注意
こちら連作の最後の章となります
これを読む前に
こちらのやたら長い上編と http://coolier.sytes.net:8080/sosowa/ssw_l/?mode=read&key=1282717146&log=124
こちらのまたやたら長い中編を http://coolier.sytes.net:8080/sosowa/ssw_l/?mode=read&key=1283704708&log=125
順番通りに先に読んでおかれると話がわかりやすくなるので推奨です
1
澄み渡るように青く晴れた翌日であった。
「それじゃあ、行ってきます!」
麦わら帽子を被った少女は、玄関で靴を履いて振り向くと、元気よくそう言った。
その先には、
「はいはい、気をつけて行ってきなさいな」
「まあ、昨日みたいな無茶だけはせんようにな」
並んで立って少女を見送る、二柱の神の姿。
その見送りの言葉を聞き、笑顔で手を振る紫髪の神と、苦笑しながらそう言う金髪の神の姿を見て、
「うん!」
そして、これから一緒に遊びに行く友達のことを思いながら、本当に嬉しそうな満面の笑顔と共に頷いた。
そう、頷いて、
「……」
しかし、少女はふと何かを考えるように無言になる。
その様子に、神達は何事かと首を傾げて、
「どうかしたか?」
金髪の神が、そう尋ねかける。
その言葉に、少女は意を決したように俯き気味だった顔を上げて、その神の顔を真っ直ぐ見つめ、
「あ、あのね」
言おうとする。
「その、よかったら、さ……今日も、ケロちゃん、一緒に」
その視線は乞うわけではなく、その心にも不安があるというわけでもない。
ただ少女は純粋に、昨日の神の言葉を、横顔をふと思い出して、考えついたその言葉を――
「おいおい、勘弁しろよ」
その途中で、頭の上に手を優しく乗せられて、言葉を止められた。
「これでようやく私も守り役御免なんだからな。大丈夫だよ、友達と、ちゃんと目一杯遊んでこい」
笑顔で、その言葉と共にくすぐったい感触が伝わってくる。
それに目を細めて、少女はとりあえず言い掛けた言葉をしまい、
「……うん」
しっかり、そう、また頷いて、神達に笑顔を送る。
「それじゃあ、今度こそ行ってきます」
「おう」
「ああ、行っておいで」
それから、撫でつけるその手が離れると共に少女はまたそう言って、くるりと反転し、玄関から駆け出していく。
「こけんなよー!」
遠ざかる背中へ呼びかける神の声に、
「だいじょーぶー!」
走りながらくるりと振り向き、手を振ってそう答え、
「わぁ、っと、と」
そのせいでバランスを崩して危うくよろけるのを見て、神達は渋い顔になる。
「やっぱ、ついてった方がいいか?」
「かもなぁ……」
互いに顔を見合わせて、溜息と共にそうこぼした。
§
そして、少女の行った後の玄関先。
紫髪の神は隣の相方の、残された横顔を見て、
「あんなこと言っといて、本当は寂しそうじゃないか」
「馬鹿言うな」
にやりと蛇のように笑んでそう言ってくる神奈子に、怒り出すわけでもなく諏訪子は溜息を吐きながらそう返す。
「寂しいなんてわけ、あるかよ。いや、むしろ嬉しいぞ、あいつにもようやく友達が出来て、もうここに来たばっかの時みてえな顔する暇もないくらい、楽しくやっていけるだろうしな」
そして、一人くるりと踵を返し、廊下を歩き出しながら、
「そんで、ようやく私もお役御免、必要ないってわけだ。せいせいすらぁな。少し遠回りはしたが、これが納まるべき鞘だろうよ」
「……」
その言葉と、その背中を見て、
「……あっは」
神奈子は思わず吹き出した。そして、諏訪子の隣へ自分も歩いて並び、
「はっははは、諏訪子、なによぉあんた、寂しいどころか、拗ねてんのね!」
「はぁぁ!? だ、誰が拗ねてんだよ!」
「あんただあんた! 大丈夫なんてかっこつけて言っておきながら、自分の手からあの子が離れただけでこれかい!」
大笑いしながら、少し頬を朱に染めて怒鳴る諏訪子の、己の胸くらいまでしかない頭をぼふぼふと神奈子は叩く。
「てかさぁ」
それから、諏訪子の首に腕を絡めてぐいっと抱き寄せると、
「前々から思ってたけどぉ、あんたばっかり早苗と楽しそうに遊んじゃってさぁ、ズルいじゃないか。私もあの子ともっと遊んでやりたかったのに」
「てめぇが初っ端押しつけてきたんだろが! ……ったく」
そうして顔を寄せてくる神奈子を鬱陶しそうに引っ剥がそうとしながら、しかし、諏訪子は少し声を潜め、
「でもまあ、独り占めはしすぎたよ……悪かった……お前にもさ、きっとあの子は――」
そう言おうとするも、
「……もらったよ」
神奈子の穏やかな笑顔に言葉を止められる。
「大丈夫、私もあの子からは、十分過ぎるくらいもう、想いをもらった。だから、あんたも拗ねてないでさっさと気持ち入れ替えなよ」
そして体を離してから、ぐしゃぐしゃと神奈子は諏訪子の頭を撫でる。
「わ、わーってるよ!」
「本当にそうならいいんだがねぇ。そうだ、諏訪子、どうせ暇なら、久々に一緒に拝殿で仕事しようじゃあないの」
「けっ、しゃーねえなぁ、どうせもう私のこと知ってる参拝者も来ねえだろうけど」
そんな神奈子の手をぱしんと弾きながら、諏訪子は前を向き、
「……あっ、おーい、早恵!」
隣の神奈子と同時に、廊下の先に早恵の姿を見つけて、呼びかける。
「……」
しかし、何やら背を向けて立ち止まっている早恵は、呼びかけに応えず、
「……? おい、早恵!」
はてなと思いながら、再度呼びかけた。
「……!? ……っ、あ、ああ……諏訪子様に、神奈子様、すいません、少しぼーっとしてまして……」
そして、ようやくはっと気づいたように早恵が振り返るのに、呆れながら、
「そうかぁ? なんかそもそも聞こえてない風だったけどな。歳のせいで耳が遠くなったんじゃないか」
「ふふ、もう……ああでも、もしかしたら本当にそうかもしれませんね」
近づきながら、笑顔でそんなやり取りをする二人を、何か考えるような顔で黙って見ていた神奈子が、次に早恵の顔をじっと見つめて、
「でも、大丈夫か、早恵。汗をかいてるみたいだけど……」
「ああ、今日は暑いですから……お昼から病院に行ってくるのも、気をつけないといけませんね」
しかし、早恵ははぐらかすように笑いながら、少し話題を逸らしてそう言った。
その言葉に諏訪子は意外そうな声で、
「なんだ、今日は病院の日かい」
「ええ、ですので、午後からは外しますけれど、大丈夫ですか?」
今度は早恵が心配そうな顔をするのに、神奈子はふっと笑う。
「大丈夫だよ、今日は久しぶりに諏訪子さんも働いてくれるらしいからね」
「ああ、それは本当に……久しぶりですねぇ」
「ええー!? な、なんだよ早恵まで! ちくしょう!」
そして、情けない声を出して諏訪子がまた拗ねかけるのに、二人は笑いながらそれを宥めて、神社の朝が過ぎていった。
§
少女は駆けてゆく。
青いスカートを揺らして、肩に掛けた水泳カバンを揺らして。
息は上げずに、規則正しい呼吸のリズムで、走り続けて、行く。
その先には、
「あっ! おーい、おっせえぞ、さなえー!」
「ご、ごめーん!」
呼びかけて手を振る子供達の姿に、少女は笑顔と共に大きな声で返事を返した。
§
「でもさあ、本当によかったよぉ、早苗ちゃんが入ってくれて」
川辺に座りながら、紺の水着姿の黒髪のおかっぱの少女が笑顔でそう言う。
「そ、そうかなぁ、ありがと、智ちゃん」
その隣には、同じような学校指定の水着を着た早苗が座って、智と呼びかけた少女の言葉にはにかみながら俯いた。
「そうだよぉ、だって今まで女の子は、私と陽子ちゃんだけだったもん。同い年の早苗ちゃんが増えてくれて、私すっごい嬉しいんだから」
ああっ、と感動したようにそう言って、智が体をしなだれさせて早苗にがばっと抱きつく。
「ひゃぁ!? と、智ちゃん!?」
「なによりかわいい子が増えて嬉しいのー、仲良くしようねー!」
そうして何やらぐりぐりと体を押しつけてくる智に若干の危機感を抱きながら、早苗は裏返った声を出し、
「そ、そういえば、その、よ、陽子ちゃんは?」
「ここー」
「へ?」
そうして必死に問いかけると、答えが真横から返ってきて、早苗は智を押し返しながらそっちを向く。
果たしてそこには、今水から上がってきて濡れたままの、自分より少し小さな、髪を二つにくくった女の子がいて、
「よんだー? 早苗お姉ちゃん」
「う、うん、もう大丈夫なのかなぁって思ってたんだけど、その様子だとばっちりみたいだね」
というか溺れた昨日の今日で泳ぎに来るとかタフだなぁ、と早苗は少し驚いて見つめる。
「うん! あっ、そうだ」
「どうかした?」
「ああん、早苗ちゃんもう少しだけぇー」
それからはっと気づいたような声を出す陽子に、なおもべったりひっつこうとする智を、その扱いをもう心得たように早苗がぐいぐいと顔も向けずに押し返しながら不思議そうに首を傾げる。
「あのね、もういっかいちゃんとお姉ちゃんに、お礼言っとこうとおもって。きのうはたすけてくれて、ありがとうございます」
「あ、うん……その、ど、どういたしまして」
ぺこりと頭を下げてくる女の子に、まだ早苗は少し照れくささを覚えながら自分も頭を下げた。
そんな女の子グループへ、
「おーい、なにやってんだよーお前ら、泳がねえのかー?」
すでに川に入って遊んでいる少年達から、そう尋ねる声が届いた。
「べー! 私と早苗ちゃんはまだここでいちゃい――」
「あ、うん! 私も泳ぐ!」
「ええー」
智の返事を途中で遮りながら早苗は立ち上がって、川の方へと走り出し、
「わたしもいくー」
「あ、ああちょっと、おいてかないでよー」
それに陽子もついていくのに、慌てて智も腰を上げて追いかける。
§
「……っていうか、何やってるの?」
川の中程まで入ってきて早苗は、一番のっぽな少年が一番背の低い少年を逆さに抱え上げてるのを見て、不思議そうな声を出し、
「ふふ、見てわからないか、これぞ水中プロレスだ、あぁぁー!?」
「そーれ!」
背の低い少年がかっと目を見開きながらそう言い掛けた途端、のっぽの少年が背中から水に倒れて、その体をもろとも水中にダイブさせた。
「うん、まあ水ん中ならプロレスの投げ技とかかけても大丈夫だからな、やってたんだ。みんな来たなら別のことやるけど」
そして、それを横で同じく眺めていたケンジが早苗にそう説明してやり、
「まあ、男の子の馬鹿な遊びよねぇ」
「わっ、と、智ちゃん……」
いつの間にか追いついてきた智が早苗の隣に立ってそう言った。
「がぼぼっ、げほっ、と、なんだとぉ智! こんな面白い遊びを!」
そしてようやく水の中から浮き上がってきた少年が、少し怒ったようにそう叫ぶ。
「なによぉ、事実じゃないの」
「あはは、でも、ちょっと面白そうだよね」
べー、と舌を出して威嚇する智に苦笑しながら早苗はそう言って、それから、そうだ、と思いついたように、
「ね、ねえ! それ、私もやってみていい?」
「ああ? いや、別に悪いこともないけどなぁ……」
そう聞かれて、困ったようにケンジは頭をかく。
「……?」
そんな様子に首を傾げる早苗を見て、どうしたものかとケンジが悩む中、すっとその体を手で制し、
「ふふ、上等じゃねえか早苗……俺が相手をしてやろう、ケンジも、紀夫も下がってな」
不敵に笑いながら、背の低い少年が前へと出て、早苗と他の少年二人にそう言った。
「うーん、まあミノルなら大丈夫かぁ」
「というか負けたらシャレにならないぞ、ミノル」
「え!? なんすかその扱い!? ち、ちくしょう!」
ケンジと、紀夫と呼ばれたのっぽの少年がうんうんと頷いてそう言うのに愕然としながら、ミノルはやけっぱちの声で構えて前を向き、
「お、おのれ! さあ来い!」
「あ、う、うん!」
それを真似て早苗も構えて、
「……それで、どうすればいいの?」
「あ、うん、まずこうしてお互い組み合って、それで技をかけられそうな方が……」
首を傾げてそう尋ねるのに、ミノルが近づいて丁寧に説明しながら、とりあえず組み合い、
「あ、これでさっきみたいに持ち上げるの?」
「そうそう、さっきみたいにそうして逆さに」
「うん、よし、じゃあいくね、っと……よっ」
「お、っと……そうそう、そう言う風に持ち上げて……って、え?」
そうして早苗は促されるままに、さっきの紀夫のようにひょいっとその体を己の上に逆さにして持ち上げ、そうされたミノルがいきなり逆転した視界に、事態を飲み込めていない疑問の声を出す。
「ここからどうするのー?」
「ま、待て! 一旦落ち着け、落ち着いて静かに降ろして話し――」
「技名を叫びながら投げ飛ばすのよ早苗ちゃん!」
そして、それを見ながら周囲が驚きで声を出せない中、ミノルが慌てて状況を理解して言おうとした言葉を遮り、智がそう力強く早苗へ叫んだ。
「わ、わかった! よーし!」
「おわぁ、待ってぇー!」
それに早苗も頷き、か細い断末魔を頭上に残したまま、
「大、雪、山、おろしぃ~!」
自分も後ろへ倒れ込みながら、その勢いで後方へとその体をぶん投げた。
少年二人が唖然とし、智がガッツポーズをしながら目を輝かせ、いまいち状況を理解できていない陽子が不思議そうな顔をする中、早苗が背中から水に入る音と、少し遅れてどぼんという派手な着水音と水しぶきがあがる。
「み、ミノルぅ――!!」
「きゃー! 早苗ちゃんすごーい!」
そして少年二人は急いで投げ飛ばされた方へ水をかいて向かい、智はもう水から、ふうー、と顔を出す早苗へ抱きつく。
「お、おお……いつの間に私にはマジンパワーが……」
そして早苗は智に抱きつかれながら、自分はこんなに力持ちだったっけと首を捻る。さっきの感触は、まるで自分の力というよりは、誰かの――
「み、ミノルー!」
「しっかりしろ!」
そう思ったところで、ようやくぷかぁと力なく浮き上がってきたミノルの体を起こしながら、ケンジと紀夫が必死で呼びかける声が届いた。
「う、うう……ケンジ、紀夫……」
「ミノル!」
「気づいたか!」
そして早苗も思い出したようにそっちに視線を送る中、よろよろとミノルは抱き起こされたまま掠れた声を出し、自分を見つめる少年二人へ、
「な、なんで中山秀征と香田晋ってあんなに……似てるん、だろ……う、な……」
「ミノルー!!」
そう言い残すと、がくっと首を落として目を閉じた。
そして、それを見届けてから、少年二人は改めて畏怖の視線を早苗へと向け、
「え、えーと……えへっ! やりすぎちゃった!」
自分を囲むその視線に、とりあえず早苗は舌を出してなるべく可愛らしい笑顔を作って誤魔化すのだった。
2
そして、昼時。
六人の子供達は川辺に並んで座り、膝の上に各々の弁当を広げていた。
「うわー、早苗ちゃんのおにぎりおっきぃ……」
何故かうっとりとした声で智が視線を向ける隣、早苗は少し恥ずかしがりながらごろんと巨大な、海苔に包まれたおにぎりを二つ膝の上に乗せていた。
「ほんとかぁ……うおっ、マジででけえ! 爆弾かよ!」
「みんな離れろ! 早苗ならマジで爆弾でもおかしくねえ!」
その言葉にどれどれと覗き込んだケンジも驚きの声を上げ、その隣に座ったミノルもそれを見るや、ささっと体を全員から離す。
「ビビりすぎだろ、ミノル……」
「お前は投げられたことがないからそんなことが言えるんだー!」
呆れた視線を向けるケンジに、ミノルは少し離れた所に伏せながらそう言った。
「でも、ほんとにおっきいなぁ……」
「……あ、よかったら一個いる?」
そして、早苗の隣に座って同じくそう感心したような声を出す紀夫に、早苗はおにぎりを一個掴んで差し出す。
「え、いいのか?」
「うん、いいよ」
「ありがと……じゃあ、俺のもやる」
早苗のおにぎりを受け取ると、紀夫もそれに負けず劣らず大きなおにぎりを手渡した。
「うわぁ、ありがとう!」
早苗もそれを喜んで受け取り、それを見ていた智がふと首を傾げて、
「ていうか、もしかしてネタでもなんでもなく、早苗ちゃんそれ全部食べるの?」
そんな智を見て、早苗も同じく首を傾げ、
「食べるよー?」
そう答えた。その返答に、
「ほら、だからやっぱり早苗も紀夫タイプのパワーキャラだって……」
「いやまあ、薄々そんな予感はしてたが……」
「でも、むしろ私的にはそんなギャップもいい……」
顔を寄せ合ってこそこそと何やら話し合い出すミノルとケンジと智を見ながら、早苗と紀夫と陽子は不思議そうな顔をして、とりあえず自分達のおにぎりにかぶりついた。
§
そうして、全員で昼ご飯を食べながら。
「うおおー!? 早苗のおにぎり見た目に反してマジでうめえ! お、俺にも一個くれ!」
「爆弾じゃなかったのかよ、ミノル」
「え、ご、ごめん、もう食べちゃった……」
「えー!? じゃ、じゃあ紀夫、もう一口だけ……あー! こいつ今全部食いやがった! こ、このぉ!」
「私は早苗ちゃんが作ってくれたおにぎりが食べたいなぁ」
笑って、本当に心の底から笑いながら、そうして全員と触れ合いながら。
……ああ……
早苗は思う。
……楽しいなぁ……
楽しすぎて、本当に、泣き出したくなるほど楽しくて。
だから、早苗は思い出してしまう。
あの眼差しを、あの横顔を。
あの神達と、その寂しさを――
§
早苗は知らなかった。
今までの自分は、知らなかった。気づけなかった。
こんなにたくさんの誰かと手を繋ぐことが、繋がることが、こんなにも楽しくて、嬉しいことだと初めてはっきりと、理解できた。
だから、同時にわかる。それを思ってしまう。
こんなにも楽しいことを、自分のそれよりもっと多くの人と心を通わせる、手を繋ぐ嬉しさを知っている身が、それを手放す、手放してしまう時の気持ちを。
そうしてしまった時に得る、反動のような寂しさを。
果たしてそれがどれ程のものなのか、今はもう想像するだけで背筋が凍りそうになる。
両親しかいない世界から放り出された時ですら、孤独の中心だと思い込んでいた場所ですら、身をずたずたに裂かれるような、一歩も進めずに、震えて蹲ることしか出来なくなるような、そんな恐ろしいものだった。
もしそれが人数に比例するのなら、数え切れないほど大勢と繋がっていた世界から離れてしまう場合のそれは、きっと――
「……」
そして、その全てを耐えきって、あるいは今も耐えながら、あの神達は其処にいる。
それは、そうすることが出来るのは、自分と違って、神様達はずっと力も心も強いからだろうか。
人と違う神の心は、そんな痛みを感じないのだろうか――
……違う
違うのだ。早苗は知っている。少女は知っている。
そうだ、自分は知っている。神様達の、その顔を、笑顔を、絞り出すような声で吐き出した、泣き出したくなるほどの想いを込めて紡がれた、その孤独の痛みを。
たとえどんな存在だろうが、神と人だろうが、そこだけは、一番大事なその底だけは、一緒なのだ。
だから――
§
「……っ」
地面に視線を落とし、早苗はそれをこぼしそうになってしまう。
だから、それをどうにかしたかった。
今の自分にはそれがどんなものなのか、想像することが少しでも出来るから。
あの時よりも、カエルの神様に背負われていたあの時より、風の神様の胸に抱かれたあの時より、繋がっていく世界を知って、それと同時にどうしようもない寂しさを知って。
そして、それを目の前に何も出来ない自分の歯がゆさと、それでも必死で伸ばした手が届く感触がわかったから。
自分の前にある、何かが少しだけ見えたから。
だから、身近な誰かが、心を、手を繋いだ誰かが、
「私の……」
自分のことを、信じてわかってくれる誰かが。
何より、自分をそこから助け出してくれた誰かが、同じようにそんなものを抱えているのなら、抱えたままで動けないのでいるのなら、自分がどうにかしてあげたいと、強く思うのだ。
自分の力では何も出来ないかもしれない、間違った方法で、考えなしに突っ走ってしまうかもしれない。
それでも、手が届くなら、伸ばさずにはいられないのだ。
何も出来ずにそれを見つめるだけというのが、もう嫌なのだ。
今なら、今なら、その隣に座って、震えながら、伸ばされる手を待つだけじゃなくて、きっと私から、その手を――
「――っ」
そこまで考えてから、早苗の意識ははっと戻って来た。
「……」
瞼の裏には、もう届かない過去があって、開いた目には届かせることが出来るかもしれない今がある。
だったら、今、伸ばそう。
そして、掴んだなら、もう――
そう決意した。
§
そう、決意して、
「はぁー……」
しかし、早苗は深く息を吐いた。
そして、また少しばかり弱気になって思う。
心は決まっても、
……どうすればいいんだろう……
今はまだまだ、体が追いついてこないのだ。
どうにもならなくなったら、もうがむしゃらに突っ込んでいくしかないのだけど、今は考えることの大切さというのを、昨日のことで身を持って体験していた。
力及ばず、自分も一緒に沈んでしまうような間違った方法は、今はまだしてしまうかもしれないけど、それでもできるだけしないように考えなければならない。
なるべくならば、そう、今みたいに自分ばっかり何だか楽しくて、家に残してきた神様達が寂しがるようなのではなくて……
「うーん、寂しがってるのかなぁ……」
呟いて、首を捻ってみる。
笑って送り出してくれたけど、ケロちゃんあれですごい寂しがりだから、やっぱりいじけてるかもしれない、などと失礼なことを考えてみたり。
「そ、そうじゃなくて……」
首を振る。考えが少し逸れてしまった。
とにかく、みんなが楽しくて、楽しくなれる方法で、だ。
そのために、
……私に、何が出来るんだろうなぁ……
思って、目を閉じた。
その時、
「どうかしたのー、早苗お姉ちゃん?」
温かい、手を握られる感触がして、早苗は驚いて目を開き、横を振り向く。
§
「具合わるいの?」
振り返ったそこには、早苗の隣に座ってその手を握りながら、見上げるようにして問いかけてくる陽子の姿があった。
その手を握り返し、早苗は慌てて笑顔を作りながら、
「だ、大丈夫だよ。お姉ちゃん、元気」
「でも、なんだか元気なさそうな顔でぼーっとしてたよ?」
鋭いところをつかれて、早苗は汗を一筋垂らす。
よく見てるんだなぁと思いながら、早苗は少し離れたところではしゃいでいる少年三人や、自分と同じく休憩のようにうとうとしながら座っている智を見回してみて、それから、
「うん、ちょっとね、考え事してたから……それで、ぼーっとしちゃって……」
そう答えて、早苗はまた視線を落とし、考えこもうとする。
その顔をじーっと見つめたまま、
「……うん!」
「ひゃっ!?」
いきなり陽子が大きな声で力強く頷いたのに、早苗は驚きの声を出す。
「ど、どうしたの? 陽子ちゃん……」
「あのね、だったらわたしも早苗お姉ちゃん手伝うよ!」
少し心臓をドキドキさせたまま尋ねると、陽子は力強い表情でそう答えて、
「わたしも一緒に考えてあげる! だって」
にっこりと笑う。
「ひとりじゃなくて、一緒にやれば、そのほうが簡単だもんね」
「……!」
そう言われて、早苗は少しの驚きと、それから、
「……そう、だね。うん、じゃあお願いしようかな」
同じように笑って、そう頼んだ。
「まかせて! じゃあ、考えるよー……むむむ……」
それに快くそう答えて、何も聞かない内に難しい顔で目をつぶり出す陽子を見て、早苗はまた、くすりと笑い、
「……」
そして、自分もまた考え出す。
さっき言われた、陽子の言葉を思い出して、
……そうだよね……
そうなのだ、自分一人では、難しい問題なのだ。
その寂しさを抱えたままにさせないために、自分が一緒にいるとは言ったけれど、現状その効果のほどは怪しいものだ。
一緒にいることが、無駄とは思わないし、思いたくない。
自分がいることで、少しはあの顔が和らいでくれているのなら、いくらだってそうするつもりで。
でも、それだけじゃあどうしても、埋められないものがある。
それは、自分の力不足で、何より神様達はそれ以上のものを知っているからで、それは、たくさんの――
「……ん?」
そこまで思って、早苗は唐突に声を出して止まった。
何かすごく簡単な、単純なことを見落としていることに気づいたような、バラバラなパズルの組み方の一歩目がいきなりわかったような、そんな感覚がびりびりと早苗の頭の中でしていた。
「えと……」
落ち着こう、落ち着いて整理してみよう。思って、早苗はゆっくり息を吸う。
神様達の寂しさは、たくさんの人達と繋いでいた手が離れてしまったことで得たものだと、これまで少しだけ話してくれた、見せてくれた記憶からそう思う。
そして、それは自分も味わったもので、離してしまったその痛みは、まだ胸の中にはあるけれど、こうして新しく繋ぐ嬉しさを得たことで、一緒に抱えていけるようになって。
だったら、神様達もそうして新しい繋がりを得れば、自分と同じように、それを、その痛みを和らげることが出来るんじゃないだろうか。
それは、そう思って、だから自分の手も、神から差し伸べられたそれをぎゅっと握り返して。
でも、それじゃあ、まだまだ自分だけでは足りなくて、だから……
……難しいことは、みんなでやれば……
そう、そうだ、だから、自分のだけではなく、もっと多くの繋がりを、神様達に作ってあげられたら、そしたら……
……でも、そうするために、そうするためには、えっと
「神様がそこにいることを、知ってもらえれば、いいん、だよね……?」
心臓が、どくんどくんと跳ね出した。
記憶が、ぐるぐると巻き戻って、そして、
……神様の言葉を、伝える
その言葉を、
……その力が、私達の血には
甦らせる。
「私、そのための、力があるの……?」
呆然と呟き、己の手を見ようとした。
その時、何故か片方の手は動かず、
「あっ……」
視線を向ければ、それは、隣に座って相変わらず難しい顔で唸っている、優しい女の子と繋がっていた。
そして、動く方の手だけを見つめてみる。
それはまだ、空いていて、だからその手に、
「ケロちゃんの、神奈子様の手を繋げば……」
自分がその間に入って、繋げば、きっとそれはちゃんと、神様達にも新たな繋がりとなる。
「そう、なのかな……?」
早苗は心臓を強く鳴らしながら、思わず誰ともなく呟いて問いかけてしまう。
これが、こんな簡単なことが答えで、
「わたしに、できるのかな……?」
§
「ね、ねえ!」
「ふぇ!?」
そして早苗は抑えきれない鼓動に突き動かされるまま、傍らの女の子の体を揺すっていた。
「あ、お姉ちゃん……ごめん、わたしなにについて考えるのかきいてなかったから、ちょっと寝ちゃってた……」
「う、うん、それは私も伝え忘れてた、ごめん! だから、今度こそ、陽子ちゃんに協力してほしいんだけど、いい?」
「うん、いーよー」
欠伸をして目をこすりながらも笑って快諾する陽子に、早苗は自分を落ち着かせるために、すぅと息を一つ吸い、
「あのね、陽子ちゃんに、聞きたいことがあるんだ」
「うん、なにー?」
真っ直ぐ見つめて、問いかける。
「あのね、お姉ちゃんの友達……陽子ちゃん達以外の友達がいるとして、さ……その人達のこと紹介したら、陽子ちゃん、仲良くしてくれる……?」
手を少し強く握られながらのその問いに、
「うーん……」
陽子は少し唸って考え、そして、
「あのね、仲良くなれるかどうかはわからないけど……でも、なりたいなぁって思う! だって」
にっこりと、満面の笑顔で、
「お友達がふえたら、いっぱいいた方が、いまよりもっと楽しいもん!」
同じく真っ直ぐと、そう答えた。
「……っ」
その答えに、早苗は、
「……うん! うん!」
こみ上げてくる温かい気持ちを抑えられず、繋いだその手をぎゅっと握って、何回も頷いた。
「ありがとう、陽子ちゃん! お姉ちゃんわかったよ、陽子ちゃんのおかげでわかった!」
「そうなの? えへへ、よかったね」
「うん!」
そして、二人は顔を見合わせて笑い、
「よーし!」
それから早苗は体から溢れ出て止まらない気合いと共に立ち上がると、呼びかける。
「ねえ! みんな――」
3
「あー、暇だー」
昼下がりの、光が少しだけ入り込む、薄暗い本殿の内に大の字で寝転がって、諏訪子はそんなだらけきった声を出した。
「うっさいわねぇ、今日ならあと二、三人は来てくれるはずだから、しゃんとしてなさいよ」
そんな諏訪子へ、自分は胡座でどっしり構えたまま神奈子は視線も向けずにそう言ってやる。
「マジかよ……っつかさ、わかってたつもりだけど、改めてこれ……」
その言葉に諏訪子は少し体を起こして、神奈子の背を見つめ、
「いよいよもって私らヤバくねえか……?」
その言葉に、神奈子は溜息をつき、諏訪子の方を向く。
「……まあ、なるようにしかならんだろうさ。人も、神も、な」
「お前は……それでいいのかよ」
「いいも悪いも、どうしようもないでしょう、今更……」
少し必死さの、心配のような気持ちのこもった諏訪子の目を見て、神奈子は、ふっ、と笑みを作る。
「私もお前も、どうにかするには留まり過ぎた……だろう?」
「……っ」
その表情と言葉を得て、諏訪子は小さく呻きながら顔を逸らした。
その時、
「……ん?」
同時に、何かを感じ取り、眉根を寄せて声を出す。
「おい……誰か近づいてないか……? 石段、昇ってるぞ」
「へぇ……あら、本当だ。早苗かしら……参拝者だといいけどねぇ」
言われて神奈子も何かを感じ取り、二柱は感覚を研ぎ澄ませてそれを読み取ろうとする。
「って、おい……これ、参拝者にしたって二、三人ってもんじゃねえぞ……」
「そうみたいねぇ……一体、何だろう……?」
「……あーもう! 埒あかねえ、外出て確認するぞ!」
あまりの不可解な事態に、遂に諏訪子は痺れを切らして立ち上がった。
「ちょっと、参拝者なら動くわけにいかんでしょ」
「そうだとしたって、どうせまともなもんじゃねえだろ……っつか、さ、なん、か……」
「あぁ?」
「ああ、もう! 上手く言えんが、なんか変な、懐かしい感じがすんだよ! ほら!」
「あっ、ちょ、ちょっと!」
焦れたように、頭をかいてそう言うと、諏訪子は神奈子の手を掴んで強引に引っ張りながら、本殿の扉を外へとすり抜ける。
「ったく、なんだって……」
「……おい、まさか……」
そうして、賽銭箱の前へと出てきた神奈子が文句を言い、諏訪子がその声に気づいた。それと、同時に、
「……ったあー! いっちばーん!」
「ああっ! くっそ、負けたぁー!」
「っつか、早苗のホームグラウンドだろこれ! ズルくね!?」
「いやん、足早い早苗ちゃんも素敵ー!」
境内のその先に、そんな声が響いて、石段を走って昇ってきた早苗と子供達が姿を現し、
「……っ!?」
それを見つけた、二柱が驚愕で固まる中、
「はぁっ……っ、た」
早苗だけがその姿を真っ直ぐとそこから見つめて、叫ぶ。
「たっだいまー!!」
§
「あの、その……さ、これから、みんなで神社で遊ばない?」
円陣で固まって座って、早苗がそう、全員を見回し、にっこりとぎこちない笑顔を作りながら言った。
「えー、やだー」
それにすぐさま応えてそう言ったのはミノルだった。
手を後ろについてだらけたようにそう言うミノルに、早苗は慌てて、
「え!? え、な、何で?」
「だって神社なんもないしさー、つまんねえよー」
などと口をとんがらせて言うミノルに、早苗も少しムキになる。
「つ、つまんなくないよ! 神社はいいとこだよ!」
「じゃあ、神社で何して遊ぶんだよー」
「そっ、それは……」
その言葉に、早苗は少し口ごもり、それを言うべきか少し迷うが、
「……っ、それはね」
しかし、迷いは一瞬だった。ちらっと見えた過去の傷を振り払って、早苗は言う。
「じ、神社の神様がね、いろんな遊びを教えてくれるんだよ!」
§
そうはっきり言い切った早苗に、
「……ぷーっ、か、神様て、へぶっ!?」
ミノルがそう吹き出そうとした瞬間、その隣に座っていたケンジの拳骨がその頭頂部にごつんと、軽く振り下ろされていた。
「っ、いってーな、ケンジ! なにすんだよ!」
「神様のことは馬鹿にすんな」
殴られた部分をさすりながら声を荒げるミノルに、驚いて声も出せない早苗の前で、ケンジは言う。
「じいちゃんが言ってたんだ、ここら辺の人達はみんな、山の上の神社の神様に見守られて生きてんだって。だから神様がいること、信じろとは言わないけど、馬鹿にだけはすんなってさ」
そんで、とミノルを睨むように見て、
「なにより、友達がマジんなって言うこと、馬鹿にすんな」
「……っ」
そうきっぱり言われ、ミノルはうぐっと言葉に詰まり、
「だーっ、もう、悪かったよ、早苗! 笑ったりしてごめんな!」
ヤケクソのように叫んでそう言うと、早苗に頭を下げた。
「えっ、う、ううん、そんな……」
そうされて、早苗は慌てて、どうしたものかと今度はこっちが言葉に詰まる。
「そーいえば、私も小さい頃そんなの聞いたことあるなぁ」
その時、智がケンジの言葉を拾ってそう続け、
「あー、俺も聞いたことあるかもしんねえ、ていうかさ」
それに紀夫ものって、会話が元に戻っていく。
そうして紀夫は全員に、
「なんか小さい頃ってさ、よく、じいちゃんやばあちゃんに神社連れてってもらわなかったっけ?」
「あー、行った行った。神様に挨拶しなさいって、よくおばあちゃんと一緒に拝んでたっけ」
「ミノルはどうなんだ?」
「俺かー?」
いきなりそう振られて、ミノルはうーむと考え込むふりをし、
「……正直すんげえ行ってたな、父ちゃんと散歩するの好きだったから……つーか、今思い出したけど俺もその神様がいるって話聞いたことあった」
今の今まで忘れてたけどな!、とミノルは全員から集まるじとっとした視線を誤魔化すように大きな声で笑った。
「……何で小さい頃はそんなに遊びに行ってたのにさ、今は行かなくなったんだろうな」
それから、ぽつりとケンジがそう言った。
「そりゃあ、やっぱり神社がつま……」
それに答えるようにミノルがそう言い掛けてから、はっと早苗を見て気づき、
「お、面白くないからではないでしょうか……」
「丁寧に言っても意味変わってないわよ」
控えめにぼそぼそとそう言うのに、智がツッコミを入れた。
「まあ、そうだよな。正直今まではつまんなかったから行かなかったんだけど」
そして、続けてケンジがそう言い、それを聞いて若干曇る早苗の顔を見て、
「でもさ」
呼びかけるように、聞く。
「早苗はそこが面白いこと知ってて、で、それを俺達に教えてくれんだろ?」
その言葉に、早苗が次は驚いた表情になるのを見て、ミノルが、おーなるほど!、などと納得してるのを聞きながら、
「早苗が、面白くしてくれるんだよな?」
試すような、その問いかけに、
「ま、まかせて!」
緊張気味に、それでもしっかりと早苗は言い切って、自分の胸をどんと叩いた。
§
「よし! それじゃあ、何して遊ぶんだ!」
ぐいぐいと張り切って体を解しながら、何やら興奮気味にミノルがそう早苗に尋ねる。
「ミノル……あんだけ文句言っといて……」
「いや、なんつーか、久しぶりに神社来たらすっげえテンション上がってきた! なんかすごいありがたいパワーを感じる気がする!」
屈伸しながらそう言うミノルに、全員がなんかこいつ絶対ヤバいもの受信してると静かに思う中、
「うおお、境内も広いし何でも出来そうな気がするぜ! さあ、早苗、なんだ! 何で勝負だ!?」
「あ、えと……」
ミノルがびしっとポーズを決めながら問いかけた先の早苗は、その勢いに少々戸惑ったように考えてから、
「えとね……それじゃあ、まずは、みんなで神様に挨拶……しようね?」
にっこり笑って、そう言った。
§
そして、とりあえず全員、本殿、賽銭箱の前に横に並んで、
「早苗ちゃん、こういうのって何か作法とかあるんじゃないの?」
「あ、それは……」
隣の智がそう聞いてくるのに、真ん中辺りに立つ早苗は顔を上げた。
そうして、本殿の外に出て、自分達を呆然としたように固まったまま眺めている、二柱の神を見上げて、尋ねかける。
「ど、どうすればいいんですか、神様?」
「えっ?」
聞かれて、ようやく神達は反応し、
「い、いや、それはまあ正式なのはあるけど、一応手を合わせて拝んでくれるなら正直形はどんなのでも……」
そして、問われるまま神奈子が早苗にしか聞こえないその声でそう答えるのを、
「とりあえず、手を合わせて拝んでくれたら大丈夫だって!」
早苗が聞き取って、そして子供達へ伝える。
「そんな簡単なのでいいんだ?」
「てか、待て、なんか今俺にもボソボソと何か声らしきものが聞こえたような……!」
「まあ、ミノルのは気のせいだとして」
「いや、マジだって!」
「よーし、それじゃあ、私に続けてやってね!」
それから早苗がそう言い、ぱんぱんと、二度拍手を打つ。
それに全員も倣って拍手を打ち、そして手を合わせたまま、頭を少し下げて、
「こんにちは! それと、今から神社で遊ばせてもらいます!」
声を揃えて、そう言った。
§
それを見て、
「……っ!」
聞いて、受け取って、二柱が溢れ出た驚きに息を呑む。
『と、突然で、ごめんなさい』
その中で、頭の中に声が響いた。
『わ、私、上手く説明出来ないけど、でも、ね、みんなと神社で遊びたいなって、思ったの』
それは、目の前で静かに拝む、黒い直ぐ髪の少女がこちらに届けるもので、
「早苗……」
その言葉に、少女の名を静かに呟いて二柱はその姿を見つめる。
『みんなと、ケロちゃんや、神奈子様も一緒に、全員まとめたみんなで遊びたくて、だから』
言葉はそう続いて、それから、
「一緒に、遊んでください!」
拝んでいた顔を上げ、神を真っ直ぐ見つめて、少女はそう強く声に出して、言った。
§
「よーし、それじゃあ、今度こそ何するんだ!?」
それからまたもずびしとポーズを決めてミノルが問いかける先、
「えーと、ねー……うーん」
あれから、また本殿の前から少し離れた境内に場所を移して。
問われた早苗は考えるような顔をしてから、
「どうしましょう、神様!」
「へ?」
そして、子供達の中に混じって、未だ困惑したように立っている神達へ顔を向けて、そう話題をパスする。
「あ、そこにいるの? 神様」
それを見た智が、自分もその空間へ目を向けて細めてみたりする。
「おいおい、マジかよー」
ミノルが訝しげにそう言いながら、早苗の見る辺りに手を突き出してみると、
「ん!?」
ぶにゅっと、何か柔らかいものに当たったような感触がして、驚きの声を出し、
「お、おい、ここマジでなんかいるかもしんねーぞ!?」
そう言いながら、もう一度それに当たらないものかと腕を動かしてみる。
「……ちょ、ちょっとそれは、やめた方が……」
「え? なんで?」
それを見た早苗が焦りと恐怖を含んだ声で指摘する先の、早苗にだけは見える光景の中で、丁度その手は、
「……こっ、のっ……」
神奈子を尻の辺りを、まさぐるように動いていた。一瞬だけ触れて、そこからさらに触ろうと動かされる手に、神奈子は赤面し、
「エロガキ!」
「っ!?」
怒鳴りながら、ミノルの頭頂部に拳骨を振り下ろした。
「うおお!? いま、今俺なんかに殴られた!? なんで!?」
「か、神様に失礼働いたからかなぁ……」
「なに!? 失礼ってなに!? なんもしてないよ!?」
「まあ、ミノルは存在自体がな……」
「え!? なにそれひどくね!?」
突然一瞬頭頂部に感じた衝撃に、驚いて辺りを見回すミノルを全員が生暖かく見つめる。
「……ったく」
「ははは、良かったな神奈子! 何年ぶりの触れ合いだよ!」
そして、まだ頬に熱を残したまま溜息をつく神奈子の尻を諏訪子が大笑いしながら叩いて、
「ぶげっ!?」
視線も向けずに放たれた神奈子の裏拳に吹っ飛ばされた。
そうしてから、
「というか、やっぱまだ子供だからか、何人か感じ取れるのがいるみたいねぇ……」
なんかあの尻触ってきた馬鹿そうなのがその一人というのが悲しいけど、と呟きながら神奈子は子供達を見渡し、
「あ……」
ふと、笑う早苗と目が合って、
「……それじゃあ、少し話が逸れたけど、もう一回教えてください」
そのまま早苗は神奈子を見つめて笑ったまま、言葉を紡ぐ。
「なにして遊びますか?」
そう問われて、面食らったような顔になりつつも、
「ああ、そうだね……じゃあ」
徐々にこの状況に慣れてきた神奈子はくすっと微笑んで、
「こんなに大勢いるんだったら、まずは全員で、花いちもんめでもやるかねぇ」
早苗だけでなく、子供達全員に向けるように、優しくそう言った。
§
「わかりました! あのね、神様は、みんなで花いちもんめやろうって」
早苗がその言葉を、さらに全員へ伝えるのを聞いて、
「えー、花いちもんめって、そんな女の子っぽいのやるのー?」
いち早くミノルが、またぶーぶーと文句を言う。
「ミノル、またそんなこと言うと……」
「ああ、お前、マジで神様いるっぽいんだぞ。俺も何か感じるし」
そんなミノルに、また全員が少し心配そうな視線を送る。
「え……? ま、まさかぁ……」
そしてそれを聞いたミノルがぴしっと固まる中、早苗の視界にはその背後にすっと、いつの間にか諏訪子がにやにやと笑いながら立っているのが見えて、
「神の言うことに逆らうなら、こうだ!」
「はわっ!?」
そして、べしんと、また一瞬だけミノルに触れるようにその尻を叩いた。
「うおお、ケツ叩かれた! 今叩かれたってマジ! 早苗、これも神様のせい!?」
「う、うん、祟りかなぁ……」
「祟り!? うわぁ、ごめんなさい神様! 俺もう花いちもんめに文句言いませんから! ほら、ケンジも紀夫も言っとけよ!」
「いや、まあ、俺達別に花いちもんめに文句ねえしなぁ……」
「うん……」
「え!? 裏切り!?」
尻をさすりながら慌てふためくミノルと、またそれを適当にあしらう全員を見て、諏訪子は神奈子の隣へ来ながら笑う。
「わはは、あのガキいい反応しよるなぁ」
「つか、なんかあいつ、少しお前に似てるような気もするけどね」
「え!? なにそれ、全然似てねえよ!? な、なあ、早苗!」
意外と真面目な顔でそう言う神奈子に、諏訪子は慌てて早苗の方を向いて、そう同意を得ようとする。
「え、あ……じゃ、じゃあ、みんなで花いちもんめ始めようか!」
しかし、早苗は一瞬諏訪子と目を合わせると言葉を詰まらせ、それを誤魔化すように視線を外して全員に明るくそう呼びかけた。
「さ、早苗ー!?」
そして、諏訪子が愕然とそう叫ぶ中、それをかき消すように早苗の言葉に応えて子供達が動き出す。
「わーい、じゃあ、私早苗ちゃんと同じ組ー!」
「おお、それなら俺は早苗と別のチームで雪辱戦だな!」
「やめといた方がいいんじゃないか、ミノル」
「勝てねーよ、お前じゃ」
「うっせーんだよ!? なんだその哀れみの視線はー!」
「じゃあ、こっちは私と智ちゃんと紀夫くんで、そっちはミノルくんとケンジくんと陽子ちゃんね、それで……」
てきぱきとそう二つに分かれて、それから早苗はそれを楽しそうに眺めていた、残った神様の手を引いて、
「それで、神様はこっちでお願いします!」
「えっ、ちょ、早苗」
「陽子ちゃんの隣に神様いるから、手繋いであげてね」
戸惑う神奈子をミノル達の方まで連れて行き、陽子の隣に立たせた。
「……あー、ったく、姿の見えないのが遊びに加わってどうすんのよ……」
そして今度は諏訪子の方へと向かう早苗を見て、溜息をつきながらそう言う神奈子を、
「……」
「あら……」
じーっと、その隣の陽子が見上げていた。見えているのかいないのか、ともかく見つめられてどうしたものかと神奈子が考える中、
「……はい!」
陽子がにっこりと笑うと、手を、神奈子へと差し出した。
「……っ」
そうされて、神奈子は驚きと、そして同時に胸が締め付けられるような懐かしさに、小さく呻く。
見えてはいないかもしれない、仮に見えていたとしても、早苗ほどはっきりと見えるわけじゃないだろう。
それでもこの女の子は、何の疑いもなく笑って、手を差し出してきた。
そこにいることを、信じて。
「……」
その手を取ってもいいのだろうか、自分に取ることが出来るのだろうか。
逡巡を一瞬、しかし神奈子は恐る恐る、少しだけ震える手を伸ばして、
「……!」
一瞬だけ確かに触れ、そして繋いだ。気を抜けば、すり抜けてしまいそうなくらい、その繋がりは、干渉は弱いけれど、それでも確かに、繋がっていた。
「わぁ……!」
そしてそれが向こうにも伝わったのか、陽子がさらに笑顔を濃くして神奈子に笑いかけてくる。
「あぁ……」
それに、ともすれば止められない喜びに崩れそうになる顔を必死に抑えながら、神奈子も笑顔を返す。
見えてはいないかもしれないけれど、それも伝わってくれることを、また信じて。
§
「よし……はい、それじゃあケロちゃんは私と繋いでね」
そしてそれを見届けてから、早苗は自分の隣に手を伸ばす。
「……」
それに対して、伸ばす先の諏訪子は無言で、神奈子達の方を見たままで、
「……ケロちゃんも、他の子とがいい?」
それを見た早苗が、不安気にそう尋ねかけた。
「あ、いや……違うんだ」
それに気づいて、諏訪子は静かな声で応じながら、
「……早苗でいいよ、いや、早苗がいい」
穏やかに微笑んで、諏訪子は手を伸ばす。
「繋いでくれるか?」
それは確認だけではなく、
「繋がせて、くれるか?」
少しだけ、願うような気持ちを込めて。
「……うん!」
それを受け止めて早苗は、迷うことなく頷くと、その手を取った。
§
そうして、子供達と神は遊び始める。
「かーって、うれしい花いちもんめ!」
手を繋いで、歩き。
「まけーて、くやしい花いちもんめ!」
声を揃えて、歌い。
「よーし、負けるなよミノル!」
「任せろ! なんせこっちには神様がいるからな!」
「あ、こっちにもいるよ」
「え!? 二人いるの!?」
「……やっぱ、何かこいつ諏訪子に似てるなぁ」
「いや、全然似てねえよ!?」
顔を見合わせて、笑い合って。
「よーし、じゃあ次はね……」
そうして、日が暮れるまで、遊んでいた。
§
それから、渡る夕暮れの空の下。
「あーっ! すっげー面白かった! なんか俺神社に目覚めたかもしんねえ!」
「本当に調子いいよねミノル……」
「だって俺神様にたくさん触ってもらった感じがしたんだぜ! なんかほとんど殴られたような感じな気もしたけど!」
「殴られたんだろ、実際……変なところでいきなりコケるような動きしてたしな」
「でも、それだけ俺神様に好かれてるってことじゃね!? よし、今度から毎日神社で遊ぼうぜ!」
「早苗の迷惑になるからやめような……」
長い石段をゆっくりと、思い思いのペースで降りながら、子供達はそんな会話をしながら笑っていた。
「でも、まあミノルの言う通り、面白かったなぁ、いろんな遊びできたし」
「本当にねぇ、たまになら神社もいいよね……あ、早苗ちゃんの部屋なら毎日でもいいけど」
「わたしも、かみさまいっぱい触ってもらったよ! 楽しかった!」
そんな、友達の姿を見ながら、
「……」
見送りの早苗は何も喋らずに、全員から少し離れた後ろをゆっくりと降りていた。
「……?」
そして、何か考え込みながら歩いているようなその姿に、一人だけそれに気づいたケンジは少し不思議に思い、
「どうかしたか?」
「あっ……」
少し降りるペースを遅らせて早苗の隣に並ぶと、そう尋ねかけた。
§
「あ、うん、あの、ね……」
いきなりそう聞かれて、早苗は少し口ごもりながら、
「……今日ね、私また、勢いだけでこんなことしちゃったけど」
顔を伏せ、
「今更、冷静になったというか、それ、でね……気づいた、というか」
言うべきかどうか、一瞬考える。
どうしても、まだ残る過去の傷と、拭えない不安を、見つめて、
「……」
それでも、信じたかった。いや、もう信じている、だから早苗は尋ね返す。
「あのね……私が神様の姿が見えるとか、その声が聞こえるとか言うの……どう、思った?」
少し驚いた顔をするケンジに、
「へ、変だなぁ、とか、思った……?」
下を向いて、絞り出すように早苗はその疑問を放った。
「……そうだな」
それを受けてケンジは、視線を早苗から目の前の空に移して、
「まあ、確かに少し変わってるなぁとは思ったけど……」
そう言われて、早苗の体がびくっと震える。
そして、ああ、やっぱり、と沈み込もうとするところへ、
「でもさ、別に悪くはないだろ、それってさ」
続けてケンジはそう言った。
「ていうか、元々それがなくてもお前、やっぱ少し変わってるし。そんで、そこがすごく面白いな、面白いヤツだなぁって、俺は思うけど」
驚いて顔を向ける早苗に、ケンジも目だけを向けて、
「神様のことにしたってさ、ミノルもなんか変なこと言ってっけど、俺もさ、何かいるような感じはしたし。それに、元々神様はいるって思ってたしな」
その言葉に、早苗は本当に心底驚きながら、
「どうして……」
色々な疑問を込めて、無意識に呟いていた。
「ああ、まあ、じいちゃんに子供の頃からずっと神様の話聞いてたし……何よりさ」
その呟きの直前の疑問の一つだけを拾って、ケンジは答えて、
「いてくれた方が、楽しいじゃん、今日みたいにさ」
驚いて目を丸くしたままの早苗を見て、笑った。
「だから、変わってるなとは思うけど、俺は早苗が羨ましいよ。だって、俺も見たいもんなぁ、神様」
「……っ」
その言葉を聞いて、早苗はまた急いで下に向き戻っていた。
「うぅ……」
もうこらえきれなくなった、その顔を見せたくなかったから。
鼻をすすって、
「あ、あいがと……」
早苗は思う。
自分と同じものは見えなくても、それでも、自分と同じものを、見たいと言ってくれる誰かがいる。
その言葉で、もう、まだあるのかもしれないと思っていた壁なんて、なくなっていた。
自分の言うことを、信じてくれる。信じてくれている。
それが、その想いが寄せてくれる、伝えてくれる、抱えきれないほどの温かさに、早苗の心からも、溢れ出して止まらない。
「ありがどう……!」
抑えようとしても、ぎゅっと閉じる目の間からこぼれ落ちて止まらなかった。
鼻水も、震える声も。
「ええ!? 俺、なんか泣かすようなこと言ったっけ!?」
そして、それを見て、ケンジがそう慌てだすのに、早苗も慌てて最後の気力を振り絞り、
「な、泣いでないよ! 大丈夫!」
顔をごしごしと両手で拭って、まだ濁音混じりの声でえへへと笑顔を向けてみせた。
「そ、そうか? 俺、なんか悪いこと言ったのなら……」
「ううん、なんでもないの。ただ、すごぐ嬉しがっただけ」
首を振る早苗に、嬉しくなるようなことも言ったっけかなぁ、とケンジは不思議そうな顔をしつつ、
「ああ、そうだ、あと、それからさ……」
それから、思い出したように、
「ちゃんと、楽しくしてくれてありがとな、今日」
そう言って、笑った。それに早苗は少し首を傾げつつ、
「へ? で、でも、それは神様が……」
「それもあるけど、やっぱ早苗がそれをちゃんと仕切ってくれたからさ、そのおかげだとも思うぜ」
不思議そうな早苗にそう答えて、
「そんで、なんつーか、それ見てさぁ……あの、神社のばあちゃんみてえっていうかさ……」
さらに考えながら言葉を続けようとする。
「……?」
「あー、とにかくさ、なんというか」
それを聞く早苗がまた首を傾げるのに、頭をがしがしとかいて、
「ちゃんとお前の家なんだな、ここって、そう思っただけだよ。本当に、神社に住んでんだなぁって」
そう、言った。それを聞いて、
「えっ……?」
「まあ、そんな感じだったんだよ、っと」
少し驚いたような声を出す早苗の横から、少しペースを早めてケンジは飛び出した。
いつの間にか、石段はもう終わりがすぐそこに見えていて、
「おーい、早く帰ろうぜーケンジー」
「ていうか、早苗ちゃん独り占めしてズルいー」
「わーってるよ、っつか、別に独り占めしてねえ!」
もう降りきった仲間達がそう言ってくるのに、ケンジは石段を降りながら答え、
「……そんじゃ、また明日な」
途中で止まって振り返ると片手を上げて、ぼーっとしている早苗へそう言った。
「おお、そうだ、早苗ー! じゃあなー! 明日こそお前、リベンジしてやるからなー!」
「早苗ー、おにぎりありがとなー! またなー!」
「早苗ちゃーん、また明日も遊ぼうねー! 二人きりでも私はオッケーだからー!」
「おねえちゃん、ばいばーい!」
そして、すでに降りきった全員もそう言って手を振ってくるのに、
「あ、うん! また明日ー!」
応えて早苗も大きく手を振りながらそう返し、
「じゃーねー!」
石段の途中で、全員の背中が遠ざかるのを見送った。
§
「……」
それから、神社の入り口に誰もいなくなってから、早苗は振り返って、見上げる。
「私の……」
夕陽に染まる、ここからは見えないそこを見つめようとしながら、
「もう、私の……家、なのかな……」
そう呟いて。
微笑むと、少女は、石段を昇り始める。
4
その日の夕食の席。
「でなぁ、そんで早苗が、いきなり石段を昇ってきたかと思うと、その後ろに友達連れて来ててなぁ、なあ、諏訪子!」
「あーあー、そうだったね」
日が半ば沈んだ頃に帰ってきた早恵を含めて、いつものように全員で食卓を囲みながら、神奈子は久しぶりに酒を飲んで酔っぱらっていた。
それに諏訪子も付き合いながら、しかしペースを崩されたように今回は素面同然のテンションでちびちびと飲んでいる。
「そんで、全員で遊ぼうと持ちかけてきたんだぞぉ、いやぁ、あれには本当に……」
「うん、わかった、わかったから神奈子。その話もう三回目くらいだから」
ばしばしと諏訪子の背中を叩きながら笑う神奈子を、諏訪子はいつものような言い合いは余計場を混乱させると思い、おとなしく叩かれながら宥めようとする。
「……」
それを見ながら、早苗は静かに、あまり見たことのない神奈子の珍しい姿に驚きながら、黙々と自分の食事を進め、
「ふふ、でも、私がいない間にそんなことがあったんですねぇ」
早恵は苦笑しながらも、諏訪子ばかりに相手をさせるわけにもいかないので、神奈子の話に相槌を打ったりしていた。
実際、一回目に聞かされた時は本当に驚いて、早苗ちゃんはすごいねぇなどと言いながら孫の頭を撫でたりしていたが、三回目ともなるとそろそろ食傷気味である。
「そうそう! そうなんだよ! そんなことがあって、早苗が全部やってくれたんだよなぁ! いやぁ、この子は本当にすごい子だよ! なぁ!」
「ああ、そうだね、早苗はすごいね」
ばんばん背中を叩きながら本当に嬉しそうにそう言う神奈子に、諏訪子はそろそろ額に血管を浮かせながらもまだ我慢して応えてやる。
「本当に、すごい子だよ、お前は」
「……えへへ」
それから、神奈子が早苗をまっすぐ見てそう言うのに、向けられた方は少し頬を染めて俯いた。
べろべろに酔って言われた言葉とはいえ、悪い気はしない、というより、正直何度言われても嬉しかった。
自分のしたことは間違いではなかったんだなぁ、と、言われる度に確認できるような気がして、早苗にとっても何だかはしゃぎたいような夜だった。
「……っ」
そして、そんな神奈子の声を聞いて、言われて照れる早苗を見て、何故だか早恵は少し表情を曇らせ、
「それじゃあ、神奈子様、そろそろお酒は……」
それでも無理に笑顔を作り、そろそろ神奈子と対照的に顔が真顔に近づいていく諏訪子のためにも、飲むのを止めさせようとする。
「……いやぁ、それにしても、今日は本当に楽しかったと同時に、懐かしかったよ」
その時、神奈子がぽつりと、呟くように、今までの話から外れて新しくそう、言葉を作った。
「神の言葉を伝えてもらって……そうして、子供達と、人間と、手を繋いで、一緒に遊んでさ」
その言葉に、ぴたりと祖母が声と動きを止め、諏訪子もそれを聞いて驚いたように固まり、早苗もそんな様子を感じ取って何となく動けなくなる中、
「まるで本当に、大昔の頃の神社に戻ったみたいでなぁ……信徒がいて、私らがいて、そして、その二つを繋ぐ、風祝がいて……」
静かな緊張で張り詰める場に、神奈子の声だけがはっきりと響く。
そして、
「早苗は、この子はきっと、いい風祝なれるぞ。この歳で、役目を――」
神奈子がぽつりと、早苗を見つめてその言葉をこぼした瞬間、
「神奈っ――」
その場の緊張を破ったのは、それを諫めようとした諏訪子の言葉ではなく、
「やめてください!!」
それをかき消すような大声で放たれた、早恵の叫びだった。
§
「早苗ちゃんの、この子の将来を決めつけるようなことを、軽々しく言わないでください!」
その声に、諏訪子も、早苗も、神奈子も、驚きに固まって止まる中、早恵は必死な瞳で、
「早苗は、この子は、自分のしたいことを、やりたいことを、自分で選んで決めるんです! 誰かにそうしろと言われたからでも、そうする力があるからでもなくて、そんなものに縛られるのではなくて……!」
必死な、声で、神奈子を見つめ、紡いでいく。
「この子には、この子にだけは、そんな自由を――」
そこまで言ってから、はっと早恵は気づいたように言葉を止めた。
「っ、あ……」
自分の言い放ったこと、言ってしまったことを、急速に思い返し、
「わ、たし……」
目の前の、驚きに固まった顔から、ゆっくりと申し訳なさそうな、そして、いつもの寂しそうな笑顔に戻っていこうとする神の顔を、
「早恵……」
「――っ」
その声を聞いた瞬間、弾かれたように早恵は立ち上がって、
「すいません……!」
「早恵!」
居間から縁側へ出て、廊下の奥へ走って消えて行った。
「早恵! 待っ――」
そしてその名を叫ぶように呼びながら、神奈子は立ち上がって追いかけようとして、よろけ、
「――くそっ!」
吐き捨てるように呟いて、己の両頬を思いっきり叩いて酒気を抜き、振り向いて諏訪子を見る。
「諏訪子、早苗を……」
「ああ、わかってるよ、任せとけ」
その返事を得ると、神奈子は一度諏訪子に頷き、そして早恵の後を追って廊下へと走り出ていった。
「……」
「あ……」
後に残されたのは、黙ったまま難しい顔をする諏訪子と、あれから驚きに固まったまま、少しも動くことの出来なかった早苗。
「あ、あれ……? お、おばあちゃん、神奈子様……なんで……え……?」
二人きりになってようやく、まだ上手く働かない早苗の頭が状況を理解しようとそう呟かせる。
「わたしの……ことで……え……?」
そして、またそれが一人で余計なことを考えようとした辺りで、
「早苗!」
「!? は、はい!」
諏訪子が声を張り上げて名前を呼び、それに早苗はびくっと震えて反射的にそちらを見る。
「飯、全部食い終わったか?」
「え、えと、あ、うん……」
続いてそう問われ、とりあえず自分のお膳を見下ろしてから、頷いて答える。
「よし」
それを聞いて、諏訪子は一度頷くと、
「それじゃあ、ちょっと腹ごなしに夜の散歩でも一緒に行くか、早苗」
「えっ!? あ、あの」
そう言いながら、立ち上がって歩き出すと早苗の横を通り過ぎ、縁側へと向かう。
そして、いきなりの提案に唖然としながらその姿を目で追うしか出来ない少女に、
「ほら、さっさと靴取ってきな。今度は置いてかねえからよ」
縁側から飛び降りると、振り向いて優しく笑いながら神はそう言った。
§
「早恵……」
明かりもついていない暗い寝室の障子を静かに開いて、神奈子はその部屋の真ん中にへたり込んで震えている姿に呼びかける。
「すみません……っ、すみません、神奈子様……っ」
それにその姿勢から動かずにすすり泣きながら応える早恵に、
「早恵、もういいから……」
「わ、わたし……っ、すみません……っ」
神奈子はゆっくりと近づくと、自分もその傍らに座り込み、
「怒ってるわけじゃないから、こっちに来なさい」
「……っ」
優しくその肩を引いてこちらを向かせて、そして胸の中に抱き寄せた。
「か、なこさま……っ、わたし、わたし……っ」
「うん」
そして自分の胸に顔を埋めて震える早恵の背を優しくさすって、
「わたし……っ、早苗ちゃんが、あの子が……来てくれてから……っ、どうしても……っ、考えてしまうんです……っ」
「……うん」
泣き続けながらも必死に言葉を紡ぐ早恵の話を聞いてやろうとする。
「息子のこと……っ、あの子のこと……っ、どうして、も、考えて、しまって……っ」
「……」
「も、し……もしか、したら……っ、わた、しが……あの子の、道を……あの、子の、生き方を……っ、こう、だって……っ、こう、しな、さいって……決めつけ、て、しまったんじゃ、ないか……って……」
「……うん」
「押しつけ、てしまって……っ、それ、が……それが、嫌になって……っ、あの子、わたしから……っ、わたし、たちから……っ」
嗚咽と共に、早恵は今までずっと秘めてきた胸の内を、吐き出す。
「そ、れで……っ、離れて、しまったんじゃ、ないかって……っ、わたし、ずっと……ずっと……っ」
「ああ、すまん、すまんな早恵……すまん……っ」
それを聞いて、神奈子も深い吐息と共に、早恵を強く抱き締める。
「わたしは……っ、いいん、です……っ、かなこさまたちに、おつかえできて……っ、わたしは、しあわせだったんです……っ、でも、あの子は……っ、早苗ちゃんは……っ」
「ああ、わかってるよ、早恵。わかってるから、大丈夫」
あの時のように震える早恵の体を、少しでも落ち着かせられるように、神奈子は抱いて言葉をかけ続ける。
「さな、えちゃん……っ、だけは……っ、あの子、だけは……っ、そんな、風に、わたしたち、から……っ、はなれて……ほしく、なくて……っ」
「わかってる、私もそうだよ早恵。何よりもそう思ってる」
そして、抱き続けていた早恵の体を少し離して、顔を見合わせる。
「早苗の、あの子の人生は、あの子のものだ。他の誰も決めつけることなんて出来ないし、決めつけさせやしない」
そう言ってやり、そして同時に思う。
「そうだな、そんなこと当たり前で、わかっていたはずなのになぁ……」
呟いて、
「……私もな、あの子が来てから、考えてたよ……ずっと、考えていた……」
少女の向こう側に、連なる記憶の中にある、その少年の姿を、成長してここにやって来た時の姿を、思い返していた。
「だから、わかる。わかって、いるから……あんなこと、酒で口を滑らせて言ってしまった私が悪かったんだ……ごめんよ、早恵」
苦笑しながらそう言って、神奈子は優しく早恵の頭を撫でた。
「……っ」
「大丈夫だよ、きっと大丈夫だ。今は……今度はちゃんと、私達が見守ろう、見守ってやろう」
また溢れ出す滴を、指で優しく拭ってやる。
「あの子の、選択を」
§
星と月だけが幽かに照らす夜の森を、二人は進んでいた。
少し前を行く諏訪子は振り返らずに無言で行き、その後を見失わないように、しかし今度は離されず、息も切らさずに早苗はついていく。
「……」
自分も無言で、そろそろ少しだけ涼しくなってきた夜風を切り、混乱するしかなかった頭を冷やして、少女は歩きながらさっきの光景を脳裏で反芻していた。
「……っ」
あれは、祖母が風の神様に叩きつけた言葉は、自分のことについてではなかったか。
あんなことになってしまったのは、もしかしたら、自分が原因なのだろうか。
自分が何をしてしまったんだろう。何を引き起こしてしまったんだろう。
あの直前に、神が自分に言った言葉は――
「全然な、気にする必要はないぞ」
「え……?」
その時、前を行くカエルの神から、ふっ、と、そう聞こえた。
「……まあ、ちと無茶な話かもしれんけどな。それでも、気にするな。……気にしないでやってくれ」
背を向けたまま、振り返らずに歩き続けながらも、神は言葉を続ける。
「神奈子の言葉はな、ありゃ酔っ払いの戯言だよ。だから、忘れちまえ」
神の言葉と、道を踏み分ける音だけが響く。
「早恵と神奈子もな、あんなことくらいは、別に珍しいことじゃねえんだ。私と神奈子だって、しょっちゅうするだろ? あれと、同じだよ」
だから気にするな、と、その背中で語る神に、
「……でも……」
少女は俯き、沈みそうな声を出す。
それでも、そう言われても、すぐに記憶が消せるわけじゃない。
祖母の初めて聞いた大声も、それなのに泣き出しそうな顔をしていたのを、それを聞いた時にまた風の神も見せた、同じように泣き出しそうな顔も。
全てが刻まれたように目の前に浮かぼうとしてきて、離れない。
「……そうか……まあ、そうだわな」
そして、少女の声に、背を向ける神は溜息と共にそう吐き出した。
「……それならば、別のことを考えるしかないな」
そう言って。
それと同時に、
「わ、ぁ……!?」
歩く先の闇がいきなり開けて、神と少女は夜空の明かり全てが降り注ぐ、開けた、舞台のような平地に歩き出ていた。
「なあ……ここへ連れて来たのはな、早苗……神奈子にお前を頼まれたからだけじゃあなくてな」
そして、その星空の当たる下で、カエルの神が立ち止まり、ゆっくりと振り返る。
「私が、お前と話したかったからだよ、早苗……さあ、神と人の言葉遊びだ」
同じく立ち止まって、息を呑む少女に、神が笑いかける。
「今度は、お前の心を聞かせておくれ」
§
「私の……心……?」
その姿に見とれたように呆然と、呟いて問い返す少女に、
「ああ、お前の」
神は大きく手をひろげ、ぱん、と、拍手を一度打つ。
「望む心だ」
その瞬間、これまでのようにまた、その場が張り詰め、祓われ、そして幾星霜をその背に抱いた神と、それに向き合う少女だけが其処に在った。
「お前は何故、今日みたいなことをしてくれたんだ? お前の進む道の果てに、何を望むんだ――なあ」
星のように輝く瞳が、ただ少女だけを見つめていた。
「東風谷、早苗」
§
「わ……た……」
そして、真っ直ぐと問われた少女は、
「私、は……」
呟いて、その目の前を、
「私の……望む、ことは……」
これまでに経てきた過去が、通り過ぎていく。
「私は……っ」
それが見えて、それを追って、少女は走り出す。
揺れる自分の心をはっきりと問われて、答えたいと、答えなければいけないと、何故だか強く思った。
だから、少女は途切れ途切れに、ゆっくりと、追いながら言葉を拾っていく。
§
「最初は……ひとりになりたく、なかったの……」
追っていく先に、あのエントランスで立ち尽くしていた、少女が見えた。
「誰からも、見放されたって思ってて……誰にも、手を引いてもらえなくて……」
背負われて泣き続ける、少女がいた。
「それが、いやで……それに向き合えなくて、そんなものを、抱えてなんていられなくて……」
燃えるような夕焼けと共に。
「だから、手を伸ばしたの……同じものを、抱えている誰かがいるって知って……だから、二人なら、そうならなくて済むんじゃないかって、そう思って……」
伸ばした手を、握り返してもらえた時、涙が止まった。
「助けて、もらったんだ……救い出してもらえたって、思ったの……私に、手を伸ばしてくれた人がいて、伸ばした手を、掴んでくれる誰かがいて……私は、孤独から……」
そして、また嬉しさで、溢れてきた。
けれど、
「でも、わかったの……それは、みんなが持っているものなんだって、誰もが、胸に抱いていて……」
寂しそうな笑顔が、重なる。
「それがわかった時、それをどうにかしたくなったの……私を助けてくれたみんなが……私もよく知っている、知ってしまったその痛みを抱えているなら、今度は私が助けたいって……」
それを見る度に、ずきずきと古傷に、胸が疼くのだ。
「そう思ったんだよ……! ひとりになりたくないなんて、そんな、勝手な考えも、あるかもしれないけれど……でも、私、寂しさと一緒に、わかったよ……!」
両手を見つめる。
「誰かと一緒にいられることの楽しさも、誰かと手を繋ぐことの嬉しさも、前よりもずっと……ずっと、幸せなことなんだって、わかったよ……!」
ぎゅっと握りしめた誰かの手の温かさが、まだそこにある。
「だから、私、助けたいよ……! ケロちゃんも、神奈子様も、おばあちゃんも、私と手を繋いでくれた人みんな……そうじゃなくても、そんな痛みを抱えている人がいるなら……助けたいって……」
絞り出すように叫んで、そして、思う。
「そうして、信じて、欲しいんだ……私のこと……」
それが寄せられた時の、泣き出したくなるほどの温かさを、知った。
「だか、ら、助けたいよ……助けたかったよ……!」
そして、不意に、その声に混ざる。
「わた、私に何が出来るかなんて、わからないけど……なにも、できないかもしれないけど……」
溢れ出てきたそれで、声がつっかえる。
「だけ、ど、いっしょに、いてあげる、だけでも……っ、そばに、いてあげる、だけでも、できたかも、しれないのに……っ」
そうしてもらえることのありがたさも、今ようやくわかったのに。
「しんじて、ほしかったよ……っ、わたし、わたしだって、わたしにだって……っ」
もう、その手は届かない。
「なにかできるって、信じてほしかったよ……っ、しんじて、話してほしかったんだよぅ……っ」
滴に曇る視界の最後に、遠ざかる背中が見えて、少女はもう、こらえきれずに泣き出した。
§
だから、
「っ、あ……から……だから……」
きっと、
「わた、しの……のぞむのは……」
誰かに、信じてもらって、その人を、
「助けたいんだよぉ……」
何よりも大事だった人達を、
「助けたかったんだよぉ……」
そうして、呟くように、そう、少女は自分の心の底を、吐き出し尽くしていた。
§
その全てを、
「……」
目の前の少女の心の全てを黙って聞き終えて、
「信仰は……儚き人のため――か……」
神は聞こえない程度の声でそう静かに呟いた。
そして、小さくしゃくりあげる少女に呼びかける。
「早苗……なあ、早苗よう」
少女の涙を止めようとするように、自分は笑顔を作って。
「話してくれて、ありがとな。お前が話してくれたから……だからまた、私からも話そう、早苗」
笑いかけて、言葉を紡いでいく。
§
「早苗……お前の望みはな、少しだけ、もう叶っているぞ」
そう語りかけ、
「お前はもう十分、立派に、助けてくれたんだよ……私を、私達を」
濡れた顔を上げる少女に、微笑む。
「お前がさ、自分は私達に助けてもらったんだって、そう思ってくれているなら、何よりもありがたいことだけどな……」
でも、と神は続けて、
「でもな、本当は、逆だ。お前に、私達が助けてもらった……救って、もらったんだよ」
そして、思い返す。
「私達はな……これまでの私達の時間は止まっていた。三人だけで、閉じて、留まって、どこにも進めずに取り残されて……そして、ゆっくりと朽ちていくだけだった」
人の訪れぬ神社に佇む神と、そこに仕える年老いた人間。そして、全てから目を逸らして逃げていた自分。
「そこに、お前がやって来てな……そして、止まっていた時間が、動き出したんだよ」
そこに小さな少女が加わって、そして、
「お前が来てくれて、手を伸ばして、繋いでくれて、そうして共に在ると、在ろうと、そうしてくれたおかげでな……朽ちて、忘れ去られていくだけだった私の心は、きっと何よりも救われた」
いつの間にか、手を引かれ、駆け出していた。
「昨日があって、そして、明日が、目の前に見えたんだ……そんな当たり前が、そこにあることに、心が躍った……お前と過ごす毎日が、楽しくてしょうがなかった」
ひとりじゃなかった。山を行くのも、川を泳ぐのも、その小さな手が、繋がっていて。
「そして、きっとそれは、神奈子や早恵にも同じだよ……早苗、だから、言わせてくれ」
少女を真っ直ぐ見つめて、そして、言わなければならない。
「……ありがとう」
言ってやらなければ、ならない。
「早苗、ここへ……私達の元へ、来てくれて……本当に、ありがとう」
§
その言葉を聞いて、
「……!」
涙を流すことも忘れたように、驚いて声も出せない少女に、
「そんでな、早苗……だからこそ……」
神は苦笑しながら、語り続ける。
「だからこそ、私達はお前を縛ってはいけなくて……お前も、私達に縛られてはいけないんだ」
そう言って、少しだけ目を伏せ、
「今ではさ、あいつのことも……少しは許せるよ」
その少女の向こう側に、姿を重ねる。
「早苗、お前は未来の、可能性の固まりだ」
そして、顔を上げ、少女を見据えて、
「お前はどこにだって行けるし、どんなことだって出来るようになるさ。もしかしたら私達に与えてくれたものを、もっと他の、多くの人々に与えられる存在になれるかもしれない」
そこに、無限の明日があった。
「だからこそ、私達はお前を留めてはおけない。あんな酔っ払いの戯言も、私達のことなんかも気にせずにな」
諏訪子は、告げる。
「お前はお前の行きたい場所へ、行きたい道を、真っ直ぐと突き進んでいけ。そうすることが出来るのだということを、覚えておいてくれ」
§
「……っ」
そう言われて、少女はぞくぞくと、得体の知れぬ高揚のような感覚に身震いした。
ゆっくりと顔を下ろし、自分の両手を見つめてみる。
「……」
本当なのだろうか。
本当にこの手は、自分は
「……それで、お前と私の、ケロちゃんと早苗の関係も、今日で終わりだよ、早苗」
その時、不意にそんな言葉が聞こえて、慌てて前を向いた。
そこには、神が、カエルの神様が、初めて友達になって欲しいと呼びかけたその少女が、寂しそうな笑顔で佇んでいる。
「お前は気にせず、人間の友達と、何の気兼ねもなく遊んできな」
「……っ、そん、な」
そう言われて、咄嗟に何かを言い返そうとするのを、
「――ただ、な。だから、一つだけ聞いてくれ」
泣きそうな声で、止められていた。
「……これを言うことでな、早恵や神奈子にどれだけ恨まれても、お前にこれからどれほどの負い目を感じることになってもな、それでも……言わせてくれ」
そして、神は自分を見ずに、夜空を見上げて、震える声で語り出す。
「もし……な、これからお前がどんな道を行くことになって、どんな生き方をしているとしても……それでも、もし、いよいよ、こっちが、ヤバいことになったら……」
見上げたまま、空に放つ。
「私のことはどうでもいい……ただ、神奈子だけは、あいつだけでも、助けてやってくれ……!」
それから、それを聞いてまた固まる少女に、向き直る。
「それが、神としての洩矢諏訪子ではなく……ただ、お前の友達のケロちゃんとしての、最後の願いだよ」
泣きそうな顔の少女の向こうで、星が一筋、流れて落ちた。
5
少女は水底に沈んでいた。
仰向けで、水に屈折してちらちらと揺れる陽光を底から見上げながら、思っていた。
考えていた。
漂いながら、考えていた。
§
あれから一晩明けても、まだまだ家の空気は何となくぎこちなかった。
祖母の目は泣き腫らしたように真っ赤だったし、風の神様は珍しく、普段は結構横柄な態度を潜めさせて気まずそうに振る舞っていた。
そして、カエルの神様は、
「……」
普段の軽口のようなことも何も言わず、ずっと押し黙ったまま黙々と朝食を食べていた。
そんな朝食の席で、
「早苗ちゃん、今日はどうするの?」
ふと、祖母がそう尋ねてきたのに、
「あ、わ、私は……」
ぼけーっとしながら食べていた早苗は慌てて意識をはっと戻す。
「今日も、みんなと遊んでくる……」
その言葉は祖母に向けられながらも、視線はちらりと諏訪子を向いていた。
「そう……おばあちゃん、今日は神社にずっといるから、お友達連れて来ても全然大丈……」
そんな早苗に微笑んでそう言おうとした途中で、早恵は突然俯いて言葉を切る。
「おばあちゃん……?」
「……っ、ううん、ごめんねぇ、何でもないよ……少し、ぼーっとしちゃっただけ」
しかし、首を傾げる早苗にすぐさま早恵は笑ってそう答えた。
「……」
「……」
そして、また何となく二人は無言になる。
神様達も何も喋らず、どんどんと沈んでいくような食卓の雰囲気。
「……あの、ね……早苗ちゃん、昨日の……」
そんな中で、早恵がまた唐突に口を開いて、あれから一度も、誰も口に上らせなかったそれに触れようとした。
「……っ」
それを敏感に感じ取って早苗はびくっと、一瞬震え、
「夜のこと、ね……」
「わ、私!」
思わず大声でそれを遮っていた。
「……!」
驚いているであろう、早恵の顔も、早苗は見ることが出来なかった。
昨夜の何を話題に出されても、今は何も答えられそうになかった。
考えも、答えも何も用意できてはいなかった。
たとえ、そんなものを早恵が別に望んでいなかったとしても、
「私……」
早苗の心だけは、何故かそれが必要な気がしたのだ。
一度表に出たならば、はっきりとした結論がなければ、もう、戻ることは、戻すことは出来ない。
早苗は今朝の雰囲気から、そう、本能的に感じ取っていた。
「も、もうみんなのとこ行ってくる! ごちそうさま!」
「あっ……」
だから、早苗は畳み掛けるようにそう叫ぶと、立ち上がって走り出す。
今は逃げ出すしかなかった。出来るだけ、先延ばしにするしかなかった。
§
そうして、逃げ出すように家を出てきて。
「はぁー……」
今また早苗は、水着姿で川辺に座っていた。
「どったの、早苗ちゃん?」
その隣から、同じく横に座っている智がそう尋ねかける。
「なんか、悩み事かね?」
でも悩む早苗ちゃんも素敵、などと、うっとりする智に、
「あ、うん……でも、大したことないから……気にしないで」
早苗は向けた顔を、また俯きに戻して、息を吐く。
こうして遊びにやってきたというのに、あまり人と話したい気分ではなかった。
だから、遠巻きにミノルがまたケンジや紀夫に投げ飛ばされているのや、陽子が川岸の生き物を捕まえようとしたりしているのをぼーっと眺めたりしていて、
「こら!」
「あたっ!?」
突如、俯いた脳天に軽い衝撃が走った。
その正体は、智が早苗に放ったチョップで、
「う、うぅ……なに……?」
「痛がる早苗ちゃんもかわいい……って、そうじゃなくて」
頭をさすりながらじとっとした眼差しを送る早苗に、智は首を振って、
「悩んでるなら、どうして話してくれないの!」
真っ直ぐ早苗を見て、そう言った。
「力になるじゃん、友達なんだし。目の前でそんな顔されて、話してくれないとか寂しいよ?」
「で、でも……」
戸惑いながら、早苗は口ごもろうとして、
「あっ……」
はたと、気づく。智が今語ったその言葉は、全く昨夜諏訪子に自分が話したのと同じもので。
そして、今、智からそれを隠そうとした自分の行為は、自分が何よりも誰かにそうして欲しくないと思ったものだった。
「はぁ……」
そのことに気づいて、早苗は、また溜息をつく。今度のそれは、悩む気持ちからではなく、自嘲のそれ。
人にそれを望むのに、自分はそうしようとしないなんて。
「ダメだよね……」
「ん?」
呟いて。信じてもらいたいなら、やっぱり同じくらい、誰かを信じないといけないのだ。
そう思い、
「あの、ね……」
早苗は智を、真っ直ぐ見つめ返す。
「全部、上手くは言えないかもしれないけど……迷惑かけちゃうかもしれないけど……それでも、聞いてくれる?」
まだ少しだけ、恐る恐る尋ねかけるのに、
「あっ……」
「……あ?」
少し俯き、謎の一語だけ発して震える智。それに早苗が首を傾げた、瞬間、
「当ったり前じゃ~ん! なんでも聞かせてよぉ~!」
「わぁぁ!?」
がばっと顔を上げて、飛びかかるように智が抱きついてきたのに、早苗は思わず本気の悲鳴をあげていた。
§
「いやぁ……」
それから、頭をさすりながら遠い目をする智。
「流石にあそこまで拒絶されるとちょっと傷つくわ……」
「ご、ごめん……つい……」
あの時思わずチョップをやや本気めに頭に叩きつけて、智の抱きつきを引き剥がした早苗であった。
「ま、いいけどね……これからもするし……それで」
聞き捨てならないことを言いながら話題転換する智をまたじとっとした目で早苗が見てくるのを受け流しながら、
「何悩んでたの? ん?」
「あ、えと、ね……」
笑顔を向ける智に、早苗は少し考えるように言葉を練る。
自分の状況を、なるべく簡潔に伝えられる言葉として、
「……ちょっと、将来どうしようかで、昨日から悩んでて……」
それを選択して、早苗は口に出した。
「それは……中々、深いことでいきなり悩むのね、早苗ちゃん……」
「う、うん、まあ、色々とあって……」
それを聞いて難しそうな顔をする智に、早苗はあははと力なく笑う。
「うーん、将来ねぇ……」
「……智ちゃんはさ、将来なりたいもの、とか、夢、とか、あるの?」
「私? うーん、なりたいものかぁ……」
腕を組んで目を閉じて唸る智に、早苗は若干不安そうな視線を向けてそう聞いた。
それに、智はまたしばらく唸って、
「……今はまだ、わかんないし、決められないなぁ……早苗ちゃんは?」
「……私も……」
「まぁ、そっか……それで悩んでるんだもんねぇ……」
それから、何となく二人同時に空を見上げて、溜息をついてみたりして。
「うーん、やっぱりさ……それは今すぐ決められるものじゃないよねぇ……私達まだ、全然子供で、人生長いし……」
「うん……」
「今なりたいものがあっても、もしかしたらこの先変わっちゃってるかもしれないし」
「うん……やっぱり、そうだよねぇ……」
何だかずいぶん老成したような考え方をする隣の友人の言葉に、早苗も頷いて考え込む。
やはりまだ、自分にはっきりした答えは決められないかもしれない。
でも、だからってそれを正直に言うだけでいいんだろうか。
将来何になりたいか、今の私ではまだ決められません。
その答えが、祖母達を納得させられないとは思わないけれど、それでも結局それは、今逃げ出してきたのと状況なんて、一歩も変わらないんじゃないだろうか。
そう思って、早苗は何度目かの溜息を吐き、
「あっ、でもさ……」
不意に、隣で智が何かに気づいたような声を出した。
「……?」
それに早苗が不思議そうに振り向く先、同じく智も早苗を見て、
「今、何になりたいかは決められなくてもさ、どうなりたいかって、それくらいならさ、今でも決められるんじゃないかな」
にっこりと笑って、そう言った。
§
「……それって、どう違うの……?」
「ああ、それはね……うーん、と……」
その言葉を聞いてもまだ首を傾げる早苗に、智も少し考える仕草をしながら、
「たとえばさ、将来どんな仕事をしているかとかはわからないけど……『お金持ちになりたい』とか、『かっこよくなってたい』とか、そういう、なにかな……」
何とか説明しようと苦心し、唸り声を出しつつ、
「理想というか、この先、未来でそうなっていたい自分というかさ……結構、曖昧なものなら、今でも決められるんじゃないかなって……そう思ったんだけどね」
とりあえずそこまで言い切って、はぁ、と、疲れたような息を吐き出した。
「なっていたい自分……」
そして、早苗はそれを聞いて、自分でも静かに呟きながら考えてみる。
今は、自分が将来どんなことをしているかなんて、わからないし、決められない。
でも、将来どんな風な自分でいるかは、いたいかは……
「それはたとえば……『誰かのために役に立つ人になりたい』とか、『誰かに信じてもらえる人になりたい』とか……そういうのでも、いいのかな」
「ああ、うんうん、そんな感じ……ずいぶん真面目な答えみたいだけど……早苗ちゃん、そうなりたいの?」
「ど、どうなのかなぁ……まだ悩んでるの……」
問うてくる智に、早苗も少し首を傾げて答える。
「ふふ……まあ、でも、たとえば『将来楽しく生きていたい』って今思って、これから先どんなことをするようになっていたとしても、その時楽しく生きているなら、それで自分の行きたい道を行けてるってことじゃん。それって、素敵なことだよね」
我ながらいいこと考えついたもんだわと、智は満足そうにうんうんと頷いた。
「ふふ……うん、そっか……そうだよね」
それを見て早苗も静かに笑いながら、何となく少しだけ靄が晴れたように思う。
進む道は、進みたい道はまだはっきりとは決められなくても、進む方向くらいなら、今、決められるかもしれない。
「ありがとう、何か、見えてきた気がする……智ちゃん、本当にありがとう」
「いえいえ、こっちこそ早苗ちゃんのお役に立てて光栄だわ。まあ、でも、そこまで言うならご褒美にハグくらい要きゅ」
「あ、そういえばさ」
怪しく瞳を光らせようとする智の言葉を制して、そろそろこの友人との付き合い方にも慣れてきた早苗は最後に問いかける。
「智ちゃんはさ、その、将来どうなっていたいかは、決めてあるの?」
「へ? 私? 私かぁ、そだなー……」
その質問に、智は腕を組んでしばらく考えてみてから、
「……かわいい女の子に囲まれていたいかな」
ぽつりと、はっきり、そう言い放った。
冗談という雰囲気ではなく、どこまでも真顔なのが少し怖い。
「そ、そうなんだ……」
「うん、そうなのよ……それじゃあ、早苗ちゃんは、どうなの?」
次に、冷や汗を流す早苗にそう問い返してくるのに、
「私……私は……」
早苗は真っ直ぐと前方の、川を見つめて、
「うん! 私は、今からそれも、全部ひっくるめて、もっと考えてくる!」
力強く頷くと早苗は、大きな声でそう答えてばっと立ち上がった。
少しだけぼんやりと見えた光明を、逃さないためにも自分に気合いを入れるように。
「さ、早苗ちゃん?」
「ちょっと、頭冷やして、考えてくるから!」
立場逆転して若干戸惑いながら見上げてくる智を、早苗は笑顔で見下ろして、もう一度頷き、
「いってきます!」
「って、冷やすって物理的にぃー!?」
猛然と川の中へ向かって走り出すのに、智は呆れたツッコミの叫び声を上げた。
§
そして、少女は川底をたゆたう。
沈み込んで、水を通して揺らめく景色を眺めながら、静かに、潜るように考え込んでいた。
不思議と、息は苦しくなかった。泡を一つだけ吐き出す。
こうしていると、何だか気持ちが落ち着いて、そしてじっくりと色々なことが考えられそうな気がした。
だから、そうしながら、考える。
なりたい自分を、そうなっていたい自分を。
少なくとも祖母と神様達にこうしたいと胸を張って言ってあげられるような、自分の、進むべき方向を。
§
どんな自分に、私はなっていたいんだろう。
少女は目を閉じて。
誰かを助けられる人、誰かに信じてもらえる人。
あの時、カエルの神様に叫んだ望みは、嘘じゃない。
けれど、そういうことが出来る道は、考えてみればいくらでも広がっている気がした。
閉じた視界の裏側に、無限にいくつも伸びていく光の線のようなものを見て、少女は戸惑いと同時に少しの高揚を得る。
誰かを助ける人、それはたとえば警察官とか、消防隊員さんとか。
……うーん、少し男臭いかなぁ
そうでなくとも、たとえばお医者さんとかもいいかもしれない。
うん。眼鏡をかけて白衣を着た、少し大人になった自分を想像してみる。
くすり、と笑って。
……そうだなぁ
ぷかりと泡を吐き出す。もっと多くの人を助けたいなら、信じてもらいたいなら、この国で一番偉い人になってみるのもいいかもしれない。
たとえば、びしっとしたスーツを着て、テレビで何度か見たことがある議場に立っている自分。
途方もない夢かもしれないけれど、その道を進むことは十分出来るように思えた。
もしくは、もっと未来なら、もう地球を守るロボットというのも出来ているかもしれない。
それに乗り込んで、地球のみんなを助けるというのも魅力的だ。
体操着のような服に身を包み、鉢巻きをして腕を組んで仁王立ちしている自分。
お姉さま、あれを使うわ。ええ、よくってよ。何故か叫ぶ自分に応えるのが智の姿なのは深く考えないことにする。
真っ黒なロボットで宇宙怪獣に跳び蹴りを喰らわすのだ。
そんな未来を夢見ることだって、出来ないなんてことはないのだ。
他にも色々、小さい頃に夢見ていた、純白ドレスのお嫁さんにだって、あるいはドラマで見たような、小さなアパートで友達と一緒にお酒ばかり飲んでいる大学生にだって、どんな自分にだって、なれそうな気がする。
今はまだ決められないほど多くの、いろんな道が、自分の目の前にあった。
たとえ進む方向を決めたとしても、それは心が躍るほど、そこへ向かえるたくさんの道があって。
やっぱり、それはまだ、決められないかもしれないけれど、
……ああ……
でも、それでも、その無限の自分の未来のどれにも、ただ一つだけ違和感があることに、少女は気づく。
そうだ、なっていたい自分には、もう一つだけ、条件があるのだ。
たとえ、どんな道を進むとしても、そこに一緒に、いて欲しい。
医者として働く自分でも、偉くなる自分でも、ロボットに乗っている自分でも、お嫁さんになる自分でも。
その全ての光景で、もう、一緒にいてもらえないと、ダメなのだと、気づいた。
そこに、カエルの神様がいて、風の神様がいて、いつまで一緒にいられるかはわからないけれど、祖母もいて。
そうして、
……私の
自分の家だと言われた、言葉を思い返す。
そうだ、どんな道にだって、自分の家族が一緒にいてくれないと、ダメなのだ。
たとえどんな未来でも、その家族から離れてしまうなんて、考えられなかった。
……お父さんみたいに
そんな風に離れてしまうことは、絶対にしたくなかった。
未来はどうなるかはわからないけれど、それは、それだけは、変わらない、進むべき方向だと、信じていたい。
だから、今選ぶのは、
……一緒に、いたい
どんな道を進むにしても、きっとその先にはずっと、私の神様達がいる。
そんな未来へ、進みたい。
§
そして、そろそろ早苗が水の中に潜り込んでから三分ほど。
「おーい、早苗ー……」
「早苗ちゃーん、大丈夫ー……?」
流石にこれはもしかしてあの早苗でもヤバいのではと思い始めた全員が、潜っている場所へ急いでやって来て、様子を見ようとした。
その瞬間、
「っは、わかったぁぁ――!!」
「うわぁぁ!?」
ざばぁっと勢いよく、叫びながら早苗が水から飛び出してきて、全員悲鳴を上げながら仰け反る。
「わかったー! これ以上ないというほどに、わかったんだよ、智ちゃん!」
「え、えぇっ!?」
そして早苗はそのままくるっと振り向き、智の姿を見つけると駆け寄って手を握り、ぶんぶんと異常なハイテンションで喜びながら縦に振る。
「わーい、わーい……って、あれ……? みんな集まってきて、どーしたの?」
しばらくそんな風に一人ではしゃいだ後、ふっ、と、早苗は全員少し引き気味に固まっているのに気づいて首を傾げた。
「やっぱ……お前って変わってるなぁ……」
「……?」
そしてケンジがしみじみとそうこぼしたのに、早苗はまた今度は反対側に首を傾げた。
6
少女は走る。
夕暮れの道を、息を弾ませて。
どうしようもない嬉しさに時折笑顔をこぼしながら、少女は家路を駆けて行く。
§
そして、少女が最後の石段の前まで着いた時、
「あっ……」
「おう……」
ばったりと、本当に偶然、反対側からぶらぶらと歩いてきたカエルの神様と、出くわした。
少しだけ荒い呼吸をつく少女と、夕焼け空の作る陰を抱く神が、石段を横に置いて向かい合う。
「……」
神は今朝から変わらず、いつものような笑顔も作らず無言で、少女を見ていた。
そうされることで、少女はまた同じように気まずさを、
「あのね!」
「わっ!?」
感じるはずはなかった。
たっと走って近寄ると、その手を握って、驚く神に笑顔を向ける。
「私ね、わかったんだ! そして、決めたの! だから、それ話したいの!」
「はっ!? えあ、なに!? なんだって!?」
一気にまくし立てるようにそう喋る少女に、神はすっかり先程までの無表情なんてもう崩してしまって、目を白黒させる。
「もう! だから、早く行こうよ!」
「わぁっ!? おい、ちょ」
そんな神の手を、じっとしていられなくなったように引いて、少女は駆け出す。
石段を、ただ前だけを見て駆け上っていく。
「話したいことがあるんじゃないのかよ!?」
「うん! だから、みんなに話したいんだ! みんなに聞いて欲しいの!」
そうされて、慌ててこけないように自分も同じペースで駆け上がる神の声に、少女は大声で、笑いながら、言う。
「私の、選んだ道!」
§
「はぁ……」
夕の空を見上げて、神奈子は溜息をつく。
「そろそろ、早苗が帰ってくる頃だなぁ……」
「ええ、そうですね……」
そうぽつりと呟く神に、その傍らで、境内の掃き掃除をしていた早恵が手を止めて応えた。
「……今朝はなんだか、気まずい感じのままで遊びに行かれてしまったし……」
その声に見上げていた顔を下ろして、神奈子はもう一度溜息。
「仲直りせにゃ、いかんよなぁ……」
「……そう、ですよね」
その言葉に早恵が少し俯いて表情を曇らせるのに、神奈子は三度目の溜息をつき、
「……大丈夫だよ、あの子は……きっとまた、昨日までのように戻れるさ。お互い頑張って、仲直りしようじゃないか」
「はい……」
そう言われて少し無理をしているような笑顔を作る早恵の頭を、神奈子も笑顔を作って撫でようとする。
その時、
「……っ」
不意に早恵が胸を押さえてまた俯いたのを見て、その手を止めた。
「どうかしたか、早恵?」
「……いえ、ちょっと、胸が苦しくて……早苗ちゃんが、帰ってくるから、緊張、してるのかも……」
神奈子が少し胸騒ぎを感じながら問いかけるのに、早恵は胸を押さえたまま、無理に笑顔を維持して、途切れ途切れにそう答える。
「そんな緊張があるか! 早恵、もし何か変なら、一旦――」
「いえ、本当に、大丈夫です……私、早苗、ちゃんに……」
神奈子が焦りを含んだ声を上げるのに、段々と喋る声を小さくしていきながら、早恵は、
「言わ、なきゃ、いけないこと、が……」
もう一度だけ、無理をして顔を上げると、正面の鳥居の方を向く。
それと同時に、そこから、後ろに諏訪子の手を引いたまま石段を駆け上がってきた、嬉しそうな早苗の姿が現れて、それが見えて、
「……っ!?」
それと同時に、これまで感じたことのない痛みのような感覚が胸に走り、立っていられなくなった早恵は、ゆっくりと地面に倒れ込む。
§
地面に倒れていく視界の中で、少しだけ、黒髪の少女がこちらへ駆け寄ろうとしてくるのが見えた。
それを見て、老女は必死に、薄れゆく意識の中で考える。
その子に、言ってあげなければいけないことがあった。
ずっと胸に抱えていた、伝えなければいけないことがあった。
思う。
……本当は
本当は、あの少女が、あの子が来てくれて、誰よりも嬉しかったのは、きっと、
……私、なんだよ……本当は、おばあちゃんが、私が、一番嬉しかったの……
もう満足にそうしてあげることの出来ない自分の代わりに、
……神様の……神奈子様や諏訪子様のことを、慰めてくれているのを見て、本当は誰よりも……
嬉しかった。泣き出したくなるほど、嬉しかった。
……嬉しかったの……こんな私の、枯れてしまった心も、慰めてくれて……
けれど、そのことを、言えなかった。どうしても、言ってやれなかった。言ってしまったら、そうしたら、
……早苗ちゃんを、ここに縛ってしまうことになるから……
その思いを無理に押し込めて、あの子を不安にさせるような振る舞いをしてしまって。
本当は誰よりも、誰よりもそれを望んでいたのに。
……そんな自分を、認めたくなかったの……ごめんね……
必死に口を動かそうとするも、どうしても動かない。
目の前も、もう真っ暗で、
……ごめんね、早苗ちゃん……
これだけは、言いたかったのに。
……ごめんね、そして……ありがとう、早苗ちゃん……
§
「おばあちゃん!?」
早苗がそれを遠くから見つけて、叫ぶと同時に、
「早恵っ!?」
そのすぐ傍にいた神奈子が手を伸ばして、倒れていく早恵の体を掴もうとして、
「――っ!?」
掴めなかった。一瞬、驚愕に固まり、
「くっ!」
しかし、また一瞬で気を持ち直すと、咄嗟に風を操って、地面に倒れる直前の早恵の体を吹き上げさせ、その衝撃を出来るだけ和らげて寝かせた。
「おばあちゃーん!!」
「早恵ーっ!!」
それと同じくして、早苗と諏訪子が、全速力で走り寄ってくると、地面にうつ伏せに倒れ伏す早恵の横にしゃがみ込む。
「――っ、ん! お、おばあちゃん、しっかりして! どうしたの、おばあちゃん!?」
「……っ、……ぁ……はっ……」
それから、早苗がその体を何とか動かして仰向けにすると、苦悶の表情で弱々しく、かろうじて呼吸をしている早恵に必死に呼びかける。
「早恵っ! 早恵、しっかりしろ! くそ!」
「そ、そうだ、病院、連絡しないと! 救急車、呼ばないと!」
「間に合うかどうかわかんねえよ、そんなの! 私らに任せろ、こんなんすぐ病院まで運んで――」
慌ててそう言う早苗に、同じように早恵の横に座り込んだ諏訪子が、必要ないとばかりにその体を抱き上げようとして、
「――っ!?」
その手が、早恵の体をすり抜けた。
「はっ……あ……!? な、なんだよ、これ……! おい、ちくしょう……!」
信じられないといったような、掠れた声と息を吐き出しながら、諏訪子はなおも、何度も手を差し出して早恵の体を抱き上げようとする。
しかし、どれも、その体には触れなかった。どれも、まるで諏訪子がそこに存在しないかのようにすり抜けていき、
「どう、なってんだよ……! なんだよ、どうしてだよ……おい、早恵、しっかりしろ! しっかり、しろよ、私もぉ! なんだよ、ちくしょう、なんでだよぉ!!」
どうやっても触れられない、その体を持ち上げることが出来なくて、諏訪子は憤りと絶望と共に、叫びながら地を殴りつける。
「ああ、何でわからなかったんだ……なんで、気づけなかったんだ……」
「神奈子ぉ! どう、なってんだよ、これ……早恵に、触れねえんだよ……なあ、どうしてだよぅ……!」
そして、呆然と立ち尽くしたままぶつぶつと何事かを呟いている神奈子の方を向き、諏訪子が叫んで問う。
「……早苗だよ……なんで、わからなかったんだ……私らの力、いつの間にか、早恵じゃなくて早苗の方に流れていってたんだよ」
「は、あっ……!?」
「早恵の力がもう随分弱まってたせいもあるけど、そうだ、こんな強い力を持ったのがずっと傍にいたんだ……私らも、早恵も、いつの間にか力がそっちに偏り出して、引きずられていたんだ」
驚きに声を詰まらせる諏訪子に、神奈子は淡々と説明していく。
「いくつか兆候はあったはずだってのに、気づけなかった……早恵への加護も弱まってしまったから、いきなりこうなって……さらにそのせいで、お互いに干渉できなくなるほど早恵の力が弱まってしまったんだよ……」
神奈子は説明を終えると、溜息をついた。
「だからもう、私らではどうにも出来ん……早く、病院に連絡するしかない」
「……っ!?」
そしてはっきりとそう言い放った神奈子に、諏訪子は、
「ふざけんなよ!! なんで、そんな、冷静なんだよ!? 早恵が、早恵が……っ!!」
反射的に怒鳴っていた。それに、神奈子は一瞬かっとした表情になり、
「あんたが落ち着いてないからでしょうが!! 叫んで、怒鳴って、それでどうにかなるの!? ならないわよ!! 私達には、もう……」
そして、怒鳴り返す途中で、その表情は泣き出しそうな顔に歪む。
「どうにも、出来ないのよ……!」
「……っ!」
その絞り出すような声に、諏訪子もようやくはっきりと状況を理解して、力なく尻をつけてへたり込んだ。
「早恵……」
そして、呟くようにその名を呼びながら、苦しそうに喘ぐ姿を見つめ、
「早苗……」
その横で、早恵の手を握ったまま、動きも声も止めて、呆然としている早苗に気づいた。
§
「私の……」
少女は先程の神様達の会話を聞きながら、知ってしまった事実を、
「私の……せいなの……?」
掠れた声で呟く。
「私が、おばあちゃんの力……取っちゃったから……?」
その力があれば、こうならなかったと、その事実を認識して、
「おばあちゃん……」
祖母を見下ろす。もう、何を、どう、すればいいのか、わからない。
「ごめんなさい……」
頭が真っ白になって、こういう時のために、色々頑張っていたはずなのに。
「ごめんなさい……!」
呟きと共に、涙を一筋落として、少女はまた力なくうずくまろうとする。
やっぱり、自分には、何も出来ない。
何かしたいだなんて、何か出来ると信じて欲しいだなんて、大それた口を叩いておいて、結局はこれだ。
私のしたことなんて、おばあちゃんの、神様達の力を取ってしまったせいで、こんなことを引き起こしてしまっただけで。
そんなことがなければ、神様達の力で、すぐに病院に運べたかもしれないのに。
あの日自分を背負って山を飛ぶように下ってくれた、あんな力があれば、おばあちゃんも……
私に、そんな力が……
「……っ!?」
そこで、そうしてまた全てを諦めようとした途中で、少女は唐突に気づいた。
自分の考えの中に、何か重大な見落としが、矛盾があって、その引っかかりが、ぎりぎりのところで少女の体を止める。
それは、昨日の、神様の存在を伝える力が自分にあるのだと気づいた時と、同じ感覚で。
それ以前の記憶がまた、脳裏に呼び起こされる。
……神様の力を、代わりに使う……
その祖母の言葉と、ナプキンを吹き上げた映像が。
「……たし……」
……私は……
「わた、し……」
……私に、出来るの……?
「ちか、らが……」
……その力があるの……?
己の内への問いかけは、また記憶が、
……早苗の力が、強すぎるから
そうだ、私がその力を取ってしまって。
それが今、私の内にある。
記憶が、繋げていく。
……おばあちゃんが倒れた時、どうすればいいか、わかるかい?
その問いかけに、自分は。
「私が、連れて行く……」
はっきりと、口に出して答える。
「私が、病院に、連れて行く……」
あの時、言ったんだ。
「私が、おばあちゃんを、助ける……!!」
それをもう一度呟いた瞬間、また蹲ろうとした体に、力が戻った。
そして、これまでの記憶が、何かを失ったそれも、また新しく得たそれも、全てが繋がって、
「……っ!」
早苗の前に、あの日少しだけ見えた道を、もう一度作っていく。
§
「あの!!」
「――っ!?」
数秒、祖母の手を握って呆然と動けない早苗を見つめていた諏訪子は、いきなりまたそれが動いて大声を出したことに心底驚いた。
「な、なんだ!?」
「そ、そうだ、早苗、電話は、お前しかかけられないんだ、早く――」
「そ、そうじゃなくて!」
その声で、ほんの一時絶望的な現実に止まっていた場が動き出そうとするのを、少女はまた叫んで制して、
「わ、私がおばあちゃん、病院に連れて行きます!」
目を丸くしている神達に、言う。
「私が、おばあちゃんみたいに、神様達の力を使って、病院に連れて行くから」
祖母の手を、最後に安心させられるように強く握ってから放すと、立ち上がって、頭を下げる。
「だから、力を貸して下さい! お願いします!!」
§
「……っ!?」
それを聞いて、神奈子も諏訪子も一瞬、驚きと、どうにかなるかもしれないという喜びの表情を、
「……駄目だ」
しかし、また一瞬で何かに耐えるような憤りのそれに戻して、そう言い放った。
「ど、どうして!」
「それをしてしまったら、もう、取り返しがつかないからだよ……早苗」
焦って問い返す少女に、諏訪子は顔を伏せたまま何も答えず、代わりに真剣な表情で神奈子が答えていく。
「その契約を、神の力をお前に授ける契約をしてしまったら、お前はもう、普通の人間としては生きられなくなってしまうんだ」
戸惑う少女を、真っ直ぐに見つめ、
「今でも少しだけ傾き始めてはいるが、それでもまだ元に戻ることは出来る。しかし、一度でも人でありながら神の力を振るってしまえば、お前の境界はもう完全に振り切れてしまう」
その事実を、はっきりと告げる。
「風祝……人と神の間に立つ、境界線上の幻想――現人神に、お前はなってしまうんだよ、早苗」
§
「そうなってしまえば、それは確実にお前の人生をねじ曲げることになる。そんなことを、私達は、何よりも早恵は望んでいない……」
目の前の風神は、何かに耐えるように、目を伏せ、
「そんなことにならないように、そんなことをさせないように、私達は誓ったんだ……たとえ、どんなことになろうと」
少しだけ身を震わせながら、絞り出すように、
「お前の人生を、道を、今こうしろと決めさせる権利なんてものは……私達にも……今そこで、倒れている、早恵にだって……ありはしないんだ……!!」
その言葉を、言い切った。
神は少女を、突き放すように見つめて、
「わかるな、早苗……だから――」
「わ……わかります!」
全てを諦めようとする神の言葉を、少女の大声が遮っていた。
「……!?」
「全部、おばあちゃんのしてくれようとしていたことも、神様達の言うこともわかります! 全部、わかってて」
少女は拙い言葉と共に、まだ、食い下がろうとするように見つめ返す。
「それでも、私、決めたことがあるんです! 決めていたことがあって、聞いて欲しいことがあって、私――」
そうして、あの日から、ここにやって来た日から今日これまでに、積み重ねてきて、そして気づいた、自分の答えを紡いでいく。
§
「私、考えたの……思ったの……わ、私には、いろんな夢や、進める道があって……でも」
必死に、神様達を見て、
「それでも、その中で一番……一番、なりたい自分は……今よりずっと未来でも、ここで、この神社で、みんなと一緒に、暮らしている自分だったの」
自分の見えたその未来を、
「みんな……神奈子様も、けろ……す、諏訪子様も、おばあちゃんも……みんな、みんな、家族一緒で……それで、ここで楽しく暮らしている、そんな私になりたいなぁって、思ったの!」
自分の進みたいその道を、伝えられるように。
「私、ここで暮らしたい! ここで、この神社で、生きていきたい! 離れるなんて嫌だよ! もう家族が、繋いだ手が離れるなんて、絶対に嫌なんだよ!」
声を大きくして、溢れ出る想いを、
「神奈子様の手も、諏訪子様の手も、おばあちゃんの手も、誰の手も、もう、私は、繋いだなら、そうしたら、離さないから! ここで、この神社で、みんなで、楽しく、生きていきたいんだ!」
形にして、少女は――早苗は、真っ直ぐにぶつけていく。
「だから、そのために出来ることがあるなら、そのためにしなきゃいけないことがあるなら、何でもするよ! そのために進むべき道があるなら」
もう、目の前にはっきりと、それは見えている。
「私はその道を、進んで行きます!」
§
「だから、お願いします、私に力を貸してください! 神奈子様! 諏訪子様!」
真っ直ぐと、そう宣言されて、
「……っ」
神奈子も諏訪子も、その勢いに気圧され、思わず息を呑んで黙り込んでいた。
それでも、まだ、
「……でも、早苗……本当に……」
覚悟はあるのか。神奈子はそう問い返そうとして、
「――」
しかし、神である自分達を怯ませるほどの少女の気迫を思い返して、それを飲み込んだ。
そして、傍らの、早恵の横にへたり込んでいる諏訪子へ視線を移す。
「……」
向こうもこちらを見ており、そして二柱は顔を見合わせて頷くと、
「……わかった」
神奈子は真っ直ぐと少女を見つめ返しながら、諏訪子も立ち上がり、同じくそちらへ向き直りながら、言う。
「そこまで、心を己で決めたならば、最早何も言うまい」
神奈子が、場を祓い、
「早苗……東風谷早苗、人の少女よ」
諏訪子が、そこに緊張を張り詰めさせる。
「我らはお前の答えを、お前の決めた道を……そして、何よりもお前のことを信じて――」
その雰囲気と、言葉に、早苗はぴんと背筋を伸ばし、しかし今はもう何にも圧されずしっかりと、その二柱を見る。
「我らの力、お前に授けよう!」
そして、
「……だが、最後にもう一度だけ問おう」
二柱はまだ少しだけ不安を乗せて、少女に問いかける。
「現人神は、神でもなく、しかし人でもない。そのどちらとも異なる理、その力は、もしかしたら、どちらにも振れないお前を孤独にするかもしれん。その覚悟が――」
「……大丈夫です!」
だが、その言葉に少女は力強く笑い、
「私にはもう繋いだ手があることも、どうやったら手を繋げるのかも、ちゃんと、わかってます! だから!」
真っ直ぐと、そう答えた。
「……へっ……」
そんな少女に、諏訪子は嬉しそうな笑い声を少しだけこぼし、
「言うようになったじゃねえか、この前まで私の背中でぴーぴー泣いてたようなガキがなぁ……」
そう言うと、神奈子の方を見て、同じようにまた二柱で口の端だけに笑みを作って頷きあう。
「だがな、早苗、もう一つだけ覚えておけよ」
そして、また諏訪子は少女へ顔を向け、
「お前にとってそうであるように、私らにとってもこの繋がりは、二度と手は届かないと諦めていて、それでももう一度だけ、ようやく得られた繋がりだ。だから、一度繋いだならもう、お前が嫌だと喚いても、絶対に離したりしないからな!」
「はい!!」
力強いその言葉には、ただ力強い頷きだけを返した。
§
「っしゃあ、それじゃあ今から私達とお前の間に、契約を交わすからな」
「本当は色々と、正式な儀式があるんだけどねぇ……緊急事態につき、超略式でいくわよ」
「は、はい!」
いよいよもって場の緊張が増すのに、早苗は汗を一筋垂らして返事をする。
「……いくぞ!」
そして、諏訪子のそのかけ声と共に、二柱は機を合わせて、同時に澄んだ音を響かせる拍手を一度打ち、そして、早苗へ左右別々の手を、真っ直ぐ打ったそのまま指を揃えて伸ばす。
「早苗は拍手を二回打って、私達の手にそれぞれ自分のを重ねてちょうだい」
「わ、わかりました!」
神奈子にそう言われるままに、早苗はぱんぱんと拍手を二度打って、二柱それぞれの伸ばした手に、自分のそれを伸ばして掌を重ねた。
「よし、超簡単に説明するが、今から私らはこうしてお前に力を流し込む! その間お前は目をつぶって、自分が一番力を発現しやすいような、何かの形を頭の中で必死に思い描け!」
「つ、つまり、シンクロ率をあげる感じのものですか!?」
「な、なんでもいいからなるべく普通なのにしてくれ! とにかく、いくぞ!」
切羽詰まったようにわけのわからないことを言い出す早苗に、緊張とは違う汗を流しながら諏訪子は合図を出す。
「――っ」
「わ、あ……!」
そして、同時に重ねた手から、暖かいような、熱いような何かが流れ込んでくるのを感じて早苗は驚きつつも、言われた通りに目をつぶって必死に頭の中で念じる。
……力を、神様と、力を合わせられる、つまりシンクロ出来るもの……!
数瞬の間が過ぎ、
「ふぁ……!」
不意に重ねた手の感触が消えて、早苗は慌てて目を開く。
そして思わず握った手の中に、何かを掴んでいる感触がして、それを目の前に持ってきて広げる。
「よしっ! 上手くいったな!」
「髪飾りとはね……意外と普通で、本当によかった……」
「うわぁ……」
広げた手の上には、小さく真っ白な蛇の形をしたものと、潰れたカエルの顔のような形をしたもの、二つの髪飾りがあった。
そして、その二つの髪飾りから直接、蛇の方からは神奈子、カエルの方からは諏訪子の声が聞こえてきていた。
「……」
「あん? どした?」
しかし、早苗はしばらくその髪飾りをじっと見つめて動きを止める。どうも、この髪飾り、蛇の方はともかく、カエルの方は……
「あんまりかわいくない……」
「お前のセンスだろうがー!」
手の上のカエルの髪飾りが、怒ったような顔になってびょんびょんと飛び跳ねた。
何だか益々得体が知れなくて、早苗は難しい顔でそれを見つめてしまうのだが。
「ええい、どうでもいいからもう早くつけろ! 時間ないんだぞ!」
「……っ、そうだった! こ、こう、で、いいのかな!?」
カエルの方がそう怒鳴るのに、早苗は慌てて動き出す。
蛇の乗っている方の手を髪に近づけると、それはひとりでに動いてしゅるしゅると頬の横辺りに巻き付き、カエルの方はその少し上の方にぺたんと貼り付けると、それで留まった。
「よし早苗! お前は修行も何もしてないから、正直力の使い方なんて何もわからんだろう! だからこうして私達がああしろこうしろと指示してやるから、お前はちゃんとその通りに動くんだ、いいな!?」
「は、はい! 独立型戦闘支援ユニット的な感じだね!」
「……なんだその名前」
「あ、き、気にしないで!」
「っ、まあいい! とりあえず、まずは家へ行って必要なものを取ってくるんだ!」
「はい!」
頭の上の方のカエルの髪飾りがそう言ってくるのに、早苗は返事を返して、
「おばあちゃん……!」
仰向けに寝転び、苦しそうに喘ぐ早恵へ視線を移し、拳を握り締める。
「今、助けるからね!」
そう呼びかけると、家の方へ向かって走り出す。
§
「必要なものは全部持ったな!」
「はい!」
それからまた、なるべく急いで境内へ戻ってきて早恵の横にしゃがみ込むと、早苗は諏訪子の声に返事を返す。
「よし、じゃあまずは早恵の体を背負うんだ!」
「はい! って、ええ!?」
その指示に、早苗が戸惑いの声を出すのに、
「大丈夫、今お前の体にはその昔、大地を一つ作ったほどの怪力が備わってるんだ! 私らと自分を信じて持ち上げてみなさい!」
「は、はい!」
蛇の方からそう神奈子の声が響いて、早苗はまだ少し不安を抱きながらも、早恵の体の下に手を差し入れ、
「ふん! っと、わあ!?」
力を入れて踏ん張ると、人一人どころかまるで枕程度の手応えで、軽くその体が持ち上がった。
「……っ、……ぅ」
「お、おばあちゃん! もう少しだけ我慢してね!」
そして、楽な姿勢から動かしたことで少し苦しそうな息を吐き出す早恵に、必死で呼びかけて早苗はその体を何とか背負う体勢まで持っていく。
そうして、しゃがむ早苗の背に、早恵がおおい被さるような、そんな姿勢になったところで、
「よし! それじゃあ、次は襷で、早恵とお前の体を、離れたりしないようにしっかり結ぶんだ! ちょっと荒っぽい運び方になるかもしれんからな!」
「はい!」
諏訪子の指示通りに、早苗は側に置いていた襷を取り、念入りにぐるぐると、早恵と自分の体を巻き付けて結んだ。
「出来たら、早恵を背負って、立ち上がるんだ!」
「はい!!」
その指示に、早苗は早恵の足を自分のわき腹の辺りで抱えて、そしてすっくと、
「……っ!」
立ち上がった。相変わらずその重さを全て抱えても揺らがないくらい、全身に力が溢れていて、そして前を向く。
「――――」
その先には鳥居が、神社の入り口が、そしてその向こうには夕暮れの色があって、早苗はもう何となく、指示をされずとも、次にすべきことがはっきりとわかるような気がした。
だから、その予感と共に、早苗は靴を脱ぎ、更には器用に、立ったまま足だけで靴下も脱ぎ捨てる。
何故だか、そうした方がきっと、これからすることを上手くこなせるような気がしたから。
「よし、じゃあ、いよいよ行くぞ、早苗」
「……!」
静かに、しかしはっきりと発せられたその言葉に、早苗はごくりと唾を飲み込む。
それから、整えるように息を吸って、吐き出し、吸って、吐き出し。
とんとんと、感触を確かめるように、その素足の裏で地面を軽く踏んだりしながら、
「走れ!」
「はいっ!」
待っていたその指示がきた、と、同時に早苗は一歩を踏み出す。
続いてしなやかに二歩目。軽い。まるで、風のように速く、体が動くようだ。
三歩、四歩、すぐに数えられなくなるほどの動きとなって、ぐんぐんと、そこが近づいてくる。
「――っ」
鳥居を潜った。もう、目の前には何もない、どこまでも開けている。
だから、もう、何が来るかはわかっている、その指示を待つまでもなく同時のタイミングで、
「飛べ――」
石段の手前を、出した足で思いっきり踏みつけて、少女は跳んだ。
7
糸が引くように色の線となって流れていく景色が、
「――――っ!」
上昇の最高点でぴったりと一瞬止まって、そして少女の目の前に一気にその光景が広がっていた。
「ふ、わ、ぁ――」
言葉を失う。緩やかにそこに留まるその瞬間に、少女の目は、全てを映し込んでいた。
茜色が燃える空と、そしてその中に自分がいて、あの時よりも、カエルの神様に背負われた登った木の上よりもっと高く、もっとはっきりと、眼下にその郷が、その山々が、地の全てが自分の下に見下ろせた。
こんな時だと言うのに、その景色に早苗はすっかり心を奪われ、ほぅと、見とれるような溜息をつくと同時に、
「――っ!? あ、ああ、あ!」
ふっと、研ぎ澄まされた感覚が沈み込むそれを感じ取って、先程までの感動も何もかも全て彼方に吹き飛んだ。
焦りと共に得るその、思いっきりばたつかせる足が空を切る、その感触は、
「うわああぁぁ――!?」
飛んできた時と反対に、徐々に速度を増して地の方へ、真下へ落ちていくものだった。
「おちおちおちおち落ちるぅぅ――!!」
反射的に、絶対に離さないように背に負った祖母をぎゅっと力を入れて固定し、早苗は悲鳴を上げながら落下していきつつ、空しく足を動かし続ける。
「ええい、みっともない、落ち着け!」
「まったくだよ、しゃんとしなさい」
「っええぇぇ!?」
それから、さらにいきなり、ぼわんといった擬音つきで自分の両隣に少し体の透けた諏訪子と神奈子が現れ、あろうことか一緒に落下し始めるのを見て、早苗はさらに別の類の悲鳴を上げた。
「早苗、お前は今恐れ多くも、太古の荒ぶる風の神の顕現なんだぞ。こんなとこで落ちて死ぬなんて、あるわけがないだろう」
「ででででも、いいい今こうして落ちて、しししし死んじゃいそうなんだけどぉ!?」
器用に肘をついて寝転ぶような姿勢で隣を落ちながらそう言う諏訪子に、早苗はもう焦りも恐怖もまぜこぜにして叫び返す。
「ったく……いいかぁ、早苗、まずはそんなビビった声を出してんじゃないよ。お前はな、風の神っていうもんは、てめえの下に風を従わせるもんなんだよ。だから、まずは堂々とそいつらを下に敷け」
「……っ!?」
そして、ようやく諏訪子の口から出てきた助言らしき助言に、早苗はもう全てを賭けて下を向く。
糸を引いて、そこにもう地面が迫ってきている。だから、さらに足をばたつかせながら、
「お、お願い風さん、私を飛ばせて! 飛ばせて!」
必死に呼びかける。地面が迫る。
「飛ばせて! お願い! 飛ばせて! 飛ばせ――」
もういくらも余裕がない。見下ろす大地はすぐそこで、早苗はここにきてようやく、
「っ、んっ、のっ――」
怒りのような感情が沸々と湧いてきた。手助けも何もしてくれず寝転んで一緒に落下し続ける神様達や、こんなに頼んでいるのに何も応えない風やらに、早苗はぶちんと何かが切れるのを感じ、
「言うこと、聞けぇぇ――!!」
そう叫んだ瞬間、怒鳴りつけた瞬間、ばたつかせていた足に、ぎゅわっと巻き付くように風が集まり、そしてそれを踏みつけて、
「――っ!」
早苗の体はまた、もう一度さっきまでの高さへぶわっと、飛び上がっていた。
その後ろには、引っ張られるように神達の姿もついてきていて、そして早苗はもう、己の足裏に感じる風の感触を掴んでいて、
「こ、こうすればいいの!?」
少し後ろを振り向いて問いかけるのに、神は親指をぐっと立てて答えていた。
「よ、ようし!」
気合いの声と共に、早苗は前を向く。
もう落ちることはない、何となくだが、風を集める感覚が掴めている。
だから、踏み出す足の先に、吹き上げる風の足場を作って、少女は行く。
「っ、あぁ……」
文字通りの風となって、少女は走る。
「うわあああぁあぁぁ!!」
自然に体の内側から溢れ出してきた、どうしようもない高揚の叫び声を上げながら。
風神少女が、空を疾ってゆく――
§
そして、その少女のすぐ後ろを、見えない力に引っ張られるようにしてついていきながら、
「……なんでだろうなぁ……」
神の片方がぽつりと呟く。
「……こんな時だっていうのにさぁ、神奈子……私、わたしなぁ……」
祖母をしっかりと背に負って、空を駆けてゆく少女の背を見つめながら、
「嬉しくて、しょうがないんだよ……自分の、私達の力をここまで使える子が目の前にいることが……そうしてくれていることが……」
その声に、鼻をすする音が混ざった。
「泣きたくなるほど……嬉しくて、たまらないんだよぉ……!」
それを聞いて、神奈子は息を吐き、
「ああ……私もだ……私もだよ、諏訪子……!」
優しくそう言ってやりながら、己も少女の背を、その向こうを見つめる。
その先に、もう見えてきた、山を越えて広がる街の風景を。
§
「……っと」
ふと、書き物をしていた顔を上げて、白衣の男は何となく窓の方を見た。
磨り硝子のそこにぼんやりと見えるのは、赤に青が混ざり始めた、その空の色。
それを見て、今日の診察ももう終わりか、と、息を吐きながら思った瞬間、
「――っ!?」
ばりばりと、恐ろしい突風が吹いて、割ろうとでもするかのように窓ガラスを引っかいていった。
驚いて、しばらく声も出せずに固まっているところに、
「先生! 大変です! 玄関に――」
慌てたように看護婦が飛び込んできて、さらに男は驚いた。
§
そして、看護婦に急かされ走って向かった病院の玄関で、男は、医者は、さらに三度目の衝撃を受けることになった。
そこには、いつかの少女が、自分のよく見知った患者を背負って立っており、
「せ、先生……!」
息を切らしながらも、必死で叫んできた。
「おばあちゃんを、助けてください……!」
8
真っ白な、蛍光灯の光がまず薄く開けた目に入ってきた。
「……?」
そして、次に薄ぼんやりと、段々景色が輪郭を得ていくその横で、
「……っ、おばあちゃん……! 気が、ついた……?」
今にも泣き出しそうな、そんな声が聞こえてきて、
「……っ」
早恵はいまだままならない体を、何とか首だけでも動かして、その方向を見る。
「さ……なえ……ちゃん……」
声だけは何とか、ひゅぅひゅぅという息と共に出すことが出来た。
果たしてそこには、呼んだ名前の少女が、声に乗せた気持ちを証明するかのような、泣く寸前のような顔で、こちらを覗き込んでいて、
「気づいたか、早恵」
さらに、その少女の両隣には、自分の仕える神達が立って、同じく早恵を安堵したような顔で見つめていた。
「どう……し……」
それを確認して、必死に、まだ覚醒が追いつかない頭で状況を整理しようとしながら、問いかけの声を出そうとする。
自分は、そうだ、神社で、倒れて。そして、ここは、今寝かされているのは、ベッドで、そして病室、病院、で。
何が、どう……
「っ、あ……」
考え続ける途中で、その目がふと目の前の少女の、
「……っ!?」
真っ黒に垂らしていたはずの直ぐ髪が光で透けて、淡い緑色を混ぜ込んだような色を映し出しているのを見た瞬間、全てを悟った。
「あ、ぁ……っ」
そして、理解して、後悔の顔とうめき声を出そうとした、その時、
「――おばあちゃん、私ね、自分で決めたよ」
少女が真っ直ぐと、そうなりかけた祖母の顔を見つめてそう言った。
「自分で選んで、自分で決めたんだよ……私が、自分で、そうなりたいって思ったから」
何かをこらえるように、必死に、少しだけ震える声で、
「あの神社で、みんなと一緒にずっと、暮らしたいって……そう、思ったから……もう、私の家族の誰の手も離したくないって、そう、思って……離さないって、そう、決めた、から……」
「……早……苗、ちゃん……」
少女は、呆然と自分を見つめる祖母に、言葉を紡いでいく。
「だから、ちゃんと……自分の進む道、自分で、決めたよ……おばあちゃんが……っ、あ……」
しかし、言葉の途中でこらえきれなくなったように大粒の涙が瞳から零れだし、言おうとした言葉も途中で詰まって、ぐしゃぐしゃに混ざって、
「おば、あ、ちゃん……し、っ……死んじゃったら……どう、しよう、って……やだよぅ……そん、なの……もう、ぜ……絶対に……」
そこまで言ってから、もうそれ以上続けることも、どう続ければいいかもわからなくなって、少女は横たわっている祖母の体に抱きついた。
「あぁ……ふぅ……っ……やぁ……うぅ……」
そして、シーツに顔を押しつけて、泣き出す。これまでずっと、ずっとこらえてきた、我慢してきた涙をもう、溢れ出るままにさせる。
「……っ」
そんな少女の心を、必死に紡がれた決意を、早恵は静かに受け止め、
「……大丈夫だよぅ……」
ゆっくりと手を動かして、胸の辺りにある少女の頭を優しく撫でる。
「……おばあちゃんは、もう大丈夫……」
静かに顔を上げ、濡れた瞳でこちらを見るのを、見つめ返して、
「早苗ちゃんがね……ちゃんと、立派な風祝になるまで……おばあちゃん、死んだりしないよ……」
少女の選んだ道を、少しの悲しさと、それ以上に溢れ出てくる喜びと共に受け入れて、そう告げた。
「……!」
その言葉に、少女も驚きと嬉しさを溢れさせて、
「おばあちゃん、退院したら……ちゃんと、修行……しないとねぇ……」
「うん……!」
「今よりずっと、大変だよ……?」
「うん……私、頑張る……!」
二人とも顔を見合わせ、静かに、これからの未来へ想いを馳せるように、楽しそうに笑い合った。
§
そして、それから早恵は静かに視線を動かして、二人を見守っていた神達を見る。
「……私の力はもう……なくなってしまったんですね……」
確認するように、苦笑と共に呟かれたその言葉に、
「……ああ」
それでもこの瞬間だけは、どうしようもない寂しさを纏わせて、神奈子が頷く。
「……きっと、姿や声は、最後まで、これまでのように見聞きすることは出来るだろうけれど……」
息を吐く。
「おそらく、もう、触れることはできない……」
その言葉に、早恵も寂しそうに笑う。
「それは……残念です……」
「ああ、本当に……」
「これからは、その分早苗ちゃんにそうしてあげてくださいね……」
「そうだな……」
そして、少しの間を置いてから、やがてその時が来た。
二人は真っ直ぐに視線を合わせ、
「……苦労をかけたな」
「いえ、私こそ……神奈子様達にお仕え出来て、本当に幸せでした……ありがとうございました」
「早恵……」
「諏訪子様も、すみません……ありがとうございます」
泣きそうな声を出す少女の姿をした神に、笑いかける。
「早恵……東風谷、早恵……本当に、今まで御苦労だった」
そして、神奈子がその傍らに寄り、ゆっくりと手を伸ばして、本当に一瞬だけ、その頬に触れる。
「ありがとう……」
そして、腰を曲げて顔を寄せ、その老女と、
「子供は見ちゃいかん!」
「ふぇぇ!?」
諏訪子が早苗の目を慌ててばっと手でふさぐ中、二人の唇がまた一瞬だけ重なって、そしてもう、離れていた。
§
医者が病室を見舞いに来た、もうそろそろ夜も深くなりそうな頃、
「あれ?」
そこにはもう、ベッドの横の簡易照明だけを付けて、穏やかな笑顔で静かに横たわっている早恵しかいなかった。
「早恵さん、早苗ちゃんは……どうしたんですか? トイレですか?」
「あら、もう帰らせましたよ」
「ええっ!? ひ、一人でですか!?」
手に持ってきた毛布やらを思わず取り落としながら、医者は夜ということでなるべく控えめに、驚きの声を出す。
「ふふ、まさか……ちゃんと、無事に送り届けてくれる方達と一緒ですよ」
「ああ、なんだぁ……それなら、よかった……」
くすりと微笑みながらそう言う早恵に、医者も安心したような息を吐く。
「てっきり泊まると思ってたんで、色々持ってきたんですけどね」
「まあ、それはすみません、お手間をかけさせてしまって」
「いえいえ、それはお構いなく……けれど」
医者は、ふっと、考え込む顔をして、
「迎えの人なんて、来ていましたっけ……? うーん、見てないような……」
「ふふ、先生は見えなかったかもしれませんけどね……けど、確かにいるんですよ?」
早恵は笑顔と共に、目を伏せ、静かに呟く。
「……あの子のとなりには、いるんです」
§
静かに煌めく星空の下を、二つの影が歩いていた。
「ちったぁ成長したのかと思ったけど……」
その内の一つ、ぎょろりとした目玉付きの帽子を被った金髪の神が、その背に負った、すぅすぅと小さな寝息を立てている、まだ黒に近い緑色の直ぐ髪をした少女の体温を感じながら、
「やっぱり全然、まだまだかもなぁ……ええい、人の背中で随分気持ちよさそうに寝てらぁ」
溜息をついてこぼすその言葉は、愚痴るような内容とは裏腹に、隠しきれない慈しみがこもっていた。
「ははっ、本当にねぇ……」
その隣を行く、背の高い紫髪の神は、くすりと笑いながら、背負われるその少女の寝顔を見て、
「……なぁ、諏訪子」
呼びかける。声は出さず、静かに顔だけを向ける金髪の神に、
「こんなに、さ……こんなにいい子が、その人生の、可能性の全てを、私達と共に在ろうと……そのために使おうと、決めてくれたんだ……」
少女の寝顔に、ゆっくりと、手を伸ばして、
「だったら、そんな私達が……それを貰った私達が……これまでみたいに、拗ねて、くさってなんか、いられないわよねぇ……」
優しくその髪を、頬を、そっと触れるようにして、撫でた。
「……ああ、そうだな」
それを聞いて、その表情を見て、諏訪子もゆっくりと、その言葉を噛みしめるように頷いた。
「……だから、いよいよってことになったらさ……たとえ、どんな手を使ってでも……」
そして、その返事を得た神奈子は、少女を撫でたその手を、星空にかざして、
「あの子が、私達と暮らしたいと、生きていたいと言ってくれた神社を……守らないと、いかんよな」
決意と共に強く握り締め、そう言った。
「……ああ、もちろんな。そりゃ、当たり前だろ。あそこなくなっちまったら、私ら全員路頭に迷うんだから」
「そっか……そうよねぇ」
呆れた声を出す諏訪子に、神奈子もくすくすと笑い、そして二人は顔を見合わせて、
「じゃあ、精々路頭に迷わないように」
「頑張るとしますか」
こつんと、お互いの拳を軽く、ぶつけ合った。
桜の舞い散る、春の空の下。
そんな墓地の一角、ある墓の前に、一人の少女が手を合わせてしゃがみ込んでいた。
歳の頃は、十六、七歳くらい。長く、綺麗な、透けるような緑色をした直ぐ髪を垂らし、目を閉じてその墓に語りかけている。
「ごめんね、おばあちゃん……命日からまだ一年くらいしか経ってないのに、急に出発することになっちゃって……」
そう言うと、少女は閉じていた目を開いて、笑いかける。
「でもね、私、もう決めたから……あの日選んだ、自分の道を、後悔しないために――」
そして、立ち上がる。
身に付けた、青を基調としたスカートのような袴と、袖の離れた、青で縁取りされた白い上衣を揺らして、
「――だから、行ってきます!」
そう大きく叫んで、もう一度最後に墓を拝むと、身を翻して、少女は真っ直ぐに駆けていく。
もう振り返らない、その後ろを、一陣の風が吹き抜けていった。
上編、中編もさることながら、もう下編では涙が……。
ありがとうございました!
何故か大人も子供もおねーさんも、ってキャッチコピーを思い出しました
良い作品ありがとうございました。
あの子達からすると 早苗はほんとにつむじ風みたいな少女だったんでしょうね。
絶対「ATフィールドの意味っ」って続くと思ったのにこの早苗さんなら。
髪の色が変わる描写をもっと目立たせて欲しかった。魔法少女的には。
作者様の気合を感じることのできる、確固たる力作なのであることを感じさせられました。
とても面白かったです。
読んでるうちはいろいろ思いましたが読み終われば明るくさわやかなイメージが大部分をしめていました
早苗と諏訪子の散歩の所は読んでいてなにかがこみあげてきました
ロディーさんの作品のこういう部分が大好きです
けど、良かった
幾星霜を護り続けた大地と、そこに生きる民をも見捨てざるを得なかった諏訪子の心持ちは如何程のものか。
二柱の神が諏訪の地にあり続ける道は本当に無かったのだろうかと思わざるにはいられない。
長文お疲れさまです。ひとまず美味しいものでも食べて、美味しいお酒でも飲んで、そしてまたのお話をお待ちしております。
健気すぎる早苗もヤバいが諏訪子様すてきすぎて………
いやでも素晴らしいの一言に尽きる作品です。
ロディーさんの作品を読ませていただくと、時折そういったものに出会っていたく感銘を受けるのですが、
この作品でもまさしくそれを感じ取ってしまい、口元に手を当てハッと息をのむ、なんてことをリアルにやってしまいました。こんな経験初めてです。
もう、最高です。
けど敢えて一言でまとめさせて下さい。
全てが最高だった。本当にありがとう。