Coolier - 新生・東方創想話

Wlii  ~其は赤にして赤編 2

2014/11/30 17:25:01
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夢が偽りだというのならこの世界は嘘吐き達の住む箱庭

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~其は赤にして赤編 1



    第三節 破壊のきじん

「夫婦茶碗を買いましょう、蓮子!」
 マエリベリー・ハーンがそう言って、店先に並んだ大きさの違う茶碗へ駆け寄った。宇佐見蓮子はそれを冷ややかに見つめてから、「余計な物は買わない」と言って、歩き出した。
「待って、蓮子! どうして? 明らかにこれは私達の新しい生活に必要な物よ!」
「だってメリー」
 蓮子はメリーの示す夫婦茶碗を見つめる。既に食器は揃っている。今更必要無い。その上、メリーと蓮子の生活では、食器の大きさが違う事に何の意味も無い。非合理の固まりだ。
「それが必要な理由を十文字以内に答えてみてよ」
「欲しいから!」
「わお、まさか本当に十文字にまとめてくるとは思わなかった」
 蓮子は近寄って、メリーの持っている夫婦茶碗を受け取った。上に下に食器を眺め、二三度指で叩いてみる。
 安物だ。
 その割に高い。
「無駄」
 にべもなく切り捨てて、食器を置いて去ろうとすると、メリーが服を引っ張ってきた。
「欲しい!」
「要らない」
 メリーごと引きずって歩こうとするが、メリーとの体重差で引っ張り負けてしまった。呻いた蓮子は渾身の力を込めて、メリーを引っ張り返す。メリーも負けじと蓮子を引っ張る。
「欲ーしーいー!」
「いーらーなーいー!」
 そんな問答を続けていると、辺りの通行人が漏らすくすくすという笑い声が聞こえてきた。途端に恥ずかしくなって蓮子は力を抜いた。その瞬間、メリーに引っ張られ床に倒れる。痛みで顔をしかめていると、頬にメリーの吐息が掛かった。
「蓮子、あの食器は必ずや私達の新婚生活に瑞瑞しい彩りを加えてくれるわ」
 メリーが真剣な顔でそんな事を言う。
 もう何か突っ込む気力も無くなって、蓮子は溜息を吐き、夫婦茶碗の購入を許した。
 早速茶碗を持ってレジへ走るメリーを見て蓮子は微笑ましい気持ちになる。無邪気なメリーの姿はいつだって蓮子の心を和ませる。
 だがメリーを見ている内に、これも全て操られた結果なのだろうかと嫌な気分になった。
 いけないと蓮子は自分の思考を止めようとするが、一度思い浮かんだ悩みがそう簡単に止まる訳が無い。
 嬉しそうにレジで夫婦茶碗を買っているメリーのすぐ後ろで、蓮子はメリーにどす黒い感情を抱いている。そんな自分が嫌だった。でも仕方の無い事だと諦めていた。

 蓮子とメリーはこの世界の人間ではない。ある事件を切っ掛けに、元の世界に居られなくなって、つい一週間前にこちらの世界に移ってきた。
 元の世界に居られなくなった理由は蓮子にある。蓮子は普通の人間ではない。いや人間と言っていいかも分からない。かつて孤独だったメリーが友達欲しさに、願望という魔法で生み出した人工生命体が蓮子だ。それが世間にばれてしまった為に、元の世界から爪弾きにされて、この平行世界へやってきた。
 蓮子は自身が人工的な存在だと知ってから、身勝手に自分を生み出したメリーの事を恨んでいる。殺したい位に憎らしい。蓮子はメリーの友達として生きてきた。メリーの事を好きだった。メリーと一緒に不思議なものを探す毎日が楽しかった。それが自分の意志だと思っていた。大学で出会ってからすぐに親友となった、妙に気の合うメリーに運命を感じていた。そうやって信じてきた世界は、自分が人造物だと知って、一変してしまった。己はただの操り人形であり、メリーにとって都合の良い存在でしか無い。自分がメリーを思うのは単にそうプログラムされているからであり、メリーと出会ったのも初めからそうやって生み出されただけにすぎない。今までは何気無かった生活の全て、自分という存在、自分の行動、自分の思考、全部メリーを喜ばせる為のものなんじゃないかと考えてしまう。そして実際にメリーを喜ばせる為のものなのだろうから、嫌で嫌で仕方無い。ずっと秘密にされて弄ばれてきた。ずっと自分を普通の人間だと思って過ごし、ずっとメリーと仲良く過ごしてきた事が全部、壊された。だから恨んでいる。メリーの慰み者として生み出されたという存在理由と一緒に、メリーを殺してやりたいと思っている。
 でも一方で、蓮子は親友としてメリーを大切に思う様に作られてしまっている。例えメリーに何をされようとメリーを好きになる様に、生まれながらにしてプログラムされている。だから蓮子はどうしてもメリーを嫌いになりきれない。殺してやりたいと思う気持ちと共に、メリーとずっと一緒に居たいという気持ちが同居している。
 そんな蓮子の苦しみを知っている筈なのに、メリーはこちらの世界に来てからいつだって笑顔を向けてくる。それがたまらなく憎らしく恐ろしい。
 メリーは簡単に消してしまう事が出来る。実際に、元の世界で一度、蓮子はメリーによって消された。そして再び生み出された。全てはメリーの望むがままだ。もしもメリーの望む蓮子像と全く違う行動を取ったなら、永遠に消されてしまうかもしれない。そんな恐怖がある。
 だから今の蓮子は、メリーに対して恨みと好意と恐怖を、同時に、強烈に持ち合わせている。強く強く、普通の人間では耐え切れない位に強く、蓮子はメリーの事を思っている。
 きっとそれもメリーが規定したのだろうと蓮子は信じている。
 自分はメリーに縛られている。存在も、価値も、行動も、思考も、全てがメリーによって規定されている。
 蓮子はそれが嫌で嫌で仕方なかった。
 でも一番嫌なのは、何よりも嫌なのは、自分とメリー、そんな二人の関係が、自分の悩みによって、歪んでしまう事だ。自分の出自に悩む事で、自分はメリーとの関係に苛立ちを覚える。そしてもしかしたら、あくまで期待ではあるけれど、メリーもまた蓮子が苦しんでいる事に悩んでくれているかもしれない。自分が苦しむ所為で、自分もメリーも悩み、そして二人の関係が歪んでしまう。それが耐えがたい。
 もしも出来る事なら、自分の出自についての記憶をなくして、楽になりたい。何もかも忘れて、メリーと一緒に何も考えずに笑っていたい。そう願ってやまない。

「蓮子!」
 驚いて顔を上げると、笑顔のメリーが紙袋を持って立っていた。
「何ぼーっとしてるの?」
「あ、いや」
「さ、夫婦茶碗も買ったし行きましょう」
「うん」
「これを買った事で私達の新たな生活がようやく始まりを告げたと言えるわ。そうでしょ、蓮子?」
「そうだね」
 今のは少し生返事だったかもしれない。メリーの機嫌を損ねていないだろうか。自分は消されてしまわないだろうか。
 そんな事を逐一考えてしまう自分が嫌だった。

 蓮子達の居た元の世界とこの並行世界は良く似ていた。元の世界に比べてこちらの世界は、時代が数百年程遅れてはいたが、蓮子の知る歴史とさほどずれがない。しかも元の世界でお世話になった岡崎夢美と北白河ちゆりという人物まで居た。蓮子とメリーはその二人に保護され、この似ているが確かに違う世界で新しい生活に踏み出す為の準備を整えている真っ最中だ。
 昨日は役所に行って住民登録をして、その帰りに夫婦茶碗を買った。
 今日は、春から通う事になった小学校という教育施設へ挨拶にやってきていた。
「嘘でしょ?」
 だが想像していた小学校とあまりにも違いすぎて、早速蓮子は新生活への不安に項垂れていた。
 小学校という施設は蓮子の世界にもあったのだが、蓮子が知っている小学校とこの世界の小学校はあまりにも掛け離れている。
 蓮子の知る小学校とは、赤子をカプセルに入れ、三十時間程掛けて、一般教養を脳内にインプットする施設であった。だがこの世界の小学校は、一所に複数人の子供を預けて、わざわざ指導者が面と向かって指導を与え、しかも六年も掛かるという。
 何たる非合理かと、蓮子は溜息を吐きながら、隣に座るメリーへ憂鬱な様子で声を掛けた。
「これは随分と大変そうね。まさか六年も」
 メリーは肩を竦めて首を傾げ、いたずらめいた笑みを見せてきた。
「そう? 私は結構楽しそうに思えるけど? 友達が一杯出来るんでしょう? ゆっくりするのも時には良い事だわ」
「六年よ、六年。ああ、私達の世界と一見同じ様なのに、こんな」
「今更何言っているのよ、蓮子。分かっていた事じゃない。私達の世界とは別の世界なんだから」
 そんな風に小声で話し合っている二人の様子を見て、真向かいに座る男は、勇気づける様に大仰な身振りで身を乗り出した。男はこの小学校という施設の、校長と呼ばれる一番偉い役職者であるらしい。
「大丈夫。小学校は決して怖い所じゃありません。みんなでわいわい勉強する楽しい所ですよ」
「はあ、そうですか」
 別に小学校が怖い訳では無いのだが、敢えて否定はしない。
 曖昧な蓮子の答えを、元気が無いと判断した校長は、首を横に振って笑顔を見せる。
「勉強が不安なのかもしれないけれど、それも大丈夫。なんたって君は岡崎さんの親戚なんですから!」
 校長の的外れな励ましの言葉を聞き流しながら、蓮子は改めて自分達を拾ってくれた岡崎の持つ社会的信頼性について考える。
 昨日の役所でもそうだったが、岡崎の親戚というだけで、簡単に公的な期間への登録が済んでしまう。この小学校では事前に岡崎の名前を出しておいたら、書類一枚にサインするだけで入学が認める事になった。昨日の役所でも、初めは職員に「住民票が欲しいなんてそんな急に言われても無理だ。まずはしかるべき施設に入るべき。これから連絡しましょう」と言われて、慌てたのだが、岡崎の名前を出すと、後ろの方に居た偉そうな人が慌ててあれこれと連絡を取り始め、結局問題無く住民票を登録できてしまった。
 そういうものなのかと眉根を寄せる蓮子に向かって、メリーが屈託の無い笑顔を見せる。
「やっぱり岡崎教授は何処の世界でも凄いのね」
 すると、校長がまたしても大袈裟に手を振り上げた。
「それはもう! あの八意製薬に認可された研究室に在籍しておられるそうですから! 私の様な者でも名前を知っている」
 どうやらこの町は、八意製薬という会社の影響力が非常に強いらしく、八意製薬の重要人物であるらしい岡崎もまた影響力を持っているらしい。
 岡崎は、蓮子達の元元の世界にも住んでいて、そこでも世界的に有名な科学者だった。こちらの世界でも、それは変わらない様だ。
 元の世界との繋がりに、蓮子はなんとなく安らぎを覚える。
「それでここにサインすれば良いんですよね?」
「そうです。文章を良く読んでから、と言いたいが、ちょっと言葉が難しいかもしれませんね」
 差し出された紙の契約書には、学校の名前と入学の意思を示す文章だけが書かれている。随分素っ気無い書類だなぁと思いつつ、蓮子とメリーは書類にサインを書き込んだ。
「これで結構。後は、一月後の始業式から参加下さい。勉強道具はこちらで揃えておきます。それから、担任を紹介しておきましょう」
 校長は書類を受け取ると、徐ろに立ち上がり、外へ出た。しばらくすると、担任を連れて戻ってきた。
「こんにちは。春から君達の担任になるよ。よろしく」
 両手を突き出してきたので、蓮子が担任の右の手とメリーが左の手と握手すると、引っ張って立ち上がらされる。
「折角だから教室を見てみない?」
 二人が答える前に、担任は外に出て、こっちこっちと手招いてきた。別に拒否する理由も無いので、二人は後に続く。校長室を出る時に、校長が是非岡崎夢美さんによろしくと言っていたが、正直二人は校長の名前も覚えていなかった。
「あの岡崎夢美さんが親戚で保護者だとは聞いているけど、あの人は大学生だろう? まだ社会人でもないのに保護者だなんて、君達のお父さんとお母さんは?」
 教室なる場所に連れて行かれる途中で、教師が無遠慮にそんな事を聞いてきた。
「仕事があるから前の町に残っています。私達は勉強の為にこの町へ来たので」
 岡崎の提案で、二人の過去はそういう事になっていた。平行世界だ何だは一般的な概念ではなく、知られると色色と面倒なのだそうだ。
「そうか。この町は、お勉強とお医者さんが有名だからね。きっとお父さんとお母さんは、君達に立派になってもらいたいんだね」
 医療と教育が進んでいるというのは岡崎から聞いていた。特に医療は世界的に有名らしく、この町で暮らせば死ぬ事は無いとまで言われているだとか。勿論本当に死なない訳ではないけれど、医療機関が発達し、平均健康寿命は世界中の都市の中で、二位を突き放して、堂堂の一位だと言う。
「僕も君達が楽しくこの町で暮らせる様に手伝うし、クラスの子達もみんな良い子だから、すぐに友達も出来るよ。お父さんとお母さんと離れて寂しいかもしれないけど、心配しないで」
 教室だと言って案内された場所は、机がずらりと三十程並び、全面に大型のスクリーンがあるだけの、簡素な部屋だった。机の一つに触れるとセキュリティロックの認証を求められた。慌てて担任がそれを消す。
「勝手に人の机に触っちゃ駄目だよ。珍しいのは分かるけどね」
 担任の話によると、この教室は世界でも類を見ない最新式の設備らしいが、蓮子の目には、あまりにも旧式過ぎて骨董の類に見える。担任があれこれ機能を説明してくれたが、無駄な機能が多すぎて使いにくそうとしか思えない。教育なんてベースをインプットすれば後は自分達で発展させれば良いし、机なんて計算や文献の検索といった思考の補助と、その思考の結果をまとめてくれれば十分だし、教師というのも行き詰まった思考に別の道を示すだけで十分だ。それを全員が同時に理解出来る様に言語化したマニュアルで順序立てて勉強していくというのだから、成程、これは習得に時間が掛かる訳だと溜息を吐く。
 一頻り担任の説明が終わって、四月からよろしくねと言われたが、蓮子は四月からこの学校という場所で六年間も退屈を味わわなければならない事にうんざりした。一方メリーの方は、新しい環境がとにかく嬉しいらしく、元気良く「よろしくお願いします!」と答え、それを聞いた担任はしたり顔で「良い返事だ」と頷いた。
「蓮子ちゃんももっと元気を出そう」
 ほっとけ。
 教室を出て帰る際に、メリーは校舎を楽しそうに眺めながら、担任に尋ねた。
「他の生徒は居ないんですか?」
 メリーの言葉の通り、学校には人が全くおらず、ひっそりとした静けさに支配されていた。
「今日は休日だからね」
 心配しなくても四月になったらお友達に会えるよと言って、白い歯を見せてきた。
「その子達と六年間暮らすんですね」
 蓮子がうんざりして返すと、担任は困った様な顔をした。
「残念だけど、中学校はばらばらになるだろうから、一年間だね」
「一年? 六年間じゃないんですか?」
「うん。六年生として入学だから、実際にこの小学校に居られるのは一年だけ」
 六年も監禁されると思っていたのが、一年に縮まった。蓮子は喜びで顔をあげるが、次の担任の言葉に表情が固まる。
「あ、でも、ばらばらになるとはいえ、中学校で一緒になる子も多いだろうし」
「え? 中学校?」
「うん、何人かとは同じ学校に行けると思う。何処の中学校に行くかにもよるけど」
「それは、行かなくちゃいけないんですか?」
「勿論。でも大丈夫。みんな良い学校に入れる様に先生達も頑張るから」
「その中学校は何年間?」
「三年間だけど、ああ、でも高校も」
「待ってください。学校って何年間あるんですか?」
「ん? ああ、そういう事か。うん、小学校がまず六年間。中学校が三年間、高校が三年間、大学が四年間だね。それから大学院っていうのもあって、それは二年とか六年とか。学ぶ機会は幾らでもある。でもまずはもうすぐ通うこの小学校、そしてもう少ししたら通う中学校を全力で楽しもう!」
 二十歳過ぎても学校に通わなくちゃいけないのか。
 蓮子は絶望で打ちひしがれる。
 そんな蓮子を心配しつつ、何とか元気にしてあげないとと、メリーは担任に尋ねた。
「私達位の子供は、みんなどんな風に遊んでるんですか? 明日から暇だから色色見て回りたいんですけど」
 メリーの問いに担任は指を顎に当てて考える。
「ん? ああ、そうか。こっちの町に来たばかりだもんね。そうだねぇ。遊ぶのなら、教師としてあまり繁華街で遊び歩くというのはおすすめしたくないけど、でも、まあ、アミューズメントパークにいけば大抵の遊びは揃っているよ。ただ観光って意味だと、この町はあまり。暮らしやすいんだけど。うーん、近くに海があるからそこはどうだろう。電車一本でいけるから、子供でも安全だし」
 良いですね、と同意するメリーに、担任は笑顔を見せる。
「そうかい? 後は、欠かせないのが、レミリアだね! もう知っているだろうけど」
 レミリア?
 蓮子とメリーが同時に首を傾げると、担任は目を見張った。
「レミリアを知らないの? カリスマモデルの」
 知らない。
「勿体無い! すぐに見に行くべきだ! きっとその美しさに惚れ惚れするよ。レミリアが、今この町に来ているんだ! これは内緒だけど、この町に住むみたいなんだよ! 素晴らしいだろ?」
 急に担任が今までと違った熱を帯びて喋りだした。
「レミリアのファッションショーは僕達の様な大人は入れないんだよ! 悔しい事に! だから君達は機会があるのなら絶対に見に行くべきだ! 人気でチケットが中中取れないかもしれないけど、最初だけは僕が取ってあげよう! レミリアの素晴らしさを知ってもらう為にも。勿論お金は要らないよ。教師の僕が生徒からお金を取れないしね? あ、もしかしてこうやってレミリアを勧めるのも教師の役割じゃないと思っているのかな? そんな事は無いさ。子供に素晴らしいものを教えるのだって、教師、いや大人の義務だ。レミリアを知らずに一生を終えるなんて、それはあまりにも不幸だよ!」
 一方的にまくし立てる担任に、二人は恐怖を覚え、少し離れて歩き、出口が見えると足早に外へ向かった。
「えっと、手続きも済んだので、私達は帰ります。あの、レミリアさん? も調べてみます」
「うん! 是非! ファッションショーのチケットが必要なら声を掛けて。僕はそこの職員室に居るから」
 大きく手を振る担任に見送られて、二人は学校を出た。
 そしてどちらともなく、深く息を吐く。
「何か、学校って怖い所ね」
「どうだろう? あの担任だけがおかしい気もするけど」
 二人は少しの間唸っていたが、やがてメリーが気を取り直す様に、飛び跳ねた。
「とにかく私達の新生活が始まったわ!」
 そう言って、メリーが笑う。
 笑いながら飛び跳ね続ける。
「危ないよ、メリー」
 そう声を掛けた瞬間、メリーが足を滑らしたので、蓮子が慌ててそれを抱きとめる。
「ありがとう!」
 態勢を崩しながらも、まだ笑顔を浮かべるメリーに、蓮子もつられて笑ってしまった。
「楽しい新生活になると良いわね」
「そうだね」
 楽しく暮らせたら良い。
 新しい生活の中で、沢山の楽しみを見つけ、メリーに対するどす黒い感情が埋もれていってくれたら良い。
 そんな事を願って、蓮子は言った。
「これからよろしく、メリー」
「こちらこそ、蓮子」
 メリーが思いっきり抱きついてきた。

 何とかメリーを引き剥がし、息を整えていると、不意に寒風が吹いた。春先で暖かくなってきたと言ってもまだまだ寒い。夜の迫る夕暮れ時は尚更だ。
 沈もうとする夕日を見つめると、その視界の端に何かが映った。
「あれは」
 啜り泣きを上げる少女が居た。側溝に頭を突っ込んで何かを探しながら無い無いと泣いている。
 何か抗い難い力を感じて、引き寄せられる様に、少女へ近づいた。。
「何をしているの?」
 側溝に頭を突っ込んでいた少女が顔をあげる。
 堀の深い顔立ちが涙を流していた。泣き顔という本来ならば醜く歪む筈の顔が、この少女に限っては美しく見える。怪しげな艶やかさがあった。黄昏に照らされて赤みがかった透き通る様な金色の髪に、少しだけ泥のついた姿があどけない。そんなあどけなさの奥に言い知れない不気味な神秘さがある。それが目を惹きつける。見つめていると背中に冷たい汗が流れてくる様な、そんな不可思議な魅力があった。
 魅力と恐怖が交わりあった存在。
 妖艶という言葉がよく似合う。
「失くし物を探しているの」
 少女の沈んだ声音に見蕩れていた蓮子は正気を取り戻す。
「ここに何か落とした訳?」
 側溝には生乾きした泥がうっすらとこびりついているだけで、それ以外に何も無さそうだ。少女を見ると、少女は顔を俯けて首を横に振った。
「ここに落とした訳じゃないの?」
 どういう事だろうと思って辺りを見回すが、落とし物らしき物は何も無い。もしかして相当小さな物でも落としたのだろうかと、もう一度側溝を覗きこむが夕闇の薄暗さの中で小さい物を見つける事は出来そうに無い。
 面倒なのに話しかけちゃったかなと困っていると、突然すぐ傍から重たい衝撃音が響いた。驚いて振り返ると、少女の目の前の塀が無残に壊れていた。
 隕石でも落ちた様だ。
 もしも破片が飛んできていたら大怪我していた。
 幸い少女が怪我をした様子は無い。
「大丈夫だった?」
 蓮子がそう声を掛けると、少女は突然顔を輝かせた。
「仲間だね!」
「え?」
 唐突な言葉で意味が分からない。
 呆ける蓮子に向かって、少女は甲高い声で言った。
「あなた達も何か失くしたんでしょ? だから仲間!」
 蓮子はメリーと顔を見合わせ、お互いに首を横に振る。
「何で? 私達は何も」
「でもそこを覗いてたじゃん」
 そう言って、少女が側溝を指さした。
「何か探していたんでしょ?」
「それは、そっちが覗きこんでたから、気になって」
 少女が驚いた様な顔になる。
「もしかして一緒に探してくれるの?」
 どうしてそうなる。
 蓮子は単に少女の様子に気を引かれて側溝を覗きこんでみただけだし、一緒に探すなんて提案をした覚えも無い。
 話が噛み合わず、何だか図図しい子だとは思ったが、期待のこもったあどけない笑顔に向かって、無下に拒絶するのも気が引けた。
 蓮子が迷っている間に、メリーが少女へ微笑みかけた。
「少しなら手伝えるわ」
「ありがとう!」
 少女が満面の笑みで蓮子とメリーに抱きついた。あまりの力強さに足がもつれ、そのまま三人で地面に倒れ込む。痛みに顔を顰めながら、一緒に倒れても尚笑っている少女の顔を見て蓮子は溜息を吐いた。
 随分と直情的な性格をしている。見たところ蓮子より少し年下の様だから、人によってはこの直情を子供らしいと言って褒め称えるのかもしれないが、蓮子から見れば情緒不安定でしかない。
 あまり得意なタイプではない。
「嬉しいなぁ。一人で探してても全然見つからなかったからさぁ」
「とりあえずどいてくれない?」
「本当に昨日からずっと探しているのに全然見つからないんだよねぇ」
 こちらの話を聞いていない。何となくメリーに似ているなと思う。黄金色の髪をした異国の日本人離れした容姿もそうだし、何処と無く纏う雰囲気や人の話を聞かない所なんかも。
 幾ら言っても少女が一向にどいてくれないので、抱きつかれて倒れた態勢のまま、少女に事情を聞く事にした。
「一人でって、他に手伝ってくれる人居ないの?」
「居ないよ! うるさいなぁ! 馬鹿!」
 いきなり怒鳴られた。理由が分からない。間近で怒鳴られたから耳が痛い。
「別に一人でも寂しくないよ!」
 何も言っていないのにいきなりそんな風に激昂されても困る。
 耳を押さえながら、蓮子は話頭を変えた。
「で、何を失くしたの?」
「羽!」
「羽?」
 ほら無いでしょと言って、少女が背中を指さした。
「確かに何もついてないわね」
 メリーが見たままの事を言う。
 蓮子は少し考えて少女に尋ねた。
「何か、羽の飾りを失くしたって事?」
「飾りっていうか、羽」
 少女が背を指さして再び、ほら無いでしょと言った。それは分かった。
「どれ位の大きさ?」
「うーん、それぞれが私の身長よりちょっと小さい?」
「二つある訳?」
「うん、羽なんだから二つ無いと」
 だとしたら随分な大きさだ。
「そんなに大きいのなら、結構目立ちそうだけど」
 そもそも落とした時点で気が付きそうなものだ。
「まあ、虹色だしね。ちょっとは目立つかも」
「虹色?」
 それは目立つ。大変目立つ。ちょっとなんてもんじゃない。
「じゃあすぐに見つかるじゃん」
 側溝なんて覗きこんでいる場合じゃない。
 心当たりのある場所を探せばすぐに見つかるだろう。
「でも見つからないんだって」
 なら探している場所が悪いのだ。
「とりあえず家の中から、羽を失くした事に気がつくまでの道程を歩けば、見つかるでしょ。それで見つからないなら誰かが持っていったんだろうし、警察に届いているかも」
「心当たりのある場所は全部探したけど見つからないの。それに私の羽を誰かが持っていくとは思えない」
 何で?
「だってあの羽で飛べるのは私だけだから、他の人には必要無いもん」
 世の中必要の無い物でも持っていく人は居る。それに落とし物なら警察に届けられたっておかしくはない。
「もしも誰かが持ってっちゃったんだとしてもこの辺りにあるよ。気配がするもん」
「この辺りにあるって言ってもねぇ」
「それで昨日からずっと町中探し回っているのに全然見つからないの!」
 単に探している場所が悪い気がしてならない。
 呆れつつ少女を見つめていた蓮子はふと違和感を覚えた。違和感というより、何気無い直感か。蓮子はふと、目の前の少女が本当に言葉の通り昨日からずっと一人で、寝る事すら無く町中を歩き回って、失せ物を探しているだなんて常軌を逸した行動をしているんじゃないかと思った。寝る事すらなく夜を徘徊し、在りもしない幻影を追い続ける少女。そんな狂人染みた印象が目の前の美しい少女には酷く似合っている様に思えたのだ。
 何か嫌な予感がする。
 それは理由の無い直感だ。
 少女の傍に居れば、逃れられない奈落に引きずり込まれそうな、自分が今とてつもなく不吉な事象に巻き込まれている様な、予感。二度と引き返せない悪夢に引きずり込まれている気がしてならない。
 ここはさっさと退散した方が良いかもしれない。
 適当な理由をつけてその場を去ろうとした時、先にメリーが口を挟んできた。
「一日中探してたの?」
「そうだよ」
 少女があっさりと言った。
「折角日本に来て、新しい生活で、楽しくなれると思ったのに。一番最初からこんな」
 少女の残念そうに言うと、メリーが感極まった様子で、立ち上がり少女に手を差し伸べた。
「挫けちゃ駄目よ! 羽が見つかれば、すぐに楽しい新生活が待っているわ!」
 新生活という言葉に思うところがあったらしい。メリーは蓮子と少女を立ち上がらせて、力強く言った。
「私達も手伝うわ! だから何としても羽を見つけ出しましょう」
 おいおいと蓮子はメリーを止めようとしたが、その前に少女がメリーの手を掴んだ。
「本当? 良いの?」
「勿論よ! 新生活の為だもの!」
 殊更新生活を強調する。流石の少女も、メリーの新生活推しを訝った。
「新生活の為? なんでそんなに新生活を大事にしてるの? 関係無いのに」
「実はね、私達もこれからこの町で新生活へ踏み出すの。つまりあなたの仲間。新生活同士出会ったのはきっと何かの縁に違いないわ!」
 少女は茫洋と「そっかぁ」と呟き、それから笑顔になった。その笑顔は屈託が無く、その癖、人の理性を蕩かす様な笑みだった。
「私達、きっと」
 少女が突然言葉を切って俯いた。
「あの」
 指を絡め合わせて、何やら言いづらそうに言い淀んでいる。蓮子とメリーが辛抱強く少女の言葉を待つと、やがて少女は意を決した様子で顔を上げた。
「きっと友達になれるね」
 不安そうな少女の顔に曝されて、蓮子とメリーは見つめ合い、未だ嫌な予感を抱いている蓮子を余所に、メリーもまた笑顔で少女に応えた。
「もう友達よ!」
「本当?」
 少女が嬉しそうに顔を輝かせる。少女が蓮子に顔を向けてきた。正直な所、蓮子としてはまだ目の前の少女に気を許していない。不吉な予感がして仕方が無い。けれどメリーが友達だと言ってしまった以上、後に引く事が出来ない。立ち上がってフランに告げる。
「友達だよ」
 そう言葉にしてみると、本心から出た言葉だと気がついた。明らかに目の前の少女は怪しい。けれど蓮子は、その怪しい少女と友達になりたいと本気で思っていた。
 少女は一層顔を輝かせた。
「私、フランドール・スカーレット。フランて呼んで。これからよろしくね!」
 スカーレット?
 蓮子は、何か聞き覚えのある単語だと、思い出そうとしたが、メリーの自己紹介に邪魔されて思考が途絶えた。
「私はマエリベリー・ハーン。メリーって呼んで」
 メリーとフランが蓮子に目を向ける。
 蓮子は無為に髪を撫で付けてから手を差し出した。
「宇佐見蓮子。蓮子って呼んで。これからよろしく」
 握手をしながらフランが首をかしげた。
「ハーンと宇佐見? 苗字が違うけど、姉妹じゃないの?」
 違う。否定しようとした蓮子だが、自分とメリーの関係を何と表現すれば良いのか分からなかった。
 それに対して、メリーが力強く答えた。
「違うわ! 夫婦よ!」
 メリーのいつもの病気が発症した。
 蓮子はすかさずメリーの頭を叩いてから訂正する。
「私とメリーは友達、って言えば良いのかな? もう少し深い仲だけど」
「どっちが本当?」
 フランは蓮子とメリーを交互に見比べて首を傾げる。
「夫婦よ!」
「いや、違うから」
「夫婦茶碗も買ったし」
「確かにそうだけど」
 双方並行線で進むやり取りを、結局フランは理解出来無かった様で、悩んだ末に口を開いた。
「二人共仲が良いんだね」
 フランが羨ましそうな顔を、メリーに向けた。
 メリーは蓮子に抱きつきながら、フランに問いかける。
「羨ましい?」
「ううん、別に」
 あっさりと否定されて、メリーが気落ちする。好機とばかりに蓮子は落ち込むメリーを引き剥がそうとするが、力強く抱き締められていて、中中剥がせない。
 そんな二人を眺めてフランは悔し気に顔を歪めたが、すぐに頭を振った。
「私にはお姉様が居るもん!」
 揉み合う二人がフランを見る。フランは二人の視線を受けて、自信あり気な笑みを浮かべた。
「だから寂しくないんだ! 羨ましい?」
「お姉さん?」
「そう! 私にはお姉様が居るから羨ましくないもん!」
「自慢のお姉さんなんだ」
「そうだよ! お姉様はね、どっか抜けてるし、嘘吐きだし、意地悪するし、結構阿呆だし、いっつも着替えを手伝ってもらう怠け者だし、情けない所もある素敵なお姉様!」
 あんまりな言われ様だ。
「それは、本当に好きなの?」
「勿論! 好きだからこういう事が言えるの。前にお姉様はどっかの誰かに向かって、妹を悪く言っていいのは私だけだって怒ってくれた事があった。それはきっとお姉様が私の事を大切に思ってくれているって事だから。だから私もお姉様の悪口を言うの」
 他の人間に悪口を言わせない事と、自分だけが悪口を言う事は厳密には違うと蓮子は思う。思うが、フランの幸せそうな顔を見ると、口には出せなかった。
 変わった子だというのが蓮子の抱いた最終的なフランの印象だ。それは良い印象では無かったけれど、最初に抱いた不気味な印象は随分薄らいでいた。何となくだがメリーとも話があいそうだ。そんな事を思って隣のメリーを見ると、何やら難しい顔をしていた。
「どうしたの?」
 蓮子の問いに、メリーがはっとして顔を上げ、そして泣き出しそうな顔になった。
「どうしたの? 急に」
「ごめんなさい、蓮子」
「何が?」
「私、どうしても蓮子の悪口を言えないの」
「ああ、そう」
 またメリーの病気が顔を覗かせる。
 適当に流して、蓮子は本題に戻る事にした。
「さて、とにかく落とし物を見つけないと」
 まずは警察に遺失物として届けられていないか確認するべきだろう。
 蓮子がそう提案しようとした時、その前にメリーが手を挙げた、
「羽なんでしょ? なら飛んで逃げたって事は無いの?」
 そんな訳あるかと、蓮子がメリーを叩く前に、フランが答えた。
「逃げるとしたら足を生やすと思う」
 それを聞いて、メリーは真剣な顔で再度聞いた。
「どっちにしても何処か遠くに逃げたって事は?」
「近くに気配があるからそれはない」
「気配?」
「そう、何となく近くに居るって分かる。だって私の羽だから」
「そういう事ね」
 メリーがそう言って、蓮子に流し目をやった。
「分かったわ、蓮子」
「何が?」
 今の会話で何が分かったのか。
「この事件はすぐに解決するとても簡単な謎だって事が」
「何で?」
 何でそんな結論に至ったんだ。
「簡単な事よ。その前に、フラン、あなたもしかして最近羽と喧嘩しなかった?」
「え? 喧嘩? してないと思う。ただこの前ちょっと怒ったけど」
 フランが恥ずかしそうに項垂れた。
 メリーが勝ち誇った顔になる。
「やっぱりね。もう分かったでしょ、蓮子」
「全然」
 メリーは蓮子に得意気な顔を向けて、胸を張った。
「駄目ね、蓮子。そんなんじゃ探偵は務まらないわ」
「それで、昨日読んだ探偵小説に影響されたメリーさんはどういう結論に至った訳?」
「分かりきった事じゃない! 羽はフランと仲直りしたいのよ。けれど、素直になれなくて姿を隠している。この辺りに居るっていうのも、どうやってフランに謝ろうかって迷っているに違いない! きっと羽は凄く近くにいて、けれどフランと付かず離れずの距離を保っているのよ!」
 あまりの馬鹿馬鹿しさに呆気に取られている蓮子の隣で、フランが期待を込めた視線をメリーに送る。
「本当に?」
 メリーが自信満満に頷く。
「間違いない!」
 それを聞いたフランは嬉しそうな顔になった。
「そっか! じゃあ、どうすれば良いかな?」
「出てくるのを待つしか無いわね。きっと近付いても逃げちゃうから。こう、羽を探す振りをして、町中を歩いていれば、いずれ我慢出来なくてきっと謝りに来てくれる。私が羽の立場だったら絶対に寂しくなるもの!」
 じゃあ、そうしようとフランが言って、二人して手を振り上げた。ようやく混乱の解けた蓮子は、妄想を爆発させている二人を止める事は出来そうに無いと判断して溜息を吐き、辺りを見回した。フランは近くにあると言ったが、虹色の羽の姿なんて何処にも見えない。そんなものがあれば、すぐに気がつく筈だ。
「蓮子、早く!」
 前を向くと、二人はもう歩きだしていた。メリーに呼ばれた蓮子は慌てて後を追った。夕暮れの中、フランとメリーは素直になれない羽に文句を言いながら、捜索を続ける。黙って後をついていた蓮子だが、遂に我慢出来なくなって、フランに声を掛けた。
「フラン、一応確認しておきたいんだけど」
 楽しそうに歩いていたフランが振り返って満面の笑みを見せる。
「何?」
「さっきの話、何処まで本気?」
「何処までって?」
「流石に足が生えて逃げたっていうのは冗談だと思うけど、近くに気配がするとか、虹色の羽だとか、そういうのは何処まで本気の事なの?」
「何処までって全部本当だけど?」
「ああ、そう」
 話が噛み合わない。
 あまりにも夢見がちで現実を見ていない。
 呆れる蓮子を見て、フランが不満気に口を尖らせた。
「もしかして信じてない?」
「まるっきり信じてない」
 蓮子がはっきりと返す。
「もう! 何で何で!」
 駄駄をこねるフランを見ながら、蓮子は真剣にどうしてだろうと考えた。どうして虹色の羽に足が生えて逃げ、それが自分達の近くをうろついている事を信じないのだろう。
「だって普通」
 言いかけて、蓮子は口を噤む。
 普通? 普通って何だ?
 どうしてそこまで不思議を認めようとしないのか。
 どうしてこうまで異常を忌避しているのか。
 何か掴み所の無い感情が自分の中にある。捕まえられそうで掴む事の出来無いそれがもどかしい。
「蓮子、あんまり頭ごなしに否定しちゃ駄目よ。私達は秘封倶楽部なんだから」
 メリーにそう諭された。
 秘封倶楽部とは、禁止されている境界暴きを敢行し、謎と不思議を追い求める不良サークル。そこに常識や普通なんて観念は存在しない。誰もが認識せず信じようとしない何かを追い求める事こそが秘封倶楽部であり、そしてそこに在籍する蓮子もそうでなければならない。
 咎める様なメリーの顔を見て、蓮子の思考が恐怖で止まる。
 メリーの不思議好きは、秘封倶楽部という形で、蓮子にも求められている。
 ならば、普通なんて言葉で頭ごなしにフランの言葉を否定した自分は、メリーの望む親友像から外れてしまっているじゃないか。
 蓮子は全身に冷水を浴びせられた様な気がして、思わず謝罪の言葉が口をついた。
「ごめんなさい、メリー」
「え、別にそんな怒っている訳じゃないけど」
「私は別にフランの事を否定している訳じゃなくて」
 急いでフランの事を肯定しようと蓮子は顔を上げ、フランを見た瞬間、固まった。
「フラン? どうしたの?」
 フランが表情を無くした顔で何処かあらぬ方向を見つめていた。フランは蓮子の視線に気がつくと、笑みを浮かべて振り向いた。その夕闇に照らされた笑みは、今までもこれからも見る事の出来無い様な、妖艶さを湛えていた。
「美味しそうな匂いがする」
「え?」
 言われて、嗅いでみたが、そんな匂いはしない。
 むしろ鉄錆染みた臭気が何処からか漂ってくる。蓮子にとっては臭気だがフランにとってはそうではないらしく、熱に浮かされる様にして、鉄錆染みた臭いのする方向へ歩き出した。
「凄く美味しそう」
 フランが鼻を啜りながら、民家の間の路地裏へと入っていく。蓮子とフランはそれを追う。闇が濃くなり、薄暈けた道を歩む。どんどんと鉄錆の臭いが濃くなっていく。不気味な気配が蔓延している。酷い鉄錆の臭い。廃材置き場や工事現場でもあるんだろうかなんていう楽観的な事は考えられない。蓮子は自分の喉が乾いている事に気がついた。
 蓮子は殆ど具体的になった想像に吐き気をこらえつつ、胸の内から沸き上がる期待に急かされて、路地裏を抜けた。
 その先の光景を蓮子は殆ど正確に予測していたから、実際にそれを見ても蓮子は悲鳴を上げる事がなかったし、意識を喪失する事も無かった。ただ心が凍りついた。隣から聞こえるメリーのけたたましい悲鳴を聞きながら、蓮子は何処か客観的に目の前の真っ赤な光景を見つめていた。
 幾人もの人が倒れている様だった。
 様だった、というのは、顔の凹凸が潰れる程、全てが血で染まり上がっているからで、人の形をした沢山の粘土を投棄して上から大量の赤いペンキをまき散らした様な光景だった。少なくとも蓮子には、その倒れ伏しているものが、人なのか人形なのか判別出来なかった。
 蓮子の頭にある単語が浮かんだ。フランの自己紹介の時にひっかかった単語だ。
「スカーレット」
「え? 私?」
 フランが自分の事を指さしたので、蓮子は首を横に振った。
 蓮子の思い浮かべたスカーレットとは、フランの苗字ではなく、薬物の名前だ。
 何の異常も認められなかった人間がある日考えられない程の怪力を発揮して常軌を逸した行動をとり、人人を傷つけ、辺り一帯が血で染まり上がる。そんな事件が蓮子の住む都市の周辺で多発している。その、人間に常人離れした怪力を授けて錯乱させる薬物がスカーレットと呼ばれている。またその薬物が用いられた一連の無差別殺傷事件そのものを表す呼称でもある。
 蓮子はそれをニュースで知っていたから、一帯が血で染まる光景を見た瞬間、スカーレットという言葉が思い浮かんだ。
 蓮子がスカーレットについて説明すると、フランは得心がいった様子で頷いた。
「ああ、それならお姉様に聞いたよ。そっか。これが本物なんだ」
 フランは嘲る様な笑みを浮かべて、散らばった死体の下に歩み寄った。
「そっか。人間がやったんだ。道理で、柔らかい部分しか食べていないと思った」
 食べる?
 フランの言った悍ましい言葉が信じられなかった。
「それ、食べられてるの?」
 蓮子が血で染まった死体を指さすと、フランは頷いた。
「うん、齧られた後があるでしょ?」
 そう言われても、全てが血で染まって凹凸も見えないから、何処がどうなっているのか分からない。
「誰かがこの人達を食べたって事?」
「そう」
 人が人を食べるだなんて信じられなかった。蓮子の疑いが不信の目つきに現れて、それに気が付いたフランは怒った様に言った。
「本当だよ! 見てよここ! 齧られてるでしょ」
 そう言って死体を指をさす。だが血塗れで蓮子には分からない。あまり死体をまじまじ見ていて気持ちが悪くなって目を逸らす。
「でも人間を食べるなんて」
「別に変な事じゃないでしょ? 食べられるんだから」
「人間が人間を食べるなんておかしいよ」
「そうなの? 食べられるのに。ああ、でもそうだね。見てよ。脳とか内蔵とか皮膚とか柔らかいところを食べてるけど食べ残しているし、筋肉だって上手く噛み千切れなくて、何か刃物を使って切ってる。お腹を食べるのに、態態お腹を刃物で裂いて中だけ食べてる。多分味が気に入らなかったのかな、こっちの脳味噌を一齧りしただけで全然食べてない。こんなに乱暴に食べて、全然食べ慣れてないし、こんなに食べ残して、全然食べる事に感謝してない。何だか見てて悲しくなるなぁ。私達ならこんな風には絶対に食べないよ」
「どうしてそんな冷静に」
 待って。今、何て言った。
 まるで自分達が普段から人間を食べている様な。
「うん! 駄目だね。こんな食べ方しちゃ。お姉様にそう叱られた事があるもん。私、叱ってくるよ」
「待って!」
 蓮子が強く制止すると、走りだそうとしていたフランが不思議そうに振り返った。
「何?」
「何で、あなたは」
「何が?」
「まるで人間を食べた事があるみたいに。嘘でしょ」
 蓮子が震える声で問うと、フランは薄っすらと微笑みを浮かべた。
「嘘じゃないよ。人間が主食だからね」
 そう言って、口を開く。その赤赤しい口内が、まるで人の血で染まっている様に見えた。
 気が遠くなる。
 今まで感じていた違和感が一気に収束して一つの具体的な形になる。
 フランから感じた規格外の魅力。それは人を誘う為だ。
 フランを見て覚えた言い知れない恐怖。それは被食者が捕食者に感じる根源的な恐怖だ。
 今分かった。前の前に居る少女は、人類を捕食する天敵。
「私、吸血鬼だから」
 フランは歩み寄って、硬直した蓮子の頬に手を添えた。
「怖い?」
 フランが何も言えない蓮子の頬を撫でる。
「それともまだ信じられない? うん、仕方無いよ。皆最初は信じてくれなかったからね。証明してあげようか? どんなに信じない人でもすぐに信じてくれる良い方法がある」
 フランがそう言って蓮子に顔を寄せた。大きく口を開き首筋に顔を。
 その瞬間、凄まじい奇声が鳴り響き、鬼の様な形相をしたメリーがフランを突き飛ばした。
 フランはたたらを踏むと、くすくすとおかしそうに笑った。
「冗談だよ。友達にそんな事しないよ。だって友達なら信じてくれるでしょ? それに蓮子もメリーも細くて美味しくなさそうだし」
 メリーが蓮子を抱き締める。
 抱き締められた蓮子は、何かに気が付いた様子で胸に手を当てた。
 恐怖がある。
 でもそれ以外の感情が確かに湧いている。
 蓮子は笑みが零れた。
 零れた笑みは次第に笑い声へと変わり、それが少しずつ大きくなる。
 フランは、突然笑い始めた蓮子に困惑して眉を寄せた。
「どうしたの? 信じてくれないの?」
「ううん、信じるよ」
 蓮子が何処か諦念の混じった笑みで答えた。
 フランが嬉しそうに蓮子へ向かって一歩踏み出す。
「本当に信じてくれる? 怖くない?」
「怖いよ」
 蓮子の言葉に、フランの足が止まった。
 蓮子が首を横に振る。
「でもね、怖いのはあんたじゃない。私」
 フランは考えこむ様に顔をしかめたが、蓮子の言葉の意味が分からなかった様で、首を傾げた。
「どういう事?」
「ああ、ごめん。こっちの話だから。私は私が怖いって事」
 フランが不満そうに頭を振る。
「意味が分からないよ」
「最初っから分かってた。あんたが普通の人間じゃないって。そう気が付いた自分を認めなかっただけで。何か良く分からない危険な奴だって直感してた」
「危険て。私そんな」
「ううん、危険だよ。吸血鬼なんて」
 蓮子から容赦の無い言葉を浴びせられてフランは泣きそうな顔になる。
「私は危険じゃない」
「そして私はそんな危ない存在を怖がらなくちゃいけないはずだった」
 蓮子は辺りに散らばる血に塗れた人型を眺め回す。
「そしてこれも本当なら怖がらなくちゃいけない筈なのに」
 そしてメリーを見つめて自嘲した。
「そう思えない。多少は怖いけど、でもそれ以上に、むしろ楽しくて、わくわくしてくる。そういう存在にされたから」
 メリーは青ざめさせていた顔を一層青くして、蓮子から目を逸らす。
 フランがそっと蓮子に歩み寄った。
「何か良く分かんないけど、私は蓮子の事怖くないよ」
「ありがとう」
「だから私が吸血鬼だって」
「信じるよ。私はそういう風に出来ている。さっき信じられなかったのは、信じてしまう自分に抗おうとしただけなんだ」
「本当に? 本当の本当に? 他の人間はみんな信じてくれなかったのに。そんなのこの世界に居る訳無いって」
「私はこの世界の人間じゃない」
「え? 人間じゃないの?」
「厳密にはね。私達は平行世界、別の世界から来たの」
「別の世界?」
「そう、ここに似た、でも全く別の世界。ついこの間まで、私達はこの世界に居なかった。さっき市民権をもらってようやく学校に通う手続きをしたばっかり。言ったでしょ? ここで新生活を踏み出したんだって」
「平行世界?」
「そう。私はその平行世界で生み出された人造人間。この世界の人間じゃないし、本当の人間でもない。信じてくれる?」
 蓮子が悲しげな瞳でフランに流し目を送ると、フランは一瞬息を詰め、そして満面の笑顔になった。
「うっそだぁ」
 散散真剣な吐露をした後なのにあっさりと否定されて、蓮子は思わず態勢を崩した。
「えー、そこは信じてよ。そっちだってあれだけ信じて信じて言っておいて」
「だって平行世界の人間が居るなんて聞いた事無いし」
「ちょっとちょっと! さっき自分の言った事思い出して!」
 必死な蓮子を笑いながら、フランは諸手を挙げて、既に夜に変わった空を見上げて言った。
「楽しい!」
 突然の叫びに蓮子は面食らって退いた。
「どうしたの、突然」
「だって楽しくて」
「何が?」
「色んな事が起こって」
 フランが夜空を見上げながら蓮子から離れていく。
「ずっとずっと詰まらなかった。何にも起きなくて。ずっとずっと暇だった」
 赤く染まった死体を乗り越えて、フランは離れていく。
「でもね、お姉様から、この事件、スカーレットだっけ? とにかく大変な事件が起きているって聞いて、それが見たいから探してたら羽が無くなっちゃって、羽を探していたら友達が出来て。こんなに沢山色色あって、こんなに楽しいの生まれて初めて!」
「ちょっと! 何処に行くの?」
 蓮子は去っていくフランを追おうとしたが、死体を踏みそうになって留まった。
「色色あったから順番に片付けてくる。まずは犯人に食べ物を粗末にしちゃいけませんってお説教しないと!」
 振り返って手を振りながら、フランは走り去っていった。
「行っちゃった」
 蓮子はそう呟いて、足元を見た。血溜まりで靴が赤黒く滲み始めていた。気味悪く思って後ろにさがり、ふと何か変な音が聞こえて空を見上げた。電灯の辺りに虫が集っていた。死体に群がる蝿に見えて気味が悪い。
 気味が悪いのに、少し楽しくなった。
 辺りには食人鬼による惨殺死体。さっき出会ったのは吸血鬼。そして今居るここは別世界。そうした未知の驚きが、それがどれだけ自分の脅威になろうとも楽しく思えてくる。
 秘封倶楽部の一員だから。
 メリーがそう望むから。
 そういう存在に仕立てあげられたから。
「蓮子」
 名前を呼ばれて振り返ると、メリーが口元を押さえて顔を青ざめさせていた。人の死に慣れていないのだから仕方が無い。メリーの体は普通の人間よりも生死に対して拒絶反応を示す。元の世界では、それが酷くなり、境界を見る目が暴走して、大変な事になった。
 蓮子がメリーを心配して顔を覗き込むと、メリーは、ごめんちょっと吐いてくると言って、路地裏に消えた。しばらくして戻ってきたメリーの顔色は、当然だがまだまだ悪い。
「メリー、とにかくここから離れましょう」
「蓮子、私は蓮子と居られればそれで良い。それで幸せなの」
 突然何を言い出すのかと思いつつ、蓮子はメリーの手を引いて歩き出した。ちゆり先輩から貰った端末を操作して、警察に連絡する。警察に繋がるのを待っていると、再びメリーが言った。
「蓮子、私はあなたがどんなに苦しんでも、どんなに悲しんでも、どんなに怒っても良いの。あなたが私の傍に居てくれれば」
 振り返ると、メリーは顔を青ざめさせて苦しそうにしていた。
「だからね、蓮子、ごめんなさい」
 蓮子はメリーが何に対して謝っているのか分からない。
「全部。蓮子が苦しんでいる事、全部に対して。そしてきっと、私が謝ったって、あなたが怒るだけなのが分かっていて、それでも謝っている事についても」
「そう」
 蓮子はそれだけ言ってメリーから視線を離し、警察に連絡しながら、メリーを伴って路地を抜けた。警察に状況を告げつつ、蓮子は自分の中に湧き上がる殺意を見つめ、悔しさで涙が溢れそうになった。言葉が詰まる。電話の向こうの警察が訝しがる。それに何でも無いと答えて、殺人があった事を告げる。殺人現場について告げながら、蓮子は思う。自分勝手なメリーが憎い。勝手に生み出して、勝手にメリーを好きにさせて、それを恨む事もさせなくて、その癖、罪悪感が覚えている風を装って。そんなメリーが憎い。殺してしまいたいとすら思う。けれど、どれだけ恨んでも、メリーの所為でどれだけ苦しみ、怒り、悲しみ、憤っても、それが本物の殺意となってメリーを殺してしまう事だけは無いだろうと分かっている。メリーによって生み出された自分は、メリーを殺す様に出来てはいないから。それを証明する様に、蓮子の心の内には、メリーに対する怒りとは別に、メリーをこれ以上苦しめたくなくて許そうとする自分がいる。
 結局この殺意は偽物でしかないのだ。迫真の演技でメリーを恨みながら、決して一定以上を超えない様に出来ている。そんな紛い物の殺意を蓮子は見たくない。自分という存在がメリーの願望によって作られた傀儡であるという事実を突きつける何よりの証左だから。蓮子はメリーを恨みたくない。
「取り敢えず、近くにまだ犯人が居るかもしれないから、近くのレストランに保護してもらえってさ」
 警察との通信を終えた蓮子は、そう言って振り返った。
 まだ青白い顔をしているメリーに、複雑な苛立ちを覚えて口を開く。だがメリーの背後に見えた存在に驚いて、蓮子は声が出せなくなった。巨大な獣が見えた。犬をより鋭角な形に作り変えた様な、攻撃的な姿をした強大な獣が、メリーの背後にある民家の屋根の上からこちらを威嚇していた。蓮子は驚きに忘我しつつ、自然と歯を食い縛って、メリーを思いっきり横へ突き飛ばした。同時に自分も横へ跳ぼうとしたが、地面を蹴る前に、飛びかかってきた巨大な獣にぶつかって吹き飛ばされた。
 地面を転がった蓮子は痛みで呻きながら顔を上げると、道の向こうには高さだけで蓮子の五倍はありそうな巨大な狼が唸り声をあげている。開いた口からは舌がだらしなく垂れ、赤赤しい口内はまるで人の血で染まっている様だった。さっき見つけた血塗れの惨殺現場と重なって見えた。
 あいつが大勢を食い殺したのか。
 咄嗟に抱いた恐怖と、そして未知への期待に体を震わせた蓮子だが、狼のすぐ傍にメリーが倒れているのを見た瞬間、恐怖も期待も全てが消え去った。
 惨殺現場が思い浮かぶ。
 メリーが食われ、血に塗れ、道に転がされる未来が思い浮かぶ。
 体中に走る痛みが全て消えた。
 音が失せ、光が鎮まる中で、蓮子はぼやける視界に映る巨大な狼を睨みつけた。
 立ち上がり、前のめり、走りだす。
 狼の、巨大に開かれた口に向かって、思いっきり叫び声を上げ、地を蹴って跳び上がり、口内に生え出た牙を両足で蹴り飛ばした。蓮子の全身に衝撃が走り、痛みが戻って呻きが漏れる。
 小さな蓮子によって、狼の巨体が吹き飛ばされる。
 地面に激突した蓮子は、全身の痛みに悲鳴を上げた。それでも傍で倒れるメリーの手を取り、痛みを堪えて立ち上がり、涙を浮かべながらも笑みを見せる。
「大丈夫だった?」
「私は、大丈夫だけど、蓮子は」
「良かった」
 そう安堵の息を吐いたのも束の間で、凄まじい唸り声が辺りに満ちた。
 見ると狼が、全身を逸らして、空に向かって遠吠えていた。
 大気を鳴動させる巨大な吠え声に、蓮子は自分の体が震えるのを感じた。今度こそ、期待の一切無い純粋な恐怖だ。未知への期待なんて微塵も含まれていない人間としての恐怖が蓮子の中に満ちる。
 蓮子は喉の奥から漏れ出ようとする涙と悲鳴を押さえつけて、横で恐慌しているメリーの手を取り、狼に背を向けて駆け出した。
 だがちっぽけな人間と巨大な狼。逃げ切れる道理は無い。
 すぐ背後に狼が迫るのを感じた瞬間、蓮子は狼から守る様にメリーの体を抱き締める。
 そして衝撃が走った。

 何か温かいものを抱きしめている事に気が付いた。
 それがメリーだと気が付いた。
 自分の意識が消し飛んでいたのだと気が付いた。
 狼に突き飛ばされたのだと直感し、慌てて体を起こす。そして顔を上げた瞬間、目の前の光景に体が硬直し息を飲む。だらりと舌を垂れ下げた狼が、涎を垂らしつつ、目の前に顔を近付けてきていた。
 食われる。
 震えながらメリーを庇い、死を覚悟して、目を閉じる。
 闇の中で、狼の息遣いが少しずつ迫ってくる。
 その更に向こうから、フランの声が聞こえた。
「そんな所に居たんだ! やっと見つけた」
 驚いた蓮子が目を見開くと、狼の向こうに狼の向こうにフランの小さな姿が見えた。と思った瞬間、視界からフランが消える。
「やっぱり持つべきものは友達なんだね。ようやく分かったよ」
 空からフランの声が降ってきた。肉の挽き潰れる音がして、蓮子の顔に血飛沫と肉片が掛かる。
 蓮子は目の前の光景を信じられない。返り血で染まったフランが狼の頭を掌で押し潰していた。頭と言っても、殆どが飛び散って、最早頭だった物と形容した方が適切かもしれない。
「フラン?」
「本当にありがとう! 私の羽を見つけてくれて!」
「羽?」
 フランは頭を潰されて痙攣する狼に蹴りを入れる。
「もう、逃げちゃ駄目なんだからね。今回は許してあげるけど」
 フランは跳躍して狼の震える背に乗ると、右手を振りかぶり、思いっきり振り下ろした。狼の背が突き破られ、体の動きが止まる。かと思うと、狼の巨体が突然に消えて、跡には一対の虹色の翼が残された。フランはそれを自分の背に取り付けると、晴れやかな顔で笑った。
「いやあ、見つかって良かった良かった」
 フランが嬉しそうにくるりと回転すると、背には羽が取り付いて、フランの意思に呼応する様に弛めいている。
「これで、一つ片付いた。次はお仕置きだね」
 くるくると回っていたがフランが止まり、スカートの裾を掴んで丁寧にカーテシをした。
「ありがとう、蓮子とメリー。私の友達。また遊びましょう」
 そう言うなり、フランは駆け去って行った。
 蓮子はしばらく自失してフランの去って行った方角を見つめていたが、我に返ると抱きしめていたメリーから体を離した。
「メリー、大丈夫だった?」
「蓮子こそ。血が」
「返り血だから大丈夫。怪我はしてない。メリーは?」
「私も怪我は。でも怖かった」
「うん」
「何だったんだろう、今の」
 メリーはぼんやりと呟く。だが一瞬後には、まるで今までの恐怖なんて無かったみたいに満面の笑みを見せた。
「でも凄い! そう思わない、蓮子? あんな、羽が生えた吸血鬼だなんて! まるでお伽話の世界よ!」
 メリーは、さっきまで命の危機が迫っていたというのに、今はもう無邪気に興奮している。明らかに異常だ。蓮子は嫌悪感を覚える。ただしそれは、単にメリーが異常だからじゃない。蓮子も同じ様に死にかけたというのに、恐怖は薄れて、今は吸血鬼に興味と関心と興奮を覚えている。そして蓮子が嫌悪したのは、普通の人間なら怖がる所だというのに、メリーと同じ様に喜んでしまっている自分が居て、それがメリーに作られた所為だと分かるからだ。メリーも異常だし、自分もいかれている。当然だろう。異常者の思考を元に生み出された存在は、異常があるに決まっている。
 何処からかサイレンの音が聞こえてくる。
「メリー、警察が来たみたい」
 蓮子は心を落ち着けて、そっとメリーの手を掴んだ。メリーが手を握り返してくる。その温かさを感じながら、蓮子は空を見上げる。メリーも自分の手に温もりを感じているだろうか。作られた自分に体温はあるだろうか。あるだろうなと蓮子は思う。自分はメリーの操り人形だが、メリーにとって蓮子は温かみのある人間の親友だ。だから体温がある。そういう風に、蓮子はメリーに作られた。

 警察からの聴取を受けた後、家まで送られた。
 玄関を開けると、途端に奥から声が聞こえ、誰かが走ってきた。
「二人共、大丈夫だったか?」
 ちゆり先輩と返答する間も無く、思いっきり抱きつかれた。
「心配したんだぜ。大丈夫か? 怪我は無いか? 怖くなかったか?」
 二人して呻きながら大丈夫ですと答えると、解放してくれた。
「聞いたぜ。スカーレット事件に巻き込まれたんだって?」
「巻き込まれたというか、目撃してしまって」
 というか、スカーレット事件でもない。巨大な狼が食い殺したのであって、人間が暴走するスカーレット事件とは違う。警察に取り調べられた時にもそう伝えたが、警察の態度を見る限り、人の何倍もある巨大な狼が人間を食い殺したという話を、真剣に受け止めてもらえたとは思えない。蓮子自身も信じ難いのだから仕方が無いとは思いつつも、スカーレット事件という目に見える異常の所為で、他にも存在する異常が全て塗りつぶされているんじゃないかと、不気味な心地がした。
「とにかく無事で良かったぜ」
 ちゆりはもう一度二人を抱きしめる。
「ちゆり先輩、どうしてここに?」
 岡崎もちゆりも研究で忙しくて、市民登録や入学手続きにも来てくれなかったのに。
「二人の事が心配だったからに決まってるんだぜ。先輩はどうしても外せなかったけど、せめて私はね」
 よく見れば、ちゆりの顔色は悪い。明らかに寝不足の様子だ。そんな中、まだ出会って一週間も経っていない自分達の為に、家を訪れてくれた事がありがたかった。
「さて、話は夕飯を食べながらゆっくりと聞こう。今日の夕飯はシチューだぜ」
 ちゆりの笑みに誘われて、蓮子とメリーは食卓へ向かった。
 夕食の間、蓮子とメリーは今日の出来事を語った。ちゆりは難しい顔で聞いていたが、蓮子達が話し終えると笑顔を作って言った。
「つまり、友達が出来たって訳ね。良い事なんだぜ」
「いや、え? そういう事ですか?」
「違うか?」
「間違いではないですけど、そこにまとめます? もっとスカーレット事件の事だとか、吸血鬼っていう存在だとか」
「でも関係無い事だぜ。別にスカーレットとかいう事件を追いかける訳でも無いし、巻き込まれたとはいえ、狙われている訳でも無いだろう? 吸血鬼だって実在するなら面白いけど捕まえて調べようとしている訳じゃないんだし。今二人に関係があるのは、スカーレット事件がどうだとか、本当にその女の子が吸血鬼だったのかとかじゃなくて、新しい友達が出来たって事だぜ」
「まあ、そうですね」
「二人と同じ位の歳という事は小学生か? もしかしたら同じ学校かもしれないぜ」
「吸血鬼って、私達と同じ様に年を取るんですか?」
「さあ? 聞いてみたら?」
「はあ、今度会ったら聞いてみます」
「今聞けば良いだろ。私もちょっと気になるし」
「でも連絡先も知らないし」
「おいおい、折角こちらの世界で友達が出来たというのに連絡先も知らないのか?」
 そんな会話があって、ちゆりは博麗探偵局を教えてくれた。妖怪退治を兼業しているらしいから吸血鬼の場所だって知っているかもしれないとの事だ。
 態態探偵に頼む程、どうしても連絡先を交換したい訳ではない。何だか強引なちゆりの態度が、蓮子には理解出来なかった。
 あるいはこちらの世界では、少しでも相見えたら、今生の絆とする位に、人と人との繋がりを大切にしているのかもしれない。それは元の世界でも美徳と言える道徳だが、それを強要されるのは面倒だ。
「その筋じゃ有名だと聞くぜ。きっと友達を探してくれるさ」
 そもそも妖怪退治をしているのなら、吸血鬼の居場所を知れば退治してしまうんじゃないだろうか。
 そう思いつつも、蓮子が渡された地図を見ると何だか心地良い興奮を覚える。これは探偵に対する純粋な好奇心に依るものだ。特に昨日メリーと一緒に読んだ探偵小説を思い出すと、心が沸き立ってくる。
 蓮子は地図を眺めながら探偵の姿を想像する。パイプをくゆらせて椅子に深く腰掛ける初老の探偵が思い浮かんだ。メリーも地図を見ながら、楽しそうにしている。
「一体どんな人達かしら」
 ちゆりが口を挟む。
「私も会った事が無い。噂で聞いただけだから」
「妖怪を退治するって事は神職ですよね。きっとお坊さんとか、神父さんとかよ、蓮子」
 楽しそうに夢見るメリーに、蓮子は呆れた顔をする。
「だったら、お寺とか教会に居るでしょ。探偵なのよ探偵」
 そんな二人を見ながら、ちゆりはシチューの最後の一掬いを口に運んだ。
「事件に巻きこまれたから心配していたけど、元気になってくれた様で良かったぜ」
「まあ」
 実のところ、元の世界で巻き込まれた事件では、テロに巻き込まれた挙句、月にまで連れて行かれ、宇宙に射出されたりしていたので、それに比べれば何て事は無い。前の世界でもテロに巻き込まれ、今回もスカーレット事件とかいうテロに巻き込まれ、好い加減飽きが来る。
「こっちの世界にもテロがあるんですね」
 蓮子の呟きに、ちゆりは頷いた。
「そっちの世界にもあるんだね。こっちにもあるぜ。あるというか、現代はテロの時代と言われている。来たばかりの二人にこんな事を言うのは心苦しいけど」
「テロの時代?」
 元の世界でも、かつてテロが多発した時期があったと、歴史用語として聞いた事がある。並行世界だから当たり前なのかもしれないが。
「うん。昔飛行機が乗っ取られて大きなビルに激突させられた事件があってさ。その時、多くの人が気がついたんだ。テロが蔓延する時代が来るかもしれないって。来ないで欲しいって願ったけど、テロは止まらなかった。
 ある意味では皆が望んだ世界なんだぜ。戦争の無い世界の到来でもあるから。戦争って分かるかな? 国と国が戦うんだ。当然巨大な力の衝突になるから物凄い被害になる」
 蓮子が頷く。それもまた、元の世界では歴史として聞いた事がある。具体的にそれがどれだけ悲惨かは、学習用の情報でしか知らないけれど。
 元の世界の事を思い出しつつ蓮子はちゆりに視線を戻す。その瞬間、蓮子は思わず息を飲んだ。ちゆりの表情が、さっきまでの笑顔から一変して、まるで恐れる様な強張った表情に変わっていた。
「戦争なんて無くなれば良いって世界が願った。その甲斐あって、実際にこの百年間、国と国同士の武力衝突は起こっていない。つまり戦争という何よりも大きな絶対悪が確かに消えたんだ。でも、これはいつの世でもそうだけど、飛び抜けた強者が消えると、その強者に抑え付けられていた有象無象が這い出てきて、混乱がやってくるんだぜ。それがこのテロの時代。消えた強者というのが戦争で、代わりに現れたのが紛争や暴動、そしてテロだった。そして台頭したのがテロ。テロはお手軽だから。何でも良いから悲劇を与えた後に、世界へ向けて「自分がやった」って言えば良いだけ。場所も時間も問わない。朝でも昼でも夜でも、議事堂でも学校でも街頭でも良い。ちょっと花火を打ち上げて皆を振り向かせて自分がやったというだけで、お手軽簡単に悲劇を作り、そして自分という存在を知らしめられる。
 テロを起こす者達に定まった国境も土地も存在しない。礼儀も秩序も無い。ある日突然、横っ面を殴られ、殴り返そうとするともう何処にも居ない。例え殴り返せても、いつの間にか居なくなって、また次の日突然殴られる。
 それでも、さっき言ったビルに飛行機が激突した頃は、テロリストにも信念の欠片めいたものがあったらしいんだぜ。勿論悲劇には間違いないんだけど、そのテロリストの自称する信念を恨む対象にする事が出来た。世界がそれに向かって団結しようとする事が出来た。
 でも今はそれすら無いんだぜ。今はもう、テロリストに触発された、何の主義も主張も無いテロリストもどきが暴れている。だから正確には、テロっていうのは言葉を使うのは間違っているのかもしれない。けれどみんな何となくセンセーショナルな凶悪犯罪をテロって呼んでいる。何かしら明確な敵が欲しいから、凶悪犯罪の増加っていう抽象概念をテロという言葉に押し込めて敵にしたいんだ。
 もうこの時代に歯止めが効かないんじゃないかって諦めの声も出て来ている。今やテロと呼ばれる残虐な事件が世界に溢れかえり、テロによって孤児になった子供が年年増加している」
 怨嗟のこもった長長とした語りはまるで恨みをぶつける様で、もしかしたらちゆり自身もテロによる孤児なのかもしれないと蓮子は推測した。
 見ればちゆりの持つスプーンが震えている。その震えは段段と激しくなっている。
「テロは本当に突然で、いつ巻き込まれるか皆怯えながら暮らしている。センセーショナルに報道される位に大きなテロは年に数件だけど、それでも一度に沢山の人が死ぬんだ。多すぎる位だぜ。小さなのも合わせたら日本だけでも一年間に千人以上が死んで、何万人という人が被害を受けている。そして今、この都市ではその大大的に報道されるレベルのテロが起こっている。だから二人が事件に巻き込まれたって聞いて心配で」
 震えていたスプーンがちゆりの手からすっぽ抜けて床に落ちた。甲高い音が鳴って、部屋に満ちていた緊張感が霧散する。
「ああ、悪かったぜ。変な事喋っちゃって」
 ちゆりは床に落ちたスプーンを拾ってお皿に置くと、明るい笑顔を見せた。さっきまでの、強張った表情とあまりにも掛け離れている。とはいえ、笑顔ではあるものの、何か底知れない闇を抱えている様に見えた。
「怖がらせる様な事言っちゃってごめんな。気にするな、とは言わないけど、大丈夫だぜ。まあ、確かに色色起こっているし、この世界は安全だって胸張って言える訳じゃ無いけど、今回の事件はちゃんと警察が調査しているし、この近くで事件があったって事は警官が沢山来て、見守ってくれる筈だぜ。な?」
 全く安心の出来無い言葉だが、ちゆりに笑いかけられた蓮子は思わず頷いていた。今のちゆりの笑みには頷かざるを得ない迫力があった。
「安心して貰えて良かったぜ。こっちの世界があんまり悪いものだと思われちゃかなわないからな」
 そしてスプーンを置くと、口を拭いて微笑んだ。
「折角新しい世界に来たんだ。楽しんで欲しいんだぜ」
 ちゆりの言葉に、蓮子とメリーは頷いた。頷かざるを得なかった。新しい世界に抱いていた希望が萎むのを覚えた。今まで明るく照らされていた新世界が、何か暗く淀んでしまった様な気がした。
「蓮子、折角新しい世界に来たんだし、頑張って楽しみましょう」
 メリーがそう言って笑いかけてきた。その笑みはぎこちない。内心の恐怖が浮き出ている。蓮子もそれにぎこちなく頷き返した。
 頷いた後、メリーの言葉を反芻する。
 新しい世界に来たんだから。
 例えどんなに不安定な情勢であろうと、自分達がやって来て新しく住む事に決めた新世界である事に違いない。元の世界が駄目で逃げ、この世界も駄目で逃げていたら、いつまでも世界から逃げ続ける事になりそうな気がした。
 メリーの言葉は正しいと蓮子は思った。
 例え凶悪な事件が起こっている世界であっても、頑張って、この世界を楽しむべきだ。
 楽しむとはどういう事か。
 メリーと目を合う。
 他でも無い。
 楽しむという事は、メリーと仲良く暮らすという事だ。

 翌日早朝、蓮子は博霊探偵局へ出発する準備を粗方整えて、朝食を摂っていた。お碗は当然昨日買った夫婦茶碗だ。ご飯をよそった茶碗を片手に、蓮子はぼんやりとニュースを見ている。
 ニュースがスカーレット事件を報じている。昨日までの蓮子にとってスカーレット事件は対岸の火事でしかなかったが、昨晩惨殺事件に巻き込まれた今の蓮子にとっては自分の身に降りかかる災厄になっていた。蓮子の住む町の名前が出て、蓮子の発見した現場が映像に映る。近くの学生達を無残に殺し、その上食らった異常性を頻りに報道している。歯型から複数の人間が事件に関与しているらしい。食べたのは人間だったのかと蓮子は驚いた。あの巨大な狼が食べたのだろうと信じていた。
 それにしても昨日の事件をどう解釈すれば良いのだろう。路地に広がっていた惨劇。巨大な狼。吸血鬼を称する少女。元の世界では出会う事の無かった異常な事件だ。肌の粟立つ恐ろしさと共に、フランという存在への興味が湧いてくる。
 その興味を満たしに、今日は探偵を訪問する。探偵業と幽霊退治の両方を生業にしているなんて元の世界には居なかった。一体どんな人なのだろう。先日読んだ探偵小説のイメージと混ざり合って想像が膨れていく。
 次から次へと新しい事が舞い込んで、感情が忙しなく飛び回る。メリーへの悩みで占められていた心の中に、新しい生活の起こした新しい風が吹き込んでくる。その風は決して涼やかなだけのものではなかったが、いずれ自分の仲の鬱屈とした心が一掃されて、爽やかな心根になるんじゃないかという期待が湧いた。
 メリーに生み出されたという恨みの所為でわだかまっているけれど、これから始まる新生活で良い方向に進んでいけば良いな。そんな事を思いながらぼんやりしていると、突然居間の扉が開け放たれた。
「蓮子! 遅くなってごめんなさい!」
 ぼんやりしていた蓮子は完全に意識の不意を突かれて驚きに飛び上がり、手から茶碗が零れ落ちる。あっと声を上げた蓮子が慌ててそれを取ろうと伸ばした手が、逆に茶碗を跳ね飛ばしてしまい、勢いのついた茶碗は吹っ飛んで、硬い床に激突した。
 一瞬の沈黙の後に、蓮子とメリーは同時に大きな悲鳴を上げた。
 蓮子は慌てて立ち上がり茶碗の無事を確認しに行ったが、拾い上げた瞬間、息を呑む。茶碗の端が欠けてしまっていた。背後にメリーの気配を感じた蓮子は息を詰めたまま動けなくなった。
「メリー」
「嘘! 割れてる!」
 メリーの悲鳴じみた叫びを背後に聞きながら、蓮子は茶碗の欠片を拾い上げて、茶碗の欠けた面に合わせてみた。ご飯粒の粘着でくっつかないかと期待するが、当然直る訳が無い。
 やっちゃったなぁと諦める。きっとメリーは怒るだろう。夫婦茶碗を買う時、あんなに嬉しそうにしていたんだから。そうは言っても、昨日買ったばかりの愛着も何も無い茶碗。ちゃんと謝ってもう一回買い直しに行けば許してくれるだろう。
 そう思った。
 振り返って謝ろうとした蓮子はメリーの表情を見てぎょっとした。蓮子を見下ろすメリーが目から涙を零していた。思わぬ反応に慌てて、急いで頭を下げ「ごめん!」と叫ぶ。
 だがメリーは許しの言葉をくれなかった。
「何で壊したの?」
 何でと言われても、いきなり来たメリーに驚いたからと言えば火に油を注ぎそうだ。
「うっかりしてて」
「何で壊したの?」
 答えたというのに、メリーが再度聞いてきた。
「だから、ぼーっとしてて、うっかりして」
「愛が足らない!」
 怒鳴り声を浴びせられて、蓮子の耳の奥底にきんと甲高い痛みが残響した。
「ごめんね、メリー」
「買ったばっかりだよ? 昨日の今日だよ?」
「うん、ごめん。ごめんね」
 謝るがメリーは機嫌を直そうとしない。
「折角新しい生活の門出に買ったのに! 私達の新しい一歩だったのに!」
「ごめん。新しいの買いに行こう」
「そういう事じゃない! 新しいのを買ったって意味が無い! それを蓮子が壊した事が問題なの」
 じゃあどうすれば良いんだと反論したくなったが口を噤む。メリーは今怒っていて見境が無い。冷静さを失っている所に理屈をぶつけたってしょうがない。
 黙って俯いていると、メリーが更に罵詈を重ねてきた。
「最初からそうだったよね。茶碗買うの反対してたもんね。要らないと思ってわざと壊したんじゃないの? この茶碗は、新しい生活の象徴なんだよ? それを壊したんだよ? 分かってる?」
 何でこんなに言われるんだと、蓮子は悲しくなった。幾らなんでも、茶碗一つを割った位で言いすぎじゃないだろうか。まるで茶碗の方が大事の様な言い草に、蓮子は苛立ちを覚える。それでも我慢して聞いているのに、メリーの雑言は止まらなかった。
「分かってないよ、蓮子は! 新しい生活に踏み出すんだって分かってない! 蓮子、全然私との生活を真剣に考えてないでしょ! 私の事なんて嫌いなんでしょ? 私の事を愛していないんでしょ?」
「そんな事は」
「だったら何で茶碗を割っちゃったの? ちゃんと注意してれば割らなかったよね? 愛していてくれればきっと分からなかった!」
「そうだけど」
「やっぱりそうじゃない! 蓮子の愛、足りないよ!」
 メリーの罵声を我慢して受け入れようと堪えていた蓮子だが、繰り返し使われる「愛」という言葉に苛立ちが頂点に達して、切れた。
「じゃあ、そういう風に作れば良かっただろ! 私を!」
 言ってからまずいと思ったが言葉が止まらない。
 メリーに作られたという悩みが、苛立ちによって口からこぼれ出る。
「快く茶碗を買ってさ! 何があっても壊さない位に大事に使ってさ! メリーの事を無条件に何も考えずに愛してさ! そういう完全な人形を作れば良かったじゃん! そうすりゃ私だって悩まなかった! メリーが私の事を都合良く生んだから! メリーの所為で私は」
 そこで急に冷静になって蓮子の背に冷や汗が流れる。
 さっきまでとは打って変わって静かなメリーは、蓮子の前で穏やかな表情で立ち尽くしている。
「やっぱりそう思ってたんだね」
「メリー?」
「ごめん。分かってた事なのに。この前聞いたばっかりなのに。何だろう。浮かれてたのかな。何期待してたんだろうね。馬鹿みたい」
 メリーが何を言っているのか分からない。
 何と応えて良いのか分からずに黙っている蓮子の前で、メリーは涙を溢れさせて口元を押さえた。
「ごめんなさい」
 泣き声に似た呟きが聞こえたかと思うと、メリーが部屋から飛び出した。蓮子は動けずに居たが、混乱から回復すると、慌てて後を追った。だが部屋から出た時には既に玄関から駆け去っていく足音が聞こえ、外に飛び出して道を見渡した時には、もうメリーの姿は無く、遠くから駆ける足音だけが聞こえる。
「メリー!」
 足音を追って走る。
 急激な不安が頭を締め付けだした。
 今、メリーが自分からどんどんと離れていっている気がした。距離ではなく、もっと別の意味で。
 今ここで、メリーを見失うと、もう二度とメリーと会えない様な気がしてならなかった。
 だから必死で後を追う。
 少しずつ足音が近づいてくる。
 けれどメリーに離されている気がしてならない。
 このまま追いかけても捕まえられない予感がある。
 もしかしたら追いかけているのは、メリーとは別の者の足音かもしれないと思った。
 今自分は何者でもない影を追いかけているのかもしれない。
 だとしたらこのまま追いかけても。
 もうすぐそこに足音が迫っている。
 蓮子は胸の内の不安を振りきって、駆ける速度を上げて、道を曲がった。
「メリー!」
 そして曲がった先に、メリーの姿を認めて安堵する。
 メリーの金色の髪が走りながら揺れている。一瞬泣きそうな顔で振り返ったメリーはすぐにまた顔を逸らして速度を上げた。
「メリー!」
 メリーの名を呼んで、追いかけようと駈け出した時、蓮子は信じられない光景を見た。
 メリーの走っている横から急に、四輪車が飛び出してきた。メリーが驚いて立ち止まると、車も止まり、中から複数の人間が飛び出してきた。そしてあっさりとメリーの事を捕らえると、メリーの悲鳴を無理矢理抑えつけたまま車の中に引っ張り込み、そのまま扉が閉まって、走り去っていった。
 自分の見た光景が信じられず、メリーの攫われた場所まで走る。そして車の消えていった方角を見るがもう見えない。
 さっきまで追っていたメリーが消えた。
 その紛れも無い事実に、蓮子はしばらく思い当たらなかった。
 やがて混乱から回復して現実感が戻ってくると血の気が引いた。
「メリー」
 名前を呼んで追おうとするがもう車の姿は見えない。
「メリー!」
 それでも車の消えた方向へ走り出すが無駄な事は分かっている。
「メリー!」
 蓮子の絶叫が響き渡るが、メリーが攫われた事実は変わらない。



続き
~其は赤にして赤編 3(剣士1上)
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コメント



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10.100名前が無い程度の能力削除
相変わらずの独特の雰囲気というか世界観で良かったです
幻想少女も表の世界に溶け込んでいて良かったですね なんか世界観の独特さとキャラの独特さがマッチングしてると思います