「そりゃあ私だって魔法使いの端くれだもの。若い頃は箒に乗ってブイブイいわせたものよ」
何の気なしに言い放った一言が、時として思いもよらぬ結果を生み出すことがある。
後悔先に立たず。この言葉の意味を、パチュリー・ノーレッジは嫌という程思い知ることになるのであった。
「パチュリー様、御茶に入りました」
「……何が?」
卓に置かれたティーカップには目もくれず、パチュリーは傍らのメイド、十六夜咲夜を横目で睨みつけた。
期待に満ちた表情で覗き込んでくる彼女の手には、一本の箒が握られている。
「とても元気の出るお薬ですわ。ひとくち30フィート、カップ一杯で成層圏までブッ飛ぶような優れモノ」
「飲めるかそんなもん。お前は私に何をさせたいんだ」
「いやあ、ちょっと往年の勢いとやらを取り戻していただこうかと思いまして」
「箒なら乗らないわよ。もうそんな歳でもないし、第一キャラが被っちゃうじゃないの。どっかの白黒と」
「その件については心配御無用ですわ」
不敵な笑みを浮かべる咲夜と、彼女が手にした箒を交互に見て、パチュリーの脳裏にある予感がよぎる。
この箒には見覚えがあった。見飽きたと言った方が正しいだろうか。
「うおっ、私の箒が消えやがった!」
図書館の奥から響く聞き慣れた声。
箒の持ち主の声であることは、今更言うまでもないだろう。
「まあいいか。一抱えの魔道書に比べれば安いもんだぜ。むしろ正当な物々交換といえるかもしれん」
ワザとらしい独り言を残して、声の主は意気揚々と引き上げていった。
「やりましたねパチュリー様。幻想郷に二人と居ない箒乗りになれましたよ」
「ええ、見事に益の無い取り引きだったわ」
「だったら取り戻しに行きましょう。さあ、この箒をお受け取りください」
「だから乗らないって言ってるでしょうが。そもそもなんでお前は私を箒に乗せたがるのよ」
「箒に乗った魔法使いの勇姿は、女の子にとって永遠の憧れなのです」
なにゆえ咲夜は白黒を甘やかすのか。
パチュリーが常々抱いていたその疑問の答えは、思いのほか俗っぽいものであった。
「だったらお前が乗ればいい。普通に飛ぶのと大して変わらないんだから」
「乗りましたよ! でも……違うんです! 何か違うんですよ私はっ!」
「格好の事を言ってるの? だったら適当なボロ布でも纏って……」
「そうじゃないんです! 魔法使いでなければ駄目なんです! 如何に外見を取り繕おうと、私は所詮メイドなのですから!」
歯を食いしばって天井を仰ぐ咲夜の姿に、パチュリーは彼女の本気を垣間見た。
何が彼女をここまで駆り立てるのか。無論、知ったところでどうなるものでもない。
「お願いしますよパチュリー様。乗ってくれるだけでいいんです。あとはなーんにもしないから!」
「分を弁えなさい。お前は私に無理強いできる立場ではないでしょうに」
「無論タダでとは申しません。もしもお願いを聞いて下さったら、私はこの身をあなた様に捧げます! 十六夜咲夜は本気です!」
「こあくまー、肉包丁持ってきてー」
「ちょい待った! 痛いのは無しでお願いします!」
クネクネと身を捩らせる咲夜の後ろから、小悪魔と呼ばれているナマモノがスッと顔を覗かせた。
彼女は一体何者なのか? 奇妙な事に、この館の誰一人として彼女の素性を知らない。
これでいいのか紅魔館。
「パチュリーさま、熱膨張を持って来いと言われましても……」
「肉包丁と言ったのよ。おまえの耳はどうなっているの?」
「そりゃあもう、デビルイヤーは地獄耳ですから」
「地獄に落ちろ」
「ひでぇ」
顔をしかめる小悪魔的な何かを見て、パチュリーは手にした本を投げつけてやりたい衝動に駆られた。
視線を手元に戻す。彼女が読んでいた筈の魔道書は、いつの間にか百科事典へとすりかえられていた。
ご丁寧にも箒の項目に赤い丸がつけられている。その様子を見て、咲夜が鼻で笑う。
「咲夜」
「そう怖い顔をなさらないで。場を和ませるためのちょっとした手品でございます」
「ネタの割れた手品ほどつまらないものは無い。やってて空しくならないのかしら」
「奇術師とはそういう生き物なのです。そう、魔女が箒で空を飛ばずにいられないように……」
「ダメですよ咲夜さん。箒になんか乗せたりしたら、パチュリーさまの痔瘻が悪化してしまいます」
「オウちょっと待てコラ」
思わず立ち上がってしまったパチュリーに、二人の視線が突き刺さる。正確にいえば、彼女の臀部に突き刺さる。
パチュリー・ノーレッジは痔持ちなのか? 結論から言えばNOである。
「誰が痔主よ。私がいつ痔を患ったっていうの?」
「ほら、咲夜さんたちがロケットで宇宙に行ってる間、永遠亭の薬師さんが訪ねて来たじゃないですか。その時……」
「その時……何があったの?」
「薬師さんはおもむろに矢を取り出すと、その切っ先をパチュリーさまの菊座に宛がって……!」
「なんてこと……私が居ない間にそんなことが……」
「尻じゃなくて背中だったでしょうが。そもそも刺されてないし」
「『昔は私も魔法少女だったが、尻に矢を受けてしまってな……』」
「受けてねえっつってんだろ馬鹿共が。そんなに私を痔持ちにしたいのか」
腰を下ろそうとしたパチュリーを見て、咲夜が椅子の上に手を差し入れてきた。
一流のメイドは気遣いも一流。十六夜咲夜、メイドの鑑である。
「ささ、どうぞパチュリー様」
「何この……なに?」
「チョコレート・スターフィッシュをお守りするのも、メイドの役目でございます」
「咲夜さんステキ……抱いて!」
「フフッ、イケない小悪魔さんにはオシオキですわ」
「勝手にやってろ、もう知らん」
パチュリーは咲夜の手を乱暴に払いのけ、尻を叩きつけるようにして椅子に座った。
小悪魔と咲夜が小さな悲鳴を上げたが、パチュリーはあえて気にしない。
「見なさい。私の尻はいたって健康よ。相変わらず冴えた言動よ」
「そんな馬鹿な……痔持チュリーさまはNO裂痔だった……?」
「それで上手い事言ったつもりか4面中ボスがっ」
「じ、痔持ち百合……? 新しいけど惹かれませんね。むしろ引きますわ」
「わたしゃお前にドン引きだよこの6面中ボスがっ」
「せ、せめて5面の方でお願いします……」
かくしてパチュリーの尻に関する誤解は解け、彼女の名誉は守られた。
これにて一件落着。めでたしめでたし――。
「これなら箒に乗っても問題なさそうですね。さあ、どうぞ」
(くそっ、コイツまだ諦めてなかったのか)
箒の柄で頬を突いてくる咲夜を、パチュリーは横目で睨みつける。
暗く危険なトンネルを抜けた先に待ち受けていたのは、まさかの振り出しであった。
「またそのような御顔をなさって……何故それほどまでに箒を拒むのですか?」
「お前たちは知らないのよ。箒で空を飛ぶことが、どれだけ危険な行為なのかを」
「そんなこと言わないで……そのまま飲み込んで。咲夜さんのエクスカリバー……」
もはや我慢の限界であった。
パチュリーは咲夜が持っていた箒を引っ手繰り、小悪魔の尻をしたたかに打ち据えた。
「ああッ……!」
「少々悪ノリが過ぎたわね。しばらくそうやって悶絶してなさい」
「イイっ……!」
「よくない!」
「イクっ……!」
「いくなっ!」
「まあまあパチュリー様。落ち着いてお茶でもお飲みくださいな」
急な運動で息が上がってしまったパチュリーは、咲夜が差し出してきたカップを受け取ると、そのまま一息に飲み干してしまった。
そう……飲んでしまったのだ。
「……!? しまった……!」
「フフフ……ようやく飲んでいただけましたね。パチュリー様?」
「まさか……最初からこれが狙いだったというのかっ、十六夜咲夜……!」
「これを業界用語でミスディレクションといいます。ひとつ勉強になりましたね」
「うおお……! 身体が、身体が焼けるように熱いっ……!」
箒を手にしたまま蹲るパチュリーを、咲夜は渾身のドヤ顔で見下ろしている。
薬の効き目は既に自身で検証済みであったが、魔法使いにも通用するか否かについては、一抹の不安があったのも事実だ。
だが、その心配は杞憂に終わった。かつてない胸の高鳴りを抑えつつ、彼女はパチュリーの耳元に囁きかける。
「さて、如何なものでしょうかパチュリー様。今すぐにでも大空を駆け抜けてみたくありませんか?」
「やってくれたわね、咲夜……!」
「などと仰りながらも、残念な事に身体は正直なようで……」
「くっ……!」
いつの間にか箒を股間に押し付けて、床を蹴ろうとしている自分に気付いたパチュリーは、顔を歪ませながらひどく赤面した。
年端も行かぬ小娘――もっとも、パチュリーは咲夜の実年齢など知らないのだが――に玩弄されるなど、彼女のプライドが許さない。
このまま言いなりになるわけにはいかない。彼女は熱暴走気味の頭脳をフルに回転させ、報復の手立てを導き出さんとする。
「この期に及んで何を躊躇うことがありましょうか。飛べ、パチュリー様! もっと遠く、もっと速く!」
「……ただでは飛ばないわ。かくなる上はお前にも地獄を味わってもらう。さあ、私の後ろに乗りなさい!」
「えっ……?」
パチュリーの射抜くような視線を受けて、咲夜は思わずたじろいでしまう。
魔女の箒に乗せてもらって空を飛ぶ……それは大多数の夢見がちな少女たちにとって、逆らいがたい誘惑なのかもしれない。
勿論、この十六夜咲夜も例外ではない。白馬に乗ったナイトよりも、箒に乗ったウィッチに憧れるのが彼女の持って生まれたサガなのだから。
「いえ、でも……私は……その……」
「素直になりなさい。今のあなたは単なる小娘に過ぎない。完全で瀟洒な従者の仮面など捨てて、自分を解き放つのよっ!」
「自分を……解き放つ!」」
メイドの装束を脱ぎ捨てた咲夜は、パチュリーの股間から突き出した箒に跨って、彼女の華奢な身体を後ろからきつく抱きしめる。
身も心も一つとなった二人が、禍々しくもどこか厳かさを感じさせるオーラに包まれるのを、床に這い蹲った小悪魔は涎を垂らしながら瞬きもせずに見つめていた。
「ファイブ……フォー……」
「あの、パチュリー様? 普通に飛ぶのではないのですか?」
「私が箒で飛ぶという事が……スリー……どういう事なのかを……ツー……」
足元に見たことも無い魔法陣が展開されていることに気が付いたとき、咲夜は自分が嵌められたのではないかと疑念を抱いた。
だが、もう後には引けない。彼女は箒が触れている部分に気合を入れて、これから始まる“何か”へと備えなければならないのだ。
「嫌という程味わってもらう……ワン」
「いったい何が――」
「……ゼロ!」
パチュリーがカウントを終えると同時に、二人の姿は小悪魔の視界から消え失せ、代わりに発生した衝撃波が彼女を木の葉のように吹き飛ばした。
数多の書物と共に宙を舞いながら、小悪魔は確かに目撃した。図書館の天井に、半径2メートルほどの穴がポッカリと口を開いているのを。
地下の図書館から飛び出して来た何かが、そのまま壁を突き破って紅魔館の外へと飛び出して行った。
不世出の名探偵、レミリア・スカーレットの見解は以上の通りである。
「なにこれ、お屋敷壊れちゃってるじゃん」
現場検証を行っていた彼女の元に、妹のフランドールが顔を覗かせる。
床の大穴と、妹の顔を交互に見比べたレミリアは、やがてある結論に辿り着くと、フランドールに人差し指を向けてこう宣告した。
「フランドール、部屋に戻って反省してなさい」
「いや私がやったんじゃないよ!?」
「ええ、そうね。みんなそう言って敗れ去っていったわ。この名探偵レミリアの前にね……」
「だから違うって!」
「よし、門は無事みたいね!」
悪魔の妹があらぬ疑いをかけられていた頃、館の門番を務める紅美鈴は、寝ぼけ眼を擦りつつ現状の把握に努めていた。
壁の破片は館の外に散らばっている。即ち、あの大穴は館の外側からではなく、内側から開かれたものである。それが彼女の辿り着いた結論であった。
「自分は義務を果たしました。ありがとう神主……ぐー……すー……」
「そ、それでいいのかー……?」
トラファルガー沖でナポレオン艦隊を打ち破った英国海軍提督、ホレイショ・ネルソンの最後の言葉を、美鈴はやや間違った形で引用する。
そして彼女は再び眠りに就いた。通りすがりのルーミアが、呆れたような視線を注いでくるのにも構わずに……。
さて、ここで視点を主役の二人に戻してみるとしよう。
紅魔館を飛び出した魔女と下着姿のメイドは、稲妻の如き軌道を描きながら妖怪の山方面へと高速飛行を続けている。
身体に掛かる負荷は相当なものだと推測される。先に音を上げたのは、“一応”生身の人間である咲夜の方であった。
「パパッパパパッパチュリー様ッ!? ひひ非常に申し上げにくいのですが、先程からわたくしのデリケートな部分がっンガガッ、ひひ悲鳴を上げておりますわッ!」
「それが初恋の痛みというものよ。歯ァ食いしばって耐えなさい!」
「ンゴゴゴゴゴゴ御無体なアアァッ!?」
二人は飛んだ。悲鳴と恐怖を幻想郷中に撒き散らしながら。
長きに亘り惰眠を貪ってきた楽園は、我が物顔で大空を駆け巡る災厄に対抗する術を持たず、ただひたすらに嵐が去るのを待つしかなかった。
一方その頃、博麗の巫女は昼寝をしていた。これでいいのか幻想郷。
幻想郷全土を震撼させた浪漫飛行の翌日、紅魔館では家屋の修復作業が進められていた。
役に立たない妖精メイドたちに代わって、実際に作業に当たるのは美鈴と小悪魔である。
とはいえ、この二名も大工仕事に関しては素人同然であるため、あくまで業者が来るまでの仮補修に留まるのだが。
「壁はカーテンか何かで隠して、床は絨毯で塞いじゃいましょう。ちゃんとやろうとすると面倒ですし」
「ホンちゃんナイスです。それでいきましょう」
「長いこと妖怪やってるけど、ホンちゃんとか呼ばれたの初めてよ私」
下階の図書館では、相も変わらず気難しそうな顔をしたパチュリーが、いつもの様に読書に耽っている。
あえて普段と異なる点を挙げるとすれば、彼女の尻に敷かれた分厚いクッションの存在だろうか。
久方ぶりのライディングにより尻を痛めてしまったらしく、時折呻き声とも罵声ともつかぬ声が、ページを捲る音に混じって聞こえてくる。
「パチュリー様、御茶をお淹れ致しました。いてててて……」
「持って帰りなさい。お前の茶は金輪際飲まないことに決めたから」
茶器を運んできた咲夜には目もくれず、パチュリーは低い声で言い放った。
尻を痛めてしまったのは咲夜も同じ様で、その上体は不自然なほど後ろに反らされており、歩幅は明らかにに小さくなっている。
それでも微笑を絶やさないあたりが、彼女の完全で瀟洒たる所以と言えるだろう。いや、言ってあげよう。
「流石に何も入れてませんって。昨日のアレは堪えましたから」
「ふん、自業自得よ……ああもう! 喋るのも億劫だわ」
「咲夜とパチェが尻を押さえて苦しんでいる……これは一体……?」
漫画本を小脇に抱えたレミリアが、二人に向けて訝しげな視線を送る。
首を傾げつつ振り返ってみると、百科事典を手にしたフランドールが、彼女と同様に首を傾げているのが目に入った。
しばしの黙考の後、その類まれなる推理力にてある推論を導き出したレミリアは、妹の肩にポンッと手を置き、優しく語りかけた。
「フラン……二人にちゃんと謝りなさい」
「はあ!? 私が何をしたっていうのよ?」
「何ってあなた、ナニをしたんでしょう? その……後ろの方で」
「してないし! ていうかそもそもナニとは何!? 口に出して言ってみなさいよ!」
「いやいや、口じゃなくて後ろの……後ろの口? 搦め手?」
「意味分かんないからっ!」
次第にヒートアップし始める二人の口論を受け、パチュリーと咲夜の尻の疼きが増幅されてゆく。
脂汗を浮かべながらも引き攣った笑顔を保とうとする咲夜を、内心いい気味だと思いつつ、パチュリーは魔道書を置きゆっくりと振り返った。
「こらこらそこの馬鹿姉妹、痴話喧嘩なら他所でやって頂戴。尻に響く」
「ああ、御免なさいパチェ。私がフランドールにワセリンの重要性をきちんと教えていれば、こんなことにはならなかったのに……」
「もう嫌! お姉様とは金輪際姉妹の縁を切らせてもらうわっ! 今までお世話になりましたっ!」
「こら、待ちなさいフラン! あなたには教育的指導が必要よ! ……夜の教育的指導(バミリオン・プレジャー・ナイト)がね」
バタバタと足音を立てながら走り去っていく姉妹の背中に、ひとしきり呪詛の篭った視線を注いだのち、パチュリーは深い溜息をついた。
卓上に視線を戻すと、彼女が読んでいた魔道書の代わりに、先程フランドールが手にしていた百貨辞典が置かれていた。
勿論、開かれているのはあのページ。パチュリーは既視感にうんざりしながら、悪戯の犯人に対して静かに問いかける。
「……咲夜、これは一体全体何の冗談なのかしら?」
「そんな事よりパチュリー様、次のフライトはいつ頃になさいますか?」
「次ですって!? 次なんてある訳無いでしょうが! あなた一体……」
振り向いたパチュリーの視界に飛び込んできたのは、恍惚の表情を浮かべるメイドの姿であった。
言い知れぬ恐怖を感じた彼女は、思わず椅子からずり落ちそうになってしまう。
「お恥ずかしい話ではあるのですが……昨日の夢のような体験を受けて、その……“開眼”してしまいました」
「カ、カイガン!? 若い二人が恋をする物語とでも言う心算なのっ!?」
「おや、懐メロで攻めてきましたか。ヲタク気質のパチュリー様のことですから、私てっきり腹に回転ノコギリを仕込んだ怪獣ネタで来るものとばかり……」
「オーケー、少し黙りなさい。尻だけじゃなくて頭まで痛くなってきたわ」
どうやら咲夜は、昨日の決死行がいたく気に入ってしまったらしい。
人体の神秘に対し畏怖と侮蔑の入り混じった念を送りつつ、パチュリーは力なく首を振ってみた。
もちろん、いくら首を振ってみたところで、どちらの痛みも和らぎはしない。
「痛みを遥か彼方に凌駕し、最早快感のフレーズに身を任せてご覧におなりあそばしてラッシャイ……失礼。少々気が昂ぶっておりますので」
「咲夜……あなた疲れてるのよ。レミィに代わって暇を出してあげるから、永遠亭に行って精密検査を受けてきなさい。もしくは光る竹の一つにでもなってしまえ」
「ひ~か~る~た~けのなか~♪ 竹箒で~♪」
「ひいっ!? あなたまだそんな物を持ってたのっ!?」
咲夜はスカートの中から一本の箒を取り出し、パチュリーの目の前でユラユラと揺らしてみせた。
一見すると嫌がらせにしか見えない行為であったが、彼女の眼を見ればそれは間違いであると分かるはずだ。
もう一度箒で空を飛びたい。暴力的な重力の嵐を全身で感じたい。もしくは大事な部分で。
咲夜はそう訴えているのだ。そのルナティック・メイド・アイズでもって。
「もう箒なんて見るのも嫌よ! 飛ぶならお前一人で飛びなさい!」
「つれないことを仰らないでください。あなたと私、二人で一人の魔法少女なのですから!」
「よせ! それを私に近づけるなっ! こあくまー! めいりーん! 誰でもいいからこの痴れ者をなんとかしてー!」
恥も外聞も、尻の痛みすらも問題ではなかった。
我を忘れたかのように助けを求めるパチュリーを、小悪魔と美鈴は天井の穴から苦笑いを浮かべつつ眺めている。
「どうします? アレ」
「放っときゃいいんじゃないですかね。咲夜さん楽しそうですし」
「やれやれ。ホンちゃんも業の深いお人ですねえ」
「お前らー! 後で覚えとけよー! 絶対に後悔させてやるからなー!」
「さあさあパチュリー様、今宵も二人だけの処女航海へと漕ぎ出しましょう! ……あっ、もう処女じゃなかったかしら」
「どうだっていーわそんな事! うおおロイヤルフレアアアァッ!」
紅魔館には伝統的な問題解決法が存在する。
有象無象の区別無く、全てをご破算にするデウス・エクス・マギカ。
“爆発”その甘美なる響きでもって、パチュリーはこの狂騒劇に自ら幕を下ろさんとした。したのだが……。
「もう、パチュリー様ったら。やっぱり空をお飛びになりたかったのですね!」
「うおおッ、キサマ本当に人間かァ~ッ!?」
爆風に巻き上げられた大量の書物と瓦礫の中を、咲夜は巧みに泳ぎ回りながら、箒を構えてパチュリーの元へと向かってくる。
このメイドに人間の常識など通用しない。それを証明したのが、パチュリー自身のとっておきの魔法であったことは、皮肉としか言い様が無い。
「誰か、誰か居ないのっ!? このままじゃ私の尻が取り返しのつかないことに……!」
「ヨッシャ! パチュリーさまのキレイなお尻は、この私がズェッテーに守る!」
「お前はすっこんでろっ!」
尻に顔を埋めんとばかりに縋りついてきた小悪魔を蹴り落としつつ、パチュリーは自由落下を始めた瓦礫の海の中を見渡してみた。
まず目に付いたのは、フランドールにゲシゲシと蹴られながらも、エレガントな笑みを浮かべて彼女のドロワーズをずり降ろそうとしている親友の姿。
そこから少し離れた辺りでは、美鈴が周囲の破片を器用に弾き除けながら、漫画本を開いてゲラゲラ笑っていた。
もはや何者の助けも期待できそうに無い。その事実はパチュリーを慄然とさせた。
「さあパチュリー様。この愚かでか弱き小娘を、ピリオドの向こう側まで連れて行ってくださいまし!」
「どの口でか弱きとか抜かすんだこの駄メイドがっ! ……ちょっ、あんたどこ狙ってんのよ! ああ、尻に! 尻に!」
「そう……そのまま飲み込んで。私のエクスカリバー……」
「冗談ではないッ!」
執拗に迫る咲夜の箒から尻を庇いつつ、パチュリーは夕闇に染まり始めた幻想郷の空をひたすら逃げ続けた。
昨日の悪夢も覚めやらぬ楽園を、二つの流れ星が颯爽と駆けてゆく。
悲鳴と怒号、そして僅かな嬌声を、誰に憚る事無く撒き散らしながら……。
何の気なしに言い放った一言が、時として思いもよらぬ結果を生み出すことがある。
後悔先に立たず。この言葉の意味を、パチュリー・ノーレッジは嫌という程思い知ることになるのであった。
「パチュリー様、御茶に入りました」
「……何が?」
卓に置かれたティーカップには目もくれず、パチュリーは傍らのメイド、十六夜咲夜を横目で睨みつけた。
期待に満ちた表情で覗き込んでくる彼女の手には、一本の箒が握られている。
「とても元気の出るお薬ですわ。ひとくち30フィート、カップ一杯で成層圏までブッ飛ぶような優れモノ」
「飲めるかそんなもん。お前は私に何をさせたいんだ」
「いやあ、ちょっと往年の勢いとやらを取り戻していただこうかと思いまして」
「箒なら乗らないわよ。もうそんな歳でもないし、第一キャラが被っちゃうじゃないの。どっかの白黒と」
「その件については心配御無用ですわ」
不敵な笑みを浮かべる咲夜と、彼女が手にした箒を交互に見て、パチュリーの脳裏にある予感がよぎる。
この箒には見覚えがあった。見飽きたと言った方が正しいだろうか。
「うおっ、私の箒が消えやがった!」
図書館の奥から響く聞き慣れた声。
箒の持ち主の声であることは、今更言うまでもないだろう。
「まあいいか。一抱えの魔道書に比べれば安いもんだぜ。むしろ正当な物々交換といえるかもしれん」
ワザとらしい独り言を残して、声の主は意気揚々と引き上げていった。
「やりましたねパチュリー様。幻想郷に二人と居ない箒乗りになれましたよ」
「ええ、見事に益の無い取り引きだったわ」
「だったら取り戻しに行きましょう。さあ、この箒をお受け取りください」
「だから乗らないって言ってるでしょうが。そもそもなんでお前は私を箒に乗せたがるのよ」
「箒に乗った魔法使いの勇姿は、女の子にとって永遠の憧れなのです」
なにゆえ咲夜は白黒を甘やかすのか。
パチュリーが常々抱いていたその疑問の答えは、思いのほか俗っぽいものであった。
「だったらお前が乗ればいい。普通に飛ぶのと大して変わらないんだから」
「乗りましたよ! でも……違うんです! 何か違うんですよ私はっ!」
「格好の事を言ってるの? だったら適当なボロ布でも纏って……」
「そうじゃないんです! 魔法使いでなければ駄目なんです! 如何に外見を取り繕おうと、私は所詮メイドなのですから!」
歯を食いしばって天井を仰ぐ咲夜の姿に、パチュリーは彼女の本気を垣間見た。
何が彼女をここまで駆り立てるのか。無論、知ったところでどうなるものでもない。
「お願いしますよパチュリー様。乗ってくれるだけでいいんです。あとはなーんにもしないから!」
「分を弁えなさい。お前は私に無理強いできる立場ではないでしょうに」
「無論タダでとは申しません。もしもお願いを聞いて下さったら、私はこの身をあなた様に捧げます! 十六夜咲夜は本気です!」
「こあくまー、肉包丁持ってきてー」
「ちょい待った! 痛いのは無しでお願いします!」
クネクネと身を捩らせる咲夜の後ろから、小悪魔と呼ばれているナマモノがスッと顔を覗かせた。
彼女は一体何者なのか? 奇妙な事に、この館の誰一人として彼女の素性を知らない。
これでいいのか紅魔館。
「パチュリーさま、熱膨張を持って来いと言われましても……」
「肉包丁と言ったのよ。おまえの耳はどうなっているの?」
「そりゃあもう、デビルイヤーは地獄耳ですから」
「地獄に落ちろ」
「ひでぇ」
顔をしかめる小悪魔的な何かを見て、パチュリーは手にした本を投げつけてやりたい衝動に駆られた。
視線を手元に戻す。彼女が読んでいた筈の魔道書は、いつの間にか百科事典へとすりかえられていた。
ご丁寧にも箒の項目に赤い丸がつけられている。その様子を見て、咲夜が鼻で笑う。
「咲夜」
「そう怖い顔をなさらないで。場を和ませるためのちょっとした手品でございます」
「ネタの割れた手品ほどつまらないものは無い。やってて空しくならないのかしら」
「奇術師とはそういう生き物なのです。そう、魔女が箒で空を飛ばずにいられないように……」
「ダメですよ咲夜さん。箒になんか乗せたりしたら、パチュリーさまの痔瘻が悪化してしまいます」
「オウちょっと待てコラ」
思わず立ち上がってしまったパチュリーに、二人の視線が突き刺さる。正確にいえば、彼女の臀部に突き刺さる。
パチュリー・ノーレッジは痔持ちなのか? 結論から言えばNOである。
「誰が痔主よ。私がいつ痔を患ったっていうの?」
「ほら、咲夜さんたちがロケットで宇宙に行ってる間、永遠亭の薬師さんが訪ねて来たじゃないですか。その時……」
「その時……何があったの?」
「薬師さんはおもむろに矢を取り出すと、その切っ先をパチュリーさまの菊座に宛がって……!」
「なんてこと……私が居ない間にそんなことが……」
「尻じゃなくて背中だったでしょうが。そもそも刺されてないし」
「『昔は私も魔法少女だったが、尻に矢を受けてしまってな……』」
「受けてねえっつってんだろ馬鹿共が。そんなに私を痔持ちにしたいのか」
腰を下ろそうとしたパチュリーを見て、咲夜が椅子の上に手を差し入れてきた。
一流のメイドは気遣いも一流。十六夜咲夜、メイドの鑑である。
「ささ、どうぞパチュリー様」
「何この……なに?」
「チョコレート・スターフィッシュをお守りするのも、メイドの役目でございます」
「咲夜さんステキ……抱いて!」
「フフッ、イケない小悪魔さんにはオシオキですわ」
「勝手にやってろ、もう知らん」
パチュリーは咲夜の手を乱暴に払いのけ、尻を叩きつけるようにして椅子に座った。
小悪魔と咲夜が小さな悲鳴を上げたが、パチュリーはあえて気にしない。
「見なさい。私の尻はいたって健康よ。相変わらず冴えた言動よ」
「そんな馬鹿な……痔持チュリーさまはNO裂痔だった……?」
「それで上手い事言ったつもりか4面中ボスがっ」
「じ、痔持ち百合……? 新しいけど惹かれませんね。むしろ引きますわ」
「わたしゃお前にドン引きだよこの6面中ボスがっ」
「せ、せめて5面の方でお願いします……」
かくしてパチュリーの尻に関する誤解は解け、彼女の名誉は守られた。
これにて一件落着。めでたしめでたし――。
「これなら箒に乗っても問題なさそうですね。さあ、どうぞ」
(くそっ、コイツまだ諦めてなかったのか)
箒の柄で頬を突いてくる咲夜を、パチュリーは横目で睨みつける。
暗く危険なトンネルを抜けた先に待ち受けていたのは、まさかの振り出しであった。
「またそのような御顔をなさって……何故それほどまでに箒を拒むのですか?」
「お前たちは知らないのよ。箒で空を飛ぶことが、どれだけ危険な行為なのかを」
「そんなこと言わないで……そのまま飲み込んで。咲夜さんのエクスカリバー……」
もはや我慢の限界であった。
パチュリーは咲夜が持っていた箒を引っ手繰り、小悪魔の尻をしたたかに打ち据えた。
「ああッ……!」
「少々悪ノリが過ぎたわね。しばらくそうやって悶絶してなさい」
「イイっ……!」
「よくない!」
「イクっ……!」
「いくなっ!」
「まあまあパチュリー様。落ち着いてお茶でもお飲みくださいな」
急な運動で息が上がってしまったパチュリーは、咲夜が差し出してきたカップを受け取ると、そのまま一息に飲み干してしまった。
そう……飲んでしまったのだ。
「……!? しまった……!」
「フフフ……ようやく飲んでいただけましたね。パチュリー様?」
「まさか……最初からこれが狙いだったというのかっ、十六夜咲夜……!」
「これを業界用語でミスディレクションといいます。ひとつ勉強になりましたね」
「うおお……! 身体が、身体が焼けるように熱いっ……!」
箒を手にしたまま蹲るパチュリーを、咲夜は渾身のドヤ顔で見下ろしている。
薬の効き目は既に自身で検証済みであったが、魔法使いにも通用するか否かについては、一抹の不安があったのも事実だ。
だが、その心配は杞憂に終わった。かつてない胸の高鳴りを抑えつつ、彼女はパチュリーの耳元に囁きかける。
「さて、如何なものでしょうかパチュリー様。今すぐにでも大空を駆け抜けてみたくありませんか?」
「やってくれたわね、咲夜……!」
「などと仰りながらも、残念な事に身体は正直なようで……」
「くっ……!」
いつの間にか箒を股間に押し付けて、床を蹴ろうとしている自分に気付いたパチュリーは、顔を歪ませながらひどく赤面した。
年端も行かぬ小娘――もっとも、パチュリーは咲夜の実年齢など知らないのだが――に玩弄されるなど、彼女のプライドが許さない。
このまま言いなりになるわけにはいかない。彼女は熱暴走気味の頭脳をフルに回転させ、報復の手立てを導き出さんとする。
「この期に及んで何を躊躇うことがありましょうか。飛べ、パチュリー様! もっと遠く、もっと速く!」
「……ただでは飛ばないわ。かくなる上はお前にも地獄を味わってもらう。さあ、私の後ろに乗りなさい!」
「えっ……?」
パチュリーの射抜くような視線を受けて、咲夜は思わずたじろいでしまう。
魔女の箒に乗せてもらって空を飛ぶ……それは大多数の夢見がちな少女たちにとって、逆らいがたい誘惑なのかもしれない。
勿論、この十六夜咲夜も例外ではない。白馬に乗ったナイトよりも、箒に乗ったウィッチに憧れるのが彼女の持って生まれたサガなのだから。
「いえ、でも……私は……その……」
「素直になりなさい。今のあなたは単なる小娘に過ぎない。完全で瀟洒な従者の仮面など捨てて、自分を解き放つのよっ!」
「自分を……解き放つ!」」
メイドの装束を脱ぎ捨てた咲夜は、パチュリーの股間から突き出した箒に跨って、彼女の華奢な身体を後ろからきつく抱きしめる。
身も心も一つとなった二人が、禍々しくもどこか厳かさを感じさせるオーラに包まれるのを、床に這い蹲った小悪魔は涎を垂らしながら瞬きもせずに見つめていた。
「ファイブ……フォー……」
「あの、パチュリー様? 普通に飛ぶのではないのですか?」
「私が箒で飛ぶという事が……スリー……どういう事なのかを……ツー……」
足元に見たことも無い魔法陣が展開されていることに気が付いたとき、咲夜は自分が嵌められたのではないかと疑念を抱いた。
だが、もう後には引けない。彼女は箒が触れている部分に気合を入れて、これから始まる“何か”へと備えなければならないのだ。
「嫌という程味わってもらう……ワン」
「いったい何が――」
「……ゼロ!」
パチュリーがカウントを終えると同時に、二人の姿は小悪魔の視界から消え失せ、代わりに発生した衝撃波が彼女を木の葉のように吹き飛ばした。
数多の書物と共に宙を舞いながら、小悪魔は確かに目撃した。図書館の天井に、半径2メートルほどの穴がポッカリと口を開いているのを。
地下の図書館から飛び出して来た何かが、そのまま壁を突き破って紅魔館の外へと飛び出して行った。
不世出の名探偵、レミリア・スカーレットの見解は以上の通りである。
「なにこれ、お屋敷壊れちゃってるじゃん」
現場検証を行っていた彼女の元に、妹のフランドールが顔を覗かせる。
床の大穴と、妹の顔を交互に見比べたレミリアは、やがてある結論に辿り着くと、フランドールに人差し指を向けてこう宣告した。
「フランドール、部屋に戻って反省してなさい」
「いや私がやったんじゃないよ!?」
「ええ、そうね。みんなそう言って敗れ去っていったわ。この名探偵レミリアの前にね……」
「だから違うって!」
「よし、門は無事みたいね!」
悪魔の妹があらぬ疑いをかけられていた頃、館の門番を務める紅美鈴は、寝ぼけ眼を擦りつつ現状の把握に努めていた。
壁の破片は館の外に散らばっている。即ち、あの大穴は館の外側からではなく、内側から開かれたものである。それが彼女の辿り着いた結論であった。
「自分は義務を果たしました。ありがとう神主……ぐー……すー……」
「そ、それでいいのかー……?」
トラファルガー沖でナポレオン艦隊を打ち破った英国海軍提督、ホレイショ・ネルソンの最後の言葉を、美鈴はやや間違った形で引用する。
そして彼女は再び眠りに就いた。通りすがりのルーミアが、呆れたような視線を注いでくるのにも構わずに……。
さて、ここで視点を主役の二人に戻してみるとしよう。
紅魔館を飛び出した魔女と下着姿のメイドは、稲妻の如き軌道を描きながら妖怪の山方面へと高速飛行を続けている。
身体に掛かる負荷は相当なものだと推測される。先に音を上げたのは、“一応”生身の人間である咲夜の方であった。
「パパッパパパッパチュリー様ッ!? ひひ非常に申し上げにくいのですが、先程からわたくしのデリケートな部分がっンガガッ、ひひ悲鳴を上げておりますわッ!」
「それが初恋の痛みというものよ。歯ァ食いしばって耐えなさい!」
「ンゴゴゴゴゴゴ御無体なアアァッ!?」
二人は飛んだ。悲鳴と恐怖を幻想郷中に撒き散らしながら。
長きに亘り惰眠を貪ってきた楽園は、我が物顔で大空を駆け巡る災厄に対抗する術を持たず、ただひたすらに嵐が去るのを待つしかなかった。
一方その頃、博麗の巫女は昼寝をしていた。これでいいのか幻想郷。
幻想郷全土を震撼させた浪漫飛行の翌日、紅魔館では家屋の修復作業が進められていた。
役に立たない妖精メイドたちに代わって、実際に作業に当たるのは美鈴と小悪魔である。
とはいえ、この二名も大工仕事に関しては素人同然であるため、あくまで業者が来るまでの仮補修に留まるのだが。
「壁はカーテンか何かで隠して、床は絨毯で塞いじゃいましょう。ちゃんとやろうとすると面倒ですし」
「ホンちゃんナイスです。それでいきましょう」
「長いこと妖怪やってるけど、ホンちゃんとか呼ばれたの初めてよ私」
下階の図書館では、相も変わらず気難しそうな顔をしたパチュリーが、いつもの様に読書に耽っている。
あえて普段と異なる点を挙げるとすれば、彼女の尻に敷かれた分厚いクッションの存在だろうか。
久方ぶりのライディングにより尻を痛めてしまったらしく、時折呻き声とも罵声ともつかぬ声が、ページを捲る音に混じって聞こえてくる。
「パチュリー様、御茶をお淹れ致しました。いてててて……」
「持って帰りなさい。お前の茶は金輪際飲まないことに決めたから」
茶器を運んできた咲夜には目もくれず、パチュリーは低い声で言い放った。
尻を痛めてしまったのは咲夜も同じ様で、その上体は不自然なほど後ろに反らされており、歩幅は明らかにに小さくなっている。
それでも微笑を絶やさないあたりが、彼女の完全で瀟洒たる所以と言えるだろう。いや、言ってあげよう。
「流石に何も入れてませんって。昨日のアレは堪えましたから」
「ふん、自業自得よ……ああもう! 喋るのも億劫だわ」
「咲夜とパチェが尻を押さえて苦しんでいる……これは一体……?」
漫画本を小脇に抱えたレミリアが、二人に向けて訝しげな視線を送る。
首を傾げつつ振り返ってみると、百科事典を手にしたフランドールが、彼女と同様に首を傾げているのが目に入った。
しばしの黙考の後、その類まれなる推理力にてある推論を導き出したレミリアは、妹の肩にポンッと手を置き、優しく語りかけた。
「フラン……二人にちゃんと謝りなさい」
「はあ!? 私が何をしたっていうのよ?」
「何ってあなた、ナニをしたんでしょう? その……後ろの方で」
「してないし! ていうかそもそもナニとは何!? 口に出して言ってみなさいよ!」
「いやいや、口じゃなくて後ろの……後ろの口? 搦め手?」
「意味分かんないからっ!」
次第にヒートアップし始める二人の口論を受け、パチュリーと咲夜の尻の疼きが増幅されてゆく。
脂汗を浮かべながらも引き攣った笑顔を保とうとする咲夜を、内心いい気味だと思いつつ、パチュリーは魔道書を置きゆっくりと振り返った。
「こらこらそこの馬鹿姉妹、痴話喧嘩なら他所でやって頂戴。尻に響く」
「ああ、御免なさいパチェ。私がフランドールにワセリンの重要性をきちんと教えていれば、こんなことにはならなかったのに……」
「もう嫌! お姉様とは金輪際姉妹の縁を切らせてもらうわっ! 今までお世話になりましたっ!」
「こら、待ちなさいフラン! あなたには教育的指導が必要よ! ……夜の教育的指導(バミリオン・プレジャー・ナイト)がね」
バタバタと足音を立てながら走り去っていく姉妹の背中に、ひとしきり呪詛の篭った視線を注いだのち、パチュリーは深い溜息をついた。
卓上に視線を戻すと、彼女が読んでいた魔道書の代わりに、先程フランドールが手にしていた百貨辞典が置かれていた。
勿論、開かれているのはあのページ。パチュリーは既視感にうんざりしながら、悪戯の犯人に対して静かに問いかける。
「……咲夜、これは一体全体何の冗談なのかしら?」
「そんな事よりパチュリー様、次のフライトはいつ頃になさいますか?」
「次ですって!? 次なんてある訳無いでしょうが! あなた一体……」
振り向いたパチュリーの視界に飛び込んできたのは、恍惚の表情を浮かべるメイドの姿であった。
言い知れぬ恐怖を感じた彼女は、思わず椅子からずり落ちそうになってしまう。
「お恥ずかしい話ではあるのですが……昨日の夢のような体験を受けて、その……“開眼”してしまいました」
「カ、カイガン!? 若い二人が恋をする物語とでも言う心算なのっ!?」
「おや、懐メロで攻めてきましたか。ヲタク気質のパチュリー様のことですから、私てっきり腹に回転ノコギリを仕込んだ怪獣ネタで来るものとばかり……」
「オーケー、少し黙りなさい。尻だけじゃなくて頭まで痛くなってきたわ」
どうやら咲夜は、昨日の決死行がいたく気に入ってしまったらしい。
人体の神秘に対し畏怖と侮蔑の入り混じった念を送りつつ、パチュリーは力なく首を振ってみた。
もちろん、いくら首を振ってみたところで、どちらの痛みも和らぎはしない。
「痛みを遥か彼方に凌駕し、最早快感のフレーズに身を任せてご覧におなりあそばしてラッシャイ……失礼。少々気が昂ぶっておりますので」
「咲夜……あなた疲れてるのよ。レミィに代わって暇を出してあげるから、永遠亭に行って精密検査を受けてきなさい。もしくは光る竹の一つにでもなってしまえ」
「ひ~か~る~た~けのなか~♪ 竹箒で~♪」
「ひいっ!? あなたまだそんな物を持ってたのっ!?」
咲夜はスカートの中から一本の箒を取り出し、パチュリーの目の前でユラユラと揺らしてみせた。
一見すると嫌がらせにしか見えない行為であったが、彼女の眼を見ればそれは間違いであると分かるはずだ。
もう一度箒で空を飛びたい。暴力的な重力の嵐を全身で感じたい。もしくは大事な部分で。
咲夜はそう訴えているのだ。そのルナティック・メイド・アイズでもって。
「もう箒なんて見るのも嫌よ! 飛ぶならお前一人で飛びなさい!」
「つれないことを仰らないでください。あなたと私、二人で一人の魔法少女なのですから!」
「よせ! それを私に近づけるなっ! こあくまー! めいりーん! 誰でもいいからこの痴れ者をなんとかしてー!」
恥も外聞も、尻の痛みすらも問題ではなかった。
我を忘れたかのように助けを求めるパチュリーを、小悪魔と美鈴は天井の穴から苦笑いを浮かべつつ眺めている。
「どうします? アレ」
「放っときゃいいんじゃないですかね。咲夜さん楽しそうですし」
「やれやれ。ホンちゃんも業の深いお人ですねえ」
「お前らー! 後で覚えとけよー! 絶対に後悔させてやるからなー!」
「さあさあパチュリー様、今宵も二人だけの処女航海へと漕ぎ出しましょう! ……あっ、もう処女じゃなかったかしら」
「どうだっていーわそんな事! うおおロイヤルフレアアアァッ!」
紅魔館には伝統的な問題解決法が存在する。
有象無象の区別無く、全てをご破算にするデウス・エクス・マギカ。
“爆発”その甘美なる響きでもって、パチュリーはこの狂騒劇に自ら幕を下ろさんとした。したのだが……。
「もう、パチュリー様ったら。やっぱり空をお飛びになりたかったのですね!」
「うおおッ、キサマ本当に人間かァ~ッ!?」
爆風に巻き上げられた大量の書物と瓦礫の中を、咲夜は巧みに泳ぎ回りながら、箒を構えてパチュリーの元へと向かってくる。
このメイドに人間の常識など通用しない。それを証明したのが、パチュリー自身のとっておきの魔法であったことは、皮肉としか言い様が無い。
「誰か、誰か居ないのっ!? このままじゃ私の尻が取り返しのつかないことに……!」
「ヨッシャ! パチュリーさまのキレイなお尻は、この私がズェッテーに守る!」
「お前はすっこんでろっ!」
尻に顔を埋めんとばかりに縋りついてきた小悪魔を蹴り落としつつ、パチュリーは自由落下を始めた瓦礫の海の中を見渡してみた。
まず目に付いたのは、フランドールにゲシゲシと蹴られながらも、エレガントな笑みを浮かべて彼女のドロワーズをずり降ろそうとしている親友の姿。
そこから少し離れた辺りでは、美鈴が周囲の破片を器用に弾き除けながら、漫画本を開いてゲラゲラ笑っていた。
もはや何者の助けも期待できそうに無い。その事実はパチュリーを慄然とさせた。
「さあパチュリー様。この愚かでか弱き小娘を、ピリオドの向こう側まで連れて行ってくださいまし!」
「どの口でか弱きとか抜かすんだこの駄メイドがっ! ……ちょっ、あんたどこ狙ってんのよ! ああ、尻に! 尻に!」
「そう……そのまま飲み込んで。私のエクスカリバー……」
「冗談ではないッ!」
執拗に迫る咲夜の箒から尻を庇いつつ、パチュリーは夕闇に染まり始めた幻想郷の空をひたすら逃げ続けた。
昨日の悪夢も覚めやらぬ楽園を、二つの流れ星が颯爽と駆けてゆく。
悲鳴と怒号、そして僅かな嬌声を、誰に憚る事無く撒き散らしながら……。
誤字報告
>周囲の破片を起用に弾き除けながら
器用
しかし、後半は勢いだけで読み進めるのが辛くなる感も。
オチがもう一捻りあると良かったかもしれません。
ところで……mats/morganとかお好きだったりします?
もしそうなら握手。
魔理沙のお尻も心配です。
でも、面白かった。
j。 。゙L゙i rニ二`ヽ. Y",,..、ーt;;;;;;;;;;;)
r-=、 l≦ ノ6)_ l_,.、ヾ;r、゙t lヲ '・= )rテ-┴- 、
`゙ゝヽ、`ー! ノ::::::`ヽ、 L、゚゙ tノ`ゾ`ー ゙iー' ,r"彡彡三ミミ`ヽ
にー `ヾヽ'":::::::::::: ィ"^゙iフ _,,ノ , ゙tフ ゙ゞ''"´ ゙ifrミソヘ,
,.、 `~iヽ、. `~`''"´ ゙t (,, ̄, frノ ゝ-‐,i ,,.,...、 ヾミく::::::l
ゝヽ、__l::::ヽ`iー- '''"´゙i, ヽ ヽ,/ / lヲ ェ。、 〉:,r-、::リ
W..,,」:::::::::,->ヽi''"´::::ノ-ゝ ヽ、_ノー‐テ-/ i / ,, 、 '"fっ)ノ::l
 ̄r==ミ__ィ'{-‐ニ二...,-ゝ、'″ /,/`ヽl : :`i- 、ヽ ,.:゙''" )'^`''ー- :、
lミ、 / f´ r''/'´ミ)ゝ^),ノ>''" ,:イ`i /i、ヺi .:" ,,. /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`゙
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人 ヾニ゙i ヽ.l yt,;ヽ ゙v'′ ,:ィ" /;;;;;;;;;;;;;;r-'"´`i,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
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` ̄´ / l ヽ ヾ"/ `゙''ーハ. l;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
/ l ゙t `' /^t;\ ,,.ゝ;;;;;;;;;;;;;;;i;;;;;;;;;;;;
うひょー
ネタ仕込みすぎww
平安座さんの作品はどれも印象深いので、もっともっと50~80KBぐらいの量かと思ってました。
点は前に入れちゃったので、フリーレスで許してね。