Coolier - 新生・東方創想話

魔女の手のひら(後)

2009/07/25 21:24:04
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 #4

 もう何年前のことになるだろう。私は図書館にずっとひとりだった。私が魔女となってから、ずっと私は本のそばでたったひとりだった。今のように小悪魔もいなかったし、レミィもめったに私のところに訪れなかった。咲夜がいなかったから図書館は今と比べてかなり小さかった。けれど、本を読みつづけている私は昔も今も何も変わっていない。
 昔の図書館は乱雑だった。本棚もテーブルも椅子もあったが、本棚に本が詰まっていることはほとんどなかった。私は本を適当に手に取り、その中身に体を浸して全身に知識を浴びたあと、本を適当なところに置いていた。私のまわりには本の山がいくつもいくつもあった。本棚に本を戻すのが面倒くさい、ただそれだけの理由だった。掃除もめったにしなかったから、ほこりが本の山をうっすら覆っていたこともしばしばだった。レミィが私の図書館を訪れると、いつもぎょっとした表情を浮かべて、それから私に呼びかけて私を図書館から連れ出した。
 そうやってレミィがときどき来るとき以外は、私と本は一体だった。私は本から離れられなかった。本の山の中に埋もれ、ときどきそこで要らぬ睡眠をとった。目が覚めると、視界を本が覆い尽くしていて、天井は本の山にあいた穴の中からわずかに見えるだけだった。その過不足のない世界で私は生きていた。

 小悪魔の封印を解いたのはふとしたきっかけだった。ある木曜日、目的もなく手に取った本の表紙は黒と紅で表紙を飾られていた。いや、正確に言うならば、それは装飾ではなく小悪魔の表象だったのだろう。けれど、そのときの私は当然そのことに気づくはずもなかった。私は封印魔法をかけられたその本の中身に、少し興味がわいた。「半ば」興味本位でその封印魔法を解いたのが、私と小悪魔の出会いとなった。

 封印魔法が解除されると本がひとりでに開き、まばゆい光を放った。私はその光に思わず目をつむった。光がおさまると、そこには色を失った本があって、それからぼろきれをまとって床に座り込んでいる少女がいた。漆黒の羽、そして封印されていたこと。私はその少女が悪魔だということに気がついた。ただ、レミィのように強烈な魔力は感じられず、いわば「小悪魔」の類であろうということもわかった。
 小悪魔は私を見て、それからまわりを見渡して何かを言おうとした。けれど、それは言葉にも声にもならなかった。口がきけないようだった。私は言葉をかける前に、私がいちばん上に来ていた服を小悪魔に渡した。小悪魔はそれを受け取って、私の顔を見上げた。私は小悪魔に言った。

「とりあえず、それを着なさい。そのままの格好だと不都合でしょう」

 私に言われるままに小悪魔は服を体に巻きつけ、その中に顔をうずめるようにしてうつむいた。わずかに乱れた呼吸の音が服の中から聞こえてきた。私は椅子に腰かけ、小悪魔が落ちつくまで待った。やがて、小悪魔の呼吸は規則正しくなり、小悪魔はまた顔を上げた。私は言った。

「さて、ここがどこか訊きたいでしょうけれど、その前にあなたに尋ねていいかしら」

 小悪魔は何も答えなかった。私はかまわず続けた。

「あなたはどうして封印されていたの?」

 小悪魔は首を横にふるふると振った。肩までかかる、よどんだ紅の髪がそれにあわせて揺れた。

「覚えていない? それじゃあ、あなたの名前は?」

 再び小悪魔はかぶりを振った。

「……もしかして、封印される前の記憶は何もないの?」

 今度は縦に首を振った。私は手で額をおさえて、ため息をついた。おそらく、封印魔法をかけた術者が記憶を改竄したか、あるいは消し去ったに違いない。記憶の魔法はとても複雑で、解除魔法もそう簡単なものではない。それに、記憶の性質上、長い時間がたてば記憶は物理的にも薄れていく。記憶を取り戻すのはもう無理だろう。私は小悪魔にこれ以上過去のことを訊くのをやめた。

「とにかく、もうあなたは封印から放たれたわ。他にあなたを縛る魔法もなさそうだし、心配することはない。もうあなたは自由よ」

 そう言って、私は小悪魔のそばに落ちていた本を拾った。表紙は染みひとつない白色になっていた。ページを捲くっていくが、中身は壮大な魔術史でも、科学史でもなく、ただの恋愛小説だった。どうして小悪魔を封印したひとはこんなものの中に封じ込めていたのだろう。私は想像した。たとえば、男の魔法使いが小悪魔に恋をして、それが原因で異端呼ばわりされて、苦しさのあまり「恋愛」小説の中に小悪魔を、自分の気持ちとともに封じた、とか。
 考えすぎね、と私は自分を笑った。小悪魔に記憶がない以上、どんな想像をしようが――たとえそれが真実だったとしても――もう今となっては何もわからない。私は本を閉じ、小悪魔に言った。

「ここは吸血鬼が主の紅魔館……の地下にある図書館よ。あとのことは、説明するのが難しいから、実際に外に出ればいいと思う。とにかく、もうあなたは自由よ。服なら私のものを貸してあげるから、どこへでも行きなさい」

 小悪魔はそこから動かなかった。私の服にくるまって、身体を丸めてじっと動かなかった。無理もないか、と私は思った。いきなり外の世界に出て、過去の記憶もなければ、誰だって新しい世界に戸惑い、震える。しばらくはこのまま放っておいて、慣れるまで待つしかない。私はまた椅子に腰かけ、ひじをテーブルにつき、手のひらに頭を載せて、じっと小悪魔を眺めた。

「時が来るまで待てばいい」、私は言った。「あなたにだって無限の時間があるでしょうから。それまではこの図書館にいればいいわ。いつか、時間があなたを迎えに来る。そのときにはここから出ていっていいのよ」

 私がそう言ったとき、小悪魔は顔を上げ、その細い脚で立ち上がった。そして、ふらつく脚で私の前まで歩み寄ってきた。

「……どうしたの、無理はしなくていいって……」

 小悪魔はとつぜん私の手を握った。その手は細い指から想像できないほど熱く、私の手が溶けてくっついてしまうのではないか、と私は思った。小悪魔が口を開いて、静寂に言葉を落とした。

「私にはあなたしかいないんです」

 その姿はガラスのように脆く、儚く、美しく――けれど、弱かった。涙を落としそうな目が私を見つめた。私の手を握る力が少し強くなった。

「私を、ひとりにしないでください……」

 私はしばらく黙って小悪魔を見つめていた。正直に言ってしまえば、私はこの小悪魔に興味はなかったし、封印から解いたのも偶然でしかないと思っていた。私はどうして小悪魔が私の手を握ったのかも、どうして「あなたしかいない」と言ったのかも、わからない。
 その気持ちを私は探ろうせず、だからこそ、そのときの私はこう言ったのかもしれない。

「司書としてここで働いてみなさい」

 小悪魔の目が見開かれた。

「あなたがそうしたいなら、そうすればいい。私はあなたの主でもない。強制はしないし、何もしないでここにいても私はかまわない。いついなくなってもいい。あなたの自由にすればいいわ」


 それ以来、小悪魔は図書館の司書になった。私の周囲の環境は大きく変わっていった。本棚にきちんと本が入れられた。ほこりがあまり積もらなくなった。それでレミィもこの図書館の中で私とティータイムを楽しむようになっていった。そのうちに咲夜が来て、この図書館もさらに広げられた。それでも司書は小悪魔ひとりだった。
 今では小悪魔も私に笑顔を見せてくれるし、ときどき私をからかったり、いたずらしたり、へまをして暮らしている。小悪魔という名前なのに、心は純粋そのものだと、私は思う。ひたすらに無垢で、純粋で――。
 だから私はあのときのことを思いだす。小悪魔、あのとき、あなたは私の手をたしかに握った。私は今でも覚えている。あのときのあなたの手は私を溶かすように熱かった。火傷をしてしまうかと思ったほどに。でも、あなたはこの前言った。『パチュリーさまの手はとても温かくて、それでとても柔らかくて……』と、たしかに私の手に触れたときに言ったわ。
 あのとき私の手をたしかに握ったこと、それはあなたの記憶の中から消えてしまったの? あのときの私の手のひらを、あなたは感じられなかったの? あなたは本から出て、幸せな結末を得ることができたの?

 私はため息をついて本を閉じた。惚れ薬が23段階目を終えようとしていた。無臭が漂ってきた。私はその香りを肺いっぱいに吸い込んで、天井を見上げた。天井以外には、本がない場所がなかった。壁にも本が並べられていた。天井を見上げたまま、私は思った。
 世界はこんなにも狭くて閉ざされている。私たちはこの世界の中で、何ができるというのだろう――。


 その日の夜、惚れ薬は最終段階を迎えた。作りはじめてから9日しかたたなかった。あとは私の髪をひときれ入れれば完成する。小悪魔は今頃自分の部屋で寝ているだろう。この惚れ薬の完成を見届けるのは、私ひとりだ。私は実験台の机からはさみを取り出して、自分の髪に刃を通した。紫色の髪が私の手に落ちた。
 それをフラスコの中に入れる。無色の液体は私の髪が入ると、紫色に一瞬で染まった。この状態から、私は一気に魔法の火で加熱した。液体が一瞬にして沸騰し、紫色からピンクに、それから燃えるような赤色、それから紅茶のようなピンクに戻って、最終的に味気ない無色透明に戻った。――完成だ。
 私はフラスコを手にとって、その匂いを確かめた。何も感じられなかった。あたりまえだ、私自身の匂いなのだから、自分は決してその匂いを知覚することができない。
 完成を迎えたはずなのに、私の胸はときめかなかった。嬉しさは体のどこからもわいてこなかった。ただ、ただ虚無感が体を満たし、この惚れ薬がどうしようもなくつまらないものに思えた。作りはじめたときには、あれほど私は期待に満ちていたというのに、どうして今はこうもむなしいのだろう。
 惚れ薬は相手の精神状態を直接変えるわけではないから? いや、それは最初からわかっていた。それをわかっていて私は作りはじめたはずだ。それなのに、私はこれを使う理由を自分から見失って、途方に暮れている。私はうっかりフラスコを床に落としかけた。あわててもう片方の手でフラスコの底を支えた。今ここで落としてしまってはすべてが水の泡だと思い、惚れ薬を強固な魔法のビンに移した。そこに「惚れ薬」と書いたラベルを貼りつけた。
 それから、私は実験道具を片づけるために、魔法器具が置いてある棚へと向かった。下から二段目には真実薬が入っている。私はその隣に惚れ薬を置いた。それから使い終わったフラスコをその上の段に入れた。いつから私はこんなにものをきちんと片すようになったのだろう。たぶん、小悪魔がここに来てからだ。

 テーブルに戻ろうと本棚のあいだを歩いていると、本棚の中のいくつかがばらばらに並んでいることに気がついた。あれは最近自分が読んだ本だった。よく見れば、あちこち同じように本の並びが乱れている場所があった。小悪魔が一週間いなかっただけで、ここまで自分で荒らすことができるものなのか。私は自分自身にため息をついた。小悪魔もさすがにたった三日では全部を並べ直すことはできなかったのだろう。少しは自分で直しておこうと思った。
 私は空に浮いて、本を並べ直そうとした。けれど、どれをどこにどのようにして並べればいいのか、さっぱりわからなかった。いつも私が取り出すときは、何も意識していなくても目的の本が取れた。それがどのように並べられていたかなんて、少しも意識したことがなかった。途方に暮れながら、私はとりあえず、自分が考えるように並べてみた。けれど、それは混沌の中に規律を作りだすような行為だった。自分で並べた場所だけ、妙な違和感があった。
 私は小悪魔のことを思った。あの子はいつもこんな仕事をしていたの? 小悪魔はいつも混沌の中に規律を見つけだして、それを一本の筋にした。それが図書館に並べられた本だった。おそらくは彼女が無意識に私の思考を感じていた結果だろう。
 小悪魔、私は――。

 そこまで考えたとき、図書館が音を立てて揺れた。大地が叫び、空気が震えた。中に吊るされたランプの灯が消えて、図書館から光が奪われた。視界が闇に覆われ、混濁が私の耳と頭を揺さぶった。本がいくつもいくつも床に叩きつけられる音がした。そして、本棚から私の身体にも本が雪崩のように降りかかって、私はうつ伏せに地面に叩きつけられた。抵抗しようともがいたが、非力な私を押し潰すような本の重みに、私は悲鳴もあげられなかった。それでも容赦なく本は私の上に落ちてきて、息苦しさと重みに私はうめいた。
 とつぜん、私の頭がハンマーで叩かれたような感覚を覚えて、無抵抗な私は五感から引き離されていった。たぶん、何かの百科が私の頭に落ちてきたのだろう、と薄れゆく意識の中で私は思った。そして、最後に、声にならない言葉を、私は口から紡ぎだした。

 私は、もう、どこにも行けない――。




 #4.5

 時は少しさかのぼる。

 あと数時間で日が昇る。自分の主は、今日は早めに就寝して、私も少し自分の部屋で夜の眠りにつくことができる。メイド長はメイド服から寝間着に着替え、自室のベッドの中に潜り込んだ。レミリアは人間と違って昼と夜が逆転している。咲夜も主にあわせて明け方近くに眠りについていた。
 月の光が窓から差し込んでいたが、カーテンを閉めるのも無粋に思われて、そのままにした。目を閉じ、咲夜は静かな眠りについた。
 一時間くらいがたった。咲夜はふと何かの気配を感じ、目を開けずに意識を取り戻した。自分の部屋のドアが静かに開けられ、閉められる音がした。誰かが自分の部屋に入ってきた、と咲夜は気づいた。レミリアの気配ではなかった。妹さまかしら、と咲夜は目を閉じたまま動かなかった。しかし、部屋に入ってきた何者かはずっとそこから動く気配がなかった。
 妹さまじゃないのかしら。咲夜はそっとまぶたをわずかに上げ、薄目でドアの方に視線を向けた。そこに立っていたのはレミリアでもフランドールでもなかった。漆黒と紅が月影の中で輪郭を浮かび上がらせた。――小悪魔? たしかにそれは小悪魔だったが、いつもの無邪気な小悪魔の雰囲気は消えうせていて、何か強烈で、熱くて冷たい負の気配が彼女を覆っていた。けれど、それは決して悪魔のようなものではなかった。――小悪魔? 咲夜は口に出さず、もう一度心の中でつぶやいた。
 長い時間がたった。窓の外で、何かがひしめく音がした。小悪魔は体を震わせた。そして一歩、足を踏み出した。咲夜は起きるべきかどうか迷った。お嬢様ならともかく、どうして小悪魔が私の部屋に来たのだろう。何か危険なことが起きているのかもしれない。それでも、どうしても体を起こす気にならず、目をつむって寝たふりを続けた。

 ベッドが歪んだ。それから、自分の上に熱が覆いかぶさったように咲夜は感じた。小悪魔が自分の上にまたがっている。そこでようやく咲夜はあわてて目を開き、体を起こした。「ちょっと、小悪魔、あなた何をしようと――?」
 体を起こした咲夜は小悪魔と目が合って、咲夜から言葉が失われていった。小悪魔は今にも壊れそうな微笑を浮かべて、咲夜を見つめていた。その瞳からは真紅が零れ落ちてしまうように見えた。咲夜は声に出して呼びかけた。

「小悪魔?」

 小悪魔は黙ったまま、咲夜の手をとった。そして、咲夜にまたがったまま、咲夜の身体に腕をからめ、その熱ぼったい顔を引き寄せた。眠いせいかはわからないが、咲夜はそれを拒まなかった。むしろ、心の底から小悪魔の体と熱を受け容れるように、咲夜も小悪魔に腕をからめた。
 そのとき、時がかちりと動きだし、咲夜の中に別の誰かの五感が入ってきた。パチュリーの姿、その匂い、図書館の空気、そして――『あなたが恋をしたことがある、そういうことなの?』。理由はわからないが、小悪魔の魔法が、私の時の魔法と反応して、自分の中に小悪魔の記憶の一部が流れ込んだのだと、咲夜は気がついた。そして咲夜はすべてを理解した。どうして小悪魔がここに来たのかを、どうして小悪魔の身体がここまで熱いのかを。
「手のひら」と小悪魔がつぶやいた。そして咲夜の身体から腕を放し、今度は咲夜の手に指をからめた。

「熱は伝わるんですよね?」

 咲夜は黙ってうなずいた。小悪魔の手は燃えるように熱かった。自分と咲夜の手を見つめながら、小悪魔は言った。

「咲夜さんの手はどうしてこんな、氷のように冷たいんですか?」

 咲夜の手は冷たくなどなかった。さっきまで寝ていた咲夜の手も熱を込めていた。けれど、小悪魔の手があまりにも熱くて、小悪魔はそう感じたのだろう。咲夜はそれを理解して、小悪魔の手を握り返した。そして、小悪魔に言った。

「それは、私の手が冷たくなければ、あなたの熱を感じられないから」
「レミリアさまと手をつなぐときも、こんなに冷たいんですか?」
「お嬢さまのときだけは特別よ。この手は焼けるほどに熱くなって、お嬢さまをその熱で溶かそうとする」

 小悪魔の目から涙があふれ、小悪魔の頬をつたって、ベッドにぽつりとひとしずく落ちた。

「パチュリーさまの言うとおりです。手のひらは嘘をつけないんだって、本当だったんですね」

 小悪魔は涙を流しつづけた。ベッドに涙の染みができていく。どこか遠くで地震のうめきが響いた。この部屋も揺れているはずなのに、咲夜はそれを感じられなかった。小悪魔は涙声で言った。

「私にはパチュリーさましかいませんでした。私は本の中に封印されていて、パチュリーさまが私を助けてくれたんです。私を図書館で働かせてくれたのもパチュリーさまでした。私は、パチュリーさまのそばでずっと一緒にいられたら、それでよかったんです。あの方が私に笑いかけてくれなくても、お役に立てればそれで幸せでした。けれど、私は同時にパチュリーさまに恋をしてしまった。パチュリーさまを欲しいと思ってしまった」

 小悪魔は声を詰まらせた。

「ずっと、ずっと私の思いを伝えようと思っていました。でも、もう、パチュリーさまには私の思いは届かない……私の手のひらの中にある真実はもうパチュリーさまには伝わらない……」

 そして、小悪魔は泣き崩れた。小悪魔は両手に顔をうずめて、肩を震わせた。咲夜は小悪魔を抱きしめ、自分の胸の中で小悪魔の手を握った。

「いいのよ。あなたの苦しさは私が受けとめる。泣きたいだけ泣けばいいわ、この永遠の時の中で」

 思いを伝えるはずの手は、氷の中でゆっくりと冷まされていく。焼ける涙はベッドの上で冷たい空気に触れる。時を止められた部屋の中に少し欠けた満月の光が差し込んでいる。咲夜はその月を見て、ふと思った。十六夜の月は別れの日に昇るのだろう。この子は叶わぬ恋をしていた。それをパチュリーさまにも美鈴でもなく、私に告げた。それは、この子と私がどこかで似ているからなのかもしれない。
 咲夜の耳にどこからか歌が聞こえてきた。旋律もリズムも詞もなかったが、その歌を私は知っていると、咲夜は思った。聞こえてくる歌にあわせて咲夜は小さく、小悪魔の耳元で歌った。さあ、涙を歌いましょう。届かない歌にのせる思いは、たった今、私の腕の中で泣きつづける少女の涙の中にしかないから。そして、届かないとわかっていても、私は歌うしかないから。


「落ちついてきた?」

 小悪魔の震えは止まり、ときどき洟を啜る音だけが咲夜の耳に響いていた。小悪魔は咲夜の腕の中でうなずいた。咲夜はそれを確認して、時の流れを再び元に戻した。小悪魔は言った。

「すみません、なんだか、咲夜さんに迷惑かけました」
「いいのよ。美鈴にも言いづらかったんでしょう」

 小悪魔は黙ってうなずいた。咲夜は外の月を見ながら、話した。

「私にも過去の記憶がないの。けれど、枯れた思いでは私に何かを残してくれた。それが何かはわからないけれど、きっととても大切なものだと思うわ」

 咲夜はそう言って、小悪魔の羽をなでた。小悪魔は顔を上げた。

「あなたには、その漆黒の羽がある。きっとあなたの羽は、どんな闇も切り裂いて光を見せてくれるはずだわ。たとえ、あなたの恋が叶わないものだとしても、パチュリーさまの心にあなたは必ず行ける。思いは伝えるものだから」

 小悪魔は咲夜の顔をじっと見つめて、つぶやいた。

「パチュリーさま」

 小悪魔は咲夜の腕の中から離れ、まわりを見まわした。さっきの地震のせいで、あちこちにものが散乱していた。小悪魔は立ち上がり、涙を服の袖の部分で拭いた。それから、きっぱりとした声で言った。

「すみません、咲夜さん、私、図書館に行ってきます」
「パチュリーさまのところに行くのね?」

 小悪魔はうなずいた。「さっきの地震で、本が落ちているかもしれません。様子を見に行かないと」。そして、咲夜に頭を下げ、言った。

「咲夜さん、ありがとうございました……私のわがままにつきあってくれて」

 咲夜は微笑を浮かべたまま、小悪魔に手を振った。




 #5

 どれくらいの時間がたったのだろう。もしかしたら、まったく時間は過ぎていないのかもしれない。堪えがたい息苦しさの中で、私は意識を取り戻した。体のあちこちが痛む感覚はする。それなのに、視界は暗闇に覆われているままだった。それから、身体にひどい重みを感じた。私は図書館の本の中に体全体を埋められていた。
 重みのあまり、呼吸するのも苦しかった。力で抜け出そうとしても、力が入らなかった。力が入ったとしても、私の力では抜けられそうになかった。魔法を唱えようとしても、言葉さえ口にすることができなかった。本当に私は何もできなかった。いつまでこのままこうしていればいいのだろう。私は食事も睡眠も必要ないから、ずっとこのまま、死ぬこともできない。いつか、誰かが迎えに来るまで、ずっと私はこのまま、暗闇の中でずっと苦しみつづけながら待つしかないのだろうか。

 ――時が来るまで待てばいい。

 ふと、私の目から涙がこぼれた。あの子も、こんな暗闇の中にずっといたというの? いつか、誰かが助けに来るまで、ずっとこうして苦しみつづけていたというの? 光なんてなにひとつ感じられない、この閉塞の中で――?

 ――あなたにだって無限の時間があるでしょうから。

 私が小悪魔に対して言った言葉が走馬灯のように思いだされていった。たったこれだけの言葉だったのに、今の私には重く、重くのしかかった。涙が次々に私の目からあふれていった。

 ――それまではこの図書館にいればいいわ。

 小悪魔、小悪魔――! 私は心の中で叫んだ。私が小悪魔に対して、冷淡に放った言葉が、私の胸にブーメランのように戻ってきて、私の胸に突き刺さった。

 ――いつか、時間があなたを迎えに来る。

 私は、なんてひどいことをあなたに言ってしまったの――? 時間が迎えに来るまで、ずっと、ずっとあなたはこの暗闇と絶望の中で苦しみつづけていた。いえ、今もあなたは無限の時の中で苦しみつづけている。それなのに、私はあなたの苦しみには何ひとつ気づかないで、今まであなたと接してきた。あなたのことを理解しようとさえ思わなかった。そして、あなたを深く、深く傷つけてしまった。
 私は叫びたかった。私が今まで犯してきた罪を、叫んでしまいたかった。でも、それすら今の私にはかなわなかった。そのかわり、どんどん涙が目から流れ落ちた。私には罪を懺悔することさえ許されていないように思えた。永遠と一瞬が、ひたすら私を暗闇の中におとしいれた。そのうちに、涙さえ枯れてしまう気がした。

 どこか遠くで声が聞こえた。私の涙が止まった。声は近づいたり、遠ざかったりしたが、決して消えなかった。

「パチュリーさま、パチュリーさま!」

 小悪魔の声だった。どうして、どうして私を呼ぶの?

「パチュリーさま、どこにいるんですか。パチュリーさまぁ!」

 私は返事をしたかった。私がここにいることを知らせたかった。けれど、出るのは呼吸に混じるわずかなうめき声だけだった。だんだん、小悪魔は涙声になっていった。

「パチュリーさま……いなくならないでください……パチュリーさま……!」

 本の山が崩れる音がした。けれど、それは私のいるところではなく、その隣りだった。

「パチュリーさま……パチュリーさま……! いやだ、どうして見つからないんですか?」

 小悪魔は泣きだした。その声だけが私の耳に入ってくる。

「私の、私のせいだ。私がちゃんと本を整理して、保護魔法をかけてなかったから、こんなことになったんだ……いやだ、いやだ、私のせいでパチュリーさまがいなくなってしまうなんていやだ……」

 しゃくりあげる小悪魔の声が、私の胸を突き刺した。

「パチュリーさま……私を、ひとりにしないでください……」

 また、涙が私の目から零れた。私は、今になっても、あの子を傷つけてしまうの? あの子は、今まで私の想像を絶するほどに傷ついてきた。それでも、あの子はこんな私を探しにきてくれた。それなのに、私はまたあの子を傷つけてしまうの? それだけはもう、二度とごめんだ。
 私は、この声だけは、小悪魔に伝えなければならないと思った。ありったけの力を振りしぼって、私も涙声で叫んだ。

「小悪魔、私はここにいるわ……ちゃんと、ここにいる……!」
「パチュリーさま?」

 身体から力が抜けて、それ以上私は叫べなかった。けれど、もう、これで十分だった。小悪魔には私の声は届いた。あとは、小悪魔が私を引き上げてくれてから、ゆっくり話そう。小悪魔が私の埋まっているところに駆け寄ってきた。その足音が聞こえた。

「パチュリーさま、今、助けます」

 小悪魔が本をひとつひとつかきわけていく。私にのしかかる重みが少しずつ失せていった。そして、私の視界に一筋の光が入ってきた。小悪魔はランプを片手に持って、空いたほうの手で本をかきわけた。

「パチュリーさま」

 小悪魔が私の上にある本をすべて取り除いた。私はうつ伏せの状態で倒れていた。私にいつもの呼吸が戻ってきた。全身が痛んで力が入らなかったが、五感はすべて私のもとに戻ってきた。小悪魔が私の身体を仰向けにした。ランプの明かりに照らされて、うっすらと図書館の天井が見えた。それから、レミィがあけた穴が扉でふさがれているのが、ぼんやりと遠くに見えた。私は本の中から出ても、ずっと本の中にいる。助かったというのに、私は深い絶望を覚えた。小悪魔が本の封印から解かれたときも、同じような景色を見たのだろうか――今のように、乱雑に本が散らばっている図書館の光景を。
 小悪魔が私の顔を覗き込んで言った。「ああ、無事でよかった。今、美鈴さんと咲夜さんを呼んできます。すぐに手当てしないと」。私は図書館の天井を見つめながら言った。「いえ、とくに大きなけがはないみたいだし、こうして寝ていれば、回復するわ」。小悪魔の表情が少しだけ驚きに変わり、それからすぐに不安へと戻った。「でも……」

「それよりも小悪魔、聞いてほしいことがあるの」

 小悪魔はしばらく私を見つめ、それから本の上で仰向けになっている私のそばに、腰をおろした。図書館の深い闇の中で、小悪魔の持つランプの明かりに私たちは包まれていた。私は目をつむった。小悪魔と出会った過去、その苦しみ、私の罪、そのすべてを思い返した。私は目をつむったまま、話した。

「私、あなたのことを思ったの」

 私は目を開けて、小悪魔を見た。小悪魔は泣きはらした目で、私を見つめていた。

「あなたがずっとひとりで暗闇の中にいたことを思った。ずっと、時が迎えに来るまでの苦しさを思った。あなたが私に対して抱いていた気持ちを思った。そして、どうして封印を解かれてもあなたがここを離れなかったかを思った」

 少し呼吸が苦しくなったが、私はひと息ついて、続けた。

「小悪魔、私はあなたに謝らなければならないわ。私は、あなたの心に気づけなかった。あなたに対して何もしてやれなかった。それどころか、あなたが一週間休んでいるときでさえ、あなたの存在の重さをわかっていなかった。私は、あなたのことなんて少しも考えていなかったし、理解しようとも思っていなかった。あなたの主人じゃないからという理由で、あなたの心に触れようともしなかったのよ。
 あなたは私のために、いろいろしてくれた。私はうわべだけの感謝を述べて、決してあなたの心に手を伸ばそうとしなかったわ。私はあなたを救ったなんて思っていない。むしろ、あなたを傷つけてしまった。それでも、あなたは私を探してくれた。でも――」

 私はまたひと息ついた。そして、最も小悪魔に訊きたいことを、尋ねた。

「それで、あなたは幸せだったの? いえ、あなたは今、幸せなの?」 

 小悪魔はしばらく黙って私を見つめていた。そして、ランプを床に置き、私の左手をとって、それを彼女は両手で優しく包み込んだ。その顔からは不安が消えうせた。そして、小悪魔は微笑んだ。

「私は、パチュリーさまと一緒にいられて幸せです。今までも、そして、今も、これからも」

 小悪魔の笑顔は、このまえとは違った。とても強くて、美しい微笑みだった。小悪魔の手はひんやりと冷たくて、少し心地よかった。

「パチュリーさまは封印から解放された私を受け容れてくれました。私に光を見せてくれました。私は、それだけでパチュリーさまとともにいようと思いました」

「けれど」と私は言った。「けれど、それは私があなたに興味がなかったから、いてもかまわないと言っただけなのよ」

「それでも、私はあなたの隣にいられればそれだけでよかったんです。それに――」

 そう言って、小悪魔は私の手を少し強く握った。

「パチュリーさまは、今、届いてくれたじゃないですか……私の心に」

 私は、何も言えなかった。

「謝らなければならないのは、むしろ私の方です。私の不手際で、パチュリーさまが危険にさらされたこと、本当に申し訳ありません。もう、パチュリーさまにはこれ以上迷惑をかけられません」

 小悪魔はそれから、自分の両手で握っている私の手を見て、言った。

「パチュリーさまの手は、やっぱり、あったかくて柔らかいです。触っていて、とても気持ちがいい手のひらです」

 小悪魔は目をつむった。

「手のひらの熱は相手からも伝わってきます。そして、相手にも必ず伝わります。魔理沙さんにも、この熱はきっと伝わるはずです。伝えてください、パチュリーさまの思いを。パチュリーさまには翼があるんですから」

 小悪魔は、それから、また笑った。

「私はパチュリーさまのおかげで、こうして紅魔館の図書館で働けて、みなさんと出会えました。パチュリーさまは私にかけがえのない幸福をくださいました。感謝しても、感謝しきれないほどに。パチュリーさま、私はあなたのそばにいられて、本当に幸せです」

 いいえ、小悪魔。感謝しなければならないのは、私の方なのよ。あなたが私を変えてくれたから、私はあなたの心に届くことができたのよ。私の閉じていた世界に一筋の光が差し込んできたのも、魔理沙に私が恋することができたのも、そしてあなたが今、私を助けてくれたのも、すべてあなたがここに来たからなのよ。
 私はその気持ちを口にすることができなかった。もう何も言える力が残っていないことに気がついた。また意識が少しずつ遠のいて、視界がぼやけはじめた。けれど、今度は暗闇の中で絶望を味わうわけではなかった。私は小悪魔の手を握り返して、静かに目を閉じた。
 私の今の気持ちは、きっと小悪魔に届いているだろう。言葉にできなくても、小悪魔はきっとわかってくれる。思いは、手のひらから伝わるものなのだから。


 それから二日たって、私は本の中に戻っていた。全身に包帯を巻かれ、あちこちに湿布を貼られていたが、本を読むのにはとくに不便もなかった。崩れた本の整理を小悪魔が少しずつ進めてくれたおかげで、図書館は以前の姿を――小悪魔が来てからの姿を――取り戻しつつあった。
 午前は小悪魔がいなかった。なんでも用事があるらしく、半日ほど時間をいただきたい、という話だった。私はあの子の主ではなかったから、かまわないわ、と返した。それはふだんとたいして変わりのないやり取りだった。表面だけ見れば、あのときの地震は私たちに何の変化ももたらさなかったように見えた。
 けれど、変わった。私の心は小悪魔の告白以来、ずっと空に漂っているように、どこかに落ちつくことがなかった。本を開いても、まったくそこに集中することができなくなった。魔理沙のときのような感じではない。胸が苦しくなるというよりは、目的地を見失った旅人のようにさまよっている感じだった。でも、そこに虚無感はなく、不安も悲しみもなかった。目的地を見失った旅人はまた地図を開き、自分の目的地を確認して、再び希望に胸を膨らませるものだ。私はその地図を開く前段階にいた。
 私にとっての地図は何だろう。私にとっての真実は何だろう。それを確かめる手段が、私にはあったはずだ――。私は本を閉じ、椅子から立ち上がった。

 整理されつつある本棚のあいだを抜け、魔法薬の棚の前に私は立った。下から三段目にあったはずのフラスコは、ガラスの破片になり果てていた。だが、その下の段にある二つの魔法の瓶は、壊れていなかった。その瓶には私が強化魔法をかけてあった。ひとつの瓶には淡いブルー、もうひとつには無色透明の液体が入っていた。真実薬と惚れ薬だ。貼りつけてあるラベルにも濃く、小さく、汚い文字で書いてある。あのときの私は何を考えてこのラベルを貼りつけたのだろう。私は苦笑して、二つの瓶を両手に取った。これがつまらないもの? いや、きっとそうではない。ただ、すごく遠まわりをしてしまった証になったしまっただけのこと。理由というものはいつでもあとからついてくるものだよ。
 私は自分のテーブルに戻って、椅子に座った。そして惚れ薬のふたを開けた。無色透明の液体からは、何の匂いも感じられなかった。けれど、ほかのひとにとっては、この液体は私の匂いがして、そして私の匂いを知覚すると、全身に効果がまわる効果をもたらす。まるで惚れた「ような」感覚。ずいぶん楽しい魔法薬。
 私は少しそれを見つめてから、瓶のふちに口をつけ、一気にそれを飲み乾した。液体が喉から腹に落ち、全身にまわっていく感覚がした。けれど、いつまでたってもそれは私には何の変化も及ぼさなかった。激しい動悸も、微熱も、発汗作用も起きなかった。当然、そうなる――理論的には――私の匂いを私が知覚することはできないのだから。あるいは、この惚れ薬は失敗したのかもしれない。調合があまりに早く終わりすぎていた。どこかで何かの手順を飛ばしていたかもしれない。けれど、惚れ薬を飲み乾してしまった今、それを確認する手段はもう、ないのだ。
 むなしさはこみあげてこない。これでいい。私はこんなものに頼らなくても、きっとよかったのだ。

 空になった瓶を置き、今度は淡いブルーの液体が入っている瓶のふたを開けた。つんとした匂いが私の鼻をついて、その匂いに思わず涙が出そうになった。私はそれをためらわずに、一気に飲み乾した。刺激的な味が私の口内と喉を突き刺すようにして流れ落ちていった。しばらく待ったが、何も起こらなかった。これは試作だから? あるいは失敗作だから?
 私は、自分に問いかけた。

「私は、パチュリー・ノーレッジ。そして、私は魔女。それで間違いないのよね?」

 手のひらから汗は出なかった。これだけでは、また成功しているのか、していないのか、判別できない。けれど、私はそのまま続けた。

「私は、ある人に私の気持ちを伝えたい」

 汗は出ない。

「この手のひらの熱を、伝えたい人がいるの」

 汗は出ない。

「私の思いを伝えたい人は、霧雨魔理沙なのよ。人間の魔法使いで、私の本を勝手に持っていく、それが私の思いを伝えたい人なの」

 ずっと、汗は手のひらから流れなかった。

「私の思いは、魔理沙に伝えたい思いは、恋なのよね? 私は霧雨魔理沙に恋をしたのよね?」

 そう言って、私は目を閉じた。手のひらから汗は流れなかった。

 ほら、真実はいつでも、私の手のひらの中にあった。魔理沙に伝えたい思いは、ここにあった。この真実薬が失敗作かなんて、もうどうでもいいことだった。
「恋は魔法」、か。小悪魔、あなたの言うとおりよ。心の魔法は、きっと心でしか解決することができない。いくら身体を求めても、あるいは魔法で何とかしようとしても、それですべてうまくいくわけがない。だって、私は魔理沙の心に惹かれたから。私が欲しいと思ったのは、魔理沙の心なのよ。そして、本当に私が願ったことは、魔理沙に私の心を伝えることだったのよ。それは真実薬でも、惚れ薬でも届かない世界。
 心を動かすのは心。そうでしょう?




 #6

 それは昼の時間のはずだった。けれど、フランは私の図書館の扉を開けて入ってきた。レミィが、フランに手を引かれて、転びそうになりながらそのあとについてきた。そして、その後ろから咲夜が、二人の様子をほほえましげに眺めていた。

「パチュリー、久しぶり!」

 フランはそう言って、椅子に座ったままの私に飛びついて、私の身体に腕をまわした。私の身体が痛み、思わず顔をしかめたが、それはフランの力のせいではなく、私の負傷がいまだ治っていなかったからだ。レミィが私たちを眺めて、「フラン、パチェは怪我をしているのよ。あんまり無茶させちゃだめじゃない」と言った。
 私とレミィの視線が合った。レミィは私から目をそらした。けれど、すぐに横目で私をちらちらと見た。私は思わず吹き出しそうになったが、それをこらえた。レミィもきっと私と同じで、この前のことがあって気まずかったに違いない。けれど、私もレミィも親友だから、お互いの気持ちをわかっているのだ。フランと咲夜は私たちの様子を見て、少し首をかしげた。「どうしたの? お姉さま?」と私に抱きついたまま、フランが訊いた。レミィは黙ってテーブルの椅子についた。いつのまにか、椅子が三つに増えていた。おそらく、咲夜だろう。レミィは咲夜に向かって言った。

「咲夜、紅茶を」「用意できています、お嬢さま」「さすが咲夜、今日も瀟洒ね」

 私たちは四人でテーブルを囲んだ。紅茶はダージリンのストレートだった。ただ、レミィとフランのカップには人間の血が入っていた。そして、テーブルの中央には例の白い壺も置いてあった。レミリアはそこから角砂糖を5個取り出し、紅茶の中に入れて、ティースプーンでかき混ぜた。フランは壺に手を伸ばさず、レミィの「準備」が終わるまで待った。角砂糖がカップの底で山を作りはじめたところで、レミィは言った。「さあ、いただくとしましょう。私たち“吸血鬼”には記念すべき、アフタヌーンティーを」

 私たちはダージリンを啜った。少し甘くて、少し苦い。一口啜ったレミィは静かに紅茶のカップを置き、私を見つめた。

「ねえ、パチェ。この前あなたにひどいこと言ったわよね?」

 私もカップを置いて、静かに言った。「ええ、ずいぶんいろいろ言われた。けれど――」。フランが私を不思議そうな顔で見つめている。私はそれにかまわず、続けた。

「私もあなたを傷つけた。今では、あなたの言いたかったこと、少しはわかる気がする」

 レミィは笑って言った。

「お互いさまね」
「ええ、ほんとうに」と私は返した。
「すまなかったね、パチェ」
「私も申し訳なく思うわ、レミィ。ごめんなさい」

 そして私たちはお互いを見つめて、笑った。プライドが高い吸血鬼が謝ることと、本に埋もれていた魔女が謝ることと、そのどちらもが不自然で、なぜか愉快だった。私たちはしばらくのあいだ笑いつづけた。フランと咲夜が顔を見合わせて、それから、私たちにつられて二人も笑いだした。こんなに楽しいティータイムは、とても久しぶりで、とても新鮮だった。
 笑いがおさまってから、レミィが言った。

「あのあと、あなたに言ったことを自分でも考えてみたのよ。そしたら、すぐに気づいたの」

 ひと息ついて、レミィは言いきった。

「私も、ひとのことを言えた義理じゃない」

 そして、レミィはテーブルに肘をついて、フランと咲夜が楽しそうに話しているのを、眩しそうに眺めた。

「私はつい最近までずっとフランを閉じこめていたもの。ちょっと力が強くて、気が触れているからという理由だけで、私は恐れていた。 閉じ込めればなんとかなるかもしれないと思っていたわ。そのうちに、何かが変わるんじゃないかって、期待していた。ね、私だって、ひとのこと、言えないでしょう?
 でも結局、何も変わらなかった。495年ものあいだ、あの子はずっとずっと、『誰か』が扉を開くのを待っていたのよ。そのうちに霊夢と魔理沙が来たわ。あの二人はフランが初めて壊さなかった人間だった。でも、それでフランが救われたわけじゃなかった。
 その扉を開ける『誰か』は私だったのよ。私があの子の心を感じたときに、初めてあの子を解放しようと思った」

 私はそこで初めて口をはさんだ。

「手のひらで?」「ええ、手のひらで」

 レミィはふふっと笑いを漏らして、「まるで魔法ね」と言って、続けた。

「あの子の純粋な意志は、閉じ込めるべきものじゃない。ただ、その表現が少しうまくできなかっただけの話。それなのに、私はあの子の意志ごと封じたのよ。……馬鹿だったわね、私」

 少しうつむくレミィに、私は言った。

「レミィ、あなたは馬鹿じゃないわ。今ではフランもこうして自由になれて、ずっと笑っていられる。それは、あなたがフランの思いを感じただけじゃない。あなたの思いがフランにも届いたからなのよ」

 レミィは私の目を見つめて、少し驚いた表情を浮かべた。そして、「あなたも、変わったね」と言った。

「惚れ薬の運命は見せてもらったわ。あなたがそれを飲み乾すところまで。あなたの運命は見ないようにしていたから、あなたがどんな表情で惚れ薬を飲んだかは知らなかったけれど……正直、あなたが絶望の中で、それを飲むものかと思っていた」

 そう言って、レミィは微笑んだ。

「でも、今のパチェの目は……そうね、まっすぐよ。あの子と同じように」


 フランがまわりを見まわしながら、私に訊いた。「ねえ、パチュリー、小悪魔ちゃんはいないの?」。私もその答えは知らなかった。「今日はまだ見かけていないけれど、どうしたのかしら」。フランが少し残念そうに言った。

「なあんだ、いたら一緒に遊ぼうと思ってたのに」
「フラン、ここで遊ぶのはやめておきなさい。図書館を荒らすとパチェがうるさいからね」

 レミィはため息をつきながらそう言った。私はふと咲夜を見た。なぜか、咲夜はレミィとフランの日傘を手に持っていた。咲夜は私の視線に気づくと、私に笑いかけて、それから上を見上げて何かに目配せをした。そして、レミィとフランを呼んだ。

「お嬢さま、妹さま、この傘をお持ちください」
「どうしたの、咲夜、急に?」

 レミィは首をかしげながら、傘を受け取った。フランは傘を受けとると、誰に言われるでもなく、勝手に傘をさして喜んでいた。私にもレミィと同じように、咲夜の行為がとても奇怪に見えた。図書館の中には雨も日も入ってこないのに、どうしてそんなものを渡したのだろう。私は小悪魔の不在と咲夜の目配せと日傘の関連性について考えた。

 テーブルに一筋の光が差した。ほこりっぽい私の図書館で、その光ははっきりと線になって浮かび上がっていた。私はその光の筋をぼんやりと眺めた。ほこりが空気を漂いながら、光に照らされてきらめいた。レミィもその光を見つめていた。そして、レミィはその光に手で一瞬だけ触れ、それから、あわてて日傘をさした。

「パチェ、パチェ!」

 私はレミィを見た。レミィが光に触れた場所から、少し煙が立ちのぼっていた。

「ねえ、パチェ。これ、日光よ。どうしてこの図書館の中に日光が入り込んでいるわけ? この図書館に窓はあった?」
「いいえ、窓なんかないわ……どうして?」
「どうしてもこうしてもないわ、おかしいじゃないの」

 レミィに言われてはじめて気がついた。そうだ、この図書館に日光が差し込むわけがない。この図書館を照らす明かりはランプの光だけだ。どうして? 私がとまどっているあいだに、光の線がどんどん太くなり、それは光の帯になった。いや、それどころか、テーブルを照らしていた日光はどんどん大きくなり、テーブルの外をも照らしはじめた。レミィは日光の差す場所とささない場所の境界線に沿って、後ろに少しずつ下がっていった。光はより強く、より明るくなっていった。フランも、レミィと一緒に、むしろこっちは楽しんでいるように、跳ねながら後ろに下がった。
 陽だまりの中に私と咲夜だけが残った。私は咲夜を見た。咲夜は私に微笑んで、それから光の射す方に視線を向けた。私もそれにつられて、そちらを見た。そこに美鈴と――小悪魔がいた。二人は長い棒を持って、レミィが図書館の天井にあけた穴を開いているところだった。そこから、太陽の光が差し込んでいたのだ。美鈴が咲夜に手を振りながら大声で呼びかけた。

「咲夜さん、こんな感じでいいですかー?」

 咲夜は笑いながらうなずいた。そして、穴がすべて開いて、どこまでも遠く青い空と、そこに浮かぶ太陽が私から見えた。とても眩しくて、とてもきれいな景色だった。レミィとフランは日の当たらないところから、太陽が見えない空を見つめていた。レミィが苦笑して言った。

「ああ、こんなものがあったね。自分で作っておいて忘れるとは、私もうっかりしていたわ。……でも、こんな使い方をするなんて思ってもみなかった」

 陽だまりの中にほこりの雪が降ってきた。私はそっとその綿ぼこりのひとつを、手のひらで受けとめた。私は何も言えなかった。ほこりの雪は降りつづけた。フランが我慢できなくなったように、日傘を差したまま陽だまりの中に入って、はしゃぎまわった。

「お姉さま、咲夜、パチュリー! 光の粒が踊ってるよ、遊んでるよ! すごくきれい!」

 私はフランを見て、急に胸がつまったように苦しくなった。目に何かがこみあげて、私はそれを見せないように空を見上げた。そこに小悪魔がいた。小悪魔は、ただ黙って微笑み、私に手を振った。ゆらゆらと、その手が揺れるのを見ていた。そのときになって、私は初めて気づいた。そうか、これは小悪魔の――。
 だんだん、小悪魔の手の揺れ方が不自然になってきて、そして太陽も青空も、世界がすべて歪んで見えた。涙がとめどなく私の目からあふれ出て、止まらなかった。なぜだろう、なぜだろう。何も悲しいことはないのに、なぜか私の目から涙が流れていく。私は両手で顔を覆って、嗚咽を漏らしながら泣いた。胸がいっぱいで、何も言えなかった。レミィが泣きつづける私の隣に立って、言った。

「パチェ、泣いているのを隠さなくていい。だから、顔を上げて、小悪魔を見て。この図書館に日の光を入れようと思ったのは、きっとあの子よ。あの子の夢を、あの子の思いを受け取れるのは、あなたしかいないわ」

 これが、小悪魔の夢? 私に伝えたかった思いなの? 涙を流しながら、私は顔を上げて、小悪魔をもう一度見つめた。彼女は、ただ黙って私に手を振りつづけるだけだった。小悪魔、あなたは――、あなたは――。
 また私の目から涙があふれだした。私の心がいっぱいになって、涙以外の言葉が出てこなかった。

「これは天への扉。今度は私が月に行くためじゃない。あの子があなたのためだけに開いた、天への扉なのよ」

 レミィはそう言って、笑った。私は涙を袖で拭った。それから、小悪魔に微笑んだ。小悪魔は少し驚いた表情を見せて、それから私に微笑み返した。

 小悪魔、あなたの思いは、たしかに受け取ったわ。

 私は魔理沙の心に届きたくて、飛び立とうとしている。魔理沙の手のひらの熱を感じたくて、熱を伝えたい。たとえ、私の心が魔理沙に届かなくても、私はここから飛び立つ。その意志は私の翼となって、天の扉から私は飛び立つことができる。私にあなたは扉を開いてくれた。小悪魔、あなたの心は、たしかに私に届いたわ。

 ――ねえ、あなたはそれで幸せなのよね?

 小悪魔が私に向かって、声を出さず口だけを動かして、何かを言った。それは「魔理沙さん」と言っているように見えた。





 
 人と手をつなぐこと、それはとても小さいことだけれど、とても強い力なのだと思います。



 ここまで読んでくださったあなたにすべての感謝。

 これから、秘封倶楽部の連作長篇を書く予定です。
 構想にかなり長い時間がかかりそうですが、精一杯やっていきます。
 それまでは少し長いお別れと奇跡の再会を期待して、この話のあとがきを終えようと思います。

 ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
蛮天丸
[email protected]
http://siroito.web.fc2.com/
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コメント



0.1340簡易評価
8.100名前が無い程度の能力削除
言葉だけじゃ伝わらない気持ちってありますよね。温もりとか、熱を媒介して伝わる気持ちって多いのかも。愛しさもきっとそうですね。
9.70名前が無い程度の能力削除
これはつまり、結局のところ小悪魔はフラれたという解釈で良いのだろうか?
12.100名前が無い程度の能力削除
凄く素敵な内容でした。
感動しました。
23.無評価蛮天丸削除
> 8さま
手のひらを握るだけで、なぜか言葉ではない温かい世界が感じられます。
昔から人間はそうやって生きてきたのかもしれません。

> 9さま
はい、はっきり言うとそうなります。前篇で、もうそんな感じのことを書いてはいますが……。

> 12さま
長すぎて冗長になったかな、と少しばかり不安でしたが、感動していただけて、こちらも本当に幸せです。
27.100名前が無い程度の能力削除
話の内容がとても綺麗なものだったので、読み終わった後にちょっと幸せな気分になりました。
こういう作品大好きです。
28.無評価蛮天丸削除
> 27さま
そのようなお言葉をいただけて、こちらも幸せです。

最後のシーンは完全にフランドールに助けられました。
私が自分でフランの台詞にぐっときちゃったりしましたし……。
33.100名前が無い程度の能力削除
これは面白い。なんとなくタイトルに引かれ読んでみたが、良い物が読めた。
安易な展開にせず、キャラクター同士を繋げたのも見事。
まさに埋もれた名作。もっと評価されるべきなのに。
34.無評価蛮天丸削除
> 33さま
ありがとうございます。
ちょっと展開では悩んでしまいましたが、今読み返してみても不思議なパワーがあるように、私も思えます。
もっと評価されることよりも、そうやっていいものだと感じていただけたことが
私にとってはこの上ない喜びです。