Coolier - 新生・東方創想話

喪失者たちの記念碑

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喪失者たちの記念碑




最高裁判長 四季映姫・ヤマザナドゥへ

拘束具を与えてください
何度でも、輪廻の外で、私たちが、互いを痛めつけあうために……




第一章 前  命蓮寺




 むろん死体は埋めるだろうし、焼いて灰にしたとしても埋めるのだ。そして死体ばかりではなく、観念、責任、都合、さては判決と罪に至るまで、すべての者が比喩からのがれようとする形容を埋めたてた……そしておまえもそのひとつだ。
 しかしいくら埋めたところで、やはり何もかもが単純に巡ってくれるわけではないらしい。げんにおまえは墓の底から這いだそうとあがいていたし、わたしはそれにくるしめられた。
 這いだせば、埋めなおす……記念碑が建てば、書かれた文字に泥を塗る……忘れる日々を待ちながら、同じことをくりかえす……。
 背景を映しだす雨滴があれば、背景を映しだす雨滴を映しだす雨滴が降下する。反射する液状の合わせ鏡……白い空木の花弁と結められ、くずれさる、水の回帰とはんぷく……その中心で喪失者だけが、足をばたつかせながら、墓場のいましめに応えつづけねばならぬ。何ゆえ 「おまえ」 は 『おまえ』 を捨てたのか? ……。
 女は歩いた。しゃにむに歩いた。肉体の郷《ゴウ》を持たざる者の遍路が、つねに一本道であると知りながら。
視線を巡らせて、息を飲んだ。寄り道が封じられていた。右には崖、左には壁、上には海、下には空。その進むことすら許さぬ領域のなかで、目のまえの参道だけが、ゆいいつの明瞭な足場である。それを受けいれて、足を動かそう。終りから産まれなおした躰が、旅のさなかで見えない力に、押しころされることを期待しながら。

『いつまで歩くつもり?』

 たどりつくまで、むげんに歩くのだ。

『でも、おまえはうしろを向いて歩いているんじゃないかなあ』

 勝手に決めつけたければ、けっこう。じっさい、こうして命蓮寺を探しているかぎり、なんの後退もありはしない。

『ふところ刀を捨てきれないのに、よく言えたものね……』

 選択のひとつを、無理に強調しないでもらいたい。そんなことは、揚げ足を取る卑劣な行為だ。

『何、そう強がることもないよ。べつにおまえを責めはしない。だって、そうでしょう? 命蓮寺なんてのは、信じがたいにもほどがある。ところで、ありもしない虹の根を求めつづけた人間の逸話を聞いたことは?』

 命蓮寺の実在をまったく信じる必要など、もとよりありはしないのだ。
 実在と信心にいかなるつながりを期待したところで、しょせんは願望を糊に使って固定した、かんたんにたわむ糸じゃないか。仏がすがたを現せば、却って失望させられるにちがいない。だから誰しも、糸を刺激しないように気を配る。敢えて盲《メクラ》の真似をして、半信半疑で手を伸ばすのだ。すべてがあきらかになり、失望させられて、心がすくみあがってしまわぬように……。
 終ってしまった旅に、口実を与えよう。死の傍にまで追いかけてくる、おまえの追及からのがれるために。それが足を動かす口実になり、生きる口実にもなるだろう……だが、いつまで歩けば、おまえの墓に突きたてられた罪の塔は、見えなくなってくれるのか?

××××……

 天上から、大日如来のつぶやきが、ひびきはじめた。今日は無理でも明日ならば、その真理の一粒でも、理解できるものだろうか。
 宇宙仏は、ただ真言を垂れながすばかりである。



 やがて雨の終りを信じ、杖を使って地面をさぐるのは女。湿った土に残る、等間隔の泥の痣は、いずれ山に飲みこまれる旅の痕跡。目的地の場所さえ分からずに彷徨するすがたは、六道のはざまに迷いこんだ、釈尊《シャクソン》のできそこないのようである。
 山道は、なおも険しくかたむきつづける。山が侵入者の服従を望んで、よりあぶなっかしい道へと案内しはじめたのかもしれない。およそ山道と呼べるのかさえうたがわしくなる。雨によどんだ土、夏の名も知らぬ花、ひそむ虫、みだれた広葉樹のうねり、それにまとわりつく、微生物のかびくさい攪拌。けものみち、そう表現してもさしつかえない。
 女は不意に、転びそうになる。ぬめる土から杖へ伝わる急な斜面、加えて乱暴な風の透明な絶叫。滑落するには最適な環境だった。
 雨が勢いを強め、ぽつぽつと湿った残響が木々の梢の隙間から這いだして、女にふりかかろうとする。さいわい彼女と旅をする雲が、全身を打つはずの雨を、不定形の流動する躰で防いでくれてはいるものの、それにも限界があり、いまや水を吸収しすぎて水滴が漏れだしている。けっきょく彼女は濡れてしまうが、それでも雨を直接その身に浴びるよりはやさしいのである。
 雨と標高のしわざか、夏にしては低い気温……あえぎつづける、風の音……、蒸れて汗まみれの、重い衣服……両足に巻きつけられた、低体温症の鎖……熱の生産が追いつかずに、季節に合わぬこごえを、我慢するしかない。外部環境に依存しない核心温が、弱りはじめた。
 ふつう、このような体調ではまっすぐに歩くことすら困難なはずである。しかし、げんに女は歩いていた。それは躰がよほど強靱であるからなのか、そうでなければ、あるいは非人なのである。そんな決めつけも、あんがい不当ではないはずだ。じっさい彼女は人間よりも、非人やけものに近い装いなのである。
 厚い布で隠されたひとみ。すっぽりと頭巾に覆われた頭髪。よごれた小袖にかさねている、鹿や兎の皮をつぎはぎにした、さらにきたならしい旅の装束。
 もとより拒絶される者だけが、きたならしさに無頓着でいることを許されるようなのだ。
 とつぜん、木の枝のような悲鳴が聞こえた。直後に杖が、地面をつらぬいた。女は勢いあまって地面に倒れこむ。理解がおよばずに、ただ打ちすてられた姿勢で混乱していた。
 にぎっていた杖が、軽くなっている。ひとつ、唾を飲みこむ。それとなく、倒れた原因がつかめてきた。木の枝ではなく、杖の悲鳴だったのだ。杖が地面を透過したのは、ただの錯覚でしかなかったようである。
 盲はみんな、不測の事態に弱いものである。
斜面を転がりおちなかったのはさいわいだった。だが、この石段を踏みはずしたような立腹は、いったいどうすれば消化できるのだろう? むろん、そんな手段などありはしない。杖《エ》だけになった杖が、こちらを笑っているような空想が、頭のなかでちらついている。そんな責任転換のために、柄はとてつもない握力でにぎりつぶされるのだ。

「ちくしょう!」 鬱憤が胃を満たし、立てつづけに 「ちくしょう、ちくしょう!」

 ……物に当たって、なんになる。
 そんなふうに三度も叫ぶと、却って冷静になり、よけいに腹が立ってしまうのだ。そしてすぐに待ちわびていた失望感が濁流に乗って、女の希望を痛ぶりはじめた。それが精神のほころびを容易にくぐり、そして躰にまで悪影響がおよぶのだ。
 さすがに休息が欲しくなる。杖といっしょに、心までぽっきりと折れてしまいそうだ。

「休もう、雲山。どいて、水を飲みたいの」

 雲山が、女の頭上から移動する。
 柄は捨ててしまい、短くなってしまった杖を、手さぐりで見つけだす。折れてささくれた部分に触れないように、注意するのも忘れない。
 杖を持ちなおして、座れそうな木の根がないか調べてみると、丁度よさそうなかたちにぶつかった。そこにどっかりと座りこみ、上に向かって口をひらき、梢からしたたる水を舌でからめとる。水が胃に引かれ、食道を落ちてゆく。
 疲れた……怖るべき非情さだ……迷路がある……足を飲みこむ泥がある……歩くほど、わたしと敵対する山を、いったいどうすれば懐柔できるのか?
 女は休息のさなかに、耳を澄ましてみたりする。ふりそそぐ、水のやぶさめ。雑草を掻きわける、蛇の足どり。ほかには何か、小さなけものが駆ける音。
 山の生きものは迷いもなしに、一直線で走りさる……まるで、すべての道が正しいとでも言いたげだ。その自信を、すこしでも譲ってはくれまいか……命蓮寺……妖怪を救う僧……冗談を煮やしたような、風のうわさ……。

『まあ、そういぶかるまい。火のないところに煙は立たぬと言うよ』

 それを言ったやつは無知なんだ。狸の煙に火は要らぬ、煙々羅はそのことわざに反する妖怪らしいじゃないか。逆に鬼火は煙が出ない。火のない煙、煙のない火。探せば例はいくらでもある。
命蓮寺のうわさは弱い妖怪がすがるには打ってつけだ。まさに弱者が流したうわさ、そのほかならぬ証拠じゃないか! 願望を反映した 『火のない煙』 火の……。

『ウフフフ、フフ』

 何を笑っている! さきを読んで、得意なのか?

『おまえは弱者なの。入道を連れているのに、馬鹿なうわさを信じてさ……』

 歩きつづけたいだけだ! それにわたしが死んだら、困るのはおまえのほうじゃないのか!
だからこそ、わたしの諦めのわるさに感謝したらどうなんだ……。

『人を墓に埋めておいて、よく言える……歩きたいなら、もう歩いたらどうなんだ? まったくねえ』

 足をりきませ、立ちあがろうとするも動けない。座っている間に足の毛穴からしみだした、熔けた銅のような疲労が糸になり、膝にからみついている。からみつきながら、からみついていて、からみついていた。まるで集積した厚い垢だ。がりがりとこそげてしまいたかった。
 思いついたように、両手で顔を揉みしだく。この皮フの弾力が人間とまるでちがうとは、いまだに信じられることではない
 表皮、真皮、皮膚組織。顔面を覆う、三重構造。ほとんどの人間が、つねにさらけだしている部分である。妖怪が人間の世にまぎれこむには、内臓を内側に押しとどめるための、この外側に位置する薄っぺらい内臓を模倣しなければならないのだ。
 女は人間にそっくりなつもりだった。しかし現実はどうだろう。人間たちはいつも、反転させていた欺瞞の皮にたちまち気づき、それはかんたんに剥ぎとられてしまう。区別の境界はあっさりと察知されてしまい、べろべろになった皮をぶらさげながら、逃げだすしかないわけだ。そしてさらには、皮のほうでもみずから剥がれだす。欺瞞をいやがり、それは彼女の表面で、人目を引くために叫ぶのだ。
 しかしそれでも、察知される要因としては、いささか根拠に欠けている……見目は同じはずだった……人間の容姿と、人間の四肢。ひとみと髪は、むろん黒く偽装する。それでじゅうぶんではなかろうか? それがあるからこそ、乞食でさえ定着を許されているはずだろう。

『通行書の偽造なんて、すぐに看破されるに決まっているじゃないの。しかも入道を連れていて、ひとみも髪も非人の色なんだからねえ』

 だから、隠したさ! 何もかも、しっかりと……。

『それが偽造だと言っているんじゃないか! 都合のわるいことは隠せない、人間は欺瞞に、とかく過敏症なんだから。それにくらべて、乞食はどう? 正直に、乞食に甘んじているじゃないの。
『そうだ、おまえは容姿や四肢が人間にそっくりと言ったけど、まさか本気で……まあ、聞いてよ! そう歯をむきだしにしないで……何もからかうんじゃないの。説明するわ、順序ってものがあるんだから』

 聞くだけ々いてやる。

『どうも! さて、たしかにおまえは人間にそっくりかもしれない。けど観念ではどう?観念ってのは“経験したそれまでのことが頭のなかで明確に考えられること”らしいんだ。そう、おまえは“化生した”ことを忘れはしないし、そう望んだって忘れられやしないんだ。過去でいまだに息をする、事実としての観念よ。だから人間にそっくりでも、人間の世にまぎれこめないんだね。人間にそっくりでありながら、まったくの非人……満足な片輪とは、笑えるじゃないの。おまえは片輪の親戚なのよ……人間としてあつかわれないんだから……』

 ふざけやがって。けっきょく、からかっていやがるんだ!

『どうせ畑だって耕しはしないんだから、片輪と同じだよ』

 鍬を持ってこい、百でも千でも耕してやる!

『誰がおまえに鍬を与えてくれるんだ! ふん、そんな生活からのがれるために、雲山を受けいれたんじゃないの。いまさら何を言っているんだか……からかうのも、ほどほどにしてくれないかな』

 ちくしょう! もう、いい……おまえのざれごとには、飽き々きだ! ……かまけてやるだけでも感謝してもらいたいね……本当なら、時間をさいてやる余裕なんて、これっぽっちもありゃしないんだ。
 四半刻が経過した。躰がようやく熱を持つ。安定した、心臓の鼓動。順調に血を送る、弁の開閉。恐る々る、熱は分配されはじめる……健康への、逆再生……。
 さあ、立つんだ! 座っていても、何も起こりはしない。報酬を勝ちとるのは、いつも決まって、みずから足を動かす者だけなんだ。それが旅の原則だろう。
 しかし、そんなふうに息を巻いて、立ちあがったとたんに襲いかかる、疲労の残滓の立ちくらみ。なんとか木の腹に寄りかかる。頭が雑巾のように、ぎゅうぎゅうと締めつけられていた。水を吐きもどそうと、胃がけいれんした。反射で膝を地面に落とした。その拍子に、胸のあたりが軽くなった。何か持ちものがこぼれおちたのだ。水を飲んだのに、喉がひりついた。まるで心境を代弁されているようだ。
 首から汗が、しらじらしい、他人の態度で噴きだしている。
 落とす者があれば、拾う者がある……拾う物があれば、落とす物がある……行きだおれの死人から剥ぎとった、小刀と杖……杖はともかく小刀だ。いまに思えばそんな物に、はたして心臓を預けるべきだったかどうか? いまからでも、置きざりにするべきではなかろうか……それでも自刃が背中を押していたからこそ、いまだに歩けていることは否定できるまい。死から遠ざかってしまうほうが、却って無気力になるものだ。不老不死者の足は、巨木の根のように、地面に埋まっているにちがいない。
 雲山は何も言わずに、女を窺っている。彼もまた、止めようとはしないのだ。彼の喉を詰まらせる、思考の隔たり……人間の魂と噛みあわぬ、妖怪の歯車……土台を失った者は、不毛の土地に突きすすむ……人妖の境界が、たそがれの思想に骨格を与え、肉を与え、最後に皮フを縫いつける。
しばらく均衡が保たれた。胃がむかつくような行儀のよさで、無言が立方体を満たしていた。
 息を吐き、思いきったように、けつろん。
 女は見えないながらも落とした場所を予想して、小刀に手を伸ばす。そしてまた、雲山も思わず、彼女の肩に手を伸ばした。あわてて手を引っこめようとするも、すこし遅れてしまい、彼女に触れる。しかもつかみそこねて、あせりのあまりに、肩を押してしまうのだった。
 押された勢いで、女は小刀に触れていた。
そのとたん、彼女の右の掌に、痛みが走った。運のわるいことに、小刀に巻きつけていた布が落下の拍子で、わずかにはずれていたらしいのだ。
血の香りが雨の臭気を殺して、周囲を塗りかえる。

「何をする!」

 女が叫んだ。血を止めようと杖を投げすて、左手で傷口を押さえつけた。しかし躰のほうは流血に恐怖し、けいれんしていた。隙間なく、きっちりと傷を圧迫できない。すぐに彼女は諦めて、今度は一心不乱に掌を舐めはじめる。
 こうなっては、しかたない……とにかく、血を躰に戻すんだ!

『滑稽すぎやしない。血だけはむかしのままだとでも?』

 黙りやがれ、おまえに何が分かるんだ! おまえなんて、しょせんは水に映った虚像じゃないか!

『でも、おまえには私のような理解者が必要なんでしょう?』

 見ていられずに、雲山が女の手をつかみとる。

「已めてよう……死ぬ……血が、死ぬ! うう……」

 すさまじい力で女が暴れた。どんな拘束具も舌を巻きそうな、癇癪の馬鹿力だった。止められずに、雲山は振りほどかれてしまう。
 懺悔《サンゲ》の姿勢で、また掌を舐める。傷はすでに回復のきざしを見せているのに、それに気づかず、内側まで必死に舌をねじこんだ。傷のなかで、再生していた肉のひだが、ぷつぷつと切れる。そして傷は、むげんの復活をくりかえさねばならぬのだ。血小板が剥がれおち、唾液と愚行ばかりがうわぬられつづける。
 雲山が、女の頬を引っぱたいた。姿勢がくずれ、横だおしになったものの、憤怒を杖にしてすぐに起きあがる。厚い布を透かして、彼女は彼をにらみつけた。

「何? ……ははあ、責任を感じてるのね……べつにそんなのありゃしないのに……慰めにもなりゃしない! どうした、なんで黙るの! ののしればいいんだ。馬鹿なやつ、自業自得だって、言えばいいんだ」

 雲山に寄りかかり、彼の流動する躰に両手を沈みこませて、女は抱きついた。

「助けてよう、雲山」

 言葉の意図を飲みこめて、雲山はまごついた。ぐにゃぐにゃと変形した。
 そう言えば、餓死の恐怖に怯える子は、こんなふうに親を脅迫するらしいのだ。



「××××」

 不意にふたりは距離を取った。雑音がふりそそぐ山に、一瞬だけだが、幼い声が聞こえたのだ。警戒と不審の発露が、女の首を左右に動かした。
 何もない……相も変わらず雨だけだ……幻聴だろうか?

「おい! きみたちに話しかけてるんだがね。そこの入道と、気ちがい!」

 奇妙で信じがたいことだった。たしかに子供の声がする。雲山も動揺しているので、幻聴でないことはあきらかだ。
 まさかふたりして同じ幻聴を聞くこともない。感覚器が繋がっているわけでもあるまいし……そう、幻聴なんてひとつあればじゅうぶんだ。だが幻聴でないなら、いったい何者なのだろう? ……こんな山のなかで、人間でもないはずだ。十中八九、妖怪に決まっている。
 警戒するために、目を隠す厚い布をはずして、周囲を眺めまわしてみた。雲山のほかには誰もいない。それでも敢えて挙げるとすれば、鼠だろう。四、五匹の目の異様に赤い鼠。茨の実のように、なまなましく色づいている。
 覆いを剥ぎとった女のひとみは、青い空を内包している。海と菫を混ぜっかえした、まがうことなく非人のひとみだ。

「なんだ、やっぱり人間じゃないね。でも盲でもないのは奇妙だな」
「すがたを見せな! “きみたち”だなんて、気どりやがって!」

 からかうような声に、肌をまさぐられて、腹が煮える。
 何が目的なのだろう? まさか、いつの間にか、なわばりを侵犯していたのか? ……ありうることだ。すがたを隠し、己を見せず、回りくどい策を講じる妖怪は、群れで山にひそむ場合が多いのだ。
 女の懸念は、侵犯にたいする報復などではない。烏合の衆に、負けることなどありはしない。ただ、この山に妖怪のなわばりがあっては不都合なのである。
 なんて無粋なんだ……あんたは、ひとの足を大根にしようってのか……これなら幻聴のほうが、まだ善良だったにちがいない……もう、立ちどまるしかないのだろうか? 『おまえの墓の穴なら心配しなくてもいいわ。しっかりと私のとなりで、口をひらけて待っている』 駄目だ! 立ちどまりたくない。死にたいからこそ、本当はこれっぽっちも死にたくないんじゃないか! 希望の糸をぶらさげられりゃ、喰らいつくために歩くと決まっている。瞳孔へ一直線に竿を突きさし、みずから垂らした餌へ、いままで必死に歩いてきた。そんな駄馬のような根性でも、すこしは報われたっていいはずだ! ちくしょう……あんたなんて、どうせ立ちあがった茶の柱くらいの価値しかないんだろうから……同じ日に、ぐうぜん山にはいった、野良であってくれ……。

「この山になんの用かな。ここには私の家がある、あまり無断ではいりこまないでくれないか」

 しかし声は、もはや一寸ほどに縮んでいた女の望みを、容易に打ちくだいてしまったのだ。まるで“以前から山に住んでいる”と書かれた証明書を突きつけられたようである。朝廷の朱印を押された、文句なしの立ちのき命令だ。
 もはや女は、泣きながら言いすてるしかなかった。

「寺を探してる、探してた」
「へえ?」
「聖白蓮を探していたんだ! なのに、そんな望みはもう無駄らしい。あ、あんたは歩くわたしの足を、引っかけやがってえ……うう……妖怪を救う寺なんて、どこにもありゃしない。ふざけやがって……義務があるぞ、わたしを救う義務よ、あんたには……あるんだ! 責任だ、馬鹿が! 馬鹿……」

 光明など、どこにもありはしないのだ。光の屈折でごまかした、まがいの巨塔だ。貧者ほど、幻像にすがるものである。

「まったく、よく怒るやつだな。何がそんなにむかつくんだ」
「妖怪のなわばりがありゃ、寺もないじゃない!」
「ああ、そう言うことか。でも、そりゃ早合点じゃないかな」 声は、強調して 「私が、命蓮寺! の……」

 女の涙がたちまち止まる。心底に驚かされた。寺とは言ったが 「命蓮寺」 とは言っていないはずである。
 呼吸をみださないように、鼻から空気を吸いこんで、口から吐きだした。空気は湿っているはずなのに、あまりの緊張で、くちびるの皮がぱりぱりにむけてしまいそうだ。

「まさか、そうなの?」
「ふん……」

 どうなんだ……言え。ちがう、言ってください! じらさないでもらいたい。解釈を混乱させるような言いかたは、卑怯じゃないか……ないでしょうか? ……。
 女は疲れている。こう謂う状態では、神経が皮フを突きやぶりそうなほど、敏感になってしまうものである。些細なことで、にょきにょきと毛穴から飛びだして、いらだちと焦燥を大気から集めるのだ。

「こんな雨と風で、下から探すしかないのも分かるけど、それなら日を跨ごうとは思わないかな。鼠たちに連れだされて、こっちはびしゃびしゃだよ。水は苦手なのにな。
「でもね、その選択は奇しくも正しい。なんせ命蓮寺は空から見えない。呪法で守っているんだよ。天狗にでも見られたら、どこまでもうわさが広まってしまうんだからな」

「命蓮寺! また言った!」

 それだけではなく、さらに核心へと続く言いぶんだった。女は歓喜で打ちふるえ、懇願するようにまくしたてた。

「会わせてください! お願いします!」

 自分でも、驚くような卑屈さだ……さすがに、こんなふうに態度を変えるのは、いささか愚作だったろうか? ……かまうもんか。もし必要なら、犬のようにへつらってやる。いまさら意地を張ってもしかたない……わたしは報われるのだ、報われるべきなのだ。おまえの影に追われるのは、もうまっぴらである。

「どうしようか」
「何? ……」
「きみを命蓮寺に連れていくのは、ちょっと気が引けるな。まるで狂犬じゃないか」
「望むなら子猫にだってなれるよ! ね? ……わたしは、狂っちゃいない……ほら、もったいぶらないで! 案内してよ、誰でも救ってくれると聞いている。わたしのことよ、わたしは救ってほしいんだ!」

 喉が張りさけそうな勢いで、支離滅裂な想いが吐きだされた。両手で天を仰いで、ぎょうぎょうしいほどに、息の詰まった主張。

「アハハハ……」
「何がおかしい!」
「むろん、そうだ。そのように聖は甘っちょろい」 声が聖白蓮の名前をしたしく呼んで「だから必要になる。甘くない者。命蓮寺に迫る危険を、こっそりと処理してしまう者」

 とつぜんざわめきたつ、山のみどり。一瞬の刹那に、周囲が灰で覆われた。小さな隠者たちがぎりぎりと歯をならす音は、いびつな蝉の合唱のようだ。さきほど見た鼠たちがそうだったように、目が赤い。鼠を使って、視姦されていたわけだ。

「鼠を侮ると死ぬよ」

 ぎらついた、眼球の軍隊。まるで、不吉な夕日の星雲だ。

「争う気はないの……」
「どうかな。これでもひとを見る目はあるし、観察も得意なんだ。そう、きみは入道を連れていて、あらっぽい気性……鋭くずぶとい目で、いまにも何かをしでかしそうだ。
「聖にたよるのは、いつも弱い妖怪だよ。まあ、それが救いを求める側の義務なんだな。でも入道は弱くないし、それを連れた女も、まあ弱くないだろう」

「回りくどいやつ……何が言いたいの」
「強いのに、たよらず生きられるのに、ごうつくばりだなと言いたいんだ」
「わたしには郷もないんだぞ! 郷に帰属しなけりゃ、力にどんな意味があるの!」
「それは人間の範疇だろう。妖怪に郷はない。私たちには力しか残されていない」
『おまえが人間を墓に埋めてしまったお蔭でね……そしていつか、人のかたちを忘れてしまうんだ。おまえは、そうなるんだ』
「ちがう、わたしは人間だ! わたしの躰は妖怪になって、もう戻らない。でも魂と心までは売りわたすもんか! そう在りたいんだ!」

 しばらくすべての音が、女の告白で黙りこくってしまったようだった。風雨が沈黙を拒んで、茶をにごしてくれている。そしていつか 「そうか。喪失者、だったか」 うわずり、やっとの思いで、しぼりだしたような声がした。
 鼠たちが後退しはじめた。慄くような速さで。
地面の踏みあらされた雑草が見えていた。

「あれと同じか、きみは」

 女と雲山は、いそいで振りかえる。いままでよりもずっと近く、背中のほうで声がしたのだ。

「子供、々々だ」
「子供じゃない、ナズーリンだ」

 赤いひとみに、灰かぶりの髪。その上にある、特徴的な円形の耳。小袖の下から、ひょろい尻尾がちらついている。鼠の妖怪だったわけである。あの鼠たちのことが、すとんと腑に落ちた。

「正直ね、悩ましいところだ。きみのように面倒そうなやつは、ここに置いていってしまいたい」 ナズーリンが、女に手を差しのべて 「でも助ける。それが聖の意向だものな」

 女はすこしまごついていた。ナズーリンの態度の変化が、不安だったのだ。しかしすぐに、誘惑に負けて腕を伸ばした。
つかみとった手は、つめたい雨をはじいてくれる真実だった。
 不意に躰が重くなる。安心といっしょに、精神の疲労が、隙を突いて全身を圧迫しはじめた。



あーらーほーのーさんーのーさア
いーやーほーえんやア
ぎイ ぎイ

 空間に、間隙なく編みこまれた夜のじゅうまん。かぎりなく船を打ちすえる、波の羽音。風が々をさらい、帆は引っくりかえされた内臓のようにひるがえる。漁師が必死に、竿のさきへ刃物を巻きつけ、海の肌を撫でまわす。しかしその広大な液面体の躰には、ひとつの傷さえつけられはしないのだ。
 流動する々々のなかで、不意に夜光虫のような光は輝いた。そして、幽霊の実像を捉えそこねた船はかたむきはじめる。

あーらーほーのーさんーのーさア
いーやーほーえんやア
ぎイ ぎイ

 隣国の唄。唄は遠のいてゆく。続いて水の音、沈みこむ音。そこで唄はとぎれてしまう。ちゃぷん……こい、私といっしょに、地獄へ! ……ぎゃあ、ぎゃあ!
 けたたましい烏のうなりが、耳から々へと通過する。奇怪な夢の終りを告げているようだった。起きてまず感じたのは、やわらかさだ。視界には木の天井。鼻を刺激する畳の匂い。どうやら布団の上にいるらしい。
 かけ布団をまくり、ぼんやりとしながら、腰を起こした。
 なんの場所だろう? 何かの場所に決まっている。ああ、そりゃそうさ……。
 頭の整理が追いつかず、意味もなく、だまになった蛇をほぐすように、髪をがしがしと掻いてみる。ふけが羽根のように散らばった。そのとたんに、女は気がついてしまう。
頭巾がなくなっているのだった。思えばひとみも、まったく隠せていないのだ。起きぬけで、血の巡りのわるさがわざわいしたのか、いまに分かったのである。女の顔が、瓜のように青くなった。いそいでまた、かけ布団に潜りこみ、全身を包んだ。ななめに巻かれた、おにぎりの海苔のかたちである。布団の妖怪がいたら、このような見目をしているにちがいない。しかしそんな外皮も、開けはなたれていたこの室《ヘヤ》の戸のほうを見ると、すぐに手からこぼれおちてしまうのだ。かけ布団が、ずるずると肩をすべっていった。
 池に、船が浮いていた。それも川を渡るような大きさではない。あきらかに海を駆けるような体躯である。船の両端から向こうには、稲田と畑が見えている。
 これも夢の続きなのだろうか? なんでも追いつめられた者は死のまぎわに、都合のよい迷夢を見るらしいじゃないか……。
 ふとももをつねると、いかにも現実らしい痛みが返ってきた。しかし夢でなければ、むしろよけいに理解しがたいのである。ただひとつだけ分かるのは、この光景がとてもやさしく、そしてうつくしいことだった。
張りつめていた緊張がたわんで、足をくずした。
 そこでようやく、戸の傍にいる鼠に気がついた。おぼえに新しい鼠だった。
 鼠はどこかに駆けていった。

「命蓮寺……」 女は口にして 「ナ、ナ……ナヅリンだっけ……」

 ところで、雲山のすがたが見えないので 「雲山」 女は呼んでみた。べつに本気で探しているのではなく、たんに言ってみただけである。げんに、彼女の口から出た音は小さかった。おそらく、ほかの場所にいるのだろう。彼女は安心しきっていた。
 また布団に寝ころび、まぶたをとじた。それでも光が内側に残っている。静かだった。あいまいと混濁が、水と砂の混合物になり、肺のなかに送られる。
 急に、腕の上で、こそばゆいうごめきを感じた。百足が肌の表面を這っていた。ふだんなら振りはらうところだが、いまの女は、なんでも許してしまえそうな気分である。百回でも、咬みたければ咬むがよろしい。
 ところが、百足はあんがい殊勝だった。ただ女の腕を登山するだけである。百足なんぞは、やたらと咬みたがる悪質な虫だと思っていたが、おかしなこともあるものだ。
 ついに百足は、掌にまであがってきた。するとまるで鍋のように、女の胃が沸騰して、あぶくを噴きだしはじめた。ごくりと唾液を飲んでから、歯を擦りあわせる。それが、肉感的な和音になり、合唱になり、反響して彼女をせかすような拍手になって返ってくる。
 どれだけ眠っていたのだろう……それよりも、どれだけ食べていないのだろう?

『べつに死にはしない……何も食べなくても』

 だが、からっぽの胃は、いつも何かを求めている……飢えて死ぬこと……飢えて死なぬこと……飢えずに死ぬこと……飢えずに死なぬこと……どれが最も空虚であるか、きっと誰にも分からない。だからこそ、どいつもこいつも、過食と拒食の友達になりたがるのではなかろうか? 胃は食べものを拒まないが、けっして空腹を拒んでもくれない……。

「おい!」

さえぎる声に、ぴたりと腕が止まった。百足を口にはこぶ手をはたかれて、取りおとした。百足が畳を駆けてゆく光景が、なんとも残念だった。

「この寺で百足を喰らおうだなんて、いい根性しているな」
「鼠……」
「そうだけど、ナズーリンな」 と呆れて言った。

 女は布団から起きあがる。盆を片手で持ちながら、ナズーリンが不機嫌にくちびるを曲げていた。うしろめたくなって、言いわけがましく、ゆびとゆびを擦りあわせた。

「起きたって鼠に教えられたよ。きみね、ちょっと血のケ多すぎ」
「なんでも、食べて生きてきた」
「聞いてない」
「あ、そ……雲山は?」
「あの入道か? 聖のとこ。きみ、昨日の昼からずっと死んでた。ああ、いまは朝な」

 百足なんぞに食欲を刺激されるわけである。

「聖、聖白蓮……雲山、とても声が小さいから、話せるかなあ?」
「まあ、聖ならなんとかするよ、聖なんだから……ほら、百足を食べる必要はない。腹が減っているならこれを食べなよ」

 胃はいつも、自己の主張に余念がない。それはたんに、女と胃は消化を共有することでしか、不安を解消できないと謂うだけだ。それでも空腹を感じられぬくらいなら、人形にでもなったほうがましだった。

「何?」
「ふふん……」

 蓋を開けると、室にこうばしい香りが立ちこめるので 「米だ!」 女は思わず、叫んでしまう。

「朝の用意をしていたから、丁度……腹が減っていると思って」
「食べていいの?」
「そのために持ってきたんじゃないか」

 そう言われると女はなぜか、据え膳をまえにして、氷のように動けない。釜とナズーリンをいぶかしむように、何度も交互に眺めくらべる。罠を警戒するけものが、こんなふうに首をかしげるのだろう。
 女が煮えきらない態度なので、ナズーリンは不安になった 「どうした? ほら」 無言が耐えがたくなり、しかたがないので、箸を使って口に米を押しこんでやる。
 女がとつぜん、米を咀嚼しながら泣きはじめた。見られないように、あわてて顔を伏せ、手で隠した。

「おい、なんだ? ごめん……米はきらいだった? その……なんだ、へんなやつだな、本当に……」

 涙のわけが、ナズーリンには分からない。女はしどろもどろで弁解する。

「ちがう、ちがうの……わたし、わたし、嬉しくて……」

 女は化生してから、施しを受けたことなど一度もなかったのである。そんなことは、ナズーリンには預かりしらぬことである。ただ、感情に労苦が混じっていることだけは痛いほどに伝わってきたので、背中をさすってやることにした。



 女がようやく泣きやんで、冷めきった米をたらふく飲みこんだあと、ナズーリンがふところから、布に巻かれた小刀を取りだした。

「これ、返すよ」
「それ……」 女は躊躇するように言った。
「拾っておいたんだ」

 不審がられないように、すぐに腕を伸ばそうとしたものの、迷いの霧にはばまれてしまい、腕の息の根は止まる。いまに小刀は不要になってしまったのだ。だが、それを拾ってくれた親切を、不埒にも拒否できるかどうか? そんな勇気は、むろんない。命蓮寺にたどりついてなお、あの鋭い輝きが、いまだに布の内側で呼吸しているにちがいない。金属は不吉であれば不吉なほど、さびが出ないと決まっている。
 ふるえる手で、なんとか小刀をつかもうとする。しかしにぎりしめたのは、宙空の塊だけだった。ナズーリンが渡す寸前で、腕をさげたのである。
 ナズーリンのひとみが、まるで銀の昏《クラ》いにぶさだった。飛びあがりそうになるのを、ぐっとこらえて、つらぬくような視線を我慢する。
 雲山が何か言ったのだろうか……勘がよいのだろうか……それとも私はよほど分かりやすいのか? まれに喪失者のさなぎを、得意に掘りおこす者がいる……。

「死にたがりの目は……尤も、いまはちがうけど」
「わたし……」
「幽霊に似ていると思う」

 ナズーリンが、立ちあがって 「人間だった、ね。きみはその藤色のひとみと髪を、信じたくないんだ」 小刀を投げすてる。それを受けとる女の手に、昨日の傷は残っていない。

「命を粗末にしたら許さないからな。
「聖を呼んでくる。そこの池で、顔を洗っておきなさい」

 ナズーリンが去って、また独りになる。女は短いあいだ、室で自刃を自失にただよい眺めていたが、やがてそれをふところに入れ、裸足で土を踏みながら、池のほうへと歩いていった。
 近づくほど、池に浮かぶ船の大きさが明瞭になる。池もそくして広かった。あの船が浮かぶならば、深さもそれなりにあるにちがいない。
 帆はたたまれている。そのすがたが、まるで羽を休めるしぼんだ木菟のようで、なんとも周囲のみどりと調和しているのだった。水蛙子でも満足してしまいそうなほど、立派に見えた。
 池のまえでひざまずき、水面を覗きこむ。清潔な襦袢を着た女が映る。昨日は雨だったが、意外とにごってはいなかった。澄んだ水は、鏡と同じ属性をしている。
 鮮明に映りこんだ空に、女の髪が混ざりあう。こうべを垂れると、毛のさきが鏡のなかに沈みこみ、のたうち、不均衡で掻きまわした。
 鏡の向こうでは、ひとみも髪も黒くなった。それを閻魔の詰問のように思う。見るべきこと、々ぬべきこと、々たいこと、々たくないこと。鏡はおまえを映してしまう。
 閻魔を鏡にたとえることが正しいならば、自分で々々を裁いているようなものである。閻魔は罪を裁くのではなく、鏡に化生して罪を反射させるのだ。それだけで閻魔は罪びとのまえで“最強”になる……。
 襦袢の袖をぬぐい、水をすくいとり、顔の全体に浴びせかける。山の朝は夏も涼しい。水の温度に、女はぴくりと硬直してしまう。
 山の朝……平地の朝より寒いのはたしかだが、それにしても冬の非情さに近しいつめたさだ……それほど標高があるわけではなかったはずである……ちくしょう、これは本気でつめたいな……冬の直前の雨に濡れた泥に触れると、こんなふうに、躰の芯までひえるような気がするものだっけ……。
 内心で、道ばたの石っころのような毒を吐く。そうしているあいだに、女が水をすくった影響で浮かびあがった波紋の輪が、海月のようにあまねく散って、池はまた鏡に戻る。太陽の光を遊びながら。
 女は映った幻像を、つかみとろうと腕を伸ばした。しかし、何も奪いかえせはしないのだ。それにつかんだところで、もとのかたちを保っているのかどうか? 海に飲みこまれた人間は、たとえ郷の浜辺に戻れたとしても、むらさき色の袋に膨張している……。
 やがて顔が乾くころに、女は立ちあがる。足のうらで土をこすり、室に向かって歩きだす。いまは何も考えずに、白蓮を待っていたかった。
 室にはいる直前、不意に耳が音を捉えた。魚が丁度、水の表面のあたりで泳いでいるような、薄く半透明なひびきだった。不審に思って振りかえると、池の表面は、何かのうごめきでぱしゃぱしゃともがいているらしかった
……鯉でも飼っているのだろうか?
 女は、興味を惹かれて、不用意に近づいてしまう。そして、覗きこもうとしゃがみこんだその直後に、池から“なま”の娘が這いだしてきた。水のはねっかえりは、襦袢に暗いしみをえがいた。
 近くの石っころの下にいた百足が、娘に怯えて、逃げていった。

< 閻魔の職務に長いあいだ就いていると、浄玻璃の鏡なしに、罪の拠点が見えるようになる……親にひねくられた幼年期……飢饉のさなかの食人の嗜好……喪失者の傷の舐めあい…… >




[文々。新聞]

冬の殺戮。妖怪か、それとも人間か……

命蓮寺の雲居一輪。妖怪の湖にて、遺体を発見される。殺戮との関連は? ……



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