Coolier - 新生・東方創想話

暗闇は紙のよう

2025/01/01 23:48:45
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***

……はじめましてきょうからつかれたゆきがあなただけおかしみしゅうとくてんこうさよならしょうこうこうろわたしたちよばれてきゅうしゅううらないふくざつえりまきはんどうはいかいかんせいむしぐれせいかつしもくもくとせんていこうさつおはようのうみそあえるかしらゆるされてこみあいびりゅうしびしょうかんさつかいゆきかきまほうつかいだろうもしくはあんていいんりょくどくふくみわらいちょうちょうささげるいのりつみほろぼしみりんこまかわやせいしんきょくせんびょうきふかいおろかなゆびさきかいせつせいどうくるまなべものいいわけたんせいあまのじゃくふぶききゅうしゅつかんけいあるきだすさけぶしあわせとうけつがいかいうごかしてうらずきもくせいいきものたいせつたまごやままほうのもりちょくれいさんこうぶっだはんしょうそんざいにんげんむらさきあなたどうしようもなくふゆようせいまちがいたましいきょうしゅうかくれがむりじいとまれないへんじをきょうがくあいまいかんていうしろむきつまらないたくしょうてんせいしょうじきかまつまさきとうぼうはいけいこのみさけんでいただからもうそうはんにんたいていあるひあさぼらけむかしばなしげんけいほまれとむらいいかがかもしれないあらねつよくぼうくみあわせたましいつきよくまのみみずところがふたりきりてんそくつられてほうこうとうとうちょうししんじるたのみごととうけいがくしにがみかわいいゆううつぜんぜんせんこくえんきんがくせいべつべっしょうごくらくえんとつうかがいやくめあまいふんきゅうやいばらんぼうこつこつへんげんふしぎさきみだれてえのぐぐうぜんいちじるしくてつだういちょうきぶつじゅうじゅうれんけいけつべつあまやどりすがたかたちによるいつまでもすなわちおかえりなさい……

***

1
 頭の中で言葉をだらだらと連ねることはできる。その一方で外側の世界のことはなにひとつ感じることができない。なんにも見えないし、音もかすかにしか聞こえない。もちろん匂いだってない。
 わたしの全身の肌には、ざらざらとしたなにか固いものが貼り付いている。だから身動きをとることすら叶わない。実際のところ、そのざらざらした固いものは石にちがいなかった。なぜならわたしはついさっきまで石造りだったのだから。石の中から生まれたわたしの肉体には、当然ながら石の皮がすき間なく密着している。だから目を開けることができない。鼻の穴も、耳の穴も通っていない。
 わたしと同じようになんの感覚も持たない生命体がほかにも存在しているとして、その子はきっと自分自身を取り巻く世界の情報なんてなにも知ることができないはずで、だから「自分はこういう、暗闇の中でなんにも感じないまま、それでも淡々と生きていく生命体なんだな」って、わりとすんなり状況を受け入れることができたんじゃないかって思う。いや、それはどうなんだろう。ひょっとすると、なにも感じることができない生命体は「自分」っていう概念さえも理解できないのかもしれない。
 でも、わたしは違う。わたしは外界のいろんな情報をすでに知っている。外界のいろんな情報を知るための方法が存在しないにもかかわらず。
 たとえばわたしの居場所について、わたしは「魔法の森」という、とても固有名詞とは思えない名前の場所に突っ立っている、っていうことを知っているし、その魔法の森は「幻想郷」という、魔法の森よりは多少考えて命名されたらしい名前の地域に含まれている、っていうことを知っている。それから、わたし自身の生い立ちについても、わたしはもとは単なるお地蔵さんだったのに、魔法の森の瘴気にあてられていつの間にか垂迹したっていうこと、垂迹したっていうか、垂迹の方向性が珍妙にずれてしまって魔法使いになったっていうこと、それからわたしには「矢田寺成美」という、まあ誰かが一晩以上はちゃんと考えてつけてくれたんだろうなっていう名前がついていることも、まとめて知っている。
 例えるなら、人間の赤ちゃんがお母さんのお腹の中にいるときから、ぼくはお母さんのお腹の中にいるんだなあ、っていうことをはっきりと認識しているようなものだった。ちょっとこの例えは生々しいかもしれない。でも、わたしがこんな例えを持ち出せるのは、人間の赤ちゃんは生まれる前、お母さんのお腹の中でぷかぷか浮かんでいる、っていうことを知っているから言えるわけで、しかもその知識はべつに、人間のお母さんから聞いて得た知識じゃない。頭の中からなにげなく拾ったありあわせの知識だ。
 とにかく、石の皮にすっぽり包まれて外の世界とまったく交信できないというのに、わたしはいろんなことを知っているのだった。

2
 それにしたってわたしはこれからどうしたらいいのかしら? とはいえ、ぴくりとも動けないんだからべつにどうすることもできないし、まあ、生まれはお地蔵さんなんだから、動けなくたってべつにいっか。なんて自分を無理に納得させられるほど、わたしの精神力は強くないので困ってしまう。
 というか、どうしてわたしは考え事ができるのかしら。もっと根本的には、「どうしてわたしは、考え事をするための知識と言葉を持っているのかしら?」なんて考え事ができるのかしら。それって実際とっても薄気味悪い。なにも感じることのできないわたしが、持ちうるはずのない知識と、それを表現するための言葉を持っているのは。そして、わたしにそれらを与えた何者かの正体が、まったく見当もつかないのは。
 わたしがいま頭の中に揃えている知識と言葉は、かなり発展途上で不完全で偏りがあるんじゃないか、ってわたしは予想している。だけどこれはあたりまえの話。逆に、自分は全知全能、この世界のありとあらゆることを完璧に知っている、なんて本気で思ってるひとはちょっと狂っている。
 ただ、もしわたしの知識と言葉に偏りがあったとしたら、「あの地蔵にはこっちの知識は教えておこう、でもこっちの知識は教えなくてもいいかなあ」なんて言いながら、当人の希望をまったくかえりみることなく、他人の脳みそに詰め込むべき項目を取捨選択した、いけすかない誰かさんが存在してるってことになって、それはけっこう気色が悪い。だから、ほんの少しの確率で、もしかしたらこの世界にはわたしひとりしか存在しなくて、わたしの持っている知識が世界のすべて、ってこともありうる。そんな世界は恐ろしくつまらないだろうけれど。
 ところで、わたしには感覚はないけど感情はある。だから、こんな答えのない問いに向き合ってる間にも、精神的には順当にしんどくなってきている。

3
 まわりはいっさい暗闇だから、いったいどれだけの時間が経っているのかもよく分からない。もう息を止めてしまったほうが楽なんじゃないかしら。いっそ即身仏になれたら。っていうのは、まあ冗談で、わたしは冗談を思いついたときけっこうほっとする。まだわたしには冗談を思いつくくらいの元気が残っているんだな、って確認できるから。そもそもわたしは息をしていない。口も鼻も石の皮でふさがれてしまっているのだから。
 ところで、さっきからもうひとつ考えていることがあって、それは「わたしってほんとうに肉体を持っているのかしら?」っていうことだった。ひたすら不動のまま暗闇の中で暮らしている生き物は、他人からも自分からも「見られる」って経験をしないわけで、だから自分の見てくれなんかどうでもよくて、意識が存在してるだけでかまわないはずだ。おそらく肉体そのものを捨ててしまうことだってできる。
 でも、自分自身の容姿に関する知識すらも、わたしは最初から持ち合わせている。だからおそらくわたしには肉体があるのだと信じていたい。鏡を見たことなんて一度もないのに自分の外見を知っているのは相当不気味だけれど。
 ほかの多くのお地蔵さんがそうであるように、わたしはまんまるの顔と、まんまるの頭と、分厚い耳たぶを持っている。なで肩、痩せ型。背丈は低い。背丈は低い、わりとくやしい。乳房はひらたい。そういえば、どうしてわたしは地蔵菩薩なのに女の子なのかよくわからない。目はくりっとしていて、愛敬があるのはすばらしいことだ。でも、あまりにも目が大きい仏像っていうのはちょっと不気味な気がする。まあ、いくつか怪しい要素はあるけれど、おおかたは地蔵の要件を満たしている見てくれだと思う。
 こうした、生まれたときから植え付けられていたわたしの身体に関する知識が、果たして本物なのか、それともまったくのまがいものなのか、わたしは早く知りたくてたまらない。わたしは「幻想郷」の「魔法の森」に住んでいる「矢田寺成美」のはずで、でも、それをどうすれば確認できるのか分からないから、確信が持てない。それが不安で仕方ない。これはなんだか変な話で、ようするに、不安をかかえる衆生を救う役目のお地蔵さんが不安をかかえているってことになり、どうにも面目が立たない。

4
 わたしの頭の中ではいつだって、ものすごくのんきで怠惰な琵琶法師の側面と、説教部屋に閉じ込められた幼女の側面とがせめぎあっていて、発作的にそのふたりが終わりの見えない口げんかを繰り広げてわたしの心をかき乱すから、そういうときは暗闇の中で光の粒がふわふわ動くのを見つめてやり過ごすのがいつしか習慣になった。
 どうやら光の粒ひとつひとつの正体はなんらかの生きもので、その生命力が光として見えているらしい。具体的にどういった生きものから放たれている生命力なのかはわからないけれど。一個体一個体がものすごく細かい粒子で、肉眼でぎりぎり見えるかどうかっていう生きものなのかもしれないし、もしくは、それよりずっと大きい生命体から千切れた破片があたりに漂って生命力を発しているのかもしれない。そのくらい、光の粒は小さい。
 周りの空気をあてもなくふらついているそのひ弱な灯火は、わたしが見ようと思えばいつだって見える。頭の中で明滅する。わたしを取り巻く暗闇を光の粒が満たして、その不規則な挙動に集中していると、いつしか、妖怪の山の頂上のさらに上に広がる満天の星空の海を、ぷかぷか遊泳しているみたいな、そんな妄想が頭の中に浮かんできて少し楽しい。もしくは、お寺の和尚さんの説法がつまらなすぎてかんしゃくを起こした子どもが、うどん粉のぱんぱんに詰まった布ぶくろを台所のひきだしの奥に見つけて、袋の底に穴を開けて振り回していらいらを発散していたら、いつの間にか部屋の中が西日にきらきら反射する粉塵に満たされている。みたいな、そんな想像をするのも少し楽しい。たとえ、本物の星空や本物の人間の子どもたちを目にした経験がなかったとしても。
 もちろん、光の粒は、実際に目で見ているわけじゃない。目を閉じながら、頭の中だけで見ている。単純に、「脳内の眼」って呼ぶことにしている。なんとなく、人間たちが眠っているときに見る夢と少し似ている。
 脳内の眼を使うと、生きものたちの生命力は暗黒を背景とした光として見える。
 わたしの潜在的な能力が、そんな芸当を可能にしている。わたしはわたしが持っている魔法使いとしての能力を、やっぱり、いけすかない誰かさんのおかげで理解している。すなわち、自分をとりまく生きものたちの揺らめきを感じ取ることができる、っていう力、それに加えて、こちらから働きかければ彼らの生命力をあやつることができる、っていう力。正直、わたしがもともとお地蔵さんだっていうことと、その能力との間にどういう関わりがあるのか、自分でもよく分かっていない。
 ふつうの人間の目は、ひとつのものに焦点を絞って見ているとき、その周りにあるほかのものはぼやけて見える。わたしの能力に関しても同じようなところがある。ようするに、光の粒を見たいときには、光の粒を見よう、って念じなきゃならない。そうじゃないとべつの、もっと存在感の強い生きものが発する生命力に焦点が合わさってしまう。
 ちなみに光の粒のほかには、なんだかもしゃもしゃした感じの生きものも感知できる。わたしよりもずっと背が高いけど、密度が薄いというか、疎な生命体だ。きっと樹木を見ているのだと思う。ここが本当に「魔法の森」と呼ばれている場所なら、そうにちがいない。
 あとは、見ているだけで落ち着く、ってわけじゃないけど、存在自体が興味深い生命体もいる。わたしの足元、いやわたしの足の下のずっと奥に、つまり土の下と思しきところにも、生命体のゆらめきをかすかに感じる。なんの生命体なのかはもちろんわからないけど、太陽光の届かない土の下で生きるっていうのは、ひょっとするとわたしと同じような状況なんじゃないかしら。彼の存在を感じているだけで思わず、わたしは孤独じゃない、ってつぶやくこともできないのにつぶやきたくなってしまうのだった。

5
 東西南北なんていまのわたしにとってはなんの意味もない概念なので、あっち側、としか形容するほかないのだけれど、とにかくあっち側から何らかの生命体がわたしのほうに近づいてきて、ちょうどいま、わたしの目の前で立ち止まったところだった。同じような形、同じような大きさの二個体。光の粒はもちろん、樹木が発するそれと比べてもずっと膨大な生命力をたくわえていて、まぶしいくらいの朱色の輝き。しかも、なんとなくわたしと同じような輪郭をとっている。すなわち、人間のかたちをしている。しかも、かすかに声のようなものも聞こえるから、なにかお互いに言葉を交わしているみたい。あいにくわたしの耳の穴は開いていないからさっぱり聞き取れないけれど。
 と、なんの前触れもなく、わたしの頭の真ん中にある空間、おそらく鼻のあたりに、ごろごろとした感覚が生じた。脳内の眼の解像度はかなり粗いし、わたしが感じ取れるのは光の輪郭でしかないから、ふたりの動作は霞がかかっているようで、その手つきまでは正確に読み取れないけれど、どうやらかなりの強さでわたしの鼻の頭のあたりを触っているらしい。石の皮の上からでも、ある程度の圧力が加えられれば、だれかに触れられている、ってことははっきりわかるみたいだ。服を着ていたとしてもその上から触られれば、触られた、ってわかるのと同じようなものかもしれない。かなりびっくりしたけれど、なんだか心の中にはじんわりとした感慨のようなものがある。だって、これはわたしが生まれてはじめて味わった触覚っていうことになるから。
 続けて左耳のあたりに、それまでよりもいっそう鋭い、なんなら痛みに近い感覚が、肌を通り越して骨へと伝わってきた。きっと、指先でぐいって乱暴につついてきたんだろう。でも、不思議と嫌な感じはしない。むしろ、新鮮なうれしさがある。それまでわたしは、暗闇の内側から、どうにかしてわたし自身や外側の世界についての情報を集めようとしてきて、でもその作業にもいい加減うんざりしてきたころだったから、このときはじめて、暗闇の外側からわたしに対して働きかけてもらえて、それだけでなんだか、わたしはこの世界に居るんだ、って実感が生まれたような、そんな気がする。それに、とりあえず耳から鼻にかけて、わたしはちゃんと肉体として存在しているんだな、って確認できたのがうれしい。なんてことを考えていたら、いつの間にかふたりの影は霧のように目の前から消え去っていた。

6
 ふと気が付けば、左耳の先がひんやりとしている。顔の左側に生じたここちよい冷感が、わたしの肌の上を伝って放射状の網になって首から上をつつみこんでいる。これってどういうことなんだろう、穴が開いた、って解釈していいのかしら、って答える相手もいないのに誰かに尋ねてみる。いや、穴が開いたってことをわたし自身が疑ったところでなんの意味もない。たとえそれが小指の爪くらいの些細な穴だとしても、文字通り皮切りには違いないのであって、だったら素直に喜んだほうがいい。いま外の世界はどの季節なんだろう、ってわたしは想像してみる。左耳の先の小さい穴を介した冷温覚だけをたよりに。ひんやりして気持ちいい、ってことは春か秋なんだろうか。春だとありがたい。もし秋だったなら、来たる冬にわたしの体が凍り付いてしまいそうで怖いから。
 石の皮がどれくらいの厚みを持っているのか、いままで見当もつかなかったけれど、あんがい薄くてさくさく崩れるものなんだろうか。そういえばあのとき生命体の指先は、わたしの顔の耳から鼻にかけてを触っていた覚えがある。それくらいの刺激で簡単に剥がれるってことなのかしら。万が一、わたしのもとになったお地蔵さんの造形がよっぽど肥満体だったら、痩せ型のわたしの肉体にまとわりつく石の層は相当分厚いってことになって、だいぶ困るけど、まあそんなことはありえないだろう。あ、でも地蔵の表面に巻き付いている袈裟の部分は石のままなんじゃないか。わたしの肉体は裸の状態で石に包み込まれているわけで、たとえば石と肌の隙間に布の層があるとか、そういう都合のいいことにはなっていないはずだ。そう考えれば、顔から首までの石は薄いから簡単に剥がれるだろうけど、首から下の石は分厚くてなかなか厄介かもしれない。
 ところで、はじめての穴が左耳の部分にできたのは、あのぱんぱんに生命力に満ちたふたりの (おそらく) 人間が、わたしの左耳に触ってくれたからなんだろうか。それだけで穴が開くって、無茶苦茶すごいことだ。実は彼らは相当の功徳を積んだ行人だったりして。

7
 いつしか鼻の頭の周辺にもひびが入って、左耳の先と同じように寒々しさが染み込んできた。予想していた通り、あの生命体につつかれた場所だった。
 べつに鼻の穴や耳の穴が開いたってわけじゃないから、音や匂いは感じ取れないままだけど、それでも、わたしの殻は少しずつ、着実に崩れはじめている。卵から孵るひよこの気持ち。でも、わたしはひよことちがって、外界から温められるのではなく冷やされることで孵化する。地蔵のかたちをした灰色の殻がぴきぴきと割れていく光景は、自分事ながら頭の中で思い描くだけでなんだか愉快だ。
 そんなことをのんきに考えていたら、急に空気のひんやりとは別種のひんやりとした感覚が肌の上に芽生えて、わたしははっと息をのむ。なんというか、意味が分からない表現かもしれないけれど、「ひんやり」の密度が濃い。これはおそらく水、っていうか雨だ。わたしの肌の上を雨水が滑り落ちている。
 濡れた肌は次第に氷のかたまりを押し当てられているみたいに冷たくなって、しかもだんだんと雨の勢いは激しくなってきているみたいで、石の皮越しにも打ち付ける雨粒の感触が伝わってきたし、なんならばらばらばらばらというおどろおどろしい響きさえも鼓膜に伝わってくる。巨人に耳元で囁かれているような想像をしてしまってわたしは怖くなる。でも、「雨だれ石を穿つ」なんて言葉があるくらいだから、雨風が激しいほうがきっと石の皮も剥がれやすいだろうし、ひょっとしてこれは耳の穴と鼻の穴が開く絶好の機会なんじゃないかしら、なんて好意的な解釈をすることもできて、わたしはふと、逆さまに吊るされた窓辺のてるてる坊主を妄想してみる。
 ただしここで問題が一つだけあって、それはふたつの穴から雨水が若干入り込んできている、ってことだった。耳と鼻のまわりに、さっきから延々とべっとりとした水の膜が貼りついている気がして、皮膚が継続的に濡れた状態でいるっていうのはものすごく気持ち悪いんだな、ってことをわたしはしみじみ思った。とはいえ今日のわたしは寛大なので、「皮膚が長いあいだ濡れているっていうのはものすごく気持ち悪い」ってことをほんものの皮膚感覚として知ることができたんだから良し、ってことにする。

8
 わたしを温めてくれる誰かがいたらいいな、できることなら心と体の両方を、なんて気色の悪いことをここ最近ずっと考えていた。というのも、ついこの間から冷え込みが一層きつくなって、ああ、いまは春じゃないんだな、冬を控えた秋だな、っていうことを察して落胆して、そのうえこの前は、はじめて経験したのとは比べ物にならないほどの大雨が降ってきて、骨の芯まですっかり冷やされたわたしは、いつの間にか意識をもうろうとさせて、その雨が止むまでにどのくらいの時間が経過したのかもわからないほどだった。礫のような雨粒のせいで、気が付いたときには耳の穴と鼻の穴が開いていた。わたしは悪寒で頭をぼうっとさせながら、化け狼なのか山犬なのか、とにかくあんまり関わり合いにはなりたくない感じの妖獣のたぐいがひときわ大きい音で鳴くのを聞いて、それから雨で湿った土から湧き出ているらしい妙になまぐさいにおいを嗅いだ。はじめて外界から音を拾う感動と、においを吸い込む感動とが、そこにはたしかに存在するはずだった、はずだったのに、もうわたしは体から熱がすっかり奪われて頭がぼんやりとした雲に包まれているようになって、感慨にひたっているような余裕はなかった。思考を巡らせるっていうこと自体が、そのときのわたしにとってはたいへんな重労働だった。それからしばらく体にだるさが残っていて、そもそも雨が降っていなくても木枯らしは絶え間なく寒気を運んでくるし、このままの状態で冬を迎えたら、死にはしないだろうけれど後遺症のひとつぐらいは残ってしまうんじゃないかと思う。
 どうしたらいいと思う? 暗闇に漂う光の微粒子を眺めながら、答えが返ってくるわけもないのに問いかけてみた。そこで不意にわたしははっとした。わたしには光の粒、いや光の弾を作る力があるはずだ、そう気が付いたのだった。いま目の前に広がっている粒たちよりをずっと大きな弾を。それこそ、わたしの背丈と同じくらいの直径の。
 そういうわけで、いまわたしの背後にはマニが浮かんでいる。たぶんわたし以外のひとには、ものすごく巨大な紙風船の中に真っ赤な光源を投げ込んでこしらえた謎の球体にしか見えないだろうけど、わたしにとってはさわやかな微笑をうかべる救世主みたいな存在で、なによりとっても温かい。冷え切った石の皮を一枚隔てていても、マニがたくわえている熱はわたしの体の芯まで心地よく伝わってくる。冷たい秋の空気が左耳と鼻から流れ込んでわたしの全身を冷やしていくのと同じように、マニが放射する熱も左耳と鼻から全身へと行き届いて、わたしは体温を取り戻すことができるのだった。

9
 出てきて、って呼びかければ、マニは従順にわたしの背後から出てくる。すべすべした表面から熱を放出しつつ、暗闇を背にして自由気ままな円軌道を描く。戻って、って呼びかければ、ふっとわたしの背後に消える。
 そういえば、どうしてわたしはマニに「マニ」って名前をつけたのかしら。わたし自身にもよくわからない。べつに、「マニ」って言葉にはなんにも意味がなくて、単純に響きがよかったからそう名付けた、とかそういうわけじゃない。「マニ」って言葉にはちゃんとした意味があるはずで、だからわたしは直感的に「マニ」って名前を付けた。でもその意味が思い出せない。忘れたのかもしれない。誰かさんから授かった形無しの知識は、どうやら気が付かないうちにわたしの頭からどんどん抜け出しているみたいだった。
 マニは唯一、わたしが姿かたちをはっきりと思い描くことのできる生命体だ。脳内の眼はほんものの目みたいに色とりどりの世界を見せてくれるわけじゃないから、あの人間っぽいかたちをした生命体も、髪の色がどんなだとか、顔の部位がどんな配置でくっついているかとか、そんなことまではわからないし、目の前に樹木が生えている気配はあるけれど、その枝ぶりや葉のかたちがどんなふうなのかまではわからない。だけどマニについては違う。マニの見た目だけはそれなりに自信を持って説明できる。とはいえ、「それなりに」って程度で、一から百まで確信しているわけじゃない。なんなら他ならないわたし自身の姿についても、くわしいところまで思い描くこと自体はできるけれど、それが真実かどうかなんて今のところは確かめようがないんだから。
 それにしても目が開いたときわたしはどういう反応を示すのかしら。もちろん楽しみではあるけれど、膨大な情報を処理しきれずに頭がはちきれてしまいそうな気もする。

10
 目がもたらしてくれる情報の量に比べたら些細なのかもしれないけれど、鼻と左耳が外に出ただけで、この世界に対するわたしの認識の幅はぐっと広がった。魔法の森の匂いは、常緑広葉樹の葉っぱからただよっているらしいすっきりとした緑の香りに、壺の中に長いこと眠らせておいた古漬けの感じをほんのりとまとった、湿っぽい土の香りが混じっている。べつにいやな匂いではなくて、なぜだか「懐かしい」って感じのする匂い。わたしには幼少時代が存在しないはずなのに。音については、いままで石の皮越しにおぼろげにしか聞こえていなかったのが、ものすごくはっきり聞き取れるようになったからいっそう感激した。鳥のさえずりとか妖精が弾を撃ち合う音とかに耳を傾けるのももちろん楽しいけど、一番気に入ったのは風の音で、吹きすさぶ風には音を作り出す力があるんだっていうことを、わたしは耳が開いてはじめて実感した。黒光りする鉄の鎌をひゅうっと一瞬横ざまに振るったみたいな音だった。
 それからわたしは、マニがわたしのそばにいるときだけ、ちょっと変わった音と匂いがすることに気が付いた。それは、空気中のなにかが焼けるじりじりという音と、少し生臭いけど、その反面なんだかお腹がすいてくるような気もする香ばしい匂い。いったい、マニの表面でなにが焼けているんだろう。なんだか不穏だ。山火事とかにならないといいけど。
 ふと思い立って、わたしは辺りの空気に焦点を合わせて、脳内の眼で観測してみる。するといつものように、無数の光の粒が暗闇の中に立ち現れて、頼りなげにふらふら漂いはじめる。
 ねえ、マニ、出てきて。
 呼びかけた瞬間、光の粒たちが作り出している山吹色のもやもやの中に、巨大な赤色の正円が、ぼん、と現れて、運悪くマニの出現した場所を漂っていた光の粒が、しゅっ、と衣擦れみたいな音を立てて消滅するのが見えた。やっぱり、マニの表面で焼け焦げているのは、例の光の粒たちで間違いないみたいだった。
 光の粒が燃える音と匂いを感じていると、わたしはなんだか不思議な気持ちになる。ふつうに考えてあの光の粒のひとつひとつにはわたしみたいな思考能力や感情はないだろうし、一方でマニのほうは、わたしの指示が通るってことは思考回路を持っているんだろうけど、結局わたしの言いなりではあるから、自由意思を持っているかどうか、って訊かれると首をかしげたくなる。だとしたら、光の粒がマニの表面に触れて死ぬっていう事象は、すごく運命的というか、無作為的というか、死ぬ側と死なせる側の両方に一切の意思が伴わない死ってことになり、それってなんだか神秘的だ。お地蔵さんのわたしが死に神秘を感じるっていうのはなんだかいけないことのような気もする、と同時に当然のことって気もする。

11
 なんの前触れもなく、ふたつの人型の生命体が、何事か言葉を交わしながらわたしのいる場所へと近づいてくるのがわかる。前にもわたしのもとを訪れたあのふたりじゃないかな、って何の根拠もないけれど推測する。
 わたしはふたりの会話を拾おうとして必死に左耳をそばだてる。会話の内容がよくわからなくてもいい。とりあえず声を聴きたい。なんというかものすごく変な言い方だけれど、わたしの使うのと同じ種類の言葉が実際に発話されている様子を確かめたい。わたしは当然、ひらがなと漢字から構成される言葉を使ってたくさん物事を考えてきたけれど、それらの言葉が音声として使われている場面に出会うのはこれがはじめてのことなのだった。
 たるみかけの糸電話を通して聴いているみたいな途切れ途切れの音声からはじめて拾えた言葉は、「……失敗」だった。失敗? なんだか嫌な言葉だ。ふたりの影が接近するにつれて、拾える言葉の数はだんだん増えていく。「……なのかもね」「……火力が……きっと……」「……黒焦げで……いつもは……毒林檎みたい」片方がそう言ったところで、もう片方が笑い声をあげる。引き笑い。金物と金物がこすれあうみたいでちょっとキーンとくる、その一方で、どこか気品の高さを感じさせる笑い声。それにしても、失敗、火力、黒焦げ、毒林檎って、調理の話をしているのか暗殺の話をしているのかよくわからない。
「あっ、あれ……」
「ん?」
「ほら、あれ」
「ああ……」
 わたしを視界にとらえたのか、ふたりの声の方向性が変わる。それから、地面を踏み鳴らしてこちらへと小走りしてくる不揃いな足音が続く。声が一気に近づいて、ふんわりと甘い匂いと、その奥に混じったかすかに焦げくさい匂いがわたしの鼻をくすぐる。「林檎」と「黒焦げ」という、ついさっき聞いたふたつの言葉をわたしは連想する。
「……ほら、ここ、見なよ」
「ああ、うん」
「どう考えてもあんたのあれのせいでしょ」
「いや、まあ、良いだろ、傷痕にはなってないし。それにしても生きてんのかな、中のやつ」
「そんなこと言ったら失礼でしょ、生きてるに決まってるわ」
「ふーん。……やっぱり、妖怪かね? 地蔵の付喪神ってとこ?」
「いや……それとは別種の魔力を感じるのよね。なんていうんだろう、ちょっとわたしに似ている……いやでも、魔法使いとも言い切れないような……」
「まあ、こういうこともあるんだろうな、こんな森だし」
 ふたりの、女性の声にしては少し低めで芯のある声と、はかなげな印象だけど子音の部分がやけにはっきり聞こえる高い声とが、交互にわたしの耳に入ってきてなんだかそわそわする。すると突然、「ねえ、耳、触ってもいい?」声の高い方がそう言う。えっ? なんで?それまでふたりの世界だけで完結していた会話に突然投げ込まれてしまって、困惑しているわたしをよそに、そのひとの指先はわたしの耳の外縁をつうっと滑って、それからもう一本の指といっしょに耳たぶをつまむと、「こんな福耳みたことない……」と、かみしめるように言った。自慢の福耳を褒められたのはうれしい。でも、どうやら愛玩動物あつかいされているみたいで不快でもある。
 そしたら今度は声の低い方が、「こんど寺から地蔵拝借してきて、何年かかってこういう状態になるか試してみようぜ。ようするにさ、この森で放置された地蔵は付喪神じゃなくて魔法使いになるってことなんじゃないか? この現象に再現性はあるのかどうか」とかなんとか、賢いのか単にあほなのか判断のつかないことを言い出した。「やめなさいよ……なんであんたは地蔵を動かそうとするの。罰当たりよ」「……おまえってそんなに信心深かったっけ」「いや別に」「だよな」「……ちょっと話戻していい?」「うん、何?」「触ってみてなんとなく分かったのよ。この子はたしかに魔法使いだけど、人形とも少し似てる感じがする」「あぁ、まあ地蔵も人形の亜種か」「……いや、そういうわけじゃなくて……感覚的な問題だから説明が難しいんだけど……」「人形なら、飾り付けてやりゃいいじゃん」「え?」「飾り付けてやったらいいんじゃないか?」「あ、それいいかも」「耳と鼻だけ剥けてて寒そうだしな」「そうね、あと、これから雪も降るかもしれないし、マフラーとニットボウと……」「いや、マフラーはいいとして、地蔵の帽子は菅笠じゃなきゃだめだろう」「そうなの?」「おまえは純日本人じゃないから知らないだろうけどそうなの」「そうなのね」「菅笠くらいなら、わたしがコーリンのとこから借りてくるかな」「もらってくるの間違いでしょ」「借りてくる」「そう言うんならよろしく。……そろそろ帰って、続きにしましょ?」「……ん、そうだな。おーい、聞こえてるかどうか分からないけど、じゃあな、地蔵」……そう言って去っていったふたりの会話はとにかく目まぐるしくて、正直ついていけなかった。木枯らしが吹きすさんだみたいな一瞬の時間に思えた。
 でもとりあえず、菅笠をもらえるのは純粋にうれしい。小雨くらいなら防げるだろうから、わたしを温めるマニの負担がへる。とんでもなく強い雨のときは太刀打ちできないかもしれないけれど。

12
 とりあえず、ひらがなを〈あ〉から順番に描いてみてよ、ってわたしはマニに指示する。それだけの指示で大丈夫かな、って少し不安にはなったけれど。もし「〈あ〉を描いて」ってだけで伝わらなかったら、しょうがないから ①まずは右から左へ線を描いて ②次はそれと交差するみたいに上から下へ線を描いて ③最後に糸の結び目みたいな輪っかをくるりと描いて、なんてまどろっこしい指示を出さなきゃいけないだろうし、そんな言い方でマニが空中にちゃんとした〈あ〉を描けるかどうかはかなりあやしい。それに、指示を出すわたしのほうも途中で混乱してしまいそうだ。空中に描く文字は紙に書く文字と違って、「相手から見て」正しく読めるようにするには、「わたしから見て」鏡文字になるように描かなければならないから。
 ああ、でも、杞憂だったみたい。マニはちゃんときれいな〈あ〉を暗闇の中に描いている。でも、慣れない動きだからなのか、もしくはわたしに似てだいぶのんびりした性格なのか、一文字を描き終わるのにもけっこうな時間がかかって、あのふたりの会話の速度についていける望みは正直薄い。
 例の不思議なふたりと出会ったあの日から、どうしたら彼女たちと意思疎通できるようになるかな、って考えていて、そのうちに、マニに文字を描かせたらいいんじゃないかしら、って思いついたのだった。ようするに、伝言係をお願いしようっていう発想だった。やり方は至って単純で、今こうしているみたいに、マニ自身に文字と同じ軌道で動いてもらう。その文字を彼女たちが能動的に読み取ってくれたならきっと交信が成立する。
〈い〉〈う〉まではかなり正確に描けて、でも〈え〉にはかなり手こずっている様子だ。急にぐいっと曲がる部分を何度もやり直している。マニはちゃんとほかの生命体と同じように「くせ」を持っているみたいだった。基本的にわたしに従順だけど、その指示をなんでも完璧にこなす機械みたいな存在ってわけではない。かわいげがあってすばらしいなって思った。というか、意思さえ持っているのかも。だって、上手に描けない文字をやり直して覚えようとしているから。〈え〉は四回目の書き直しでようやく満足いったらしく、〈お〉を描きはじめた。これから〈そ〉とか〈れ〉とかが控えているから大変だろうなって思う。
その後もわたしは着実に五十音表を埋めていくマニの軌道を眺めながら、誰から教わったんだろう、って改めて疑問に思う。わたしの指示を読み取る能力を。指示をひとつひとつの単語に分解する方法を。描き出すひらがなの形状を。
 もちろんわたしはこれらの方法もしくは知識をおおよそ習得しているわけで、だからわたしが作り出した存在であるマニも同様の理解のもとにひらがなを描けるってことなんだろうか。やっぱり、いっしょに生活する相手とはちゃんと意思疎通ができたほうがうれしいから、わたしはわたしの言葉を理解できる相手としてマニを作り出したんだろうか。だとしたら、わたしからマニに話しかけることはできるのと同じように、マニのほうからもわたしに話しかけることができるようにすればよかったな、って少し後悔する。なんだか、マニとわたしの関係は、「友達と友達」っていうよりは「腹話術師とぬいぐるみ」みたいな感じが強い。
 それから何十分経ったのかわからないけど、〈ん〉までようやく書き終えたマニは、気持ちよさそうにぐるりと宙に円を描きはじめ、その頂点で、ぽん、と跳ねるような仕草をした。すごくかわいい。とほうもなくかわいい。

13
「おーい、生きてるか」
 突然、文字通り斜め上の方向からそう呼びかけられたからびっくりして、わたしは首を動かすこともできないのに上のほうを見ようとして失敗する。あわてて眼を開いて位置をとらえると、彼女はちょうどわたしの頭上から地面へと着地するところだった。颯爽と空から舞い降りてくる人間なんて、明らかにただものじゃない。声質から判断するに、例のふたりのうちの片方だ。耳を触ってこなかったほうの。
 それはともかくとして、「生きてるか」って質問に〈いきてます〉なんて、ばかまじめな返事をするのはちょっとずれている気がする。〈げんきです〉とかがちょうどいいのかしら……いや、でもよくよく考えたら、今この瞬間って、わたしがわたしの外側に向けて自分の想いを言葉にして伝える記念すべき第一歩であるわけで、だから、なんというか、もっと象徴的かつ普遍的なせりふを伝えたい。じゃあ……ええと、どうしよう、そうだ、〈はじめまして〉って空に描いてよ。なるべくきれいに。わたしではなく、彼女にとって読み取りやすい角度で。なんて念じながら、わたしがマニを呼び出した瞬間、
「うわ、危な!」
 彼女は突然そう叫んだ。
「おまえ、急に……なんだ、やる気か?」
 ほとんど無意識のうちに、〈は〉の最初の一画を描きはじめたマニに、止まれ、って命じて、それから、え、ちょっと待って、なんで、どうしてそんなに攻撃的な反応をするの、って困惑がわたしの胸を覆いつくす。マニはわたしが立っている位置と人間が立っている位置とのあいだにぴたっと静止して動かなくなる。……えっとどうしたら、どうしたらいいんだろう、たとえば、〈いいえ〉とか〈ちがう〉とか、敵意がないことを示す言葉を空に描く、とか……でも、そもそもマニの存在そのものが彼女にとっては怖いのかしら。
「何だ、このでかい弾……え、なんだ、この……どうなってんだ」
 彼女の声はとても困惑している様子で、でもきっとわたしのほうがそれ以上に困惑している。わたしが、わたしと同じくらいに、いや、わたしよりもはるかに自由に言葉をあやつる存在と対話するのはこれがはじめてのことで、わたしが誰か他者に向けて言葉を自分から投げかけるのもこれがはじめてのことで、だから当然、相手から誤解される、って経験もはじめてなのだった。こんなに焦るものだとは思ってもみなかった。
「……止まった」
 止まった? 何が? って一瞬思ったけど、きっとマニが動きを止めたことに安心して彼女はそう言っているんだな、ってすぐに察する。そういうことなら、もうわたしはマニを動かすことなんてできない。動かしたら彼女をついさっきみたいに怯えさせてしまう。かといって、言葉を伝えるにはマニを動かさなければならない。言葉を伝えられないままなら、わたしは彼女に与えてしまった誤解を解くこともできない。つまりわたしはどうにもできない。彼女が次にどういう行動に出るのかひたすら待つことしかできない。
「聞こえるか?」
 急に声が近くなる。一瞬頭が白んで、それからすぐにはっとする。左耳のすぐそばから彼女がわたしにささやきかけている。
「聞こえてる前提で話すけど」
 歯がこすれあう音と、かすかに漏れ出る息の音も、声もいっしょにはっきり聞こえる。雨の寒さによるものとはまた別種の鳥肌を覚える。
「おまえがおまえ自身についてどのくらい理解しているのか知らないから最初に言っておくけど、おまえはどうやら、いや、ほとんど確実に魔法使いなんだ。というか……魔法使いになった、って言ったほうがいいのかも、少なくともおまえは先月までただの地蔵だったのが、急に魔力が漂いはじめたから、わたしたちも不思議がってたのさ。で、とりあえず弾幕の使い方に覚えがあるんなら、この世界で白黒つけたいときにとる方法もなんとなく心得てるってことだろ? だとしたら、不意打ちはあんまり感心されないってことだけ、心得ておいたほうがいいぜ。……まあ、わたしもあんま人のこと言えないけど」
 彼女の言葉にはいくつもうなずける部分があった。そう、わたしは、わたし自身の生い立ちについて、どういうわけか生まれたときから熟知しているし、この世界の土地柄だってなんとなく理解している。「だんまく」って言葉も、正直耳慣れない言葉だったけど、わたしはすんなりと頭の中で漢字に変換してその意味をつかむことができた。
 わたしが知らなかったことはただ一つ、マニも他人から見たら弾幕の一種だってことだ。それを知らなかったから、わたしは暗闇に文字を描くための筆としてマニに動いてもらうことを思いついた。でもそれは、彼女にとっては当然「不意打ち」とみなされるやり方だったらしい。そういえば、マニの表面ではつねに例の光の微粒子が焼けているのだった。すなわち、マニには触れたものを焼く力があるのだ。ふつうに考えたらわかることなのに、あたりまえすぎてちゃんと意識したことがなかった。
「……わたしの言ってること、伝わってるのかどうか分からないな」
 彼女は苦笑い交じりの声であっけらかんとそう言う。でもその言葉はあまりにも直接的に、今のままではわたしと彼女が通じ合えないことを示していて、それは思っていたよりずっと悲しいことだった。わたしはあなたにどうしても自分の意思を伝えたい。少なくとも、わたしはあなたに対して敵意がないことを伝えたい。
 敵意がない? 敵意がない、という言葉を頭の中で繰りかえす。そうか。わたしはいま八方ふさがりで、どういう行動を取ってもよくない結果をもたらしてしまう、だからなんにもできないって思っていた。でも、それは違って、わたしに敵意があると誤解させてしまっているのはマニだ。だとしたら、わたしに取れる唯一の行動がある。
 せっかく文字を覚えてもらったのにごめんね。戻って。そう念じるとマニはいつものようにふっと姿を消した。

14
 そうして彼女はわたしに敵意がないことを読み取ってくれた、ってわけでもなさそうだったけど、「おまえやっぱり変てこでおもしろいよな」とかなんとか、さりげなく失礼なことを言いながら、去り際、わたしの頭に菅笠をかぶせてくれた。「けっこうでかいから運んでくるの大変だったんだぞ」という言葉から察するに、そもそも彼女は菅笠をかぶせることを目的としてわたしのところにわざわざ来たみたいだった。
 わたしの頭は前よりもけっこう重たくなった。ようするに、その菅笠というのは編み目がすかすかの安物ではないみたいだった。その証拠に、驟雨というわけでも霧雨というわけでもない、ようするに平々凡々な強さの雨がこの間降ったのだけれど、雨水の冷たさはわたしの体に入り込んでこなかった、って言い切りたいところだけど、まあ、菅笠はあくまでも菅笠なので、多少は冷え込んだ。それでも前よりはずいぶんましになった。風をさえぎってくれるのもありがたかった。わたしの顔に走っている左耳と鼻のまわりの亀裂は、近頃ずいぶんと拡大しているようで、くちびるの端にひっついている石くずもそろそろ剥がれ落ちそうになってきていて、それ自体はとてもうれしいことなのだけれど、木枯らしの寒さをじかに受ける面積が増えてしんどい、っていう悩ましさも同時に感じていたのだった。
 わたしは少しずつ、この身を包んでいるやっかいな石の皮から脱け出そうとしている。いつの日か自由に出歩けるようになった自分の姿をわたしは妄想してみる。ひとつ確信として、わたしはひとり歩きが好きだと思う。まずはこの森の中を隅々まで歩き回って、ものの配置と風景を頭の中に焼き付ける、ただそれだけのことがわたしにとってはすごく楽しいだろう。もし彼女たちとこれから友達になれたら、たまにはふたりか三人で出歩くのも、まあ、わたしに付き合わされる向こうが退屈しなければいいのだけれど。

15
 わたしはこのごろようやく、昼・夜・一日、っていう周期を体でなんとなく理解できるようになった。ほっぺたに触れたり、鼻で吸い込んだりする空気の冷たさ加減で、昼か夜かはなんとなく判別できるし、あとは妖精たちかなにかがぱらぱらと球を撃ち合う小気味いい音とか、猛禽類か天狗かなにかが羽ばたく音とかがときどき聞こえるのは昼で、妖獣の遠吠えみたいなのが聞こえるのは夜、みたいな見分け方でもいい。昼と夜が合わされば一日になる。
 いまは夜だから、適切なあいさつの言葉は〈こんばんは〉だろう。でもわたしは、いま目の前に浮かんでいる「文字」たちに向かって、〈こんばんは〉って伝える気にはさすがになれなかった。ただ、おそらく無意識のうちに、何かしらの言葉は伝えようと思ったらしい。なぜなら呼んだ覚えもないのに、マニが背後に浮かんでいたから。
 今日も今日とて何気なく光の粒を観察しようと思っていたのだった。いままでずっと光の粒は、空気中をふらふら右往左往して気まぐれに光をふりまくだけの存在で、だから今日もいつも通り、のどかな彼らを見て和もうと思って眼を開いた、その瞬間にわたしは違和感を覚えた。
 まず光の密度が明らかに濃い場所と薄い場所ができている。それは風の流れだとか物理的な影響を受けて、とか、そういう理由じゃなくて、明らかに粒自身が、自分はどこに移動してどこに位置するべきかあらかじめ知っているかのようにふるまっている。そうして寄せ集められた粒の濃淡が、規則的なようなそうでないような模様を作り出している。
 その模様はかたちが、というか書体がものすごく歪んでいるから最初はよくわからなかったのだけれど、一度そう見えてしまってからは、どう見てもひらがなを表現しているようにしか見えないのだった。マニが描くのとだいたい同じ大きさの、ようするにわたしの背丈なんかよりずっと大きいひらがなが、光の粒の集合によってぼうっと浮かび上がり、わたしを取り囲んでいる。なんとなく、〈の〉と〈り〉と〈し〉と〈く〉と〈こ〉の五種類に見える。少なくともわたしにはそう見える。五つの文字はゆっくりと揺らめき、かと思えば文字を構成している粒がぐにゃりと離散して、かと思えば瞬時に集合して位置をずらしたり、互いの場所を入れ替えたりする。〈こ〉と〈へ〉はくるりと向きを変えて〈い〉や〈く〉との区別がつかなくなる。
 これまで一切の環境条件に対して光の粒たちは受け身だった。風が吹けばどこかへ吹き飛ばされて、雨が降れば打ち落とされて、かんたんにあたりの空気から消えてしまう (天気が良くなればまたすぐにあたりの空気に均一に満ち満ちるとはいえ)。そんな彼らがいまあまりにも特異な光景を夜闇に描き出している。彼ら自体に意思や学習能力があるかどうかもわからないのに。
 一体どういうことなんだろう。文字を並べているってことは、わたしに何か伝えようとしているんだろうか。でも光の粒の文字はどう繋げても意味のある文章にはならない。と、悩んでいるうちに、わたしの視界に赤々とした球体がよぎった。マニがいつの間にかわたしの背中から離れて、暗闇の中を遊泳していたのだった。マニが近づくと、形を保っていた光の粒の〈り〉と〈く〉が焼け焦げて崩れる。でも、マニが通り過ぎるとすぐにほかの光の粒が欠けた部分を補って、ふたたびもとの形に戻る。
わたしはマニの軌道に集中する。マニは明らかに文字を描いている。自発的に、わたしが指示していないうちに、上から下へ、左から右へと真夜中に線を引く。
〈はじめまして〉

16
 夜が明けるとひらがなたちの輪郭はゆるやかに溶けて、いつものようにてんでばらばらの微粒子の寄せ集めに戻った。
 鳥のさえずりを聞きながら、ようやくすこし冷静になって、ついさっきまで目の前で起こっていたことがどういう意味を持つのか、改めて考えようと思った。やっぱりあれはどうしようもなくありえない光景で、もはやそういう夢だったんじゃないかしら、とも思えてくる。とはいえ夢と断定するにしては光景の輪郭もわたしの意識もはっきりしすぎていたし、あと、光の粒が文字をわたしに見せているってことは、もしかしたら彼らはわたしに伝えたいことでもあるのかもしれなくて、だとしたら昨夜の出来事は夢であってほしくはない。
 そして実際のところ、それは明らかに夢じゃなかった。それから毎晩というもの、光の粒たちはわたしに文字のようなものを見せ続けたのだった。これだけ幾度となく繰り返されるものが単なる夢だとは考えにくい。
 大きな変化としてはもう一つあって、それはマニが自分から文字、というか、文字列を描きはじめた、っていうことだった。光の粒のひらがなが夜闇に映し出されるたびに、マニは何も指示されなくても〈はじめまして〉って描くようになった。はじめまして、って言葉が特段気に入っているのかしら、マニは一晩のあいだに何度も何度も〈はじめまして〉と描くのだった。そうしたらなぜか光の粒たちが描く文字もマニを真似するみたいに〈は〉〈し〉〈め〉〈ま〉〈し〉〈て〉の割合が多くなった。でも、どうやら〈じ〉の右肩の点々は〈し〉とまとめることができないみたいで、〈し〉〈、〉〈、〉に分割されていて、というか、光の粒たちはどうしても散逸的で、文字を一直線に並べて文字列をつくるってことができない。だから、たとえば〈は〉〈ま〉〈い〉〈し〉〈し〉〈は〉〈て〉〈く〉〈、〉〈、〉〈め〉がばらばらに夜空に浮かんでいる、みたいな、連日そういう状態だった。まあしょうがないのかな、とも思う。光の粒からは残念ながら、わたしに何かを伝えようとする積極的な意思みたいなものを読み取ることはできない。いまのところは。

17
「こんばんは。久しぶりね」
 今宵もいつものように光の粒の作り出したひらがなが空を泳いでいる。そしていつもと違うのは、通りすがりの人間も一緒にいるっていうことだった。いまさっきあっち側から歩いてきてわたしの前で足を止めた。あのふたりのうちの、声が高いほうの人間、人間……よくよく考えると、人間じゃないかもしれない。なんとなく、あのときのふたりの会話から察するに、声が低いほうも高いほうも魔法使いなんじゃないかしら。第一、声が低いほうに関しては空を飛べるようだし。
 わたしは前回の反省を活かして、〈はじめまして〉を描こうとうずうず発熱しているマニを背中の裏に押しとどめている。そのうちに向こうのほうから話しかけてきた。
「すごい、口もそろそろ開きそうね」
 なんだか、がんばって這い這いしている赤ん坊が立ち上がるのを心底楽しみにしている親、って感じの口調。それから、唐突にわたしの上くちびるに触って、「あっやっぱり普通に柔らかいんだ」と続ける。普通に、ってなんなんだろう。もとが地蔵だから干し梅みたいにかちかちのくちびるだとでも思っていたんだろうか。それからやっぱり耳たぶを執拗に触ってきた。このひとは何かがちょっとおかしいんじゃないかしら。わたし自身の「おかしい」の基準を他のひととすりあわせたことなんてないからなんとも言えないけれど。まあ、このひとにとってわたしは、「お地蔵さんの中に閉じ込められているひと」なんていう前例のない生命体なのかもしれなくて、だったら直接触って観察したくなるのもしょうがないのかもしれない。足元を這っているかたつむりの伸びた目玉を突っついてみたくなるみたいな、そういう原初的な好奇心を抑えられないひとなんだろう。
「わたしはアリスって言うの。魔法使い。あなたと同じ」
 唐突にそう名乗ってきたのではっとする。相手に名乗られたらこちらも名乗るのが筋だろうから、わたしは〈やたでらなるみ〉、そう描かせるために、マニを呼び出そうとして、それはやっぱりためらってしまう。あのとき彼女に警戒させてしまった記憶がよみがえったのだった。いや、でも、ここでマニを出さなければあの書き取りの練習はいったいなんだったんだってことになるし、そもそも、突拍子もない出来事に対しては彼女よりもアリスのほうが耐性がありそうだ。
 出てきてもいいよ。わたしは、わたしたちの頭上の、なるべく高い場所にマニを出現させる。地面にいるわたしたちからは距離があって、それでいて森の樹を焼かないくらいの高さで文字を描けばきっと驚かれないんじゃないかな、って希望的観測を立てる。
「え、なに……」
 アリスの声が聞こえる。上空のマニを見上げているせいでのどが狭くなっているのか、それまでよりも発声が縮こまっているように思える。
 マニが一文字目を描きはじめる。わたしは指示を出すことしかできないし、マニもその通りに忠実に動くことしかできない。だから残された問題は相手がどう受け取るか、伝えたいことが伝わるまで辛抱してくれるどうかっていう、ただそのことだけで、だからわたしはただ胸をばくばくさせながら祈るしかないのだった。
「文字……?」
 アリスは〈な〉のはじめのあたりでようやく気が付いたみたいだった。「な、る、み……」上の空という感じでそう復唱する。わたしは続けて〈なまえ〉と描かせる。
「なるみ、があなたの名前、ってこと?」
〈はい〉
「……なるほど、あなたなりの筆談なのね」
 ただ言葉の意味が伝わっただけじゃなくて、わたしのやりたいことまでアリスは汲み取ってくれたらしい。〈そういうこと〉〈いいでしょう?〉と描かせようとしたけれど、今のマニは一文字を描くのにだいたい十秒くらいかかるから、その言葉を伝えるには単純計算して二分以上の時間が必要になるわけで、それはさすがに間抜けなのでやめる。かわりに〈ええ〉って描かせようとした、のだけれど、その間にアリスのほうがまた言葉を投げかけてきた。
「名前は自分でつけたの?」
〈いいえ〉
「誰かがつけたの?」
〈しらない〉〈だれか〉
「ふうん……」
〈あなた〉
「わたし?」
〈なまえ〉〈だれが〉
「え……あぁ、うーん……とりあえず、ルイスキャロルとでも言っておこうかしら」
 はいからな名前だなあ、って思っていたけれどやっぱり親御さんは日本人じゃないんだ。よくわからないけどなんか納得感がある、なんて思っていたら、「あなたって不思議な子ね……」と言われてしまった。そんなしみじみつぶやくことでもないだろうに。わたしからしたらアリスだってじゅうぶん「不思議な子」だ、って思ったけれど、まあわたしもわたし以外のひとから見たら「不思議な子」なんだろう。だから特に返事は描かないことにする。その代わりに、もうひとりいる「不思議な子」について尋ねることにした。
〈あのこ〉
「あの子……」
〈あなたの〉〈ともだち〉
「友達……友達は、複数いるわ。誰?」
〈まほうのもり〉
 そこまで言ってようやく伝わったらしく「あ、マリサのこと?」とアリスは言った。マリサっていうのか。日本風なのかそうでないのかよく分からない名前だ。
〈つたえる〉〈おねがい〉
「……何を伝えたらいいの?」
 アリスからマリサに伝えて欲しいのは、まさしく〈ことばを〉〈つたえる〉〈ための〉〈わたしの〉〈やりかた〉に他ならなかった。今度会ったときにはマニの誤解を解いて、それから菅笠のお礼もしなければならないから。たどたどしくてまどろっこしい十九個のひらがなが空にのんびりとした速さで描かれはじめる。それでもアリスは粘り強くマニの動きが止まるまで待ってくれるだろう、っていう出所のわからない信用があった。アリスは変なひとだ、って分かったからかもしれない。変なひとでなければこんな変な〈やりかた〉に興味を示してくれはしない。
 そのままマニが最後の文字を描き終えたとき、ほっぺたに何かがそっと押し当てられた。指先だ、って分かった。そのまま柔らかいわたしの肌の上をなぞってゆく。彼女がわたしの頬の上に文字を描いているのだとすぐに気が付く。
〈もちろん。まかせて〉
 気取った応答をこんなに自然にできるひとってなかなかいないんじゃないかしら。まるで魔法使いみたい。相手もわたしもほんものの魔法使いだっていうのにそんなことを考えてしまうのはなんだか間抜けな話だけれど。

18
 帰り際、アリスはわたしの首元に襟巻きをかけてくれた。首の上に点在している穴からのぞいた皮膚が、そのふかふかした触り心地を感じ取った。ふんわりと花の香りが漂う。
 そのうえ、「石がぜんぶ剥がれたときに着る服を持ってなかったら大変でしょ?」ということで、冬服までこしらえてきてくれるらしい。なんてありがたい。なんというか、地蔵っていうのは精神的なものを施す代わりに物質的なものを施されるのが本分みたいなところがあるから、あまり申し訳なく思う必要はないのかもしれないけれど、でも今のわたしはもはや地蔵というよりもどちらかというと魔法使いで、お供えものを施されることの必然性なんてものは薄らいでしまっているわけで、そもそも向こうはお供えもののつもりでわたしに笠をかぶせたり服を着せたりしているわけではないかもしれないし、結局のところ、一方的にご恩を受けてばかりなのが申し訳ない。自由に動ける身になったら何かお礼しなきゃ。
 ただ、顔面の石が剥がれるのにもこんなにも時間がかかっているっていうのに、全身の石が剥がれてわたしが自由に動けるようになるのはいったいいつになるのかしら。至極あたりまえのことなんだけれどもひとの感覚器官っていうのは顔の部分に集中しているから、顔の上の石が剥がれるごとに、耳だの鼻だの口だのと新しい感覚器官が外の世界に開かれるわけで、だから今までわたしは新鮮な喜びを定期的に感じることができて、退屈せずに済んでいた。だけど、当然石の皮はわたしの首から下にも広がっていて、首から下に存在する感覚は皮膚感覚しかないから、それが剝がれている間は世界の感じ取り方が代わり映えしなくてつまらないんじゃないかしら……そんなことを日々ぼんやりと考えているうちにようやく口が開いた。
「あー。あー。わたしは。わたしは。聴こえる……聴こえる。……矢田寺成美。矢田寺成美……」
 わたしが真っ先にしたことは自分の声を聴くことだった。ちょっと舌っ足らずというか、孫みたいというか、ようするにおじいちゃんおばあちゃんがかわいがってよってたかって頭をなでてきそうな幼い声色だけど、でも声の響き自体には凛としたおもむきがあって、お地蔵さんとしてはなかなかいい感じの声質なんじゃないかしら、なんて自画自賛した。
 感覚器官としてのわたしの口、というか舌は、当然味覚を感じることができるはずで、でもわたしは捨食の魔法をすでに会得しているはずだから (もしそうじゃないなら、わたしはとっくにこの石の皮の内側で飢え死にしているにちがいない)、「物を食べたい」っていう欲求はあんまりない。どちらかというと重要なのは、わたしが言葉を口から発することができるようになったっていうこと、自分の持っている情報を自分自身の動作だけで伝達するための手段を手に入れたっていうことだ。
 それはもちろん嬉しいことだけど、同時にさびしいことでもある。だって、せっかくマニにひらがなを覚えてもらったのに、それが実際の意思疎通に活かされたのはアリスと会話した時の一回だけで、これから使う機会も少ないだろうから。結局自分の口で伝えたほうが早いし、マリサのときみたいにあらぬ誤解も受けない。
 でも逆に、わたしの声では対話が成り立たないけれど、マニだったら対話が成り立つ相手もいる。それは言うまでもなく光の粒たちで、彼らはいつしか、はじめのころと比べものにならないくらいきれいな〈は〉〈し〉〈゛〉〈め〉〈ま〉〈し〉〈て〉を描けるようになっていた。どういう仕組みなのかはわからないけれど、やはり光の粒たちはマニの描く整った文字を学習しているみたいなのだった。
 もちろん、光の粒はマニの真似、まあ言ってしまえばおうむ返ししかできないわけで、だから「対話」なんて大げさな言葉を使うほどのものではないのかもしれないし、光の粒に知性があるのかわからない以上、これを地道に続けていった末に彼らもすべてのひらがなを覚えてマニと自由に言葉を通わせることのできる日が来る、なんていうのは単なるわたしの妄想に過ぎないのかもしれない。でも、マニが自発的に描く文字列の種類もだんだん増えてきて、光の粒はその文字列を不器用に再現しようとしていて、それはなんだか親鳥にさえずり方を教わっている小鳥みたいな、妙な可憐さがある。
〈はじめまして〉。〈は〉〈し〉〈゛〉〈め〉〈ま〉〈し〉〈て〉。
〈こんばんは〉。〈こ〉〈ん〉〈は〉〈゛〉〈ん〉〈わ〉。
〈よろしく〉。〈よ〉〈ろ〉〈し〉〈く〉。
〈わたし〉。〈わ〉〈た〉〈し〉。
 よくよく考えると、光の粒はわたしと一番付き合いが長い生命体だ。彼らはわたしがマニを作り出すよりも前から、アリスやマリサに出会う前から、脳内の眼であたりを見通せば彼らはいつだってそこに居た。いまでも変わらずいつだってそこに居る。もしかしてわたしを孤独にさせないために、いつまでもそばにいてくれる存在だったりして。

19
 たんたん、と小気味いい靴音を立ててひとりの魔法使いが地面に着地する。マリサがわたしのところを訪れたのはたぶん二週間ぶりのことで、今日の彼女からは、かすかな焦げくささを含んだ甘ったるい香りがただよっている。アカシアというよりは蕎麦の花でつくったはちみつって感じの匂い。もちろん実物の匂いを嗅いだことはない、そのはずだけれど、なんだか前にも嗅いだことのある匂いだという気がした。
「あ、口が開いてる」
 なんて話しかけられるのかどきどきしていたら、初っ端からそこに突っ込んできた。どう返事しようか。もちろん返事の内容ではなくて、返事の方法についてわたしは悩んでいる。喉を震わせて「そう」って答えることはかんたんだけど、マニに〈そう〉って書いてもらうほうが、わたしらしい自己紹介になるような気がする。それに、アリスがわたしの頼みごとをきちんと果たしてくれたなら、すでにマリサは〈ことばを〉〈つたえる〉〈ための〉〈わたしの〉〈やりかた〉について知っているはずだから……よくよく考えてみるとたいして悩むべき選択でもないのだった。マニはわたしの背中からじわりとにじみ出すように現れて、なめらかな線と屈曲を交互に描き出す。
〈そう〉
「……」
〈ひらく〉〈くち〉
「……ん」
〈はがれる〉〈からだの〉〈いしが〉
「うーん……?」
 伝わってるんだろうか。伝わったっていうことで納得していいんだろうか。地面のほうからがさがさ、と音がする。脳内の眼で見てみたら、マリサはわたしの足元から何かをつまみ上げ、なにか手触りを確かめている様子で、もしかすると剥がれたあとのわたしの石の皮を検分しているのかもしれない。
「ふつうに話せないのか?」
「……いや、まあ、話せるんだけど」
「話すよりもそいつを使うほうが好きってことか」
「好き……というか、愛着があるの。だから、いまはちょっと寂しいなって思う」
「話せてしまうことが?」
〈そう〉
「おまえ……やっぱり、なんというか、変てこだな。魔法使いっぽい」
「あなたと似て?」
「それは『変てこ』と『魔法使い』のどっちにかかってるんだ?」
「まあ、それは別に……あ、ひとつお礼したいことがあって。ほら、わたしの頭の、笠を」
「ああ、はいはい……この笠、渡したのはわたしだって分かってるのか」
「その時には耳が開いてたから」
「ああそういえばそうだった」
〈ありがとう〉
 マリサはそれを見るとふふ、と笑って「まあわたしだって変てこだよ」「目も早く開くといいな。窪んでるから剥がれにくいのかな」と続ける。単純に丁寧で優しいひとではないけれど、ひたすら直截的な物言いのひとってわけでも決してないんだなって思う。
「おまえの使う魔法ってどういう魔法なんだ?」
「うーん、生命体のゆらめきを感じ取ったり、頑張れば動かすこととかも……」
「じゃあ、そいつはおまえのお手製の生命体ってとこか?」
〈そう〉
「へえ、面白いな」
〈でしょ?〉
 得意になったわたしは、その生命体にマニっていう名前を付けていること、マニは基本的にはわたしが指示を与えないと動かないけど、それなりに自律的に動くこともできるってこと、がんばったあとには鞠みたいにぽんぽん空を跳ねるのがとてもかわいいっていうことを口頭で説明した。それから、この間急にマニを呼び出してびっくりさせてしまったのが申し訳ないっていうことも (こちらは恐る恐る) 伝えた。そしたら、「ああ、まあ、正直あんまり覚えてないけど、律儀にどうも」とあっさりした返事が来たので、なんだか拍子抜けしてしまう。
「ところで、えーと、そいつ……」
「マニ?」
「マニの動きが正しいかどうか、おまえの方から確認することはできてるのか? まだ目は見えないはずだろ」
「魔法で視えるのよ、おおざっぱな動きだけだけど。というか生きものの生命力がわたしには光って見えるの。樹も、鳥も、妖精の姿も、あとは、マリサの動きも、なんとなく」
「へえ……そうなんだ。見えてたんだ」
「え?」
「えっと……なるほどねぇ」
 いや実はわたしもそういうの欲しいなと思ってさ、ええと、わたしはきのこが好きなんだけども、いや、好きというか魔法の原料がきのこでさ、きのこを探すのにおまえの魔法って役立つんじゃないかなってふと思ったのさ、だから、その、自由に動けるようになったらぜひきのこ狩りを手伝ってもらえると助かるな、にしてもどういう風に見えてるんだ? セキガイセンカメラみたいな感じ? セキガイセンカメラって言っても伝わるわけないか。とかなんとか、その後に続いたマリサの言葉はあまりにも取って付けた感じが強くて、左耳から右耳へと流れ去って、さっぱり頭に入ってこない。そんなことより、マリサの「へえ……そうなんだ」の言い方が、「ほんとうにそんなことが!」みたいな、感心や驚きの意味合いよりも、「それはちょっとまずいかも」みたいな、焦りを意味するほうに聞こえて、それがすごく気になって仕方がない。語尾に向かって抑揚が上がるのではなく、尻すぼみに下がるほうの「そうなんだ」なのだった。何かやましいことでもあるんだろうか。
 まあでも、それをいま指摘してどうこう言うのは野暮だという気もしたから、どのきのこが好きなの、って訊いたら、アミガサタケかね、べただけど、って答えが返ってきた。なんというか、名前の通り編み笠みたいなきのこなんだ。味噌汁にするといいよ。という話らしいけれども、アミガサタケというのをわたしは知らないし想像することもできない。「べた」というくらいなら、世の魔法使いの間では常識なんだろうか。だとしたらわたしに知識を与えただれかがうっかり頭の中に入れ忘れたんだろうか。

20
 わたしの能力を聞いたときのマリサの反応が不審だった理由は、数日後アリスに訊いてみたらすぐにわかった。アリスは「ああ、あれねえ……」と少しばつの悪そうな調子の声で、「まあこれは、わたしも加担した節があるから、ショックを受けないでもらえたらうれしいんだけど」と前置きしながら説明しはじめた。
 わたしに意識が芽生えて、見た目としては完全に地蔵だったころのこと、わたしの前をアリスとマリサがはじめて通りかかったとき、彼女たちに指先でぐいっと鼻とか耳のあたりを触られた気がした。あのときの感覚は今でもありありと思い出せる。はじめてわたしが味わった触覚の記憶。そのあと、どうしてか触られた部分から石の皮に亀裂が入って、それをきっかけに、わたしの肌は少しずつ外側に向かって開かれていったのだった。
 それだけだったらへえそうなんだよかったね、という話で終わったんだけれども、実際のところあれはマリサがアイスピックでわたしの耳を突いたからなのだという。「アイスピック」って何、って訊いてみたら、氷を砕くためにものすごく太くした千枚通しみたいな道具らしい。あのひとはどうしてそんなものを普段から持ち歩いているのか。
「つい三か月前までただの地蔵だったのが、この間通りかかったら、急に魔力を放ってたから。でも、どういう変化が起こってるのかは、そのときはまだ魔力が稀薄すぎて分からなくって」
「うん」
「マリサってマジックアイテムを収集するのが趣味……というか、そういう持病なのよ。いったん考えはじめるとそれしか考えられなくなるの。歯止め利かなくなるの。ただでさえ家が物で溢れてるのに、『よく分かんないから、とりあえず引き抜いて家に持って帰るか』とか言い出しちゃって……だから、『もしこの地蔵の中に人が埋まってるとしたら?』って言ってみたの」
「え、どうして?」
「怖がってやめるかと思ったのよね。でも、あの子は怖がるどころか、『だったら確かめてみようぜ』とか言い出して、あなたの顔をつつきはじめて、そうしたら、細かい亀裂の入った耳たぶの部分が、なんというか、少し温かい感じがして、湿り気というか、指先が吸い付く感触があって、もしかしてこれは本当なんじゃないか、って話になって……流石に、その時は怖くなっていったん帰ることにしちゃった」
「……ちょっとまだうまく想像できてないんだけど、やけどの水ぶくれが無性に気になって触り続けていたら、うっかり潰しちゃってはっとするみたいな……そういう感じ?」
 蜘蛛の巣状にひび割れた石の表面に、透明でとろみのある分泌液の染みが広がるのを、わたしは頭の中で想像してみる。たしかにそれはすこし怖い。あと、今の話を踏まえると、あのとき左耳に感じたひんやりとした感覚は、単に風の冷たさだけじゃなくて、風に当てられていた傷口のせいでよけいに強調されていたのかもしれない。そんなことをぼうっと考えていたら、「やけどしたことあるのね……」って言われて、わたしははっとした。
 実際、あるわけがない。ないけれど、知ってはいる。わたしには、実感をともなっていない言葉を使ってものを例えるくせがある。
「やけどしたことがなくても、やけどしたときのことが想像できてしまうから」
「……どういうこと?」
「目覚めたときから、結構わたしはいろんなことを知っていたの。やけどすると水ぶくれができるってことだけじゃなくて、わたしがまだ本当かどうかどうやったって確かめられないこと、たとえば……人間の赤ん坊がお母さんの体から生まれてくるってこととか、一日には昼と夜があるってこととか」
「……確かに言われてみたらそうね。そうじゃなければ、わたしたちとふつうに会話することなんてできないし」
「そう……それに、わたしが魔法使いだってことも、わたしの立っている場所が幻想郷の魔法の森だってことも、わたしが矢田寺成美って名前だってこともはじめから知っていた。自分で経験したわけではないし、友達に教えられたわけでもないし……だとしたら、誰がわたしの頭の中にでたらめに知識を放り込んでしまったのかしら、そんなことをわたしは延々と考えてる。考えたって意味がないってことも理解しつつ。でもなにも見えていないし、動くこともできないし、自分の持っている知識をほんものにできないわたしが、そのもどかしさを和らげる手段って、考え事くらいしかなくって」
 つい、ぺらぺらと口に出してしまった。もしいま表情筋を動かすことができたなら、わたしはわたし自身に対して苦笑いしていると思う。こんな特殊な悩み事を、ほかのひとに理解してもらえるはずもない。そんなことにこだわる必要ないんじゃない、って言われても仕方のないようなことだって、自分でも思う。でも多分もしそれを他のひとに言われたらわたしは少し傷付いてしまうのだった。厄介なことに。
 だから、「思いっきり共感できるわけじゃないけど、でも、少しだけ理解できる」というアリスの返事が耳に届いたとき、すごくほっとした。のもつかの間、「わたしは、人間から魔法使いになった身だから」と言われて、思わず「え、嘘でしょ」と口走ってしまった。
「アリスは生まれた時点から空中に浮いてたくらいにはすごく魔女なんじゃないか、って勝手に想像してた」
「ふふ、何それ、どういうこと? どうしてそう思うの?」
「え……文字通り……つかみどころがない、から?」
 自分でも首を傾げたくなるような返事だな、と思っていたら案の定鼻で笑われてしまった。ただ実際のところ (マリサは自分の変てこさをそれなりに理解していて、それでもあえて変てこに振る舞っている気がする一方で) アリスはひたすら無自覚、自然体のままふわふわしているせいで、話しているとこちらの足元がふらつく瞬間がある。ふたりとはまだほんの数回しか会話していないのに、こんな失礼なことを考えているのは自分でもどうかと思うけれど。
「わたしがまだ人間だったころは、グリモワール……あ、この言葉知ってる?」
「ごめん、知らない……」
「ええっと、魔法使いのための学術書みたいなものかしら。魔法使いを目指していた最中は、その本の中身を見てマジックアイテムを集めたり呪文を唱えたりしてたわけ」
「ああ、う、うん……」
「でも、そのグリモワールは元人間とかじゃない、真正の魔法使いが書いたものだった。だから当然、魔法使いが読むのに最適な語彙と文法で記述されている。だから、魔法に興味のある人間、っていう程度じゃあの本になにが書かれているかは理解できなかったの。知らない単語をしらみ潰しにひとつひとつ覚えていって、その単語を別の単語と結び付けて知識体系を構築していく地道な作業の末に、いつのまにか読めるようになっているのよ……まあ最終的なゴールは、捨虫と捨食って言えば伝わるかしら?」
 うん、と小さく答える。正直あんまりついていけていないのだけれども。
「でも、特定の知識を習得した後って、あまりにも無意識的にその知識を運用できてしまうから、どうやって習得したのかなんて忘れてしまうものよ」
「……」
「その当時先生にあたる人は居たし、もしくは自分で辞典を引いて覚えたのかもしれない。じゃあ、先生にどんな質問をしてその答えが返ってきたのかしら、辞典の引き方はどこで覚えたのかしら。先生の使う言葉や、辞典に使われている言葉を覚えたのはいつなのかしら。そもそも言ってしまえば、わたしはどうやってわたしの使う言語を覚えたのかしら……ふふ、さかのぼろうとすればするほど訳が分からなくなるものね。あなたの話を聞かなかったら、こんなことを考える機会はなかったかもしれない」
 話を聞きながら、わたしはアリスが人間の子供だった時のことを考えていた。これまでのアリスとの会話から考えるに、おそらく彼女は日本語だけじゃなくてほかの文字で綴られる言語も使うことができる (いわゆるカタカナ語のさらに大元の言葉)。どちらを先に覚えたのかは知らないけれど、仮に日本語を先に覚えたとして、「こんな」「こと」「を」「考える」「機会」「は」「なかっ」「た」「かも」「しれ」「ない」という文章を構成するそれぞれの単語を習得した時点がアリスには確実に存在するはずだ。でも、それぞれの単語がいつどういうきっかけで習得したものなのか、成長した現時点のアリスが正確に記憶しているわけがない。ようするに、ふつう、自分の持っている知識が、もしくはその構成要素がなにに由来するのかなんて誰にも分からない。なぜならそんな記憶はとうに過去の方向へ流れ去ってしまっているから (っていうことをいまアリスは伝えたかったんだと思う。合っているかどうか分からないけれど)。
 だとしたらわたしは、習得の記憶をどの時点に置き忘れてしまったんだろうか。そもそも今まで、わたしには過去が存在しないと思っていた。石の中で目覚めた時点がわたしの開始点だと思っていた。でも実際には過去が存在していて、そしていま過去があったことすら忘れてしまっているんだろうか。なんだこれ。自分のことのはずなのにこんがらがってくる。

21
 夜ごとに開かれるマニと光の粒との密話を知っているのは、密話をのぞき見している張本人のわたし (それに加えて、もし光の粒に意思があるのであれば光の粒) 以外にはいないのかもしれない。「夜になるとわたしの周りにひらがなが浮いてたりしない? たくさんの光の粒でできたひらがなが……」なんてことをアリスに訊いてみたら、「ごめんね、なにを言っているのかさっぱり」って言われて、ああやっぱりそうなのか、って思った。
「……あ、もしかして、あなたのペットが……」
「ペット……」
「ええと、飼育……動物?」
「マニのこと?」
「そう、そのマニが勝手にあなたのもとを離れて、夜空にひらがなを描いてるんじゃないか、ってことを言いたいの?」
「ううん、そういうわけじゃなくて、もっと単純に、たくさんの粒子で出来たたくさんのひらがなが光って浮いてたりしないかなって。でも別に心当たりがないっていうならそれで差し支えないんだけど」
 わたしがそう言うと、アリスはなぜかわたしの耳たぶを撫で、ぐにぐにと揉みはじめ、それっきり黙りこくってしまった。意味が分からなすぎたので意味が分からないことをして返事の代わりにしたんだろうと思う。
 ようするに、光の粒たちはわたしの眼を通してみれば生命力の指標としての光を観察できるけれど、おそらく光の粒自体が物理的に光を発しているわけではないから、アリスやマリサが持つ本物の目ではとらえることができない。
 ただ、アリスの言っていたことのうち、「マニが勝手に夜空にひらがなを描いているんじゃないか」っていうのはあながち間違っていない。べつに、わたしのもとを離れて森じゅう好き勝手にひらがなの軌道を描いているわけじゃないけれど、少なくとももう最近は、わたしの指示した言葉でなくても、もしくはわたしが以前に描いてと指示したことがある言葉でなくても、自由に文字列を生成するようになった。
〈はじめまして〉。〈こんばんは〉。〈よろしく〉。〈わたし〉。〈あなた〉。〈こよい〉。〈たいよう〉。〈ぬけがら〉。〈ひかり〉。〈ぞうけい〉。〈つきよ〉。〈しょうじょ〉。〈ぎょうれつ〉。〈くらやみ〉。〈ひょうじょう〉。〈きゅうたい〉。〈いきもの〉。
 光の粒についても、すでにほとんどのひらがなの輪郭をきれいに再現できるようになっていた。文字を並べてなにか意味のある単語を作るって段階まで進んでいるわけではないにしろ。
 ふと、文字列っていうのは結局相手に何か伝えたいことがあるときに並べるもので、だとすれば、もしかするとマニからなにか質問文を描かせたら、光の粒はそれに応じて文字列で答えてくれるんじゃないかしら、なんて、ものすごく都合のいいことを思い付いたのだけれども、まあわたしには時間のゆとりだけはあるので試してみることにした。
〈はじめまして わたし もしくは わたしの ぶんしんは まに という なまえを もっています〉
〈あなたは わたしの ことばを りかい していますか?〉
〈ねつを うみだして うごく マニは ときおり とおりみちに うかぶ あなたたちの いちぶぶんを やいてしまう そのことが もうしわけ ないのですが わたしは ゆるされて いるのでしょうか?〉
〈あなたから わたしに たいして たずねたい ことは ありますか?〉
 どの質問に対しても、光の粒が見せた変化は一通りだけで、それは、空気中に形成されたひらがなの数と密度がものすごく濃くなるってことだった。わたしの眼が遠近感の把握に弱いせいで、近接するひらがなたちはわたしの視界の中でほとんど融合したり重なり合ったりして、ようするに行間と字間という概念の失われた文字列ができあがり、読み取ることもままならなかった。そんな状況では、〈さ〉が〈き〉の中に、〈め〉が〈あ〉の中に完全に隠れているなんてこともありうるし、重なり合った文字たちを一文字一文字に分解したとして、意味のある文字列を復元できる可能性は低い。今まで通り、光の粒たちはマニの描いた文字を真似しているだけで、ただ今回は先生が提示したお手本の文字数がやたら多かったから、その分一生懸命に描いた手習いを一枚の夜空の中に詰め込みきれなかったのかもしれない。
 そのうち、指笛のような音を立てて強い風が吹きつけ、光の粒が作り出していたひらがなは一気に吹き飛ばされて見えなくなってしまった。雨のない、風の弱い夜であれば彼らふたりはたいてい朝まで交信を続けるのだけれども、天気のきまぐれでこうして突然に打ち切られることもある。最近はこういう日が前よりも多くなってきたのは、冬が間近に迫っているせいなのかしら。

22
「おまえに最初から宿っていた知識ってのは、たぶん地蔵なら知っているんじゃないか、って人間たちが想定した知識だ」
 そう言われてみても、すぐには意味が理解できない。この前にアリスにしたのと同じ質問を、マリサにもしてみたのだった。すなわち、わたしの知識と言葉がどこから来ているのかわたしにも分からないのだけれどもどうしよう? っていう、質問の基本的な体裁も成していないような質問を。そうしたら返ってきた答えがそれだった。
「どういうこと? 人間たちって誰のこと?」
「……まあ、人並みの想像力を兼ね備えた人間?」
「えっと、具体的な誰かってわけじゃないの」
「いや……うーん、うまく伝わるか分からないけども」
 そのあとのマリサの話をまとめるとこうなる。
 まず、わたしの生い立ちはかんたんに言えば石像が精神を得て妖怪になる、っていう現象で、そういう「何かから妖怪に変化する」って現象はありふれている。長命な動物、使い古された道具、それに、人間から妖怪になるっていうのも決して珍しいことではない。もちろん自然発生的な妖怪に比べれば数では劣るけれど、数量の多寡というのはこの際問題にならない。
 なおかつ、だいたいの妖怪は、人間の想像力によってその性質が規定されている (そしてそれは、変化によって生まれた妖怪も例外ではない。たとえば、人狼は満月の夜に獣に戻る、だとか、一本だたらは製鉄が得意、だとか)。ここで、個々の妖怪が持つ知識体系も人間の想像力が規定する性質の一つであることに変わりはなく、すなわち、「その妖怪であれば当然生まれたその瞬間から持っているだろう」と無理なく想像される知識を最初から持った状態で、妖怪はこの世に生まれる。もしそうでなければ、猫なみの知識しかない猫又とか、傘なみの知識しか持たない傘化けが出来上がるわけで、彼らとはおそらく話が通じないので人間としても困ってしまう。だから、猫から猫又に、傘から傘化けに変化した瞬間に、彼らの脳内には猫又や傘化けなら当然持っているであろう知識が彼らの頭の中に雪崩れ込んでくる、と考えるのが自然だ。……っていう理屈をあてはめれば、わたしの持つ知識は、仮にお地蔵さんが意識を持っているとしたら当然持ってるんだろうな、って人間のみなさんが想像した知識ってことになる。
 その理屈って本当に正しいんだろうか。だってその場合、わたしの経験、わたしの言語感覚は不特定多数の誰かさんによって構築されたっていうことになり、そして不特定多数であるがゆえに、わたしはその誰かさんの顔を一切思い出すことができない……あれ、でもそれってあたりまえのことなのかも。わたしはふと、この間のアリスとの会話を思い出す。人間たちだって、自分の使う会話や知識をどこで手に入れたかなんて覚えていない、みたいな話をしていた気がする。知識を教わった記憶がもとから存在しないのと、もしくはかつて確実にその知識を教えたもの・ことが存在したにもかかわらず今となっては忘却してしまっているのと、どちらも記憶が「残っていない」のだから、状態としては同じようなものだ。すべての出来事、すべての記述が教師になりうるけれど、知識から教師の顔を探し出すことはむずかしい。
「こんな妙なことを考えてる妖怪、わたしはじめて見たかもしれない」
「……まあ考え事をする時間だけはたくさんあるから」
「いや、時間があったとしてもそんな疑問を抱けるやつは限られると思うぜ。わたしの周りにいる妖獣とか付喪神とかが、そういうこと考えるの苦手すぎるせいかも知れないけど」
 マリサが立っている方向からは、きんと冷えた空気に混じって、蕎麦のはちみつみたいな、甘い匂いがかすかに漂ってくることにわたしは気が付いた。前に話した時にも嗅いだような気がする。そういう香水をつけているんだろうか。ところで、わたしにはちみつの匂いはこういう匂いだ、って学習させたのも「人間の想像力」なのかしら? 本当に?
「まあ答えが出ない問いのおもしろさもなんとなく分かるけど……往々にして、どうでもいいっちゃどうでもいいことでもあるよな」
「え、ひどいよ、わたしは真剣なのに」
「どうでもいいことがつまらんとは言ってない。おもしろいけどどうでもいい、もしくはどうでもいいからこそおもしろいとか、そういった類のことだよ。まあでも、いったん、現実問題というか、もっと具体的な脅威について考えようぜ。わたしは今日それをおまえに話しに来たんだ……と、その前に」
 そこでマリサの言葉が途切れて、次の瞬間、首元から肩にかけてなにかがまとわりつくような感覚がした。アリスの襟巻き越しでもそのずっしりとした重みが伝わってくる。それに加えて、石の皮を通り抜けて体に染み込んでいく外気の冷たさが、不意に弱まったような気がする。花みたいな香りがする。アリスのくれた襟巻きがはじめの二、三日くらいの間まとっていたのと同じ香りだとわたしは気が付く。
「……服?」
「縫ったのはアリスで……なんて名前だったか忘れたけど、とにかく撥水性の魔法がかかってるらしいぜ。デザインしたのはわたし」
「デザ……ううん、なんでもない」
 なんでこのひとたちはこんなわたしにこれほどまでにやさしいんだろうなって思う。
 ふと思い立って、わたしはわたしの口からではなく、マニに〈ありがとう〉と描かせることにした。ゆっくりと空にひらがなの軌跡が描かれているあいだ、わたしは自由に動けるようになってからふたりにどういうお返しをすべきなのか、改めて考えはじめる。
 最後の一文字を描き終わるのを待ってから「のろいなあこいつ」とマリサは笑った。そんなこと言われても、感謝は速度が遅いほうがしっかり伝わるような気がするのだった。

22
 またいつものように脳内の眼を開いている。まだ昼間だから光の粒たちは空気中に均一に分散して、なんの文字も模様も作っていない。このところいっそう冷え込みがきびしくなってきたから、日中でもマニを呼び出して、ずっと背中の裏に浮かべている。傍目からは観音様の光背みたいに見えてるんじゃないかって思う。
 この森においてどういう樹種がどういう組成で生えているのかはわからない。ただ、わたしから見て左前方に立っている樹が、それまでは一番葉っぱが大きくて威圧感の強かったのだけれど、この間の木枯らしのせいで葉っぱが吹き飛ばされてかわいそうにすっかりはだかんぼうになってしまった。ただそのおかげで、すかすかになった枝の隙間から今までは見えなかった針葉樹の姿が見えるようになった。樹木の生命力は基本的に緑色の光に見えるのだけれど、なんだか針葉樹の放つ光は広葉樹のそれに比べて、心なしか深い緑をしている。深い、っていうのは単に色を濃くしたって感じじゃなくて、なんだろう、水で濡らしたせいで色に黒みが増したみたいな感じの深さ。偏見でしかないけれど、広葉樹より針葉樹のほうが、普段は口数が少ないくせに、肝心なところにかぎって頑固な気質なんじゃないかって思う。万が一、植物に意思があるとしたら。
 万が一、すべての生命体に意思があるとしたら? 意思を持つ可能性があるとしたら。
 明らかにわたしと独立した意思を持つのは、アリスとマリサのふたり。マニにも意思はあるんだろうけれど、あの子に関してはとわたしの意思で動いているのか当人の意思で動いているのか、ときおり判然としないところがある。鳥や蝶や妖精や妖獣にも、そしてあの、マニの文字を真似する光の粒たちにも、意思はあるのかもしれない、けれど、その意思が存在してるっていうことをわたしは証明できない。なぜならわたしは彼らと意思疎通することができないから。いや、仮に意思疎通できたとしても、その意思疎通さえも思考ではなく反射で行っているのかもしれないし。
 それでもなお、本物の目が開かないせいで、脳内の眼しか使っていないせいで、わたしはまわりに存在する生命体の動きと息づかいを、ただ発光体の振動としてしか認識することができない。彼らの意識のあるなしにかかわらず。意思のあるなしにかかわらず。ただ無数の光が集合して同調し、個体を形成している。目から入ってくる情報の量が少なすぎるせいで、言葉を交わすことによってしか、わたしは他者の意思を確認することができない。だから逆説的に、わたしと言葉を交わすことのできないすべての生命体にも、もしかしたら意思が宿っているんじゃないか、なんて夢想してしまうのだった。
 ただ、それは必ずしも夢想とはいえないんじゃないかしら。だってこの場所では、たんなる無機物にすぎなかったわたしですら、想像力の気まぐれによって意思を与えられる可能性があるんだから。

23
「明日から雪が降るのに、おまえ、本当にこのままで大丈夫なのか?」
 明日から雪が降るのに、っていうマリサの言い方はずいぶん断定的だ。きっとわたしだったら明日の天気のことなんて正確に言い当てられるはずがないから、明日から雪が降る「みたい」けど、って言い方をするだろう。
「明日の天気がどうしてわかるの?」
「こないだ山の裾野に雪女が歩いてるのを見たんでね」
「へえ……そうなんだ。雪女ってかわいい?」
「うーん、まあ、かわいいの範疇だな。でもかわいげはない」
 横にいるアリスが「わたしまだ会ったことないな、雪女」と言う。いつだったかアリスが、わたしよりマリサのほうがずっと顔が広いし付き合いも多い、って言っていたのをわたしは思い出す。交友範囲は地獄から宇宙までとかなんとか言っていた。それに関してはただの冗談かもしれないけれど。
 今日はアリスとマリサがふたりでわたしのところへ来ている。ついさっき、樹木に取り囲まれたあっち側の空間からふたりは姿を現しここまで歩いてきた。個別で来るときには飛んでくるのに一緒に来るときは歩いてくるっていうのは、そうしたほうがふたりの間でおしゃべりがはずむからなんだろうか。記憶が正しければ、ふたりで一緒にわたしに会いに来てくれたのはこれが三回目だ。一回目はマリサが千枚通しでわたしに亀裂を入れたっていうあのときで、二回目はわたしがはじめて日本語を声として聞いたあのとき。ふたりの会話をわたしは四つの単語として正確に覚えている。なにせ生まれてはじめて鼓膜を震わした言葉なのだから、きちんと記憶しておきたくもなる。「失敗」「火力」「黒焦げ」「毒林檎」……あのときからいったいどのくらいの時間が経ったのかしら。
 これまでわたしが経験したすべての出来事は、ひとまず今年の秋から冬にかけて、だいたい三か月くらいの間に起きた出来事だってことは間違いなくって、だけど、何週間前、何日前にふたりと出会ったのか、正確な時期についてはもう覚えていないし調べる方法もない。そもそも、わたしはいつごろから週とか日とかそういう概念を実感しはじめたんだっけ。時間感覚ってものを身に着けたのはいつのことだっけ。そう遠くないはずの習得の記憶は秋のどこかに置き去りにされて、気が付いたときにはわたしたちの上は冬空が広がっている。
 この前マリサと話したとき、「だいぶ前からアリスと話してたことではあるんだけど……この場所からわたしの家までおまえを運べば、冬の寒さに関する問題はぜんぶ解決するんじゃないか? 一応暖房もあるぞ。ハッケロって名前の」そんな提案をされたのだった。
 わたしはとっさに「いったん考えさせて」って答えてしまった。外ではないもっと快適な場所に運んでもらうっていう、(図々しいけど) もっとも単純な解決策を、どうしてわたしは今まで一度も思い付かなかったんだろう、って愕然として、思考がそこで止まってしまって、はいともいいえとも言えなくなってしまった。でも、そのあとひとりでゆっくり考えてみて、今まで一度も思い付かなかったってことは、もしくは、マリサの提案に反射的に「そうしたい」って答えられなかったってことは、たぶんそういうことなんだろう、って思い直した。
「この間の申し出はありがとう……だけど、今はこの場所でいいかな」
 そう言うとマリサは「そうか、まあ死なないならいいんじゃないか」とあっさりわたしの選択を受け入れてくれた。おそらくわたしは生活風景の急激な変化を恐れているんだと思う。我ながらばかみたいだ。こんな生活を気に入っているわけでは決してないのに。それでも、わたしは生活風景の段階的な、こまごました変化を観察するっていう、ただそのことに救われて生きてきたわけで、それをこう簡単に手放していいものか、よくわからないのだった。いや、きっとこれは救いじゃない。ある種の依存なのかもしれない (「救い」って言葉は多くの場合良い意味でしか使えないけど、「依存」って言葉は悪い意味でも良い意味でも使えるから)。わたしは、わたし自身が語るわたしの成長記録を、すでに客観視して、娯楽化しはじめてしまっている。
「んー、凍え死なんだろうと踏んでるからおまえの希望通りにするけど、正直あんまりその感覚は理解できないな。そもそもわたしは寒がりだからってのもあるけど」
「……マニがいるから暖は取れるし、大丈夫。それにほら、風化作用ってあるでしょ」
「えっとごめん、マリサは知ってるかもしれないけどわたしは知らないわ」
「ええっと、石が外気に冷やされて収縮して、熱されて膨張して、これを繰り返すごとにだんだんもろくなって崩れていくっていう……だから、冷えた体をマニで温めるたびに、わたしの石の皮はどんどん剥がれやすくなっていくはずって、そういう原理」
 そんなことを言ったら、「無理矢理理屈をつけて断ろうとしてない? もしかしてあなたマリサの家が嫌なの? まあ想像通り目も当てられない狼藉だからね……わたしの家のほうがきれいだから、わたしの家に来る?」なんてことをアリスが冗談交じりの口調で言って、それから何回かひとの体が打たれる音と甲高い悲鳴が聞こえた。三人いると決して真剣な雰囲気にはならないのがありがたいって切に思う。
「ちょっと、痛い、痛いってば……あれ、ちょっと、マリサ待って」
「なんだ」
「なんか……あのマフラー、そんな色じゃなかったはず」
 そう言うと、ゆるく結ばれたわたしの襟巻きがふたりのうちのどちらかの手によってほどかれた。瞬間、首筋を冷たい風が通り抜けて、わたしは身震いをしたような心地になる (実際には身震いできていないはず)。なんとなく察していたけれど、やっぱり「マフラー」って襟巻きのことか、なんてのんきなことをわたしは頭の片隅で考える。
「灰色の毛糸で縫ったんじゃないのか?」
「ううん、わたしがこの子にあげたときは、もっとクリーム色だったから……埃を被っちゃったのね、たぶん……」
 と、そこまで言ってアリスが激しく咳き込みはじめる。げほっ、げほっ、けほ、けほ、かっ、げほっ、と、そういう音色の楽器みたいな咳だった。とっさに脳内の眼を開いてみると、アリスが腰を折り曲げて苦しそうにしている横で、そんな相方の様子を気にも留めず、マリサがばたばたばたばたと派手な音を立てて襟巻きについた「埃」をはたき落している。埃をわざわざ鍵括弧でくくった理由は、それが実際「埃」ではないからだ。この場でそのことをわたしだけが知っている。
 ふたりの言う灰色の埃は、わたしの瞳を通してのみ、暗闇に浮かぶ蛍光色の粒子に見えた。いつもわたしが観察している光の粒に違いなかった。

24
 見通しの甘さを思い知るのはいつだって手の施しようがなくなってからなのだとわたしは知る。もっと単純な言い方をすれば、わたしはいま凍えかけている。
 雪が降りはじめる直前の時期は、毎晩のように肌を裂くような冷たい風が吹きつけた。目の前を漂う光の粒たちは、左から右へ右から左へ数秒おきに方向を変える風にひたすらもてあそばれて、わたしは彼らをろくに観察することができなくなった。憂鬱で退屈な冬の予感だ。とはいえ、初雪が降ってきたときはけっこう興奮したのだった。ほっぺたや口元に冷たいひとひらが舞い落ちて、じんわりとわたしの肌から熱を奪って水になる、その流れを繰り返しているうちに、いつの間にかあごや鼻先に垂れ落ちた水が集まってちょっとだけこそばゆいその感覚が、なぜだかわたしは嫌いじゃなかった。雨が降るのはあんなに嫌なのに不思議だった。固体から液体に変わるっていう段階が楽しめるからだろうか。あと、雪解け水は雨水と違って美味しいんじゃないかしら、なんていう妄念にしたがって、しばらく口をあんぐり開けて、雪片が溜まるのを待っていたのだけれど、ああ、まあ、水の味がするんだな、って十数分で察してやめた。
 その初雪は数時間で降り止んで、胸を撫でおろしたのもつかの間、次の日の夜中からふたたび雪が降りはじめ、その後三日近くやまないままだった。三日「近く」っていうあいまいな表現を使ったのは、最後のころはもはや昼夜の気温差で一日の周期を読み取れるような皮膚感覚は厳しい寒さによって失われていたからだ。脳内の眼を開いてみてもめぼしい生命体は見当たらなかった。上空から舞い落ちる雪の軌道とちょうど重なる場所を漂っていた運の悪い光の粒は、そのまま雪片の表面に吸着されて地面に落下し、生命力を失ってわたしの視界から消えてしまった。頭は日ごとに重くなった。体調が悪いせいなのか、それともマリサがかぶせてくれた菅笠の上に雪が積もっているからなのか分からなかった。とにかくいろんな感覚がすり減っていた。風が激しいのか穏やかなのかも定かではなかった。それでも鼻を通り抜ける空気がそれまでよりも澄んでいて少しだけ気持ち良かった。
 マニの保温が追いついたのは最初の一日だけだった。よくよく考えたら最大出力の状態を二十四時間も継続してマニに働いてもらったのはこのときがはじめてだった。いままで、わたしはマニを使役するときに疲れなんて感じたことはなかった。でも、結局マニはわたしの魔力を源泉として動くのだから、三日も呼び出し続けていたら限界が来るのは当たり前のことなのだった。わたしは情けなくなるくらいに先のことが見えていなかった。冷温感覚がしだいに永続的な痛覚へと変じたとき、わたしは自分の顔の表面に霜が降りはじめたのを悟った。わたしはこのまま死ぬのかもしれないと思った。どうしてあのときわたしはマリサの提案を断ったんだろうって後悔した。「持ちつ持たれつ」のうちの「持たれつ」の比率があまりにも大きすぎるわたしを放っておかずに、何度もわたしのところまで足を運んでくれたのに、最後の最後で持ち掛けられた恩をなんとなくの理由で無下にしてしまったなんて、アリスとマリサに申し訳ないと思った。いやもう、どうしてこうも後ろ向きなことばっかり考えてしまうんだろう。体調が悪いせいかもしれない。いや体調が悪かろうが悪くなかろうが関係ないか。思い返してみたらわたしはけっこう頻繁に後ろ向きなことを考えている。
 それでいて体調は本当に悪かった。わたしはそのときとても体調が悪かった。悪霊にとりつかれてしまったみたいな絶望的な咳を何度も繰り返した。わたしは咳をしていた。わたしの肉体はいったいなんなのだろう、って改めて考えた。寒さに震えて風邪を引く。でも食べ物を摂らなくてもいいし酸素も必要としない。そこいらの人間と比べたらはるかに頑健にみえるわたしの細胞の、魔法使いの細胞の、そもそも石材に由来する細胞の、一体どこが不具合を起こしているっていうんだろう。強いなら強いって、弱いなら弱いって、はっきりしてくれないと困る。体だけじゃなくて心に関してもそうだ。石の中に生まれついてから、延々と考え事と観察だけをしながら過ごしていてそれでも倦まなかった心が、なんなら生活の単調さに対して部分的には幸せさえ感じていた心が、ひょっとしたら自分はいい意味で図太いんじゃないかとさえ思っていた心が、こんなにもあっさり弱ってしまうのはどうしてなんだろう。いろいろと中途半端だ。設計時点での問題だ。わたしの心と体はどちらもあまりにもとっちらかっていて、いったい誰がこんな風に作ろうって決めたのかしら? わたしのあらゆる性質をわたし自身の希望とは無関係に決めてしまったのはいったい誰なのかしら? これまでの三か月間わたしが延々と考えてきた、答えのない問いがここにきて図々しく頭をもたげる。おそらく意識を失う直前だというのにもかかわらず。

25
 わたしがわたしについて延々と記述しているのは、わたし自身についてできるかぎり詳しく知りたいから。いったん記述してしまえば、それはわたしの性質として、わたしの中に定着するはずだし、仮に忘れてしまったとしても、後から見返すことで思い出すことができる……と、いままで、そう信じていたけど、どうやらそういうわけでもないみたいだった。
 いまのわたしがいまのわたしを記述するぶんには差し支えない。だけど、いまのわたしが過去のわたしを記述する場合は、当然「思い出す」って行程が必要になるわけで、だからいまのわたしの主観が混じって正確性が揺らいでしまう。いまの時点で忘れている過去を取り出すのはそんなに簡単じゃない。そもそも、過去に起きた出来事は過去形だけじゃなくて現在形で記述することもできる。でもまさにその記述を行っている最中にいまのわたしはいつのまにか過去のわたしに憑依してしまって、結局わたしの記述は現在形と過去形の入り混じった正体不明の亡霊のようになってしまう。それに加えて、記述したところで解決しない問題は存在するし、そもそも記述しようのないことだってある。それはたとえば、気を失っている間に起きる出来事のような。だから、わたしによるわたしの記述を後から見返したって、正確なわたしの像なんか復元できるわけがない。どうやらおそらくすべてはあいまいなままかもしれないんじゃないかしら。だからって、わたしに記述をやめるという選択肢はないのだけれど。だってなんにも記述しないよりは記述したほうがまだわたしに関するわたしの混乱を防ぐことができるから。

26
 黒々とした靄が徐々に薄らいでいくのがわかった。それから輪郭のにじんだ細い櫛のようなものの影、ようするに自分のまつ毛が映って、唐突に木目調の平面へと焦点が合った。そして世界は一気に右側に揺らいだ。水を含んだ刷毛をさっと掃いたみたいな動きだった。再び視界が明瞭になったとき、そこにはしなびた野菜がだらしなく横たわっていた。さざ波だった白い敷布団の上でゆらゆら揺られていた。それが本当は野菜ではなくわたし自身の手だ、ってことに気が付くのに数秒の時間がかかって、その間わたしは関節と手のひらにできた葉脈じみたしわをひたすら見つめていた。見つめることができた。「焦点」や「視界」という言葉がいつの間にかわたしの手の中におさまっていた。そのことをどう捉えていいかわからないまま、とりあえず思いっきり手を握って爪を食い込ませた。なんとなく食い込ませたくなったからそうした。壁際のほうに目を移すと、横積みされた分厚い二冊の背表紙、『恐竜から鳥類への進化』と『光学顕微鏡の基礎』という横倒しになった縦書きの文字列だとか、たぶん香水か胃薬かなにかが入っている八角形の褐色瓶とか、灰色の端切れで表面を覆われた手作りっぽい質感の鉛筆立てとか、「上新粉」って勘亭流で書かれている紙袋とか、統一感のあるようなないようなものたちが木製の机の天板に寄せ集められていた。その机の側面には金色の鉤が取り付けられていて、薄紫色の地に白い糸ですみれみたいな草花の刺繡をあしらった手提げ鞄が吊るされていた。机の横には、蓋がついているのでなにが入っているのか知らないけれど茶色い木箱が長方形の側面をわたしに見せつけていて、ふとその木目に二つ三つ散らばった節が人間の眼球みたいに見えてきて、わたしは急に怖くなって天井に目を逸らした。でも天井の木目にも節があった。机にも節があった。壁にも節があった。逃げ場はなかった。節の周りには老人のよれよれのまぶたみたいに輪紋が広がっていて、でもそのまぶたが閉じることは決してなかった。まばたきさえしなかった。いくつもの眼球たちにわたしは覗き返されていた。光景は延々と流転する。気が付けばものすごい量の光が目の奥に突き刺さって、ううっ、って声が喉の奥から自然と漏れた。わたしがあおむけに寝かされていた布団の左側の壁には小窓があって、そこに映っている曇り空の隙間から一瞬だけ覗いた冬の太陽の光が、そのときはとてもまぶしく感じられたのだった。反射的にふたたび右側へと視界をめくり、握りこんだままの右の拳に焦点を合わせた。握り拳の指先をゆっくり伸ばしてみると、手のひらには丸括弧みたいな形をした爪の痕が食い込んで赤くにじんでいた。そのまま手をゆっくりと顔に近づけた。近づくにつれて手の輪郭はにじんでいった。葉脈の模様がかすんで見えなくなった。わたしはそのまま両目を中指と人差し指で払うように二、三度こすり、それから肩の下までずり落ちていた羽毛布団をたぐり寄せて、あくびをしたあとまなじりに残ってしまった涙を拭った。当たり前だけど拭いている間は目を閉じていたので、視界はふたたび暗闇に包まれた。まぶたに流れる血液の赤っぽい色を少しだけ含んだ、いままで見たことのない色の暗闇に。

27
 わからないことだらけだった。実際に起こったと思しき出来事が、あまりにも急すぎるせいで受け入れにくい。目が開いているのはまだしも、布団の中で体を自由に動かせるっていうのはどういうことなのかしら。あれだけしつこくわたしにつきまとっていた石の皮はどこに消え去ってしまったのかしら。わたしはどこに寝かされているのかしら。これはだれの布団なのかしら。だれの部屋なのかしら。
 ふと思い浮かべたのは、わたしを「わたし」としてこの世界に生み落とした誰かさんの顔で、でもその顔つきをわたしは知らない。そういえばマリサは、知識をはじめわたしのいろいろな性質を決めたのは人間の想像力だって話をしていた。だから誰かさんは複数人いるはずで、というかすべての人間なのかもしれない。「地蔵」と「魔法使い」という言葉に対して漠然とした印象を持っているすべての人間。そして、ここがすべての人間の部屋であるはずはない。だって明らかに四畳半よりはちょっと広いくらいの面積しかない部屋だ。そのうえ洋間だし。
 冷静になってあたりを見回すと、名前の知らない道具がいろんなところに置かれていたり吊るされたりしている。鈎型の持ち手がついていて側面にひとつだけ細くて円い穴が空いている直方体の箱とか、白くてふさふさした獣の毛みたいなものが先端についた小さなほうきとか。他人の生活においてなんの疑問もなく使われているものの名前すらわたしは知らない、ってことになんだか安心する。暗闇の中で最初から与えられていた知識だけがこの世のすべての知識じゃないってことだから。いやもう、そんなの本当に当たり前のことだって、はなから知ってはいたけれど、それでも。
 わたしは羽毛布団をめくる。いつの間にか袖のない、肩にかける帯と胸から足までを隠す筒形の布が組み合わさったつくりのかんたんな寝間着を着せられていて、てろてろした質感の布が体からくっついたり離れたりするたびになんだかくすぐったい。そういえば、首から下の皮膚感覚が働いているっていうのもはじめてのことだ。
 敷布団 (というか寝台) からもぞもぞと体を起こし、首をぐるぐる回しながら、わたしは板張りの床に足をつける。寝台に両手をつけて、ゆっくりと立ちあがる。体がものすごく重く感じる。今まで全身を覆っていた支えがすっかり取り払われたわけだから当然か。
 わたしの左手側には取っ手がついた扉があり、おそらくあれがこの部屋の出口で、だからさっさとこのよくわからない部屋から出ればいいのかもしれないけれど、わたしの好奇心はその手前に置かれている、わたしの体がすっぽり収まるくらいの大きな姿見のほうに吸い寄せられる。わたしはふらふらと姿見に近づき、左から右へ、少しずつ顔を鏡面に映してゆく。餅菓子みたいな耳たぶ、平べったい鼻、白くてすべらかな頬、唇の赤が薄い口、マニみたいにまん丸の目と顔の輪郭と、長い睫毛。なで肩、乳房はひらたい。そのままゆっくりと全身を滑り込ませると、背の低い (これはやっぱりくやしい)、たぶん人間でいえば十歳台と二十歳台の境目くらい、っていう感じの女の子が、それまで頭の中で思い描いていたのと同じ姿の女の子が目の前に現れる。
「……かわいい」
 本物を見てもかわいいと思えてよかった、と思う。他人から見られた経験が文字通り一度もないから、客観的に見てどうなのかは分からないけど、少なくともわたしにとってわたしの姿はかわいいと思えた。
「……さて」
 それから部屋を出ようとしたのだけれど、わたしの持ち合わせの知識では扉というものはすべて引き戸だったから、取っ手のついた洋間の扉というものをどうやって開ければよいかわからず、そのまま押しても引いてもだめで、延々とがちゃがちゃがちゃがちゃ金具をいじめていたら急に取っ手の手ごたえが重くなり、「ちょっと、いったん手離して」ってくぐもった声が聞こえた。そういえば、扉の向こう側に誰がいるかも分からなかったのにいきなり開けようとしたのはけっこううかつだったなって思う。でもその声は明らかにアリスのものだったのでほっとした。ぐるり、と取っ手が回転して向こう側へと扉が開く。
 わたしの姿を認めた瞬間、アリスはわたしに軽く微笑みかけ、「おはよう」と言った。その動作はやっぱり様になっていて、なんというか、本物の魔法使いみたいだった (本物の魔法使いでありながら)。白いぴったりとした長袖の上着に、青色の……裳ではない、裾がくるぶしまで届く筒型の服を着ていて、なにより顔と手首の肌は目を凝らしてようやく桃色が見えるってくらいに純白で、瞳も藍色に近い色で、そこだけ要素を取り出してみると雪女みたいだなって一瞬錯覚して、でも赤い帯のようなものでまとめられた金髪を見るにそんなわけないなってすぐに思い直す。なぜだか背後には持ち主の格好をそのまま写し取ったみたいなたくさんの人形が並んでこちらを見ている。
「えっと……ありがとう。アリスで合ってる?」
「ええ。改めてよろしくお願いね」
 家の中ではこれ履いてて、と目の前に揃えられたつっかけに足を通し、わたしは人形だらけの部屋へおずおずと入った。たくさんの青い瞳がわたしを不思議そうに見ている。

28
 牡丹雪が二日続けて降りやまなかった日があり、マリサが友人の神社の掃除 (「友人の神社」という言葉にひっかかりを覚えたもののそれでアリスの話を止めるのもどうかと思って結局流してしまった) から戻ってきたら家に入れなくなったというので、アリスはこの家から引っ張り出されてふたりして雪かきに励み、どうにか開通させたあと、そういえばあいつ凍ってるんじゃないかな、と思ってわたしの様子を見に行ってみたら案の定凍り付いていたのだという。
「いつも通りに魔力が漂ってたから、死んでないことはすぐに分かってほっとしたわ。まあ妖怪がそう簡単に死ぬもんでもないでしょうし、あなたの希望通りあの場所に春までそっとしておくって選択肢も、なきにしもあらずではあったんだけれど」
 実際耐えられたのかもしれない。冷静に考えれば、もともとわたしは地蔵だったわけで、石造りの化生が三か月程度凍り付いたところで直接的な死に結び付くとも思えない。ただそれでも、ふたりがそっちを選ばなくてよかった、と思いつつ、はは、ってわたしは乾いた笑いをこぼすしかなかった。なんというか、アリスの話し方の落ち着きぶりはすごいと思う。万が一わたしが今後の生活において、たまたま道端で凍り付いた知り合いを見つけて、あわてて家に持ち帰って、やがてそのひとが目覚めたときそれまでの経緯を説明する、みたいな立場になったら、しじゅう周章狼狽した話し方になるんじゃないかしら。このあたり、幻想郷っていう世界に対するわたしとアリス (とマリサ) の慣れの違いが如実に表れている気がする。
 アリスは椅子を引き、「コウチャ飲みましょ」と言いながら、戸棚から持ち手のついた陶製のお椀を取り出し、見たことのない形の急須 (本物の急須もまだわたしは見たことがないけれど) から赤茶色のお湯を注ぐ。「えっと、それはお茶の仲間?」と訊くと、ええ、そうよ、と不思議そうな顔でアリスはうなずく。
 本当に飲んでもいいんだろうか。口をつけてもいいんだろうか。
「ねぇ……御不浄って借りられる?」
「……御不浄?」
「あ、雪隠……」
「……ええと」
「厠?」
「あぁ、トイレのことね、そんな、駄目なんて言う訳ないでしょう」
 離れにあるからついてきて、と机に手をついて立ち上がったアリスを、わたしは「今じゃなくていいから」と引き留める。怪訝な顔をされた。当たり前か。お手洗い借りていい? って他人の家で訊くときって、今すぐお手洗いに行きたいっていう場面であって、今後お手洗いが必要になるかもしれないから前もって場所を訊ねようというひとはあんまりいない。
 そういえば、自分の体の内部でなにが起こっているのかについては、いままで考えることが少なかった。なんなら最初のころはわたしには内部なんて存在しないと思っていた。
「チーズケーキもあるけれど食べる? ついさっきまで居たマリサが焼いてくれたのよ」
「……わたし、まだものを食べたことがないんだけど」
「じゃあはじめての食べ物に挑戦してみたら」
 そう言いながらアリスは、真四角に切り分けられた乳白色の塊がのっかった丸皿をお椀の隣に置いた。行儀が悪い気がしつつも、塊に鼻を近づけると酸味と赤茶色のお湯の香りと混じって、干しあんずみたいな匂いがして (嗅いだことはもちろん食べたこともない)、わたしは「ありがとう。いただきます」と小さくつぶやきながら、恐る恐る突き匙を手に取った。たぶん高いやつだ。銀製の。錆びひとつない。
 肌が外気に触れてからわたしは空気の冷たさや温かさを感じるようになったし、口や鼻が開いてからわたしはようやく呼吸をはじめたし、そういえば気を失う直前にはわたしは風邪を引いていたような気がする。にわかには信じがたいけど、ややもするとわたしの生理機能はその生理機能を意識しはじめた瞬間から発生するのかもしれない。 
 乳白色のかけらは口の中に入れた瞬間、舌の上で溶けだしてたまり醤油くらいの粘性を持った液体になりわたしの口の中に広がっていく。お菓子は基本的に甘いかしょっぱいかのどちらかのはずだし、しょっぱいお菓子ってせんべいくらいしか思いつかないから、いま味わっている味はたぶん甘味だと思うんだけれど甘味で合っているのかしら。
「お菓子を食べてそんな難しい顔してるひとはじめて見たわ」
 アリスは眉毛を八の字にして困ったように笑っている。ぼんやりその表情を眺めていたら、もう「美味しい」っていう感覚だけ分かればそれでかまわないような気がした。

29
「訊きたいことはいろいろあるんだけど、まず、わたしを包んでいた石はどうなったの?」
 お菓子とお茶を飲み下して一息ついたあとでそう訊くと、「やっぱり気になるわよねぇ」と言いながらアリスはおもむろに腰を上げた。
「あっちの奥までついてきて欲しいのだけれど良いかしら。足元には気を付けてね」
 アリスは部屋の左隅、食器が収められた戸棚の隣の、こじんまりとした扉を指差してそう言った (そう言われるまで存在に気が付かなかったくらいには目立たない扉だった)。その手前にはかぼちゃの形に木をくりぬいて作ったらしき、一抱えほどもある大きな屑籠があって、アリスは実に重そうなそれを両手で大儀そうにどかし、扉の取っ手を引く。
 扉の先には板張りの廊下が続いていた。昼間だというのにずいぶん薄暗くて、もともと細い廊下なのに、両脇に一目では用途の読み取れないものが雑然と転がっていてよけいに狭くなっている、というか、ほとんど足の踏み場がない。「ひどいでしょ、ここ。マリサの忘れ物を安置してるのよ。本当に、いつ持って帰るのかしら……」と愚痴をぶつぶつ漏らしながら、アリスは湖面に浮かぶ蓮の葉っぱを渡る妖精の要領でひょいひょい奥へと進んでいく。
「なにがあるの」
「あなたの抜け殻」
 蝉みたいな言い方、って少しだけ不満に思いつつ、わたしはかかとをわずかに浮かせながら、えっちらおっちらついていくしかない。つっかけのつま先から少しはみ出した親指が信じられないくらい冷たい。そういえばさっきの部屋もわたしが寝ていた部屋も、暖房がついていたしじゅうたんも引いてあった。「うわっ」あやうくわたしは達磨を踏みそうになってよろけ、右側の壁に手をつく。お地蔵さんが達磨大師を蹴飛ばすなんて縁起でもない。左側はただの木目の壁だけど、右側は本棚と一体化していて、表面にざらざらと粉が吹いたみたいな古い紙の手触り。いま地震が起こったらわたしは間違いなく圧死するんだろうなって恐ろしいことを想像してしまう。いや凍り付いても死ななかったわたしだから圧死することもないのかもしれないけれど。アリスは突き当たりで右に曲がり、さっさと視界から消えてしまった。
 どうにかして突き当たりにたどり着く。折れ曲がった先は、道幅は相変わらずだったけれど、少し進んだ先の左側の壁に四枚の掃き出し窓が並んでいて、視界はいま来た道に比べたらずっと明るく、足元も見やすい。アリスは最奥でずいぶんと大きな茶箱の中をがさごそやっている。あの中にわたしに貼りついていたものがあるのだろうか。窓から広がる景色をぼんやりと眺める。真っ白な地面から日光の照り返しがまぶしいくらい。すっかり裸になった木の腕に雪がこんもりとのっかっている。
「ねえここって魔法の森の中?」
「そうよ」
 そうか。それなら彼らのことも見えるはず。わたしは眉間にしわを寄せて空気に目を凝らす。ここが魔法の森だったなら、あの光の粒たちが見えるはず、なんだけれど、見えない。いや、違う、肉眼で見ているから見えないのか。
「ねえどうしたのよ、急に立ち止まって……」
「ごめんちょっと待って、気になることがあるから」
 わたしは両目を閉じて、その代わりに脳内の眼を開く。でもやっぱり彼らの姿は見えない。真っ暗闇の背景の中で見えているのは、樹木が発する緑色の線の細い光と、茶箱の中に手を差し込んでいるらしいアリスが発する、まばゆい朱色の光だけ。
 彼らはどこにいってしまったのだろう。舞い落ちる雪にさらわれて物理的に埋もれてしまったということか。そもそも冬の間は寒さに耐えきれず死滅するっていう生活環を持つ生物なのか。いやもっと単純に、彼らは魔法の森全体にいるわけじゃなくて、わたしが立っていた辺りにだけ局地的に分布していたのかしら。もしくは、石の中に居たころのわたしが孤独からわたし自身を守るために作り出した想像上の生命体だったのかしら。
「あら、なんだか前よりも崩れている気がするわ……」
 緑と朱と膨大な暗闇、三色だけの世界の中で、アリスの声がどこか遠いところから響く。それから、ぼんやりとした輪郭のアリスの手が、茶箱の中から山吹色に光る塊を引き抜いた。アリスがその塊の表面をなでたとき、わたしは、あ、と小さな声を漏らした。塊の表面から光の粒が舞い上がったのだった。わたしはふたたびまぶたを開き、急いでアリスの近くまで駆け寄った。足元でいくつか軽いものが倒れる音がしたけれど立ち止まれなかった。
「これが、あなたを包んでいた殻、というよりも、もともとのお地蔵さんの残骸ね」
 茶箱の中を肉眼で覗くと、山のような御影石のかけらが無造作に収められている。よく目を凝らすと、石の表面には灰色の細かい粉が吹いている。
「わたしたちが凍っていたあなたを助け出そうとしたとき、あなたの殻とコートとが隙間に入り込んだ氷のせいで貼り付いてしまっていて、仕方なくハッケロ、ああと、ヒーターみたいな道具で温めながら剥がしていくことにしたの。その途中で、マリサがあなたの殻の表面にたくさんの亀裂が走っていることに気が付いて、アイスピックで小突いているうちに、あなたの殻はすっかりぼろぼろに砕けて、生身になったあなたの足元にこういう感じの破片がたくさん積もっていって……」
 とはいえその破片だってもともとあなたの一部だし、勝手に捨てるのも罰当たりかなと思って取っておいたのだけれど、というアリスの言葉をよそに、「ねえ、ちょっといい」わたしはそう言いながら、彼女の手のひらから元々わたしの一部だったそのかけらをつまんで、顔に近づけ眺めまわす。そのまま脳内の眼を開いてみると、次の瞬間、かけらの表面を覆っていた灰色の粉が、山吹色の光の粒に姿を変えた。これまでわたしが夜ごとに観察していたあの微粒子たちとまったく同じに見える。そのうえ、石のかけらの表面には、光の粒と同じ色をした無数の糸が張りめぐらされ、しかもその糸の一部は中に食い込んで蜘蛛の巣状にかけらの内部を侵食している。かけらを握りこみ指先に少しだけ力を加えてみると、たちまち石はぽろぽろと端から崩れていき、そのまま砂粒になって廊下の床面に流れ落ちる。すると、それまで石の中に封じ込められていた山吹色の糸は、砂粒がわたしの指の間からこぼれるそばから千々にほどけて、ふわりと空中に漂いはじめた。がらくたが放つ古びた香りで澱んだ廊下の空気が、気だるそうに拡散していく光の粒でしだいに満たされてゆくのをわたしは見つめた。

30
 それからふたたび居間に戻ってこれからのことについて話し合った。衣 (食) 住の基盤が整うまではこのまま居候してもらって全然差し支えない、とアリスは言うものの、動けない頃からアリスやマリサにはおんぶに抱っこだったのに自由に動けるようになってからもこんな調子ではあまりにも恩知らずになってしまう、って思ったわたしは、話し合いがひと段落ついてから、さっきまで眠っていた客間に戻って寝台の上の布団をたたみつつ、この家でわたしは何ができるだろうか、ってことを考えていた。とりあえずできるかぎり家事は引き受けなくちゃ、まあ何ひとつやったことはないけどやり方の想像はできるしだいたいはこなせる気がする、それにしてもめちゃくちゃ分厚くて大きな羽毛布団で、小柄なわたしが一人でたたむのはなかなか難儀、とか思っていたら背後の扉が開いて、
「あっそんなのわたしが後でやるからいいのに。あと布団カバーはそのままで大丈夫よ」
「えっと、カバー……」
「成美もしかして片仮名苦手?」
 わたしは俯きながら「……そう、でも、これからちゃんと勉強するけど」と答えた (ちなみに後々「カバー」の意味を訊いたら「覆うもの」ということだった。わたしも少し前までカバーがかかっていた、って言い回しも可能といえば可能、ってことになる)。
「一応、なにか仕事をもらえたらうれしいんだけど……わたし、ふたりに施されてばっかりでなんにも恩返しできてないから」
「うーん、でも、仕事はこんな風に片付いちゃうからねえ……」
 アリスが不敵な笑みを浮かべながらそう言った刹那、突然ものすごい速さで居間から人形たちが飛来してきた。合わせて全部で九体。四体が二組、合わせて八体が羽毛布団の左辺・右辺に等間隔に配置して、きっかり三等分あっという間に折りたたんだかと思えば、特段体格のいい二体が布団の上に乗っかって折り目が戻らないよう押さえつけ、残りの六体は布団の底にもぞもぞと潜り込む。
 重たいな。重たいね。
 そう、人形たちが早口でつぶやいたのでわたしは驚いた。
 人形たちはそのまま布団を持ち上げて浮揚し、すかさずそれまで余っていた一体が押し入れの扉を開いて、羽毛布団はもとから入っていた布団と四隅がぴったり合うよう丁寧に仕舞い込まれる。こうして一仕事終えた人形たちは、部屋に入ってきた時とは対照的な緩慢な動きで、とろとろと居間へと戻っていった。
「わたしの専門は人形を操る魔法なの。大体の家事は人形たちがこなしているのよ」
「そうなんだ……」
 すごい、魔法ってこんなことができるんだ、ってわたしは恐ろしく素直に感動した、そのすぐあとで、いやでも、わたしだって似たような魔法を使っているじゃないか、って気が付く。自分の創り出したものに生命力を吹き込み、さも生きているかのように動かすっていう魔法を。
「……この子たちには、意思があるの? 自由に考えてそういうことができるの?」
「あなたには、あるように見える? 無いように見える?」
「人形を操る、って言ってたよね。だから、さっきアリスは何らかの指示を出してこの子たちに布団をたたませたんでしょう」
「そうね」
「その指示はどの程度漠然としたものなの。たとえば一体一体に、あなたは布団のここを押さえろ、布団の下にはあなたとあなたとあなたとあなたが潜り込め、みたいに指示してるんなら、もうそれは人形たちは機械みたいに操作されてるってことになるだろうけど」
「ええと……わたしは、布団を仕舞って、って指示しかしていないわ。どちらかというと……指示している最中、わたしは人形たちが布団を仕舞っている姿を映像として思い浮かべているの。そうすれば、誰がどこでどういう動きをするのかいちいち指定しなくても、人形はわたしが思い描いたように布団を仕舞ってくれるわ」
「……人形たちの持つ思考と、アリスの持つ思考が同調してるってこと」
「同調、ねえ……どちらかというと、わたしが入力で、人形が出力って言い方が適切かしら。わたしが映像を思い描くと、人形はその通りに動く」
「ということは、あの人形たちは単なる操り人形で、意思はないってアリスは考えてる?」
「その通りよ……実際無いもの。だから、わたしの魔法の最終的な目標は、自我を持つ人形を作成すること。まだ実現できていないけれどね」
「……じゃあ確認したいんだけど、布団を運んでいる最中に、重たい、って声が聴こえたのは? 居間に戻るときの人形が疲れているみたいに見えたのは?」
「それもわたしのイマジネーション……想像よ。布団を持つのは重いだろうな、疲れるだろうな……そうわたしが無意識に想像したから、人形も同じように、重いな、疲れたな、ってまるで人間めいた反応をしたっていうこと。人形自身の反応ではないわ」
「でも……そんなこと人形の身になってみないと断言できないんじゃないかな」
「いや……どう考えても意思は無いわよ。もちろん製作者としての思い入れはあるけど、彼らが被造物だという認識に変わりはない。ただ……例えば、わたしの想像に反抗してまったく違う動きを見せてきたら、意思があると認めてもいいかもしれないわ。今日は疲れたからおまえの言うことなんて聞いてやらない、なんて、すねた子供みたいな感じで。今までそんなことは一度もなかったけどね」
「……」
 あまり納得できていないけれど反論も思いつかず、ううん、とわたしは唸る。そんなことを言ったら、わたしのマニはどうなるのかしら? 確かにマニはわたしの指示に反抗しない。でも、たとえば〈え〉みたいに折れ曲がりの多い文字が苦手だったり、長い文章を描き終えるとぽん、と跳ねるような仕草をしたり、なにも指示されなくても光の粒との対話をはじめたり……。
 いや、それがもし、わたしが無意識に想像していたことだとしたら。マニは円弧を描くのは得意だけど折れ曲がる動きは苦手だろう、マニはやりがいのある文字列を描けたら嬉しい気分になるだろう、マニは光の粒との秘密の交信は毎晩だろうと飽きないだろう……。わたしが無意識に、マニの性質を想像力によって規定しているとしたら、結局マニは意思なんて持ってなくて、ただわたしの想像を形に変換するための道具ってことになってしまう。
 例えば、わたしは〈はじめまして〉って描いてほしいんだけど、マニ、いまのわたしの指示に反抗してみて? ってマニに念じてみたらどうだろう。なにも描いて寄越さないかもしれないし、〈またあうひまで〉とか正反対の言葉を描くかもしれないし。あれ、だけど、これじゃあマニの意思の存在証明にはならないのか。だって、これは〈はじめまして〉以外の文字列を描いて、っていう指示であって、マニはそれを従順に遂行しただけってことになる。ということは、逆に〈はじめまして〉って描いてきたら、それはわたしの指示に反抗したことになるのかしら? いや、必ずしもそうとは限らない。もしかしたら「反抗してみて」っていう慣れない指示の内容がよく理解できないまま、とりあえず〈はじめまして〉って描いたのかもしれないし、もしくはわたしの言葉の裏を読んで〈はじめまして〉って描いたのかもしれないし……。

32
 居候がはじまってから二週間くらい、わたしは人形には任せられないのでそれまでアリスがやっていたという炊事と水回りの掃除を手伝いながら日々を過ごしている。あとは適当に目についたところの掃除とか。ようするにたいしたことはできていない。アリスの家は母屋から歩いてすぐの離れに風呂と御不浄があるのだけれど、母屋が洋風のつくりなのにその離れだけが思いっきり日本式の建物で、その不釣り合いぐあいが面白いと思った。しかも浴槽は五右衛門風呂だった。
 雪かきについては今こうしているみたいに、マニと人形たちにお願いしている。マニには庭を低空飛行してもらって、そうすれば熱で勝手に雪が溶けていく。人形たちには屋根の上とか犬走りとか、マニが近づくと燃えそうで危ない箇所の雪を除けてもらう。西洋風建築における家の外周りを犬走りって呼んでいいのかわたしは知らない。
 彼らの共同作業の様子を、わたしは母屋に横づけされた作業場の掃き出し窓から眺めている。撥水性の魔法を昨日の夜アリスに教えてもらったので、家じゅうの窓にかけ直していたのだった。ガラスの結露に対しては三週間くらい効果が続くらしい。雪が降る直前にわたしがもらった服にもアリスがこの魔法をかけていたらしいけれど、布という素材と相性が悪かったのか、結局あの服はわたしが凍ったときにだめになってしまった。
 アリスは今日一日家に居ない。紅魔館といういかにも名士の住んでいそうな名前の建物に出かけた。中に巨大な図書館が入っていて、アリスはそこで定期的に本を借りているのだという。からくり師本人がいないのに人形が単体で働いているっていうのはやっぱり不思議で、帰ってきたら「勝手に動いてるってことはあの子達やっぱり意思があるんじゃない?」とか言ってみたい気もしたけれど、どうせ「朝のうちに一日の動き方をあらかじめ指示しておけば済む話よ」とか、面白みのない答えが返ってくるんだと思う。
 この間ふと気になって脳内の眼で見てみたのだけれど、確かに人形たちは生命力をまったく持たないようで、視界にいっさい映らなかった。
 ただ、生命力を持たないものに意思が宿る可能性はない、って言い切っていいのかわたしは分からない。そんなことを言ったら、わたし自身はどうなるのかしら。
 石の皮が剥がれてからできるようになったことの一つに、わたし自身を脳内の眼で見る、ということがある。自分の手を顔に近づけ脳内の眼を通して見ると、アリスやマリサやマニと比べたら話にならない、なんなら光の粒と同じくらいにか弱い、今にも消えそうな灰白色の光を放っている。
 考えられる理由としては、わたしがもともと石造りだったから。仮に、意識が浮上する前のわたし、すなわち純粋なお地蔵さんだったころのわたしをわたしの眼で見たとしても、いっさい光って見えないだろう。今はこうして体を動かしたりものを食べたり寝たりしながら生きているけれど、結局わたしは根本的に無生物なのだと思う。生命力を持たないものの中に意思が発生するのは珍しいことではないってマリサも言っていたし。
 その点、わたしはマニと似ている。ただの弾でしかなかったものに生命力が与えられてマニはこの世に生れついた (不思議なのは、わたし自身には生命力を与えた自覚がほとんどないっていうこと)。アリスと同じように考えるならマニにも意思はないっていうことになるけど、やっぱりそうとは思えない。というのもこの間、わたしが夜明け前にうっすらと目を覚まして、藍色の空を背景にしんしんと降っている牡丹雪を採光窓からぼんやり見つめていた、その直後に、マニが勝手にわたしの背中から抜け出して、窓の外へと浮かび上がったのだった。わたしは、あれ、どうしてマニが窓の外にいるんだろう、って不思議に思いながらも、ぱちぱちと温かい泡の中に包まれているような眠気に襲われて、結局二度寝してしまった。ふたたび目を覚ましたときには窓の外はすっかり明るくなっていて、客間から急いで外へ出てみると、アリスのブーツと同じくらいの高さまで降り積もった雪をマニがひとりで溶かしているところだった。あれを思うに、どう考えたってマニはわたしの意思から徐々に離れてひとりで動いているような気がする。
 なんならわたしは、「生命力を持たないものに意思が宿らない」って言い切れないだけじゃなくて、その裏側にある「生命力を持つものには意思が宿る」ってことも言い切れない。別に、植物とか虫とかには意思なんて存在しないよね、なんて話をしたいわけじゃない。彼らに意思があるかどうかは彼ら自身に成り代わってみないとわからない。そうじゃなくって、もしかしたらわたし自身にも意思なんて存在しないんじゃないか……なんて、これはずいぶん極端というか非常識な考えかもしれないのだけれど。
 アリスはこの前、わたしの指示に対して反抗したなら単なる操り人形じゃなくて、意思を持つのかもしれない、って言っていた。
 いまのわたしが目の前の状況に対して意思決定を行うとき、過去のわたしが蓄積してきた経験と知識を参照している。ようするに、過去のわたしがいまのわたしの指示役になっている。じゃあ、過去のわたしの指示役はさらに過去のわたし、さらに過去のわたしの指示役はさらにさらに過去のわたし、さらにさらに過去のわたしの指示役はさらにさらにさらに過去のわたし……って考えたら、行き着く先、もっとも過去のわたしはなにを参照して意思決定していたのかっていう話になって、それはマリサいわく「人間の想像力」だったっけ。とにかく、わたしはその原初的な指示役に操られながら生きているってことになってしまう。もちろん、過去の経験と知識を反抗する、無視する、って判断をすることもできる。でも、反抗する、無視する、って判断自体も、反抗しろ、無視しろ、っていう、わたしではないわたしの指示に基づいてるのかもしれないし……というか、アリスやマリサもこの世に生まれた瞬間は知識なんてなにひとつ持っていなくて、だからいつかどこかで典拠不明の指示役が現れて彼女たちの中に棲みつき、そうして過去からいまへと続く彼女たちが居て、だからいまの彼女たちにもじつは意思なんてなくて過去の彼女たちの言葉に操られているだけで……。
「……ああ、もうだめだめだめだめ」
 わたしは水滴を飛ばす犬みたいに頭を振って目をごしごしとこすった。近頃すぐこうなってしまうからよくない。動けなかった時よりもよっぽど考え事に飲み込まれてしまっている。結局わたしはなんのためにこんなことを考えているのかしら。いや、そんなのは分かっている。結局、みんなに意思があったほうがわたしにとって楽しいから、っていう、子供っぽくてつたない感情に突き動かされているだけだ。
 何気なく窓の外を見ると、マニは犬走りの近くにぼうっと浮かんで微動だにしていない。どうしたんだろう、と思って観察していると、
〈だいじょうぶ?〉
「……」
わたしははっと息を呑んでマニの筆跡を見つめていた。
〈あなたが ふくわじゅつしで わたしが ぬいぐるみ だとしたら〉
〈わたしは あなたの ことばから はなれようとは しないけれど〉
〈あなたが ふくわじゅつしのとき わたしも ふくわじゅつし〉
〈わたしが ぬいぐるみのとき あなたも ぬいぐるみ〉
〈あなたが そう かんがえているなら わたしは わたしの ことばで〉
 不意にわたしの体は動き出した。今すぐ外に出なきゃって思った。机の上に開きっぱなしになっていた初級者向けのグリモワールを閉じ、防寒着を衣文掛けから引きはがして袖を通した。マフラーを巻き付けた。一瞬だけ、作業台の上に残されていた作りかけの人形二、三体が見覚えのある微笑を浮かべているように見えた。わたしひとりもしくはわたしとアリスで一緒に作った料理、それからマリサが持ってきたお菓子を口にしたときに、アリスがよく浮かべる微笑に少し似ていた。食事の必要はもうないのだけれど、人間のときに料理が好きだったから食べちゃうのよね、だってそのほうが幸せじゃない? って彼女が言っていたのを思い出す。工房の扉を引いて廊下に出る。白い吐息が口の端から漏れてすぐに背後へ消えていく。左に折れ曲がって玄関へ、手を使わずにつっかけを脱ぎ捨ててブーツに履き替える。
 いまこの瞬間において意思疎通の幸福だけがこの場所に存在しているんなら、意思があろうとなかろうと十分だって気がした。こんなときでさえ「気がした」なんてあいまいな記述の仕方をとってしまうのが本当に申し訳ないのだけれど。友達のうかつな思い込みを思い込みのままにしてあげようとしていた優しいあなたに対して。溶けた雪に濡れて光る砂利の上に浮かんでいる。

33
 空が薄暗くなってきたころ、アリスはマリサを連れて紅魔館から帰ってきた。
「二日続けて来るなんて珍しいね」
「いや今日はたまたまなんだ。だから食材とかも持ってきてない」
 マリサは大体週二回くらいの頻度でアリスの家に顔を出す。マリサは最近お菓子作りに凝っているらしく、来る度にカスタードパイとか塩大福とか林檎の砂糖煮とか、和洋の別なく美味しくて一日二日は日持ちするものを作ってくれる。昨夜に関しては、このバクラバとかいうお菓子レシピが知らない言語で書かれてるから読めないんだけど挿絵を見る限りすごくうまそうだし想像だけで作ってみようぜ、という流れになり、三人でああだこうだ話し合った結果、刻んだ大豆の甘露煮とパイ生地を交互に敷いて焼き上から粉砂糖を振りかけた、謎めいたなにかを創作してしまった。わたしはまあまあおいしいと思ったのだけれどマリサとアリスはものすごく微妙って顔をしていた。
 ただ今日に関しては、ふたりで事前に約束していたとかそういうわけではなく、それぞれがたまたま同じ日に巨大図書館に行こう、って思い立って、向こうで鉢合わせしたのだという。マリサは風呂敷包みから大判のグリモワール四冊に見たこともない文字で書かれた小さな図鑑のようなものを二冊、アリスは手鞄から洋書を二冊取り出し、居間の机に積んだ。そのままふたりは向かい合って椅子に腰かけ、それぞれが借りてきた本を読みはじめる。わたしも読みかけのきのこ図鑑を客間から引っ張り出してきて読みはじめた。
 アリスいわくマリサは本、というかありとあらゆる所有物の管理がものすごく雑とのことで、実際、わたしの石の皮が安置されているあの細長い廊下の、壁一面に取り付けられた本棚の九割はマリサがアリスの部屋で読み捨てていった本らしい。しかもそのほぼすべてが図書館からの盗品だという。もうそれは分館なんじゃないだろうか。マリサはいつ見てもグリモワールの頁を本当に楽しそうにめくっていて、時折「レピデラなのにメルツァーエキで変わらないのは表面の被膜、ねぇ……」とかなんとか、呪文としか思えない独り言を呟いて目を輝かせている。アリスに関しては日本語ですらない言葉をまあまあの声量で突然読み上げはじめるのでもはや怖い。たまにふたりは本を机の真ん中に開いて何かを議論し合うこともある。わたしはなにひとつ理解できない。というか本を読んでいるとき、わたしはふたりの居る世界から切り離されている。
 マリサは紅茶三杯でグリモワール一冊にざっと目を通し、残りのまだ読んでいないグリモワールだけを風呂敷に包みなおして「それじゃまた……うう、寒」と飛んでいってしまった。どうしてあんなに面白がっていたものを、読み終えたらよその家に放置して帰っていくのかしら。図鑑に関してはおそらく存在すら忘れ去られて置いてけぼりにされている。
 竹ぼうきにまたがって小さくなっていくマリサの姿を窓から眺めながら、わたしは何気なくアリスに訊いてみた。
「ねえ、こないだ本人からちらっと聞いたんだけど、マリサってまだ魔法使いじゃなくて人間なんだっけ」
「うん? ええ、そうよ」
「やってることぜんぜん人間っぽくないし、なんかわたしよりずっと魔法使いに見えるな」
「それは……正直そうかも」アリスは少し笑いながら続けた。「捨虫と捨食を習得していないって定義で見ればあの子は人間だけど、わたしは魔法使いとしてしか接してないわね……」
「定義ねえ。……マリサとの会話楽しい?」
「それはもちろん。友達だしね」
 ああでもわたしは別に、成美にももっと魔法に詳しくなってほしいとか、もっと魔法使いらしくなってほしいとか、そういうことを言ってるわけじゃないから誤解しないでよ、一緒に生活する人としてはあなたのほうがずっとしっかりしてるから、逆にあの子は人間的生活が滅茶苦茶だから……と慌てたように言葉を付け足すアリスを、大丈夫、分かってるから、大丈夫、となだめつつ、アリスがマリサをそういう風に見てるんだったら良かったな、ってわたしはなぜか安心していた。
 明確な基準によれば人間に分類される今のマリサを、魔法使いとして扱うひとは少なからずいるし、ということは、もし未来のマリサが魔法使いに分類されたとしても、以前と変わらず人間として接するひとがどこかにはいるんだろう。もしくは、人間でも魔法使いでもない、もっと漠然とした、ひとつの単語では言い表せないような存在として。
 もちろんわたしは、マリサ自身が自分のことをいったいどういう存在だと思っているのかについては知らない。アリスや、マニや、人形たちも同じように、わたしには知るすべがない。だって、わたしは彼/彼女らの一人称を務めることはできないから。でも、少なくともわたし自身はこのまま、不安定な境界線の上をずっとふらついていたい。できることならいつまでも迷い続けていたい。

34
 それから二か月くらい後、少しずつ雪も薄くなってきて山道も使えるようになってきたということで、わたしはアリスに手を引かれてマリサの家にはじめて行った。
 家の中に通されて一目見ただけでも、話に聞いていた以上の狼藉ぶりにびっくりした。ベッド周りだけは定期的に掃除しているらしく薄目で見れば小綺麗と言えなくもなかったけれど、壁際に積まれた大量の本にはみぞれのような綿埃が固着していた。
「はいはい、ここはあんまり見ないように」
 わたしが口を半開きにして眺めていたらマリサはわたしの視界を手のひらでさえぎりながらそう言った。ここ一応店内でしょ……というアリスのあきれた声が背後から聞こえてくる。うるさい、うるさい、いいからとりあえず入れ、と不愉快そうな声を上げながら、マリサは部屋の奥にある「Dark Room (暗室。魔法の実験を行うための清潔な部屋として作ったらしい。当時のわたしはアルファベットを一通り書くのもおぼつかないくらいだったので、当然DarkもRoomも意味が分からなかった)」という看板のかかった扉の先へわたしとアリスを押し込み、後ろ手で扉を閉めた。
「ちょっとマリサここなんにも見えないよ……」
「いま点けるから待ってろ」
 こうして真っ暗闇の中に立っていると、まだ目が開いていなかったころのことを思い出す。顔に四つついている感覚器官のうち、もっとも受け取る情報量が多いであろう目が結局最後に開いたのは、なんというか運、いや間が悪いなって思う。あの日々も今となっては遠い過去のように思えてしまうのがなぜだか寂しかった。今思えば退屈極まりない日々だったんだけれどそれでも。
 唐突にマリサの立っている場所から黄色い炎が輝きはじめ、部屋は過剰なくらいに明るくなった。目を細めながらマリサの手元を見ると、なにやら八角形の香炉のようなものに小さな炎が灯っている。彼女はそのまま、部屋の隅に置かれた背の低い金属製の棚の上に香炉を乗せた。
「すごい、こんなのあるんだ……」
 まるで太陽の一部分をそのまま切り取ったみたいな光だった。
「全部きのこ由来なんだぜ。煮詰めて精製するだけで火薬になるんだからきのこってすごいよな」
 そう言われて辺りを見回すと、部屋の三方を取り囲む棚には透明瓶に入った形容しがたい色の液体がたくさん詰められていて、わたしは無性に興奮する。この部屋にある液体のどれかに一週間くらい浸したら、アリスの人形だって自立して動きはじめるんじゃないかしら、なんて思いつきを口に出そうとしたら、「それの仕組み何回聞いても疑似科学なのよねえ……」ってアリスがつぶやき、それを起点にふたりはいつもどおりの言い争いをはじめてしまった。今日はこっちが客なんだから変な波風立てなければいいのに。
 わたしは「はい!」と言いながら柏手を打った。我ながらいい音がする。剣呑な笑みを浮かべて向き合っていたふたりがぽかんとした顔でこちらを振り向く。
「マリサにお土産があるの。笠とかもろもろのお礼がまだできてなかったから」
 わたしは防寒着のポケットから巾着袋を取り出し、崩れないように中身をひとつずつ取り出すと、ガラス製の机の上に置いた。
「わたし素人だし、魔法に使えるかどうか分かんないまま、この間散歩中に見つけたから取ってきちゃったんだけど……」
 そうわたしがぐだぐだ前置きをしている間に、マリサは「あっサルノコシカケじゃん久しぶりに見た」ってあんまり聞いたことないくらいの早口で言うと、あれ、なんだこれ、見たことないかも、口腔はどう、情宣はどう、隔皮はどう、とか漢字の当て方もよくわからない言葉を口走りはじめた。
「ああなるとしばらく戻ってこないわ。お茶でも入れて飲んでましょ」
 光学顕微鏡の反射鏡の向きを調整しているマリサを横目に、アリスはそう言って前の部屋に戻ると、お盆の上に茶筒と急須と湯呑み、それから水の入ったやかんを持って戻ってきた。そのままの流れでやかんをマリサの香炉の上に乗せる。
 お湯が沸くのを待っている間「成美って堅いわよね。わたしの周りではあなたみたいな子珍しい」とアリスは唐突に言った。
「それって……あんまり良くないこと?」
「そうじゃなくて、むしろ良い部分よ。……まあ、そうねぇ……少しずつ気を遣わないような間柄になればいいのかもしれないけれど、わたしは別にそのままでもいいと思う……」
「あっ、ごめんちょっと待って」
 わたしはアリスの背後でやかんの口から湯気がもうもうと出ていることに気が付き、慌てて回収して鍋敷きの上に移した。沸くのがずいぶん早い。乗せてから三十秒と経っていないんじゃないかしら。きのこの火薬はすごい。
「わたしが入れるね」
「ええ、お願い……やったことあるの?」
「ああ……まあ、うん」
 緑茶を入れるのははじめてのことだけど、なぜか入れ方は知っている。どういう味がするのかもなんとなく知っている。紅茶については入れ方どころか、アリスと生活をはじめるまでは存在すら知らなかったにもかかわらず。まずは湯呑に八分目までお湯を注ぎ、匙二杯ぶんの茶葉を急須の中へ、湯呑みの中で余計な熱が取れたお湯を急須に入れて、体内時計で一分蒸らして、そしたら……。
「ねえマリサ見てよ」
「ん?」
「成美ってすごく急須が似合うと思わない?」
「ああ確かにすごい似合う。……撮っとくか」
「成美ちょっと動かないで」
「え、えっ」
「よし……あ、こいつ同定できたよ。採ってきてくれてありがとうな」
「なんで今になって言うのよ」
「そりゃ、まだお礼言ってなかった気がしたから」
「どういたしまして。……よし、いい感じ。飲もう飲もう」
「なんかさ、もしおばあさんになったらわたしこういう孫が欲しいなって成美を見てると思うのよね。マリサもそう思わない?」
「いや……わからん。わたしはきっとおばあさんにはならないしおまえも今後おばあさんになる予定ないだろ」
「わたしはわかる気がする。アリスと生活してて、いまわたし孫っぽい扱われ方してるなって思うときあるもん」
「ほら、言ったでしょ」
「はいはい」
 わたしたちの会話はいつだってちぐはぐで、もし文章に起こしてあとで見返したとしても一場面の切り取りではさっぱり意味が分からないせりふばかりなんじゃないか、ってときどき思う。なんならわたしは、話している真っ最中でもいまなんの話をしているのかわからなくなることもある。でも、そんな脈絡のない言葉のひとひらひとひらはわたしの頭の中に降り積もってゆき、いつかどこかの未来でふたたび吐き出されるに違いなかった。わたしの声として、もしくは筆跡として。

35
 マリサと別れ、狭い森の道をアリスと二人並んで帰る途中、三日ぶりくらいの雪が降りはじめた。わたしは緩んでいたマフラーを締め直して口元まで覆う。アリスもコートの襟周りを整えつつ、ニット帽の上に溜まった雪を時折払っている。空から雪が降ってくると、ただ歩くというそれだけの行為にわずかな緊張感が生じて、わたしたちはどうしても口数が少なくなる。
 雪が降っていないときは、わたしは少しでも暖かいほうがいいと思ってマニを傍らに浮かべながら歩く。その逆で、雪が降っているときはマニには出てこないようにお願いしている。マニが発する熱が、服に落ちてきた雪を手で払う間もなく溶かしてしまい、家に帰るころには服が濡れて余計に寒くなってしまうから。そういうわけで今日のわたしたちも、行きはマニと一緒に歩いていたけれど、帰りは途中からわたしの背中に隠れてもらっていた、そのはずだった。
 不意に背後から熱を感じて、あれ、どうしたんだろう、とわたしが振り返ったとき、すでにマニはわたしの背中からひとりでに抜け出して、半歩ほど離れた場所に浮かんでいた。どうかしたの、ってわたしは心の中でマニに訊ねてみる。アリスも立ち止まり、向かい合うわたしとマニを不思議そうな顔で見ている。
〈ごめんね〉
 どうして突然謝られなくちゃいけないのか分からなかった。ただ、その四文字を描いている間にも、マニとわたしとの距離は少しずつ離れていく。
〈わたしは いま かれらに よばれているから〉
 どうしてマニがそういう行動をとっているのか、この文字列によってわたしに何を伝えたいのかいまいち理解することができない。彼らってだれだろう。どうしてマニを呼んでいるんだろう。わたしは一歩、二歩と歩いてきた道を逆戻りして、マニとの距離を保とうとして、だけどマニはひらがなを描くたびにどんどん速さを増して遠ざかっていく。うまく事態を呑み込めないまま、戻ってきてよ、ってわたしは心の中で唱える。いつもだったらこの指示だけでマニはふたたびわたしの背中へ帰ってくるはず、はずなのに、一切反応がない。
〈めを とじながら めを ひらいてみて あのころと おなじ ように〉
 そこまで描き終えて、マニは急に山道から逸れ、立ち並ぶ枯れ木の間を器用にすり抜け、森の奥の暗がりに見えなくなっていく。アリスが困惑した声で何か言っているような気がするけれどうまく聞き取れなかったし、たとえ聞き取れたとしてもそれを理解できなかったんじゃないかと思う。考えなければいけないことと別に考えなくてもいいことがごちゃまぜになって頭の中を飛び交っていて、それらを処理するのでわたしは精いっぱいだった。「目を閉じながら目を開く」という文字列はどう解釈したらいいだろう。わたしはまぶたの裏の暗闇を見つめながら考え続ける。両目を閉じた状態でマニを追いかける方法について。あの頃と同じように。ほかの誰も知らない、マニとわたしだけが最初から共有していたことってなんだったっけ。
 そこでようやく確信めいた閃きが下りてきて、わたしは脳内の眼を開いた。暗闇の中一面に広がったのは、緑色に光る樹木の骨組み。その一本一本が根元から枝先へと無数に枝分かれして、決して脱出できない迷路が林立しているかのよう。わたしは目線を下に向けてわたし自身の体を見つめる。灰色に鈍く光る体、そして、そのまわりを覆うぼんやりとした黄色い霧。手を顔の前に近づければ、皮膚の上には数えきれないほど散っている山吹色の光の粒。きっと彼らは今日のはじめからずっとわたしの周りにいたのだ。だってあたりの空気を見渡せばいたるところに均一に浮遊している。きっと彼らは暗闇の中でずっとマニに呼びかけつづけていた。山道の奥のほう、マニが消えていった方向を見ると、立ち並ぶ緑色の間を縫うようにして、天の川のような光の筋が流れている。あれを遡っていけばマニのもとへたどり着けるはず。「ごめん、先に帰ってて。必ず戻るから大丈夫」わたしは振り向いてアリスにそう声をかける。立ち尽くす朱色の人型は太陽の光を紅茶に透かしたみたいできれいだった。
 光の筋の通り道から逸れないように、なおかつ、分厚いざらめ雪や折り重なった枯れ枝に足を取られないように、眼を開いたり閉じたりしながらわたしは森の奥のほうへと進んでいった。藪に何度も手と顔を引っ搔かれて、でもそれも途中から気にならなくなった。冬とは思えないくらいに体が熱を帯びて、顔が火照ってくる。しだいに呼吸するのも苦しくなり、たまらずマフラーを脱いで小脇に抱えた。そうして目的の場所にたどり着くまで、どのくらいの時間が経ったのかわたしにはわからない。樹の隙間から見える空は黒ずんだ青色に変わりはじめていた。冷え切った汗のせいで背中と胸の皮膚が切られるように痛かった。
 あたりの雪が灰色の粉で汚れている。眼を開くと濃密な山吹色の輝きがわたしに突き刺さる。もはや荒波のようになった光の筋がわたしの膝の高さくらいまでを満たしていて、そこからぽつぽつと微粒子の一粒一粒が浮かび上がり、重々しい波の引力から解き放たれたようにして暗闇の中をあてどなくさまよい、空中に浮かぶいくつものひらがなと合流していく。いままで見てきた光の粒のひらがなの中で、もっとも形が整っているように見える。
「ああ、そっか……この場所……」
 広葉樹と針葉樹から放たれる光の組成と配置は、わたしにとってあまりにも見慣れた風景で、だからここは、わたしがかつて立っていた場所に違いなかった。そうだ、この清々しいくらいに変わらない視界の中でおおよそ三か月もの時間をわたしは過ごしていた。
「マニ、出てきて」
 わたしは呼びかけた。すると、視界にあるうちでもっとも幹の太い樹の陰からマニはするりと顔を出して、わたしの目の前で静止した。
〈ごめんね〉
「なんにも謝ることじゃないよ。……なにが起こってるの?」
〈かれらも あなたを みているの〉
〈あのころ あなたが かれらを みていた みたいに〉
〈だから かれらは あなたに あいたい もういちど〉
「どうしたら、彼らに会えるの?」
 そう訊くと、マニは言葉で返事をするのではなく、ふたたび巨木の陰に隠れてしまった。首を傾げながらその木の裏に近づくと、そこにはマニはいなくて、その代わりに、地面にぽっかりと空いた巨大な穴があった。粉が喉に絡みつく嫌な感覚がして、反射的にげほっ、げほっ、と乾いた咳が出る。肉眼で見てもわかるくらいに濃度の高い灰色の靄が、穴の底から湧き出して地面の上を流れていた。間違いなくこの先から光の粒たちは産み落とされている。恐る恐る覗いてみると、灰色の流れの中に明滅するうっすらと赤い光。マニはすでにこの中へと入っていったんだろう。
 少し怖いのは否めない。だけど、きっと大丈夫。凍っても死ななかったんだから少し高いところから落ちたって平気だろう。なにより彼らにはお礼の言葉を伝えることがまだできていなかったからいい機会だ。そもそもお礼の仕方がわからなかったっていうのもあるけれど。
 わたしはマフラーを頭の後ろで結んで鼻と口を覆い、目を閉じて、眼を開いて、一歩、二歩、三歩で思い切り穴の淵を蹴った。衝撃はやってこなかった。わたしの体は無意識のうちに浮揚していた。体が地面から投げ出されてはじめて、わたしは空中に浮かぶことができるんだ、ってはじめて知った。マリサやアリスと同じように。でもわたしは今の今まで自分にそんなことができるなんて知らなかった。
 あたりを取り巻くのはただひたすらに金色の粒で埋め尽くされた世界だった。いびつな卵型の空洞だってことがかろうじて読み取れる。その奥にはひときわ濃い、黄緑色がかった影が立っていた。そのひとの傍らにはマニも居て、光の粒に遮られてこちらからは読み取れないけれど、なんらかの文字を描いている。それに呼応するように彼の周りから光の粒が湧き出して、数えきれないほどのひらがなを形づくりはじめた。円柱形の軸に菅笠みたいなものが乗っかったそのひとのおぼろげな輪郭は、わたしの姿に少しだけ似ている気がした。

***

「はじめまして」という言葉があなたにとってどういう意味を表すのか、わたしは知りません。ただ、あなたの愛らしい球形の友人はことあるごとに「はじめまして」という言葉を描くので、おそらく典型的な相槌のひとつなのだろうと推測しています。たとえば、へえ、そうなんですね、いいですね、というような。
 まだ文字をろくに使うこともできないわたしが自己紹介を試みるなんておこがましいことですし、そもそもこの自己紹介の内容があなたに伝わるはずもないので、じゃあこの文字列には何の意味があるのだろう、と自分でも情けなくなります。それでも「わたしはあなたに何らかの意味ある言葉を伝えようとしている」ということだけ感じ取ってもらえたなら、それ以上に幸せなことはありません。

 わたしはもともと虫草 (※) だったものが、突然妖力を授かって生まれた存在です。わたしを妖怪として分類するなら、妖精か妖獣のどちらかに含まれるのでしょうか。ただ、菌類というのは植物にも動物にも含まれないわけで、そもそもその段階からしてわたしは中途半端な存在なのでした。
 意識が芽生えてすぐの頃から、わたしはわたし自身の言葉を用いて、わたしがいったい何者なのかについて考えるくらいのことはできました。ただ、その考えを共有することのできる相手はもちろんいませんでしたし、そのうえわたしは、考えを記録しだれかに伝達するための文字や音声を持っていませんでした。
 絶え間ない孤独の中で、どうせ光ひとつない土の中に生まれつくのであれば、せめて思考などという機能を持たない存在でありたかった、と我が身を呪う日々が続きました。

 この際限のない退屈を紛らわすためには、わたしのほうから世界に対して何らかの働きかけを行う必要がある、ということは理解していました。とはいえ、わたしが能動的にできることといえば、胞子を放出すること、それくらい。
 ただ、ここでわたしはひとつ目の僥倖に巡り合います。それはわたしの潜む空洞に、外の世界へと繋がる穴が開いたことでした。
 ここでひとつ想像してほしい光景があります。
 それは里外れの奥地にある、すっかり濁り切った湖。上から下まで均一に青緑色の微生物が繁殖してしまい、たとえ水の中を魚の群れが泳いでいたとしても、釣り人たちはその魚影を湖畔から観察することはできません。
 でも、その魚たちを認識できる唯一の生物がいるのです。それは、湖を汚染している青緑色の微生物自身。彼ら自身が意識と感覚を持っていたらどうでしょうか? 水中に幾千幾万個体と存在する微生物たちが寄り集まって、ひとつの群体のように立ち振る舞うとしたら。水の中を泳ぎ回る魚たちはもはやその群体の内部を常に泳ぎ回って生きていることになり、結果として微生物たちは湖に棲む魚たちの大まかな座標をとらえることができるのです。
 それと同じ発想で、わたしはこの暗い閨房の中で日がな胞子を放出し、外の世界へ拡散させようと試みました。重力の影響をほとんど受けないくらいに微小なわたしの胞子は、この暗闇と地上とを唯一接続している穴、すなわち、あなたが今通ってきた穴から、この森じゅうに広がっていきました。あくまで森の住人に存在を勘付かれない程度に、うっすらとした濃度で、しかし均一に、空間によって偏りが生じないように。そうして、この森に存在する植物や遺構の形状を、もしくは動物や人間たちの行動を浮き彫りにしようと試みたのです。もちろん森がわたしの分身だらけになってしまっては困るので、胞子の稔性は消し去りました。あなたの外殻に植え付けたものは例外として。
 もちろん、雨や風が吹けば胞子はほとんど死んでしまうので数日分の努力が無駄になりますし、三か月ほど前に雪が降りはじめて穴が塞がってからは、わたしはふたたび完全な孤独の中に閉じ込められました。あまりにも非効率な方法で世界の輪郭を捉えようとしているという自覚はありました。しかし、そうする以外に方法はなかったし、なんなら非効率であることに愉しみさえ見出していたような気もします。

 ふたつ目の僥倖は、思いがけず文字と思しきものに出会ったことです。しかも穴から出てすぐの場所でわたしは文字を発見しました。ご存じの通り、あなたが球形の友人の力を借りて描いていた、四十六種類の軌道に他なりません。しかもそこには配列順序を見出すことができました。
 わたしは彼が描く文字を練習しはじめました。盗用という誹りを受けても仕方のないことだとは思いますが、わたし独自の文字を作ってみたところで、わたし以外に意味の伝わる文章を作成できるはずがありません。その一方で、あなたの使っている文字から作成した文章は、少なくともあなたには伝わるはずです。
 ただ当然生じた問題は、その配列順序が一体なんの意味を表しているのか、わたしにはほとんど推測できないということでした。そのため、あなたが一体わたしに何を伝えたいかが分からない。それに、もしわたしがその文字を習得したとしても、わたしの持つ言葉とあなたの持つ言葉の意味を正確に対応させなければ、あなたと会話を行うことはいつまでたってもできません。そういうわけで、残念ながらいまわたしがこうして提示している文字列は、おそらくあなたにとって何の意味も成していないのでしょう。

 こんな強引な方法であなたをここに呼び寄せたのは謝らなければならないと思っています。しかしわたしはどうしても、一度で良いからあなたに会ってみたかった。わたしの知るかぎり、空に文字を描くという方法で他者との意思疎通を図っている存在は、この森の中であなた以外にはいない……そのような薄弱な根拠をもとに、あなたはわたしと同じ種類の孤独を抱えているのではないかなどという一方的な共感を覚えて、わたしはあのような具体的な行動を取ったわけですから。
 雪が溶けはじめたのを見計らって久しぶりに胞子を撒いてみると、あなたは穴の傍から居なくなっていました。わたしが想定したような成り行きになったのだろうか、という安堵もつかの間、もしあなたがこの場所に留まり続けることを是としていたのであれば、わたしは甚だ迷惑なお節介を働いたということになるのではないか、そんな可能性が不意に頭をよぎり、わたしは怖くて仕方がなくなりました。だから、あなたがいま本当に幸福な生活を送ることができているのか、わたしはどうしても確かめたかったのです。
 
 ああ、でも、ここまでだらだらと書き連ねた言葉のうち、ひとつとして意味が伝わっていないというのは、やはり虚しいものですね。そろそろ止めにしましょうか。
 ……ところで、あなたがいま浮かべている表情は、本当に微笑みなのでしょうか?
 あなたの表情はわたしが知るかぎり微笑みです。わたしは他人が微笑んでいるところをはじめて見ましたが、それでもあなたの表情は微笑みだと判断できます。あなたにとって「微笑み」という言葉が指す表情は、わたしにとっての「微笑み」と等しいのでしょうか?

※ 昆虫の幼生に寄生する子嚢菌のこと。とはいえわたしは「子嚢菌」自体どういうものなのかよく分かってないから、今度会ったとき魔理沙に訊いてみようと思う。

***

36
 そのひとがこの場所から一歩も動けない理由は一目瞭然だった。足元から胸のところまで、地面から伸びた白い糸みたいなものでがんじがらめにされているのだった。さっきこのひとがわたしに見せた文章は、単語ひとつひとつの意味は分かるのに、全体としての意味がなにひとつ分からない。同じ言葉を使っているのに、わたしはまだこのひとと意思疎通することができない。
 だというのに、わたしはなんだか出会ったばかりのこのひとに変な同情をしてしまっている。
 もしかすると、このひとはこの場所にずっと留まっていたいのかもしれない。でもそうじゃないのであれば、わたしがここから外へ出してあげなければならない。直感でしかないのだけれど、このひとが抱いている苦しみと、過去のわたしが抱いていた苦しみは似ているような気がする。
 わたしは意を決して、短い爪で白い糸の一本をつまみ、慎重に剝がしはじめる。糸の感触はささくれ立っていて茹だった肉のよう、少なくとも植物性ではない、それこそこのひとの組織の一部かもしれない。こんなことをして大丈夫なんだろうか。痛かったりしないんだろうか。不安で仕方ないわたしをよそに、そのひとは相変わらず穏やかな微笑みを浮かべている。
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コメント



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1.100植物図鑑削除
2回ほど読みました。一読目ではうまく掴むことは難しかったのですが、再読したことでなんとなしに掴むことができました。いつものことですけど、この話を要約するのはある意味で野暮な気はします。それでもなお一言で言い表すとすれば、コミュニケーション、の話なのかな、とは思いました。一対多ではなく、一対一、いうなれば孤独なコミュニケーションです。もしかしたらそれは双方的なものではなく、一方的なものともなりがちな。マニ(個人的に弾にこういう意味付けをしただけですごいとおもうのですけど)と成美はすごく個人的な関係であるにも関わらず、うまくコミュニケーションがとれていない。ラストのシーンでは文字という媒体を用いてそのバッドコミュニケーションが解消されつつあるとは思うのですけど、結局、二人をつなぐのは孤独やあるいは苦しみと言ったものであり、それは究極的には言葉にはできない、だからこそ二人を何よりも強く結びつける紐帯だとは思うのです。言語、あるいは文字を用いたコミュニケーションとはその言葉にしがたい紐帯を不完全に表すものでしかないのでしょう。だからこそ微笑み、という二人にとっての共通「言語」が二人にとっての初めての双方向的なコミュニケーションとなったのだと思います。ラストシーンの後、彼、がどうなったのかは明示はされていません。だけれども、その行為がどのような結末をもたらすのであれ、それは彼、にとっても成美にとっても、トゥルーエンドを迎える(ハッピーエンド、かどうかはわからないけど)をもたらす行為なのだろうと思います。なぜならその行為は成美が地蔵から魔法使いへ変化するときの「なぞり」でもあるのですから。
2.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
3.100福哭傀のクロ削除
うーん……不思議な話でした。最初は成美が生まれて外の世界と繋がっていく話だと思っていましたが、後半に入ったあたりで生命と意思の話になって、かと思えば成美と彼女と外の世界を繋いでいたマニとの別れまでにの話、と思ったところに虫草がでてきて、作者はこの話をどこからどう目指して作ったんだ……という逆算して勝手に混乱する悪癖が……。長い間、地蔵の中にいてほとんどが1人語りの物語を、ここまでながく丁寧に描きつつ、退屈させない力量に驚かされました。前世で石の中にいたりしたんでしょうか。話全体としての共通項のようなものは朧げに掴めたと思いますが、それが本筋としていいのかが少し難しいところなのですが、それでも楽しく読ませていただきました。