早苗が山を降りて道具屋を訪れたのは夕刻に差し掛かってからだった。
秋口の終わりに比べればだいぶ落ち葉の少なくなった境内を掃き清め、天狗の酒宴に招かれた八坂神奈子を見送ってから自分の出かけ支度をした。
神社のような大きな屋敷では、こまごまとした保守の仕事だけで一日などあっという間に過ぎ去ってしまう。
今日出かけようと早苗が決めたのは一区切りがついた時にまだ日が暮れていなかった事と、神奈子が出かけるので夕餉の支度が少し遅くなっても大丈夫だと思ったからだった。
落葉焚きの火をしっかりと消してから、部屋に戻って軽く埃を落とし、髪をすいて出かけ支度とする。
外の世界から持ち込んできたダッフルを着て行こうかと思ったが、やめた。
守矢神社は信仰を集めている最中なのだから、出歩くときはなるべく巫女服がいい。さすがに祓え串まで持ち歩くほどではないが。
持ち物は鍵と財布だけにした。
外の世界の少なからぬ女子高生は、校則で禁止されているアルバイトで貯めた金で分不相応なブランド品を買いたがる。
早苗の財布もその口で、有名ブランドのロゴが付いた結構な値が張るものだった。
中身より高価な財布など、黄金で金庫を作るようなものだが、買ったときは満足していた。
幻想郷でブランド品を見せびらかしても何の意味も価値もないので、近いうちにがまぐちに変えようと思っている。
財布を袖に仕舞い、玄関に鍵を掛ける。
出かけるときには鍵を掛けるというのも早苗にしてみれば体に染み付いた習慣だが、幻想郷では誰も鍵をかけない。
それどころか里の普通の家は鍵そのものが付いていない。玄関どころか個人の部屋にすら鍵をつけたがる現代人の感覚からすると信じられない事だったが、幻想郷の住人は扉が開いてほしくない時にはつっかえ棒で十分だと思っているようだった。
鳥居をくぐる。
お出かけかい、と頭上から声がかけられた。早苗は鳥居に腰掛けている小柄な人影を見上げた。
はい、少し麓まで買い物に行ってきます。諏訪子さま。
早苗は鳥居を抜けると、石段から身を投げた。
たっぷり数メートル落ちながらスピードを溜め、ぐいと身を起こしてそのまま飛んでいく。
飛んでいけば日暮れ前には麓の道具屋に辿りつけるだろう。
幻想郷では人が空をとぶ。
幻想郷ではブランド財布が無価値で、幻想郷では鍵をかけない。
幻想郷では常識に縛られてはいけないんだなと、早苗は納得している。
***
守矢の神社が幻想郷にやってきてから数ヶ月が過ぎた。
その数ヶ月の間に覚悟していたことはほぼ全て終わった、と早苗は思っていた。
山の妖怪や麓の巫女と一騒動を起こし、負けたけれど受け入れられた。
負ければ追い出されると思っていた早苗にとっては、それも幻想郷の驚きのひとつだった。
生活もこれまでとは大きく変わった。
覚悟はしていたとはいえ、電気もガスもない生活はどうにも慣れなかった。
油の火は豆電球のほうがマシな明るさだったし、冷蔵庫も動かないからもうアイスも食べられない。
とはいえ幻想郷の不便さは神奈子に念を押されていたし、それを承知で付いてきた早苗も文句を言うことはなかった。
むしろ古風な生活に馴染もうとすることで、新たな発見が多くあった。
例えば漬け物。塩みを強くきかせた漬け物は、冷蔵庫のないこちら側では保存のための工夫でもあると気付かされた。
日本食は理想的な栄養バランスに近いが塩分だけが多い、そう評されるのにも理由があった。
この生活をするなら、食生活もやはり日本食がいいのだ。だから早苗は献立を和食一本にした。
味噌汁と白菜の漬け物、日によって煮物をつける。どれも量は少なめで代わりに味が濃く、多めに炊いた白米に箸がよく進む。
最初の二週間ほど、無性にジャンクフードが恋しくなる瞬間があった。だが幻想郷にハンバーガーショップは出店していない。耐えるしかなかったし、耐えているうちにハンバーガーを食べたいとも思わなくなっていた。テレビのない生活で、ドラマの続きも気にならなくなった。
そして少しは幻想郷に馴染んだかな、と早苗が自惚れたころに冬が来た。
冬が来ることに覚悟が必要だとは、想像さえしていなかった。
ある朝、神奈子が起きてくるのが十五分ほど遅かった。
食卓についた神奈子は背中を丸め、落ち着かなく身体をゆすっている。
「お早うございます、神奈子さま」
ものも言わず早苗が差し出した湯飲みをすすり、神奈子は呟く。
「……寒い」
ひどく冷える朝だった。
昨日までは秋だったのに、今日は急に冬が来てそのまま居座ることにした、という感じだった。
早苗も布団から出るのがひどく辛い作業だったけれど、そこは幻想郷に持ち込んだ文明の利器が役に立った。
ともかく足回りが寒いので靴下を履く。そして畳を踏んでみて、冬の畳の凶器じみた冷たさを理解し、スリッパも使うことにした。
巫女服にスリッパで畳を歩く、というアンバランスさに自分であきれながらなんとか火を起こし、神奈子が起き出すまでに朝餉の支度をした次第である。
「今朝はうんと冷えますね」
「……うん」
早苗と違い神奈子は裸足で、そのため畳は完全に凶器状態になっている。
なんとか接地面積を減らそうと身じろぎを繰り返す姿はどうにも野暮ったい。
「おはよー」
早苗が味噌汁の盛りつけを始めた頃を見計らって、諏訪子も起き出してきた。
幼い女の子がぬいぐるみを抱き抱えるようなポーズで、猫手をつくってまぶたをこする姿は十歳にも満たない娘にさえ見える。
実体は早苗の百倍はゆうに生きている老獪な神である。
ちなみに片手で抱えているのはテディベアではなく、湯たんぽである。
「諏訪子」
神奈子は諏訪子が湯たんぽを抱えているのを見ると、不意に真面目な声を出した。
「それを寄越すのともう一度諏訪大戦やるのとどっちがいい?」
声音からして半分くらい本気なんじゃないかと早苗は思った。
しかし諏訪子は気にした風もなく卓に付く。
「お湯が所望なら鍋に水でも張ればいい。ついでに豆腐もつけてやるから熱くなったら潜り込めば夕餉にも困らない」
「私はドジョウか」
「ドジョウの方がましかもしれないよ。背を丸めて身を揺する姿なんてまるで老犬じゃないか」
また始まった、と早苗はごはんを盛りつけながら嘆息する。
「お二人とも、ケンカもほどほどにしないと埋めますよ」
「じゃれてるだけだよ。べつに早苗は気にす……埋めッ!?」
「ほら、蛇もカエルも冬眠しますし」
さらっと言ってのける。
神奈子と諏訪子は思わず顔を見合わせた。
「いや、冬眠と生き埋めは違うと思うなあ」
「手間がはぶけると思いますけど」
冬眠モードではない蛇を埋め、ついでにシャベルでぺたぺた固めようものなら春になろうと出てこない。蛇や蛙だって蛇なりの都合があるのだ。埋められてはいおやすみと冬眠には入れない。
早苗はマイペースに考え事をするように宙を見つめ、
「ええと、なんでしたっけ、あれ」
「あれ?」
「……前方後円墳?」
「埋葬っ! それ埋葬!」
口々につっこみを入れる二柱を、早苗は食卓に椀を置いて黙らせた。
最近神々との付き合い方がわかってきた現人神である。
***
早苗が麓の道具屋を訪れてみようと思ったのも、そんな朝の出来事があっての事だった。
電気もガスもない生活。そこから想像される不便は明かりや調理で、なんとかそれには馴れることができた。
だが「暖房」については失念していた。
エアコン、ガスファンヒーター、床暖房。そうしたもので現代人が追放した「冬の寒さ」が幻想郷には残っているのである。
立ち向かうのが布団、いろりの火、白湯では心許ない。
「外の世界の品物で何か足りなくなったら、香霖堂に行ってみたら。運がよければ流れ着いてるかもしれないわよ」
以前、酒の席で麓の巫女に聞いた道順を頼りに店を探す。
すぐにではないが見つかった。
森や平野の中にぽつんとある人工物は空からだとよく目立つし、他に間違えるような建物もない。
近づいてみると店の名前を看板に大書している。ここに間違いないと判断し、早苗は引き戸を潜った。
足を踏み入れた瞬間、懐かしさにきゅうと胸が締め付けられた。
初めて来た店だったが、そこに並んでいる品物はどれも早苗にとって馴染みの深い、そして永遠に決別したはずのものばかりだった。
奥まった所にあるカウンターの向こうで腰を下ろしていた店主は、立ちつくす早苗を認めると読んでいた本をぱたんと閉じた。
店主、森近霖之助は眼鏡の奥の瞳をすっと細め、
「寒いから戸を閉めてくれ」
いらっしゃいませより先にそう言った。
霖之助が茶を入れている背中を横目に、早苗はきょろきょろと周囲を見回した。
店内を一目見て、この店主が自らの品物にそこまで精通しているわけではなさそうだと判断する。
品物の並べ方がどうにもちぐはぐだった。鉛筆立ての横に食器の水切り棚を置いてみたり、テレビとパソコンのモニターの区別もついていない。それどころか窓枠も同じ並びにある。最低でも台所用品と文房具は分けて置いた方がいいと思う。そうかと思えばゲーム機はちゃんと一角にまとめられていたりする。
ゲーム機。嗚呼、やはりこちら側に来ていた。早苗は熱くなる目頭を押さえた。
湯川専務、あれは早すぎただけですよ。
「珍しいのかい」
不意に目の前に湯飲みを差し出されて、早苗は我に返った。
湯飲みを受け取り、逆です、と言うのはやめておいた。
茶をすすって人心地がついてから本題に入る。
自己紹介をしようとしたら「山の巫女については聞いているよ」と言われたので省略し、早苗は霊夢の紹介で来たこと、冬に備えて何か暖房を買いに来た事を伝えた。
「暖房ねえ」
せっかくの客だというのにあまり嬉しそうでない辺り、この店主は道楽で店をやっているんだろうか。
「暖房を買うよりも、まずはその服装をどうにかした方がいいんじゃないか」
「む」
早苗は自分を見下ろした。
寒そうに見えるだろうか。やはりダッフルを着てくるべきだったかもしれない。
とはいえ守矢神社の巫女だと一目で分かる服装でいたくもあるし。
「巫女だからっていつもその服じゃないといけない決まりもないんだろう?」
「それは、そうですけど」
「ちなみに霊夢のも僕の趣味だから、巫女の正装ってわけじゃない」
「……はい?」
「まあ外の世界の度し難い扮装については僕の関知するところじゃないか」
勝手に一人で納得し、霖之助は店の一角に視線をやった。
「暖房器なら確かあの辺りにまとめてあったはずだけど、ほとんど動かない」
霖之助と同じ場所を見ると、確かにそこに暖房はまとめて置かれていた。
だがエアコンも、ファンヒーターも、石油ストーブもごた混ぜにされている。まるで暖房という「用途」は同じだろう、とでも言いたげな整頓のされ方だった。
「そりゃ、ガス管もないのにガスファンヒーターは動かないと思いますよ。じゃあ、この石油ストーブを」
「ああ、その種類はあまりおすすめじゃないな」
「どうしてですか? 電気もガスもないので、石油か灯油のストーブがいいんですけど」
「そいつを動かすには燃料が必要なんだが、これが幻想郷ではなかなか手に入らないんだ」
「……これ、燃料入ってないんですか?」
「抜いてこいつに入れてしまってね」
そう言って霖之助は傍らで動いているストーブに視線をやった。
「なにぶん、僕が冬を越すのが優先だからね」
「あ、これ一酸化炭素の出るやつだ」
「イッサン……?」
「ある日急に頭が痛くなったら、窓を開けて換気をオススメします」
「……よく分からないが覚えておこう」
現在進行形で有毒ガスをもくもく出してるわけでもなし、店主も聞くところによると半妖らしいので大丈夫だろう。
「しかし困りました。幻想郷ではストーブさえ手に入らないとは」
「ふむ。僕としてもせっかくの客を手ぶらで帰すというのは勿体ない」
ひとつ探してみよう、と言って霖之助は立ち上がり、戸棚を開いた。
その戸棚も中華風の彫り物のされ、観音開きの戸はガラス張りという好事家好みのしそうな一品だったが、触れた瞬間ほこりが散ったあたりぞんざいな扱いを受けているようである。
「ああ、あったあった」
そう言って戸棚の奥から黄ばんだ紙の包みを引き出してくる。
霖之助がふっと息をかけるとブワッとほこりが飛び散り、不意を突かれた早苗は咳き込んだ。
「けほっ」
「幻想郷で暖を取るなら火鉢がいい」
霖之助はとんとカウンターに包みを乗せた。
「ヒバチ……物騒な」
「そんな身構えるようなもんじゃない」
袖の内で札を握りしめる早苗の前で、霖之助は包みの紙を一枚ずつ丁寧に剥がしていく。
やがて白い磁肌が現れると、早苗は身を乗り出していた。
見事な白磁器だった。
くびれた形は壷という言葉でイメージできる形そのままで、ただ口は細く閉じるのではなく大きく開いている。
大きな壷の上側を横一文字に切り取ったような形、とでも言おうか。
「流れ着くものとしては陶器や磁器は珍しい部類に入る。数よりも完全な形を保っているのが少なくてね。こいつは焼き上がりをほぼそのまま持ってきたみたいな状態で、なかなか特別だ」
磁器の善し悪しなど分からない早苗だったが、霖之助がこれを説明する時やや高揚しているのは分かった。
軽く手を触れる。
しっとりと冷たく、手に馴染む。量産品の茶碗くらいしか持ったことはないが、それと比べてしまうのは失礼にあたるだろう。
触っても霖之助が何も言わないので、早苗は火鉢に手を添えて、すこし回して見た。
ただの白い壷かと思ったが、回してみるとそうではない事が分かった。
側面に笹の模様が薄く彫りつけられている。
白肌にささやかに彫りつけられた笹が、どこかいじましくてなんとなく早苗の気に入った。
「……かわいい」
「ふむ」
霖之助は磁器の壺を「かわいい」と評価するのが理解できないようだったが、そこは客が商品を気に入ったのでよしとしたらしい。
早苗は振り返って言う。
「どうやって使うんですか?」
「…………」
尋ねると、霖之助は顎に手をやったままたっぷり四呼吸ほど固まった。
この数ヶ月を幻想郷で過ごしてきた早苗にしてみれば馴れた反応だった。
これは『常識』で知っているべき事を聞いてきたこの物知らずに、なんと言って説明したらいいやら考えているのだ。
早苗もいきなりガスコンロやエアコンの使い方を尋ねられたらこうなるかもしれない。
「火鉢は炭火を入れて暖を取るための器具で、見ての通り鉢だ。木製のものは火桶という。あるいは小さめのものは手あぶりとも言うが、これはやや大きめだから手あぶりというサイズでもない。こいつがいつ頃から使われ始めたかはよく分かっていないが、最低でも室町時代には記述が……」
幻想郷に来て火のおこし方や薪の取り方まで人に尋ねてきたが、いきなり歴史講釈を始めたのは霖之助だけだった。
「ええと、手っ取り早く使い方を」
「八分まで灰で満たす。火を付けた炭を入れる。暖まる。以上」
「最初からそう言ってくれればいいのに……」
早苗の恨み言を聞き流し、けろりとした顔で霖之助は尋ねる。
「買うかい?」
「買います」
見た目は気に入ったし、炭ならば簡単に手に入るし、使い方は今聞いた。
霖之助の言い値だと手持ちが足りなかったので、早苗は財布もつけた。
外の世界の珍獣の皮で作られた貴重な品だ、と言うと霖之助はそれをしげしげと眺め、「ワニ革なあ」と呟いた。
少し渋るようなそぶりを見せた霖之助だが、結局はそれで交渉は成立した。
彼にしてみれば値切ろうとせず銭升を使わせてくれるだけで早苗は上客なのだった。
***
ウキウキした気分で守矢神社に帰り着いた頃にはすっかり日が暮れていた。
紙にくるんだ火鉢を両手で抱きかかえていたのであまり速くは飛ばなかったし、そうでなくてもスピードを出しすぎると凍えてしまうくらい夕刻は冷える。夜は言わずもがなである。
帰ってすぐ火鉢に火を入れたかったが、まずは夕食を作らなくてはならない。
居間に火鉢を置いて、食材は何があるかと見繕う。
里の人からお裾分けで貰った大根があったので、夕食はそれを主軸に据えることにした。
汁物は大根の味噌汁。味噌汁に入れる大根は、神奈子はイチョウ切り、諏訪子は千切りを好む。いつもは間を取って短冊切りにしているが、今日は諏訪子しかいないので千切りにした。
余った大根に里芋とインゲンを足して煮物にする。彩りに人参を加えたかったが今日は手に入らなかった。
それに少々の香物をそえ、一汁一菜のささやかな夕食が完成する。
おばあちゃんほど上手くはできないけれど、だいぶ上達してきた。
「お夕飯ができましたよ」
膳を持って居間に行くと、諏訪子が定位置についていた。
いつもどこに居るかは分からないが、食事の時間になるとひょっこり現れる。現れない日もある。
諏訪子は味噌汁に浮かぶ千切りの大根を見つけると、うん、と嬉しそうに肯いた。
「……火鉢ねえ」
「はい、神奈子さまも寒かろうと思いまして」
ずず、と味噌汁をすする音が部屋に響く。テレビの声にかき消されない食卓の音。
居間の隅に置かれていたテレビは電気がなければ何も映らず、暗いままの画面がなんとなく厭だったので物置に仕舞ってしまった。
そのせいか少し部屋がガランとした印象を受ける。
食卓につく早苗、諏訪子。
いつも神奈子が座っている位置には白磁の壷が置かれている。
「喜ぶと思うよ。酒飲んで暑い暑いと言ってなきゃね」
「大丈夫だと思いますよ。ここの所、帰ってくるなり布団に潜り込んでますし」
「ほんとにあいつは冬眠が必要かもね」
早苗は軽く苦笑いを浮かべる諏訪子に尋ねてみる。
「諏訪子さまもしないんですか、冬眠?」
「バカ言っちゃいけない。諏訪の神は冬が本番さ」
「ああ、御神渡り」
自社の名物を思い出して、早苗は納得した。
信仰が最も集まる初詣の日も冬だし、御神渡りも大いに信心を得られる。
冬場に凍り付いた湖に一条の亀裂が走り、上社から下社へと伸びる神の道。
目に見える神威が人に神を信じさせる。
そこでふと感じた疑問を、早苗は口にした。
「でもあれ、どっちが上社から下社にかよってたんですか?」
「ん? ん~~……」
珍しく歯切れの悪い答えを返し、諏訪子は唸った。
返答を期待する早苗がじっと見つめていると、さながらアリゾナ砂漠に放置されたガマガエルが空を見上げるような表情で味噌汁をかき込み、
「そいつは知らぬが花って事にしておこう。ご馳走様」
はぐらかす事にしたようだった。
格別知りたいという程でもなかったので、早苗も追求はやめておいた。
「はいお粗末様。さっそく火を入れてみますけど、灰は落ち葉焚きのでいいんでしょうか」
「囲炉裏のにしときな」
「足りますかね」
早苗は火鉢を覗き込んだ。底は浅めだが、これの八分まで詰めるとなればヤカンの容量よりは大きいだろう。
「下の嵩増しには土でも石でもいいよ。表面だけ灰で埋めれば見てくれも整う」
「じゃあ、そうします」
手慣れた調子で膳を片付けながら早苗は答えた。
椀を水につけて勝手から戻ってくると、すでに諏訪子の姿は無かった。
***
「うう、寒い」
火鉢を抱えて夜の境内に出て、少し土を盛っただけだというのに全身が氷のようだった。
首筋のあたりが刺すように痛く、普段は意識しない脊髄がここにあるぞと自己主張している。
屋内は風がない分よほど温かかった。
早苗は玄関の戸をピシャリと閉めると、しばらくそこで身震いしていた。
やっと動けるようになってから、土を盛って重くなった火鉢を囲炉裏のそばまで運んだ。
囲炉裏の隅から灰をすくい取り、火鉢に入れていく。
下敷きにした土がすっぽり隠れてから、灰を平らにならす。
真っ白な灰が平らになった状態はなんとなく枯山水とかあの辺りを思い出す。
指先でうずまきを描いて、早苗はくすりと笑った。
それから再び火鉢を抱えてお勝手に運ぶ。
夕餉を作った時に使った炭を消さずにおいたので、それを火種に二、三個の炭に火を付けた。
火箸でひとつずつ、灰が飛び散らないように慎重に火鉢へと落とす。
白磁器に盛られた白い灰に、黒い炭が折り重なるように乗る。炭の内側は赤く燃えている。
なかなかの色彩だ、と自画自賛して、早苗は火鉢を居間に運んだ。
鉢を持って何度も行き来するのはさすがに骨が折れる。
次からは炭だけ持ってくるようにしよう、と心に決めながら畳に火鉢を置いた。
テレビをどけて空いた場所が、がらんとしていたのでそこにした。
さて、これで温かくなるはずだ。早苗はちょこんと座布団に正座して、火鉢を眺めた。
灰の上に乗った炭は静かに燃えている。パチとはぜる事もなく、ただ赤々と輝いているだけである。
しばらく待ってみても、何も変わらなかった。まだ身体は寒い。
無駄な物を掴まされたのだろうか、いや、もう少しだけ様子を見てみよう。
そう思って心の中で100を数える。それでも部屋が暖まったとは思えない。
早苗はため息をついて身を乗り出し、火鉢を手元へたぐりよせた。
手元まで寄せてやっと、かすかに温かいと感じる。
早苗はようやくなるほどと納得した。
学校の教室に置いてあったストーブを思い出す。
危ないので1m以内に入ってはいけません。境界を引く赤テープ。
ストーブと同じ気分で離れては温かいはずもない。
炭の火は火力が弱すぎるので、そこまで寄らないと意味がないという事なのだろう。
火鉢にそっと手をかざしてみる。
炭から真上に昇る熱気を受け止める。かじかんでいた手が熱に包まれる。
指先がジンとする。氷が溶けるような、指を固めていた蝋が流れ落ちていくような、そんな錯覚を受ける。
これが手あぶりとも呼ばれる理由が分かった。
早苗は両手で自分の頬を包んだ。
そうしてしばらく温めた手で頬や、耳や、首筋をさすっていると玄関の戸がガラリと開かれる音が聞こえた。
やっと神奈子が帰ってきたらしい。
「ああ、寒い寒い」
居間に入ってくるなり第一声はそれだった。
酒のせいか少し赤みを帯びているが、それにもまして神奈子は寒そうだった。
夜風に吹かれて髪が乱れているのを気にした風もない。トレードマークの注連縄を外し、どさりと床に落とす。
「お帰りなさい、神奈子さま。火鉢が暖まっていますよ」
やはり火鉢を用意しておいて良かった、と早苗はうきうきしながら差し出した。
「ん」
呼気を吐くのもしんどいといった体で生返事をし、神奈子は火鉢をたぐり寄せた。
そのまま覆い被さるように抱え込んでしまう。
神として外に出て行くときにはあれほど凛とした表情を見せる神奈子が、ああ、と声を上げて顔を弛緩させる。
もう、威厳が台無しですよ。と早苗は心の中で思った。
ただいまくらいは言ってくれてもいいのに。
火鉢にしたってもうちょっと、こう、ありがとうとか早苗が買ってきたのかい、とか言ってくれれば。
丸まった神奈子の背中に嘆息し、早苗は背を向けた。
お茶でも入れてこよう。
思ったより反応は薄かったけれど、まあ、こんなものかもしれない。
そう思って立ち上がろうとした矢先、早苗は後ろからふわりと抱きすくめられた。
「ああ、やっと人心地が付いた。ただいま、早苗」
「お、お帰りなさい」
お酒のせいなのか、それともたった今火鉢に覆い被さっていたためなのか、背中に感じる神奈子の体温は熱いとさえ思えた。
それとは対照的に、身体の前に回された手はひどく冷たい。形の整った指先がまるで氷の彫像のように感じられる。
神奈子は片手を早苗の胸の前に回したまま逆手を伸ばし、ひょいと火鉢を引き寄せて目の前に置く。
後ろからは神奈子の体温が、前からは火鉢の暖かさが。
「こうすれば早苗も暖かいだろう?」
早苗の目の前で、表返し裏返しに手をあぶりながら神奈子は言う。
「わ、私は神奈子さまをお暖めしようかと」
だから早苗が温めて貰っては逆だと言うのだが、神奈子は「愛い愛い」と呟いて頬を寄せただけだった。
「火鉢は早苗が?」
「はい、麓の古道具屋で見つけました」
「人の文明が進んでから久しく火鉢なんて当たっていないが」
白磁を見つめる神奈子の声がふっと優しくなる。
「いい買い物をしたね」
火鉢と、それを選んだ早苗をほめてくれた。そう思うと身体の奥が温かくなるのを感じた。
早苗は恥ずかしげに「……はい」と答えた。
「……」
そんな姿をにやにや見つめている四つの目がある。
二つは童子のような、二つは蛙を模した帽子についた瞳。諏訪子である。
「ああ、寒い寒い」
二人が気付くと、諏訪子はニヤニヤとしか形容のできない笑顔を浮かべながら、悠然とした足取りで二人の前に立った。
「なにさ」
むっとした声で神奈子が言うと、諏訪子は表情を変えずに掌を突き出した。
「二つも抱えてちゃ強欲だ。火鉢か早苗どっちかを渡しな」
「……」
神奈子は早苗と火鉢を見比べ、
「ヤダ!」
子供のような声を出してがばっと二つとも抱え込んだ。
「どっちも渡さない」
「か、神奈子さま……!」
ぎゅう、と抱きすくめられて、早苗がうろたえた声を出す。
「強欲だ、なんと強欲だ嘆かわしい」
さも心のこもっていない調子でいい、そして諏訪子は満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ私がひっつく」
「す、諏訪子さままで!」
神奈子の膝を踏み台に、早苗の右側に抱きついてくる諏訪子。
「……重い」
「あんたが後生大事にかついでる注連縄よりは軽いつもりだけどね」
小柄な諏訪子だが、流石にそこまでは軽くない。
「……まったく」
迷惑そうな口ぶりではあるものの、嫌がった風ではなく、神奈子がつぶやく。
「うん、ぬくいぬくい」
まるで湯たんぽ代わりにでもするように早苗に抱きつき、諏訪子はご機嫌だった。
「子供か」
「見た目はね」
いけしゃあしゃあと返す諏訪子。
「まったく、早苗はこうして火鉢まで用意してくれたのに。どっちが神だか分かったもんじゃない」
「それだって、元はあんたの寒がりが原因じゃないか。早苗も心配していたんだよ。外にでてもあの体たらくじゃ、威厳にも関わるってね」
「そ、そこまでは言ってません」
慌てる早苗を尻目に、二柱の神はしばらく軽口の応酬をしていた。
いつもと変わらないふたり。
ただいつもと違うのは、ふたりとも頬が当たりそうなほど近くに居るというだけの事だ。
思えば誰かとこんなに近くに居たことはあっただろうか。
早苗は気がつくと火鉢に視線を落としていた。白磁の中で、いまも赤々と燃えている。
冬の夜だというのに。
暖房なんてこんなに小さな炭火しかないというのに、寒さを感じない。
二柱の間にいて守られているからだろうか。
自分だけが暖まってしまっているのではないだろうか、と早苗は急に不安になった。
「寒かないよ」
それを察したように、神奈子は言う。
「こうして早苗がいる。諏訪子だって、居ないよりは居た方がいい」
「……神奈子様」
早苗は振り返って二柱を見た。ふたりとも少し照れたような表情だった。
早苗は、はい、と静かに答えた。
神奈子と諏訪子に温めて貰うように、自分がこの二人の神を温められたらいいなと、思った。
「さて、そろそろ二人ともどいとくれ」
そう言って、神奈子は顔をしかめた。
「足がしびれた」
早苗と諏訪子は顔を見合わせて、それから笑った。
***
東の空が白み始め、陽光が幻想郷を照らす。
シンと凍り付いた空気の中を、朝霧がまるで生き物のように蠢いている。
翌朝、早苗がいつも目を覚ます時間の一刻もまえに居間には人影があった。
腕を組んで座り、火鉢を見下ろしているのは神奈子である。屋内に差し込む白い光が照らす横顔は思案に曇っている。
そこに諏訪子がやって来て、寒い寒いとぼやきながら火鉢を覗き込んだ。
火鉢は昨日のままだった。白く燃え尽きた炭が小石のようにうずくまっている。それを指でつつけば、崩れ去って周りの灰と見分けもつかなくなるだろう。
「白き灰がちになりてわろし?」
諏訪子は言ったが、神奈子は表情を変えなかった。
「ふうん」
神奈子が軽口に乗ってこない時は機嫌が悪いか、あるいは、
「何か考えがあるんだね?」
諏訪子は神奈子が、同居人や相棒としてではなく、神としての話を欲していると察した。
聞こうじゃないか、と立膝を付いて神奈子の正面に座る。火鉢をはさんで向かい合う。
神奈子はしばらく灰に視線を落としていたが、おもむろに顔を上げ言った。
「人に火を与える」
「……ふん」
諏訪子はその言葉を咀嚼し、
「幻想郷の冬は寒いから、暖房機をプレゼントってわけだ」
「妖怪の山の真下には、古い地獄があるそうだ」
酒の席で天狗たちから聞いた話、地域の伝承、幻想郷にただ一人居るという鬼の事。それらを総合して間違いない事だと神奈子は確信していた。
「今は灼熱地獄も火が落ちているそうだが、八咫烏の力を注げば再点火できるだろう。幾らでも与えられる無限の火」
「その後はいつもの手段ってわけだ」
いつもの手段、という言葉に諏訪子は棘を込めた。
「ああ」
守矢神社には二柱の神が居る。
表の神、神奈子と裏の神、諏訪子。
神奈子が信仰を集め、諏訪子が神力を使う。
裏で力を使う諏訪子に直接の信仰は向かわない、その上前をはねるのは神奈子だった。
同じことをする、という事だ。
八咫烏の火を利用するとしても、その火を与えるのが守矢なら、信仰の上前をはねるのは二柱となる。
「神奈子、知ってるかい」
「うん?」
「初めて人に火を与えた神は、岩に繋がれ、ハゲタカに臓物を食われ続ける罰を受けたそうだよ」
それを聞いて、神奈子はくつくつと笑った。
「その後は半神半人に救われる? 早苗に弓を教えとくかね」
笑う神奈子を眺めて、やがて諏訪子も相好を崩した。
「早苗には甘いね」
「そりゃお互い様だろう」
神奈子も諏訪子も、幻想郷にやって来た時に一度全ての信仰を失っている。二人の現在の力は全盛の百万分の一にも届かない。
そして神奈子が信仰の再獲得を急ぐ気になったのは早苗のためだと、諏訪子は気付いていた。
今の早苗は現人神ではない。
現人神とはつまり、神奈子と同じことをした人間の事だ。
風祝として、守矢の神の代わりに神の力を見せる。力を使うのは神で、力を見せるのは人間、そして信仰の上前をはねるのも人間。やがて祭る側の人間が祭られる事になる。
現人神は神の力で、人間でない事を見せつけなければならない。
だが、幻想郷では人が空を飛ぶ。空を飛んで、風を呼ぶ程度では信仰を向けられる対象とはなり得ない所に、早苗を連れてきたのは他ならぬ二柱なのだ。
だから早苗は幻想郷では現人神ではない。人間として生きていくしかない。
本人も努力はしているようだが、限界は見えているだろう。
限界とは、二柱の力に他ならない。
力を借りてくる以上、借りる相手より上は望めない。
だから「現人神」としての早苗が生き残るためには、早苗がより巨大な力を見せ信仰を集めるためには、二柱が力を付けるしかない。
その朝、二柱は地底へと下りていった。
***
「お早うございます。神奈子様ぁー? 諏訪子様ー?」
起きた時には、二柱の姿はどこにも見えなかった。
早苗はまず先に勝手で火を起こし、火皿に炭を入れてきていた。炭がこぼれないように火箸で押さえながら、少し早足で屋敷を見回る。
寝床に居ない、それ以外で姿が見えないという事はどこかに出かけたという事だろう。
そう判断して、早苗は居間に腰を落ち着けた。
昨日ああして過ごした部屋が、今は早苗ひとり、がらんとしている。
その名残は部屋の真ん中に置かれた火鉢だけだ。
火鉢を見つめて、早苗はふっと微笑んだ。
今朝もまた一段と冷える。
これからどんどん寒くなっていって、幻想郷にも本格的に冬が来る。
幻想郷に電気はない。幻想郷にガスはない。
幻想郷の畳は冷たく、幻想郷では火鉢で暖を取る。
幻想郷の冬は寒い。
幻想郷の冬はとても寒い。
だから幻想郷では神ですら身を寄せ合って生きていく。
それは素晴らしい事だと思うのだ。
早苗はそっと、火鉢に炭を落とした。
<了>
いつかは値切りを覚えるのかなぁ
東風谷 早苗?
とても面白かったです
それは置いといて、香霖堂の雑然さや守矢一家の団欒等が早苗さんの視点から
上手く描かれていて好印象でしたね。最後の”動く”二柱の描写も良い感じに
まとめられていて小気味よく読める佳作。面白かったです。
うん。面白い。
地霊殿のあと、悔しがる神奈子様
そこへ、のこのこやってきた霖之助
信仰を得るため(=悔しさ晴らし)に自分の暖房を自慢してみる神奈子様
確かにこれは負けますね、と霖之助
不気味な大妖怪から得た燃料で温まるのと
心の許せる家族のために作った火では。
神奈子様号泣
まで想像した。
原作の隙間を埋めるようなエピソードを足して、見事深い色合いの佳作となった感じです。
神として清濁を併せ呑むような思考の神奈子様が良い。
暖かいなあもう。
実に良い
しかし、考えれば考えるほど幻想郷の生活レベルは謎だな。
電化製品に囲まれた何不自由ない生活より、守矢一家の不便なりに暖かい暮らしぶりが魅力的に見えて仕方ありません。
また、それだけにラストのすれ違いが切なく感じられて印象に残るいい作品だと思います。
心がホカホカになりました。
本当にいい空気。
早苗を第一に考える二柱の神様に感服
静謐で染み込む寒さ。現代人の早苗さんが、不便ながらも発見に満ちあふれた一瞬。どれもお見事です。