上編はこちらになります
1
頬を撫でる、緩やかな風を感じた。
次いで、季節を感じさせるような、少しばかりの蒸し暑さ。
「ん……」
そんな、不意の外的要因が心地よい微睡みを邪魔してくるのに、黒い直ぐ髪の少女は少しだけ眉根を寄せて唸り。
「うー……?」
眠っている間もずっと繋いでいたはずのそれを、確かめるように、頼るように握ろうとして、空を掴んだ。
そのことに軽い疑問の、声になっていないような声を出しながら、眩しさに白む瞼を開いて、
「……」
朝の光と、それに照らされる庭を横向きに見ている視界、それと、それが見えるということは、自分の隣にいるはずの姿がないからだということに気づき、
「……っ」
がばっと身体を起こした。見渡す、畳敷きの寝室には、その上に直に敷いてある一つの真っ白な布団の上には、自分一人しかいなくて。
「あっ……」
今や完璧に目覚めた身体と頭で状況を理解して立ち上がると、急いで駆け出す。
§
駆け出して。
「あ、おはよう、早苗ちゃん」
縁側の廊下を、数秒もしない内に居間に着くと、その光景が広がっていた。
おはよう、と、にこやかに笑いながら、食卓に朝食を並べている祖母と、
「ん、ああ、おはよう。意外と早起きさんだな」
すでに自分の席に胡座をかいて座り、茶を啜っている紫髪の神。
「よく眠ってたから、起こさないようにしといたけど……自分でちゃんと起きて、えらいねぇ、早苗ちゃんは」
そんな風に、起きれば誰かがいて、挨拶をしてくれて、朝ご飯が用意されていて。
そんな、当たり前の朝の光景が目の前に広がっている。
そのことに一瞬早苗は呆気にとられ、立ち尽くし、
「う……」
次に心に溢れ出した嬉しさで、不意に、また涙が出そうになった。
「おーい、朝から重っ苦しいのごめんだぞ、私ぁ」
その時、自分の隣でそんな声がしたかと思うと、頭の上にぽん、と、優しく手がのせられる。
「うりうりうりうり」
「わわわわ!?」
涙をうっすら滲ませたままその声の方向を見上げれば、金色の髪をした少女がいて、ぐりぐりとのせた手を動かして荒々しく頭を撫でてきた。
「っと、ほーれ、さっさと席つきな」
その言葉と共に頭から手が離れた頃には、もう目の端の滴なんかどこかに吹き飛んでいて、
「うー……ひどいよ……」
抗議の声と共に、今一度その顔を見上げる。
「……どうしたの、その、お顔……?」
と、目の前のその諏訪子の顔は、なんだか殴られたような腫れ上がりの痕があって、
「いやぁ、ははは……」
その問いに諏訪子は誤魔化すような笑いをしながら、一瞬ちらりと座っている神奈子に視線を送る。同じように一瞬で蛇のような鋭い睨みが返ってきた。
「色々あるんだ、神様にもな……早苗にもその内わかる」
だから今は何も聞かないでくれ、と言い残し、諏訪子は自分の席へと歩いていく。
それにつられるように、早苗も今一度視線を戻し、そして、あっ、と、気づき、
「……あ、あの!」
早恵を、神奈子を、諏訪子を、三人を全部視界に入れたまま、少しの緊張と共に声を張って、
「お……」
言い忘れていた、言わなければいけないことを言う。
「おはよう!」
なにもそこまで気合いを入れんでもという大声で放たれたその挨拶に、三人とも一瞬呆気にとられ、次にこらえきれないおかしさに少し吹き出しながら、
「はい、おはよう」
その返事に、少女は今日初めての笑顔をこぼした。
§
「そんで、今日は早苗はどうするんだ?」
朝食の途中でふと、焼き魚をつまみながら神奈子がそう言った。
「……?」
それは何も早苗に限定して問いかけられたわけではなかったが、とりあえず名前を言われた少女は口をもぐもぐさせながら無言で首を傾げ、
「あー……っと、そうなんですよねぇ……どうしましょう……」
次に早恵がそのことに言われて気づき、悩むような声を出す。
「家や神社にいてくれるのなら、その、社務めをしながらでも見てあげられるんですけどねぇ……」
そして、早苗の方を向き、同じく不思議そうな顔を向けてくるのへ困ったような笑顔で、
「でも、早苗ちゃん、ずっとお家にいたりとか、一人で遊んでたりとか……嫌だよねぇ?」
「……」
祖母のその言葉に、早苗は少しじっと考えてみる。
もぐもぐ。口の中にあるご飯はしっかり噛みながら。
しばらくして、ごくんと飲み込むと、
「大丈夫だよ」
早恵を見つめ返して、言う。
「私、一人で遊んでても、大丈夫」
にこりと笑って。
それは、その言葉は別に強がりでも、諦めでもなかった。
祖母に心配や負担はかけさせたくなかったし、何より、もう繋がっている手はあるのだから。
それが信じられるから、早苗はこれまでのように少しの間は一人でいても、大丈夫だと考えられた。
「早苗ちゃん……」
その言葉に、少し寂しそうな、何かを言いたそうな顔をして、早恵が早苗の頭を撫でる。
そんな動きを見ながら、ふむ、と、神奈子は息を吐き、
「それならやはりあれだな、今日も諏訪子に任せるとするかね」
なあ、ケロちゃん。そう言われて、我関せずとマイペースに朝食を食べていた諏訪子は味噌汁を飲んでいる途中だったのをぶっと碗の中に戻すように吹き出した。
§
「っほ、げっ、ほっ……っ、は、あ!? あんだって!?」
「汚いなぁ、神だったらもう少し行儀よくしなさいよ」
「誰の発言のせいだ誰の!」
咽せながら、汁椀を叩きつけるように食卓に戻す。
「つか、今日もって何だ今日もって!」
「だから、今日もあんたが、早苗の相手してやりながら……そうね、この辺案内してやんなさいな。これからここに住んでいく以上、地理に疎くちゃやっていけんからな」
「ああ、それもそだな……って、違わーい!!」
ノリツッコミを器用にこなしながら、呆然とする早苗といつものことに溜息をつく早恵の前で、二人は熟練の夫婦漫才を披露していく。
「あのなあ、私だってそんな……」
「私だって? そんな?」
ぎろりと一睨みされ、諏訪子は若干竦む。
「ひ、暇じゃ……」
「ほう……じゃあ聞くけど」
神奈子は冷たい視線のまま、
「あんた、なんか仕事してたっけ、本殿で飲んだくれて酔っぱらったりする以外に」
「うっ……!?」
言われて、諏訪子は呻き、
「どうだったっけか? なあ?」
「……っ、な、ない……です……」
「そういうのなんて言うんだっけ?」
「む……無職、です……」
「で、暇がなんだっけ?」
「――っ……ああもう! 暇です、どうせ暇だよ! 無職の暇人神様ですよ!!」
詰問に、先に心をばきばきと折り砕かれて、諏訪子は観念したように叫んだ。
その答えに、神奈子はうんうんと頷き、
「問題ないそうだ。良かったな早苗、今日もケロちゃんが遊んでくれるとさ」
「……」
その言葉に、諏訪子が眉根を寄せた表情を早苗へ向けると、
「あ……その……」
また不安そうな顔で、その少女は窺うようにこちらを見ていて、
「はぁ……わーったよ、案内でも何でも、別に嫌じゃあないさ、ちゃんとしてやるから」
だからそんな顔すんな、と諏訪子は溜息を吐いてそう言ってやる。
そうすれば、早苗の顔はまた一気に晴れ上がり、
「あぁ、本当にすみません、ありがとうございます、諏訪子様」
その隣で早恵がそう頭を下げるのも昨日の通りで、もう諏訪子は視線を向けずにはいはいとそれを受け取る。
「良かったねぇ、早苗ちゃん……そうだ、この辺の子供達が夏はいつも泳いでる川があるから、そこにも諏訪子様に連れてってもらって、一緒に泳いできたらいいよぉ」
「あっ……う、うん!」
それから早恵が早苗へ笑いかけながらそう言うのに、その言葉に、一瞬またびくっと少女が気まずそうな表情をするのを、諏訪子はちらっと視界の端に捕まえ、
「……?」
首を捻る。果たしてまだ何かこの少女は不安でも抱えているのか、と考え、
「まあ……」
自分の気にすることじゃあない、そう思って思考を打ち切る。
何かあるならそんなもん、自分でどうにかするしかないだろうし。
「そうだな」
どうにかできる力は、強さは、少なくともこの少女は持ち合わせている。
少し笑ってそう考え、食事に戻ろうとし、
「ああ、それじゃあお弁当作ってあげないとね。早苗ちゃんの分と、諏訪子様の分。二人で仲良く食べられるように、ね?」
そう、ぱたぱたと慌てて台所へ向かう早恵に、あいつも何だかんだで押し強いよなぁと、しみじみ思い、自分のこの家におけるヒエラルキーへ何やら暗鬱な思いを馳せる諏訪子であった。
2
「とまあ、これで大方、この辺は歩き回ったわけだけど……」
諏訪子は欠伸混じりにふわぁと息を吐きながら、首を向けずに己の背後へとそう声をかける。
あの後、朝食を終えてから、早恵の作ったお弁当を持たされ、少しばかり緊張気味に興奮する早苗を連れて諏訪子は神社の長い石段を下り、それから足の向くまま気の向くまま、ぶらぶらと二人で歩き回った。
緩やかに天然のアーチを作る木々の下を抜け、青々とした田んぼの畦を行き、ごうごうと流れる用水路の横を通り。
行き交う大人へは見えないのに諏訪子は片手を上げて、よう、と挨拶をし、真似て早苗もこんにちはと挨拶すると、神社へ住むことになった少女の存在はもうこの郷にはかなり広まっているらしく、度々捕まっては物珍しそうに話し込まれそうになるのを諏訪子の謎の力で解放してもらったり。
そうして午前中をたっぷりかけて挨拶まわりのような、散歩のような、探検のようなその行程を終えて、現在またぶらぶらと諏訪子は当て所もなく歩き、その後ろを早苗はついて行っているというところであった。
「どうだー? 早苗が前住んでたとこに比べりゃひどい田舎だろうが……まあ、中々いいところだろ?」
そして、言葉と共に諏訪子が振り向けば、
「はーっ……っ、う、うん……近所の人みんな、優しそうだし……け、景色はきれいだしっ……はぁっ……いいとこ、だねぇ……ふぅ……」
息も切れ切れに、少し離れたところをふらふらと頑張って歩いている早苗の姿があった。
昨日とは違う、白いシャツと青色の短いスカートに、早恵に貸してもらった麦わら帽子をかぶり、色々と荷物を入れた水泳カバンを肩から下げて、小さく悲鳴をあげながらずりずりとこちらへやって来ようとしている。
「おいおい……昨日はあんだけ粘ったのに、今日はなんだよ、こんくらいで……だらしねえなぁ」
その姿に諏訪子が呆れた声を出しながらこちらを向いたまま立ち止まるのに、早苗も頑張ってようやく追いつくと、膝に手をおいて体を曲げながらぜぇぜぇと息を吐き、
「だ、だぁってぇ……け、ケロちゃん、やすみもしないで、いろんなとこどんどん歩いてくんだもん……つ、ついていくだけで、たいへんだよぉ」
わたしは神様じゃないんだよぉ、と、ひぃひぃと少女は泣くように言って、水泳カバンから小さな水筒を取り出すと、蓋へ中身を注いでこくこくと飲み干す。
「ふわぁー……」
そうしてようやく一息ついたような声を出す少女に、
「けえっ、こんなん神様だの人間だのは関係ねえよ。お前が単に体力がないだけだね、まったく都会っこは……」
そして、私にも一杯くれ、と、少女から水筒を受け取り、自分で注いでこくりと一息に飲み干す。
「ったく、そんなんじゃあこの先やってけねえぞぅ。いよいよこの先少し行ったら、早恵の言ってた近所のガキ共が集まる川だからな」
「わわっ……っと、へ?」
それからそう言って、蓋を締めると少女へひょいと放り投げて水筒を返してきた。
それを慌てて受け取りながら少女はそのいきなりの言葉を理解しかねて首を傾げる。
「あんまり情けないと、ナメられて、友達できねえぞってことだよ」
「……っ」
そして付け足された諏訪子のその言葉に、早苗はびくっと震えて身を強ばらせる。
「……? どした?」
明らかに、いきなり言葉を失って緊張したような様子の早苗に、諏訪子が訝しげに声をかける。
「……っ、う、ううん、なんでもない……」
その声に慌てて首を振って、いつも通りに振る舞おうとする早苗へ、
「……まあ、それならいいんだけどな。ほら、行くぞ」
諏訪子はあえて何も追求せずに、さっきより少しだけ速度を落として歩き始めた。
§
「準備できたかー?」
「も、もうちょっとー」
川岸、少し大きな岩にもたれながら、自分のいるその後ろで着替えている途中の早苗へ諏訪子はそう声をかけ、一瞬自分はこんな少女が水着に着替えるのをじっと待って何をしてるんだろうと冷静に考えかけてしまったのを慌てて振り払い、
「は、早くしろよー」
「あ、うん、今終わったー」
やや何かの動揺が表に出つつの次の催促に、そんな返事をしながらようやく早苗が岩陰から姿を見せる。
「ど、どうかな?」
使い古した年季のある、濃紺のワンピースタイプの水着、というか以前通ってた小学校の、胸の辺りに名前をつけた指定水着姿を、そう、少しはにかみながら早苗は諏訪子の前へじゃじゃんと披露し、
「別に、どうもねえよ……というか、むしろどうしろってんだよ……」
難しい顔をしながら、諏訪子はそんな別段見るところもない水着姿へそう感想をこぼす。
「つーか、おら、着替え終わったんなら、早速あいつらに合流してこいよ」
「あっ……」
そして謎の疲労感を得ながら諏訪子は首の動きでそれを示し、早苗はそれを見てまた緊張した様子になる。
その方向には、ここから下流、結構離れて小さく見える、楽しそうな声をあげて、川に入って遊んでいる五人くらいの子供達の姿。
「何を恥ずかしがってこんな離れたとこで着替えだしたのかは知らんけど、ほら、早く行ってきな」
諏訪子の言う通り、ちょうどこの岩陰は向こうからは気づかれないくらいに離れており、早苗はまずここで着替えると主張して憚らなかったのだ。
しかし、もう着替え終わったからにはいよいよ行かなければならない。
「そうしてくれりゃあ、晴れて私はお役御免で自由になれんだから。早苗だって……」
「け、ケロちゃん!」
「あ?」
ぶつぶつとそう言う諏訪子へ、早苗は少し上擦った声でいきなり呼びかけた。
そして、
「あ、あの……ちょ、ちょっと一緒についてきて……」
「……はぁー?」
その要求に、諏訪子は素っ頓狂な声をあげた。
「ついてってどうなんだよ、私はお前以外には見えねえんだぞ」
「み、見えないなら別にいいでしょ? ね? おねがい……」
拝むように少女が両手を合わせてくるのに、諏訪子は、うう、と、少し唸り、
「……まあ、別にいいけどなぁ。ほんと、私がいたって何がどうなるもんでもないだろ」
「あ、ありがとう!」
その返事に、少女はぱあっと一瞬、表情を明るくし、次にその方向へ向いて、また緊張したそれになると、
「じゃ、じゃあ、行こうか……」
震える声でそう言って、呆れる神を隣へ連れて、ゆっくりと少女は歩き出す。
§
行こうか。
決意と共にそう言ったにも関わらず、
「……」
「おい……」
呆れた声を神が少女の後ろに立って出す。
そう、あれから歩き出して、ようやく気づいてもらえそうな距離まで近づくと、何を思ったか早苗はまた手近な岩陰に隠れ、体半分を外に出してそーっと様子をうかがいだしたのだ。
「何やってんだよ、お前は」
「し、しー! ケロちゃんちょっと声大きいよ」
「お前以外には聞こえやしねえよ!」
声をひそめて自分を注意してくる早苗に、諏訪子はついに爆発する。
「さっきから何を恥ずかしがっとるんだお前はー! ほら、早く行け行け行ってこい!」
「わわっ!? や、やめてー! 押さないでー!」
「こんなんぱーっと行って『いーれて』って言ってくるだけで済むだろうが! ほらほらほら!」
「だ、だからまだ心の準備がー!」
そんな、押し合いへし合いのやり取りをしながら、早苗はふと気づく。気づいて、諏訪子へ立てた人差し指を口の前に持ってくる動作で静かにするように促し、
「あ?」
諏訪子も一応それに従う。二人の話し声がなくなった周囲には、川の静かにせせらぐ音と、
「あ……」
さっきまで聞こえていたはずの、子供達が遊んではしゃぐ声がやんでいて、早苗は嫌な予感と共に恐る恐るその方向へ振り返る。
「……」
予感通り、そこには不思議そうな顔で動きを止めてこちらを見ている子供達の姿があって、自分の体はさっきのやり取りのせいでもうはっきりと岩陰から出て見えてしまっていて。
「……っ」
瞬時に走った緊張が、早苗の体を固まらせた。
その先を、自分と同じくらいの少年が三人、少女が一人と、少し歳は下のように見える女の子が一人。
それを見つめながら、声も出せず、
「なんだぁ? お前ー」
不意にそんな声が、少し離れたこちらに届くように大きくやってきた。
少年の内の一人が発した、それを聞いて、見つめ返しているその姿達へ、
「あっ……っ、その……」
言おうとする。何かを言おうとはするのだが、舌がもつれたように上手く動かない。
いや、動かないのは舌だけじゃない、頭もなんだか真っ白で、果たしてどうするのか、どうしたらいいのか、わからずに、考えられずに早苗は唾をごくりと飲む。
口を金魚のようにぱくぱくさせて、その視線達に向き合いながら、
「っ!」
遂に早苗は耐えられず、何も出来ずに、何も答えぬままに背を向けて、走り出す。
逃げるように、遠ざかるように。
「あっ、おい!?」
そんな早苗の様子を黙って見ていた諏訪子も、いきなり逃げ出した早苗の後を慌てて追いかける。
後にはそれを、その少女が背を向けて走っていくのを呆然と見つめる子供達だけが残された。
§
「なんだぁ? あいつ」
その走り去る背中が見えなくなってから、三人の丸刈りの少年の内の体の一番大きな一人がそう不思議そうに言って大きく首を傾げた。
「ここらへんに、あんなやついたっけ?」
そしてそのまま他の二人へ問うのに、もう一人、一番小さい体の少年が、思い出したように、
「あ、そういや父ちゃんが言ってた! 山の上の神社のばあちゃんのとこに、今度孫が一緒に住むことんなったんだって! そんで、俺達と同じくらいん歳だから、仲良くしてやれってさ」
その情報に、ああそういや俺も聞いたようなと呟いて、全員がまた少女の走っていった方向を見つめ、
「……どーすんの? ケンちゃん」
ぽつりと、子供達の内の少年達と同じくらいの歳の、黒髪を肩の辺りで切りそろえた少女が、問いかける。
「……別に、逃げてくんならほっときゃいいだろ」
ケンちゃん、そう呼びかけられた、三人の中では間を取ったような体の大きさの少年はそう答えた。
「まあ……そーだな」
「うん、ケンジの言う通りだ」
子供達の中ではリーダー格のようなその少年の言葉に、他の全員は一応納得したように頷いてから、また川遊びを再開する。
「……変なヤツ」
そんな仲間達を置いて、ケンジと呼ばれた少年はまだしばらく少女の行った方向を見ながらぽつりとそう呟くと、自分もまた川遊びに加わるために背を向けて走り出した。
3
「おーい、どうしたんだよ早苗!」
そして、諏訪子は走り出した早苗を追いかけて、さっき着替えた岩陰の辺りまでやって来ていた。
本気で走ればすぐに追いつけたが、とりあえず早苗の逃げたいとこまで行かせてから、理由を問いただそうと、諏訪子はそう考え、
「早苗ー」
その岩陰の内へ走って逃げ込んだのを確認すると、名前を呼びながら、ゆっくりと近づき、そこをのぞき込む。
「……早苗……?」
「……」
果たして、のぞき込んだそこには呼びかけていた少女がこちらに顔も向けず、声も出さず、自分で自分の体をぎゅっと抱いたまま小さく震えてしゃがみ込んでいた。
§
「うおっ、でけえ握り飯だな……」
あれからもう少し離れた川の畔、子供達の姿も見えないくらい離れて来たところにあった、大きな岩の上に諏訪子と早苗の二人は並んで座っていた。
胡座を組んで体のどこかからごそごそと早恵に渡された弁当を取り出して広げだす諏訪子に対して、早苗は小さく丸まるように膝を抱えて座り込んだまま無言。
「……早苗は、食わねえのか?」
そんな早苗へ、そう静かに問いかける諏訪子。
「……」
しかし、問われても動かない早苗へ、
「っ……あー、もう! ほら、一緒に食えって早恵に渡されたんだから……」
痺れを切らしたように諏訪子は二人の間に置かれた水泳カバンから早苗の分の弁当を勝手に取り出すと、
「一緒に食べよう、今はそんだけでいいから」
早苗の目の前へ差し出して、それだけを促す。
「……」
そして、目の前に突き出されるように現れたそれをしばらく見つめてから、早苗はゆっくりと動くとそれを手に取る。
まるめていた体を少しだけ伸ばし、古風な風呂敷を足の上に乗せて広げると、ごろんと、大きなおにぎりが二つ、姿を現した。
「ほんとにおっきいおにぎり……」
「だろ?」
呆然と早苗が呟くと、諏訪子がくすりと笑いながら相槌を打った。
それから、どちらともなく手を合わせて、
「いただきます」
同時にそう言うと、包んでいるアルミホイルを半分ほど剥がして、現れた黒山へとかぶりつく。
「……」
一口食べて、無言。
そのまま何も喋らずに、二人は二口、三口と食べ進めていく。
小高い岩の上を、緩やかな昼時の風が吹き抜けていった。
しばらく、川がゆったりと流れる音と、蝉が遠くで鳴き続ける声、二人の少女がむしゃむしゃとおにぎりにかぶりつく音だけが響いて、
「うまいな」
不意に、諏訪子がそう言った。
「……うん」
その声に、少女も頷きと共に小さくそう答える。
そしてまた、しばらく無言で二人は食べ続け、
「……本当はね」
静かに、少女がそう切り出した。
「本当は、ケロちゃん達みたいな、神様みたいなの見るのって、初めてじゃないの」
その言葉に、諏訪子は驚くわけでもなく、ただ静かに話を合わせる。
「……そういや、神様なんて言われて、いやにあっさり信じてたもんなぁ」
今日日の普通のガキならもっと怪しむだろうにな、と、諏訪子はくすりと笑い、
「うん」
早苗も少しだけ笑って、話を続けていく。
§
「私の前住んでたところにもね、いろんなとこに、おばあちゃんのところくらい大きくないけれど、小さい神社、いろいろあったんだ」
少しだけ目を伏せて、思い出すように。
「それでね、幼稚園の終わりくらいから、気づいたらその神社の中にね、お賽銭箱の向こうのおうちの中に、誰かがいるのが見えるようになったの」
手を引かれて行く散歩の途中に、幼稚園の先生に連れられて近くの公園へ遊びに行く途中に、その前を通る度。
「見えてもね、向こうの……それは神様なんだって、お父さんに言ったら教えてくれたけど、その向こうの神様達はね、寂し、そうに」
そう言って、少女はふと気づいた。昔はわからなかった、あの表情の意味が今はするりと出てきて、それは。
「うん、そうだ、きっと、ケロちゃんみたいに、寂しそうな顔でこっちを見てたんだ……でも、私にわかるのはそれだけで……見えてただけで、見てただけだったの」
そして、記憶の中の幼い少女はそれを見て、怖がるでもなく、じっと見つめたまま、
「それでね、私、そのことを色んな人に言ったんだ。先生にも言った、友達にも言ったよ、『あそこに誰かがいるよ』って……」
けれど、
……えー? だれもいないよー?
……早苗ちゃん、嘘ついてるわけじゃないよね?
……わたしたちには
……私達には
……見えないよ
嘘じゃない。
嘘じゃないよ、私には――
嘘じゃ、ないのに……
「他のみんなには、見えなかったんだ……そして、次はそのこと、お父さんとお母さんに言ってみたの」
記憶の母は、優しく笑って、自分の頭を撫でながら、「早苗の見たいものを見て、好きなようにしなさい」と、そう言ってくれた。
父は、困ったような笑顔をしながら、「そうか、早苗にも見えるか……でも、他の人に見えないなら、しばらくは黙っておきなさい」と、言って、
「早苗だけの秘密にしなさいって、そう言われて、私も、そうしたんだ……でも、そしたら――」
止まっている手の中のおにぎりを、見つめる。
「……誰にも言えない秘密を持ったままで」
他の誰も、自分の見える世界を、一緒に見てくれないで。
「そんなので、そんな子達と、本当に仲良くできるのかなって、いつの間にかそんなこと、考えるようになっちゃって」
親しくしていても、笑い合っていても、どこかに壁があるような、そんな気がして。
「それで、その内それだけじゃなくて、おうちも大変なことになって、前からいたお友達とも遊べない時間が増えて、そんないろんなことがあってバタバタしてたら……」
気がついたら、誰からも、遠ざかっていた。昨日得た記憶が、痛みが、少し心にまた現れて、少女は小さく身震いし、
「わたし、本当に、わからなかったんだ……どうして、なにも、わからなかったんだろう……」
震える手は、離すのも、離れるのも、何もわからないまま、簡単に許してしまった。
「それでね、さっき気づいたの……そんなことしてる内にね、私、もう忘れてる……」
耐えられなくなったように、早苗はまた膝を抱えて、額をそこへ押しつける。
「私、友達の作り方、どうしたらいいのか、忘れちゃってる……!」
絞り出すようにそう呟いて、早苗は言葉を止めた。
§
止まった言葉と、それを周りから除いた音だけがしばらく満ちていた。
そんな中で、諏訪子は手に持ったおにぎりの残り一欠片をむしゃりと一気に食べると、
「でもさ」
もぐもぐと口を動かしながら、
「知らないわけじゃないんだろう? だって、私にはそうしてくれたんだから」
その言葉に、恐る恐る押しつけていた顔をあげて、ゆっくりとこちらを見る早苗へ、ふっ、と笑いかける。
「忘れてるんなら、それだけなら、思い出せばいいだけだよ。それとも、そうしたくないのか?」
「……っ」
それを聞いて、早苗は慌てて、無言で強く首を振る。
振って、拒絶と共に思う。
自分のことをわかってはもらえないかもしれない。また壁を感じてしまうかもしれない。
それでも、一人でうずくまって泣き続けるしかないような、自分の手を誰かが取ってくれることだけを待ち続けるような、そんな昨日までの自分には、もう戻りたくはなかった。
「だったら、思い出さなきゃな」
そう微笑んで、諏訪子が手を伸ばして早苗の頭を撫でる。
「……ゆっくりでいいさ。それが……一番大事なことがわかってるなら、きっと大丈夫だ」
そうされて、ぽたぽたと大粒の滴を瞳からこぼし出す少女。
それがやむまでずっと、神はその隣に黙って座っていた。
§
「まあ、それじゃあ折角川まで来て、水着まで着てるんだしな」
あれからようやく弁当を全部食べ終えて、一息ついてから川辺へ降り立つと、諏訪子は川の流れを眺めていた体を早苗へ振り向かせ、
「川遊びでもしようじゃないか、私も付き合ってやるし!」
ややテンション高めな調子と笑顔でそう言った。
「う、え、あ、あの、その、ね」
そんな諏訪子に、早苗は急に狼狽えたような様子で腰を引きながら、
「べ、別に、今日は川遊びじゃなくてもいいかなぁって、ほ、ほら、ケロちゃんだって忙しいだろうし……」
「……? 自慢じゃあないが、私はクソ暇だぞ――っつか、ちょっといいか、早苗……お前……」
その言葉に首を傾げると、諏訪子はゆっくりと早苗へ近づこうとする。
が、そうして近づいた分だけ早苗がささっと遠のいた。
「……」
「……」
無言で見合い。
近づいて、また遠のいてを三回くらい繰り返したところで、
「うりゃっ」
「あ!?」
諏訪子が一気にしゅばっと近づいて、遠のく間も与えずに早苗の腕を掴んでいた。
「……ちょっと泳ぐだけだろー、何を逃げようとしとるんだお前はー」
「い、いいからぁ! 別に今日無理に泳がなくてもぉぉ!」
腕を引っ張る諏訪子に、早苗はもはや座り込まんとするほどに腰を沈めて抵抗する。
しかし、
「あーもー! お前がそんなんなら、ちょっと荒っぽくいくぞ!」
「わわっ!?」
業を煮やした諏訪子が、抵抗する早苗の体をひょいと頭の上まで持ち上げるように抱き上げて、
「そおい!」
そのまま川の水際まで歩いていくと、川の中程の辺りへひょい、といった感じで早苗を投げ入れた。
「わーっ!?」
そして、ざぶんと、早苗の小さな体は悲鳴を残して着水し、
「あばばば、ぶぶぶ、わわぶぶぶ!!」
真っ直ぐ立てばちゃんと肩が出て足がつく程度の深さにも関わらず、水に入った早苗は必死の形相で、めちゃくちゃに暴れ、
「あううう、ひっ、ふっ、ひぃぃ……ふぅぅ……!!」
その大暴れにより発生した推力でなんとか岸まで近づいて足を底につけると、命辛々といった呻き声を発しながら水から上がり、膝をついて地面を見つめつつ荒い息をつく。
「――なあ、早苗よう……お前、もしかして……」
そんな早苗の目の前にしゃがみ込んで、諏訪子は呆れた視線を向けながら、
「もしかしてお前、泳げないのか?」
俯いて震える早苗の体が、ぴたっと動きを止めた。
「つか……もしかして、さっき言った理由だけじゃなくてお前……泳げないのが恥ずかしくて、仲間に入れねえんじゃねえのか?」
諏訪子のまさかという思いを含んだ追求に、
「……」
早苗はばつの悪そうな顔で、わかりやすく視線を横へと逸らした。
そんな早苗の態度から全てを察した諏訪子は大きく溜息をつき、ぐいっと立ち上がる。
「あー……わかった、わかった……要するにお前、シンプルにナメられるのが嫌でもあるんだろ」
……意外なほどに負けず嫌いなのな、こいつ
そう密かに思って、小さな少女の体を見下ろしながら、
「――だったら、しゃあねえな。都会から出てきたもやしっ子一人……」
今度はこっちが不思議そうな顔で諏訪子を見上げる早苗に、にやりと笑いかける。
「私がしばらく鍛えて、どんな道だってひょいひょいと歩けるように、どんな川だろうがすいすいと泳げるように、特訓してやるよ」
その笑顔に、言葉に、早苗も何やら嫌な予感と共に自然に出てきた引きつるような笑顔を返すことになった。
§
「手は大きく半円を描くようにして水をかき、同時に後ろ足で飛び跳ねるイメージで水を蹴る!」
普段のゆったりとした長い袖の、蛙の描かれた白と紫の服を脱ぎ、上半身はさらしを巻き、下は褌という凄まじい格好で諏訪子は水の中にいた。
その中に在って、同じく水に入り傍に立ってじっとこちらを見ている早苗へ、諏訪子は実演の動きで泳ぎ方を教えている真っ最中であった。
「これがまさしくカエル泳ぎというやつだ!」
叫びながら、諏訪子はすいすいと流れに逆らって見事に泳ぎながら川を昇り、しばらく行ったところでターンすると流れに身を任せてすーっと元の位置へ戻ってきた。
「――っと、よし、まあとりあえずさっき言ったように、見よう見まねでもいいからやってみな」
「う、うん……!」
目の前に戻ってきて、すくっと水の中で立って止まりながらそう言う諏訪子の言葉に、早苗は緊張しつつも力強く頷いて、
「っ……!」
川の流れに対して正面で向かい合うと、
「え、えいっ!」
飛び込むようにしてぼちゃんと潜って顔をつけ、さっき見た動きを真似て必死に手を、足を動かす。
動かす。
動かしている。
動かしている、の、だが。
「はぶっ、ぶっ、うっ、わ、う……た、助けてぇー!」
諏訪子と違い流れに逆らえず、ゆっくりと流されていき、遂に体をばしゃばしゃと必死に動かしていた力が切れると、そのままぐるぐると川を流れ出した。
「ええい、何やってんだ! 神奈子がクロスワードパズル解いてる時の方がまだ気合い入ってるぞ!」
賞品でゲーム機までゲットした相方の密かな趣味を暴露しつつ、叫びながら、諏訪子は呆れた顔でざぶんと潜り込み、流される早苗を追いかけて泳ぎだした。
§
「ケーロケロケロケッロケロ~」
「け、けーろけろけろけっろけろ~」
「ケロケロケロケロケッロケロ~」
「け、けろけろけろけろけっろけろ~」
諏訪子の歌う謎すぎるフレーズの歌に続いて早苗も歌いながら、次に二人はそれなりになだらかなハイキングコースといった感じの山道を縦に並んで走っていた。
「おら、声ちっせえぞ早苗ー」
「ね、ねえ!? すっごく聞きづらかったけど、もういいかげん聞いてもいいよね!? この変な歌一体なんなの!?」
先を走る諏訪子が振り向いてそう言ってくるのへ、何かの我慢の限界に達した早苗が叫ぶように尋ねる。
「あー? ランニングといったら、リズムを崩さないために歌いながら走るのは当たり前だろー、野球部とかでもやってるしなー」
ちなみに歌は深夜にやってた映画のやつに私オリジナルの歌詞をつけたもんだ、と早苗の方を向いたまま後ろ向きにまったくペースを落とさず走り続けながら諏訪子はそう言う。
「え、えー……」
もはやどういうリアクションをとっていいものやらわからず、早苗はとりあえず走り疲れて息切れしてきた体に任せてぐったりと脱力し、地面を向いた。
「ほら、ペース落ちてきてるぞ早苗。元気よく歌えば力もわいてくるもんだ、いくぞー、ケーロケロケロケッロケロ~」
「う、うう……け、けーろけろけろけっろけろ~!」
そして諏訪子がさらにそう言ってくるのに、早苗はもはや半ばやけくそのような気持ちで歌い出した。
「お、その調子その調子。ケロケロケロケロケッロケロ~」
「けろけろけろけろけっろけろ~!」
そんな風に大声で歌いながら、一匹と一人は山道を元気よく走ってゆく。
§
しばらくそのように、
「ほら、手ぇ引いててやるから足の動きをまずは完璧にできるようになれ!」
「う、うん!」
意外と真面目に諏訪子は早苗に特訓をつけ、
「神社の石段は体力をつけるには絶好の場所だ! まずは息切れせずに一往復出来るようになれ!」
「は、はい!」
早苗も生真面目に諏訪子の言うことを信じて従い、
「私に何を言うにもまず前と後ろに『はい!』をつけろ!」
「は、はい! ケロちゃん! はい!」
それから数日ほどを、一匹と一人は明けては暮れるまでの間を仲良く一緒に特訓へ費やしたのだった。
「早苗、お前は蛙だ! 蛙になるのだ~!」
4
「っし、今日はここまでにしとくか」
諏訪子が時計を眺めるように空を見ながらそう言ったのを、早苗はぜいぜいと荒い息をつきながら、先程まで諏訪子の後をついて走り回っていた体を休めながら聞いて、
「はーっ、はーっ……へ……?」
と、少し間抜けな調子で問い返してしまう。
早苗も空を見上げてみれば、その色はまだ昼下がりがもうすぐ終わろうかというようなもので。
「は、はい! ケロちゃん、きょ、今日は、ずいぶん早いよ、ね? はい……」
見上げていた顔を戻して、確認するように問いかける。
普段ならまだまだここから空が青から赤へ、赤から紺へ渡るまで、びしばしとしぼられて泣きそうになるはずなのだが。
「ん? ああ、今日はこれから私ぁ一人で山登りさ。だから、ここまでにしとこうかなってね」
その問いに、諏訪子も空を見ていた顔を戻して答える。
その答えに、
「あ……」
その言葉の、行動の意味するところを知っている早苗は、一瞬心配するような顔をしてしまう。
「……なんだよ、変な顔して。心配せんでも、私ぁ大丈夫さ。こうするのだってな、私のためばかりでもないんだから」
それを見て、安心させるように諏訪子は軽く笑いながら、
「単にな、私はここが好きで、ここに住んでる奴らも好きで、そしてそれを見て回るのも何より好きなのさ。見て、回って、そうして見守ってやってるんだよ」
そう言って、組んでいた腕をほどいて伸ばすと、早苗の頭をくしゃくしゃと撫でてやる。
「だからたまにそうしてて、今日がその日ってだけさ。それとも、また今日も早苗も来てくれるのか?」
笑顔に若干意地悪さを混ぜてのその問いに、早苗は慌てて首を振る。
「きょ、今日はいいもん! もう帰って、私、お昼寝する!」
「ほーかほーか、まあ好きにしな。ほんじゃ、私はもう行くけど、一人で帰れるか?」
そう言い返す早苗の言葉をするっと受け流して歩き出しながら、諏訪子はさり気なくそう聞いてやる。
「えへへ、だいじょうぶだよー! もうすっかりこの辺覚えたもーん!」
その言葉に、諏訪子の歩き出した背中へ大きな声で笑いながら早苗はそう答えた。
「よーし、そんじゃあ、今日はここで現地解散だ。じゃあな――」
そんな背後へ諏訪子は背を向けたまま手だけひらひらと動かしてそう言い終えると同時に、びょんと跳び上がる。
そう、跳び上がり、地を蹴り、木を蹴り、二人の横手にあった森の方へと、軽やかに跳ねながら吹き抜けるように消えていった。
「わぁっ……」
その後ろ姿を、あとに残された一陣の風を感じながら、早苗は感嘆の声をあげてしばらく見つめると、
「……よし!」
自分も真似するようにぴょんと一度跳ねてから、帰りの道を走り出す。
§
もうすっかり登り慣れてきた神社の石段を駆け上がりながら、弾む呼吸と共に早苗は考える。
ここ数日の内では、久しぶりの午後の空き時間だった。
どうしよう、何をしよう。
とりあえず家に帰ったら冷たい井戸のお水を一杯飲んで、それからあったかいお茶と一緒におやつを食べよう。
おやつを食べたらぐったりと、晩ご飯までお昼寝しよう。
うん、そうしよう、そうしよう。
少女はにんまりと笑い、怠惰な午後の過ごし方に思いを馳せる。
そうしながらも駆ける、駆けて、上がって、石段を登り終え、
「あれ?」
その勢いのまま鳥居をくぐり境内へ飛び込むと、いつもそこで掃除などしているはずの祖母の姿が見えなくて、
「……っ!」
代わりに、本殿の方に誰か見知らぬ後ろ姿を見つけて、慌てて立ち止まる。
昼下がりの神社、蝉の声が響く中でも、一本筋の通った静けさを持つようなその中で、今はその誰かの後ろ姿と少女が一人。
しばらく止まったままその背中を見続けて、しかしいつまでも止まっているわけにもいかずに、若干の緊張を抱えながら、少女はゆっくりと歩き出す。
本殿を向いたまま先程から微動だにしないそれが誰なのか、確認するようにそろりと少女は近寄り、
「あっ……」
そして、はっきり見えるまで近づいてからその状況を理解して、静かに驚きの声をあげる。
その後ろ姿は、帽子をかぶった、丁度祖母と同じくらいのお爺さんで、そして立ち尽くしていると思っていたのは、そうではなくて、
「……」
静かに、押し黙って、思わず見てる方が声を失ってしまうような真剣さで、拝んでいるのだ。
そして、その拝む先は、賽銭箱と鈴のその先には、
「……っ」
その神の社殿の中で、厳かな静けさと緊張を生み出すようなその向こうで、赤の衣を纏い注連縄を背負った紫髪の女が神が――神社が祭神である八坂神奈子が同じくこちらが言葉を失うような顔でそれを黙って見つめているのだ。
その表情は、初めて見るような、それでいて少女にはこれまで見慣れてきたような、そんな胸を打つ、心が、締め付けられる――
「――」
思わず息を呑む。呑んで、しばらく、それから目が離せないで立ち尽くす。
そんな中で、
「――ふうー……」
一心に拝んでいた体が、そんな深呼吸と共にゆっくりと動き出し、
「……おや?」
そして、ようやく自分の近くで立ち尽くしてこちらを見ている少女に気づき、その体がそちらを向く。
「……あっ……あっ、あの……」
視線が合って、それまでの止まっていたような全てが急に動き出したことに戸惑いながら、少女は慌てて、
「こ、こんにちは!」
大声で叫ぶようにそう言うと、勢いよく頭を下げた。
§
「あ、あの……その、麦茶ですけど、よかったら……」
そう、おずおずと早苗は、盆に乗せて運んできた、茶と氷を入れたガラスのコップを二つ、縁側へことりと置く。
「ああ、これはどうも。ありがたくいただこうかな」
そして、早苗が茶を置いたその横、縁側に座った、先程熱心に拝んでいたその老人が、会釈するように頭を軽く下げた。
「すまないねぇ、大した用事もないから、別にあがらせてもらえなくてもよかったんだが……」
「い、いえ、その……お客さんかなぁ、と、おばあちゃんの……」
早苗は置いた茶を間にして、老人の隣の縁側へ自分も座りながら、恥ずかしそうに頬を染めて俯いた。
黙って見ていたのを気づかれたあの後、早苗はてっきりこのお爺さんは祖母の客だと思い込んで、祖母も家の中にいるものだと思い込み、慌てて半ば強引に家へ上がってもらったのだ。
しかし、家の中にはどこを探せど祖母の姿は見えず、取りあえず早苗は老人に縁側で座ってもらって、急いで作り置きの冷えた麦茶をコップに注いで用意して持ってきたと、現在そんな状況であった。
「その……おばあちゃんは、あの、今は……」
そして、取りあえず自分も座って、それから今祖母が不在であることをどうにか説明しだそうとした瞬間、
『早恵なら買い物に行ったよ』
「っ!?」
頭の中に直接、そう、声が聞こえて、心底驚いた表情できょろきょろと辺りを見回してしまう。
『っと、驚かせたか? まあ、こういうのも神の力さ』
「え、えー……!?」
それから次にまた頭の中でそう聞こえたのに、早苗はとりあえず不思議そうな顔でこちらを見る老人に背を向けて、身を少し屈めて声を潜めながら言う。
「ふ、ふつうに教えてよぉ……えーと、というか、いるのなら手伝ってほしいのですけど……」
驚きのあまり諏訪子を相手にする時のようにそう言ってしまい、次に声の主が誰であるかに気づいて早苗は慌ててなるべく丁寧に言い直す。
『ああ、すまんすまん。っても、私はここを離れるわけにもいかんし、何より』
答える声が、少しの苦笑を混ぜながら、
『お前以外には、見えないからなぁ』
「……」
その言葉に、早苗は一瞬、聞いてはいけないことを聞いてしまったように無言になった。
それから、ふと気づいたように、
「……というか、あれ? 私の声ってそっちに届いてるんですか……?」
『ん? ああ、別に声に出さんでも、頭の中で念じてみればこっちに届くぞ』
『早く言ってください!』
軽くそう言う神へ、早苗は頭の中で強くそう念じてから会話を切る。
そして、溜息をつきながら元の位置に振り向くと、本当に不思議そうな表情でこちらを見ている老人と目が合い、
「あっ……あはは……あの、すみません、おばあちゃんはお買い物に行っているみたいです……」
誤魔化すように笑いながら、そう告げた。
そして、それを見て老人は、ふっと吹き出すように笑う。
「ふっ、はははっ、ああ……」
笑って、
「――お嬢さんは、本当に早恵さんにそっくりだねえ」
その言葉に、今度はこちらが不思議そうな顔をする少女へ、
「知ってるよ。君が、早恵さんの孫の、早苗ちゃんだろう?」
老人は優しい笑顔を向けながら、そう言った。
§
「早恵さんとは、古い知り合いでねぇ」
老人は、懐かしむように目を細めて遠くを見ながら、
「ここへ来る度に、今度孫が来て一緒に住むことになるんだとか、もう最近は一緒に住み始めて、すごくいい子だとか、嬉しそうに話してくれるんだよ」
その言葉に、少し頬を染めて照れる早苗へ、優しく笑いかけながら、
「それで、それだけじゃなくてねえ……君は本当に、昔の……丁度、同じくらいの年の頃にね、もうこの神社でお役目についていた早恵さんに、本当にそっくりだ」
だから、一目でわかったよ、と老人は言う。
そんな話を聞いて、早苗はふと疑問に思ったことを、おずおずと、
「あ、あの……おじいさんは……」
「ああ、私はね、昔、子供の頃にここに住んでいてね……今もまあ、こんなお爺さんになってしまったから、故郷に戻ってきて住んでいるんだ」
早苗の言わんとすることを先回りして気づき、老人がそう答えた。
「……ここは、諏訪は、いいところだからね」
そう言って、どこか遠くを見つめるような老人の顔に、
「……」
早苗はなんとなく無言を得ながら、ゆっくりと氷の半分溶けた麦茶へ手を伸ばし、口をつける。
それに倣うように、老人もまた軽く会釈をしてから、麦茶へ手をつけた。
しばらく、そうして、
「……あの」
また早苗は、静かに疑問の声を発する。
「おじいさんは、今日はおばあちゃんにどんな用事があったんですか?」
ふっと、そう聞いてしまってから、失礼かもしれないと思い当たって、早苗は慌てて付け足す。
「あ、あの、すみません……言いたくないことなら、いいですから」
そんな早苗に、老人はくっくと声に出して笑いながら、
「はは、ああ、すまんね。実は、別に今日は早恵さんに会いにきたわけじゃあないんだよ。というか、いつもかもしれないなぁ」
早恵さんには失礼かもしれないけどね、と付け足してから、不思議そうな顔の早苗へ向き合って、
「私はね、いつも、ここの神様へ会いに来ているのさ」
§
「神様……に?」
「うん、そうなんだ」
静かに笑う老人へ、早苗は自分でもよくわからない、疑問のような、純粋な好奇と共に、
「どうして……」
そう、呟くようにこぼれたそれを拾って、老人は繋げる。
「……昔からね、私はきっと、ここの神様にね、助けられて、生きてきたんだ」
そう言って、早苗の方へ笑いかけながら、
「今の子供達には、信じられないかな?」
「……う、ううん」
その言葉に、早苗は慌てて強く首を振る。
「わ、私もきっと、何度も助けてもらってるから……」
だから、きっと、誰よりも信じられる。
そう強く思いながら見つめ返すのへ、老人は、
「……」
何も言わず、ただ微笑んで。
それから思い出すように、薄く目をつぶり、語り始める。
§
「……子供の頃からね……ここに住んでいる時には、いろんなことがあった」
瞼の裏に、それを描きながら。
「いろんなことをしたよ、遊びも、時にはそれ以上に無茶なことも……いや、それだけじゃあなくて、もう普通に暮らしていく上で全てのことで……」
今よりももっと昔の、今と変わらぬその郷で、
「きっと、ずっとここの神様に見守られて、そうして助けてもらいながら……私だけじゃあない、この郷の人達はずっとそうしてもらって、生きていたんだ」
きっと、自分はそれを見ていたはずだ。
「思い出す、ここでの記憶の全てにね、この神社があるんだ……小さな頃は、家族の誰かに手を引かれてやって来た、一人で出歩けるくらいになると、友達と一緒の遊び場の一つになった、それ以上に大きくなっても、何かあればここに来たよ」
厳かな、その社殿の向こうに、
「恋をした時も、それが破れた時も、新しい学校へ入る前も、夏は祭りの度に、冬は年が明ける度、好きな人がお嫁に行った時も、自分が、ここを出て行く、その時も……」
きっと、自分を、
「その全部できっと、守って、助けてもらっていたんだろうなぁ……」
溜息を吐く。
「……大人になってね、それも過ぎて、こんなお爺さんになってから、ようやくそのことに気づけたんだ。気づいて、そうしたらまた、いつの間にかこの神社へ来るようになっていた」
目を開けば、景色が戻ってくる。
傍らの少女へ、笑いかけて。
「だから、そうして、ここへ来てね。私は神様に、お礼を言っているのさ」
§
「お礼……?」
「ああ」
静かに首を少し傾げる少女に、老人は答える。
「今までもらったはずの多くのものを、気持ちを、少しでも返せたらいいなぁ、と、そう思ってね」
そう言って、少し恥ずかしそうに笑い、
「まあ、まだまだいくらも返せていないだろうし……」
そして、その笑顔に少しだけ、混ざる。
「何より、それが届いているかどうかも、わからないがねえ……」
「……!」
その顔を見て、また少女はさっきの境内で感じたような、胸を刺す淡い痛みに、表情を少し曇らせる。
そして、どうしようもない、それに突き動かされるように、
「あ、あの」
思わず、問いかけていた。
「神様に……ここの神様に、会いたい、ですか……?」
§
その言葉と、
「――」
少女の真剣な瞳に、老人は一瞬呆気に取られた顔をしてから、
「……そうだねえ」
またすぐに、優しい笑い顔へ戻って、
「もし会えるなら、会いたいなぁ……会えたなら、そうしたら――」
そうしたら。思いの全てを、吐き出すように、
「もっと……今よりずっと、ちゃんと、しっかりと、お礼が言えるだろうになぁ……」
庭の向こうの空を見ながら、そう言った。
それを、その横顔を見て、早苗は、
「……っ」
さっきよりも増したちくりとする痛みに、何も言えず、黙り込むしかなかった。
5
「それじゃあ、おいしいお茶も頂いたし、そろそろお暇させてもらうよ」
そう言って立ち上がった老人を見送りに早苗も付き添って、二人はまた境内に戻ってきていた。
「今日はすまなかったね、早苗ちゃん。色々話し相手になってもらって」
「い、いえ、私も……大事なおはなし、聞かせてもらったから……」
少し先を歩きながら振り向いてそう言う老人へ、早苗も答えて首を静かに振った。
「……そうだ。建御名方様も、今日はこれで失礼致します」
そして、途中で老人は気づいたように本殿へ近づき、神へも暇を告げる。
「……」
二拝と二拍の後に深く拝みながら、またしばらくの間。
早苗はまた静かにその姿を見つめ、次にその拝む先へさっきのようにもう一度視線を変える。
その見つめる先の神の顔は、やはり――
「――」
そして、早苗は黙り込んだまま静かに下を向いた。
……どうしてだろう
きっと目の前の神と人の心は通じているのに、通じるはずなのに。
なのに、どうしてどちらもそんな顔をしてしまうのだろう。
どうして伸ばした手と手が、すれ違ってしまうんだろう。
胸の真ん中が、じわじわと、もう懐かしくなってしまいそうな痛みに疼く。
それはまだ治りきらない古傷の痛み、大事なことを気づかないで、取りこぼしてしまった時についてしまった――
「……ふう」
そして、少女が考えている間に、ようやく老人が拝んでいた顔を上げた。
そうして、さらに、最後にもう一度軽く頭を下げる。
一連の動きを締めるための動作。
それをし終えたその時、
「――」
見つめていた神がふっと笑った。
嬉しそうに、そして同時に、どうしようもない諦めのような何かを混ぜて。
「あ……」
それから、老人が背を向けて歩き出す。こちらへ軽く会釈をしてから、鳥居の方へ。
それを見て、
「……っ」
神の笑顔も、老人の拝む姿も、今見えているその背中も、全てを見ていた早苗は、
「まっ――」
駆け出す。
「待って!」
駆け出して、叫び、驚いて立ち止まり振り向く老人と、社におわす神との間に立つと、
「あ、あの! 神様は、神様はね!」
老人の方を向いてそう叫びながら、
『言って!』
目をつぶって同時に、強く念じる。
「神様は、聞こえてるの! 聞こえてて、そして」
叫びながら、一瞬首だけ振り向き、神と視線を合わせる。
『言いたいことが、あるんでしょ!?』
合わせて、心底驚いた表情の神へ、念じ続ける。
「こう、言ってるの!」
§
いきなりの、少女の行動から与えられた驚愕の中で、しかし、
「――っ、あ」
震える喉から、声が出ていた。
「――あり、がとう……」
ずっと、伝えたかった。
「ありがとう……」
ずっと、そう、
「信じてくれて……」
言ってやりたかった。
「拝んでくれて……いつも、来てくれて……」
それが喉の奥から、心の底から溢れ出て、
「私達に、感謝してくれて……」
確かな音を得て、伝えられてゆく。
「ありがとう……!」
§
後ろからもう、頭じゃなくて耳に直接聞こえた、胸が締め付けられるようなその声を全て伝え終えて、早苗は荒い息をついていた。
「――はぁ……はっ……」
そして、目の前の、ずっと無言でその言葉を聞いていた姿が、
「……!」
ふっ、と、優しく笑うのが見えた。
笑って、そして、
「早苗ちゃんは……」
言う。
「本当に、早恵さんそっくりだなぁ……」
そう言って、それからゆっくりと、少女の方へ、その向こうへ、深くお辞儀をする。
「――建御名方様……私めには過分なお言葉、本当にありがとうございます。私には聞こえませぬが――」
そして、何よりも嬉しそうな声で、
「しかし、確かに伝わって、受け取りました」
はっきりとそう言って、顔を上げ、次に早苗を見る。
「……早苗ちゃんも」
名を呼ばれ、見つめ返す少女へ、
「ありがとう」
「あっ……」
優しくそう言われて、早苗はどうしていいものやらわからず、
「――どう、いたしまして……」
頬を染めて、下を向いた。
§
拝殿へ昇る階段の途中に、紫髪の神と少女が二人、並んで座っていた。
空はもう、青から赤へ変わる途中。
境内に今は人影はなく、どちらも黙り込んだまま。
不意に、
「……どうして……」
神の方から、尋ねかけた。
「どうして、あんなことしようと思って、してくれたんだ……?」
それは咎める風ではなく、純粋な疑問として。
「……」
その問いに、少女は一度隣に視線を向けて、しかしまた正面の境内へとあてもなく逸らす。
「……あんな顔ね……して、欲しくなかったの……」
そして、ぽつりと語り始めた。
§
「神様にも、おじいさんにも、どっちにも、そんな顔、して欲しくなかった……」
思い返すその表情は、
「……だってね、私、知ってるんだ……わかったんだ、そんな顔する時の、気持ち……」
これまで見ているだけだった、見知らぬ神達がこちらに向けるそれと、
「寂しくて、寂しくて、どうしようも、なくて……」
あの夕陽の中で見た、カエルの神のそれと、重なっていく。
「泣き出したくなるような、そんな顔……」
そして、それは、
「最近、それがね、私にもようやくわかったの……わかって、知ってしまったから……」
きっとあの時泣きじゃくった自分とも、重なる顔と、
「だから、目の前でそんな顔をしてるのを、そんなことを感じているのをほっとけなかったんだ……」
切り裂かれるような、誰とも繋がらない手が掴む、孤独の痛み。
「……本当は、あんなのもう見たくないって、私のわがままもあるけど……」
そして少女は神の方を振り向き、少し頑張って、沈みそうになる表情を笑顔に作りかえながら、
「でも、なにより私の知ってる誰かに……身近な誰かに、あんな寂しさ感じて欲しくないなぁって……そのために私に出来ることがあるなら、やらなくちゃって……あの時なにより強く、そう、思ったんです」
§
「……!」
その答えと、その笑顔を見て。
「――っ」
「ふぇ?」
神奈子は静かな驚きと、それ以上に溢れ出た何かの衝動に動かされて、傍らにあるその少女の体を抱き締めていた。
「――今、諏訪子が……」
そして、呟くように、静かに言葉を作る。
「あいつが、心底うらやましい……」
己の胸の中の少女の黒髪に指を通し、慈しむように触りながら、
「あいつは、お前に、どんなことをしてもらったんだろう……どんな言葉をかけてもらって、そして」
抱き寄せたその体を少し離し、見上げる少女と視線を合わせて、その頬に手を伝わせる。
「こんな愛しき我が子に、どれほどの想いを、寄せてもらったのだろうね……」
§
その言葉の意味は少女にはよくわからなかったが、
「……」
抱き寄せられながら見上げるその顔から、頬に優しく触れる指先から、伝わるその気持ちだけは何よりも理解できた。
それはずっと昔から知っている、誰よりも自分に近い存在から与えられるもの。自分も、最後の瞬間まで母親に何度もこうしてもらっていた。
そうしてもらって、忘れることなど出来ないほど、今こうしてすぐにでも思い出せるほど、たくさん伝えてもらった。
「……っ」
そしてまた、不意に溢れ出そうになった温かい涙を、目をつぶって抑え、同時に別のことを連想する。
それは、あの時に聞いたカエルの神様の言葉。
……信じてもらえなければ、神は存在出来ない
その言葉を、先程目の前の神が言ったことから思い出して、
「あ、の……」
「ん……?」
だから、少女は決意する。
疑問の声を出す神を、真っ直ぐ見上げて、
「その……ケロちゃん、だけじゃなくて……ここに来てからずっと、私、おばあちゃんにも、神様にも、言おうと思ってたことが、あるんです」
その想いを、言葉にする。
息を吸って、
「あの、ね……私を……私を、受け入れてくれて……」
先に溢れようとする気持ちを、必死に言葉に作り替えて、
「私を、一人にしないでくれて、一緒にいようとしてくれて」
届ける。
「そうしてくれて、ありがとう……!」
§
「だから私は、今一番、誰よりも信じています……!」
少女の顔が、本当に嬉しそうな笑顔に変わる。
「私の手を、握り返してくれるその手を……そこにいて、見守ってくれているのを……」
今はもう、何よりも得難い、その言葉と共に。
「それがあるから、私は――」
そして、その笑顔にこれまで見てきたその全てが重なって、
……ありがとうございます
……八坂様……
……貴方がいてくれるから
……風神様――
「――――」
過ぎ去って、行った。
残ったのは、腕の中で穏やかに自分を見上げる小さな少女。
そして、
「……私の……」
ふっ、と、自分も返すように穏やかな笑みを作りながら、
「……私のことは、あだ名では呼んでくれんのか?」
神がそう、問いかけた。
§
「あ、えっ!? あ、あの、えと……」
「諏訪子みたいに、お前の好きなように呼んでくれていいのよ」
いきなりの別方向からやってきたその質問に少女はおろおろと焦り、そんな姿へ神はにこりと笑顔を向ける。
「あー……あの、えと……で、でも、やっぱり神様は神社でいちばんえらい神様だから、だから、その、えと」
そして少女はそれから考え込む顔をしてみたり、言い訳するような後ろめたい顔になったり、ころころと表情を変えながら、
「神奈子様、で……いい、ですか?」
それから、おずおずと、伺いを立てるようにそう言った。
それを見て、神はふっと吹き出し、
「いいわよ、何でも。好きに呼べって言ったのだからね」
そして、またその少女の頬に、愛おしそうに指を伝わせて、
「――東風谷、早苗」
その名を、呼ぶ。
「早苗……」
そこに在るのを、確かめるように。
「……っ」
そして、その声に祓われた場を感じて、少女が張り詰めるように無言になるのへ、
「お前が、そう思ってくれているのならば……」
その目で、見つめながら、
「私が此処に在る限り、お前が其処に在る限り……そして、我らが共に在る限り、お前の身に如何な災いも及ばせはしないことを」
その手で、触れながら、
「この神社の祭神でもなく、国生みの神でもなく、ただ八坂神奈子としての名において、ここに誓おう」
はっきりとそう、言葉にして告げた。
そうして、触れていた頬の手を顎へやると、軽くそれを上に上げさせて、
「ありがとう……」
その唇へ、顔を寄せて己のそれを軽く重ねる。
「……っ!?」
そのまま一、二秒と、過ぎて、
「――んっ……ふぅ」
「――っは……あっ……あぅ……」
顔を離すと、目をまん丸にして口をぱくぱくさせている少女へ、
「今日のお礼代わりよ」
にやりと笑って、神はそう言った。
「っえええぇえぇえ――――!?」
そのすぐ後に響き渡った少女の驚愕の叫び声は、遠く諏訪子が登っていた山の方まで微かに届いたという。
6
それなりに大きな、街の中にある病院。
その待合いロビーで一人椅子に座り、熱心に「設定資料集」と背に書かれた本を読んでいる早苗の姿があった。
時折、ふむふむと頷いたりして、真剣そのものの表情で読み込みながら、
「ふぅー……やっぱりYF-19だよね……」
ふと、一休みするように満足そうな息を吐いて本から顔を上げた。
その時、
「あっ」
視線の先に、その横に医者を連れた祖母が廊下から現れるのを見つけて、立ち上がると、小走りにそこへ向かって駆けだす。
§
「では、本当にくれぐれも無理だけはなさらないように」
「はい、わかってますよぅ。大丈夫です」
初老といったくらいの外見の眼鏡をかけた白衣の医者の言葉へ、早恵は軽く笑いながらそう答える。
「もう、またそんな……でも、まあ、今度からは――」
「おばーちゃん!」
そんな早恵へ渋い表情を作りながら医者が言葉を続けようとした、丁度そこへ早苗が駆け寄ってきて、早恵の隣へ並んだ。
「もう終わったの?」
「ああ、早苗ちゃん。そうだねぇ、あとはお薬もらうだけだから」
横にある早苗の頭を優しく撫でながら早恵がそう答え、早苗もそうされて嬉しそうに目を細める。そこへ、
「おや、君が早苗ちゃんかい?」
そう知らない声でいきなりそう言われて、早苗は驚きと共にそっちへ向き、
「――あ、は、はい! こんにちわ!」
「はははっ……はい、こんにちわ」
慌てて頭を下げるのへ、医者も笑いながら軽く自分の頭を下げて答えた。
「君のことは早恵さん……おばあちゃんから、よく聞いて知ってるよ。かわいいお孫さんがいるってね」
「あ……」
続けてそう言う医者に、早苗は最近の自分の変な有名さに、恥ずかしがりながら頬を染めて俯いた。
「ふふ、それじゃあ、先生、今日はこれで……」
それから、そんな様子をにこやかに眺めていた早恵が、ひとまずそう頭を下げてそろそろ別れを切り出そうとするのに、
「――っ、あ! そうだ早恵さん、診察室に何か忘れてるものはないですか? カバンの中身とか……」
「ええ? 流石にそれはないと思いますけど……」
慌てたように医者がそう尋ねて、早恵は訝しがりながらも小ぶりの手提げカバンの中を確認しだす。
そして、早恵の注意が外れたその一瞬に、医者はしゅばっとしゃがみ込んで、早苗の耳に口を寄せると、
「ちょっと早苗ちゃんと二人でお話したいことがあるんだけど、いいかな?」
あまりのことに驚いて固まる早苗にひそひそとそう耳打ちして、
「もう、大丈夫でしたよぅ。ちゃんと全部ありました」
「ははは、いやあ、それならいいんですよ」
早恵の視線が戻ってくる前にまた急いで立ち上がって、何事もなかったかのように笑顔を作っていた。
「それじゃあ、今度こそ……」
「ああ、はい、本当にくれぐれもお大事に……そう言えば、この後は処方薬の受け取りでしたかな」
「? ええ……」
「今の時間だと少し混んでいて、待つことになるかもしれないですねぇ……」
医者はそう言いながら、ちらりと早苗に目で必死に合図を送る。
それを受けて、早苗は一瞬本気でどうしたものか考え込んで、
「……あ、お、おばあちゃん、だったらその間私病院のお庭行ってていい?」
まだ怪しむ体は残しながらも、取り敢えずそう祖母に聞いてみる。
「うん? うーん……別にいいけれど……」
いきなりそんなことを言う早苗へ、早恵は少し不思議そうな顔をするも、そう許可を出した。
「……おう! いけない、もうこんな時間だ、それでは私はこれで!」
それを見届けてから、医者は急にそう言うと踵を返し、廊下の向こうへ消えていく。
「……?」
それを早恵はまた不思議そうに、早苗は悩むような表情で、見送ってため息をついた。
§
「いやあー! すまないすまない! 驚かせちゃったかな!」
それからしばらくして、早苗が庭のベンチに座って待っているところへ、さっきの医者が小走りにやって来た。
「と、とりあえず協力してくれたお礼に、まずジュースをあげよう。遠慮なく飲んでくれ」
「……あ、ありがとうございます」
そして慌てて来たせいか少し荒い呼吸と共に差し出されたパックジュースを、早苗はまだ怪しがりながらも受け取る。
「いやぁ、本当に驚かせてしまったようですまないね……早恵さんの前では少し、言いづらい話だったから……」
そう言いながら、医者も早苗の横へ座ると、自分の分の缶コーヒーを開けた。
「……」
そして医者のその言葉に、少しの驚きと、何かもやもやとした気分を抱えながら、早苗も手に持った乳酸菌飲料のパックへストローを挿す。
病院には慣れていた。昔は通っていたと言ってもいいほど、何度も来ていたからだ。
でも慣れているからと言って、好きかどうかとはまた別だ。
「……っ」
いや、むしろ早苗は今、己の中にある不快感を理解した。病院というのは、好きか嫌いかならはっきり嫌いなのだ。
ただそんなものを押し込めていられるほどに慣れてしまっているから耐えられるだけで。
今日来たのだって、祖母に連れられたからだ。祖母に付き添うこと自体は嫌ではなかったが、許されるならすぐにでも帰りたかった。
何故なら、ここに、こんなところにいたら、あの時の――
「早苗ちゃん?」
「!?」
不意にそう声をかけられて、慌てて早苗の意識は戻ってくる。
「は、はい」
「ああ、そろそろ話を始めていいかなぁって……どうかしたかい?」
嫌いなジュースだったかな、と不安そうな顔をする医者に、早苗は慌ててストローに口をつけながら、
「そ、そんなことないです。あの、お話、どうぞ」
「そうかい? じゃあ……」
そう促す早苗に、医者も真面目な顔に戻って話し始める。
「といってもなぁ……本当は、早苗ちゃんくらいの子供にこんな話をするべきではないのかも知れないけれど……」
そう言い、少し表情を曇らせて、早苗に向き合う。
「でも、今はもう早苗ちゃんだけが、唯一の早恵さんの同居人だからね。話さなきゃいけないし、話しておかなきゃいけない」
その表情に、その言葉に、不意に早苗の心臓がどくんと跳ねた。
跳ねて、それから、どんどんと早くなっていく。
「――早苗ちゃん、もし、ね。もし、君のおばあちゃんに何かあったら……」
ジュースが通ったはずの喉が、もう渇いている。心臓の音がもう、外に聞こえそうなくらいで。
「その時、どうしたらいいか、わかるかい?」
§
そう問われて、早苗はとりあえず無意識にジュースに口をつけていた。
震える喉で口に少し含んだそれをなんとか飲み込み、ともすれば全身に移っていきそうなその震えを何とか抑えようとしながら、
「お、おばあちゃん」
必死で口に出す。
「そ、そんなに、どこか、悪いん、ですか?」
考えもしなかった事実だった。いや、考えたくもない事実だった。
家を出る時に祖母は大したことない、健康診断みたいなものだと言っていたし、歳を取れば病院は誰でも普通に行くものだという自分のうろ覚えな知識もあって、そのどちらも信じ込んでいた。
毎日食事の後に何かの薬を飲んでいたのも、特にどんな薬なのか疑うこともなく受け流していた。
どうして、どうして自分はなにも疑問に思わなかったんだろう。
病院に行くのを、大事にとらえられなかったんだろう。
違う、違う、そうしたくなかっただけだ。
おばあちゃんが、母と同じように――
「ああっ、ご、ごめんごめん! 違うんだ、本当にそんな深刻なことじゃなくてね」
そんな早苗の様子に気づいた医者が、慌てて説明を付け足す。
機械的に反応して振り向く早苗へ、笑いかけて安心させようとして、
「――いや、でも……ただ、君のおばあちゃんの、早恵さんくらいの歳になると、人間の体というものは一つ二つくらいは悪いところを抱えてしまうものなんだ。それだけは、隠しようのないことだ、わかるかい?」
しかし、首を振って真面目な顔でそう言うと、早苗を真っ直ぐと見つめる。
「……っ」
そして、その言葉に少しだけ落ち着きを取り戻しながら、早苗はゆっくりと頷いた。
「だから、本当に君みたいな歳の子に話すことじゃ、話していいことじゃないかもしれないんだ……こんな風に、いたずらに心配させてしまうから」
医者は溜息を吐きながらそう言って、ぐびりと缶コーヒーを一口飲んだ。
「でも、それはもう早恵さんくらいの歳になると、本当にいきなりやってくることだからね。今は、大丈夫だよ。それは私が保証する」
だけど、と、真剣な声で、
「それがやってこないということを、同じくらい保証は出来ないんだ。お医者さんなのにね、情けない話だけれども」
そう言って、力なく笑った。
「……」
そして放心したような表情で、早苗はそれを黙って聞いていた。
頭が、うまく働かない。頭だけじゃあない、全身にうまく力が回っていない。
こんなことを、そんなことを聞かされて、自分はどう受け止めたらいいのだろう、どうしたらいいのだろう。
何も思いつかず、ただ早苗は無言で隣の医者を見上げた。
その視線に気づいた向こうも、こっちにそれを合わせ、
「もちろん、このことに対して早苗ちゃんにどうこうして欲しいわけじゃあないよ。むしろそれは私の仕事だからね……ただ、そういう事実があるということだけは、知っておいてもらいたいんだ」
知らないのとでは大違いだからね、と続けて、
「あ……」
それを聞いた早苗の心は、また静かに跳ねる。今度のそれはただ抵抗しようのない驚きにではなく、何かに大事なことに気づいた時のような、そんな何かを知らせる鼓動。
そんな早苗へ、医者は次に、一気に燃え上がったような熱心さを目に宿しながら、
「けれどね、早苗ちゃんがそれを知っているなら、それをちゃんとわかっているなら、君にも出来ることがあるんだ」
真っ直ぐに、少女を見据えて、
「君が、今はもう唯一の早恵さんの同居人だ。そして、早恵さんにもし何かが起きた時や、そんな素振りを見せた時は、すぐにでもここか、もしくはもっと近くの病院でもいい、君が連絡して、おばあちゃんを助けるんだ。わかるかい?」
少女の心が、再度跳ねた。
そして、医者はもはや言い聞かせるのではなく、自分の思いを、願いを、その言葉に込める。
「早恵さんと、一緒にいてあげてくれ」
§
それを聞いて、
「……!」
早苗はどくどくと力強く鳴り始める鼓動と共に思う。
さっきまでの――いや、昔からこれまでの自分には、弱気しかなかった。
どんなに大切なことでも、自分に抱えきれないと思ったら逃げ出して、目を背けて、そして何もわかろうとしなかった。
わからないまま、ただ怖がって、それに向き合わずに、何もしようとしてこなかった。
それはきっと、大切な誰かを失ってしまうかどうかの境界。
その上にきっと、私だけじゃない、いつも、誰もが立っているのだ。
初めてその上に立った時、自分は恐ろしさに目を閉じ、耳を塞いでしゃがみ込んでしまった。
そして、永遠に失ってしまった。
……けれど
だけれども正直、あの時の自分がそのことに対して――母の病気のことに関して、何が出来たのかはわからない。
気づかなかったあの時も、気づいた今も、自分はまだまだただの小さな子供でしかなくて、この手には、足には、神様達のような力はない。
でも、それでも、もう何もしないままに、ただ流されて大切なものを失うことだけは、絶対にしたくなかった。
あの時だって、離れてしまうことが仕方ないとしても、もっと強く自分がその手を握って、どんなことがあっても放さないように、石にかじりつくように頑張っていれば、もしかしたら今とは違う、こんな泣き出したくなるような後悔とは違う何かを、得られたのかも知れない。
そして、今また自分はその境界にいる。
今度はちゃんとわかっている。知ることができた。
目を開いて、しっかりとそこに立っているのだ。
だから、
「……わた、し」
少しだけ震える声で、早苗は一度俯き、
「私、やります! 私が、やります! おばあちゃんとずっと一緒にいて、そしておばあちゃんが危ない時は、私がどうにかして、病院に連絡して連れて行って」
そして、がばっと顔を上げると、もはやその瞳の中に燃えさかる炎が錯覚として目の前の医者に映るほどの気合いと共に、
「私が、おばあちゃんを助けます!!」
真っ直ぐと、宣言するようにそう叫んだ。
§
「……う、うむ!」
そして一瞬その姿に、気迫に気圧されるも、医者はそれを受け止めきって、大きく頷いた。
「よし! なら早苗ちゃん、君がここにもし早恵さんを連れて来た時は、どんな手を尽くしてでも、今までの私の医師人生の全てを懸けて、必ず助けよう!」
そう叫んで、ぐっと腕を突き出す。
「はい! お願いします!」
早苗も叫び返して、腕を突き出す。
そして、瞳に炎を宿した二人は、がっと互いの腕をぶつけ合うようにして組むと、
「……っ!」
同時にまた大きく一度頷いた。
それからどちらともなく立ち上がると、手に残った各々の飲み物を背を反らしながら勢いよく飲み干した。
「……!」
傍目から見れば劇画調に描かれているように錯覚するほどやる気パルスに溢れた二人であったが、
「あ……っ、す、すいません、一つ聞いていいですか?」
ふと、早苗がとりあえず普通のテンションに戻って、思い出したように尋ねかける。
「なんだい?」
「えーと、その」
そして、医者も普通のテンションに戻りながら受ける先、早苗は本当に不思議そうに、
「なんで、おばあちゃんのこと、私のこと、そんなに気にかけてくれるんですか?」
問いかけた。
医者はそれが仕事だし、普通にそんなものだと言われればそれまでだし、そういうものなのかもしれないとも思ってはいたが、どうしてもここまで親身にしてくれることに、何か理由があるような気がして。
「そうだなぁ……本当は患者さん全てにこういうものだよと答えるのがいいのかもしれないけど」
そして、その問いかけに医者は困ったような笑顔で、
「でも、やっぱり個人的にも、特に気にかけてしまう理由もあってね……君も今住んでいる諏訪はね、私の故郷でもあるんだ」
だから、と、恥ずかしそうに頭をかき、
「早恵さんにも、子供の頃には随分お世話になったから……だから、やっぱり、少しだけ特別だ」
他の人には内緒にしてくれよ、と、苦笑しながら、医者はそう言った。
その答えを得て、
「……はい!」
早苗はまた体中を満たすやる気と共に、元気よく頷いた。
7
それから、早恵と早苗は病院を出て、一緒に少し街を歩いた。
あの時降り立った駅のある、少し大きな街。
早苗にとっては、久しぶりの都会だった。
こっちにやってきてからの生活で足りないものや、必要なものを買い足すために、大きなデパートで色々と買い物をした。
そして、その他、早恵のこまごまとした用事なども片づけてから、二人は今、休憩を取るために静かなこじんまりとした喫茶店の中にいた。
店内は少し薄暗く、客も少なく、二人が向かい合って座る席から少し離れた席にもう一組だけ。
早苗はそんな不思議な静けさに少しどきどきしながら、好きなものを頼んでいいと言われて決めた、目の前のクリームソーダの透き通るような緑色を見つめる。
対面の祖母はコーヒーを一杯だけ頼み、砂糖とミルクを出された分だけ入れて、静かにかき回していた。
「……」
そして早苗はストローに口をつけて、口中にわざとらしいメロン味を感じながら祖母に視線を移す。
そうして、先刻聞いた、祖母の体のことを思い返しながら、静かに考える。
……私、おばあちゃんのこと、なんにも知らなかったんだなぁ
そう思って、ぶくっと一息だけ吹き込んで、ソーダに泡を立てる。
知らなかったし、知ろうともしなかった。
ただ自分が何も知らなくてもずっとそのままで、信じていれば、ずっとそこにいてくれるものだとばかり思っていて。
でも、誰だってそんなことはないのだ。
それは子供の時からこれまでずっとそう信じていた、その考えとまったく同じで、そしてそれは一度突き崩されたはずなのに、いつの間にかまた身を委ねていた。
「むぅ……」
ストローから口を放すと、スプーンを持って真っ白く丸いアイスを切り崩しにかかる。
でも、それじゃあ駄目なのだ。子供のようでいるままじゃ、大切なものをいつの間にか見失って、泣くことしかできない。
「……」
あんな、あんな気持ちには、もう絶対に、二度となりたくはなかった。
そうならないためには――
「ん?」
いつの間にか、ふっ、と、考えながら無意識にじっと見つめていた先の祖母が気づいて、不思議そうに首を傾げていた。
「どうしたの、ぼーっとして……ああ、ちょっと疲れちゃったよねぇ」
おばあちゃんもちょっと疲れちゃった、と笑う祖母に、早苗ははっとして首を振りながら、
「私は、別に大丈夫だよ」
「ふふ、そう? そうだねぇ、最近毎日諏訪子様と、一緒に走り回ってるもんねぇ」
その祖母の言葉に、早苗は照れたように俯きながらも考える。
おばあちゃんは、私は何にも知らなかったのに、こんなにも自分を見てくれてる。気にかけてくれてる。
だったら、自分も同じようにしなくちゃいけない。
色んなことを、少しずつわかっていこう。それが、今自分に出来ることだ。
そうしていけば、いつかもうあんなことにならないように、その時のために何かが出来るようになるかもしれない。
「……」
そして、思い出す。もう離れてしまった手の感触。
今からじゃあもう、遅いかもしれないけれど、手始めに、
「……あの、ね、おばあちゃん」
そして、ただ純粋に知りたくなった。
「お父さんのこと、聞いても、いい?」
§
静かに、しかしはっきりと放たれたその言葉に、早恵は傍目にもわかるほど身を強ばらせた。
「……どうして?」
そして、穏やかに、少しだけ震える声でそう聞いてくるのに、
「ごめんなさい……」
早苗は、触れてはいけないことに触れているのかもしれないと思いつつ、
「でも、おばあちゃんも、神奈子様も、ケロちゃんも……みんな、お父さんのこと、よく思ってないみたいなのは、どうしてかなぁって」
それでも、真っ直ぐ祖母を見つめて言う。
「私ね、知りたいの……知らなきゃいけないの、きっと……みんなと、これからも暮らしていくには」
そのためには、離れてしまった過去の全てに向かい合って、そこから何かを掴まなければならないと思った。
二度とそんなことにならないように。
自分を置いていった父の影も、きっと目を逸らすことの出来ない、大事な過去の一つだから。
「……謝ることないよぉ」
そして、そんな早苗の言葉に、早恵はゆっくりと首を振って、
「ううん、きっと、謝らなきゃいけないのは、おばあちゃん達の方だよね……早苗ちゃんには、ちゃんと大事な、お父さんだったんだもんね」
少し目を伏せながらそう言うと、
「早苗ちゃんにはまだわからないと思って、色々酷いこと、言っちゃってたんだねぇ……本当に、ごめんね」
早苗へ向かって頭を下げた。
「そ、そんなことないよ」
それを見た早苗は慌ててそう言い、
「で、でも、そんなことないけど、それでもちゃんと、そう思う理由……教えてほしい」
しかし、はっきりとそう口にして、早恵を見つめる。
「……そうだねぇ……いつかは、聞かれるかも知れないと思ってたけど」
早恵も頭を上げてそれに向き合い、少しの苦笑を作る。
「こんなに早く聞きたがるとは思ってなかったから、少し驚いちゃった」
早苗ちゃんは大人だねぇ、と冗談めかして笑う早恵へ、早苗は首を振り、
「そんなことない……違うよ……」
子供だから、知らなくちゃいけないんだ。そう思った言葉を、胸の中だけで留めた。
「うん、そうだね……それじゃあ、聞かれたら話そうとは、決めていたから……」
そんな早苗に、早恵も笑顔を消し、コーヒーを一口飲んで、
「おばあちゃんの知ってること、全部教えるよ……早苗ちゃんのお父さんの、昔のこと」
§
「それじゃあ、その前にまずは、おばあちゃんのお家のことについて少し教えておかないとねぇ」
少し笑うと、早恵はそう言って早苗を見つめる。
「早苗ちゃんは、おばあちゃんのこと、今住んでる神社のこと、どれくらいわかってる?」
「えーと……」
その言葉に、早苗は少し考え込み、
「えと、あの神社はすごく昔からあって、おばあちゃんがそこの……なんだろう、か、かんぬし……さん?」
「うん、大体はそんなとこだねぇ……でも、もう少し正確に教えるとね」
早恵はくすりと笑い、何やらこれまで何度も説明してきたような、慣れた口振りで、
「あの神社が本当に大昔、数え切れないほど昔からあるのは正解。流石に何度も遷宮……建て替えしたりはしたみたいだけれどねぇ。そして、神主さんっていうのは、半分正解で、半分間違い」
真剣な顔で、少し目を回しそうになりながら頑張って聞いている早苗へ、語っていく。
「神主さん、じゃなくてね、おばあちゃんは『風祝』って言うんだよ」
§
「か……ぜ……?」
「うん、風祝」
未知の単語の出現にむむむと歪む早苗の顔に、早恵は苦笑しながら、
「簡単に風祝の、おばあちゃんの仕事を言うとね、神様――神奈子様や諏訪子様の代わりに、神様の言葉を伝えたり、その力を与って使ったり……神様へ仕えて、その心を慰めたりだとか……そんな感じだよ」
「ふむむ……!」
その説明に、早苗は腕を組んで唸りながら、考える。
神様の言葉を伝えるというのは、自分もやってしまったから何となくわかる。
心を慰めたりというのはよくわからないが、多分いつもやってるご飯を作って一緒に食べたりとかそういうことだろう。
でも、
「神様の力を使うって……どういうことなの?」
「ああ……それはね」
早苗の口をついて出た疑問に、早恵はふっと穏やかに笑い、
「……そうだねぇ、実際見てもらった方が早いかなぁ」
今はもう、上手くできるかわからないけど、と、言って早恵は人差し指を一本立てた手を、ゆっくりと早苗の視線を誘導するように、テーブルに一枚置かれた紙ナプキンの上にかざし、
「それっ」
くるんと人差し指を、軽く円を描くように一回回した。
すると、突如そこに空気の動きが緩やかに、しかし徐々に加速しながら集まって、小さな、とても小さなつむじ風を作り出し、
「うわぁ!?」
そこに紙ナプキンを巻き込んでぐるぐると回転させながら吹き上げて、それを一気に天井近くまで押し上げた。
「と、まあ……」
そしていつの間にか風は消え、ひらひらとゆっくりまた元の位置に舞い降りてくる紙ナプキンと共に、戻って来た早苗の視線と向き合って、
「こんな感じだねぇ……わかった?」
「う、うん?」
「ふふ、要はね、今みたいに、神奈子様みたいな神様の力を借りて、使うのがお仕事の一つ」
まだ少し首を傾げたままの早苗に、早恵はそう説明する。
「まあ、今はもう神様の力を使うような仕事はほとんどないし、おばあちゃんも歳をとったから、今見せたくらいのことしか出来ないけれどねぇ」
少し、懐かしむように笑って、
「そして、それはねおばあちゃん達の家の血……神様が見えたりする、そんな力がないと出来ないんだよ」
「あ……」
その言葉に、早苗は唐突に一つの記憶を掘り当てる。
今みたいなことをずっと昔、幼稚園に入るか入らないかくらいの頃に、一度だけ見た……見せて、もらったことがある。
それは、家族全員でどこか広い公園のような場所に遊びに行った時のこと。
自分と手を繋いで歩いていた父が、ふとこっちを見て悪戯っぽく笑い、そして促すように少し前を景色を眺めながら楽しそうに笑って歩いている母の方を向いた。
つられて自分もそちらを向くと、父は人差し指を一本立てた手をくるりと回した。
すると、突如風がどこかから集まってきたように地面から吹き上がって、母のロングスカートをぺろんと捲り上げたのだ。
ガッツポーズをしながらこちらを向く父を自分も見上げれば、顔を真っ赤にした母が走り込んできて父の横面に拳を叩き込んでいたところであった。
後にも先にも母が父を殴ったのはあの時だけ、というわけではなく、思い返せば結構な頻度でそんなことがあった気がする。
とりあえず、夫婦仲は良好であったらしい。
そんな、懐かしい記憶を思い返しながら、早苗は思う。
きっと、そんなことを思い出してしまったのは。
「それ、でね……おばあちゃんの家の血、代々受け継ぐそんな力を、おばあちゃんの息子……早苗ちゃんのお父さんも使えたんだよ」
これから話されることを、何となく感じ取ったからだ。
早苗はごくりと唾を飲み込み、少し沈んだような表情の祖母へ、気を入れ直して向かい合う。
§
「早苗ちゃんのお父さんもね……あの子も、そんな役目を受け継ぐ家の子として、きっと私よりも、恵まれた才能と力を持って、おばあちゃんの一人息子として、生まれたんだ」
少しだけ目を閉じて、思い返す。
「――あの子は、子供の頃から……そうだね、ちょうど今の早苗ちゃんと同じように、神奈子様や諏訪子様達の姿もはっきりと見えて、楽しそうに一緒に遊んでたよ」
沈み込む記憶の向こうに、楽しそうに笑っている神と、一人の男の子の姿があった。
「おばあちゃんの夫、早苗ちゃんにとってはおじいちゃんだね、その人も早くに死んでしまって、兄弟もいなかったから、大きくなったら家を、神社と、神へ仕える役目を、あの子が継がなければいけなかった……」
そして、
「それは当然のことだと、私も信じていて、あの子も理解して、受け入れてくれたものだと思っていたの……」
その時の顔だけが、どうしても思い出せない。
「だからね、そのための、神様の力を使えるようにしたりする修行を、私も、私の母も、代々受けてきたように、あの子にも施した――神奈子様も諏訪子様も、自分の力を預けることを認めて、一緒に修行をつけて」
そうして、月日が流れていき。
「私も、お二方も、あの子を信じていた。大事に、役目を継ぐ跡取りとして、本当に全員で大事に可愛がって、育てていたの……」
でもね。呟き。
「そうして、あの子が、高校を卒業しようとする頃、ある日、ふっと、何の痕跡も残さずに、何処かへ消えてしまったの……家出なのか、それとも別の何かなのか、今でも私にはわからない……まるで最初から存在しなかったかのように、あの子がこの世界からすっかり消え去っていたの」
焦った。戸惑った。泣いた。警察に捜索願を出したが、何の音沙汰もなかった。
探しに行きたくても、神社を放っていくわけにはいかなかった。
打ちのめされた。悲しんで、嘆いて、祈っても、縋っても、戻ってこない。泣いた。泣いて、泣いて、泣いて、泣いて。
「……あんまりおばあちゃんが、そのことで落ち込みすぎたからかな、神奈子様や諏訪子様にも、苦労をかけてしまって……それはもう、思い出したくないくらい」
本来慰めるべき自分が、神に慰められ。
「……それでもね、もうそんなのでも、何年も経つとね……おばあちゃん、いつの間にか泣かなくなってた……あの子のことを考えてもね、心が全然、動かなくなってしまってた」
何もかもを、諦めようとしていた、その時。
「それでね、ある時……あの子がいなくなってから、七、八年くらいは、経ってたかしらね……ふらっとね、あの子が帰ってきたのよ」
あの時から、相応に歳を取った姿で、そして、
「隣にね、知らない女性と、歩き始めくらいの小さな女の子を連れて……声も出せずに驚いてたら、妻と娘だって紹介されて――」
心臓止まるかと思っちゃったわ。少しだけ笑い、
「いつの間にか、知らない内に私、おばあちゃんになってたのよねぇ……それで、とりあえず家にあげてから、それこそ色々問いつめたわ、神奈子様や諏訪子様も一緒にね」
けれど、何も答えなかった。堅く口を閉ざし、はぐらかし、
「そしてね、これだけ、静かに、はっきりと言ったの」
……俺では家は継げないし、もうはっきり、継ぐつもりもないよ
「……やっぱり驚いたけどね、でも、心の底でね、何でかな、『ああ、やっぱり』……って、そう思ってる自分がいた」
話も何も、もうそこで終わってしまって、何も言えない自分に、あの子がただ一言、孫を抱いてやってくれないかと頼んだ。
呆然と、促されるままに、母親に抱かれて不思議そうな顔をしているその幼子を手渡されて、
「それで、その瞬間、早苗ちゃんを初めて抱いた瞬間ね、はっきりと悟ったの……あの子の道はもう、違えてしまったって。自分とはもう、交わらないんだってね……そうわかったら、なんだか、あの子への、これまで残ってたはずのいろんな執着みたいなものが、全部なくなっちゃって」
そして、それ以上何もなく、何も出来ず、夜になる前に帰って行くのを、ただ見送ることしか出来なかった。
「……それで、もう私とあの子の関係は今みたいになってしまったの……離れて、しまったんだろうね、きっと」
寂しそうに、その笑顔で。
「それで、神奈子様もあの子に関しては私みたいに、納得は出来ていないけど、呆れて、諦めたみたい。諏訪子様なんかは……」
これまで自分達を、特に母親を放っておいて、いきなり帰ってきて、その態度は、言葉は、何だ、何様のつもりだ。記憶の中のそんな怒声が響いて、
「二度と神社の敷居を跨ぐなー!って、大激怒しちゃって。それが、神様達が、早苗ちゃんのお父さんに対して怒ってる理由」
神達の姿を思い出して、苦笑しながら、
「……私は、その時のことはもう怒ってはいないけどね、早苗ちゃんのことも、早苗ちゃんのお母さんのことも、恨んでも怒ってもいないよ……ただ」
ふっ、と、遠くを見るような視線になる。
「――離れてしまって、会えなくなって、手紙くらいしか来なくなってね、それでおばあちゃん、早苗ちゃんのお母さんがそんなことになってたことも、早苗ちゃんが……こっちに来ることも、全部また唐突に知らされたの」
それから、少しだけ震える声で。
「知っていれば、もっと早く知らせてくれれば……私にも、何か……何かしてやれることが、あったかもしれないのに……!」
二人きりの病室でやせ細ったその姿に向かい合って、「お願いします」と、申し訳なさそうな笑顔でそれだけ言われた記憶が、通り過ぎていく。
「それだけは、そのことについてだけは、あの子に怒ってる……そこだけは、許せなくて」
それから、はっと気づいたように、怒りの混ざった声を抑えて、普通に戻しながら、少女を見る。
「そうだね……それが、おばあちゃんが早苗ちゃんのお父さんに怒ってる理由……そして、私と、あの子の、別れてしまった過去の全て」
穏やかな顔で、寂しそうに笑って、そう告げた。
§
そして、全てを聞き終えて早苗は、
「……」
どうすればいいのか、何も考えられず、答えられず、黙ったまま呆然と半分溶けて混ざり始めたクリームソーダを見つめる。
少女の頭が、心が、たとえどんなにあの時から成長していようが、決意を秘めていようが、その与えられた事実の全てを、想いの全てを受け止めきって理解するには、まだまだ時間が必要な程に――
それほどに、重く、突き刺されるような、剥き出しの心の告白だった。
「……」
そして、早恵も話し終えてからは早苗を心配するように見つめたまま黙り込んでおり、しばらく重苦しい沈黙が続いて、
「……わた、しの……」
それから、ようやく少女が口を開く。
その言葉にまず、ぐちゃぐちゃにかき乱された心と頭から、一番最初に形となって出てきた疑問を乗せて、
「わたしの、力も……神奈子様やケロちゃんが見えるのも、そう、なの……?」
問いかける。
「わたしも、その力があるなら……おばあちゃんのあとを継いで、風祝になった方が……いいの?」
それを口にした途端、
「……っ」
祖母の顔が見たことのない程の悲しみのような、泣き出しそうな顔に歪んだ。
「あ……」
それを見た瞬間、早苗は全て話して欲しいと強要したことよりも、祖母にそんな話をさせてしまったことよりも、何よりも強くそれを問うたことを後悔した。
「違うよ……」
そして、祖母が静かに、強く首を横に振って、
「あの子が、早苗ちゃんのお父さんが早苗ちゃんをここに預けたのも、おばあちゃんが早苗ちゃんを引き取ったのも、きっと、絶対にそんなことのためなんかじゃない……!」
無理にでも笑顔を作ろうとしながら、
「……たとえ、どんな力があったとしても、それが……そうだね、そんなものが、早苗ちゃんの生き方を、道を、決めてしまうなんてことが、あってはいけないの……」
手を伸ばして、少女の頬に優しく触れる。
「だから、あなたは自由な道を……自分の行きたい道を、自分で選んで、そして、自分で決めて……ね?」
§
陽が段々と紅く変わっていく。
それを、バスの座席に座って、窓に額を押しつけるようにしながら、少女はぼんやりと眺めていた。
「……」
眺めながら、少女は考える。ぐるぐると、小さな頭の中で、ぐるぐると。
祖母の、話を聞いても、自分の知ることのなかった父の過去を聞いても、結局自分は、それをどうすればいいのかわからない。
聞けば、何かがわかるかもしれないと思っていた、父が自分を――
「……っ」
けれど、やっぱりそんなものは、まだまだ全然、駄目な、勢い任せの考えでしかなくて。
自分の行いはただ、祖母のまだ治りきっていない傷のついた心を、引きずり出してしまっただけだ。
ケロちゃんの時と同じように、神奈子様の時と同じように。
自分のそれとよく似た手触りの、誰もが抱いている、誰かの手を離してしまった時に得た、寂しさの傷。
それは、当然祖母も得ていたもので、そして、自分の父のことをわからないままに、自分と同じように、その手が離れてしまった時に――
「……なんで……」
どうして、自分より近かったはずの祖母にも、わからなかったんだろう。
わかっていれば、その手は、離れなかったんだろうか。
自分も、自分にも父のことがわかっていれば、そうすれば、置いていかれなかったのだろうか。
祖母のそんな心も、患っているかも知れない体のことも、何もわからずに今日初めて知ったような自分が……
「……わかりたいなぁ……」
呟いて。
今すぐに、いろんなことが、わかるようになりたかった。
もしかしたら父も抱えていたかもしれない別離の痛みも、全て見えたわけではないかもしれない、神様達の孤独も、祖母の寂しさも、あのおじいさんのことも、お医者さんのことも、川で遊んでいた子達のことも、近所の人達も。
もう永遠に知ることの出来ない、母のことも。
全部理解出来れば、誰も離さずにすむんだろうか。
自分も、
「……わたしのことも……」
誰かにわかってもらえれば、離さずに、そして、新しく、繋いでもらえるのだろうか。
私に、それが出来るだろうか。誰かをわかって、誰かにわかってもらえて……
「ふぁ……」
しかし、そこで少女はこらえきれなくなったような欠伸をもらした。
ごとんごとん。
少女の思考はいつの間にか、不規則なバスの静かな振動のリズムの中に飲まれて、
「……ぁり……たい、なぁ……ん……」
隣に座る祖母の手を握ったまま、眠りの海へ沈んでいった。
8
手の先に、柔らかなその感触が伝わった。
「っ、ぷはぁ!」
その瞬間、早苗は水から顔を上げ、同時に強く息を吸い込みながら立ち上がって正面を見る。
「け、ケロちゃん、私……」
自分でも信じられないという表情で見つめるその先の、
「ああ、よくやったな。ちゃんと出来てたぞ、カエル泳ぎ」
川の中に立って、早苗の手を掴んでくれた神がにやりと笑って、それが間違いではないことを教えてくれる。
「……やっ」
その言葉に、少女はこらえきれずに両手を振り上げて、
「やったあぁ――……っぁあぁー!?」
その勢いを、泳ぎ切って疲れた体が受け止めきれずに後ろにつるんと滑り、
「た、助けてぇー!」
そのままあっぷあっぷと川を流され始める。
「アホかー!?」
諏訪子の呆れきった叫びが川辺に響いた。
§
「山登りも息切らさずについてこられるようになったし、この上泳ぎも習得したなら、もう教えることもないかと思ってたんだがなぁ……」
諏訪子は岩の上に胡座をかいて、溜息をつくと、
「この様子じゃまだまだダメそうかぁ?」
そう言って、岩の下の陰で水着のまま体を拭いている早苗を覗き込む。
「う、ううー、そんなことないよぉ!」
そんな諏訪子へ、早苗も見上げて視線を返しながら、悔しそうな声を出す。
「はいはい、まあ一応これで特訓修了ってことにしといてやるよ。そんで」
神はくすくすと笑いながらも、早苗を真っ直ぐと見下ろして、
「ちゃんと泳げるようになったんだ。今度こそ、あいつらんとこ、行くんだろう?」
「……」
その言葉に、早苗は少し俯いて無言になる。しかし、
「……うん、行くよ……行ってくる。私、あの子達のこと、知りたいの。そして、私のことも知ってほしい。だから――」
やがて決意した表情で、真っ直ぐそう言った。
「何もそこまで気合い入れんでもいいんじゃないかと思うけどね。気楽に行ってきなよ。……けどまあ、今は夏休みだからいいけど、それ明けたら、同じ学校だろうしな」
今友達になっといた方が面倒ないだろうなぁ、と、呟きながら諏訪子は岩の上から遠くへ視線を送る。
「ははっ、元気よう遊んどるなぁ」
その先には、あの時と同じように川遊びをする子供達。
「……?」
そして早苗はそれを、その子供達を眺めている諏訪子の様子を見て、少し首を傾げる。
何故ならその声が、その見上げる横顔が、少しだけ寂しさのようなものを、纏っている気がして、
「……どうかしたの、ケロちゃん?」
思わず尋ねかけていた。その言葉に、諏訪子は少し驚いたように震えてから、
「なんだよ、いきなり。別に私ぁ、どうも……」
「……」
そう誤魔化そうとして、しかし見上げる早苗の真剣さに言葉を詰まらせた。
「――いつかさ、神奈子が、神は遊ぶのが大好きだって言ってただろ」
それから、早苗から視線を逸らして静かに、ぽつりと、そう言葉をこぼし始める。
「あれ、実は本当でな。大好きなんだよ、私も、あいつも、人と、特に子供と遊ぶのがな。遊びってのは、何よりも人と神との交流となる行いだからな」
その視線は遠く、
「でも、時が経つにつれ、私達と遊んでくれる人間てのは、少なくなっていった……それでもな、直接はそうしてくれなくとも、人間達が、特にガキ共が楽しそうに遊んでいる姿を見てるだけでも、神ってのは満たされるもんでなぁ」
山の上の神社の方を、見つめながら。
「そんで、今もそれを見ててな、満足すると同時にふっと、寂しくなっちまった。そういう時代かもしれんけど、今日日のガキはあんま神社で遊んでくれねぇからなぁ……」
あいつにも、見せてやりたいなぁ。無意識にぼそりと、呟かれたであろうその言葉が、早苗の耳には届いていた。
「……」
そして思い出す。確かに普段あまり人の訪れることのない、少し寂しげな、その神の社の今の姿を。
「……っ」
思い出して、しかし、早苗は息を吐きながら下を向く。
今また垣間見た神の寂しさを、今の自分ではどうにも出来なかった。
大事な誰かのそんな心を、どうすることも出来ない自分の力のなさに、改めて以前の喫茶店でのことも少し思い出しながら落ち込みそうになる。
……私は、本当に……
地面を見たまま、手を握り締める。
「っと、私のこたぁどうでもいんだよ。悪いな、変な話聞かせちまって」
そんな早苗へ、いつの間にかまた視線を戻していた諏訪子が笑いながら、
「ほら、早く行かねえと、日ぃ暮れちまうぞ。私もちゃんと、ついていってやるからさ、見えないけど」
「……うん!」
明るくそう言ってくるのへ、早苗も首を振って無理にでも気持ちを入れ替えて、笑顔で応じた。
§
そして、早苗はまたここへ戻って来た。
「……」
「おい……」
隠れた岩陰から見える先には、あの時と同じく、川に入って遊んでいる五人の子供達。
それを見つめながら、早苗はごくりと息を飲み、
「いいからさっさと行けー!」
「わー!?」
傍らの神に突き飛ばされて、転けそうになりながら岩陰から飛び出した。
§
「っ、う……ひ、ひど……」
よろけながらも何とか持ち直して、諏訪子へそう抗議しようとした早苗は、
「……」
「あ……」
振り返る途中で、自分へ全て集まっているその視線に気づいて、また固まる。
「あっ……えっ……」
喉が上手く動かない、言葉を作ろうとしてくれない。
頭も真っ白で、何を言うべきかを考え出せなくて。
「――あ、あの!」
それでも、それでも早苗は踏ん張るように足に力を入れた。
頭も、喉も、動かなくても、それでも、もう逃げ出すことだけは絶対にしないように。
足を固定して、勢いで同時に声を出し、
「わっ、わた……!」
真っ直ぐと目の前を見据えて、呆れたように自分を見ている大小コンビな男の子の視線にも、首を傾げている女の子の視線にも、そして同じく真っ直ぐと自分を見ている男の子の視線にも向かい合おうとした。
「……っ!?」
その瞬間、子供達の一番奥の方で上がった水しぶきを一番最初に見つけて、早苗は声を失った。
§
いきなり、知らない女の子の大きな声がして、びっくりして、川の中程に立っていた小さな女の子は勢いよく振り向いた。
誰だろう、何だろう、そんな驚きや疑問はすぐに、
「あっ」
滑った足の感覚に塗り替えられた。
「わっ、ぶっ」
背中から急に水の中に倒れ込んだせいか、必死にまた立ち上がろうとしても、足が底につかなくて、手を動かしても、体が浮き上がろうとしないで、
「あっ、ふぶっ、やっ、ぁ」
じたばたしている内に、川の流れに乗ってしまって、真ん中の深い場所まで、流されて、本当に足がつかなくなっていた。
体が沈み込もうとする。もがいても、流れに逆らえない。
「た、たすっ」
水に視界が埋められる直前に、気づいたように振り向こうとする兄と、その友達の姿と、真っ先に気づいたのか驚いた表情でこちらを見ている知らない女の子の姿が見えた。
「た、ぶ、ずっ、げてぇっ」
§
「陽子ぉ!?」
子供達の中で一人だけ小さかった女の子がいつの間にか溺れて流されているのを見つけて、振り向いた四人の内、リーダー格の少年が叫んだ。焦りと、驚愕と、狼狽、その他を混ぜ込んで。
「よ、陽子ぉー!」
再度の叫びと共に足を一歩踏み出して、しかし立ち止まってしまう。
見回せば、他の三人も動けずに、驚いて固まったままで。
「……っ!」
それも当然だった。子供達は、何度も口酸っぱく、誰か溺れたら決して自分達だけで助けようとしてはいけないと教わっていたからだ。
慣れていない、ましてや子供が、溺れて暴れる誰かを助けようと深みまで行ったら、助けるどころか巻き込まれて、自分が溺れてしまう確率の方がずっと高いからだ。
だから、誰かが溺れたら、すぐに大人の人を呼びに来なさい。そう何度もしつこく教えられていたことが、今子供達の体を縫い止められたように動けなくし、
「だっ、誰か――」
またいち早くショックから抜け出したリーダーの少年が、呼びに行こうと言おうとしたのか、それとも助けを乞おうとしたのかはわからない。
何故ならその瞬間、
「あっ!? おい、早苗!?」
ただ一人にしか聞こえない声を後ろに残して、ただ一人だけ、まったく何も知らない、知らなかった少女が猛スピードで突っ走ってきて、
「っ!?」
四人の間を走り抜けると、川に飛び込み、そして走ってきた勢いをそのまま続けるようなスピードのカエル泳ぎで、猛然と溺れる女の子へと向かっていった。
§
「ああっ!? たくもう、あの馬鹿!!」
そんな声と共に、見えない姿がその後を追ってまた川に飛び込んでいる中、
「っは、し、しっかり!」
女の子が溺れて暴れているところまでたどり着いた早苗は、足を動かして浮き上がり、
「ぶっ、はっ、つ、つかまって!」
手を伸ばしてその体のどこかでも掴もうとしながら、
「た、たすけに、きたから!」
必死で呼びかける。
「あっ、ぶぇっ、ひっ」
その言葉が届いたのか、早苗が何とか体を掴もうと伸ばしたその手に女の子がしがみついてきた、それを何とか抱き寄せ、
「っ、う、わ!?」
浮き上がりを保とうとしているのに、体が沈み始めるのを感じて焦りの声をあげる。
必死で足を動かしても、もがく女の子のそれとぶつかったりして上手くいかず、二人分の体重を支える浮力が得られず、このままでは岸の方へ泳ぐことも出来ない。
「――っ!?」
そんな状況に気づいて、思い知って、早苗から血の気が引く。
勢いだけで、何も考えずに飛び出してきて、そして自分は、また何も――
背筋から全身を回る恐怖と共に、水中に沈み込みながら思ったその瞬間、
『馬鹿! しっかりしろ!』
はっきりと頭の中にそう聞こえて、水の中で目を開けて少女は見る、自分達の真下の川底に潜り込んで、こちらを見上げている蛙の神の姿を。
『け、ケロちゃん!?』
『ええい、驚くのも何も全部後だ! 私がお前を下で支えて岸まで泳いでやるから、早苗もしっかりその子掴んで、泳いでるふりしとけよ!』
息を泡にして吐き出しながら、同時に頭の中で強く念じると、そんな答えが返ってきた。
その言葉に、早苗は少し落ち着きを取り戻しながら必死に頷き、神も頷いて、
『いくぞぉ!』
川底を神が蹴り、浮き上がってきながら早苗の腹の辺りに手を添えて、
「っ、ぷはぁ!」
その瞬間、一気に浮力を得た早苗が水面に顔を出し、同時に引っ張り上げて女の子も水面に出す。
「っ、くっ!!」
『そらそらぁ!』
そして、流れに逆らって体が神に運ばれていくのに合わせて足と片手を動かしながら、掴んで抱き寄せる女の子を離さないように、必死で岸へと近づいて行った。
§
「はっ、はぁ! っ、は!」
ようやく岸へたどり着き、早苗は女の子の体を踏ん張って抱き上げ、川から少し離れたところまで持ってきてから、荒い息をつきながら地面にへたりこんだ。
「おーい、だ、大丈夫かぁ!?」
「うわぁ、本当に助けちゃった!」
そしてすぐにそんな声と共に他の子供達が駆け寄ってきて、二人の周りを囲む。
「大丈夫か!? お前も、陽子は!?」
「わっ、わた、しは、だいじょうぶ、けど」
そして一人の少年が必死な顔でそう尋ねてくるのへ、息も切れ切れに早苗は答えながら、抱き合うようにして抱いていた女の子の体を離して、その様子を確認しようとした。
『ったく、ちょっと待て、そのままでいろ』
その時、そんな声が隣で聞こえて、驚いて手を止めて振り向けば、いつの間にか水から上がってきていた神が立っていた。
そして、見上げる神はぱちんと一度拍手を打ってから、
『そらよ!』
片手を女の子の背へ触れるようにあてがった。すると、
「けっ、ほ、ごほっ、ごほっ」
いきなり女の子が咳をして、溺れて飲んでいた水を吐き出し、
「っ、ひぅ、ひゅー……ひっ、ふっ……」
大きく息を吸い込んで、呼吸を再開し始めた。
『体にゃ干渉出来んでも、飲み込んだ水は操れるからな。ほれ、こんでもう大丈夫だけど、どっかちゃんと見てくれるとこでも連れてった方がいいだろ』
神がそう言うのを聞いて、ようやく少女は安堵のような心地を得ながら、子供達を見回し、最後にしゃがみ込んで自分を真っ直ぐ見つめている少年に向かい合って、
「こ、この子も大丈夫……だから、どこか、手当て出来るとこに……」
そう告げると、がくっと首を落として地面に向き、深く息を吐いた。
§
「ふぅ……」
郷の小さな診療所の廊下に設置された、待合いの長椅子に座って、ようやく早苗は一心地ついたような、そんな息を吐き出した。
水着はすでに脱ぎ、半袖のシャツと動きやすいスカートの、普段の服装に戻っている。
「……」
そうして、ぼんやりと、床の方を見ながら、さっきまでのことについて、考えだそうとした。
あれから、あの川からみんなで女の子をここまで運んできて、そして、助けた自分も体に異常がないか一応見てもらって、そして――
その時、急に額に何か冷たいものがくっつく感覚がして、
「ひゃっ!?」
驚いて、さっと顔を上げ、前を向いた。
「あ……」
「……」
そこには、自分に向かってチューペットのアイスの半分を差し出している、さっきの少年がいて、
「……やるよ」
「あ、ありがとう」
少しぶっきらぼうにそう言われたのに答えて、慌てて受け取った。
そして、それを渡した少年はそのままどすんと、自分もチューペットの半分を持ったまま、早苗の隣に座った。
「……」
「……」
それから、どちらも無言。二人は互いに何も喋らず、アイスに口をつけて食べながら、
「……とりあえず、ありがとな」
不意に少年の方から、そう口を開いた。
「あいつのこと、助けてくれてさ」
「あ……う、ううん……そんな……」
そんなストレートな感謝の言葉に、早苗は少し恥ずかしがりながら答える。
「あいつさ、妹なんだ……」
他のヤツより少しだけ小さいだろ、と続けて言って、
「あ……そうなんだ……」
それに早苗がなるほどと納得しながら、そう相槌をうつ。
その横顔をちらりと見てみれば、なるほどあの女の子の面影があるような。
「……だから、本当なら、兄ちゃんの俺が、誰よりも真っ先に助けに行かなきゃいけなかったのにな」
そう言って、少年は無言で自分の手を見つめる。
「でも、出来なかった……すげえな、お前」
そして、溜息を吐いて早苗の方を向いた。
その視線に一度向かい合って、しかし早苗は顔を逸らして首を振り、
「……違うよ、私、何にも知らなかっただけ。あの時本当はどうするのが良かったのか、ちゃんとわかってたのは、あなたの方だよ……」
そう言って、苦笑する。
「さっき、ここの先生達にも、そのことですっごく怒られたし」
「ああ、俺もすっげえ怒られた」
二人そう言ってから、どちらともなく顔を見合わせると、
「ふふっ」
「ははっ」
笑い出した。そして、そんな風にひとしきり笑ってから、
「はははっ、ああ……そうだ、なあ」
「ふふふ、へっ……?」
ようやく笑い終えながら、少年は早苗を真っ直ぐ見ながら、
「名前、なんていうんだお前? 俺は、ケンジ」
「あっ、わた、私は……」
自分の名を言って、そう問うてくる少年へ、少女も真っ直ぐ、
「私の名前は、早苗……東風谷、早苗」
その声は、もう戸惑うことも、詰まることもなく、はっきりとその口から出てきていた。
§
「……ふーん、さなえ、か。なあ、あともいっこ聞いていいか?」
「な、なに?」
不思議そうな顔の少年に、また少し緊張しながら早苗は向き合う。
「前さ、一回俺達のとこに来ようとしただろ? あん時、なんで逃げたんだ?」
「あっ、ああ、えと、それはね」
予想してた質問がまさしく来てしまったことに早苗は少し落ち込み、そして恥ずかしそうに顔を逸らして、
「……あの時ね、私、泳げなかったの」
「……はぁ?」
「泳げないのが恥ずかしくて、あの時逃げちゃったの!」
本当はもっと色々な理由はあったのだが、とりあえず一番説明しやすいものを仕方なく選択して早苗は答えていく。
「それで、あの時から今日までひそかに特訓して、やっと泳げるようになったから、その……」
「……ちょっと待て、お前この前までマジで全然泳げなかったのか?」
「う、うん……」
「それなのに、あん時助けに飛び込んだのか? つか、なんか異常に不自然に横滑りするような変な泳ぎで結局助けてたし……」
「あ、あはは、あの時はとにかく必死だったからよく覚えてないや……」
お前改めてすげえな、と、感心する視線を向けてくる少年に、早苗は嫌な汗を流しながら何とか誤魔化しきる。
そして、
「……だからね、ようやく泳げるようになったから、だから、私」
決意した表情で、思い切って早苗は少年の方を向き、あの時言えなかったその言葉を今、言おうとする。
「み、みんなの、仲間に入れて欲しいの。あなただけじゃなくて、あの女の子のことも、他のみんなのことも、私、知りたい……そして」
高鳴る鼓動を抑えるように、胸に手を当てて、
「私のことも、みんなに知ってほしい……だから――」
少女は行く。
「私と、友達になってください!」
§
「……」
その言葉に、少年は一瞬ぽかんとした表情になってから、
「――っはは、なんだ、そんなことかぁ」
次に笑い出して、今度はこっちがぽかんとする少女へ、
「そんなの、そんな張り切って頼まれなくたってさ、俺だってお前みたいな面白いヤツ、仲間に入れたいし、もっと知りたいし。それに、ほら」
次に少女に促しながら振り向いて、二人で視線を向ける先、
「あいつらだって、俺と同じだと思うぜ」
「あっ……!」
その先には、角に隠れてこっちの様子を窺っていた少年二人と、少女が一人の三人組が、
「あっ、や、その、えへへ……」
体を半分覗かせて、見つかってしまったことを誤魔化すように、ばつの悪そうに笑っていた。
「……つーかぁ、何でお前らそんなとこ隠れてんだよ!」
「え? い、いやぁ、邪魔しちゃ悪いかなぁって……」
「な、ん、の、邪魔だぁ! 言ってみろ!」
「うわぁ、ケンジ、勘弁!」
それから、顔を真っ赤にしながらケンジがそっちに突っ込んでいき、三人が急いで散らばって逃げ出すのを見ながら、
「……あはっ」
少女はこらえきれずに吹き出し、そしてこぼれそうになった涙も、胸を満たす暖かな気持ちも、全て今はしまって、ただ純粋に、おかしそうに、楽しそうに、笑った。
§
「よう」
「あっ……」
暮れてゆく空の下を歩き出そうとした瞬間、そんな声がかかって、そして一陣の風と共に、その神の姿が少女の視線の先に現れていた。
そして、軽く笑いながら、
「ま、色々あったようだけど、その様子じゃ上手くいったみたいだな」
「……うん!」
こちらへ歩いてきて隣に並ぶその神に、少女もにこりと笑顔を返す。
「もしかして、一緒に帰ってくれるの?」
「ああ、まあ、それもあるけど……」
そして二人で歩き出しながら、少女がそう問うてくるのへ、
「何よりも、まずは説教だな。あんなことしでかしよったことに対して」
「うえ!?」
にやりと笑って神は答え、少女は呻く。
「も、もういいでしょぉ……さっきまで散々他の大人の人達にもされたし……」
「いいや、家に着くまでみっちりやるぞ。家に着いてからも、早恵と神奈子のそれも待ってるだろうけどな」
「えええー……!?」
少女は肩を落として溜息をつき、そして神はごほんと咳を一つして、真面目な声を作り出して歩きながら説教を始めていく。
§
「――とまあ、もうあんな無茶なことは絶対にしちゃいかんぞ。まったく、私があの時いたからよかったものを……」
「ううー……もう、ちゃんとわかりましたぁ……」
「本当かぁ? まったく……」
うなだれてそう答える少女に、神は溜息をつきながらとりあえず説教を一旦止めて、
「……でも、まあ、なんだな……怒ってばかりというのもあれだし、私だけでも、一つだけ、褒めといてやるよ」
隣の少女の頭に、ぽんと優しく手を乗せる。
「……実際、よくやったよ、早苗。方法はともかくな」
そして、静かに動かして、撫でた。
そのくすぐったい感触に、早苗は少し目を細め、
「ありがとう……」
自然と、意識せずに口を動かして、そう言っていた。
「……今日のこと、今日までのこと全部ね、きっと、ケロちゃんのおかげなんだ……本当に、ありがとう」
続けて、溢れ出てきた素直な気持ちを全て言葉に乗せて、早苗は諏訪子へ送る。
それを受け止めて、
「……そりゃ、少し違うな」
諏訪子は早苗を見て笑いながら、
「私はお前に手を貸しはしたが、やり遂げたのは、全部お前の力だよ、早苗。泳げるようになったのだって、友達が出来たのだって」
言い聞かせるように、そう言ってやる。
それを聞いて、早苗は、
「……!」
静かに驚き、
「そう、かな……」
そしてぽつりと言葉をこぼす。
「私、出来るように、なったのかな……」
手を伸ばして、真っ赤な夕陽にかざし、思う。
今日みたいに、誰かと手を繋げて。そして、
「出来るように、なるのかな……」
今日のように、いつか繋いだ誰かを、助けられるように。
そう、想いが形になった瞬間、
「あ――」
何かが、真っ直ぐと伸びていく何かが、少女の目には見えたような気がして、立ち止まる。
「どうかしたか?」
しかし、少し先で立ち止まって振り返る諏訪子にそう声をかけられた瞬間、景色は燃えるような赤の帰り道に戻り、
「……? ううん、なんでもない」
早苗は首を傾げてそう答えると、前へ、諏訪子の方へと小走りに駆けていった。
<続く>
ケロちゃんも「フルメタルジャケット」に汚染されたか!
続きも期待しています。
この感じだと子供時代で完結しそうですね
早苗さんの過去の話だと幻想入り直前の話が多いイメージだったのでなんとなく驚きました
しかしケロちゃんのしゃべり方が気合いはいってていいですねw
なんとなく早苗さんが子供離れしているような気がしました
子供にしては選んでる言葉がはっきりしすぎているような
早苗ちゃんは本当に聡くて強い子ですね。