Coolier - 新生・東方創想話

稗田の嫁

2018/10/12 20:07:18
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 阿礼九代目、稗田阿求は、阿礼乙女の常として、生まれたときより短命を定められていた。その彼女が、稗田家当主として伴侶を迎えたのは三年ほど前のことだ。
 だが、彼女はそれから一年と経たずに床に伏せ、二年を待たずに死去した。以降、婿入りした阿求の夫が、彼女に代わる当主として、稗田家に残っている。
 それ以来、小鈴は稗田家に近づいたことはなかった。



「御免ください」
 中性的な声とともに、鈴奈庵の暖簾が揺れる。店に踏み入った人影を見て、店番をしていた本居小鈴がほんの一瞬だけ表情を強張らせる。
 しかしそれも束の間のこと。すぐに彼女は淡泊な営業スマイルを浮かべると、その客に向き直った。
「これはこれは御当主。今日はどんな御用ですか?」
「ご無沙汰しております、本居さん」
 彼女の言葉に応えたのは、声質に違わぬ細面の男性だ。
 一見すると飾り気のない着流し姿だが、仕立ては良い。それもその筈。小鈴が「御当主」と呼んだ通り、彼は現稗田家当主。
 名を稗田豊という。
 声と同じく中性的な顔立ち。歳は小鈴より幾らか上のはずなのだが、その顔立ちは実齢よりも少しばかり若く見える。中肉中背の背格好も併せて、女性と見紛う者もいるだろう。だがスッと背筋の伸びた立ち姿は、なよなよした印象を与えなかった。
 彼は亜麻色の髪を微かに揺らし、有るか無きかの苦笑を覗かせながら、
「幾らか、娯楽用の読み物をお借りしようと。探させて頂いても構いませんか?」
「ええ。ご遠慮なく」
 変わらぬ笑みのまま小鈴は頷き、手で棚の一角を指し示す。その辺りを探せということなのだろう。豊は小鈴に目礼すると、彼女に示された棚を見て回る。その背をぼんやり眺めながら、小鈴は久しぶりに相まみえたこの男について、物思いに耽った。
 端的に言って、小鈴は稗田阿求を好ましく思ってはいなかった。と言っても、嫌悪しているというわけではない。苦手なのだ。さらに言えば、何を考えているのか分からない。
 阿求と結婚するに至った経緯も、彼自身がそれを望んだ理由も、小鈴はその一切を知らない。確からしいのは、豊を含む幾人かの候補がいた中、彼が阿求に告白し、阿求がそれに応じたらしいということ。その時の詳しいやりとりすら、小鈴は僅かたりとも知らなかった。
 普通に考えれば当然のことかもしれないが。
 阿求が選んだくらいだ、きっと悪い人間ではないはずなのだろう。それでも、意図が読めないという不気味さは、どうしたって付きまとう。
 疑念とともに豊の背を睨み続けて時間にして十数分、彼は数冊の文庫を手にカウンターへと向かった。小鈴がそれを検めたが、どうやら外の世界での大衆芸能、落語を小説化したものらしい。こんな本があったこと自体、小鈴も忘れかけていた代物だ。
「また珍しいものを……」
 呆れた笑みでぼやく小鈴に、不思議そうに豊は目を瞬かせる。
「面白そうだと思ったのですが」
「いえ、止めるわけじゃないですよ。どうぞどうぞ」
 手元の台帳に豊の名と本の題名を並べて書きながら告げる小鈴。そんな彼女の向かいに、豊は本を手にしたまま腰を下ろした。
 怪訝そうに眉根を寄せて、小鈴が下ろしていた顔を上げる。
「……まだ何か?」
「ええ」
 薄い笑みで頷く豊を、ますます胡乱そうな目で小鈴が睨みつける。余裕を崩すこともなく、豊は視線による催促に応えた。
「実は貴女に、一つ提案――といいますか。相談したいことがありまして」
「ははぁ。稗田家の御当主様が、私なんかにどんな御用事なのやら」
 瞳に警戒心を漲らせて、小鈴が生返事をしながら目を眇める。そんな彼女を真っ直ぐに見つめ返し、豊はほんの微かな気負いを覗かせながら口にした。

「では、単刀直入に――私の妻になって頂けませんか?」

 小鈴が一切の表情を消したことに、豊とて気づかなかったわけではないだろう。小鈴もまた、己の無表情を正そうともせず、正面から豊の眼を睨みつける。
 威圧的な眼光を浴びせられた彼は、たじろぐわけでもなく、だが困った様子で身を竦めた。己が窮状に陥ることを、あたかも事前に予想していたような反応に、小鈴は苛立ちを隠そうともせず口元を歪めた。
「……自分の旦那が、こうもすぐに嫁探しを始めるような薄情者だったと知ったら、阿求は何て言うだろうね」
 最早敬意の欠片さえ無く吐き捨てる小鈴だったが、対する豊は薄い苦笑で応えた。
「どうでしょう。阿求様も心得ていたことと思います」
「へぇ、そう」
 押し殺した声音にも、やはり豊が困惑する様子はない。さらに怒りを募らせる小鈴だったが、それも想定の内だったのだろう、小鈴より先に豊が再び口を開いた。
「私は、阿求様の伴侶として在りました。あの方が、当主としての務めを果たすための伴侶として。そして今は、あの方がやり残した務めを果たすために、あの方のかつての伴侶として、新たな当主の座に収まっているに過ぎません」
 そう告げた彼の目に、寂寥が映る。それに気づき、小鈴は未だ警戒を解かぬまま、僅かに視線の圧力を下げて問いかける。
「つまり、阿求のやり残した当主の務めとやらを果たすために、新しい奥さんが必要ってこと?」
「ええ」
 短く声を発して、豊は頷いた。
 それ以上の説明はない。怪訝に思う小鈴だったが、少し遅れて彼の意図に気づいた。彼の言う務めが何か、考えてみろということだろうと。
 一瞬遅れて、さらに気づいた。彼の言う通りだとしたら、妻が必要となる責務など、一つしか思い当たらないということに。
「お世継ぎ、ってことね……」
 苦々しく呟いた小鈴に、豊は無言で頷いた。
 豊との婚姻から二年と経たずこの世を去った阿求に子供がいたという話は、本人からも人づてにも聞いたことがない。となれば、現在稗田家には阿求の、ひいては豊の次代がいないことになる。稗田家として、それは看過できることではあるまい。
 事ここに至って、どこか申し訳なさそうに眉尻を下げる彼の姿にも、妙に納得がいく。要約すれば“子供を作るために嫁に来い”と言ったことには、流石に後ろめたさがあるのだろう。
「勿論、強要はしません。出来るはずがない。阿求様の大切なご友人ですから」
 黙りこくった小鈴に、豊はそう語りかける。その語気が、「嫁に来てくれ」と告げた時よりも強く感じたのは、小鈴の気のせいだろうか。
 微かな違和感。その正体を確かめるために、小鈴は一層目を細めて彼を見る。
「強要はしない、って言っても、私が断ったらどうするの?」
「他の方に当たるしかありませんね。ですが、誰も見つからないということはないでしょう。稗田家当主の妻という立場に惹かれる方も、少なくはないでしょうし」
「ふぅん。ならどうして、わざわざ私に求婚なんてしたの」
 問いを重ねる小鈴。その二度目の問いに、豊は初めて言葉を詰まらせた。固い表情で口を噤み、視線を泳がせる。
「……それは……」
 何かを言いかけたものの、結局それ以上言葉は続かず、彼は再び口を閉ざした。真一文字に唇を結んで黙考する彼を、小鈴は冷めた目で見つめていた。
 どれくらいの間、無言が続いたか。
 再度豊が言葉を紡ごうと口を開きかけ――だが今度は、小鈴が先に声をかけた。
「少し考える時間、あるわよね」
 虚を突かれ、呆然と目を丸くする豊の姿を、やはり小鈴は冷静に見据えている。但し、視線に込めた敵愾心は、先までよりは幾分和らいでいた。
 豊は驚きの表情のまま、
「意外、ですね。断られるものと思っていました」
 本心のままに呟かれた彼の言葉を、小鈴は相手にはしなかった。彼女は肩を竦め、自身の回答に続けて言う。
「貴方と私の間に、今までそんなに交流があったわけじゃないし、実際に一緒に上手くやっていけるか分からないから。結婚してくれ、って言うなら、それに向けて仲を深める時間が要るでしょう?」
 頬杖をつき、試すような口調で言う小鈴。豊はそれに、有るか無きかの苦笑を覗かせて尋ねかけた。
「お友達から、ということですか」
 豊にしてみれば、確認というわけでもない、ほんの軽口のつもりだった。だがそれに、小鈴は一層細く笑みを尖らせる。
「随分悠長なのね。けど、「恋人から」でいいわ」
 再び驚いた様子で、豊が眉を跳ね上げた。
 今や、最初と立場が逆転していた。不敵に微笑む小鈴の顔を、訝るあまり食い入るように見つめる豊に、彼女は小さく息を零して囁いた。
「私だって、貴方と結婚するかどうか結論を出すまでに、そんなに長々と時間をかけたくないもの。だから、恋人からスタート。勿論、それに相応しい扱いをしてくれなきゃ、早いうちに見限っちゃうから」
「……成程。道理ですね」
 しばし彼女の言葉を反芻した後、豊は吐息とともに頷いた。得心の笑みとともに立ち上がり、彼はやおら懐から風呂敷を取り出すと、初めに借りた本をそれで包んだ。
 それを目で追う小鈴を見下ろしながら、彼は柔らかい笑みを浮かべて、
「お心遣い、感謝します。では、今日のところはこれで。日を置かずまた参りますよ」
「少なくとも返却期限までにはね」
 小鈴の応えに真剣味は感じられなかったが、豊は気に留めなかった。軽く一礼をして踵を返し――そのまま辞するかに見えた彼だったが、その前に足を止めてもう一度小鈴を振り返る。怪訝に思う彼女へと、彼は微かにからかい混じりの声で囁いた。
「それと、私としては今のような、砕けた態度で接してもらえた方が嬉しいですね。「御当主」などと言わず、名前で呼んで頂けるとなお良いです」
「……気を許したからこういう態度を取ってるわけじゃないんだけど」
「それは残念。ですがいずれにせよ、堅苦しく敬われるよりは余程嬉しいですよ」
 思わず憮然と呟いた小鈴に、彼はもう一度笑顔を見せて立ち去った。彼が揺らした暖簾を、小鈴はしばし眺めながら物思いに沈んだ。
 豊の申し出を受けるつもりは、小鈴にはほとんどなかった。それでも「全く」と言い切れない理由は一つ。
 どういうわけか小鈴には、まるで彼が、阿求に託されたものであるかのように感じられてしまったのだ。
「……そんなわけ、ないのに」
 阿求が結婚してから亡くなるまで、夫婦仲について聞かされたことは全くない。それでなくとも、遠回しにでも、阿求から託されたものなど何一つない。
 傍目には急に決まった結婚だった。それまで阿求と豊の間に、それほど深い縁があったとは思えなかった。そんな彼には阿求から託された使命があって、自分にはそれがないことが、小鈴にとってはどうにも寂しかった。故に、期待してしまう。今は亡き阿求から、もし自分が託されるものがあるとしたら、と。
 そして、だからこそ知りたいのかもしれない。本当に、彼が阿求の伴侶たり得る人物だったのか。本当に、阿求が気遣うような人物なのかどうかを。
「ま、断るなら早めに、丁重にかしらね。お父さんたちが知ったら、却って騒ぎそうだし」
 誰にともなく独り言ち、小鈴は一人伸びをした。
 次に彼がどんな風に小鈴の機嫌を取りに来るのかを、少しだけ楽しみにしながら。



「だからって翌日に来る?」
 翌朝、開店とほぼ同時に鈴奈庵にやってきた豊の顔を、小鈴は呆れも濃く、半眼で睨めつける。だが冷ややかな視線を浴びせられようと、豊は涼しい顔で微笑み、
「少しでも早く貴女に会いたかったもので」
「よくもまぁ、そんな歯の浮くような台詞をのうのうと言えるわね……」
 一層深くなる小鈴の眉間の皺にも、豊は気づかぬふりだ。
 彼は持ってきていた小ぶりの鞄を、慎重な手つきで床に置いた。微かに聞こえた重たげな音に、小鈴は眉を顰めて尋ねる。
「何入ってるの、それ?」
「これですか? 後で使おうと思っていたのですが」
 問われた豊が、鞄を開けて中に手を突っ込んだ。しばしして出てきたのは、鞘に納められた包丁。ぎょっとする小鈴を余所に、浅い鍋やらまな板やらが顔を出す。要するに、調理器具が幾つも収められていた。
「お恥ずかしながら、人に自慢できるようなものはこれしかないのです。なので、折角ですからお昼に腕前をお見せしようかと」
 包丁の鞘をそっと撫でながら、さらりと言ってのける豊の姿に、小鈴は以前阿求から聞いた話を思い出した。
「ああ、そっか。貴方の実家って料亭なんだったっけ」
「よくご存知で」
「……たまたまね」
 口にした途端、嬉しそうに微笑む豊が何となく癪に障り、小鈴は低い声でそう告げた。
 どうにも昨日から、豊にペースを握られている気がして落ち着かない。何とか彼に揺さぶりをかけようと、小鈴は平静を装う傍ら必死に思考を巡らせた。
「それにしたって、何の下準備もなしにお昼の用意なんてできるの?」
「むしろ即興だからこそ、経験が活きるとも言えるでしょう。とはいえ、食材そのものを使い切っていたりすると流石にお手上げですね。よろしければ、一度見せて頂いても?」
「……ま、いいけど。でも、昨日の今日で早くも台所を占拠しにかかるとは思ってなかったわ」
「私にもう少し他の取り柄があれば、ここまで差し出がましい真似もしなかったんですけどね。出来れば、恋人の顔を立てると思って許してください」
「むむぅ……」
 言葉を重ねても豊の微笑は崩れず、自分の言葉を逆手に追及を阻まれる始末。一層不機嫌を募らせながら頬を膨らませる小鈴だったが、結局は諦め混じりに小さく嘆息した。
(ま、美味しいものを作ってもらえるなら、それ自体はいいかな)
 そう胸中でぼやきながら、何の気なく話題を振るような感覚で、
「そこまで言うなら任せるけど……ちなみに貴方のご自慢の料理の腕、阿求からの評価はどうだったのよ?」
 そう口に出してから、無神経なことを言ったと気づく。自分の言葉に自分で表情を硬くしながら、小鈴は豊の顔色を盗み見た。
 彼の表情は変わらない。落ち着き払った微笑のまま、その場に佇んで――否。変わらずに見えたその薄笑み、その態度に、ほんの微かだが綻びが見えた。
 その些細な変化に気づけてしまったことに、驚きを感じずにはいられなかった。
「自分で言うのもなんですが、上々だったと思いますよ。尤も、稗田家に嫁いだ後は、阿求様に料理を振舞って差し上げる機会はありませんでしたが」
 声色も平然としたものだ。内容相応に気落ちした様子はあったが、それだけだった。
 気づかなければそれだけで済んだ。だが、内心の動揺を押し殺した結果なのだと知ってしまえば、どうしても罪悪感が湧いてしまう。
「あー……ごめん、無神経なこと聞いた」
 目を逸らし、素直にそう謝る小鈴。だがそれに、豊が意外そうに目を瞬いた。
 小鈴の謝罪が、豊の言葉通りの答えに対するものではないように思えたからだ。ひた隠したつもりの傷心に感づかれたのでは、という疑惑に、彼は小鈴の顔をじっと見つめた。その視線に気づいた小鈴は、居心地悪そうに肩を揺すりつつ、それを咎めはしない。
 ふっと、豊が息を零す。
「いえ、お気になさらず」
 口元に自嘲を浮かべ、彼はそう告げた。
 結局、豊の要望通り彼を台所へ案内しながら、小鈴はふと思う。豊が自分の発言のせいで傷ついたことは分かった。けど、その明確な理由はすぐには分からなかった。結婚した後に料理の腕を振るうことができなかったという彼の発言が、傷心を隠すための誤魔化しならば、その本当の理由は別にあるはずだ。

――あの方が、当主としての務めを果たすための伴侶として

 ひょっとして、と、顔には出さず思う。
 ひょっとして彼は、恋人や夫婦らしい時間を阿求と過ごしたことが、一度もないのではないだろうか。
(ない、とは言えないだろう、けど……)
 確実ではない。確認することでもない。首をもたげた同情を圧し潰しながら、小鈴は小さく首を振る。
 沈んだ表情で背後に佇む彼女に、豊が気づいた様子はなかった。

 宣言通り、豊は昼食を作って帰っていった。当然、それは小鈴の両親も知るところとなった。どう説明したものかと考えていた小鈴を余所に、豊は「以前、妻が大変お世話になっていたお礼をしたかった」だのと告げた。
 外堀を埋めるような真似をされなかったことには安堵した。それと同時に、本当に彼が、是が非でも小鈴を嫁に迎えようとしているわけではないことも確信した。
 ならばやはり、どうして彼は真っ先に小鈴に声をかけたのだろう。昨日彼が口ごもった理由は、未だ分からぬままだ。
「いつか答える気、あるのかしら……」
 疑問をぽつりと零し、小鈴は食後に淹れた茶を啜る。
 豊の作った料理の後に飲むには、どこか物足りなく感じる味だった。



 それからしばらく、豊は週に二、三度ほどの頻度で鈴奈庵を訪れた。流石に毎度食事を作っていくようなことはなかったが、初めてやって来た時以外に一度、やはり昼時に料理をしていった。
 当主という立場は、彼が自由に板場に立つことさえ許してくれないらしい。そんな話を聞いた時、つまるところこれは彼の息抜きも兼ねているのだということを小鈴は理解したが、それで腹を立てるつもりもなかった。
 小鈴の両親も、度々来訪する稗田の当主に最初のうちこそ困惑したようだった。とはいえ、そこも豊が丁寧に誤魔化していた。曰く、「当主の座を継いでから、しばらくは屋敷のことでごたついていたが、ようやく本来の執務に戻れるようになった。鈴奈庵を訪ねるのもその一環だ」とのことである。事実――本当に執務の一環なのか、はたまた単なる偽装なのかは不明だが――刷り仕事を依頼してくることもあった。
 それでも大半は、小鈴とお茶を飲んだり、一緒に本を読んで雑談したりといったことばかりだったが。
「…………」
 仏頂面をぶら下げ、一人で悶々と現状を振り返っていた小鈴だったが、やがて大きな嘆息とともに結論づける。
 最早偽ることはできない。豊と共にいる時間が、日常化しつつある。さらに質の悪いことに、それをどことなく楽しみに感じている自分がいる。
「どうされたんですか、溜息なんてついて」
 小鈴の様子に反応し、椅子に腰かけて文庫に目を落としていた豊が顔を上げる。心配そうに小鈴を見やる瞳に、演技の色は見えなかった。
 今日も今日とて鈴奈庵にやってきた彼だったが、何か特別なことをするわけでもない。連れたって外に出かけたりするわけでさえなく、時間が許す限り小鈴と他愛のない言葉を交わし、茶を飲んだり本を読んだりするだけだ。
 それも、小鈴の要望である。というのも、これ見よがしに外出を繰り返そうものなら、間違いなく小鈴と豊の仲は噂の的となるだろう。そうなれば自然、豊の求婚を断りづらくなる。
 そう、逆に言えば、恋人らしさを盾にデートに誘ってしまった方が、豊にとっては“有利”なはずなのだ。なのに、そうする素振りが全くない。
 打算で動く機会を窺っているのでは、と、疑う気持ちもある。もしそんな時が来れば、迷わず袖にしてやろうとも思っていた。或いは、そんな内心を見透かされているのだろうか。
「私が嫌がったからなのは分かるけどさ、貴方は外へお出かけしたりとか、しなくていいの?」
 質問に質問で返すような小鈴の言葉にも、豊は気を悪くした様子はない。にこにこと笑みながら首を振り、
「一緒の時間を過ごせるのなら、どんな形でも構いませんよ。それに、周囲の目を理由に嫌々嫁いで下さったとしても、末永く付き合っていくことはできないでしょう」
「貴方の言う「当主の務め」とやらを果たすのに、それは必要なことなの?」
「……御冗談を」
 可能な限り辛辣に言葉を選び、抉るように疑問を突き刺す。
 これには豊も無反応とはいかなかった。微かに目が据わり、声が冷える。それでも、脅すようなトーンではない。不思議と、純粋に彼の回答に興味を惹かれる真摯さがそこにあった。
「一度妻として娶った女性を、用が済んだら打ち捨てるような真似を善しとする人間に見えましたか? だとしたら、一層態度には気を付けなければなりませんね」
「……意地悪を言っただけよ。怒らせたらごめんなさい」
 そう言って、小鈴は目を逸らした。
 心地の悪い手応えだった。どうしたって、彼に対する疑念は残る。けれど、だからといって無闇に彼を傷つけていいわけはない。分かっているのに、気づけば不用意に踏み込んだことを言ってしまう。
(何かの間違いで結婚することになったとしても、私の口の悪さが原因で長続きしないんじゃないかしら)
 胸中でぼやき、口の端だけで苦笑を刻む小鈴だったが、豊は小さく息をついた後に言った。
「ええ、今のは流石に怒りました」
 あっさりとそんなことを言ってのける豊の顔を、小鈴は目を丸くして凝視した。彼は言葉とは真逆の微笑を浮かべ、
「ですので小鈴さん。折角ですので、貴方の手料理を所望してもよろしいですか? それで機嫌を直しましょう」
「……えぇ?」
 困惑とも呆れともつかない声を漏らして、小鈴は思いっきり肩を落とした。何度も瞬きして豊の表情を検めるが、彼が己の言葉を覆す様子も、冗談を言っている気配もない。本気で言っているのだとようやく確信し、小鈴はもう一度大きな溜息をついた。
 やはり、彼の手のひらで踊らされてばかりいる気がする。そしてなお困ったことに、それが少しだけ心地いい。新鮮で、楽しいと感じてしまう。
 それでも、彼に完全に気を許すことはできない。それは当然、彼が小鈴を見初めた理由が分からないという一点から来るものだ。
 彼を、稗田豊を見極めたい。今は以前よりもずっと強く、そう思う。
「まあ、料理くらいいいけど……いやでも」
 だからこそ、小鈴は意を結して、一歩踏み込むことにした。
「それなら私からも、一つお願いしていいかしら」
「何でしょう?」
 彼女の反応が予想外だったのだろう。首を傾げつつも、豊はそう促した。小鈴は可能な限り平然とした態度を作り、豊の目をじっと見つめながら、
「一度、貴方の家に招いてくれない?」
 彼女の問いに、豊は意を図りかねたように眉を顰める。
「……生家のことですか?」
「ううん。御当主の家のこと」
 訊ねた彼にそう返すと、途端、彼の表情が曇った。その表情を、小鈴は一片の変化も見逃さぬよう神妙に見つめ続ける。
 豊も目を逸らそうとはしない。それでも、極めて渋い胸の内はありありと見て取れた。苦々しく息を吐いた後、彼は唸るような声を絞り出した。
「率直に申し上げて、お薦めしません。今行くとなると、不愉快な思いをさせることになるかもしれませんし……せめて、もうしばらくお待ち頂くことは――」
 言葉を選びながら、ゆっくりとそう諭す豊だったが、小鈴はそれを遮るように首を振る。
「ご心配なく。もし嫌な思いをしたとしても、その時は貴方の求婚を正式にお断りするだけ。それで十分溜飲は下がるわ。それとも豊さん、それが嫌だから、私をお屋敷に近づけたくないのかしら?」
 値踏みするような言い方に、豊が言葉を詰まらせる。
 問うまでもなく、小鈴はその答えを知っていた。だが、こう言えば彼が断われないことも分かっている。確たる自信を持って返事を待つ小鈴の目を、豊は気難しそうに覗き込んでいたが、やがて観念の吐息を漏らした。
「……分かりました。来週中にはお招きします」
「楽しみにしてるわ」
 豊とは対照的に、満足げな笑みを浮かべ、小鈴は首肯した。珍しく豊を言い負かした高揚に、彼女は軽い足取りで踵を返しつつ、
「じゃ、約束通り、お昼の用意するわね。何か要望はある?」
 上機嫌の質問に対し、豊は項垂れたまま即応した。
「愛情たっぷりでお願いします」
「……一切期待しないでちょうだい」
 予想だにしなかった一言に、一瞬で気勢を削がれた小鈴がげんなりと応える。
 それに豊は、口元に小さく、意味深な苦笑を刻みながら、静かな声を零した。
「残念です――」



 後日。
「ごめんください」
 稗田家の屋敷の門前で、小鈴が声を上げる。普段よりも念入りに服装と髪を整え、居住まいを正しながら反応を待つ彼女は、自分が幾らか緊張していることを自覚した。阿求の生前は幾度か通ったこの屋敷だが、仰々しい門構えにはなかなか慣れることができないでいた。数年ぶりともなればなおさらだ。
 早くこの居心地の悪い緊張から解放されたい。そんな彼女の願いが届いたか、間を置かず門が開く。そこで彼女を待ち受けた人影に、小鈴は瞠目した。
「豊さん?」
「ようこそいらっしゃいました、小鈴さん。お待ちしておりました」
 不思議そうに名を呼ぶ小鈴にも、豊は涼しい顔で挨拶する。
「何で御当主の貴方がお出迎え? 普通、使用人さんとかの仕事なんじゃない?」
 率直に疑問をぶつける小鈴だったが、豊の方も肩を竦めながら端的に答える。
「そろそろいらっしゃる頃だと思っていましたし、ついでに庭を眺めながら待とうかと。それに恋人の出迎えくらい、自分でしたいでしょう」
「……つくづく、「恋人から始めましょう」なんて言ったことを後悔しそうだわ」
「そう仰らず。さあ、こちらへどうぞ」
 げんなりと肩を落とし、小鈴がぼやく。そんな彼女の手を取って、豊は彼女を屋敷へと誘った。
 小鈴は努めて遜らないよう接しているし、豊も小鈴に対しては好意を全面に押し出して相対している。だが、こうして触れ合う機会は滅多になかった。意識し、少しだけ小鈴が赤面する。
 案内されるまま、庭を抜けて屋敷の玄関へ。履物を脱ぎ、さらに彼に手を引かれて、二人は豊の私室へ辿り着いた。途中、使用人など他の人影を見なかったのは気がかりといえば気がかりだったが、微かに物音はするあたり、単に離れた場所で家事に勤しんでいるだけなのだろう。
「……結構狭いのね」
 通された豊の部屋を見て、開口一番に小鈴が漏らす。実際のところ、そこまで狭いというわけではないのだが、当主の部屋と身構えるには些か拍子抜けだったのだろう。特に小鈴は阿求の部屋を知っていたため、それと比較してしまうというのもある。
失礼千万な一言にも、豊は意に介した風もなく、
「阿求様が当主だった頃の部屋をそのまま使っているので。執務も別室ですから、別段不便はありませんよ」
「そうなの?」
「ええ。むしろこれでも我儘を言った方です。炉はどうしても欲しかったので」
 彼はそう言うと、部屋の中心にある、不自然に切れ目の入った畳を退ける。彼の言う通り、湯沸かし用の炉が顔を出した。思わず小鈴が感嘆の声を上げる。
 豊はそのまま、入り口正面の障子を左右に開いた。小庭に面した縁側がその向こうにある。彼はさらに、片手で炉の上に置いてあった茶釜を、もう片手で火起と台十――炭の入った金属の網と取っ手付きの盥を手にとった。
「少しこちらで待っていてください。種火と水を持ってきます」
「あ、うん。ありがとう……」
 言うが早いか、部屋を出るなり襖を閉める彼に、礼を言うこともままならず、小鈴はぽつんと部屋に取り残される。しばし言葉を失う小鈴だったが、何もせず待つのも面白みがない。初めて入る豊の私室に、改めて視線を巡らせた。
 左右の壁に寄せられた、箪笥と小さな書架、それと筆と硯の載った座卓。本を何冊か抜き取ってみたが、料理の教本や使い込まれた手帳の類ばかり。それと一部は鈴奈庵から借りて行った本が占めていた。
 他に取り柄がない、と自分で口にした通り、料理に対する興味は深いことが見て取れる。今までも知っていたこととはいえ、改めて実感を伴って、彼の人物像に組み込まれていく。
「…………」
 それでも結局、新たな一面は見えてこない。私生活の中心に触れてなお、豊の人となりが半ば以上霞みがかったまま、その輪郭を掴ませない。
 これまで豊は、敢えて自分の事を話そうとしなかったのだと思っていた。だが、騙して小鈴に好感を抱かせようとしているわけでもなく、むしろ相互理解をこそ重く見ている節がある彼が、わざと自分の身の上を伏せるような真似をするのも、よく考えれば不自然だ。
 だとすれば、残る可能性は一つ。
 彼には、本当にこれだけしかない――或いは、残っていない。
「つまらない部屋でしょう?」
「うひゃああああ!?」
 一人黙々と考えに耽っていた小鈴の背後から、豊の声がかけられた。たまらず両肩を跳ね上げ悲鳴を上げる小鈴だが、豊はその慌てた様子も、彼女が部屋を物色していたことも気に留めなかった。
 台十の炭を炉に落とし、茶釜を炉に置いた彼は、そのまま箪笥に向かう。最上段の戸棚を開けると、
「折角だからと、良いお菓子を用意したんです。お口に合うと良いのですが」
「ど、どうも」
 竹皮に包んだ羊羹と小皿、黒文字を取り出し卓に置く。彼のあまりにあっけらかんとした態度に、幾分気まずい胸中で小鈴は豊を見上げた。
「……怒らないの?」
「勿論。部屋に一人残しておいて、何にも触れるなと言う方が酷でしょう」
 小鈴の問いにもそう即答する彼だったが、遅れて微かな苦笑を見せる。彼の表情を疑問に思い、小首を傾げた小鈴へと、彼は立ち尽くしたまま目を向けて、
「むしろ、こちらが謝らなければならないくらいです。こんな空疎な部屋に招くなど本意ではなかったのですが……生憎、私という人間には、本当にこの程度のものしかない」
「豊さん……」
 そう嘯く口元は、どこか寂しげに映った。彼はさらに何か呟きかけたようだったが、結局口を閉ざして目を逸らす。
 彼の視線の先を半眼で追いながら、小鈴は押し黙り、彼にかけるべき言葉を探した。そうしているうちにも、彼は再度箪笥の棚から、今度は茶碗と茶杓、茶筒と茶筅を出す。
「茶の湯は専門ではないので、大した手前ではありませんが。その分気楽に構えてください」
 そう言いながら、茶釜に目をやる。お湯が沸くまではまだしばらくかかりそうだ。豊も小鈴もそれを察し、どちらからともなく互いに目を見交わす。
「さて、しばらく暇を持て余してしまいますが――」
 豊が先に口を開く。不自然に間合いを取るような言葉尻に、小鈴はその意図を汲み、誘いに乗るかのように問いを投げた。
「じゃあ、聞いてもいいかしら」
「何なりと」
 質したい疑問はある。それでも、直接尋ねるべきことがあるとしたら、それではない。
 余裕の笑みで一つ頷く豊を、小鈴はスッと据わった眼で見据え、口を開いた。
「貴方にとって、阿求って何だったの?」
 それは彼にとって、予期していなかった質問だったのだろう。動揺を見せた彼だったが、それもほんの一瞬のことだ。
 豊はすぐに、表情を穏やかなものに変えた。その変化に、小鈴の方が逆に狼狽えてしまう。
「阿求様……そうですね、私にとってあの方は――」
 そう呟く彼の表情が、驚くほど透明で、淡くも確かに嬉しそうに綻んでいたから。

「あの方は、私の総てでした」

 いつだっただろう。かつて、阿求が同じ表情をしていたのを見た気がする。
 言葉を失くした小鈴の困惑を察しながらも、意に介する様子はなく、豊は卓上で手を組みさらに語る。
「私が阿求様を見初めたのは、あの方が私の実家に御挨拶にいらっしゃったときでした。お恥ずかしながら、一目惚れというのでしょうね。その日以来、あの方の美しさが意識から離れなくなってしまったんです」
「そ、そう……」
 滔々と語る彼に、引き気味の相槌を打つ小鈴だったが、豊の方は言葉とは裏腹に羞恥の欠片も見せなかった。
 頬を攣らせつつ、それでも小鈴の視線は、自然と彼に惹きつけられたまま動かない。それはさながら、空っぽだった葛籠から唐突に水が湧き始めたのを目にしてしまったような驚き。初めて目にする彼の姿から、目を離せずにいた。
「幼い双肩に負った、阿礼乙女としての、稗田家当主としての使命の重み。それにも関わらず、少女の可憐さを失わないその表情が、何より強く、そして尊く思えました。あの方の、人としての在り様そのものが美しいと。この不肖の身に適うのなら、その歩みを支えたいと」
「……随分と惚れ込んだんだね」
「ええ」
 平坦な声音を小鈴が投げかけても、豊はあっさりと首肯する。小鈴の姿が眼中にないわけではない。ただ空恐ろしいほど、彼の言葉には一切の嘘がない、ただそれだけだ。
 なお淀みなく言葉を紡ごうとした彼だったが、一度それを区切ると、目配せのように小鈴の両目に焦点を合わせた。おや、とその目を瞬かせる小鈴に対し、
「それから時が経ちました。その間、幾度かお会いし言葉を交わす機会はありましたが、あくまで稗田家と親交のある旧家の一人というだけ。左程深い親交があったわけではありません。そうするうちに、近々阿求様が、伴侶を迎えると聞き及びました。ところが――小鈴さんなら、ご存知だったのではありませんか?」
「ご存知、って、何を……」
 問われたままに質問を返しかけ、しかしそこで小鈴の声が止まる。
 豊が言わんとしたことに、心当たりがあった。だがそれが正しいのか、果たして口にして良いものか。躊躇うあまり唇を震わせる小鈴の返事を待たず、結局、豊は言葉を継いだ。
「阿求様には、想い人がいらっしゃった。しかもそれは、あの方の夫とはなり得ぬ方だった」
「っ、貴方知って……!?」
 もしやと思った通りの言葉。涼しい顔で語る彼を愕然と凝視する小鈴と、彼女の烈火の眼光を微笑で受け流す豊。両者の視線の衝突は数秒のことだったが、僅かなはずのその時間の密度は鉛をも超えていた。
 先にその膠着を崩したのは、やはり豊だった。
「仕方のないこと、と言えばそれまでなのでしょう。ですが私は、阿求様が意中の相手でもない男と結ばれることを、どうしても快く思えなかった。他人の身勝手と分かっていてなお、あの方が望まぬ相手に愛を囁かなければならない未来を、どうにかして避けたかった」
 聞かされる小鈴の形相など意にも介さず、それどころか、彼自身の言葉とさえ乖離しきった穏やかな表情のまま、彼は語り続けた。
 彼の内から湧き続けていた水が、知らぬ間に泥に変わっていたかの如き悪寒。身震いする小鈴だったが、今やその意識は完全に彼の言葉に釘付けになっていた。
 これだけ異質な空気に触れてなお、彼の底はまだ遠い。その実感を前に、小鈴は耳を閉ざすよりも、新たな問いを投げていた。
「け、けどそれじゃあ結局、貴方は何で阿求と結婚なんてしたのよ」
 気圧されるまま、何より核心的な問いを。
 それを受けた豊は、最後まで変わらぬ微笑のまま、小さく頷いて答えた。
「だからこそ、私は阿求様に申したのです。「私は、貴女が当主の務めを果たすための存在として、それだけのための存在として、貴女の最良の伴侶としてお仕えします。夫として私に想いを向ける必要などない。貴女が本当に愛おしく想う方を愛したままでいてくれれば。飾りとして、道具として傍らに置いて下されば、私はそれで良い」と」
 答え切って、豊は口を閉ざす。
 小鈴の問いには答え切ったと言わんばかりに、その口を結んで何も語らない。ただその双眸だけが、何かを促すように彼女を捉えていた。
 小鈴は何も応えない。全て合点がいったという心境の傍ら、脳内の血流が耳に響くほど思考が渦を巻いていた。
 稗田豊という人間に対する評価が、拠り所を失くして宙に浮いていた。ほんの少し前までは、ただ空虚なだけの、底の浅い人物なのかもしれないとさえ思っていたのに、今ではあらゆる物差しが折れ、何一つ彼を理解することができない。
 否、彼が口にした言葉通り――思っていた以上に言葉通りに、彼にとって阿求は“総て”だったのだということだけは分かる。
(けど、だとしたら……)
 豊にとって、“阿求が”総てであったのなら。
(この人にとって、この人自身は一体何なの――)
「――御当主様」
 不意に、襖の向こうから、しわがれた女性の声が掛けられた。完全に意識の外からの事態に、小鈴は驚きのあまり肩を跳ね上げた。
 意外だったのは豊にとっても同じらしかった。彼は少しばかり苦い表情で、声のした方へと向き直り、
「来客の最中だとお伝えしたはずです。後にして頂けませんか?」
 思えば、これまで聞いた彼の声は、落ち込んだ時や冗談を言う時でも、険のあるものではなかった。だがこの時の彼は、穏やかではありながらもどこか突き放すような、冷淡さを感じさせる声音で告げた。
 しかし、対する老女の声も、素知らぬ調子でそれに応じる。
「急ぎの要件です故、お越しください」
「……分かりました」
 促され、豊は低い声でそう答えた。
 嘆息しながら立ち上がる彼を、未だ混乱から醒めぬ小鈴が反射的に目で追う。そんな彼女に、豊は一瞬で繕った微笑みを向けて頷いた。
「すみません、すぐに済むと思いますので、少しだけお待ち頂けますか?」
「え、あ……」
「何度も席を外して、本当に申し訳ありません。戻ったらすぐに、お茶の用意をしますから」
 目を白黒させる小鈴に、豊はそう告げて返事を待たず、襖を開けて部屋を出て行った。先と同じように、部屋に一人取り残された小鈴だったが、千々に乱れた胸中はその既視感を感じさせない。
 何も考えられない。豊の凄絶な独白は、それほど衝撃的だった。一体自分が、彼の何を理解できるというのだろう。
 これまでも、それなりには気を許しながら、薄紙一枚隔てたような距離は感じていた。それは己のことを語ろうとしない豊から感じたものでもあり、彼に対する不信を隠さない小鈴から与えたものでもある。だが今感じる隔意は、そんな生半可なものではない。手が届く距離にいると思っていた彼の姿が、今や宵闇に包まれたように一切見通せなかった。
 けれど、それはあくまで彼の事情だ。小鈴自身に焦点を絞り、割り切った考え方をしてしまえば、結論はただ一つ。
 即ち、彼との婚約など有り得ない。
「……そう、よね」
 そう思えば、幾分気が楽になった。
 そう、考えてみれば、最終的にはそれを見極めるためにここへ来たのだ。豊の人柄を知ろうとしたのは、あくまでその過程に過ぎない。“理解できない”から“結婚などできない”、至ってシンプルな論理だ。彼の全容を知ることは、決して必要なことではない。もう十分だ。
 自分に言い聞かせ、深呼吸しながら顔を上げる。ゆっくりと瞬いた小鈴の目に、ふと、先ほどは見なかったものが映り込んできた。
 几帳面に見える豊が、何故か閉じ忘れていった箪笥の戸。その先に立ててあった写真立て。
 控え目に微笑む、阿求の姿があった。
「あ……」

――私はあの人が好き。でもそれだけ、それだけでいいの

――普通の少女と同じように、誰かに恋い焦がれることのできるこの子が、何故その恋を叶えることができないのだろう

 脳裏に蘇ったのはかつての記憶。阿求が自らの恋心を口にしたあの日、小鈴は複雑な想いでそれを聞いた。
 きっと、最良の形ではなかったのだろう。けれどあの人は――豊は、小鈴があの時、惜しみながらも阿求自身とともに諦めた彼女の恋を、どんな形であろうと守ろうとしたはずなのだ。
 であれば、知りたい。あとたった一つだけ。その試みが、そして阿求の恋が、どんな終わりを迎えたのか。
 待っていれば良いはずだった。それでも、一度彼を見放そうとした罪悪感からか、小鈴の足は自然と部屋を出ていた。初めて来たわけではない、けれど勝手知ったると言うには遠い稗田の屋敷、豊の行き先に心当たりはない。
 だが、耳を澄ませた彼女の元に、微かな話声が聞こえてきた。ほとんど一人分、豊を連れ出した老女のものだ。
 聞き耳を立てることの善し悪しを自問するより先に、小鈴は歩き出していた。



 老女に誘導されるまま、今は使われていない一室に入るなり、豊は前置きもなく切り出した。
「それで、用とは何です」
「いい加減、諦めて頂きたい」
 対する老女の答えも極めて端的だ。しかも、振り返った眼光には、明らかな敵意が滲んでいる。しかし、そんな彼女の態度も予想の内だったのだろう、豊は些かの困惑もなく、皮肉げな笑みを浮かべて肩を竦めた。
「諦めるというのは、小鈴さんのことですか? ええ、確かに、我が事ながら好かれているとは言い難い状況ですが――」
 そう嘯く彼を遮って、老女はさらに一歩詰め寄り、
「勘違いをされては困りますぞ御当主。貴方は阿求様から、当主の座と責務は継がれましたが、その権限までも許した覚えはない」
 底冷えのする暗い声。表情を消し、口を噤んだ豊がその眼を見るが、老女はそれに溢れんばかりの憎悪で応える。間違っても、主従の間で交わされることなどあってはならない視線だ。
 事実、老女の胸中に、現当主に対する敬意など微塵もありはしなかった。
「未だ稗田に世継ぎがいないのは、誰のせいだとお思いか。阿求様を抱こうとさえしなかった貴方が、今更自由に相手を選ぼうなどと、虫が良いにも程がある。身の程を弁えなされよ。貴方はただ、残された当主の務めを速やかに全うすればそれで良いのだっ」
 唾を飛ばす勢いで捲し立てる老女を、豊は冷ややかな目で見下ろす。だが反論はない。彼にとってもまた、老女の言葉は事実であった。
 彼は阿求の当主としての役目を助けるために稗田家に嫁いだ。だが一方で、阿求の身体を好いてもいない相手に触れさせることを善しとしなかったのも彼だ。そして、彼自身もまた、阿求に触れざるべき人間だった。全て分かっていてやったことだ。
「貴方自身にも、遡れば稗田の血が流れているからと大目に見てきました。すぐに承諾して下さる相手なら、嫁くらい好きに選ばせてやろう。本居様が稗田家に嫁いで下さるのならばそれもよかろうと。だが、我々は貴方に自由を与え過ぎたようですな。それとも、未だ理解できずにおられるのですか?」
 半ば諦観を宿し、押し黙る豊の顔を睨め上げて、老女は更なる怒りを込めて言葉を投げ続ける。今や喉笛に掴みかかりそうな鬼気をも宿しながら、反応を返さぬ豊へと、己の問いの続きを紡いだ。
「――貴方の如き空虚な人間に、人としての魅力など在りはしない。本居様が人として貴方を好く日など、決して訪れはしない」
 ぴくり、と豊の眉が揺れた。
 何かを言いたげに唇が微かに震え、しかし、結局は何も語らず再びその口を閉ざす。彼の所作に気づきもしないまま、老女は剣幕もそのままに、
「理解なされたなら、疾く然るべき相手を娶って世継ぎを作られよ。案じなさるな、既に稗田の血の濃い者、貴方と同じく使命と割り切って嫁いで下さる者に目星をつけてある。貴方は最早――」
 すぱんっ
 老女の言葉の途中で、背後の襖が勢いよく開かれた。我に返って振り返った豊は、老女とともに目を剥いて驚愕した。
「本居様!?」
「小鈴さん!?」
 二人の声が調和する中、小鈴は老女の方には一瞥もくれず、豊の手を無言で取ると、力強く引っ張った。されるがまま、つんのめるように部屋を去る豊を、老女は呆然とした様子で追おうとはしない。
 豊の手を引いて足早に先を行く小鈴は、彼の方を振り返ろうともしない。微かに覗いて見えた横顔は心なしか強張っているようだった。
 小鈴とともにやってきた、というよりは戻ってきたのは豊の部屋。小鈴が空けた襖を豊が閉じて、二人は示し合わせたわけでもなく、同時に小卓を挟んで腰を下ろした。
 気まずそうに唇を結びながらも目は伏せない豊。一方で小鈴は、仏頂面で彼を真っ向から睨みつけていた。その視線をのらりくらりと躱すだけの余裕は、今の豊にはない。小鈴の眼差しから感じる硬質な意思、そこに僅かだけ混じる怒りの気配。その理由が、豊には分からない。
 やむなく、彼はどうにか薄笑みを浮かべて問いを投げた。
「驚きました。どうしてあちらに?」
「…………」
 小鈴の応えはない。変わらず突きつけられる眼光に、豊はいよいよ困った様子で身を竦める。助けになるものを探して視線を彷徨わせた彼は、炉の上で湯気を立てる茶釜を目に留めた。
「ああ、そうでした。お茶の用意をする約束でしたね。すぐに――」
 これ幸いと立ち上がりかける豊だったが、卓上に置かれたその手を、小鈴の手がぎゅっと押さえた。意表を突かれ彼女へ視線を戻す豊の瞳を、やはり小鈴は変わらぬ力強さで縫い留める。
「……分かりました」
 観念し、豊が腰を落ち着け直す。針の筵に座らされるような居心地の悪さにも、俎上の鯉そのものの心中で耐える覚悟を固めた。
 小鈴はなおも口を固く閉ざしたまま。それでも、今は豊も理解していた。彼女が今、かつてないほど真剣に言葉を選んでいる最中なのだということを。
 きっと、答えを得るだけなら問う言葉なんて何でもいい。きっと彼は偽りはしないし、誤魔化したりもしないだろう。
 けど、理屈ではなく勘で分かる。きっとその信頼は、妥協の一種。これまで彼に薄紙の距離を隔ててきた小鈴が、取るべき選択ではない。
 だから。
「ねぇ、豊さん」
「何でしょう」
 待ちわびた小鈴の一声。身構えそうに、強張りそうになる己が身を必死で御し、豊は努めて自然体で頷いた。
 待ち受ける彼へと、小鈴は澄んだ眼差しを向け、

「――阿求は最期に、貴方に何て言ったの?」



 阿求が床に伏せがちになってからというもの、豊がその枕元に佇むのは当たり前の光景になっていた。熱があれば額に濡れた手拭いを乗せ、起き上がるときは背を支え、床を離れるときには手を取り支えた。甲斐甲斐しく病弱な妻の世話をする夫の姿は、何も知らぬ者が見れば仲睦まじい夫婦とも思われただろう。
 当然、豊自身は自分をよく出来た夫などと思ったことは一度もない。あくまで夫の役割を任された従者、阿求にとって都合の良い仮初めの夫。そうあらねばという使命感もあったし、そうありたいという願いもあった。阿求が特別気に掛けるような存在であってはならないと、強く信じていた。
 その想いは、あの日あっさり瓦解した。
「ごめんなさい、豊さん」
 床に伏したままその目を豊に向けて、阿求は弱々しい声でそう漏らした。かけられた言葉の意味を、彼は最初、理解できずに目を瞬いた。
 枯れそうになる喉を、縺れそうになる舌を、呼気が幾度も無様に素通りする。それでも彼は、どうにか言葉を絞り出す。
「……何を、何を謝る必要があるのですか、阿求様。貴女が謝るようなことなど、何も」
「今更のように、時々後悔するんです。私は、貴方の厚意に甘えすぎてしまっていました」
 豊の言葉を遮って阿求が語り出した途端、豊は咄嗟に口を噤んだ。そのか細い声を、自分の声で掻き消してしまうのが怖かった。彼女の言葉を聞き漏らしてはならないと、聴覚が鋭敏になっていく。
「私はもう、長くありません」
 あっさりと、自らの死期を悟って阿求は呟く。覚悟していたつもりでも、その一言は格別に堪えた。脳天を殴りつける衝撃にしかし。豊は倒れ伏したくなる衝動を耐えて微笑を刻んだ。
「……はい」
 そう応じるのが精いっぱいだ。そんな彼の胸中を知るかの如く、阿求もまた淡く微笑んだ。
「貴方に多くのものを押し付けて、貴方一人を残して、私は消えてしまいます。そうさせたのは……死後も貴方を束縛する道を選んでしまったのは他でもない、私自身です」
「そんなことはありません。全ては私の我儘から始まったこと。そんな私が、貴女から大切な使命を預かるのです。身に余る光栄ですよ。気に病むことなど何一つありません」
 それでも、豊は頑なに阿求の主張を退ける。彼の言葉に呆れたのか、阿求がクスリと笑みを零した。
 声音とは裏腹に、彼女の瞳が湛えた意思の光は未だ掠れていない。そんな眼が、染み入るように豊の視界を絡めとる。小さな吐息を交え、阿求はゆっくりと言葉を紡いだ。
「そんなに言うなら……豊さん、もう一つ、余計なお願いをしてもいいですか?」
「ええ。貴女の願いとあらば、何であろうとも」
 柔らかな笑顔で、力強く頷いた彼の瞳の底を覗き込むように、視線を一切乱さぬまま、阿求は静かに告げる。
「幸せになってください……ううん、私がいなくなった後は、次は貴方を幸せにしてくれる人と一緒になってください」
 骨が抜かれたような虚無感が、不意に襲い掛かってきた。
 呆然と、或いは愕然と、豊は自らに向けられた阿求の目を覗き返す。けれど、彼女が冗談を言ったわけではないことは分かる。分かってしまう。冗談であって欲しいのに、そうでないと確信できてしまう己が恨めしい。
「……何を、馬鹿な事を……」
 笑い飛ばそうとした声が、無残なほど震えていた。痛々しく引き攣る微笑を見上げる阿求の目が、寂しそうに揺れていた。
「私は、貴女の伴侶としてここへ来た。貴女のために生きる以外、私には何もない。貴女が亡くなった後であっても、それは変わりません」
 それでも必死に口にしたのは、紛れもない本心だ。今や、それは直前までよりも強い確信となっていた。自分の幸せを想って生きると想像した時――阿求以外のために生きる未来を想像した時に襲ってきた虚脱感。それを実感したことで、改めて豊は、自分の中に阿求以外の何もないことを思い知った。
 だが、焦りも露わに捲し立てる豊へと、阿求は小さく首を振って応えた。
「当主としての務めは、貴方に多くの苦難を強いるでしょう。それはもう避けられません。けど、それしかないなんてことはありません。だって、それではあまりに悲し過ぎる」
 豊の言葉を認めながら、一方で阿求の主張は引っ込む様子を見せない。彼女の言葉にここまで心を乱したことなど、かつて無かった。それでも、反駁の言葉は続かない。自らの想いを、覚悟を否定される以上に、阿求の言葉に抗うのが辛かった。
「だから、豊さん。当主としての私を支えてくれた旦那さん。これからは、貴方の苦しみを理解して、寄り添える人を傍に置いてください」
「……それは本当に、貴女の願いなのですか」
 降伏間際の、苦し紛れの問いかけ。苦悶を呑み込み、ひたと己を見下ろす豊の目を、阿求は柔らかな笑みで押し返すと、
「彼岸の向こうから見守ってます。だからどうか、安心させてくださいね?」
 応とも否とも答えぬ返答を、彼女は悪びれぬ笑顔で放ってのけた。暖簾に腕押しの感触に、豊はくしゃり、と、悲しみに表情を歪ませた。それでも彼は、口の端に皮肉げな微笑を浮かべ、溜息とともに零す。
「狡いお答えです……あんまりですよ、阿求様」
「あら、貴方に言動を咎められたのは、初めてな気がしますね」
 弱り切った豊が漏らした愚痴にも、阿求はかえって愉快そうに、クスクスと笑い声を返した。愛おしそうな苦笑を向ける夫の顔を肴にするように、クスクス、クスクスと。
 やがて笑い疲れたように、ゆっくりとその声が弱くなり、寝息に変わる。気持ちよさそうな寝顔を見て、豊はその髪に手を伸ばしかけ、止めた。
 お休みなさいませ、と、ほとんど口中だけで囁いて、豊は阿求の枕元を離れた。

「厳密にはそれが最後の会話だったわけではありません。ただ、特別な意味を持つもの、ということなら、これが最後でした」
 懐かしむような目で、正面の小鈴に向けて語り終えると、おもむろに豊は目を伏せ、小さく一礼した。
「私が初めて一人で鈴奈庵を訪ねた時、一つ答えなかった質問がありましたね。何故、私が貴女に「妻となってくれ」と頼んだのかと」
 彼の言葉に、小鈴は無言。刺すような、僅かな虚飾も許さぬとばかりに爛々と輝く眼光にも、豊はただ身を任せるだけだ。まるで憑き物が落ちたかのように、彼は無風の中を歩く如き穏やかさで言葉を紡ぐ。
「当主としての役目を継ぐことに、何ら辛さは感じませんでした。今しがたお見せしてしまったように、御家に仕える方々の心象は良くありませんでしたが、それすら苦ではなかった。それでも、阿求様が仰ったような「私の苦しみ」があるとしたら、それは阿求様を喪ったことに他ならない」
「…………」
「そして、それを理解し得る者がいるとしたら、稗田家当主でもなく、阿礼九代目でもなく、稗田阿求個人の死を最も悲しんでいる者がいるとしたら、それは貴女しかいないと思っていました」
 そう言い切ると、改めて豊は小鈴の双眸を覗き込む。深く探るような豊の瞳に対し、小鈴の眼はそれを真っ直ぐに見つめ返したまま微動だにしない。
 彼女の瞳の奥底、口には出さぬ思考の裡で、真剣に何かを吟味しているのが、一瞥して分かる。それを理解して――いや、理解しつつも、何について考えているかまでは確信できなかったが故に、豊は少しばかり申し訳なさそうな苦笑を浮かべ、再び語りかけた。
「もう一つ、聞いて頂けますか?」
「……何?」
 小鈴の反応が遅れたのは、このタイミングで話しかけられたのがそれだけ意外だったのだろう。怪訝そうにしながらも、再度両目に力が宿る彼女を見やり、豊はそっと面を伏せた。
「謝らなければなりません。阿求様が「苦しみを理解できる者を傍に」と仰ったとき、私はそれを、妻として迎えるという意味でしか捉えていませんでした。だからこそ、貴女に求婚し、結果貴女の不信を招いてしまいました」
 それまでよりも、少しだけ低く抑えた声音で紡ぐ豊の姿を、小鈴はどう見たか。無反応を以て続きを促す彼女に、豊もまた必要以上に間を空けず続けた。
「いきなり妻となってくれ、などと失礼なことを申しましたが、それが唯一の選択肢ではないと気づいてしまえば簡単な話。どうか、今までの私の愚かな要求は忘れて頂きたい。その上で、今更虫の良い話ですが――」
 なお無言を貫く小鈴を見る豊の顔が、不意に柔和な笑みを作る。彼の表情の変化を目の当たりにした小鈴は、ほんの微かにその瞳を揺らした。
 奇しくもそれは、阿求のそれを連想させる笑顔だった。
「――改めて私と、友人になって頂けませんか」
 小鈴の方へと手を差し出しながら、豊はそう言った。小鈴は彼の目を見つめていた視線をその手に移し、もう一度彼の顔をまじまじと見やる。
 今度こそ言うべきことは言い切ったとばかりに、彼は穏やかに笑んだまま口を開こうとはしない。それを見て取った小鈴は、一瞬その視線を横に滑らせる。逸らした視線はどこに像を結ぶわけでもなく、彼女自身の心象を覗き込んでいた。
 豊と友人になる。その未来に想いを馳せる。なるほど、悪くないかもしれない。今までのように彼の意図を探る必要もなく、警戒を解き二人で過ごす。阿求との思い出を語りあったり、互いに本の感想を交わしたり、豊の用意した茶や料理に舌鼓を打つ。きっとそれは有意義なひと時になるに違いない。

 一人この屋敷で、痛みすら感じることもなく苦難に沈む彼を、見て見ぬふりをしながら。
 阿求が残した最後の願いを知って、それに背を向けながら。

「嫌よ」
 冷徹に放った一言が、豊の顔から表情を削ぎ落した。
 呆気に取られたように二度、三度と瞬きしながら、小鈴に向けた視線を乱さない豊。その姿は何かに期待しているのか、或いは縋ろうとしているようにも映った。だが、それを厳然と迎える小鈴の表情が緩む兆候はない。
 しばらくして、長々と嘆息が吐き出される。それは諦めの吐息、そして大いに自嘲を含むものでもあった。豊は参った、とでも言わんばかりに片手で頭を押さえ、
「やれやれ……自業自得ですね。初めからこうしていたのなら、また違った結果もあり得たでしょうか」
 吐き捨てる中、豊がふと見せたその瞳は、遥か遠くを見ていた。きっと彼が口にする通り、彼が見るのは己が愚を犯した過去なのだろう。だが、小鈴はそんなことは気にしていなかった。
 何せ彼女は、豊の問いに答えたわけではない。
「ねぇ、豊さん」
「っ、どうしました?」
 先の小鈴よろしく、虚を突かれた様子で豊が遅れて問い返す。淡く、儚く、透徹した微笑で彼に向き合う小鈴の表情に、豊は続いて息を呑む。彼女の表情もまた、阿求を彷彿とさせるものだったからだ。
 豊のそんな反応すら意に介した風もなく、どこか独り言のようなトーンで小鈴は囁く。
「阿求は貴方の事、とっても大切に想ってたんだね」
 そんな言葉を落とした小鈴に、豊は驚愕とともに眼光を走らせた。激情が炯々と輝く双眸が小鈴を睨めつけるが、小鈴はそれに、さらに一段笑みを柔らかくして応じた。彼女にも分かっているのだ。彼の瞳に宿った感情が、小鈴に向けられたものではないことを。
 果たして、唐突に肩を落とした豊は、一層の自嘲とともに、
「ええ。勿体ない限りです」
 力なく呟いた。
 豊は阿求にとって、情を掛ける必要のない夫として在ろうと努めてきた。そう在りたいと願ってきた。けれど、一方で理解してもいたのだ。自分を想い、傍で支えてくれる者に対し、阿求が何も感じないはずがないということを。
 婚前と変わらぬ阿求のままでいて欲しいというのが、そもそも叶わぬ願いなのだと。誰よりも阿求の傍で、阿求を大切に想い続けてきた彼に、分からぬはずがなかったのだ。
 だから。
「……いいわよ」
 小鈴がそう漏らした瞬間、豊はいよいよ目を白黒させ、頭上に疑問符を浮かべた。それもそうだろう。ついさっき「嫌」と言われた以上、直後の「いい」は何を指しているのか、分かるはずもない。
 他方、小鈴は困惑を極めた豊の姿を、可笑しそうに眺めていた。何かと主導権を取られがちだった彼に対し、こうも心理的に優位に立てたことが余程嬉しいらしい。ニマニマと笑む彼女に豊が気づくまで、しばらくの間を要した。
「……何が、良いのです?」
 問われるまで説明する気がないことを察したのだろう。豊が幾らか憮然とした調子で尋ねる。それに、小鈴は小さく鼻を鳴らして肩を竦める。
 最後に少しだけ、自分に活を入れるための間。とはいえ、既に覚悟は決まっていた。一時閉じていた瞼を持ち上げると、彼女はその目を迷いなく豊へと向けた。
「貴方のお嫁さんになってあげて、いいわよ」
「…………へ?」
 たっぷり十秒は遅れて、豊が反応を返す。丸くした目を瞬き、半開きの口から疑問を吐き出すその姿に、稗田家当主たる貫禄は微塵もない。あまりに滑稽な姿に、小鈴が思わず吹き出しかけたものの、流石にそれは堪えた。
 麻痺していた思考がようやく正常に回転し始めたか、豊は何度か瞬きすると、次第にその表情を陰らせていった。敢えて感情を排したような険しい顔つきで小鈴を見据え、探るように問いを投げる。
「何故……いえ、それよりも」
 だが、口にしかけた疑問を、彼はそっと飲み込んだ。おや、と眉を上げる小鈴へ向けて、彼は再度その眼差しに意志を漲らせると、それを剣呑に尖らせた。
 小鈴を責める目ではない。彼女に何かを質す目だ。
「小鈴さん。私が言えた義理ではないことは重々承知していますが……」
 そう前置いた上で、彼は顎を引き、さらに一段居住まいを正して続きを告げた。
「好いてもいない相手と結婚しようなどとは、決して思わないでください。私が頼んだことなど全て忘れてくれていい。たとえそこに憐れみがあろうと、他のどんな大切な理由があろうと、貴女が自分の身を蔑ろにすれば阿求様が悲しまれます」
 それは、豊なりの誠意だったのだろう。小鈴の言葉を冷やかすような意図は、そこに見出せなかった。だが、ならば彼は気づいているだろうか。彼の問いかけに、小鈴はどんな答えを返さなければならないのか。
 豊がいつもの余裕をかなぐり捨てていなければ、顔を赤らめていただろう。けれど、彼のその言葉こそが、彼が本来持つ誠実さの顕れなのだと、不思議なほど確かな自信を持って受け入れられた。
 阿求は、どんな気持ちで彼の幸せを願ったのだろう。
 自らを支えてくれた夫への感謝だろうか。阿求の存在に縛られ続けた彼への憐憫だろうか。それとも――本当に愛しい人の幸いを想ってのことだろうか。もしそうなら、豊にとっては少しばかり残酷だろう。
 気にはなる。半面、どうでもいい。確かなのは、小鈴が阿求と同じ想いである必要はないということ。
――だって私は、憐れみで彼を救いたいと思ったわけではないから
「じゃあ、もうひと頑張りね、豊さん」
 小鈴はそう言って、眩い笑みとともに小首を傾げてみせた。待ち構えていたものとは異なる、意味を図りかねるその言葉に、豊は険しい表情でその続きを待つ。小鈴は身構える彼へと、無防備な笑顔を見せながら、
「実際に結婚するまで、準備とか色々、まだ時間が要るでしょ」

「だからその間に、私に貴方のこと、ちゃんと「好き」って思わせてね」

 呆然と、豊が小鈴を見る。
 小鈴が、柔らかな笑顔で豊を見る。
 見交わした視線を行き来する万感が、言葉を交わすよりも雄弁に互いの胸中を伝えあっていた。
 優しさと。
 信頼と。
「は、はは」
 我慢が決壊したかのように、どうしようもなく豊の口から笑いが零れた。突如笑い出した彼を見つめる小鈴の顔に、困惑の色はない。分かり切ったことのように、彼のその後を見守ろうとしている。
 彼女の視線に気づきながら、豊は一層愉快げに、目元を押さえてなお笑う。
「はははっ、はは……ああ、敵わないなぁ」
 彼が手で覆い隠した顔がどうなっているのか、詮索するつもりもなかった。何より、野暮というものだろう。さらに言えば、何となく予想がつく。
 ぼやき、肩を揺らしていた彼は、しばらくして顔を露わにした。苦笑にも似た笑み。後ろ向きな予想を痛快に裏切られたが故の、嬉しげに歪んだ笑みだ。込み上げる満足感と勝利の余韻を胸に、小鈴はその顔を綻ばせた。
「けど、小鈴さん。まだ一つ、大切なことをお忘れですよ」
 その表情を、まさかすぐに崩す必要が生じるとは思っていなかった。小鈴は冷や水を浴びせられた心境で、怪訝そうに眉を顰める。そうしながら豊の顔色を盗み見て――得も言われぬ不安が圧し掛かった。
 何故なら彼が、一転して得意げな笑みを浮かべていたから。
「……何よ」
 威嚇の眼光とともに、言葉少なに唸る小鈴。その顔を、豊は何ら怖じることなく覗き込んで、
「私は貴女が、好きですよ」
「…………うん?」
 先刻の豊よろしく、小鈴はあまりに不測の出来事に目を瞬いた。
 放心し切った思考が、豊の言葉の理解を拒む。だが塞き止められた感情に、豊は容赦なく、さらに言葉を重ねていった。
「最初こそ、阿求様の遺言があったからこそ貴女に会いに行った。けれど鈴奈庵に通い詰めるうちに、貴女との語らいが、共に過ごす時間が、私にとってはとても心地よい、心安らぐ時間となっていきました。それだけではありません。貴女に警戒されていたことは自覚していましたが――貴女ご自身は気づいていましたか? 阿求様の話をするときの貴女は、とても無防備に笑っていらっしゃったんですよ」
 自身の胸に手を当て、滔々と語る豊の姿を、小鈴はどこか現実離れした感覚で眺めていた。それでも、無理矢理詰め込まれ続けた彼の言葉が、少しずつ胸に滴り落ち始める。それに比例して、徐々に小鈴の頬が赤みを差していった。
「あの笑顔があまりに可愛らしくて、初めは戸惑ったものです。ええ、人の顔に見惚れたことなど、いつ以来であったことか。正直に申しましょう、今もし貴女に完全に見放されることがあったらと、心底恐れていたのですよ。それは、貴女に最初に求婚したときにはなかった感情です」
 思えば、これまで幾度となく豊にからかわれてきた。恋人が交わすような睦言を、幾度となく平然と投げつけられてきた。けれど、こうしてはっきりと告白されたことはなかった。これが初めてだったのだ。
 だというのに。それでもこの男は、こんなにも涼しい顔で想いを言葉に出来てしまうのか。
「小鈴さん」
 改まって名を呼びながら、豊は両手を伸ばすと、卓の上に置かれていた小鈴の手を取った。肌が触れ合う感触に、小鈴が肩を跳ね上げながら、その顔を一気に赤くする。今しも茹ってしまいそうな彼女へと、豊は静かな声で囁いた。
「貴女が、貴女を好いていない相手と結ばれるなどという不幸は、私が決して許しません。ですからどうか、もう一方には、貴女の力もお貸し頂きたい」
 縋るような弱々しさはない。それでも、微かにその手からは豊の緊張が感じられた。だが同時に、小鈴の胸の動悸はそれどころではない。顔は今にも火を噴きそうなほど赤熱し、彼の手を振り解きたいほど恥ずかしいのに、それが出来ないほど全身が凍りついていた。
 豊が小鈴に告げたのと同じように、小鈴もまた、豊の手中に捕らえられていることを、彼女は頭の片隅で理解した。
「勿論、貴女に好かれるための努力は惜しみません。ですから、私の想いが実を結んだ暁には――意固地になることなく、どうか「好きだ」と応えてください」
 もう逃さぬ、とばかりに、豊の手に込められた力がじわりと強くなる。びくりと震える小鈴の手に、彼の指がそっと絡みつく。足早に距離を詰めるような大胆さに、小鈴の鼓動がさらに跳ねた。
 勘違いをしていた。小鈴がこれから支えていこうと決めた相手は、こういう人間なのだ。秘めた弱さを持つことは確かだが、一方で常に強かさをも持ち、こちらの余裕を奪うかのように笑顔を向けてくる。そんな人を――どうやって支えていけというのだろう。
「っっっ~!!」
 限界を振り切った羞恥心に、とうとう小鈴は顔を伏せ、声にならない悲鳴を上げた。豊に拘束された右手はそのままに、自由な左手を振り回し、彼の身体を机越しに何度も叩く。ぺしぺしと、子供の駄々のような抵抗に、豊は一瞬戸惑ったようだった。
「い、いたっ。小鈴さんっ?」
 だが、今更彼の僅かな困惑が見られた程度で、溜飲が下がるわけでもない。
 小鈴の幼稚な抵抗に豊が動揺していたのも、ほんのしばらくのことだ。やがて小鈴の行動が単なる照れ隠しだと気づいた後は、ただ抑えた笑いを零すのみ。そんな彼に、小鈴はますます苛立ちを募らせていった。
 きっと、これからもこうやって過ごしていくのだろう。そんな予感が降ってくる。
 からかわれながら、恥ずかしい思いをさせられながら、それでも彼の弱みを見つけ、責め、時に彼の動揺や困惑を目にしながら、挫けそうになったら支えてあげる。そして彼からも、同じものが返ってくるに違いない。
 それでいい、と思える。そしてそう思ってしまえる辺り、恐らくはもう半ば以上、自分は豊に心を奪われているのだろう。
 ならばせめて、もう半分は簡単には明け渡したくない。彼からもっと多くを引き出して、散々苦労させた挙句に、最後の言葉を伝えてあげたい。
 あとは、それが実際にできるだろうか。
「……んっ!」
 未だ胸を灼く羞恥を堪え、僅かに顔を上げた小鈴は、上目遣いに豊を睨みつけた。拗ねに拗ねた眼光と、意味を持たない唸り声。それでもそれを受けた豊は、何かを察したように肩を上下させた。
「……はい」
 苦笑混じりの、短い相槌。こちらも単なる声でしかないはずのそれを、しかし小鈴は不承不承といった風の首肯で受け入れた。
 既に出来上がりつつある、二人の間だけのコミュニケーション。それを確かめた二人は、示し合わせたわけでもなくその目を見交わした。
「では改めて、これからもよろしくお願いします」
 先に口を開いた豊の言葉。それに、小鈴は小さな嘆息を漏らし、
「はいはい……」
 投げやりな応えの裏で、小鈴は豊に包まれたままの右手の指を、彼の指に絡め返した。
 今は、これが精いっぱい。
 この先は、どうだろう。彼と、自分の頑張り次第だろう。それでも、きっとどうにかなる。そう信じられる。
 些細な不安に勝る安堵を胸に、小鈴は握り合った手の感触に身を委ねるように、そっと目を閉じ、微笑んだ。
大体の方と初めまして。えどわーどです。

恋愛ものを書くときは、未だに「恋ってなんだ」という哲学と正面からの殴り合いになります。今回の戦いぶりは如何だったでしょうか。私は返り討ちにあって冷たくなっているのでよくわかりませんが、後のことはよろしくお願いします。

紅楼夢もよろしくお願いします(小声)
えどわーど
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コメント



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あまーーーーーい
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良かったです
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すっばらしい!

小鈴ちゃんが小鈴ちゃんしてました…
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甘くて甘くて幸せです