、解るはずもなかった。
◇
因幡てゐは、縁側に足をぶらつかせながら、膝の上のイナバの毛並みを撫でていた。
「……気楽に生きるってのは、案外難しいもんだよねえ」
そーなのー? と鼻を鳴らすイナバに、てゐは苦笑する。
全く気楽に生きているイナバたちに、それを理解しろというのは酷な話だろう。
自分だって、普段は気楽に生きていたつもりだ。怠惰に、のんびり、ゆったり。
だけど――それが許されるのは、無邪気に不変を信じていられるうちだけだ。
喪失の予感が目の前に立ち現れれば、気楽に向き合うのは難しい。
失われようとするものが、大切なものであれば、なおさらのことだ。
「ねえ、鈴仙がいなくなったらどう思う?」
膝の上のイナバに、てゐはそう問いかける。イナバは首をかしげ、
――よくわかんないー。
その答えに、てゐは吹き出すように笑った。――そうだ。よく解らないのだ。
自分だって、いざ鈴仙がいなくなれば、そのときどう思うかなんて、解りっこない。
いや――今の自分自身の気持ちでさえも。
目を閉じれば、浮かぶのは昨晩の光景。
悄然と顔を伏せて、永遠亭の後にしようとする、魂魄妖夢の姿。
『……なんで、あんたたちはそこまで不器用なのさ?』
思わず、その背中にてゐは声を掛けていた。
何度も、何度もふたりの背中を押し続けてきた。じれったい、黙ってればうじうじと悩みつづける、難儀な性格のふたり。誰かの後押しが無ければ、素直になることすらできない、面倒くさい臆病者のふたり。
鈴仙のことをずっと見てきたから、てゐには解っているのだ。
この、魂魄妖夢という少女の存在が――鈴仙にとって、どれだけのものだったか。
あっという間に、鈴仙の大事な部分を占めてしまった、この少女。
それなのに、自分の気持ちすらもてあましている、不器用すぎる少女。
見ていてあまりにじれったいから、何度もけしかけて、発破をかけて。
それなのに――行き着いた先が、これか。だったら、自分のしてきたことは何だったのだ。
『なんであんたは、自分の本当の気持ちすら言えないのさ?』
だからそれは、てゐからの精一杯の抗議だった。
鈴仙の大事な部分を、横から攫っていってしまった少女への。
――自分の手が届かなかった、鈴仙の鎖に、一度は手を届かせたはずの少女への。
だけど。
『……本当の気持ちって、何なのかな』
震える声で、魂魄妖夢は、そう答えた。
『私は……鈴仙のそばにいたいよ。鈴仙のことが好きだよ。月に帰ってほしくなんか、ないよ』
血がにじむほどに強く拳を握りしめて、妖夢は。
『だけど……だけど、鈴仙がここで長く生きられないんだったら、私のことは忘れても、月で長く生きてほしいって……そうも思うんだ。鈴仙には、私以外にも、いっぱい友達がいるんだから――月で、笑っていてほしいとも、思うんだ』
夜の闇を振り仰いで、――叫び出しそうなのを堪えるように、妖夢は強く首を振った。
『どっちが、私の本当の気持ちなのか――もう、解らないんだ。解らないんだよ……』
好きだから、そばにいてほしい。
好きだから、長生きして、幸せでいてほしい。
そのふたつの願いが、両立できないとすれば。
どちらを選ぶのか、それを決めるのは、魂魄妖夢ではなかった。それだけの話だ。
『――――ッ』
妖夢は走り出す。てゐはそれを、ただ見送るしかなかった。
竹林の中に消えていく妖夢の背中。――そして、遠くから響く悲痛な絶叫。
夜風のざわめきの中に溶けていく、その慟哭に、てゐはただ背を向けた。
――それが、昨晩遅くの出来事だった。
「本当の気持ち、ね……全く、何年生きても、進歩が無いよねえ」
てゐは自嘲するように、そう呟く。
息をするように嘘をついて、皆を煙に巻いて、鈴仙をからかって遊んで。
気付けば、どこからどこまでが嘘だったのか、てゐにももう、よく解らなかった。
自分の本当の気持ちは、いったいどこにあったのだろう?
鈴仙のことを、自分は――。
「……てゐ」
聞き慣れた声。惑いを孕んだ、頼りなげな声。てゐは苦笑して、振り返る。
そこにいるのは、泣き出しそうな迷子のような顔をした、鈴仙・優曇華院・イナバ。
――本当に、魂魄妖夢によく似ていた。
「ん、朝ご飯?」
「……うん」
「あー、もうおなかぺこぺこだよ」
普段と変わらない調子で、てゐは立ち上がる。鈴仙とは視線を合わせないまま、イナバを従えて歩き出し――立ち尽くしたままの鈴仙とすれ違ったところで、足を止める。
「鈴仙。帰るの?」
「――うん」
「そっか」
昨晩の時点で、そうなることは決まっていたから、驚きはしなかった。
ただ――ざらりと、砂を噛むような感覚だけが、口の中に残って、てゐは唇を噛んだ。
「寂しくなるねえ」
「てゐ?」
「からかって遊ぶ相手がいなくなるじゃん。せっかくいい暇つぶしだったんだけどなぁ」
後頭部で手を組んで、口笛を吹いて、いつも通りに、てゐは飄々とそう口にする。
――結局自分も、妖夢や鈴仙と似たもの同士なのかもしれない。
だけど今更、嘘つきウサギの皮は剥がせないのだ。それが、因幡てゐという存在だから。
「……てゐ」
「あにさ。帰るも残るも鈴仙の勝手じゃん。好きにしなよ」
振り返らないまま、てゐは口の端をつり上げて、そう言った。
「前にも言ったじゃん。私ゃ別に鈴仙がいなくなっても困りゃしないって。師匠も姫様もね。鈴仙が思ってるほど、誰も鈴仙のことなんか、気に掛けちゃいないんだから。お仲間のいるところに帰って、仲良くやりなよ」
ひらひらと手を振って、足早にてゐは、廊下の角を曲がって。
鈴仙の姿が見えなくなったところで――憤然と、足を速めた。
妖夢のように、みっともなく叫んだりするのは、自分のやることじゃないから。
やり場の無い感情を怒りに変えたように、てゐは肩をいからせて廊下を早足に歩いて行く。
ぴょこぴょこと追いかけてくるイナバのつぶらな瞳に映っている自分の顔が、泣きそうであることに、てゐは必死で、気付かないふりをしていた。
◇
人数が倍に増えた朝食の席には、月都万象展で使った宴会用のテーブルを引っ張り出すことになった。永琳の指示で依姫が朝食の皿を並べていくのを、鈴仙は居心地の悪い気分で、座布団に座ったまま見つめる。
「キュウ、無理しちゃだめだってば」
「だーからー、平気だってばさ、心配性も度を過ぎたら毒だよシャッカ」
向かいには、起き上がってきたキュウと、それを心配そうに見つめるシャッカがいる。そんな光景にサキムニが苦笑いして、鈴仙もつられるように小さく笑った。
「あら、イナバが大勢で随分賑やかなことね」
そこへ、てゐを連れて輝夜が姿を現す。てゐは何事も無かったような顔で座布団にあぐらをかき、輝夜も専用の座椅子に腰を下ろした。
依姫が朝食の皿を差し出して、輝夜と視線が交錯する。
輝夜は目をしばたたかせ、それから脳天気に微笑んだ。依姫は気まずそうに視線を逸らす。
「そうそう、鈴仙。月に帰るんですって?」
と、輝夜が声を上げ、鈴仙はびくりと身を竦めた。
こちらを見つめる輝夜の視線は、まるでいつもと変わりなく。
『私ゃ別に鈴仙がいなくなっても困りゃしないって。師匠も姫様もね。鈴仙が思ってるほど、誰も鈴仙のことなんか、気に掛けちゃいないんだから』
てゐの先ほどの言葉が脳裏をよぎって、鈴仙は小さく目を伏せた。
「……はい」
「そう。残念だけど、仕方ないわね。いつ帰るの? 今日?」
あっけらかんと、輝夜はそう言った。レイセン、と隣のサキムニが袖口をつかみ、鈴仙は小さく頷く。……これで皆の了解事項になった。もう、決まったのだ。
「ええと――依姫様」
帰るとは決めたものの、いつ帰るかは依姫次第だ。キュウの怪我のこともある。鈴仙が視線を向けると、依姫は小さく肩を竦めて、「……そうですね」と首を傾げた。
「キュウが回復したら……と言いたいですが」
「あたしはもう元気ですよ! いつでも帰れま――あたた」
びしっと手を挙げてそう言いかけ、けれど情けない声をあげるキュウに、シャッカがまた心配そうな声をあげた。依姫は肩を竦めて、永琳の方を振り返る。
「彼女ならもう心配ないわ。穢れのない月の方が治りが早いかもしれないわね」
「そうですか。……それなら、私としては今晩にも戻りたいところです。レイセン、貴方はそれでいいですか」
――今晩。急な決定だが、決心が鈍る前に帰ってしまうべきなのだろう。
そのぐらい迅速な行動の方が、きっといい。
どうせ、地上から月に持って行けるものなんて無いのだし――。
「……はい」
「では、そういうことで、支度をしておきましょう」
頷いた鈴仙に、依姫がサキムニたちを見回して言う。サキムニたちも頷いた。
「はい、じゃあご飯にしましょうか。冷めてしまうわ」
ぽん、と永琳が手を鳴らす。テーブルには普段の四人分に加えて、依姫、サキムニ、キュウ、シャッカの分も並んでいる。依姫はキュウの横に腰を下ろした。
キュウとシャッカは、白米に味噌汁、焼き魚に漬け物、冷や奴とおひたしという献立の朝食を、珍妙なものでも見るような顔で見下ろしている。
「……あのー、依姫様、あたしらこれ食べて大丈夫なんですかね。地上の穢れまみれだったりしないんですか、これ」
「八意様が、このぐらいは問題無いとのお墨付きです。食べた方が治りが早いとも」
「はあ……ね、レイセン、これってどんな味?」
釈然としない顔で、キュウは白米を指でつつく。鈴仙は苦笑した。そういえば、自分も地上に来た頃は、地上の食事に色々戸惑ったものだった。
「大丈夫、美味しいよ。……ね、サキ」
隣のサキムニを振り返る。サキムニは目をしばたたかせて、それから頷いた。サキムニはもう、八雲邸で地上の食事を口にしている。スプーンを握る手はやっぱりぎこちないのだけれど。
「それでは、いただきましょう」
永琳が手を合わせ、依姫やサキムニたちも見よう見まねで手を合わせる。
依姫が茶碗を持ち上げると、キュウとシャッカの視線がそちらに注がれた。依姫はひとつ咳払いして、永琳の方をちらりと見てから、手本を見せるように白米を口に運んだ。
しかつめらしい顔をする依姫が、手にしているのが箸ではなくスプーンなのがミスマッチで、鈴仙は思わず小さく笑いを漏らす。と、依姫の視線がこちらを向いて、慌てて誤魔化すように味噌汁を啜った。――まあ、月にいれば箸なんて使う機会が無いから仕方ない。月の食べ物なんて果物ぐらいしか無いのである。
「……依姫様、どうです?」
「大丈夫ですから、安心して食べなさい」
依姫の言葉に、キュウとシャッカはもう一度顔を見合わせて、それからそれぞれスプーンで白米を口に運んだ。
「あ……美味しい」
「ホントだ。なーんだ、地上の食べ物いけるじゃん。いいなーレイセン、地上でこんな美味しいもの食べてたの? ずっるいなー」
そんなことを言いながら、キュウはがつがつと朝食を口に運び、隣でシャッカが「お行儀悪い」と顔をしかめた。キュウは気にせず「依姫様、地上の食べ物持って帰りません? だめですか? だめですか、はい」とひとりでボケていた。
サキムニが笑い、永琳と輝夜もつられたように笑みを漏らす。依姫が肩を竦め、てゐはいつものようににやにやと笑っている。――賑やかで穏やかな、朝食の光景。
不意に、その中に取り残されているような気がして、鈴仙は息を飲む。
――地上でのことを忘れるというのは。
たとえば、今のこの瞬間も――忘れてしまうことなのだろうか。
自分のために、サキムニがここに来て。依姫たちがそれを追ってきて。
色々あったけれど――こうして皆が笑い合っている。
いや――皆、ではない。……ひとり、足りないけれど、彼女は――。
「レイセン?」
不意にサキムニに呼びかけられ、鈴仙は慌てて「ん、何でもない」と漬け物を口にする。
――ナスの漬け物はいつもより、少ししょっぱかった。
支度は永琳と依姫がしても、後片付けはいつものように、鈴仙の仕事だった。
まあ、そっちの方が普段通りが気が楽である。洗い物の量がいつもの倍なのは骨だったが、食器を洗っている間は何も考えなくて済むので、気が楽だった。
「そうだ、鈴仙」
「はい?」
と、永琳の声に振り返る。永琳は目を細めて、こちらを見つめていた。
「あとで人里に、置き薬の交換、行ってきてね」
「え――あ、はい」
いつもの仕事だ。今日の晩には、全てを忘れて月に帰るはずなのに、永琳はいつもと変わらずに、仕事を言いつけてくる。――それもあるいは、永琳なりの心遣いなのだろうか?
洗った食器を拭きながら、鈴仙は小さく息を吐く。
――ああ、そうだ。あの本はまだ、霧雨書店にあるだろうか?
書店で店員が読んでいた、サキムニの落とした『小川未明童話集』――。
月にいた頃、豊姫から貰った本。自分とサキムニを繋いだ本。そして、
……瞼に浮かびそうになった少女の顔を、鈴仙は首を振って払った。
忘れるのだ。忘れなければ、いけないのだ。彼女のことは――。
「そうだ」
と、永琳が何か愉しい思いつきをしたような声をあげ、鈴仙はびくりと身を竦める。嫌な予感がした。永琳がこんな声をあげるときは、大抵何か面倒なことに――。
「ついでだから鈴仙、依姫に人里のあたりを案内してあげて頂戴」
「――――へ?」
「あの子も、せっかく地上に来たのだからね」
笑って言う永琳に、鈴仙はただ、呆気にとられて目をしばたたかせた。
4
昼前。幽香が稗田邸に戻ると、玄関で阿求が心配そうな顔で出迎えた。
「おかえりなさい、幽香さん。……藍さんは、大丈夫でしたか?」
「あのぐらいで死ぬような妖怪ではないわ、彼女は」
笑って答えた幽香に、阿求はほっと一息つく。八雲紫も藍も、阿求にとっては馴染みの相手だから、気がかりだったのだろう。
しかし――八雲藍が自分と比肩しうる大妖怪であることは間違いない。それにあれほどの傷を負わせうる相手となると、幻想郷でも限られる。藍は詳しいことは話さなかったが、あの傷が刀傷であったことを考えれば、犯人は。
一応、警戒しておいた方がいいかしら。阿求を見下ろして、幽香は思う。
藍が倒れていたのは人里の近くだった。藍が発見されてから既に一夜が明けているとはいえ、まだあの傲慢な月人がこのあたりにいないとも限らない。
元を質せば、最初にあの月人に喧嘩を売ったのは自分である。藍があの月人とやり合ったのがどんな理由かは知らないが、用心しておいた方がいいかもしれない。
もちろん、幽香が単身であれば負ける気はない。ただ――阿求は無力だし、あまり危ないことをしないでください、と言われてしまった以上、できるなら荒事は避けたいところだが。
「幽香さん?」
阿求が不思議そうに首を傾げる。「なんでもないわ」と幽香は微笑んで、阿求の頬に手を添えた。阿求の顔が赤くなる。幽香は少しかがみ込んで、愛おしい少女の髪を撫でながら、そっと目を閉じて唇を寄せ、
――触れようとしたところで、門の鈴が来客を告げる音がした。
肩を竦めて、幽香は阿求から身を離す。阿求は少し名残惜しそうに幽香を見上げたあと、三和土に下りて玄関の戸を開けた。
「はい、どちら様? ――あら、貴方でしたか」
「あ、どうも。置き薬の補充に来ました」
ぺこりと頭を下げて姿を現したのは、永遠亭の兎、鈴仙・優曇華院・イナバだ。
その隣には、同じような格好をした桃色の髪の兎がいる。――どこかで見たような、と幽香は小さく首を傾げたが、すぐには思い出せず、
――その二匹の兎の背後に立つ影に気付いて、その疑念は吹き飛んだ。
「あ」
阿求がその長身を見上げて声をあげ、――その視線が、幽香の姿を捉える。
視線が交錯した。幽香と、その長身の影は、同時に思い切り顔をしかめた。
――それはつい昨日、太陽の畑でやりあったばかりの、その姿。
そして、八雲藍が重傷を負った件の最有力容疑者。――傲慢な月人、綿月依姫。
「あら、こんにちは」
「――――」
悠然と笑みを作って幽香が声をかけると、依姫は険しい顔のまま、頷くように会釈する。
剣呑な空気に、鈴仙ともう一匹の兎がおろおろと視線を彷徨わせた。
幽香は三和土に下り立つと、阿求の手を引いて依姫たちの元から引き離す。
「薬屋さんはいつもご苦労様。――そちらの方はどんな御用かしら?」
「……ただの付き添いです」
「そう」
依姫の答えに、幽香はひとつ首を傾げると、不安げな阿求を見やる。
大丈夫よ、とその背中を軽く叩いて、幽香は廊下に顔を出した女中に声をかけた。
「薬屋さんを案内してあげて。阿求は一緒に部屋に戻っていて」
「……幽香さんは?」
「私は、そこの付き添いさんとお話があるわ」
幽香が視線を向けると、依姫は眉を寄せたまま、ひとつ息を吐く。
「……危ないことはしないでくださいね」
「お話しするだけよ」
ちらちらとこちらを振り返りながら、鈴仙ともう一匹の兎とともに奥へ引っ込んでいく阿求を見送り、幽香は改めて依姫に向き直った。
――さて、どうしたものか。
「とりあえず、庭に出ましょうか」
「――余計な争いごとをする気はありません」
「お話ししたいだけと言ったでしょう?」
微笑んでそう言う幽香に、依姫はどこか疲れたように首を振った。
◇
「……依姫様と、何かあったんですか?」
阿求の部屋に通された鈴仙は、阿求の出した紅茶を啜りながら、そう尋ねた。
「ええ、まあ、少し」
曖昧に笑って言葉を濁す阿求に、鈴仙は首を傾げる。……依姫が永遠亭に来るまでの間に、幽香が依姫に喧嘩でも売ったのだろうか。
「そちらの兎さんは? 見ない顔ですが」
「あ……ええと、私の友達です」
サキムニは「……サキムニです」とだけ名乗って、ぺこりと一礼する。阿求は興味深そうにサキムニを見つめ、それから鈴仙に向き直った。
「今日は、あの白玉楼の庭師さんと一緒ではないんですね」
「――――」
サキムニがこちらを振り向く気配がして、鈴仙は顔を伏せた。
このタイミングで、その名前を出さないで欲しかった。――思い出して、しまうから。
妖夢と一緒に人里を歩いた――同じ傘の下で肩を並べた、あの雨の日のこと。
「ええと、それで、薬なんですけど」
取り繕うように声をあげた鈴仙に、阿求は一度不思議そうな顔をして、それから女中の持ってきた薬箱をこちらに差し出した。鈴仙はその中身を確かめて、減った分を補充する。考えることを止めてこなせる、いつもの仕事。
「では、代金はこちらで」
「はい、確かに」
女中から代金を受け取って、立ち上がろうとしたところで、「紅茶のおかわりは?」と阿求が尋ねた。いえ、結構です――と断ろうとしたが、外にいる依姫と幽香のことを思い出す。阿求は阿求なりに、何か考えているのかもしれない。鈴仙は浮かせた腰を下ろした。
「サキムニさんも、どうぞ」
「……あ、は、はい」
クッキーを差し出され、サキムニはおそるおそるといった様子でそれを囓る。「……甘い」と思わず顔を緩めたサキムニに、阿求が微笑んだ。
――ああ、そうだ。鈴仙はそこで思い至る。
永琳が今日、人里に仕事に向かわせたのは――挨拶をしておけと、そういうことなのだ。
「あの、阿求さん」
「はい?」
「……実は、私、……故郷に帰ることになりまして。薬を売りにここに来るのも、今日で最後になるんです。――今までありがとうございました」
頭を下げた鈴仙に、阿求は目をしばたたかせる。
「あら、そうなんですか。故郷というと、月に?」
「……はい」
「そうですか。……気が向いたら幻想郷に遊びにいらしてください。月のお話、是非とも聞かせていただきたいですね」
阿求の言葉に、鈴仙はただ曖昧に笑って返した。……自分は地上でのことを忘れて、これからはずっと月で暮らすのだけれど、それは言っても仕方の無いことだろう。
「では、サキムニさんも月の?」
「え? あ、はい、そうです。……レイセンを迎えに、ここに」
「あら、それなら月の兎について詳しく教えていただけませんか。月の兎は資料が少なくて」
「え?」
ぽかんと口を開けたサキムニに、阿求が目を輝かせてにじり寄る。
鈴仙は苦笑して、「すみません、他も回らないといけませんので」と阿求を制する。阿求は名残惜しそうにサキムニを見つめていたが、「仕方ないですね」と息を吐いた。
「月は、寿命のない永遠の都だと聞きますが」
「……そう、ですけど」
「やはりそうなのですか。……少し、憧れますね」
サキムニの答えに、阿求は目を細めて、障子の方を見やる。障子の向こうは庭に続く縁側。そこには、風見幽香がいるのだろうか。
鈴仙は目の前に居る少女の小さな姿に目を細める。――阿求は人間で、幽香は妖怪だ。ただでさえ短命な人間の中でも、阿礼乙女は特に短命だと聞く。阿求と幽香、寿命でいえば何十倍、あるは何百倍も差があるはずだ。それなのに――。
それなのにどうして、稗田阿求と風見幽香は、睦み合っていられるのだろう。
阿礼乙女は、転生を繰り返すからか? 生まれ変わって、そばに居続けられるからか?
――死ぬ、というのは、どういうことだろう。
転生する阿礼乙女ならば、死について詳しかったりするのだろうか。
「……あの。稗田家の当主は、一度死んでまた生まれ変わるんですよね」
「ええ。……転生前のことはほとんど覚えていませんけれどね」
鈴仙の問いに、阿求は少し寂しそうに答えた。――転生前のことを覚えていないのか?
「生まれ変わることが解っていても、死ぬのは、怖いものですか」
その言葉に、阿求は目をしばたたかせて、それから困ったように苦笑した。
「当たり前です。怖いに決まっているじゃないですか。――私も、転生前の記憶は残りませんから、たとえ私が次の代に生まれ変わっても、そこにいるのは私、稗田阿求ではなく、別の人格を持った十代目です。……私の、阿求の人生は、死んでしまえば、そこでおしまいです。そういう意味では、普通の人間と変わりませんよ」
そこまで言って、一度紅茶をすすると、阿求は不意に目を細めた。
「……だけど、今は。私が生まれ変わっても、幽香さんがまた、次の私を見守ってくれるはずですから。……今までよりは、怖くないのかもしれません」
「――どうして?」
横から声をあげたのは、サキムニだった。阿求は目をしばたたかせる。
「どうして、死ぬのを受け入れられるの? 自分が消えてなくなるなんて――そんな」
唇を噛んだサキムニに、阿求は目を細めて、それから自身の胸に手を当てた。
「私だって、できるなら死にたくはないです。……幽香さんを、ひとりにしてしまいますし。でも、人間は遅かれ早かれいずれ死ぬということは、皆知っています。だからこそ――」
と、阿求は立ち上がり、書棚から一冊の本を取りだした。
古びた和綴じのその本は、旧い幻想郷縁起だ。
「いずれ自分が消えてなくなるからこそ、人は何かを残そうとする。いずれ終わってしまうからこそ、精一杯に誰かを愛そうとする。……終わりがあるからこそ、今、笑っていたい。今、自分がここにいて、笑っていられることは無意味ではない。だって、それが私の人生ですから。私は、そう思います」
「――――」
阿求の言葉のひとつひとつが、何かひどく重く低く、鈴仙の胸に響く。
サキムニはただ、ゆるゆると首を横に振りながら、きつく両の拳を握りしめていた。
鈴仙はその横顔にどんな言葉もかけられず、ただ阿求に会釈して立ち上がるしかなかった。
◇
稗田邸の庭には、幽香が整えている最中の花壇がある。
その前にかがみこんで、幽香はまだ種が眠るだけの土にそっと触れた。
「あのとき連れていた兎さんたちは一緒ではないの?」
「……あの子たちは、今は別のところに」
「そう。――同じような格好だし、あの薬売りの子も、あなたの部下か何かだったのかしら。あのとき急いでいたのは、あの子を探していた――そういうこと?」
肩越しに振り返ると、依姫はため息混じりに頷いた。
月の民が、汚らわしいと忌み嫌う地上にわざわざやってきたのだ。旧交を温めに、遊びに来たわけでもないだろう。ということは、おそらくは。
「あの子を月に連れて帰るのね?」
「……この穢れた地上では、あの子は永くは生きられませんから」
「それはそれは。……月は随分と潔癖な土地のようね」
依姫が何をもって地上を汚らわしいと呼ぶのかなど、幽香に興味はなかった。太陽の畑に咲く花たちを汚らわしいと呼ぶような潔癖さなど、むしろ病的だろう。
花も咲かないような世界で永く生きるのは、果たして幸福なのだろうか。鈴仙がどう思っているのかは知らないが、幽香にしてみればそんなのは死んでもお断りだ。
「デルフィニウム」
「え?」
「たとえ貴方はエンゼルランプを差し出しているつもりでも、それを相手が望まないなら、ただの傲慢だわ。――もちろん、あの子がどう考えているのかは私は知らないけれど」
「――月に帰ると決めたのは、あの子の意志です」
「そう」
鈴仙は地上では永く生きられない、と依姫は言った。幽香は目を閉じて、愛しい少女――稗田阿求の顔を思い描く。……阿求は永くは生きられない。そんなことは解っている。解っていても、幽香は阿求を愛しく思うし、阿求も自分を想ってくれているはずだ。幽香にとっての正しい答えは、それ以外にあり得ない。
ふと幽香は、いつだったか鈴仙がここにきたとき、隣にいた少女のことを思い出した。魂魄妖夢といったか。鈴仙と、親しげに肩を並べていた剣士の少女。
正しさは、向き合う者によって形を変えるかもしれない。
ただ――確かなことは。
「カルミア」
「……さっきから何ですか?」
「貴方が、あの子にあげなければいけない花よ。――花言葉は《笑顔》」
その花を手の中に咲かせて、幽香は依姫に向き直った。
差し出した花に、依姫は眉を寄せる。
「私は――」
「貴方があの子を連れ戻すなら、それを与える義務は貴方にあるわ。それが貴方の責任ではないのかしら?」
言葉に詰まる依姫の手に、幽香はカルミアの花を手渡す。依姫はその薄紅の花を見下ろして、しかし捨てようとはしなかった。
――花の美しさが解らないのは悲しいことだ。けれど、無理に解らせようとしても仕方ない。地上には地上の摂理があり、それを受け入れて生きる命がある。汚らわしいと拒絶するだけでは見えない摂理が。
「……私が、レイセンに」
カルミアの花の香りを嗅いで、目を閉じる依姫。
少女なら、花は誰にでも平等に似合う。その美しさに、幽香は微笑んだ。
◇
サキムニとふたり、稗田邸の玄関を出ると、庭の方から依姫が姿を現す。
「あ、依姫様」
風見幽香と何を話していたのだろう。鈴仙は首を傾げて、それから依姫が手にしている花を見留めた。
「それは――」
「……彼女から頂きました」
どこか憮然とした顔で、依姫は答える。……幽香が依姫に花を渡した? いったいどういう状況だろう。鈴仙には想像もつかない。
「レイセン」
「は、はい」
「これは、貴方に」
と、依姫がその花を差し出す。鈴仙はおっかなびっくりその花を受け取った。名前も解らない花。思わず隣のサキムニと顔を見合わせる。
「……なんて花でしたっけ、これ」
「カルミア、と彼女は言っていました」
「カルミア……」
「――似合っていますよ」
目を細め、依姫は言った。
鈴仙は目をしばたたかせた。……空耳? いや、隣のサキムニも不思議そうな顔をしている。鈴仙は手にしたカルミアの花をもう一度見下ろして、小さく身を竦めた。
この花は、月には持って帰れはしないだろう。
それでも――依姫から何かを貰ったのは、思えば初めてだったかもしれない。
「……ありがとう、ございます」
縮こまった鈴仙の言葉に、依姫はただ微笑んでいた。
5
――月の都、最奥部。
月の民の中でも、ごく一部の人間しか入ることのできない区画がある。豊姫自身も、そこに足を踏み入れたのは月の使者となって以来、二度目だった。
無骨で物々しい門の前に、槍を手にした衛兵がひとり。彼は豊姫の姿を認めても、彫像のように直立不動のまま佇んでいる。
「こんにちは」
「綿月豊姫様。このようなところに何用でございましょうか」
豊姫が話しかけると、ようやく衛兵が表情を変えないまま答える。――こういうところの警護はしっかりしているのに、月の都そのものの警護は依姫に任せきり。考えてみれば、ひどくおかしな話だ。
ここは、月の都の牢獄。
幽閉されているのは、たったひとり。
――地上に落とされ、大きすぎる穢れを受けた月の民、嫦娥。
豊姫も、嫦娥のことは一度、初めてここに連れられたときに一瞬見たことがあるだけだ。無論、接触などしたことはない。穢れた嫦娥への接触は禁忌だ。
だとすれば、今から自分がしようとしていることが露見すれば、自分も嫦娥やカグヤ姫のように地上送りにされうるかもしれない。
……もしそうなったら、八意様を頼りましょうか。
それはそれで、楽しいかもしれなかった。豊姫は苦笑する。
「あら、用が無ければ来てはいけない?」
「――遊びに来るところではございません。お引き取りを」
「冗談よ」
無邪気に笑ってみせ――それから豊姫は表情を消した。
「兎から気になる噂を聞いたの」
「噂ですか」
「――地上の民が、嫦娥様を連れ去りに来るかもしれない、という」
衛兵の眉間の皺が深くなる。ただの噂としても、嫦娥に関することとなれば彼も捨ておいてはおけないだろう。
「あんなこともあったし、万一に備えて、依姫は警戒態勢をとっているわ。私は依姫の指示で、嫦娥様の所在の確認と警護に来たの。通してもらえるかしら?」
「――依姫様に確認をとります。お待ちを」
衛兵がそう、豊姫に背を向け、門の傍らの扉を開けた瞬間。
にゅるり、と何もない空間から伸びた手が、衛兵の首筋に触れた。
電撃が走ったように衛兵はびくんと痙攣し、そのまま崩れ落ちる。ぴくりとも動かなくなった衛兵の姿に豊姫は顔をしかめ、それからその場に姿を現した妖怪――八雲紫に向き直った。
「気絶させただけですわ。ついでに少し記憶をいじっただけ。目を覚ませば、彼は貴方がここに来たことを覚えていないわ」
しれっと答えた紫は、閉ざされた門に手を伸ばす。何もない空間に火花が散り、紫の手袋に焦げ目がついた。――門は飾りに過ぎない。嫦娥をここに閉じこめているのは、強力な結界だ。
そして、門の傍らの通用口は、その結界の切れ目。衛兵がそれを開けてくれなければ、八雲紫とて容易にはこの中には入れはしないということか。
「……あんたのスキマの中、気持ち悪いのよ。ああもう」
空間の裂け目から、博麗霊夢も姿を現す。紫は霊夢を振り返って、どこか優しげに目を細めた。霊夢は訝しげに眉を寄せる。
「さて、中をご案内いただけるかしら、月の使者様」
「――――どうぞ」
豊姫がため息をついたときには、紫は既に通用口をくぐって結界の中に入り込んでいた。霊夢がそれに続き、豊姫も中に入って扉を閉ざす。結界が閉じる。
あとに残るのは、倒れ伏して眠る衛兵の姿だけだった。
6
いつものように一軒一軒、薬を置いている家々を回る。
一応、自分が来るのは今日が最後であるということも伝えて回った。中には、あらあらまあ、お元気でと気遣ってくれる家もあった。今までの感謝を伝えてくれる家もあった。――自分はほとんど、ただ薬の交換をしていただけなのだから、その感謝は本来、永琳に向けられるものなのだろうけれど。
「……そうか、故郷に帰るのか」
先日の件のお礼も兼ねて、サキムニと一緒に向かった寺子屋では、慧音が出迎えた。どこか浮かれたような顔をしていた慧音は、しかし鈴仙が最後になることを告げると、目を細めてこちらを見つめた。
「今までお世話になりました。それから、サキのこと、ありがとうございました」
「……あ、ありがとうございました」
頭を下げた鈴仙に、サキムニも慌てて頭を下げる。
慧音は苦笑して、サキムニの方を見やる。
「足は大丈夫か?」
「は、はい」
「それなら良かった。お大事にな」
笑って、それから慧音は鈴仙に向き直った。
「永遠亭で、帰るのは君だけか?」
「……はい」
「そうか。――月には遊びには行けそうにないが、元気で」
「はい……」
もう一度ふたりで頭を下げて、踵を返す。と、不意に慧音が鈴仙を呼び止めた。
「余計なお節介かもしれないが」
「……なんですか?」
「辛いかもしれないが、ちゃんと別れを言わないと、きっと後悔する。――あの子にはまだ言っていないんだろう?」
「――――どう、して」
思い出さないようにしていたのに。
妖夢のことは、考えないようにしていたのに。
どうして――思い出させて、しまうの。
「その顔を見れば見当はつくさ。先生だからな」
微笑んだ慧音に、鈴仙はただ、うつむく。
レイセン、とサキムニがその手を引いた。鈴仙はぺこりと慧音にもう一度頭を下げて、寺子屋を辞した。
人里の通りに出れば、穏やかな陽光の下に行き交う人々の姿がある。
響く笑い声。話し声。足音。物音。風の音。
子供たちが、目の前を笑いながら駆けていく。
――鈴仙の脳裏をよぎるのは、いつかの記憶。この場所で、子供にぶつかられてよろめいた自分を、妖夢が支えてくれた。その表紙に眼鏡が落ちて、壊れてしまって――妖夢と一緒に、永遠亭に戻って。
ああ、だめだ。思い出すな。鈴仙は首を振る。もう、そんな時間は戻ってこないのだ。自分は全てを忘れて月に帰る。そこに、妖夢はいないのだから。
「あれ、依姫様?」
と、サキムニが声をあげる。顔を上げると、道端で依姫が子供たちに取り囲まれていた。子供たちは物珍しげに、依姫の長身を見上げている。
「おー、刀だ、でっけー」
「おねーちゃん外の人? 妖怪さん? つよいの?」
「ね、ね、刀みせて」
「みせてー」
依姫のさげた刀の鞘に子供たちが手を伸ばす。依姫は怒鳴って追い散らすのかと思いきや、困惑顔のまま子供たちを見回していた。ひょっとしたら、騒ぎを起こせば永琳に迷惑をかけるとでも思っているのかもしれない。
鈴仙はサキムニと顔を見合わせて、それから依姫の元に駆け寄った。子供たちがこちらを振り返り、「あ、薬屋さんの兎だ」と声をあげる。
「依姫様」
「ああ、レイセン、サキムニ。用は済みましたか」
ごほん、とひとつ咳払いして、依姫は澄まし顔を作る。その様子に、サキムニが堪えきれないという様子でくすくすと笑った。
「依姫様も子供には勝てないんですね」
むっ、と唸り、それから子供たちを見下ろす。子供たちはじーっと依姫を見つめていて、その視線の圧力に屈したように依姫は首を振った。見かねて、鈴仙はぱんぱんと手をたたく。
「はいはい、みんな、あんまりお姉さんを困らせない。慧音先生に怒られるよ? すぐそこにいるんだから」
「はーい」
鈴仙が慧音の名を出すと、子供たちは顔を見合わせて、それからぱっと散っていく。けれど相変わらず、遠巻きにこちらを見つめていた。鈴仙は苦笑して、依姫を振り返る。依姫は驚いたような顔でこちらを見つめていた。
「……手慣れたものね」
「まあ、よく怪我をするのは子供ですから、お師匠様の手伝いをしていると慣れます」
頬を掻いて答えた鈴仙に、依姫は目を細めた。
「地上の子供は、騒がしいですね。まるで兎たちのよう」
「あんなにうるさいのはキュウぐらいです」
依姫のため息混じりの言葉に、サキムニがちょっとむっとしたように答える。そんな姿に、鈴仙は小さく笑った。
◇
最後に、人里の医院に薬を届けた。
「うちに運んだ方がいい患者さんとか、いますか?」
「いや、幸いそんな重症患者はおらんな。狐の妖怪が一匹担ぎ込まれてきたが、さっさと退院していきおった。妖怪は治療しがいが無くていかん」
里の医者はそう言って肩を竦める。鈴仙の後ろにいた依姫が、その言葉に小さく唸った。
「狐の妖怪?」
「ああ、よく人里にも来とる、あの九尾の八雲のがな」
八雲藍のことだ。何かあったのだろうか、と鈴仙が首を傾げる後ろで、依姫が何か安堵したように息を吐いていたが、鈴仙にはその意味は解らなかった。
達者でな、と手を振る医者に一礼して、医院を後にする。陽光は既に傾き始めていた。鈴仙はひとつ伸びをして、それから大きく息を吐く。――永遠亭から外に出るようになってから、ずっと続けていた薬売りの仕事も、これで終わりなのだ。
もう、人里に来ることはない。そう思うと、目の前の光景が、すっと遠くなった気がして。
「レイセン、ええと、ごくろうさま。これでおしまいなんだよね?」
サキムニに言われ、鈴仙は頷いた。そう、仕事はこれで終わりだ。だけど――。
「では、八意様のところに戻りましょうか」
「あ――依姫様、ちょっと、いいですか」
鈴仙は、踵を返そうとした依姫を呼び止める。依姫とサキムニは同時に首を傾げた。
薬売りの仕事だけなら、鈴仙ひとりで出来る。依姫が一緒に来たのは永琳の指示だが、サキムニにも来てもらったのは鈴仙の提案だった。――それは、あれをサキムニに渡すため。
「サキ、ちょっと一緒に来て」
鈴仙の言葉に、サキムニは目をしばたたかせた。
霧雨書店に、人影はまばらだった。レジカウンターでは、あの朱鷺色の羽根の少女が退屈そうに本を読んでいる。鈴仙はサキムニとともに、店の戸をくぐった。
「レイセン?」
「こっちこっち」
サキムニの手を引いて、鈴仙はレジカウンターに歩み寄る。店員の少女が、本をめくる手を止めてこちらを見上げ、「何か?」と首を傾げた。
「あの――何日か前に、近くで拾ったって言ってた本、ありませんか」
鈴仙の言葉に、店員の少女は一度まばたきする。
「あれ、友達の落とし物なんです」
サキムニが息を飲んだ。店員の少女は「ああ」と思い出したように声を上げて、カウンターの中にかがみこんだ。……ほどなくして、一冊の文庫本を少女は取り出す。
その表紙を見て――サキムニは「あ……」と声を震わせた。
古びた文庫本。地上の子供向けの読み物。――豊姫から貰った、ふたりを繋ぐ本。『小川未明童話集』。その最後のページには、丸っこい字で《サキムニ》と署名がされている。
サキムニはその本を手に取り、ページをめくって、自分の名前を見つけ――感極まったように、その本を抱きしめて、その場に膝をついた。
「……良かった……なくしたと、思ってた……」
「サキ」
「ありがとう……レイセン」
泣き出しそうな顔で笑うサキムニに、レイセンは目を細めて、その背中をさする。
自分が好きだった本を、サキムニがそんな風に宝物にしてくれていた。ずっと。
そんなサキムニの気持ちを、自分はずっと……ずっと傷つけ続けていたのだ。
やっぱり、自分は帰らなければいけないのだろう。月に。
せめて、自分を思ってくれるひとたちに報いるために――。
そう、自分自身に言い聞かせるように、鈴仙は考える。何度も、何度も。
自分は月に帰る。それが、正しい選択なのだ。
だから、地上への未練は全て、断ち切らないといけないのだ、と。
――だけど。
霧雨書店を出ようとしたところで、その本の存在を視界に捉えて、足を止めてしまったのは、結局のところ、必然でしかなかったのかもしれない。
平台の隅に積まれた、その本。見覚えのある表紙。
「レイセン?」
店の戸を開けたサキムニが、振り返って呼びかけた。鈴仙は無理矢理その本から視線を外して、サキムニにぎこちなく笑いかけ、再び歩き出す。
けれど、店を出るとき、やはりもう一度、その本は視界に入ってしまっていた。
――魂魄妖夢『辻斬り双剣伝』。
考えるな。断ち切れ。振り払え。……嫌いだ、と彼女は言っただろう。だから。
だけど、その名前を目にしてしまうと、浮かび上がってくるものは止められなかった。
今まで、必死に堪えていたのに。いや、だからこそ、かもしれなかった。
『……お、面白くなかったら、ごめん』
彼女の目の前で本を買ったとき、彼女は自信なさげな顔で、そう言った。
『いや――ホントにそんな、大したものじゃないから、私のなんて――』
面白かった、続きが読みたい、と言った自分に、彼女がそんな風に卑下するから、思わず怒った。面白かったよ、と素直な気持ちを伝えた。自分でも信じられないぐらい、まっすぐに。
ファンになるから、私のために続き書いてよ。ああ――自分は彼女にそう言ったのだ。
『あ……ありがとう、鈴仙。私……それなら、ちょっと、頑張ってみる』
そして彼女は、そう答えてくれた。それが嬉しかった。素直に、続きが楽しみだった。
彼女はきっと、頑張ってくれていただろう。自分なんかのために、頑張って続きを書こうとしていてくれただろう。――それなのに、自分はその完成を待つことなく、月に帰ろうとしているのだ。彼女の本が読めないほど遠くへ。――彼女の本を読んだということも忘れて。
何がファンだ。何が、私のために、だ。
ああ、だけど――だけど本当に、続きが読みたかったのだ。
彼女の書く、寡黙で無骨で、けれどまっすぐな剣豪の物語が。
本当に、続きが楽しみで――だから、だから。
「…………!」
鈴仙はたまらず、走り出していた。背後から、サキムニと依姫の声が聞こえたが、立ち止まれなかった。足が止まらない。人里の通りを、人間たちをよけながら鈴仙は走る。
茶店があった。妖夢と初めて、一緒に他愛ない時間を過ごした場所だ。妖夢と待ち合わせをした場所だ。一緒にコーヒーを飲んで、世間話をして。雨の日、店先で傘の譲り合いをして。――相合い傘で、通りを歩いた、少し幸せな時間があった。
帽子屋があった。妖夢に似合う帽子を探した。麦わら帽子を被って恥ずかしがる妖夢に、似合ってるよ、と自分は笑った。――ああ、あの帽子は、妖夢は大事にしてくれているだろうか?
稗田邸に、ふたりで行った。風見幽香がいたことに面食らって、幽香と阿求の睦まじげな様子に変な照れくささを覚えた。
思い出は、どこにでもあった。
妖夢と過ごした時間のかけらが、あちこちに散らばっている。
眼鏡が壊れたとき、永遠亭に妖夢と一緒に戻った。自分の目を覗き込んでしまった妖夢の介抱をした。白玉楼で西行寺幽々子に食べられそうになったのを、妖夢が助けてくれた。あのお月見の夜、妖夢は自分を友達だと言ってくれた。風邪を引いた自分のお見舞いに、妖夢が来てくれた。眠っていた自分に、妖夢は大切な言葉をかけてくれた――はずだ。
奔流のように、妖夢と過ごした時間の記憶が蘇っていく。
妖夢の顔が、次々と浮かんでは消えていく。照れくさそうに頬を染めた横顔、はにかんだ笑顔、自信なさげに俯いた顔、――自分をまっすぐに見つめてくれる眼差し。
「よう、む……妖夢……っ」
通りの真ん中で、鈴仙は息を切らせて立ち止まった。妖夢は、どこにもいなかった。
手を伸ばしても、もう届かない。
月に帰るということは――その手が、もう二度と届かなくなるということだ。
届かなくなってしまったことさえ、忘れてしまうということだ。
忘れるのか?
こんな、こんな――あたたかい、優しい、思い出の全てを。
妖夢がくれたたくさんの言葉を。楽しかった時間を。――確かに幸せだった瞬間を。
全部、全部、忘れてしまうのか?
「妖夢――」
通りがかる人たちが、訝しむ視線をこちらに向けている。
それにも気付かないまま、鈴仙は口元を押さえて――泣いていた。
背後から、サキムニと依姫が追いかけてくる足音がする。
ああ――だけどそれは、妖夢の足音ではない。妖夢の声ではない。
『鈴仙』
彼女の声は、こんなに鮮明に思い出せるのに――。
帰らなければいけないのに。自分は、そうしなければいけないのに。
だからこそ彼女は、自分を嫌いだと――そう言ったのだから、せめて。
せめて、月に帰ることだけは、後悔したくなかったのに。
だから、妖夢のことはもう、考えないつもりでいたのに――。
「レイセン――」
鈴仙、ではなく、レイセン、と呼ばれた。
――自分が今、呼んでほしかったのは、鈴仙という名前だったと。
そう気付いてしまったから――鈴仙は、ただ、その場で泣き崩れることしか出来なかった。
どうしたのレイセン、とサキムニが困惑した声で自分の背中をさする。
依姫が、ひどく曖昧な表情で、うずくまった自分を見下ろしている。
何のために自分が泣いているのかも解らないまま、鈴仙はただ泣いていた。
行き場の無い涙は、足元の土ににじんで、消えていった。
7
暗く長い階段を、三つの足音が下っていく。
自分の前を歩く八雲紫の背中を見つめながら、霊夢は溜息をかみ殺した。
――八雲紫というこの妖怪のことを、結局自分は何も知らなかった。
紫が豊姫に告げた、聞き覚えのない名前。それを紫は、相棒だと言った。
世界すら引き替えにしたっていい、相棒だ――と。
紫がずっと月に執着していたのは、その相棒を取り戻すためだったのだろうか。
一年前に自分に稽古をつけ、レミリアをけしかけた月侵攻計画も。いや、あるいはそれ以前から? ――ひょっとすれば、幻想郷という世界を紫が作ったのも?
考えても詮無いことではあるし、自分はただそれに付き合わされているだけだ。体のいい脅迫材料として。それ以上でも、それ以下でもないのだ、結局のところ。
その名前を口にしたときの紫の顔は、見たこともないほど無防備で。
どうしようもないほどに、切実だった。
「…………」
前を行く背中に、問いかけたくなる言葉を、霊夢は飲みこむ。
紫。――あんたはただ、ずっとそのためだけに動いていたの?
その相棒を探すために、取り戻すために、それだけのために?
だとしたら――その相棒を見つけたら、取り戻したら、あんたはどうするの?
あんたの作った、博麗大結界は。幻想郷という世界は――。
それを問いかけてどうしようというのだろう?
どんな答えを、自分は期待しているのだろう。
解らないまま、霊夢はただ階段を下り続け――そして、先頭の豊姫が足を止めた。
「……嫦娥様は、この先にいらっしゃいます」
重々しい扉に手を掛けて、豊姫はそう口を開いた。
「この先にも、穢れを漏らさぬよう厳重な結界が張られていますが……」
「開けて」
豊姫の言葉を遮るように、紫が鋭く声をあげた。豊姫は、ただ静かに頷いて、扉を押した。
霊夢は、紫の横顔を見やる。――そこに浮かぶ表情は、泣き出しそうな笑顔だった。
軋んだ音を立てて、扉が開く。暗い階段に、中から白い光が差し込む。
その眩さに、霊夢は目を細めて――。
そこは、真っ白な部屋だった。
何も無い、がらんどうの部屋。窓も無く、壁も床も天井もただ白い。その真ん中に、結界に区切られた空間がある。――それは檻だ、と霊夢はすぐに理解した。
いったい何重の結界を張っているのか、霊夢には咄嗟に見当もつかない。ごく薄い結界を何億枚も何兆枚も重ねたような分厚い結界。その中に、黒い澱のようなものが沈殿している。それが、月の民の怖れた穢れであると、霊夢は悟った。
――そして、その結界の中心に、ひとりの少女が座り込んでいる。
表情の無い顔で、何かを呟き続けるその少女。
長く黒い髪が、足元に溜まった穢れの中に溶けるように広がっている。
呟く言葉は聞き取れない。ただ、同じ名前を繰り返し繰り返し呟いているようだった。
嫦娥様、と豊姫は呼んだ。そして、この少女が、紫の――。
「………………だれ?」
紫が、ふらふらと結界に歩み寄って、そう呟いた。
その表情は、目の前の現実を受け入れられないように、驚愕のまま硬直していた。
紫? と霊夢は声をかけようとして――紫が、その拳を結界に叩きつけた。
「嘘……嘘よ! これが、これが――違う! 違う違う違う!」
金色の髪を振り乱して、紫は何度も結界を叩きながら叫んだ。
結界の中の少女は何の反応もせず、ただ同じ名前を呟き続けている。
「違う! こんな――私の、私の――そんな、はず、だって、――――ッ」
首を振り、紫は引きつった顔で振り返ると、豊姫の胸ぐらを掴みあげた。豊姫は困惑した表情で、取り乱した紫を見下ろす。
「嘘よ、私を騙そうとしたってそうはいかない、―――を出しなさい、早く、」
「何を、言っているのですか、八雲紫」
「――――」
「あれは嫦娥様です。――貴方の探しているのは、嫦娥様ではないのですか」
紫が何かを叫んで、豊姫の身体を壁に叩きつけた。
「違う! 他に、他にいるでしょう!? ここに囚われた地上の民が――いるはずなのよ! ここに! 月に! だって、だってだってだって――」
「……他には誰もいません。地上の民も、地上に落とされた月の民も、ここには。……貴方は誰を探しているんですか?」
紫の目が見開かれ、その手が力なく豊姫を離した。
壁に背をつけて小さく咳き込んだ豊姫の前、紫はそのまま、糸が切れたようにへたりこむ。
「嘘……嘘よ……そんなの、だって、だって……」
ぐしゃぐしゃと髪をかき乱して、紫は何度も何度も首を横に振った。
そうすることで、目の前の現実を拒絶しようとするように。
けれど、事態は何も変わらない。結界の中に囚われた少女の姿も。
「だって……だって、約束したのよ……一緒に、月に行こうって……中秋の名月に、お団子持って、ふたりで行こうって……無重力で淹れたコーヒーを飲んで、忘れられた月の都を、ふたりで探そうって……約束、したのよ」
それは、誰に向けられたものでもない、ただの独白だった。
「ねえ……じゃあ、じゃあ貴方はどこにいるの? 貴方の夢見た幻想の世界も作った、何千年も待った! だけど貴方は来ない、貴方はどこにも見つからない、じゃあ、じゃああとは月しかないじゃない! ふたりで行こうって約束したから――だから、だから貴方は、月にいるんだって、私より先に月の都を見つけて、そこにいるんだって――」
叫びながら、紫は虚空に手を伸ばした。
その手は、何も掴めず、力なく膝の上に落ちる。
「貴方がどこで迷っても、私が必ず見つけ出すって、貴方を連れて帰るって、約束したのに、それなのに――どれだけ待てばいいの、どれだけ探せばいいの、ねえ、どこにいるの、答えてよ、私の名前を呼んでよ、ねえ――――メリーぃぃぃぃぃっ!!」
その名前を叫んで、紫は崩れ落ちるように、うずくまって震えた。
そこで泣いているのは、妖怪の賢者、八雲紫ではなかった。
ただ、なくしてしまったものを探して彷徨い嘆く、ひとりの悲しい少女でしかなかった。
――豊姫はそれを、ただ無表情に見下ろしていて。
霊夢もまた、どうすることも出来ずに、立ち尽くしているしかなかった。
8
そして、夜。
鈴仙は、私物を片付けた自室の真ん中で、ぼんやりと立ち尽くしていた。
もっとも、片付けるほどの私物があったわけでもない。月から持ってきたのはあの本ぐらいだし、こっちに来てから増えたものも、本が多少あるくらいだった。
自分は最初から、この永遠亭にいつまでも居続けるつもりではなかったのだろう。
だからきっと、今のこの部屋のように――自分がいたという痕跡はすぐに消してしまえる程度にしか、残っていなかったのだ。
だとしたら……自分の居場所は、どこにあるのだろう。
「…………」
ぎゅっと目を閉じて、それから鈴仙は、手にしていたそれを持ち上げた。
宛先の書かれていない封筒。そこには、一枚の手紙を入れてある。
それは、人里にお使いに出る前に書いておいた手紙だった。
たぶんきっと、直接は別れを告げられないから。そんな勇気は、無かったから。
だけどせめて、最後に彼女に謝りたくて。
――卑怯だ、と自分でも思う。
鈴仙は、唇を強く噛みしめて、その封筒を握りつぶした。
だめだ。……結局これは、自分の痕跡をここに残そうとする行為だ。
それは――あのとき、自分の手を払った彼女の意志を、きっと踏みにじる行為だろう。
自分はいなくなる。彼女が残る。事実はそれだけで、それ以上でもそれ以下でもない。
彼女は自分を嫌いだと言ったのだから――別れの言葉も、必要ないのだ。
くしゃくしゃになった封筒を、鈴仙は部屋の片隅にまとめたゴミ袋に放り込んで、口を縛る。
――あとはもう、何も無い。ただ、一匹の兎がそこにいるだけだった。
「レイセン」
声が、障子の向こうからかかった。鈴仙は振り向いた。
障子を開け、依姫が姿を現した。こちらに、手を差し出した。
「いいですか。……行きましょう」
鈴仙は――いや、もうその名前に意味は無かった。
レイセンは、差し出された依姫の手を、掴んだ。
◇
白玉楼。
書斎で本を読んでいた幽々子は、廊下を走る足音に顔を上げた。
騒々しい足音をたてて走る者など、白玉楼にはひとりしかいない。書斎から顔を出すと、玄関の戸が閉じられる大きな音がした。
幽々子は息を吐いて、縁側に出る。白々とした月が、夜の闇を切り抜いたように浮かんでいる。――この地上からは、いささか遠すぎる距離。
さて、未熟な従者は、ちゃんと答えを見つけられただろうか。
幽々子は月から視線を下ろす。静寂が包み込む夜の庭に、枯れた桜が佇んでいる。
西行妖。満開になることのない桜。――その下に。
「……え?」
見覚えのある横顔が、そこにあった気がした。
白髪と白髭の、精悍な顔。頬に走る刀傷。きつく結ばれた口元。引き締まった体躯。骨張った両手。見慣れた、深い緑の羽織。――かつて、当たり前にそこにあった姿。
「妖、忌……?」
幽々子は庭に下り立った。瞬間、強く風が吹いて――着物の袖で顔を覆った幽々子が、腕を下ろしたときにはもう、西行妖の下には誰の姿も無い。
今のは幻? それとも――。
幽々子は視線を巡らす。妖忌はもうここにはいない。ならばそれは幻のはずだ。けれど、どうしてだろう――何か、残り香のように、彼の気配がここにあるような気がして。
そして幽々子は、妖忌の横顔が見つめていた先に、目を向ける。
そこは――彼の孫娘である、魂魄妖夢の部屋だった。
幽々子は、妖夢の部屋の障子を開け放つ。もちろんそこに、妖夢の姿は無い。
散らかった部屋の真ん中、文机の上に、書きかけの原稿が放置されている。
その横には、鞘に入った楼観剣。鞘から抜くと、刀身は半ばで折れていた。
幽々子は溜息をついて、楼観剣を壁にたてかけ――それに気付いた。
戸棚の上に置き忘れられたもの。
それを目にして、ああ、と幽々子は苦笑する。
「……忘れ物をしていくなんて、相変わらず未熟者ね」
その忘れ物を手にとって、幽々子は踵を返す。
書きかけの原稿。折れた剣。そして忘れ物。――全く、手の掛かる従者だ。
妖夢の部屋を出て、幽々子はまた縁側から、庭の西行妖に目を細める。
そこにはやはり、もう誰の姿も見つからなかった。
◇
永遠亭の門の前に、月の民と、地上の民が並んでいた。
すっかり暮らしなれたこの屋敷も、竹林も、何もかも、これが見納め。
そして、自分は全てを忘れるのだ。――忘れて、月に帰るのだ。
目の前に佇む、今まで一緒に暮らした家族の眼差しから目をそらすように、レイセンは俯く。
永琳は静かにこちらを見つめていて。
輝夜はただいつものように微笑んでいて。
てゐは、そっぽを向いて口を尖らせていて。
イナバたちは、思い思いに飛び跳ねていた。
「ほら、レイセン。最後のご挨拶を」
依姫に背中を押され、レイセンは一歩前に出る。
「……お師匠様。姫様。てゐ。……今まで、ありがとうございました」
頭を下げた。言葉は無かった。おそるおそる、レイセンは顔を上げた。
――視界を覆ったのは、永琳の胸だった。
「元気でね、鈴仙」
今までで一番優しい声で、永琳はそう囁いた。泣き出しそうになるのをぐっと堪えたレイセンの身体を、永琳はそっと離して、依姫の元へ軽く押した。
「レイセン」
サキムニが、キュウが、シャッカが駆け寄ってくる。永琳が下がる。
一本のラインが、レイセンたちと永琳たちの間に引かれた。
それは、月と地上の距離ほどに遠い、別れの距離だった。
「依姫、豊姫によろしくね」
「はい。……お世話になりました、八意様」
「ありがとうございましたっ」
キュウとシャッカと、サキムニも頭を下げる。輝夜が手を振った。てゐは最後まで、こちらを振り向こうとしなかった。
「では、行きましょうか」
依姫が、それを取り出した。――月の羽衣。レイセンが地上に来るときに使い、永遠亭の自室にしまい込んでいたもの。月に帰るためのもの。
月の羽衣は、被ったものの心を失わせる。
それを被ってしまえば――もう、蓬莱の薬を飲むことも、きっと怖くない。
次に気が付いたときには、自分は月にいる。何もかもを忘れて――。
依姫が、レイセンに被せようと、月の羽衣を広げた。
レイセンはそれを、ただ黙って受け入れるように、俯いて。
「――――鈴仙!」
声が、割り込んだ。依姫が手を止めた。レイセンはびくりと身を竦めて、振り返った。
そこに、いるはずのない姿があった。来るはずのない少女が、いた。
膝に手をついて、息を切らせて――泣き出しそうな笑顔を、持ち上げて。
魂魄妖夢は、レイセンを見つめていた。
「妖……なん……で?」
「鈴仙――」
どうして。どうして今ごろ、ここに来るの。
嫌いだって、勝手に帰っちゃえって、そう言ったじゃない。
だから――だから自分は、
「……ごめん、鈴仙。……あの本の続き、書けなかった」
かすれた声で、妖夢はそう言った。レイセンは、息を飲んだ。
「頑張ったんだけど、間に合わなかった……ごめん、楽しみにしてるって、言ってくれたのに」
「――――――」
そうだ。
楽しみにしていたのだ。妖夢の書いた本の続きを。
それは――それは。
ただ、物語を楽しみたかっただけじゃなくて。
面白かったよ、と。彼女に伝えて、――彼女に、喜んでほしかった。
妖夢に、笑ってほしかったんだ――。
「ごめんね、鈴仙。……私、やっぱり、未熟者だ」
そんな、そんな、泣き出しそうな笑顔じゃなくて。
少しはにかんだ、だけどまぶしい、まっすぐな笑顔を――自分に向けてほしかった。
だって、自分は、彼女のことが、ずっと――。
「妖――」
「レイセン!」
彼女の名前を、鈴仙は叫ぼうとした。だけどそれは、サキムニの声に遮られた。
鈴仙は振り返った。サキムニは、鈴仙の腕を掴んで、泣きそうな顔で、首を振った。
キュウとシャッカと、依姫は、ただ黙して、自分を見つめていて。
鈴仙は――妖夢へ伸ばしかけた腕を、下ろした。
「…………――――」
さよなら、と。
ばいばい、と。
言わなければ、いけない。
目の前の彼女に、伝えなければいけない。
別れの言葉。もう二度と、会うことも――その名前を思い出すこともないはずだから、
せめて、せめて――自分の口から、さよならと、言わなければいけないのに、
どうしても、その一言が、口から、言葉にならなくて、
「鈴仙――」
妖夢が、名前を呼んだ。依姫が一歩前に出て、首を横に振った。
前へ一歩、踏み出しかけていた妖夢の足が、止まった。
自分と妖夢の距離もまた、月と地上の距離でしかなかった。
手を伸ばしても、永遠に届かない距離になってしまっていた――。
「――――妖、」
最後に、その名前を、呼ぼうとして。
――ふわりと、頭に薄い布が被せられる感触がして。
次の瞬間――鈴仙の視界は、すっと色あせた。
世界が意味を失った。色も、音も、匂いも、全てが平板になった。
鈴仙の心はもう、凍り付いたように、何にも動かなかった。
――近くで声がした。その意味ももう、鈴仙には解らなくて。
ふわりと、身体が浮き上がった。
こちらを見つめて、手を伸ばす少女の顔が、少しずつ遠ざかっていく。
彼女は――彼女は、私の――、
思考は、止まる。心は、固定される。
鈴仙はただ、月の羽衣をなびかせて、月下に光の軌跡を残して、飛んでいく。
遠くから、自分の名前を、泣き出しそうに叫ぶ声がした。
その声にももう、鈴仙は振り返らなかった。
<最終話へつづく>
これが以下にして今の形に至ったかは、今後の展開を楽しみにさせていただきましょう。
最後の鍵になるのは、幽々子様が見つけた忘れ物なのですかねえ。
そしてゆかりんはそっちなのか・・・
境界の能力は科学したのかそれとも?こっちも楽しみ
首を長くしすぎて月に届いてしまうかもしれません。
9話の『猫のような笑み』という表現で「もしかして」と思いましたが、紫はやはり彼女でしたか……これはあちらの続きも期待せざるを得ませんな。
冒頭の手紙らしきものも出てきたし、残ったキーワードは『てゐの幽々子へのお願い』と『忘れ物』ですか。この2つが最後の鍵になりそうですかねえ。
最終話も楽しみにさせて頂きます。
うどんげと鈴仙には幸せになっていただきたい! と心で念じながら楽しみに待ってます。
短いけれど幽香と依姫の会話が良かったです。
妖夢と鈴仙の二人はどんな『物語の続き』へ進むのか……
霊夢も相変わらず駒の一つあつかいするつもりだったようですし。
こういうキャラにするならもっと目的以外に関しては完全外道にして、さらに必死さを見せないとまるで
説得力生まれませんよ?
あと前回からやたら月を貶めてるのがどうにも気に食わないです。月にだって霊夢が食べた微妙な味の料理とか
ありますから! 箸くらい使いますから!! この作品では月が外道馬鹿の群れの最低世界としか読めないから、うどんげの悩みにも最終的な判断にも、まるで感情移入ができない。二者択一の状況を描きながら一方の良さしかえがいていないがゆえのもりあがらなさ。まあほぼ確実に次回戻ってくるんだとは思いますが、正直、今回の話を見た時点でまるで感動できない代物になることは確実だと思いますね。
「猫のような~」は気にはなりましたが、好きな表現なのかな、と完全スルーしてましたね……やられました。
そしてコメでも見事にスルーされてるもこけねェ……おめでとう!
うどみょんメインなのに他が濃すぎるのは気になりますが、分かっておられるようなので。
期待して待ってます!
ウサミミ蓮子がどうやって金髪年増に...?
みんな予想してるようにきっと鈴仙は帰ってくるんだろうけど、
あえて裏切って欲しい気もする。
王道ものは王道もので好きなんだけど、かぐや姫モチーフは悲恋の方が
よく似合う。
良くも悪くもここまでは予想を超えることはなかったけど、ラストで大どんでん返し、
大団円の離れ業を見てみたい。
だからいつまでに書き上げるなんて気張らず、納得行くまで練りに練って下さい。
めちゃくちゃ楽しみにしています。
感想は色々ありますが、とりあえず簡単に、最終話を楽しみにしてるとだけ言わせて貰います。
評論家気取りの方が湧いてるようですが、気になさらず執筆していって下さい!応援してます。
あと紫と霊夢と豊姫のところで気になった部分をニ三
紫のスキマ移動は制約が多いし豊姫は別に殺さずとも量子ワープでどっか余所に飛ばせばいいだけじゃね?と思ったりw
あと霊夢が大人しく従ってるのも違和感
豊姫もここで紫を地上に飛ばしてもまた何度も何度も来るような覚悟と必死さを感じるって言うなら条件を飲むのも分からないでもないが…
ここでの紫は、霊夢と豊姫が仕方ないなと渋々協力せざるを得ないようなもっともっと切迫した誠意や必死さを見せるべきだったかと
紫が月人に力で脅迫しようとしても「いや紫じゃ無理だろー」って先入観がどうしてもあって
今回の場合もっと情に訴える方向で行かないと絶対無理な印象がどうしても拭えない
例えば、霊夢の穢れで脅迫&幽閉された人物に一目だけでも会いたいと土下座
二段構えで頼み込むことで豊姫が折れてくれるってほうが紫の何を犠牲にしたとしても相棒を取り戻したい覚悟の程が伝わるもんかと
気に食わないだの感情移入できないだのお前の主観だけで物言うな。違和感あるとこがあるのは確かだがそれを含めて最後に複線とかを回収するんだろうが。「月が外道馬鹿の群れの最低世界としか読めないから」だ?お前の読解力の問題だろ。第一誰をどういうキャラにするかは作者しだいだから。お前のキャラ付けとか求めてねえから。
さて気持ちの悪いクレーマーが沸いているようですね。まあ、所詮何も的を得てない戯言ですからコメント欄が汚れる前に削除したほうがいいかと。
作品の感想ですが紫の目的はやはりそこでしたか…でも違うっていうのはどういうことなのか気になりますね。やはり薬を飲まされたことで紫の知る相棒ではなくなっていたのでしょうか。それとも月に幽閉されている人物=相棒ということ自体が紫の思い違いだったのか、あるいは相棒を思いすぎたゆえの妄想だったのか…そして二人がどんな結末を迎えるのか。最終話を楽しみに待ってます。
さりげなくこれ以上伏線のハードル上げないであげてー
穢れや寿命のこともそうですけど、うみょんげ!は東方原作がけっこうなあなあで気楽に済ませてる問題を
ものすごく深刻な問題にしちゃってるせいで解決のハードル自体も自ら物凄く高くさせてしまってる気がします
みんながみんな死ぬよ死ぬよって深刻に言ってるせいでうどんげの豆腐メンタルもグロッキー状態だし・・・。
確かに真正面からがっぷりよっつで設定に取り組んでるのは凄いことだし
その高いハードルは同時にハラハラワクワクする要素でもあるんですが
現状はちゃんと綺麗に着地できるのか?綺麗に伏線回収出来るのか?って不安要素の方が大きかったり。
あと細かいことですが、今回ホームを人質にして紫側有利な話にしたせいで
「月だと特に勝てない」って前提が「月を人質にすれば勝てる」に変わっちゃってませんかね。
そこをネタにすると両極端になっちゃうのは構造的に仕方ない
利益が欲しくて書いてるわけでもない
それを見せてもらってる以上
自分の物語を押し付けるのはいかがなものかと思います
そして、これは物語であって設定では無いと
楽しみに待ってました
このシリーズ読んでいてわくわくします
量があっても読みやすいし、中身も詰まってるから
この作品は大好きです。
でも前鬼は表の月の真空空間に飛ばされて殺されたんですよね?
それと同じように真空空間に飛ばされてそこで死んで大禍津日撒かれても大した問題は無いんじゃないでしょうか?
この場合、紫は豊姫と対等に交渉できる立場の要件を満たしているとは到底言い難いのではないかと
霊夢も霊夢で何の脈絡もなく妖怪の悪事に加担してかつて恩を受けた月に矛向いてますし・・・
霊夢が大禍津日を降ろした直後に気を失わせて昏倒した霊夢を人質がわりにして
真空空間に飛ばしたら霊夢ごと殺すことになるわよ?って紫が外道極まりない行為をするんだったら
霊夢の命のために豊姫が交渉のテーブルを開けてくれるのも分からないでも無いけど
ここの霊夢は何故か自分の意志で紫の悪事に加担する忠実な駒になっちゃってるから
その次の瞬間宇宙空間に飛ばされたとしてもまったくこれっぽっちも同情の余地が無いのがちょっと・・・。
>あの騒ぎのとき、依姫の嫌疑を晴らしてくれた人間の巫女、博麗霊夢だった。
これ霊夢が元凶になってるからあくまで自分の尻拭いであって
「晴らしてくれた」ってのはおかしい
月のこういう所が嫌だから地上に
地上に居ると死ぬから月に
行きたいからそこに行くんじゃなくて嫌な場所から逃げるためでしか行動してない
うどんげの意志を尊重するように見せながら、あるのは鞭から逃げる自己保身だけでそこにうどんげの自由意志が介在する余地は無い。
だから月も逃げるのも仕方ないと思われるように今回のようなディストピア的な面を強めないといけない
本来だったら両方にリスペクトした作りのほうが理想的なんですけどね・・・
そして地上を選ぶにしても今のところ地上の魅力と言うのを書けてるとは言えない
月と地上の比較として依姫に対比する藍や幽香はおよそ地上の野蛮で上から目線の面しか見せてないのも問題
地上の魅力を書けないから何もかも非を月に押し付けて「月よりはマシ」って文法にしてる
どこまで行っても消去法
単純に月や綿月姉妹を悪や未熟と解釈して永琳や幽香たちに説教などさせて改心するような形にしているようですが
違うんですよ
殺生をせず生きていられる場所、そこで誰よりも清く正しく生きているというプライドがあるからなんですよ
どんなに言葉を尽くしても何かを殺さなければ生きていけない者より何も殺さずに生きている者の方が尊いと思います
本来ならば映姫様が説教するように依姫が幽香に説教する立場です
てゆうか浅木原さんの幽香は穢れという言葉尻に反発してますが
穢れてる自覚も自分が殺生して生きてる自覚すら無いのかと
それは穢れの包括する本質、生存競争、適者生存、咲くことも枯れることも自ら否定しているんじゃないかと
むしろ季節に枯れて咲く花を愛するなら「穢れてる?そんなの当たり前じゃない」って胸を張るところだろと
あと月にも花は咲いてます…
えーと口授読んでませんか?
東方の世界の神は神話によって姿や性質を変えるのですが?
儚月抄小説でも浦嶋子によって蓬莱国信仰を確固とされた月の都も同様でしょう
それと創想話のSSを神道の本を勉強して神道の二次創作作品を書いてる場所だと勘違いしてませんか?
ここは東方作品の二次創作を書いている場所なんですよ?
ZUN氏は本来の伝承と違う云々のツッコミに対して以前にこう返答しています。
「何をおかしな事を言っているのですか?
東方はあくまでも幻想です
持論でしたら色々語っても良いですが、東方に出てくる者達はその論とは何にも
関係の無い世界に存在しています。何を勘違いしたか、たまに「それは間違いだ」って
言う人も居たりしますが、この作品では、間違ってる物は作品内で矛盾していない限り
ありえません。
まずは、その事をお忘れ無きよう。」
失礼。確かに東方のSSに寄せるものではありませんでしたね。