Coolier - 新生・東方創想話

月の彼女

2010/03/02 16:43:12
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 01.
 今ここに、河城にとりが苦心に苦心を重ねて造り上げた、ダイヤモンドの指輪がある。外の世界では流通しているものの、幻想郷では材料や精製法に乏しい。そもそもとして、外の世界で廃れていないものが、幻想郷に流れつく事は滅多にない為、正に彼女は自分の力だけを持ってしてこれを造り上げた事になる。最も、材料や精製法などの、幻想郷に住むだけで得る事の難しい部分には、あのスキマ妖怪である八雲紫が関わっているのだけれど。そういった意味では、このダイヤモンドの指輪は、河城にとりと八雲紫の二人が協力して出来た物と言ってしまっても良いかもしれない。


 さて、このダイヤモンドの指輪なのだが、今誰かの指に通されている訳ではない。否、これから通されようとしている。そしてそれを話すには、今この指輪が置かれている場所、ミスティア・ローレライの経営する屋台に場面を移さなければならない。


 指輪は専用の箱に入れられ、とある女性の手元に置かれている。とは言え、、何分この屋台は移動式なので、壁がない。席もカウンターだけではなく、野外にテーブルと椅子を置く事が多い。その為、その女性の背後に回って、或いは隣に割って入って、指輪に手を伸ばす事は十分に容易だ。高さも決してあるわけではなく、背の低い者でも簡単に取れるだろう。最も、手の届かないような高い位置にテーブルがあったら、客が困ると言うのもあるが。


 今、ミスティアの屋台はいつも通りに盛況しており、カウンターは勿論、野外に広がったテーブルと椅子(これらはカウンターに座れなかった客が、屋台の横に畳まれて置かれているのを勝手に広げる様になっている)も最大数埋まっている。どのテーブルも四人席で、それが計五つ広がっている。何時もであれば、テーブルはまだしも椅子は乱れ、一つの席に五、六人で酒を飲む事もままあるのだが、今日はそんな様子はない。ある程度の騒がしさはあるものの、どうにも席毎に纏って話をしているようだ。そしてどの席も、決まって話は専ら指輪の事で持ちきりである。


 あるテーブルでは、秋を司る二人の神様が向かい合う様に座っており、更にもう一本十字になる様に一人の神様と人間が向かい合って酒を飲んでいる。名をそれぞれ洩矢諏訪子、そして稗田阿求と言う。四人の中で唯一人間である阿求が傾けるグラスの量は少ない。他の三人が酒に強い神様と言う事も相まって、余計にそう見える。

「ごめんね阿求。指輪、取ってあげたかったんだけど」
「仕方ないわ、こればっかりは」
「でも、見たかったわ。指輪をした、貴女の姿」
「ふふ、そう言ってくれると嬉しい」

 そうして言葉を切って、静葉はちらりと屋台の方を見る。ダイヤモンドの場所を見ていると言うのもあるが、カウンターの客や屋主のミスティアを通り過ぎて、随分と低い位置にある今夜の月を透かし見ているのだ。

「あーあ、いいなぁ。私もそんな台詞言われてみたいなぁ」

 次の言葉を発したのは、諏訪子だった。食事中は帽子を取る様にしているらしく、彼女のトレードマークであるあの特徴的な帽子は、今はない。代わりに、緩く髪に括りつけられた紅い髪留めが時折微風に揺れるのが魅力的だ。

「誰かももう少し私に優しくしてくれても良いのになぁ」

 まるで静葉の真似をする様に、諏訪子が視線をある場所に向ける。そこには不機嫌そうに酒を呷る穣子の姿があった。

「そうして欲しかったら、そうしてくれる人の所にでも行けば?」
「随分不機嫌そうな顔」
「何時もこんな顔よ」
「知ってるよ。毎朝同じベッドで見てる」

 穣子の表情とは反対に、にこにこと楽しそうに笑う諏訪子。諏訪子の言葉に、阿求が少しだけ顔を紅くしたが、穣子の姉である静葉にとっては今初めて聞く話ではない。姉妹二人で暮らしているところに諏訪子が泊まりに来るのはもはや日常茶飯事だからだ。さすがに二人で一緒に寝ている所に加わるなどと言う、無粋な真似はしないけれど。

「……悪かったわね。参加さえ出来なくて」

 諏訪子の視線から逃れる様に、穣子がそっぽを向く。そして静葉と同様にミスティアの方角を見て、はぁ、と溜息を吐いた。
 視線の先にあるダイヤモンドの指輪。実は今日、その指輪の持ち主を決めるべく、争奪戦が行われたのだ。


 結果から言うと、その指輪を手にしたのはこのテーブルに座っている者ではなく、今カウンターで酒を飲んでいる人物である。指輪は、外の世界の本でも見たのか、“知力・体力・時の運”と言う三つの部門に分けられた争奪戦で行われたのだが、その争いに参加するのには一つだけ条件があったのだ。それは財力である。なんでも、この指輪を造ったにとりが、

「持って行くならせめてこれまでかかった費用の負担をしろ」

 と主張したからである。そもそもあの指輪は、口下手なにとりが、恋人の犬走椛に言葉の代わりにプレゼントする為に造ったものであり、決して売買や賞品にする為に作った物ではない。それでも今回の事態に至ったのは様々な紆余曲折があったのだ。紆余曲折については、今は省略するとして、手放したくない物を手放さなくなってしまったにとりとしての、最後の譲歩が上記の台詞である。哀しいながらも指輪を手放したとして、これまでの費用さえ返ってくれば、もう一度造る事が出来るだろう。
 そして、その指輪が高かった。とても穣子には払える金額ではなかったのだ。豊穣の神様として、人里ではそれなりに信仰されている穣子だが、大抵その証は現物支給である。幻想郷に二つある神社の様に、賽銭箱を構えて居るわけでは無い。その為、食糧には困らない穣子だが、貨幣や紙幣といった物に関しては疎い上にあまり多く蓄えては居なかったのだ。
 それは穣子だけではなく姉の静葉、あるいは指輪を争奪すべく受付に足を伸ばした他の参加者にも同様で、じつに十数人がそこで踵を返す事になった。いわば最初の争奪戦の様なものだ。
 幻想郷では外の世界と違い、未だに現物志向が強い。先に挙げた神様への捧げ物として実った食糧を選ぶ事もそうだし、人里の市場では、貨幣や紙幣の代わりに物々交換をする事も珍しくない。そう言う意味で、このにとりの発言は、かなりの人間をふるいに掛ける事となった。

「あんたの所なら賽銭箱だったあるでしょうに」
「そうだけど、私一人の我侭で、ね……」

 にとりが造ったダイヤモンドの指輪は、いわば結婚指輪である。つまり、指輪を欲しがると言う事は、その指輪を渡す相手が居なければならない。その為、今回の指輪の争奪戦は、二人一組での争いとなった。なので厳密に言えば、先に挙げた“知力・体力・時の運”に加え、財力とそもそもとして恋人が居なければならないといった、五つの要素で皆指輪を求めなければならなかったと言えよう。

 そして、諏訪子住む神社には、賽銭箱がある。妖怪の山と言う、参拝にはあまり向いて居ない場所に構えているとは言え、それなりに客は居る。しかしそれでも、幻想郷に一つしかないダイヤモンドの指輪を買うだけの金額を、おいそれと叩くわけにはいかなかったのだ。何しろ神社は彼女だけの物ではない。諏訪子自身を含めて三人があの神社には住んでいる。その二人を差し置いて自分の我侭で、しかも自身を信仰する為に入れられた賽銭を使うわけにはいかない――それが諏訪子の出した結論だった。その為、今回穣子と諏訪子は指輪の争奪戦には参加しなかったのだ。ただし、どちらかが参加出来ていればきっと二人とも参加していただろう。何しろ穣子と諏訪子は恋人同士だし、静葉と阿求もその枠に括られる。もっと言えば、他のテーブルも全て恋人同士で座っているのだ。だから尚更、今日は指輪の話で持ちきりなのである。最も、今回静葉は絶対に参加していなかっただろう。彼女の恋人である阿求は唯の人間で、更にその人間の中でも体が弱いほうである。空を飛ぶ者が多いこの幻想郷で、そんな彼女が妖怪達と渡りあうには、あまりに無理があった。その為、わりかし早い段階で諦めていたのだ。


 さて、その他に参加出来なかった人物で今ミスティアの屋台に居る人物を挙げていくことにしよう。穣子達のテーブルに一番近い場所でこくりとグラスを空にしたのは、比那名居天子である。その隣には永江衣玖が刺身をおいしそうに食べていた。そのテーブルには更に小野塚小町と村紗水蜜が座っている。

「すいませんね天子様。私がしがない薄給竜宮のせいで」
「衣玖、もうお酒は止めなさい。それに、貴女を責めてなんかいないわよ」

 天人として、俗世から離れている天子にとっては、貨幣や紙幣は知識の中だけの物で、実はあまり良く知らない。物価や対価も分からないのだ。衣玖は衣玖で、それとは逆に薄給の為、指輪を買う金を持っていなかった。その為この二人もまた参加出来なかった組み合わせである。

「それより、ちゃんと部屋の掃除はしてる? また私にやらせる気?」
「ですから、私は狭いところが好きなんですよ」
「だからって、台所用品が錆びた包丁だけなんて、おかしいでしょ。言った筈よ、付き合うからにはしゃんとしてねって」
「すいません」

 そんな二人のやり取りを見て、小町と水蜜がくすくすと笑いあう。この二人も不参加組だったが、あまり気にしない性分らしい。騒ぐのが好きな二人は、例え参加出来なくともこうして酒が飲めればいいのだ。
 また、別の席では、テーブルに突っ伏した早苗を呆れながらも介抱しているアリスの姿と、珍しく落ち込んでいるチルノの姿があった。

「アリスさぁん。指輪が、指輪が欲しいですぅ」
「はいはい。いつかまた誰かが造るでしょ」
「あれと同じ奴が良いんですよぉ。アリスさん、造って下さいよぉ」
「人形と指輪を同列に語られてもね。手先の器用さでどうにかなるものじゃないでしょ」
「じゃあもう何でも良いです。ダイヤモンドじゃなくて良いですから、アリスさんから指輪が欲しいです」
「……考えておくわ」

 テーブルに突っ伏したままの状態で、早苗がアリスに左手を伸ばした。意味が分からずきょとんとするアリス。

「薬指のサイズ、調べて良いですよ」
「なっ……」

 恐らくは早苗自身は意地の悪い笑みを浮かべているつもりなのだろう。しかし実際は深酒のせいで焦点は定まっていない。頬は赤いし、酒の匂いで充満している。

「腕が疲れちゃいますよぉ、早く持ってください」
「え、あ、ええ……」

 恐る恐る、と言った感じでアリスが早苗の手を握る。じんわりとした暖かさが伝わって、言葉にはしづらい感情がアリスの中を流れた。
 他人に人形の様だと揶揄される事の多いアリスの手と違い、早苗の手や指は見れば傷や肉刺が出来ている。それが巫女として不断の努力を積んでいる早苗の日々の証明だと思い、アリスの中にまた一つ、先程とは違う感情が生まれた。恐らく、早苗は例え巫女でなかったとしても、同じ様な手をしているだろう。感情に素直で、笑ったり泣いたり怒ったりと忙しい彼女だが、その根幹にあるのは芯の真っ直ぐな心である。だからこそアリスは、早苗の言葉が茶化した物や酒の勢いでは無い事を知っていた。否、判断した、と言うべきか。本気を出さない、結論を先延ばしにする、肝心な事は言わない。それがアリスのスタンスであったが、幻想郷に来て、更に早苗と付き合う事になって、どうやら彼女の中にも変化が起こったらしい。以前のアリスなら、こんな所で誰かの手を握るなんてことさえしなかっただろう。

「どうですか?」
「綺麗な手よ」
「またまた。アリスさんには敵いませんよ」
「綺麗の意味が違うわ。私の手が良くそう言われるのは、人形みたいな、いわば無垢と言う意味での綺麗よ。貴女の手は確かにそうではないかもしれないけれど、使いこまれた名器の様な、洗練された美しさがあるわ。十分ダイヤモンドに負けていない貴女の手、私は、す、好きよ」

 躊躇いながらも思いを口にするアリスだったが、早苗から返事は無い。不思議に思って早苗の顔を覗きこむと、瞼が落ちていた。

「……人に恥ずかしい事言わせておいて、この子は」

 溜息を吐きながらも、何故だか笑えてしまうから不思議だ。もしかしたら、まだそんな関係なのかも知れないな、とアリスは心の中でそう思った。手に取った早苗の指の感覚を忘れない様に、じんわりと自分の中に刻みながらアリスは対面に座るチルノに声を掛けた。

「貴女も、落ち込んでてもしょうがないんじゃない?」
「……うるさい」

 椅子の上で胡坐を書いて、視線はテーブルの料理に向けられている。チルノの隣ではルーミアがぽりぽりと人参を齧っていた。
 ある意味、一番金と縁のない暮らしをしているのが、チルノの様な妖精である。当然、指輪を買うだけの金など持っていない。とはいえ、諦め切れないチルノからすれば、どこに心の衝動を持っていけば分からなかったのだ。アリスからすれば、その時点で十分驚くに値する事だと思った。以前のチルノならば、周りの事など考えず指輪を強引に奪うか、あるいは奪えなかったとしても、その怒りを適当に発散していただろう。しかし、今目の前に居るチルノは、ここに至るまでその衝動をどこにもぶつけていない。文句や愚痴程度は言う物の、それを何かの所為にしなくなったのだ。それはきっと、隣で人参を齧り終えたルーミアのおかげだろう。

「チルノ、別に気にしなくて良いよ」
「ルーミア……ごめん、あたいお金持ってなくて」

 ふにゃっと、ルーミアが笑った。そして、早苗と同じ様に左手をチルノに差し出した。

「ダイヤモンドの指輪なんて、誰でも作れるよ。チルノにしか造れない指輪が欲しいな」
「……分かった!」

 チルノがルーミアの手を掴む。こちらはアリスと違い、変な羞恥心はないようだ。それを見てアリスは、少し羨ましくなった。
 数分の間、真剣な表情でチルノがルーミアの指の周囲に冷気を集めた。あまり指輪の知識がないチルノは、人里で見たあのダイヤモンドの指輪を思い出しながらルーミアの指の周りに冷気を模ってゆく。そうして出来上がった指輪は、低い月の光に照らされて眩く輝いた。ダイヤモンドの様に三つの反射や虹色にはならないが、きっとルーミアに取ってはそれ以上に綺麗に見えるだろう。

「すごく綺麗」

 左手を、空に掲げるルーミア。風にルーミアの髪とリボンが揺れて、チルノの心臓が強く動いた。

「ル、ルーミアだってきれいだ、よ」

 本を読むかのような、棒読みの台詞だった。実際、チルノからすれば、先日友人であるミスティアに恋愛についてのアドバイスをして貰った際に、そう言えば良いと教わっただけに過ぎない。とは言え、意味くらいは分かる。まさかこんな形でそれを言える状況が揃うとは思っていなかったので、つい棒読みになってしまったのだ。
 ルーミアとて、チルノがまさかそんな気の効いた台詞を自分で思いつくとは思っていない。ミスティアかあるいはリグルあたりが教えたのだろうとあたりを付けた。しかし、誰がそれを教えたのかは、どうでも良かった。唯、チルノからこうして氷の指輪を貰って、あまつさえ綺麗などと言って貰っただけで、十分なのである。

「ありがとう。でもチルノ、この指輪はさすがにずっと付けてはいられないよ」
「ああ、うん、そうだね」

 決して溶けてしまう、と言う意味ではなく、寧ろ逆である。氷の妖精であるチルノが作った指輪は、自らの意思でそうしない限りは半永久的に溶けない。しかし、それではルーミアの指が凍傷を起こしてしまう。氷の指輪と言う、チルノにしか造れない指輪だったが、さすがにそうなる事くらいはチルノにも分かっていた。なので、ルーミアにそう言われても、ショックは受けなかった。どちらかと言うと、ルーミアに喜んで貰えてほっとしている部分の方が大きい。
 なので、ぴたりとチルノにくっついて甘えた声を出すルーミアに、つい反応が遅れてしまった。

「その代わり、毎日これを私に造って? それで毎晩、一緒に月を見よう?」
「あ……う……うん……」

 やれやれ、と溜息を吐いたのは他でも無いアリスである。未だに眠りからさめない早苗だったが、却って起きていたら、同じ様な事を要求されかねない。寝ていてくれて良かった、と思うアリスだった。

(だって、ねぇ)

 一口分だけ残っていたグラスの液体を、喉に流しこんだ。

(あんな風に早苗に迫られたら、私、どうなるか分かんないもの)

 抱き合っている二人を見ながら、アリスは早苗の髪を一撫でした。そして思いつき、早苗の髪を自分の指に絡ませる。

(早苗の指輪……なんてね)

 夜の風に乗って、ふわりと良い香りがアリスの鼻に届いた。それは良く嗅ぎなれた匂いでもあり、今目の前で寝ている早苗の髪の匂いでもある。早苗は渡せ渡せと言うが、本当ならばアリスだって受け取る側になりたいのだ。早苗は気付いていないけれど。しかし言った所で当の本人は夢の中だ。仕方なく一つ溜息を吐いて、今度はチルノ達とは反対の方向に目をやる。そこにはアリスの良く知る人物が居た。紅いチェックの服に、緑の髪。夜である今でこそ日傘を差していないが、間違いなくそれは風見幽香だった。


 別段、風見幽香はダイヤモンドの指輪に興味があるわけではなかった。唯、隣でにこにこと笑っている連れの女性があまりに欲しがるので参加しただけだった。金がないわけではない。あまり大っぴらに言いたい単語ではないが、いわゆる大事な人と言うのもいる。そしてその大事な人が、指輪を欲しがった。ここまで条件が揃えば、参加せざるを得なかったのだ。
 結果から先に言ってしまえば、惜しくも指輪を貰う事は出来なかったが、それでも幽香の隣に座る上白沢慧音は満足したらしい。普段はあまり見せない笑顔を存分に振りまいている。

「いや、幽香が頑張ってくれただけで私はもう満足だよ」

 こんな事ならば頑張らなければ良かった。ひたすら後悔する幽香だったが、後の祭りである。最初はやる気のなかった幽香だったが、霊夢や紫と言った相手とスペルカードルールで戦えると知ったので、気がつけば本気を出していた。

「私は巫女やスキマと遊んだだけよ。別に貴女の為じゃない」
「良いんだ、私が勝手にそう思っておくから。ありがとう」
「……ふん」

 慧音の視線から逃れる様に、幽香がそっぽを右に向ける。幽香の右隣では、燐が煮物に息を吹き掛けて冷ましていた。すると、そんな幽香の視線に気がついたのか、燐が顔を上げて苦笑する。

「お姉さんも、素直になれば良いのに」
「私は何時でも自分に正直よ」
「またまた、本当は先生の為でしょう?」
「うるさい猫ね」

 空になった幽香のグラスに、燐が酒を注いだ。グラスの中は文字通り空で、氷さえ入っていない。酒に強い幽香は注がれたそれを一息で再び飲み干した。

「燐、私にも頂戴」
「……意外だねぇ」

 次に燐に酒を要求したのは空(うつほ)だった。その顔は普段と変わらない。酔って赤くなってもいないし、変に青白くなっているわけでもなく、どうやら本当に酒に免疫があるらしい。普段は全く飲まない空なので、まさか酒に強いというのは燐も今日初めて知ったのだ。

「うん、酔わない。何でだろう」
「それはきっと」

 自棄酒だからだ、とは燐は言わなかった。
 幽香と同様、空(と燐の二人一組)もまた指輪の争奪戦に参加していた。勿論空は燐にあげる為に参加していて、指輪に対してそれなりの思いがあった。しかし生憎空の願いは叶わず、燐の左手は素手のままに終わってしまっているのだが、普段地霊殿の奥底で核融合炉に向かっているだけでは知りえない感情に、空が気付かないのも無理はない。その為燐も空を責める様な事はしなかった。空が燐を想っている以上に、燐は空を想っている。指輪を取れなくとも、或いは受付で門前払いを受けても決して空を責める事はないだろう。更に言えば、燐としては空が自らの為に指輪を求めてわざわざ地上へ赴いてくれた事自体が幸せなのだ。
 しかし、空はそう割り切れないらしい。本人も気付いていない、いわば無意識の様なものだけれど。それでも燐に指輪をあげられなかった事が気になっているようだ。
 そしてそんな空の葛藤が、燐には分かる。

「お空、気にしすぎだよ。却って指輪はなくてよかったくらいだもの」
「どうして?」
「この間空にウエディングドレスをもらったばっかりだもん。部屋まで一緒になって、ベッドも一緒。それで指輪なんて貰ったら、あたい嬉しくて死んでしまうよ」
「……」
「もしそれでもお空の気が晴れないなら、はい」

 そうして燐は空に左手を差し出した。どうして良いか分からず、向けられた左手を握る空。

「薬指を噛んでおくれよ」

 意味が分からないままも、燐の言葉に従う――が、やはり、思いの外酒が入っていたらしい。強く噛みすぎたようだ。カリッ、と言う音の後、燐が咄嗟に手を引いた。

「痛っ」
「ごめんお燐……! 平気?」

 月明かりに、燐の左手が照らされる。一滴だけ紅い雫が、燐の指から地面に落ちた。

「ん……平気」

 髪の色と同じ赤い頬を空に向ける。僅かに乱れた呼吸が妖艶だ。

「ねぇ見える? お空の噛んだ跡」

 応える代わりに、こくりと空が頷いた。燐には言わないが、燐の流した血が僅かながらに空の口の中に流れていた。得も知れぬ背徳感が空の中に広がり、思わず声が出なかったのだ。

「今は、これで良いよ。この“指輪”だけで、十分幸せ」

 燐の瞳に、空は以前読んだ本を思い出した。酒と月と血は人を狂わせると言った内容の哲学的な本で、理解出来なかった空は途中で読むのを諦めたが、なるほど確かにその通りだなと感じた。目の前で微笑む燐の顔が、月光に良く映える。

「お空、帰ろう。あたい、眠くなってきちゃった」
「……うん」


 果たして残されたテーブルには、幽香と慧音が気まずそうに佇む事になった。

「……なぁ、幽香」
「……なに、慧音」
「あー……」

 言葉を探す様に、慧音の視線が虚空を彷徨う。対して幽香はいなくなった燐の代わりに、自らグラスに酒を注ぐだけだ。そしてグラスを口に付けようとした時、慧音が言葉を紡いだ。

「やっぱり、私も指輪が欲しい」
「ぶっ」

 思わず口に含んだ酒を噴出した。咄嗟に誰も居ない方向を向いた為、誰かにかかるような事にはならなかったが、幽香からすればそんな些細な事は問題ではなかったし、寧ろ誰かにかかって戦った方がまだ精神的に楽だった。

「いや、ダイヤモンドを欲しいとは言わない。唯、あの二人を見てたら、つい羨ましくなって」
「……」
「ああ、すまん、忘れてくれ」
「……」
「うん、忘れよう。よし、私も飲もう。幽香、酒を取ってくれないか?」

 瓶を取る代わりに、慧音の腕を引き寄せた。強すぎた所為か、慧音を抱き寄せる形になってしまったけれど、もう幽香にそんな些細な事を気にしている余裕はなかった。チルノが氷の指輪をルーミアにあげた様に、幽香もまた幽香にしか出来ない指輪の渡し方を選ぶ事にしたのだ。

「なぁ幽香」
「何よ」
「どうして薔薇なんだ。貰っておいてなんだが、棘が……」
「カレンダーでも見る事ね」

 慧音の薬指に巻かれた花は、赤い薔薇だった。花弁が太陽を追う向日葵の様に、月を向いている。蔦には僅かながらに棘があり、決して慧音の皮膚を突き破ったりはしていないものの、多少むず痒くは感じるだろう。
 どちらかと言うと鈍感な慧音とて、それが幽香の照れ隠しである事くらいは分かっていた。しかし惜しむらくは、慧音に花の知識がない事か。ダイヤモンドと薔薇の関係には気付かなかったようだ。

「もう離れなさいよ」
「嫌だ。カレンダーを見ると、何が分かるのか教えてくれ」
「絶対教えない」
「じゃあ、ずっとこのままだ」

 真面目な慧音は、香水を一切付けていない。代わりに自分と同じシャンプーの匂いが、幽香の鼻に届いた。果たして二人の髪の匂いが同じになったのは何時からだったか、思い出そうとするものの上手くはいかなかった。なので想い出す代わりに、慧音の長い髪をそっと梳く。慧音がこうされると喜ぶ事は長年の付き合いで知っていたし、幽香としても慧音に対して出来る数少ない愛情表現だった。


 そんな二人のやり取りを振り返って見ていた、カウンターの椛がへっ、と火憎げに笑った。その椛を見て文がびくっと反応するが、椛は気にも留めない。

「十人十色の恋愛模様。良いっすねぇ、文さん?」
「え、あ、ええ。そうですね」
「何をびくついてるんすか? まるで私が文さんを責めてるみたいじゃないっすか」
「あ、あはは。そうですよね」
「まぁ、責めてるんですけどね」
「うぅ。私じゃないのに」

 本来ダイヤモンドを受け取る筈だったのは、この椛である。しかし紆余曲折あって、にとりはあのダイヤモンドの指輪を手放すことになってしまったのだが、何を隠そう椛はそれが文の所為だと思っているのだ。幻想郷で噂の流布と言ったら大概は文である事が多く、実際文も早い段階でにとりのダイヤモンドの事は知っていた。しかし実際は文が噂を広めたわけではなく、本当に唯の偶然で人里に噂が広がっただけなのだ。そして引っ込み思案のにとりがまさか結婚指輪などと言う単語を口に出来なかった為、今回の事態に至ってしまったのだが、生憎椛はそんな事を知らない。元々上司である文の事はあまり好きではなかったのもあるが、そんな椛に強く出られない文にも問題がある。意外に射命丸文は打たれ弱いのだ。
 しかし文からすれば、まだ争奪戦に参加出来ただけマシと言う物である。紅白の巫女よりも貧乏な文からすれば、泣くしかなかった。

「椛、もう良いよ。また造るから。はは……」

 対してにとりの目は死んでいる。隣の雛に励まされながら、にとりが左隣に座った女性に声をやった。

「だから、どうぞあの指輪を大切にしてやって下さい。ああ、あと、お幸せに」

 そしてにとりはテーブルに突っ伏した。雛に止められながらも大量の酒を呷っていた為である。
 その、にとりの左隣に座った女性。白い手袋で扇子を開け閉めしている金髪の女性はちらりとにとりを見て、返事をするか否か悩んだようだったが、にとりがテーブルに突っ伏したのを見て、応える必要性がないと判断したらしい。グラスを軽く回すと、氷の音がカウンター内に小さく響いた。それを聞いて、女性の隣、カウンターの一番左に座っていたレミリアが声を掛けた。

「“お幸せに”だってさ。応えてあげなよ」

 西洋の吸血鬼らしく、飲んでいるのは日本酒ではなく紅いワインだった。最も、レミリアとて日本酒が嫌いなわけではない。唯単に、今日はそう言う気分なだけだ。
 くるくるとワイングラスを回す。それにつられて紅いワインが中で踊った。まるで紅い波が心を洗い流すかのように思えて、その為レミリアはワイン、とりわけ紅いワインが好きだった。
 グラスの淵に、月の光が僅かに映る。ダイヤモンドよりも遥かに弱々しい光だが、レミリアを満足させるには十分な程である。見上げる月より思う月、実際に月を見上げるよりもその光から月を思い浮かべる方が、レミリアにとっては遥かに綺麗に想えるのだ。

「分かっています。貴女より私の方が、物理的距離が近いですから」
「そういう言い回しは、私は好きじゃないねぇ。ロマンがない」

 言われて金髪の女性が言葉を詰まらせた。どうやら会話の実権はレミリアに有るようだ。面白く無さそうに扇子をぱちん、と閉じる。

「それで、あの指輪なんだけどさ。貰ってくれるのかい?」
「屋台でプロポーズと言うのは、ロマンが有りませんわ」
「夜景の見えるレストランで、なんて言うつもりかい? この幻想郷で」
「そんな事は言いません」
「この方が幻想郷らしくて良いじゃないか。どうせこの指輪の行き場所は皆が知ってる。今更取って付けたように格好付けても意味がないさ。それとも」
「それとも?」
「ちゃんと段階を踏んで、二人きりになった方が良かったかな、なぁ紫」
「もう、何でも良いですわ」

 レミリアの視線を遮る様に、紫が扇子を開いた。そんな紫の様子に苦笑しながら、再びレミリアがグラスを手に取った。先程よりグラスの淵の光が少しだけ、強く見えるのは気の所為か。
 今回、ダイヤモンドの指輪を手にしたのはレミリアだった。そしてレミリアはそれを、紫に渡したのだ。













 02.
 ――見窄らしいロケットで、惨めな思いをして旅するから楽しいんだ。最短の方法で楽して手に入れた物にはなんの価値も無いね。



 私が二回目の月面戦争を仕掛けた際、友人に言われた言葉である。



 幻想郷の湖から境界を越えて、月へ行く。たったそれだけの事で私と従者である藍とは月に行ったのだけれど、あの赤い館に住む吸血鬼の姉の方は、わざわざ数ヶ月の月日を掛けて月へ行った。境界を使わずに月へ辿り着いた事は驚嘆に値するけれど、何の事はない、外の世界の知識を利用しただけである。あの銀髪の従者が店で本を買って、図書館に住む魔法遣いがそれを実践した。そのロケットに巫女や白黒を詰め込んだだけで、実際には吸血鬼は何もしていない。ただ出来上がるまでの間騒いで、出来上がった際に宴会を開いて騒いで、そして月に行っても騒いでいただけだ。


 私は一度目の月面戦争で、敗北を喫していた。その為、今回の戦いでは、負ける訳にはいかなかったのである。その為には、例え僅かであろうとも、戦力が欲しい。かつて紅霧異変を起こした吸血鬼は、実力も無いわけではないし、好奇心旺盛で生命力もある。多少弱点が多いのが疵だけれど、穢れのない月では雨は降らず、晴れもしない。海も波や流れがなく、しかも舞台は月である。今回に限っては、彼女は格好の駒になってくれる事請け合いだったのだ。その為私は、わざわざロケットなど作らずに私の駒となればいい――そう告げた。
 無論、彼女はプライドが高いので、駒となれ、だなんて直接は言わなかったけれど。しかし彼女は言外を理解してくれる方だったらしい。だからこそあの外見と我侭ぶりでも、館の主として皆から慕われているのだろう。ともかく、断られてしまった。そして、その時の彼女の返答が、冒頭の台詞と言うわけだ。


 効率を最優先する式神である藍には、分からないだろう。私と共に長く生きている幽々子なら或いは、分かってくれるかもしれない。幽々子は私の古くからの友人で、普段は呆けた振りをしているけれど、物事の本質を見抜くのに長けている。その為、異変や事件も楽しむ傾向にある。と言っても、幽々子と彼女はベクトルが違う。幽々子はあまり動くのが好きではないけれど、彼女はとにかくよく動く。まるで幻想郷全てが彼女の遊び場のようで、本当に弱点が多い吸血鬼なのかと疑ってしまうほどだ。逆に言えば飽きっぽい性格でも有るけれど。
 どちらにせよ、これらは長く生きた者は失っていく感情であるのには間違いない。どこか胸を擽られるような、甘美で懐かしい思いである。
 そんな思いや理想を、あの吸血鬼は抱き続けているのだ。
 紅い霧で太陽を隠した時も、或いは、異変を解決する側に回った時も。そして、狭いロケットに乗っていった時も、彼女は実に楽しそうな笑顔をしていた。
 自分が楽しむ為なら、例えどんなに時間や労力をかけても厭わない。人里の子供でさえも呆れるような、しかもそれが何百年以上も生きた妖怪なら尚更馬鹿らしいと後ろ指を指されるような性格である。けれど彼女はそんな事お構いなしで、突っ走っていくのだ。まるで列車の様な、いや、彼女にレールなんてしける者などいないだろう。正に自由な蝙蝠そのものだ。
 周りもそんな彼女に振り回されながらも、諦める様に巻き込まれ、最終的に笑っているのだ。彼女の館から出て行く者の中に、笑顔じゃない者など、私は見た事がない。
 だからこそ私は、月のロケットに乗る際に、防災頭巾を嬉々として被る彼女を見て、悟ったのだ。


――ああ、私は今、レミリア・スカーレットに恋をしている、と。


 さて、それから数ヶ月。いい加減告白をしよう、そう思って気がつけば年が明けていた。あまりの自分の臆病さに藍には白い目で見られる始末である。

「紫様、さすがにそろそろ言ったらどうですか。情けないですよ」

 悔しいけれど言い返せないので、テーブルの上の蜜柑の皮を剥いて誤魔化す。
 お昼時である。意外だと思われるかも知れないが、私は藍に家事は一切させない。私にとって藍は大切な家族の一人である。料理を教わっていない藍が、万が一包丁で怪我でもしたら、或いは火傷でもしたら、私はショックのあまり倒れるだろう。風呂掃除も同様で、ぬるぬる滑る風呂場で藍が転んで怪我でもしたら一大事だ。埃を吸って気管に悪影響でも出たら、突風で藍に何かがぶつかりでもしたら。そう思うと私は藍に家事などさせられなかったのだ。唯一の例外として、買い物だけは藍にさせる事にしている。あまり人前に出るのが好きではない私にとって、買い物は少し辛い。私を見て恐れ戦く姿に、何度膝を抱えた事か。妖怪が人間の恐怖を求めると言うのは間違いである、と、稗田家の者に言いたかったが、それはそれで私の中の何かが失われそうだったので、我慢した。そして今日に至る訳だ。
友人の幽々子や霊夢には、やれ過保護だの、やれ大袈裟だの言われるけれど、それだけ私は藍を大事に思っていると言う事である。そんな私に藍も最近では反抗する様になってきたのが目下の悩みで、いい加減家事をさせて欲しい旨を告げられる度に断り続けるのが辛い。そろそろ野菜の皮剥きくらいさせてあげようか、とも思った。因みに、橙は我が家には住んでおらず、猫と一緒に自分の家で生活をしているので、食事を共にする事の方が稀だ。なので、藍が料理さえ出来ないと言う事を知らないらしい。その為、藍からすれば、橙の尊敬の眼差しに応えるべく、料理を覚えたいと言うのが実情ではないかと、私は密かに思っている。

「藍には関係ないでしょう」
「直接は有りませんがね。幽々子様にからかわれるのは私なんですよ。なんで従者の私がいじられなくちゃならないんですか」

 従者だからだ。
 台布巾で藍がテーブルを拭き始める。最近許した数少ない藍の家事である。先ほど昼食は食べ終えた。昼食は毎回藍の要望で決まって麺類で、油揚げが乗っている。いわゆるきつね蕎麦かうどんかの差しかない。以前一度だけ奇をてらったのか、ラーメンに油揚げを乗せてみた事も有るが、あまりに油っこいので以来一度もやっていない。
 さて、テーブルの上に顎を乗せて蜜柑の皮を剥く私である。それは二つ目に進んでおり、当然藍の邪魔をしている。普段ならどいてやるのだけれど、何しろ今の私は機嫌が悪い。確かに自分でも奥手だとは思うが、まさか藍にまで言われるとは思っていなかったからだ。

「私だって行動はしています。でも、あの吸血鬼がなかなか一人になってくれないのよ」
「あぁ、先週の事ですか。正直言って、スキマで人の生活を覗き見するのはどうかと思いますよ?」

 スキマ妖怪の私からスキマを取ったら、唯の妖怪じゃないか。胡散臭いのが私の数少ないアイデンティティーなのに。

「それで、具体的にはあの吸血鬼の交友関係は、どうなっているんですか?」
「……いいわ、教えてあげる」


 その前に、一つ、彼女について断っておくべき事項がある。それは、彼女が吸血鬼であると言う点だ。一般的に吸血鬼は夜行性で、昼間は寝ていると思われがちなのだけれど、レミリアにとってはそんな事は関係ないらしい。そこらの人間と何ら変わらず朝起きる。そして夜も起きている。つまりは一日中遊んでいる訳だ。何時寝ているのかと言うと、晴れや雨の日、つまり、レミリアが外に出掛けられない日に、纏めて睡眠時間を確保している。果たして睡眠とはそうやって摂るものだったかどうか、私は寡聞にして知らないけれど、本人がそれで納得しているのだから良いだろう。


 ベッドで眠っているレミリアの寝顔は可愛らしく、正直辛抱たまらない。
 やがてメイドがやってくる。起こされて着替える。メイドと替わりたい。一日体験入学でも良いからやって欲しいくらいだ。朝食後、書斎で書類整理。私も最近知った事なのだが、紅魔館は色々な事業を展開しているようだ。永遠亭と血液に関する医療提携を結んでいたり、庭で育てている茶葉を人里で販売したりしているのは幻想郷では有名である。加えて、最近話題になったのが、紅魔館の屋上から地上の湖まで、螺旋を描く様に作られたウォータースライダーだ。以前彼女が月に行く際に参考にした外の資料の中に、その様なレジャー物の本が混ざっていたらしい。気になったものは何でも実践するのが彼女のモットーである。流水が苦手なのにも拘らず、図書館に海を作ったり、こうしてウォータースライダーを作る辺り、もしかしたら流水の弱点を克服しようとしているのかもしれない。旺盛なのは好奇心だけでなく、向上心も同様らしい。一つ残念なのが、図書館に海を作った際に、声がかからなかったことだけれど、まぁ、それはともかく。
 事業としてウォータースライダーを提供しているので、当然紅魔館以外の者も利用出来る様にしなければならない。とは言え、紅魔館の中には入る事は出来ない。紅魔館とは別に階段が用意されており、その階段を昇る事で屋上に辿り着くことが出来る。どうやら商売に鼻が効くらしく、その屋上にカフェテラスが開かれている事にはもはや感嘆するしかない。
 とは言え、ウォータースライダーもカフェテラスも、価格設定が恐ろしく安い。と言うよりも、ほぼ唯だ。金銭ではなく、レミリアや咲夜が満足する物を持ってくるだけでも利用できるので、人里の子供や妖精にも広く慕われている。狭い幻想郷、一ヶ所に金銭が集まる事はあまり良い事ではないのだけれど、どうやら彼女は聡い。とにかく楽しむ事が第一優先している上、儲けたお金はとにかく消費する性格だ。おかげで、必要以上に紅魔館にお金が集まる事はなく、むしろ、彼女が消費している事で、金銭の循環が綺麗にいっている。


 話を元に戻そう。週初めである月曜日の彼女は、そういった事業での報告書や書類を真面目に整理している。その真剣な眼差しを見ると、ドキドキしてしまう。
 一通りその作業が終わったら、一杯紅茶を飲み、図書館へ行くのがレミリアの日課だ。そこで魔法遣いと顔を合わせるのだけれど……。

「はぁい、パチェ。生きてる?」
「随分な挨拶ね。今日はどんな無理難題を言うつもり?」
「おいおい、私は今までお前にそんな事を言ったつもりはないよ」
「白々しい」
「本当だよ。お前に頼み事をした事は何度もあるけど、お前なら簡単にやってくれると思って言ってるんだから。お前を信頼してるって事だ」
「……で、今日は何か用?」
「いいや、別に。お前の可愛い顔を見に来た」
「……からかうなら別の奴にして頂戴。私は忙しいんだから」
「そうは見えないけどねぇ。そんなに本に顔を近づけて、却って読むのが遅くなりそうだよ。匂いでも嗅いでるのかい?」
「放っておいてよ」
「やれやれ、結局毎回こうだ。たまにはその顔をちゃんと見せてくれよ。まぁいいや、じゃあまたな」

 なにしろ私にはライバルが多い。まず一人目のライバルがここにいた。パチュリー・ノーレッジ。
 というよりも、紅魔館に住む者は大概私のライバルである。従者の十六夜咲夜や妹のフランドール・スカーレット等、決してハードルは低くない。むしろスタート地点は私の方が後ろだ。この場合のゴールが何を意味するのかは、まぁ、あまり考えない事にするけれど。
 月曜日の彼女は、基本的に遠出はしない。にもかかわらず、何時もレミリアは誰かと一緒にいる。今行った図書館にもっと長く居る事もあれば、妹と遊ぶ事も多い。天気がよければ(勿論、レミリアにとっての良い天気、と言う意味なので、実際は曇っている)、門番と演舞のような事をしたりと図書館の魔法遣いよりも、よっぽど彼女の方が忙しい。

「まぁ、そうでしょうね。紫様、他はどの様なライバルが?」
「後は……」


 紅魔館の主としての月曜日が終わると、あとは皆が良く知る自由奔放な彼女になる。白玉楼で幽々子と共に幽霊楽団の演奏を聞く事もあれば、妖怪の山にちょっかいを出して楽しんだりもしている。地底にも行くし新しい寺にも行けば、人里にも顔をだす。博麗神社に至ってはレミリアを歓迎している。何時から神社は週休二日制になったのだろうか。霊夢がレミリアに淹れるお茶は、私の記憶に間違いがなければ一番高い物だ。
 これらの、レミリアの行動と彼女に会った者の反応を鑑みるに、

「……紫様」
「何」
「ライバルだらけじゃないですか」
「知ってるわよ」

 どうにもこうにも、レミリアを慕っている者だらけと見て、間違いが無さそうだ。

「従者に魔法遣いに実妹、幽霊楽団に幻想郷の巫女。紫様の割って入る余地はないんじゃないですか?」
「うぅ」
「しかも引っ込み思案で本人にアタックさえ出来ないとなれば、ますます紫様には振り向いてくれないでしょうね」
「うぅぅ」
「そもそもあの吸血鬼が誰か一人を選ぶとして、その候補の中に紫様はいらっしゃるんですかね。失礼ですけど、紫様の名前さえ覚えないかもしれませんよ」
「うるさぁい!」

 藍の言葉の暴力に耐え切れず、蜜柑の皮を藍に向かって潰し、蜜柑汁で視力を奪ってやる。ごろごろと床でのた打ち回る藍をぽかぽかと殴って、私は家を飛び出した。
 全く、藍の奴は分かっていない。乙女心と言う奴を分かっていないにも程がある。


 そうして私が辿り着いたのは人里である。何やらそこには人だかりが出来ていて、傍目には何の行列なのか分からない。もうこの際なので正直に言うが、引っ込み思案の私に、あの人混みに混じる勇気はない。されとてこのまま遠くから突っ立って眺めていても、何ら状況は変化しないと言う事も分かっている。さてどうしようかしら、と考えた所で、私は声を掛けられた。

「おぉ、紫じゃないか」
「レミリア・スカーレット」

 あまりの奇跡に、もう自分でも情けない声が出た。世間一般ではそんな私の声を怪(妖)しいだの不穏だの言うけれど、単に弱気で声が震えているだけである。
 そして今何故そんな声を出したかと言うと、背後から私に声を掛けてきたのが、事も有ろうか意中の人そのものだったからだ。隣に従者を連れているとは言え、まさかこんな所で会えるとは。しかも、私の名前を、下の方で、読んでくれたのだ。家に帰ったら藍に自慢してやろう。
 しかし好意的な彼女に対して私が返した言葉はフルネームである。しかも小声で、もしかしたら彼女に気付かれていないかも知れない。愛想が悪い、なんて点で、彼女の好感度を下げたくはないのだけれど。

「つれないねぇ、まさかフルネームで呼ばれるとは」
「あら、これは失礼。レミリアお嬢ちゃん、と言うべきだったかしら」

 何でわざわざ嫌われる様な事を言うのだろうか、私は。馬鹿なのか。
 しかもおあつらえ向きに扇子で口許を隠している。これで好かれようなんて阿呆すぎる。

「やれやれ、まぁいいか。お前も人混みが目的か?」
「生憎私はそう若くはありませんわ」

 あぁ、呼び名が“紫”から“お前”になってしまった。当たり前の事だけれど。
 しかし、どうやら彼女もこの人混みが目的のようだ。ならば尚更人混みの内容が気になる。そう思い私は、目の前の空間を横に小さく裂いた。いわゆる、スキマである。と言っても、下手に人里の住民を怖がらせるような事はしたくない。その為、気付かれない程度の上空から、見下すような形で空間を繋いだ。すると、やはり好奇心旺盛な彼女は私のスキマの中を覗こうと、私の隣にやって来た。高まる鼓動が漏れ聞こえないだろうかと不安で仕方なかったけれど、ここで空間を閉じたら、その時は本当に完全に彼女に嫌われるだろうと察知したので、それは出来ない。その為、震えそうな手を落ち着かせながら、何でもないふりをする事にした。

「良かった、間に合ったみたいだな」
「ふむ。何かあるわね」
「ん、知らなかったのか?」
「えぇ、まぁ」
「そうかそうか……」

 レミリアがにやにやと笑う。

「いや、失礼。馬鹿にしてる訳じゃないよ。唯、お前も知らない事があると思うと、ますます好感が持てると思ってね。まるで普通の女の子じゃないか」

 時が止まった……と言っても、傍らの従者が何かしたわけではない。レミリアの言葉に、私が動揺してしまっただけだ。
 好感が持てると言われた。しかも、ますます、だ。零ではない。ある程度好感が持たれていたと言う事だ。もしかしてこれは夢だろうか。或いは、無意識の内にレミリアの好感度と言う境界を自分の良い様に弄ってしまったか。自分で自分さえ信じられない状態だった。
 そんな私は今、右手で扇子を持ち、左手で日傘を開いている。レミリアは私の左隣だ。無防備にスキマを覗きこむレミリアの柔らかい髪が、私の左手に触れたり離れたりしてもどかしい。手袋越しで、感じるはずが無いのに、彼女の髪が触れた部分が熱を帯びて、まるで私から乖離するかのようだ。今までの中で、一番近い二人の距離。いっそこの左手で彼女を引き寄せられたら、だなんて思うけれど、やはり私にそんな勇気はない。虚勢に似た強がりに、胡散臭さと言う彩りをつけているだけだ。

「お嬢様」

 ここで初めて、従者の十六夜咲夜が声を発した。

「どうした、咲夜」
「折角ですから、彼女と参加してみてはいかがですか? 彼女は丁度日傘も持っていますし」
「ふむ……」

 人ごみの中に、何かを見つけた。白いテーブルクロスの上に仰々しく置かれた硝子の箱。中には太陽の光に三つの反射で応える眩いリングがあった。チカチカとした表面反射のシンチレーションに、白く強いブリリアンシーが重なって見る者の目を引く。そして宝石自体を虹色に輝かせる、内部反射のディスパーションが乙女心に止めを刺した。間違いない、屈折率2.42を誇るあれは。

「ダイヤモンド」
「ん、流石は大賢者。お詳しいじゃないか。ようし決めた、咲夜」
「かしこまりました」

 左腕に、不思議な感触が広がった。なんだろうと思って見てみると、レミリアだった。あ、いや、レミリアの帽子だった。それだけじゃない、吐息が指先に伝わってくるし、僅かに足同士も触れる様になっている。辺りを見回すと、直前までレミリアの日傘を持っていた咲夜がいない。そして今は晴れだ。
 すると、辺りを見回した私に気がついたのか、レミリアが私を見上げて笑った。

「今からこの指輪を賭けた勝負があるんだよ。二人一組。最初は咲夜と出ようと思ってたけど、お前と出る事にするよ」
「何故です?」
「あいつ、ダイヤモンド知らないんだよ。だから張り合いがなくてねぇ……」

 居るのか、そんな奴が。
 やがてレミリアは私の腕を掴み、ずるずると引っ張り始めた。人ごみを掻き分けて、白いテーブルクロスの前まで辿り着く。掴まれた腕と周囲の視線が痛いけれど、痛さが違う。

「おい河童。まだ受付はしてるか?」
「もう好きにしてよ……」

 受付には、水色の服を着た少女が居た。どんよりと目が沈んでいるが、その顔はついこの間まで何度も合わせた顔だった。確か名は、河城にとりといったか。

「自分の為に作ったのに、なんでこんな事になっちゃうかなぁ……もうヤダ、本当ヤダ。早く帰りたいよ」

 ぐちぐちと呟いている。成程、確かに彼女にはあの指輪を作るための資料を要求された事があった。完成していたのも今知ったが、それが賞品にされているとは、何と言うか、ご愁傷様と言うべきか。
 そんな彼女の隣には、異常なまでに不機嫌な顔をした女の子が居た。背中に携えた刀と頭の赤い帽子、そして恐らくは犬か狼あたりであろう耳が目を引く。

「どうせあいつよ。ごめんにとり、私の馬鹿上司のせいで」
「文って決まったわけじゃないし、正直もう誰の所為とか、どうでも良いよ……」

 涙も枯れ果てた、と言った表情である。
 やがて何やら台帳に記入をしていたレミリアと共に、別の場所へ案内された。どうやら私とレミリアが最後の参加者だったらしく、案内された部屋には見知った顔が幾つかあった。その仲でも一番意外だったのが、

「紫、レミリア。あんた達も参加するの?」
「手間が省けたじゃない」

 博麗霊夢と、西行寺幽々子。まさかこの二人が居るとは。
 何か言おうと思ったが、そこににとりと椛がやって来た。

「はい、それじゃあ参加者は今ここにいる方々で全員です。それじゃあこの指輪を争奪するにあたって、幾つか説明をします……」

 目が完全に死んでいるにとりの説明で、ルールが発表された。スペルカードルールでの対決に加えて、何故かクイズや運試しも有るらしい。何故かは知らない。


 まずは知力の勝負らしい。目の前に用意されたボタンを押して正解を答える、所謂早押し方式だった。まだ幻想郷に来るには早い気がするけれど、この際考えない事にした。にとりも参加側らしく、出題者は天狗の射命丸文になったのだけれど、椛に睨まれて泣きそうになっている。果たして大丈夫だろうか。

「え、ええと。問題は全部で十問です。正解数が多い組から順に点数が入り、一位が五点、二位が四点、三位が三点、四位が二点、五位が一点です。スペルカードルールでの対決と、運試しでの勝負も同様の採点方式で、その三種での合計点数で勝負を争います。椛、そんなに睨ま……あ、いいえ、何でもないです」

 成程と思ったが、さして問題はなかった。自分でも言うのもなんだけれど、知識もスペルカードルールでの勝負も、そう負ける気はしなかったからだ。最後の運試しに関しても、なにせ私のパートナーはレミリアだ。豪運で知られる彼女が味方なのでこの点に関しても安心していい。つまりは、ライバルはスペルカードルールの設定者でもあり、幸運の持ち主である霊夢と幽々子のペアだけと言う事になる。

「それでは、第一問です」

 とは言え、気は抜けない。何せ今言った通り、弾幕勝負に関しては二組ともほぼ互角、下手をしたら後手に回る可能性もある。運試しも同様で、霊夢とレミリアが互角で戦うとしたら勝つ可能性も負ける可能性もあるのだ。全部で三部門のこの対決、出来れば二部門で一位になっておきたい。

「今回の賞品であるダイヤモンド、外の世界で一番生産数が多」
「ロシア!」

 ……。

「ダイヤモンドの母石である火成岩ですが、これは」
「キンバーライト」

 ……ん?

「ではそのキンバーライトが唯一日本で」
「愛媛県四国中央市」

 ……んえあ?


 ちょっと待って、早過ぎないかしら。見れば霊夢はぶつぶつと呟いている。何あれ怖い。
 私の視線に気付いたのか、幽々子が私に笑い掛けた。

「うふふ、私最近宝石に凝っていてね。うふふ」

 笑顔がどす黒い。私が知る限り、笑顔と言う単語はもっと小春日のような爽やかな物だと思っていたけれど、そうでは無かったようだ。却って笑われるほうが怖いと分かった。何故かは分からないが二人とも事前に知識を付けてきたらしい。何時勉強しのだろうか、これだから紅白の巫女は週休二日制だなんて言われるのよ。ついでに言えば問題がマイナーすぎる。
 しかし、それが却って私の心に火をつけた。存外に私も負けず嫌いだった様だ。おかげでなんとかその後四問ほど答え、引き分けに持ち込んだ。ダイヤモンドの造り手であるにとりでさえ二問しか答えられない問題を、唯の巫女と亡霊が四問も答えるなんて可笑しいとは思うけれど、もうどうでもよかった。唯二人の明らかな獲物を狙う目から逃れるのに必死だった。霊夢も幽々子も常日頃からやたらと私をつけ回す、もとい過剰に接してくる事は多々あったし、しかもここでもし指輪二人に取られたら、それを口実にまた迫ってくることが容易に想像できたのだ。


 しかし、私は次の部門の弾幕勝負で一位はおろか、二位にさえなれなかった。それもそのはず、今日は突き抜けるような青空が広がる、絶好の小春日和なのだ。吸血鬼のレミリアは勿論、実の所私自身も真昼間に弾幕の打ち合いをするのは苦手だった。おかげで霊夢・幽々子ペアには負け、ついでに言えば幽香と慧音のペアにも負け、更には地獄烏にもやられた。
 この時点で私とレミリアのペアは七点に留まり、トップを走る霊夢と幽々子のペアには三点離されていた(最初の勝負で引き分けた私と霊夢は、五点貰っている)。そして弾幕勝負で出遅れた所為か、なんと幽香と慧音のペアも七点を取っており、何時の間にか同点になっていたのだ。
 残された勝負が運試しであるくじ引きである事を考えると、この三点差と言うのは絶望的点差と言っても差支えがなかった。先に挙げた通り、霊夢もレミリアも天性の幸運を持っている。その為、私達が勝つには、レミリアが五点を引き当てて、尚且つ霊夢が一点を引かなければならない。更に問題なのはくじを引く順番で、これまで獲得した得点順に引くと言う事だ。幽香が三番目、私が四番目、そして霊夢が最後。その為、幽香を含めて私と霊夢の為に五点と一点を残しながら引いて貰わなければならないのだ。そして私が五点を引いて、霊夢が一点を引く。私が勝てる唯一のパターン、確率にして一.四四%。
 正直、駄目だと思った。幾らレミリアに運があっても、引くチャンスさえ後回しならどうしようもない。不幸中の幸いとして、霊夢自身が引くくじが残りの一つだと言う事だけれど、要は先に挙げた確率に変化がないと言う事でもある。百回に一回の奇跡だなんて、起こるわけがない。


 しかし、レミリアは笑っていた。笑って、くじの箱の前に立った。

「良いじゃないか、山あり谷ありの方が楽しくて」

 引いたくじは全員で一斉に見せると言う事で、レミリアの手にあるくじが一体何点なのかは分からない。まぁ、レミリアが仮に五点を引いていたとしても、肝心の霊夢が一点を引いてくれないといけないのだ。レミリアが五点を引く幸運を持っていても、霊夢が一点を引く運の悪さを持っているわけがない。

「ふふん、紫。私と幽々子どっちを選ぶのか、考えておく事ね。まぁ、私が負ける訳がないけど」
「取り合えず一点以外を引いて、式場の予約をしましょう」

 そんな霊夢と幽々子の声に、ふと私はある物を感じた。

「子供の名前、何にしようかなぁ」
「あら、大勢の前で発表するの? 私は自分の家で決めたいわ」

 何だろう、この感じ。確かこれと同じ感覚を、先週読んだ本に感じた。確かその本の中では紛争が起こり、主人公の周りにいる人物が名台詞を残して命を散らしていった気がする。そして今目の前で嬉しそうにくじを引いた霊夢と、傍らにいる幽々子がどうにも彼らと重なって見えるのだ。


 ――あれ。これって、いわゆる。

「はい、それでは、皆さん一斉に引いたくじを開いてください」
「紫、愛して……る……?」


 ――外の世界で言う、

「紫、当然私を選……ぶ……」


 ――“死亡フラグ”って奴じゃあ、なかったかしら。










 03.
 氷でもなく、好きな人の髪でもなく。噛み跡でも花弁でもない、本物のダイヤモンドの指輪が今、私の目の前にある。箱の中で燦然と輝くそれを、レミリアが手に取った。箱をスカートのポケットにしまい、空いたその左手で、私の手袋を外された左手を掴んだ。そして私の左手が震えているのに気付いたのか、苦笑を浮かべる。

「こう言う時は、私の目を見て欲しいな」

 屋台を飛び出して、空を二人で飛んでいた。低い月が彼女に隠れて、その両端さえも羽で見えない。下弦の三日月が、まるでレミリアの体の一部の様に思えた。
 恥ずかしさのあまりレミリアから目を逸らし、思わず私は地上を見下した。地上では私とレミリアのやり取りを盃に、皆が苦笑を浮かべている。
 ああ、もう私は後には引けないな、と感じた。胡散臭い、人妖を問わず煙に巻いてきた私は、もういない。今ここにいるのは、好きな者から指輪を貰うべく俯いた唯の女一人だ。

「紫、受け取ってくれるよな?」

 そう言えば、私はまだ聞いていない事がある。何故レミリアが、私を選んだのか。成り行きで一緒に行動を共にしたとは言え、貰った指輪を誰に渡すかは、レミリアの自由なはずなのに。

「理由が無くちゃ駄目か? 言葉に纏めて記録に残さなくちゃ不安になるような感情は、恋とは言わないよ」

 何故か私は、今まで起きた異変の事を思い出していた。二回目の月面戦争で、レミリアに協力を断られた日の事も含めて、これまで起きた、目まぐるしい幻想郷の歴史を。異変を起こした事も解決した事もあるレミリアだけれど、果たしてその時何を思ったか。天狗の新聞記者には気まぐれだと語ったが、それはきっと真実だろう。何時だって彼女は気まぐれなのだ。だからこそ私は恋をしたのだ。
 そこまで考えて、私は考えるのを止めた。すると、不思議と左手の震えが止まり、代わりに感覚が澄んでいくのがわかった。私に触れたレミリアの体温、空の色、地上の歓声。全てが私の中に積もっていくのを感じた。今ならレミリアに隠れた月の角度だって求められる気がする。
 そんな私の様子に、一瞬だけ肩を竦めたレミリアだったけれど。持っていた指輪を、私の薬指にゆっくりと通した。ひんやりと冷たい感触が、薬指からじんわりと伝わってきて、得も知れない感情が私の中を巡った。

「レミリア」
「ん?」

 地上が騒がしいけれど、どこかその喧騒も遠くの物に感じられた。そんな声を聞いて、そうだ、と私は思いついた。
 かつての八雲紫に戻る事はもう出来ない。けれど、自分の感情に素直になれるのだとしたら、それもいいか、とも思えた。
 取り合えず、今私が出来る事は、指輪のお礼をする事だった。だから私は、

「愛してる」

 私よりも小さいレミリアの身体を抱き締めた。下弦の月が、私の薬指を一瞬だけ照らし、まるでそれが空からの祝福の様に、私には思えた。
 04.
 遥か遠くの上空に、抱き合う二人の姿を見た。ずきりと胸が痛んだのにも拘らず、私はその光景から目を逸らすことができなかった。

「霊夢」

 後ろから、幽々子の声がする。けれど、私は振り向かなかった。

「貴女の泣いている所を見るのは、多分私が初めてなんでしょうね」

 酷く優しい声に、私の心が揺れたのが、自分でも分かった。激情に身を委ねる事が、酷く甘美な誘いに感じたけれど、それを一度してしまうとどこまで自分が崩れてしまうか分からなかった。だから私は膝を抱える手を強くする事で、幽々子の声に応える。

「紫も貴女も、相当不器用ね……私も、だけれど」

 ふわりと、桜の香りがした。数瞬遅れて重みと温もりが伝わって、ようやく背後から幽々子に抱き締められたのだと気付いた。それが上空で抱き合う二人に重なって、思わず私は幽々子の腕を振り解こうとしたのだけれど。本当に私が私でないかのように、腕に力が入らなかった。

「今の内に泣いておきなさい。明日また二人に会っても、貴方が貴女で居られる様に。笑ってあげられる様に」

 耳元で囁く幽々子の声が、酷く優しい。亡霊の癖に、声も体温も暖かい。その声に触発されて、堪えていたはずの嗚咽が勝手に、私の口から零れ出た。

「幽々子」
「ええ」
「私、本当に、紫の事……好きだった……」
「ええ」
「レミリアも、親友だった……」
「ええ」
「どんな顔して、会えば良いの……? 私、辛いよ」
「思った通りで良いのよ。辛かったら、二人の前で泣いてやりなさい」
「でも……」
「親友が親友に迷惑を掛けて、悪いはずがないわ。酸いも甘いも、好きも嫌いも全部合わせて親友なのよ。好きなままでも辛くても良いの。貴女は貴女でいなさい」
「幽々子……」

 ぼやけて、二人の姿は見えない。月光も二人に遮られ、暗い空だけが私の視界に広がっている。啜る頻度が増えた鼻が、幽々子の匂いを感じ取れ無くなった。声と温もりだけが、私と幽々子を繋ぎとめていた。やがてそんな囁きも消え、後に残ったのは、本当に優しい幽々子の体温だけ。
 私は、変わらなければならない。明日また二人に会っても平気でいられるよう、強い私に。だけれど今夜だけは、弱いままでいたい。激情を全て虚空に散らせたい。


 だから私は、思い切り泣くことにした。背後で一回だけ鼻を啜った幽々子の音を、掻き消す様に。


 さようなら、私の恋心。
神田たつきち
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コメント



0.2640簡易評価
3.90ワレモノ中尉削除
>料理を教わっていない藍が、万が一包丁で怪我でもしたら、或いは火傷でもしたら、私はショックのあまり倒れるだろう。
>藍の言葉の暴力に耐え切れず、蜜柑の皮を藍に向かって潰し、蜜柑汁で視力を奪ってやる。ごろごろと床でのた打ち回る藍をぽかぽかと殴って、私は家を飛び出した。
紫様の行動に矛盾がw
にとりと椛には気の毒でしたが、多種多様なカップリングが見られて面白かったです。
紫様は胡散臭く見えて実はヘタレなのがいいと思うんだ。
11.100名前が無い程度の能力削除
にとり頑張れ!もう一度作って、今度こそ椛と幸せな家庭を築くんだ!
12.100名前が無い程度の能力削除
アンタんとこのレミリアが誰かとくっつくなんて、思いもしなかったぜ。
紫、GJ!
24.100名前が無い程度の能力削除
ゆかりんが可愛い過ぎて生きるのが辛い…ww
25.100名前が無い程度の能力削除
文章がくどいかな、同じ単語を何度も使うのは少し読みづらい。
しかしレミリアがかっこよすぎる。これは乙女だったらころっといってしまうだろうw
加えて最近レミ紫がマイブームなので、これを機にもっと広まって欲しいなあ
33.100名前が無い程度の能力削除
まさかくっつくとはwwwしかも妹様じゃなかったとはwww
しかしこれもありだなwww
34.100名前が無い程度の能力削除
お嬢様のカリスマが溢れ出しているだと。
38.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしい幻想郷だなおい。
43.100名前が無い程度の能力削除
あー、なんだ、組み合わせがどれもツボなんだけどw
45.100名前が無い程度の能力削除
これはマイナーなのだろうか
50.80ずわいがに削除
金とか指輪とか、そんな物質的なもんは二の次さ!
だからもちなおしてくれよにとりwwwお前のまわりのグラヴィティがやばいんだwwww
52.無評価名前が無い程度の能力削除
誤字報告を。

>手放さなくなってしまった

前後の文脈からすると、「手放さざるをえなくなって」、でしょうか?

>火憎げに

皮肉げに

>会話の実権

主導権、ではないかと
57.100名前が無い程度の能力削除
\すげえ!/
58.100心太をダイアモンドに変える程度の能力削除
幽々子良い人(幽霊)ww
68.100名前が無い程度の能力削除
お嬢様が素敵過ぎて
たまらんwww
75.無評価名前が無い程度の能力削除
微妙。簡易評価で10点