※注意 この話はオリジナルキャラクターが出て参ります、そういったのが苦手な方等は戻られる事をお勧めいたします。大丈夫な方はどうぞよろしくお願いします。
東方護神録 Disappearance of Protection.
ガタンゴトン、ガタンゴトン――プァ―ン……
二両のみの車両が木々の織りなす森へと続く錆び付いたレールの上を、陽の射さぬ闇の中へ消えゆくのを見送ると、彼女達がいるホームに一陣の風が吹いた。
夏の香り薫る片田舎――廃線間近なのではと思う寂れた無人駅の改札、誰もいない窓口に(改札機が稼働していないので)切符を置き駅舎から出ると、そこは辺り一面鬱蒼とした木々に囲まれ、最早樹海と言っても差し支えの無い土地だった。
「ねぇ蓮子、本当にここなの?」
淡い木漏れ日しか射さない森の中だというのに白い日傘を差しながら、彼女が友人にして『秘封倶楽部』の双壁、メリーことマエリベリー・ハーンがそう問いかけてきた。
「間違いないわよ、夢で見た景色とも合ってるし」
そう答えながら帽子をとり、額の汗を拭い被り直すと、宇佐美蓮子は腕時計を見た。
「十三時十三分四十二秒、時刻表より十三分程遅れて予定通りに到着っと……」
駅の時刻表に書かれた十三時ちょうどの到着予定時刻、電車はその時刻には着かずに遅れ、そして蓮子の予定時刻通りに到着したのだった――
第 零 夜・Prologue『ユカリ』
福岡県遠賀郡――京都在住の蓮子達がこの八月一日、つまり女子大生にとっても夏休み初日とも言えるこの日にわざわざ新幹線を使ってまで九州は福岡まで来たのは、当然ながら彼女等がサークル『秘封倶楽部』の活動の為である。
不思議なモノ、未知なるモノを求め西へ東へ昼夜を問わず活動している彼女達ではあるが、今回の旅は今までとは少々違う、何故ならいつもならば蓮子かメリーのどちらかが仕入れた情報を基に活動するのが一般的ではあった、が今回はそういった情報がほぼ無い状態――何の調べも付いていない、否、調べる時間が無かったのだ……何せ今回の事象は刻限付きな上、過去と現在ではなく未来、つまりはこれから起こりうる事なのだから。
そう――その全ての始まりは夢から始まった、それが現なのか幻なのかも分からぬ夢……。
――タンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン……。
その音と、眠るには慣れない僅かな振動で目を覚ます。寝呆け眼を擦り、小さく欠伸をすると周りの景色が徐々に鮮明となっていく。
「……あれ?」
覚めた目に入って来たのは規則正しく並んだ座席、流れゆく景色を映し出す窓、揺れる吊革――蓮子は混乱していた、さっきまで京都の高層マンションの自室のベッド(キングサイズ、誰と寝るんだよとかは聞くな)で今日から夏休みだと惰眠を貪っていたはず……あれ、違ったっけ?
何だか記憶があやふやではあったが目に入ってくる光景を鑑みれば家で無いのは明確であり、蓮子は何故か電車に乗っていた……だが少なくとも京都市内で電車に乗るほど蓮子自身の京都での行動範囲は広くないし、こんな電車を蓮子は今まで見た事がなかった――古ぼけた車内、年代物の広告、ところどころ無くなってしまってる吊革は危なっかしく揺れ、車体は軋みながらレールの上を走る。木製の座席にはくたびれたクッションが貼ってあるだけであり、周りの座席は空席だらけ……蓮子と、その前に座る女性以外は。
蓮子はとっさに彼女の名を――『メリー』――と呟いていた。
すると女性は顔をあげ、困った様に微笑むと唇に指を当て「シーッ」という仕草をし、視線を落とす。見れば彼女の膝の上で黒い猫が心地良さそうに眠っていた。
蓮子は彼女から目を逸らす様に窓へと顔を向け、横目で彼女を見る。
そして何故、自分はこの人をメリーだと思ったのだろうと感じた。
確かに金色の髪、特長ある帽子、紫色の服……メリーに似た容姿ではあるものの、今ここにいない『彼女』と今ここにいる『彼女』とでは圧倒的に何かが違う……そう思った瞬間、蓮子と彼女の瞳が交錯した。
深い深い、どこまでも深い紫の瞳はまるで全てを受け入れるようでいて、何者も阻み拒む様な闇を湛えてる様だった。そしてようやく蓮子は気付く、あぁ、この人は妖艶なんだと……今ここにいるはずなのに、まるでいない様に儚げな姿――何を馬鹿な事を思ったのだろうか。メリーはちゃんといる、手を握れば握り返してくれるし、蓮子が笑えば一緒に笑ってくれるし泣けば一緒に泣いてくれるだろう。いや、慰めてくれるだけかもしれないけど、だからこそメリーはちゃんといるのだ。
蓮子のそういった気持ちを感じたのか、はたまた悟ったのか、彼女は蓮子から視線を外し膝の上の猫を撫でる。蓮子もそんな彼女から目を逸らし再び窓の外を見る、景色はただずっと同じ様で違う様な色だけを映し流れていった――
それからどれくらい経っただろう、電車は次第に速度を落とし始め、やがて錆び付き軋む音をさせながらとある駅に停まった。そして何の音声案内も無く無音の車内に、扉が開く音だけが響き渡った。その音で目を覚ましたか、彼女の膝の上での眠りより目覚めた黒猫は彼女の膝から飛び降りしなやかな伸びをしたかと思うと、扉に向かい駆けて行き、そして消えた。それを見届ける様に座っていた何者か分からぬ彼女も音も無く立ち上がり、私に会釈し、そして下車していった。
静まり返った車内に一人、取り残された蓮子はそれでも動こうとしなかった。無音と静寂が支配する車内、開いた扉は閉じることなく下車する者も乗車して来る者もおらず、車掌も来ない人気の無さに無音を貫く車体――そして気付く、ここが終着であるのだと。
そっと座席を立ち、扉へ向かう。落ち葉と蔦に覆われたホームに降り立つとその扉が閉まり、電車が動き出した。内装からある程度想像していたが、その外装も古びた形状と色彩をしている車体が二両、木々が覆う闇に溶け込んでいった。
あぁいうのがモダンでシックなってやつなのねと嘯きながら蓮子は辺りを見渡す。駅舎の周りは鬱蒼とした樹木に取り囲まれ森と化していた。近くに小川でも流れているのだろうか、幽かに水の流れる音もする。
そういえば、先程の彼女はどこにいったのだろう。そう思い当たりを見渡すも彼女の姿は無い。蓮子が途方に暮れているとスカートに僅かな感触を感じた。
見れば、先程彼女が連れていた猫がスカートの裾を噛み引っ張っていた。蓮子がしゃがみ込み「どうしたの?」と撫でてやると猫は「ニャーオ」と鳴き改札まで駆けて行った。そして改札口の前でこちらに振り返り再度「ニャーオ」と鳴く、まるで付いてくるよう誘っている様に。
その鳴き声に導かれ蓮子は、猫に誘われるままに改札まで来た。そういえば私、切符なんて持ってたっけ?そう思いながら改札を見やるとあの彼女が置いたのだろう、二人分の切符が既に置いてあった。私の分かと思っていたら何かポケットに違和感を覚え、探ってみると切符が出て来た。これが私の分の切符だとすると、この置いてある2枚の切符は彼女と猫の分と言う事になる……律儀だなぁと思ったりした。
そんな切符をしげしげと見つめている蓮子を、猫が駅の外で瞬きもせずじっと見ていた。その視線に気づき、切符を置き慌てて改札をくぐった蓮子の視界にふと入った壁時計は十三時十三分四十二秒を指し止まっていた。猫はそれを見ると歩き出し、蓮子もそれに続いた。
それからは猫を追って道無き道、さりとて決して危うくない地面を進むと猫が飛び上がり段差を駆け昇り始め、蓮子も後に続く。昇り出した最初はこの段差が何のかは分からなかったが、殆ど規則正しく段差が続く事からこれが階段である事に気づく。恐らく永い事人の手が入っていないのだろう、苔生し雑草が伸びきっており最早見ただけでは階段と気付く事は出来無かっただろう。
そんな階段を昇って行きふと上を見上げると、最上段で先程の彼女が白い日傘で木漏れ日を受けながら微笑みながら佇んでいた。そして最初に駆けあがって来た猫を抱き上げ撫で、猫は嬉しそうに「ミャーオ」と鳴いた。
彼女は続いて昇り切った蓮子にも微笑みかけると、正面を指差した。息も切れ切れにその先を見るとそこには巨大な鳥居と、朽ちかけた神社があった。鳥居に掲げられた神社の名を示す額束には辛うじて何かが刻まれているのが見て取れたが、判別するには至らなかった。
しかしそれは問題ではなかった、神社が朽ちてい様とそれは大した意味も無かった。まるで、ここに以前来た事がある様な懐かしさを感じた事も不思議に思いはしなかった。
巨大な土壁が一つ、神社の傍に鎮座していた――
蓮子は自分の眼を疑った。何せ、それは神社より少し離れた場所に何の支えも無く自立していたのだから。通常、神社の社殿は木造の事が多く、基本的に土壁を用いない事が多い――これは仏教建築を意図的に避けた故と言われているのだが……何故蓮子がそんな事を知ってるかと言うと勤勉な友のおかげである。
まぁそれ故に、神社に土壁の建造物がある事は(全く無いという訳ではないが)珍しく、しかもそれがこんな人の手が届かない森の中にある事に驚かされた。淡い逆光に照らされ儚げなその土壁は神社と同じくらい朽ちかけ、今にも崩れ去りそうになっていた。
蓮子達『秘封倶楽部』は謎がありそうな処に赴き、そして何らかの考察、または見出して来た。その蓮子をしてもその壁は何かしらの謎と、そして何故か、どこか懐かしさを感じさせる物であった。
蓮子は一歩、また一歩とその土壁に吸い寄せられるように歩み始めた。ゆっくりと近付いて行くと、それまで逆光で影となっていた壁の姿が次第にはっきりとなっていく……表面は罅割れが入り角は欠けていた。ただそれよりも目が行くのは……
傷(キズ)、疵(キズ)、瘡(キズ)、瑕(キズ)、創(キズ)――
もう手を伸ばせば触れれそうな位置に立つとよく分かる、壁の中心にはまるで刃物で斬りつけられた様な傷を始め、殴打痕、はたまた銃創のような傷が夥しく、その痛々しさは見るに堪えないほどだった。
蓮子は意を決し、その壁に触れようとした。まるで、その傷を癒すかの様に傷を撫でようとしたその時――
「ミャーオ」
刹那、猫の鳴き声で蓮子は我に返る――やめておこう、そう伸ばした手を引っ込めた――触ればこの壁はさらに崩れ去ってしまうかもしれない……そう思い手を離した。
気付けば猫が脚に擦り寄っていた。きっとこの猫は私に『触っちゃダメ』そう言いたかったのだろうと思い撫でてやると猫は喉を鳴らして鳥居の方へ、振り返ると彼女は微笑みながら頷き、猫は彼女に擦り寄った。
彼女は猫を抱きあげると、いつの間にか閉じていた日傘を横に斬る様に、しかし優雅に振った。
すると驚くべきことが起こった、その斬られた空間に裂け目が入ったのだ。それは徐々に広がっていき、人一人が潜れる様な闇となった。彼女はその闇へと消えていく――最後に蓮子に再度微笑んで……。
「待って!」
蓮子は駆け出していた、その闇が閉じてしまう前に飛び込もうとするが如く……間一髪、間に合ったのだろうか、そこはどこまでも深く、そして暗い闇の中を蓮子は堕ちて行った――
「――子、蓮子ったら!」
「……フエェ?」
目を開けたらそこには……
「……メリー?貴女メリーなの?」
「何言ってるのよ、私がマエリベリー・ハーンじゃないとしたら一体何に見えるのよ?」
「紫バb……」
ゴスッ!と頭に参考書を落とされた、地味に痛い。おかげで目の前の彼女の顔がはっきり分かる、先程の彼女にやはり似ている、けれどもこちらの彼女には妖艶さはなく、普通の唯の平凡な女子大生だった。
「~~いったぁい、メリーだわこりゃ、間違いないわ」
「当り前じゃない、ほら、さっさと起きる」
「ウ~ン……ところでここ、どこなのよ?」
「何寝ぼけてるのよ?そんなの、貴女の部屋に決まってるじゃない」
呆れるメリーの顔から目を逸らし、辺りを見渡す。そこは電車の中でもなく、まして朽ちた神社も無ければ、巨大な土壁も何一つ無い蓮子の部屋だった。あるのは白い壁紙が貼られ、その上から秘封倶楽部の活動レポートや行く先々でメリーと共に写った写真の貼られた部屋の中に、誰と寝るともない馬鹿デカイベットとその上に散乱した衣類、テーブルの上にはビールの空き缶につまみ、やりかけのレポート、参考書が山積みになっていた。うん、誰が何と言うまでもなく自分の部屋だった。化粧道具とかが無い当たり特にそう感じさせられる。
「もう、夏休みだからってお風呂に入らないで寝てないでよ」
「あれメリー、なんで私の家にいるわけ?」
「……えっと、今までのやり取りがあってそこからなの?」
はぁ、そう溜息を吐きながらメリーが言うには、昨日七月三十一日、大学の講義が終わってから私達は居酒屋に行き、(主に私が)一晩飲み明かしたらしい。で、酔い潰れた蓮子をここまで送り届けたものの酔った私に「一人じゃイヤ」と泣きつかれ泊まる事になったそうだ……何も憶えておりません、自分じゃない蓮子がやりました。
「あ、あとシャワー借りたから」
「あのさメリー……一緒に寝たりしてくれた?」
「そんな訳ないでしょう、私はリビングのソファで寝たわよ」
だってお酒臭かったんだもの、そう言われた私の体は確かにお酒臭かった。くそぅ、誰がだだっ広いベッドの上に一人眠る酒臭い女子大生に欲情なんてするんだ……それがメリーだったら自分がしていると蓮子は悟った。
「それより、お風呂入って来なさいな、沸かしてあるから」
「ねぇメリー」
「一緒には入らないからさっさと行きなさい」
「……はい……」
「あぁそういえば忘れるところだったわ、こんなのが届いてたわよ」
風呂場に向かおうと踵を返した蓮子に、メリーは一枚の封筒を裏側にして差し出した。送り主の名前は書いてない様だった。
「何これ?」
「知らないわよ、開けてないもの。ただ一つ気になる事があるわ」
そう言うとメリーは封筒をひっくり返し、蓮子はそれを受け取った。宛名には蓮子の住所と名前、そしてメリーの名前もが一寸も違わずにフルネームで入っていた。
「秘封倶楽部に関係するものかしら?」
「それは無いと思うけど、資料を頼んだ記憶無いし」
「……どうする?」
「開けちゃえ」
そう言うが早いが蓮子は封を切って中身を取り出した、中に入っていたのは文章量と字の大きさにそぐわない手紙だった。
『貴女達の倶楽部活動の、一筋の光となりますように』
手紙にはそう書かれ、何故かキスマークまで添えられていた。それに脱力するかの様に下げられた手に握りしめていた封筒から何かが落ちメリーがそれを拾い上げた。
「何それ?」
「時刻表みたいね……しかも十年程前の」
「十年前って、それ使えるの?」
「さぁ」
メリーが時刻表の頁(ページ)を捲り始めると、その間からまた何かが落ち、今度は床に落ちる前に蓮子がキャッチした。
「これ切符じゃない、しかも二人分」
「よくいるわよね、切符を栞代わりに時刻表に挿む人」
「いや私そんな人見た事無いけど」
というかやった事も無いけれど。「まぁそうよね」なんて言いながらメリーは切符が挟まっていたであろう頁を蓮子に見せる。その頁には紅い色で駅と発着時刻が記されていた。
「この駅ってどこの駅かしら?」
「少なくとも京都ではないのは確かね。待って、調べてみるから」
メリーは携帯を開くと右手で目にも止まらぬ速さでキーを叩く。蓮子はそれを横目で眺めながら手にした切符を見つめる。行先は明記されておらず「折尾駅発・片道・本日八月一日限リ」とだけ書かれてあった。あれ、これどこかで見た気が――
「分かったわよ蓮子、その駅の場所」
思い出しかけたところでメリーの声で意識がそっちに行ってしまった。
「どこよ」
「九州は福岡県、北九州市よ」
「福岡……って遠いわよね、けど新幹線で行けばそんなに……」
「まさか蓮子、行く気なの?」
「だってこれ、今日限りの切符なんだもの」
そう切符をヒラヒラさせる蓮子を見てメリーは再度溜息を吐いた。
「あのねぇメリー、そんな得体の知れない切符の為にわざわざ福岡まで行くの?」
「あらメリー、ミステリーだと思わない?宛先人も分からない謎の手紙と遠く離れた福岡までの切符、そして秘封倶楽部の事を知ってるってことはつまり?」
「……謎があるってこと?」
「そういうこと!まぁ折角の夏休みに何もすることも無かったことだし、ちょうど良いじゃない」
「それは、私はそうだけど……第一、それがその駅から一体どこに行ける切符なのか分かってるの?」
「えーとそれは」
そこで蓮子は思う。あ、どうしよう福岡なんて行った事ない、というか本州から出た事があんまり無いしましてや最近電車なんて、電車――
「あーっ!!」
「ちょっ、どうしたのよ蓮子、急に叫んで」
「メリー、私知ってる!この切符がどこに行ける切符なのか」
「……どういうことなの?」
蓮子は今朝見た夢をメリーに伝えた。但し、メリーに似て非なる彼女の事は隠して……。最初は半信半疑だったメリーも次第に興味の方が勝ったようだ。だが――
「でも夢っていうのはどうも……いまいち信頼するには頼りないわね」
「なぁにメリー、怖いの?」
「そうじゃないけど……でも」
「あーもう、でもは無し!行って見れば分かるわよ」
「ちょっと、本気なの?」
「本気に決まってるじゃない!」
そう蓮子はレポートの山を崩し、その下に埋もれていた貯金箱をひっくり返す。すると貯金箱の中には諭吉が七枚も入っていた。これもこの夏休みの為に貯めていた賜物である、そしてその他の小銭等も掻き集める。残念ながらその切符は福岡の折尾駅と言う駅から先の切符であり、京都から福岡までは自腹であった。どうせ切符を送って来るなら新幹線の分も用意して欲しかった。
「メリーの新幹線代も出すからさ、一緒に行こう、ね?」
「あーうん……もう分かったから、まずはお風呂行って来なさい」
「了解っ!」
そして蓮子は興奮のあまり鴉もびっくりな行水で風呂を終え、準備をしてくれていたメリーを引きずる様に出発した、初めての土地行くに割には無計画で大丈夫かと言われればそれまでであるが。タクシーを拾い京都駅まで向かい、福岡県博多行きの新幹線(運良く空いてた指定席片道切符、二人分購入)に飛び乗り福岡へ、それから約三時間で福岡県北九州市の駅に到着。そこのホームでこの駅名物かしわ飯弁当というお弁当を二つ購入し、電車が来るのをメリーと食べながら待つことにした。夏休みという事もありどこの駅も混雑しているだろうし、何しろ時間も無かった訳だから慌てて家を飛び出し朝食も取れていなかった私にとっては少し早目の昼食、腕時計の時刻は十一時半を指していた。ここまで、人の混雑こそ凄かったが順調に来れた事にホッとしながらかしわ飯を頬張った、美味しい。
幸い、一緒に同封されていた時刻表に『駅下車後、目的地へ十二時発予定』と書いてあるので、このかしわ飯をゆっくりと堪能出来る。さらに『目的地到着予定時刻一三時・但シ遅延アリ』とまで記載されており、ここまで行くと逆にありがたいのか迷惑なのか正直分からないのだけど。
「でもそんな時刻の電車、電光掲示版には出てないけど」
「そうなのよねー」
かしわ飯も食べ終わる頃、電光掲示板を見やるとそんな時間に来る電車は無い、十二時三分発の電車ならあるのだけど。
ちなみに只今の時刻は十一時五十五分、時刻表に書かれている発着時刻まであと五分である。
「ちょっと心配になって来たわね」
「うぅ、私が新幹線代出したのに……」
「今更言わないでよ」
「やっぱり、十年も前の時刻表なんて信じるんじゃなかったわ……」
「ダイヤ改正、路線廃止はいつの世もあるものね」
「うー、これでもし来なかったら次の電車で博多行って水炊き食べたい」
「また食べ物ばっかり……まあ後五分だし待ちましょう、ね?」
メリーにそう言われ、線路の向こうを見やると電車はおろか人の姿すらも無い。そしていよいよかしわのお弁当も食べ終わり、美味しかったけど十年以上前の時刻表なんか当てにしたのはまずかったかもと蓮子がそう思い始めたその時――
「蓮子、ねぇ蓮子ってば」
「何よメリー、到着の時間まであと一分なんだから待とうよ」
「違うわよ蓮子、おかしいのよ」
そう言われ振り返ると、先程まで夏休みの活気に沸いていたはずのホームに蓮子達二人だけになっていた。さっき見やった電光掲示板に掲示された次発の電車は十二時三分発『特急つばめ・博多行き』だったはず、その電車も来てない中どう考えても人がいなくなるなんて有り得なかった……しかしその電光掲示板にはもうその文字は浮かんでおらず、代わりに『十二時零分発・神社行き』と出ていた。
「嘘、さっきまでそんな表示じゃなかったのに……それに他の人たちはどこに行ったの……?」
「分からないわ、気付いたら誰も……」
――プァーン
その音と共に、ホームにさっきまで線路のどこにも影も形も無かった二両連結の電車が入って来た――それはまさしく夢で見た電車だった。
「メリー、これよ、この電車だわ」
「随分古いのね」
その車体の色は夢で見た時はおぼろげであったが、こうして明るい所で見るとエンジ色にクリーム色の帯の塗装が施されていたモダンな車両であった。蓮子達がそれを眺めているとゆっくりと軋みながら扉が開いた。
「どうするの、蓮子……」
「乗りましょう」
「……本気なの?」
「大丈夫よメリー、大丈夫だから」
蓮子はそうは言ったものの大丈夫なんて確証なんて無かった。ただこの電車の持つ懐かしさと優しそうな雰囲気がただただそう言わせたのだった。
そして蓮子がまず乗り込み、続いてメリーが恐る恐る乗り込むと扉が閉まった。中も夢見たまま、古ぼけた車内、年代物の広告、ところどころ無くなってしまってる吊革――それでもまるで指定席の様に向かい合わせた座席がそこだけ新品の様に鎮座していた。私達が腰掛けるとゆっくりと電車は進み始める、蓮子達の他には人どころか猫すら乗車していなかった。
そこからはまるで夢の繰り返しだった。猫はいないもののメリーは編み物を編み始めた(マフラーにするそうで、この時期から編まないと間に合わないらしい)。
蓮子はと言えばそれを横目で見ながら窓の外を眺めていた。二人とも言葉を発するでもなく車内は無音と静寂に佇む箱舟の様に思えた。
そしてそれからきっかり一時間と十二分後、夢で見た通りの時刻に遅れて電車は駅に到着。そしてその電車が闇に吸い込まれていくのを見送った後、蓮子達は改札を出てあの猫を追った道を歩き、苔生し雑草に覆われた階段とは思えぬ段差を上がった。そして――
「これは……」
「ね、言った通りでしょう」
登り切った先には巨大な鳥居、朽ちかけの神社、そして巨大な壁が……あれ?
「壁が、無い?」
夢で見た場所に壁は無く、だだ空虚がそこに佇んでいた。蓮子はそこに慌てて駆け寄った。
「嘘、確かにここに壁があったのに……」
「蓮子、離れて」
「メリー?」
気付けばメリーは傍までやってきており、そこで空間を撫でた。まるで、そこに何かあるかのように。
「メリー、まさか」
「えぇ。ここに、境界の亀裂があるわ」
メリーが見つめる先――そこに、夢の中で壁があったその場所に、境界の亀裂がある様だった、残念ながら蓮子には見ることは出来ないのだが。
「でも凄いわ、この亀裂は罅割れたんじゃなくてまるで――」
「傷痕みたい、かしら?」
蓮子は夢で見たあの壁の事を思い出しながら呟いた、するとメリーも「そうね、まさしくそうだわ」とだけ言い、空間から指を離し視線を背けた。まるで、蓮子からはその表情を窺い知る事の出来ない様にするかの様に。
それから蓮子達は賽銭箱に適当な金額を投げ入れ、鳴らない鈴を揺らしお参りをしてから、神社の境内を隅々探索したが、残念ながら境界の亀裂以外の発見は無かった。
「確かに凄い処ではあったけど、これ以上の発見は期待出来無さそうね」
メリーは別段事も無げに言ったけれども、無理を言って一緒に来てもらった蓮子としては多少なりにも責任を感じてしまう。小一時間ほど見回った後、二人揃ってあの壁があった、今は空間の亀裂のみ残るその場所へと戻って来ていた。
「でも何か懐かしかったわ、まるで私達が秘封倶楽部として初めて行ったあの神社を思い出すようね」
「え?あ、そう言われれば確かにあの時の神社に雰囲気は似てるわね」
そうか、夢で見た時のあの懐かしいと感じたのは『秘封倶楽部』の記念すべき一回目の活動で、東京の某所にある寂れた神社に行った時の感覚と似てるのだと蓮子は今更ながら気付く。あの時もメリーは空間の亀裂を見つけて、蓮子達ははしゃいだのであった……何かよくよく考えると、メリーを引っ張り回してばかりだなぁなんて少し反省した。
「う~ん……何か、ゴメンね」
「いいわよ別に、無いはずの電車に乗れたりこの神社と罅割れも見れた。間違いなく不可思議の一端には触れる事が出来たのだから、よかったじゃない」
そう思い謝る蓮子にメリーは慌てて手を振り答え、こう続けた。
「それにこれ以上の発見がこれからもきっとあるだろうし……今日のこの成果は誇るべきだわ」
「そう……そうね、そうよね、今日は記念すべき日だわ!」
「そうそうその調子、元気なのが蓮子の取り得なんだから」
「じゃあ元気が出たついでに、帰りに博多に寄って水炊きでも食べましょうか」
「もう蓮子ったら……奢りならいいけど?」
「もちろん、しかもビールと地酒付きでよ」
「行きましょう」
蓮子に元気が戻り、嬉しそうに現金さを覗かせたメリー。そう二人で笑い合い、神社を後にしようと踵を返し鳥居の真下まで来た瞬間、異変は起きた。
ピシィッ――という音が後ろから聞こえ、振り返ると先程まで自分達がいたその場所に亀裂がはっきりと姿を露わにしていた……それも、普段視えない蓮子ですら認識出来る程に。
「メリー、あれっ!」
「落ち着いて蓮子、もしかしてアレ、視えてるの?」
「バッチシ」
そうしてる間にも二人の目の前でその亀裂はどんどん罅割れ、やがてガラス細工の様に音を立てて崩れ落ちた。そしてそこに現れたのは――
「……祠?」
「祠、ねぇ」
この朽ちた神社にはおよそ似つかわしくない真新しくも小さく、それでいて荘厳な祠が現れたのであった。二人は顔を見合わせた。
「どうしょう?」
「……近付いてみましょう」
そう言うとメリーはその祠へ歩を進め、蓮子はそんなメリーに慌ててついて行く。まるで、急に現れた得体の知れないその祠を恐れていないかの様に、二人は躊躇することなく祠の前まで来てしまった。
「でもこの祠、何で急に現れたのかしら?何かの罠とか?」
「分からないわ、ただ」
「ただ?」
「危険な物ではない……そんな気がするのよね」
メリーの言葉に蓮子も頷いた、急に現れたにもかかわらずその祠から受ける印象はまるで、ここに来た時から既にその場所にあったかの様な不思議な感覚であった。
「中……何が入ってると思う?」
「さぁ、常識的に言えば小さな神像とかじゃないかしら?」
「どうする?」
「どうするって私に言われても……蓮子はどうしたいの?」
「開ける……わよね?」
「まぁ、それもそうでしょうね」
そう言うが早いか蓮子よりメリーの方が先に扉に手を掛け、そしてゆっくりと開けた。中に入ってたのは――
「……本?」
「みたいね」
古ぼけた書物が一つ、そこに納まっていた。紙は古色著しくも、それでいてついこの間にしつらえたばかりの様に平然とそこにあった。
「見てみましょう」
「ちょ、ちょっと待って」
メリーが手を伸ばし書物を取り出そうとするのを蓮子が慌てて止めた。
「どうしたのよ蓮子?見たくないの?」
「いやそうじゃなくて、ここ一応神社だし」
「……あぁ、それもそうね」
はやる気持ちを抑え、再度お賽銭箱に相場の、それでもさっきよりは奮発した金額を入れまたも鳴りはしない鈴を揺らしお参りをした。そして再び祠の前に立ちそこでも柏手を打ってからその書物を取り出し、表紙をまじまじと見る。
「これ、一体何て書いてあるのかしら?」
「そうね、草書体みたいだから多分……」
メリーは表紙の文字をなぞりながらどういった漢字か判別しようとする。蓮子も真似て宙に文字を書くものの、文字通り空を掴むように全く見当がつかなかった。
やがてメリーがゆっくりと口を開いた。
「恐らくだけど、ところどころ読めた漢字と字面と見た感じで絞っていくと……」
「いくと?」
「『幻想郷妖怪消失史』って書いてあるんだと思うわ」
メリーはそう言うとその書物を慎重に捲り始めた、最初に作者の注意づけと名前が書いてあるようだが相変わらず草書体、しかも若干擦れていた為飛ばす。続いて目次と思わしき頁も細かい字で草書体が無数に綴られて、とてもじゃないけど表紙の様には読めるものではなかった。
「何これ、全然読めないのだけれど」
「まあまあ、一応全部見てみようよ。もしかしたら絵柄付きで何の妖怪か分かるかも知れないし」
「分からなかったら水木大先生に絵を描いて貰いたいわね」
そう宥め先を急かす蓮子にメリーは皮肉で答えつつ、次の頁を捲ると確かに絵はあった。しかしその殆どが二人がこれまで見て来た様な姿をしてはいなかった。
いくつかの妖怪は分かったがあとは姿がおぼろげに描かれていたり、これといった特徴が無いかもしくは最初から絵が描かれていない、そもそも草書体の漢字の崩しが激しすぎて分からない等、わざと難解にしているかの様だった。
朽ちかけの神社の比較的安全な縁側に腰掛け書物を眺めていたものの、これ以上の収穫は無さそうで寝転がりながらそろそろ博多に行ってしまおうかと思った矢先、メリーが「あっ」と声を上げた。
「どうしたの、鬼○郎でも載ってた?」
「んー、違うけど遠からずってとこね」
「えーどれどれ」
蓮子がメリーの手を止めた頁を覗き込む、するとどうだろう、先程までの読み辛かった草書体から一変、幾分か読みやすい行書体になっておりそこに書かれた妖怪名もはっきりと読み取れた。
「『塗壁』……ってあのぬりかべ?」
「でしょうね」
「ぬりかべかー、いやー懐かしいわねー」
「私は好きな妖怪と聞かれたら一反木綿の次に好きな妖怪ね。蓮子は?」
「あ、私は逆。ぬりかべが一番で次が一反木綿だわ」
そう言い合いつつ絵を見やるとそこには私達が知る壁の様な大きな姿に眼と手足が付いた姿ではない、ましてや三つ目の犬の様な姿でもない、人間と何ら変わらない様な姿で描かれていた。ただそれでも人ではないと判別出来るのは左眼から左頬、鼻、そして額にかけて大きな罅割れとも取れる傷痕の描写がなされていたから。そして眼光は鋭く、笑った口から鋭い犬歯が覗いているとこだろうか。
「何か今まで知ってたぬりかべと違うけど、これはこれでありかなぁなんてね」
「あら、私は割と好きよ。なんかこう……雄々しくて」
「でも何か喧嘩好きそうな感じしない?この絵だとさ」
「いいんじゃない、だって犬みたいなぬりかべの絵だってあるんだし。それに福岡の人ってそんな感じしない?」
「人じゃないけどね。そういえば福岡だったっけ、ぬりかべの伝承地って」
そうである、何と今いる福岡県はぬりかべの発祥地、かの有名な柳田國男(蓮子は何故かこの名前を聞くと、頭の中に杉田玄白の絵が出て来てしまう)が民間伝承を集めた本に『塗壁』の伝承を寄稿した事から名が知られる事となった。
おおよその伝承や最近の新説等はかの水木大先生のおかげもあって知れ渡っているだろうから省くけど、この書物に書かれている内容は全くと言っていい程に違った内容であった。
蓮子達はその文章を夢中で読み耽った。悪路を走るバイクの音も、それが停車する音も、ましてや誰かが目の前に立つ音さえも聞こえぬ程に――
「……何しよーとか?お嬢さん方」
『キャーッ!?』
急に掛けられた声に二人は叫んでしまった、まさかこんな寂れた場所で人に声を掛けられるなんて思いもよらなかったからだ。周りの木々から驚いた鳥が一斉に羽ばたいては飛び去って行き、鴉の物だろう、黒い羽根が数枚が葉っぱに混じって落ちて来る。
そんな風に舞う羽根に妨げられた視界の前に現れたのは黒いライダースーツを来た男性だった。これでもかと紅く染め上げられた長髪。眼はサングラスに隠れ左頬には対極をあしらった入れ墨が入っており、仮に先にこの人が神社にいたとしても蓮子は驚いただろう。
「ちょっち落ち着きぃよ……そげんしゃあしくおらばんと良かろーもん」
「あの、えーと、すみません……?」
「そげんびっくりするって事はなんか、悪さでもしよーとか?」
蓮子が少しキョトンとしてるのを見て男性は怪訝な顔をする、少しの間その顔だったがやがて合点がいった様だった。
「何だお嬢さん達、ここら辺の人じゃないのか?」
「え?……あ、そうです」
急に標準語になった目の前の彼に顔を見合わせる蓮子達を気にかける様子も無く、彼は「そうかぁ」と一人で納得している様だった。
「どおりで、こっちの方言で喋りゃ地元民なら大体つられて方言全開だかんなぁ。ちなみにどこから来たんだ?」
「京都です」
「京都?そりゃまた……ここは地元の人間にすら忘れ去られた様な場所だからな、そんな西から人が来るとは思わなかったぜ」
彼は頭を掻きながらに顔を背け「京都か、久しく行ってねぇな……」と呟いていたが「いやいやそうじゃない、そこじゃないだろう」とこちらに振り向き直して聞いて来た。
「そうだよ、お嬢さん達は何故京都からこんな寂れ朽ち掛けの神社まで来たんだ?」
「え、えーと……」
「サークル活動です」
蓮子が夢で見たのでと言おうか悩んでいるとメリーが先に答えた。嘘ではないので私も「そうです」と肯定しておいた。それでも彼は怪訝な表情をするので活動内容をメリーが大まかに伝えた。
その間、私は彼を観察する様に見た。するとどうだろう、先程は彼の出で立ちに場違いだなぁといった感想を持ちはしたが、こうして見るとやけにこの場に合っている様な不思議な感覚を覚えた。今日そう感じるのは既に三回、夢での感想も回数を入れれば4回目になるのだが、何と言うか、雰囲気が――
「……あぁ」
そこで蓮子は合点がいき、目を瞑りながら呟く。何となくだけれど彼は『彼女』にどこか雰囲気が似ているのだ。瞳を閉じた瞼の裏に、夢で出逢いし彼女の残像が蘇る。
そしてそこで思う、夢の中の彼女も、ここにいる彼も、この世の者ではないのではと――神社は元より、鳥居によって神の住む神域と人々が住まう俗界とを分かつ、いわば境界に隔てられた世界である。そして中には妖怪とされる神、それが神格化された妖怪なのか、はたまた零落した神なのかはさておき、そういった妖神を祀る神社も少なからず存在する。
故に蓮子は、あの彼女の妖艶さ、目の前の彼の不可思議さにある種の妖気というか、何かしらの得体が知れない雰囲気を感じたのであった。
そうでなければこの二人が似ているとも、はたまたこのような寂れた神社に片や洋風のドレス(しかも紫色)、片や真っ赤な髪のいかにも場違い的な二人が神域たる神社にここまでごく自然に見えるはずが無いと、蓮子は自分の中で無理やり推理を自己完結させた。
……ようはそこまで重要な事ではないのであった、あぁ早く水炊きが食べたいなーなんて思う。
「しかしまぁ、こんな時間までこんな何も無い寂れた神社にいても面白くないだろうに」
「いえ、中々興味深かったですよ」
「ふーん……ところで、お嬢さんが持ってる本はどうしたんだ?」
「え?」
顔を上げると彼の顔がメリーの胸元、正確に言えばそこに抱き締める様に持っていたあの本に向けられていた。サングラス越しでよく分からないが、もしかしたら睨みつけられているのではないかと思えるような威圧感を一瞬感じた気がした。が、彼はすぐに笑顔で「良かったらその本、ちょっと見せて貰えないか?」と言って来たのでメリーはその本を手渡した。
彼はその本を丁寧に受け取り、表紙を暫く眺めた後に頁を捲り始めた。ペラペラと割と早い間隔で頁を捲っていたがその手が不意に止まった。見たところ、最後の方の頁の様で恐らく、というよりも何か確信めいた感じがした。恐らく先程まで食い入るように見ていた『塗壁』の項目を見てるんだろうなと。
「成程な」
それから少しして、彼はそれだけ呟きメリーに「ありがとな」と言いながら本を返して来た。サングラス越しではその表情はやっぱり読めないし、先程感じた威圧感も気のせいだったのだと思っているとメリーが口を開いた。
「この本の事、何か御存じなのですか?」
「あぁまぁな、大分昔に見た事がある」
彼はそれだけ言うとメリーから視線を外し、祠の方に近付く。まるでそれ以上の問いを遮るかの様に丹念にその祠を調べて行く。
「この祠は、お嬢さん方が来た時にはあったのかい?」
「それは……」
その問いに答えを窮したのはメリーであった、確かに崩れ落ちた空間の亀裂から祠が出て来たなんて行っても信じて貰えないだろう。良くて冗談、悪くて幻覚でも見たか狂言だと捉えられてしまうだろう。そこには蓮子の知らない、出会う前のメリーの葛藤もあっただろうから――
それでも蓮子は意を決していた、何故だと聞かれても分からないけど目の前にいる彼になら言っても大丈夫だと思った、だからこそ言った。
「その祠は私達が来た後、そこにあった境界の亀裂が崩れてそこから現れたんです、そしてその本は祠の中にあったんです」
「ちょっ……」
恐らく蓮子の名を呼ぼうとしたメリーの言葉は遮られてしまった。何故なら目の前の彼は一瞬その空間に振り向き、それからこちらに向き直したかと思うと急に笑い出したのだった。
「何だ何だお嬢さん方っ、あれが見えるのか!」
「えーと、まぁ見えますけど……?」
「そうかそうか、いや嬉しいね」
呆気に取られている私達にそう言うと彼はまた目を逸らし、遠くを見るかの様に「成程、だからアイツここに……」と呟き、そして本当に嬉しそうに声を上げて笑っていた。二人はと言えばただただ不思議さのあまり顔を見合わせるだけだった。そうしていると彼の笑いも少しずつ収まって来た――
「いやすまないな、お嬢さん方のお陰で懐かしい奴の事を思い出してな」
「はぁ……」
「この罅割れが見える人間は相当希有なんだよ、俺が知る中じゃ一人……いや二人かな、うん」
「まぁそういった奴がアイツの好みなんだがねぇ」と彼が急に真顔になりボソッと言ったのが微かに聞こえたが、それにはお構い無しにメリーが口を開いた。
「失礼ですが、貴方はその罅割れの事、何か御存じなのですか?」
「まぁ、そんじょそこらの奴よりはな……逆に聞くがお嬢さん達はこの亀裂が一体何なのかっていう考察を聞かして貰いたいな」
その言葉に、メリーがコホンと咳払いをしてから答える。
「境界の亀裂とは結界がそこにあり、その結界に何らかの要因で罅が入った……という事かと」
「他には?」
「結界というのは例えば境界を示すモノ、その他には何かを守護するか、もしくは封じ込めるモノ……ですからそれに罅が入っている事は――」
「結界が壊れるってこと?」
彼とメリーの話に入れなかった蓮子が漸く最後の言葉を言って胸を張ると、メリーは呆れたように溜息を吐き、彼は苦笑しながら「まあ、そうだな」とだけ言った。
「さてと、こっちも聞きっぱなしというのもあれだからな、一つ教えてやろう……と言ってもその本や境界の事は教えてやれんが」
「えぇー何でです?」
「いきなり答えを貰っても面白くないだろう、だからヒントをあげるだけさ」
そう言うと彼は神社の鳥居を指差した。
「この神社の名前、何て言うか知ってるか?」
「え?」
「いいえ、あの鳥居の額束にはもう何も刻まれてませんでしたし」
「そうだろうな、この神社も建って幾年も過ぎたからな」
そう言う彼の表情からは慈しみの様な表情が見て取れた。そしてそれに答えるかの様に、風に吹かれて鳴らない鈴が揺れ、幽かに鈴の音が響いた様に感じられた。
その風が止み、静寂が訪れた――鳥居の先の燦々と輝く夕日に照らされ周りの木々は暗い影を成し、辺りは不気味な雰囲気を湛え始めて来た。それでも恐怖は感じないのはこの神社の朧気な雰囲気から来るものなのか、眼の前に彼がいるからなのかは分からなかった。
「この神社の名は『護神神社』――護り神の神社さ」
彼がそう言った瞬間、確かに神社を覆う空気が幽かに震えた。
「そんな事よりお嬢さん達、帰りの足はあるのか?」
「えぇ、そろそろ電車で博多に行って水炊き食べて、それから夜の最終で京都へ戻ろうかと」
「来ないぜ、電車」
「………………はい?」
石燈籠に火を燈し、彼はその蝋燭を手持ちランタンに入れながらそう言った。淡い光に照らされた神社の境内に、私達と彼の三人だけがいる。あの後、蓮子達の彼への矢継ぎ早の質問は全てはぐらかされてしまった、正確には壁に弾かれるような感覚だった。代わりに彼の口から出てきたその言葉に蓮子は黙り込んでしまった、何せ文字通り言葉を失ってしまったからだ。
そんな蓮子とは対照的にメリーは平然としたままだった。
「でもまだ十八時ですよ?」
「いやまぁその……田舎だしな、そう田舎だからな」
そんなメリーの問いに対し少ししどろもどろになりながらも彼は答えた。福岡と言えどそういう場所もあるのかとは思ったけれど……。
「えーどうしよう……近隣の駅まで行ってから博多に行くのは無理なんですか?」
「無理じゃねーけどな、博多まで鈍行な上に乗り換えが結構必要だぜ?」
「じゃあ水炊き、食べてる余裕は無さそうね」
「え、何でよ?終電逃してもネカフェに泊まって明日帰ればいいじゃない」
「女子大生が夏休みにネカフェってどうなのよ?」
蓮子は正直有りだと思った、どこかコインランドリー付きの銭湯を探して身体と服さえリフレッシュさえすればさして問題も無いだろうし。そう言うとメリーはまた溜息を吐いた、「幸せ逃げちゃうわよ」と言うとまた吐かれた。一体何だって言うのか?
「蓮子、まさかとは思ってはいたけどやっぱり忘れてるようね」
「何を?」
「貴女、明日補習でしょ」
「…………あぁぁぁぁぁぁー!?」
そうだった、夏休みが始まる前日、つまり昨日の事。とある教授に呼び出された蓮子は夏休みの最初の一週間、ありがたいことに補習が決定していたのだった……だから昨日しこたま泥酔するまで教授の悪口を言いながら飲み明かしたのであった。いやお酒って怖いわ。
「で、酔って憶えて無かったと……」
「はいっ、忘れてました!!」
「……はぁ。まぁそんな訳だから、水炊き食べてたらまたお酒飲むでしょうし、酔い覚ますとしても二時間は欲しいわ。なのに、ここから博多までは」
「普通に行けば一時間弱ってところだな、しかし今日は」
「夏休み、だから一時間とプラスαで仮に一時間半としても博多発新大阪行きの最終新幹線が二十一時十四分に発車よ。だからそれを考えるととてもじゃないけど水炊きと地酒を楽しむ余裕は無いわよ」
「そんなぁ……」
せっかく……せっかく遠い福岡の地まで来て名物の一つも食べずに(折尾名物かしわ飯弁当は別腹)帰るなんてそんなの秘封倶楽部の活動理念に関わる事である。秘封倶楽部の活動理念は大きく分けて三つ、一つはこの世の不思議を追い、そして真実を付きとめる事。二つ目はメリーとイチャイチャすること。そして三つ目が行く先々の名物に舌鼓を打つ事である。なのに、それなのに……。
「やだー水炊き食べたいのよぉ!」
「ダダをこねても駄目なものは駄目なのよ、蓮子」
「うぅ、メリーのケチ……」
「そんなに目を潤ませても駄目なものは駄目なのよ、それに私はケチじゃないわ」
流石はメリー、中々落ちてはくれない。ならば色仕掛けと蓮子は思ったがそもそもメリーより足りてなかった、何がとかは聞かぬが華である。
「もう補習なんてどうでもいいじゃない、美味しい水炊き食べて美味しいお酒飲めば全てが救われるわ!」
「そして蓮子は足元を掬われると……」
「上手い事言われたー!?」
「それに蓮子、これ以上あの『岡崎教授』を怒らせる勇気があるのかしら?」
「う、うぐぅ」
そう、あの教授と言うのは名を岡崎夢美と言い、私達の通う大学で『比較物理学』なる授業の教鞭を執っている、若干十八歳にして教授になったという天才的な人のことである。しかも女性で蓮子達より2~3歳年上。
授業の内容は正直言うとついて行けてない事も多々あるんだけど、どうも何かしら不思議な事に興味がお有りの様で、体裁だけという事で一応は秘封倶楽部の顧問を務めてくれている。まぁ「体裁だけ、名を貸すだけだからな」とか言ってた割には結構頻繁に情報をくれたり、その活動レポートで学科の単位を秘かに割り増してくれたりするのだけれど。
ただ怒らせると物凄く恐く、レポートを忘れたりすると無言かつにこやかに頭突きをお見舞いされるのだ。蓮子も一度だけその頭突きで三途の川を見た、幸いにも死神に「本日の営業は終了だよ、早く帰んな」と追い返された事もあり今も生きてるけど。
まあそういった関係という事もあり、夏休み中に何かしら秘封倶楽部としての成果を上げる約束で本来なら今日からの補習を一日だけ猶予を貰ったのだった……裏を返すとそういった活動レポートですら夏休み初日の一日だけしか猶予が貰えない程に蓮子の成績は切羽詰まっているという事だ。
あぁ、こめかみに青筋を立て二本の角の幻視すら見させる教授の姿が目に浮かぶ――
「あー、何なら送っていってやろうか?」
「……え?」
見れば彼は笑いながら鍵を振り回していた、察するに車かバイクの鍵である事は明白ではあった。
「俺のバイクと抜け道を使えば、上手く行きゃあ四十分で博多に着くからな」
「でも、御迷惑じゃありませんか?会って間もない私達の為にそんな……」
「いや何、どうもお嬢さん方は他人に感じないという事さ……それに、美味い水炊きと地酒の事なら地元の奴に聞くのが一番だと思うぜ?」
彼は「まぁ、お嬢さん方が知ってるなら別だが」と付け加えた、実は蓮子、朝からの強行軍が故に博多まで行ってから口コミサイトでお店を決めようと思っていたのだ。それを思えば舌の肥えた地元民に聞くのが一番なのは自明の理でもある。
それでも今日会ったばかりの男性に送って貰うのは少々気が引けたものの、移動手段はそれしかない。それなら水炊きを食べなければ良い話ではあるが、トドメに――
「その店、ここ福岡じゃ幻とされてる店なんだよ。一見なら尚更絶対に入れないが俺の紹介なら、な」
腹が鳴った、違った、腹は決まった。
「よーしついて来な」
「お願いします」と蓮子が頭を下げ「人の好意には甘えるべきそうすべき」と無理やりメリーを丸めこむ事に成功すると、彼はそう言われ共に階段を降りていくと白い大型バイクが一台停めてあった、車体の横にはサイドカーが取り付けてありこれなら博多まで行くのは問題は無さそうだったが……
「さてと、どちらのお嬢さんが俺の後ろに乗るんだ?」
蓮子とメリーにそれぞれヘルメットを手渡しながら彼が聞いて来た。そうである、彼氏でも無い男性の背中に自分を預けるのはいかがなものか。それでも水炊きと地酒と幻の名店と聞いてはそんなのは些細な事であった。それは彼がサングラスを外しゴーグルをつける際、蓮子達に素顔を見せまいとすることさえ気にならない程に――
「じゃあ行くぜ、言っとくがここからまともな道に出るまでスゲェ悪路だからな、歯ぁ食い縛っとかんと舌噛むけん気をつけろ……よ!!」
結局水炊きを食べたいが為に蓮子が進んで彼の後ろに座り腰に手を回しメリーがサイドカーに滑り込んだ。それを確認し彼はそう言い終わるが早いかアクセルを全開にし、発車したバイクの轟音が静寂した森を斬り裂いた。私達は声を上げる事も叶わず、否、例え声を発したとしてもっそれはけたたましい駆動音の前では空気を震わせる事も叶わなかっただろう。蓮子はもうただただ彼にしがみつくのが精一杯だった。
それからは彼の言う通り、神社を出てからの五分間は想像を絶するほどの悪路だった。縦横無尽に生え巡る木々の間を縫い、木の根や岩でバイクがバウンドする度に蓮子は彼の腰に回した手を強く締め、メリーに至ってはサイドカーより振り落とされない様に必死に堪えている様だった。そして最後にもう一バウンドすると眩い光に包まれ目を瞑る、どうやらそれまでは淡い木漏れ日しか射さなかった鬱蒼とした森を抜けた様だった。
着地の衝撃で振り落とされそうになるのを堪えると、さっきまでの振動が嘘の様に収まった。恐る恐る目を開けると下は黒い地面、今日この福岡に来て初めて目にするアスファルトであった。蓮子は安堵してメリーを見やると、メリーもこちらを向き同じ様に安堵した表情でグーサインをした。蓮子はそれに対して笑顔で答えたが、顔は引き攣っていた。
それから十五分程は平坦な道を一直線に走る、三人を乗せたバイク以外に車どころか自転車一台走ってはいなかった。相変わらず辺りには空気を切り裂くようなバイクの駆動音が響き渡る以外は長閑な景色がどんどん視界を流れては消えていった。
やがて道の先に不気味なトンネルが見えてきた。電気が通っていない様で、真っ暗な闇は踏み込むものを全て飲み込み溶かすかの様に佇んでいた。それはさながら旧約聖書に出て来るレヴィアタンかべヘモットとでも言えばいいのだろうか、大きな口を開け私達を待ち構えているかのようだった。
ただ今の蓮子に恐怖は無かった、何故なら今は蓮子の方が彼らよりお腹が減っているから。それにさっきの悪路走行のアクロバティックさに比べれば物の数では無かった。
「しっかり掴ってな!」
バイクの轟音に負けない大声で彼は背中越しに叫ぶとスピードを上げた。蓮子は言われた通り彼の腰にしがみつき、メリーはサイドカーに潜り込む様に深く座った。バイクはあっという間にトンネルの闇に吸い込まれた。
トンネルに入るとそこは無音が支配し、外の光さえも射し込まない闇だった。バイクのヘッドライトを点けていても一メートル先すら見えないのではないかと思えるほど深く深い漆黒。ただこの空間に何かしらの違和感を覚えた、けれどその違和感が何かを考える前にトンネルの向こうに突如として光が射した。
轟ッ!と大きな音を立てたバイクは光の中を再び駆け始める、その光はうっすらと橙が消え深い青みを帯びて来ており、そろそろ星が見えて来る頃。数km先には玉色混合のネオンの光が見え、九州一の喧噪が色となりて、目で見て目で聞く博多の華やかさを感じさせた。
「はぁ、凄いわね……」
「京都とはまた違った煌びやかさね」
二人は感嘆の声を上げながら街を見回す。流石に九州一の繁華街、高いビルの間からは美味しそうな匂いが立ち込め、道沿いには屋台が並び豚骨ラーメンの暖簾や旗が風に揺れている。
夏休みの真っ只中という事もあり人でごった返した歩道同様、車道にも車が長蛇の列をなし、大型バイクであるが故に車の間を縫う事の出来ない彼はバイクのハンドルになんかかっていた。神社より殆どノンストップのバイクで駆けて来た蓮子達二人にとってはやっと一息つけたので、この渋滞は寧ろありがたかった、何しろつい五分程前までは街中だというのに殆どずっとスピードを落とさず走っていたのだから。それでも――
「進みませんねぇ」
「あぁ、そうだな」
「お腹空きました」
「あぁ、だろうな」
さっきから蓮子のお腹は鳴っており、その振動は背中越しでも彼には伝わっているだろうが色気より食い気、恥じらいなんかよりも空腹を満たすのが先決である。何せ目には暖簾に旗に提灯に、鼻に湯気が匂いが立ち込めて、耳には屋台からの人々の声に麺を啜る音……あぁ、お腹を刺激する事この上ないという顔で若干涎が出て来た蓮子の口をメリーが拭いていた。
「まだなんですかぁそのお店」
「まぁ待ちな、次の角を曲がったら五分とかからないからよ」
彼の視線の先には人の流れに掻き消されそうな、それも軽自動車ですら入るのは難しそうな狭い路地が一つ見えた。ただそれ故なのか、人の流れはその路地に立ち入るどころか見向きもしない様だった……まるで見えてないかの様に。
「あの路地に入ればこっちのものだぜ」
「まぁ何でもいいです、美味しい水炊きと地酒を堪能出来ればそれで」
「蓮子、少しは遠慮したらどうなの」
「構わねーよ、女子(おなご)はそうでなけりゃな……お、動いたな」
低いエンジン音を響かせ前へと進み行き、角に差し掛かると左のウインカーを点けると人の流れが一瞬止まる。誰もが無意識に立ち止まって見えたのは空腹で意識が朦朧としてたからだろう。バイクが轟音を鳴らし路地に入っていくと人々の流れは何事も無かったように流れ出す、まるで蓮子達がこの路地に入った事すら気付いてないかの様に。
軽自動車ですら通れそうにない路地をサイドカー付きの大型バイクは悠々と進んで行く、それはさながら建物が道を開けてる様で、けたたましいエンジン音が建物に反響して響き渡るのは御愛嬌、けど五月蠅い、蓮子の腹の虫といい勝負だった。
「そろそろ見えて来るぜ、お嬢さん方」
前を見れば路地の奥に古い民家の様な建物が見えて来た。ふと空を見上げると博多の街に来て初めての月と星を見た、時刻は一八時三十六分五十四秒。確かに四十分程で目的地に着きそうではある。
「やっと着いた~……」
それからきっかり三分後、蓮子達は古めかしい重厚感を湛え、それでいて親しみを感じさせる趣のある日本家屋の前にいた。彼に続いて流木で作ったかの様な歪な鳥居風の門をくぐると玄関前でお店の人が「いらっしゃいませー!」とお辞儀で出迎えてくれた。玄関の上に飾られた看板には漢字で一文字だけ、『縁』と書かれていた――
「えぇー、帰っちゃうんですか?」
「あぁ、悪いが俺にも都合があるからな」
このお店の二階の一番奥、一番お高いであろうお座敷に案内された所で彼は「じゃ、楽しみなよ」と言い出したので聞けば、今夜あの神社で集まりがあるのだとか。「怪奇サークルも集まりですか」と冗談半分で言ったら「まぁそんなもんだな」と返されてしまった。
「店主には話は済ませてあるから」
彼が去ろうとするので蓮子とメリーが深くお礼をすると、彼は笑顔で手を振り返し、そして襖を閉じた。それからトンットンッと階段を下りる音がし暫くしてから外からバイクのエンジン音が響く、窓から覗くとこちらに向かって拳を突き上げる彼の姿が見えた。
蓮子達が手を振ると彼は右手で敬礼の様な所作で返し、それからハンドルを握って爆音を鳴らしながら狭い路地へと消えて行った――
それからはまさに夢の様だった、地鶏の水炊きに地酒の数々、どれをとっても幻の名店というに相応しい味だった。それらを堪能し、お酒と水炊きで火照った体も冷めてくると時間は二十時四十二分十四秒、店員の話だとのんびり行っても博多駅までは二十分程という事なので、終電の時間も考えるとちょうど良い頃合いであった。
そしてそんな至福の時間の極め付けは「お代は結構です」と会計時に言われた事である。確かに言われてみればこのお店に着いてすぐ、彼は店主と思わしき着物姿の男性と何かを話していたのだが、まさかそれがお会計まで済まして貰っているとは露知らずにいた。
しかし店員に問い質すと「いえ、お代は頂いておりません」と言うので首を傾げていると店の奥から着物姿の店主が姿を露わした。
「アァ、オ代ハ要リマセヌヨ、アノオ方ヨリゴ紹介ノ貴女達ハ特別デスカラ」
えらく片言な言葉が表すかの様に、存在自体が幽かに思えるその御主人はそう言うと玄関で高下駄を履き、「駅マデゴ案内シマショウ」と私達に言い外へと出た。蓮子達が慌てて靴を履き外へ出ると、彼はいつの間にやら提灯を持ち、路地へと消えて行くところだった。
――カランコロンと小気味いい音を巨人の影の様にそびえる摩天楼に反響させながら、淡い提灯の光を頼りに狭い路地を進んで行く。その摩天楼の遥か上に輝く月は今が二十時五十四分十七秒である事を告げていた。
「そういえば蓮子」
「なーに?」
「彼の名前、聞いたっけ?」
「……あれ?」
ほろ酔い気分で思い起こせば、そういえば彼の名前はおろか、蓮子達二人も自分の名前を名乗ってすらいない事に気付いた。
「何で私達、名前を聞こうともしなかったのかしら……?」
「えっと、彼も聞かなかったし名乗りもしなかったから?」
「それじゃあ今時の小学生の方がよっぽどしっかりしてるわよ」
「んーとじゃあ何でだろう?急に目の前に現れたし話しかけてくるのが殆ど彼からだったからかなぁ」
「あぁ、それはあるかもしれないわね」
メリーは口元に握った手を当て、蓮子は腕を組みながら考える。そもそもおかしな話ではあるとは思った。何たって初対面の、しかも異性に対して名乗らなかったのだから、幾ら彼が名乗らなかったからと言ってもお粗末な話ではある。
しかもそんな相手にいくら他に選択肢が無いからと言ってバイクに乗せて送って貰い、あまつさえ一見お断りの幻の名店に紹介までして貰って、挙句の果てには奢ってまで貰ったにも拘らずである。
メリーが言った事も一理あるかななんて納得しかけたけど、それだけの理由では無いと思った。そう、それはまるであの神社に行った時と同じような感覚――
「オ懐カシクオ感ジニナラレマシタカ?」
その声に顔を上げると前を行く御主人が横顔をこちらに向け儚げな表情に笑みを浮かべていた。
「懐かしい……?」
「そう……そうだったのかもしれませんね」
メリーはそんな御主人の言葉を肯定し、その横で蓮子は考える。確かに懐かしかったと思えば全ての辻褄が合う、それこそあの神社に初めて来たというのに感じた感覚と同じなのだから。
「懐カシイトイウ事ハ親シミヲ感ジルトイウ事デモアリマスカラ、名ヲ知ッテイル……ソウ錯覚シテモ仕方ノ無イ事デスヨ……特二彼ノ場合ハ」
御主人はそう最後に付け加えて微笑んだ。そうして前を向き前へ行こうとした時――
「彼のお名前を御存じですか?」
「……エェ、ヨク存ジ上ゲテオリマス」
メリーがそう尋ね、彼は歩みを止めた。提灯の灯りが怪しく揺らぎ、彼の顔に暗い影が浮かぶ。
「もし差し支えなければ、彼の名をお教え願えませんか?」
「ちょっとメリー、一体何を……」
「蓮子だって知りたいでしょ?彼の名前」
「それはまぁ」と言う蓮子とメリーを交互に見て、彼は笑ったと思った……いつの間にか出した扇子で口元を覆い隠していたからついぞ分からなかったが。そしてその扇子を畳み口元に当てると少し間を置いて、小さく頷いた。
「名ヲオ教エスルクライナラ構ワナイデショウ」
「いいんですか?」
「知リタクナイノデスカ?」
「余計な事言わないの」とメリーに突っ込まれた蓮子に「冗談デスヨ」と悪戯っぽく笑って口元を再び扇子で覆い隠すと、まるで懐かしい想い出を思い出すかの様に彼は言った。
「彼ノ名ハ壁羅……護神壁羅ト申スノデスヨ――」
「ソレデハオ気ヲツケテ、マタ『縁』、ゴザイマスレバ……」
彼はそう深々とお辞儀をすると狭い路地へと再び戻って行った……淡い提灯の光が幽かに滲んで闇へと溶けていくのだった。
あれから蓮子とメリーは御主人の言葉に顔を見合わせ、更なる質問を重ねようとした瞬間には彼は既にこちらへ背を向け、先ほどよりも少し早い足取りで前へと進んで行った。言葉を紡ごうとすればその言の葉は静寂の支配する無音の闇に紛れ、前行く淡い提灯火が幽かに揺らいでは消えそうになる……まるでその先へ踏み込む事を拒むかの様に。
結局それからは、眩いネオンと人の喧噪に彩られた博多駅の見える大通りに出るまで彼が言葉を発する事は無かった。それにつられたかの様に蓮子達もただただ無言になり、次に口を開いた時は切符を買い終え新幹線に乗り込んだ後であった。
「凄い一日だったわね」
「ホント、疲れたわね」
夏休みでありながら運良く空いていた指定席に座り、売店で買った紅茶を飲みながら今日一日に思いをはせる――夢に始まり不思議な電車、朽ちかけの神社、崩れかけた結界の罅割れ、急に現れた祠と中に入っていた本、そして――
「護神壁羅……」
「そこよね……」
くしくも神社と同じ苗字を持つ彼の事を思い出しながら、蓮子は少しウトウトし始めた。そんな蓮子にお構い無しにメリーは続ける。
「でも出来過ぎね、彼との出逢いは」
「そうね、彼もそうならそうと言ってくれたらいいのに。同じ名前って事は宮司か何かでしょう」
「それは無いわね、あんな髪の紅い宮司なんていて堪るものですか」
「だからあんなに朽ちてるんじゃない、神社」
「……あぁ、成程」
「って、そうじゃなくて」とメリーはバックからあの神社で手に入れた『幻想妖怪消失史』を取り出して開いた。それは唯一読むことの出来た『塗壁』の頁であった。
「『塗壁』がどうしたのよ?」
「似てると思わない、彼に」
そう示す先に描かれた絵は今こうして見ると、確かに彼に似ている。でも――
「彼の左頬に傷なんて無かったわよ」
「最近はタトゥーシールとかあるじゃない、それだとしたら」
「妖怪がそんなの貼る?」
「かもしれないわ」
「だって妖怪だもの」なんて言いながらメリーは紙に彼の名を書き出し、ある文字の上にもう一つ、別の文字を書き足した。
「護神『壁』羅と塗『壁』……これを偶然と言うには奇跡が過ぎると思うわ」
「確かにそう言われてみるとそんな感じがして来たわ」
蓮子は絵を見つめた、見れば見るほど似てる――だから彼は名乗らなかったのだろうか?ちょうどその瞬間、発車時刻を知らせるベルが鳴り響き、メリーは静かに本を閉じ微笑みながら「冗談よ」と言った。
「こじつけただけよ、真実は彼に聞かなければ分からないでしょうね」
「話してくれるかしら?」
「さぁ」
新幹線は動き出し、博多の街はすぐに見えなくなり新幹線は関門海峡、あの壇ノ浦の地下トンネルへと差し掛かった様だ。ここを過ぎれば本州、長いようで短い一日を過ごした福岡に思いをはせた。
「また……来たいわね」
「来たいのではなく、会いたいんでしょう?」
「そうかもね」とだけ言うと蓮子はゆっくり目を閉じ眠りについた……再び夢に誰かが出て来た気もしたがメリーに叩き起こされ忘れてしまった。そして京都駅より何とか自宅まで帰り着き、シャワーもそこそこにメリーと共に眠りに落ちた事で二人の旅は終わったのだった――
後日、岡崎教授の補習を終えようやく真の夏休みを迎えた蓮子はその夏休みの最終日にパソコンに向かい文章を打ち込んでいた、無論岡崎教授への提出レポートである。
題名は『信貴山に置ける伝説を解く』――内容の前半は聖徳太子が毘沙門天の加護に感謝し創建したとも言われるお寺があり、また命蓮上人という修行僧の伝説で知られる奈良県の信貴山のレポートであり後半はその近隣のグルメリポートである。一昨日大慌てでメリーと共に奈良県まで行って調べた物を纏め上げたのだ。
しかし何故折角福岡まで行って不思議な体験をしたのにそれを報告しないのか?それは
岡崎教授の六日間の補習を終えヘトヘトになって帰って来た私にメリーが告げたのは驚くべき真実だった。曰く、護神神社なる神社は既に存在しないと――
聞けば蓮子が補習で大学に赴いている間、レポートの為にネットで調べていたら、福岡に護神神社と思わしき神社があったのは十三・四年程前であり、しかも火災や取り壊し等では無く突如として姿を消したとあった。更に調べていくと福岡の怪現象としてその護神神社と共に消えた村、冥道に通じあらゆる場所に行けるという封鎖されたトンネル、そして博多にあるという蜃気楼の様に語り継がれる幻の名店――どれを取っても蓮子達が体験した出来事と酷似していた。そう、まるで夏の陽炎の様なあの一日とあまりにも。
そしてメリーはこうも言った、遠賀郡から博多まで高速を使えば確かに三十分弱で行けるもののそうでなければ四十分程度で行くことは不可能だと――そう、彼は夏休みだからと渋滞してるであろう高速は使わずに県道を走り、しかもその道には一台も車が無く更に言えばトンネルを潜って直ぐに街に出たではなかったか。法定時速を遥かに超える速度を出せば可能だろうが彼のバイクは神社からあの渋滞に嵌まるまでほぼ同じ速度を維持し、その速度も博多の市街地を走っていた他の車と変わらない速度で。ましてや生身と言っていい程の軽装であった女子大生二人を乗せていた事を鑑みればそのような無茶なスピードは出せなかったはずだ。
それにあのトンネル、博多のあの路地裏がそうだったようにあの様な狭い空間では音が反響し何倍何十倍と響くはずが、今思えばあのトンネルだけがあれだけの爆音を響かせていたバイクの音が全く反響してなかった。
それだけの不思議な体験をしたにも拘らず、あの日の出来事を封印すると決めたのは彼の存在があったから。あれだけの一日の中で最も印象に残った彼に再び会い、また話すまでは二人だけ、否、彼と、そして彼女を含めた四人だけの秘密というのが正しいのかも知れない。
夏休みが終わり大学が始まった、急ごしらえのレポートではあったが後半のグルメレポートとメリーの切り札、自由が丘にある名店のケーキ(一日限定十個のみ、税込四千二百円)のおかげもあり足りない単位は何とか補えそうであった。
その日の帰り、蓮子とメリーはまた、秋の連休の時に福岡を再び尋ねようと約束した。もう何も見つからないかもしれないが行くだけ行ってみようと思ったのだった。
しかしその約束もあの神社も、そして彼の事すらも頭から吹き飛ぶ現象が起こった。そう、それはまるで福岡にかつてあったというあの神社と同じように――
――長野県某山、その頂にあった神社が湖ごと、一夜にして姿を消したのだった……。
次回も期待して待っています。
プロ作家のような連載に憧れていらっしゃるようですが、果たしてここを見に来ている方のどれくらいがそのようなものを求めているのでしょうか
いくつも不定期で並行して書くくらいなら始めから一本に絞り書き上げたほうが良いかと思われます
応援してます。