一人暮らしで自炊をしていると、出来上がった量が必要以上のものになってしまうということは多々ある。今回も気付いたらやってしまっていた。カレーであった。
カレーというのは意外に足が早い。市販のルーならその速度はさらに上がるという。冬だからといって、常温保存などはしない方がいい。香辛料が多く含まれているためそういう印象はないものだが、私は身をもってその早さを経験している。それからというもの、余ったカレーはタッパーに密封し、冷凍庫で保存するという手段を取っている。
しかし、今回の失態は尋常ではなかった。みるみるうちに冷凍庫がタッパーに占領されていく。これは長期戦になる。覚悟を決めた。
それから四日間、私とカレーの戦いは続いた。カレーライスを朝昼晩と食べ続けた。一日目はまだいい。二日目になると早くも飽きが来た。三日目ともなれば私の夢の中にまでカレーライスが現れる始末。四日目にはメリーにも加勢してもらったが、敵を殲滅することはできなかった。
もういっそ捨ててしまおうかなという邪心すら沸き上がる。この苦しみから解放されるなら単位など献上したって構わない。留年しない範囲での話だが。
そうして迎えた五日目の朝。この日は休日。朝からメリーを呼び寄せ作戦会議を開いた。
「蓮子、大丈夫? クマが出来てるけど……」
開口一番、メリーに心配される。このところカレーのせいで寝不足であった。そんなことは友人とはいえ、恥ずかしくて言えない。とりあえず深夜アニメに罪をなすりつけておいた。次いで、カレーが余って困っていることをさりげなく伝えると、彼女はさらりとこう答えた。
「それなら誰かにお裾分けしたらいいんじゃない?」
なるほど。何でそういうのを思い付かなかったのだろうか。ならば、普段からお世話になっている岡崎教授と北白河助教にしよう。教授らの好感度も上がるとなれば、一石二鳥である。善は急げだ。私は家を飛び出し研究室へと足を運んだ。
休日の朝方ではあったが、幸いにも二人は在室していた。早速、カレーはどうですか、と話を持ちかけると、
「私。いちご味のカレーじゃないと食べられないんだけど」
「私もシーフードじゃないと食べる気にならないぜ」
速攻で断られた。
その後、いちご味のカレーかカレー味のいちごかで議論を始めた二人を置いて、私は泣く泣く帰路についた。
家に帰ると、メリーが何やら調理をしていた。寸胴鍋に冷凍カレーを溶かし、調味料や具材を色々加えている。何をしているのか問うと、カレーうどんを作っているらしい。
「朝ご飯まだだったし、昨夜、蓮子の冷凍庫にまだカレーが余ってたのを思い出して、カレーうどんを作ろうかなって」
カレーといえばカレーライスという固定観念に囚われていた私の元に、一筋の光が射し込んだ。私はカレーもうどんも好きな部類だに入る。その二つが合わさっているのだから、まずいわけがない。調理過程でかさが増すらしいが、そんなことはどうでもいい。
「蓮子の口に合えばいいんだけど」
お玉で掬って味見をするメリー。はにかむ彼女が天使に見えた。
それから、しばらくしてメリー特製のカレーうどんが完成した。仕上げに刻みネギを散らして彩りも鮮やか。刺激的なカレーライスの匂いとは異なり、何だか優しい香りがする。見飽きたはずのカレールーに反射的に涎が垂れる。私自身、カレーうどんを食べるのは初めてであった。
「麺が伸びないうちに早く食べましょう」
メリーの一声で麺を箸で掬い上げる。もし、カレーに飽いた私の胃が拒絶反応を起こしてしまったらどうしよう。一抹の不安を抱えながら、口へと運ぶ。数回咀嚼。そのまま胃へと落とし込む。
……おいしい。感嘆のため息が出た。私のその様子に、緊張の面持ちで私を見つめていたメリーも頬を緩ませる。
特にスープがうまい。朝食であることを意識したのか、あっさりとした味に仕立てられている。カレーの大黒柱たる香辛料は香り付け程度にまで抑えられ、代わりに野菜と肉のコクが引き立っている。コシのあるうどんは、聞けば彼女のお手製なんだとか。やはり、持つべきは友である。
メリーに感謝しながら、夢中で食べた。結構あるなと思った量も、ものの数分で完食してしまった。その勢いでおかわりを頼もうとした矢先、彼女がこう言った。
「蓮子、服、すごいことになってるよ」
視線を服へとスライドさせる。その凄惨な状況に開いた口がふさがらなかった。教授達に会いに行ったときは真っ白だったワンピース。それが今では、見るも無惨に茶色のまだら模様がプリントされている。
これ、結構お気に入りだったのに。後悔しても後の祭り。沸々と怒りが込み上げてくる。ただ、これをメリーにぶつけるのは、筋違いもいいところだ。なら、どうする。行き場のない怒りに苛まれる私に、ふと名案とも呼べる考えが頭を過った。
そうだ、研究だ。どうやったらカレーうどんのルーを飛ばさずに食べれるか研究すればいい。私が大学で専攻しているのは奇しくも物理学。頼れる教授だっている。これは神より賜りし使命なのだ。こんな惨劇を繰り返さないためにも、今、私が動くしかない……!
「メリー、私、行ってくるわ」
カレーにまみれた衣服を脱ぎ捨て、ジャージに袖を通す。呆気に取られているメリーを置き去りにして、私は再び研究室へと舞い戻った。
「カレーうどんの研究? 貴女、イグノーベル賞でも狙っているつもり?」
私の頼みに、岡崎教授はいちごミルク片手に露骨な嫌悪を示した。まあ、毎日多忙な彼女のことだ。この程度は想定の範囲内。こっちにはとっておきの秘策がある。
私は鞄の中から小さな箱を取り出した。教授の顔から不快感が消える。それは教授行きつけのケーキ屋のショートケーキ。値段は通常の三倍もする。しかし、一日限定十個というプレミアもので、開店と同時に行かなければ確実に売り切れる。
箱の取っ手を摘まみ、ゆらゆらとその箱を左右に揺らす。その動きに合わせて彼女の瞳もゆらゆら揺れる。近付ければ笑顔、遠ざければ泣きそうな顔。さながらチーズをぶら下げられたネズミのようである。悲歓に身体を疼かせている彼女のこの状態を、私は『うずうず岡崎』と呼んでいる。こうなれば籠絡するのは容易い。
「あーあ、せっかく教授にと思って買ってきたのに。じゃあ、私、帰りますんで」
「まままま待ちなさい! 私の雑務全部ちゆりに押し付けるから、帰るのだけは止めなさい」
「はぁ!? 何、言ってん……。いや、何でもないです」
教授に物凄い形相で睨まれ、たちまち大人しくなる助教授。鬼に金棒、岡崎にいちご。食べ物の力って素晴らしい。
「じゃあ私達が戻るまでちゃんと全部やっておくのよ、ちゆり」
どんな雑務かは知らないが、助教授のテンションの落ち込みようは半端ない。後で彼女にも何か差し入れしておこう。そう思いながら、部屋を後にした。
隣のミーティング室に連れられ、私は教授に事の一部始終を詳細に話した。いちごを何よりも愛している彼女だが、実は弱冠十八にして教授まで上り詰めた天才なのだ。私の話を聞くなり、なるほどと得心した顔をする。
「私が考え付く範囲で解答するわね。ルーが飛び散らないようにするポイントは主に二つかしら。一つ目はうどんをいかにして震わせないか。二つ目はルーをいかにして飛ばさないか」
ホワイトボードにうどん、ルー、解決策と書き記す。年相応の可愛い丸文字が踊る。下着もいちご柄らしい。そのまま講義さながら、彼女は持論を述べ始めた。
「まずはうどんの件なんだけど、固有振動数ってのは知っているわよね」
教授の問いかけに私は頷く。物体というのは振動の回数を大きくすれば、揺れも大きくなるというわけではない。とある振動数において最も揺れが大きくなる。その時の振動数を固有振動数というのだ。共振という現象が起きることにより、小さな力で大きな揺れを引き起こすことができる。それを利用すれば、理論上、声でグラスを割ることだって可能である。
「ルーが飛び散っちゃうのは、うどんの持つ固有振動数とすする際にうどんを震わせる振動数が近いから起こると思うのよね。そこで、うどんの固有振動数を測定したいんだけど、麺の長さによって変わってくるし。まあ、その実験はちゆりにやらせてくるわ。最優先でお願いって」
岡崎教授が部屋を出ていく。しばらくして、怒号と泣き声と駆け足で過ぎ去っていく足音が聞こえた。その後、何事もなかったかのように戻ってきて授業を再開する教授。鬼か、あんたは。
「で。さっきの続きなんだけど、すする時の振動の影響を最も大きく受けるのは麺の先端なのよ。だから、そこをつまんで食べれば被害は軽減されるはずだわ」
麺の先端を箸で掴んで食べる姿を想像する。うどんやラーメンなどはずるずると音を立ててすするのが一種の醍醐味だったりする。彼女が打ち立てた理論はその楽しみを半減させかねないものだが、まだ大事な服を汚すことに比べれば耐えられる。
「さらに大事なのは麺をすするそのスピード。先端を封じたとはいえ、共振は起こるわ。共振の被害を最小限にするためには、素早く吸い上げるのが一番。蓮子、あーって口を開けてみて」
教授に言われるがままに口を開く。教授曰く、これが一番吸い上げる力が強いらしい。実際には『あ』の発音をしながら吸い込むというのは難しいので、出来るだけ口を開けろということなのだろうが。
「フィニッシュも大事よ。汁が飛ばないようにするために唇をすぼめる。あーうーみたいな感じね。はい、練習」
促されるがままに、あーうーあーうーあーうー。うわあ、やってる自分が恥ずかしい。顔から火が出そうだ。しかし、これもあの惨劇を起こさぬようにするため。メリーがいなくて本当によかった。私を一通りあーうーさせた後、岡崎教授は話を続ける。
「そして、次にルーに関してだけど、飛んでしまうのはある程度の粘性があるからなの。それを防ぐには粘度を上げて飛びにくくすればいいのよ」
粘度は温度に反比例する。つまり、温度が低ければ低いほど飛びにくくなる。食べる前に十分に冷ませばオッケーということだ。食べる前は、ふーふー、と。
さらに教授は、食べる際にはうどんは複数本ではなく一本ずつ口に入れた方がいいということも指摘してくれた。うどん同士が絡まっている場合、それらがほどけたときに飛んでしまうのを防ぐためだという。
今までの教えをまとめると、うどんを一本取る。端を掴む。ふーふーあーうー。何て解りやすいんだろうか。さすがは教授。
それから、私達は頭と身体に叩き込むために、エアうどんでシミュレーションを重ねた。ふーふーあーうーを繰り返していくうちに、恥じらう気持ちは薄れ、妙な自信すらついてくる。この成果を早く試してみたい。全国でカレーうどんに悩む人々よ、見ていてくれ。
「……行きましょ。私達の叡知と努力の結晶を披露しに」
岡崎教授が私の肩を叩く。決戦の舞台はもちろん自宅。私は岡崎教授と共にメリーの待つ戦地へと赴いた。
家に帰ると、メリーが私のワンピースの染み抜きをしていた。カレーうどんはもうとっくに片付けてしまっていたが、なんとかお願いしてもう一度作ってもらえることになった。その間も綿密なイメージトレーニングを重ねる。教授の手前、失敗は許されない。ふーふーあーうーを反復する。メリーの視線が痛い。
「出来たよ、蓮子。岡崎先生もよかったらどうぞ」
湯気を立ち上らせるカレーうどん。ここ数日、この茶色の悪魔に何度うなされてきたことか。お前を断ち切る時は来た。宇佐見蓮子、いざ参る!
岡崎教授が固唾を飲んで見守る中、恐る恐るカレールーの中から麺を引きずり出す。運のないことに、それは十五センチ近くはあろうかという大物だった。そいつを完全に熱源と隔離した後、息を吹きかけ冷ましていく。十分に手応えを感じた私は、端を少しだけ口に押し込み、もう片方を箸で摘まんだ。後は吸い込むだけだ。
柄にもなく緊張する。たかがうどん、されどうどん。教授の目を見る。真っ直ぐな瞳が私を励ます。私の心の迷いが消えていく。意を決して麺を吸い上げた。渾身のあーうーが炸裂する。ぶれることなく一直線に吸い込まれていく麺。唇をすぼめる。ちゅるり、と音を立てて麺の先端が口の中へと収まった。
「結果はどうでした?」
空気が張りつめる。額に汗が滲む。私が見詰めるその先で、岡崎教授が親指を立てた。私達の苦労が報われた瞬間だった。感極まって教授と抱きあう。うどんで深まる絆がここにはあった。
もう何も怖くはない。今は亡き純白のワンピースも洗濯機の中で喜んでいることだろう。何よりもカレーうどんに恐れを抱いていた人々に、こうして希望を与えられたことが嬉しい。
岡崎教授も挑戦した。衣服には付かなかったものの、頬に少しだけルーが飛び散った。許容の範囲内ね、と彼女と笑い合う。二本目、三本目と私は成功させてみせた。教授はスタンディングオベーション。私は誇らしげに胸を張る。こうして、和やかな雰囲気が包む中、私達をじっと見ていたメリーが柔らかな笑顔でこう告げた。
「でも、それよりもいい方法、ネットに載っていましたよ」
私達の希望は呆気なく砕け散った。
カレーというのは意外に足が早い。市販のルーならその速度はさらに上がるという。冬だからといって、常温保存などはしない方がいい。香辛料が多く含まれているためそういう印象はないものだが、私は身をもってその早さを経験している。それからというもの、余ったカレーはタッパーに密封し、冷凍庫で保存するという手段を取っている。
しかし、今回の失態は尋常ではなかった。みるみるうちに冷凍庫がタッパーに占領されていく。これは長期戦になる。覚悟を決めた。
それから四日間、私とカレーの戦いは続いた。カレーライスを朝昼晩と食べ続けた。一日目はまだいい。二日目になると早くも飽きが来た。三日目ともなれば私の夢の中にまでカレーライスが現れる始末。四日目にはメリーにも加勢してもらったが、敵を殲滅することはできなかった。
もういっそ捨ててしまおうかなという邪心すら沸き上がる。この苦しみから解放されるなら単位など献上したって構わない。留年しない範囲での話だが。
そうして迎えた五日目の朝。この日は休日。朝からメリーを呼び寄せ作戦会議を開いた。
「蓮子、大丈夫? クマが出来てるけど……」
開口一番、メリーに心配される。このところカレーのせいで寝不足であった。そんなことは友人とはいえ、恥ずかしくて言えない。とりあえず深夜アニメに罪をなすりつけておいた。次いで、カレーが余って困っていることをさりげなく伝えると、彼女はさらりとこう答えた。
「それなら誰かにお裾分けしたらいいんじゃない?」
なるほど。何でそういうのを思い付かなかったのだろうか。ならば、普段からお世話になっている岡崎教授と北白河助教にしよう。教授らの好感度も上がるとなれば、一石二鳥である。善は急げだ。私は家を飛び出し研究室へと足を運んだ。
休日の朝方ではあったが、幸いにも二人は在室していた。早速、カレーはどうですか、と話を持ちかけると、
「私。いちご味のカレーじゃないと食べられないんだけど」
「私もシーフードじゃないと食べる気にならないぜ」
速攻で断られた。
その後、いちご味のカレーかカレー味のいちごかで議論を始めた二人を置いて、私は泣く泣く帰路についた。
家に帰ると、メリーが何やら調理をしていた。寸胴鍋に冷凍カレーを溶かし、調味料や具材を色々加えている。何をしているのか問うと、カレーうどんを作っているらしい。
「朝ご飯まだだったし、昨夜、蓮子の冷凍庫にまだカレーが余ってたのを思い出して、カレーうどんを作ろうかなって」
カレーといえばカレーライスという固定観念に囚われていた私の元に、一筋の光が射し込んだ。私はカレーもうどんも好きな部類だに入る。その二つが合わさっているのだから、まずいわけがない。調理過程でかさが増すらしいが、そんなことはどうでもいい。
「蓮子の口に合えばいいんだけど」
お玉で掬って味見をするメリー。はにかむ彼女が天使に見えた。
それから、しばらくしてメリー特製のカレーうどんが完成した。仕上げに刻みネギを散らして彩りも鮮やか。刺激的なカレーライスの匂いとは異なり、何だか優しい香りがする。見飽きたはずのカレールーに反射的に涎が垂れる。私自身、カレーうどんを食べるのは初めてであった。
「麺が伸びないうちに早く食べましょう」
メリーの一声で麺を箸で掬い上げる。もし、カレーに飽いた私の胃が拒絶反応を起こしてしまったらどうしよう。一抹の不安を抱えながら、口へと運ぶ。数回咀嚼。そのまま胃へと落とし込む。
……おいしい。感嘆のため息が出た。私のその様子に、緊張の面持ちで私を見つめていたメリーも頬を緩ませる。
特にスープがうまい。朝食であることを意識したのか、あっさりとした味に仕立てられている。カレーの大黒柱たる香辛料は香り付け程度にまで抑えられ、代わりに野菜と肉のコクが引き立っている。コシのあるうどんは、聞けば彼女のお手製なんだとか。やはり、持つべきは友である。
メリーに感謝しながら、夢中で食べた。結構あるなと思った量も、ものの数分で完食してしまった。その勢いでおかわりを頼もうとした矢先、彼女がこう言った。
「蓮子、服、すごいことになってるよ」
視線を服へとスライドさせる。その凄惨な状況に開いた口がふさがらなかった。教授達に会いに行ったときは真っ白だったワンピース。それが今では、見るも無惨に茶色のまだら模様がプリントされている。
これ、結構お気に入りだったのに。後悔しても後の祭り。沸々と怒りが込み上げてくる。ただ、これをメリーにぶつけるのは、筋違いもいいところだ。なら、どうする。行き場のない怒りに苛まれる私に、ふと名案とも呼べる考えが頭を過った。
そうだ、研究だ。どうやったらカレーうどんのルーを飛ばさずに食べれるか研究すればいい。私が大学で専攻しているのは奇しくも物理学。頼れる教授だっている。これは神より賜りし使命なのだ。こんな惨劇を繰り返さないためにも、今、私が動くしかない……!
「メリー、私、行ってくるわ」
カレーにまみれた衣服を脱ぎ捨て、ジャージに袖を通す。呆気に取られているメリーを置き去りにして、私は再び研究室へと舞い戻った。
「カレーうどんの研究? 貴女、イグノーベル賞でも狙っているつもり?」
私の頼みに、岡崎教授はいちごミルク片手に露骨な嫌悪を示した。まあ、毎日多忙な彼女のことだ。この程度は想定の範囲内。こっちにはとっておきの秘策がある。
私は鞄の中から小さな箱を取り出した。教授の顔から不快感が消える。それは教授行きつけのケーキ屋のショートケーキ。値段は通常の三倍もする。しかし、一日限定十個というプレミアもので、開店と同時に行かなければ確実に売り切れる。
箱の取っ手を摘まみ、ゆらゆらとその箱を左右に揺らす。その動きに合わせて彼女の瞳もゆらゆら揺れる。近付ければ笑顔、遠ざければ泣きそうな顔。さながらチーズをぶら下げられたネズミのようである。悲歓に身体を疼かせている彼女のこの状態を、私は『うずうず岡崎』と呼んでいる。こうなれば籠絡するのは容易い。
「あーあ、せっかく教授にと思って買ってきたのに。じゃあ、私、帰りますんで」
「まままま待ちなさい! 私の雑務全部ちゆりに押し付けるから、帰るのだけは止めなさい」
「はぁ!? 何、言ってん……。いや、何でもないです」
教授に物凄い形相で睨まれ、たちまち大人しくなる助教授。鬼に金棒、岡崎にいちご。食べ物の力って素晴らしい。
「じゃあ私達が戻るまでちゃんと全部やっておくのよ、ちゆり」
どんな雑務かは知らないが、助教授のテンションの落ち込みようは半端ない。後で彼女にも何か差し入れしておこう。そう思いながら、部屋を後にした。
隣のミーティング室に連れられ、私は教授に事の一部始終を詳細に話した。いちごを何よりも愛している彼女だが、実は弱冠十八にして教授まで上り詰めた天才なのだ。私の話を聞くなり、なるほどと得心した顔をする。
「私が考え付く範囲で解答するわね。ルーが飛び散らないようにするポイントは主に二つかしら。一つ目はうどんをいかにして震わせないか。二つ目はルーをいかにして飛ばさないか」
ホワイトボードにうどん、ルー、解決策と書き記す。年相応の可愛い丸文字が踊る。下着もいちご柄らしい。そのまま講義さながら、彼女は持論を述べ始めた。
「まずはうどんの件なんだけど、固有振動数ってのは知っているわよね」
教授の問いかけに私は頷く。物体というのは振動の回数を大きくすれば、揺れも大きくなるというわけではない。とある振動数において最も揺れが大きくなる。その時の振動数を固有振動数というのだ。共振という現象が起きることにより、小さな力で大きな揺れを引き起こすことができる。それを利用すれば、理論上、声でグラスを割ることだって可能である。
「ルーが飛び散っちゃうのは、うどんの持つ固有振動数とすする際にうどんを震わせる振動数が近いから起こると思うのよね。そこで、うどんの固有振動数を測定したいんだけど、麺の長さによって変わってくるし。まあ、その実験はちゆりにやらせてくるわ。最優先でお願いって」
岡崎教授が部屋を出ていく。しばらくして、怒号と泣き声と駆け足で過ぎ去っていく足音が聞こえた。その後、何事もなかったかのように戻ってきて授業を再開する教授。鬼か、あんたは。
「で。さっきの続きなんだけど、すする時の振動の影響を最も大きく受けるのは麺の先端なのよ。だから、そこをつまんで食べれば被害は軽減されるはずだわ」
麺の先端を箸で掴んで食べる姿を想像する。うどんやラーメンなどはずるずると音を立ててすするのが一種の醍醐味だったりする。彼女が打ち立てた理論はその楽しみを半減させかねないものだが、まだ大事な服を汚すことに比べれば耐えられる。
「さらに大事なのは麺をすするそのスピード。先端を封じたとはいえ、共振は起こるわ。共振の被害を最小限にするためには、素早く吸い上げるのが一番。蓮子、あーって口を開けてみて」
教授に言われるがままに口を開く。教授曰く、これが一番吸い上げる力が強いらしい。実際には『あ』の発音をしながら吸い込むというのは難しいので、出来るだけ口を開けろということなのだろうが。
「フィニッシュも大事よ。汁が飛ばないようにするために唇をすぼめる。あーうーみたいな感じね。はい、練習」
促されるがままに、あーうーあーうーあーうー。うわあ、やってる自分が恥ずかしい。顔から火が出そうだ。しかし、これもあの惨劇を起こさぬようにするため。メリーがいなくて本当によかった。私を一通りあーうーさせた後、岡崎教授は話を続ける。
「そして、次にルーに関してだけど、飛んでしまうのはある程度の粘性があるからなの。それを防ぐには粘度を上げて飛びにくくすればいいのよ」
粘度は温度に反比例する。つまり、温度が低ければ低いほど飛びにくくなる。食べる前に十分に冷ませばオッケーということだ。食べる前は、ふーふー、と。
さらに教授は、食べる際にはうどんは複数本ではなく一本ずつ口に入れた方がいいということも指摘してくれた。うどん同士が絡まっている場合、それらがほどけたときに飛んでしまうのを防ぐためだという。
今までの教えをまとめると、うどんを一本取る。端を掴む。ふーふーあーうー。何て解りやすいんだろうか。さすがは教授。
それから、私達は頭と身体に叩き込むために、エアうどんでシミュレーションを重ねた。ふーふーあーうーを繰り返していくうちに、恥じらう気持ちは薄れ、妙な自信すらついてくる。この成果を早く試してみたい。全国でカレーうどんに悩む人々よ、見ていてくれ。
「……行きましょ。私達の叡知と努力の結晶を披露しに」
岡崎教授が私の肩を叩く。決戦の舞台はもちろん自宅。私は岡崎教授と共にメリーの待つ戦地へと赴いた。
家に帰ると、メリーが私のワンピースの染み抜きをしていた。カレーうどんはもうとっくに片付けてしまっていたが、なんとかお願いしてもう一度作ってもらえることになった。その間も綿密なイメージトレーニングを重ねる。教授の手前、失敗は許されない。ふーふーあーうーを反復する。メリーの視線が痛い。
「出来たよ、蓮子。岡崎先生もよかったらどうぞ」
湯気を立ち上らせるカレーうどん。ここ数日、この茶色の悪魔に何度うなされてきたことか。お前を断ち切る時は来た。宇佐見蓮子、いざ参る!
岡崎教授が固唾を飲んで見守る中、恐る恐るカレールーの中から麺を引きずり出す。運のないことに、それは十五センチ近くはあろうかという大物だった。そいつを完全に熱源と隔離した後、息を吹きかけ冷ましていく。十分に手応えを感じた私は、端を少しだけ口に押し込み、もう片方を箸で摘まんだ。後は吸い込むだけだ。
柄にもなく緊張する。たかがうどん、されどうどん。教授の目を見る。真っ直ぐな瞳が私を励ます。私の心の迷いが消えていく。意を決して麺を吸い上げた。渾身のあーうーが炸裂する。ぶれることなく一直線に吸い込まれていく麺。唇をすぼめる。ちゅるり、と音を立てて麺の先端が口の中へと収まった。
「結果はどうでした?」
空気が張りつめる。額に汗が滲む。私が見詰めるその先で、岡崎教授が親指を立てた。私達の苦労が報われた瞬間だった。感極まって教授と抱きあう。うどんで深まる絆がここにはあった。
もう何も怖くはない。今は亡き純白のワンピースも洗濯機の中で喜んでいることだろう。何よりもカレーうどんに恐れを抱いていた人々に、こうして希望を与えられたことが嬉しい。
岡崎教授も挑戦した。衣服には付かなかったものの、頬に少しだけルーが飛び散った。許容の範囲内ね、と彼女と笑い合う。二本目、三本目と私は成功させてみせた。教授はスタンディングオベーション。私は誇らしげに胸を張る。こうして、和やかな雰囲気が包む中、私達をじっと見ていたメリーが柔らかな笑顔でこう告げた。
「でも、それよりもいい方法、ネットに載っていましたよ」
私達の希望は呆気なく砕け散った。
こういう深夜テンション嫌いじゃないなぁww
カレーうどん久々に食べたくなってきたわ