……OK、ひとまず落ち着こう。落ち着くんだ私。ハイ深呼吸。ひっひっふー、ひっひっふー。違った。いや、どうでもいい。
てか、冷静に考えると夢じゃないかなコレ。うん、そうだ。そうに違いない。だって有り得ないもん。よし、目をつむろう。一旦目ぇつむって。おっしゃ。良いかい? 私。椛。犬走椛。これは夢だ。良いね? さっきまで広がっていたアレらの光景は、全部夢なんだ。酷い悪夢って奴だ。判るね? だからもう一回、ゆっくりと目を開くと、全部消えてしまう。惨劇の跡も、隣の彼女も、今お前を襲っているこの尋常じゃない頭痛も、綺麗さっぱり無くなる。全部全部消えちゃって、私はいつもの万年床の上で目覚めるんだ。
3,2,1,ハイ――駄目だ消えないわ。頬っぺたつねってみるか。あぁ、普通に痛いや。痛覚がモロ仕事してる。痛覚が機能してる悪夢かも知れない。なんか『質量のある残像』みたいな響きだな。つまりは、『ねーよ実際』って事。ハッハッハ。参ったな。
どうしよう。
うわぁ……うわぁ……どうしよう。
よし。判った。
取り敢えず服を着よう。
めっちゃ寒い。この季節に全裸はキツい。
スゲー散らかってるけど、どっかにあるかな。私の服。なぎ倒された箪笥の下かも知れないし、引っぺがされた畳に挟まってるかもしれない。どう頑張っても血にしか見えない謎の汚れで壁とか真っ赤っ赤だけど、汚れて無きゃいいな。もれなく全部に穴の開いた障子から見える空は澄んでるし、そこからの隙間風がヤバい。寒い。普通に寒い。
だから隣でいびき掻いて寝てる寅丸星さんにも、服を着せてあげなくっちゃね。すっぽんぽんで寝てたら風邪ひいちゃうもん。
優しい! 私! 気遣いできる女! 女子力マックス!
――どうしよう。
やっちゃった? これやっちゃった? 私。ラブがメイクされちゃった? ベイビー生誕のプロセス踏んじゃった? 神様代理と交わって、神話創生の一端を担っちゃった? 国作っちゃった? どうしよう何も覚えてないんだけど。昨夜の記憶皆無なんだけど。何があった? 何をしちゃった? 良く知らないけど仏教ってそういうの駄目じゃね? 婚前交渉が許されるほど緩い宗教な気は全然しないんだけど。アウト? アウトかな? デデーン、犬走、アウトーかな? 責任とる的な事しないとマズイかな。哨戒の仕事で貰える給金なんか雀の涙だし、誰かを養『ポコン』う余裕とか全然――。
……ん?
何? 今の『ポコン』って?
いや音っていうか、感覚? 何かが私のお腹を叩いたみたいな……。
恐る恐る、視線を下へと向けてみる。我が控えめな胸部の向こう側に、いつもとは全く様変わりしてしまった丸み。お腹がふっくらと膨らんでて――。
わっほーい。なるほどぉ、こいつぁ一本取られたなぁ。
私かぁ。この展開で私がやられちゃった側ってのは、ちょっと聞いた事無かったなぁ。認知しなきゃじゃなくって、認知させなきゃの立場かぁ。椛に赤ちゃんできちゃいましたぁ。名前何にしようかなぁ。男の子だったら『酔った勢い』で、女の子だったら『一夜の過ち』にしよーっと。
オゥ、マイ、ガー。
「寅丸さん寅丸さん寅丸さあぁぁんッ!!!! 起きて! 起きて下さい! てか起きろ! おいコラテメェ何呑気に寝てんだ女の子孕ませといて良い朝夢気分で居るんじゃねぇぇええええッ!」
隣で寝ている寅丸星の肩を揺さぶり、それでも起きないので往復ビンタをかます。一往復二往復三往復。頬が微妙に腫れ始めているというのに、起きる予兆、ゼロ。
……しゃーない。
割れんばかりにガンガン痛む頭を抱え、散らかりまくった室内を探索して自分の服をサルベージする事にした。もう原型を留めてないくらいに滅茶苦茶だけど、間取りから判断するにここは私の家だ。つまりは送り狼をされたという事か。狼は私じゃないか。猫科の妖獣の癖してタチ役とか何の冗談だ。ファッ○。されてた。こん畜生め。私もか。
哨戒天狗なんか下っ端も良い所だし、安普請な我が家は元々広い家じゃない。探索はすぐに終わった。とりあえず、部屋着の甚平はある。寒さから身を守り、肌を隠すならひとまずそれで充分。
代わりに仕事用の一張羅が無い。どこにも。
そして愛刀も盾も無い。つまりは仕事道具が一式消失している。
代わりにあったのは、何やら武骨な長筒。黒く鋼鉄製で、筒の部分がやたらと長く……まぁ、ぶっちゃけスナイパーライフル。名前とかについて詳しい事は知らない。当たり前でしょここ幻想郷ですよ? いやはや、私の装備も随分と近代化された物だなぁ。オーバーテクノロジーも良い所だわぁ。
ものっそい困る。
さて、どういうことだろうか。
床の間に飾っていた掛け軸がべっとりと血染まっているのを呆然と見つめながら、痛む頭の中に転がっているだろう昨晩の記憶を検める作業に入る。この脳みそが拡張しているみたいな頭の痛さと言い、コイツは間違いなく二日酔いだ。そこまでは判る。
そして寅丸星。
コイツの事も覚えている。初対面が昨日の事で、私は上司から、コイツに妖怪の山を案内するよう命じられたのだ。
未だすっぽんぽんでグースカ寝こけている寅丸に毛布を掛け、半分死んだような意識をシャンとさせる為にも井戸で顔を洗う事にした。
愛しの我が家が大量虐殺の跡地みたく血塗れになってしまった理由も、私と寅丸が全裸で寝ていた理由も、私の仕事道具が無い理由もスナイパーライフルについても、そして私が妊娠している理由もさっぱり判らない。
突っ掛けを履き、膨らんだ腹を擦って、私は思い出せる所から思い出してみる事とした。
◆◆◆
「初めまして。命蓮寺所属、毘沙門天代理の寅丸星と申します」
伝令ガラスに呼び出されて山道入口に程近い詰所へと赴いた私を、寅丸の朗らかながらも礼儀正しい挨拶が出迎えた。空飛ぶ船の異変だの宗教戦争だのの噂は聞いていたので、初対面ながらも私は特に意表を突かれた感じもせず、コイツが命蓮寺のご神体かぁ、なんて面白みのない印象を抱いた様に思う。
「はぁ、どうも。白狼天狗の犬走椛っす」
会釈も返答もそこそこに、私は詰所の奥で煙管を飲んでいた上司の顔を窺い、自分が呼ばれた理由を目で尋ねた。肩を竦めた上司は、灰皿に雁首を叩き付けると立ち上がって説明を開始した。
曰く、妖怪山を見学したいから、その許可を申し出て来たとの事。
部外者が一人でフラつかれるのも立場上困るので、案内人として私を任命したいとの事。
そんな端的な説明を受け、私は毒気の無い寅丸の笑みを目の端で盗み見る。
妖怪に仏教を伝授する命蓮寺の姿勢ならば、聞き及んでいた。
寺の開設から結構な時間の経った今更、見学というのも時期的に奇妙な話だ。大方、信徒拡大の下見をしに来たのだろう。そして、そんな見え透いた目的をわざわざ隠すのは、偏に守矢さんとことの摩擦を最小限にしたいが故だろう。そう思った。
夏ごろに起きた宗教戦争の延長線。人里近くで地盤を固めたと判断し、如何に守矢神社から信徒を掻っ攫えるかの判断を下しに来たという訳か。
――まぁ、私にはそんな思惑だのなんだのは関係ない。政(まつりごと)は上層部が額をブツけていがみ合うもので、下っ端としちゃ首を突っ込む理由も動機も皆無。なので私は、そんな表層的なお為ごかしを飲み下し、寅丸星の案内を承った。
「よろしくお願いしますね。椛さん」
柔和な微笑みと共に、寅丸は包む様に私の手を握って来た。寛大と優しさのアピール。初対面で名前を呼んでくるという、宗教家特有の暴力的でさえある善意に裏打ちされた、距離の縮め方。コイツの眼には、私も信者候補として映っている訳か。
ファースト・インプレッションとして、私は目の前の寅丸を『気に入らない奴』として定義づけた。
私は守矢さんとこの神様にも帰依してない。縋れば恩恵を与える。逆に言えば、縋り付かなきゃ恩恵なんか与えない。お優しい事だ。末端の雑兵に取っちゃ、最後に信じられるのは神なんかじゃなく自分自身の能力だ。それが私の持論。殺すか殺されるかって瀬戸際に、神様が相手をサクッと殺してくれる事なんか無い訳だし。
ま。そんな私の哲学なんか、振りかざした所で利益は無い。組織に属してれば、嫌でも適切な自分の殺し方を理解する。だから私は自然な微笑みを演じる事ができるし、両手で行われる過剰な握手への対応もできる。
「こちらこそ、よろしくです」
そんな儀礼的挨拶もそこそこに、私は早速詰所を後にして寅丸の案内を始めた。
本当に、ただ案内しただけだ。河童たちの住む沢辺り。天狗の居住地区。他にも妖怪のコロニーは幾つか存在し、そこらをブラブラと散歩する程度。適当に地理的な説明も加えつつ一通り回り終えた時には、もう太陽は山の向こうに沈んでいた。
「――こうした山の空気は、何とも懐かしく思います」
冬が来て鬱々としたオーラを外まで垂れ流す秋姉妹の家を通り過ぎた時、寅丸は心地良さげに深呼吸をしながらポツリと言った。
「懐かしい?」
「えぇ……千年前は、私も一介の妖獣でしたので。山野を駆け巡り、動物を狩っていた過去もあるのです」
「はぁ……」
第一印象のせいだろうか。
その寅丸の言い草が、私の不穏な感情領域を撫でた様に感じた。
一介の妖獣『だった』。
その些細な言い回しに、私は寅丸が無意識に抱く格式の差異意識を見た気になったのだ。
事実彼女は毘沙門天代理であり、一介の妖獣とは一線を画す存在なのだろう。それは判る。ただその言葉に私は、今も山野を駆け巡り、動物を狩っている白狼天狗の貴女とは違う存在なんですよー、と。そう当てつけられた様に感じたのだ。
隣を歩く寅丸の横顔を盗み見る。懐かしの田舎に帰って来た都会人みたく、山の景色を眺める彼女。その懐かしげな表情もまた旅行気分で、観光染みていて、古巣に似た山の光景をそんな高みから見下ろす様な態度はハッキリ言って、こんにゃろ優越感でも抱いているんじゃないかと邪推するに充分だった。
……アンタは今も妖獣だろうに。
それが、私が舌の根に押し留めたリアクション。神様代理だろうが、千年以上も寺の本尊をやっていようが、自分のルーツ、自分の種族から逃れた訳じゃないだろうに、と。仏の教えに当てられて本能を忘却したような振る舞いは、白狼天狗として野性を残し、それを誇ってるつもりの私に取っちゃ、いけ好かない態度だ。
――そんな感想を飲みこむのではなく、天啓染みて思い付いた些細な悪戯で解消してしまおうと思った私もまぁ、正直言っていけ好かない奴だろう。
「案内はここいらで終わりっす」
わざわざ天狗の居住区画まで戻ってから、私は寅丸に告げた。
夜も訪れて、目の前の大通りは昼勤務上がりの同胞たちで大いに賑わっている。立ち並ぶ店からは食欲を誘う肴の匂いや、冬のピンと張りつめた空気を柔らかく溶かす酒精の気配で充満していた。
「お勤めご苦労様です。椛さん。妖怪の山を見れて、私も楽しかったです――」
「で」
締めの言葉と共に頭を垂れる寅丸の言葉を遮る様に、私はパンと手を叩く。
「お腹空いてないっすか?」
「へ?」
クン、と寅丸が鼻を鳴らしたのを確認する。炙られた銀杏の香ばしさ、ツンと取り澄ました様なお浸しの冷たい醤油の香り。洗練されてこそ居ないが、力強さで酒飲みを魅了する地酒の得も知れぬ芳しさ。塩焼きにされた鮎のフワリと漂う芳香。酒好きには堪らない空気を鼻の粘膜で彼女が察知したのを、私の目が、『眼』が、敏感に見て取った。
「そりゃ、空くには空きましたが……」
ワザとらしく寅丸が大通りから目を背け、窘める様な視線で私の両目を見て来る。
「……私は、寺に夕食の用意がしてあると思いますので」
「はぁ……でも、もうこんな時間っすよ?」
気の抜けた声を出し、私は空に鎮座する月を見る。毛穴から引き留める雰囲気を垂れ流し、殊勝ぶった演技を見せつけた。
「用意されてたとて、冷めちゃってるんじゃないっすかね? お寺って朝、早いんでしょう? もう皆さん寝てる所だと思いますし……それともお寺の誰かを叩き起こして、食事の用意をワザワザさせます? もしくは一人悲しく、料理の用意を?」
「ご心配には及びませんよ。慣れた事です」
「慣れた事!」
目を見開いて上体を逸らす。信じられない、というボディランゲージ。演技臭くて堪ったもんじゃないだろうが、それで良いのだ。その方が、私が寅丸を帰らせたくないと言う思惑が如実に伝わるのだから。
「いけませんいけません。そんな事じゃ駄目っすよ? 食事は誰かと食べてこそ美味しいと感じる物じゃないんすかね? 百歩譲って独り身なら仕方ありません。物理的に一人で食べるしかない。その環境に慣れきっているから、寂しさという感覚に麻痺してしまう――けれど、お寺は大所帯でしょう? 普段は大勢でやいのやいの賑わってらっしゃる食堂で、こんな時間に独りぼっちで食べる悲しさ! 辛い物がありましょう……」
頭を振る。どこぞの鴉を引用しているもんで言ってて胸糞が悪くなるが、強引に事を進めたい時にはうってつけの態度だ。文々。はそれを自覚してこんな胡散臭さの塊みたいな台詞を吐くし、図らずも奴と接触の多い私は、必要に応じてそれを引用する事ができる。嫌悪感に蓋をしてしまえば、このキャラクタは実に合理的だ。文々。に知られたら舌を噛んで死ななきゃならない諸刃の刃なのだが。
「しかし、ここで食事とは……ここは飲み屋街でしょう? 私は戒律で、飲酒が禁じられ」
「それに!」
畳み掛ける様に、寅丸をビシッと指差す。私のキャラじゃない? 知っててやってる。
「――今日一日アナタと一緒に居たのですし、これでも私はアナタと少しでも親交を深めたいと思っていたのですが……あぁ、いえ、何でもありません……私の他愛ない希望で、渋るアナタを引き留める訳にも行きませんもんね……お疲れ様でした……私は、独りで悲しくさもしく家に帰って、カチカチの冷や飯にお水を掛けて啜る事にします……」
OK、物真似ごっこはお終い。押しの一手はもう済んだ。さらば射命丸文のキャラクタ。後は地で構うまい。余りアイツの言葉を借り過ぎると、私の唇がクチバシに変容してしまう。
項垂れながら寅丸の顔を窺う。顎に手を掛けて、熟考している様子の彼女。しかしその目はチラチラと大通りの誘惑を掠めている。妖怪という奴はおよそ酒が好きなのだ。増して飲酒を禁じられているのならば、欲求は破裂せんばかりだろう。
カワイソーな私に付き合ってあげる、という致し方ない理由は用意した。
よっしゃ、駄目押しのもう一手。
「――因みに私、豆腐料理が絶品のお店知ってます。ざる豆腐から高野豆腐のお浸し、冷奴は勿論、ふわっふわの揚げ豆腐に甘辛なあんを掛けた奴がもう、怖いくらい美味しくてですねぇ……まあまず間違いなく、幻想郷で一番豆腐が美味しい店っすね。清水にゃ事欠かないので」
「……お豆腐ならば、私も食べられますね」
掛かった。
「ん? あれ? 行きますか? 私と食事を共にしてくださるのですか?」
「うん、そうですね。ご相伴に預かりましょう」
「わぁ……! 嬉しいですー! ご案内しますー! こっちっすー!」
意気揚々と、私は大通りへと一歩を踏み出し、馴染みの『酒場』へと寅丸を案内する。
嘘は言ってない。
私が連れて行くのは、美味しい豆腐を出す居酒屋なのだから。
美味いぞー。豆腐も酒もそうだが、猪肉も絶品なのだ。目の前でドンドン注文してやる。果たしていつまで自制が持つかな? 妖獣としての本能を剥き出しにしてくれよう。ぬっふっふ。楽しみだ。
◆◆◆
そして今に至る。
いや、至らない。
何故ならそこまでしか思い出せない。
その後の経緯について、私は何一つとして覚えていない。
……あっれー……マジで何が起こっ『ポコン』たんだろう。あ、また蹴った。いやはや、元気な子供だなぁ。どっちに似たんだろう。私かな。寅丸かな。うふふふ。ガッデム。
「――ふにゃああああああああああああああああああああああッッ!!!!!!????」
井戸の前でしゃがみ込み、膨らんだ腹を呆然と眺めていた私の耳に、そんな萌えアニメの登場人物みたいな叫び声が届く。起きたか寅丸星。盛りの付いた猫みたいな声を出すなぁ。いや、虎も一応猫科か。本能の発現おめでとうございます。
ガンガン痛む頭を抱えつつ自室に戻る。掛けてやった毛布で今更ながら身体を隠す寅丸が、ほとんど泣きそうな表情で私を見上げて来た。完全に被害者の顔だ。
「おはようっす。寅丸さん」
「な、な、な……」
涙を浮かべて慄く彼女が私を見る目は、誘拐犯を見る少女染みたそれだった。懐かしいな。天狗社会がイケイケの人攫い集団だった時には、良く見たもんだ。
「わ、わ、私に……何を……」
「――アンタも覚えてないんすか」
溜め息。凄惨な愛しの自室から発掘した甚平を放って寄越す(寅丸の服も無かった)。頭も痛いし身体の節々が怠くて敵わない。長々と説明をするのも面倒で、私はなぎ倒されていた箪笥の上に腰を降ろした。
「い、良いですか!? 良いですか椛さん!?」
放った甚平に手を伸ばしながら、寅丸が言う。一応私の事は覚えている様だ。どこまでの記憶があるのかは聞き出さなきゃなるまい。
「ふ、ふ、婦女暴行は、かい、戒律違反以上に、ふ、普通に社会的制裁を頂くべき、は、犯罪なのですよ……? ま、ましてや私は毘沙門天代理……あ、貴女は、何をしたのか、わ、判っているのですか……!?」
「…………判ってないのはアンタの方っすよ」
半着を捲って、膨らんだ腹を見せつけてやる。見よ。お前の罪を。甚平を手繰って自分の身体を隠していた寅丸の震えが、その瞬間にピタリと止んだ。口をあんぐりと開けて。
「…………」
「…………あ、また蹴った」
「……………………おめでとうございます?」
「いやいやいや! アンタっしょ!? アンタがハッスルした結果っすよねこれ!?」
「違います! 知りません! 知りません! 知りません!」
「うっせぇ! 状況的に他に誰が居るんすか!? 私も全裸で目覚めたんすよ! アンタが下手人で決定っすよね!? 認知しろ! に・ん・ち! に・ん・ち!」
「無理無理無理無理無理無理!!!! 殺されます! 聖に殺されます! 毘沙門天様からぶっ殺されてしまいます!! も、も、も、申し訳ないのですがそのあのえーーーーーーーっと!!! な、無かった事に! 無かった事にはなりませんか今からでも!! ほおずき的なサムシングで!!」
「はああああああああああああッ!!!????? 今なんつった悪魔かアンタは!? おろせってか!? 仏教の尊い教えはどこ行った!?」
「ち、ちが、いやいやいやいや!! そんな事言ってません! 仮におろすとしてもそれはアレです! アレ!!!! あれだ! 大根の話ですから!!!」
「今更それがまかり通るか!」
失言のフォローが下手過ぎる!
何だこのタイミングで大根おろせって!
あああああああああああ頭痛い頭痛い! 大声出し過ぎた!
「……あぁ、もう……あったまいったい……取り敢えず服着て。そんで、そっからちょっとお話しましょ」
顔を覆って「知らないんです私じゃないんです知らないんです私じゃないんです」とさめざめと泣きながらの現実逃避を始めた寅丸を見限り、私は茶でも飲もうと炊事場へと赴く。炊事場も惨劇の爪痕から逃れられておらず、包丁は軒並み壁に突き刺さっていたし、チビチビ食べようと作った干し柿が全部鍋で煮込まれた形跡があった。
本当に何だこの空間は。地獄か。私は自宅に地獄を召喚してしまったのか。
二重の意味で頭を抱えながら、私は作りおいていた麦茶をヤカンから直に飲む。ほんの少しだけ、酷い体調が和らいだ気がした。アイツにも飲ませてやるかと破壊を免れていた湯呑に茶を注いで部屋に戻る。服に袖を通した寅丸が、神妙な顔をして正座をしていた。
「麦茶」
「……頂きます」
「えっと机は……あぁ、アレか、木片が庭に転がってるっすわ……しゃーない、ココに置いて下さい」
箪笥の背板の上にヤカンを置く。渡した湯呑の麦茶を一気に煽った寅丸が、渋面を拵えて頭に手をやりながら、ヤカンに手を伸ばして二杯目の麦茶を注いだ。
「さて、どこから確認していきますかね……」
「お子さんの名前……でしたっけ?」
「それは後で……つーか全部終わってから……」
「私は男の子だったら『酔った勢い』で、女の子だったら『一夜の過ち』にすべきだと思います」
「その件はもう私がモノローグでやったから」
「後世に禍根を残してはなりません。子供に付ける名前は、親の希望で在るべきです」
「そんな希望を託したら子供がグレるわ」
「しかし妙だとは思いません?」
湯呑を背板に置いた寅丸が、私の腹に目をやる。こめかみを抑えている辺り、コイツも二日酔いの頭痛に苛まれている事は間違いない。
「妙とは?」
「仮に私が貴女とセ……本当に間違いを起こしてしまったとします」
「え? 何を言い掛けたんすか?」
「しかしそれにしては――」
無視かよ。
「……一夜でそんなにお腹、膨れますかね?」
「む……」
言われてみれば、確かに。
その辺りは妖怪の面白体質の事。幾らでもビックリ理論で説明は付きそうな気はするけれどしかし、少なくとも白狼天狗はそんな早産じゃない。卵生の烏天狗ならばまだしも、白狼天狗はベースが哺乳類だ。寅丸の疑問も、もっともなのかもしれない。二日酔いかつこんな混乱の中でそれに気付くとは。コイツは意外に頭が回るのかも知れない。
「だからつまり、私は無実だという事になりませんかね!?」
うわ必死だ。眼が血走ってさえいる。
違ったわ。頭が回るんじゃなくて、自分の危機だから懸命になっているだけだわ。
「いやでも私も昨日まではこんなんじゃ無かったし……他に身に覚えもないし……」
「貴女の潔白は判りません。うっかり発情期になって我を忘れ、その辺の誰かと一発決めてしまったのでは?」
真剣な表情をしながら拳を握り、親指をグッと人差し指と中指の股に挟む。何でコイツは千年超も僧をやってる癖に、こんな俗なサインを知っているのだ。
「この野郎、人をビッチ呼ばわりとは……アンタ本当に僧なんすか?」
「人じゃないでしょう。獣でしょう。妖獣でしょう。ならば本能が爆裂して過ちを起こしてしまっても、不思議ではありません」
「アンタしたり顔してるけど、アレっすからね。それ見事にブーメランっすからね。自分を棚に上げてるんじゃないっすよ?」
「て言うか我々は同性じゃないですか。端から子供ができる訳ないでしょう」
「まぁ、普通はそうなんすけど、ここは幻想郷っすからねぇ……何が起きても不思議じゃないし、アンタはまがりなりにも神様っすから、その辺の制約とかポーンと飛び越えてきそうっすよね」
「知りません。私はそういうの疎いキャラで通ってるんです。スキマとか薬とかキノコとか、そんなご都合アイテムとは無関係です。健全かつ無知な爽やか系女子なんです」
「うっせぇマッサージでもされてろ」
「ともかく――」
咳払いをした寅丸が私から目を逸らして我が家の惨状を眺め、そして眉間を指で揉みながら溜め息を吐く。
「我々に昨日何があったのか。それを知らない内に議論をした所で、徒労なのではありませんか? 因みに私は貴女に豆腐の出る居酒屋に『騙されて』連れ込まれた以降は、覚えてないのですが」
「……似たり寄ったりっすねぇ」
肩を竦める。仮にも妖怪二匹。しかも私は末端ながらも天狗の一種。にも拘らず、前後不覚に陥って、記憶がブッ飛んでいるのだ。
普通に飲んだだけじゃ、こうはなるまい。
何かが起きたのだ。豆腐の美味い居酒屋での会食以降に。
「――ま、順当に攻めるなら、昨日の居酒屋で情報を得る所からっすか?」
「そうなるでしょうね……善は急げです。移動しましょう。流石にこんな所を誰かに見られてしまったら、少なくとも私は死にます。社会的に」
「それには同意しときますわ。そんじゃ、行きましょ――」
と、どちらからともなく立ち上がろうとした途端、庭のある方の障子が勢いよくバンと音を立てて開いた。
肝を潰して私ら二人が音のした方を向く。そこには死んだ魚の様な瞳をしたナズーリンが仁王立ちをしていた……。
ん? 何で私はコイツの名前を知ってるんだ? 初対面の筈なのに――?
「――ナ、ナナ、ナ……ナズーリ、ン……?」
浮かしかけた腰を抜かし、定位置からずれた畳の上に尻餅を突く寅丸。道端の生ゴミを見下ろす視線で彼女を見つめるナズーリンが、フ、と溜め息を吐く。
「……きゃる~ん。ご主人さまぁ。ナズーリンだにゃん。ナズはご主人さまの事、めっちゃめっちゃ探したんだにゃん」
「ぶっ!!!!!!!!????????? んん!!!?????」
棒読みで紡がれたナズーリンの萌え台詞を耳にした途端、寅丸は驚愕の余りに噴き出し、目玉が零れそうな程に目をかっぴらいて、およそ過呼吸に近しい症状を呈する。
ドブ河の腐った様な眼のまま、両手でぶりっ子ポーズを披露するナズーリンは土足で我が家に侵入し、私と寅丸を交互に見たかと思うと、大きな大きな溜め息を吐く。
「ぷぅ。ご主人さまぁ。ナズはプンプンだにゃん。痴態も程々にして欲しいにゃん。飲酒と食肉の黙秘以上の心労を、きゃわゆいナズに強いないで欲しいにゃん。聖が心配してるにゃんにゃん。ナズが毘沙門天様に黙っておく範囲にも、限度って物があるって知って欲しいのにゃん。酔いが覚めたのなら、ほら、早くナズから持ち去ったアレを返すのにゃん」
あ、やっぱり寅丸も猪肉を食ったか。
なんて思考を、空々しく意識の端で認識した。
「ナ、ナ、ナズーリン……です、よ、ね?」
「はにゃ~ん。ご主人さまは脳味噌だけじゃなくて、目まで腐っちゃったにゃん? つべこべ言ってないで、アレを返すにゃん」
「――『アレ』? アレとは、何です、か……?」
「は?」
ナズーリンが静かに湛えていた怒気が漏れた。怖い。萌え台詞からガチギレへの転調は、寅丸は言わずもがな、私をも震え上がらせる。
「君……ご主人さまは何を言ってるんだ、にゃん。すっとぼけてるんじゃないぞ、にゃん。私にとってどれ程ペンデュラムが大事か、ご主人さまは知っているはずだろう、にゃん。アレが無いとダウジングができないのも知っているだろうがにゃん。それで私がどれ程ご主人さまを探すのに骨を折ったか、って話だにゃん」
眉根に深い皺を寄せ、寅丸に詰め寄るナズーリン。耳も尻尾も、どう見てもネズミのそれだ。なのに、無理をして語尾に『にゃん』を付ける彼女の様子はどう考えてもアンバランス。そしてだからこそ、その矛盾を孕む彼女が意味不明過ぎて恐ろしかった。
「……えーっと、随分エキセントリックな部下をお持ちっすね……はは……」
ドン引きしつつ寅丸を見た途端、ナズーリンはキッと私を親の仇でも見る様なえげつない視線で睨んでくる。
「張っ倒すぞにゃん。もみもみの命令じゃないかにゃん。律儀に守っているナズに対して、その言い振りは殺意以外の何物も抱けないにゃん」
「へ? 私?」
私がコイツに命令? さっぱり意味が判らん。大体初対面の筈じゃないか。
だが私は、目の前の不思議ちゃんマウスの名前を知っている……。
……マジで昨日、何が起きたんだろうか。
「その……ナズーリン?」
「何だいだにゃん。ご主人さまぁ。ペンデュラムを返してくれる気になったのかにゃん?」
「あー……それ、もう止めても良いっすよ?」
頭痛が強まった気がした私は、眉間に指を当てつつナズーリンに言う。二日酔い明けで痛みまくる脳みそに、萌え萌え語は辛い。幾ら心の籠っていない棒読みでも字面的に、頭が今よりおかしくなりそうだ。
するとナズーリンは、両手で作っていたぶりっ子の構えを解き、私を見降ろす。
「――それは、昨日の契約を反故にしても構わない、と取っても良いのかい?」
「契約? ……知らないけど、それで良いっすよ」
「そうかい。それは良かった」
ホッと安堵した様な表情を見せて口角を上げたナズーリンは寅丸へと向き直ったかと思うと、矢庭に彼女の顔に殴り掛かる。
グーで。
「っぶわ! 痛い! 痛いですナズーリン!」
「ちょちょちょちょちょ!!! 待った! 待った!」
尚も寅丸を殴ろうとするナズーリンを、私は慌てて羽交い絞めにする。ネズミの妖獣だけあってか、力はそんなに強くなかったのが幸いな所。殴られた寅丸にも、特に怪我は無さそうだった。
「君は馬鹿なのか!? 馬鹿だろ! 確信した! 君は大馬鹿者だ!」
肩で息をするナズーリンが吐き捨てるように言う。私同様昨日の記憶が皆無の寅丸は、殴られた頬に手を当てながら、困惑するばかりだ。
「一体どこの馬鹿が、ベロンベロンに酔っぱらった本尊に帰依したいと考えるんだ!? 目的を忘れたとは言わせないぞ! プロモーションとしては最悪だ! 君の痴態を見せつける事が、今後の信者獲得にとってどれ程のマイナスになる事か! 毘沙門天様に申し開きができないじゃないか! 私の身にもなってみろ!」
激昂したナズーリンの言い分を聞きつつ、私は昨日の予測が正しかった事を知る。やはりコイツ等は、妖怪の山にも手を広げるつもりだったらしい。
ただそれはどうでも良い。
今となっては何の関係も無い。
重要なのはナズーリンが、どうやら我々の記憶に無い昨日の事を、知っているという事だ。
「どう、どう、ナズーリンさん。ほら、落ち着いて」
寅丸を酒席に連れて行った私にも、彼女の激昂が向けられるかなんて戦々恐々としつつも言うと、存外ナズーリンは素直に私の腕の中で暴れるのを止める。
「……何だい。私は当然君にも怒っているぞ犬走椛。ホイホイ誘いに乗ってしまったご主人が一番悪いが、それでも君がご主人の素性を知りながら酒場に誘った事は、確かなんだからな」
手を離すと私に向き直ったナズーリンが、大いに眉根を潜める。
あー、やっぱ怒ってるわー。
「えーっと、その事なんすけどね……実は寅丸さんも私も、昨日の事をさっぱり覚えてなくてっすね」
「それが? アホみたく自分のペースも考えずに酒を飲んで、それで前後不覚に陥っていたのだから許せと? 冗談じゃないぞ。当然君も殴るつもりだ。顔はあれだから、腹パン一発で勘弁してあげよう」
「いやぁ……お腹は今ちょっと……駄目な理由が……」
「駄目な理由……?」
怪訝そうな表情で、ナズーリンが私の腹部をチラと見る。先ほど寅丸に見せつけたまま服の乱れを直していなかったので、ふっくらした我が腹部は露わになっている。
それを見た途端、ナズーリンの顔色がサッと青褪めた。
そりゃあもう、引き潮みたく。
「と、と、寅丸星ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!!!」
跳ねるように寅丸の襟首を掴んだナズ―リンが、それを盛大に前後に揺すぶる。呆然としている寅丸の頭は、首が座っていない赤子みたいにガクンガクン揺れた。
「や、やってしまったのか!? やってしまったのか!? 君か!? アレの生産元は君か!? 毘沙門天代理でありながら、君は命のリレーに加わってしまったのか!? ラブをメイクしてしまったのか!? ベイビー生誕のプロセスを踏んでしまったのか!?」
「違います! 違います! 違うんですホント!」
「じゃあアレは何だ!? 昨日はあんなじゃ無かったぞ!? 私を蹴散らした後でしっぽりふけ込んだ以外に説明ができるのか!?」
「あ、ちなみに我々は全裸で目が覚めたっす」
私がダメ押しの一発を送ると、振り向いたナズーリンの目が真ん丸になる。
よっしゃ、取り敢えず認知は済んだ。
「ハイ決定! 確定! 犯人は君だ! デデーン! 寅丸! アウトー!」
「誤解です! 誤解ですぅ! 誤解なんですよぉおおおおおおお!!!! うわああああああああああああん!!!!!」
あ、泣いちゃった。
よしよし、今は泣いても構いませんよ。あ・な・た。取り敢えず養育費の為にも、親権はぶんどっておこう。お寺は結構繁盛してるみたいだし、そこそこ引っ張れるでしょう。もうちょっと広い家に住まないと、子育ては無理だろうなぁ。
「だ、だ、大体一晩であぁはなんないじゃないですかぁ! それに我々は同性ですぅ! 物理的に無理なんだから、責任の取り様も無いですよぉ!」
泣きじゃくりながらも、しっかり自分の弁護を図る寅丸。ちぇ。なし崩しに事が進むという訳にも行かないか。事実それは正論だし。
「じゃあ、なにか! 昨日一緒に居た河童の仕業とでも言うつもりか!? 尻小玉が追加されたなんて言い張るつもりか!? そんな言い訳が通用すると思うなよ!?」
……ん?
ナズーリンの口ぶりから、私は何か思い出せていない情報の一端に触れた気がした。
「――ちょっと? ナズーリンさん?」
「何だい!? ちょっと待ってろ! この大馬鹿者は熨斗を付けて贈呈するから!」
いやまあ、私が欲しいのはコイツじゃないんだけど。
なんて思いつつも私は、ナズーリンを寅丸から引き放した。
「ちょっと昨日の話、教えて貰っても良いっすか?」
◆◆◆
ナズーリンが我々を見つけたのは、酒場を後にした我々が千鳥足で大通りを歩いている所だったという。
すっかり酩酊した主人を見つけて叱りつけようとした所、酔った私がいちゃもんを付けて組み敷き(山岳警備の職業病とでも言うべきか。酔っていても尚、ナズーリンを捻じ伏せるのは簡単だったらしい。複雑な気分だ)、寅丸の痴態を黙認する事と、萌え萌え語で喋る事を強制したのだとか。
それを順守させるために寅丸が人質(人じゃないけど、その時の彼女はそう言ったそうだ。正しくは物質? いやいや)として、ナズーリンのペンデュラムを強奪。
その後は、妖怪の山の夜へと消えて行ったとの事。
成程。全っ然覚えてない。
家の中をざっと探したけれど、ナズーリンの言うペンデュラムは見つからなかった。昨日身に付けていた服が無いので然も有りなんという感じだったけど、これにナズーリンは再度激怒した。
「ペンデュラムは毘沙門天様からの支給品だ! 無くしたと報告するなら、どうあっても君の悪行は話す事になる! 諸々が解決するまでは帰って来なくていいからな! もしもの時にはしっかりと責任を取れ!」
そんな言葉をありがたく頂戴し顔が真っ青に染まる寅丸を連れて、私は登山道を歩いている。目的地までは飛べば一発なのは判っちゃいるけど、体調が芳しく無さ過ぎて飛ぶのは勘弁願いたい。最悪戻しそうだ。吐瀉物を空から散布して、痴態を更に追加するのは私も寅丸も望んでいなかった。
ナズーリンとは、凄惨極まる我が家で別れた。
もしかしたらあの瓦礫の中にペンデュラムがあるかも知れないのでそれの探索と、ついでに部屋の掃除もしてくれるという。果てしなく良い子だ。昨日はゴメン。覚えてないけど。
「――しかしこれは、一体誰をどう殺せば、こんな状況になるんだ」
壁一面に広がった血痕を呆然と見ていたナズーリンを思い出す。家中を元通りにするには、雑巾が百枚単位で必要かもしれない。
「……良く判りませんが、それ、血じゃないんじゃないんですかね?」
やつれた寅丸が、麦茶を口に含みながら言っていた。確かに血の臭いは皆無だった。しかしながら現に汚れているのは間違いなく、その出所も判らない。
結局私たちは昨日仕出かした事を、順に思い出して行くしかないのだ。
思い出せなかったとしても、知って行かねばならないのだ。
責任やら義務やら、お利口な事を言うつもりは無い。純粋に、知らなきゃ今後の生活が成り立たないという必要に駆られているだけなのである。
で、私たちが現在向かっているのは河童の住処だ。
ナズーリン曰く、昨晩の私たちにはどうやら連れが居たらしい。二人で酒池肉林を味わっていた記憶以降はぷっつり途切れているので何とも言えないけれど、聞く限りどうもそれは河城にとりだった様なのだ。
身内同士籠りがちな河童が、わざわざ飲み屋街まで出て来るなんて……とは思ったけれど、泥酔していた私が何を言っても説得力はない。もしかしたら使いか何かを出して強引に呼び寄せたのかも知れないし、本当にたまたま彼女が飲み屋に来たのかも知れない。どうあれ、その手掛かりに縋る以外に選択の余地は無かった。
「しかし何で、記憶がぶっ飛ぶまで飲んじゃったんすかね?」
手慰みにスナイパーライフルを弄りながら私は隣を歩く寅丸に言う。出歩く時には帯刀するのが、白狼天狗としてのささやかな矜持なのだけれども、愛刀も盾も無いので仕方なく代用している。まぁ、殺傷能力はこちらの方が遥かに上で哨戒としちゃ過剰防衛気味ではあるし、ぶっちゃけ重いのだけど、手ぶらで歩くよりはマシだった。
「……余程強いお酒じゃ無きゃ、私だって前後不覚になったりしないとは思うのですけれどもね」
「私だってそうっすよ。これでも天狗だし……ただ、あの店にそんな強い酒の蓄えは無いと思うんですがねぇ」
「薬でも盛られたとか?」
「誰が? 何の為に?」
「それの為に」
寅丸が私の腹を指す。言わんとしてる所に気付いてゾッとする反面、コイツはどうしてそんなエゲつない想像ができるんだ、なんて、またしても仏教徒としての彼女を疑った。
「うへぇ。考えたくないっすね……じゃ、何でアンタは無事なんすか? ……成程、またアンタへの疑惑が前進しましたよ……」
「な、ど、どういう事です!?」
「本当は記憶を無くしてるのは私だけ。アンタは一緒に記憶を無くした振りをしてる。そうやって被害者を装う事で、自らの犯した過ちを誤魔化そうと――」
「ちが……! 違います! 違います! 断じてそんな事はありません! 神に誓ってそんな悪行を働いたりはしません!」
「つってもアンタだって、代理とは言え神でしょ? じゃ、その宣言は信用できないっすねぇ……そりゃ、自分に何を誓った所で、破った時の免罪符は発行自由じゃないっすか」
「で、ですから我々は同性で……! そして私は、一晩でそこまでお腹の子を成長させる術なんか何も――」
「あ、見えて来ましたよ。にとりの家はあの辺っす」
弁解をぶった切って、スナイパーライフルを肩掛けにしつつ、枯れて尚も枝に引っ付いている未練がましい木の葉の隙間に窺える沢を指差すと、寅丸はあぅあぅと何も言葉を重ねる事ができなくなり、しどろもどろになる。
清廉な仏教徒を装う反面、しっかりと妖獣としての本能を残している以外に気付いた事。
コイツ、弄ると面白い。
「じゃ、降りますわ。話つけて来るんで、アンタはここで待っててください。河童さん方は人見知りが激しいんでね」
「えぇ、気を付けて下さいね。お腹に障らない様に」
「む……」
なんとなんと、ここに来ての優しさアピール。
不覚にも少し見直してしまったじゃないか。無かった事にしてくれと叫んだ先ほどの事が嘘の様だ。ギャップ萌えか。いや違う、私は萌えてない……誰に対する反論だ?
「――ま、何て事は無いっすよ」
言って私は登山道から飛び降り、滑空するムササビの感覚で両手を広げながら風を切る。幻想郷の妖怪の嗜みとして空を飛ぶ能力を有している私でも、烏天狗じゃあるまいし自由落下の速度まで加速すれば制御は不可能で、そんな高速での移動は中々清々しい物がある。スナイパーライフルを携えながらのスカイダイビングとは剣呑な話だ。
さて何事もなく着地を決め込んだ私は、透き通った水底へと一瞥をくれてから沢の岸に誂えられた呼び鈴を鳴らす。住処が水底にあるんじゃ、河童以外の種族はドアをノックする事が叶わないが、そこはギークである河童の事。しっかりと対策は機械仕掛けに済ませている。各住居用に一つ一つ呼び鈴が作られていて、それを鳴らせばあちらさんとの会話が可能なのだ。無線とかいう技術らしい。
「……ふぁい」
ザラザラとした機械音のフィルターを介して、にとりの眠たげな声が聞こえて来る。如何にも夢現なのは、寝起きだからだろうか。
「あー、椛だけどs」
「ひゅい!?」
挨拶も尻切れトンボに、あざと過ぎる驚嘆が耳を劈いた。やべぇ。この反応。私は彼女にも何か変な事をしてしまったのだろうか。どっから謝って行けば良いかなと考え始めた私の思考に「――哨戒隊長殿!」と畏まり切った聞き覚えのない呼称が差し込まれ、浮上途中だったごめんなさいが雲散霧消した。
……え? 今なんつった?
「隊長殿! よもや貴女の様なお方にお越し頂けるとは、このにとり思いも寄りませんでした! 身に余る僥倖にございます!」
「にとり?」
「ああ、みなまで言わないで下さいませ! 聡明にして豪胆! 強大にして慈悲深い事極まりない! 如何なる美辞麗句も、貴女の前では霞んでしまいますもの! そのような貴女からの玉言、賜るには心の準備が必要なのですから!」
「にとり?」
「よもや私めに御用なのですか? あぁ、何と恐れ多い! 河童世界広しといえど、その様な栄誉に預かれる幸福な者など居ますまい!」
「河城さん?」
「少々お待ちを! 親を殺してでも貴女の前に馳せ参じますので! すぐに!」
「いや親は大事にしろよ」
「あああああ~~~~~~~~勿体ない! 貴女のお言葉を私なぞの鼓膜と脳に捨て置くなど! 今すぐにでも蓄音機を作り上げ! 貴女の玉言を余すところなく後世に伝えたい所なのですが! 貴女の前に参上し! 靴を舐める事が先決かと存じますので!」
「…………」
うわー。
どうしよう。
私は何をにとりに強要してしまったのだろう。
いやこれでも私たち、結構気心知れたお友達だった筈なんだけどなぁ。将棋だって何百戦ともなく一緒に打った間柄だというのになぁ。親友が遠くへ行ってしまった寂寥感だ。遠くへ追いやってしまったのは私なんだろうなぁ。サノバビッチ昨日の私。
自己嫌悪の念に苛まれていると水面が爆ぜ、飛び魚みたいな大ジャンプを決めたにとりが私の目の前に降って来る。これ以上ないって位に部屋着――というか寝巻だった。コイツこんなシースルーなネグリジェ着て寝てるのか。女子力は高いが風邪引きそうだ。そんな慌てふためいた様相にもかかわらず、いつもの帽子は忘れてない所は流石といった所だった。
「……その、にとりさん?」
「うん、おはよう。椛」
…………………………………………。
……………………。
…………。
あれれー?
何とかして靴を舐めさせるのを窘めようと考えていた私の思惑は盛大に外れ、目の前の少女はいつも通りのにとりだった。
突っ込み所が多すぎる。
いまさら多重人格者だったなんて痛い設定を付け加えられても……その、困るぞ。
「アンタ大丈夫なん? 良く動けるね? 二日酔いとか無いの? いやぁ、天狗様はお酒に強くって羨ましいねぇ。怖いくらいだ」
「……あぁ、いや、何と言うか……その……隊長がどうこうとか言ってたけど?」
「へ? 嫌だなぁ。まだ酔ってんの? 流石に私は『あの』ごっこ遊びに付き合う気は無いよぅ。仙川の奴が一緒に居たから一応話は合わせたけどさ。アイツ怒ると怖ぇんだ」
カラカラと笑うにとりを見て、私はもうこのまま心臓が止まってしまうんじゃないかと思う位に安堵する。良かった。私は酒の勢いで友達を失わずに済んだか。
しかしながら――
「……せんかわ?」
知らない名前だ。
もっとも、私だってそんなに河童の中で顔が広いって訳じゃないけど。
「うん。仙川。忘れちゃった? 昨日はあんなに仲良さげだったのに」
「あー……それなんだけど。実は私、昨日の記憶が――」
「お、気に入ってくれてるみたいだね。それ」
私の言葉を遮ったかと思うと、にとりは嬉しそうに私の手元を指差している。
いや、手元というか……スナイパーライフルを、だ。
「良いでしょそれ。『山組』の奴らにも好評だよ。娯楽ってのは大好きだよ。良い金になってくれるもんね」
「……これは、にとりが?」
「んー、まぁ、そうだよ。生産元は……って言うか、今更だなぁ……記憶喪失? いやはや、然もありなん、かな……『あんなん』飲んじゃ、流石の天狗も形無しだろうしねー」
「ちょちょちょちょちょちょちょ、にとり……何? 今なんて言った?」
思わずスナイパーライフルを取り落として、私はにとりの肩を掴む。スナイパーライフルのぞんざい過ぎる扱いにびっくりしている彼女の表情すらも気にする余裕がない。
どうやらにとりは、私の知らない事を沢山覚えてくれているらしい。
スナイパーライフル然り、記憶を無くしたこと然り。
これは一気に全部が解決してくれるのか。やはり持つべき物は友。私の、最高の友達。今なら私は例えにとりが概念に成り果てても愛せる自信がある。
「な、なに? なに? 椛さん? 目が怖いよ?」
「ゴメンにとり! 順に! 順に説明してくれ! 昨晩のことを! 私なんにも覚えてないんだ!」
土下座をも視野に入れた形振り構わない懇願に、にとりは多少、というか凄くドン引いた様子だったけれども、頬を掻きつつ「うーん……」と昨日の記憶を探り始めてくれた。
「そーだねぇ……まずはアンタに呼び出された所からかな?」
「呼び出したのか! 私が! ゴメン! それで!? 続けて!」
「いや全然良いんだけどさ……居酒屋の丁稚が訪ねて来てぇ、アンタが見慣れない奴と飲んでて私を呼んでるっつーからぁ、そんじゃ酒でも持ってってやるかと思ってぇ、でも手元には洒落で蒸留した『スピリタス』しかなくってぇ……」
「へ? なに? す……?」
「いや、洒落だったんだよ? マジマジ。大マジ。あんな化け物みたいな純度の酒、持ってった所でまさかラッパ飲みするとは思わないじゃん? それに死ぬよっつっても聞かないし? お連れさんまで飲み出すし? ……ところでアイツ、寺んとこの本尊だよね? お酒なんか飲ましちゃって良かったの?」
「それは今は良い! 今は良いから! そ、それで!? そのスピ……何とかってなに!?」
「だからお酒だって。つっても、度数が九十幾つっていうアホみたいに高純度なアルコールだけどね。それをあんな飲み方しちゃあ、記憶が無くなっても無理はないさね」
カラカラ笑うにとりとは対照的に、取り敢えず私は絶句する。
一般的な日本酒なら、アルコール度数は十度かそこら。
単純に考えて九倍の酒をラッパ飲みとは。
アホか。うん、アホだな私。なるほど。居酒屋に入った前後の記憶が無くなってしまってるのは、にとりが持参したお酒のせいらしい。それは判った。幾ら天狗が酒豪とは言え、角の生えたどこかのお偉いさんと言う訳でも無し。限度はある。
何というけったいな代物を持って来てくれたのだこの親友は……いや、結局私だな。にとりに罪はない。無理な飲み方を窘めてくれた様だし。あぁ、頭が痛いなぁ。二重の意味で。
ただ。しかしながら。
それで疑問がまるっと解決してくれたと言う訳では断じてない訳で。
「――そ、それから……!? それから、どうしたんだ!? 私らは!?」
藁にも縋るような心地で、私はにとりの肩を掴んだままに先を促す。藁にも縋るっつったって、その対象が他種族を水の中に引きずり込む妖怪という所は、我ながら如何ともし難い矛盾を感じなくもないのだけれども、まぁそんな言葉遊びに興じて笑っている余裕は無い。
聞かなきゃいけない事は、まだまだある。
血糊とかペンデュラムとか。スナイパーライフルとか私の仕事道具一式とか。
お腹の中のベイビーとか。
「わ、判った判った……そんな急かすなよぅ。アンタ目が血走ってるよ。怖い怖い……あー、それで、そうさねぇ……持ってったスピリタスをアンタらが空にしちまった後で居酒屋をお暇してぇ……」
「それで……ネズミの妖怪に会った?」
「お、そうそう。なんだ、まるっきし忘れちまった訳じゃないんだ?」
「違う違う。ソイツにはさっき会ったんだ」
「あらま、そっかー。ご愁傷様だねぇ。怒ってたっしょ?」
「そりゃもう、すんごく……それは良いんだ。で? そこから?」
「うん……で、ネズミを椛がのしちまった後で、私がアンタら二人をここに連れて来たんだわ」
「……なんで?」
「なんでって、そりゃあ――」
――と。
にとりが小首を傾げたその途端の事だった。
ざばあ、と、沢の水面が爆発でもしたかのように大きな水柱を空へと伸ばしたかと思うと、ハッとなったにとりが肩に乗せていた私の両手を振り解き、即座に膝を折る。丁度私に跪く様な体勢へと移行するのに、数秒も要しない俊敏な動きだった。
……え? 何が起きたん?
呆気に取られた私の疑問は、にとりの横へと降って来た一匹の妖怪の姿によって解消される。迷彩柄の服を纏い、明るめの金髪を肩までで揃えた河童と同種と思しき彼女は、にとりの横で私に跪いたかと思うと、何の躊躇いも無く私の下駄にキスをしようとして来た。呆気に取られている暇すら無かった。
「ちょちょちょちょ!!!! マズイって! 止めて!」
足元に迫って来た唇から逃れる様に下駄を引く。私の足に逃げられた迷彩服さんは、どこか凛とした表情を残念そうに歪め、「――哨戒隊長殿の命ならば、従う事に疑念は御座いません」と呟く。
……あー。
この不思議ちゃんが誰なのかは、聞くまでも無いな。
にとりが突然跪いた事といい、服従表明に対する躊躇いの無さといい、若干性格のきつそうな顔つきといい、多分この子が仙川さんなんだろう。なるほど怒ったら怖そうだし、私の事を哨戒隊長とか呼んで来るし。
「しかし靴を舐められないのならば、私は如何様にして貴女への服従の念を示せばよろしいのでしょうか……服を脱ぎますか? 犬の真似がよろしいですか? 一言言っていただければ、すぐにでも」
「…………」
怖ッ!
怖い怖い怖い! 眼がマジだ! この子マジで私が言ったら何でもしちゃうよ!
何だこの狂信的な態度! 私はこの子に何をしてしまった!?
「こ、こほん……」
咳払い。感情をニュートラルへ。
「取り敢えず、何もしなくて良い。良いね? ついでに立ってくれ。話し辛い」
「逆立ち……でしょうか」
「何でそうなる」
因みに仙川さんはパンツスタイルじゃない。小ぶりなスカートを履いている。必然彼女が逆立ちをすれば、不可視であるべき桃源郷が丸出しになってしまうだろう。
何故この子はこんなにも辱めを欲しているんだ。
これじゃ狂信じゃ無くてただの変態だろ。
「――椛さああああん!!! 何があったのですかぁあああああ!?」
仙川さんのぶっ飛び具合に呆然としている私の耳に、寅丸の声が届く。頭上を見上げると彼女が先ほどの私同様に自由落下の様相で降って来ていた――
……ん?
…………んん?
不味くね?
これって私に激突するラインじゃね?
あのスピードじゃ咄嗟に身をかわすのは無理なんだけど。少なくとも私は。毘沙門天代理は私よりも空中での動きに長けているのか……あ、違うわ。あのバカの顔が引きつってるわ。後先考えず飛び降りたせいで、誰かにぶつかる危険性を全く考えてなかった顔だわ。良いから速度落とせよ……あらら、駄目だ。ありゃ、パニクってるな。もしかして飛ぶのに慣れてないんじゃないか? 長い事本尊やってたみたいだし、そりゃ身体は鈍るわなぁ。
あー、ぶつかる。確実にアイツの超々高度フライングボディプレスを喰らう羽目になる。参ったな。今や一人の身体じゃないんだけどな。つーか仮にそうじゃ無かったとしても、普通に重傷っつーかぺっちゃんこルートだな。ハッハッハ。
思ってる場合か!
ヤベェヤベェヤベェ死ぬぞ! 私死ぬぞ! 毘沙門天代理のうっかりで死ぬ! 殺される! 落石事故よりもアホな死に方だぞ! 末代まで笑われるわ! いや私で末代だ! うわあああああああああああご先祖様御免なさい! 誇り高き犬走姓白狼天狗の皆々様! 愚かな末代の死を許して下さい! あの世で怒らないで!
――さて。
事故った時は周囲の景色がスローモーションに見えるってのは御定説だ。アドレナリンどうこうがまさか妖怪である私にも適応されるとは思わなかったけれど、私は全く持ってどこかのメイドみたいに時間感覚が変動した世界を視ていた。
だから視界の端で僅かに見えた『彼女』の行動も、つぶさに観察する事ができた。
『彼女』――仙川さんは飛び降りて(というか墜落して)来る寅丸を視認するや否や、私が足元に放ったばかりのスナイパーライフルに飛び掛かったかと思うと、ローリングを経由して掴んだ銃を上空へと構える。
「――Aim(構え)!」
堂に入った動作だった。
体幹には些かのブレも無く、片目をつむって照準を合わせる様は如何にも冷静沈着で混乱も躊躇も皆無。引き伸ばされた時間の中で何をする事もできず、私は棒立ちのままで視界一杯に膨れ上がる寅丸の姿と、目の端に辛うじて窺える仙川さんを見ていた。
にとりが両目を見開いている。
私は口を開く事もできない。
「――Shoot(撃て)!」
ダン、と。
鼓膜を撃ち震わせる爆音がした。
生命の危機にあっていつもより鋭敏になっていた私の『眼』が、赤い流線型の何かが寅丸目掛けて一直線に進むのを視た。その赤い何かは寅丸の腹部を寸分の違いも無く捉え、真紅の液体が彼女の腹部で破裂する。
破裂した冷たく粘性の紅が、
私の頭上から降り注いで来る。
着地を意識の彼方に吹っ飛ばしていた寅丸の身体は、彼女を抉った横方向からの力に押されて軌道を逸らし、私の身体から沢の水面へと最終目的地を移行させる。寅丸の肢体は仙川さんが出現した時と同じような水しぶきに飲みこまれ、赤く染まった私は『眼』で『視』た光景の全てを信じ切れずに硬直する。
ぎこちなく仙川さんへと視線を移すと、
彼女が構えていたスナイパーライフルの銃口から、一筋の煙が昇っていた。
「……手荒な真似をしました」
「ひゅう……流石仙川。『山組』狙撃グループのエース」
「エースだなどと……烏滸がましい。隊長殿と比すれば、私などは蟻だ」
真っ赤な液体に塗れた私を無視する様に、
撃墜され、沢に落とされた寅丸を気にも留めず、
二匹の河童は重大な空気の欠片も無い朗らかな会話をする。
――空白になっていた私の意識が、徐々に徐々にアラートモードへと移行する。
困惑。
焦燥。
恐怖。
恐慌。
身体の硬直が薄れて行き、早鐘の様に鳴る心臓からは悍ましき感情が激流のように溢れ出す。現実を拒絶する反射神経を経て、私は漸くあるべきリアクションを思い出す。
ぽっと出のオリキャラが、五ボスを射殺する。
そんな事が起きて堪るかと思ってらっしゃるでしょう読者の皆さんも、ご唱和ください。
せーのっ
「――う、うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」
水面に浮かび上がって来た寅丸の元へと駆け寄る。太ももよりも深くなったところで泳ぎのモーションへと入り、ぐったりとした彼女の身体を抱きすくめた。
「寅丸さん! 寅丸さああああああん!」
貸し与えた服の腹辺りは真っ赤に染まり、それが沢の水へと溶け出て赤い絹糸が揺蕩っている様な光景を生み出していた。刹那のブラックアウトを経験していたらしき寅丸が、私の呼びかけで薄らと目を開ける。
「しっかりして下さい! 生きてますか!? 自分の事が判りますか!?」
「ぅ……わ、我は李徴……臆病な自尊心と尊大な羞恥心により――」
「ボケてる場合かああああああああ!」
兎にも角にも寅丸を岸へと引っ張る。彼女をけん引する軌跡はみるみるうちに赤く染まり、そんな非現実的な光景に私は戦慄する。それとは裏腹に畔に佇む二匹の河童は、『何やってんだコイツ?』と言わんばかりに怪訝な表情をしていた。
「……急にどうしたん? 椛?」
「こら河城。幾らお前が予てからの友人とは言え、隊長殿に気軽な言葉を吐くのは感心しない。山童全体を敵に回すのは嫌だろう? 私には判っている。隊長殿はエチュード(即興劇)にも長けてらっしゃるのだ。いやはや天は二物を与えずとは、本物の天才を前にすれば斯くも当て嵌まらんものか」
「どうでも良いけどアンタそのキャラ色々と怖いよ。左手が猿だって言い張ったりしないでよ?」
「そこの河童二人! のんきに喋ってる場合か! ふざけんな!」
寅丸を畔まで引き上げつつ、二人に一喝する。にとりも仙川さんも、ほとんど恐慌状態に陥っている私のテンションの源泉が理解できてないのか、首を傾げて顔を見合わせた。
「いや……そりゃあ、仙川の行動は手荒っちゃ手荒だったけどさ……そんな怒鳴り散らす程じゃないんじゃん? アンタが危なかったし、流石にあの程度で死ぬ訳もあるまいし」
「手荒どころの話じゃないだろ! あの程度!? 普通に致命傷じゃねーか!」
「確かに人間ならば、あの高さからの飛び込みは命に関わるとも聞きますが……その方は毘沙門天代理の虎の妖怪でしょう。ちょっとびっくり、ちょっと痛い程度ではないかと愚考致しますが……」
「ハイ肝心な部分すっ飛ばした!! 仙川さん自分の罪から目を背けたよ!? 狙撃されてちょっとびっくり、ちょっと痛いで済むか! 死ぬでしょ!?」
「ふふ……遺体だけに……ですか?」
「くたばれええええええええええええええええッ!!! 冗談言ってる場合じゃねえんだよおおおおおおおおおおッ!!!!!!」
「――あー……椛、何か誤解してるね……あ、そっか。記憶ないんだっけ? あちゃー……成程ね、昨日の事を覚えてないんじゃ、そうもなるかねぇ……」
「だから河城、敬語を使えと……え? なんて言った?」
仙川さんを無視したにとりは後頭部を掻きながら、ぐったりと倒れ伏す寅丸へと歩み寄った。そして大儀そうに、肩で息をする私の横を素通りして寅丸の服を捲る。大口径の穴が開いているという私の予想に反して、そこにはつるりとした普通の白い肌があるだけだった。穴と言えばへそだけだ。
「…………んん!? あれ!? 無事だ……」
「当たり前じゃん。さっき私も言ったっしょ? 『娯楽は金になる』って。娯楽じゃモノホンの武器なんか作んないよ」
「え……でも……」
確かに血が出てたじゃないかと反論しようとした所で、気付く。
私が浴びた、血だとばかり思っていた赤い液体は、『冷たかった』。
それに血みどろになっていたとばかり思っていた服の汚れも、沢の水に溶けて粗方落ちてしまっている。染みつく様子もなく、まるで夢のように。
「話が見えないのですが、まさか……隊長殿は、昨晩の出来事を忘れてしまっておられるのでしょうか……?」
仙川さんが、恐る恐るといった様子で私の顔色を窺って来る。スナイパーライフルを大事に抱えているその手が、僅かに震えているようにも見えた。
「んー……椛は泥酔してたからねぇ……まぁ、私のせいっちゃ私のせいなんだけどさ」
「し、しかし……彼女は、私の銃を、持って来……え?」
「仙川、アンタが説明してやんなよ――アンタが説明してあげれば、椛も昨日の事を思い出してくれるかもよ? あんなに仲良くしてたんだからさ」
ポン、とにとりが仙川さんの肩に手を置く。受け入れ難いとばかりに弱々しい瞳が一瞬にとりを見、そして私を見た。話を聞く事を乞うて私が頷くと、仙川さんは小さな溜め息を吐いて空を仰いだ。
「――さらば、私の初恋」
「え?」
「……椛さん」
スナイパーライフルを置いた仙川さんは、私のリアクションを無視してその場に正座する。残念ながら私は良く居るラノベ主人公みたいに致命的な難聴症候群に感染してないので、彼女の独り言がハッキリと聞こえてしまった。
――そして彼女は私の事を、
隊長殿とは、呼ばなかった。
「お話しましょう。昨日の事を、知っている限り――」
◆◆◆
ナズーリンと別れ(放置と言った方が正しいが)、にとりの先導で河童の沢までやって来た我々の目的とは、山童たちが熱中しているというサバイバルゲームに混ぜて貰う事だったらしい。
近頃とある事件によって河童の一部が山童へと宗旨替えをし、それによって闘争心が強まった彼女らが興じている遊び。最初こそ白兵戦がメインだったのだが、そのゲームが繰り返されるに連れて、より洗練された戦略、より強力な武器が求められていくようになるのは市場の原理として当然だった。
そこに目を付けたのが、にとりを始めとした道具弄りの大好きな河童たちだ。
彼女たちは銃という概念をサバイバルゲームへと組み込むために画策した。
無論、その方が金になるからだ。
最初こそ巻き添えを危険視して飛び道具の導入を拒んでいた山童たちだが、河童たちは銃弾から危険性を摘み取る事によって、山童たちの忌避感をも摘み取る事に成功した。
それが、私の手にしていたスナイパーライフルの様に、『ペイント弾を発射する銃』の開発だった。
ペイント弾は水溶性かつ自然に優しい素材で作られているらしく、仮に流れ弾が人間に当たっても怪我をしない様に配慮されているとの事。塗料は赤く被弾も即座に判り、当たった当たってないの水掛け論まで解消される。白兵戦以上に戦略や戦局を高度に洗練させてくれる事から、山童たちの間で瞬く間に銃の使用がスタンダードとなって行った。
その功績を居酒屋でにとりから聞いた事で、私たちは河童の沢まで行くことを決めたらしい。これはにとりからの談。
さて河童の沢に辿り着き、夜戦に興じていた山童たちからサバイバルゲームに混ぜて貰った私らの戦力たるや勇猛果敢に獅子奮迅、一騎当千だったらしい(仙川さんの語り口調に熱がこもっていた)。まぁ泥酔していたとはいえ、少なくとも私はこれでも現役の軍人(天狗だけど)なのだ。ゲームに興じる山童とは一線を画すのは然も有りなんといった所だけれども、アマチュアを次々蹴散らすプロって響きは大人気なさ過ぎて死にたくなる。
「お二方は――強過ぎました」
どこか夢のように陶然と、仙川さんが言う。
「『眼』の良さ、鋭敏なセンス、比類なき腕力、そして経験に裏打ちされたその実力は、私のみならぬ山童全体を魅了するに余りある物でした。闘争心が多少上がって日夜サバイバルゲームに精を出しているとはいえ、我々は軍隊としての経験を積んだわけではありません。椛さんと星さんは、そんな軍人かぶれの我々にとって、眩しすぎる憧れと映りました」
「……私も、ですか?」
困ったように寅丸が尋ねる。高々度からの無謀な高飛び込みへのダメージこそ多少はあったもののそこは妖怪。ものの数分でケロリと回復してしまっていた。
「えぇ」
些少の迷いもなく、仙川さんが寅丸へと頷く。
「私が椛さんを尊敬――否、崇拝でしょうか……していましたのは、偏に私が狙撃専門の戦闘員として在ったからです。貴女の強大さは、白兵戦に拠るソレでした」
「は……白兵戦……」
「はい。『アタシに武器なんかいらねぇ全員殺す気で掛かって来い! 不意打ちだろうが騙まし討ちだろうがオールオッケーだ! 良いか山童共! お前らが相対してるのは一匹の妖怪じゃねぇ一国の軍隊だと思え! 国を潰す気でアタシを潰してみせろ!』と。そうおっしゃっておりました」
「誰だよソレもう。今日日ラノベでもそんな反則系理不尽強力キャラ出さねぇだろ」
「…………お恥ずかしい」
耳まで真っ赤になった寅丸は両手で顔を隠してしまった。
もう、何つーか、酒乱ってレベルでは無いな。
お酒って怖いなぁ。
「そして事実、星さんは白兵戦専門の山童を一人残らず打ち据えてしまいました。思い思いの得物を手に手に百人体制で立ち向かいましたが、誰一人として丸腰の貴女に切りつける事すら叶わず――既に山童の中では貴女の名前はカリスマとして認知されており、【冥夜に溶け込む黒き金剛】(ブラックダイヤ・ダーカー・ザン・ダーク)と皆が呼んでいます」
「え? え? え? え!? 何ですかその痛々しいコードネームみたいなの。青臭すぎます。やめて下さい。もだえ苦しんで死んでしまいます」
「しかし、当の貴女にそう呼べと要求されましたので」
「私ですか? 私がそんな事を言ったのですか? どうしてその時一思いに殺してくれなかったのですか? 今死ねばその過去から逃げられますか?」
「………………ひゅー。かっこいー。ブラックダイヤダーカーザンダークさんマジパネェ。クソリスペクトっすわー」
「椛さんホント、ホントやめて下さい。ホントにやめて下さい、もう、もうホント、これだけは冗談じゃ無く、もう、ホントにやめて下さい」
涙目で取り縋って来る寅丸から、私は顔を背けた。
真正面からコイツの顔を見てたら、笑い死にしてしまうと判っていたからだ。
「因みに椛さんにも、我々が付けたコードネームが」
「嘘!? やばい! 嫌だ! 見事なブーメラン! やめて! 死んじゃう!」
「超々距離からの、針穴に糸を通す様な正確な狙撃、誰からも認知のできない完璧な隠密行動、桁違いな情報探査能力。それらを加味して――」
「いや! いやあああああああああ! 聞きたくない! 聞きたくないな!」
「――【全然見つからない糸通し】」
「悪意がある!」
ダサい! ダッッッッッッッッサい! そんなうっかり無くしちゃった道具みたいに呼ばれても! 畏敬とか尊敬とか嘘だろ! 完全に遺失物扱いじゃん! 情報探査能力の要素無いし!
「………………ですって、全然見つからない糸通しさん」
「うわぁ……思った以上にダメージ無いっすわー……『自称』ブラックダイ――」
「それ以上は言わせません!!!」
むぐ、と口を塞がれる。思わぬところで寅丸のトラウマをゲットしてしまった。文々。に売り付ければ結構な額の金になってくれそうだが、連鎖的に私の痴態まで公開されてしまう事になるので諦める他にない。大体アイツの新聞売れてない以上に売ってないし。ばら撒いてるだけだし。
「コードネームがダサい事は兎も角として――」
認識あんのかい。
ダサいと判ってるんなら付けないでよ。そんな呼び名。
「銃の扱いすら知らなかった椛さんの狙撃能力は、しかし神の域に達していると私は思いました。シモ・ヘイヘですら、裸足で逃げ出すのではないかと思う程に。山童の中では最も狙撃の腕に自信があった私ですが、私なんかとは比べる事のできない領域に、昨晩の貴女は存在していました。羨望さえ届かない。嫉妬など烏滸がましい。ヘラヘラと陽気に笑いながら、半里ほども(※1.5kmくらい)先の兵の眉間を撃ち抜く……私は、貴女のその高い能力に、すっかり惚れ込んでしまったのです」
「惚れ込む……かぁ……」
「メロリン・ラブでした」
「なんでキャッチーに言い換えたの?」
「意を決して貴女に狙撃のコツを手取り足取り教わった時の興奮は、今でも忘れがたく私の身体の芯に刻み込まれています」
「……なるほど」
それが、さっきにとりが言っていた『あんなに仲良くしていた』のシーンか。
「正直、濡r――」
「仙川さんそれ以上言ったらおこだからね? ぶっ殺だからね?」
……まぁ、兎も角。
昨晩私らがここでやった事に関しては、おおむね理解した。これで我が家の惨事にも説明が付く。壁一面に広がっていた血痕は、ペイント弾に拠る物だった様だ。
にしても、なぁ……。
愛着の湧いている家の中でそんな画期的な銃を乱射してしまったとは。にとりのスピリタス恐るべし。酒乱どうこうで茶化す権限は、私にも寅丸にも無さそうだ。
「そうだ、椛」
心なしか寒そうに肩を抱くにとりが、くしゃみを一つした後に私の名前を呼んだ。太陽も天高く上がって来ているとは言え、さすがに寝巻じゃ寒いだろう。
「ん?」
「言うの忘れてた。剣と盾、預かってるけど、どうする?」
「え? あんの?」
「うん。昨日預かりっぱなしだった」
なんとなんと、ここに来て懸念がまた一つ解決してしまった。いやはや昨晩は随分ここではっちゃけたんだなぁ。全然思い出せないけど。
「そんで……服は?」
「服? いや知らないよ? なんで?」
「あー……いや、良いんだ」
「そう? 良く判んないけど、少なくともここらには無いよ。まさかこんな季節に、外で服を脱いだりはしないっしょ」
「……うん」
歯切れ悪く返す私。
我が家の荒れようを目にしてるだけに、昨晩の泥酔した私たちならそんな馬鹿げた事をやりかねない……となるとまさか、どっかで服を脱いで、そのまま素っ裸で家に帰ったって事か?
うわぁ。
うわぁ……。
その考えは今の今まで思い至って無かったけど、他に原因が無さそうだぞ……。社会的云々前に、どうやら私も寅丸も女としては死んでたみたいだ。
しかし全裸で外を駆け巡っていたとなると、まさか残る最大の疑問は――。
…………………………。
……………。
やめよう。
これ以上考えたくなかった。
今となっては、一夜でこんなに腹が膨れる訳がないという寅丸の口上がありがたくさえあるな……。謎は深まるばかりだけど。
「ところでお二人さん、ペンデュラムについて何か知りませんか?」
ブラックダイヤ云々もとい、寅丸が咳払いを一つしてからにとりと仙川さんに問う。
「ペンデュラム? あぁ、アンタがあのネズミから強奪した奴でしょ? うん、それも知らない」
「……まさかサバイバルゲームの最中に落としたりとかは」
「いえ、それは無いでしょう」
仙川さんが首を横に振りつつ断言する。
「我々も山の住人ですから、ゲームが終わった後の始末はきちんと行います。何か遺失物があれば、誰かが見つけている筈です」
「そう、ですか……」
肩を落とした寅丸が、大きく溜め息を吐いた。落胆の色を隠し切れていない。あのペンデュラムが見つからなければ自分の地位が危ぶまれるとなれば、まぁ当然の反応と言えた。
ふむ。
結局、この場所で話を聞いただけじゃ事態の全面解決という訳にも行かないみたいだ。解決しておかなくちゃいけない疑問はまだまだある。
やれやれだ。本当にやれやれって感じ。
「じゃ、私は取り敢えずアンタの剣と盾持って来たげるよ」
いい加減寒さを我慢するのも限界らしく、身体を小さく震わせながら言ったにとりに、私は頷いた。
「ありがとう。よろしく」
「良いって事よ。仙川が毎日礼拝に来るのもゾッとしないしね」
「え? 礼拝?」
「アンタの剣と盾に。コイツが私の家に居たのはそのせいさね。そんなに崇拝してるなら、自分が管理すりゃ良いってのに」
茶化すようににとりが笑うと、仙川さんは恥ずかしそうにそっぽを向いた。
「河城に預けられた物だ。私の一存で勝手に移動させるのも、不敬だと思ったのだよ」
照れ隠しなのか、髪の毛の先端を指先で弄りながらアンニュイな溜め息を彼女が吐く。
マジで見上げた忠誠心だなぁ……。
こりゃ私も少しは見習う必要があるかも知れない。万年下っ端を脱せないのは、私に忠誠心が少ないからなんだろうか。だからと言って文々。を始めとした烏天狗共にへーこらすんのは虫唾が走る訳だが。
「じゃ、ちょい待ってて。ついでに服も着て来るわ。寒ぃ」
「悪いね」
「……じゃ、頑張って」
軽く私が手を振ると、仙川さんに一声そう掛けてから、にとりはザブンと沢に飛び込んだ。後には私と寅丸と仙川さんの三人が残され、何とも言い難い沈黙が僅かに場の空気を停滞させた。
ペンデュラムが見つからないせいか溜め息を吐きながら、何故かスナイパーライフルを弄り始めた(現実逃避か)寅丸から目を離し、仙川さんの様子をチラと窺ってみた。するとその途端に目が合って、彼女がサッと視線を逸らしてしまう。冬の昼に似つかわしい冷たく乾燥した風が、にとりが飛び込んだ沢の水面にさざ波を立てていた。
「……貴女が持っていた、あの銃」
寅丸にチラと目をやってから、矢庭に仙川さんが口を開いた。私と目を合わせようとせずに髪の毛を弄りながらの口ぶりは淡泊さを装う反面、どこか重々しく響いた。
「あれ、元は私のなんです」
「あ、そうなの? 悪いね。借りてっちゃって」
家の中で乱射もしちゃってたみたいなんだ、とは言えなかった。
「いえ、良いんです……覚えてらっしゃらないでしょうが、私が貴女に御無理を言って、持参して頂いたのですから……」
「無理を言って……?」
「……また逢う口実にしよう、と思っていたので」
そこでまた彼女が、探る様な目つきを私へと向けて来る。私の両目を捉えたその瞳は、私の真意を問い質す様で、私の本音を求める様で、昨晩の想起を求める様でもあった。
「私、貴女にこう言ったんです。『どうか使ってやってください。でも、必ず返しに来てください。その時は――』」
そこで仙川さんは小さく溜め息を吐き、何も語らずまた私から目を逸らす。いつの間にか少し離れた所で黄昏始めていた寅丸が、何度も何度も溜め息を吐いていた。うるせぇ。
「『その時は――』?」
「……その先は、言えなかったんです……私が適切な約束を結ぶよりも先に、貴女と寅丸さんは行ってしまって……でも貴女は、『また逢おう!』って、そう、私に言ってくれました……」
それは叶いましたね。
取ってつけた様に言葉を区切ったかと思うと、仙川さんは不意に立ち上がり、私との距離を詰めて来た。眼と鼻の先に座るや否や私が何の反応も示せない内に、まるで糸の切れた人形のように、私の鎖骨辺りへと額を凭れ掛からせて来た。
「な……ち、ちょっと……?」
「何も覚えてないんですよね」
私の困惑を余所に、仙川さんが鋭く切り込んで来る様な口調で呟く。
「私との約束も。私に笑い掛けて下さったことも。舞い上がる私のたどたどしいお話を、楽しそうに聞いて下さったことも。『笑うと可愛いよ』って、そう、褒めて下さったことも。全部。全部。貴女の記憶の中には無いんですよね」
「…………」
「あれはお酒に酔っていたから……なんですよね。本当の貴女じゃ無かったんですよね。今の貴女は、私の脳髄に根を張った貴女とは違う人なんですよね――あはは、ごめんなさい……こんな事言われても、困っちゃいますよね……覚えても無い奴が、自分の事を慕ってるなんてシチュエーション……引きますよね……馬鹿みたいだ……私……こんな事して、貴女を困らせて、卑怯……ですよね……でも、お願いです……河城が戻ってくるまでで、良いんで……このまま……」
――この状況で。
一体私に、何が言える?
覚えてなくてゴメンだなんて事実も。
本当は覚えてるよなんて欺瞞も。
何の役にも立ってくれない。
自分のペースも考えず酒に溺れて好き勝手に暴れまくった挙句、一人の少女の心を悪戯にかき乱した私の罪は、重くて、謝罪なんか免罪符にもならない。
私の身体に額を預けるだけの仙川さんは、それきり何も言わないし何もして来ない。畳んだ膝の上で握り締める両手を私の背中に回す事もしないし、声を押し殺して泣く事もしない。彼女は強い子で、私は、記憶に残っていない私の姿は、彼女の憧れとして深く強く刷り込まれたというのに、一夜が明ければ何も残っていない。
馬鹿みたいなのは私だ。
卑怯なのは、私じゃないか。
判ってる。
彼女はきっと、今、私を諦めようとしてる。私への憧れを断ち切ろうとしてる。私に額を預けて、その悲痛な位に慎ましい我が儘だけで、私が掻き乱した心を再構築しようとしている。
ここで心にも無い事を吐く程に私が短慮だったら、気の利いた嘘で彼女の憧憬を包み込む事ができれば、それはきっと優しい事なのだろう。私がそんな無責任な白狼だったら、どんなに彼女は救『ピロリン♪』われるだろう――。
………………。
…………。
……『ピロリン♪』?
不意に背後から聞こえて来た空気の読めない能天気な音で、仙川さんがガバッと私の身体から離れる。振り向くと、彼女の覚悟に茶々を入れる無思慮なパパラッチが立っていた。
しくじったとばかりに苦々しげな表情をしたツインテールの烏天狗が、私たちに携帯型カメラを向けている。
「――あ、ゴメン。マナーモードにしてなかった……続けて?」
申し訳なさそうな表情を浮かべつつも続きを催促する彼女の無神経さに半ば呆れ、半ば苛立ちを抑えきれず、私は立ち上がって目の前の烏天狗を睨み付ける。
「姫海棠、はたて――」
「ヤバい……椛、怒ってる? うん、怒ってるね……『夢の銀河鉄道開通! ただし太陽への一方通行』みたいな?」
しゅんと肩を落として殊勝な態度を取る姫海棠はたては、しかし世界が終わった様な罪悪感満載の表情とは裏腹にもう一度シャッターを切った。ピロリン♪
……これだから。
これだから烏天狗は嫌いなのだ。
マスコミ云々、新聞云々、パパラッチ云々について、とやかく文句を言うつもりは無い。ただただ空気が読めないところが嫌いだ。悪いと思っているらしい辺り、どこぞの性悪と比べればまだマシではあるが、それでもこの状況では何のフォローにもならない。
『九割引きの福袋を三つも購入! ただし中身はカマドウマのみ』
みたいな。
「……いっくん」
「犬走だから? やめろよ。戯言で乗り切れる局面じゃないからな?」
「新聞大会……近いんだ」
「それで?」
「文の奴が、特ダネ掴んだんだって……」
「それで?」
「負けたく……ないんだ」
「だから?」
「――許せ」
戦隊モノ合体ロボの玩具みたいな速さで翼を大きく広げたはたては、そのまま最高速度で空へと飛び上がる。彼女の姿は瞬く間に小さくなって行き、青空の中の点と化す。
「も、椛さん……! ご、ごめんなさい! 私のせいで……!」
逃げたはたてを絶望的に見送った仙川さんが、しどろもどろになりながらも私に頭を下げて来る。はたての逃げた方角を『眼』で『視』た私は、彼女へと向き直って首を横に振る。
「仙川さんのせいじゃないさ。それに、そんなに困る事でも無い――けど」
「――椛さん!」
はたての飛び去った方を見やった寅丸が、それまで弄っていたスナイパーライフルを私に放って寄越す。仙川さんの方を見たまま飛来したそれを片手で受け取ると、立ったまま私は銃口を空へと向ける。
「……出歯亀には、お仕置きしなくちゃな」
『眼』に全神経を注ぐ。風向き、遠くに『視』えるはたての羽ばたきのタイミング、その体勢、先ほど仙川さんが撃った時の、弾の動き。受け得る空気抵抗と、重力に引かれてぶれるだろう弾道の計算。その全てを頭の中で合算しながら、私は呼吸を止めて手の中の銃と一つとなる。
距離は半里過ぎ……否、そろそろ一里になる。烏天狗のスピードは侮れない。が、ペイント弾の方が速度は上。河童印の文明の利器の前じゃ、幻想郷最速種族の名も形無しだ。仙川さんが息を飲む音が鋭く聞こえて来る。
引き金を、引く――。
――一度、二度、三度。
鼓膜を撃ち破る様な破裂音が三度。
赤く塗られた流線型の弾は音速を超えて空を切り裂き、紙上に落としたインクの染みよりも小さいはたての姿へ向けて突き進む。射程距離はギリギリ。しかし目測は狂いなく。千里を見通す程度の能力の前じゃ、たかが一里は目と鼻の先に等しい。
「一の矢――命中。右翼根元」
空中ではたての体勢が、ガクンと狂う。それもまた計算通り。
「二の矢――命中。携帯型カメラ」
はたてが体勢を持ち直すよりも早く、ペイント弾が彼女の右手からカメラを叩き落す。真っ赤なペイント塗れになったカメラが、高々度から地面へと落下する。ペイントと落下の二重苦で無事に写真が残るのなら、褒めてやっても良い。
「三の矢――命中。左翼根元」
左翼のみで辛うじて滞空していたはたてが、頼りの左翼根元にペイント弾を喰らってとうとう完全にバランスを逸し、錐揉み回転をしながら落ちて行く。悲鳴も聞こえない超長距離ながら、追撃を免れ得なかったはたてが悲痛な叫びを上げているだろう事は疑いようも無かった。
真っ逆さまに墜落して行くはたての姿が、山を覆う針葉樹林へと消えて行くのを確認した私は、それまで止めていた息を小さく吐き出して構えを解く。寅丸も仙川さんも固唾を飲むといった具合に、この場でただ一人状況を知り得る私の事を注視していて何だか気恥ずかしかった。
「お仕置き完了。三発とも狙い通りに命中……良い武器だね、コレ。これからの時代は、哨戒天狗も銃を持っていた方が様になるかも」
「……嘘……ありえない……全力で飛んでる烏天狗を、撃ち落とした、んですか?」
私の言葉が信じ難いとばかりに、目を真ん丸に見開いた仙川さんが恐る恐る尋ねて来る。「まぁね」と頷いた私は、持っていたスナイパーライフルを仙川さんの手に握らせた。
「その……なんだ……何て言うか……うん。何も変わらないさ、私は」
仙川さんの肩にポンと手を置く。空気の読めないパパラッチによって中断された彼女の覚悟を、私はなるべく重苦しく聞こえないよう、明るく否定する。
「泥酔してようが素面だろうが、私の能力は私の能力だし、私の精神は私のまんまだ。仙川さんが言った通り、実際昨日の事を覚えてないんだから説得力は無いかもだけどね……だから、うん、改めて、もう一回約束しようか」
また逢おう――。
言うと、手渡したスナイパーライフルを抱きしめる様に持ちかえた彼女が微かに俯いた。
もしかしたらこの約束は、酷く無責任かも知れない。はたてを撃墜してスキャンダルの流布を防いだ私が、彼女の気持ちに応えるかどうかは如何とも判断しがたい。けれど他人同士へと戻る事は、避けたかった。
責任とか、償いとか、そんなんじゃなく、また遊べるような仲になれれば良い。
一緒にサバゲーに興じるとか、将棋をするとか、関係性には様々な形があって、それはそのまま未来への可能性と言い換える事もできる。
つまり私はただ単純に、その可能性を全て断ち切る事が嫌だっただけなんだろう。
そんな曖昧な私の願いが通じたのか否か。
頬を染めた仙川さんは、晴れ晴れとした表情で笑いながら私に敬礼をして来る。
「――ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします! 隊長殿!」
凛として明るいその表情を見て。
再度、私を隊長殿と呼んだ彼女の口ぶりを聞いて。
あぁ、悪い事ばかりじゃ無かったな、と。
そう思えたんだから、きっとこれで良かったんだろう、と私は確信した。
「……全然見つからない糸通しの異名は、伊達じゃないという事ですね」
はたてが消えた方を見やってから、寅丸が口を開く。僅かにドヤ顔。私は何と反応すべきか迷って、結局何も言わなかった。
……うーん……。
上手い事を言って場を収めようとしたのかどうか知らないけど、コイツが昨晩に自称した異名の方が痛々しい上、ここでそれを言っちゃ、私からそれについて弄られるかもしれないとまでは考えが回らなかったんだろうか……。
それとも弄ってくれって前フリか?
「ところで――仙川さん」
弄ろうか弄るまいか考えていると、コホンと咳払いをした寅丸が次いで口を開く。
「はい? 何でしょう?」
「我々がサバイバルゲームに混ぜて頂いた後、どこへ行ったか覚えてらっしゃいますか?」
あ、なるほど。その後の動向を聞きたかった訳か。その為の枕話みたいなもんだったか。前フリじゃなかった。弄らなくて良かった。また話がややこしくなるところだった。
「えぇ。覚えてます」
特に逡巡する風もなく、仙川さんはあっさりと頷く。
「ゲームが終わり、談笑も終わった所で山童の住処へ戻ったのですが、そこで我々は賊を見つけたのです。お二人はそれを追い掛けて行ってしまいました」
「……賊?」
私が首を傾げると、仙川さんは腹立たしそうに首を横に振って溜め息を吐いた。
「えぇ。私らが山童になる切っ掛けを作った者が、再度我々のアジトを漁りに来ていたのです。その話をお二人に伝えたらお二人は果敢に賊へと立ち向かい、逃げるソイツを追って夜闇に消えて行きました」
賊……賊ねぇ……。
一部の河童が河での暮らしを捨てた理由は、以前起きた水柱事件にあるとは知っていたけれど、その犯人は水鬼鬼神長とか言う地獄の使いだった筈だ。地獄で働いてる鬼が、わざわざ山童たちの住処を荒らしに来たのか?
そんな事を思っていると、話を聞いていた寅丸が「あ!」と声を上げる。驚いて彼女の顔を見やると、何やら寅丸は興奮気味に私を見て来た。
「椛さん――お腹のソレの犯人が判りました」
「は? 今の話で? マジすか?」
「お腹のソレ……?」
首を傾げた仙川さんが膨らんでいる私の腹部を見、そして「ひゅい!?」と悲鳴に近い声を上げる。そうだ、何やかんやあって、まだ仙川さんにはその事を喋ってなかったな。
にしても、にとりが驚いた時のリアクションと同じとは。
河童、山童の本能みたいなもんなんだろうか。
「――隊長殿」
「なに?」
「私は第二夫人でも全然構いません」
「私が構うわ」
迷いが無さ過ぎる。
二番目だからちょっとハードル下がったみたいな見え見えの反応をしないで。
「で、犯人とは?」
何故か陶然とした表情で私の腹を撫で始めた仙川さんを取り敢えず無視し、寅丸に尋ねる。勿体ぶった様に大きく頷いた彼女は、
「まず間違いありません。それは、霍青娥の仕業でしょう」
と言った。
――霍青娥。
聞いた事が無い名前だ。
「……どちらさんで?」
「我々命蓮寺と対立する商売敵として、昨今人里をも騒がせている一派の一人……というか、立場的には相談役といった所でしょうか。中国から渡って来た邪仙で、ヤンシャオグイという……まぁ、『胎内回帰願望を持つ赤子の霊』を使役するのです」
……赤子の霊。
詳しい理屈は判らんが、禍々しい響きだ。
「それで……これは、その影響だと?」
「恐らくは……術の影響が未だ体内に残り、妊娠に近しい様相を呈しているのではないかと思います。そうだと仮定すれば、一夜にしてそこまでお腹が膨らんでしまった理由にも説明が付くのですが」
なるほど。邪法ねぇ……。確かにその線は強そうだ。
青娥とやらを追い掛けて、反撃にそんなけったいな邪法を受けてしまったと。
仙川さんの証言とも一致するし、寅丸の言った通り一日でこんなに腹が膨らんだ事にも説明が付く。
つまり、寅丸がハッスルした結果じゃ無かったって事か。あーあ。脳内で養育費やら何やらのゲスい未来予想図を描いてたのになぁ。まぁでも、最悪の予想が外れたって事だけで良しとしようか。
「じゃ、善は急げっすかね。にとりが戻って来たら、その霍青娥の所に行きましょうか」
「簡単に接触できれば良いのですが……住居不定で、私とは一応敵対関係にある訳ですし――ん?」
溜め息を吐いた寅丸の表情が、未だ私の腹を撫でる仙川さんの手付きを見て強張った。
「え? どうかしたんすか?」
「……ちょっと失礼」
どこか蒼ざめた寅丸が私との距離を詰めて来て、仙川さんとの間に割って入る。何をするかと思えば、矢庭に私の半着をガバと捲り上げて来た。
「ちょちょちょ!! な、なんすか! えっち!」
「何が始まるのですか!? 混ぜて下さい!」
仙川さんが躊躇いなく上着を脱ぎ捨てる。待て。違う。多分君が思ってるのとは違う。服着ろ。
「……椛さん」
一発でハイテンションとなった仙川さんをガン無視し、私の腹を検分する寅丸は、ほとんどぞっとするような重々しい口調で私の名を呼んだ。
「な、なんすか……優しくして下さいね……?」
「気付かなかったのですか……?」
その口調の絶望的な響きに耐えきれず冗談を吐く私を見上げた寅丸の表情は、しかし全く持ってシリアスで、悲痛な驚愕に満ちている様にも見えた。
そして小さく首を横に振った寅丸が、
まるで死刑宣告を下すかのように、物々しく呟く。
「――朝見た時より、お腹が大きくなってます」
続く
てか、冷静に考えると夢じゃないかなコレ。うん、そうだ。そうに違いない。だって有り得ないもん。よし、目をつむろう。一旦目ぇつむって。おっしゃ。良いかい? 私。椛。犬走椛。これは夢だ。良いね? さっきまで広がっていたアレらの光景は、全部夢なんだ。酷い悪夢って奴だ。判るね? だからもう一回、ゆっくりと目を開くと、全部消えてしまう。惨劇の跡も、隣の彼女も、今お前を襲っているこの尋常じゃない頭痛も、綺麗さっぱり無くなる。全部全部消えちゃって、私はいつもの万年床の上で目覚めるんだ。
3,2,1,ハイ――駄目だ消えないわ。頬っぺたつねってみるか。あぁ、普通に痛いや。痛覚がモロ仕事してる。痛覚が機能してる悪夢かも知れない。なんか『質量のある残像』みたいな響きだな。つまりは、『ねーよ実際』って事。ハッハッハ。参ったな。
どうしよう。
うわぁ……うわぁ……どうしよう。
よし。判った。
取り敢えず服を着よう。
めっちゃ寒い。この季節に全裸はキツい。
スゲー散らかってるけど、どっかにあるかな。私の服。なぎ倒された箪笥の下かも知れないし、引っぺがされた畳に挟まってるかもしれない。どう頑張っても血にしか見えない謎の汚れで壁とか真っ赤っ赤だけど、汚れて無きゃいいな。もれなく全部に穴の開いた障子から見える空は澄んでるし、そこからの隙間風がヤバい。寒い。普通に寒い。
だから隣でいびき掻いて寝てる寅丸星さんにも、服を着せてあげなくっちゃね。すっぽんぽんで寝てたら風邪ひいちゃうもん。
優しい! 私! 気遣いできる女! 女子力マックス!
――どうしよう。
やっちゃった? これやっちゃった? 私。ラブがメイクされちゃった? ベイビー生誕のプロセス踏んじゃった? 神様代理と交わって、神話創生の一端を担っちゃった? 国作っちゃった? どうしよう何も覚えてないんだけど。昨夜の記憶皆無なんだけど。何があった? 何をしちゃった? 良く知らないけど仏教ってそういうの駄目じゃね? 婚前交渉が許されるほど緩い宗教な気は全然しないんだけど。アウト? アウトかな? デデーン、犬走、アウトーかな? 責任とる的な事しないとマズイかな。哨戒の仕事で貰える給金なんか雀の涙だし、誰かを養『ポコン』う余裕とか全然――。
……ん?
何? 今の『ポコン』って?
いや音っていうか、感覚? 何かが私のお腹を叩いたみたいな……。
恐る恐る、視線を下へと向けてみる。我が控えめな胸部の向こう側に、いつもとは全く様変わりしてしまった丸み。お腹がふっくらと膨らんでて――。
わっほーい。なるほどぉ、こいつぁ一本取られたなぁ。
私かぁ。この展開で私がやられちゃった側ってのは、ちょっと聞いた事無かったなぁ。認知しなきゃじゃなくって、認知させなきゃの立場かぁ。椛に赤ちゃんできちゃいましたぁ。名前何にしようかなぁ。男の子だったら『酔った勢い』で、女の子だったら『一夜の過ち』にしよーっと。
オゥ、マイ、ガー。
「寅丸さん寅丸さん寅丸さあぁぁんッ!!!! 起きて! 起きて下さい! てか起きろ! おいコラテメェ何呑気に寝てんだ女の子孕ませといて良い朝夢気分で居るんじゃねぇぇええええッ!」
隣で寝ている寅丸星の肩を揺さぶり、それでも起きないので往復ビンタをかます。一往復二往復三往復。頬が微妙に腫れ始めているというのに、起きる予兆、ゼロ。
……しゃーない。
割れんばかりにガンガン痛む頭を抱え、散らかりまくった室内を探索して自分の服をサルベージする事にした。もう原型を留めてないくらいに滅茶苦茶だけど、間取りから判断するにここは私の家だ。つまりは送り狼をされたという事か。狼は私じゃないか。猫科の妖獣の癖してタチ役とか何の冗談だ。ファッ○。されてた。こん畜生め。私もか。
哨戒天狗なんか下っ端も良い所だし、安普請な我が家は元々広い家じゃない。探索はすぐに終わった。とりあえず、部屋着の甚平はある。寒さから身を守り、肌を隠すならひとまずそれで充分。
代わりに仕事用の一張羅が無い。どこにも。
そして愛刀も盾も無い。つまりは仕事道具が一式消失している。
代わりにあったのは、何やら武骨な長筒。黒く鋼鉄製で、筒の部分がやたらと長く……まぁ、ぶっちゃけスナイパーライフル。名前とかについて詳しい事は知らない。当たり前でしょここ幻想郷ですよ? いやはや、私の装備も随分と近代化された物だなぁ。オーバーテクノロジーも良い所だわぁ。
ものっそい困る。
さて、どういうことだろうか。
床の間に飾っていた掛け軸がべっとりと血染まっているのを呆然と見つめながら、痛む頭の中に転がっているだろう昨晩の記憶を検める作業に入る。この脳みそが拡張しているみたいな頭の痛さと言い、コイツは間違いなく二日酔いだ。そこまでは判る。
そして寅丸星。
コイツの事も覚えている。初対面が昨日の事で、私は上司から、コイツに妖怪の山を案内するよう命じられたのだ。
未だすっぽんぽんでグースカ寝こけている寅丸に毛布を掛け、半分死んだような意識をシャンとさせる為にも井戸で顔を洗う事にした。
愛しの我が家が大量虐殺の跡地みたく血塗れになってしまった理由も、私と寅丸が全裸で寝ていた理由も、私の仕事道具が無い理由もスナイパーライフルについても、そして私が妊娠している理由もさっぱり判らない。
突っ掛けを履き、膨らんだ腹を擦って、私は思い出せる所から思い出してみる事とした。
◆◆◆
「初めまして。命蓮寺所属、毘沙門天代理の寅丸星と申します」
伝令ガラスに呼び出されて山道入口に程近い詰所へと赴いた私を、寅丸の朗らかながらも礼儀正しい挨拶が出迎えた。空飛ぶ船の異変だの宗教戦争だのの噂は聞いていたので、初対面ながらも私は特に意表を突かれた感じもせず、コイツが命蓮寺のご神体かぁ、なんて面白みのない印象を抱いた様に思う。
「はぁ、どうも。白狼天狗の犬走椛っす」
会釈も返答もそこそこに、私は詰所の奥で煙管を飲んでいた上司の顔を窺い、自分が呼ばれた理由を目で尋ねた。肩を竦めた上司は、灰皿に雁首を叩き付けると立ち上がって説明を開始した。
曰く、妖怪山を見学したいから、その許可を申し出て来たとの事。
部外者が一人でフラつかれるのも立場上困るので、案内人として私を任命したいとの事。
そんな端的な説明を受け、私は毒気の無い寅丸の笑みを目の端で盗み見る。
妖怪に仏教を伝授する命蓮寺の姿勢ならば、聞き及んでいた。
寺の開設から結構な時間の経った今更、見学というのも時期的に奇妙な話だ。大方、信徒拡大の下見をしに来たのだろう。そして、そんな見え透いた目的をわざわざ隠すのは、偏に守矢さんとことの摩擦を最小限にしたいが故だろう。そう思った。
夏ごろに起きた宗教戦争の延長線。人里近くで地盤を固めたと判断し、如何に守矢神社から信徒を掻っ攫えるかの判断を下しに来たという訳か。
――まぁ、私にはそんな思惑だのなんだのは関係ない。政(まつりごと)は上層部が額をブツけていがみ合うもので、下っ端としちゃ首を突っ込む理由も動機も皆無。なので私は、そんな表層的なお為ごかしを飲み下し、寅丸星の案内を承った。
「よろしくお願いしますね。椛さん」
柔和な微笑みと共に、寅丸は包む様に私の手を握って来た。寛大と優しさのアピール。初対面で名前を呼んでくるという、宗教家特有の暴力的でさえある善意に裏打ちされた、距離の縮め方。コイツの眼には、私も信者候補として映っている訳か。
ファースト・インプレッションとして、私は目の前の寅丸を『気に入らない奴』として定義づけた。
私は守矢さんとこの神様にも帰依してない。縋れば恩恵を与える。逆に言えば、縋り付かなきゃ恩恵なんか与えない。お優しい事だ。末端の雑兵に取っちゃ、最後に信じられるのは神なんかじゃなく自分自身の能力だ。それが私の持論。殺すか殺されるかって瀬戸際に、神様が相手をサクッと殺してくれる事なんか無い訳だし。
ま。そんな私の哲学なんか、振りかざした所で利益は無い。組織に属してれば、嫌でも適切な自分の殺し方を理解する。だから私は自然な微笑みを演じる事ができるし、両手で行われる過剰な握手への対応もできる。
「こちらこそ、よろしくです」
そんな儀礼的挨拶もそこそこに、私は早速詰所を後にして寅丸の案内を始めた。
本当に、ただ案内しただけだ。河童たちの住む沢辺り。天狗の居住地区。他にも妖怪のコロニーは幾つか存在し、そこらをブラブラと散歩する程度。適当に地理的な説明も加えつつ一通り回り終えた時には、もう太陽は山の向こうに沈んでいた。
「――こうした山の空気は、何とも懐かしく思います」
冬が来て鬱々としたオーラを外まで垂れ流す秋姉妹の家を通り過ぎた時、寅丸は心地良さげに深呼吸をしながらポツリと言った。
「懐かしい?」
「えぇ……千年前は、私も一介の妖獣でしたので。山野を駆け巡り、動物を狩っていた過去もあるのです」
「はぁ……」
第一印象のせいだろうか。
その寅丸の言い草が、私の不穏な感情領域を撫でた様に感じた。
一介の妖獣『だった』。
その些細な言い回しに、私は寅丸が無意識に抱く格式の差異意識を見た気になったのだ。
事実彼女は毘沙門天代理であり、一介の妖獣とは一線を画す存在なのだろう。それは判る。ただその言葉に私は、今も山野を駆け巡り、動物を狩っている白狼天狗の貴女とは違う存在なんですよー、と。そう当てつけられた様に感じたのだ。
隣を歩く寅丸の横顔を盗み見る。懐かしの田舎に帰って来た都会人みたく、山の景色を眺める彼女。その懐かしげな表情もまた旅行気分で、観光染みていて、古巣に似た山の光景をそんな高みから見下ろす様な態度はハッキリ言って、こんにゃろ優越感でも抱いているんじゃないかと邪推するに充分だった。
……アンタは今も妖獣だろうに。
それが、私が舌の根に押し留めたリアクション。神様代理だろうが、千年以上も寺の本尊をやっていようが、自分のルーツ、自分の種族から逃れた訳じゃないだろうに、と。仏の教えに当てられて本能を忘却したような振る舞いは、白狼天狗として野性を残し、それを誇ってるつもりの私に取っちゃ、いけ好かない態度だ。
――そんな感想を飲みこむのではなく、天啓染みて思い付いた些細な悪戯で解消してしまおうと思った私もまぁ、正直言っていけ好かない奴だろう。
「案内はここいらで終わりっす」
わざわざ天狗の居住区画まで戻ってから、私は寅丸に告げた。
夜も訪れて、目の前の大通りは昼勤務上がりの同胞たちで大いに賑わっている。立ち並ぶ店からは食欲を誘う肴の匂いや、冬のピンと張りつめた空気を柔らかく溶かす酒精の気配で充満していた。
「お勤めご苦労様です。椛さん。妖怪の山を見れて、私も楽しかったです――」
「で」
締めの言葉と共に頭を垂れる寅丸の言葉を遮る様に、私はパンと手を叩く。
「お腹空いてないっすか?」
「へ?」
クン、と寅丸が鼻を鳴らしたのを確認する。炙られた銀杏の香ばしさ、ツンと取り澄ました様なお浸しの冷たい醤油の香り。洗練されてこそ居ないが、力強さで酒飲みを魅了する地酒の得も知れぬ芳しさ。塩焼きにされた鮎のフワリと漂う芳香。酒好きには堪らない空気を鼻の粘膜で彼女が察知したのを、私の目が、『眼』が、敏感に見て取った。
「そりゃ、空くには空きましたが……」
ワザとらしく寅丸が大通りから目を背け、窘める様な視線で私の両目を見て来る。
「……私は、寺に夕食の用意がしてあると思いますので」
「はぁ……でも、もうこんな時間っすよ?」
気の抜けた声を出し、私は空に鎮座する月を見る。毛穴から引き留める雰囲気を垂れ流し、殊勝ぶった演技を見せつけた。
「用意されてたとて、冷めちゃってるんじゃないっすかね? お寺って朝、早いんでしょう? もう皆さん寝てる所だと思いますし……それともお寺の誰かを叩き起こして、食事の用意をワザワザさせます? もしくは一人悲しく、料理の用意を?」
「ご心配には及びませんよ。慣れた事です」
「慣れた事!」
目を見開いて上体を逸らす。信じられない、というボディランゲージ。演技臭くて堪ったもんじゃないだろうが、それで良いのだ。その方が、私が寅丸を帰らせたくないと言う思惑が如実に伝わるのだから。
「いけませんいけません。そんな事じゃ駄目っすよ? 食事は誰かと食べてこそ美味しいと感じる物じゃないんすかね? 百歩譲って独り身なら仕方ありません。物理的に一人で食べるしかない。その環境に慣れきっているから、寂しさという感覚に麻痺してしまう――けれど、お寺は大所帯でしょう? 普段は大勢でやいのやいの賑わってらっしゃる食堂で、こんな時間に独りぼっちで食べる悲しさ! 辛い物がありましょう……」
頭を振る。どこぞの鴉を引用しているもんで言ってて胸糞が悪くなるが、強引に事を進めたい時にはうってつけの態度だ。文々。はそれを自覚してこんな胡散臭さの塊みたいな台詞を吐くし、図らずも奴と接触の多い私は、必要に応じてそれを引用する事ができる。嫌悪感に蓋をしてしまえば、このキャラクタは実に合理的だ。文々。に知られたら舌を噛んで死ななきゃならない諸刃の刃なのだが。
「しかし、ここで食事とは……ここは飲み屋街でしょう? 私は戒律で、飲酒が禁じられ」
「それに!」
畳み掛ける様に、寅丸をビシッと指差す。私のキャラじゃない? 知っててやってる。
「――今日一日アナタと一緒に居たのですし、これでも私はアナタと少しでも親交を深めたいと思っていたのですが……あぁ、いえ、何でもありません……私の他愛ない希望で、渋るアナタを引き留める訳にも行きませんもんね……お疲れ様でした……私は、独りで悲しくさもしく家に帰って、カチカチの冷や飯にお水を掛けて啜る事にします……」
OK、物真似ごっこはお終い。押しの一手はもう済んだ。さらば射命丸文のキャラクタ。後は地で構うまい。余りアイツの言葉を借り過ぎると、私の唇がクチバシに変容してしまう。
項垂れながら寅丸の顔を窺う。顎に手を掛けて、熟考している様子の彼女。しかしその目はチラチラと大通りの誘惑を掠めている。妖怪という奴はおよそ酒が好きなのだ。増して飲酒を禁じられているのならば、欲求は破裂せんばかりだろう。
カワイソーな私に付き合ってあげる、という致し方ない理由は用意した。
よっしゃ、駄目押しのもう一手。
「――因みに私、豆腐料理が絶品のお店知ってます。ざる豆腐から高野豆腐のお浸し、冷奴は勿論、ふわっふわの揚げ豆腐に甘辛なあんを掛けた奴がもう、怖いくらい美味しくてですねぇ……まあまず間違いなく、幻想郷で一番豆腐が美味しい店っすね。清水にゃ事欠かないので」
「……お豆腐ならば、私も食べられますね」
掛かった。
「ん? あれ? 行きますか? 私と食事を共にしてくださるのですか?」
「うん、そうですね。ご相伴に預かりましょう」
「わぁ……! 嬉しいですー! ご案内しますー! こっちっすー!」
意気揚々と、私は大通りへと一歩を踏み出し、馴染みの『酒場』へと寅丸を案内する。
嘘は言ってない。
私が連れて行くのは、美味しい豆腐を出す居酒屋なのだから。
美味いぞー。豆腐も酒もそうだが、猪肉も絶品なのだ。目の前でドンドン注文してやる。果たしていつまで自制が持つかな? 妖獣としての本能を剥き出しにしてくれよう。ぬっふっふ。楽しみだ。
◆◆◆
そして今に至る。
いや、至らない。
何故ならそこまでしか思い出せない。
その後の経緯について、私は何一つとして覚えていない。
……あっれー……マジで何が起こっ『ポコン』たんだろう。あ、また蹴った。いやはや、元気な子供だなぁ。どっちに似たんだろう。私かな。寅丸かな。うふふふ。ガッデム。
「――ふにゃああああああああああああああああああああああッッ!!!!!!????」
井戸の前でしゃがみ込み、膨らんだ腹を呆然と眺めていた私の耳に、そんな萌えアニメの登場人物みたいな叫び声が届く。起きたか寅丸星。盛りの付いた猫みたいな声を出すなぁ。いや、虎も一応猫科か。本能の発現おめでとうございます。
ガンガン痛む頭を抱えつつ自室に戻る。掛けてやった毛布で今更ながら身体を隠す寅丸が、ほとんど泣きそうな表情で私を見上げて来た。完全に被害者の顔だ。
「おはようっす。寅丸さん」
「な、な、な……」
涙を浮かべて慄く彼女が私を見る目は、誘拐犯を見る少女染みたそれだった。懐かしいな。天狗社会がイケイケの人攫い集団だった時には、良く見たもんだ。
「わ、わ、私に……何を……」
「――アンタも覚えてないんすか」
溜め息。凄惨な愛しの自室から発掘した甚平を放って寄越す(寅丸の服も無かった)。頭も痛いし身体の節々が怠くて敵わない。長々と説明をするのも面倒で、私はなぎ倒されていた箪笥の上に腰を降ろした。
「い、良いですか!? 良いですか椛さん!?」
放った甚平に手を伸ばしながら、寅丸が言う。一応私の事は覚えている様だ。どこまでの記憶があるのかは聞き出さなきゃなるまい。
「ふ、ふ、婦女暴行は、かい、戒律違反以上に、ふ、普通に社会的制裁を頂くべき、は、犯罪なのですよ……? ま、ましてや私は毘沙門天代理……あ、貴女は、何をしたのか、わ、判っているのですか……!?」
「…………判ってないのはアンタの方っすよ」
半着を捲って、膨らんだ腹を見せつけてやる。見よ。お前の罪を。甚平を手繰って自分の身体を隠していた寅丸の震えが、その瞬間にピタリと止んだ。口をあんぐりと開けて。
「…………」
「…………あ、また蹴った」
「……………………おめでとうございます?」
「いやいやいや! アンタっしょ!? アンタがハッスルした結果っすよねこれ!?」
「違います! 知りません! 知りません! 知りません!」
「うっせぇ! 状況的に他に誰が居るんすか!? 私も全裸で目覚めたんすよ! アンタが下手人で決定っすよね!? 認知しろ! に・ん・ち! に・ん・ち!」
「無理無理無理無理無理無理!!!! 殺されます! 聖に殺されます! 毘沙門天様からぶっ殺されてしまいます!! も、も、も、申し訳ないのですがそのあのえーーーーーーーっと!!! な、無かった事に! 無かった事にはなりませんか今からでも!! ほおずき的なサムシングで!!」
「はああああああああああああッ!!!????? 今なんつった悪魔かアンタは!? おろせってか!? 仏教の尊い教えはどこ行った!?」
「ち、ちが、いやいやいやいや!! そんな事言ってません! 仮におろすとしてもそれはアレです! アレ!!!! あれだ! 大根の話ですから!!!」
「今更それがまかり通るか!」
失言のフォローが下手過ぎる!
何だこのタイミングで大根おろせって!
あああああああああああ頭痛い頭痛い! 大声出し過ぎた!
「……あぁ、もう……あったまいったい……取り敢えず服着て。そんで、そっからちょっとお話しましょ」
顔を覆って「知らないんです私じゃないんです知らないんです私じゃないんです」とさめざめと泣きながらの現実逃避を始めた寅丸を見限り、私は茶でも飲もうと炊事場へと赴く。炊事場も惨劇の爪痕から逃れられておらず、包丁は軒並み壁に突き刺さっていたし、チビチビ食べようと作った干し柿が全部鍋で煮込まれた形跡があった。
本当に何だこの空間は。地獄か。私は自宅に地獄を召喚してしまったのか。
二重の意味で頭を抱えながら、私は作りおいていた麦茶をヤカンから直に飲む。ほんの少しだけ、酷い体調が和らいだ気がした。アイツにも飲ませてやるかと破壊を免れていた湯呑に茶を注いで部屋に戻る。服に袖を通した寅丸が、神妙な顔をして正座をしていた。
「麦茶」
「……頂きます」
「えっと机は……あぁ、アレか、木片が庭に転がってるっすわ……しゃーない、ココに置いて下さい」
箪笥の背板の上にヤカンを置く。渡した湯呑の麦茶を一気に煽った寅丸が、渋面を拵えて頭に手をやりながら、ヤカンに手を伸ばして二杯目の麦茶を注いだ。
「さて、どこから確認していきますかね……」
「お子さんの名前……でしたっけ?」
「それは後で……つーか全部終わってから……」
「私は男の子だったら『酔った勢い』で、女の子だったら『一夜の過ち』にすべきだと思います」
「その件はもう私がモノローグでやったから」
「後世に禍根を残してはなりません。子供に付ける名前は、親の希望で在るべきです」
「そんな希望を託したら子供がグレるわ」
「しかし妙だとは思いません?」
湯呑を背板に置いた寅丸が、私の腹に目をやる。こめかみを抑えている辺り、コイツも二日酔いの頭痛に苛まれている事は間違いない。
「妙とは?」
「仮に私が貴女とセ……本当に間違いを起こしてしまったとします」
「え? 何を言い掛けたんすか?」
「しかしそれにしては――」
無視かよ。
「……一夜でそんなにお腹、膨れますかね?」
「む……」
言われてみれば、確かに。
その辺りは妖怪の面白体質の事。幾らでもビックリ理論で説明は付きそうな気はするけれどしかし、少なくとも白狼天狗はそんな早産じゃない。卵生の烏天狗ならばまだしも、白狼天狗はベースが哺乳類だ。寅丸の疑問も、もっともなのかもしれない。二日酔いかつこんな混乱の中でそれに気付くとは。コイツは意外に頭が回るのかも知れない。
「だからつまり、私は無実だという事になりませんかね!?」
うわ必死だ。眼が血走ってさえいる。
違ったわ。頭が回るんじゃなくて、自分の危機だから懸命になっているだけだわ。
「いやでも私も昨日まではこんなんじゃ無かったし……他に身に覚えもないし……」
「貴女の潔白は判りません。うっかり発情期になって我を忘れ、その辺の誰かと一発決めてしまったのでは?」
真剣な表情をしながら拳を握り、親指をグッと人差し指と中指の股に挟む。何でコイツは千年超も僧をやってる癖に、こんな俗なサインを知っているのだ。
「この野郎、人をビッチ呼ばわりとは……アンタ本当に僧なんすか?」
「人じゃないでしょう。獣でしょう。妖獣でしょう。ならば本能が爆裂して過ちを起こしてしまっても、不思議ではありません」
「アンタしたり顔してるけど、アレっすからね。それ見事にブーメランっすからね。自分を棚に上げてるんじゃないっすよ?」
「て言うか我々は同性じゃないですか。端から子供ができる訳ないでしょう」
「まぁ、普通はそうなんすけど、ここは幻想郷っすからねぇ……何が起きても不思議じゃないし、アンタはまがりなりにも神様っすから、その辺の制約とかポーンと飛び越えてきそうっすよね」
「知りません。私はそういうの疎いキャラで通ってるんです。スキマとか薬とかキノコとか、そんなご都合アイテムとは無関係です。健全かつ無知な爽やか系女子なんです」
「うっせぇマッサージでもされてろ」
「ともかく――」
咳払いをした寅丸が私から目を逸らして我が家の惨状を眺め、そして眉間を指で揉みながら溜め息を吐く。
「我々に昨日何があったのか。それを知らない内に議論をした所で、徒労なのではありませんか? 因みに私は貴女に豆腐の出る居酒屋に『騙されて』連れ込まれた以降は、覚えてないのですが」
「……似たり寄ったりっすねぇ」
肩を竦める。仮にも妖怪二匹。しかも私は末端ながらも天狗の一種。にも拘らず、前後不覚に陥って、記憶がブッ飛んでいるのだ。
普通に飲んだだけじゃ、こうはなるまい。
何かが起きたのだ。豆腐の美味い居酒屋での会食以降に。
「――ま、順当に攻めるなら、昨日の居酒屋で情報を得る所からっすか?」
「そうなるでしょうね……善は急げです。移動しましょう。流石にこんな所を誰かに見られてしまったら、少なくとも私は死にます。社会的に」
「それには同意しときますわ。そんじゃ、行きましょ――」
と、どちらからともなく立ち上がろうとした途端、庭のある方の障子が勢いよくバンと音を立てて開いた。
肝を潰して私ら二人が音のした方を向く。そこには死んだ魚の様な瞳をしたナズーリンが仁王立ちをしていた……。
ん? 何で私はコイツの名前を知ってるんだ? 初対面の筈なのに――?
「――ナ、ナナ、ナ……ナズーリ、ン……?」
浮かしかけた腰を抜かし、定位置からずれた畳の上に尻餅を突く寅丸。道端の生ゴミを見下ろす視線で彼女を見つめるナズーリンが、フ、と溜め息を吐く。
「……きゃる~ん。ご主人さまぁ。ナズーリンだにゃん。ナズはご主人さまの事、めっちゃめっちゃ探したんだにゃん」
「ぶっ!!!!!!!!????????? んん!!!?????」
棒読みで紡がれたナズーリンの萌え台詞を耳にした途端、寅丸は驚愕の余りに噴き出し、目玉が零れそうな程に目をかっぴらいて、およそ過呼吸に近しい症状を呈する。
ドブ河の腐った様な眼のまま、両手でぶりっ子ポーズを披露するナズーリンは土足で我が家に侵入し、私と寅丸を交互に見たかと思うと、大きな大きな溜め息を吐く。
「ぷぅ。ご主人さまぁ。ナズはプンプンだにゃん。痴態も程々にして欲しいにゃん。飲酒と食肉の黙秘以上の心労を、きゃわゆいナズに強いないで欲しいにゃん。聖が心配してるにゃんにゃん。ナズが毘沙門天様に黙っておく範囲にも、限度って物があるって知って欲しいのにゃん。酔いが覚めたのなら、ほら、早くナズから持ち去ったアレを返すのにゃん」
あ、やっぱり寅丸も猪肉を食ったか。
なんて思考を、空々しく意識の端で認識した。
「ナ、ナ、ナズーリン……です、よ、ね?」
「はにゃ~ん。ご主人さまは脳味噌だけじゃなくて、目まで腐っちゃったにゃん? つべこべ言ってないで、アレを返すにゃん」
「――『アレ』? アレとは、何です、か……?」
「は?」
ナズーリンが静かに湛えていた怒気が漏れた。怖い。萌え台詞からガチギレへの転調は、寅丸は言わずもがな、私をも震え上がらせる。
「君……ご主人さまは何を言ってるんだ、にゃん。すっとぼけてるんじゃないぞ、にゃん。私にとってどれ程ペンデュラムが大事か、ご主人さまは知っているはずだろう、にゃん。アレが無いとダウジングができないのも知っているだろうがにゃん。それで私がどれ程ご主人さまを探すのに骨を折ったか、って話だにゃん」
眉根に深い皺を寄せ、寅丸に詰め寄るナズーリン。耳も尻尾も、どう見てもネズミのそれだ。なのに、無理をして語尾に『にゃん』を付ける彼女の様子はどう考えてもアンバランス。そしてだからこそ、その矛盾を孕む彼女が意味不明過ぎて恐ろしかった。
「……えーっと、随分エキセントリックな部下をお持ちっすね……はは……」
ドン引きしつつ寅丸を見た途端、ナズーリンはキッと私を親の仇でも見る様なえげつない視線で睨んでくる。
「張っ倒すぞにゃん。もみもみの命令じゃないかにゃん。律儀に守っているナズに対して、その言い振りは殺意以外の何物も抱けないにゃん」
「へ? 私?」
私がコイツに命令? さっぱり意味が判らん。大体初対面の筈じゃないか。
だが私は、目の前の不思議ちゃんマウスの名前を知っている……。
……マジで昨日、何が起きたんだろうか。
「その……ナズーリン?」
「何だいだにゃん。ご主人さまぁ。ペンデュラムを返してくれる気になったのかにゃん?」
「あー……それ、もう止めても良いっすよ?」
頭痛が強まった気がした私は、眉間に指を当てつつナズーリンに言う。二日酔い明けで痛みまくる脳みそに、萌え萌え語は辛い。幾ら心の籠っていない棒読みでも字面的に、頭が今よりおかしくなりそうだ。
するとナズーリンは、両手で作っていたぶりっ子の構えを解き、私を見降ろす。
「――それは、昨日の契約を反故にしても構わない、と取っても良いのかい?」
「契約? ……知らないけど、それで良いっすよ」
「そうかい。それは良かった」
ホッと安堵した様な表情を見せて口角を上げたナズーリンは寅丸へと向き直ったかと思うと、矢庭に彼女の顔に殴り掛かる。
グーで。
「っぶわ! 痛い! 痛いですナズーリン!」
「ちょちょちょちょちょ!!! 待った! 待った!」
尚も寅丸を殴ろうとするナズーリンを、私は慌てて羽交い絞めにする。ネズミの妖獣だけあってか、力はそんなに強くなかったのが幸いな所。殴られた寅丸にも、特に怪我は無さそうだった。
「君は馬鹿なのか!? 馬鹿だろ! 確信した! 君は大馬鹿者だ!」
肩で息をするナズーリンが吐き捨てるように言う。私同様昨日の記憶が皆無の寅丸は、殴られた頬に手を当てながら、困惑するばかりだ。
「一体どこの馬鹿が、ベロンベロンに酔っぱらった本尊に帰依したいと考えるんだ!? 目的を忘れたとは言わせないぞ! プロモーションとしては最悪だ! 君の痴態を見せつける事が、今後の信者獲得にとってどれ程のマイナスになる事か! 毘沙門天様に申し開きができないじゃないか! 私の身にもなってみろ!」
激昂したナズーリンの言い分を聞きつつ、私は昨日の予測が正しかった事を知る。やはりコイツ等は、妖怪の山にも手を広げるつもりだったらしい。
ただそれはどうでも良い。
今となっては何の関係も無い。
重要なのはナズーリンが、どうやら我々の記憶に無い昨日の事を、知っているという事だ。
「どう、どう、ナズーリンさん。ほら、落ち着いて」
寅丸を酒席に連れて行った私にも、彼女の激昂が向けられるかなんて戦々恐々としつつも言うと、存外ナズーリンは素直に私の腕の中で暴れるのを止める。
「……何だい。私は当然君にも怒っているぞ犬走椛。ホイホイ誘いに乗ってしまったご主人が一番悪いが、それでも君がご主人の素性を知りながら酒場に誘った事は、確かなんだからな」
手を離すと私に向き直ったナズーリンが、大いに眉根を潜める。
あー、やっぱ怒ってるわー。
「えーっと、その事なんすけどね……実は寅丸さんも私も、昨日の事をさっぱり覚えてなくてっすね」
「それが? アホみたく自分のペースも考えずに酒を飲んで、それで前後不覚に陥っていたのだから許せと? 冗談じゃないぞ。当然君も殴るつもりだ。顔はあれだから、腹パン一発で勘弁してあげよう」
「いやぁ……お腹は今ちょっと……駄目な理由が……」
「駄目な理由……?」
怪訝そうな表情で、ナズーリンが私の腹部をチラと見る。先ほど寅丸に見せつけたまま服の乱れを直していなかったので、ふっくらした我が腹部は露わになっている。
それを見た途端、ナズーリンの顔色がサッと青褪めた。
そりゃあもう、引き潮みたく。
「と、と、寅丸星ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!!!」
跳ねるように寅丸の襟首を掴んだナズ―リンが、それを盛大に前後に揺すぶる。呆然としている寅丸の頭は、首が座っていない赤子みたいにガクンガクン揺れた。
「や、やってしまったのか!? やってしまったのか!? 君か!? アレの生産元は君か!? 毘沙門天代理でありながら、君は命のリレーに加わってしまったのか!? ラブをメイクしてしまったのか!? ベイビー生誕のプロセスを踏んでしまったのか!?」
「違います! 違います! 違うんですホント!」
「じゃあアレは何だ!? 昨日はあんなじゃ無かったぞ!? 私を蹴散らした後でしっぽりふけ込んだ以外に説明ができるのか!?」
「あ、ちなみに我々は全裸で目が覚めたっす」
私がダメ押しの一発を送ると、振り向いたナズーリンの目が真ん丸になる。
よっしゃ、取り敢えず認知は済んだ。
「ハイ決定! 確定! 犯人は君だ! デデーン! 寅丸! アウトー!」
「誤解です! 誤解ですぅ! 誤解なんですよぉおおおおおおお!!!! うわああああああああああああん!!!!!」
あ、泣いちゃった。
よしよし、今は泣いても構いませんよ。あ・な・た。取り敢えず養育費の為にも、親権はぶんどっておこう。お寺は結構繁盛してるみたいだし、そこそこ引っ張れるでしょう。もうちょっと広い家に住まないと、子育ては無理だろうなぁ。
「だ、だ、大体一晩であぁはなんないじゃないですかぁ! それに我々は同性ですぅ! 物理的に無理なんだから、責任の取り様も無いですよぉ!」
泣きじゃくりながらも、しっかり自分の弁護を図る寅丸。ちぇ。なし崩しに事が進むという訳にも行かないか。事実それは正論だし。
「じゃあ、なにか! 昨日一緒に居た河童の仕業とでも言うつもりか!? 尻小玉が追加されたなんて言い張るつもりか!? そんな言い訳が通用すると思うなよ!?」
……ん?
ナズーリンの口ぶりから、私は何か思い出せていない情報の一端に触れた気がした。
「――ちょっと? ナズーリンさん?」
「何だい!? ちょっと待ってろ! この大馬鹿者は熨斗を付けて贈呈するから!」
いやまあ、私が欲しいのはコイツじゃないんだけど。
なんて思いつつも私は、ナズーリンを寅丸から引き放した。
「ちょっと昨日の話、教えて貰っても良いっすか?」
◆◆◆
ナズーリンが我々を見つけたのは、酒場を後にした我々が千鳥足で大通りを歩いている所だったという。
すっかり酩酊した主人を見つけて叱りつけようとした所、酔った私がいちゃもんを付けて組み敷き(山岳警備の職業病とでも言うべきか。酔っていても尚、ナズーリンを捻じ伏せるのは簡単だったらしい。複雑な気分だ)、寅丸の痴態を黙認する事と、萌え萌え語で喋る事を強制したのだとか。
それを順守させるために寅丸が人質(人じゃないけど、その時の彼女はそう言ったそうだ。正しくは物質? いやいや)として、ナズーリンのペンデュラムを強奪。
その後は、妖怪の山の夜へと消えて行ったとの事。
成程。全っ然覚えてない。
家の中をざっと探したけれど、ナズーリンの言うペンデュラムは見つからなかった。昨日身に付けていた服が無いので然も有りなんという感じだったけど、これにナズーリンは再度激怒した。
「ペンデュラムは毘沙門天様からの支給品だ! 無くしたと報告するなら、どうあっても君の悪行は話す事になる! 諸々が解決するまでは帰って来なくていいからな! もしもの時にはしっかりと責任を取れ!」
そんな言葉をありがたく頂戴し顔が真っ青に染まる寅丸を連れて、私は登山道を歩いている。目的地までは飛べば一発なのは判っちゃいるけど、体調が芳しく無さ過ぎて飛ぶのは勘弁願いたい。最悪戻しそうだ。吐瀉物を空から散布して、痴態を更に追加するのは私も寅丸も望んでいなかった。
ナズーリンとは、凄惨極まる我が家で別れた。
もしかしたらあの瓦礫の中にペンデュラムがあるかも知れないのでそれの探索と、ついでに部屋の掃除もしてくれるという。果てしなく良い子だ。昨日はゴメン。覚えてないけど。
「――しかしこれは、一体誰をどう殺せば、こんな状況になるんだ」
壁一面に広がった血痕を呆然と見ていたナズーリンを思い出す。家中を元通りにするには、雑巾が百枚単位で必要かもしれない。
「……良く判りませんが、それ、血じゃないんじゃないんですかね?」
やつれた寅丸が、麦茶を口に含みながら言っていた。確かに血の臭いは皆無だった。しかしながら現に汚れているのは間違いなく、その出所も判らない。
結局私たちは昨日仕出かした事を、順に思い出して行くしかないのだ。
思い出せなかったとしても、知って行かねばならないのだ。
責任やら義務やら、お利口な事を言うつもりは無い。純粋に、知らなきゃ今後の生活が成り立たないという必要に駆られているだけなのである。
で、私たちが現在向かっているのは河童の住処だ。
ナズーリン曰く、昨晩の私たちにはどうやら連れが居たらしい。二人で酒池肉林を味わっていた記憶以降はぷっつり途切れているので何とも言えないけれど、聞く限りどうもそれは河城にとりだった様なのだ。
身内同士籠りがちな河童が、わざわざ飲み屋街まで出て来るなんて……とは思ったけれど、泥酔していた私が何を言っても説得力はない。もしかしたら使いか何かを出して強引に呼び寄せたのかも知れないし、本当にたまたま彼女が飲み屋に来たのかも知れない。どうあれ、その手掛かりに縋る以外に選択の余地は無かった。
「しかし何で、記憶がぶっ飛ぶまで飲んじゃったんすかね?」
手慰みにスナイパーライフルを弄りながら私は隣を歩く寅丸に言う。出歩く時には帯刀するのが、白狼天狗としてのささやかな矜持なのだけれども、愛刀も盾も無いので仕方なく代用している。まぁ、殺傷能力はこちらの方が遥かに上で哨戒としちゃ過剰防衛気味ではあるし、ぶっちゃけ重いのだけど、手ぶらで歩くよりはマシだった。
「……余程強いお酒じゃ無きゃ、私だって前後不覚になったりしないとは思うのですけれどもね」
「私だってそうっすよ。これでも天狗だし……ただ、あの店にそんな強い酒の蓄えは無いと思うんですがねぇ」
「薬でも盛られたとか?」
「誰が? 何の為に?」
「それの為に」
寅丸が私の腹を指す。言わんとしてる所に気付いてゾッとする反面、コイツはどうしてそんなエゲつない想像ができるんだ、なんて、またしても仏教徒としての彼女を疑った。
「うへぇ。考えたくないっすね……じゃ、何でアンタは無事なんすか? ……成程、またアンタへの疑惑が前進しましたよ……」
「な、ど、どういう事です!?」
「本当は記憶を無くしてるのは私だけ。アンタは一緒に記憶を無くした振りをしてる。そうやって被害者を装う事で、自らの犯した過ちを誤魔化そうと――」
「ちが……! 違います! 違います! 断じてそんな事はありません! 神に誓ってそんな悪行を働いたりはしません!」
「つってもアンタだって、代理とは言え神でしょ? じゃ、その宣言は信用できないっすねぇ……そりゃ、自分に何を誓った所で、破った時の免罪符は発行自由じゃないっすか」
「で、ですから我々は同性で……! そして私は、一晩でそこまでお腹の子を成長させる術なんか何も――」
「あ、見えて来ましたよ。にとりの家はあの辺っす」
弁解をぶった切って、スナイパーライフルを肩掛けにしつつ、枯れて尚も枝に引っ付いている未練がましい木の葉の隙間に窺える沢を指差すと、寅丸はあぅあぅと何も言葉を重ねる事ができなくなり、しどろもどろになる。
清廉な仏教徒を装う反面、しっかりと妖獣としての本能を残している以外に気付いた事。
コイツ、弄ると面白い。
「じゃ、降りますわ。話つけて来るんで、アンタはここで待っててください。河童さん方は人見知りが激しいんでね」
「えぇ、気を付けて下さいね。お腹に障らない様に」
「む……」
なんとなんと、ここに来ての優しさアピール。
不覚にも少し見直してしまったじゃないか。無かった事にしてくれと叫んだ先ほどの事が嘘の様だ。ギャップ萌えか。いや違う、私は萌えてない……誰に対する反論だ?
「――ま、何て事は無いっすよ」
言って私は登山道から飛び降り、滑空するムササビの感覚で両手を広げながら風を切る。幻想郷の妖怪の嗜みとして空を飛ぶ能力を有している私でも、烏天狗じゃあるまいし自由落下の速度まで加速すれば制御は不可能で、そんな高速での移動は中々清々しい物がある。スナイパーライフルを携えながらのスカイダイビングとは剣呑な話だ。
さて何事もなく着地を決め込んだ私は、透き通った水底へと一瞥をくれてから沢の岸に誂えられた呼び鈴を鳴らす。住処が水底にあるんじゃ、河童以外の種族はドアをノックする事が叶わないが、そこはギークである河童の事。しっかりと対策は機械仕掛けに済ませている。各住居用に一つ一つ呼び鈴が作られていて、それを鳴らせばあちらさんとの会話が可能なのだ。無線とかいう技術らしい。
「……ふぁい」
ザラザラとした機械音のフィルターを介して、にとりの眠たげな声が聞こえて来る。如何にも夢現なのは、寝起きだからだろうか。
「あー、椛だけどs」
「ひゅい!?」
挨拶も尻切れトンボに、あざと過ぎる驚嘆が耳を劈いた。やべぇ。この反応。私は彼女にも何か変な事をしてしまったのだろうか。どっから謝って行けば良いかなと考え始めた私の思考に「――哨戒隊長殿!」と畏まり切った聞き覚えのない呼称が差し込まれ、浮上途中だったごめんなさいが雲散霧消した。
……え? 今なんつった?
「隊長殿! よもや貴女の様なお方にお越し頂けるとは、このにとり思いも寄りませんでした! 身に余る僥倖にございます!」
「にとり?」
「ああ、みなまで言わないで下さいませ! 聡明にして豪胆! 強大にして慈悲深い事極まりない! 如何なる美辞麗句も、貴女の前では霞んでしまいますもの! そのような貴女からの玉言、賜るには心の準備が必要なのですから!」
「にとり?」
「よもや私めに御用なのですか? あぁ、何と恐れ多い! 河童世界広しといえど、その様な栄誉に預かれる幸福な者など居ますまい!」
「河城さん?」
「少々お待ちを! 親を殺してでも貴女の前に馳せ参じますので! すぐに!」
「いや親は大事にしろよ」
「あああああ~~~~~~~~勿体ない! 貴女のお言葉を私なぞの鼓膜と脳に捨て置くなど! 今すぐにでも蓄音機を作り上げ! 貴女の玉言を余すところなく後世に伝えたい所なのですが! 貴女の前に参上し! 靴を舐める事が先決かと存じますので!」
「…………」
うわー。
どうしよう。
私は何をにとりに強要してしまったのだろう。
いやこれでも私たち、結構気心知れたお友達だった筈なんだけどなぁ。将棋だって何百戦ともなく一緒に打った間柄だというのになぁ。親友が遠くへ行ってしまった寂寥感だ。遠くへ追いやってしまったのは私なんだろうなぁ。サノバビッチ昨日の私。
自己嫌悪の念に苛まれていると水面が爆ぜ、飛び魚みたいな大ジャンプを決めたにとりが私の目の前に降って来る。これ以上ないって位に部屋着――というか寝巻だった。コイツこんなシースルーなネグリジェ着て寝てるのか。女子力は高いが風邪引きそうだ。そんな慌てふためいた様相にもかかわらず、いつもの帽子は忘れてない所は流石といった所だった。
「……その、にとりさん?」
「うん、おはよう。椛」
…………………………………………。
……………………。
…………。
あれれー?
何とかして靴を舐めさせるのを窘めようと考えていた私の思惑は盛大に外れ、目の前の少女はいつも通りのにとりだった。
突っ込み所が多すぎる。
いまさら多重人格者だったなんて痛い設定を付け加えられても……その、困るぞ。
「アンタ大丈夫なん? 良く動けるね? 二日酔いとか無いの? いやぁ、天狗様はお酒に強くって羨ましいねぇ。怖いくらいだ」
「……あぁ、いや、何と言うか……その……隊長がどうこうとか言ってたけど?」
「へ? 嫌だなぁ。まだ酔ってんの? 流石に私は『あの』ごっこ遊びに付き合う気は無いよぅ。仙川の奴が一緒に居たから一応話は合わせたけどさ。アイツ怒ると怖ぇんだ」
カラカラと笑うにとりを見て、私はもうこのまま心臓が止まってしまうんじゃないかと思う位に安堵する。良かった。私は酒の勢いで友達を失わずに済んだか。
しかしながら――
「……せんかわ?」
知らない名前だ。
もっとも、私だってそんなに河童の中で顔が広いって訳じゃないけど。
「うん。仙川。忘れちゃった? 昨日はあんなに仲良さげだったのに」
「あー……それなんだけど。実は私、昨日の記憶が――」
「お、気に入ってくれてるみたいだね。それ」
私の言葉を遮ったかと思うと、にとりは嬉しそうに私の手元を指差している。
いや、手元というか……スナイパーライフルを、だ。
「良いでしょそれ。『山組』の奴らにも好評だよ。娯楽ってのは大好きだよ。良い金になってくれるもんね」
「……これは、にとりが?」
「んー、まぁ、そうだよ。生産元は……って言うか、今更だなぁ……記憶喪失? いやはや、然もありなん、かな……『あんなん』飲んじゃ、流石の天狗も形無しだろうしねー」
「ちょちょちょちょちょちょちょ、にとり……何? 今なんて言った?」
思わずスナイパーライフルを取り落として、私はにとりの肩を掴む。スナイパーライフルのぞんざい過ぎる扱いにびっくりしている彼女の表情すらも気にする余裕がない。
どうやらにとりは、私の知らない事を沢山覚えてくれているらしい。
スナイパーライフル然り、記憶を無くしたこと然り。
これは一気に全部が解決してくれるのか。やはり持つべき物は友。私の、最高の友達。今なら私は例えにとりが概念に成り果てても愛せる自信がある。
「な、なに? なに? 椛さん? 目が怖いよ?」
「ゴメンにとり! 順に! 順に説明してくれ! 昨晩のことを! 私なんにも覚えてないんだ!」
土下座をも視野に入れた形振り構わない懇願に、にとりは多少、というか凄くドン引いた様子だったけれども、頬を掻きつつ「うーん……」と昨日の記憶を探り始めてくれた。
「そーだねぇ……まずはアンタに呼び出された所からかな?」
「呼び出したのか! 私が! ゴメン! それで!? 続けて!」
「いや全然良いんだけどさ……居酒屋の丁稚が訪ねて来てぇ、アンタが見慣れない奴と飲んでて私を呼んでるっつーからぁ、そんじゃ酒でも持ってってやるかと思ってぇ、でも手元には洒落で蒸留した『スピリタス』しかなくってぇ……」
「へ? なに? す……?」
「いや、洒落だったんだよ? マジマジ。大マジ。あんな化け物みたいな純度の酒、持ってった所でまさかラッパ飲みするとは思わないじゃん? それに死ぬよっつっても聞かないし? お連れさんまで飲み出すし? ……ところでアイツ、寺んとこの本尊だよね? お酒なんか飲ましちゃって良かったの?」
「それは今は良い! 今は良いから! そ、それで!? そのスピ……何とかってなに!?」
「だからお酒だって。つっても、度数が九十幾つっていうアホみたいに高純度なアルコールだけどね。それをあんな飲み方しちゃあ、記憶が無くなっても無理はないさね」
カラカラ笑うにとりとは対照的に、取り敢えず私は絶句する。
一般的な日本酒なら、アルコール度数は十度かそこら。
単純に考えて九倍の酒をラッパ飲みとは。
アホか。うん、アホだな私。なるほど。居酒屋に入った前後の記憶が無くなってしまってるのは、にとりが持参したお酒のせいらしい。それは判った。幾ら天狗が酒豪とは言え、角の生えたどこかのお偉いさんと言う訳でも無し。限度はある。
何というけったいな代物を持って来てくれたのだこの親友は……いや、結局私だな。にとりに罪はない。無理な飲み方を窘めてくれた様だし。あぁ、頭が痛いなぁ。二重の意味で。
ただ。しかしながら。
それで疑問がまるっと解決してくれたと言う訳では断じてない訳で。
「――そ、それから……!? それから、どうしたんだ!? 私らは!?」
藁にも縋るような心地で、私はにとりの肩を掴んだままに先を促す。藁にも縋るっつったって、その対象が他種族を水の中に引きずり込む妖怪という所は、我ながら如何ともし難い矛盾を感じなくもないのだけれども、まぁそんな言葉遊びに興じて笑っている余裕は無い。
聞かなきゃいけない事は、まだまだある。
血糊とかペンデュラムとか。スナイパーライフルとか私の仕事道具一式とか。
お腹の中のベイビーとか。
「わ、判った判った……そんな急かすなよぅ。アンタ目が血走ってるよ。怖い怖い……あー、それで、そうさねぇ……持ってったスピリタスをアンタらが空にしちまった後で居酒屋をお暇してぇ……」
「それで……ネズミの妖怪に会った?」
「お、そうそう。なんだ、まるっきし忘れちまった訳じゃないんだ?」
「違う違う。ソイツにはさっき会ったんだ」
「あらま、そっかー。ご愁傷様だねぇ。怒ってたっしょ?」
「そりゃもう、すんごく……それは良いんだ。で? そこから?」
「うん……で、ネズミを椛がのしちまった後で、私がアンタら二人をここに連れて来たんだわ」
「……なんで?」
「なんでって、そりゃあ――」
――と。
にとりが小首を傾げたその途端の事だった。
ざばあ、と、沢の水面が爆発でもしたかのように大きな水柱を空へと伸ばしたかと思うと、ハッとなったにとりが肩に乗せていた私の両手を振り解き、即座に膝を折る。丁度私に跪く様な体勢へと移行するのに、数秒も要しない俊敏な動きだった。
……え? 何が起きたん?
呆気に取られた私の疑問は、にとりの横へと降って来た一匹の妖怪の姿によって解消される。迷彩柄の服を纏い、明るめの金髪を肩までで揃えた河童と同種と思しき彼女は、にとりの横で私に跪いたかと思うと、何の躊躇いも無く私の下駄にキスをしようとして来た。呆気に取られている暇すら無かった。
「ちょちょちょちょ!!!! マズイって! 止めて!」
足元に迫って来た唇から逃れる様に下駄を引く。私の足に逃げられた迷彩服さんは、どこか凛とした表情を残念そうに歪め、「――哨戒隊長殿の命ならば、従う事に疑念は御座いません」と呟く。
……あー。
この不思議ちゃんが誰なのかは、聞くまでも無いな。
にとりが突然跪いた事といい、服従表明に対する躊躇いの無さといい、若干性格のきつそうな顔つきといい、多分この子が仙川さんなんだろう。なるほど怒ったら怖そうだし、私の事を哨戒隊長とか呼んで来るし。
「しかし靴を舐められないのならば、私は如何様にして貴女への服従の念を示せばよろしいのでしょうか……服を脱ぎますか? 犬の真似がよろしいですか? 一言言っていただければ、すぐにでも」
「…………」
怖ッ!
怖い怖い怖い! 眼がマジだ! この子マジで私が言ったら何でもしちゃうよ!
何だこの狂信的な態度! 私はこの子に何をしてしまった!?
「こ、こほん……」
咳払い。感情をニュートラルへ。
「取り敢えず、何もしなくて良い。良いね? ついでに立ってくれ。話し辛い」
「逆立ち……でしょうか」
「何でそうなる」
因みに仙川さんはパンツスタイルじゃない。小ぶりなスカートを履いている。必然彼女が逆立ちをすれば、不可視であるべき桃源郷が丸出しになってしまうだろう。
何故この子はこんなにも辱めを欲しているんだ。
これじゃ狂信じゃ無くてただの変態だろ。
「――椛さああああん!!! 何があったのですかぁあああああ!?」
仙川さんのぶっ飛び具合に呆然としている私の耳に、寅丸の声が届く。頭上を見上げると彼女が先ほどの私同様に自由落下の様相で降って来ていた――
……ん?
…………んん?
不味くね?
これって私に激突するラインじゃね?
あのスピードじゃ咄嗟に身をかわすのは無理なんだけど。少なくとも私は。毘沙門天代理は私よりも空中での動きに長けているのか……あ、違うわ。あのバカの顔が引きつってるわ。後先考えず飛び降りたせいで、誰かにぶつかる危険性を全く考えてなかった顔だわ。良いから速度落とせよ……あらら、駄目だ。ありゃ、パニクってるな。もしかして飛ぶのに慣れてないんじゃないか? 長い事本尊やってたみたいだし、そりゃ身体は鈍るわなぁ。
あー、ぶつかる。確実にアイツの超々高度フライングボディプレスを喰らう羽目になる。参ったな。今や一人の身体じゃないんだけどな。つーか仮にそうじゃ無かったとしても、普通に重傷っつーかぺっちゃんこルートだな。ハッハッハ。
思ってる場合か!
ヤベェヤベェヤベェ死ぬぞ! 私死ぬぞ! 毘沙門天代理のうっかりで死ぬ! 殺される! 落石事故よりもアホな死に方だぞ! 末代まで笑われるわ! いや私で末代だ! うわあああああああああああご先祖様御免なさい! 誇り高き犬走姓白狼天狗の皆々様! 愚かな末代の死を許して下さい! あの世で怒らないで!
――さて。
事故った時は周囲の景色がスローモーションに見えるってのは御定説だ。アドレナリンどうこうがまさか妖怪である私にも適応されるとは思わなかったけれど、私は全く持ってどこかのメイドみたいに時間感覚が変動した世界を視ていた。
だから視界の端で僅かに見えた『彼女』の行動も、つぶさに観察する事ができた。
『彼女』――仙川さんは飛び降りて(というか墜落して)来る寅丸を視認するや否や、私が足元に放ったばかりのスナイパーライフルに飛び掛かったかと思うと、ローリングを経由して掴んだ銃を上空へと構える。
「――Aim(構え)!」
堂に入った動作だった。
体幹には些かのブレも無く、片目をつむって照準を合わせる様は如何にも冷静沈着で混乱も躊躇も皆無。引き伸ばされた時間の中で何をする事もできず、私は棒立ちのままで視界一杯に膨れ上がる寅丸の姿と、目の端に辛うじて窺える仙川さんを見ていた。
にとりが両目を見開いている。
私は口を開く事もできない。
「――Shoot(撃て)!」
ダン、と。
鼓膜を撃ち震わせる爆音がした。
生命の危機にあっていつもより鋭敏になっていた私の『眼』が、赤い流線型の何かが寅丸目掛けて一直線に進むのを視た。その赤い何かは寅丸の腹部を寸分の違いも無く捉え、真紅の液体が彼女の腹部で破裂する。
破裂した冷たく粘性の紅が、
私の頭上から降り注いで来る。
着地を意識の彼方に吹っ飛ばしていた寅丸の身体は、彼女を抉った横方向からの力に押されて軌道を逸らし、私の身体から沢の水面へと最終目的地を移行させる。寅丸の肢体は仙川さんが出現した時と同じような水しぶきに飲みこまれ、赤く染まった私は『眼』で『視』た光景の全てを信じ切れずに硬直する。
ぎこちなく仙川さんへと視線を移すと、
彼女が構えていたスナイパーライフルの銃口から、一筋の煙が昇っていた。
「……手荒な真似をしました」
「ひゅう……流石仙川。『山組』狙撃グループのエース」
「エースだなどと……烏滸がましい。隊長殿と比すれば、私などは蟻だ」
真っ赤な液体に塗れた私を無視する様に、
撃墜され、沢に落とされた寅丸を気にも留めず、
二匹の河童は重大な空気の欠片も無い朗らかな会話をする。
――空白になっていた私の意識が、徐々に徐々にアラートモードへと移行する。
困惑。
焦燥。
恐怖。
恐慌。
身体の硬直が薄れて行き、早鐘の様に鳴る心臓からは悍ましき感情が激流のように溢れ出す。現実を拒絶する反射神経を経て、私は漸くあるべきリアクションを思い出す。
ぽっと出のオリキャラが、五ボスを射殺する。
そんな事が起きて堪るかと思ってらっしゃるでしょう読者の皆さんも、ご唱和ください。
せーのっ
「――う、うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」
水面に浮かび上がって来た寅丸の元へと駆け寄る。太ももよりも深くなったところで泳ぎのモーションへと入り、ぐったりとした彼女の身体を抱きすくめた。
「寅丸さん! 寅丸さああああああん!」
貸し与えた服の腹辺りは真っ赤に染まり、それが沢の水へと溶け出て赤い絹糸が揺蕩っている様な光景を生み出していた。刹那のブラックアウトを経験していたらしき寅丸が、私の呼びかけで薄らと目を開ける。
「しっかりして下さい! 生きてますか!? 自分の事が判りますか!?」
「ぅ……わ、我は李徴……臆病な自尊心と尊大な羞恥心により――」
「ボケてる場合かああああああああ!」
兎にも角にも寅丸を岸へと引っ張る。彼女をけん引する軌跡はみるみるうちに赤く染まり、そんな非現実的な光景に私は戦慄する。それとは裏腹に畔に佇む二匹の河童は、『何やってんだコイツ?』と言わんばかりに怪訝な表情をしていた。
「……急にどうしたん? 椛?」
「こら河城。幾らお前が予てからの友人とは言え、隊長殿に気軽な言葉を吐くのは感心しない。山童全体を敵に回すのは嫌だろう? 私には判っている。隊長殿はエチュード(即興劇)にも長けてらっしゃるのだ。いやはや天は二物を与えずとは、本物の天才を前にすれば斯くも当て嵌まらんものか」
「どうでも良いけどアンタそのキャラ色々と怖いよ。左手が猿だって言い張ったりしないでよ?」
「そこの河童二人! のんきに喋ってる場合か! ふざけんな!」
寅丸を畔まで引き上げつつ、二人に一喝する。にとりも仙川さんも、ほとんど恐慌状態に陥っている私のテンションの源泉が理解できてないのか、首を傾げて顔を見合わせた。
「いや……そりゃあ、仙川の行動は手荒っちゃ手荒だったけどさ……そんな怒鳴り散らす程じゃないんじゃん? アンタが危なかったし、流石にあの程度で死ぬ訳もあるまいし」
「手荒どころの話じゃないだろ! あの程度!? 普通に致命傷じゃねーか!」
「確かに人間ならば、あの高さからの飛び込みは命に関わるとも聞きますが……その方は毘沙門天代理の虎の妖怪でしょう。ちょっとびっくり、ちょっと痛い程度ではないかと愚考致しますが……」
「ハイ肝心な部分すっ飛ばした!! 仙川さん自分の罪から目を背けたよ!? 狙撃されてちょっとびっくり、ちょっと痛いで済むか! 死ぬでしょ!?」
「ふふ……遺体だけに……ですか?」
「くたばれええええええええええええええええッ!!! 冗談言ってる場合じゃねえんだよおおおおおおおおおおッ!!!!!!」
「――あー……椛、何か誤解してるね……あ、そっか。記憶ないんだっけ? あちゃー……成程ね、昨日の事を覚えてないんじゃ、そうもなるかねぇ……」
「だから河城、敬語を使えと……え? なんて言った?」
仙川さんを無視したにとりは後頭部を掻きながら、ぐったりと倒れ伏す寅丸へと歩み寄った。そして大儀そうに、肩で息をする私の横を素通りして寅丸の服を捲る。大口径の穴が開いているという私の予想に反して、そこにはつるりとした普通の白い肌があるだけだった。穴と言えばへそだけだ。
「…………んん!? あれ!? 無事だ……」
「当たり前じゃん。さっき私も言ったっしょ? 『娯楽は金になる』って。娯楽じゃモノホンの武器なんか作んないよ」
「え……でも……」
確かに血が出てたじゃないかと反論しようとした所で、気付く。
私が浴びた、血だとばかり思っていた赤い液体は、『冷たかった』。
それに血みどろになっていたとばかり思っていた服の汚れも、沢の水に溶けて粗方落ちてしまっている。染みつく様子もなく、まるで夢のように。
「話が見えないのですが、まさか……隊長殿は、昨晩の出来事を忘れてしまっておられるのでしょうか……?」
仙川さんが、恐る恐るといった様子で私の顔色を窺って来る。スナイパーライフルを大事に抱えているその手が、僅かに震えているようにも見えた。
「んー……椛は泥酔してたからねぇ……まぁ、私のせいっちゃ私のせいなんだけどさ」
「し、しかし……彼女は、私の銃を、持って来……え?」
「仙川、アンタが説明してやんなよ――アンタが説明してあげれば、椛も昨日の事を思い出してくれるかもよ? あんなに仲良くしてたんだからさ」
ポン、とにとりが仙川さんの肩に手を置く。受け入れ難いとばかりに弱々しい瞳が一瞬にとりを見、そして私を見た。話を聞く事を乞うて私が頷くと、仙川さんは小さな溜め息を吐いて空を仰いだ。
「――さらば、私の初恋」
「え?」
「……椛さん」
スナイパーライフルを置いた仙川さんは、私のリアクションを無視してその場に正座する。残念ながら私は良く居るラノベ主人公みたいに致命的な難聴症候群に感染してないので、彼女の独り言がハッキリと聞こえてしまった。
――そして彼女は私の事を、
隊長殿とは、呼ばなかった。
「お話しましょう。昨日の事を、知っている限り――」
◆◆◆
ナズーリンと別れ(放置と言った方が正しいが)、にとりの先導で河童の沢までやって来た我々の目的とは、山童たちが熱中しているというサバイバルゲームに混ぜて貰う事だったらしい。
近頃とある事件によって河童の一部が山童へと宗旨替えをし、それによって闘争心が強まった彼女らが興じている遊び。最初こそ白兵戦がメインだったのだが、そのゲームが繰り返されるに連れて、より洗練された戦略、より強力な武器が求められていくようになるのは市場の原理として当然だった。
そこに目を付けたのが、にとりを始めとした道具弄りの大好きな河童たちだ。
彼女たちは銃という概念をサバイバルゲームへと組み込むために画策した。
無論、その方が金になるからだ。
最初こそ巻き添えを危険視して飛び道具の導入を拒んでいた山童たちだが、河童たちは銃弾から危険性を摘み取る事によって、山童たちの忌避感をも摘み取る事に成功した。
それが、私の手にしていたスナイパーライフルの様に、『ペイント弾を発射する銃』の開発だった。
ペイント弾は水溶性かつ自然に優しい素材で作られているらしく、仮に流れ弾が人間に当たっても怪我をしない様に配慮されているとの事。塗料は赤く被弾も即座に判り、当たった当たってないの水掛け論まで解消される。白兵戦以上に戦略や戦局を高度に洗練させてくれる事から、山童たちの間で瞬く間に銃の使用がスタンダードとなって行った。
その功績を居酒屋でにとりから聞いた事で、私たちは河童の沢まで行くことを決めたらしい。これはにとりからの談。
さて河童の沢に辿り着き、夜戦に興じていた山童たちからサバイバルゲームに混ぜて貰った私らの戦力たるや勇猛果敢に獅子奮迅、一騎当千だったらしい(仙川さんの語り口調に熱がこもっていた)。まぁ泥酔していたとはいえ、少なくとも私はこれでも現役の軍人(天狗だけど)なのだ。ゲームに興じる山童とは一線を画すのは然も有りなんといった所だけれども、アマチュアを次々蹴散らすプロって響きは大人気なさ過ぎて死にたくなる。
「お二方は――強過ぎました」
どこか夢のように陶然と、仙川さんが言う。
「『眼』の良さ、鋭敏なセンス、比類なき腕力、そして経験に裏打ちされたその実力は、私のみならぬ山童全体を魅了するに余りある物でした。闘争心が多少上がって日夜サバイバルゲームに精を出しているとはいえ、我々は軍隊としての経験を積んだわけではありません。椛さんと星さんは、そんな軍人かぶれの我々にとって、眩しすぎる憧れと映りました」
「……私も、ですか?」
困ったように寅丸が尋ねる。高々度からの無謀な高飛び込みへのダメージこそ多少はあったもののそこは妖怪。ものの数分でケロリと回復してしまっていた。
「えぇ」
些少の迷いもなく、仙川さんが寅丸へと頷く。
「私が椛さんを尊敬――否、崇拝でしょうか……していましたのは、偏に私が狙撃専門の戦闘員として在ったからです。貴女の強大さは、白兵戦に拠るソレでした」
「は……白兵戦……」
「はい。『アタシに武器なんかいらねぇ全員殺す気で掛かって来い! 不意打ちだろうが騙まし討ちだろうがオールオッケーだ! 良いか山童共! お前らが相対してるのは一匹の妖怪じゃねぇ一国の軍隊だと思え! 国を潰す気でアタシを潰してみせろ!』と。そうおっしゃっておりました」
「誰だよソレもう。今日日ラノベでもそんな反則系理不尽強力キャラ出さねぇだろ」
「…………お恥ずかしい」
耳まで真っ赤になった寅丸は両手で顔を隠してしまった。
もう、何つーか、酒乱ってレベルでは無いな。
お酒って怖いなぁ。
「そして事実、星さんは白兵戦専門の山童を一人残らず打ち据えてしまいました。思い思いの得物を手に手に百人体制で立ち向かいましたが、誰一人として丸腰の貴女に切りつける事すら叶わず――既に山童の中では貴女の名前はカリスマとして認知されており、【冥夜に溶け込む黒き金剛】(ブラックダイヤ・ダーカー・ザン・ダーク)と皆が呼んでいます」
「え? え? え? え!? 何ですかその痛々しいコードネームみたいなの。青臭すぎます。やめて下さい。もだえ苦しんで死んでしまいます」
「しかし、当の貴女にそう呼べと要求されましたので」
「私ですか? 私がそんな事を言ったのですか? どうしてその時一思いに殺してくれなかったのですか? 今死ねばその過去から逃げられますか?」
「………………ひゅー。かっこいー。ブラックダイヤダーカーザンダークさんマジパネェ。クソリスペクトっすわー」
「椛さんホント、ホントやめて下さい。ホントにやめて下さい、もう、もうホント、これだけは冗談じゃ無く、もう、ホントにやめて下さい」
涙目で取り縋って来る寅丸から、私は顔を背けた。
真正面からコイツの顔を見てたら、笑い死にしてしまうと判っていたからだ。
「因みに椛さんにも、我々が付けたコードネームが」
「嘘!? やばい! 嫌だ! 見事なブーメラン! やめて! 死んじゃう!」
「超々距離からの、針穴に糸を通す様な正確な狙撃、誰からも認知のできない完璧な隠密行動、桁違いな情報探査能力。それらを加味して――」
「いや! いやあああああああああ! 聞きたくない! 聞きたくないな!」
「――【全然見つからない糸通し】」
「悪意がある!」
ダサい! ダッッッッッッッッサい! そんなうっかり無くしちゃった道具みたいに呼ばれても! 畏敬とか尊敬とか嘘だろ! 完全に遺失物扱いじゃん! 情報探査能力の要素無いし!
「………………ですって、全然見つからない糸通しさん」
「うわぁ……思った以上にダメージ無いっすわー……『自称』ブラックダイ――」
「それ以上は言わせません!!!」
むぐ、と口を塞がれる。思わぬところで寅丸のトラウマをゲットしてしまった。文々。に売り付ければ結構な額の金になってくれそうだが、連鎖的に私の痴態まで公開されてしまう事になるので諦める他にない。大体アイツの新聞売れてない以上に売ってないし。ばら撒いてるだけだし。
「コードネームがダサい事は兎も角として――」
認識あんのかい。
ダサいと判ってるんなら付けないでよ。そんな呼び名。
「銃の扱いすら知らなかった椛さんの狙撃能力は、しかし神の域に達していると私は思いました。シモ・ヘイヘですら、裸足で逃げ出すのではないかと思う程に。山童の中では最も狙撃の腕に自信があった私ですが、私なんかとは比べる事のできない領域に、昨晩の貴女は存在していました。羨望さえ届かない。嫉妬など烏滸がましい。ヘラヘラと陽気に笑いながら、半里ほども(※1.5kmくらい)先の兵の眉間を撃ち抜く……私は、貴女のその高い能力に、すっかり惚れ込んでしまったのです」
「惚れ込む……かぁ……」
「メロリン・ラブでした」
「なんでキャッチーに言い換えたの?」
「意を決して貴女に狙撃のコツを手取り足取り教わった時の興奮は、今でも忘れがたく私の身体の芯に刻み込まれています」
「……なるほど」
それが、さっきにとりが言っていた『あんなに仲良くしていた』のシーンか。
「正直、濡r――」
「仙川さんそれ以上言ったらおこだからね? ぶっ殺だからね?」
……まぁ、兎も角。
昨晩私らがここでやった事に関しては、おおむね理解した。これで我が家の惨事にも説明が付く。壁一面に広がっていた血痕は、ペイント弾に拠る物だった様だ。
にしても、なぁ……。
愛着の湧いている家の中でそんな画期的な銃を乱射してしまったとは。にとりのスピリタス恐るべし。酒乱どうこうで茶化す権限は、私にも寅丸にも無さそうだ。
「そうだ、椛」
心なしか寒そうに肩を抱くにとりが、くしゃみを一つした後に私の名前を呼んだ。太陽も天高く上がって来ているとは言え、さすがに寝巻じゃ寒いだろう。
「ん?」
「言うの忘れてた。剣と盾、預かってるけど、どうする?」
「え? あんの?」
「うん。昨日預かりっぱなしだった」
なんとなんと、ここに来て懸念がまた一つ解決してしまった。いやはや昨晩は随分ここではっちゃけたんだなぁ。全然思い出せないけど。
「そんで……服は?」
「服? いや知らないよ? なんで?」
「あー……いや、良いんだ」
「そう? 良く判んないけど、少なくともここらには無いよ。まさかこんな季節に、外で服を脱いだりはしないっしょ」
「……うん」
歯切れ悪く返す私。
我が家の荒れようを目にしてるだけに、昨晩の泥酔した私たちならそんな馬鹿げた事をやりかねない……となるとまさか、どっかで服を脱いで、そのまま素っ裸で家に帰ったって事か?
うわぁ。
うわぁ……。
その考えは今の今まで思い至って無かったけど、他に原因が無さそうだぞ……。社会的云々前に、どうやら私も寅丸も女としては死んでたみたいだ。
しかし全裸で外を駆け巡っていたとなると、まさか残る最大の疑問は――。
…………………………。
……………。
やめよう。
これ以上考えたくなかった。
今となっては、一夜でこんなに腹が膨れる訳がないという寅丸の口上がありがたくさえあるな……。謎は深まるばかりだけど。
「ところでお二人さん、ペンデュラムについて何か知りませんか?」
ブラックダイヤ云々もとい、寅丸が咳払いを一つしてからにとりと仙川さんに問う。
「ペンデュラム? あぁ、アンタがあのネズミから強奪した奴でしょ? うん、それも知らない」
「……まさかサバイバルゲームの最中に落としたりとかは」
「いえ、それは無いでしょう」
仙川さんが首を横に振りつつ断言する。
「我々も山の住人ですから、ゲームが終わった後の始末はきちんと行います。何か遺失物があれば、誰かが見つけている筈です」
「そう、ですか……」
肩を落とした寅丸が、大きく溜め息を吐いた。落胆の色を隠し切れていない。あのペンデュラムが見つからなければ自分の地位が危ぶまれるとなれば、まぁ当然の反応と言えた。
ふむ。
結局、この場所で話を聞いただけじゃ事態の全面解決という訳にも行かないみたいだ。解決しておかなくちゃいけない疑問はまだまだある。
やれやれだ。本当にやれやれって感じ。
「じゃ、私は取り敢えずアンタの剣と盾持って来たげるよ」
いい加減寒さを我慢するのも限界らしく、身体を小さく震わせながら言ったにとりに、私は頷いた。
「ありがとう。よろしく」
「良いって事よ。仙川が毎日礼拝に来るのもゾッとしないしね」
「え? 礼拝?」
「アンタの剣と盾に。コイツが私の家に居たのはそのせいさね。そんなに崇拝してるなら、自分が管理すりゃ良いってのに」
茶化すようににとりが笑うと、仙川さんは恥ずかしそうにそっぽを向いた。
「河城に預けられた物だ。私の一存で勝手に移動させるのも、不敬だと思ったのだよ」
照れ隠しなのか、髪の毛の先端を指先で弄りながらアンニュイな溜め息を彼女が吐く。
マジで見上げた忠誠心だなぁ……。
こりゃ私も少しは見習う必要があるかも知れない。万年下っ端を脱せないのは、私に忠誠心が少ないからなんだろうか。だからと言って文々。を始めとした烏天狗共にへーこらすんのは虫唾が走る訳だが。
「じゃ、ちょい待ってて。ついでに服も着て来るわ。寒ぃ」
「悪いね」
「……じゃ、頑張って」
軽く私が手を振ると、仙川さんに一声そう掛けてから、にとりはザブンと沢に飛び込んだ。後には私と寅丸と仙川さんの三人が残され、何とも言い難い沈黙が僅かに場の空気を停滞させた。
ペンデュラムが見つからないせいか溜め息を吐きながら、何故かスナイパーライフルを弄り始めた(現実逃避か)寅丸から目を離し、仙川さんの様子をチラと窺ってみた。するとその途端に目が合って、彼女がサッと視線を逸らしてしまう。冬の昼に似つかわしい冷たく乾燥した風が、にとりが飛び込んだ沢の水面にさざ波を立てていた。
「……貴女が持っていた、あの銃」
寅丸にチラと目をやってから、矢庭に仙川さんが口を開いた。私と目を合わせようとせずに髪の毛を弄りながらの口ぶりは淡泊さを装う反面、どこか重々しく響いた。
「あれ、元は私のなんです」
「あ、そうなの? 悪いね。借りてっちゃって」
家の中で乱射もしちゃってたみたいなんだ、とは言えなかった。
「いえ、良いんです……覚えてらっしゃらないでしょうが、私が貴女に御無理を言って、持参して頂いたのですから……」
「無理を言って……?」
「……また逢う口実にしよう、と思っていたので」
そこでまた彼女が、探る様な目つきを私へと向けて来る。私の両目を捉えたその瞳は、私の真意を問い質す様で、私の本音を求める様で、昨晩の想起を求める様でもあった。
「私、貴女にこう言ったんです。『どうか使ってやってください。でも、必ず返しに来てください。その時は――』」
そこで仙川さんは小さく溜め息を吐き、何も語らずまた私から目を逸らす。いつの間にか少し離れた所で黄昏始めていた寅丸が、何度も何度も溜め息を吐いていた。うるせぇ。
「『その時は――』?」
「……その先は、言えなかったんです……私が適切な約束を結ぶよりも先に、貴女と寅丸さんは行ってしまって……でも貴女は、『また逢おう!』って、そう、私に言ってくれました……」
それは叶いましたね。
取ってつけた様に言葉を区切ったかと思うと、仙川さんは不意に立ち上がり、私との距離を詰めて来た。眼と鼻の先に座るや否や私が何の反応も示せない内に、まるで糸の切れた人形のように、私の鎖骨辺りへと額を凭れ掛からせて来た。
「な……ち、ちょっと……?」
「何も覚えてないんですよね」
私の困惑を余所に、仙川さんが鋭く切り込んで来る様な口調で呟く。
「私との約束も。私に笑い掛けて下さったことも。舞い上がる私のたどたどしいお話を、楽しそうに聞いて下さったことも。『笑うと可愛いよ』って、そう、褒めて下さったことも。全部。全部。貴女の記憶の中には無いんですよね」
「…………」
「あれはお酒に酔っていたから……なんですよね。本当の貴女じゃ無かったんですよね。今の貴女は、私の脳髄に根を張った貴女とは違う人なんですよね――あはは、ごめんなさい……こんな事言われても、困っちゃいますよね……覚えても無い奴が、自分の事を慕ってるなんてシチュエーション……引きますよね……馬鹿みたいだ……私……こんな事して、貴女を困らせて、卑怯……ですよね……でも、お願いです……河城が戻ってくるまでで、良いんで……このまま……」
――この状況で。
一体私に、何が言える?
覚えてなくてゴメンだなんて事実も。
本当は覚えてるよなんて欺瞞も。
何の役にも立ってくれない。
自分のペースも考えず酒に溺れて好き勝手に暴れまくった挙句、一人の少女の心を悪戯にかき乱した私の罪は、重くて、謝罪なんか免罪符にもならない。
私の身体に額を預けるだけの仙川さんは、それきり何も言わないし何もして来ない。畳んだ膝の上で握り締める両手を私の背中に回す事もしないし、声を押し殺して泣く事もしない。彼女は強い子で、私は、記憶に残っていない私の姿は、彼女の憧れとして深く強く刷り込まれたというのに、一夜が明ければ何も残っていない。
馬鹿みたいなのは私だ。
卑怯なのは、私じゃないか。
判ってる。
彼女はきっと、今、私を諦めようとしてる。私への憧れを断ち切ろうとしてる。私に額を預けて、その悲痛な位に慎ましい我が儘だけで、私が掻き乱した心を再構築しようとしている。
ここで心にも無い事を吐く程に私が短慮だったら、気の利いた嘘で彼女の憧憬を包み込む事ができれば、それはきっと優しい事なのだろう。私がそんな無責任な白狼だったら、どんなに彼女は救『ピロリン♪』われるだろう――。
………………。
…………。
……『ピロリン♪』?
不意に背後から聞こえて来た空気の読めない能天気な音で、仙川さんがガバッと私の身体から離れる。振り向くと、彼女の覚悟に茶々を入れる無思慮なパパラッチが立っていた。
しくじったとばかりに苦々しげな表情をしたツインテールの烏天狗が、私たちに携帯型カメラを向けている。
「――あ、ゴメン。マナーモードにしてなかった……続けて?」
申し訳なさそうな表情を浮かべつつも続きを催促する彼女の無神経さに半ば呆れ、半ば苛立ちを抑えきれず、私は立ち上がって目の前の烏天狗を睨み付ける。
「姫海棠、はたて――」
「ヤバい……椛、怒ってる? うん、怒ってるね……『夢の銀河鉄道開通! ただし太陽への一方通行』みたいな?」
しゅんと肩を落として殊勝な態度を取る姫海棠はたては、しかし世界が終わった様な罪悪感満載の表情とは裏腹にもう一度シャッターを切った。ピロリン♪
……これだから。
これだから烏天狗は嫌いなのだ。
マスコミ云々、新聞云々、パパラッチ云々について、とやかく文句を言うつもりは無い。ただただ空気が読めないところが嫌いだ。悪いと思っているらしい辺り、どこぞの性悪と比べればまだマシではあるが、それでもこの状況では何のフォローにもならない。
『九割引きの福袋を三つも購入! ただし中身はカマドウマのみ』
みたいな。
「……いっくん」
「犬走だから? やめろよ。戯言で乗り切れる局面じゃないからな?」
「新聞大会……近いんだ」
「それで?」
「文の奴が、特ダネ掴んだんだって……」
「それで?」
「負けたく……ないんだ」
「だから?」
「――許せ」
戦隊モノ合体ロボの玩具みたいな速さで翼を大きく広げたはたては、そのまま最高速度で空へと飛び上がる。彼女の姿は瞬く間に小さくなって行き、青空の中の点と化す。
「も、椛さん……! ご、ごめんなさい! 私のせいで……!」
逃げたはたてを絶望的に見送った仙川さんが、しどろもどろになりながらも私に頭を下げて来る。はたての逃げた方角を『眼』で『視』た私は、彼女へと向き直って首を横に振る。
「仙川さんのせいじゃないさ。それに、そんなに困る事でも無い――けど」
「――椛さん!」
はたての飛び去った方を見やった寅丸が、それまで弄っていたスナイパーライフルを私に放って寄越す。仙川さんの方を見たまま飛来したそれを片手で受け取ると、立ったまま私は銃口を空へと向ける。
「……出歯亀には、お仕置きしなくちゃな」
『眼』に全神経を注ぐ。風向き、遠くに『視』えるはたての羽ばたきのタイミング、その体勢、先ほど仙川さんが撃った時の、弾の動き。受け得る空気抵抗と、重力に引かれてぶれるだろう弾道の計算。その全てを頭の中で合算しながら、私は呼吸を止めて手の中の銃と一つとなる。
距離は半里過ぎ……否、そろそろ一里になる。烏天狗のスピードは侮れない。が、ペイント弾の方が速度は上。河童印の文明の利器の前じゃ、幻想郷最速種族の名も形無しだ。仙川さんが息を飲む音が鋭く聞こえて来る。
引き金を、引く――。
――一度、二度、三度。
鼓膜を撃ち破る様な破裂音が三度。
赤く塗られた流線型の弾は音速を超えて空を切り裂き、紙上に落としたインクの染みよりも小さいはたての姿へ向けて突き進む。射程距離はギリギリ。しかし目測は狂いなく。千里を見通す程度の能力の前じゃ、たかが一里は目と鼻の先に等しい。
「一の矢――命中。右翼根元」
空中ではたての体勢が、ガクンと狂う。それもまた計算通り。
「二の矢――命中。携帯型カメラ」
はたてが体勢を持ち直すよりも早く、ペイント弾が彼女の右手からカメラを叩き落す。真っ赤なペイント塗れになったカメラが、高々度から地面へと落下する。ペイントと落下の二重苦で無事に写真が残るのなら、褒めてやっても良い。
「三の矢――命中。左翼根元」
左翼のみで辛うじて滞空していたはたてが、頼りの左翼根元にペイント弾を喰らってとうとう完全にバランスを逸し、錐揉み回転をしながら落ちて行く。悲鳴も聞こえない超長距離ながら、追撃を免れ得なかったはたてが悲痛な叫びを上げているだろう事は疑いようも無かった。
真っ逆さまに墜落して行くはたての姿が、山を覆う針葉樹林へと消えて行くのを確認した私は、それまで止めていた息を小さく吐き出して構えを解く。寅丸も仙川さんも固唾を飲むといった具合に、この場でただ一人状況を知り得る私の事を注視していて何だか気恥ずかしかった。
「お仕置き完了。三発とも狙い通りに命中……良い武器だね、コレ。これからの時代は、哨戒天狗も銃を持っていた方が様になるかも」
「……嘘……ありえない……全力で飛んでる烏天狗を、撃ち落とした、んですか?」
私の言葉が信じ難いとばかりに、目を真ん丸に見開いた仙川さんが恐る恐る尋ねて来る。「まぁね」と頷いた私は、持っていたスナイパーライフルを仙川さんの手に握らせた。
「その……なんだ……何て言うか……うん。何も変わらないさ、私は」
仙川さんの肩にポンと手を置く。空気の読めないパパラッチによって中断された彼女の覚悟を、私はなるべく重苦しく聞こえないよう、明るく否定する。
「泥酔してようが素面だろうが、私の能力は私の能力だし、私の精神は私のまんまだ。仙川さんが言った通り、実際昨日の事を覚えてないんだから説得力は無いかもだけどね……だから、うん、改めて、もう一回約束しようか」
また逢おう――。
言うと、手渡したスナイパーライフルを抱きしめる様に持ちかえた彼女が微かに俯いた。
もしかしたらこの約束は、酷く無責任かも知れない。はたてを撃墜してスキャンダルの流布を防いだ私が、彼女の気持ちに応えるかどうかは如何とも判断しがたい。けれど他人同士へと戻る事は、避けたかった。
責任とか、償いとか、そんなんじゃなく、また遊べるような仲になれれば良い。
一緒にサバゲーに興じるとか、将棋をするとか、関係性には様々な形があって、それはそのまま未来への可能性と言い換える事もできる。
つまり私はただ単純に、その可能性を全て断ち切る事が嫌だっただけなんだろう。
そんな曖昧な私の願いが通じたのか否か。
頬を染めた仙川さんは、晴れ晴れとした表情で笑いながら私に敬礼をして来る。
「――ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします! 隊長殿!」
凛として明るいその表情を見て。
再度、私を隊長殿と呼んだ彼女の口ぶりを聞いて。
あぁ、悪い事ばかりじゃ無かったな、と。
そう思えたんだから、きっとこれで良かったんだろう、と私は確信した。
「……全然見つからない糸通しの異名は、伊達じゃないという事ですね」
はたてが消えた方を見やってから、寅丸が口を開く。僅かにドヤ顔。私は何と反応すべきか迷って、結局何も言わなかった。
……うーん……。
上手い事を言って場を収めようとしたのかどうか知らないけど、コイツが昨晩に自称した異名の方が痛々しい上、ここでそれを言っちゃ、私からそれについて弄られるかもしれないとまでは考えが回らなかったんだろうか……。
それとも弄ってくれって前フリか?
「ところで――仙川さん」
弄ろうか弄るまいか考えていると、コホンと咳払いをした寅丸が次いで口を開く。
「はい? 何でしょう?」
「我々がサバイバルゲームに混ぜて頂いた後、どこへ行ったか覚えてらっしゃいますか?」
あ、なるほど。その後の動向を聞きたかった訳か。その為の枕話みたいなもんだったか。前フリじゃなかった。弄らなくて良かった。また話がややこしくなるところだった。
「えぇ。覚えてます」
特に逡巡する風もなく、仙川さんはあっさりと頷く。
「ゲームが終わり、談笑も終わった所で山童の住処へ戻ったのですが、そこで我々は賊を見つけたのです。お二人はそれを追い掛けて行ってしまいました」
「……賊?」
私が首を傾げると、仙川さんは腹立たしそうに首を横に振って溜め息を吐いた。
「えぇ。私らが山童になる切っ掛けを作った者が、再度我々のアジトを漁りに来ていたのです。その話をお二人に伝えたらお二人は果敢に賊へと立ち向かい、逃げるソイツを追って夜闇に消えて行きました」
賊……賊ねぇ……。
一部の河童が河での暮らしを捨てた理由は、以前起きた水柱事件にあるとは知っていたけれど、その犯人は水鬼鬼神長とか言う地獄の使いだった筈だ。地獄で働いてる鬼が、わざわざ山童たちの住処を荒らしに来たのか?
そんな事を思っていると、話を聞いていた寅丸が「あ!」と声を上げる。驚いて彼女の顔を見やると、何やら寅丸は興奮気味に私を見て来た。
「椛さん――お腹のソレの犯人が判りました」
「は? 今の話で? マジすか?」
「お腹のソレ……?」
首を傾げた仙川さんが膨らんでいる私の腹部を見、そして「ひゅい!?」と悲鳴に近い声を上げる。そうだ、何やかんやあって、まだ仙川さんにはその事を喋ってなかったな。
にしても、にとりが驚いた時のリアクションと同じとは。
河童、山童の本能みたいなもんなんだろうか。
「――隊長殿」
「なに?」
「私は第二夫人でも全然構いません」
「私が構うわ」
迷いが無さ過ぎる。
二番目だからちょっとハードル下がったみたいな見え見えの反応をしないで。
「で、犯人とは?」
何故か陶然とした表情で私の腹を撫で始めた仙川さんを取り敢えず無視し、寅丸に尋ねる。勿体ぶった様に大きく頷いた彼女は、
「まず間違いありません。それは、霍青娥の仕業でしょう」
と言った。
――霍青娥。
聞いた事が無い名前だ。
「……どちらさんで?」
「我々命蓮寺と対立する商売敵として、昨今人里をも騒がせている一派の一人……というか、立場的には相談役といった所でしょうか。中国から渡って来た邪仙で、ヤンシャオグイという……まぁ、『胎内回帰願望を持つ赤子の霊』を使役するのです」
……赤子の霊。
詳しい理屈は判らんが、禍々しい響きだ。
「それで……これは、その影響だと?」
「恐らくは……術の影響が未だ体内に残り、妊娠に近しい様相を呈しているのではないかと思います。そうだと仮定すれば、一夜にしてそこまでお腹が膨らんでしまった理由にも説明が付くのですが」
なるほど。邪法ねぇ……。確かにその線は強そうだ。
青娥とやらを追い掛けて、反撃にそんなけったいな邪法を受けてしまったと。
仙川さんの証言とも一致するし、寅丸の言った通り一日でこんなに腹が膨らんだ事にも説明が付く。
つまり、寅丸がハッスルした結果じゃ無かったって事か。あーあ。脳内で養育費やら何やらのゲスい未来予想図を描いてたのになぁ。まぁでも、最悪の予想が外れたって事だけで良しとしようか。
「じゃ、善は急げっすかね。にとりが戻って来たら、その霍青娥の所に行きましょうか」
「簡単に接触できれば良いのですが……住居不定で、私とは一応敵対関係にある訳ですし――ん?」
溜め息を吐いた寅丸の表情が、未だ私の腹を撫でる仙川さんの手付きを見て強張った。
「え? どうかしたんすか?」
「……ちょっと失礼」
どこか蒼ざめた寅丸が私との距離を詰めて来て、仙川さんとの間に割って入る。何をするかと思えば、矢庭に私の半着をガバと捲り上げて来た。
「ちょちょちょ!! な、なんすか! えっち!」
「何が始まるのですか!? 混ぜて下さい!」
仙川さんが躊躇いなく上着を脱ぎ捨てる。待て。違う。多分君が思ってるのとは違う。服着ろ。
「……椛さん」
一発でハイテンションとなった仙川さんをガン無視し、私の腹を検分する寅丸は、ほとんどぞっとするような重々しい口調で私の名を呼んだ。
「な、なんすか……優しくして下さいね……?」
「気付かなかったのですか……?」
その口調の絶望的な響きに耐えきれず冗談を吐く私を見上げた寅丸の表情は、しかし全く持ってシリアスで、悲痛な驚愕に満ちている様にも見えた。
そして小さく首を横に振った寅丸が、
まるで死刑宣告を下すかのように、物々しく呟く。
「――朝見た時より、お腹が大きくなってます」
続く
無駄に高いテンションに引っ張られるように読破。ただのギャグには終わらないような兆しもあり、これは続きも期待。
上手いと思います。下巻、期待してます。