Coolier - 新生・東方創想話

幻想参景   竹林

2010/10/11 22:53:34
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 ※このSSは、作品集109の拙作『幻想参景 紅魔』の続編になります。
  また、作品集90の拙作『てゐの恩返し』の設定を一部使っております。





 零(承前)




 藤原妹紅の朝は早い。

 未だもやに霞む竹林の中を、肩に手ぬぐいを引っかけて軽い足取りで走っていく。昨夜は遅くまでお酒を呑んでいたせいもあって、走り始めのころは大分頭がじくじくと痛んだのだけれど、永遠亭の外周を巡るころにはようやく人心地がついた。外れてしまった歯車をきちんとした流れに戻すには、無理やりにでも体を習慣に従わせるのが一番だと妹紅は思う。

 毎朝のジョギングは彼女がこの竹林に来てからすぐ始めたことであり、つまりもう何百年も欠かしたことのない日課だった。時々立ち止まってお手製の竹の水筒から水をごくりと飲む。のそのそと動き回る野兎たちに気晴らしに餌をやる。ほぼ無意識に近い惰性の行為だけれど、彼女はその繰り返しを愛していた。走っている間は、少なくとも退屈ではないからだ。

 時々、永遠亭の嘘つき兎が仕掛けたトラップに、動物やら妖怪やらが引っかかっていることがある。それを溜息まじりに解放してやるのも彼女の仕事だった。

「……おや、これはまた」

 さて、今回も罠にかかった哀れな犠牲者を発見したのである。
 したのであるが。

「もしもーし。あんた、生きてる?」

 ただの人間がこれに引っかかるとは珍しい。熟練した猟師以外、一般人が妹紅の案内なしでこの竹林に入ることはあまりない。永遠亭が外の世界に対して「開いて」からというもの、優秀な医者にかかりたい者は必ず妹紅に案内を頼むという暗黙の了解ができていた。さもないと入りくんだ竹林の中で迷い、一生出られなくなる可能性があるからだ。

「あー、ちょっと手遅れっぽい、かな?」

 網縄を解いて現れたのは、紫色の髪をした少女だった。顔立ちは整っているが青白く、まるで生気を感じさせない。触れた手も氷のように冷たい。冬の寒さにやられてしまったのだろうか。こんな何の装備もなしに竹林に入ったのでは、罠に引っかからずとも早晩妖怪に喰われるか凍死するかしていただろう。なむなむ、と口の中で呟いて、一応心臓の鼓動を確かめようと胸に目をやったとき、妙なものに気がついた。

「……目?」

 赤い円形のものが、彼女の服の左胸に貼りついていた。
 たしかに目に相違ない。黒い瞳が半分だけ閉じた瞼の下からのぞいている。眠そうだ。
 それを見たとき、妹紅の心を妙な衝動が襲った。

「つ」

 そろり、そろりと手を伸ばす。

「つっつきたい……!」

 ごくり、と唾を飲みこむ。
 どうしてか、物凄くやってはいけないことのような気がする。
 しかし、人間、やってはいけないことほどやってみたくなるものだ。蓬莱人が厳密に人といえるかどうかはどうでもいい。そういうことではないのだ。これは自我を持つ存在すべての根幹に関わる問題なのである。だから、

「仕方ないね」

 誰にともなくそう呟いて、妹紅は人さし指を立てる。
 あの黒眼の部分を、ちょんちょんとつついてやったら、きっと至高の快楽が得られるだろう。
 もう少し。もう少しで、触れられる――

 そのとき、くわッ、と目が全開した。

「わぁ!」

 思わず悲鳴を上げた。

「んんぅ……?」

 どうやら生きていたらしい。紫髪の少女は呻き声を上げて、両の目をゆっくりと開いた。
 妹紅は慌てて手を引っ込めた。ちょっと角度を変えれば、妹紅が少女の胸に手を伸ばしているようにしか見えないからだ。

「あ、えーと、その」
「……この目を触っても、なにも起こりはしませんよ。貴女にとってはただ固いだけでしょう」

 え、と妹紅は息を呑んだ。
 彼女が両目を開いたときにはもう手を引っ込めていたはずなのに、どうしてわかった? まさか、見えるのだろうか。胸についている目でも。

「ええ……といっても、物理的に何かが見えるわけではないですが」
「は。え」
「そうです。私は……人の心が読めるのです」

 不本意ですが、と小さく付けくわえて、少女は目を伏せ、押し黙った。

「もしかして……覚りなの?」 

 こくり、と少女は伏し目がちに頷いた。
 驚いた。これまでに様々な種類の妖怪と出会ってきたが、覚妖怪と会うのは初めてだった。彼らはその能力ゆえに他者から疎ましがられ、絶滅したという噂も耳にしていた。だとすればこれはかなり希有な出来事だろう。酷い二日酔いで目を覚ました朝だったが、案外ツいているのかもしれない。

「どうしてまたこんなところに? ここに入る前に人里へは寄らなかったの。あそこを通れば、誰かが私を呼べって忠告してくれたはずだけど」
「いえ、その……人がいるところは、今はあんまり……」

 どうやら何か事情があるらしい。ならば、これ以上は訊くまい。彼女が永遠亭へ行くことを求めるなら、今この瞬間から妹紅は案内人なのである。案内人は、依頼人の事情に首を突っ込んだりはしない。ただ導くだけだ。

「じゃ、案内するよ。行き先は永遠亭でいいんだよね?」
「ええ、お願いできますか?」
「もちろん。さ、行こうか。立てる?」
「なんとか」

 少しふらふらしているものの、何とか少女は立ち上がった。
 妹紅は手を差し出す。

「ほい」
「え?」
「手、出しなよ。転ぶよ」
「……はい」

 少女の手を握る。まだ氷のように冷たい。 
 そのまま、朝もやを掻き分けて二人は歩きだす。

「そういやあんた、名前は?」
「古明地さとりです」
「そう。まんまだね。私は……って、名乗るまでもないか」
「藤原妹紅さん、ですか」
「さんはいらないよ。まぁ、これからは誰かの案内なしにうろつかないほうがいい。あんたは妖怪だから身は守れるだろうけど、なんせ、迷うからね」
「……なるほど。わかりました」
「ついでに言えば、永遠亭には厄介な力を持つ奴がいてさ。竹林の波長を狂わせて、中にいる奴を出られなくするとかなんとか。理屈はちんぷんかんぷんだけど、迷惑極まりない事をしでかす奴でね。というかそんなんばかりだからあそこ」
「あまり良い印象を持っていないのですね、永遠亭に」
「ああそうさ。ほら、あんたが引っかかってたあのトラップだって――」
「あ、その」

 さとりが突然妹紅の言葉を遮った。

「どうしたの?」
「その、兎です。トラップを仕掛けた。その子が、私に永遠亭に来るよう勧めてくれたのです」

 妹紅はぴたりと立ち止まった。
 とても嫌なことを聞いてしまった気がする。

「……兎って……てゐのこと?」
「はい」
「あんた、あいつに用があるの?」
「ええ……あの子を通さないと、きっと話が通じないでしょうから」

 妹紅は大きく溜息をついた。

「……どうしたのですか?」

 何も答えず、妹紅はこれまでとは別の方向へ歩き出した。
 てゐが今どこにいるか、妹紅はよぅく知っていた。

「え、あの、どこへ」
「心読みゃわかるでしょ。私ん家だよ」
「え――?」

 妹紅が今朝がた二日酔いだった理由。
 それは、他ならぬ因幡てゐと、夜遅くまで酒をかっくらっていたからである。




 壱  幸福のトラップ





 妹紅が不機嫌に黙り込んでしまったので、さとりは若干居心地の悪さを感じていた。繋いでいた手も、今は解いてしまっている。暖かかった妹紅の両手は、お札のたくさん貼り付けられたもんぺのポケットの中に収まっている。
 ついいつもの癖で、さとりは妹紅の心を観察した。さっきあんなに親切だったのは案内人を務めるという気負いがあったからで、今のように不機嫌な沈黙をまとわせているほうが常態であるらしい。でもじっくり見ていると、不器用な優しさとでもいえるものが伝わってきた。

「そこ危ないから気をつけな」

「あんた、永遠亭に行ってどうしようっての。はぁ? 雇ってもらう? やめときな。ロクな目に合わず逃げ出すのがオチだよ」

「そんな薄着でうろつくなんて、馬鹿としか思えないね。ほら、くしゃみしてるじゃん……まぁ、永遠亭には薬師がいるけど、あんま信用しないほうがいいよ、あいつのことは。ほれ、紙」

 このように、心を読まれているとわかっているのに、ちょいちょい振り返ってはさとりのことを気にかけたり注意したりする。
 いい人だ、とさとりは思った。同時に、どうして見知らぬ人にそれほど親切にできるのか、疑問を抱く。紅魔館に残してきたフランドールのことが頭をよぎった。たとえ、どれほど親切にしても、どれほど好意を抱いても、それが裏切られることは必ずある。

 もう、フランドールには会えない。

 憎んでいるわけではない。でも、これ以上一緒にいると、自分を保つことが不可能になってしまうかもしれない。今度こそ、完膚なきまでに砕かれてしまうかもしれない。それが怖くて、さとりは紅魔館を逃げ出した。彼女の可愛らしい笑顔を思い出して、さとりは心が痛むのを感じ、左胸を……第三の目をおさえた。

「ほら、ついたよ。あれが私の小屋」

 小屋、という形容がまさにふさわしかった。こじんまりとしたそれは簡素な造りで、無駄な装飾は一切排された実用一辺倒のものだ。

「ああ見えて結構過ごしやすいんだよ。夏は涼しいし。冬は、まぁなんとかなる」

 二人は引き戸の前まで来て立ち止まった。妹紅が自分から動かず、じっと入口を観察しているのにさとりは気付いた。

「……罠が張られているかもしれないのですね」
「ああ。あいつは油断ならないからね。うかつには開けないほうがいいよ」
「そんな相手を、自分の小屋の中に残してきたのですか?」
「あー、うん。ちょっと説明できないけど、そういう勝負をしてるんだよ」
「勝負?」
「ま、詳しいことはめんどいから言わない。さて、どうするかねぇ」
「でも、開けないと入れないんじゃ」
「じゃ、あんた開けてみる?」

 ニッと笑い、妹紅はさとりを見た。

「え」
「大丈夫。そんなにひどいことにはならないよ……たぶん」
「はぁ」
「ちなみに今までだと、空から麦酒の樽が降ってきて天井に大穴穿たれたり、窓を開けたら大量の干し柿が吊るしてあったり、釣ってきた魚が一晩で干物に化けてたりしたな」
「それ、悪戯じゃないんじゃ」

 後半二つだけきくと、どうもてゐが妹紅にプレゼントをしたり家事手伝いをしているように思えてくる。
 いったいこの二人(一人と一羽)の関係はどういうものなのだろう。
 しかし妹紅はこれ以上答える気はないらしく、にやにやと笑いながらさとりのことを見ている。
 しょうがない、そんなにひどいことにはならないだろうと腹を決め、さとりは引き戸の取っ手に手をかけた。
 ぬるっ。

「…………」
「……なんか塗ってあったの?」
「……あ、甘い。水飴ですね、これ」
「よくなめる気になったね」

 ぺろぺろとぬめった指をなめる。甘い味が口に広がる。紅魔館で食べたケーキやクッキーとは違う、もっとほのぼのとした朗らかな甘さだ。
 最後に水飴を食べたのはいつだったか。そんなことに思いを巡らせる。こいしが色々なお菓子を食べたいというので、旧都の駄菓子屋にお忍びで出かけた時だ。こいしが目を輝かせながら並べられたお菓子を眺めていると、興味をひかれたのかさとりに「お姉ちゃん、これなに?」と指差して尋ねたのが、瓶に詰められた水飴だった。こいしは店を出てすぐ我慢出来ずに包みを開け、瓶を開封して指につけぺろりとなめた。「甘い」と頬を緩ませて彼女は言った。「お姉ちゃんもなめる?」

「どうしたの?」
「……今開けます」

 思い出を振り切って、さとりは取っ手ではない部分に手をかけ、ガラリと引き開けた。
 ぽん、と顔に柔らかい何かが当たった。二本のふわふわしたものが上から垂れさがっている。なんだろう、とさとりは手を伸ばしもにもにと揉んでみる。とても触り心地がいい。

「らめぇ」
「えっ」

 声が聞こえて、さとりはびっくりして上を見上げる。

「こんちは」
「ひゃっ!」

 二本の白いふわふわしたもの――兎の耳がぱたぱたとさとりの顔をはたいた。びっくりして尻もちをつく。
 どこからぶらさがっているのか知らないが、見上げた先にあったのは逆さになった因幡てゐの顔だった。

「そっ、そんなところでなにを」
「んー、予定では妹紅を驚かせるつもりだったんだけど」

 てゐは逆さのまま、腕組みをして目をつむり、難しそうな顔をした。

「なんでかあんたが来たんでね。こっちも驚いてるとこだよ」
「そんなんで私が驚くかっての。なめてんの?」

 妹紅が呆れ顔で戸口から中へ入ってきた。

「どうでもいいけど取っ手拭いといてよ。虫がたかったら嫌だぞ私は」
「あっ、ちょうどいい。このまえ近くに蛍の妖怪が引っかかってたよ! 呼んできてあげようか」
「殴るぞ。……ったく」

 妹紅は悪態をつきながら、囲炉裏の傍から雑巾を取って、再び外へ出て行った。

「ほい。大丈夫?」

 いつの間にかてゐが降りていて、土間に座り込んだままのさとりに手を差し伸べた。
 さとりは小さな手を握ってようやく立ち上がる。最近、誰かの手を借りてばかりだ。

「で、どうしたの。紅魔館追い出された?」
「ええ、まぁ……そんなところです」

 本当は、自分から出て行ったのだけれど。詳しいことはあまり話したくなかった。まだ自分の中でも整理がついていないのだ。

「ふぅん……」

 てゐがしげしげとさとりの顔を眺める。それからニッと笑った。

「なんか悩んでるね?」
「……そんなにわかりやすいのですか、私は」

 つい先日も、こいしから同じように悩んでいるのを見抜かれた。妹ではないてゐにもお見通しというあたり、よほどさとりがポーカーフェイスの対極を行く感情ダダ漏れの顔を持っているのか、あるいはてゐとこいしが特別観察眼と直感に優れているのか。恐らく前者だろう。
 もちろん、あの時抱え込んでいた悩みと、今まさに直面している悩みとは、性質もレベルもかなり違うものなのだけれど。

「ちょうどよかったね。悩みがあるってんなら私がズバッと解決してあげるよ。兎の耳には催福作用があって、それを揉めば貴女もすぐ幸せに――」
「催福作用なんて初めて聞きましたよ……それに、私に嘘は、通じません」
「嘘がわかるということと、騙されることは違うのさ。嘘だとわかった上で騙されれば、それは一つの積極的な選択になる。だからあんたも一度騙されてみるといいよ!」
「そ、そうですか?」
「あー、あんた、そいつの言うことは信じないほうがいいって。ついでに考えてることも信じないほうがいいな。得体の知れない奴だからね。ほれ、水」

 掃除を終えたのか、妹紅が外から戻ってきててゐの睨みを軽くいなし、さとりに桶を差し出した。中には透き通った水がなみなみと入っていた。口を付けて飲むと、切れそうなくらいに鋭い冷たさが喉を通って体の奥へと落ちて行った。頭の霞が取り払われて、心も体もしゃきんとした。なんというかまともになった気分だ。さとりは妹紅に感謝した。

「で、これからどうすんの? ウチに来る? 居候の一人や二人増えたところで今更変わんないから、大丈夫だと思うけど」
「ええ、それもお願いしたいのですが……できれば、居候ではなくて、働かせていただきたいのです。家事ならひととおりできますので」

 紅魔館では、働かなければどんどん自分が駄目になるということが判明した。その教訓を踏まえた上でのお願いである。

「へぇ、住み込みの家政婦希望ってわけ?」
「まったく、あんなところで働きたいなんてね、どうかしてるよ」と、妹紅。
「うーん、それはお師匠の指示を仰がないと駄目かな……」
「見込みはあるでしょうか」
「たぶん大丈夫じゃないかな。まぁそれは帰ってから考えよう。さ、そろそろ行こっか」

 てゐはひょいと身軽に外へ出ていった。さとりは妹紅のほうを見る。

「ありがとうございました。助かりました。あのまま罠に引っ掛かりっぱなしだったかと思うと……」
「……いいから、出なよ。ほれほれ」

 そっけなく言って、妹紅はさとりの背中を押して外に出し、自分も一緒に出てきて小屋の扉を閉めた。

「……? あの?」
「私もついていくよ。案内は永遠亭までって約束だからね」
「あれー? 優しいじゃん。私に対する扱いとは大違いだねぇ」
「騙されやすい奴が大いなるほら吹きと一緒に歩いてると思うと、心が痛むんだ。こう見えても弱者には優しいんでね」

 そんなことを言いつつ、本当に妹紅はさとりのことを心配してくれていた。困っている人をほっとけないあたり、不機嫌を装っているものの、やはり中身はお人好しらしい。
 それにしても、この二人……妹紅とてゐの関係が、さとりには非常に不思議だった。軽口を叩き合ってはいるが、こうしてなんだかんだで行動を共にしているのを見ると、一慨に仲が悪いとは言えない。でも親友というには、二人の間に微妙な緊張感が漂っているような気もする。加えててゐの、悪戯と称して妹紅を手伝うような挙動の不可解さときたら。妹紅の心を読む限り、てゐが仕掛けているのは妹紅を「幸せにする」類の悪戯らしいのだけれど。なぜわざわざそんなことをするのか、ますます理由がわからない。

「あんた、いつになったら諦めるの?」
「んー? なにが?」
「悪戯と、私の家に来ることをさ」
「妹紅が負けを認めるまで。大人しく幸せになるのを受け入れなって」
「変なやつ。なぁ、あんたもそう思うでしょ?」
「え? ……えぇと、それは」
「はは。さすがにこれから職を貰うやつへの悪口は言えないか。まぁうん。さんざん言ったと思うけど、こいつの行動には一挙手一投足に至るまで綿密に疑ってかかったほうが――」

 そこまで言いかけて、妹紅は不意に足を止めた。

「? あの、妹紅さ」
「げっ」

 不審に思ったさとりが呼びかけようとしたのを、てゐの嫌そうな声が遮った。
 どうしたのだろう、とさとりは彼女たちの視線の先を追う。
 まだ朝もやの残る道の向こう、竹の壁に挟まれて、一人の女性が立っていた。
 高貴な印象を与える桃色の着物、長くつややかな髪、白い肌。緩やかに結ばれた紅く鮮やかな唇。いまそれは挑発的に歪められている。清楚なようでいて妖しい姿。

「――なんで、朝っぱらから」

 てゐが舌打ちをして、髪に手をやってぽりぽりとかいた。女性の名前は蓬莱山輝夜。これから就職を願う永遠亭の主その人であることをさとりは知る。
 ついでに、藤原妹紅とは犬猿の仲であることも。

「こいつぁ運が良かったね。まさかこんな時間に出くわすなんて」

 妹紅がギラリとした笑みを作り、さとりを振り返る。

「やっぱり、あんたに会ってから運が上がったみたいだね。ありがとう」
「は、はぁ」
「こっちの運は下がりっぱなしだよ。ったく」

 てゐが苦々しい表情を見せ、吐き捨てるように言う。

「あんたら、まだ不毛なこと続けるの? いい加減やめなよ」
「黙ってな」

 そっけなく妹紅はてゐの諌めを切り捨てて、輝夜の方へ足を踏み出す。

「よう、奇遇だね。籠の中の姫様がどうしてこんなところに? 従者がいないと何もできないくせに」
「たまには朝の散歩でもいかがですって、イナバに勧められたのだけれど」

 おっとりしているが、どことなく険を孕んだ声で、輝夜が答える。

「やってみるものね。予想以上に愉しくなりそうだわ」

 鈴仙のあほ、とてゐが隣で小さく呟いた。

「へぇ、散歩ねぇ。それは誠に結構なことだけど、でもそんな貧弱な体じゃあ明日あたり怖いよ、筋肉痛が」
「大丈夫よ、それくらい。貴女がこれから味わう苦痛に比べたらね」
「ふん。そんなこと出来るかっての。炎に焼かれて泣きを見るのはどっちかな」

 ぴしぃ、と竹林の空気が凍りついたようだった。睨みあう二人を中心に、他の動物たちが危険を察知してあたふたと逃げていく気配がする。一触即発だ。

 これから、血みどろの殺し合いが始まる。それは、この二人とてゐの心を読めば明白だ。長年に渡る蓬莱人同士の不毛な戦い。勝って得られるものは相手に対する優越感、負けて得られるものは一瞬の疑似的な死の幻想と快楽。そんなことを何度も何度も繰り返している。さとりもてゐに同意見だった。最初にあった憎しみはもうどこかへ消えてしまって、目的と手段がいつの間にか混同されて、徒に命を消費するだけの最低最悪の娯楽。

 さとりは、自分を助けてくれた妹紅にそんなことをしてほしくなかった。なんとしてでも二人を止めなければならない。毅然たる決意を以て対峙しなければならない。さとりは心に残る勇気をかき集めて、できうる限りの力強い言葉を二人に投げかけた。

「……あのー、えーとですね、そこまでにしておいたほうが、よろしいんじゃないでしょうか……?」

 しかし、そんなさとりの勇敢な行動にも二人は耳を貸さない。ただ風が通り過ぎていったなというくらいにしか受け取っていない。
 ならば、もっと激しい言葉を。さとりはキッと目に力を入れて、もう一歩、前に踏み出した。腹に力を込め、淀みのないはっきりとした口調で言う。

「ほ、ほら、その、お天気も良いことですし……こんな日は、お弁当を持ってみんなでピクニックに出かけたほうが……」

 沈黙はますます深く、緊張はますます高まるばかりである。二人はさとりのことを雑音程度にしか認識していなかった。
 勇気を出せ、古明地さとり、と自分に言い聞かせる。お前の力はこんなものではないはずだ。覚り妖怪としての矜持を示し、この場を見事におさめてみせなければならない。さとりは顔を上げ、背筋を伸ばして、堂々たる口調で言い放った。

「……あの、だからですね、ここは私に免じて、どうか」
「あ゛ァ?」
「いえなんでもないです」

 だめだこりゃ、とてゐが溜息をついた。さとりは少し泣きそうになりながらすごすごと引き下がろうとする。

「あら……」

 その時初めて、輝夜がさとりに目を向けた。
 はっとなって、さとりも見つめ返す。
 黒曜石のようなこっくりと濃い瞳の中に、仄かな赤い輝きが見えたような気がした。心を読むのを忘れて、さとりはそれに魅入られてしまう。遠くにいるのに、なぜか惹きつけられる。強い訴求力を持つ眼だった。
 さとりは、フランドールの瞳を思い出した。彼女と輝夜のそれは、色や大きささえ違えど、同じようにさとりを内に呑みこもうとする危険な食虫花のようだった。囚われてはまずい、目をそらさないとと思うのに、どうしてもはなすことができない。

「か」

 不意に、輝夜が言葉を発した。
 さとりはびくんと震え、身構える。でも、足に力が入らない。
 駄目だ、また同じことになる。取りこまれてはいけない――

「可愛いわ!」
「……は?」

 てゐと妹紅が同時に呆れた声を上げた。
 輝夜は子供のように目を輝かせ、こちらに向かって駆けだした。
 妹紅が咄嗟に構える。だが、当の姫は永遠の宿敵のことなどそこらへんの竹と同じように無視して、さとりの傍に来て止まった。

「え、えっと、あの」

 むぎゅっ、と次の瞬間、さとりは輝夜に抱きしめられていた。

「ああ可愛い。なんなの。小さくてふるふる震えながら怯えてて。卑屈で傷ついた目をしてて。どうしよう、なんだか保護欲を駆り立てられるわ! ねぇてゐ、これが母性ってやつなのかしら!」
「違うと思うよ」
「はぁ、もう。髪が短くて前髪下ろしてるのがまた子供っぽくていいわ。ちょうど抱きしめやすい身長だし。貴女は今日私に抱かれるためにここへ来たのね!」

 なでなですりすりと頭を愛撫されて、さとりは目を白黒させた。輝夜の着物からは不思議と心が落ち着く香りがした。そのままずっと身を任せていたいと思ってしまうような。

「ねぇ、てゐ。決めた。この子は永遠亭に連れて帰る」
「……あー。うん。好きにしな。元々そのつもりだったし」
「ということで、妹紅。悪いけどお楽しみはお預けよ。たった今急ぎの用件ができたの。また今度遊びにくるわ」
「おい、ちょっと待った。そんなんで私がおさまるわけ」
「ふふふ、もう放さないわ。それとも妹紅、この子ごと私を焼くつもり? 私はどうせ生き返るから別にいいけど、この子はどうかしらね」
「ぐっ……」

 妹紅が唇をかみしめる。いくら憎んでいる相手だからといって、無関係の者を巻き込んでまで殺し合いに徹することなど、妹紅にはできない。妙なところで分別が働くのが仇となった。もう矛をおさめるしかなかった。

「……なんか興がそがれた。帰って寝なおすわ」
「あっ、あのっ」

 溜息をつき、ポケットに両手を突っ込んで立ち去りかけた妹紅に、さとりは慌てて声をかける。

「うん?」
「その……色々と、ありがとうございました。また今度、お礼にうかがいます」
「……まぁ、ほどほどに頑張んなよ」

 朝もやが晴れてだいぶくっきりしてきた道を向こうへ歩きながら、妹紅は右手を蝶のようにひらりと振った。





 弐  ペットさとり ~3rd job ?~




 その女性は豊かな銀色の髪と、理知的で静かな瞳を持っていた。中央で赤と青に二分された特徴的な服装は奇異な感じを人に与えるが、精神のほうはそれに輪をかけて風変わりだった。とりとめもない膨大な量の情報が一気に流れ込んできて、さとりは少し眩暈を感じた。もし輝夜に後ろから抱きしめられたままじゃなかったら、倒れて気絶していたかもしれない。

「ねぇ、永琳。この子ウチにいさせてあげてもいいでしょ?」

 輝夜の問いに、八意永琳は少し眉をひそめたあと、感情のこもらない声で言った。

「駄目よ。元いたところに帰してきなさい」
「どうして! いいじゃない私が世話するんだから」
「朝の散歩は? 食事の用意は出来る? お風呂にいれてあげられる? 養うって意外と大変なことなのよ」
「大丈夫よ。私はやるとなったらやるし、できる能力があるもの。きっちり躾けられるわ」

 まるでペット扱いである。さとりは少し哀しかった。

「……と、まぁ冗談は置いといて」

 拳を突き上げて大見栄を切った輝夜に少し微笑みながら、永琳はさとりに目を向けた。

「どうしてうちに来たいのかしら?」
「えっ、ええと、あの、ですね」

 永琳に向かい合っているとくらくらして、まともに話せそうになかった。でもここで何か失礼があってはいけない。これから先、地霊殿に帰るまでの不確定な期間をここで生活できるかどうかがかかっているのだ。ここをのがしたら、もう他に行くあてはない。そう考えて自分を奮い立たせようとするけれど、どうしても出来なかった。

「っと、ちょっとこっち来て」

 てゐが永琳を手招きして、奥の部屋へと一緒に入って行った。どうやら気を利かせて、事情の説明をさとりの代わりにやってくれるらしい。永琳が視界から消えると同時に、絶えず押し寄せていたノイズのような情報の渦が鳴りを潜めたので、さとりはほっとした。

「ふふふ、大丈夫よ。ああ見えて永琳は面倒見がいいんだから」

 輝夜がさとりの耳に口を寄せて、小声で言った。

「あ、はい。それはとても嬉しいのですけど、その」
「どうしたの?」
「……抱かれてると、恥ずかしくて」
「あら、そう?」

 あっさりと、輝夜はさとりを解放した。体を包み込んでいた暖かみが消えうせて、冷たい空気の中に突然投げ出されたので、さとりは身ぶるいをした。

「変ねぇ、イナバは何時間抱かれてても大人しいのだけど……個人差があるのかしら」

 ふむ、と輝夜は顎に手をあてておっとりと思案した。

 さとりは周囲を見渡した。二人がいるのは縁側である。庭では白い小さな兎たちが何匹か、気だるそうにのそのそと動き回っている。元気な妖怪兎たちは、竹林が始まる辺りで何やら悪だくみをしているようだった。この光景はさとりの気に入った。地霊殿も、同じようにペットたちの賑やかな気配で溢れかえっていたからだ。こことは違って、猫や鳥が多かったけれど。

 不意に、ペットたちの顔がいくつも思い浮かんだ。さとりは地霊殿に住まうペットの顔と名前を一匹残らず覚えていた。あの子たちはみな元気だろうか。燐と空は喧嘩せずにやっているだろうか。記憶を辿るうちに、つーんと鼻の頭が痛くなって、涙が溢れそうになる。まだだ、帰るまで泣くんじゃない。深呼吸をして、輝夜の横顔に目を戻す。

「……その子が、兎だからじゃないでしょうか。兎は猫と違って、撫でられるのを嫌がらないってききますし」
「ああ、なるほど! 貴女詳しいのね」
「いえ、あの、あそこに」

 さっきから、廊下のあちら側から橋姫もびっくりの嫉妬のオーラがさとりに向けられていた。輝夜がイナバと呼んでいるその月兎、鈴仙・優曇華院・イナバが、爪を噛み噛み歯ぎしりしながらこちらを睨んでいるのだ。どうやら可愛がられる特権を奪われたと思っているらしい。変な勘違いは困る。溜息をついたところで、部屋から永琳とてゐが戻ってきた。

「ああ、こっちは見なくていいわ。そのままで話を聞いてくれればいい」

 永琳が振り向こうとするさとりを制して言った。

「大体の事情はわかりました。そうね、ここなら別にいつまででもいてくれていいわ。見たところ害はなさそうだし、姫も貴女のことを気に入っているようだしね。それと、働きたいということだから、家事を手伝ってもらおうかしら」
「はい……ありがとうございます」
「姫からは、何かあるかしら」
「そうね、せっかくペットとして迎えたのだから、一日一時間は私の傍にいてほしいわねぇ」

 やはりペットとしてらしい。もうどう呼ばれようが気にしないことにした。

「異論はないかしら?」
「……大丈夫です」
「じゃあ、まずこの永遠亭の構造を知ってもらいましょう。ウドンゲ!」
「はぅっ、はいっ!」

 永琳が呼びかけると、廊下の角から鈴仙がおずおずと姿を現して、こちらへ来た。

「てゐと一緒に、彼女を案内してあげてちょうだい。お昼を過ぎたらこっちの仕事に戻ること。わかった?」
「はい。お師匠様」
「それではそのように。今晩までに貴女の部屋を探しておくわ。それまでは、荷物は」
「あ、それはもう私の部屋に置いてきた」と、てゐが手を上げて言った。
「……そう。では、またお昼にね」

 そう言って、永琳は廊下の向こうへと歩いて行った。輝夜はうぅんと伸びをして、斜めに差し込んでくる陽光に目を細める。

「さて、今日は暖かくなりそうだし、盆栽の手入れでもしようかしら。イナバ、その子をよろしくね」
「はい、姫様。じゃあ行きましょう」

 鈴仙はさとりにちらりと目配せをして、キビキビと歩き出した。輝夜の関心をとられたことを少しひきずっているらしい。

「……あの」

 鈴仙のあとからついていきながら、さとりは声をかけた。勘違いはなるべく早く払拭したい。

「どんな事情で来たのか知らないけど」

 ツンツンしながら月兎は言う。

「あんまりここに長いしすぎないようにね。貴女にも家族、いるでしょ」
「ええ。妹が一人」
「貴女がおうちにいないってことは、今は妹さん、どこにいるの?」
「あ……今は……」

 言葉に詰まる。紅魔館に一人、残してきたこいしのことを思う。別れ際に彼女が見せた寂しそうな表情に頭が締め付けられる。

「……そう、悪いこと訊いちゃったみたいね」

 鈴仙が罰の悪そうな顔をして、さとりに向き直った。

「まぁ、元気出して。大切なのは、貴女が今ここで生きてるってことだからね」
「えっ」
「さ、案内するわ。お昼までに済ませちゃいましょ」

 同情するような口調でそう言い、鈴仙は廊下の角を曲がっていった。

「生きてるんでしょ? あんたの妹」

 後ろからてゐがてくてくと歩いてきて、さとりに訊いた。

「ええ……何だか勘違いされちゃったみたいです」
「まぁいいじゃん。そっちのほうが面白そうだし」
「はぁ……」

 こうして、幾つかの不安を抱えつつ、古明地さとりは永遠亭に迎え入れられることになった。




 ※  ※  ※  ※  ※




 夕刻ではあるが、日はすっかり落ちて暗くなっていた。竹林の夜は静かで不気味だけれど、その怖さは永遠亭の中にいればまったく感じることはなかった。きゃいきゃい楽しそうに笑いながら廊下を走り去る妖怪兎たちを、さとりは微笑ましく見守った。ペットたちが元気に行き来する場所は、どこだって彼女のお気に入りになる権利がある。

 朝からこれまで、さとりは実に忙しく立ち働いた。鈴仙について永遠亭の構造を大体把握し、生きて行く上で必須となる場所(たとえば厠とか台所とか)への近道を教えてもらったあとは、彼女自身も亭内を駆けずり回って家事の手伝いをした。住まわせてもらうからにはきちんと恩返しをする義務があると、彼女はこれまでの放浪歴から固く信じ込んでいたし、何よりもそうして息をつく暇もなく動いていれば、余計なことに頭を悩ませずにすむからだ。

「や。さっぱりしたかい?」

 廊下の向こうからてゐが軽やかに歩いてきた。労働に無理やり身を落とし込もうとするさとりを見かねて、夕食の前に風呂に入るように助言したのはこの悪戯兎である。こう見えて、よく人のことを観察している。だからこそどんなトラップに人がひっかかりやすいかを把握しているのかもしれない。

「ええ。気持ちの良いお風呂でした」
「そりゃよかった。でもさ、地底にはもっといい温泉があるんじゃないの? なんせ灼熱地獄の近くだっていうし」
「そうですね、地霊殿にも温泉はあります。ただそこらが岩でできているから、ゴツゴツしてて、痛くて。こっちは木で出来ていたから、とても心地良かったです。香りもいいし」
「ふぅん。まぁでも、改修工事やってんなら、終わった頃にはまた変わってるかもねぇ。全部終わったら私も連れてってよ。地底都市ってのも見てみたいし」
「よければ招待しますよ。いつになるかは、わかりませんが……」
「すぐ終わるといいね」

 そんな会話をしながら、さとりとてゐは大広間に入った。すでに夕食は終わっていて、そこらに膨れたお腹を抱えた妖怪兎たちが幸せそうな顔で寝転んでいる。

「あ、来た来た。ご飯食べる?」

 大テーブルの端っこに座って帳簿らしきものと睨めっこをしていた鈴仙が、顔を上げてさとりを見た。午前中ずっと行動を共にしていたせいか、今では大分気を許している。

「はい。いただきます」
「あと、あったかい飲み物淹れるけど、何がいい? ココア?」
「あ……出来れば、お茶で」
「そ。私はココア飲もうかなぁ」
「甘いの好きだねぇ。太るよ」
「う……いいもん。働いてるんだから。じゃ、とってくるね」

 鈴仙がそそくさと大広間を出て行く。スカートの後ろでぴょこぴょこ動く兎の尻尾が可愛らしい。それをなんとはなしに眺めながら、さとりは地霊殿で兎を飼うことを真剣に検討し始めた。

「物欲しそうだね。今ならイナバ一羽につきそっちのペット一匹と交換するけど、どう?」
「……同族を交換に出してもいいのですか。ていうか嫌ですよ」
「ちぇ。お燐みたいな面白い奴なら貰いたいんだけどなー」
「え、燐を知っているのですか?」
「うん。ちょっとした縁があって――」

 てゐがそう言いかけたところで、さとりは思わず耳を塞いだ。突然、頭の中を渦のようなノイズが掻き乱したからだ。でも当然のことながら、耳を塞ぐのはなんの解決にもならなかった。耳の問題じゃなくて、目の問題だからだ。

『ああ、ごめんなさいね』

 永琳が障子を開けて入ってきた。彼女はさとりを見ると、すっと暗闇の中に身を隠した。
 聡明で親切な薬師は障子の陰へてゐを招いて、何やらを伝え終わると廊下を歩いてまたどこかへ行ってしまった。てゐが戻ってきて言う。

「部屋が見つかったから、今日はそこで眠れってさ。しばらくそこで暮らすことになるだろうけど、不便なようならわたしを通して言ってくれればすぐ変えるって」
「すみません……何から何まで」
「その目で心を読むって、どんな感じなの」
「どう言ったらいいか……説明が難しいのですけれど。特に永琳さんの場合は」
「普通の人の場合でいいよ」
「そうですね……誰か他の人と会話している時は、人は主に文字で思考していますから、読みやすい。筋道立てて物事を考えようとしている時も同じです。私にとっては、落ち着いて本を読んでいるような感覚ですね。厄介なのは、とりとめもない物思いに浸っている時です。その場合はおうおうにして論理性からも文字からも離れた領域で思考していますから、脈絡のない映像が整理されないまま私の頭の中に入り込んできます。もちろん厳密に分けられるわけではないし、個人差がありますが」
「なるほどね」
「そして永琳さんの心を読む場合、会話中でもすさまじい量の映像が処理されているため、それと現実での彼女の言葉が混じり合うと、もうわけがわからなくなってしまう。私の方の処理速度が追いついていないのでしょうが、とにかく騒音の中に身を投げ出されたようで、気分が悪くなってしまうのです」
「へぇ……心が読めるっていうのもなかなか大変なもんだね。特に人外なアタマを持つ奴が一緒にいるとさ。あんたたちにとっちゃ、この世はなかなか生き辛いものなのかな」
「どうでしょう。もうあまり比較対象が残っていないので、一概には言えませんが……それでも、慣れてしまうものです。きっと私もそのうち、永琳さんと話すことに慣れれば……」
「いやいや、あんなイレギュラーに慣れる必要ないって。っと、戻ってきた戻ってきた」

 持っている盆から料理が落ちないのが不思議に思えるほどの軽やかなステップで、鈴仙が大広間に入ってきた。片手にはほくほくと甘い湯気を立てるマグカップも握られている。きっとココアだろう。

「お待たせ。何の話してたの?」
「あんたみたいに騙されやすい奴の心は、単純で読みやすいって話」
「む。失礼な。こう見えても日々あんたに騙されないように、すべてのものを疑う訓練をしてるのよ」
「もうその時点で、騙されているのですけど……」
「え、どういうこと?」

 鈴仙はきょとんとする。こういう、騙そうと待ちかまえている者にとっては、格好の的になってしまうようなところが可愛らしい。やはり兎もいいな、としみじみ思ったさとりである。




 ※  ※  ※  ※  ※



 食事を終え片づけを済ませたあと、荷物を取るためにひとまずてゐの部屋へ向かうことになった。

「ちょっと待ってね。色々準備するから」

 そう言い残してウィンクすると、てゐは自室の扉を開いて中に入っていった。荷物を取るだけなのになぜ準備する必要があるのか、と怪訝に思っていると、マグカップを持ったままの鈴仙が肩をすくめて言った。

「色々トラップが仕掛けてあるのよ。だからそれを解除してるんじゃない? 前てゐに内緒でここ入ったら、えらい目にあったし」

 落とし穴にはまったり白いドロドロが上から降ってきたりと大変だったらしい。同じようなことはこいしの部屋に勝手に入ったときに経験済みなので、同情せざるを得ない。

「いいよ~」

 けろっとした声が聞こえたので、扉を開けて中に入る。

「相変わらずというか、妙なモノでごたごたしてるわねぇ」

 鈴仙の感想にさとりも同意した。部屋の隅の棚には、壺、土偶、古新聞、古びた農具、外の世界のものと思われる看板、などなど。奇妙なものが博物館よろしく無秩序に陳列されている。

「ふふん。目がないねぇ。ここにあるのはどれも一級品ばかりさ。ある尺度から見れば、だけど」
「ある尺度から見れば、どれも価値がないガラクタ同然ってことね。ほら、埃積ってるじゃない……拾ってくるのはいいけど、手入れはちゃんとしてよ。掃除するのは私なんだからさ……」

 鈴仙の愚痴を尻目に色々見まわしていると、部屋の奥にある物を発見した。年季の入った掛け軸が白い壁につりさげられている。そこには達筆なのかそうでないのかよくわからない大胆な筆致で、こう書かれている。

『天為無法』

「これ……」
「ああ、それ? 大分前に姫に書いてもらったやつだね」

 さとりが指差すと、てゐは鈴仙の説教から逃れてそそくさとやってきた。

「大分前って、どれくらい前よ」と、鈴仙。
「さあ。何百年前だったかな……暇潰しに書道やるってんで、なにかいい言葉ないかって訊かれたから、これ書いてもらったんだ」
「漢字、間違えてませんか? 読み方は『てんいむほう』でしょう? それなら、天の衣に縫い目は無い、と書くはずですけど」

 天衣無縫。さとりの覚えているところによれば、物事が自然かつ完全無欠であり、性格でいえば天真爛漫なさまを示す言葉であったはずだ。確かに、この四字熟語はてゐの在り方を想起させるものではあるけれど。漢字を変えてあるのは何故なのだろう。

「いや、これでいいんだよ」

 妙に自信満々に、てゐは答えた。

「好きな文字でいいってんだからね。元々のまんまじゃ変わり映えなくてつまんないでしょ」
「適当なだけじゃないの。そういえばこれ、ちゃんと虫干ししてる?」
「してるよ!」
「へぇ、そう。どれくらいの頻度で?」
「十年に一回くらいかな」

 駄目だこりゃ、と鈴仙は呆れ、マグカップのココアを飲みほした。
 さとりはもう一度その四字熟語をじっくりと見つめ直した。『天為無法』。天衣無縫ならわかる。それはさとりとは対極の存在を示す言葉だ。それに僅かなアレンジが加えられたこの言葉は、いったいどういうものなのか――。
 ふと、一本の白いヒモが天井から垂れ下がっているのが見えた。なんだろうと思って手を掛けてみる。

「あの、これは――」
「あっ、それ引いちゃだめ!」
「えっ」

 その後、さとりは再びお風呂に入る羽目になった。色々終えて布団に入ったとき、さとりの頭にはある教訓が焼き付いていた。
 曰く、好奇心は猫を殺す。




 参  誘惑者たち




 呼気とともに生み出された透明な球体が、太陽の光を屈折させて奇妙なきらめきを放ちながら、幾つも幾つも空へと登り、やがて楽しかった夢のようにパチンと弾けて消し飛んだ。

「貴女もやってみる?」

 ストローを煙管かなにかみたいに構えながら、輝夜が訊いてきた。

「いえ、いいです」

 さとりは首を振った。シャボン玉を作って遊んだ最後の記憶は、もうずっと前のことになる。こいしがどうしてもやりたいというのに付き合った時だ。さとり自身は、この手の無邪気な遊びにはあまり興味がなかった。

「そう。面白いのに」
「独り占めはずるい。次は私の番だよ」
「はいはい」

 そう言って、輝夜がてゐにピンク色のプラスチックの容器とストローを渡した。元々、これはてゐが香霖堂で買ってきたもので、彼女の部屋の怪しいコレクションの中の一つだった。雰囲気は老成しているわりに、時折外見のごとく幼い挙動や趣味を垣間見せるのだから、まったく掴みどころがない兎だとつくづく思う。
 てゐがふぅと息を吹き込むと、小さなシャボン玉が再び幾つも生み出された。そのほとんどは、ちょうど吹いてきた寒々しい風に吹き流されて、庭の隅にある池の水面にぷかぷかと浮かぶことになった。

「あーあ、運がないなぁ」
「日ごろの行いのせいじゃない? はい、次私」

 輝夜がくすくすと笑いながらてゐに手を差し出す。ペットの兎はむすっとした顔をして、主人にシャボンセットを返した。
 縁側から見る冬の午後の庭は、寒々しいけれどとてものどかだ。さとりはずずずと緑茶を啜りふぅと息をつくと、横に寝そべっている白い兎の頭を撫でた。猫と違って、兎は不思議と触れられるのを嫌がらない。というよりも、あまり反応を返さないというのが本当のところだろうか。

「ここは気に入ったかしら?」

 輝夜がシャボン液を掻き混ぜながら訊く。ここ、というのは、縁側だけでなく永遠亭全体のことを示していた。

「はい……長閑で、とてもいいところだと思います。兎たちも可愛いですし」
「いやぁ、それほどでも」と、てゐ。
「イナバに言ってるわけじゃないと思うけどね」輝夜が屈託なく笑う。「たしか、地底から来たのよね。貴女のおうちはどんな感じなの?」
「ここと同じで、ペットがたくさんいます。いつの間にか居ついたものもいますけど」
「そう。お互い寂しがりやなのね」
「でも……ここほど風通しがよくて、明るくはないです。石造りで、歩くと音が反響して、冬などはとても冷たい……あまり住み心地が良いとは、いえないかもしれません」
「あら、貴女、自分のおうちがあまり好きじゃないの?」
「いえ、そんなことは……ない、のですけど」

 今は遠く離れた地霊殿。決して嫌いなわけではない。たぶん心の底から愛している、といえる。さとりが真に安らげる場所は、世界中のどこを探してもあそこしかない。だけど、こう何カ月も離れていると、その記憶も段々霞がかってくる。地霊殿の匂い、地霊殿の雰囲気、そういったものがだんだん薄れていってしまった。今はむしろ、紅魔館や永遠亭への親近感のほうが勝っているかもしれない。
 紅魔館……。
 フランドールとのことがあっても、さとりはまだ、あの場所のことを忘れられずにいた。むしろ、彼女によっていっそう深く心に刻み込まれたか。

「ふぅん……何があったか知らないけど、そうね。いっそここの子になっちゃうっていう手もあるのよ」

 輝夜が横からさとりの顔を覗き込む。思わず彼女の瞳を見つめ返す。瞳の黒い正円は、その輪郭を赤い線で縁取られている。やはり、フランドールの瞳を思い出す。さとりを魅了しようとして、さとりの自我を否定しようとして、嬉々として向けられたあの瞳に。

「ちょっと、誘惑すんのはやめなよ。騙されやすいんだからさ」

 てゐの言葉で、現実に引き戻される。

「あら。人聞きの悪い。誘惑しようとなんだろうと、最終的に決めるのはこの子だわ。イナバはどうなの? この子にうちにいて欲しくない?」
「そうだね……」

 てゐは腕組みをして、ふむ、と考え込む。

「……選択肢の一つとしては、ありかもしれないね。それが幸せに結びつくならば」

 どうやら、前に言った「悩みはズバッと解決してあげるよ」という言葉は本意から出たものらしい。さとりの悩みを払拭するという目標を、てゐはまだ心の中に持っていた。

「ねぇ、そろそろ聞かせてくれないかな。あんたが何に悩んでるのかをさ」
「……わかりました」

 さとりはお茶で唇を湿らせ、頭の中を少し整理して、話し出した。紅魔館でフランドールの専属メイドをしたこと。レミリアとフランドールの関係、それを何とか取り持つため、フランドールに贈ったプレゼント。その後で、フランドールがさとりを『魅了』しようとしたこと。

「……何か、自分の中の大事なところが、折れたような感じでした。それまで『私』というものは、絶対に不可侵の揺るがない領域で、だからこそ、他人の心の声が流れ込んできても平気でいられた、自分ではそう思っていた。でもそれが、単なる思い込みに過ぎないのだとしたら? 実際には、あんなにも簡単に自分というものは否定されてしまう。私という存在が、世界にひしめいている数多の声に解体されて、バラバラになって……それなら……それなら、私という実体はどこにあるのですか。そもそもそんなものは存在しなかったのですか。そう考えると、どうやって自分が目を閉じずに生きてこられたのか、わからなくなりました。なぜこいしのように目を閉じなかったのか。それも、もうわからない」

 一息に語り終えて、呼吸が不自然に乱れていることに気付く。それまでどうやって息をしていたのか、思い出せなくなる。当たり前のことが当たり前のように実行されることが、ひどく遠いことのように思える。なぜみんな平気でいられる? 何千回何万回と息を繋いで命を維持していくことが、どんなに難しいことか。気付かないふりをしているだけ? それとも気付かないほうが、目を背け続けていたほうが、上手く生きていけるのだろうか。

 しばらく、誰も、何も言わなかった。陽は翳り、風が強く吹き付ける。骨の髄まで凍らせてしまうような冷たい風だ。池に浮かんでいたシャボン玉は、跡かたもなくすべて消えてしまっていた。口を湿らせようと思ったが、全部飲んだ覚えもないのに、お茶はすべてなくなっていた。

「なるほど」てゐが静かな声で言った。「なるほどね」

 そちらを見る勇気はさとりにはない。人の心を読むことで、こんなに苦しむことになるのなら、そんなものは必要ないと思う。そもそも、すべての元凶は、覚り妖怪に生まれついてしまったことなのだ。それなら……。
 どんどん悪い方向に思考が加速して、頭の中が熱くなる。これまでにも、こういう考えを持ったことはある。何回も。それでも、今度ばかりは耐えられないかもしれない。

「……そうね。私には、貴女の悩みというものが完全には理解できないのだけれど」

 沈黙を破り、輝夜が穏やかな声で言う。

「なぜ、そんなに自分なんてものにこだわるのかしら。そんなものを信じようとするから、貴女は今苦しんでいるのでしょう。苦しむのはもう嫌なのでしょう。心の声が貴女を脅かすのなら、いっそそれに自分を委ねてしまえばいい。難しく考えるのをやめて、流れに身を任せてはどうかしら」

 ああ、同じだ、とさとりは思う。
 この人は私を誘惑している。もう何も考えなくていいって甘い声で囁きかけてくる。フランドールとこいしのように。

「私なら、きっと貴女に永遠の安寧を約束してあげられるのよ。私だけは永久に滅びないもの。もちろん、貴女が好きなこの場所もね。だから、ペットとして……ううん、従者として、ずっとここにいればいいわ」

 頭を撫で、穏やかな視線を注ぎこんでくれる彼女の目は、フランドールのものよりも深く黒い。そして紅い。

「ねぇ、さとりさん?」

 ふわりと彼女の匂いに包まれて、さとりは感じたことのない安らぎの中にいる気がした。
 そのあいだ、てゐはずっと、何も言わなかった。




 肆  いきること




 奇妙な静けさの中にある生活が始まった。

 ここへきて、はじめてさとりは永遠亭全体に満ち溢れている「匂い」を意識した。陽のあたる縁側でかぐ、立ち上る土や草の香り。その空気の中にいると、どこかなにかが懐かしくなるような心地がする。それは、さとりを気だるさと停滞の中に取り込む、強く引き付ける匂いだった。停滞と安寧に包まれて、過去に囚われて、これ以上前へ進むことができない。そしてそんな自分に無限に妥協してしまう。

 鈴仙や永琳、そして輝夜と交わす会話も、どこか夢の中にいるような浮遊感があって、まるっきり現実感を欠いていた。自分が何を言っているか、自分でもよくわからない。言葉が口をついて勝手に外へと出て行く。読心して流れ込んできた思いも、さとりの中でなんら具体的な形をとらず、漠然とした靄のままふうわりと消えていった。あんなに悩んでいたのが嘘のようで、なんの葛藤もなく、なんの困惑もなくなってしまった。
 静かな暮らし。心地よい生活。オルゴールの音楽に合わせてギクシャクとぎこちなく踊る人形のような日々。確かにこれが、ずっとさとりの求めていたものなのかもしれない。

 でも、そうして安寧に浸っているとき、心にチクリと刺さる棘のようなものがあった。
 てゐの赤く、強い瞳。何気なく過ごしていると、不意に彼女の鋭い視線に貫かれていると感じる瞬間がある。

 本当は、そちらを振り向いたほうがいいのだとは思う。だけど、どうしても目をそらしてしまう。予感だけれど、この平穏が破られてしまうとしたら、それはてゐによってだろうという気がしていた。本当に、このままでいいの? そう問いかけられるような気がして、怖かった。もし、この静けさが破られて、ノイズが日々殺到する世界にまた投げ出されてしまったら……。勇気がわかない。どうしようもなく臆病だけど、自分は、こうしてしか生きられない。そう納得させて、てゐの目をまともに見た日はなかった。

 ある宵、さとりが兎たちにせがまれてりんごの皮むきをやっていると、戸口にふとてゐが現れて言った。

「お客さんだよ。あんたに」
「……え?」
「だから、お客さん。懐かしい顔ぶれかもね。早く行ってやりな。大広間にいるから」

 心を読む暇もなく、てゐは向こうへ消えてしまった。結局、客というのが誰かわからなかった。わざわざ永遠亭まで来て、さとりに用を申しつける人物なんて思いつかない。懐かしいといっていたから、もしかして燐や空だろうか。もしくは、こいし……? 気は進まなかったけど、無視はできないので、包丁を置いて大広間へ向かった。

 待っていたのはたしかに、思いもかけない二人だった。

「ちょっとだけお久しぶりね。元気かしら」

 銀髪のメイド長が、座布団の上に正座して控えていた。彼女はさとりを見ると、少しだけ顔を曇らせた。さとりの表情に落ちる影に気付いたのだ。

「ねぇ、もっとお菓子ないの? おせんべ全部食べつくしちゃったんだけど」

 咲夜のそんな様子を気にとめることもなく、すかさずお茶うけをねだるのは紅白の巫女。相変わらずの姿に、思わず頬が緩みそうになる。

「あ、あの、どうしてここへ?」
「んー、別に私は来なくてもよかったんだけど。本当に用があるのは咲夜のほう。ま、元気でやってるか、ちょっと気になってね」

 霊夢が皿に残っているせんべいの残りかすを指に押し付けて拾い上げながら、重さを感じさせない軽やかな声で言った。

「何言ってるのよ。彼女は霊夢のところへ来たんでしょう。私も貴女も用は同じだわ」と咲夜。
「まぁ、そうだけど。説明は任せた。私はおせんべの欠片を食べるので忙しくなるわ」

 そう言って、霊夢は指をぺろぺろと舐めはじめた。がめついというか、子供っぽいというか。さとりは隅の箪笥からせんべいを取り出して、皿の上に置いた。
 咲夜は小さく溜息をつき、あらためてさとりの顔を見た。

「そうね。朗報……になるかはわからないけど、知らせがあるわ」
「……地霊殿の改装工事が、もう少しで完了しそうなのですね」
「ええ、小野塚小町……閻魔様の遣いの死神が、どうやら先に博麗神社に来たみたいでね。まだあそこにいると思っていたらしいわ」
「聞いてよ。ここにはもういないよって言ったらさ、小町のやつ、『じゃっ、あとは任せた。あたいは帰って寝る』とかぬかして、さっさと帰っちゃったんだよね。どうとっちめてやろうかと」

 バリボリ噛む合い間に霊夢が口をはさむ。

「せんべい噛みながら喋らないの。で、霊夢は貴女がまだ紅魔館にいるって思っていたから、こっちに来たわけね。地霊殿の工事の終了は二日後。それが過ぎたら、もう帰っていいらしいわ」
「たっくさんのお仕事と、ペットたちが首を長くして待ってるってさ。厭味ったらしく言ってたよ」

 霊夢がにやにやと笑いながら言う。せんべいをぺろりと平らげた巫女は、満足したのか、お茶をずずずと吸っている。
 正直、さとりは本当に帰ろうかどうか、迷っていた。この永遠亭の空気に包まれて過ごすのが、心地よくてたまらなかったからだ。ペットがいて、輝夜がいて、もう何も考えなくていい……。でもそんなとき、やはりきまっててゐの赤い瞳が思い起こされた。このまま現実と向き合わず、人形のような日々を過ごすのか。それはたしかに楽に違いない。だけど……。

「……そう、貴女の妹ね」
「え?」

 咲夜の言葉に、さとりは思わず顔を上げた。そうだ、こいしを紅魔館に残してきたのだ。わかりあえないまま……。あのときこいしの誘惑を跳ね付けたのに、結局いま、同じことになってしまっている。こんなさとりを見たら、こいしはどう思うだろうか。

「あ、あの、こいしはっ」
「心配ないわ。無事紅魔館を去った。今、どこにいるかはわからないけどね」
「そう、ですか……」
「彼女は、フランドール様のペットとして一週間を過ごしたわ。私が鳥かごを用意して、その中に入ってね。結局、何事もなく地下の部屋を出た。フランドール様が少し落ち込んでいたのが、気がかりだけれど」

 さとりが紅魔館でメイドとして働いていたとき、しきりにフランドールがこいしをペットにしたがっていたのを思い出した。彼女は望みを叶えたわけだ。

「ま、あの妹なら大丈夫でしょ」

 霊夢が言う。同情するわけでもなく、はげますわけでもなく。ただ単に事実を述べただけのような断定的な口調に、少しだけさとりは勇気付けられた。
 そういえば、さとりもフランドールと同じような欲望を抱いたこともあった。霊夢に、自分だけを見てほしい、自分だけのことを考えてほしい。でも、それは結局叶わなかった。叶わないことはわかっていたし、叶ったところできっと、虚しくなるだけだろう。何よりも霊夢は、誰にも囚われることのない、鳥のように自由なところが魅力なのだ。
 そんな風に、すべてから軽々と解き放たれたら。
 霊夢のように生きて行くことができたなら。
 ……やめよう。やはり、虚しくなる。

「ああ、それとね。今更だけど、謝っておこうと思って」

 咲夜が言う。

「貴女を利用する形になってしまったのは、申し訳なかったわ。結局、私の願いは叶ったわけだけれど……貴女たち姉妹には、迷惑をかけたようだし」
「……いえ、そんなことは気にしていません。それに私も、紅魔館にいて得られたものがなかったわけではありません。むしろ……」

 そもそも、自分はあそこで何かを失ったのだろうか。今こうしてここにいられるのは、そして輝夜の従者としてここにいられるのは、紅魔館での出来事が発端になっているともいえるのだから。

「むしろ、あそこにいたから、今の私があるのですし」
「……そう。それならいいけど」

 咲夜の瞳に射ぬかれる。てゐとは種類の違う、透き通った氷のような冷徹な視線。その前では、なぜだか自分が心を読まれている気分になる。

「でも、やっぱりなにか、迷っていることがあるみたいね?」
「…………」

 こいしの言葉を思い出す。さとりは、心を読むのは得意だけど、自分の心を隠すのは物凄く下手なのだという。こうまで見抜かれ続けると、もうその言葉にも逆らえない。

「私は、貴女が何に悩んでいるのかを知らないし、きっと……理解もできないでしょうから、的確なことが言えるのかはわからないけど」

 咲夜は言葉を切って、思案する。さとりは彼女をじっと見る。星空のように綺麗な、だけどもおもちゃ箱のように無秩序な心象世界が、何のためらいもなく広げられる。ノイズに耳を奪われるのを忘れて、それに見入ってしまう。一瞬だけ、心を読むのが苦痛ではない、そんな錯覚を抱いた。

「生きて行くのに強さなんて必要ない。強さを求めるなんて無意味よ。生きざるを得ないから生きる。強くあらざるを得ないから強い。実はこれ」

 貴女の妹の受け売りだけどね。
 そう言って、咲夜は緩やかに唇を結んだ。




 ※  ※  ※  ※  ※




「良いこというね、あんたの妹」

 玄関まで出て霊夢と咲夜を見送ると、後ろからてゐがやってきて言った。どうやら、先ほどの三人の会話を聞いていたらしい。

「……私も驚きました。前はこいしは、そんな考え方をしなかったはずのに」

 こいしは、事あるごとに「強さ」を求めていた。それは彼女が心を閉ざしてからのことだ。さとりもその理由について幾つか考えたことがある。心を閉ざした弱い自分が許せなくて反動的に強さを求めているのか、それとも単純に、残酷なことの愉しみに気付いたのか……。さとりにはわからない。けれど、フランドールに監禁されてから何かがあって、考えを改めたのは事実だろう。

「強さを求めるのは無意味。強くあらざるを得ないから強い……これには私も同意見だね。長生きしたいならさ、強さよりも狡さを求めるべきだよ」

 てゐはにやりと笑い、目を細めて、赤い瞳でさとりを見る。

「自分を求めるっていうのもそれと同じ。あんたは誰にも侵されない心の強さっていうのを欲しがったんだ。でも、あんたの妹が言ったように、そんなのを求めるのは無意味ってわけ。その点でだけは、私も姫に同意するね」
「……私という実体は、世界中のどこを探しても、ないということですか」
「変なことをいう。あんたはいま、ちゃんと私の目の前にいるよ。ただ、あんたがそんなに悩んでるのは、頼るべきものを間違えているから」
「それは……?」
「さあ、心を読んでごらんよ」

 てゐがすっと目を閉じる。赤い輝きは消えたけれど、口元には揺るがしがたい自信が残っている。
 さとりは戸惑いながら心を読む。彼女の考えていることが言語化されて、まるで本を読むみたいに、さとりには見えてくる。
 そして、その答えに驚く。

「読んだ?」
「……心を読むこと、それ自体?」
「そうだよ、その通り」
「そんな、だって私は、この能力のせいで」
「悩んでるね。でもどうして悩んでいるの? 心を読んで嫌われることがいや? それとも、ずっと聞こえてくる心の声にさらされてるのがいやなのかな。そりゃ、あんたの苦しみっていうのは私にはわからないよ。でもね、こう考えればいいんじゃないかなっていう解決策は思いつく」

 てゐは目を開いて、再びさとりを見つめる。

「あんたのその能力を、弱さの根拠にしちゃいけないよ。心構えを変えればいい。能力に振り回されるのが辛い。だったら、自分からそれを振り回してやるんだ」
「自分から……?」
「そう。あんたの能力は、確かに普段暮らすうえでは厄介かもしれないね。他人の声に人一倍敏感になるんだから。でもね、あんたに流れ込んでくる一つ一つのその声が、逆にあんたを形作っていくんだ。元々、自分なんてものの実体なんてないよ。そんなものがあるって考えるから、他人の声に侵されるなんてことになってしまう。覚りは他人の心を読んで、それを利用して、自分の都合の良いように人の心を操って、周囲をどんどん作り変えていくことができる。そんな便利な能力を持っていながらなぜ活用しないのか、私にはよくわからないね」

 てゐの心は少しも揺るがない。彼女の声が、滝のように強く流れ込んでくる。

「……一つ訊いてもいいですか」
「なに?」
「あなたは、自分の能力というものをどうしてそんなに強く信じていられるのですか。いつかそれに……裏切られるとは考えないのですか」
「考えないね」
「だから、どうして」
「私の部屋にある掛け軸の言葉、覚えてる?」
「え――?」

 覚えている。たしか、「天為無法」。あのときは、天衣無縫の間違いではないかと思ったけれど、何か意味があるのだろうか。

「あれの読み方を教えてあげるよ。『天の為すことに法は無い』。私には、天が味方してくれるんだ」

 そう言うと、てゐは廊下の奥へ歩いていってしまった。未だに戸惑いの中にいるさとりを残したまま。




 ※  ※  ※  ※  ※




 夕食後の大広間。さっきまではひたすら忙しく立ち働いて、てゐの言ったことを考えずにいたのだけれど、ついに暇を持て余してしまい、大テーブルの隅に頬杖をついて、考え事をしていた。妖怪兎たちがまだ何匹か残っていたが、みんな満腹になって眠りこんでいるので、思考の妨げにはならない。

 私という実体はない。この世に溢れている幾千幾万の声が、逆に私を形作っていく。

 理解はできない。ならば、ここで考えている私はなんなのか。苦しみは誰のものなのか。ただの詭弁じゃないのか。

 それでも、無視はできなかった。彼女の言うことを信じるなら、確かに悩むこともなくなるだろう。自分、自分。心を読む自分。霊夢を好きだった自分。フランドールとレミリアの関係をなんとかしたいと思った自分。そして、輝夜に永遠に従属している自分……。

「まだいたの。お風呂入った?」

 鈴仙がマグカップを両手で持ちながら、寒そうに部屋に入ってきた。ブラウスの上に紺色のセーターを着て、さらにその上に半纏を羽織っているものだから、だいぶ無国籍な感じである。

「あ、はい。先ほど」
「そう。お風呂の栓抜いとけばよかったな……まぁいっか」

 ぼやきつつ、鈴仙は隣に腰を下ろした。彼女は最近輝夜がさとりに構いきりなのをあまり心良く思っていなかったけれど、もうさとりに嫉妬することはなかった。まだこいしが死んだと勘違いしているのである。

「夕方、お客さん来てたみたいね。霊夢と紅魔館のメイドだっけ。何の用だったの?」
「地霊殿の工事が、もう少しで完了することを伝えにきてくれたみたいです」

 約一名は、明らかに煎餅をむさぼるためだったと思われるけれど。

「へぇ、よかったじゃない。ようやくおうちに帰れるね」
「ええ……」
「……どうしたの? なんだか浮かないなぁ。もしかして帰りたくないとか思ってるわけ?」

 鈴仙が冗談まじりの口調で言う。事実、心を読むと本気で言っているわけではなかった。

「まあ、あれだね。今は我慢してるけどね、私だって姫様に……こう……」

 ココアの入ったマグカップをテーブルに置き、両手を交差させて胸を抱きしめる仕草をする。

「されたいんだからさ」
「……彼女に抱きしめられるのは、心地よいのですか」

 さとり自身は、輝夜に抱きしめられたことはなかった。傍にいて、姫独特の香をたいているようないい匂いに包まれているだけで、心が安らぐのだから。

「うん。気持ち良いというかね……なんだろう、とても安心するっていうか……何も考えなくてもいいんだって心地になるよね」

 うっとりする鈴仙。瞳にはピンク色の花が浮かんでいる。さとりは軽く引きつつ、自分も鈴仙とまったく同じように感じていることに気付いて、笑えなくなった。

「ね、貴女もそうでしょ?」
「……私は、」

 迷っている。本当にこのままでいいのか。てゐに言われたことで、さらにぐらついた。もうどうすればいいかわからない。

「……何があったのよ。ねぇ、独りで抱え込んでらちが明かないならさ、私に相談してみなよ。何も言えないかもしれないけど、聞くだけならできるし。自分で整理もできるかもしれないでしょ」

 鈴仙が少し胸を張ってお姉さんぶっている。こういう俗っぽい意地にとらわれているところが、この月兎の可愛いところだ。少し心を和ませて、さとりは鈴仙に、今日あった出来事を話した。

「……ふぅん。てゐがそんなことをねぇ。よくわかんない理屈だなぁ」

 鈴仙は目を閉じて、難しい顔をして考え込んだ。

「だいたいさ、てゐの言ってることも、結局は姫様と同じじゃないの。自分なんてものはない、そんなものを信じてるから苦しむんだってことでしょ。差がないような気がするけど」
「はい、だけど……自分の能力を信じろ、ということも言ってました。たぶん、輝夜さんの考え方は……とにかく、何もしなくていい、ということ。てゐさんのは、自分なんてものを信じないで、ただ自分の能力を使って、何かをしろということ。そこに違いがあるのだと思いますけど……」
「ふぅん……まぁあいつの言ってることだから、あんまりあてにしないほうがいいと思うよ」

 鈴仙もそのことについて真剣に考えている。でも、何を言えばいいのかわからないようだった。さとりとしては、何を考えればいいかがまとまったので、鈴仙に話したのは無駄ではなかった。
 問題は、さとりには自分の能力が信じられないということだった。今まで、この能力のせいで、自分は不幸に陥れられてきたのだ。とても今更信じようという気にはなれない。さとりには、天の為す救済などありえない。もし、てゐの言うように、信じるしか道はないというのなら……自分の能力が本当に何かを為せるものなのか、その証拠が欲しい。出来るならば具体的な形で。 

「――あれ、私のココアは?」

 鈴仙が不意に声を上げた。見ると、マグカップの中のココアがいつの間にか飲み干されていた。

「貴女、飲んだ?」
「いえ、私は手をつけてません」
「えー、誰よぅ。一日の楽しみなのになぁ。なんか最近多いな、こういうこと」
「多い?」
「うん。お師匠様のところから薬が盗まれたり、お菓子がいつの間にかなくなってたりね。兎の悪戯かな」

 そういえば、縁側で輝夜とてゐに悩みを打ち明けたとき、さとりが飲んでいたお茶もなくなっていた。
 突如、頭に閃くことがあった。ココアは、そうだ――

「……こいしっ!」

 視界の隅に、深い緑色のスカートがヒラリと引っかかった。

 いたんだ。ずっと。聞いてたんだ。そばで。

 さとりは立ち上がり、大広間を駆けだした。途中何度か兎につまずきそうになったけれど、それをこらえて、ひたすら、廊下を出て、玄関を出て、澄んだ夜空の見える外に出るまで、追いかけた。
 だけど、こいしはいなかった。

「ど、どうしたの? いきなり」

 鈴仙が肩で息をしつつ後ろから声をかけてきた。思わず追いかけてきたらしい。

「……ココアは、妹の……こいしの大好物なんです」

 気まぐれでふらりと帰ってきたとき、秋から冬にかけての期間であれば、こいしは必ずといっていいほどさとりに「さむいー。お姉ちゃん、ココアいれて」と要求した。それがただいまの挨拶代わりのようなものだった。

「……そう。でも、貴女の妹さんは……」

 相変わらず鈴仙は勘違いまっしぐらだったが、否定する気力もなかった。
 また、取り逃してしまった。さとりは、この世で一番妹のことがわからない。これから先……こいしのことを理解できる日は来るのだろうか。
 星の良く見える夜だった。




 ※  ※  ※  ※  ※




 実を言えば、眠るのがあまり好きではない。夢では、過去の実際に経験したことや経験しなかったこと、ただちらりと思ったことさえもが、無秩序に再構成されてさとりに襲いかかってくる。幾万の声、幾億の声、それが轟音となって流れ込み、どこかへと消え去っていく。

 決まって、さとりは汗びっしょりになって飛び起きる。そういうとき、まだ夜が明けていないと、再び襲来するだろう夢魔に怖気づいて、結局眠らずに朝を待つことがよくある。その独りの時間が心細くて、さとりは眠るとき必ずそばにペットにいてもらった。でも、ここへ来てからは誰もいない。さとりの夢の恐ろしさなど知るよしもなく、呑気に眠り呆ける燐や空はいない。

 さとりは窓から月を見上げた。眺めてどうなるというわけでもないけれど、ただそこにあると、なんとなく見上げてしまう。地底に月はない。その習慣が身についたのは、秋の初め、地霊殿を出て地上へ上がったあとのことだ。
 でも不思議と、月を見ていると心が安らいで、いつの間にか眠くなっている。そうして眠りこむと、やはり不思議なことに怖い夢も見なくて済むのだった。

 不意に気配を感じて、さとりは目を覚ました。月明かりが部屋の中を浸している。光の湖にさとりは浮かんでいる。外から吹き込んでくる涼やかな風。おかしい、窓は閉めておいたはずなのに。

 窓のほうを見ると、二つの小さな人影があった。一つは黒い帽子をかぶり、山吹色の上着を着て、深緑色のスカートをはいて。その表情は穏やかで、なんだかとても懐かしかった。その隣には、淡い色のナイトキャップに紅い服、そして七色の宝石で飾られた一対の翼。その表情は悲しそうで、目はためらいがちに伏せられている。

「こいし……?」

 名前を呼ばれると、こいしはさらに笑みを深いものにして、口を動かしてなにか言ったけれど、小さくて聴き取れなかった。

「フラン……」

 フランドールはぴくりと震えた。月光の下で煌めく翼はとても綺麗なのに、なにがそんなに悲しいのだろうと不思議に思う。紅い瞳は水を湛えて潤んでいて……一度も見たことのない表情だった。
 こいしがフランドールの背を少しだけ押した。フランドールはよろめいて、こちらへ来たがらない様子だったけれど、やがて意を決したのか、さとりの目を見つめて、小振りな唇を動かして言った。

「ありがとう、ごめんね」

 そう言って、彼女は小さな箱を差し出した。さとりはそれに見覚えがあった。これは確か……。
 でも受け取った瞬間、強烈な睡魔が襲ってきて、そのまま意識を失ってしまった。

 次に気がついたときには朝になっていた。しばらく呆けて、昨夜のあれは夢だったのかと考える。だけど、枕の横にあの小箱があったので、頭の中の靄がすっきりと晴れ渡った。手を伸ばし、ゆっくりと、フランドールからの贈り物を開く。
 中には、一つの小さな輝く星があった。




 伍   夢消失




 輝夜はいつものように陽のあたる縁側で待っていた。切れ長のまなじりには穏やかさが刻み込まれ、猫のように気ままに腰掛けて、庭に呆と眺め入っていた。彼女のいるところが、すなわち永遠亭の中心だ。

「あら、こんにちは。今日は遅かったのね」

 輝夜が顔を上げ、さとりを黒い瞳でじっと見つめ、気遣わしげな表情を見せた。

「どうしたの。なにか、また……悩み事でもできたのかしら」

 輝夜の心を通して、さとりは自分がどんな表情をしているかを意識した。唇をきゅっと締め、決然と何かに立ち向かおうとしているかのような顔……。それほどのことでもないのに、随分と大げさな。でも、やらなければ。自分のために。

「お別れを言いに来ました」

 輝夜の瞳が驚きに広がった。同時に、緋色の輝きがその輪郭にちらついてくる。それに打ち勝たなければならない。

「……理由を聞いておこうかしら」
「もう、貴女の下にいなくても、生きていけると思ったからです。長くかかりましたが、ようやく……見つけることができました」
「ここを出て、また貴女を散々苦しめたあの世界へ飛び出していこうというの? 果たしてうまくいくのかしら。これまでずぅっと失敗しどおしだったんでしょう?」
「ええ、これから何度も失敗するでしょう。またこれから苦しむことにもなるでしょう。それに関しては保証の限りではない……」
「ならば、なぜ。考えるのをやめるのは、楽なことじゃなかったの?」
「…………」

 ポケットに手をいれて、そこに収まっている小さな欠片をつかむ。見えないけれど、きっと、どんな暗闇の中でも綺麗に輝いていることだろう。

「確かに私は私の能力に苦しめられてきました。だけどそれは、私が心構えを間違えていただけのこと……私の能力は、決して私から切り離されるものではない。だから、こんな能力さえなければと考えるのは無意味です。むしろ考えるべきことは、この力とともに私に何ができるのか、ということ。人の心の声を積極的にきいて、その一つ一つが、私の糧になっていくのを恐れずに。そして出来あがった私が、今度は私自身の声を周囲に響かせていく。それがきっと、覚り妖怪として生きていくということです」

 自分というものの実体はない、とてゐは言った。つまり自分とは固体ではない。むしろ、容器に入れられないと形が定まらないような、流動的な液体なのだとさとりは想像する。それは何色にも染められてしまう、不定形な脆弱さを持っているけれど、その分円滑に何にも引っかかることなく動いていくことができる。

「……そんな心構え一つで、すべてが変わるものかしら」
「わからない。だから確かめてみたいのです。この生き方がどこまで通用するか。そして、貴女のもとでは、決してそれを試せないと思った。だから」

 貴女のところにはもう、いられません。
 その一言を吐ききって、さとりは深く深呼吸をした。

 輝夜には言わなかったけれど、さとりは昨夜、自分の能力が信じるに足るものであることの根拠を、具体的な証拠を得た。それはもちろん、フランドールが届けてくれた小箱の中にあった、ひとかけらの小さな星だ。
 あれは元々、紅魔館でさとりがフランドールに贈ったものだ。それを渡したすぐあとで、さとりはフランドールに裏切られた……すべてが無駄だったのだと諦めた。だけど、フランドールは言った。『ありがとう、ごめんね』。さとりの能力で、何かを変えることがができることの、十分すぎる証左だった。

 だから、もう迷わない。この能力を持って生きていくことに決めた。自己という夢は消えて、他者の声の溢れる薄暗い海を泳いでいく。

「……そう。残念だわ」

 輝夜は諦めたようにふっと笑みをこぼす。

「でもね、失敗して、また辛くなったら……いつでもまた、ここに来てもいいのよ」

 さとりは彼女の瞳を見る。やはり、そこにはまだ危険な輝きがちらついている。
 さて、これから気の重くなることだけれど――輝夜に嫌われなければならない。さもないと、いつでも帰ってこれるという甘えが残ってしまう。だから、ここにもう二度と帰ってこれなくなるようなことをしなければ。

「ええ、また帰ってきますね……貴女と妹紅さんが、殺し合うのをやめたのならば」

 輝夜がぴくりと眉を吊り上げた。案の定、妹紅が絡むと平静ではなくなるようだ。

「どういう意味かしら」
「そのままの意味ですよ」

 さとりは輝夜を見据えて言う。

「これまで幾つかの幻想郷の家庭……と呼べるかどうかはわかりませんが、私はそれらの場所を巡ってきました。博麗神社、紅魔館、そして永遠亭。といっても、最後のここ、永遠亭だけは、この建物の内部だけではくくれない気がしました。つまり、範囲を竹林にまで広げなければ語れない。その理由はもちろん、藤原妹紅さんの存在です」

 博麗神社――霊夢が中心となって、その周りにわらわらと集まってくる妖怪たちとの関係。
 紅魔館は二人の姉妹が中核となり、メイド、魔女、門番、小悪魔、そして妖精メイドたちが脇を固めている。
 でも、ここは……。

「貴女と妹紅さんの関係が中心にある。ただしその関係は、数百年にも及ぶ殺し合いの連鎖。本人たちはそれでいいと思っていても、周りは……永琳さんや鈴仙さん、それにてゐは、そんなことを思っていません。だけど日常は滞りなく続いていく。どこか、歪です」
「…………」
「ここが永遠の安寧の地だ、と貴女は言いました。だけどその実中心において隠蔽されているのは血なまぐさい殺し合いじゃないですか。この欺瞞をどう説明するのですか?」
「……黙りなさい」
「黙りません。恩を仇で返すようなことになるのは不本意ですが、貴女と妹紅さんの関係、ひいてはその周囲の人々の関係から歪さが取り除かれない限り、ここが安住の場所だとは言い切れない――」
「黙りなさい!」

 ぐい、と胸倉が掴まれる。
 彼女の激した瞳がすぐそばにある。その瞳にちらつく色は、さとりにとってはもう危険なものではなかった。

「どうして、やめられないのですか。この前二人が出会ったとき、そこにあるのは貴女たちが憎しみだと思い込んでいるものだけで……形骸化していた。だから今においても続いているのは、ひとえに惰性の仕業に違いないでしょう?」
「……っ。わからないわ、貴女なんかには」
「……そうでしょうね」

 心を読んでも、わからないことはたくさんある。これがそのうちの一つなのだろう。いずれにせよ、自分が出来るのはここまでだ。あとは当人たちの問題だ。
 輝夜は乱暴にさとりの襟を離し、荒々しい足取りで廊下の向こうへ消えてしまった。
 さとりはその後ろ姿に、深々とお辞儀をした。




 ※  ※  ※  ※  ※




「見事に勝ったね。おめでとう。晴れてあんたは自由の身ってわけだ」
「……また盗み聞きですか。相変わらず趣味が悪いですね」
「うるさいな。あんたに言われたくないね。随分と匿ってもらった恩義を忘れてるじゃない」

 そんなことを言いながら、てゐはニッと笑った。
 二人は永遠亭の玄関にいる。さとりは荷物を持ち、すっかりここを去る準備はできていた。もう、鈴仙と永琳への挨拶は済ませていた。もうやることは何も残っていない……地底へ、地霊殿へ帰るだけだ。

「いい性格になったね。人形みたいに過ごしてたときよりも、そっちのほうが百倍は素敵だよ」
「そのように強要したのは貴女でしょう。人の心を読み、自分の都合のいいように周囲を作り変えていくなんてこと……まっすぐな性格じゃ決してできませんよ」
「まぁ、そうだね。でも私は何にもしてないよ。今のあんたはあんた自身が掴み取ったものだ。これからどんな災難や幸福が降りかかるやらと考えると、ぞくぞくしてくるね」
「ふん……私にはむしろ貴女のことが気になりますよ」
「へぇ、どんなところが?」

 さとりは目を細めててゐを見た。くせのある黒髪、ピンク色のワンピース、にんじん型のペンダント。ずいぶんとこじんまりまとまった体である。

「そんなにシンプルな格好をした貴女が、どうやってあんな考えを持つに至ったか……あんな考えとは、自分に実体はないという、例のあれですが」
「ああ、それね」

 てゐは腕組みをして、暮れ始めている空を見上げた。

「別に、とりわけ何か特別なことがあったわけじゃないよ。ここまで生きてきたら必然あんな考えを持ったってだけの話。私の能力がそもそも何だったか、あんた言える?」
「……人を幸運にする程度の能力」
「そう。巷じゃ幸せ兎とも呼ばれてるみたいだね」
「それがどう結びつくのですか?」
「幸せってのは、人と人との関係……つまり『縁』から生まれてくるものなんだ。自分一人で幸福を探そうとしても、そんなものはありえない。もちろん、縁には書物とか、仕事とか、人間じゃないものとの出会いも含まれるけどさ」
「幸せというものの実体はない。人と人との関係からそれは生まれてくる……つまり貴女の考えは、それを自己に敷衍したものというわけですね」
「その通り。まぁ、ある意味私とあんたの能力には共通点があるかな。私のもあんたのも、人と人との関係についての能力だ。私は縁を取り持ち、あんたはその関係性そのものを言葉にする」
「だいぶ牽強付会な気もしますが……まぁどうでもいいです」

 さとりも空を見上げる。もうしばらくは、こんなに広い天を見ることもなくなるだろう。また薄暗い地底に帰り、雑務をこなす生活が始まる。

「……一つ、忠告を」
「それはありがたい。なんだい?」
「天為無法……でしたか。確か読み方は『天の為すことに法は無い』」
「ああ、あれね」
「天が自分に味方してくれている、とか何とか格好つけてましたが、それって要するに困った時の神頼みってことじゃないですか。そんな曖昧なことに頼っているようでは、貴女もいつか酷い目にあいますよ」
「おや、手厳しいね。まぁ、それは私もわかってるよ。だから今画策中なんだ」
「……何を、ですか?」
「そうだね。天に頼っている状況から抜け出すためにはさ、あれを殺すよりも他に手はないでしょ?」

 そう言って、てゐは上を指差した。さとりもつられて空を見上げる。特に何があるわけでもない、だんだん群青色に染まってきている空があるだけだ。

「……わけのわからないことを考えますね。せいぜい頑張ってください。私には関係のないことです」
「そんなこと言って、最後にきっちり姫にあんなこと言ったじゃない。言う必要なかったのにさ」
「……気のせいでしょう。それじゃ、そろそろ行きますね。明日の夜までにはつきたいので」
「ああ、そうだね。色々楽しかったよ。それじゃ」

 てゐはひらひらと手を振り、永遠亭の玄関の奥へ消えた。さとりはぺこりと礼をして、門から暮れなずむ竹林へ出た。
 一つ思いつくことがあった。「天為無法」の前半部分。「てん」と「い」で「てゐ」となる。くだらないダジャレだ。だけど、彼女にはそれが似合っている。少しだけ笑いながら、さとりは竹林を外へ向かって歩んでいった。






 終章   埴生の宿




 強い風が地底から地上へと吹きぬけていく。物凄く寒いが、厚着をしてきたので平気だった。光り輝く地上から、薄暗い地下へと潜る。これでしばらく太陽ともお別れだ。
 臆病な釣瓶落としが焦って上から落っこちてきたけれど、さとりの顔を見るとすぐさま逃げ出した。ここも、数ヶ月前と全然変わっていない。

 橋にはいつものように、孤独な橋姫が一人、ぽつねんと水面を眺めていた。彼女には、縁が幸福を作り出すというてゐの考えは当てはまるのだろうか? 彼女の場合、決して避けることのできない人との関わりが、不幸の発端になっている気もする。まぁしかし、この世の縁が多種多様ならば、きっと幸福だって多種多様にあるのだろう。

「……あら。鬱陶しいのが帰ってきたわね」

 パルスィが顔を上げ、憂いを湛えた綺麗な緑眼でさとりを見た。

「おかえり。別に帰ってこなくてもよかったけど」
「嫌われ者代表の私がいなければ、誰が地底を治めるのですか」
「はっ。現にあんたがいなくても、旧都は何も変わりなかったじゃないの」
「それは代わりの者が務めていたからですよ。まぁ、そんなことはどうでもよろしい。私からも一つ」
「なによ」
「ただいま、です」

 パルスィは鼻を鳴らして、再び水面に目を落とした。この寂しげな後ろ姿が、さとりはそれなりに気に入っていた。

「帰ってきてるみたいよ、あんたの妹。今朝ここを通った」

 通り過ぎようとすると、パルスィがそんなことを言ったので、思わず振り返った。パルスィは無言だったが、少し顔が赤らんでいるのがわかった。でもそんなことを指摘されるのは嫌がるだろうから、何も言わずにさとりは頭を下げ、ごちゃごちゃした旧都の中へと入って行った。

 本当に、何も変わりない。鬼たちは相変わらず呑めや歌えやの大騒ぎをしているし、土蜘蛛は人気者らしく皆の中心にいて笑いを取っている。

 一つ大きく変わったことがあるといえば、それは当然、改装工事を終えたばかりの地霊殿だった。老朽化した部分はきちんと補強され、薄汚れていた外壁はしっかり塗りなおされていた。重々しいファサードも、以前と比べれば見違えるほどに綺麗になっている。

 でも、どんなに新しくなろうと、そこはさとりの家だった。

 中に入ると、暖かい空気が顔を打ち、同時にカーペットの上で思い思いにくつろいでいるペットたちが目に入った。彼らは主を見て、別段感動している素振りは見せなかったが、近付いて手を差し伸べると、いつもよりも優しい仕草で迎えてくれた。
 その一匹一匹を撫でて回ったものだから、自分の部屋に辿りつくのには結構な時間がかかった。

「おかえりなさい、さとり様」

 部屋には、猫らしい茶目っけたっぷりな笑いを目に浮かべた燐と、暖炉の前のソファで眠り呆けている空が待っていた。さとりは燐の頭も撫でて、ソファの、空の隣に腰を下ろした。

 めらめらと燃え盛る暖炉の火を見つめる。骨の髄まで暖められた心地になる。

 ふと、太ももに何かが乗るのを感じた。視線を下ろすと、夢で見た妹の懐かしい顔が、さとりを見上げていた。

「こいし」
「お姉ちゃん、あとでココアいれてね」

 ああ、やはり、いつも通りだ。

「夢で逢いましたね?」
「なんのことかなぁ」

 こいしが目を細めて、ねこのように笑う。ポケットを探っても、星の欠片は見つからなかった。確かに、あれは本当に夢だったのかもしれない。

「それで、探し物は見つかったの?」
「ええ、貴女のおかげでね」

 こいしは手をのばし、さとりの髪に触れた。

「おかえり」

 さとりもこいしの髪を撫でる。

「ただいま」




 長い旅が終わり、そこには団欒がある。








(Home,Sweet Home)
 本っっっ当にごめんなさい。前作からまた半年以上かかってしまいました。お待ちいただいた方、申し訳ありません。

 本編のほうは終了です。また、これ以上引っ張るのは恐縮ですが、このSSで語れなかった紅魔館編以降の「こいしとフランドールのその後」のお話については、日を改めてこちらに投稿させていただけたら……と思います。なるべく近いうちに……。
 感想、その他忌憚なきご意見等いただけたら幸いです。

 それでは、ご読了ありがとうございました!
みずあめ。
http://schwarzemilch956.blog134.fc2.com/
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コメント



0.1020簡易評価
2.100名前が無い程度の能力削除
自分にとって、この作品ほどに完結して欲しい作品はなかった。
完結おめでとうございます。
3.90名前が無い程度の能力削除
迷って迷ってようやっと掴み取った答え。
今のさとりなら、霊夢と正面から向き合えるかもしれない。
5.100名前が無い程度の能力削除
前作からお待ちしておりました。
まずは、完結おめでとうございます。

色々な場所で色々と見てきたさとり。
何度も折れそうになりながらも、でも支えてくれる人もいて、最後にはしっかりと答えを掴んで。
もしかしたら最初にてゐに出会ったときに幸運を分けてもらったんじゃないだろうか、なんて思いました。

素敵な物語、ありがとうございました。
9.100名前が無い程度の能力削除
前作からずーっと待ってました。面白くて大大満足です!!
フランドールとこいしの話しを楽しみにしてます!
12.100名前が無い程度の能力削除
シリーズの完結を長らく心待ちにしていました。
読み応え十分でとても楽しめました。

輝夜がさとりにとって訣別すべき停滞と安寧の象徴という「役割」以上のものがほとんど見えてこなかったのが少し残念ですが、
これはあくまでさとりの物語ですので、その点では見事に役割を果たしたと思います。

お疲れ様でした!
13.100名前が無い程度の能力削除
ヒャッハァー待ってた!
相変わらずキャラの使い方が上手くて感心します。

次のも楽しみにしてます。
14.100名前が無い程度の能力削除
これは満足です
18.90名前が無い程度の能力削除
綺麗に完結したなあ。
19.100名前が無い程度の能力削除
放浪するさとりの迷いがとても人間くさくて共感できました。
やはりさとりは地霊殿にいてこそだよ!
要所要所でさとりの支えとなっていたこいしもナイスアシスト。
でも何より、今作ではてゐがかっこよくて痺れました。
20.100名前が無い程度の能力削除
完結お疲れ様でした。
さとり様の成長物語でしたね。

こいしとフランが一緒に登場したということは、二人は仲直りできたのでしょうか。前作でちょっと気になっていたので。紅魔編のその後についても期待しています。
22.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしい三部作。文句なしです。
こいフラのお話もゆっくり待ってます。
28.90名前が無い程度の能力削除
一気に読めて良かった。
素敵な話をありがとうございました。
29.100名前が無い程度の能力削除
いいはなしだな~
30.80名前が無い程度の能力削除
面白いシリーズでしたが、やや消化不良も。
語りきれなかったとはおもうのですがね。
お疲れ様でした。
33.100名前が無い程度の能力削除
面白かった