湖面の薄氷をそのまま天に貼り付けたかのように澄み切った空、その西方低く力無く輝く太陽を恨めしげに見上げ、一人の浪人が身を震わせながら街道を急ぐ。
齢は三〇をいくつか過ぎた程であろうか、着流した服はあちこちが綻び、頬は硬々とした髭に覆われたみすぼらしい身なりではあるが、六尺近くある身丈に伸びた背筋、そしてよく日に焼けた精悍な顔立ちは、男の心身の充実を言わずとも雄弁に語っていた。
二手に大きく分かれた街道、その右手を選んで駆けること一里、ようやく男は目当ての旅籠に辿り着き、吹きすさぶ木枯に耐えかねたかのようにまろび込む。
囲炉裏の火に当たり、一息に熱燗を流し込む。人心地ついたところで男が辺りを見回すと、妙な光景が目に入った。
隣の部屋で店の主と思しき初老の男性が、若い僧に対して平伏すようにして頼みごとをしている。一方僧は、人の良さそうな貌に困り果てた表情を浮かべ、何やら思案しているようである。
何事かと興味を惹かれ、近くの者に成り行きを尋ねると、この街道の先、樹海に出没する山姥を退治してもらいたい、そう旅籠の主に旅の僧が頼まれているらしい。
――ほう、山姥とな。
男はあまり耳にせぬ語に好奇心をくすぐられ、更に委細を知るべく、隣の部屋の様子を眺めることにした。
「いや、ですから拙僧もまだまだ未熟の身、そのようなことを頼まれましても困ります……。」
僧は心底困り切った表情で、主に頭を上げるよう促す。しかし主は頑として聞き入れない。致し方あるまい、この先の街道が通れぬ限り、旅人は皆一里手前の分かれ道を左に曲がり、大きく迂回することになる。即ち、この旅籠には客が入らなくなり、主にとっては死活問題となる。
それに、お役に立ちたいのは山々なのですが――と更に続ける僧。そもそもこの山に出没するのが本当に化生の類とは限らないのである。山賊が、容易く荷を奪うために山姥に扮して旅人を襲っていないとも限らず、その場合、読経は何の役にも立たないと。
そう説かれて、旅籠の主も致し方なしに引き下がる。確かにその場合、僧の命をただ危険に晒すことになる。主は困窮していても、常識を踏み越えることはしなかった。静かに己の無茶を詫び、僧に背を向けようとする。
僧も話を断ったとはいえ、やはり生来人の好い若者なのだろう、己の無力に肩を落としているようである。
訪れた沈黙。それを打ち破ったのは主でも僧でも無く――。
暫し待たれい――。と野太い声で割って入ったのは、先程旅籠に駆けこんだ浪人であった。
「先の話、聞かせてもらった。」
あるじ、お困りの様であるな、と声をかけられ、何度も首を縦に振る主。
浪人は炉端にどっかりと胡坐をかいたまま、剛毅な笑みを浮かべる。
「つまりは化け物か山賊か、そのどちらかを退治すればよいのであろう。」
左様でございます、と頷く主に男は自らの胸を叩き、続ける。
「ならば某(それがし)が、坊様をお助けしよう。」
つまり、出たのが山賊であれば浪人が、山姥であれば僧が、それぞれ退治すればよいということだ。その提案に主は飛びあがらんほどに歓喜し、僧に目を向ける。
浪人と主、二名の視線を受け、僧は決心したようだ。生真面目な表情で頷く。話はまとまった。二人を拝み倒さんばかりに頭を下げる主に、浪人は切り出す。
その代わり、一つ条件がある――。
なんでございましょう、と首を傾げる主に、男は堂々と言い放つ。
「某と坊様の分の今夜の宿代と晩飯代、これを只にして貰いたい。」
提示された条件は、勿体つけた割にはひどく俗なものであった。しかも己の要求を正当化するがごとく、僧も巻き添えにしている。
少々思案した後に、ようございます、と頷いた主に、男は慌てて条件を追加する。曰く、熱燗を一本更につけてくれ、と。さすがに己でも図々しいと思っているのか、その視線は主から逸れている。
「――ようございましょ。」
再度頷く主の返答は、やや憮然としたものであった。
◇◇◇
翌朝、浪人と僧は連れだって樹海を伸びる街道を歩いていた。
「それにしても、確かに化け物が出そうな森であるな。」
浪人は言葉とは裏腹に、欠伸をしながら歩みを続ける。
主が言うにはこの森は、木々が生い茂り太陽を目印に方角を定めることができず、また、磁石も効かぬため、街道から外れると戻れなくなるとのことである。
確かにいつ山姥が飛び出してきてもおかしくないほど鬱蒼と茂った森である。僧は懐の数珠を握りしめ、緊張した面持ちで道を歩く。
四周に気を配りすぎたためであろう、足元の小石に躓く。僧は反射的に懐の手を前に突き出す。幸い、浪人が左手を掴んだために転倒は免れたが、その懐から包みが一つ、投げ出される。
片手に余るほどの大きさの布包みである。ゴトリ、と重い音を立てて転がるそれに僧は慌てて駆け寄り、中身をあらためる。
取り出されたのは、一枚の銅鏡であった。古くはあるがよく手入れされているらしく、鏡面は辺りの景観を歪みなく映し出している。僧は表裏を確認し、傷が無いことを確認して安堵のため息をつき、包みにしまおうとする。
その銅鏡を興味津々といった様子で見つめる浪人。値踏みをする様子は無く、ただ、裏に彫られた紋様に気が向いたらしい。
見事な鏡であるな、と感嘆の声を洩らす浪人に僧は頷く。曰く、彼の修行する寺の住職が新たに寺を興す一番弟子へと贈るもので、今回の旅はこれを届けるためだと答える。
尚も興味津々、といった様子で鏡を眺める彼に、もしよろしければ、と僧は包みごと鏡を手渡す。これはかたじけない、と礼を述べ、直接触れぬよう気をつけながら浪人は鏡を半ば包みから取り出し、その裏面をあらためた。
これは、鳳凰であるな――。そう尋ねる浪人に僧は頷いた。
「今年は千年に一度、鳳凰が山に身を投じて生まれ変わる年、そう伝えられております。」
その年に新たに寺を興す兄弟子への贈り物、割ってしまっては合わせる顔がありませんでした、と再度安堵の溜息を洩らす僧に、浪人は眼福であった、と一言礼意を述べ、包みを返す。僧が鏡を懐にしまったところで、二人は再度歩み出した。
◇◇◇
ところで、お侍さまの此度の旅の目的は、と。僧が後方の浪人を振り返り問いかけたのは、日が高くなり世間話の話題も尽きたころである。
うむ、実は士官の口を探しておる、と浪人は力強く頷いた。
「元々貧乏藩の赤貧藩士の次男坊、婿に入る家も無いので剣の腕を磨きつつ見聞を広めようと出藩して早十数年、そろそろ落ち着かんと流石にマズいかな、などと思うてな。」
などと気楽に語る反面、視線がやや泳いでいる辺り、結構に切迫している状況なのだろう。昨日のややセコい振る舞いに納得が行き、僧がなんとはなしに肩を落とすのを気にせず、当人は話を続ける。
「そこで今回の山姥の話、山賊であろうと山姥であろうと成敗すれば某の評判も上がる。旅籠の主も助かり、御坊も助かり、某も仕官の誘いが来るであろう。」
皆に得になる良い話であろう。と得意げに高笑いする浪人に僧は曖昧な笑みを浮かべ、そうですね、と一言のみ返した。
御坊、今溜息をついたろう。だが、ご安心召されい、これでも腕には覚えあり。刃の通じる相手であれば、山賊であろうと山姥であろうと切り伏せて見せよう――と、自信満々に見えを切る浪人から前に目を転じたその時である。
不意に前方の藪が大きく揺れ、一つの影が飛び出した。
影の大きさは子供程度であろうか。二足で立つ有様と俊敏な身のこなしは猿の様。しかし、それは明らかに猿では無かった。
浅黒い顔には炯々と光る眼が二つ。汚れた白い蓬髪に遮られ、その表情は伺い知ることが出来ない。指先には恐ろしいまでに伸びた爪。そして異臭を放つ矮躯は襤褸で包まれていた。
まぎれもなく、主に聞いた山姥である。
気が動転して立ち竦む僧に、一歩ずつ近寄る山姥。
「退けぃ――っ!」
浪人の怒声はその両者のどちらにかけられたものか。素早く抜刀した浪人が僧の襟首を掴んで後ろに引き、両者の間に割って入る。山姥は浪人に視線を向け、威嚇するように両腕を振り上げた。
裂帛の気合とともに振り下ろされる、袈裟懸けの斬撃。三間はあった間合いを一息の元に詰める男の腕前は、確かに尋常のものではなかった。
腕に伝わる確かな手応え。そして上がった叫びと血飛沫。狙い違わず男の刃は、山姥の首筋から肋骨を数本断ち、腰元までを深々と割いていた。
だが、相手は化け物、致命傷と成り得たとは限らない。男は足を送って素早く山姥に向き直る。果たして視界に入ったのは、傷口を押さえつつもこちらに飛びかからんばかりに腰を落とす山姥。
ならば更に切り伏せるまで。男は返す擦上げの刃で腹を薙ぎ、流れのままに身を捻り山姥に背を向ける。一転して再度山姥に向き直った時――この間僅か四半秒――にはその切先は天を衝いていた。
「――――ッ!」
最早言葉に成らぬ雄叫びと共に全霊を以て振り下ろされる刃。その切先は斬られた衝撃によろめく山姥の眉間を正確に捉えていた。
ドサリ、と地に倒れ伏す山姥。浪人は素早く間合いをとり、息を整えながらその様子を伺う。山姥は、伏したまま動かない。一太刀のみでも充分致命と成り得る斬撃を三度、特に最後の一太刀は、浪人がその長身から繰り出した渾身の一撃。兜の上からですら充分に致命傷となったであろう。それだけの威力を秘めた斬撃を身に受け、さしもの化け物もどうやら絶命したようだ。納刀し振りかえると、僧はまだ腰を抜かしたまま倒れていた。
やれやれ、と助け起こすべく僧に歩み寄り手を差し伸べたその時である。
後ろ――と僧に注意を促され、振り向くその目に入ったのは、よろめきながら立ち上がる山姥の姿であった。
何ということか。二人の見ている前で、袈裟懸けの、腹の、そして額の深手が、みるみるうちに塞がってゆく。
恐ろしい表情で詰め寄る山姥に、浪人はじりじりと後ずさる。相手は、己が刀の通じぬ化け物。恐怖に震える手は柄を上手く握ることが出来ない。そして不運にも、浪人は砂利に足をとられ、仰向けに倒れる。
恐慌に陥り、尻餅をついたままなんとか下がろうとする浪人に向かい、威嚇するかのように両手を振り上げる山姥。その両者の間に、ようやく恐慌から立ち直った僧が割って入る。
立ち直ったとは言えど、恐怖に奥歯を震わせながら懐から数珠を取り出し、僧は一心に経を唱え始めた。
しかし、一向に意に介さぬままにじり寄り、無防備の僧に飛びかかろうと腰を沈めた山姥は不意に歩みを止める。その足元には、先程数珠を取り出した時に落ちたのだろう、銅鏡が転がっていた。
彼女は鏡に吸い寄せられるように四つん這いになり、鏡面を覗き込むこと数秒――。
「××××××××××××××××××××!」
この世のものとは思えぬほど恐ろしい叫び声を上げ、山姥はよろめきながら逃げるように樹海へと姿を消した。
どうやら、山姥は去ったらしい。残された両名は抜けた腰を何とか上げ、鏡を拾い先を急いだ。
◇◇◇
山姥との遭遇から四時間は経とうか。間もなく日が沈むころになり、樹海は終わり視界が開ける。
傾く夕日は、雄大な富士を紅く染め上げていた。
しばしその光景に見入っていた僧と浪人は、道が二手に分かれていることに気づく。僧の目指す先は右に伸びる道。浪人が進むはそのまま真っ直ぐ。
僧は、宿場に着いたら先日の宿に、山姥は鏡の神通力にて追い払われたこと、そして、旅人は鏡を持つよう手紙を出す旨を告げる。浪人は剛毅な笑みを浮かべ、頼んだ。御坊も道中気をつけてな、と一言のみ述べ、振り返りもせず後ろ手を振り道を進む。
僧は赤く染まったその後ろ姿が見えなくなるまで、浪人の背に手を合わせ、道中の無事と今後の幸運を祈っていたが、その背が夕闇に溶け見えなくなると踵を返し、宿への道を足早に進んだ。
この二人の奇妙な道中は、これにて終わる。僧は無事に鏡を届け、山姥を追い払った鏡はその逸話と共に寺に伝えられるだろう。浪人は、願い叶って仕官できたかは定かではない。しかし、自慢の腕を頼りにきっと飄々と世を渡っていくだろう。
さて、ではこの後に続くは、誰の話か――。時は、千年ほど遡る。
◆◆◆
大丈夫かい――。と、気遣わしげに差し伸べられた手に縋り、少女は縺らせた足を踏み止まらせる。
助かりましたわ。ありがとう、と優雅に礼を述べ、手の主――まだ若い、貴族と思しき青年に微笑んで見せる。その笑顔には、軽い疲労が見て取れた。
それもその筈。今二人が進むは富士の山、六合を過ぎた足場は既に土から砂礫と化しており、一足ごとに踏みしめ進む必要がある。十をいくつか過ぎたころであろう、まだ幼さの残る彼女には少々荷の勝った道程か、やはり再び足を縺れさせ今度は手に縋ることは叶わず、その場にぺたりと尻餅をついた。
考えてみれば、馬返しから歩き通して早三時間。
少し休もうか、と。
少女の疲労を見て取り、青年は風を避けられる近くの岩場へと手を引く。まだ秋の初めとはいえ富士の高みに吹く風は、下界とは比べ物にならぬほど冷たい。彼女の身を案ずるように風上に坐り、狩衣の懐から菓子を出し勧める。
疲労だけではなく空腹もあったのだろう。少女は無心に干果と餅をほおばる。
きめ細やかな白い肌、肩口で切り揃えられた艶のある黒髪、整った目鼻立ちに上品な立ち居振る舞い。少女の容姿は精巧に造りあげられた人形のそれである。帝の命で富士に登る前に立ち寄った遠縁の親戚の屋敷にて、少女に会ったときに、青年が抱いた感想がまさしくそうであった。
親戚は、世に知らぬ者のない大貴族。彼ならば、都中の匠を呼び集めて、斯様な贅をこらした人形を造らせることも可能なのではないだろうか。
帝の命とは言え、帰る期日も定められておらず、半ば遊山の旅である。そのことを屋敷の主に告げると、ならば見聞を広げるため娘を同行させてくれ、と頼まれたのが三日前。 雛人形めいた娘が初めて見せた年相応の姿に、青年は何とはなしに安堵を感じた。
水の入った竹筒を差し出すと、一息に飲み干す。どうやらあまりに菓子に夢中になりすぎて、半ば喉に詰まらせかけていたようだ。咽る少女の背中を軽く叩いてやるとつかえが取れたのだろう。
ありがとう、と礼を述べるその顔には、少女らしい満面の笑みが浮かんでいた。
◇◇◇
日はまだ高く、空は快晴。眼下に広がるは青々とした樹海といくつかの綿雲。
先の岩場より数時間登ったところである。少女は、己が雲より高い処へ登ったことに、驚きと喜びを隠せないようであった。
生命力に満ちた若い娘らしく、食事と休憩を済ませた彼女の顔にはもはや疲労の色は無い。
また、先の休憩以来、取り繕うのをやめたのだろう。年相応の明るさ、気兼ねなさで青年に話しかける様になった。青年も元来気さくな性質であり、雑談を交わしながらの道程を楽しんでいた。
「ところで、おじさまは何故、富士のお山にお登りなの?」
そう傍らの少女に問いかけられたのは山頂間近、ほどなく昼になろうかとする頃。昼食のため、岩場に並んで腰を掛けたときである。
まだ僕は二十歳すぎなんだ。おじさんという年では無いよ、などとぼやきながら、青年は答える。
「帝のお使いでね、これを富士の火口に捨てて来てくれってさ。」
青年は、懐から小箱を取り出し彼女に見せる。
質素な白木で出来た小箱で、大きさは、片手に載るほどの大きさである。
「何が入っているかはよくわからないけどね、なんでもかぐやの姫君からの贈り物だとか。」
かぐやの姫君、その名を聞いて、少女の顔が一瞬、剣呑なものに変わる。小箱を懐にしまっていた青年はそれに気付かない。
「確かに、袖にされた相手の贈り物は捨てたくなってしまうけどさ、勿体ないと思うんだよなぁ。」
などと気楽に世間話をする青年に、少女は冷めた表情で相槌を打つ。
「そう言えば、あの一件、都を騒がせたかぐやの姫君の話、君は聞いたことがあるかい。」
ええ、よく知っていますわ、と。
そう答える少女の声は、何か暗い感情を隠すかのように冷たい。
「ああ、そうか。そういえばあの一件には君のお父さんも関わっていたんだったね。」
それに気付かぬままに掌を打ち、独り頷く青年。彼の目には少女は至って平静に見えたが――。
その実、彼女の腸(はらわた)は、父が受けた恥辱と、大貴族たる父を袖にした高慢なあの女への憤怒で、煮えくりかえっていた。
少女の名は妹紅、平安を代表する名家藤原家の当主、車持皇子の娘。そして青年の名は、岩笠。富士の火にて不死の薬を焼くよう命を受けた、帝の勅使である――。
◇◇◇
二人はその後特に会話も無く、昼食をとった。先の会話以来、少女の口数は極端に減った。
青年は、疲労のためかと特に気にすることも無く、食事を済ませて立ち上がった。
さて、ではそろそろ行こうかと、青年は座ったままの少女に上体を曲げ手を差し伸べた時、先程の木箱が青年の懐からこぼれ落ちた。
その時である――。少女の心に魔が差したのは。
差し伸べられた手を無視して立ち上がり、青年の胸を強く突き飛ばす。そして木箱を拾い上げるなり、一目散に走り出す。
特に深い考えがあったわけではない。ただ、高慢なあの女の贈り物を、富士の火で焼くのではなく、自分の手で壊してやったらさぞ小気味よいだろう。幼い彼女が考えたことは、その程度に過ぎなかった。
素早く岩陰に身を隠し、箱を改める。果たして中身は、三錠の丸薬であった。
姫から帝に贈られたのは、一体如何なる丸薬であったのだろうか。そのようなことは全く意に介さず、思いつくままに口へと運び、ひと思いに嚥下した。
薬の効果は、何も感じられなかった。恐らくはどんな病気もたちどころに治す薬とか、そう言ったものだったのだろう。
だから健康な彼女には、何も起こらなかったのだろう。そう得心して、少女は岩陰から身を起こす。
岩笠には悪いことをした、と。
不快な女への意趣返しが済んで、昂揚した心に急に後悔の念が湧き起こる。
あの気の好い青年は、きっと途方に暮れているだろう。彼には木箱は自分が富士の火口に投げ込んだと伝えよう。あと、突き飛ばしたことを謝らなければ。そう意を決し、彼が立ち去る前に先の岩場へと急ぐ。
結論から言うと、岩笠は、まだ、そこにいた。
ただし、先程彼女に突き飛ばされた際に岩に強打したのだろう。頭から一筋血を流し、彼はうつ伏していた。
おじさま、先程はごめんなさい。謝りますから起きて、と。
何度声をかけても、全く動く気配が無い。困惑しながら起こそうと揺さぶると、冷え切ったその身体は力無く転がる。
濁り始めたその両眼は、驚愕に見開かれたまま閉じることは無く――、ただ虚ろに空を見上げていた。
全身から血の気が引き、背筋に悪寒が走る。
彼女はここに至り、ようやく認めたくない事実を受け入れる。
自分が、この青年の、命を奪ってしまったということを――。
◇◇◇
逃げるようにして山を降りた彼女は、直ぐに役人に捕縛された。
どうやらあの一件は、修験者に目撃されていたらしい。証言におかしなところは一切なく、また、妹紅も項垂れたまま嘘を述べることなく、全てを認めた。しかし、彼女の出自、父親が車持皇子であることだけは、嘘とされた。
娘は、一月前に急病で亡くなり、荼毘に付した。その冷たい一文のみが、車持皇子からの返答であった。
帝の勅使の殺害、そして荷の強奪。その大罪に科される報いは、異例の死罪を免れない。強大な権力を持つ車持皇子の娘が、帝の勅使を殺めたとあらば、それは極めて大きな醜聞、政変の元となる。最悪、朝廷転覆を謀ったと取られかねない。
その判断により、父に見捨てられた娘を誰もが憐れに思ったのもあるのだろう。過ぎた呵責を与えるのは過分であるとされ、過酷な尋問は行われなかった。
◇◇◇
そして、あくる日の朝早く、静かに刑が執行された。
力無く項垂れる少女は泣き腫らした眼を静かに閉じ、最期の時を待った。
役人も、憐れむ心を務めて凍らせ、刀を振り上げる。
せめて苦しまないように、と振り下ろされた刃は、少女の首を骨の髄まで断ち切った。一呼吸置いて、糸が切れたように彼女の体は力無く倒れ伏す。
自責に心が潰されぬよう、努めて心を凍らせたまま役人は、まだ温かみの残る柔らかな躯を抱え上げる。
せめて、花咲く見晴らしの良い丘に葬ろう。そう決めて運ぶために戸板に躯を下ろした時である。
死んだはずの娘が、ぱちりと、不意に目を開いたではないか。
先の太刀は浅かったのか、と。苦しみを長引かせぬよう、突き出される刃。その切先は、少女の心臓を正確に貫いた。血飛沫が刑場を凄惨に染め上げる。
肩で息をしながら、返り血を拭う。今度こそ、違わず止めを刺した筈である。無用の苦しみを与えたことを心の中で詫び、戸板に手を掛けた時に再び開いた少女の目を見て、役人はへなへなと、その場に座り込んだ。
刑場は騒然となった。何度切られようとも死なない娘。とはいえ彼女は、抵抗するでもなくただ蘇るだけである。
役人達も、大罪を犯したとは言え、年端もいかぬ少女を幾度となく切り刻むなど、もとより乗り気である筈もない。
だからと言って、罪を咎めぬ訳にもいかない。月の霊薬により不死となった彼女は、富士の樹海に点在する風穴、その一つに幽閉されることとなった。
◇◇◇
手枷と縄にて戒められた彼女を、役人達は風穴の奥へと運ぶ。
泣き叫ぶ少女の声を背に、彼らは入口の堅牢な岩戸を閉ざした。風穴の中には闇と沈黙が訪れた。
身動き一つ取れぬまま、少女は完全な闇の中にて自分を見捨てた冷たい父を、死んだ岩笠を、己を封じた役人を、そして全ての元凶である月の姫君を恨み続ける。
死すること無き自らの身と、世の不条理を嘆きつつただ徒(いたずら)に過ぎてゆく日々。
無情にも彼女に救いの手は差し伸べられること無く、そして千年の歳月が過ぎる――。
◆◆◆
ある日のこと。富士一帯を猛烈な揺れが襲った。
地震により傾いたのだろう。富士の二度の噴火にもびくともしなかった岩戸から、一条の光が差し込む。
長い歳月の間に縄は朽ち枷は錆び、今や彼女を縛めるものは無かった。
砂漠で泉を見つけた旅人の如く、妹紅は光に這い寄った。岩戸に開いた隙間は大きく、子供であれば充分に通り抜けられるほど。
千年ぶりに外界に這い出した彼女の眼を、眩しい光が灼く。同時に、ほぼ休眠していた生命機能が活動を再開し、彼女は猛烈な空腹と乾きに襲われる。
食物を探し樹海をさ迷うこと暫く。間もなく日も沈もうかという頃に、彼女は街道へと辿り着いた。
人気の絶えた街道を、一人の行商人が行く。
妹紅は、食料を分けて貰うべく、彼へと駆け寄った。
彼女に気が付き振り向いた行商人は悲鳴を上げ、何故か眼に恐怖の色を浮かべ、荷を投げ捨てて遁走した。
何故彼が逃げ去ったのか。辺りを見回しても、恐怖の対象となる様なものは何もない。とにかく、今は猛烈な餓えと乾きを癒すのが先決、彼女は残された荷から食料と水を奪い取り貪り喰らう。
翌日も、彼女は旅人に食料を恵んで貰おうと街道に出向いた。しかし、やはり出逢った旅人は、悲鳴を上げて荷を棄て逃げ出す。
街道を行く旅人の荷に味をしめた彼女は、それ以来、度々街道に出向き、彼らを脅かすようになる。
恥も矜持も無しに、獣のようにただ己の餓えを満たす。そんな日々が続いたある日のこと。彼女の前を僧と浪人の二人連れが、通りかかる――。
◇◇◇
何度身体を切り裂かれようと、彼女の身は不滅。己が刀の通じぬことを悟った浪人は志気を失い、尻餅をついて後ずさる。
浪人を庇うべく、その前に立ちはだかる僧。何か経文を唱えている様子ではあるが、化生では無く人の身の妹紅には通じる筈も無い。
あと一押しで彼らも荷を棄てて逃げ去るだろう。僧に襲いかかろうと腰を溜めた彼女の視界に、眩しい光が目に入る。視線を落とすと、足元に一枚の鏡が落ちていた。
幼少のときよりの、姿見で身形を整える癖が残っていたのか。吸い込まれるがごとく、鏡を覗き込んだ彼女の目に映ったのは、身の毛もよだつ山姥の姿だった。
これは、誰だ、と。
少女は食い入るように己が姿を睨め回す。
黒い絹の艶髪は、汚らわしい白い蓬髪へ。きめ細やかな白い肌は薄汚い垢じみた面皮へ。整った目鼻立ちは、眼だけが炯々と輝く醜貌へと。
長い長い時を、世を呪い過ごした代償であろう。かつて平安の貴族達に愛でられた雛人形の容貌は、醜い化け物の姿へと、身を窶していた。
自らの身に起きた無残な変貌を理解した彼女の心に、不意に沸き起こるは羞恥と慙愧の念。
心の底からの悲嘆の声を上げ――。
藤原妹紅は、二人の前から逃げるように身を翻し、再び樹海へと分け入った。
◇◇◇
それから数日の後、誰にも姿を見られぬ無明の深夜のこと。
浅ましい化生の身になり果てた彼女は、もはや人の世に還るは叶わず。されど樹海で獣のように生きるも、貴族の羞恥と矜持が許さず。
ならば、残された道はただ一つ。この堕ち切った化生の身を滅すること。いかな不滅の身とあれど、霊峰富士の炎であれば滅することが出来るであろう。
かつて帝がこの山にて月の霊薬を焼こうと考えていたことに思い至り、彼女は砂礫の道を歩み、再び富士の頂を目指す。
道中、宵闇に浮かぶは、今は亡き人達。
かつて彼女を一心に育ててくれた父親、牢に繋がれ泣きぬれる彼女の頭を優しく撫でてくれた役人。そして手を引いてくれた月の岩笠。岩屋の中で恨んだ彼らが与えてくれた思い遣り、それに胸を潰されそうになりながら黙々と、独り頂を目指す。
その途中、何度も砂礫に足を取られ、転倒する。かつて彼女に手を差し伸べた心優しい青年は、今はもういない。
心の中で何度も彼に謝りながら、山を登ることおよそ半日。白々と夜が明けるころになり、ようやく彼女は山頂に辿り着いた。
噴煙たなびく山頂に開いた火口、その淵に立ち、硫黄の匂いと身を焦がす熱を感じながら、少女は天を仰ぐ。
願わくは、この身が滅しますよう。願わくは、罪が清められますよう。そして願わくは、次の生は人の道を違わぬように、と。
一頻り祈りを捧げ、彼女は火口へと身を投じた。
妹紅を待ち受けるは、灼熱の溶岩。彼女は己が身が、骨まで焼かれ焦がされ熔かされるのを感じながら痛苦に耐え、ただひたすらに自我の消滅を待った。幾度となく蘇りながらも眼を瞑り、ただひたすらに――。
一体どれほどそうしていたことだろう。数秒か、数日か、はたまた数年か――。
妹紅は不意に、誰かに呼びかけられた。
人の娘よ、起きなさい、と。そう語りかけるのは誰であろう。
なんだ。お迎えか、と。
耳ではなく意識に直接語りかける声に、妹紅は、一人得心する。
遂に彼女にも最期の時が訪れたらしい。しかしその安堵を声は否定する。
貴女は既に不滅の身。富士の炎を以てしても、その身を滅ぼすことはできないと。いずれ山が眠りについた後、彼女は独り岩の中、身じろぎ一つ出来ぬ形で蘇ると。
何だ、やはり救いは訪れないんだな。
まあそれもやむなしか、と妹紅は自嘲し、頭の後ろで手を組む。その諦念を感じたのか、声は彼女に問いかける。
人の娘よ。貴女は救いを求めるのか。と。
その問いかけに、妹紅は口の端を吊り上げ答える。
救済を求めぬ者など世にいないさ。ただ、私は罪を重ね過ぎた。この身は、永劫に硫黄の炎で焼かれ続けるのが似合いなのさ、と嘯く彼女、ここに至りようやく、彼女の頭に一つの疑問が浮かび上がる。
この声の主は、一体誰なのであろう。
人の娘よ。私は貴女と同じ。滅びぬ者、幾度となく蘇る者、霊山の炎に穢れを禊ぐ者。 私は貴女の不浄を清め、不滅の身に新たな生を与えましょう、と。声は答え、続ける。
だから娘よ、眼を開きなさい、と。
諭され開いた彼女の双眸に映ったのは、周りの溶岩を遥かに凌駕する神々しいまでの光。その中心に坐しているのは、日輪ほどに輝く火炎に彩られた、壮絶なまでに美しい一羽の鳥。
その優美で典雅な姿を彼女は知っていた。かつて幼いころに父が読んでくれた絵巻物、そこに描かれていた神格の大鳥。
千年に一度、死と再生を繰り返す輪廻の象徴、鳳凰――。
その圧倒的な姿を前に、妹紅はただその瞳から涙を流す。
人の娘よ。貴女の罪は禊がれた。新たな地で、新たな生を送りなさい、と。
鳳凰は、その両翼で優しく妹紅を包み込む。無数の羽根の抱擁の中で、彼女は己が身に熱が宿るのを感じる。
それは、身を焦がし苛む硫黄の炎ではなく、激しく流れる血潮に宿る、希望に満ちた生命の熱。火の鳥に吹き込まれし、消えること無き生命の炎。
転生した彼女を背に乗せ鳳凰は高く舞い上がり、曙光に向かい羽ばたく。目指すは幻想の遥か彼方、忘れ去られし者の楽園。
斯くして千年の呪いは此処に解かれた。曙光と鳳凰、その両者に負けじとばかりの輝かしい笑みを浮かべ、不死の少女は幻想郷へと降り立った。
◆◆◆
次こそは、道を違わぬように。
かつて己が欲求のままに迷いの森にて人を襲った山姥、今はその姿は片鱗も無く。
藤原妹紅は東の空、昇り始めた日輪に向かい大きく背伸びをする。
不死鳥に吹き込まれた胸の希望は未だ消えず。そして未来永劫消えることは無いだろう。彼女は今日も笑顔のままに、迷いの竹林に病者を導く。
おしまい。
齢は三〇をいくつか過ぎた程であろうか、着流した服はあちこちが綻び、頬は硬々とした髭に覆われたみすぼらしい身なりではあるが、六尺近くある身丈に伸びた背筋、そしてよく日に焼けた精悍な顔立ちは、男の心身の充実を言わずとも雄弁に語っていた。
二手に大きく分かれた街道、その右手を選んで駆けること一里、ようやく男は目当ての旅籠に辿り着き、吹きすさぶ木枯に耐えかねたかのようにまろび込む。
囲炉裏の火に当たり、一息に熱燗を流し込む。人心地ついたところで男が辺りを見回すと、妙な光景が目に入った。
隣の部屋で店の主と思しき初老の男性が、若い僧に対して平伏すようにして頼みごとをしている。一方僧は、人の良さそうな貌に困り果てた表情を浮かべ、何やら思案しているようである。
何事かと興味を惹かれ、近くの者に成り行きを尋ねると、この街道の先、樹海に出没する山姥を退治してもらいたい、そう旅籠の主に旅の僧が頼まれているらしい。
――ほう、山姥とな。
男はあまり耳にせぬ語に好奇心をくすぐられ、更に委細を知るべく、隣の部屋の様子を眺めることにした。
「いや、ですから拙僧もまだまだ未熟の身、そのようなことを頼まれましても困ります……。」
僧は心底困り切った表情で、主に頭を上げるよう促す。しかし主は頑として聞き入れない。致し方あるまい、この先の街道が通れぬ限り、旅人は皆一里手前の分かれ道を左に曲がり、大きく迂回することになる。即ち、この旅籠には客が入らなくなり、主にとっては死活問題となる。
それに、お役に立ちたいのは山々なのですが――と更に続ける僧。そもそもこの山に出没するのが本当に化生の類とは限らないのである。山賊が、容易く荷を奪うために山姥に扮して旅人を襲っていないとも限らず、その場合、読経は何の役にも立たないと。
そう説かれて、旅籠の主も致し方なしに引き下がる。確かにその場合、僧の命をただ危険に晒すことになる。主は困窮していても、常識を踏み越えることはしなかった。静かに己の無茶を詫び、僧に背を向けようとする。
僧も話を断ったとはいえ、やはり生来人の好い若者なのだろう、己の無力に肩を落としているようである。
訪れた沈黙。それを打ち破ったのは主でも僧でも無く――。
暫し待たれい――。と野太い声で割って入ったのは、先程旅籠に駆けこんだ浪人であった。
「先の話、聞かせてもらった。」
あるじ、お困りの様であるな、と声をかけられ、何度も首を縦に振る主。
浪人は炉端にどっかりと胡坐をかいたまま、剛毅な笑みを浮かべる。
「つまりは化け物か山賊か、そのどちらかを退治すればよいのであろう。」
左様でございます、と頷く主に男は自らの胸を叩き、続ける。
「ならば某(それがし)が、坊様をお助けしよう。」
つまり、出たのが山賊であれば浪人が、山姥であれば僧が、それぞれ退治すればよいということだ。その提案に主は飛びあがらんほどに歓喜し、僧に目を向ける。
浪人と主、二名の視線を受け、僧は決心したようだ。生真面目な表情で頷く。話はまとまった。二人を拝み倒さんばかりに頭を下げる主に、浪人は切り出す。
その代わり、一つ条件がある――。
なんでございましょう、と首を傾げる主に、男は堂々と言い放つ。
「某と坊様の分の今夜の宿代と晩飯代、これを只にして貰いたい。」
提示された条件は、勿体つけた割にはひどく俗なものであった。しかも己の要求を正当化するがごとく、僧も巻き添えにしている。
少々思案した後に、ようございます、と頷いた主に、男は慌てて条件を追加する。曰く、熱燗を一本更につけてくれ、と。さすがに己でも図々しいと思っているのか、その視線は主から逸れている。
「――ようございましょ。」
再度頷く主の返答は、やや憮然としたものであった。
◇◇◇
翌朝、浪人と僧は連れだって樹海を伸びる街道を歩いていた。
「それにしても、確かに化け物が出そうな森であるな。」
浪人は言葉とは裏腹に、欠伸をしながら歩みを続ける。
主が言うにはこの森は、木々が生い茂り太陽を目印に方角を定めることができず、また、磁石も効かぬため、街道から外れると戻れなくなるとのことである。
確かにいつ山姥が飛び出してきてもおかしくないほど鬱蒼と茂った森である。僧は懐の数珠を握りしめ、緊張した面持ちで道を歩く。
四周に気を配りすぎたためであろう、足元の小石に躓く。僧は反射的に懐の手を前に突き出す。幸い、浪人が左手を掴んだために転倒は免れたが、その懐から包みが一つ、投げ出される。
片手に余るほどの大きさの布包みである。ゴトリ、と重い音を立てて転がるそれに僧は慌てて駆け寄り、中身をあらためる。
取り出されたのは、一枚の銅鏡であった。古くはあるがよく手入れされているらしく、鏡面は辺りの景観を歪みなく映し出している。僧は表裏を確認し、傷が無いことを確認して安堵のため息をつき、包みにしまおうとする。
その銅鏡を興味津々といった様子で見つめる浪人。値踏みをする様子は無く、ただ、裏に彫られた紋様に気が向いたらしい。
見事な鏡であるな、と感嘆の声を洩らす浪人に僧は頷く。曰く、彼の修行する寺の住職が新たに寺を興す一番弟子へと贈るもので、今回の旅はこれを届けるためだと答える。
尚も興味津々、といった様子で鏡を眺める彼に、もしよろしければ、と僧は包みごと鏡を手渡す。これはかたじけない、と礼を述べ、直接触れぬよう気をつけながら浪人は鏡を半ば包みから取り出し、その裏面をあらためた。
これは、鳳凰であるな――。そう尋ねる浪人に僧は頷いた。
「今年は千年に一度、鳳凰が山に身を投じて生まれ変わる年、そう伝えられております。」
その年に新たに寺を興す兄弟子への贈り物、割ってしまっては合わせる顔がありませんでした、と再度安堵の溜息を洩らす僧に、浪人は眼福であった、と一言礼意を述べ、包みを返す。僧が鏡を懐にしまったところで、二人は再度歩み出した。
◇◇◇
ところで、お侍さまの此度の旅の目的は、と。僧が後方の浪人を振り返り問いかけたのは、日が高くなり世間話の話題も尽きたころである。
うむ、実は士官の口を探しておる、と浪人は力強く頷いた。
「元々貧乏藩の赤貧藩士の次男坊、婿に入る家も無いので剣の腕を磨きつつ見聞を広めようと出藩して早十数年、そろそろ落ち着かんと流石にマズいかな、などと思うてな。」
などと気楽に語る反面、視線がやや泳いでいる辺り、結構に切迫している状況なのだろう。昨日のややセコい振る舞いに納得が行き、僧がなんとはなしに肩を落とすのを気にせず、当人は話を続ける。
「そこで今回の山姥の話、山賊であろうと山姥であろうと成敗すれば某の評判も上がる。旅籠の主も助かり、御坊も助かり、某も仕官の誘いが来るであろう。」
皆に得になる良い話であろう。と得意げに高笑いする浪人に僧は曖昧な笑みを浮かべ、そうですね、と一言のみ返した。
御坊、今溜息をついたろう。だが、ご安心召されい、これでも腕には覚えあり。刃の通じる相手であれば、山賊であろうと山姥であろうと切り伏せて見せよう――と、自信満々に見えを切る浪人から前に目を転じたその時である。
不意に前方の藪が大きく揺れ、一つの影が飛び出した。
影の大きさは子供程度であろうか。二足で立つ有様と俊敏な身のこなしは猿の様。しかし、それは明らかに猿では無かった。
浅黒い顔には炯々と光る眼が二つ。汚れた白い蓬髪に遮られ、その表情は伺い知ることが出来ない。指先には恐ろしいまでに伸びた爪。そして異臭を放つ矮躯は襤褸で包まれていた。
まぎれもなく、主に聞いた山姥である。
気が動転して立ち竦む僧に、一歩ずつ近寄る山姥。
「退けぃ――っ!」
浪人の怒声はその両者のどちらにかけられたものか。素早く抜刀した浪人が僧の襟首を掴んで後ろに引き、両者の間に割って入る。山姥は浪人に視線を向け、威嚇するように両腕を振り上げた。
裂帛の気合とともに振り下ろされる、袈裟懸けの斬撃。三間はあった間合いを一息の元に詰める男の腕前は、確かに尋常のものではなかった。
腕に伝わる確かな手応え。そして上がった叫びと血飛沫。狙い違わず男の刃は、山姥の首筋から肋骨を数本断ち、腰元までを深々と割いていた。
だが、相手は化け物、致命傷と成り得たとは限らない。男は足を送って素早く山姥に向き直る。果たして視界に入ったのは、傷口を押さえつつもこちらに飛びかからんばかりに腰を落とす山姥。
ならば更に切り伏せるまで。男は返す擦上げの刃で腹を薙ぎ、流れのままに身を捻り山姥に背を向ける。一転して再度山姥に向き直った時――この間僅か四半秒――にはその切先は天を衝いていた。
「――――ッ!」
最早言葉に成らぬ雄叫びと共に全霊を以て振り下ろされる刃。その切先は斬られた衝撃によろめく山姥の眉間を正確に捉えていた。
ドサリ、と地に倒れ伏す山姥。浪人は素早く間合いをとり、息を整えながらその様子を伺う。山姥は、伏したまま動かない。一太刀のみでも充分致命と成り得る斬撃を三度、特に最後の一太刀は、浪人がその長身から繰り出した渾身の一撃。兜の上からですら充分に致命傷となったであろう。それだけの威力を秘めた斬撃を身に受け、さしもの化け物もどうやら絶命したようだ。納刀し振りかえると、僧はまだ腰を抜かしたまま倒れていた。
やれやれ、と助け起こすべく僧に歩み寄り手を差し伸べたその時である。
後ろ――と僧に注意を促され、振り向くその目に入ったのは、よろめきながら立ち上がる山姥の姿であった。
何ということか。二人の見ている前で、袈裟懸けの、腹の、そして額の深手が、みるみるうちに塞がってゆく。
恐ろしい表情で詰め寄る山姥に、浪人はじりじりと後ずさる。相手は、己が刀の通じぬ化け物。恐怖に震える手は柄を上手く握ることが出来ない。そして不運にも、浪人は砂利に足をとられ、仰向けに倒れる。
恐慌に陥り、尻餅をついたままなんとか下がろうとする浪人に向かい、威嚇するかのように両手を振り上げる山姥。その両者の間に、ようやく恐慌から立ち直った僧が割って入る。
立ち直ったとは言えど、恐怖に奥歯を震わせながら懐から数珠を取り出し、僧は一心に経を唱え始めた。
しかし、一向に意に介さぬままにじり寄り、無防備の僧に飛びかかろうと腰を沈めた山姥は不意に歩みを止める。その足元には、先程数珠を取り出した時に落ちたのだろう、銅鏡が転がっていた。
彼女は鏡に吸い寄せられるように四つん這いになり、鏡面を覗き込むこと数秒――。
「××××××××××××××××××××!」
この世のものとは思えぬほど恐ろしい叫び声を上げ、山姥はよろめきながら逃げるように樹海へと姿を消した。
どうやら、山姥は去ったらしい。残された両名は抜けた腰を何とか上げ、鏡を拾い先を急いだ。
◇◇◇
山姥との遭遇から四時間は経とうか。間もなく日が沈むころになり、樹海は終わり視界が開ける。
傾く夕日は、雄大な富士を紅く染め上げていた。
しばしその光景に見入っていた僧と浪人は、道が二手に分かれていることに気づく。僧の目指す先は右に伸びる道。浪人が進むはそのまま真っ直ぐ。
僧は、宿場に着いたら先日の宿に、山姥は鏡の神通力にて追い払われたこと、そして、旅人は鏡を持つよう手紙を出す旨を告げる。浪人は剛毅な笑みを浮かべ、頼んだ。御坊も道中気をつけてな、と一言のみ述べ、振り返りもせず後ろ手を振り道を進む。
僧は赤く染まったその後ろ姿が見えなくなるまで、浪人の背に手を合わせ、道中の無事と今後の幸運を祈っていたが、その背が夕闇に溶け見えなくなると踵を返し、宿への道を足早に進んだ。
この二人の奇妙な道中は、これにて終わる。僧は無事に鏡を届け、山姥を追い払った鏡はその逸話と共に寺に伝えられるだろう。浪人は、願い叶って仕官できたかは定かではない。しかし、自慢の腕を頼りにきっと飄々と世を渡っていくだろう。
さて、ではこの後に続くは、誰の話か――。時は、千年ほど遡る。
◆◆◆
大丈夫かい――。と、気遣わしげに差し伸べられた手に縋り、少女は縺らせた足を踏み止まらせる。
助かりましたわ。ありがとう、と優雅に礼を述べ、手の主――まだ若い、貴族と思しき青年に微笑んで見せる。その笑顔には、軽い疲労が見て取れた。
それもその筈。今二人が進むは富士の山、六合を過ぎた足場は既に土から砂礫と化しており、一足ごとに踏みしめ進む必要がある。十をいくつか過ぎたころであろう、まだ幼さの残る彼女には少々荷の勝った道程か、やはり再び足を縺れさせ今度は手に縋ることは叶わず、その場にぺたりと尻餅をついた。
考えてみれば、馬返しから歩き通して早三時間。
少し休もうか、と。
少女の疲労を見て取り、青年は風を避けられる近くの岩場へと手を引く。まだ秋の初めとはいえ富士の高みに吹く風は、下界とは比べ物にならぬほど冷たい。彼女の身を案ずるように風上に坐り、狩衣の懐から菓子を出し勧める。
疲労だけではなく空腹もあったのだろう。少女は無心に干果と餅をほおばる。
きめ細やかな白い肌、肩口で切り揃えられた艶のある黒髪、整った目鼻立ちに上品な立ち居振る舞い。少女の容姿は精巧に造りあげられた人形のそれである。帝の命で富士に登る前に立ち寄った遠縁の親戚の屋敷にて、少女に会ったときに、青年が抱いた感想がまさしくそうであった。
親戚は、世に知らぬ者のない大貴族。彼ならば、都中の匠を呼び集めて、斯様な贅をこらした人形を造らせることも可能なのではないだろうか。
帝の命とは言え、帰る期日も定められておらず、半ば遊山の旅である。そのことを屋敷の主に告げると、ならば見聞を広げるため娘を同行させてくれ、と頼まれたのが三日前。 雛人形めいた娘が初めて見せた年相応の姿に、青年は何とはなしに安堵を感じた。
水の入った竹筒を差し出すと、一息に飲み干す。どうやらあまりに菓子に夢中になりすぎて、半ば喉に詰まらせかけていたようだ。咽る少女の背中を軽く叩いてやるとつかえが取れたのだろう。
ありがとう、と礼を述べるその顔には、少女らしい満面の笑みが浮かんでいた。
◇◇◇
日はまだ高く、空は快晴。眼下に広がるは青々とした樹海といくつかの綿雲。
先の岩場より数時間登ったところである。少女は、己が雲より高い処へ登ったことに、驚きと喜びを隠せないようであった。
生命力に満ちた若い娘らしく、食事と休憩を済ませた彼女の顔にはもはや疲労の色は無い。
また、先の休憩以来、取り繕うのをやめたのだろう。年相応の明るさ、気兼ねなさで青年に話しかける様になった。青年も元来気さくな性質であり、雑談を交わしながらの道程を楽しんでいた。
「ところで、おじさまは何故、富士のお山にお登りなの?」
そう傍らの少女に問いかけられたのは山頂間近、ほどなく昼になろうかとする頃。昼食のため、岩場に並んで腰を掛けたときである。
まだ僕は二十歳すぎなんだ。おじさんという年では無いよ、などとぼやきながら、青年は答える。
「帝のお使いでね、これを富士の火口に捨てて来てくれってさ。」
青年は、懐から小箱を取り出し彼女に見せる。
質素な白木で出来た小箱で、大きさは、片手に載るほどの大きさである。
「何が入っているかはよくわからないけどね、なんでもかぐやの姫君からの贈り物だとか。」
かぐやの姫君、その名を聞いて、少女の顔が一瞬、剣呑なものに変わる。小箱を懐にしまっていた青年はそれに気付かない。
「確かに、袖にされた相手の贈り物は捨てたくなってしまうけどさ、勿体ないと思うんだよなぁ。」
などと気楽に世間話をする青年に、少女は冷めた表情で相槌を打つ。
「そう言えば、あの一件、都を騒がせたかぐやの姫君の話、君は聞いたことがあるかい。」
ええ、よく知っていますわ、と。
そう答える少女の声は、何か暗い感情を隠すかのように冷たい。
「ああ、そうか。そういえばあの一件には君のお父さんも関わっていたんだったね。」
それに気付かぬままに掌を打ち、独り頷く青年。彼の目には少女は至って平静に見えたが――。
その実、彼女の腸(はらわた)は、父が受けた恥辱と、大貴族たる父を袖にした高慢なあの女への憤怒で、煮えくりかえっていた。
少女の名は妹紅、平安を代表する名家藤原家の当主、車持皇子の娘。そして青年の名は、岩笠。富士の火にて不死の薬を焼くよう命を受けた、帝の勅使である――。
◇◇◇
二人はその後特に会話も無く、昼食をとった。先の会話以来、少女の口数は極端に減った。
青年は、疲労のためかと特に気にすることも無く、食事を済ませて立ち上がった。
さて、ではそろそろ行こうかと、青年は座ったままの少女に上体を曲げ手を差し伸べた時、先程の木箱が青年の懐からこぼれ落ちた。
その時である――。少女の心に魔が差したのは。
差し伸べられた手を無視して立ち上がり、青年の胸を強く突き飛ばす。そして木箱を拾い上げるなり、一目散に走り出す。
特に深い考えがあったわけではない。ただ、高慢なあの女の贈り物を、富士の火で焼くのではなく、自分の手で壊してやったらさぞ小気味よいだろう。幼い彼女が考えたことは、その程度に過ぎなかった。
素早く岩陰に身を隠し、箱を改める。果たして中身は、三錠の丸薬であった。
姫から帝に贈られたのは、一体如何なる丸薬であったのだろうか。そのようなことは全く意に介さず、思いつくままに口へと運び、ひと思いに嚥下した。
薬の効果は、何も感じられなかった。恐らくはどんな病気もたちどころに治す薬とか、そう言ったものだったのだろう。
だから健康な彼女には、何も起こらなかったのだろう。そう得心して、少女は岩陰から身を起こす。
岩笠には悪いことをした、と。
不快な女への意趣返しが済んで、昂揚した心に急に後悔の念が湧き起こる。
あの気の好い青年は、きっと途方に暮れているだろう。彼には木箱は自分が富士の火口に投げ込んだと伝えよう。あと、突き飛ばしたことを謝らなければ。そう意を決し、彼が立ち去る前に先の岩場へと急ぐ。
結論から言うと、岩笠は、まだ、そこにいた。
ただし、先程彼女に突き飛ばされた際に岩に強打したのだろう。頭から一筋血を流し、彼はうつ伏していた。
おじさま、先程はごめんなさい。謝りますから起きて、と。
何度声をかけても、全く動く気配が無い。困惑しながら起こそうと揺さぶると、冷え切ったその身体は力無く転がる。
濁り始めたその両眼は、驚愕に見開かれたまま閉じることは無く――、ただ虚ろに空を見上げていた。
全身から血の気が引き、背筋に悪寒が走る。
彼女はここに至り、ようやく認めたくない事実を受け入れる。
自分が、この青年の、命を奪ってしまったということを――。
◇◇◇
逃げるようにして山を降りた彼女は、直ぐに役人に捕縛された。
どうやらあの一件は、修験者に目撃されていたらしい。証言におかしなところは一切なく、また、妹紅も項垂れたまま嘘を述べることなく、全てを認めた。しかし、彼女の出自、父親が車持皇子であることだけは、嘘とされた。
娘は、一月前に急病で亡くなり、荼毘に付した。その冷たい一文のみが、車持皇子からの返答であった。
帝の勅使の殺害、そして荷の強奪。その大罪に科される報いは、異例の死罪を免れない。強大な権力を持つ車持皇子の娘が、帝の勅使を殺めたとあらば、それは極めて大きな醜聞、政変の元となる。最悪、朝廷転覆を謀ったと取られかねない。
その判断により、父に見捨てられた娘を誰もが憐れに思ったのもあるのだろう。過ぎた呵責を与えるのは過分であるとされ、過酷な尋問は行われなかった。
◇◇◇
そして、あくる日の朝早く、静かに刑が執行された。
力無く項垂れる少女は泣き腫らした眼を静かに閉じ、最期の時を待った。
役人も、憐れむ心を務めて凍らせ、刀を振り上げる。
せめて苦しまないように、と振り下ろされた刃は、少女の首を骨の髄まで断ち切った。一呼吸置いて、糸が切れたように彼女の体は力無く倒れ伏す。
自責に心が潰されぬよう、努めて心を凍らせたまま役人は、まだ温かみの残る柔らかな躯を抱え上げる。
せめて、花咲く見晴らしの良い丘に葬ろう。そう決めて運ぶために戸板に躯を下ろした時である。
死んだはずの娘が、ぱちりと、不意に目を開いたではないか。
先の太刀は浅かったのか、と。苦しみを長引かせぬよう、突き出される刃。その切先は、少女の心臓を正確に貫いた。血飛沫が刑場を凄惨に染め上げる。
肩で息をしながら、返り血を拭う。今度こそ、違わず止めを刺した筈である。無用の苦しみを与えたことを心の中で詫び、戸板に手を掛けた時に再び開いた少女の目を見て、役人はへなへなと、その場に座り込んだ。
刑場は騒然となった。何度切られようとも死なない娘。とはいえ彼女は、抵抗するでもなくただ蘇るだけである。
役人達も、大罪を犯したとは言え、年端もいかぬ少女を幾度となく切り刻むなど、もとより乗り気である筈もない。
だからと言って、罪を咎めぬ訳にもいかない。月の霊薬により不死となった彼女は、富士の樹海に点在する風穴、その一つに幽閉されることとなった。
◇◇◇
手枷と縄にて戒められた彼女を、役人達は風穴の奥へと運ぶ。
泣き叫ぶ少女の声を背に、彼らは入口の堅牢な岩戸を閉ざした。風穴の中には闇と沈黙が訪れた。
身動き一つ取れぬまま、少女は完全な闇の中にて自分を見捨てた冷たい父を、死んだ岩笠を、己を封じた役人を、そして全ての元凶である月の姫君を恨み続ける。
死すること無き自らの身と、世の不条理を嘆きつつただ徒(いたずら)に過ぎてゆく日々。
無情にも彼女に救いの手は差し伸べられること無く、そして千年の歳月が過ぎる――。
◆◆◆
ある日のこと。富士一帯を猛烈な揺れが襲った。
地震により傾いたのだろう。富士の二度の噴火にもびくともしなかった岩戸から、一条の光が差し込む。
長い歳月の間に縄は朽ち枷は錆び、今や彼女を縛めるものは無かった。
砂漠で泉を見つけた旅人の如く、妹紅は光に這い寄った。岩戸に開いた隙間は大きく、子供であれば充分に通り抜けられるほど。
千年ぶりに外界に這い出した彼女の眼を、眩しい光が灼く。同時に、ほぼ休眠していた生命機能が活動を再開し、彼女は猛烈な空腹と乾きに襲われる。
食物を探し樹海をさ迷うこと暫く。間もなく日も沈もうかという頃に、彼女は街道へと辿り着いた。
人気の絶えた街道を、一人の行商人が行く。
妹紅は、食料を分けて貰うべく、彼へと駆け寄った。
彼女に気が付き振り向いた行商人は悲鳴を上げ、何故か眼に恐怖の色を浮かべ、荷を投げ捨てて遁走した。
何故彼が逃げ去ったのか。辺りを見回しても、恐怖の対象となる様なものは何もない。とにかく、今は猛烈な餓えと乾きを癒すのが先決、彼女は残された荷から食料と水を奪い取り貪り喰らう。
翌日も、彼女は旅人に食料を恵んで貰おうと街道に出向いた。しかし、やはり出逢った旅人は、悲鳴を上げて荷を棄て逃げ出す。
街道を行く旅人の荷に味をしめた彼女は、それ以来、度々街道に出向き、彼らを脅かすようになる。
恥も矜持も無しに、獣のようにただ己の餓えを満たす。そんな日々が続いたある日のこと。彼女の前を僧と浪人の二人連れが、通りかかる――。
◇◇◇
何度身体を切り裂かれようと、彼女の身は不滅。己が刀の通じぬことを悟った浪人は志気を失い、尻餅をついて後ずさる。
浪人を庇うべく、その前に立ちはだかる僧。何か経文を唱えている様子ではあるが、化生では無く人の身の妹紅には通じる筈も無い。
あと一押しで彼らも荷を棄てて逃げ去るだろう。僧に襲いかかろうと腰を溜めた彼女の視界に、眩しい光が目に入る。視線を落とすと、足元に一枚の鏡が落ちていた。
幼少のときよりの、姿見で身形を整える癖が残っていたのか。吸い込まれるがごとく、鏡を覗き込んだ彼女の目に映ったのは、身の毛もよだつ山姥の姿だった。
これは、誰だ、と。
少女は食い入るように己が姿を睨め回す。
黒い絹の艶髪は、汚らわしい白い蓬髪へ。きめ細やかな白い肌は薄汚い垢じみた面皮へ。整った目鼻立ちは、眼だけが炯々と輝く醜貌へと。
長い長い時を、世を呪い過ごした代償であろう。かつて平安の貴族達に愛でられた雛人形の容貌は、醜い化け物の姿へと、身を窶していた。
自らの身に起きた無残な変貌を理解した彼女の心に、不意に沸き起こるは羞恥と慙愧の念。
心の底からの悲嘆の声を上げ――。
藤原妹紅は、二人の前から逃げるように身を翻し、再び樹海へと分け入った。
◇◇◇
それから数日の後、誰にも姿を見られぬ無明の深夜のこと。
浅ましい化生の身になり果てた彼女は、もはや人の世に還るは叶わず。されど樹海で獣のように生きるも、貴族の羞恥と矜持が許さず。
ならば、残された道はただ一つ。この堕ち切った化生の身を滅すること。いかな不滅の身とあれど、霊峰富士の炎であれば滅することが出来るであろう。
かつて帝がこの山にて月の霊薬を焼こうと考えていたことに思い至り、彼女は砂礫の道を歩み、再び富士の頂を目指す。
道中、宵闇に浮かぶは、今は亡き人達。
かつて彼女を一心に育ててくれた父親、牢に繋がれ泣きぬれる彼女の頭を優しく撫でてくれた役人。そして手を引いてくれた月の岩笠。岩屋の中で恨んだ彼らが与えてくれた思い遣り、それに胸を潰されそうになりながら黙々と、独り頂を目指す。
その途中、何度も砂礫に足を取られ、転倒する。かつて彼女に手を差し伸べた心優しい青年は、今はもういない。
心の中で何度も彼に謝りながら、山を登ることおよそ半日。白々と夜が明けるころになり、ようやく彼女は山頂に辿り着いた。
噴煙たなびく山頂に開いた火口、その淵に立ち、硫黄の匂いと身を焦がす熱を感じながら、少女は天を仰ぐ。
願わくは、この身が滅しますよう。願わくは、罪が清められますよう。そして願わくは、次の生は人の道を違わぬように、と。
一頻り祈りを捧げ、彼女は火口へと身を投じた。
妹紅を待ち受けるは、灼熱の溶岩。彼女は己が身が、骨まで焼かれ焦がされ熔かされるのを感じながら痛苦に耐え、ただひたすらに自我の消滅を待った。幾度となく蘇りながらも眼を瞑り、ただひたすらに――。
一体どれほどそうしていたことだろう。数秒か、数日か、はたまた数年か――。
妹紅は不意に、誰かに呼びかけられた。
人の娘よ、起きなさい、と。そう語りかけるのは誰であろう。
なんだ。お迎えか、と。
耳ではなく意識に直接語りかける声に、妹紅は、一人得心する。
遂に彼女にも最期の時が訪れたらしい。しかしその安堵を声は否定する。
貴女は既に不滅の身。富士の炎を以てしても、その身を滅ぼすことはできないと。いずれ山が眠りについた後、彼女は独り岩の中、身じろぎ一つ出来ぬ形で蘇ると。
何だ、やはり救いは訪れないんだな。
まあそれもやむなしか、と妹紅は自嘲し、頭の後ろで手を組む。その諦念を感じたのか、声は彼女に問いかける。
人の娘よ。貴女は救いを求めるのか。と。
その問いかけに、妹紅は口の端を吊り上げ答える。
救済を求めぬ者など世にいないさ。ただ、私は罪を重ね過ぎた。この身は、永劫に硫黄の炎で焼かれ続けるのが似合いなのさ、と嘯く彼女、ここに至りようやく、彼女の頭に一つの疑問が浮かび上がる。
この声の主は、一体誰なのであろう。
人の娘よ。私は貴女と同じ。滅びぬ者、幾度となく蘇る者、霊山の炎に穢れを禊ぐ者。 私は貴女の不浄を清め、不滅の身に新たな生を与えましょう、と。声は答え、続ける。
だから娘よ、眼を開きなさい、と。
諭され開いた彼女の双眸に映ったのは、周りの溶岩を遥かに凌駕する神々しいまでの光。その中心に坐しているのは、日輪ほどに輝く火炎に彩られた、壮絶なまでに美しい一羽の鳥。
その優美で典雅な姿を彼女は知っていた。かつて幼いころに父が読んでくれた絵巻物、そこに描かれていた神格の大鳥。
千年に一度、死と再生を繰り返す輪廻の象徴、鳳凰――。
その圧倒的な姿を前に、妹紅はただその瞳から涙を流す。
人の娘よ。貴女の罪は禊がれた。新たな地で、新たな生を送りなさい、と。
鳳凰は、その両翼で優しく妹紅を包み込む。無数の羽根の抱擁の中で、彼女は己が身に熱が宿るのを感じる。
それは、身を焦がし苛む硫黄の炎ではなく、激しく流れる血潮に宿る、希望に満ちた生命の熱。火の鳥に吹き込まれし、消えること無き生命の炎。
転生した彼女を背に乗せ鳳凰は高く舞い上がり、曙光に向かい羽ばたく。目指すは幻想の遥か彼方、忘れ去られし者の楽園。
斯くして千年の呪いは此処に解かれた。曙光と鳳凰、その両者に負けじとばかりの輝かしい笑みを浮かべ、不死の少女は幻想郷へと降り立った。
◆◆◆
次こそは、道を違わぬように。
かつて己が欲求のままに迷いの森にて人を襲った山姥、今はその姿は片鱗も無く。
藤原妹紅は東の空、昇り始めた日輪に向かい大きく背伸びをする。
不死鳥に吹き込まれた胸の希望は未だ消えず。そして未来永劫消えることは無いだろう。彼女は今日も笑顔のままに、迷いの竹林に病者を導く。
おしまい。