一八五四年、浦賀に黒船が来航した年のことである。幻想郷に一体の人形が流れ着いた。
それはターバンを頭に巻いた異人の成人男性風だったが、上半身しかなかった。片手には煙管を持っていてこれは指と一体化していた。一方、もう片方の手は素手で指も多少動くようだった。
人間型の部位の他に市松模様の盤が置かれた巨大な箱もあった。これが下半身がない理由らしい。組み立てた完成形は異人が箱の後ろに立っているないしは座っているような見た目になるものと思われた(漂着時の損傷で人形はいくつかの部品に分かれていたが、中に埋め込まれた歯車機構などに共通点が見られることから組み合わせて一体の巨大人形になることは容易に予想された)。
発見者は里の好事家だった。無縁塚に漂着してくるマジックアイテムだったり珍品だったりを危険を冒してでも入手しようとする酔狂な人は昔からいたのである。特にこの時代は蘭学にかぶれて幻想郷にも近代の風を吹き込もうという勢力が生まれつつあった。
そういう人にこの舶来の人形が渡ったのはある種幸運なことではあったが、すぐにこの好事家ですら持て余すことになった。歯車やワイヤーを内蔵していることから何らかの機能を有するからくり人形ということまでは分かるが、その機能が何なのかどういう仕組みで動作するものなのかが皆目見当がつかないのである。
彼は里唯一のからくり技師にも人形を見せた。この技師は中々の腕前を持っていたが、その技師にも人形の謎は解けなかった。優れた日本語の読解力を持つ人だったとしても文章がスペイン語で記述されていたら読めるとは限らないようなものだ。歯車という物理機構は世界中で一様に進化すると思うかもしれないが、部品の大きさや配置の定石には存外地域性が出る。こうした「言語」の差異が技師をして「解読」を断念させたのである。
ただ、この技師は一つの道筋を示した。
「前にもお前みたいなのが人形を持ち込んできたことがあってね。そいつはこれよりよっぽど単純なものだったから俺にもどうにかなったが、基本は似通っていた。こいつは異国人形だね……」
好事家は「そんなことは見た目で分かる」と言いかけたが、技師の刺すような目線に言葉を飲み込み背筋を正した。
「魔界にな、人形遣いがいるという噂がある。南蛮か蘭人か……兎も角その辺の系譜の人形遣いらしい。もう一度言うが魔界だ。行ったっきりになることだって十分あり得る」
「『それでも、行くか?』とでも言うんだろ、親父さんよ。そりゃ行くさ。命を賭けてでも謎を解いてこその『進歩派』だろ?」
だろと言われても技師は進歩派なる勢力には属していない。技術者として異国の物にも興味はあるが政治思想としてどうこうというのとは自分の中では切り離している。
ただ、技術者故好事家が魔界に行こうとするのを止めることもしなかった。むしろそうなるだろうという予想の元聞いたのだし。
***
近代以前の幻想郷における暴力の扱いは同時代の日本の他の地域とも異なっていた。それは幻想郷が武士という権力化した暴力により統治される封建型社会とは独立した自治的な隠れ里だったからでもあり、彼の地における力関係の前提が「妖怪は人間を襲い人間は妖怪を退治する」だったからでもあり……。要は、一見普通の村人でも武装している率はそれなりに高かった。
かくして刀や火縄銃を持った村人が四人程、巨大人形を神輿のように担いで魔界に旅に出た。「蘭学被れ」を苦々しく見ていた保守派とか真面目に幻想郷内における人間の役回りを全うせんとする体制派とかは「阿呆共が妖怪の贄になりに行った」と囃し立てたが、奇跡的に彼らは目的地に到達したし、少し後の話になるがこれまた奇跡的に生きて帰ってきた。というのも妖怪の側にも一連の流れを面白いと見る阿呆がいて安全を陰ながら確保していたのである。
魔界の市街に着くとこれまた一行を好奇の目で見る魔界人が親切にも案内をしてくれて、"City Hall"という看板が架けられた、(幻想郷の里の人間から見れば)巨大な建物内の大部屋に入ることができた。
ただし、無事に目的地に辿り着いた好事家達の元に寄越されたのは幼女だった。
なるほど、彼女は金髪碧眼という典型的な「異人」で、異人の年齢というのは外見からは予想がつきにくいというのはある。だが、少なくとも身長は相当低い。一行の中には寺子屋に通っている子供がいながらこんなことをしている甲斐性がない者もいたが、その子よりも更に背丈がないように見えた。
「仕方のないこととはいえ、どうも我々は舐められているらしいな……。このような子供を寄越されるとは……」
「聞こえてるわよ」
幼女は顎を大きく上げて(なんせそうしないと目線が大人達と合わないのだ)、吠えるように言った。
「逆よ。『あんた達が』、『私のことを』、舐めてるのよ。聞いたわ。あんた達がわざわざ魔界まで来た理由。西洋の人形遣いに会いにでしょ?」
「ああ。『有栖
』というお方がいると聞いたのだが……」
「私がそうよ。人形遣いの死の少女、アリス。見て分からないの?」
言われてみれば西洋ではある。が、人形遣いその人にはやはり到底見えない。仮にそうだとしても大方見習いだろう。それも技術を教えられてるというよりはせいぜい丁稚奉公くらいの。
そう一行は思っていたが、アリスは予想外に慣れた手つきで人形を精査し、腕などを動かしてみせた。
「完成させるには部品が足りないわね……。少し待ってもらえる?」
そう言って一旦アリスは部屋から出ていった。最初にこれをやられていたら逃げたかと思ったかもしれないが、既に技術力を見せつけられているので一行は待った。果たしてちゃんとアリスは自分の上半身程の高さのある箱を抱えて戻ってきて、箱の中の部品を既に見えている完成形に嵌めていくかのように迷いなく人形に組み込んでいった。
「うーん」
ところが、アリスは突然手を止めて悩み始めた。何か間違えたとか分からなくなったとかそういう素振りは見せず作業していたのだが。
「どうしました? やはり手に負えない……」
「何言ってんの。この程度はどうということもないし、事実復元はできたと思うわ。でもねえ……」
上手くいったにしては、どうにも歯切れが悪い。
「でも?」
「これはチェスを指す人形なのだけれど、チェスって知ってる? 西洋将棋」
「自慢じゃねえが将棋は村では十番目くらいの実力よ。しかし西洋将棋っていうとあれか、南蛮にも将棋があるのか」
「知らないのね」とアリスはため息をついた。
「まあなので今のところ貴方達には割と無用の長物。チェスが流行れば別だけれどね。というのが問題その一。問題その二として、動かしてみるけど」
そう言うとアリスは人形の巨大な箱型の台についた観音開きの扉を開けて中に入った。少し時間を置いて人形の腕が動き、市松模様の盤の上で何かをつまむような動きをした。将棋を指すものと聞いていた村人達には少し変な動きだったが、西洋ともなると将棋駒の形が違うのだろう。
「特に何か問題があるようには見えませんでしたが……?」
箱から出てきたアリスに一人がそう聞いた。
「私が入ってから動いたでしょ? 自動からくり人形に見せかけて手動なのよこれ。貴方達の体格でも入ろうと思えば多分入れるわ」
そう言うので一行のうち一番小柄な村人が箱に入ってみた。小柄とはいっても成人男性の中の小柄でありだいぶ窮屈になった――当然常に座りっぱなし、それも椅子はなくて硬い床と装置の隙間の空間に足を伸ばして入れるかダンゴムシのように丸まって収まるかの二択である――が、確かに入れないわけではない。そして箱の中にも市松模様の盤が置かれていて、盤の上には、現代風の言い方をすればロボットアーム、当時の語彙で例えるなば骸骨の片腕のようなからくりが宙づりになっていた。
「目の前の盤の上でポインター、あー、浮いてる腕みたいなやつを動かすと、その通りに人形の腕も動くわ」
アリスの指示通りに、とはいってもチェスの駒の動きなど知らないのでとりあえずは将棋の歩の動きをさせ、動かした後にもう少し大きい動きの方が分かりやすいかと更に四マス程進めた。外から「おー」という声が聞こえたので上手く動いたのだろう。
「そんなに凄いかしら? この程度は貴方達にでもできるでしょ? そして、チェスを指すという人形に与えられた目的はこれだけで果たされてしまっている。自動で指してくれるなら凄かったんだけれどね。やってることは只のマジックハンドよ?」
「そうでしょうか? 私にはもっと秘密が隠されてるように思えますね」
アリスの失望に、箱に入った村人が反駁した。
「随分とこの人形の製作者を持ち上げるのね。そんなに大層な人だったらもっとまともな原理で指させるわよ」
「私はからくり作りは知りませんが、単に骸骨の腕を手で動かして駒を動かすだけにしては凝った作りですし部品が多いように見えます。それに、ちぇすとは将棋の一種なのですよね? であれば相手の手を中から見る手段が必要なはずです」
「あー、それは……。天井に穴でも空いてるんじゃないの?」
「空いてないですね。代わりに……これはなんだろ……重り? みたいなのが沢山ぶら下がっています」
「ふーむ……」
アリスは腕を組んだ。言われてみればその通りだし、その通りということはこの人形にはまだからくりが仕込まれているということでもある。それらも自分の技術からすれば取るに足らないものだろうが、だからこそ解明しきらないまま終わるというのは屈辱的である。屈辱的でいうならばこの人間の「チェスを指す人形ならば盤面を見る手段があるべき」という発想に気が付かなかったあるいはその原理の確認を怠っていたことも悔しい。
「気が変わったわ。申し訳ないのだけれど、少しの間この人形を預からせて貰えないかしら?」
「素直にはいとは言い難いですなあ。こちらも危険を冒して来ねばならぬ身故」
「ここは魔都よ? 人形をそっちに転送するなり貴方達を召喚するなりやりようはいくらでもあるわ。それに、貴方達にとっても悪い話ではないわ。返すときは説明書付きにしてあげる」
「少し話し合ってもよいですか?」
「もちろん」
元々進歩派というのは新しい物に飛びつくというだけでなく思想として過程を楽しむという傾向にある。だから今回の件も、答えを全部用意されるというのは実のところ手放しで好ましい条件というわけではない。
ただ一方で、それが西洋将棋を指すものという指針が示されてなお自分達の力のみでこの人形の謎を研究しきれるかというのも怪しいところで(そもそも手に負えないから危険を冒してまで魔界に来たのだから)、結局はそれが話し合いの結論ともなった。アリスに一旦操作説明を作ってもらう。向こうも天才的とはいえ一人の人形遣いに過ぎないのだから、あるいは彼女をもってしても解けない謎があってそれを集合知で解明していく過程が生まれるかもしれない。
「完了したらこちらに送って頂きたいのですが、日付と場所の指定が必要ですな。さもないとある日突然我々の頭上に人形が出現しかねない」
「一番問題になるのは何の関係もない人が転送時の事故で死ぬことじゃないかしら? どちらにせよその二つについては決めておかないといけない、というのには同意するわ。私は余裕をもって半年は見てもらいたいのだけれど。それより後の時間と、後は場所ね。誤差があるから半径十メートル、あー、貴方達はメートル法を使ってないか、六間以上の広さの空き地を用意してもらいたいわ」
「その広さってなると、神社か? どうせ誰もいない」
「おいおい巫女様か宮出口の人にでも見つかったら面倒だぜ。畑だろうよ。仁さん芋畑持ってただろ?」
「持ってるけど半年後じゃ植わってるぜ」
「じゃあ収穫して空き地になるまで待つ他ねえや。霜月の頭頃か?」
「そんぐらいだな」
「霜月の頭か。雪が降ってるかもしらん」
村人の一人は頭を片手で抱えた。
「仕方ねえ。嬢ちゃん送るときは包んでくれや」
「はいはい。じゃあ……そっちはグレゴリウス暦じゃないわよね。太陰暦だと、霜月の三日、午の刻、これで合ってるかしら」
「合ってるって、いつ送るつもりだい」
「霜月の最初の方の昼間」
「じゃあ合ってるな。午が昼間だから『午前』『午後』って言うんだ」
「はいはい勉強になったわ。お礼にもう一度忠告するけど、最善を尽くすとはいえ転送にはどうしても誤差があるからね。いくら気がはやってても畑の中で人形を待つことはしないように」
「それは大丈夫だ。俺等は大人なんだよ」
「心は童ですけどね」
啖呵を切る村人に、同行人の一人は苦笑した。
***
翌年の晩秋に約束通り人形は転送された。
アリスによる説明書も付属されていたが、どうにも書き方に歯切れが悪いところがあった。それは、機構の目的が理解できなかったというよりは、特に何の役にも立っていないように見えるからくりが散見され意図を把握しかねている、という風だった。
一方でアリスの調査により新たに判明したものもある。箱の内部から盤面を把握する方法もその一つだ。前に、箱に入った村人が大量の重りが天井にぶら下がっているのを発見していたが、まさにこれこそが把握手段だったのだ。
「確認してもらいたいのだけれど、天井の重りは一辺あたり八個の正方形の配置になってるでしょ? チェスの六十四個のマス一つにつき一個の重りが盤の下にぶら下がってるの」
返還された人形には追加の「部品」としてチェスの駒が付属されていたが、駒の底面には磁石がついていた。盤上で人形が駒をつまんで動かすとき、それに連動して対応したマスの鉄製の重りが下がる(駒がつまみ上げられたことで磁力が弱まった)か上がる(駒が新たに置かれたことでそのマスに磁力が発生した)かする。
「確かに盤上での動きはこれで分かるな。しかし持ち駒を打つときはどうすんだ?」
それに対する答えは人形ではなくチェスのマニュアルにあった。チェスには持ち駒の概念がないから盤外から駒が登場する動きは存在しないのである。将棋指し人形にこの仕組みを応用するのが難しそうというのは残念だったが、チェスという枠組みの中では中々上手い仕組みと言えた。
とりあえず現物と操作説明があるのだから人形と一局戦ってみたいというのが人情で、進歩派の一団は人形操作班とチェス班の二組に分かれて冬の間練習に没頭した(ただ人形操作のうち箱に入る人員は結局チェスを知ってなければならないから途中で人員を交換して、最終的には全員が人形の操作とチェスの指し方を両方把握している状態を目指した)。
人形を実際に操作していくと、アリスが歯切れ悪くしていた機能の謎について、その見立ては半分正しく半分間違っているようだった。
間違っていた、つまりアリスが見落としていた機能の例としては音が鳴る機能がある。
といっても指で机を鳴らすとか、意味不明な外国語を発するとか、「凝った」機能はアリスに発見されていた。彼女が見落としていたのは、逆に一番単純な、単に雑音が鳴るだけ、という機能である。彼女はそれを無意味と断定したが、操作するとこの機能にも使い所があることが分かった。例えば箱の中で突然くしゃみがしたくなったとき、雑音を鳴らしておくことでくしゃみの音を誤魔化すことができる。中に人がいるのを覚られないようにするために有用だったのだ。
一方でただ歯車が回るだけというからくりがあり、こちらは説明書通りの無意味さぶりだった。そのくせ、このからくりは箱の体積のうち結構な割合を占有していた。アリス曰く「こんなののせいで箱の中が狭くなっているのは本当に意味が分からない」。箱に入った者の十割が同じ感想を抱いた。
ただ、箱に入るオペレーターの観点からは恨みしかない、何の役にも立たないからくりであっても、製作者にはわざわざ組み込んだ意図がある。一団はそうも感じていた。そう感じるだけの信用のできさが人形の作者にはあった。
つまりは、興行用として非常によくできているのである。見た目も精巧だし、細かい機能も行き届いている。雑音を鳴らすからくりもその一例だ。適切に機能を使って操作すると、あたかも知能を持った機械人形がチェスを指しているかのように見える。
その視点に立つことで、特に何も機能のないからくり達にも「何かしらの機能があるように見せることができる」、という使い道があるのではないかという推論をすることができた。この推論は、機構が箱の体積を無意味に占有していることにも説明を与えることができる。箱の中にからくりがあるように見せかけるには箱の中にからくりらしきものがなければならないし、それを見せびらかす際、邪魔さは同時に「中の人」が身を隠す遮蔽としても機能する。
彼らは人形の操作を演劇のように練習し始めた。仲間内で使うだけでなく、里の、自分達の活動にそこまで興味のない人達に向けても公開したくなったのである。
どの時代においてもそうだが、世間の人達の好事家を見る目というのは大抵冷ややかなものである。彼らもそういう世間の目に絶望し、仙人の如く社会から隔絶したかのように振る舞うのが常だが、一方で隙あらば社会に認められるという反撃を加えたいと虎視眈々と機を狙うという、表向きの振る舞いとは矛盾した願望を抱いているのもまた好事家という人種なのである。
今、機会及び手段が手元に入った。このチェス指し人形は間違いなく公演の目玉となる。あとは、その見せ方の問題だ。
好事家達は年単位の計画に入った。
***
好事家達の行動を面白がっていた阿呆の妖怪の一人、射命丸文は変装して里に潜入していた。
彼女の出歯亀は好事家達に少し先んじて無縁塚に漂着した人形を発見したところから始まった。文はからくり人形自体にはさして興味がなかった。それは人形を拾うことなく立ち去ったことからも分かる。
しかし、人形が引き起こすだろう状況には興味があった。この人形が河童に拾われるか魔法使いに拾われるか、はたまた人間に拾われるかは分からなかったが、誰に拾われるにしてもそれなりに面白いことにはなるだろう。
そして人形は人間に拾われ、予想外なくらい面白いことになりそうだった。情報筋によると、彼らは人形を用いた公演の可能性を模索しているらしい。
この流れと関係があるのかどうかは分からないがおそらく関係あることとして、最近里では西洋将棋なる遊戯が流行りつつあるらしい。文はどちらかというと人形よりはこちらの情報を確認するために里に潜入した。
西洋将棋が流行っているらしいというのは、人形を巡る諸々の「らしい」よりは確度の高い情報だった。なんせ瓦版にも記事が載っている。
二十八文を出して瓦版を一枚買った。瓦版は風評をばら撒く手段として極めて優秀であり、文もどうにか参入できぬものかと常々考えているが、唯一この価格だけは閉口せざるを得ない。蕎麦屋で一食食べるのと同じ値段だ。物価が高騰しているというのもあるのだろうが、もっと安く作る方法はないのだろうか? 文は手帖に(これももっと安くなるべき物品だ)に「河童に要相談」と記した。
それはそれとして内容はおそらく詰将棋に相当するものだった。つまりルールを知らない人が買ってもしょうがないものである。ルールを知りたくば別の号も買えとのこと。文は内心で悪態をつきつつもう一度二十八文を払った。買った後になって床屋のような盤が置いているだろう店に行ったらただで教えてもらえるのでは、と気がついて若干絶望したがもう遅い。人から教わったら余計にかかる時間を金で買ったと思うしかない。
気を取り直して文は瓦版を読んだ。
「椛あたりが好きそうですね」
なんなら彼女の方が先に情報を入れていて、「我々の将棋にも導入したいのですが駒が立体なんですよねえ」と文句を言っていた気すらしてくる。普通の将棋に比べると駒の動きが強い。ゲーム性としては駒の個数を大幅に減じた天狗大将棋といったところだろう。普通の将棋にはなく天狗大将棋にはある奔王に相当する駒(※クイーン)もあるし。
瓦版売りの持っていた束の厚みを観察するに、西洋将棋について取り扱った号はそれなりに売れてるようだった。大きな異変が起きたときのような「飛ぶような」程では流石にないにせよ静かな流行とは言ってよかろう。
文は一つ閃いたことがあり神社に飛んだ。
この時代、人々は信心深かったし博麗の巫女もどこかの時代と比較すれば真面目に仕事をしてたから神社には結構人が来ていた。そして、神社に来た人は時折あるものを奉納する。絵馬である。
絵馬の一例として、詰将棋の図面を描いたものがある。将棋好きが長手数の詰将棋を作成したあるいは解いたときに抽象的神に感謝するために神社に納める、そういう文化があるらしいのだ。
文は奉納されている絵馬を捲っていった。予想が正しければ絵馬の集合の表面近くにそれはあるはずだ。
「やはり」
案の定、概ねは将棋絵馬だが盤が独特の市松模様なものが奉納されていた。もし西洋将棋が流行っていて、かつ熱狂的にのめり込んでいる人がいたらあるべきもの、それが実際にあったのだ。
文は西洋将棋自体にはさほど興味がない。なのでこの奉納された「詰西洋将棋」を解く気はさらさらない(強いて言えば椛への土産話にはなるかもしれない)が、絵馬が奉納されているという事実の確認だけで十分だった。
「西洋将棋絵馬は現時点で二枚奉納されている」
そう手帖に記し、文は飛んだ。人間社会は中々結構なことになっているらしい。
***
「お嬢様ってチェスは指されます?」
英国のとある田舎街にある洋館。そこで働いている大清帝国出身の侍女、紅美鈴は主レミリア・スカーレットに尋ねた。
「あら、ついに指す気になったかしら」
「いえ、象棋なら嗜むのですが……」
「あれは駄目よ。河があるじゃない(※象棋の盤の中段には河と呼ばれる区画があり、一部の駒の移動範囲制限や成りに影響を及ぼしている)」
「河があるからっていう理由で麻雀も拒否しておられましたからね……」
「そう、だから貴方の方がチェスを指すならば付き合えるのだけど、指さないのね……」
主がしょんぼりするのがいたたまれなくなり、美鈴は指すことにした。元々その気分ではなかったというだけでチェスも全く指せないわけではないのだ。
「ところでさっきの質問は愚問よ。私は吸血鬼であると同時に貴族でもあるのだから、社交に必要なものは一通り習得してるわ」
と、言ってはいるがレミリアは乗馬や銃を用いた狩猟などはできない。貴族がそうした活動をするのは昼間らしいのだ(らしい、というのは吸血鬼たるレミリアは様々理由をつけて人間共のそういう誘いを断っているためである)。
ついでに言えばチェスの棋力も大して高いわけではない。初心者の美鈴といい勝負。
「私と指すことには乗り気ではなかったということは、質問の意図は別にあるのよね?」
数十分も経つと、二人はすっかり兵卒がいなくなった六十四マスの戦場の範囲内で生き残りの僅かな駒を半ば反射的に動かしていた。初心者より少し強い程度の棋力同士で戦うとかなりの早指しになる遊びである。そのくらいの強さではどうせ考えたところで妙手が思いつくわけでもない。
「ああそうでした」
美鈴はレミリアから質問されたことにより、このただ駒を動かすという惰性から先に解放された。彼女は一枚のポスターを出して盤の横に置いた。
「ジェンソキョー
博覧会?」
***
「射命丸、最近裏で動き回っている件だが」
大天狗、飯綱丸龍に問いただされて文は緊張した。
「別に問題になるようなことはしていないと思いますが……」
これは本心。ただし、いくら後ろめたいことがないからといって動揺しないわけではないのだ。
「河童と組んで新しい機械を作ってるらしいな?」
「自腹ですよ。お気遣いなく」
「金は気にしてない。お前にそんな金があったのかというのは少々意外だったが……。私が聞きたいのは『どんな機械を』『何のために』作ってるのかということだ。回答によってはお前一人の問題というわけにはいかなくなる。天狗社会全体を変えかねないからな」
龍は数歩文に近づき、その分文は少し仰け反った。
「あれは大量に印刷をするための機械です。『転輪機』と言うらしいのですがそれ以上詳しいことは河童に聞いてください。私は機械工じゃないので」
「紙を刷るのか。まさか突然長編小説を書きたくなったわけでもあるまい」
「社会を変えたいから作ったのです。よかったですね、大事らしいですよ。私はまさかこの時点で貴方に介入されるなんて思ってませんでしたが」
文はため息をついた。
「紙で社会を変えるとなると、やろうとしてることとして考えられるのは二つだな?」
「無論、偽札作りじゃない方です」
「……瓦版は間に合っていると思うが」
龍は腑に落ちなかった。天狗社会には紙の情報媒体は元々存在している。文という言ってしまえば一介の鴉天狗に過ぎない存在が、大規模に機械を作ってまで参入しようとするのは意味が分からない。
「里に流通させようとするならこのくらい必要なんです」
「そうか、里に……里に!?」
当然、人里の瓦版を発行しているのは人間だ。
「むしろなんで今までやってなかったのかと私は言いたいですけどね。人間に風評をばら撒いてこその天狗でしょう?」
「それはそうかもしれないが……。どうにかなるのか?」
「技術的にはだから機械が必要なのです。最初は知名度で絶対勝てない以上、大量生産によって価格を下げること以外で太刀打ちのしようがないですからね」
質で勝負するなどという綺麗事を言わないのは流石である。もっとも真理ではあるが。書き物の質が評価されるのは読まれた後の話なのである。
「技術的には、か。じゃあお前が阿呆かどうかの確認もしよう。お前は小賢しいから分かっているとは思うが、仮にお前が里の瓦版屋を倒してそれではい終わり、にはどう考えてもならんだろう?」
「小賢しいだけ余計です。まあ手は考えてますよ。つまりはですね、これは人間社会にも資する活動なのです」
「そうか。まあ分かった」
「お前は割と自分の正義に狂信的なところがあるよな」というのが龍には分かった。
「それで、話題が変わるようであまり変わらないことだが、お前が追ってる里の流行の件、現状はどうなってる?」
「博覧会を計画しているようです。目玉は西洋将棋を指す人形で、他にも舶来の機械とかマジックアイテムとかがちらほら。その紹介を瓦版、いや新聞と言うべきですね、でしたいのです。話題が戻りましたね」
「博覧会か……。なあ、大天狗様にバレたついでだ。転輪機を私にも使わせてはくれないか? 悪いようにはしないさ。お前にとっても」
「仕方ないですねえ」
文は口を真一文字にして頷いた。
***
「ジェンソキョー博覧会?」
「幻想郷
ですかね」
「どっちにしろ漢字が使われてるなら東洋よね。それとチェスに何の関係が?」
「なんでもチェスを指す人形が出てくるらしいですよ」
ポスターには写真があった。東洋に写真の技術があるとは驚きだあねという当時の西洋人特有の差別的価値観もレミリアは抱きつつ、その写真の被写体の方により驚いた。
「『トルコ人
』じゃない」
「あー、七面鳥
? じゃなくてその元の国の……。確かにターバンを巻いてますね」
「いや、違う……。違くはないけどそういう名前の人形が昔あったのよ。チェスを指す人形」
「じゃあそれなんですかね? 知ってるということは、お嬢様も対戦したことがおありで?」
「何十年か前にロンドンで公演があったときにね。でもおかしいわ。確か数年前に火事に遭って燃えたはずなのだけれど」
「じゃあよく似た別の人形なんでしょうか?」
「二体あるとは考えにくい、そういう人形よ、あれは」
「それは……作るのに金がかかりすぎる?」
「金はかかるでしょうね。ただ本質としては、そのくらい精巧ということ。対戦したときに向かい合ったけれど、まるで生きて思考しているかのようだったわ」
生きている人形、というのは美鈴も伝奇伝承で聞き覚えがある。逆に彼女の中ではそういうのは物語上の存在、ということでもある。美鈴は写真のトルコ人に生命の気があるかどうか見極めようとしたが、この時代の写真の画質ではよく分からない。
「どうやって動いていたのかは諸説あるわよ。一番多いのは中に人が入っていたというものだけど、それもどうやって動かしていたのか色々な人が色々なことを言ってたらしいわ」
「お嬢様の目から見てどれが一番あり得ると思いますか?」
「さあ? まあ、魔法で動いているんじゃないかしら。それが一番面白いから……」
レミリアは盤を指で叩いた。
「これ、勝負つかなくない?」
駒の数でいうとキング以外全滅してる美鈴に対してビショップが残っているレミリアの方が有利だが、どうも詰ませるには足りないらしい。
「終わりにしましょうか」
「次の対戦はタークとにしましょうか」
レミリアの発言を聞いた美鈴の顔が強張った。
「あら、東に行かなくてはいけないにしても、中国人
の貴方がいるのだからどうにでもなるでしょう?」
「お嬢様……。大変申し上げにくいのですが、幻想郷は中国ではなく日本のようです。それにまずドーバー海峡を渡るのがお嬢様には……」
レミリアは不機嫌になった。
***
里の外の更に外、幻想郷の外から牛が一頭やってきた。それは巨大な車輪が一対側面についた青銅製の筒を曳いていた。
無論野生の牛がそうしているというわけではない。牛には御者がついていた。彼は里の村人だが、この時代では珍しく西洋式の軍服を着ていた。
「なんだい都会にかぶれちまって」
彼を出迎えた村の友人は軽口を叩いた。
「いいだろ? まあ何年も耐え忍んだ褒美ってことで許してくれや。大変だったんだぜ。西洋式大砲を導入した藩に潜入して、口実をつけて大砲を一基買って。妖怪なんかより人間の方がよっぽど怖えや。いつ粗相をしでかして牢にぶち込まれるか分かったもんじゃなかったんだぞ」
「自業自得とは言わんが、別にそんな無理することはないって出発前に言ったじゃないか。うちに流れてくる物品だけでも開けるだろうから楽に手に入るものだけ買えばいいと」
「だってよ、砲術訓練のあの轟音聞いて欲しくならねえ奴はいねえって」
「よっぽど凄かったらしいな。手紙で散々自慢してくれやがって。そこから」
出迎えの村人の一人が片手を開いて突き出した。
「五年だ。我々は五年君の帰りを待った。画竜の点睛が埋まるまで、博覧会を完全なものにするための最後の部品の到着まで五年待ったということでもある。それこそあの西洋将棋人形に匹敵するものがその大筒にはあるんだな?」
「ああ。こいつは社会を一変させ得るぞ」
「要は石火矢だろ? 戦争でもおっぱじめるつもりか?」
「他所ではそうなるんだろうな。うちには関係ないことさ。博覧会での役割は花火だろうね」
「じゃあ花火でいい、とは思わなかったか?」
「花火と違って大砲はここの社会を変える。変革の第一段階、『妖怪と違って牙も爪も持たぬ人間は刃物という牙を手に入れた』に次ぐ第二段階、『光弾を撃てぬ人間は大砲という弾幕を手に入れた』がこれだ。火縄銃以上の銃、でもよかったんだがね。何分そっちは見た目がちょっくら地味だ」
軍服の男は恍惚の表情を浮かべていた。
「そこまで考えてるならこっちからは何も言えねえな。あとは本番にどうやって見せるかだ」
「それも考えてるぜ。開催期間が五日だろ? 予備含めて六発弾を用意してるからな。それぞれの開始時間に一発ずつドーン!!」
軍服の男はうっかり勢いのまま牛を叩いてしまった。牛はモーと鳴いて男を振り落とした。周りの村人達は慌てて大砲の安全を確保しつつ牛を宥めなければいけなくなった。
***
博覧会は主に歌舞伎舞台(現代幻想郷ではライブ会場が太陽の畑にあるが、当時は里の中にそれに相当する建物があった)を貸し切って行われた。
ただし、いくらなんでも里の中で大砲を発砲するわけにはいかないという理由により、大砲だけは神社の境内に置かれた。宮出口家の当代当主はたいそう渋い顔をしていたが、巫女はこういうのに比較的理解があったため実現したのだった。あるいは、鈍感だったのかもしれない。神社から山に向けて連日榴弾が発射される様は、巫女以外の多くの人妖にはある種の、かなり示威的な意味が込められているように見えていた。
それはそれとして博覧会は連日盛況だった。職人の粋を集めた精巧な工芸品やからくり、幻想郷外、特に舶来の珍品に老若男女問わず目を輝かせた。特に結界によって流れてくる舶来の物は白眉であり、それらだけを見るためだけに外からも多くの人間(そして偶に妖怪)が来たという。小はライターから、大は歯車が縦横に大量に積み重なって壁のようになっている機械(元々それがあった国では「階差機関」と呼ばれていた機械だが、幻想郷においてはついぞ用途は分からず単に謎の機械という扱いだった)まで人々は人類の技術の可能性に酔いしれた。
しかし、なんといっても博覧会の目玉はあの西洋将棋を指す人形だった。稼働するのは昼と夜それぞれ一時間ずつだけだったが、かえってその短さが貴重さと捉えられて、特に対戦権がついた券は高額であったにも関わらず一瞬にして売り切れた。
そもそも貴重さが押し出されなくとも精巧さでだけで主役の素質には十分だった。かつて欧米でそれが展示されていたときのように、完全な自動人形と信じている人も観に来れば何らかのトリックがあると思って来る人もいたが、前者の人達は自動さを確信したし、後者の人達は仕掛けが見つからず打ちのめされていった。「彼」は目隠しをされようが台に磁石を置かれようが我関せずという風にそのチェスの腕前で挑戦者達をなぎ倒していっていた。
***
紅魔館地下。ここには館の主の妹、フランドール・スカーレットが幽閉されている。給仕の類は普段はメイド妖精がやっているので美鈴はあまり立ち入らないのだが、今回はレミリアから直々に必要だと頼まれたので入った。
「日本に行きたい? 行けばいいじゃん」
「私がではなくお嬢様が、なのです」
レミリアは幻想郷に行くことを諦めていないが、流水を複数回超えなければならないというのがやはりネックであり、紅魔館随一の知識人たる妹(本を読むくらいしかやることがないらしい)に助けを乞うた、というわけである。
「征服者気取りなのかしらね。結局、世界っていうのは巨大な鳥籠なのよ。ヴラド公は悪名を背負う覚悟を負ってまでオスマンに対抗しようとしたけれど、結局ワラキアという鳥籠から出ることはできなかった。ドラキュラはユーラシアという鳥籠からグレートブリテン島という鳥籠に入ってそこで討たれた。お嬢様だって、アメリカに先んじて日本を征したところでどうせその外側に到達できない籠の外があることを悟るだけに違いないわ。足ることを覚えるべき。どうせ同じ鳥籠なら安全な鳥籠の方がずっといいじゃないの」
フランドールは気が触れているから幽閉されている、ということになっている。実際のところは精神的に安定しているように見受けられるが、一方で気が触れている触れていないとはまた別の面倒くささ、人を煙に巻くような悪癖のある話し方をされると、レミリアが彼女を幽閉するという強硬手段に至ったのもさもありなんと思わずにはいられない。フランドールは仮に市井で評判になるようなことがあれば、レミリアの権威を危うくする危険性を孕んでいる。フランドールはレミリアを征服者と評するが、彼女は征服者である以上に統治者なのだ。
「『行くだけ無駄』という答えで満足するお方ではない、ということはご存知でしょう?」
「知ってるけどだからといって耳触りのいい答えが目的化したらそれはそれで駄目じゃん? じゃあもうちょっと真面目に答えるわよ。シンプル棺か何かに縛り付けて入れて船便」
「高速船を借りて近いことはやりました。沖に出た時点でドクターストップをかけましたが」
フランドールは息を飲んだ。この館の住民は自分以外馬鹿の集まりなのか? そして、もう一つ愕然とすることとして、「今の吸血鬼は船では海峡一つもわたれない」という単純な事実すらも、こういう馬鹿がいないと確定しない。
「ああ、一通りはやったのね、考えたんじゃなくて……。だとするとお嬢様は私に空想の話をしなさいと言ってるんだ。じゃあ二通りの提案があるわね。一つは科学技術の発展を待つこと。今は空を飛ぶ機械とか、果ては月まで行くための大砲とか、そういうのを作ろうとしているところらしいわよ」
「人間が空を飛ぼうとはとんだ夢物語ですね」
「魔法と区別がつかないよね」
「いずれにせよ実現すれば吸血鬼でも海を越えれるのでしょうか?」
「吸血鬼って元々飛べるのに海を越えれないのだから、それだけだと厳しいかもしれないけれどね。やってみないと分からないし、やってみるのは貴方達の役割。確実を求めるならもう一つの手段、魔法を使った方がいいわよ。空間転移魔法を使えば海関係なく……。あー忘れて」
「はて? それは難しいと」
「あー、うん。とりあえず私には無理だし」
フランドールは言葉を濁した。空間転移魔法の可能性を取り下げたのは実現可能性の問題ではなく、それが人だけでなく館を丸ごと転移させてしまえる(そうなったらとても面倒!!)可能性を秘めているからである。
「まあ、一応お嬢様には伝えておきます」
「うん……」
しかし、滑らせてしまった口は取り返しがつかない。自分の姉が「実現が難しいことほど燃える」という厄介な性格を持ち合わせていることは知っているけれども。
***
天狗が情報の拡散を行い、海の向こうの吸血鬼が憧憬を抱きと、妖怪達がそれぞれの形で幻想郷の人間が行っている展覧会に関与していく中、また別の妖怪勢力も介入を実施しつつあった。
その妖怪達はこの時代の名家のものとしてはごく典型的な大きさの家に住んでいた。ただし、その家はこの世のどこにも(そしてあの世のどこにも)所在していない。
「最終日の券は無事取れているかしら」
どこにもない地で、道士服を着た少女、八雲紫は自身の従者にそう問うた。従者もまた道士服だが、狐耳が生えていたり九尾が生えていたりする。賢者の式神、八雲藍。
「無論それは抜かりなく。人間の券争奪戦に遅れを取る妖怪ではございませんので販売と同時に」
紫は微笑した。仕事に対して真面目、という以外の極めて私的な動機が行動の早さに見えるが、それもまた愛おしい。
「しかし、一枚でよかったので?」
「いいわよ。貴方一人で行ってきなさい。最終日だけはどうなるか分かりきっているからね。計画が上手くいけば」
「流石でございます。ただ、私が申し上げたいのは計画のことではなく、この博覧会自体が現時点での人間の到達点を知るまたとない機会なのではないかということで」
「確かにそれは非常に興味深いこととは思っている。ただ、幻想郷内で開催されている以上『私達』にはいくらでも観る手段はあるの」
紫はスキマを開いた。その向こうでは博麗神社に設置された大砲がこちらに照準を向けている、ように見えている。
「貴方を寄越すことにしたのは折角だから、という意味もあるのよ。単に将棋の腕前だけでいうなら私でもいいのだけれど。時間が余ったら見物していくといいわ」
「正直面倒だから、と思ってました」
紫は閉じた扇子で藍の頭を軽くポンと叩く。
「否定はしないけどね。分かっているのなら面倒のないように徹底的に、ね」
「御意」
***
「多面指しを希望? 冗談じゃない。見て分かるだろう? この人形だと複数の盤相手に同時に戦うことはできない」
博覧会最終日。元々千秋楽ということで様々なことに決着をつけたいという欲望が渦巻く熱狂の中、開幕早々客の一人が発した提案により空気はいよいよ不穏の色を帯びていた。
「いやでも嬢ちゃんの言うことにも一理ある。連日こっちはその『異邦人』に負け通しなんだ。最後くらい駒落ち以上の優遇がこっちにあってもいいじゃないか」
「無理やり多面指ししたとてこっちのゼンマイが焼き切れちまうよ」
「どうしても無理というならせめてその人形もどきの種明かしをだな」
「種なんてありませんよ。こいつは正真正銘の自動人形
でござい」
客と運営との間で一触触発の気配。
「おっと言い方が悪かったな。皆さん勘違いしておられる」
しかし、その空気の元凶たる少女は切り裂くように通る声色で緊張感を一刀両断してみせた。
「多面指しの『親』はその人形じゃない。私だ」
「嬢ちゃんが? へっ、冗談が。こっちは里の将棋大会上位常連とそいつらが束になっても敵わない異人人形よ。女で勝てるわけが……」
「本気だよ」
少女は運営が抑えるのを膂力だけで振り切って人形の横に立ち、頭巾と外套を一気に外してその耳と尾を露出させた。
会場が静寂に包まれる。
「賢者の九尾、八雲藍がこの場の全員を同時に討伐してみせよう」
藍は人形の盤に乗った黒のクイーンをつまみ上げた。
「西洋将棋で」
静寂の中から少しずつどよめきが起こる。この時代、人間と妖怪の間には生存競争にも似た緊張感があった。妖怪が白昼堂々里に入るなど言語道断と言ってもよい。ただ、妖怪に敵意が感じられず戦闘以外の手段が提示されたことで人間達は混乱した。
否、混乱の原因はもう一つあった。泰平の世の中で牙を抜かれた里の人間達にすら本能的に分かる。この妖怪を力尽くで排除することは不可能だと。
かくして人形は里中からかき集められたチェス盤(及びそれを乗せるための机ないし箱)と共に一列の横陣を形成し、人形の対面に藍が立った。
多面指しとは、一人が同時に多数の相手と同時に対局するというものである。今回は、元々午前中に人形と対局する予定だった藍以外の人、その場にいて腕に覚えがある人、そして藍が正体を明かした瞬間には会場の外にいたが「妖狐と対局ができる」という噂を聞きつけて馳せ参じた物好き、総勢二十名弱及び人形一台が下手
に座った。
対局が始まると人間達はすぐにそれぞれ初手を指し、藍は歩いて机を周りながらそれぞれの盤に対して二手目を投じた。
ところで将棋系の遊戯は戦争を模したものとよく言われる。そうならば今藍に対峙しているおよそ二十名は魔王軍に対抗して組まれた勇者包囲網、とも言えるのかもしれない。藍は参加者全員に先手の色たる白を譲り自身は黒の駒を操作していたからますますその構図がふさわしくなっていた。
ただし、この日なされたのは概ね戦争ではなく虐殺であった。藍はかなりの早指しをしていた。序盤のうちは定石があるからむしろ短時間で進行するのは普通と誰も気に留めなかったが、序盤を抜けて定石から外れてなお藍は全く思考していないかのようにゼロ秒で着手を行った。まるで部屋の中を何周も歩き回りながらそのついででチェスをしているかのよう。むしろ藍が戻ってくるまでの間に対戦相手の次の手が完了しておらずそれで待たされることが多発した。
「王手
」
三十分足らずで盤のいくつかでは藍が勝勢に突入した。むしろ多面指しだからそれだけの時間粘れていたのであって、普通にサシで対局していたら十分とかからず詰まされていただろう。
そこから数巡で最初の脱落者が発生、「包囲網」は崩壊を開始した。盤が減る分藍がやってくる間隔は短くなっていくから敗北まで加速していく。
人間達は、人智を超えた存在はある、という至極当然のことを思い出した。
そして、数分後には、ターバンを巻いた人形も、駒を動かすことなく藍を対面にして一礼した。西洋技術の結晶でも、人智を超えた存在を討つことは叶わなかった。
「これで全員敗北か……」
「いや、まだ一人戦っている」
「なんだと!?」
藍に討たれた村人やその様子を見ていた観客達はうなだれ、放心し、消沈していたが、まだ対局が続いているとの報によりお通夜みたいな空気がざわめいていった。
最後に残った一人は少女だった。やたらと分厚く着込んでいて顔も見えにくいくらいだが、見える範囲の印象では藍と同程度に若く見える。無論藍の実際の年齢は見た目通りではないだろうが。
最後に残ったのが女ということに男性陣のプライドはいたく傷つけられた、ということはなかった。皆がこの少女が最後になったことに気がついた時点で盤面は既に誰が見ても藍の勝勢で、むしろなぜこの少女が最後まで生き延びたのかが分からないくらいだった。
「手加減してます、よね」
少女も不可解さには気がついていて声をかけた。
「手加減してない、といえば嘘になるな。チェック……続けるか?」
上手い人には藍が相手を詰ませに入っているのが見えていた。実のところ、対局をしている二人にも見えている。
「もう少しだけ。私が少女と見て情けを?」
「違うな。……万一違うようなことがあれば謝るが、むしろ逆だと言ってもいい」
駒を持とうとした少女の手が止まった。
「それは……どういう……」
「一人だけ、大局観が他と著しく乖離しているように感じた。この地ではチェスは将棋の変種として受容された。だから皆将棋みたいな感覚でチェスを指す。だが、貴方だけは将棋としてチェスを指していない」
「……」
「よく言えば大胆、悪く言えば駒の価値を著しく低く見ている指し手だ。将棋指しとしても、この手の遊戯を始めたての人の手としてもおかしい。初心者は駒を過剰に可愛がるものだからな。じゃあ貴方の大局観はどこから来ているのか? 駒の一枚一枚あたりの価値が少ない、自軍の駒すら積極的に減らして局面を単純化させる必要があるような、より複雑な盤面から始まる遊戯。大将棋系に慣れ親しんでいる者の指し手と私は推理した。そうなんじゃないか? 天狗の子よ」
少女は両膝の上に手を置き、一度深呼吸をした後頭巾を脱いで一礼した。その様子を見た会場のほぼ全員、藍以外の全てが息を飲んだ。
「参りました」
そう告げた少女の頭には、白狼の耳が生えていた。
***
「里の人間、いや、幻想郷の住民はつつがなく打ち倒され、そのまま博覧会は終わったことを報告させていただきます」
藍は自宅にて紫に頭を垂れていた。
「そう。運営の村人さん達は怒っていた?」
「いえ……。ただひたすら呆気にとられていたようでした」
「重畳重畳。一旦目的は果たされたわね」
紫が藍を派遣した理由。端的に言えば、紫の目には今の村人はあまりにも増長していたように見えていたのである。この増長は、感情的に気に食わないという問題ではなく幻想郷、より正確には幻想郷の妖怪の安全を脅かしかねないものであった。村人の一部は、舶来の技術や科学に過剰に夢を抱きすぎていた。その力を得ることができれば人はいくらでも発展できるものと。紫の目には、科学で武装して妖怪を恐れなくなった人間の未来が見えていた。もしそうなれば幻想郷を成立させている前提の精神性が崩壊してしまう。
だから、幻想郷が現状持ちうる技術力の頂点に達していた博覧会の場で、人間は妖怪に討たれなければならなかった。故に藍は侵入に成功するや否や積極的に自分が妖怪であることを誇示したし、その知力一本でコテンパンに人間達を打ちのめしたのである。
「それにしたって抗議の一つもないとは。いささか拍子抜けですね」
「血を望んでた……?」
「いえ……」
でも今の発言をそのまま受け取ったら確かに流血沙汰になったら喜んでいたかのように聞こえてしまうな、と、藍は自身の獣性を反省した。
「ぐうの根も出ないくらいに貴方が圧勝した、というのが一番大きいんでしょうけれど、多少とはいえ利害が一致していたというのもあるとは思うわ」
「誰と誰がです?」
「私達と博覧会の運営さん」
「そうでしょうか?」
「だって、あの人形のネタバラシをされたら困るでしょ?」
運営からしてみたら当然好ましくない。いくら公開最終日だとしても、人が入ってたことを白日の元に晒せば、それまでの見せ方が一種の詐欺だと受け取られてしまいかねないからだ。
そして紫もとい妖怪の側にとっても、あの人形は神秘のままでなければならなかった。もし人間の手だけであれだけの動きができると皆が知ってしまえばどうなるか。空を天狗が飛んでいる? あれくらい人間がその気になればからくりで作れる。川を河童が泳いでいる? あれくらい人間がその気になればからくりで作れる。
技術的に、あの人形は「思考しているかのように見える」というのが紫らの立場では一線を越えてしまっていた。それは科学の領分であってはならない。自然か魔術かでなされるべきものだ。
「振り返って思えば、私が対局をする前『種明かしをしろ』という抗議の声も挙がっていました。介入できていなければ危なかったでしょうか」
「どうにでもなる、と言いたいけれど面倒なことにはなったでしょうね。人間の探究心は底抜けだから。それが良いところでもあるのだけれど」
「だとするならば、これで終わりではない、でしょうか。探究心を根から抜いたわけではないですし」
「でしょうね。博覧会の次はないわね。残念だけれど。後、猶予もそんなにない。遠くでは薩摩や長州が戦争になったらしいし」
「いざとなれば、幻想郷を隔離」
「いざとなれば、というかそこはもう確定事項よ。あとはできるだけ穏便に、犠牲を最小限にしながらそれをなせるか。ここにタイムリミットという条件が追加されたのが今回の件」
紫は息を吐いた。鷹揚に振る舞っているが、彼女自身も多忙なのだ。少なくともあと十年か二十年は冬眠もできまい。
「その件で報告があります。山童の製紙組合に接触して、秘密裏にこちらで紙を買い上げるという取引を締結することに成功しました」
「オーケー」
「直にこの家が紙で埋まり始めると思います」
「適当に外に流しとくわ。外の連中の方がなんだかんだでいい方向に使ってくれるでしょう……。紙で思い出したのだけれど」
「なんでしょう?」
「貴方がチェスをしたとき最後に残った天狗。結局彼女は何が目的で潜入してたの?」
「対局後聞いたのですが、天狗の側に計画があるわけではない、あったとしても彼女は知らないとのこと。本当にただ個人的に来てただけのようです」
「チェスを指すためだけに?」
「あの人形と一局対決してみたかったと。私の他に券を入手したのが彼女だったのです。人形と対決できなかったのは残念でしたが九尾と指せるなんてまずないことなので感動しました、とも」
「そう」
奇しくも最終日の対局権は妖怪に買い占められていたらしい。今となってはだからなんだという事実ではあるが、それだけあの人形が生んだ熱狂は広範だったということか。
「楽しかった?」
藍は紫の質問には答えず、少し顔を赤らめた。紫にはそれで十分だった。
***
「射命丸、河童の状況はどうだ」
「さっぱりです」
天狗達は博覧会において幻想郷内外への情報発信において大きな役割を担い「勝ち組」となったが、その余韻に浸る余裕はなかった。博覧会から少し経った頃になって、河童が突然印刷業務を拒否したためである。
「さっぱりって、要求の一つもなしにだんまりか」
「普通に値上げ要求は来てます。そして普通に飲めるわけがない額を言ってきているので実質交渉に値する要求なしに黙っているのと同じです」
天狗達の視点では河童による謀反だった。あるいは社会史的観点からいえば、これは日本最古のストライキでもあったが、当時の彼女らにはその語彙はなかった。
そして河童が印刷を拒否しているのは、博覧会が終わった直後あたりから紙の価格が異常に急騰しており、その分が代金に反映されないと絶対に採算が取れないためであった。つまり(例えば単に面倒だからなどというのとは違い)、河童の側に正当性のある要求であり、故に天狗は頭を悩ませているのだ。
「天魔様に働きかけるか? 情報網は我々の存在意義の一つでもある。つまりは紙を確保するというのは道路を整備するのと同じで公共事業として成立する……」
「今の紙の価格を考えてください。この一月で倍です。来年には金箔に切れ込みを入れて文字を書いた方がまだ安いくらいになるんでしょうね」
文は軽く息を吐きつつ置かれた状況を悲観した。
「里から紙を買って持ち込む、のも変わらんか」
「おそらく。瓦版も最新号が値上がりしてるようなので」
「まあ紙自体の価格が上がってるならそうなるか……。待て。印刷機に使ってる紙も河童に機械生産させてたやつじゃないか。それが紙の値段が上がったから無理って、河童共は自分で作った紙の値上がりで自分の首が締まっているという変な状況に置かれていることになるぞ」
「それについて私の方から報告が」
龍の背後から囁き声が聞こえた。管狐の菅牧典である。文ら鴉天狗が「外交的に」情報収集を行うのに対して典は「諜報的に」それを行う任務に従事することが多い。今回も龍は典に秘密裏に河童の同行やら紙の高騰理由やらを探らせていたのだった。
「結論から申し上げると、紙はできた段階で山童に全部買われています。で、山童は買った紙を廃寺に搬入する」
「妙なことを。儀式でもするつもりなんですかね」
「確かに変だな」
この場の全員には一つの確信があった。山童が金にならないことをするはずがないという確信である。
「無論私も調べました。が、廃寺に持ち込んだ紙がどうなってるのかは不明ですね。潜入した部下曰く、単に紙の入った箱が山積みになってるだけで、しかも寺に入っていく動きはあっても紙を持って出ていく様子は全くない。とはいえ、その上で何らかの形で換金には成功してるっぽいんですよねえ」
「紙以外の物を持って出ていく様子はないのか?」
「確かに、地下にでも作業場があって紙を何かに加工している、とかなら筋が通らなくもないですか」
「いいえ。強いて言えば小判を持ってるのは見ました。あいつら錬金術にでも成功したのかな?」
典は軽口を叩いたが、その話し方にはいくらか困惑の色も見えた。
「その廃寺はどこにあるやつだ?」
「地図を……。ああ、ここにあるやつです。まあ天狗の子供の遊び場としてはごくありふれた寺ですね。無論今は周辺の敷地含め関係者以外立ち入り禁止になってますが」
典は龍に出してもらった地図の一点、山の中腹を指した。
「あそこか。確かにありふれた寺だな。そう大きくはない。で、価格の推移から察するに、もう一月以上は紙は買われ続けている……。典、もう一度調査だ」
「何をでしょうか?」
「まず、廃寺にある紙の量を大まかでいいから見てくれ。それが終わったら何日間か『寺から出てくる者が誰か』を監視しろ。見つからない様に安全第一で、だ」
「ふむ? ……ああ、了解です」
「あのう、私は……」
手持ち無沙汰になった文は恐る恐る龍に問うた。
「駄目元だが一応河童との交渉は続けろ。予想が合ってればもうどうにもならんがね」
龍は珍しく現状を打開しようという素振りは見せず、ただ諦めていた。
そして典に命じた数日が経った後直ちに本人から報告がもたらされた。忠誠心に懸念すべきところはあれど、根本的には有能なのである。
「まずは紙なんですが、丁度かつては仏像があっただろう場所に積まれている感じですね。歩ける空間が残っている、どころか壁に近い一部にしか紙の箱はないです。確かに妙ですねえ」
工業化しきった国家には到底及ばないとはいえ、その気になれば価格競争で里のあらゆる紙製品を駆逐してしまえるほどには河童による紙の量産体制は整っていた。その生産能力で作られたものが出口のない場所に集積していたとすれば、もう少し箱の数は多くなければならない。
「つまりは黒幕がいるってことだな。その姿は捉えられたか?」
「いいえ。出てくるのも緑色の迷彩服だけです。あと追加調査としてやらせてもらったんですが、百々世殿を焚き付けて直下に地下道でもないか見てもらったんですよ」
「あまりあいつを巻き込まないで欲しいものだが……。それで?」
「ありませんね。地下には何も」
「そういうことだな。現状をまとめると、紙は山童に買い占められていて、しかし裏には山童から更に紙を買う黒幕がいて、そいつは廃寺という袋小路から紙を取っている」
「買い占めるにしたって正々堂々やればいいのに。後ろめたいことでもあるんですかね」
「黒幕さんもお前にだけは正々堂々とは言われたくないだろうよ。多分だが、後ろめたいからこっそりやっているわけじゃないというかこっそりやるつもりすらないんだ。現に我々にバレてるしな。バレるようにしているのも、敢えて出口のない場所で紙を買うのも目的は同じと見たね。『お前ら天狗に対して敵対的買い占めを行なっている我々はこういうことができる存在なんだぞ』という意思表示だ」
「じゃあ私達は釈迦の掌の上っていうことですか? 思惑通りに調査までして」
「悔しいねえ。天狗じゃあお釈迦様には勝てない」
釈迦じゃないくせに、と既に黒幕の正体に思い至っている龍は内心で歯噛みしていた。
とはいえ、結局掌から抜け出せなかった孫悟空の如く天狗達はもう詰んでいるのだった。
「おしまいですおしまい。あいつら気違いです!!」
文が今にも泣き出しそうな大声で入ってきた。
「射命丸殿何事で」
「どうもこうもないですよ!! あいつら印刷機をぶち壊しやがったんですよ!! 『私らはもうテコでも動かん。この事業は終いだ』って!! あいつらに、機械工としての誇りはないんですか!!」
「河童の考えることは分からんが、まあどう考えても事業としては無理だよ。あえて予想するなら、採算の取れないことに固執するくらいなら次の機械の部品に再利用した方がいいってことかね。私達も手を引こうじゃないか」
「そんなの横暴じゃないですか!!」
「ああ横暴だ。この件の黒幕は、間接的に言論の自由を弾圧してる。だがなあ、正義が必ずしも勝つわけじゃないんだ。特に幻想郷の中も内憂外患、幻想郷の外も内憂外患というこの状況では、技術や言論というのは扱いが難しい。社会を不安定にすることはあっても安定させることはあまりない代物だからな」
「大天狗様は支配者面ですねえ。そんなんだから権力は駄目なんですよ」
文はいじけきって革命家気分だった。
「私も別の権力に上から押さえつけられている立場なのだよ。今戦うならお前一人でやってくれ。天狗としても個人としても協力はできん」
「飯綱丸様冷たーい」
「今は時期じゃないってことだ。ここから二十年、三十年、四十年、どのくらいかは分からないが、どこかで今許されてないことが許されるようになるくらいこの世界は安定を取り戻すだろう。そうなったら反撃の頃合いだ。我々だって今回の件で何も得なかったわけじゃない。黒幕は紙を幻想郷から奪うことはできてもここは奪えなかったからな」
龍は自分の側頭部を右手人差し指で叩いた。
***
レミリアと美鈴はドーバーに来ていた。
ドーバーは英国にとっては玄関口と言える街であり、天気がよければ水平線上にフランスの港町カレーが見える程には大陸と近い。
ただし、グレートブリテン島は島であるからにして、その短距離を移動するのには海を渡らなければならない。吸血鬼たるレミリアにとって、対岸カレーに見える灯台の光は手で掴めそうなくらい近くに見えながらも途方もなく遠いのである。
二人がドーバーに来たのは真夜中だったが、レミリアには海の鈍色もドーバーを象徴する白亜の崖もはっきりと見えていた。その二つの色のコントラストのいずれも苛立たしかった。
「有史以来、人類が生み出したどの防壁よりも堅牢なる要害こそが海だと言うだけはあるわね」
「私の祖国にはとても長い城があるんですが、海ってそれよりも強いんですか?」
「強いでしょ。とても悔しいけれど、吸血鬼
ですら勝てないんだから」
レミリア達は幻想郷なる地へ行く方法を見つけることができなかった。何もかもこの忌まわしい海のせいである。
結局、幻想郷とはどのような地だったのだろうか?
「最近はないの? 幻想郷についての噂話」
グレートブリテン島から出れないレミリア達が頼れる情報源は港、あるいは港に近い都市部に来た中国人船員だった。美鈴がレミリアに見せたポスターも、元は美鈴がロンドンに来ていた船員の一人から貰ったものだ。つまるところ、"Shanghai"には固有名詞だけではなく動詞としての意味もある。
「聞きませんねえ」
しかし、Shanghaiされた船員達もここのところは何も情報を持ってこない。行けもしないし何の話もないとなると、いよいよその実在すらも疑わなければならなくなってくる。
「そういえば妹様は幻想郷について『ユートピア』なのではないか、と言っていました」
「理想郷だっけ? あの子はちょっと本を読みすぎてるわね。もう少し現実世界に触れさせてあげたほうがいいかしら」
「うーん。妹様の話しぶりは否定的でしたね。『元々の意味はどこにもない場所なのよ』とかそういう。無何有之郷のようなものでしょうか」
「悪いけど中国語はさっぱりなの。大体ね、私は所詮夢物語だったとか、どうせ酸っぱいぶどうだったとか、そういう諦め方はしたくないの」
レミリアは石を夜の海に投げた。石は百メートル程飛び、ボチャンと音を立てて海底に没した。
「取るわよ、世界を」
美鈴はフランドールのレミリア評を思い出した。征服者。ただ、その強引さはなぜか嫌いになれなかった。
「はい!!」
「いい返事ね。そのやる気を見込んで頼みたいことがあるの。魔法使いを一人探して頂戴」
「魔法使いを、ですか?」
「フランが言ってたらしいわね。どうしても海を越えたくないのなら空間転移術だと。でも今のところそれができる人がうちにはいないから探してくるしかない。そうでなくても代々伝わる蔵書の管理をそろそろ考えないといけないし」
「待ってください。妹様はそれは難しいだろうとも」
「不可能とは言ってなかったでしょ? もしあの子が言ってたとしても、私の辞書には不可能はないの」
「私は魔法は知りませんが、常識の範囲で分かりますよ。ドーバー海峡の幅を空間転移で超えるだけでも大魔道士クラスの魔法使いの助けが必要になる」
「だから私は貴方に捜索を頼んでるの。流石に魔法使い一人を探すために何十年も館を空けることはできない」
「それは……」
「信頼してるわよ」
「うげえ」
美鈴はレミリアの強引さを嫌いにはなれなかったが、大変か大変かでないかいえば大変である。この魔法使い探しにも、大英帝国の植民地も巡りつつレミリアの予言通りに数十年間かけることになったのだが、それはまた別の話である。
***
その後、チェス指し人形がどうなったのかについて確かな記録は遺っていない。
とはいえ、人形そのものではなく周囲を巡る状況に関しては確かなことが二つある。うち一つは、幻想郷博覧会の二度目はなかったということだ。直接的には賢者がそれを許さなかったのだが、社会の趨勢として開催できなかった、と言い換えることもできる。
しかし、博覧会による広告効果がなくとも、幻想郷の技術、異文化に対する寛容性、それらは意外な程順調に発展した。博麗大結界の動乱の時点において、確かに幻想郷は血と鉄で武装された近代的工業国家のようにはなっていなかったが、さりとて只の山奥の村というのも違う、例を挙げるならば菜種油の行灯で照らされた舞台で里の流行りの西洋歌劇を着物姿の集団が牛串片手に見物する、そういう社会となっていた。これが、人形がいた社会のその後について確かなことの二つ目。
この二つから察するに、チェス指し人形は確かに幻想郷社会に大きな影響を及ぼしたが、それが焚き付けた人妖の好奇心故に急速に陳腐化して好事家達の関心事からも外れていったのだろう。
仮に明治十七年の村人に人形について問えば、多くの人がこう答えるだろう。
「その程度、俺達にだって作れる」
チェス指し人形は神秘性を喪失した。それは当時の賢者達が恐れ、かなり直接的な介入を行なってまで止めたことである。
では、賢者は人間の叡智あるいは傲慢さに敗北したのだろうか? 否、幻想郷の人間達が最後に到達したのはかつての進歩派のような科学や合理主義への盲信ではなく、内的成熟だった。
先の質問について、明治の村人達はこう続けもするだろう。
「だが、俺達にできるのはからくりを作ることまでだ。それが本当に生きているように考えているっていうなら降参だね」
人間にもできること、人間だからできることもあるし、逆に人間では辿り着けない、辿り着いてはいけないこともある。幻想郷の人間は分別をつけることを覚えたのであり、その幼年期の終わりを見届け良しとした賢者達は世界から袂を分かつことを決断した。博麗大結界異変については、そういう言い方もできるのだ。
ところで、今から八十年程前に、今度は何のトリックもなしに真に自律して動くチェス指し人形が幻想郷に漂着したという噂話があった。
この話の真偽は不明である。御阿礼の子も空位の時期で、確かな情報は現存していない。少なくとも魔界の人形術師は「そんなこと知らないわ」という証言を遺している。
仮にその人形がある時期実在していたのだとしても現存はしていないし、現代に至るまで、件の人形術師含め、幻想郷や周辺世界の住民は誰一人として完全な自律人形の開発には成功していない。
それはターバンを頭に巻いた異人の成人男性風だったが、上半身しかなかった。片手には煙管を持っていてこれは指と一体化していた。一方、もう片方の手は素手で指も多少動くようだった。
人間型の部位の他に市松模様の盤が置かれた巨大な箱もあった。これが下半身がない理由らしい。組み立てた完成形は異人が箱の後ろに立っているないしは座っているような見た目になるものと思われた(漂着時の損傷で人形はいくつかの部品に分かれていたが、中に埋め込まれた歯車機構などに共通点が見られることから組み合わせて一体の巨大人形になることは容易に予想された)。
発見者は里の好事家だった。無縁塚に漂着してくるマジックアイテムだったり珍品だったりを危険を冒してでも入手しようとする酔狂な人は昔からいたのである。特にこの時代は蘭学にかぶれて幻想郷にも近代の風を吹き込もうという勢力が生まれつつあった。
そういう人にこの舶来の人形が渡ったのはある種幸運なことではあったが、すぐにこの好事家ですら持て余すことになった。歯車やワイヤーを内蔵していることから何らかの機能を有するからくり人形ということまでは分かるが、その機能が何なのかどういう仕組みで動作するものなのかが皆目見当がつかないのである。
彼は里唯一のからくり技師にも人形を見せた。この技師は中々の腕前を持っていたが、その技師にも人形の謎は解けなかった。優れた日本語の読解力を持つ人だったとしても文章がスペイン語で記述されていたら読めるとは限らないようなものだ。歯車という物理機構は世界中で一様に進化すると思うかもしれないが、部品の大きさや配置の定石には存外地域性が出る。こうした「言語」の差異が技師をして「解読」を断念させたのである。
ただ、この技師は一つの道筋を示した。
「前にもお前みたいなのが人形を持ち込んできたことがあってね。そいつはこれよりよっぽど単純なものだったから俺にもどうにかなったが、基本は似通っていた。こいつは異国人形だね……」
好事家は「そんなことは見た目で分かる」と言いかけたが、技師の刺すような目線に言葉を飲み込み背筋を正した。
「魔界にな、人形遣いがいるという噂がある。南蛮か蘭人か……兎も角その辺の系譜の人形遣いらしい。もう一度言うが魔界だ。行ったっきりになることだって十分あり得る」
「『それでも、行くか?』とでも言うんだろ、親父さんよ。そりゃ行くさ。命を賭けてでも謎を解いてこその『進歩派』だろ?」
だろと言われても技師は進歩派なる勢力には属していない。技術者として異国の物にも興味はあるが政治思想としてどうこうというのとは自分の中では切り離している。
ただ、技術者故好事家が魔界に行こうとするのを止めることもしなかった。むしろそうなるだろうという予想の元聞いたのだし。
***
近代以前の幻想郷における暴力の扱いは同時代の日本の他の地域とも異なっていた。それは幻想郷が武士という権力化した暴力により統治される封建型社会とは独立した自治的な隠れ里だったからでもあり、彼の地における力関係の前提が「妖怪は人間を襲い人間は妖怪を退治する」だったからでもあり……。要は、一見普通の村人でも武装している率はそれなりに高かった。
かくして刀や火縄銃を持った村人が四人程、巨大人形を神輿のように担いで魔界に旅に出た。「蘭学被れ」を苦々しく見ていた保守派とか真面目に幻想郷内における人間の役回りを全うせんとする体制派とかは「阿呆共が妖怪の贄になりに行った」と囃し立てたが、奇跡的に彼らは目的地に到達したし、少し後の話になるがこれまた奇跡的に生きて帰ってきた。というのも妖怪の側にも一連の流れを面白いと見る阿呆がいて安全を陰ながら確保していたのである。
魔界の市街に着くとこれまた一行を好奇の目で見る魔界人が親切にも案内をしてくれて、"City Hall"という看板が架けられた、(幻想郷の里の人間から見れば)巨大な建物内の大部屋に入ることができた。
ただし、無事に目的地に辿り着いた好事家達の元に寄越されたのは幼女だった。
なるほど、彼女は金髪碧眼という典型的な「異人」で、異人の年齢というのは外見からは予想がつきにくいというのはある。だが、少なくとも身長は相当低い。一行の中には寺子屋に通っている子供がいながらこんなことをしている甲斐性がない者もいたが、その子よりも更に背丈がないように見えた。
「仕方のないこととはいえ、どうも我々は舐められているらしいな……。このような子供を寄越されるとは……」
「聞こえてるわよ」
幼女は顎を大きく上げて(なんせそうしないと目線が大人達と合わないのだ)、吠えるように言った。
「逆よ。『あんた達が』、『私のことを』、舐めてるのよ。聞いたわ。あんた達がわざわざ魔界まで来た理由。西洋の人形遣いに会いにでしょ?」
「ああ。『有栖
』というお方がいると聞いたのだが……」
「私がそうよ。人形遣いの死の少女、アリス。見て分からないの?」
言われてみれば西洋ではある。が、人形遣いその人にはやはり到底見えない。仮にそうだとしても大方見習いだろう。それも技術を教えられてるというよりはせいぜい丁稚奉公くらいの。
そう一行は思っていたが、アリスは予想外に慣れた手つきで人形を精査し、腕などを動かしてみせた。
「完成させるには部品が足りないわね……。少し待ってもらえる?」
そう言って一旦アリスは部屋から出ていった。最初にこれをやられていたら逃げたかと思ったかもしれないが、既に技術力を見せつけられているので一行は待った。果たしてちゃんとアリスは自分の上半身程の高さのある箱を抱えて戻ってきて、箱の中の部品を既に見えている完成形に嵌めていくかのように迷いなく人形に組み込んでいった。
「うーん」
ところが、アリスは突然手を止めて悩み始めた。何か間違えたとか分からなくなったとかそういう素振りは見せず作業していたのだが。
「どうしました? やはり手に負えない……」
「何言ってんの。この程度はどうということもないし、事実復元はできたと思うわ。でもねえ……」
上手くいったにしては、どうにも歯切れが悪い。
「でも?」
「これはチェスを指す人形なのだけれど、チェスって知ってる? 西洋将棋」
「自慢じゃねえが将棋は村では十番目くらいの実力よ。しかし西洋将棋っていうとあれか、南蛮にも将棋があるのか」
「知らないのね」とアリスはため息をついた。
「まあなので今のところ貴方達には割と無用の長物。チェスが流行れば別だけれどね。というのが問題その一。問題その二として、動かしてみるけど」
そう言うとアリスは人形の巨大な箱型の台についた観音開きの扉を開けて中に入った。少し時間を置いて人形の腕が動き、市松模様の盤の上で何かをつまむような動きをした。将棋を指すものと聞いていた村人達には少し変な動きだったが、西洋ともなると将棋駒の形が違うのだろう。
「特に何か問題があるようには見えませんでしたが……?」
箱から出てきたアリスに一人がそう聞いた。
「私が入ってから動いたでしょ? 自動からくり人形に見せかけて手動なのよこれ。貴方達の体格でも入ろうと思えば多分入れるわ」
そう言うので一行のうち一番小柄な村人が箱に入ってみた。小柄とはいっても成人男性の中の小柄でありだいぶ窮屈になった――当然常に座りっぱなし、それも椅子はなくて硬い床と装置の隙間の空間に足を伸ばして入れるかダンゴムシのように丸まって収まるかの二択である――が、確かに入れないわけではない。そして箱の中にも市松模様の盤が置かれていて、盤の上には、現代風の言い方をすればロボットアーム、当時の語彙で例えるなば骸骨の片腕のようなからくりが宙づりになっていた。
「目の前の盤の上でポインター、あー、浮いてる腕みたいなやつを動かすと、その通りに人形の腕も動くわ」
アリスの指示通りに、とはいってもチェスの駒の動きなど知らないのでとりあえずは将棋の歩の動きをさせ、動かした後にもう少し大きい動きの方が分かりやすいかと更に四マス程進めた。外から「おー」という声が聞こえたので上手く動いたのだろう。
「そんなに凄いかしら? この程度は貴方達にでもできるでしょ? そして、チェスを指すという人形に与えられた目的はこれだけで果たされてしまっている。自動で指してくれるなら凄かったんだけれどね。やってることは只のマジックハンドよ?」
「そうでしょうか? 私にはもっと秘密が隠されてるように思えますね」
アリスの失望に、箱に入った村人が反駁した。
「随分とこの人形の製作者を持ち上げるのね。そんなに大層な人だったらもっとまともな原理で指させるわよ」
「私はからくり作りは知りませんが、単に骸骨の腕を手で動かして駒を動かすだけにしては凝った作りですし部品が多いように見えます。それに、ちぇすとは将棋の一種なのですよね? であれば相手の手を中から見る手段が必要なはずです」
「あー、それは……。天井に穴でも空いてるんじゃないの?」
「空いてないですね。代わりに……これはなんだろ……重り? みたいなのが沢山ぶら下がっています」
「ふーむ……」
アリスは腕を組んだ。言われてみればその通りだし、その通りということはこの人形にはまだからくりが仕込まれているということでもある。それらも自分の技術からすれば取るに足らないものだろうが、だからこそ解明しきらないまま終わるというのは屈辱的である。屈辱的でいうならばこの人間の「チェスを指す人形ならば盤面を見る手段があるべき」という発想に気が付かなかったあるいはその原理の確認を怠っていたことも悔しい。
「気が変わったわ。申し訳ないのだけれど、少しの間この人形を預からせて貰えないかしら?」
「素直にはいとは言い難いですなあ。こちらも危険を冒して来ねばならぬ身故」
「ここは魔都よ? 人形をそっちに転送するなり貴方達を召喚するなりやりようはいくらでもあるわ。それに、貴方達にとっても悪い話ではないわ。返すときは説明書付きにしてあげる」
「少し話し合ってもよいですか?」
「もちろん」
元々進歩派というのは新しい物に飛びつくというだけでなく思想として過程を楽しむという傾向にある。だから今回の件も、答えを全部用意されるというのは実のところ手放しで好ましい条件というわけではない。
ただ一方で、それが西洋将棋を指すものという指針が示されてなお自分達の力のみでこの人形の謎を研究しきれるかというのも怪しいところで(そもそも手に負えないから危険を冒してまで魔界に来たのだから)、結局はそれが話し合いの結論ともなった。アリスに一旦操作説明を作ってもらう。向こうも天才的とはいえ一人の人形遣いに過ぎないのだから、あるいは彼女をもってしても解けない謎があってそれを集合知で解明していく過程が生まれるかもしれない。
「完了したらこちらに送って頂きたいのですが、日付と場所の指定が必要ですな。さもないとある日突然我々の頭上に人形が出現しかねない」
「一番問題になるのは何の関係もない人が転送時の事故で死ぬことじゃないかしら? どちらにせよその二つについては決めておかないといけない、というのには同意するわ。私は余裕をもって半年は見てもらいたいのだけれど。それより後の時間と、後は場所ね。誤差があるから半径十メートル、あー、貴方達はメートル法を使ってないか、六間以上の広さの空き地を用意してもらいたいわ」
「その広さってなると、神社か? どうせ誰もいない」
「おいおい巫女様か宮出口の人にでも見つかったら面倒だぜ。畑だろうよ。仁さん芋畑持ってただろ?」
「持ってるけど半年後じゃ植わってるぜ」
「じゃあ収穫して空き地になるまで待つ他ねえや。霜月の頭頃か?」
「そんぐらいだな」
「霜月の頭か。雪が降ってるかもしらん」
村人の一人は頭を片手で抱えた。
「仕方ねえ。嬢ちゃん送るときは包んでくれや」
「はいはい。じゃあ……そっちはグレゴリウス暦じゃないわよね。太陰暦だと、霜月の三日、午の刻、これで合ってるかしら」
「合ってるって、いつ送るつもりだい」
「霜月の最初の方の昼間」
「じゃあ合ってるな。午が昼間だから『午前』『午後』って言うんだ」
「はいはい勉強になったわ。お礼にもう一度忠告するけど、最善を尽くすとはいえ転送にはどうしても誤差があるからね。いくら気がはやってても畑の中で人形を待つことはしないように」
「それは大丈夫だ。俺等は大人なんだよ」
「心は童ですけどね」
啖呵を切る村人に、同行人の一人は苦笑した。
***
翌年の晩秋に約束通り人形は転送された。
アリスによる説明書も付属されていたが、どうにも書き方に歯切れが悪いところがあった。それは、機構の目的が理解できなかったというよりは、特に何の役にも立っていないように見えるからくりが散見され意図を把握しかねている、という風だった。
一方でアリスの調査により新たに判明したものもある。箱の内部から盤面を把握する方法もその一つだ。前に、箱に入った村人が大量の重りが天井にぶら下がっているのを発見していたが、まさにこれこそが把握手段だったのだ。
「確認してもらいたいのだけれど、天井の重りは一辺あたり八個の正方形の配置になってるでしょ? チェスの六十四個のマス一つにつき一個の重りが盤の下にぶら下がってるの」
返還された人形には追加の「部品」としてチェスの駒が付属されていたが、駒の底面には磁石がついていた。盤上で人形が駒をつまんで動かすとき、それに連動して対応したマスの鉄製の重りが下がる(駒がつまみ上げられたことで磁力が弱まった)か上がる(駒が新たに置かれたことでそのマスに磁力が発生した)かする。
「確かに盤上での動きはこれで分かるな。しかし持ち駒を打つときはどうすんだ?」
それに対する答えは人形ではなくチェスのマニュアルにあった。チェスには持ち駒の概念がないから盤外から駒が登場する動きは存在しないのである。将棋指し人形にこの仕組みを応用するのが難しそうというのは残念だったが、チェスという枠組みの中では中々上手い仕組みと言えた。
とりあえず現物と操作説明があるのだから人形と一局戦ってみたいというのが人情で、進歩派の一団は人形操作班とチェス班の二組に分かれて冬の間練習に没頭した(ただ人形操作のうち箱に入る人員は結局チェスを知ってなければならないから途中で人員を交換して、最終的には全員が人形の操作とチェスの指し方を両方把握している状態を目指した)。
人形を実際に操作していくと、アリスが歯切れ悪くしていた機能の謎について、その見立ては半分正しく半分間違っているようだった。
間違っていた、つまりアリスが見落としていた機能の例としては音が鳴る機能がある。
といっても指で机を鳴らすとか、意味不明な外国語を発するとか、「凝った」機能はアリスに発見されていた。彼女が見落としていたのは、逆に一番単純な、単に雑音が鳴るだけ、という機能である。彼女はそれを無意味と断定したが、操作するとこの機能にも使い所があることが分かった。例えば箱の中で突然くしゃみがしたくなったとき、雑音を鳴らしておくことでくしゃみの音を誤魔化すことができる。中に人がいるのを覚られないようにするために有用だったのだ。
一方でただ歯車が回るだけというからくりがあり、こちらは説明書通りの無意味さぶりだった。そのくせ、このからくりは箱の体積のうち結構な割合を占有していた。アリス曰く「こんなののせいで箱の中が狭くなっているのは本当に意味が分からない」。箱に入った者の十割が同じ感想を抱いた。
ただ、箱に入るオペレーターの観点からは恨みしかない、何の役にも立たないからくりであっても、製作者にはわざわざ組み込んだ意図がある。一団はそうも感じていた。そう感じるだけの信用のできさが人形の作者にはあった。
つまりは、興行用として非常によくできているのである。見た目も精巧だし、細かい機能も行き届いている。雑音を鳴らすからくりもその一例だ。適切に機能を使って操作すると、あたかも知能を持った機械人形がチェスを指しているかのように見える。
その視点に立つことで、特に何も機能のないからくり達にも「何かしらの機能があるように見せることができる」、という使い道があるのではないかという推論をすることができた。この推論は、機構が箱の体積を無意味に占有していることにも説明を与えることができる。箱の中にからくりがあるように見せかけるには箱の中にからくりらしきものがなければならないし、それを見せびらかす際、邪魔さは同時に「中の人」が身を隠す遮蔽としても機能する。
彼らは人形の操作を演劇のように練習し始めた。仲間内で使うだけでなく、里の、自分達の活動にそこまで興味のない人達に向けても公開したくなったのである。
どの時代においてもそうだが、世間の人達の好事家を見る目というのは大抵冷ややかなものである。彼らもそういう世間の目に絶望し、仙人の如く社会から隔絶したかのように振る舞うのが常だが、一方で隙あらば社会に認められるという反撃を加えたいと虎視眈々と機を狙うという、表向きの振る舞いとは矛盾した願望を抱いているのもまた好事家という人種なのである。
今、機会及び手段が手元に入った。このチェス指し人形は間違いなく公演の目玉となる。あとは、その見せ方の問題だ。
好事家達は年単位の計画に入った。
***
好事家達の行動を面白がっていた阿呆の妖怪の一人、射命丸文は変装して里に潜入していた。
彼女の出歯亀は好事家達に少し先んじて無縁塚に漂着した人形を発見したところから始まった。文はからくり人形自体にはさして興味がなかった。それは人形を拾うことなく立ち去ったことからも分かる。
しかし、人形が引き起こすだろう状況には興味があった。この人形が河童に拾われるか魔法使いに拾われるか、はたまた人間に拾われるかは分からなかったが、誰に拾われるにしてもそれなりに面白いことにはなるだろう。
そして人形は人間に拾われ、予想外なくらい面白いことになりそうだった。情報筋によると、彼らは人形を用いた公演の可能性を模索しているらしい。
この流れと関係があるのかどうかは分からないがおそらく関係あることとして、最近里では西洋将棋なる遊戯が流行りつつあるらしい。文はどちらかというと人形よりはこちらの情報を確認するために里に潜入した。
西洋将棋が流行っているらしいというのは、人形を巡る諸々の「らしい」よりは確度の高い情報だった。なんせ瓦版にも記事が載っている。
二十八文を出して瓦版を一枚買った。瓦版は風評をばら撒く手段として極めて優秀であり、文もどうにか参入できぬものかと常々考えているが、唯一この価格だけは閉口せざるを得ない。蕎麦屋で一食食べるのと同じ値段だ。物価が高騰しているというのもあるのだろうが、もっと安く作る方法はないのだろうか? 文は手帖に(これももっと安くなるべき物品だ)に「河童に要相談」と記した。
それはそれとして内容はおそらく詰将棋に相当するものだった。つまりルールを知らない人が買ってもしょうがないものである。ルールを知りたくば別の号も買えとのこと。文は内心で悪態をつきつつもう一度二十八文を払った。買った後になって床屋のような盤が置いているだろう店に行ったらただで教えてもらえるのでは、と気がついて若干絶望したがもう遅い。人から教わったら余計にかかる時間を金で買ったと思うしかない。
気を取り直して文は瓦版を読んだ。
「椛あたりが好きそうですね」
なんなら彼女の方が先に情報を入れていて、「我々の将棋にも導入したいのですが駒が立体なんですよねえ」と文句を言っていた気すらしてくる。普通の将棋に比べると駒の動きが強い。ゲーム性としては駒の個数を大幅に減じた天狗大将棋といったところだろう。普通の将棋にはなく天狗大将棋にはある奔王に相当する駒(※クイーン)もあるし。
瓦版売りの持っていた束の厚みを観察するに、西洋将棋について取り扱った号はそれなりに売れてるようだった。大きな異変が起きたときのような「飛ぶような」程では流石にないにせよ静かな流行とは言ってよかろう。
文は一つ閃いたことがあり神社に飛んだ。
この時代、人々は信心深かったし博麗の巫女もどこかの時代と比較すれば真面目に仕事をしてたから神社には結構人が来ていた。そして、神社に来た人は時折あるものを奉納する。絵馬である。
絵馬の一例として、詰将棋の図面を描いたものがある。将棋好きが長手数の詰将棋を作成したあるいは解いたときに抽象的神に感謝するために神社に納める、そういう文化があるらしいのだ。
文は奉納されている絵馬を捲っていった。予想が正しければ絵馬の集合の表面近くにそれはあるはずだ。
「やはり」
案の定、概ねは将棋絵馬だが盤が独特の市松模様なものが奉納されていた。もし西洋将棋が流行っていて、かつ熱狂的にのめり込んでいる人がいたらあるべきもの、それが実際にあったのだ。
文は西洋将棋自体にはさほど興味がない。なのでこの奉納された「詰西洋将棋」を解く気はさらさらない(強いて言えば椛への土産話にはなるかもしれない)が、絵馬が奉納されているという事実の確認だけで十分だった。
「西洋将棋絵馬は現時点で二枚奉納されている」
そう手帖に記し、文は飛んだ。人間社会は中々結構なことになっているらしい。
***
「お嬢様ってチェスは指されます?」
英国のとある田舎街にある洋館。そこで働いている大清帝国出身の侍女、紅美鈴は主レミリア・スカーレットに尋ねた。
「あら、ついに指す気になったかしら」
「いえ、象棋なら嗜むのですが……」
「あれは駄目よ。河があるじゃない(※象棋の盤の中段には河と呼ばれる区画があり、一部の駒の移動範囲制限や成りに影響を及ぼしている)」
「河があるからっていう理由で麻雀も拒否しておられましたからね……」
「そう、だから貴方の方がチェスを指すならば付き合えるのだけど、指さないのね……」
主がしょんぼりするのがいたたまれなくなり、美鈴は指すことにした。元々その気分ではなかったというだけでチェスも全く指せないわけではないのだ。
「ところでさっきの質問は愚問よ。私は吸血鬼であると同時に貴族でもあるのだから、社交に必要なものは一通り習得してるわ」
と、言ってはいるがレミリアは乗馬や銃を用いた狩猟などはできない。貴族がそうした活動をするのは昼間らしいのだ(らしい、というのは吸血鬼たるレミリアは様々理由をつけて人間共のそういう誘いを断っているためである)。
ついでに言えばチェスの棋力も大して高いわけではない。初心者の美鈴といい勝負。
「私と指すことには乗り気ではなかったということは、質問の意図は別にあるのよね?」
数十分も経つと、二人はすっかり兵卒がいなくなった六十四マスの戦場の範囲内で生き残りの僅かな駒を半ば反射的に動かしていた。初心者より少し強い程度の棋力同士で戦うとかなりの早指しになる遊びである。そのくらいの強さではどうせ考えたところで妙手が思いつくわけでもない。
「ああそうでした」
美鈴はレミリアから質問されたことにより、このただ駒を動かすという惰性から先に解放された。彼女は一枚のポスターを出して盤の横に置いた。
「ジェンソキョー
博覧会?」
***
「射命丸、最近裏で動き回っている件だが」
大天狗、飯綱丸龍に問いただされて文は緊張した。
「別に問題になるようなことはしていないと思いますが……」
これは本心。ただし、いくら後ろめたいことがないからといって動揺しないわけではないのだ。
「河童と組んで新しい機械を作ってるらしいな?」
「自腹ですよ。お気遣いなく」
「金は気にしてない。お前にそんな金があったのかというのは少々意外だったが……。私が聞きたいのは『どんな機械を』『何のために』作ってるのかということだ。回答によってはお前一人の問題というわけにはいかなくなる。天狗社会全体を変えかねないからな」
龍は数歩文に近づき、その分文は少し仰け反った。
「あれは大量に印刷をするための機械です。『転輪機』と言うらしいのですがそれ以上詳しいことは河童に聞いてください。私は機械工じゃないので」
「紙を刷るのか。まさか突然長編小説を書きたくなったわけでもあるまい」
「社会を変えたいから作ったのです。よかったですね、大事らしいですよ。私はまさかこの時点で貴方に介入されるなんて思ってませんでしたが」
文はため息をついた。
「紙で社会を変えるとなると、やろうとしてることとして考えられるのは二つだな?」
「無論、偽札作りじゃない方です」
「……瓦版は間に合っていると思うが」
龍は腑に落ちなかった。天狗社会には紙の情報媒体は元々存在している。文という言ってしまえば一介の鴉天狗に過ぎない存在が、大規模に機械を作ってまで参入しようとするのは意味が分からない。
「里に流通させようとするならこのくらい必要なんです」
「そうか、里に……里に!?」
当然、人里の瓦版を発行しているのは人間だ。
「むしろなんで今までやってなかったのかと私は言いたいですけどね。人間に風評をばら撒いてこその天狗でしょう?」
「それはそうかもしれないが……。どうにかなるのか?」
「技術的にはだから機械が必要なのです。最初は知名度で絶対勝てない以上、大量生産によって価格を下げること以外で太刀打ちのしようがないですからね」
質で勝負するなどという綺麗事を言わないのは流石である。もっとも真理ではあるが。書き物の質が評価されるのは読まれた後の話なのである。
「技術的には、か。じゃあお前が阿呆かどうかの確認もしよう。お前は小賢しいから分かっているとは思うが、仮にお前が里の瓦版屋を倒してそれではい終わり、にはどう考えてもならんだろう?」
「小賢しいだけ余計です。まあ手は考えてますよ。つまりはですね、これは人間社会にも資する活動なのです」
「そうか。まあ分かった」
「お前は割と自分の正義に狂信的なところがあるよな」というのが龍には分かった。
「それで、話題が変わるようであまり変わらないことだが、お前が追ってる里の流行の件、現状はどうなってる?」
「博覧会を計画しているようです。目玉は西洋将棋を指す人形で、他にも舶来の機械とかマジックアイテムとかがちらほら。その紹介を瓦版、いや新聞と言うべきですね、でしたいのです。話題が戻りましたね」
「博覧会か……。なあ、大天狗様にバレたついでだ。転輪機を私にも使わせてはくれないか? 悪いようにはしないさ。お前にとっても」
「仕方ないですねえ」
文は口を真一文字にして頷いた。
***
「ジェンソキョー博覧会?」
「幻想郷
ですかね」
「どっちにしろ漢字が使われてるなら東洋よね。それとチェスに何の関係が?」
「なんでもチェスを指す人形が出てくるらしいですよ」
ポスターには写真があった。東洋に写真の技術があるとは驚きだあねという当時の西洋人特有の差別的価値観もレミリアは抱きつつ、その写真の被写体の方により驚いた。
「『トルコ人
』じゃない」
「あー、七面鳥
? じゃなくてその元の国の……。確かにターバンを巻いてますね」
「いや、違う……。違くはないけどそういう名前の人形が昔あったのよ。チェスを指す人形」
「じゃあそれなんですかね? 知ってるということは、お嬢様も対戦したことがおありで?」
「何十年か前にロンドンで公演があったときにね。でもおかしいわ。確か数年前に火事に遭って燃えたはずなのだけれど」
「じゃあよく似た別の人形なんでしょうか?」
「二体あるとは考えにくい、そういう人形よ、あれは」
「それは……作るのに金がかかりすぎる?」
「金はかかるでしょうね。ただ本質としては、そのくらい精巧ということ。対戦したときに向かい合ったけれど、まるで生きて思考しているかのようだったわ」
生きている人形、というのは美鈴も伝奇伝承で聞き覚えがある。逆に彼女の中ではそういうのは物語上の存在、ということでもある。美鈴は写真のトルコ人に生命の気があるかどうか見極めようとしたが、この時代の写真の画質ではよく分からない。
「どうやって動いていたのかは諸説あるわよ。一番多いのは中に人が入っていたというものだけど、それもどうやって動かしていたのか色々な人が色々なことを言ってたらしいわ」
「お嬢様の目から見てどれが一番あり得ると思いますか?」
「さあ? まあ、魔法で動いているんじゃないかしら。それが一番面白いから……」
レミリアは盤を指で叩いた。
「これ、勝負つかなくない?」
駒の数でいうとキング以外全滅してる美鈴に対してビショップが残っているレミリアの方が有利だが、どうも詰ませるには足りないらしい。
「終わりにしましょうか」
「次の対戦はタークとにしましょうか」
レミリアの発言を聞いた美鈴の顔が強張った。
「あら、東に行かなくてはいけないにしても、中国人
の貴方がいるのだからどうにでもなるでしょう?」
「お嬢様……。大変申し上げにくいのですが、幻想郷は中国ではなく日本のようです。それにまずドーバー海峡を渡るのがお嬢様には……」
レミリアは不機嫌になった。
***
里の外の更に外、幻想郷の外から牛が一頭やってきた。それは巨大な車輪が一対側面についた青銅製の筒を曳いていた。
無論野生の牛がそうしているというわけではない。牛には御者がついていた。彼は里の村人だが、この時代では珍しく西洋式の軍服を着ていた。
「なんだい都会にかぶれちまって」
彼を出迎えた村の友人は軽口を叩いた。
「いいだろ? まあ何年も耐え忍んだ褒美ってことで許してくれや。大変だったんだぜ。西洋式大砲を導入した藩に潜入して、口実をつけて大砲を一基買って。妖怪なんかより人間の方がよっぽど怖えや。いつ粗相をしでかして牢にぶち込まれるか分かったもんじゃなかったんだぞ」
「自業自得とは言わんが、別にそんな無理することはないって出発前に言ったじゃないか。うちに流れてくる物品だけでも開けるだろうから楽に手に入るものだけ買えばいいと」
「だってよ、砲術訓練のあの轟音聞いて欲しくならねえ奴はいねえって」
「よっぽど凄かったらしいな。手紙で散々自慢してくれやがって。そこから」
出迎えの村人の一人が片手を開いて突き出した。
「五年だ。我々は五年君の帰りを待った。画竜の点睛が埋まるまで、博覧会を完全なものにするための最後の部品の到着まで五年待ったということでもある。それこそあの西洋将棋人形に匹敵するものがその大筒にはあるんだな?」
「ああ。こいつは社会を一変させ得るぞ」
「要は石火矢だろ? 戦争でもおっぱじめるつもりか?」
「他所ではそうなるんだろうな。うちには関係ないことさ。博覧会での役割は花火だろうね」
「じゃあ花火でいい、とは思わなかったか?」
「花火と違って大砲はここの社会を変える。変革の第一段階、『妖怪と違って牙も爪も持たぬ人間は刃物という牙を手に入れた』に次ぐ第二段階、『光弾を撃てぬ人間は大砲という弾幕を手に入れた』がこれだ。火縄銃以上の銃、でもよかったんだがね。何分そっちは見た目がちょっくら地味だ」
軍服の男は恍惚の表情を浮かべていた。
「そこまで考えてるならこっちからは何も言えねえな。あとは本番にどうやって見せるかだ」
「それも考えてるぜ。開催期間が五日だろ? 予備含めて六発弾を用意してるからな。それぞれの開始時間に一発ずつドーン!!」
軍服の男はうっかり勢いのまま牛を叩いてしまった。牛はモーと鳴いて男を振り落とした。周りの村人達は慌てて大砲の安全を確保しつつ牛を宥めなければいけなくなった。
***
博覧会は主に歌舞伎舞台(現代幻想郷ではライブ会場が太陽の畑にあるが、当時は里の中にそれに相当する建物があった)を貸し切って行われた。
ただし、いくらなんでも里の中で大砲を発砲するわけにはいかないという理由により、大砲だけは神社の境内に置かれた。宮出口家の当代当主はたいそう渋い顔をしていたが、巫女はこういうのに比較的理解があったため実現したのだった。あるいは、鈍感だったのかもしれない。神社から山に向けて連日榴弾が発射される様は、巫女以外の多くの人妖にはある種の、かなり示威的な意味が込められているように見えていた。
それはそれとして博覧会は連日盛況だった。職人の粋を集めた精巧な工芸品やからくり、幻想郷外、特に舶来の珍品に老若男女問わず目を輝かせた。特に結界によって流れてくる舶来の物は白眉であり、それらだけを見るためだけに外からも多くの人間(そして偶に妖怪)が来たという。小はライターから、大は歯車が縦横に大量に積み重なって壁のようになっている機械(元々それがあった国では「階差機関」と呼ばれていた機械だが、幻想郷においてはついぞ用途は分からず単に謎の機械という扱いだった)まで人々は人類の技術の可能性に酔いしれた。
しかし、なんといっても博覧会の目玉はあの西洋将棋を指す人形だった。稼働するのは昼と夜それぞれ一時間ずつだけだったが、かえってその短さが貴重さと捉えられて、特に対戦権がついた券は高額であったにも関わらず一瞬にして売り切れた。
そもそも貴重さが押し出されなくとも精巧さでだけで主役の素質には十分だった。かつて欧米でそれが展示されていたときのように、完全な自動人形と信じている人も観に来れば何らかのトリックがあると思って来る人もいたが、前者の人達は自動さを確信したし、後者の人達は仕掛けが見つからず打ちのめされていった。「彼」は目隠しをされようが台に磁石を置かれようが我関せずという風にそのチェスの腕前で挑戦者達をなぎ倒していっていた。
***
紅魔館地下。ここには館の主の妹、フランドール・スカーレットが幽閉されている。給仕の類は普段はメイド妖精がやっているので美鈴はあまり立ち入らないのだが、今回はレミリアから直々に必要だと頼まれたので入った。
「日本に行きたい? 行けばいいじゃん」
「私がではなくお嬢様が、なのです」
レミリアは幻想郷に行くことを諦めていないが、流水を複数回超えなければならないというのがやはりネックであり、紅魔館随一の知識人たる妹(本を読むくらいしかやることがないらしい)に助けを乞うた、というわけである。
「征服者気取りなのかしらね。結局、世界っていうのは巨大な鳥籠なのよ。ヴラド公は悪名を背負う覚悟を負ってまでオスマンに対抗しようとしたけれど、結局ワラキアという鳥籠から出ることはできなかった。ドラキュラはユーラシアという鳥籠からグレートブリテン島という鳥籠に入ってそこで討たれた。お嬢様だって、アメリカに先んじて日本を征したところでどうせその外側に到達できない籠の外があることを悟るだけに違いないわ。足ることを覚えるべき。どうせ同じ鳥籠なら安全な鳥籠の方がずっといいじゃないの」
フランドールは気が触れているから幽閉されている、ということになっている。実際のところは精神的に安定しているように見受けられるが、一方で気が触れている触れていないとはまた別の面倒くささ、人を煙に巻くような悪癖のある話し方をされると、レミリアが彼女を幽閉するという強硬手段に至ったのもさもありなんと思わずにはいられない。フランドールは仮に市井で評判になるようなことがあれば、レミリアの権威を危うくする危険性を孕んでいる。フランドールはレミリアを征服者と評するが、彼女は征服者である以上に統治者なのだ。
「『行くだけ無駄』という答えで満足するお方ではない、ということはご存知でしょう?」
「知ってるけどだからといって耳触りのいい答えが目的化したらそれはそれで駄目じゃん? じゃあもうちょっと真面目に答えるわよ。シンプル棺か何かに縛り付けて入れて船便」
「高速船を借りて近いことはやりました。沖に出た時点でドクターストップをかけましたが」
フランドールは息を飲んだ。この館の住民は自分以外馬鹿の集まりなのか? そして、もう一つ愕然とすることとして、「今の吸血鬼は船では海峡一つもわたれない」という単純な事実すらも、こういう馬鹿がいないと確定しない。
「ああ、一通りはやったのね、考えたんじゃなくて……。だとするとお嬢様は私に空想の話をしなさいと言ってるんだ。じゃあ二通りの提案があるわね。一つは科学技術の発展を待つこと。今は空を飛ぶ機械とか、果ては月まで行くための大砲とか、そういうのを作ろうとしているところらしいわよ」
「人間が空を飛ぼうとはとんだ夢物語ですね」
「魔法と区別がつかないよね」
「いずれにせよ実現すれば吸血鬼でも海を越えれるのでしょうか?」
「吸血鬼って元々飛べるのに海を越えれないのだから、それだけだと厳しいかもしれないけれどね。やってみないと分からないし、やってみるのは貴方達の役割。確実を求めるならもう一つの手段、魔法を使った方がいいわよ。空間転移魔法を使えば海関係なく……。あー忘れて」
「はて? それは難しいと」
「あー、うん。とりあえず私には無理だし」
フランドールは言葉を濁した。空間転移魔法の可能性を取り下げたのは実現可能性の問題ではなく、それが人だけでなく館を丸ごと転移させてしまえる(そうなったらとても面倒!!)可能性を秘めているからである。
「まあ、一応お嬢様には伝えておきます」
「うん……」
しかし、滑らせてしまった口は取り返しがつかない。自分の姉が「実現が難しいことほど燃える」という厄介な性格を持ち合わせていることは知っているけれども。
***
天狗が情報の拡散を行い、海の向こうの吸血鬼が憧憬を抱きと、妖怪達がそれぞれの形で幻想郷の人間が行っている展覧会に関与していく中、また別の妖怪勢力も介入を実施しつつあった。
その妖怪達はこの時代の名家のものとしてはごく典型的な大きさの家に住んでいた。ただし、その家はこの世のどこにも(そしてあの世のどこにも)所在していない。
「最終日の券は無事取れているかしら」
どこにもない地で、道士服を着た少女、八雲紫は自身の従者にそう問うた。従者もまた道士服だが、狐耳が生えていたり九尾が生えていたりする。賢者の式神、八雲藍。
「無論それは抜かりなく。人間の券争奪戦に遅れを取る妖怪ではございませんので販売と同時に」
紫は微笑した。仕事に対して真面目、という以外の極めて私的な動機が行動の早さに見えるが、それもまた愛おしい。
「しかし、一枚でよかったので?」
「いいわよ。貴方一人で行ってきなさい。最終日だけはどうなるか分かりきっているからね。計画が上手くいけば」
「流石でございます。ただ、私が申し上げたいのは計画のことではなく、この博覧会自体が現時点での人間の到達点を知るまたとない機会なのではないかということで」
「確かにそれは非常に興味深いこととは思っている。ただ、幻想郷内で開催されている以上『私達』にはいくらでも観る手段はあるの」
紫はスキマを開いた。その向こうでは博麗神社に設置された大砲がこちらに照準を向けている、ように見えている。
「貴方を寄越すことにしたのは折角だから、という意味もあるのよ。単に将棋の腕前だけでいうなら私でもいいのだけれど。時間が余ったら見物していくといいわ」
「正直面倒だから、と思ってました」
紫は閉じた扇子で藍の頭を軽くポンと叩く。
「否定はしないけどね。分かっているのなら面倒のないように徹底的に、ね」
「御意」
***
「多面指しを希望? 冗談じゃない。見て分かるだろう? この人形だと複数の盤相手に同時に戦うことはできない」
博覧会最終日。元々千秋楽ということで様々なことに決着をつけたいという欲望が渦巻く熱狂の中、開幕早々客の一人が発した提案により空気はいよいよ不穏の色を帯びていた。
「いやでも嬢ちゃんの言うことにも一理ある。連日こっちはその『異邦人』に負け通しなんだ。最後くらい駒落ち以上の優遇がこっちにあってもいいじゃないか」
「無理やり多面指ししたとてこっちのゼンマイが焼き切れちまうよ」
「どうしても無理というならせめてその人形もどきの種明かしをだな」
「種なんてありませんよ。こいつは正真正銘の自動人形
でござい」
客と運営との間で一触触発の気配。
「おっと言い方が悪かったな。皆さん勘違いしておられる」
しかし、その空気の元凶たる少女は切り裂くように通る声色で緊張感を一刀両断してみせた。
「多面指しの『親』はその人形じゃない。私だ」
「嬢ちゃんが? へっ、冗談が。こっちは里の将棋大会上位常連とそいつらが束になっても敵わない異人人形よ。女で勝てるわけが……」
「本気だよ」
少女は運営が抑えるのを膂力だけで振り切って人形の横に立ち、頭巾と外套を一気に外してその耳と尾を露出させた。
会場が静寂に包まれる。
「賢者の九尾、八雲藍がこの場の全員を同時に討伐してみせよう」
藍は人形の盤に乗った黒のクイーンをつまみ上げた。
「西洋将棋で」
静寂の中から少しずつどよめきが起こる。この時代、人間と妖怪の間には生存競争にも似た緊張感があった。妖怪が白昼堂々里に入るなど言語道断と言ってもよい。ただ、妖怪に敵意が感じられず戦闘以外の手段が提示されたことで人間達は混乱した。
否、混乱の原因はもう一つあった。泰平の世の中で牙を抜かれた里の人間達にすら本能的に分かる。この妖怪を力尽くで排除することは不可能だと。
かくして人形は里中からかき集められたチェス盤(及びそれを乗せるための机ないし箱)と共に一列の横陣を形成し、人形の対面に藍が立った。
多面指しとは、一人が同時に多数の相手と同時に対局するというものである。今回は、元々午前中に人形と対局する予定だった藍以外の人、その場にいて腕に覚えがある人、そして藍が正体を明かした瞬間には会場の外にいたが「妖狐と対局ができる」という噂を聞きつけて馳せ参じた物好き、総勢二十名弱及び人形一台が下手
に座った。
対局が始まると人間達はすぐにそれぞれ初手を指し、藍は歩いて机を周りながらそれぞれの盤に対して二手目を投じた。
ところで将棋系の遊戯は戦争を模したものとよく言われる。そうならば今藍に対峙しているおよそ二十名は魔王軍に対抗して組まれた勇者包囲網、とも言えるのかもしれない。藍は参加者全員に先手の色たる白を譲り自身は黒の駒を操作していたからますますその構図がふさわしくなっていた。
ただし、この日なされたのは概ね戦争ではなく虐殺であった。藍はかなりの早指しをしていた。序盤のうちは定石があるからむしろ短時間で進行するのは普通と誰も気に留めなかったが、序盤を抜けて定石から外れてなお藍は全く思考していないかのようにゼロ秒で着手を行った。まるで部屋の中を何周も歩き回りながらそのついででチェスをしているかのよう。むしろ藍が戻ってくるまでの間に対戦相手の次の手が完了しておらずそれで待たされることが多発した。
「王手
」
三十分足らずで盤のいくつかでは藍が勝勢に突入した。むしろ多面指しだからそれだけの時間粘れていたのであって、普通にサシで対局していたら十分とかからず詰まされていただろう。
そこから数巡で最初の脱落者が発生、「包囲網」は崩壊を開始した。盤が減る分藍がやってくる間隔は短くなっていくから敗北まで加速していく。
人間達は、人智を超えた存在はある、という至極当然のことを思い出した。
そして、数分後には、ターバンを巻いた人形も、駒を動かすことなく藍を対面にして一礼した。西洋技術の結晶でも、人智を超えた存在を討つことは叶わなかった。
「これで全員敗北か……」
「いや、まだ一人戦っている」
「なんだと!?」
藍に討たれた村人やその様子を見ていた観客達はうなだれ、放心し、消沈していたが、まだ対局が続いているとの報によりお通夜みたいな空気がざわめいていった。
最後に残った一人は少女だった。やたらと分厚く着込んでいて顔も見えにくいくらいだが、見える範囲の印象では藍と同程度に若く見える。無論藍の実際の年齢は見た目通りではないだろうが。
最後に残ったのが女ということに男性陣のプライドはいたく傷つけられた、ということはなかった。皆がこの少女が最後になったことに気がついた時点で盤面は既に誰が見ても藍の勝勢で、むしろなぜこの少女が最後まで生き延びたのかが分からないくらいだった。
「手加減してます、よね」
少女も不可解さには気がついていて声をかけた。
「手加減してない、といえば嘘になるな。チェック……続けるか?」
上手い人には藍が相手を詰ませに入っているのが見えていた。実のところ、対局をしている二人にも見えている。
「もう少しだけ。私が少女と見て情けを?」
「違うな。……万一違うようなことがあれば謝るが、むしろ逆だと言ってもいい」
駒を持とうとした少女の手が止まった。
「それは……どういう……」
「一人だけ、大局観が他と著しく乖離しているように感じた。この地ではチェスは将棋の変種として受容された。だから皆将棋みたいな感覚でチェスを指す。だが、貴方だけは将棋としてチェスを指していない」
「……」
「よく言えば大胆、悪く言えば駒の価値を著しく低く見ている指し手だ。将棋指しとしても、この手の遊戯を始めたての人の手としてもおかしい。初心者は駒を過剰に可愛がるものだからな。じゃあ貴方の大局観はどこから来ているのか? 駒の一枚一枚あたりの価値が少ない、自軍の駒すら積極的に減らして局面を単純化させる必要があるような、より複雑な盤面から始まる遊戯。大将棋系に慣れ親しんでいる者の指し手と私は推理した。そうなんじゃないか? 天狗の子よ」
少女は両膝の上に手を置き、一度深呼吸をした後頭巾を脱いで一礼した。その様子を見た会場のほぼ全員、藍以外の全てが息を飲んだ。
「参りました」
そう告げた少女の頭には、白狼の耳が生えていた。
***
「里の人間、いや、幻想郷の住民はつつがなく打ち倒され、そのまま博覧会は終わったことを報告させていただきます」
藍は自宅にて紫に頭を垂れていた。
「そう。運営の村人さん達は怒っていた?」
「いえ……。ただひたすら呆気にとられていたようでした」
「重畳重畳。一旦目的は果たされたわね」
紫が藍を派遣した理由。端的に言えば、紫の目には今の村人はあまりにも増長していたように見えていたのである。この増長は、感情的に気に食わないという問題ではなく幻想郷、より正確には幻想郷の妖怪の安全を脅かしかねないものであった。村人の一部は、舶来の技術や科学に過剰に夢を抱きすぎていた。その力を得ることができれば人はいくらでも発展できるものと。紫の目には、科学で武装して妖怪を恐れなくなった人間の未来が見えていた。もしそうなれば幻想郷を成立させている前提の精神性が崩壊してしまう。
だから、幻想郷が現状持ちうる技術力の頂点に達していた博覧会の場で、人間は妖怪に討たれなければならなかった。故に藍は侵入に成功するや否や積極的に自分が妖怪であることを誇示したし、その知力一本でコテンパンに人間達を打ちのめしたのである。
「それにしたって抗議の一つもないとは。いささか拍子抜けですね」
「血を望んでた……?」
「いえ……」
でも今の発言をそのまま受け取ったら確かに流血沙汰になったら喜んでいたかのように聞こえてしまうな、と、藍は自身の獣性を反省した。
「ぐうの根も出ないくらいに貴方が圧勝した、というのが一番大きいんでしょうけれど、多少とはいえ利害が一致していたというのもあるとは思うわ」
「誰と誰がです?」
「私達と博覧会の運営さん」
「そうでしょうか?」
「だって、あの人形のネタバラシをされたら困るでしょ?」
運営からしてみたら当然好ましくない。いくら公開最終日だとしても、人が入ってたことを白日の元に晒せば、それまでの見せ方が一種の詐欺だと受け取られてしまいかねないからだ。
そして紫もとい妖怪の側にとっても、あの人形は神秘のままでなければならなかった。もし人間の手だけであれだけの動きができると皆が知ってしまえばどうなるか。空を天狗が飛んでいる? あれくらい人間がその気になればからくりで作れる。川を河童が泳いでいる? あれくらい人間がその気になればからくりで作れる。
技術的に、あの人形は「思考しているかのように見える」というのが紫らの立場では一線を越えてしまっていた。それは科学の領分であってはならない。自然か魔術かでなされるべきものだ。
「振り返って思えば、私が対局をする前『種明かしをしろ』という抗議の声も挙がっていました。介入できていなければ危なかったでしょうか」
「どうにでもなる、と言いたいけれど面倒なことにはなったでしょうね。人間の探究心は底抜けだから。それが良いところでもあるのだけれど」
「だとするならば、これで終わりではない、でしょうか。探究心を根から抜いたわけではないですし」
「でしょうね。博覧会の次はないわね。残念だけれど。後、猶予もそんなにない。遠くでは薩摩や長州が戦争になったらしいし」
「いざとなれば、幻想郷を隔離」
「いざとなれば、というかそこはもう確定事項よ。あとはできるだけ穏便に、犠牲を最小限にしながらそれをなせるか。ここにタイムリミットという条件が追加されたのが今回の件」
紫は息を吐いた。鷹揚に振る舞っているが、彼女自身も多忙なのだ。少なくともあと十年か二十年は冬眠もできまい。
「その件で報告があります。山童の製紙組合に接触して、秘密裏にこちらで紙を買い上げるという取引を締結することに成功しました」
「オーケー」
「直にこの家が紙で埋まり始めると思います」
「適当に外に流しとくわ。外の連中の方がなんだかんだでいい方向に使ってくれるでしょう……。紙で思い出したのだけれど」
「なんでしょう?」
「貴方がチェスをしたとき最後に残った天狗。結局彼女は何が目的で潜入してたの?」
「対局後聞いたのですが、天狗の側に計画があるわけではない、あったとしても彼女は知らないとのこと。本当にただ個人的に来てただけのようです」
「チェスを指すためだけに?」
「あの人形と一局対決してみたかったと。私の他に券を入手したのが彼女だったのです。人形と対決できなかったのは残念でしたが九尾と指せるなんてまずないことなので感動しました、とも」
「そう」
奇しくも最終日の対局権は妖怪に買い占められていたらしい。今となってはだからなんだという事実ではあるが、それだけあの人形が生んだ熱狂は広範だったということか。
「楽しかった?」
藍は紫の質問には答えず、少し顔を赤らめた。紫にはそれで十分だった。
***
「射命丸、河童の状況はどうだ」
「さっぱりです」
天狗達は博覧会において幻想郷内外への情報発信において大きな役割を担い「勝ち組」となったが、その余韻に浸る余裕はなかった。博覧会から少し経った頃になって、河童が突然印刷業務を拒否したためである。
「さっぱりって、要求の一つもなしにだんまりか」
「普通に値上げ要求は来てます。そして普通に飲めるわけがない額を言ってきているので実質交渉に値する要求なしに黙っているのと同じです」
天狗達の視点では河童による謀反だった。あるいは社会史的観点からいえば、これは日本最古のストライキでもあったが、当時の彼女らにはその語彙はなかった。
そして河童が印刷を拒否しているのは、博覧会が終わった直後あたりから紙の価格が異常に急騰しており、その分が代金に反映されないと絶対に採算が取れないためであった。つまり(例えば単に面倒だからなどというのとは違い)、河童の側に正当性のある要求であり、故に天狗は頭を悩ませているのだ。
「天魔様に働きかけるか? 情報網は我々の存在意義の一つでもある。つまりは紙を確保するというのは道路を整備するのと同じで公共事業として成立する……」
「今の紙の価格を考えてください。この一月で倍です。来年には金箔に切れ込みを入れて文字を書いた方がまだ安いくらいになるんでしょうね」
文は軽く息を吐きつつ置かれた状況を悲観した。
「里から紙を買って持ち込む、のも変わらんか」
「おそらく。瓦版も最新号が値上がりしてるようなので」
「まあ紙自体の価格が上がってるならそうなるか……。待て。印刷機に使ってる紙も河童に機械生産させてたやつじゃないか。それが紙の値段が上がったから無理って、河童共は自分で作った紙の値上がりで自分の首が締まっているという変な状況に置かれていることになるぞ」
「それについて私の方から報告が」
龍の背後から囁き声が聞こえた。管狐の菅牧典である。文ら鴉天狗が「外交的に」情報収集を行うのに対して典は「諜報的に」それを行う任務に従事することが多い。今回も龍は典に秘密裏に河童の同行やら紙の高騰理由やらを探らせていたのだった。
「結論から申し上げると、紙はできた段階で山童に全部買われています。で、山童は買った紙を廃寺に搬入する」
「妙なことを。儀式でもするつもりなんですかね」
「確かに変だな」
この場の全員には一つの確信があった。山童が金にならないことをするはずがないという確信である。
「無論私も調べました。が、廃寺に持ち込んだ紙がどうなってるのかは不明ですね。潜入した部下曰く、単に紙の入った箱が山積みになってるだけで、しかも寺に入っていく動きはあっても紙を持って出ていく様子は全くない。とはいえ、その上で何らかの形で換金には成功してるっぽいんですよねえ」
「紙以外の物を持って出ていく様子はないのか?」
「確かに、地下にでも作業場があって紙を何かに加工している、とかなら筋が通らなくもないですか」
「いいえ。強いて言えば小判を持ってるのは見ました。あいつら錬金術にでも成功したのかな?」
典は軽口を叩いたが、その話し方にはいくらか困惑の色も見えた。
「その廃寺はどこにあるやつだ?」
「地図を……。ああ、ここにあるやつです。まあ天狗の子供の遊び場としてはごくありふれた寺ですね。無論今は周辺の敷地含め関係者以外立ち入り禁止になってますが」
典は龍に出してもらった地図の一点、山の中腹を指した。
「あそこか。確かにありふれた寺だな。そう大きくはない。で、価格の推移から察するに、もう一月以上は紙は買われ続けている……。典、もう一度調査だ」
「何をでしょうか?」
「まず、廃寺にある紙の量を大まかでいいから見てくれ。それが終わったら何日間か『寺から出てくる者が誰か』を監視しろ。見つからない様に安全第一で、だ」
「ふむ? ……ああ、了解です」
「あのう、私は……」
手持ち無沙汰になった文は恐る恐る龍に問うた。
「駄目元だが一応河童との交渉は続けろ。予想が合ってればもうどうにもならんがね」
龍は珍しく現状を打開しようという素振りは見せず、ただ諦めていた。
そして典に命じた数日が経った後直ちに本人から報告がもたらされた。忠誠心に懸念すべきところはあれど、根本的には有能なのである。
「まずは紙なんですが、丁度かつては仏像があっただろう場所に積まれている感じですね。歩ける空間が残っている、どころか壁に近い一部にしか紙の箱はないです。確かに妙ですねえ」
工業化しきった国家には到底及ばないとはいえ、その気になれば価格競争で里のあらゆる紙製品を駆逐してしまえるほどには河童による紙の量産体制は整っていた。その生産能力で作られたものが出口のない場所に集積していたとすれば、もう少し箱の数は多くなければならない。
「つまりは黒幕がいるってことだな。その姿は捉えられたか?」
「いいえ。出てくるのも緑色の迷彩服だけです。あと追加調査としてやらせてもらったんですが、百々世殿を焚き付けて直下に地下道でもないか見てもらったんですよ」
「あまりあいつを巻き込まないで欲しいものだが……。それで?」
「ありませんね。地下には何も」
「そういうことだな。現状をまとめると、紙は山童に買い占められていて、しかし裏には山童から更に紙を買う黒幕がいて、そいつは廃寺という袋小路から紙を取っている」
「買い占めるにしたって正々堂々やればいいのに。後ろめたいことでもあるんですかね」
「黒幕さんもお前にだけは正々堂々とは言われたくないだろうよ。多分だが、後ろめたいからこっそりやっているわけじゃないというかこっそりやるつもりすらないんだ。現に我々にバレてるしな。バレるようにしているのも、敢えて出口のない場所で紙を買うのも目的は同じと見たね。『お前ら天狗に対して敵対的買い占めを行なっている我々はこういうことができる存在なんだぞ』という意思表示だ」
「じゃあ私達は釈迦の掌の上っていうことですか? 思惑通りに調査までして」
「悔しいねえ。天狗じゃあお釈迦様には勝てない」
釈迦じゃないくせに、と既に黒幕の正体に思い至っている龍は内心で歯噛みしていた。
とはいえ、結局掌から抜け出せなかった孫悟空の如く天狗達はもう詰んでいるのだった。
「おしまいですおしまい。あいつら気違いです!!」
文が今にも泣き出しそうな大声で入ってきた。
「射命丸殿何事で」
「どうもこうもないですよ!! あいつら印刷機をぶち壊しやがったんですよ!! 『私らはもうテコでも動かん。この事業は終いだ』って!! あいつらに、機械工としての誇りはないんですか!!」
「河童の考えることは分からんが、まあどう考えても事業としては無理だよ。あえて予想するなら、採算の取れないことに固執するくらいなら次の機械の部品に再利用した方がいいってことかね。私達も手を引こうじゃないか」
「そんなの横暴じゃないですか!!」
「ああ横暴だ。この件の黒幕は、間接的に言論の自由を弾圧してる。だがなあ、正義が必ずしも勝つわけじゃないんだ。特に幻想郷の中も内憂外患、幻想郷の外も内憂外患というこの状況では、技術や言論というのは扱いが難しい。社会を不安定にすることはあっても安定させることはあまりない代物だからな」
「大天狗様は支配者面ですねえ。そんなんだから権力は駄目なんですよ」
文はいじけきって革命家気分だった。
「私も別の権力に上から押さえつけられている立場なのだよ。今戦うならお前一人でやってくれ。天狗としても個人としても協力はできん」
「飯綱丸様冷たーい」
「今は時期じゃないってことだ。ここから二十年、三十年、四十年、どのくらいかは分からないが、どこかで今許されてないことが許されるようになるくらいこの世界は安定を取り戻すだろう。そうなったら反撃の頃合いだ。我々だって今回の件で何も得なかったわけじゃない。黒幕は紙を幻想郷から奪うことはできてもここは奪えなかったからな」
龍は自分の側頭部を右手人差し指で叩いた。
***
レミリアと美鈴はドーバーに来ていた。
ドーバーは英国にとっては玄関口と言える街であり、天気がよければ水平線上にフランスの港町カレーが見える程には大陸と近い。
ただし、グレートブリテン島は島であるからにして、その短距離を移動するのには海を渡らなければならない。吸血鬼たるレミリアにとって、対岸カレーに見える灯台の光は手で掴めそうなくらい近くに見えながらも途方もなく遠いのである。
二人がドーバーに来たのは真夜中だったが、レミリアには海の鈍色もドーバーを象徴する白亜の崖もはっきりと見えていた。その二つの色のコントラストのいずれも苛立たしかった。
「有史以来、人類が生み出したどの防壁よりも堅牢なる要害こそが海だと言うだけはあるわね」
「私の祖国にはとても長い城があるんですが、海ってそれよりも強いんですか?」
「強いでしょ。とても悔しいけれど、吸血鬼
ですら勝てないんだから」
レミリア達は幻想郷なる地へ行く方法を見つけることができなかった。何もかもこの忌まわしい海のせいである。
結局、幻想郷とはどのような地だったのだろうか?
「最近はないの? 幻想郷についての噂話」
グレートブリテン島から出れないレミリア達が頼れる情報源は港、あるいは港に近い都市部に来た中国人船員だった。美鈴がレミリアに見せたポスターも、元は美鈴がロンドンに来ていた船員の一人から貰ったものだ。つまるところ、"Shanghai"には固有名詞だけではなく動詞としての意味もある。
「聞きませんねえ」
しかし、Shanghaiされた船員達もここのところは何も情報を持ってこない。行けもしないし何の話もないとなると、いよいよその実在すらも疑わなければならなくなってくる。
「そういえば妹様は幻想郷について『ユートピア』なのではないか、と言っていました」
「理想郷だっけ? あの子はちょっと本を読みすぎてるわね。もう少し現実世界に触れさせてあげたほうがいいかしら」
「うーん。妹様の話しぶりは否定的でしたね。『元々の意味はどこにもない場所なのよ』とかそういう。無何有之郷のようなものでしょうか」
「悪いけど中国語はさっぱりなの。大体ね、私は所詮夢物語だったとか、どうせ酸っぱいぶどうだったとか、そういう諦め方はしたくないの」
レミリアは石を夜の海に投げた。石は百メートル程飛び、ボチャンと音を立てて海底に没した。
「取るわよ、世界を」
美鈴はフランドールのレミリア評を思い出した。征服者。ただ、その強引さはなぜか嫌いになれなかった。
「はい!!」
「いい返事ね。そのやる気を見込んで頼みたいことがあるの。魔法使いを一人探して頂戴」
「魔法使いを、ですか?」
「フランが言ってたらしいわね。どうしても海を越えたくないのなら空間転移術だと。でも今のところそれができる人がうちにはいないから探してくるしかない。そうでなくても代々伝わる蔵書の管理をそろそろ考えないといけないし」
「待ってください。妹様はそれは難しいだろうとも」
「不可能とは言ってなかったでしょ? もしあの子が言ってたとしても、私の辞書には不可能はないの」
「私は魔法は知りませんが、常識の範囲で分かりますよ。ドーバー海峡の幅を空間転移で超えるだけでも大魔道士クラスの魔法使いの助けが必要になる」
「だから私は貴方に捜索を頼んでるの。流石に魔法使い一人を探すために何十年も館を空けることはできない」
「それは……」
「信頼してるわよ」
「うげえ」
美鈴はレミリアの強引さを嫌いにはなれなかったが、大変か大変かでないかいえば大変である。この魔法使い探しにも、大英帝国の植民地も巡りつつレミリアの予言通りに数十年間かけることになったのだが、それはまた別の話である。
***
その後、チェス指し人形がどうなったのかについて確かな記録は遺っていない。
とはいえ、人形そのものではなく周囲を巡る状況に関しては確かなことが二つある。うち一つは、幻想郷博覧会の二度目はなかったということだ。直接的には賢者がそれを許さなかったのだが、社会の趨勢として開催できなかった、と言い換えることもできる。
しかし、博覧会による広告効果がなくとも、幻想郷の技術、異文化に対する寛容性、それらは意外な程順調に発展した。博麗大結界の動乱の時点において、確かに幻想郷は血と鉄で武装された近代的工業国家のようにはなっていなかったが、さりとて只の山奥の村というのも違う、例を挙げるならば菜種油の行灯で照らされた舞台で里の流行りの西洋歌劇を着物姿の集団が牛串片手に見物する、そういう社会となっていた。これが、人形がいた社会のその後について確かなことの二つ目。
この二つから察するに、チェス指し人形は確かに幻想郷社会に大きな影響を及ぼしたが、それが焚き付けた人妖の好奇心故に急速に陳腐化して好事家達の関心事からも外れていったのだろう。
仮に明治十七年の村人に人形について問えば、多くの人がこう答えるだろう。
「その程度、俺達にだって作れる」
チェス指し人形は神秘性を喪失した。それは当時の賢者達が恐れ、かなり直接的な介入を行なってまで止めたことである。
では、賢者は人間の叡智あるいは傲慢さに敗北したのだろうか? 否、幻想郷の人間達が最後に到達したのはかつての進歩派のような科学や合理主義への盲信ではなく、内的成熟だった。
先の質問について、明治の村人達はこう続けもするだろう。
「だが、俺達にできるのはからくりを作ることまでだ。それが本当に生きているように考えているっていうなら降参だね」
人間にもできること、人間だからできることもあるし、逆に人間では辿り着けない、辿り着いてはいけないこともある。幻想郷の人間は分別をつけることを覚えたのであり、その幼年期の終わりを見届け良しとした賢者達は世界から袂を分かつことを決断した。博麗大結界異変については、そういう言い方もできるのだ。
ところで、今から八十年程前に、今度は何のトリックもなしに真に自律して動くチェス指し人形が幻想郷に漂着したという噂話があった。
この話の真偽は不明である。御阿礼の子も空位の時期で、確かな情報は現存していない。少なくとも魔界の人形術師は「そんなこと知らないわ」という証言を遺している。
仮にその人形がある時期実在していたのだとしても現存はしていないし、現代に至るまで、件の人形術師含め、幻想郷や周辺世界の住民は誰一人として完全な自律人形の開発には成功していない。