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夢が偽りだというのならこの世界は嘘吐き達の住む箱庭
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~其は赤にして赤編 8
第十節 殺人の感触
妖夢は目尻の涙を拭って布団から起き上がった。友達が亡くなった事を悲しんでずっと泣いていた。どれ位の時が経ったのか思い出せない位にずっと。
起き上がったのと同時に、電話が掛かってきた。枕元に手を伸ばし、電話に出ると、端末の向こうからシャウナの声が聞こえる。
「妖夢? 大丈夫なの?」
大丈夫だと答えようとしたが、言葉が出てこなかった。ずっと泣き続けていた為に、声が枯れていた。
「妖夢?」
声が枯れた妖夢は黙っている事しか出来ず、ただシャウナの言葉を待った。
シャウナは今、美貴達が運ばれた病院に居る筈だ。そのシャウナが電話を掛けて来たという事は。
助かったか。
亡くなったか。
息を詰めてシャウナの言葉を待っていると、やがてシャウナは言った。
「妖夢、聞いて。美貴達が目を覚ましたの」
それを聞いた瞬間、妖夢は急いで駈け出した。寝間着姿のままであったが、形振り構わず病院へと駆けた。三人が戻ってくる。恥ずかしさなんて気にならなかった。
妖夢は青白い月の光に照らされた真っ更な街路を走りぬけた。何処にも人の姿は無い。音も無い。青白い水に沈んだ夜の町を妖夢は息継ぎもせずに走り続けた。
やがて目的の場所に着く。
八意の中央病院。その建物は目の眩む様な光を放っていた。美貴達を助ける為に、病院は深夜にも関わらず働き続けている。そしてそのお蔭で美貴達は助かった。
喜びに満ち溢れた妖夢は、病院へ駆け込み、そのまま美貴達の下へと駆けた。場所は分かっている。廊下を走り、角を曲がり、階段を上って、目的の部屋に辿り着く。勢い良く扉を開いて中に踏み込むと、辺りには草が生い茂り、向こうには満開の桜が見えた。
そしてその桜の下に居る人影を見て妖夢の目から涙が溢れる。
「みんな!」
「妖夢!」
桜の下に居る美貴達が妖夢に気がついて笑顔を上げた。
涙を拭った妖夢も笑顔になって手を振りながら美貴達の下に駆けた。
白い装束を来た美貴達は笑顔で妖夢の事を迎え入れる。
妖夢はふと違和感を覚えた。だがそれが何か分からないまま、美貴達に囲まれる。
舞い落ちる桜の花弁が妖夢の鼻に触れる。思わず鼻の頭を触ると、いつの間にか手には刀が握られていた。足元には血に塗れた友達が倒れている。背後に気配を感じて振り返ると、桃色の髪をした少女が全てを見透かした風な笑みを浮かべて立っていた。
跳ね起きた妖夢は、額の汗を拭い、辺りを見回した。見慣れた自分の部屋だ。病室でも、桜の下でもない。自分が夢を見ていた事に気が付く。
何処からが夢だったのだろうと考える。
病院に行ったのは夢だろう。だがその前のシャウナからの電話は? 友達を亡くした後ずっと泣いていた事は? 友達が死んでしまった事は? 一体何処からが夢なのか。
流れてきた涙を拭い、枕元の端末を拾い上げる。シャウナからの連絡は来ていない。
シャウナはどうしているだろう。
自分と同じく友達を亡くしたシャウナも悲しんでいるんだろうか。
事件以来、妖夢はずっと家の中に閉じこもっている。あれから何日経ったのか、時間が希薄で分からない。少なくとも二三日は経っている筈だ。現場検証が終わり取り調べを終えた後にも、この家へ警察や医者が訪ねてきた。だが妖夢は全て拒絶した。無理矢理入ってきたので怒鳴って追い返した。警察や医者以外にも何度か来客があったが、妖夢は布団から出る事もせずに無視した。要らぬ励ましの言葉に苛苛する。誰かに会う事が億劫だった。
シャウナも自分と同じ位に悲しんでいるのだろうか。
何もかもを拒絶しているのだろうか。
妖夢はもう何日も、食事すらしていない。死のうとしている訳ではない。ただ物を口にする行為をしたくなかった。友人の死を見せて付けられた次の日に、パッケージに入った牛肉を見て吐いたからか、肉が駄目ならと作った野菜炒めから何の味も感じられなかったからか、味噌汁を口にした途端塩気に酷い頭痛を覚えたからか。もう何日も、何も食べていない所為で思考すらもままならない。しとしとと降りしきる雨を前にして傘を持ち合わせていない時の様な、薄ぼやけた諦念とやるせない倦怠感に包まれてている。
そんな自分の様にシャウナも友人を亡くした現実に苛まれているのだろうか。
妖夢は端末を見つめながら、シャウナに連絡してみようかと思った。もしも苦しんでいるのなら話す事で和らげてあげられないだろうか。
そう考えたがすぐに自分を諌める。
この数日間、妖夢はシャウナの事にも気が回らず、ひたすら友達を亡くした悲しみに沈んでいた。何もかもが億劫だった。きっとシャウナが連絡をしてきたところで、沈み込んでいた自分はそれすらも拒絶していただろう。放っておいてくれと、感謝するどころか、苛立ちを覚えたに違いない。
もしもシャウナが自分と同じ状態に陥っているのなら連絡する事は迷惑になる。少なくとも自分なら迷惑に思った。
だからやめておこうと思った。
シャウナが連絡してくるのを待ってみる事にした。
力が抜けて、持ち上がっていた肩が落ちる。端末を置いて、長く息を吐き、妖夢は涙を拭って顔をあげる。
そこに桃色の髪をした少女が座っていた。憂いている様な目で妖夢の事を見つめていた。
突然の事に驚いて妖夢が声を上げると、桃色の髪の少女もまた驚いて目を見開き、そして嬉しそうな顔で妖夢の肩を掴んできた。
「私の事が見えるの?」
妖夢は悲鳴を上げながら少女の手を払いのけ、両手で少女を突き飛ばした。
気が付くと少女の姿は消えていた。辺りを見回すが部屋には妖夢一人しか居ない。だがまだ何処かに居る気がする。気配とでも言えば良いのか。ふと首筋に悪寒を覚えて振り返る。だが誰も居ない。
荒く息を吐きながら部屋の中を見渡す。誰の姿も無いが、何処かにあの少女が居る気がする。だが暗闇に目を凝らしても誰も居ない。部屋の中に居るのは息を荒げている自分だけだ。
さっき見たのは何なのか。姿はいつもの幽霊だった。でも何だか雰囲気が違った気がした。いつもの心を苛もうとする様な意地の悪い笑みを浮かべていなかった。あの時見せた喜びの顔はまるで。
妖夢は首を横に振る。
一先ず幽霊は居なくなった。
この所、幽霊を見る頻度が増えている気がする。それが自分の生み出した幻覚か、本当の幽霊か、分からないが、自分の中の何かが狂いだした気がして怖かった。
とにかく今は居なくなった。また出てくるかもしれないが。
警戒しながらも一応の安堵をする。
その時、背後から忍び笑いが聞こえた。恐る恐る振り返ると部屋の隅に桃色の髪をした少女が立っていた。
「また殺したのね」
まるで絶対的な捕食者である事を誇示するかの様に、薄っすらと余裕の笑みを浮かべている。妖夢の事を苦しめるいつもの少女だ。
少女はいつもの様に、静かにけれど憎しみのこもった声音で、妖夢を責める。
「私を殺し、あなたの両親を殺し、祖父を殺し、友達を殺し。ねえ、妖夢。あなたはそれを何とも思わないの? 申し訳ないと思わないの? それだけの事をしでかしながら、自分がまだ生きている事を疑問に思わないの?」
妖夢は喉の奥から声を絞り出す。
「私が悪いんじゃない」
「あなたは悪く無い? じゃあ誰が悪いっていうの?」
挑発する様な少女の言葉を聞いて、途端に激情が湧いた。
「お前だ!」
妖夢は立ち上がると刀を振り上げた。
「お前ばっかりみんなに優しくされて!」
妖夢に切り裂かれ、床に倒れた少女は血の零れ出る口を開いて言った。
「私が悪い? ならあなたの両親は?」
「お前の事ばっかり構うから」
「お爺ちゃんも?」
「そうだ!」
「なら友達は?」
妖夢が固まる。
それを、少女は口からごぼごぼ血を流しながら責め立てる。
「美貴と愛梨と芳香はどうして殺したの?」
妖夢が何も言えずに居ると、少女は嘲る様に笑った。
「シャウナばっかり構うから? 新しく来たシャウナをちやほやするから? それとも芳香の事ばっかり構うから? そうよね? 妖夢。あなたの事を無視するからみんな殺したのよね?」
妖夢は体を震わせると、首を横に振った。
「いいえ。違わない。みんなあなたを構ってくれないから殺したの」
妖夢は口を開いて否定しようとする。
だが言葉は出てこなかった。
まるで自分の体が、少女の言葉を肯定している様に思えて、愕然とした気持ちになる。
俯く妖夢の頭に少女の声が掛かる。
「妖夢」
顔をあげると、少女が優しげな笑みを浮かべていた。だがその奥には底意地の悪い悪意が隠れている。
「友達を殺したのはあなたよ、妖夢。あなたの大事な人達を殺したのはみんなあなた。それを忘れちゃ駄目よ」
そう言って笑った。
少女の哄笑が辺りに響いて目が眩んだ。
「妖夢!」
脳を揺さぶる様な衝撃に驚いて目を見開くと、視界一杯にシャウナの顔が映った。
「妖夢! 大丈夫?」
「え?」
「大丈夫なの?」
「シャウナが何で?」
「あなたが心配で来たの! そうしたら倒れてて」
「え? あ、そっか」
納得する様な事を言いつつ、妖夢は何も理解出来ていなかった。ぼんやりと辺りを見回すと強烈な光に目を刺されて思わず目を瞑った。何て事の無い朝の光だったが、それが酷く目に痛い。日の光から顔を背けつつ目を開けると、ここは自分の部屋。そこにどうしてかシャウナが来ている。何かちぐはぐとしている。ついさっきまで夜中だった筈なのに。恐ろしい思いをしていたのに。それが一瞬の間にひっくり返って、明るい朝の日差しの中、優しいシャウナが傍に居る。
「体調が悪いの? って聞くまでも無いわね。風邪? 顔色が酷いわ」
「何色?」
「土気色。死人みたい」
「そっか」
それは相応しい。
いつもならぼんやりとした夢なのに、今日の夢は良く覚えている。夢の中で少女は、妖夢が皆を殺したのだと責めてきた。それは自分の中にしっくりと落ち込んで、覚えは無いけれど真実の様に思えた。もしも自分が、美貴達を殺してしまったのなら、きっと自分も死ぬべきだろう。その意味で、土気色の自分というのはとても相応しい。
「妖夢? 大丈夫?」
「大丈夫。うん、心配してくれてありがとう」
そう言いつつ、妖夢は俯く。
もしかしたら美貴達を殺してしまったのかもしれない。もしそうであるなら自分は心配される様な奴じゃない。そしてもしもシャウナがそれを知ったら自分は嫌われるだろう。
それが嫌だった。
身勝手な言い分だが、自分のしでかした事を知られたくなかった。シャウナに嫌われたくない。
だから何も気づかない内に帰って欲しいと願う。
「痩せこけてるけどご飯食べてる?」
「覚えてない」
「駄目じゃない! 本当に何も食べてないの?」
「面倒だから」
「妖夢?」
「食べなくたって良いの」
そう言って妖夢は、拒絶する様に背を向け、布団まで歩み寄って倒れこんだ。
「妖夢」
慌ててシャウナが助け起こそうとすると、妖夢はその手を振り払って言った。
「放っておいて」
「ショックなのは分かるけど」
「違う」
違う。
違う。
違う。
早くシャウナに帰って欲しい。知られる前に離れて欲しい。
私が美貴達を殺したなんて知られたくない。
「悲しんでばかりじゃ駄目よ」
違う。
自分がシャウナを拒絶しているのは美貴達の死を悲しんでじゃない。恐ろしいのだ。もしも本当に自分が美貴達を殺したのであれば、そしてそれをシャウナに知られたとしたら、シャウナがどんな反応を示すのかが恐ろしい。
怖い。シャウナに嫌われるのが怖い。
「悲しいからじゃない」
ただシャウナに嫌われるのが。
そう言いかけて、妖夢の表情が凍りつく。
今、自分が何を考えていたのかに気がついた。
そして自分が何を言ったのか。
友達の死を悲しくないと言い切った自分に気がついた。
「私」
涙が溢れてきた。
ほんの数日前に亡くなった友達の死を悲しくないだなんて、あまりにも心無い言葉だ。
悲しみを堪えて強がりで言った言葉なら救いもあるが、さっきの自分は本当に、シャウナに嫌われる事だけが怖くて、美貴達の死への悲しみを忘れていた。
自分の本性を見た気がした。
友達の死を悲しまず、嫌われる事ばかり恐れる自分が居る。脳裏で桃色の髪の幽霊が笑っている。
祖父の失踪についてもそうだ。今はもう悲しみが随分薄れてしまった。
両親が死んだ事にに対しては、最早覚えていない。
大事な人達を失った事に対して、自分は何の感情も抱けていない。
そんな事を考えていると、夢の中で少女に言われた言葉を思い出された。
申し訳無いと思わないのか。自分が生きている事を申し訳無いと思わないのか。
思っていない。美貴達の後を追って死んでしまおうと思えない。
みんなの死に対して、何の申し訳も立てようとしていない。
自分という存在があまりにも醜く感じられた。
手を握り締めると感触が思い出される。
刀を握りしめる感触。
続いて、何かを切った感触。
鼻につく血の臭い。
目の前には血だらけの死体。
誰かを切り殺した感触が再現されている。
「シャウナ」
覚えは無い。
誰かを切り殺した覚えなんて無い。
でも現に、触覚も嗅覚も視覚までも、お前が殺したのだと責めてくる。
覚えていないだけで、本当はお前が殺したのだと責め立ててくる。
誰かを殺しながらそれを覚えていないのだと。
反省も贖罪もせずに、こうして生きているお前は生きているのだと。
自分があまりにも醜く感じられた。
「私、死んだほうが良いのかもしれない」
「何を言ってるの?」
シャウナの鋭い声が、自分を責めている様で怖かった。怖くて嫌われたくなくて、口を噤んでしまいたかった。けれど口が勝手に動く。
「私が、悪いのかもしれない」
「何の事? 妖夢、落ち着いて」
「私が、美貴達を殺しちゃったのかもしれない」
口に出すと、そのあまりの恐ろしさに身震いした。自分が美貴達を殺した。想像しようとすると視界が明滅する。
シャウナの反応を見ると、呆然としていた。当然だ。友達が友達を殺しただなんて聞いたら、自分も同じ反応をするだろう。
「さっきから、妖夢、何を言ってるの?」
「もしかしたら私が」
「それは、どういう意味で? どうやって?」
どうやってかは覚えていない。けれど手には感触がある。その時の事を思い出そうとすると、自分が刀を握って美貴達の前に立つ光景が思い浮かんだ。
「あり得ない。あなたが直接美貴達を手に掛けたというのなら、そんな事は絶対にあり得ない。今回の事件は桜の下で死んでいた人達が、自分達自身で殺しあったって結論が出てる」
「でも」
「妖夢、現実を見て。自分がおかしな事を言っている事位分かるでしょ? あなたが殺したというのなら、その時の事を思い出せる?」
思い出せない。
思い浮かぶのは刀を握りしめた自分だけ。
美貴達を切る場面は浮かばない。
でも自分がやったとしか思えない。
だってその感触があるのだ。
「妖夢、何でそう思ったの?」
「夢」
「何?」
夢だ。
最近見た夢。
いつ見たのかは思い出せない。
でもつい最近、誰かを切り殺してしまう夢を見た気がする。
それも美貴達が亡くなってしまうよりも前に、人を切る夢を見た。
桜の木の下で。
刀を握り。
誰かを切り殺した。
目の前には血に塗れた死体があって。
自分はそれを見下ろしている。
誰を切ったのかははっきりと覚えていない。
その夢が何を示唆しているのかは分からない。
でももしも、夢の中で切ったのが美貴達だったら、それはあまりにも現実と符合していて、まるで未来の事を見通していた様だ。妖夢にはそれこそ自分が美貴達を殺してしまった証左の用に思えた。
「私が殺した」
「妖夢」
「だって、そうとしか思えない」
「妖夢」
「だって、私が夢で見て、それで死んじゃったんだから、それ以外にみんなが死んじゃう理由なんて」
不意に、妖夢の頭がシャウナに抱き止められた。
「妖夢、落ち着いて。何が聞こえる?」
優しくしてくれるのが怖い。
優しくされると嫌われた時の反動が大きそうで。
妖夢は怖くなってシャウナを突き放す。
「分かんない! でも私にはそうとしか思えない!」
叫ぶ様に言ってシャウナの事を睨んだ妖夢の目の前に、シャウナの指が突き出された。目を見開いた妖夢に、シャウナが叫ぶ。
「逃げるな!」
驚いて仰け反った妖夢に、シャウナは続ける、
「妖夢、友達が亡くなった事を理不尽だと思うのは分かる。それが信じられないのも分かる。私も両親が亡くなった時はそうだった。でも現実を捻じ曲げて無茶な理由をこじつけて自分を責めるのは、単なる逃げよ」
「シャウナも同じ様な夢を見た?」
「夢は見てないわ。けど私がもっと何とか出来ればって後悔した」
「でも夢で、殺しちゃった夢は、シャウナは見てないんだよね」
「ええ見てない。けど」
「私」
妖夢は自分の両肩を抱いて、唇を震わせる。
「分かってる。私、今おかしくなってる」
「妖夢」
「おかしくなってるの。何が? 分からない。何がおかしくなってるか自分でも。何がおかしいの? 私、シャウナ、私、何がおかしい? 何処が変? 分かる。私、変だよね? 最近ずっと変だった。でも、何処? 夢? 夢を見るのが変? 私、多分美貴達の事、殺してない。分かってる。でも何だか、私の所為な気がする。そんな夢を見た気がする。それが変なの? それともみんなが死んじゃった事が悲しくないから変? お爺ちゃんが居なくなって悲しかった事を忘れかけてるから変? 何がおかしいの? もう、両親の事なんて、ずっと昔に死んじゃってるから、分からない、どんな人かも知らないのに、それが悲しくないからおかしいの? それとも最近記憶があやふやで、それがおかしいの? 分かってるよ。私、変だって。シャウナが言う事は分かる。でも。これは、私」
何を言っているんだと妖夢は頭を掻きむしった。
おかしな事を言っているのは妖夢自身分かってる。
妖夢はこう思う。
私はおかしい。
分かっている。
言っている事も、今の自分の状況も全部おかしい。何がじゃない。全部が変だ。
でもそれが何か分からない。
全部おかしいのは分かる。
でもそれなら私の何処かがおかしい筈だ。
それなのに何処がおかしいのか分からない。
「幽霊が見えるの。それを私が殺しちゃう。もしかしたら幽霊と同じ様に、美貴達も私が殺したのかもしれない。そんな気がする。ならやっぱり私はおかしくて。おかしいから、美貴達を殺したのも私かも」
その瞬間、妖夢の両頬が熱がこもった。
驚いて前を見ると、シャウナの端正な顔がじっと自分の事を見つめている。頬に手を当て様とすると、シャウナに頬をつままれていた。優しくつままれているから痛くはない。でも熱が頬にこもって、頭がぼんやりした。
「やっぱりそれは逃げよ、妖夢」
シャウナはそう言うと、優しげな微笑みを浮かべた。
「親しい人と別れれば誰だっておかしくなる。今妖夢が悩んでいるのもそれ。悲しみから逃れようとしてる」
「でも私、みんなが死んだ事が悲しくなくて」
「悲しくなければ一週間も家の中に閉じこもっていない。あなたは間違い無く三人の死を悲しく思っている。けれどそれを認めようとしていない。正確には、三人が居なくなった今の世界を、普通だと思わない様にしてる。だからあなたは自分が狂ったと主張するし、変な夢を見たとか、三人を殺したのは自分だとか、今ある現実を必死で歪めようとしている」
シャウナに頭を撫でられる。
不思議と安心感が広がっていく。
大きく柔らかい何かに包まれている様な心地良さ。
「そういう悲しみは誰でもある。でも妖夢、一週間も碌に食事も摂らずに閉じこもっているのは駄目よ。何処かで区切って前を向かないといけない」
シャウナの体が離れる。
シャウナの温かさが途切れ、代わりに冷たい朝の空気が纏わり付く。頭の中に掛かっていた靄がその寒さに吹き飛ばされた。まるで裏返った様に、自分の中の混乱が消えて、落ち着きが戻ってきた。
「シャウナ。私、変なんだよね?」
「ええ。でもそれは親友が亡くなったのなら当然の事。私もね」
「何処が変かな?」
「全部よ。今こうして悲しんでいる事全部。だから今の自分に悩む必要は無いわ」
「そっか」
「それにずっと何も食べていなかったんでしょ? だから悲観的になったり、変な事を考えたりするのよ」
「何か落ち着いた」
「良かった」
シャウナは笑顔を浮かべて、妖夢の手を握る。
「元気を出して、妖夢。私にはあなたしか残っていないの」
そんなシャウナの言葉が嬉しくて悲しかった。
三人が死んでしまった事は酷く悲しい。思わずまた涙が溢れる。
でも自分に寄り添ってくれる友達が居る事を思うと、悲しんでばかりは居られない。
さっきまでの自分は最悪だ。心配して来てくれた友達をもっと心配させる様な態度だった。シャウナだって悲しいに違いない。それなのに自分ばっかり悲しむ態度をとっていたら駄目だ。もっとしっかりしないと。
そう奮起すると、沈み込んで凍りついていた心が一気に温まった。さっきまでの夢に怯えていた自分がくだらなく思えた。先程強烈に感じていた誰かを切り殺した感触を思い出そうとしたが、もう思い出す事が出来無い。思い出せるのは、桜の樹の下で美貴達が死んでいた光景。思わず振り払いたくなるが、それから目を背ける事こそが逃げなのだろうと、妖夢は拳を握って歯を食いしばった。
「ありがとう、シャウナ」
「どういたしまして」
シャウナが妖夢の涙を拭う。
妖夢は気恥ずかしく思いつつ、努めて笑顔を浮かべる。
「区切りって難しいかもしれないけど、でもそうだね、前向かないと」
「本当なら区切りはお葬式なんでしょうけど、今日終わってしまったし」
「え? そうなの?」
知らなかった。
「ええ、色色あったみたいだけどようやくね。あなたも呼ばれていた筈だけど」
それは自分が何もかも拒絶していた所為だ。連絡が来たのに拒絶したから出席出来なかった。
妖夢の顔が青ざめる。落ち込んでいた自分を呪ってしまいたい。
友達との別れすらも済ませられなかったなんて。
愕然とする妖夢の頭にシャウナが手をのせる。
「落ち込む事は無いわ。お葬式はあくまでも儀礼。出なかったからって故人に悪い事をした訳じゃない」
「でも」
泣きそうな妖夢の前に、シャウナは懐から紙切れを取り出した。
「それより、三人を思うなら、これに行ってみない?」
妖夢は差し出された紙を読む。
それはレミリアのファッションショーのチケットだった。
思わず息を呑み顔を上げる。
「一緒に行くって約束だったでしょ?」
「でも美貴達は」
「確かにもう居ない。でも約束は約束。それにもしもあなたが三人の立場だったとしたら、残った友達には、自分の所為で暗く塞ぎこんでいるよりも、生きていた時に交わした約束をちゃんと遂げて、しかも楽しんでくれて欲しいじゃない」
妖夢は差し出されたチケットを受け取れない。
三人が亡くなったばかりだというのに、自分だけが楽しむなんて。
「三人に対して申し訳無いって思ってる?」
「だって私達ばっかり」
「それで塞ぎこんでたら、余計に三人に顔向け出来ないわ。幸せになろうとする事は残された者の義務よ。例えば、妖夢、あなたがもし死んだら、残った私にも死んで欲しい? 落ち込んで塞ぎこんで、食べ物すら碌に食べず死んで欲しい?」
「そんな事は無いけど」
「楽しむ事も禁じて、ずっと悔やみながら、辛い思いに苛まれながら生きて欲しいの? 妖夢、相手と不幸を分かち合う事と、相手と同じだけ苦しむ事は違う。あなたの友達に対する思いやりは素晴らしい。けどその死と同じだけの苦しみを味おうとするなんて絶対に間違ってる」
妖夢は言い返せずにチケットを受け取った。
「お葬式で、三人が住んでた孤児院の院長と会ったけど、あなたの事も心配していたわよ。このチケットをくれる時も言ってたわ。妖夢が塞ぎこんでるって聞いたけど早く元気になって欲しいって。きっと三人も天国で望んでるからってね」
妖夢は院長の顔を思い浮かべる。優しそうなお婆さんだった。何度か会った事はあるが挨拶程度で、殆ど言葉を交わした覚えが無い。そんな赤の他人にまで心配を掛けてしまっている事がとても申し訳無かった。
受け取ったチケットを見つめる。みんなで楽しみにしていたレミリアのファッションショー。みんなで一緒に行こうと約束していたファッションショー。折角こうしてチケットが手に入ったのに、あの三人はもう居ない。
ついこの間まで芳香の公募の事で盛り上がっていたのに。もう芳香は詩を書く事も何も出来なくて。折角美貴が取ってくれたチケットも、美貴本人は行けなくて。
ついこの間までこんな事になるなって思っても居なかったのに。もう美貴にも愛梨にも芳香にも会う事が出来無い。話す事も笑い会う事も。
「みんな」
涙が流れる。
チケットが滲んでいく。
嗚咽を堪えていると、傍に居るシャウナが抱きとめてくれた。
妖夢はその胸に顔を埋めて、思わず声を上げて泣いた。
涙を止めようとするが、止まらない。
悲しくて仕方が無い。
でも同時に、傍にシャウナが居てくれる事がありがたかった。
一人だったら本当に塞ぎこんだまま死んでしまっていただろう。それをシャウナに救われた。
天国の三人が何を思っているのかは分からない。でももしも自分だったらと考えれば、そして親友達の性格を思えば、きっとこのファッションショーに参加して欲しい、元気になって欲しいと願ってくれているだろう。
勝手な想像ではあるけれど、三人が笑顔で見守ってくれている気がする。
だから心配は掛けられない。このまま落ち込んでいたら、三人にもシャウナにも心配を掛けっぱなしだ。
だからショーに行こうと思った。
それが生きている自分に出来る唯一の事だ。
三人の為では決してない。あくまで自分とそして残されたシャウナの為だけれど。
しばらく泣いて、涙が枯れて、頭が痛くて、何か世界がくらくらと回り始めた。
そしてお腹がくるくると鳴った。
その音を聞いたシャウナが体を離す。
「そう言えば何も食べていないんだったかしら?」
責める様なシャウナの言葉に、妖夢は恥ずかしさといたたまれなさで俯いた。
「うん」
「本当に何も? 一週間ずっと?」
「えっと、水は飲んだ」
シャウナがこれ見よがしな溜息を吐くので、妖夢は益益縮こまる。
「じゃあ、スープでも作るわ。しょく」
はっとした様な吐息と共にシャウナの言葉が途切れる。
どうしたのだろうと妖夢は顔を上げた。
「食?」
「いえ、台所、勝手に使わせてもらうわよ」
「うん。ありがとね」
「どう致しまして。あ、そうだ」
部屋を出て行こうとしたシャウナは振り返ると、妖夢の前にスクリーンを開く。
「出来上がるまでの間、今度のショーへ期待を膨らませて元気になってて。ね?」
スクリーンに、過去のショーの様子やニュースの記事、期待するファンの声、様様な情報が投影されていく。妖夢がそれに気を取られている間にシャウナは部屋の外に出て行ってしまった。
「あ、シャウナ! 本当にありがとう!」
妖夢がお礼を言うと、向こうから「はいはい」という呆れた様な声が返ってくる。きっと何度もお礼ばかり言うから呆れられたのだろう。さっきから何度ありがとうと言ったか分からない。でも本当に感謝していた。閉じこもっていた所にシャウナが来てくれたおかげで元気になれた。聞き分けがなくて面倒臭かっただろうに、我慢して励ましてくれた。感謝してもしきれない。
ありがたさが身に沁みてまた涙が流れ出る。それを拭うと、妖夢はシャウナに言われた通りファッションショーの情報に目を通し始めた。
それからしばらくしてシャウナが何の具も入っていないチキンスープを持って部屋に戻ると、妖夢は真剣な顔をしてスクリーンを見つめていた。
「どう? 楽しそう?」
シャウナの問いに、妖夢はうーんと唸る。
「そうすぐには切り替えられないわよね」
シャウナが残念そうな声音で言うと、妖夢が振り返った。
「ねえ、シャウナ、余ったチケットあるよね?」
「ええ、五人分だから。どうして?」
妖夢は躊躇いがちにスクリーンを指す。
「シャウナが開いてくれたのを見てたら、友達にレミリアのファンが居たって人を見つけて。私達より少し年下みたいなんだけど」
「それが?」
「それが、その友達はスカーレット事件で亡くなったらしくて」
「そう」
珍しくもない話だ。
多くの学生がスカーレット事件によって死んでいる。友達という範囲を何処まで押し広げるかによるが、町を歩く学生に話を聞けば、友達がスカーレット事件に巻き込まれたという者はすぐに捉まるだろう。
「その子も落ち込んでるの?」
「落ち込んでる、と思う」
「思う?」
共感して落ち込んでいるにしては何かそぐわない表現だ。訝しむシャウナに妖夢は言った。
「この子、友達が亡くなったから、代わりに自分が今回のショーに行かなきゃいけないって言ってる。その友達が行きたがってたから、代わりに行ってあげるのが供養になるって」
「私達みたいね」
「うん。けど、この子はチケットを持ってないみたいで。私達と違って、その友達は今回の抽選に漏れたらしいから」
「だからその子にチケットを上げたいって事?」
妖夢は逡巡した後に意を決した様子で頷いた。
「うん。美貴達もそっちの方が喜ぶと思うし。それに丁度向こうは三人らしくて。余ってるのは三つだから、ぴったりでしょ? 何か運命っていうか」
「妖夢はそれで本当に良いの?」
「私は、きっと美貴は無駄にするより上げた方が喜ぶと思うし、私がもし死んだら、やっぱりそうして欲しいかなって思う」
段段自信を無くした様子で俯いていった妖夢が、上目遣いに言った。
「駄目かな? シャウナのでもあるから、シャウナが嫌なら」
シャウナはゆっくりと首を横に振る。
「駄目じゃない。多分それが一番良い選択よ。誰にとっても」
「良いの?」
「ええ。落ち込んだ時はお互い励まし合うべきでしょう? 今の私達みたいに」
それを聞いた妖夢は勢い良く顔を上げ、華やいだ笑みを見せた。
「じゃあ! 早速連絡してみる」
そう言って、妖夢はスクリーンに向き直った。
シャウナはその背後で妖夢の事を見つめながら、口元に薄っすらと笑みを浮かべた。
続く
~其は赤にして赤編 10(探偵2上)
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第十節 殺人の感触
妖夢は目尻の涙を拭って布団から起き上がった。友達が亡くなった事を悲しんでずっと泣いていた。どれ位の時が経ったのか思い出せない位にずっと。
起き上がったのと同時に、電話が掛かってきた。枕元に手を伸ばし、電話に出ると、端末の向こうからシャウナの声が聞こえる。
「妖夢? 大丈夫なの?」
大丈夫だと答えようとしたが、言葉が出てこなかった。ずっと泣き続けていた為に、声が枯れていた。
「妖夢?」
声が枯れた妖夢は黙っている事しか出来ず、ただシャウナの言葉を待った。
シャウナは今、美貴達が運ばれた病院に居る筈だ。そのシャウナが電話を掛けて来たという事は。
助かったか。
亡くなったか。
息を詰めてシャウナの言葉を待っていると、やがてシャウナは言った。
「妖夢、聞いて。美貴達が目を覚ましたの」
それを聞いた瞬間、妖夢は急いで駈け出した。寝間着姿のままであったが、形振り構わず病院へと駆けた。三人が戻ってくる。恥ずかしさなんて気にならなかった。
妖夢は青白い月の光に照らされた真っ更な街路を走りぬけた。何処にも人の姿は無い。音も無い。青白い水に沈んだ夜の町を妖夢は息継ぎもせずに走り続けた。
やがて目的の場所に着く。
八意の中央病院。その建物は目の眩む様な光を放っていた。美貴達を助ける為に、病院は深夜にも関わらず働き続けている。そしてそのお蔭で美貴達は助かった。
喜びに満ち溢れた妖夢は、病院へ駆け込み、そのまま美貴達の下へと駆けた。場所は分かっている。廊下を走り、角を曲がり、階段を上って、目的の部屋に辿り着く。勢い良く扉を開いて中に踏み込むと、辺りには草が生い茂り、向こうには満開の桜が見えた。
そしてその桜の下に居る人影を見て妖夢の目から涙が溢れる。
「みんな!」
「妖夢!」
桜の下に居る美貴達が妖夢に気がついて笑顔を上げた。
涙を拭った妖夢も笑顔になって手を振りながら美貴達の下に駆けた。
白い装束を来た美貴達は笑顔で妖夢の事を迎え入れる。
妖夢はふと違和感を覚えた。だがそれが何か分からないまま、美貴達に囲まれる。
舞い落ちる桜の花弁が妖夢の鼻に触れる。思わず鼻の頭を触ると、いつの間にか手には刀が握られていた。足元には血に塗れた友達が倒れている。背後に気配を感じて振り返ると、桃色の髪をした少女が全てを見透かした風な笑みを浮かべて立っていた。
跳ね起きた妖夢は、額の汗を拭い、辺りを見回した。見慣れた自分の部屋だ。病室でも、桜の下でもない。自分が夢を見ていた事に気が付く。
何処からが夢だったのだろうと考える。
病院に行ったのは夢だろう。だがその前のシャウナからの電話は? 友達を亡くした後ずっと泣いていた事は? 友達が死んでしまった事は? 一体何処からが夢なのか。
流れてきた涙を拭い、枕元の端末を拾い上げる。シャウナからの連絡は来ていない。
シャウナはどうしているだろう。
自分と同じく友達を亡くしたシャウナも悲しんでいるんだろうか。
事件以来、妖夢はずっと家の中に閉じこもっている。あれから何日経ったのか、時間が希薄で分からない。少なくとも二三日は経っている筈だ。現場検証が終わり取り調べを終えた後にも、この家へ警察や医者が訪ねてきた。だが妖夢は全て拒絶した。無理矢理入ってきたので怒鳴って追い返した。警察や医者以外にも何度か来客があったが、妖夢は布団から出る事もせずに無視した。要らぬ励ましの言葉に苛苛する。誰かに会う事が億劫だった。
シャウナも自分と同じ位に悲しんでいるのだろうか。
何もかもを拒絶しているのだろうか。
妖夢はもう何日も、食事すらしていない。死のうとしている訳ではない。ただ物を口にする行為をしたくなかった。友人の死を見せて付けられた次の日に、パッケージに入った牛肉を見て吐いたからか、肉が駄目ならと作った野菜炒めから何の味も感じられなかったからか、味噌汁を口にした途端塩気に酷い頭痛を覚えたからか。もう何日も、何も食べていない所為で思考すらもままならない。しとしとと降りしきる雨を前にして傘を持ち合わせていない時の様な、薄ぼやけた諦念とやるせない倦怠感に包まれてている。
そんな自分の様にシャウナも友人を亡くした現実に苛まれているのだろうか。
妖夢は端末を見つめながら、シャウナに連絡してみようかと思った。もしも苦しんでいるのなら話す事で和らげてあげられないだろうか。
そう考えたがすぐに自分を諌める。
この数日間、妖夢はシャウナの事にも気が回らず、ひたすら友達を亡くした悲しみに沈んでいた。何もかもが億劫だった。きっとシャウナが連絡をしてきたところで、沈み込んでいた自分はそれすらも拒絶していただろう。放っておいてくれと、感謝するどころか、苛立ちを覚えたに違いない。
もしもシャウナが自分と同じ状態に陥っているのなら連絡する事は迷惑になる。少なくとも自分なら迷惑に思った。
だからやめておこうと思った。
シャウナが連絡してくるのを待ってみる事にした。
力が抜けて、持ち上がっていた肩が落ちる。端末を置いて、長く息を吐き、妖夢は涙を拭って顔をあげる。
そこに桃色の髪をした少女が座っていた。憂いている様な目で妖夢の事を見つめていた。
突然の事に驚いて妖夢が声を上げると、桃色の髪の少女もまた驚いて目を見開き、そして嬉しそうな顔で妖夢の肩を掴んできた。
「私の事が見えるの?」
妖夢は悲鳴を上げながら少女の手を払いのけ、両手で少女を突き飛ばした。
気が付くと少女の姿は消えていた。辺りを見回すが部屋には妖夢一人しか居ない。だがまだ何処かに居る気がする。気配とでも言えば良いのか。ふと首筋に悪寒を覚えて振り返る。だが誰も居ない。
荒く息を吐きながら部屋の中を見渡す。誰の姿も無いが、何処かにあの少女が居る気がする。だが暗闇に目を凝らしても誰も居ない。部屋の中に居るのは息を荒げている自分だけだ。
さっき見たのは何なのか。姿はいつもの幽霊だった。でも何だか雰囲気が違った気がした。いつもの心を苛もうとする様な意地の悪い笑みを浮かべていなかった。あの時見せた喜びの顔はまるで。
妖夢は首を横に振る。
一先ず幽霊は居なくなった。
この所、幽霊を見る頻度が増えている気がする。それが自分の生み出した幻覚か、本当の幽霊か、分からないが、自分の中の何かが狂いだした気がして怖かった。
とにかく今は居なくなった。また出てくるかもしれないが。
警戒しながらも一応の安堵をする。
その時、背後から忍び笑いが聞こえた。恐る恐る振り返ると部屋の隅に桃色の髪をした少女が立っていた。
「また殺したのね」
まるで絶対的な捕食者である事を誇示するかの様に、薄っすらと余裕の笑みを浮かべている。妖夢の事を苦しめるいつもの少女だ。
少女はいつもの様に、静かにけれど憎しみのこもった声音で、妖夢を責める。
「私を殺し、あなたの両親を殺し、祖父を殺し、友達を殺し。ねえ、妖夢。あなたはそれを何とも思わないの? 申し訳ないと思わないの? それだけの事をしでかしながら、自分がまだ生きている事を疑問に思わないの?」
妖夢は喉の奥から声を絞り出す。
「私が悪いんじゃない」
「あなたは悪く無い? じゃあ誰が悪いっていうの?」
挑発する様な少女の言葉を聞いて、途端に激情が湧いた。
「お前だ!」
妖夢は立ち上がると刀を振り上げた。
「お前ばっかりみんなに優しくされて!」
妖夢に切り裂かれ、床に倒れた少女は血の零れ出る口を開いて言った。
「私が悪い? ならあなたの両親は?」
「お前の事ばっかり構うから」
「お爺ちゃんも?」
「そうだ!」
「なら友達は?」
妖夢が固まる。
それを、少女は口からごぼごぼ血を流しながら責め立てる。
「美貴と愛梨と芳香はどうして殺したの?」
妖夢が何も言えずに居ると、少女は嘲る様に笑った。
「シャウナばっかり構うから? 新しく来たシャウナをちやほやするから? それとも芳香の事ばっかり構うから? そうよね? 妖夢。あなたの事を無視するからみんな殺したのよね?」
妖夢は体を震わせると、首を横に振った。
「いいえ。違わない。みんなあなたを構ってくれないから殺したの」
妖夢は口を開いて否定しようとする。
だが言葉は出てこなかった。
まるで自分の体が、少女の言葉を肯定している様に思えて、愕然とした気持ちになる。
俯く妖夢の頭に少女の声が掛かる。
「妖夢」
顔をあげると、少女が優しげな笑みを浮かべていた。だがその奥には底意地の悪い悪意が隠れている。
「友達を殺したのはあなたよ、妖夢。あなたの大事な人達を殺したのはみんなあなた。それを忘れちゃ駄目よ」
そう言って笑った。
少女の哄笑が辺りに響いて目が眩んだ。
「妖夢!」
脳を揺さぶる様な衝撃に驚いて目を見開くと、視界一杯にシャウナの顔が映った。
「妖夢! 大丈夫?」
「え?」
「大丈夫なの?」
「シャウナが何で?」
「あなたが心配で来たの! そうしたら倒れてて」
「え? あ、そっか」
納得する様な事を言いつつ、妖夢は何も理解出来ていなかった。ぼんやりと辺りを見回すと強烈な光に目を刺されて思わず目を瞑った。何て事の無い朝の光だったが、それが酷く目に痛い。日の光から顔を背けつつ目を開けると、ここは自分の部屋。そこにどうしてかシャウナが来ている。何かちぐはぐとしている。ついさっきまで夜中だった筈なのに。恐ろしい思いをしていたのに。それが一瞬の間にひっくり返って、明るい朝の日差しの中、優しいシャウナが傍に居る。
「体調が悪いの? って聞くまでも無いわね。風邪? 顔色が酷いわ」
「何色?」
「土気色。死人みたい」
「そっか」
それは相応しい。
いつもならぼんやりとした夢なのに、今日の夢は良く覚えている。夢の中で少女は、妖夢が皆を殺したのだと責めてきた。それは自分の中にしっくりと落ち込んで、覚えは無いけれど真実の様に思えた。もしも自分が、美貴達を殺してしまったのなら、きっと自分も死ぬべきだろう。その意味で、土気色の自分というのはとても相応しい。
「妖夢? 大丈夫?」
「大丈夫。うん、心配してくれてありがとう」
そう言いつつ、妖夢は俯く。
もしかしたら美貴達を殺してしまったのかもしれない。もしそうであるなら自分は心配される様な奴じゃない。そしてもしもシャウナがそれを知ったら自分は嫌われるだろう。
それが嫌だった。
身勝手な言い分だが、自分のしでかした事を知られたくなかった。シャウナに嫌われたくない。
だから何も気づかない内に帰って欲しいと願う。
「痩せこけてるけどご飯食べてる?」
「覚えてない」
「駄目じゃない! 本当に何も食べてないの?」
「面倒だから」
「妖夢?」
「食べなくたって良いの」
そう言って妖夢は、拒絶する様に背を向け、布団まで歩み寄って倒れこんだ。
「妖夢」
慌ててシャウナが助け起こそうとすると、妖夢はその手を振り払って言った。
「放っておいて」
「ショックなのは分かるけど」
「違う」
違う。
違う。
違う。
早くシャウナに帰って欲しい。知られる前に離れて欲しい。
私が美貴達を殺したなんて知られたくない。
「悲しんでばかりじゃ駄目よ」
違う。
自分がシャウナを拒絶しているのは美貴達の死を悲しんでじゃない。恐ろしいのだ。もしも本当に自分が美貴達を殺したのであれば、そしてそれをシャウナに知られたとしたら、シャウナがどんな反応を示すのかが恐ろしい。
怖い。シャウナに嫌われるのが怖い。
「悲しいからじゃない」
ただシャウナに嫌われるのが。
そう言いかけて、妖夢の表情が凍りつく。
今、自分が何を考えていたのかに気がついた。
そして自分が何を言ったのか。
友達の死を悲しくないと言い切った自分に気がついた。
「私」
涙が溢れてきた。
ほんの数日前に亡くなった友達の死を悲しくないだなんて、あまりにも心無い言葉だ。
悲しみを堪えて強がりで言った言葉なら救いもあるが、さっきの自分は本当に、シャウナに嫌われる事だけが怖くて、美貴達の死への悲しみを忘れていた。
自分の本性を見た気がした。
友達の死を悲しまず、嫌われる事ばかり恐れる自分が居る。脳裏で桃色の髪の幽霊が笑っている。
祖父の失踪についてもそうだ。今はもう悲しみが随分薄れてしまった。
両親が死んだ事にに対しては、最早覚えていない。
大事な人達を失った事に対して、自分は何の感情も抱けていない。
そんな事を考えていると、夢の中で少女に言われた言葉を思い出された。
申し訳無いと思わないのか。自分が生きている事を申し訳無いと思わないのか。
思っていない。美貴達の後を追って死んでしまおうと思えない。
みんなの死に対して、何の申し訳も立てようとしていない。
自分という存在があまりにも醜く感じられた。
手を握り締めると感触が思い出される。
刀を握りしめる感触。
続いて、何かを切った感触。
鼻につく血の臭い。
目の前には血だらけの死体。
誰かを切り殺した感触が再現されている。
「シャウナ」
覚えは無い。
誰かを切り殺した覚えなんて無い。
でも現に、触覚も嗅覚も視覚までも、お前が殺したのだと責めてくる。
覚えていないだけで、本当はお前が殺したのだと責め立ててくる。
誰かを殺しながらそれを覚えていないのだと。
反省も贖罪もせずに、こうして生きているお前は生きているのだと。
自分があまりにも醜く感じられた。
「私、死んだほうが良いのかもしれない」
「何を言ってるの?」
シャウナの鋭い声が、自分を責めている様で怖かった。怖くて嫌われたくなくて、口を噤んでしまいたかった。けれど口が勝手に動く。
「私が、悪いのかもしれない」
「何の事? 妖夢、落ち着いて」
「私が、美貴達を殺しちゃったのかもしれない」
口に出すと、そのあまりの恐ろしさに身震いした。自分が美貴達を殺した。想像しようとすると視界が明滅する。
シャウナの反応を見ると、呆然としていた。当然だ。友達が友達を殺しただなんて聞いたら、自分も同じ反応をするだろう。
「さっきから、妖夢、何を言ってるの?」
「もしかしたら私が」
「それは、どういう意味で? どうやって?」
どうやってかは覚えていない。けれど手には感触がある。その時の事を思い出そうとすると、自分が刀を握って美貴達の前に立つ光景が思い浮かんだ。
「あり得ない。あなたが直接美貴達を手に掛けたというのなら、そんな事は絶対にあり得ない。今回の事件は桜の下で死んでいた人達が、自分達自身で殺しあったって結論が出てる」
「でも」
「妖夢、現実を見て。自分がおかしな事を言っている事位分かるでしょ? あなたが殺したというのなら、その時の事を思い出せる?」
思い出せない。
思い浮かぶのは刀を握りしめた自分だけ。
美貴達を切る場面は浮かばない。
でも自分がやったとしか思えない。
だってその感触があるのだ。
「妖夢、何でそう思ったの?」
「夢」
「何?」
夢だ。
最近見た夢。
いつ見たのかは思い出せない。
でもつい最近、誰かを切り殺してしまう夢を見た気がする。
それも美貴達が亡くなってしまうよりも前に、人を切る夢を見た。
桜の木の下で。
刀を握り。
誰かを切り殺した。
目の前には血に塗れた死体があって。
自分はそれを見下ろしている。
誰を切ったのかははっきりと覚えていない。
その夢が何を示唆しているのかは分からない。
でももしも、夢の中で切ったのが美貴達だったら、それはあまりにも現実と符合していて、まるで未来の事を見通していた様だ。妖夢にはそれこそ自分が美貴達を殺してしまった証左の用に思えた。
「私が殺した」
「妖夢」
「だって、そうとしか思えない」
「妖夢」
「だって、私が夢で見て、それで死んじゃったんだから、それ以外にみんなが死んじゃう理由なんて」
不意に、妖夢の頭がシャウナに抱き止められた。
「妖夢、落ち着いて。何が聞こえる?」
優しくしてくれるのが怖い。
優しくされると嫌われた時の反動が大きそうで。
妖夢は怖くなってシャウナを突き放す。
「分かんない! でも私にはそうとしか思えない!」
叫ぶ様に言ってシャウナの事を睨んだ妖夢の目の前に、シャウナの指が突き出された。目を見開いた妖夢に、シャウナが叫ぶ。
「逃げるな!」
驚いて仰け反った妖夢に、シャウナは続ける、
「妖夢、友達が亡くなった事を理不尽だと思うのは分かる。それが信じられないのも分かる。私も両親が亡くなった時はそうだった。でも現実を捻じ曲げて無茶な理由をこじつけて自分を責めるのは、単なる逃げよ」
「シャウナも同じ様な夢を見た?」
「夢は見てないわ。けど私がもっと何とか出来ればって後悔した」
「でも夢で、殺しちゃった夢は、シャウナは見てないんだよね」
「ええ見てない。けど」
「私」
妖夢は自分の両肩を抱いて、唇を震わせる。
「分かってる。私、今おかしくなってる」
「妖夢」
「おかしくなってるの。何が? 分からない。何がおかしくなってるか自分でも。何がおかしいの? 私、シャウナ、私、何がおかしい? 何処が変? 分かる。私、変だよね? 最近ずっと変だった。でも、何処? 夢? 夢を見るのが変? 私、多分美貴達の事、殺してない。分かってる。でも何だか、私の所為な気がする。そんな夢を見た気がする。それが変なの? それともみんなが死んじゃった事が悲しくないから変? お爺ちゃんが居なくなって悲しかった事を忘れかけてるから変? 何がおかしいの? もう、両親の事なんて、ずっと昔に死んじゃってるから、分からない、どんな人かも知らないのに、それが悲しくないからおかしいの? それとも最近記憶があやふやで、それがおかしいの? 分かってるよ。私、変だって。シャウナが言う事は分かる。でも。これは、私」
何を言っているんだと妖夢は頭を掻きむしった。
おかしな事を言っているのは妖夢自身分かってる。
妖夢はこう思う。
私はおかしい。
分かっている。
言っている事も、今の自分の状況も全部おかしい。何がじゃない。全部が変だ。
でもそれが何か分からない。
全部おかしいのは分かる。
でもそれなら私の何処かがおかしい筈だ。
それなのに何処がおかしいのか分からない。
「幽霊が見えるの。それを私が殺しちゃう。もしかしたら幽霊と同じ様に、美貴達も私が殺したのかもしれない。そんな気がする。ならやっぱり私はおかしくて。おかしいから、美貴達を殺したのも私かも」
その瞬間、妖夢の両頬が熱がこもった。
驚いて前を見ると、シャウナの端正な顔がじっと自分の事を見つめている。頬に手を当て様とすると、シャウナに頬をつままれていた。優しくつままれているから痛くはない。でも熱が頬にこもって、頭がぼんやりした。
「やっぱりそれは逃げよ、妖夢」
シャウナはそう言うと、優しげな微笑みを浮かべた。
「親しい人と別れれば誰だっておかしくなる。今妖夢が悩んでいるのもそれ。悲しみから逃れようとしてる」
「でも私、みんなが死んだ事が悲しくなくて」
「悲しくなければ一週間も家の中に閉じこもっていない。あなたは間違い無く三人の死を悲しく思っている。けれどそれを認めようとしていない。正確には、三人が居なくなった今の世界を、普通だと思わない様にしてる。だからあなたは自分が狂ったと主張するし、変な夢を見たとか、三人を殺したのは自分だとか、今ある現実を必死で歪めようとしている」
シャウナに頭を撫でられる。
不思議と安心感が広がっていく。
大きく柔らかい何かに包まれている様な心地良さ。
「そういう悲しみは誰でもある。でも妖夢、一週間も碌に食事も摂らずに閉じこもっているのは駄目よ。何処かで区切って前を向かないといけない」
シャウナの体が離れる。
シャウナの温かさが途切れ、代わりに冷たい朝の空気が纏わり付く。頭の中に掛かっていた靄がその寒さに吹き飛ばされた。まるで裏返った様に、自分の中の混乱が消えて、落ち着きが戻ってきた。
「シャウナ。私、変なんだよね?」
「ええ。でもそれは親友が亡くなったのなら当然の事。私もね」
「何処が変かな?」
「全部よ。今こうして悲しんでいる事全部。だから今の自分に悩む必要は無いわ」
「そっか」
「それにずっと何も食べていなかったんでしょ? だから悲観的になったり、変な事を考えたりするのよ」
「何か落ち着いた」
「良かった」
シャウナは笑顔を浮かべて、妖夢の手を握る。
「元気を出して、妖夢。私にはあなたしか残っていないの」
そんなシャウナの言葉が嬉しくて悲しかった。
三人が死んでしまった事は酷く悲しい。思わずまた涙が溢れる。
でも自分に寄り添ってくれる友達が居る事を思うと、悲しんでばかりは居られない。
さっきまでの自分は最悪だ。心配して来てくれた友達をもっと心配させる様な態度だった。シャウナだって悲しいに違いない。それなのに自分ばっかり悲しむ態度をとっていたら駄目だ。もっとしっかりしないと。
そう奮起すると、沈み込んで凍りついていた心が一気に温まった。さっきまでの夢に怯えていた自分がくだらなく思えた。先程強烈に感じていた誰かを切り殺した感触を思い出そうとしたが、もう思い出す事が出来無い。思い出せるのは、桜の樹の下で美貴達が死んでいた光景。思わず振り払いたくなるが、それから目を背ける事こそが逃げなのだろうと、妖夢は拳を握って歯を食いしばった。
「ありがとう、シャウナ」
「どういたしまして」
シャウナが妖夢の涙を拭う。
妖夢は気恥ずかしく思いつつ、努めて笑顔を浮かべる。
「区切りって難しいかもしれないけど、でもそうだね、前向かないと」
「本当なら区切りはお葬式なんでしょうけど、今日終わってしまったし」
「え? そうなの?」
知らなかった。
「ええ、色色あったみたいだけどようやくね。あなたも呼ばれていた筈だけど」
それは自分が何もかも拒絶していた所為だ。連絡が来たのに拒絶したから出席出来なかった。
妖夢の顔が青ざめる。落ち込んでいた自分を呪ってしまいたい。
友達との別れすらも済ませられなかったなんて。
愕然とする妖夢の頭にシャウナが手をのせる。
「落ち込む事は無いわ。お葬式はあくまでも儀礼。出なかったからって故人に悪い事をした訳じゃない」
「でも」
泣きそうな妖夢の前に、シャウナは懐から紙切れを取り出した。
「それより、三人を思うなら、これに行ってみない?」
妖夢は差し出された紙を読む。
それはレミリアのファッションショーのチケットだった。
思わず息を呑み顔を上げる。
「一緒に行くって約束だったでしょ?」
「でも美貴達は」
「確かにもう居ない。でも約束は約束。それにもしもあなたが三人の立場だったとしたら、残った友達には、自分の所為で暗く塞ぎこんでいるよりも、生きていた時に交わした約束をちゃんと遂げて、しかも楽しんでくれて欲しいじゃない」
妖夢は差し出されたチケットを受け取れない。
三人が亡くなったばかりだというのに、自分だけが楽しむなんて。
「三人に対して申し訳無いって思ってる?」
「だって私達ばっかり」
「それで塞ぎこんでたら、余計に三人に顔向け出来ないわ。幸せになろうとする事は残された者の義務よ。例えば、妖夢、あなたがもし死んだら、残った私にも死んで欲しい? 落ち込んで塞ぎこんで、食べ物すら碌に食べず死んで欲しい?」
「そんな事は無いけど」
「楽しむ事も禁じて、ずっと悔やみながら、辛い思いに苛まれながら生きて欲しいの? 妖夢、相手と不幸を分かち合う事と、相手と同じだけ苦しむ事は違う。あなたの友達に対する思いやりは素晴らしい。けどその死と同じだけの苦しみを味おうとするなんて絶対に間違ってる」
妖夢は言い返せずにチケットを受け取った。
「お葬式で、三人が住んでた孤児院の院長と会ったけど、あなたの事も心配していたわよ。このチケットをくれる時も言ってたわ。妖夢が塞ぎこんでるって聞いたけど早く元気になって欲しいって。きっと三人も天国で望んでるからってね」
妖夢は院長の顔を思い浮かべる。優しそうなお婆さんだった。何度か会った事はあるが挨拶程度で、殆ど言葉を交わした覚えが無い。そんな赤の他人にまで心配を掛けてしまっている事がとても申し訳無かった。
受け取ったチケットを見つめる。みんなで楽しみにしていたレミリアのファッションショー。みんなで一緒に行こうと約束していたファッションショー。折角こうしてチケットが手に入ったのに、あの三人はもう居ない。
ついこの間まで芳香の公募の事で盛り上がっていたのに。もう芳香は詩を書く事も何も出来なくて。折角美貴が取ってくれたチケットも、美貴本人は行けなくて。
ついこの間までこんな事になるなって思っても居なかったのに。もう美貴にも愛梨にも芳香にも会う事が出来無い。話す事も笑い会う事も。
「みんな」
涙が流れる。
チケットが滲んでいく。
嗚咽を堪えていると、傍に居るシャウナが抱きとめてくれた。
妖夢はその胸に顔を埋めて、思わず声を上げて泣いた。
涙を止めようとするが、止まらない。
悲しくて仕方が無い。
でも同時に、傍にシャウナが居てくれる事がありがたかった。
一人だったら本当に塞ぎこんだまま死んでしまっていただろう。それをシャウナに救われた。
天国の三人が何を思っているのかは分からない。でももしも自分だったらと考えれば、そして親友達の性格を思えば、きっとこのファッションショーに参加して欲しい、元気になって欲しいと願ってくれているだろう。
勝手な想像ではあるけれど、三人が笑顔で見守ってくれている気がする。
だから心配は掛けられない。このまま落ち込んでいたら、三人にもシャウナにも心配を掛けっぱなしだ。
だからショーに行こうと思った。
それが生きている自分に出来る唯一の事だ。
三人の為では決してない。あくまで自分とそして残されたシャウナの為だけれど。
しばらく泣いて、涙が枯れて、頭が痛くて、何か世界がくらくらと回り始めた。
そしてお腹がくるくると鳴った。
その音を聞いたシャウナが体を離す。
「そう言えば何も食べていないんだったかしら?」
責める様なシャウナの言葉に、妖夢は恥ずかしさといたたまれなさで俯いた。
「うん」
「本当に何も? 一週間ずっと?」
「えっと、水は飲んだ」
シャウナがこれ見よがしな溜息を吐くので、妖夢は益益縮こまる。
「じゃあ、スープでも作るわ。しょく」
はっとした様な吐息と共にシャウナの言葉が途切れる。
どうしたのだろうと妖夢は顔を上げた。
「食?」
「いえ、台所、勝手に使わせてもらうわよ」
「うん。ありがとね」
「どう致しまして。あ、そうだ」
部屋を出て行こうとしたシャウナは振り返ると、妖夢の前にスクリーンを開く。
「出来上がるまでの間、今度のショーへ期待を膨らませて元気になってて。ね?」
スクリーンに、過去のショーの様子やニュースの記事、期待するファンの声、様様な情報が投影されていく。妖夢がそれに気を取られている間にシャウナは部屋の外に出て行ってしまった。
「あ、シャウナ! 本当にありがとう!」
妖夢がお礼を言うと、向こうから「はいはい」という呆れた様な声が返ってくる。きっと何度もお礼ばかり言うから呆れられたのだろう。さっきから何度ありがとうと言ったか分からない。でも本当に感謝していた。閉じこもっていた所にシャウナが来てくれたおかげで元気になれた。聞き分けがなくて面倒臭かっただろうに、我慢して励ましてくれた。感謝してもしきれない。
ありがたさが身に沁みてまた涙が流れ出る。それを拭うと、妖夢はシャウナに言われた通りファッションショーの情報に目を通し始めた。
それからしばらくしてシャウナが何の具も入っていないチキンスープを持って部屋に戻ると、妖夢は真剣な顔をしてスクリーンを見つめていた。
「どう? 楽しそう?」
シャウナの問いに、妖夢はうーんと唸る。
「そうすぐには切り替えられないわよね」
シャウナが残念そうな声音で言うと、妖夢が振り返った。
「ねえ、シャウナ、余ったチケットあるよね?」
「ええ、五人分だから。どうして?」
妖夢は躊躇いがちにスクリーンを指す。
「シャウナが開いてくれたのを見てたら、友達にレミリアのファンが居たって人を見つけて。私達より少し年下みたいなんだけど」
「それが?」
「それが、その友達はスカーレット事件で亡くなったらしくて」
「そう」
珍しくもない話だ。
多くの学生がスカーレット事件によって死んでいる。友達という範囲を何処まで押し広げるかによるが、町を歩く学生に話を聞けば、友達がスカーレット事件に巻き込まれたという者はすぐに捉まるだろう。
「その子も落ち込んでるの?」
「落ち込んでる、と思う」
「思う?」
共感して落ち込んでいるにしては何かそぐわない表現だ。訝しむシャウナに妖夢は言った。
「この子、友達が亡くなったから、代わりに自分が今回のショーに行かなきゃいけないって言ってる。その友達が行きたがってたから、代わりに行ってあげるのが供養になるって」
「私達みたいね」
「うん。けど、この子はチケットを持ってないみたいで。私達と違って、その友達は今回の抽選に漏れたらしいから」
「だからその子にチケットを上げたいって事?」
妖夢は逡巡した後に意を決した様子で頷いた。
「うん。美貴達もそっちの方が喜ぶと思うし。それに丁度向こうは三人らしくて。余ってるのは三つだから、ぴったりでしょ? 何か運命っていうか」
「妖夢はそれで本当に良いの?」
「私は、きっと美貴は無駄にするより上げた方が喜ぶと思うし、私がもし死んだら、やっぱりそうして欲しいかなって思う」
段段自信を無くした様子で俯いていった妖夢が、上目遣いに言った。
「駄目かな? シャウナのでもあるから、シャウナが嫌なら」
シャウナはゆっくりと首を横に振る。
「駄目じゃない。多分それが一番良い選択よ。誰にとっても」
「良いの?」
「ええ。落ち込んだ時はお互い励まし合うべきでしょう? 今の私達みたいに」
それを聞いた妖夢は勢い良く顔を上げ、華やいだ笑みを見せた。
「じゃあ! 早速連絡してみる」
そう言って、妖夢はスクリーンに向き直った。
シャウナはその背後で妖夢の事を見つめながら、口元に薄っすらと笑みを浮かべた。
続く
~其は赤にして赤編 10(探偵2上)