この作品は、前作『夜が明けて行く』の続きになります。
前作を読まないと話が通じませんので、予めご了承下さい。
***
「……そうか、ダメか」
「本当にごめんなさい。私は魔理沙と付き合う事はできないわ。
でもね、誤解はしないで欲しいの!魔理沙の事が嫌いなわけじゃないわ!
むしろ嫌いの逆で、一ヶ月前に比べればずっと好きになったと思うわ。
一緒にいて楽しいし、それなりに気の置けない相手と思えるようになったわ。
ただ、それは友達としての好きであって、恋人としてじゃないと思うの……」
「……」
頭を下げたまま、しどろもどろと醜い言い訳を口にする私。
しかし、それでも魔理沙の気持ちに応える事はできない。
「その、言い方は悪いのだけど、私はレズビアンでは無いから……。
女同士なんて不毛だと思うし、私と魔理沙では寿命も違うわ。
仮に今は誤魔化すことができたとしても、きっと最後にはダメになる。
だから……気持ちは嬉しいけど、ごめんなさい」
「……」
「……魔理沙?」
返事も反応も無い事に不安を覚えて頭を上げると、意外にも満足そうに笑っている魔理沙と目が合った。
しばらくそのまま見つめあっていると、やっと魔理沙が口を開いてくれた。
「アリスは優しいな。私が傷つかないように、配慮してくれているんだろう?
でも、私は大丈夫だ。ちゃんと返事してくれて、ありがとうな」
「気持ちに応えられなくてごめんなさい。これからも良い友達でいてね」
「ああ、もちろんだ。……でも、あーあ、ふられっちまったかー」
「大丈夫よ。魔理沙なら、すぐに私よりも良い人に巡り会えるわよ」
「そう……かな?」
「きっとそうよ。私が保証するわ」
「そうか。それは心強いな。……なあ、アリス。一つだけお願いしたい事があるんだけど、いいかな?」
「もちろんよ。私にできる事なら、何でもするわ」
「いや、そこまで気合いを入れてくれなくてもいい。ただ、少しだけ。少しだけでいいんだ。私を、抱き締めてくれないか?」
「魔理沙を? それだけでいいの?」
「ああ。それで、終わりだ」
星空をバックに、両手を広げてそっと目を閉じる魔理沙。
私はその両肩を優しく引き寄せると、最大限の好意を篭めて抱き留めた。
肩に手を触れた時にこそ少しだけびくりと動いた魔理沙だったが、今は安堵したかのように脱力している。
広げられた魔理沙の腕は私の背中へと回り、緩やかに私に身を委ねてくれた。
(「おっと、バランスが悪いわね。こう言う時はっと」)
寄りかかる体重を支えるために、軽く軸足を引いて重心を動かし、魔理沙の後頭部の辺りに手を回す。
そのまま、包み込むようにして抱き締めようとして……私の手は目測を誤り、するりと魔理沙の体を通り過ぎてしまった。
驚いて視線をそちらにやると、実際の魔理沙の頭よりもずっと高い位置に私の手があった。
(「……あれ、魔理沙の体って、こんなに小さかったかしら……?」)
ピクニックや、里での買出しの時に感じた魔理沙の背中は、もっと大きかったような気がする。
私の中のイメージでは、魔理沙は……言葉が見つからないが、とにかく、もう少し大きかった筈なのだ。
そのイメージが私の目測を誤らせたのだとすると、今の魔理沙は何なのだろうか。
改めて、私の腕の中に居る相手を見やる。
背丈のほどは、やや低め。
山の神やスキマ妖怪等の成人妖怪とは比べるべくも無く、同年代の霊夢や咲夜と比べてもまだ頭一つ小さい。
もちろん私と比べても背丈は低く、現に魔理沙の頭は私の肩口にすっぽり納まってしまっている。
その頭にそっと手を置いてみるが、何かが変わるわけでもなく。魔理沙の背は低いままだった。
体の線は細く、肉も薄い。
地底の一角鬼を引き合いに出すのはおかしいかもしれないが、まともな食事を取っているのかどうかすら不安になってくるほどに、細い。
私の背中に回された腕にも力は無く、私が力を篭め続ければポッキリと折れてしまいそうなほどで、
とてもではないが、幾つもの異変を解決に導いた英雄の一人とは思えないほど弱々しい。
顔立ちは幼く、頬は僅かに赤い。
うっすらとした化粧で隠されてはいるが、その柔らかい横顔には小さなそばかすが見えて、
まだまだ大人になりかけの危うさを垣間見せている。
外見だけ幼い妖怪は特別に珍しい存在ではないのだが、魔理沙の年齢は見た目通りの筈だ。見た目通りの……。
人間のはずだ。
(「!? ど、どう言う事なの? 私が知っている魔理沙と、この魔理沙は……同じ人間なの?」)
観察を終えた瞬間、腕の中の魔理沙が急速に萎んで行くような錯覚が私を襲った。
慌てて強く魔理沙を抱き締めて、抜け落ちて行く"何か"を食い止めようとするが、それでは気休めにもならない。
まるで砂の塊を抱いているかのように、サラサラと腕から零れ落ちて行く"何か"
それに気を取られているうちに、いつの間にか抱擁は終わっていた。
魔理沙がいつ抜け出したのか。あるいはいつ私が腕を解いたのか。それすらも、分からなかった。
「へへ、軽くでいいって言ったのに、大サービスじゃないか。嬉しかったぜ?」
「あ、うん……」
「送って行くよ。後ろに乗ってくれ」
「え、ええ。分かったわ……」
(「さっきの感覚は、一体……?」)
「今日は本当に楽しかったぜ。できれば、また一緒に来たいな」
「その時は、私からも何か考えないといけないわね。お弁当でも作りましょうか」
「夜空のピクニックかぁ。それは楽しそうだな~」
「それにね。魔理沙にはお礼もしないといけないと思ってるの。
今は準備できていないけど、近いうちに打ち上げでもしましょう」
「打ち上げかぁ。たぶん、霊夢ん所に集まって宴会になるんじゃないかな」
「そうじゃなくて。今度私の家に正式に招待するって言ってるのよ」
「それは嬉しいな。機会があれば是非とも御相伴に預かりたいものだぜ」
私と会話をする魔理沙は、何事も無かったかのように『いつも通り』だった。
しかし、魔理沙の箒に乗って岐路を辿っている間にも、私の違和感は消えることなく膨らみ続けた。
「なあ、アリス。一つだけ頼みたい事があるんだが、聞いてくれるか?」
「何かしら?」
私はお前の事が好きだ。振られはしたが、この想いはそう簡単に切り替えられるものじゃない。
気持ち悪いと思うかもしれないが、どうか許して欲しい。迷惑はかけないからさ」
「……ええ、それは構わないわ」
「……ありがとうな。約束は守るから、安心してくれ」
そう言えば。
箒に乗って、夜空を行く魔理沙。この背中を、私は特等席から眺めた記憶がある。
明けない夜を二人で駆け抜け、強大な力を持つ月人達に挑みかかった、あの夜に。
奇しくも、人形劇で題材として使用したあの異変の夜に。
「アリス、家に着いたぜ。アリス? アリスー?」
「はっ!? ……あ、ありがとう。もう着いたのね」
「大丈夫か? さっきからぼんやりとして。風邪でも引いたか?」
「大丈夫よ。そんなに柔な体はしていないから。それより、あなたも風邪を引かないうちに帰りなさい」
「うん、分かった。……アリス」
「ん?」
「じゃあな」
あの時は、まるで私の前に聳え立つ壁のように雄大に見えたものだった。
しかし、去り行く魔理沙の背中は、そのまま消えてしまいそうなほどに小さかった。
***
涙は出なかった
出る訳もなかった
***
魔理沙の事はとても気になるものの、それ以外は全て順調だった。
人形を作れば脳裏に描いた理想通りの逸品が完成し、複数のオファーが来るようになった人形劇も大好評。
魔法の研究も自分で驚くほど順調に進み、弾幕ごっこをすれば負け知らずの状態だ。
スランプの泥沼を抜けた先には、絶好調が待っていてくれたわけだ。
今の心の底から活力が溢れ出して来るような感じがして、心がとても温かい。
私も妖怪だから、精神の状態は全てのコンディションに影響を与える重要なファクターだ。
だから今なら、何でもできるような気すらする。
「……あら、これは?」
そんなある日、魔理沙から貰った大百科を見ていると、妙な点に気が付いた。
本の一番最後、クレジットの部分に見慣れない判子が捺してあったのだ。
星と月を象った紫色の印章は、ある人物を彷彿とさせた。
更によく見てみると、その横に小さく文字が書かれているのが分かった。
「何々。『この本の持ち出しを禁ずる パチュリー・ノーレッジ』……。これ、パチュリーの本じゃない!」
なんと、この大百科はパチュリーの本だったようだ!
「どうしようかしら。この本はとても面白いからなるべく手元に置いておきたいんだけど、
それだとパチュリーの機嫌を損ねるかもしれないし……うーん」
外の世界のアイテムは非常に貴重だし、この本はその中でも特に特別な品物に見える。
香霖堂等で入荷を待てば何年かかるか分かったものではないし、
仮に入荷したとしても目が飛び出るほどに高価な品になるだろう。
しかし、パチュリーは私よりもずっと長生きをしている先輩だ。
知識も豊富だし、人格的にも(魔女と言うカテゴリーの中では)信頼できる。
そんな彼女とは友好的な関係を築いておきたい。どうしたものだろうか。
少し考えて。私はこの本を図書館に返しに行くことにした。
魔理沙の事だから、これもやはり盗品だろうと推測される。
それならば何か言われる前にアクションを起こした方が印象も良いと言うものだ。
そう結論付けた私は、早速紅魔館へと向かった。
(「あら、あれは魔理沙かしら?」)
紅魔館へ向かう途中、霧の湖の辺りに差し掛かった辺りで、下を歩いている魔理沙を見つけた。
どうやら魔理沙は紅魔館からの帰りのようで、私の進行方向とは逆の方へと向かっていた。
降りて声をかけるかどうか。それを少しだけ考えているうちに、魔理沙は森の中へと消えてしまった。
何となく残念なような気もしたが、間が悪かったようだ。仕方無い。
私はそのまま飛行を再開し、無事に紅魔館へと到着した。
「いらっしゃいませアリスさん。こんにちは」
「こんにちは門番さん。今日は起きているのね」
「いやですねぇ、私だって年がら年中寝ているわけではありませんよ。本日は図書館に?」
「ええ。お通し願えるかしら?」
「もちろんです。案内の妖精メイドを一人つけますので、ご一緒にどうぞ」
「ありがとう。お邪魔します~」
妖精メイドに案内されて図書館に向かうと、そこではパチュリーと小悪魔が本の整理をしている所だった。
いつもパチュリーが本を読んでいる机の上には様々な本が雑然と並べられていて、
パチュリーがそれを手にとって読み、小悪魔が片付けをしている様子が見える。
……一つ訂正しなければならない。本の整理をしているのは、小悪魔だけだ。
「あら、いらっしゃい人形使いさん。今日は何の用かしら?」
「こんにちはパチュリー。今日は本の返却に来たのだけれども、誰に渡せば良いかしら?」
「ん……? 今日は多いわね、そう言うの。本の返却なら小悪魔に渡してくれればいいのだけど、あなたに何か本を貸していたかしら?」
「この本なのだけど、見覚えは無い?」
私が本を見せると、パチュリーは何かに驚いたような顔をしてその本をマジマジと見つめだした。
しばらくして、『失礼』と一言断って本を受け取ったパチュリーは、後ろにある所有印を見て軽く眉をひそめた。
「……どこでこれを?」
「やっぱり知っているのね。これは魔理沙から貰ったものなのだけど、
裏側に図書館の捺印が捺してあなたのものじゃないかと思って渡しに来たの」
「ふむ……」
読んでいた本から顎に手を当てて、何かを考え始めるパチュリー。
しばしの黙考の後、今度は私の顔をしげしげと眺めてから本をこちらへと戻し、
机から紙と筆を取り出すとサラリサラリと何かを書き留め、自分の秘書を呼んだ。
「ちょっと待っててね。小悪魔! 小悪魔はいるかしら!」
「はい、パチュリー様!」
立ち上がったパチュリーが誰何の声を上げると、本を運搬していた小悪魔が奥からすっ飛んできた。
パチュリーは彼女が手にしていた本を一度置かせると、代わりに書き終わったらしいメモ書きを彼女に手渡した。
「ここにリストアップした物を、大至急集めてちょうだい。今の時間だと咲夜はレミィの所かしら?」
「はい、その筈です」
「私の名前を出して手伝わせなさい。それと、ティーセットを一式を持ってきて頂戴。一杯飲んだら出かけるわ」
「分かりました! 行って参ります!」
「よろしい。お待たせしたわねアリス。話を戻しましょう」
「……忙しいようなら、また後日出直そうかと思うんだけど」
急に慌ただしく外出の準備を始めたパチュリーに、こちらから申し出をする。
しかし、パチュリーは首を横に振ってその必要は無いと意思を示し、言葉を続けた。
「アリス、あなたは魔理沙がこの本をここから無断で拝借して行ったと考えているのよね?」
「ええ、そうよ」
「それなら、あの子に代わって誠意を見せる必要があるわ。そうでしょう?」
「……そうね。それで、どうすればいいの?」
「あら、ここがどこだと思っているの? ここは幻想郷よ」
「つまり……誠意は弾幕ごっこで見せろと?」
「その通り! さあ、どうするの?」
言ってふわりと宙に浮かび上がるパチュリー。
その周囲には彼女が好んで使用する魔力出力デバイス、通称『賢者の石』が旋回を開始し、
こちらを威嚇するように低い重低音のような音を発している。
さて、どうしようか。
不覚にも弾幕ごっこになるとは思っていなかったため、戦闘用の強力な人形達は殆ど家に置いて来てしまっている。
つまり、京人形やオルレアン、仏蘭西人形などは使用不可となり、準備に手間のかかる演劇タイプの弾幕も使えない。
今使用できるのは、召喚して使う汎用タイプの子達と、上海・蓬莱のいつもの二体と、つい先日調整が終わった『あの子』だけだ。
それに引き換え、パチュリーはやる気満々で準備も万端だ。
引き下がる選択肢は無いにしても、果たして上手く相手をできるだろうか?
「もちろん、やるに決まってるじゃない。先輩魔女様に、実力の片鱗を見せてあげるわ!」
そうやって悩んでいたのも、一瞬のこと。
頭ではそんな腰の引けた事を考えていたと言うのに、気が付いたら私は承諾の言葉を口にしていた。
まるで誰かに背中を押されたように、私は気弱な躊躇を軽く振り払った。
「でも、悪いわねパチュリー。今の私は絶好調だから、一味違うわよ?」
「分かっているわよ。だからやってみたいんじゃない。ほら、御託はいいから人形を展開なさい」
「言われなくても!」
パチュリーの挑発に応じて、私も人形達を召喚して周囲に展開させる。
普段は多くても10体少々の人形しか配置しないし、できないのだが……今の私は、絶好調!
軽くその倍の人形を配置して、まだまだ余裕がある感覚すらあるのだ。
戦場を埋め尽くす人形の群れにはさしものパチュリーも驚いたらしく、軽く目を見開いて驚きを表現していた。
「へぇ、凄いじゃない。確かに言うだけはあるわね」
「ありがとう。それでは、始めましょうか。カードは何枚くらいにする?」
「相手の誠意を見るのに、枚数は不要だわ。三枚くらいでいいでしょう。
制限時間は小悪魔が戻ってくるまで。私が受け手(ボス側)をやるわ」
「了解。それじゃあ、始めましょうか!」
「いつでもいらっしゃい!」
戦闘開始だ!
まずはパチュリーのターン。空中の一点に陣取り、防御結界を張ったパチュリーが小手調べの通常弾幕を放ってくる。
スピードを重視した楔弾は、周囲に展開する人形達に向かって拡散するように放たれており、まずはこちらの戦力を削ろうとする意図が見えた。
それと同時に私の方にも自機狙いの7way弾が発射され、初手から王手飛車取りの構えだ。密度も驚くほど濃い。
「甘いわよ!」
いきなりルナティックな難易度の弾幕だが、今の私には止まって見える。
展開している全ての人形に個別指示を与えてチョン避けをさせると同時に、自分自身もチョン避けを駆使して自機狙い弾をグレイズさせる。
第一波の回避に成功した人形達は、そのまま第二波、第三波と続いてやってくる弾幕の雨を軽いステップでかわし、攻撃ポジションへと移動。
パチュリーを包囲する形で布陣した。
「くっ、まさか一体も落とせないなんて……!」
「一味違うって言ったでしょう? 今度はこちらの番よ。攻撃部隊、Fire!」
攻撃指令を受けた人形達が、その手から弾幕を発射してパチュリーに十字砲火を浴びせる!
ガンッ、ガンッ、ガンッと防御結界を叩き続けるこちらの弾幕は、着実にパチュリーの体力を削って行く。
これにはたまらず、パチュリーは懐からスペルカードを取り出すと、それを大きく掲げてスペルの発動を宣言した。
【日符『ロイヤルフレア』】!
使用されたのは、パチュリーの得意技でもあるロイヤルフレアだった。
パチュリーと私の中間地点に、まるで太陽が湧き上がったかのような熱の爆発が発生し、私と人形達に容赦の無い弾幕を打ちつける。
その様子は地底の地獄鴉の弾幕もかくやと言わんばかりに眩く、力強い。流石はパチュリーのスペルだ。
このような超広範囲攻撃の前では、多数でかかる今の布陣は危険で、下手をすると全滅すら見える。
それを防ぐには、召喚した人形を送り返すのが得策だろうが、そうすると私の護衛がいなくなってしまうし、せっかく包囲した布陣も無駄になってしまう。
乗るか、反るか。
この選択を間違えると、相手に先にスペルを使わせたと言う有利な展開もひっくり返る。
さあ、どうする!
(「考えるまでも無い。ここは更に押す!」)
思考は一瞬、躊躇は無し。
私は魔力を操作して、全ての人形に指示を下した。
「総員後退! みんなご苦労様、ゆっくりと休んで頂戴」
「人形の召喚をキャンセルした? 何をする気なの?」
「別に。だって、超広範囲攻撃に対して物量で挑むなんて、ジャンケンでパーに対してグーを出すようなものだわ。
不利になったら適切に撤退するのも兵法でしょ?」
「それはそうだけど……それでも、まさか全部引っ込めるなんて。随分と大胆じゃない?」
言われてみれば、確かに。以前の私なら、無駄と分かっていても踏ん切りが付けられず、
直衛として数体の人形を残して魔力を浪費してしまっていただろう。
でも、今はスッパリと判断する事ができた。
やはり、絶好調だとこんな所まで違うのか。
何となく嬉しくなった私は、心の内から湧き上がる力強い活力に背中を押さるような気分でスペルカードを取り出した。
「勘違いしないでよね。私は更なる攻撃のために人形をしまったのよ。さあいらっしゃい、私の最強の僕!」
私の呼びかけに応じて起動された召喚魔法は、自宅の倉庫と図書館の間に小さなポータルを作り出し、お目当ての人形をこちら側へと転移させる。
空間に空いた歪みから召喚されたのは、他の人形と同じサイズの可愛い子だった。
私の横に控えている上海達との違いは、人形とは思えないほど鋭く精悍な顔立ちと、滑らかな関節部分だろう。
「パチュリーには初めてだから紹介するわね。この子はゴリアテ。
最近まで『試作』だったんだけど、ある程度の完成を見たから実践投入させて貰うわね」
『ヨロシク、Ms.パチュリー』
「礼儀正しい子ね。顔付きも凛々しくて、格好良いわ。でも、その子が私のロイフレを受け止められるかしら?」
「そのための子なのよ。さぁゴリアテ、あなたの力が必要よ。あのロイヤルフレアを打ち破っていらっしゃい!」
『イエス、マスター!』
命令に力強く返事をしたゴリアテ人形は、私達の元へと迫り来るロイヤルフレアの奔流をひたと見つめて仁王立ちをしている。
擬似人格も組み込んであるのだが、これがまた勇ましくて頼りになるのだ。
「面白い。そのおチビさん一体で何ができるのか、見せてみなさい!」
「あら、おチビさんじゃないわよ。ゴリアテ、戦闘モード! スペルカード発動!」
【塔の騎士『アーマード・ゴリアテ』】!
スペルカードを発動させて、ゴリアテの封印を解除する。
システムを戦闘モードへと移行させたゴリアテは、まず自身にかけられていた縮小化の魔法を解除。
ゴリアテの体は見る見るうちに巨大化して行き、その巨体に見合った装備を招来して瞬時に装着した。
「パワー型のスペルね。……これは拙いかもしれないわ」
3つ数える間に見上げるような巨体となったゴリアテは、まるでそびえ立つ塔のように強大で、騎士のように壮大だ。
その身を包むのは、魔術で強化された鋼鉄製フル・プレートと、タワー・シールド、刺突型バスタード・ソードで、中世の騎士を象った重装装備だ。
馬こそ無いものの、石畳を踏み砕かんばかりに力強く足を踏みしめるその姿は正しく万夫不当。
作るのに苦労はしたが、その苦労を補ってあまりある勇姿に私の心は奮い立った。
「アーマード・ゴリアテ、突貫!」
『WOOOOOOOOG!』
繰り糸の命令を受けて、雄叫び(ウォークライ)を上げたゴリアテが、パチュリーへと突貫を開始する!
「させるものですか! ロイヤルフレア、出力最大!」
盾を構えて突貫するゴリアテと、パチュリーのロイヤルフレア・ルナティックが正面から激突する!
しかし、拡散型の魔法であるロイヤルフレアでは、
高い防御力を誇る(要するに耐久スペルだ)ゴリアテの防御力を貫通して有効打を与える事ができない。
せいぜいが、突貫の勢いを削ぐくらいだ。
じわりじわりと前進を続けるゴリアテは、ついにロイヤルフレアの中心部にまで到達した。
「アーマード・ゴリアテ、切り裂きなさい!」
『イエス、マスター!』
タワー・シールドの横から、バスタード・ソードが鋭く突き出される!
破魔の力を持った剣がロイヤルフレアの中心部へと突き刺さるのと、
パチュリーが軽く舌打ちをして大きく後退するのは殆ど同時だった。
『BOOOOOOOOMB!』
パチュリーの制御を離れたロイヤルフレアが爆発し、大量の弾幕になって消滅する。
私はゴリアテが文字通り盾になってくれて平気だったが、パチュリーの方は全ての弾幕を避けきれず、
少なくない数の被弾をして体力ゲージを消費してしまっている。
「やるじゃない。正面からの押し合いで私のロイヤルフレアが破れるとは思わなかったわ」
「こういうのは、弾幕ごっこ的に大丈夫か不安だったのだけど、平気みたいね」
「ええ。魔法使いに突貫する騎士の姿には感動すら覚えるわ。突貫されるのは私なのにね!」
「ありがとう。じゃあ、アーマード・ゴリアテ、続いて本丸を攻撃よ! 制限時間一杯暴れなさい!」
『Wooooooh!』
「……耐久スペルなのね。仕方ない、ここはこれで!」
【火金符『セントエルモ・ピラー』】!
パチュリーが次に発動させたセントエルモ・ピラーは、火柱を上げる火球を敵に投げつける技だ。
宣言と同時に、ゴリアテに向かって一発の火球が投げつけられ、ゴリアテの手前に着弾。
盾ごとその巨体を火柱に包み込んだ。
しかし、キチンとガードしているためゴリアテの被害は無し。彼女はそのまま前進を開始した。
「残念。そんなのじゃあアーマード・ゴリアテはビクともしないわよ?」
「それはそうでしょうね。でも、勘違いしないで欲しいわ。今のは……」
前進を始めたゴリアテの足元に、再び火球が飛んで来る。
それで足を止められたゴリアテの元に、無数の火球が次々に飛来する!
「単なる射線のチェックよ。さぁ、その鈍重な体で私のピラー乱れ打ちに対抗できるかしら!」
「乱れ打ち!?」
「火克金! ゴリアテだかコアだか知らないけど、鎧を着たデカブツにはこれが一番!」
その言葉に嘘は無く、パチュリーの周囲には火柱の種となる火球が……数え切れないほど大量に浮かんでうた。
まるでガトリング・ガンのように次々と。精製されては打ち出され続ける火球の弾幕を前に、さしものゴリアテも身動きが取れないでいる。
一発一発の隙間はとても大きいし、連打しているだけあってやや大味な弾幕なのだが、その分威力と見た目の派手さには目を見張るものがある。
その悉くを盾と剣で弾いているゴリアテだったが、このパチュリーの攻撃とゴリアテの忍耐の勝負においては、パチュリーの方に分がある。
先に音を上げたのは、やはりゴリアテだった。
『マスター、ゴリアテ、オーバーヒート……』
「鎧の中は蒸し風呂状態ね……。鎧をパージしてもどうなるものでもないし。いいわ、ご苦労様。もう戻っていいわよ」
『イエス、マスター……ゴメンネ』
ゴリアテを送還すると、セントエルモ・ピラー乱れ打ちのターゲットがこちらに向いたのが分かる。
私はその弾幕の隙間に身を躍らせて通常弾で応戦して行く。
大型で、幽香や紫より少し高い程度の機動力しか持たないゴリアテ相手には良い弾幕かもしれないが、
爆発して火柱が立ち上る性質上、懐に飛び込まれると弱いのは一目瞭然だ。
どこかの三歩必殺のように、内へ内へと入っていけばそこまで怖い弾幕ではないと私は見切った。
吹き荒れる炎の嵐と、パチュリーの放つ弾幕の合間をくぐり抜け続ける事、おおよそ60秒ほどだろうか。
戦場に『ピッ、ピッ、ピッ』とカウントダウンの音が鳴り響き、スペルが無事にタイムアウト。
炎の渦が収まるのを待ってパチュリーの様子を伺うと、肩をグルグルと回しながら気だるそうにこちらを見ている所だった。
「火力は出るけど、疲れるのよねこれ。さあ、次はあなたからかかってらっしゃい」
「分かったわ。さて、何を使おうかしら……っと、そうだ」
今なら、これも使えるかもしれない。
やってみようか。
私は小脇に抱えていた本を取り出すと、それを正面に掲げて呪文を口ずさみ始める私。
いつも持ち歩いているこの本は、その名もズバリ『グリモワール・オブ・アリス』。
かつて、母が私に授けてくれた強力無比のアーティファクト(最上級魔道具)だ。
これを受け取った時の私は、これを授けられた事がとても嬉しくて、魔界に乗り込んできた侵入者に対してこれを使用。
しかし、未熟な私はその魔力を制御しきれずにあっさりと暴走させてしまい、
主に私のプライドと心に甚大な被害を与えてくれた経緯がある代物だ。
しかし、今の私は絶好調。
あの時の自分とは違う、成長した事を実感するためには丁度良い機会だろう。
私の呼びかけに答えて段々と封印を解かれて行くそのグリモワールは、
自分の力を思う存分振るう事ができるのが嬉しいのか、胎動するようにガタガタと武者震いをさせていた。
「強大な魔力を感じるわ。それ、単なるアクセサリーじゃなかったのね」
「そうよ。未熟な私では扱いきれない、とても強力なアーティファクトなの。暴走させちゃったらごめんなさいね」
「大丈夫よ。信頼しているわ」
「ありがとう。じゃあ、行くわよ!」
【究極魔法『グリモワール・オブ・アリス』】!
スペルを発動させた瞬間、私の手の中に『ガツン!』と来るような強烈な手応えが生じるのを感じた。
それと同時に、中に篭められた膨大な魔力が周囲に展開。私の周りでグルグルと渦巻いて揺蕩い始めた。
それらの魔力は力の方向性を持たないスカラーの集まりだが、ベクトルに変えてやれば如何様にも変化するだろう。
昔は分からなかったが、このアイテムは強力なブースターだ。
パチュリーが使用している賢者の石デバイスのように、使いこなせば私の魔力を数倍にまで引き上げてくれる。
私のような若輩魔法使いには勿体無いくらいのアイテムで、今よりも更に未熟な頃の私に扱えるような代物でもない。
今までどれだけ宝の持ち腐れをしていたのかが良く分かる。
しかし、それは諸刃の剣だ。
例えば、車のアクセルの効率が数倍になるようなものだ。
ちょんと踏み込んだだけで、グッと加速する。そんな車に乗って事故を起こさないで済むのはプロのレーサーだけだろう。
それと同じで、私はいつも以上に慎重な魔力操作を強いられていた。
(「発動させたはいいけど、弾幕ごっこなんてできるのかしら……」)
パチュリーの方に目を向けると、こちらの様子を慎重に伺いながらもスペルカードを取り出しているところだった。
恐らく、彼女の切り札『賢者の石』だろう。それを使おうと思わせるほど、私の発している魔力は大きいらしい。
そんな力を、弾幕ごっこの範疇に収めて振るう事ができるだろうか。今更の様に、私の中に不安が生じた。
(「……いや、大丈夫。私ならできる!」)
いつもの私だったら、ここで怯んでしまっていたかもしれない。
その心の動揺が魔力の操作ミスを招き、再び暴走させてしまい、パチュリーに迷惑をかけていただろう。
しかし私はその不安を軽く振り払い、足に力を入れて踏み止まった。
私の心の中にあったのは、魔理沙から貰った一言だった。
『アリス、お前なら大丈夫だ』
あの人形劇が始まる直前に貰ったその言葉を思い出すと、体の奥底から温かい活力が湧き上がって来るのが分かる。
思えばこれが絶好調の理由なのかもしれない。私は、心の赴くままにグリモワールを操作し、それを掌握した。
「……待たせたわね、パチュリー。私の準備はokよ」
「面白いアイテムだわ。あなた専用にチューンナップされているのが良く分かる。
それを操るあなたと戦ってみたくはあるんだけど……」
手元に掲げたスペルカードを、発動させる事無く懐に仕舞い込むパチュリー。
私がそれに首をかしげていると、図書館の扉が勢い良く開けられて、小悪魔が飛び込んできた。
「パチュリー様、お待たせしました! ……あれ?」
「残念ながら、時間切れ。私のギブアップであなたの勝ちよ」
「むっ……仕方ないわね、分かったわ」
元々そう言う約束なのだから仕方無い。
私も展開された魔力を仕舞い込み、グリモワールに再び封印を施した。
そんな突然の展開についていけないのか、キョトンとした顔の小悪魔が小首を傾げてパチュリーにお伺いを立てている。
「パチュリー様、ひょっとしてお邪魔しちゃいましたか?」
「大丈夫よ。元々あなたが戻るまでって約束だったから。それで、準備は?」
「あ、はい! 咲夜さんにお願いしたらマッハで揃えてくれました! 紅茶もしばらくしたら用意できるそうです!
……でも、サンドイッチとか毛布とか、そんなものを何で急に?」
「私が使うのよ。それより、私はお茶が来るまでの間に着替えてくるから、アリスのエスコートをよろしくね」
「ああ、忙しいのなら帰るわよ。もう用事は済んだわけだし」
「そうは言わずに、ゆっくりして行きなさい。小悪魔、よろしくね」
「はい、分かりました! アリスさん、こちらにどうぞ~」
折角だからと小悪魔に本を注文して待っていると、外出用に作られた頑丈なローブに着替えたパチュリーが奥から戻って来た。
それに合わせたかのように……実際待っていた可能性は十分にある……咲夜が紅茶を持ってきてくれたのだが、
パチュリーはそれを一息に飲み干すと、咲夜から荷物を受け取って着々と外出の準備を整えていった。
「……随分と慌ただしいのね。何か手伝える事があるなら、手を貸すけど?」
「別にいいわ。私はただ、あなたが捨てたものを貰いに行くだけだから」
「私が、捨てた……?」
「小さな花よ。見所はあるけどまだまだつぼみで、開花しようかするまいか悩んでいる、未熟な野生の花。
あなたにとっては不要でも、私にとっては貴重なもの」
「……ひょっとして、魔理沙の事かしら? 私は別に、彼女を捨ててなんて……」
「私は花が求めているものが分かる。
私が手に入れて、あなたが持っていて、あの子が持っていないもの。
私には、それを渡す準備がある。上手く行けば、対価は倍になって返ってくるわ」
目を細めて、まるで何かに思いを馳せるかのように遠くを見るパチュリー。
彼女は謎めいた、まるでリドルのような言葉を発するだけで、私の質問に答えようと言うつもりは無いようだ。
それでも、聞き返せずにはいられなかった。
「パチュリー、訳が分からないわ。何が言いたいの?」
「別に。略奪があなたの本質とは思わないから、そこは安心しなさい。あなたは、そう……」
パチュリーは私を上から下まで見渡すと、ほぅ、と一つ息をついた。
その動作と雰囲気が妙に艶かしくて。
私は知らずのうちに気圧されて、一歩引いてしまっていた。
「そう、若いのよね。生まれ持っての才能にも恵まれているし、羨ましい限りだわ」
「パチュリー、あなた説明する気が無いでしょ?」
「その通り。これは貴方の問題だから、私が口出しするものではないわ。
……ただ、そうね。貴方には渡さなければならない物があるわ」
そう言ってパチュリーが取り出したのは、私に見覚えのあるマジックアイテムだった。
大きさは手の平に収まる程度しかない小さなものだが、
それ一つあれば湯沸かしから山火事まで何でもできると称されている強力な品物だ。
表面には大陸魔術の基本である『八卦』が刻まれていて、その品物の名前の由来ともなっている。
そう、このアイテムの名前は……。
「これは……ミニ八卦炉?」
「経緯はどうあれ私に勝ったんだから、これもあなたのものよ。
そのグリモワールには適わないかもしれないけど、これも中々のアイテムよ。大事に使いなさい」
「大事に使うも何も……。これは、レプリカか何か?」
「紛れも無く本物よ。さ、受け取って頂戴」
「え、ちょっと待って……」
「待たないわ。こんなアイテム、私には重過ぎる」
状況が飲み込めずにおたおたとしている私の手に、ミニ八卦炉が握り込まされる。
それでも何とか気を取り直してパチュリーに質問しようと口を開いたが、
パチュリーは既に図書館の外へと歩き出してしまっていた。
「パチュリー様、いってらっしゃいませ~」
「アリス、あなたは適当に寛いでいてちょうだい。
小悪魔をサポートにつけてあげるから、好きなだけ本を読んで行ってね」
「……分かったわよ。精々ゆっくりと読ませてもらうわ」
「それがいいわ。ああ、そうそう。貴方が持ってきたあの本だけど、あれもあなたのものよ。帰る時に忘れないようにね。それじゃ」
「あっ……もう! こんな物を渡して放置して、どうしろって言うのよ!」
普段の様子からは想像もつかないような手早さで出掛ける準備を整えたパチュリーは、図書館から飛び立っていった。
後に残された私は、その背中に文句を投げつけることしかできなかった。
結局その日、私が帰るまでにパチュリーが戻る事は無く。
ミニ八卦炉も私が預かる事となった。
***
「こんにちは。魔理沙はいる?」
「魔理沙? それなら縁側に居るわよ」
図書館の一件から数日の後。
ミニ八卦炉を元の持ち主の元へ返してあげようと考えた私は、魔理沙を探して幻想郷の空を飛んでいた。
自宅に彼女の姿は無かったため、次点の候補として挙がっていた博麗神社へと向かうと、
境内の掃き掃除をしている霊夢を見つけることができた。
これ幸いと魔理沙の居所を聞いてみるとあっさりと答えが返ってきたため、
早速そちらに向かおうとすると、その霊夢から呼び止められてしまった。
「待ちなさいアリス。その……行かない方がいいかもしれないわよ」
「ん? 何で?」
「んー……何と言うか、紫がね」
「……紫?」
意外な所で意外な名前が出て来たものだ。
いや、紫はこの神社にチョコチョコと入り浸っているため、ここで名前を聞く事そのものは意外ではない。
しかし、魔理沙の話題で紫の名前が出てくると違和感が拭えない。
「そう、紫がよ。何と言うか……まあ、見れば早いわ」
「? おかしな霊夢。縁側にいるのよね?」
「そうよー」
ひどく微妙な表情をしている霊夢を残して、裏手に回って縁側へと歩を進める私。
賽銭箱の横を通り過ぎ、母屋を迂回して進んで行くと、言われた通り紫と魔理沙が縁側に座っていた。
(「……えっ!?」)
いや、座っていたのは紫だけだ。
魔理沙はこちらに背を向けて縁側で横になっており、その頭を紫の膝に預けていた。
紫の手は魔理沙の頭に添えられて優しく静かに髪を梳いていて、その表情は今までに見た事が無いくらいに柔らかく穏やかだった。
小さく聞こえてくるのは、紫が歌っている子守唄か何かだろうか。
柔らかく眠りに誘うその音程からは、手付きや表情から読み取れる以上の優しさが垣間見えて、
堪らず胸が圧迫されるような息苦しさを覚えた。
しかし、それでも用事は済ませなければならないと、無粋を覚悟で一歩前に踏み出した、その次の瞬間。
私の視界はクルリと反転して魔理沙の姿はどこかに消え去り、代わりに目の前に霊夢が現れた。
「……お?」
「……あれ?」
慌てて周囲を見回してみると、そこは間違いなく境内にある賽銭箱の横だった。つい今しがた通り過ぎた場所だ。
霊夢も私も、状況が飲み込めずに 『?』 とクエスチョンマークを頭上に浮かべてお互いの顔を見詰め合ってしまった。
「あれ、魔理沙に会いに行くんじゃなかったの? 居なかった? 戻って来るの早くない?」
「え? いや、私は縁側に向かって歩いて行ったんだけど……?」
「ふーん? もう一度行ってみたら?」
「うん、そうしてみるわ」
同じように賽銭箱の横を通り過ぎ、縁側へと再び歩を進める。
警戒していたからか、今度は何をされたのかがハッキリと分かった。
縁側にある程度近付き、魔理沙の姿を視認できるかどうかの距離まで行ったところで、
私の背後に小さなスキマが開いて私の位置座標をずらされていたのだ。
要するに、私は霊夢のところに送り返されていたわけだ。
「まあ、分かったところで抵抗する手段は無いんだけど……」
「お帰り。どうだった?」
「紫に邪魔されているみたい。魔理沙の所に行けないわ」
「ふーん。魔理沙に何か用事があるなら、呼んで来てあげてもいいけど……」
『その必要は無いわ』
霊夢がそう打診してくれたが、その必要は無かった。
私達が話している横の空間に四角いスキマが開いたかと思うと、そこから紫が顔だけを覗かせて通話をしてきた。
まるでテレビが宙に浮いているようなシュールな状況だが、紫ならば仕方が無い。
『こんにちは、御機嫌よう人形遣いさん』
「……こんにちは、紫。これはどういう事なの?」
『これ以上こちらに来られては、都合が悪いのよ。あなたには、この寝顔は見せられないもの。
この報酬は、私だけのもの。誰にも渡しはしないわ』
「寝顔が、報酬……?」
『この子は、私にはとてもできないような、素晴らしい偉業を成し遂げたの。
それは失敗に終わってしまったけれど、その結果は功績を貶めるものでは無いわ。
そんな勇者が羽休めをする、止まり木になれたなら……これ以上の報酬はありませんわ。女冥利に尽きるとは正しくこの事』
「ユニコーンの乙女気取り? 似合わないわよ」
『何とでも。とにかく、今日は帰ってちょうだい』
「帰ってちょうだい、じゃないわよ!」
突如として、画面の向こうの紫の頭が大きく傾ぐ。
画面をやや下から覗いて様子を見てみると、その後頭部に陰陽球が突き刺さっているのが見えた。
どうやら、霊夢が投擲だか遠隔操作だかした陰陽球が紫に命中したらしい。
軽い涙目で陰陽球を引き剥がした紫は霊夢に抗議をするが、当の加害者は知らぬ顔だ。
そんな騒ぎの中でも魔理沙が目を覚ます様子は無かった。
「やれやれ。ごめんなさいね、スキマに好き勝手言わせちゃって。魔理沙に会いに来たんでしょう? 上がって行く?」
「……いいえ、今日はやっぱり帰るわ。何となく、そうした方がいい気がするから」
「そう。……まあ、本音を言うと私もそう思うわ。話がこじれそうな予感がするから」
「霊夢の勘なら信頼できるわね。これ、お土産だから食べてちょうだい」
「どれどれ……ああ、クッキーね。甘い物はお茶に合うから好きよ」
「特に捻りの無い、プレーンなクッキーだから少し恥ずかしいのだけどね」
「いやいや、単純なのが一番よ。ゴテゴテと飾り立てるのは私の趣味じゃないわ。
……まあ、魔理沙には適当に言っておくわよ。紫、あんたも何か言いなさいよ」
『そうねぇ……。人形遣いさん、あなたに質問。あなたの恋愛経験ってどうなっているのかしら?』
「私の? そんな事を聞いてどうするって言うのよ」
『ああ、はいはい。分かったわ。予想通り過ぎてつまらないわ。さっさと帰りなさい』
「紫!」
「言われなくても、もう帰りますよーだ。またね霊夢」
『ふん。それじゃあ元気でね、悩みの無い人形遣いさん』
事情は良く分からないが、魔理沙は紫に何か願い事をして、その報酬として膝枕をさせているらしい。
その因果関係は良く分からなかったが、用事が果たせないのならば仕方は無い。
どこか釈然としない思いを抱いたまま、私はそのまま帰途に着いた。
ミニ八卦炉は、また後日渡せばいいだろう。
***
『コンコンコン』
手首の返しだけで門を叩く。
たったこれだけの事なのに、その音は染み入るように周囲に流れて行った。
この門の中にいる人達は耳が良いから、恐らくこれだけで反応してくれることだろう。
そう楽観した私は、人形劇に使った人形達の状態を確かめながら少し待つ事にした。
最近はとても忙しいから、たまにはこんな時間の使い方も悪くない。
私が訪れているのは、周囲を聳え立つ竹で覆われた、巨大な和風建築のお家……つまり、永遠亭だ。
普段は患者としてここを訪れる事の方が多い私だが、今回は純粋にお客さんとして来訪している。
用事はもちろん、事前の約束通りに人形劇で使った人形達を納付をしに来たのだ。
午前の診察と午後の診察の合間にある休憩時間を狙って訪問したのだが、それが合っていれば良いのだけれど……。
門の前で待つ事、少し。
静かだった竹林の中に、門の向こうからパタパタと誰かが駆けてくる音が生まれ、次いで声が発せられた。
声の主は、鈴仙だ。
「はーい、どちら様でしょうか?」
「こんにちは、アリス・マーガトロイドです。お約束の品をお持ちしました」
「ああ、アリスさんでしたか。どうぞ、中へお入り下さい」
「ありがとう。忙しい時間帯なのにごめんなさいね」
「いえいえ、丁度休憩時間でしたので大丈夫ですよ。
それに姫様からのお達しで、アリスさんがお見えになったら直ぐにお通しするようにと言われておりますので」
「あら、そうだったの?」
「そうなんですよ。言ってくれればお迎えに上がりましたのに」
「そんな扱いをされたらこっちが恐縮しちゃうわよ。こちらこそ、予めアポを取らないでごめんなさい」
「永遠亭は常に門戸を開いてお待ちしていますよ。ただいま姫様を呼んで参りますので、こちらでお待ち下さい」
私を応接室に案内した鈴仙は、ペコリと一礼を残して奥へと去って行った。
一人残された私は、荷物を机の脇にそっと寄せて肩の力を抜き、再びノンビリとした時間を楽しみ始めた。
主人の趣味だろうか、応接室からは永遠亭の庭が一望できるようになっており、さながら風景画の中に紛れ込んだような気分にさせてくれた。
魔理沙と一緒にスケッチをしたあの丘が自然の雄大さと荒々しさを一身に受ける眺望だとすれば、
こちらは自然の美しさを一つ所にギュッと凝縮させたような調和の世界だった。
『どちらが良いか?』と問われたとしても私には答えを用意することはできない。
まあ、都会派を自認する私としてはこの人工の庭の方が好みではあるのだが……。
庭から目を離して室内へと目を向けると、こちらは打って変わって賑やかな印象を受ける。
賑やかと言っても、それはもちろん物がゴテゴテと置いてあると言う訳ではない。
それは例えば床の間に飾ってある生け花の藍色だったり、その生け花の器として使われている鉢の灰色だったり、
染み一つ無く綺麗に張られた障子の陽光に透ける白色だったり、部屋の隅に備え付けられた小さな囲炉裏に光る赤だったりと、
穏やかな色彩なのに、さりげなく目を惹く細やかな気配りが行き届いている証拠だ。
聞くところによると、この部屋や庭を手がけているのは蓬莱山輝夜その人なのだとか。
だとすれば、彼女がかつて時の権力者達に見初められたと言う話も真実なのだろう。
そう思わせてくれる説得力が、この庭を見るだけでも垣間見る事ができた。
私も実家で様々な教養を見につけた自負はあるものの、これには敵いそうにない。
「と言うか、この鉢ってひょっとして……いや、まあ、別に何に使っても本人の勝手だとは思うんだけど」
『……が最後……がとう……』
「……ん?」
コレクションの中身でも適いそうに無い。
そう思って生け花の器をマジマジと見ていると、廊下の方から聞きなれた声が聞こえたような気がした。
最初は鈴仙が輝夜を伴って戻ってきたのかとも思ったが、どうも違うようだ。
不躾かと思いつつも、周囲の環境がとても静かなため自然と耳に入ってきてしまう。
気になった私は、襖をそっと開けて外の様子を伺ってみる事にした。
「礼には及ばないわよ。私は医者としてできる事をしたまでですからね」
「それでも、大分助かったよ。もう手に入らないかと思って、諦めかけてたんだ」
(「あれは……魔理沙?」)
襖を開けて奥を覗き込んで見ると、永琳と魔理沙が何かを話している姿が見えた。
ちょうど廊下に置いてある観葉植物が遮蔽物となっていて、
膝立ちの状態で顔だけ出して様子を伺っているこちらの姿は向こうからは見えないらしい。
その代わりこちら側からも二人の顔までは見えないのだが、二人とも特徴的な服を着ているし、声も聞こえるのだから間違いようがない。
ミニ八卦炉は出先でばったり出くわしても大丈夫なように持ち歩いているため、
懐に入れてあるそれの存在を確認した私は、会話の切れ目を見計らって声をかけるために更に様子を伺う事にした。
「このお礼はどうしたものかな。何か渡せる物を持って来れば良かったんだけど……」
「だから、別にいいわよ。それは私からの好意の証だと思って頂戴。もちろん、通常の診察料は頂くけどね」
「まあ、それは有り難いけど、借りは作らない主義なんだ。だから……」
「それなら」
魔理沙の言葉を遮った永琳は、そのまま魔理沙の肩を引き寄せて、包み込むように抱き締めた。
「全てが終わったらまた私の所に診察に来る事。これが私から要求する報酬よ。
その時は、また診察料を用意しておくのよ」
「……分かった。ありがとうな、永琳」
「今後とも、ご贔屓にね。さ、もう行きなさい」
「おう。じゃ、また来るぜ!」
「永遠亭は常に門戸を開いているわ。いつでもいらっしゃい、人間の魔法使いさん」
(「……あっ」)
魔理沙の足音が遠ざかって行き、永琳が診察室の中へと戻って行く。
そこに至って漸く、魔理沙に声をかけ損ねた事に気が付いた。
それと言うのも、目の前で見た光景に呆気にとられて、思考が停止してしまっていたのだ。
「何をしているの?」
「ひゅい!?」
後ろからかけられた声に驚いて振り返ると、不思議そうな顔で小首を傾げる輝夜がいた。
脇には鈴仙も控えていたが、彼女は輝夜の案内が終わるとさっさと奥へ引っ込んでしまった。
「え、ええ、ちょっと知り合いの声が聞こえたような気がしたので、覗いていたんですよ」
「ああ、なるほどね。退屈をさせてしまったようで、ごめんなさいね」
「いえいえ、とんでも無いですよ」
「ありがとう。それで、今日は人形を持ってきてくれたのかしら?」
「はい。お納め下さい」
私の対面に座った輝夜に、人形たちの入ったバスケットを手渡す。
嬉しそうに中を確認した輝夜はその中から永琳の人形を取り出すと、自分の肩に乗せてご満悦の表情だ。
「やっぱりこの子達は可愛いわね。動いているところも見たいのだけど、また劇をやる予定はあるのかしら?」
「ええ。今度、地霊殿でも上演する予定になっているんです。過去の異変の様子を知りたいからって。
……あ、その時までには新しい人形を用意しますので、返して頂かなくても結構ですよ?」
「あら、それは良かったわ。……ん?」
「どうしました?」
「んー……悪いけど、この人形は受け取れないわ。持って帰ってくれない?」
輝夜がバスケットから取り出したのは、私と魔理沙の人形だった。
この二つは、劇の中でも主役として活躍し続けた人形だ。
だから他の人形よりも少しだけ頑丈に作られているし、稼動部分を増やすために工法もやや特殊な逸品だ。
気に入って貰えると思っていただけに、少し意外だった。
「気に入りませんでしたか?」
「いいえ、とても気に入ったわ。だって一目見ただけで特別な人形だって分かるもの。
でも、これを受け取るわけには行かないわね。この子達には、相応しい場所があるはずですもの」
そう言って、輝夜は私の前に二体の人形を置いた。
「大きいイナバを遣わせて私から渡してもいいんだけど、あなたから直接渡してあげなさい。
あなたの心の中にいる、大切な誰かさんにね」
「……私の、心の中?」
「あら、自覚が無かったの? これは無粋を働いてしまったわね。
とにかく、こっちの人形達は有り難く頂いておくわ。
私の力で1000年は保たせて見せるから、その後で修繕をお願いね」
「……それまで生きてれば、ですけどね」
「修繕を頼める事を祈っているってだけよ。さ、もうお帰りなさい」
「はい。お世話になりました。またよろしくお願いします」
「出演料はもう貰ったんだから、私達の名前は常識の範囲内で好きに使っていいわよ。
もちろん、妹紅の名前もね」
「勝手に許可を出していいのですか?」
「いいのよ。そうすれば、『何でお前が許可を出すんだ!』って怒って戦いを挑んで来てくれるでしょう。
腐れ縁との付き合いってのも、大事なのよ」
「はぁ……」
「あなたも、縁は大事になさい。じゃあね~」
話が飲み込めずボンヤリとしている私を置いて、輝夜は退出してしまった。
……私の腐れ縁と言えば、霊夢・幽香・魅魔・魔理沙辺りだろうか。
その中で示唆されているのは、どう考えても魔理沙の事だろう。
そう判断して、私は人形達をミニ八卦路と一緒の場所にしまいこんだ。
「腐れ縁を大事に、ねぇ……。そう言えば、またミニ八卦炉を渡せなかったな」
すれ違ってばっかりで、大事な用事も果たせないでいる。
そろそろ帽子も出来上がるし、今度はこちらから訪ねてみる必要があるかもしれない。
そう考えながら帰宅すると、郵便受けに一通の手紙が入っているのが見えた。
「……見栄えのためだけに置いた郵便受けだったんだけど、まさかこれを使う人がいるなんてねぇ。
どれどれ、差出人はっと……あら?」
手紙の差出人を見てみると、懐かしい筆跡で『神綺』と書いてあった。
誰かが語っている可能性を考えて念のために精査をしてみたが、間違いない。
これは私の母、魔界神の神綺様からのお手紙だ。
家の中に入って中身を読んでみると、『たまには里帰りをしなさい』とだけ書かれていた。
「うーん……。確かに、こっちに来てからは一度も里帰りをした覚えが無いわね。
用事を片付けたら、一度実家に帰るのも悪くは無いかな?」
私は自立して一人暮らしをしている身だが、何だかんだと家族は恋しいもの。
人形達が一緒に居てくれるから寂しくはないものの、時々誰かと一緒に過ごしたくなるのもまた事実なのだ。
これからの予定を決定された私は、それを実行に移すべく針と糸を手に取った。
次の公演の予定は、地霊殿だ。悪霊に邪魔をされないように、念入りに対策を施しておかなければならない。
もうしばらくは、忙しい日々が続きそうだった。
***
神綺様からのお手紙を受け取ってからまた数日、天体観測の日から数えて三週間が経過した。
連日のようにあちこちで公演を開いていた私だったが、
地霊殿・命蓮寺・神霊廟と巡った後はある程度の暇を作る事ができた。
魔界に里帰りするため追加の予定は一切入れず、
後は空いた時間を見つけては作っていた魔理沙の帽子を本格的に仕上げてしまえば、今あるお仕事は全て完了する。
そろそろ日付も変わろうかと言う遅い時間だが、私は逸る気持ちを抑えて針仕事に精を出していた。
魔理沙には、どんな帽子が似合うだろうか?
いつも汚れが目立たないような黒い服を着ている魔理沙だが、
ああ見えてファッションには意外と拘っているらしい。
春夏秋冬、季節に合わせた黒い魔女服のアレンジ服を持っているとか何とか。
それが本当だとしたら、服に合わせるのではなく魔理沙に合わせた帽子を考えないといけない。
そんな事を考えながら作業をしていたら、これだけで丸一日もかかってしまったくらいだ。
その甲斐もあってか、満足の行く出来栄えの品物が出来上がった。
下手な公演や人形作りよりもずっと手が込んでいる自信作で、
プレゼント用の箱に包んで丁寧にラッピングを施し、リボンで飾り付ければそれで完成だ。
「よしよし。後はこれを渡すだけね。ちゃんと会えればいいんだけど。
……そう言えば、あの日以来魔理沙に会っていないわね。
すれ違ってばっかりで、顔を合わせたり、声をかけたりはできていないわ」
一度仲良くなってしまうと、印象がガラリと変わるのは良くある話で。
最初の頃はあれだけ煙たがっていた魔理沙の存在も、彼女が来なくなってしまった今となっては懐かしく感じてしまう。
それ以前は、精々がご近所さんとしてたまに話をしたり、蒐集品がかち合って弾幕ごっこでケリを付けたり、
頻度は低いが宴会や紅魔館に出かけた際にばったり出くわしたりと、そこまで親しい間柄ではなかった筈だ。
でも、ここ一ヶ月と少々の間で随分と親しくなった。そのきっかけはもちろんあの日の告白だ。
「今となっては、それも懐かしい感じがするわね。まだそんなに時間も経っていないのに。本当、楽しかった……」
完成したプレゼントを手にとって、魔理沙との思い出を振り返る私。
感情を隠す事なく明け透けに接してくれていた魔理沙の表情はとても豊かで、
それを思い出すだけで情景が浮かんでくるようだった。
「この笑顔は、里で一緒にお買い物をした時の顔。
子供みたいに目を輝かせて、まるで私がお母さんかお姉さんになったみたい。
魔理沙が渡してくれたネックレスは、あの日あの場所で買っていたものなのよね」
今も身に着けているネックレスにそっと触れる。
「この呆れ顔は、人形劇の直前でパニックに陥っていた私を落ち着けてくれた顔。
私に分かり易い様にそんな顔をしていたけれど、その後ろには魔理沙の優しさが見えるわ。
魔理沙は私の事をずっと優しい優しいと言っていたけど、本当に優しいのは誰なんだか」
頬に手を当てて嘆息を一つ。まだあの時の感覚が残っているような気がする。
「こっちの怒り顔は……私が火傷をしちゃった時の顔ね。
紅茶を淹れようとして、うっかりヤカンに手を触れちゃって、それを隠そうとして、見つかって。
放っておけば治るって言ったのに、勝手に軟膏を塗りこんで。
迷惑だって言ったのに、全然引き下がらないの。全く、もう」
既に完治している指を撫でる。思い返すととても嬉しい。
一つ魔理沙の顔を思い出す度に、楽しかった記憶が溢れて来て、暖かい気持ちが胸の中に溜まる。
まるで心の中にある思い出が、今の私の糧となっていてくれているように思えて、私の心は穏やかになった。
その感覚を楽しみながら自分の心をじっくりと眺めてみると、不意にある事に気が付いた。
私の精神の拠り所、魂と言える場所に、大きな光の玉のようなものが感じられるのだ。
それは、私の心を後ろから支える柱の一部として静かにそこにあった。
「ああ、これだわ。魔理沙と一緒に居た時、漠然と感じていた暖かい気持ち。
魔理沙はこれをくれたのね。近頃の絶好調は、これのお陰に違いないわ。
ふふ、今度会ったら、ちゃんとお礼をしないとね。こんなにも……」
愛してくれていたなんて。
「……ん?」
何となく思考に違和感を感じた私は、その原因を探るべく思考を深く巡らせた。
私は今、とてもおかしな事を考えなかっただろうか?
「……えーっと……。ちょっと待って、分析しないと。
上海、お茶とクッキーの準備をして頂戴」
『シャンハーイ!』
「私は今、魔理沙が私を愛してくれていたと実感したのよね。
それってつまり、今までは実感していなかったって事?
あれだけずっと言い続けてくれていたのに?」
だとしたら。私は随分と身勝手な事をしていたのではないだろうか?
自分に好意を寄せる相手をずっと蔑ろにして、貰える物だけを貰って捨てた。
そう考えても、全く差し支えが無い状態だ。
「パチュリーは、私の事を『若い』と評したわ。
それってひょっとして、私が経験不足で魔理沙の思いに気が付かないって事?」
恐らく、そういう意味だろう。現に私は魔理沙から受けた恩を未だに返せないでいるのだから。
私の恋愛経験は……紫の前で少し強がったように、皆無だ。
魔界にいた時は魔法の修行で忙しかったし、子供だったし、魔界神の末娘に言い寄るような根性のある男もいなかった。
一応、初等学校の時に同じクラスで仲の良い男の子はいたが、それも極々短い間の付き合いだ。
私が飛び級で大学まで行ってしまうと、自然と顔を合わせなくなった。
つまり、私はこと恋愛に関しては全くの素人、経験不足のアマチュアだ。
魔理沙の思いに対して、報いる方法が分からない。思いの返し方が分からない。
そう言えば。忙しさにかまけて、まだ約束の打ち上げパーティーすら開いていない。
いや、そういう問題でもない。私は、彼女に対して誠実だっただろうか?
もちろん、そんな事を言えるわけがない。毎日のお茶は欠かさずに出していたが、それだって自分の生活の延長線にあるものだ。
私は『いつも通り』、『本気を出さない』、『一歩引いた所から』魔理沙に接していた。
安全圏内から、魔理沙の渡してくれる思いを甘受していたのだ。
これでは略奪者と言われても、何も言い返せなのではないだろうか?
「例えば、例えばよ。私が魔理沙の気持ちを知って……違う、知ってはいたわ。
知っていたけど、深く考えなかっただけ。深く考えないで、心変わりする前の結論をそのまま使っただけだわ。
あの時の告白は断ったけど、もしも本気で彼女との関係を考えていたら……」
どうなっていたか分からない。
考えがそこに至った瞬間、私の背中に嫌な汗がどっと溢れてきた。
『アリス、愛してるぜ』
魔理沙の言葉が脳裏に蘇る。
そして魔理沙から貰った『暖かい気持ち』に改めて触れてみると、
私が思っていたよりもずっと大きく、力強いものだと分かった。
それこそ、魔理沙の代名詞となっているスペルカード、『マスタースパーク』のように。
(「これは……これは、何なの!? とてもじゃないけど、大きすぎて抱えきれない!」)
無自覚に受け取っていた物の大きさに気が付いた私は、そのままフラフラと椅子に倒れこんでしまった。
まるでとても重い荷物を抱え込んでしまったかのように、足がガクガクと震えて力が入らない。
それでも呼吸を無理矢理落ち着けて、それにもう一度触れてみる。
すると、まるで魔理沙が後ろに立って背中を支えてくれているような感覚を覚えた。
そして私は、不意にこれの正体が何なのか分かってしまった。
「ああ、そうか。これは魔理沙の『魂』だわ。
私は本気じゃなかったのに、魔理沙は本気だった。
この気持ちは、魔理沙にとっては全身全霊、文字通りの魂をかけての……恋心だったのね」
絶好調になるのも当たり前だ。
だって今の私の中には、二人分の魂があるのだから。
「紫は、『自分にはとてもできない偉業』と言っていたわね。当たり前だわ。
精神と魂に存在を依存する妖怪がこんな事をしたら、どんな大妖怪でも死んでしまう。
いつだって、妖怪の心を揺り動かすのは人間なのだから」
そうだ。妖怪の心と魂を震わせる事ができるのは、常に人間だ。
だから私は魔理沙に対して態度を軟化させる事ができたし、人形劇を成功に導いて貰う事ができたのだ。
だって、人間はとても強いから。肉体と精神の両方が同時に死なない限り、どこまでも行けてしまう。
その強い心を、魔理沙は私にぶつけて来てくれた。
「魂と精神をすり減らして……毎日駆け回っていたから、体力も限界だったかもしれないわね。
それでも一縷の望みをかけて告白をして……玉砕して。
私だったら、それに耐える事ができ……っ!」
強く自分の肩を抱く事で、突如として襲い掛かってきた怖気に耐える。
チラリと想像しただけでも、背筋に猛烈な悪寒が走るほどに恐ろしい。
私にはとてもではないが、そのような行動はできない。
仮に私が妖怪じゃなかったとしても、絶対に不可能だ。慌てて頭を振ってその想像を追い出す。
「最後の夜。別れる前に魔理沙から感じた感覚は、魔理沙の心の壁が壊れた瞬間だったのね。
……パチュリーは分かっていたんだわ。
きっと魔理沙が、疲れ果てて一人で泣いているであろう事を。だから、一刻を争うって……」
悪い想像は止まらない。
私には、目を赤く腫らす魔理沙と、それを慰めるパチュリーの姿が簡単に想像できた。
この想像が本当なら、二人の距離は急速に縮まったことだろう。
「私、何をしていたんだろう。何で……」
魔理沙の横にいるのが、私ではないのだろう?
「……!?」
気が付いたら、私は家を飛び出して夜の森へと駆け出していた。
手には無意識のうちに引っつかんでいたプレゼントの帽子だけしか持っておらず、
お供として自動追尾させている上海以外の人形はみんな置いて来てしまった。
しかし、そんな事を気にかけている暇は無い。今はとにかく、魔理沙に会う事しか考えられなかった。
後ろも振り返らず、駆ける、駆ける、駆ける!
「はぁ、はぁ、はぁ……ここまで来たけど、どうしよう……」
途中からやや冷静さが戻って飛行モードに切り替えたものの、魔理沙の家の前に到着する頃にはすっかり息が上がってしまっていた。
家の様子を伺ってみると、居間と思しき部屋の方から僅かに明かりが漏れているのが分かる。まだ起きてはいるようだ。
発作的にここまで来てしまったが、私はどうするつもりなのだろうか。
一体何をするのか。何を話すのか。どんな顔をすればいいのか。
扉をノックしようかどうか躊躇っているうちに、置き去りにしてしまっていた上海人形が追いついて来て、手にしたバスケットを渡してくれた。
この子は私の魔力の影響で少しだけ妖怪化しているから、これくらいの気は回してくれるのだ。
『アリスー オチャノジュンビデキタヨー ツツンデモッテキター』
「え? ……ああ、そうだったわね。お願いしてあったわね。ありがとう、上海。
……そうね、パニックを起こす何て私らしくなかったわね。一度出直して、ちゃんと準備を……」
「……誰だ?」
唐突に、魔理沙の家の中から誰何の声が上がる。
ふと冷静になって周囲を見回してみると、もうそこは魔理沙のテリトリーで、私と上海は彼女の張ったアラーム結界の中へと入り込んでしまっていた。
そのせいで感づかれてしまったのは明白だが、心の準備も何も無くかけられた魔理沙の声に、私の体は竦みあがってしまった。
「来客なら、すまないが今日は帰ってくれ。私は少しばかり忙しい。
そうでなくても、すまないが帰って……ん? この気配、アリスか?」
「え、ええっと……うん」
「なんだ、アリスか。ちょっと待ってろよ」
扉が開かれると、寝巻きの上にどてらを着込んだ魔理沙が顔を出した。
顔色は私が思ったよりも悪くなく、目元も腫れたりはしていない。
「あっ……!」
「やっぱりアリスだ。どうしたんだ、そんなに慌てて?」
「いや、その、えっと……今日はいい天気ね!」
「? 一面の曇天で、今にも雨が降りそうな空模様なんだが?」
「あっと、その……レ、レミリアとか吸血鬼にとっては、いい天気よね!」
「だから、雨が降りそうだってば。……まあいいや。入れよ、茶くらいは出すよ」
「いや、それは持ってきたわ! 一緒にお茶でもしない!?」
私の唐突な言葉にキョトンとした魔理沙だったが、すぐにクスクスと笑い始めた。
「変な奴だな。お茶に誘ったのは私なのに、自分で既に準備してるなんてよ」
「あなたが先走ったんでしょ。じゃあ、入るわよ」
「ああ。汚い家だが、ゆっくりしていってくれ」
その言葉に嘘は無く、魔理沙の家は相も変わらずガラクタだらけで、雑然としていた。
しかし見方が変われば印象も変わるもので、ソファーや机、通路などは綺麗に清掃されている事が分かった。
ゴミとしか判断のできない様々な代物も、私には使い方が分からないだけで実際にはそうではないのかもしれない。
もちろん、魔理沙にも使い方の分からないガラクタもあるのだろうが、そう言った品を理解するのも勉強方法の一つだ。
私とは魔法使いとしての方向性が違う。それだけなのだ。
「でも、良かったの? 忙しいんじゃあ……」
「アリスが家に来てくれたんだ。用事なんてパスパス、後回しだ。嬉しいぜ」
「……お台所を借りるわね。紅茶の銘柄は何がいいかしら?」
「私は御相伴に預かるだけだからな。アリスに任せるぜ」
震える声を何とか自制してそれだけ聞き、逃げるように台所へと入る。
そこはやはり綺麗に片付けられていて、生ゴミや洗い物などは残っていない。
火を借りて、湯を沸かす。その暇な時間でとにかく落ち着こうと深呼吸をするが、激しい動悸は収まる所を知らなかった
無為な時間を過ごすうちにも、準備は着々と整って行く。
いつの間にか出来上がっていた紅茶を持って居間に戻ると、魔理沙は読んでいた本に栞を挟んで閉じると、私の方へと向き直った。
「いい匂いだ。アリスの紅茶を飲むのも、随分久しぶりな気がするぜ」
「そんな、大袈裟な。まだ一ヶ月も経ってないじゃない」
「一日千秋の想いって奴さ。さ、飲もうか」
改めて魔理沙を前にすると、私は胸を締め付けられるような強烈な不快感と喉の渇きを感じた。
それを流し込むためにも紅茶を一気に呷り飲むが、喉の渇きは一向に癒える気配は無く、不快感も増すばかりだった
会話の糸口が掴めない。こうして対面しているだけで、魔理沙から貰った魂の重さに押し潰されそうになってしまう。
まさか、これが恋なのだろうか? だとしたら、何と苦しいものなのだろう。
「うん、やっぱりアリスの淹れる紅茶は抜群に美味いな。咲夜のもいいけど、私はこっちの方が好みだぜ」
「そんな、咲夜と比べないでよ。お世辞にしても度が過ぎるわよ?」
「お世辞のつもりは無いんだけどな。アリスの紅茶からは、優しい味がするんだ。私の色眼鏡かもしれないが、な」
ゆっくりと紅茶を飲み干した魔理沙は、カップを静かに置いてこちらに目線を合わせて来た。
「それで、今日はこんな時間にどうしたんだ? 良い子は寝る時間だぜ?」
「えっと……頼まれていた帽子が完成したから、早く渡そうかと思って。
そろそろ魔界に帰郷する予定だから、その前にね」
「ああ、完成したのか! 見せてくれ~」
どうぞ、とプレゼントの箱を取り出す私。
それをそっと受け取った魔理沙は、包装を丁寧に剥がして中の帽子を取り出して、胸元に抱き抱えた。
どうやら気に入って貰えたらしく、嬉しそうに笑ってしきりに姿見の方を気にしている。
「気に入ってもらえたかしら?」
「ああ、最高だ。やっぱりアリスに頼んで良かったな。正しく『一生の宝物』にするぜ!」
「気に入ってもらえて良かったわ」
『でも寝間着とどてらには合わないな』と苦笑しながら帽子を外す魔理沙。
席に着き直して紅茶を飲もうとするが、先程飲み干したため中身は空だった。
それを見て私がティーポットへと手を伸ばすのと、魔理沙が自分でティーポットへと手を伸ばすのはほぼ同時だった。
結果、ティーポットの取っ手のところで魔理沙と手が触れ合った。
「!?」
慌てて手を引っ込める私と、訝しげに私の方を見る魔理沙。
どうして手を引っ込めてしまったのかは、自分でも分からない。
「どうした?」
「な、何でも無いわ。予想外の事に驚いただけよ」
「ふーん……。ところで、魔界に帰るって言ってたよな。それはいつからだ?」
「近いうちに出発しようと思うのよ。ママ……神綺様から、一度帰ってくるようにって手紙が来たから」
「ふむ、そうか。それなら丁度良いかもしれないな……」
私に向き直って、話を始める魔理沙。
しかし当の私は上の空で、何も気の利いた返事を返す事ができないでいた。
(「さっきの魔理沙の手、暖かかった……。もっと、触るべきなのかしら?」)
机に置かれた魔理沙の細い手が気になって仕方ない。
彼我の距離は30cmも離れておらず、何気なく手を伸ばせば直ぐに届く距離だ。
魔理沙は、幾度と無く私の手を引いてくれた。
もしもその魔理沙に誠意を見せるなら、この手を握り返すべきなのではないだろうか?
もしも私が魔理沙の事が好きならば、この手を取るべきなのではないだろうか?
「……アリス、どうした?」
「何でもないわ。それで、丁度良いってどう言う事?」
さりげなく手を前に出して、魔理沙の手に触れようと試みる。
しかし、30cmは思ったよりもずっと遠くて。
伸ばした手は、途中で机の上に落ちてティーポットへと吸い込まれていった。
(「魔理沙はどうやっていたのかしら。手を出すだけなのに、意識するとこんなにも難しいなんて……」)
ふと視線を上げて魔理沙の方を見てみると、小さく笑って上海の頭を撫でていた。
「上海。お前のご主人様は可愛いな。これからもずっと、支えてやるんだぞ?」
『シャンハーイ!』
「……えっ? どう言う事?」
「何でも無いさ。ところでアリス、帽子以外にも私に何か用があったんじゃないのか?」
「そ、それは……」
「いいから、話してみろよ。時間はまだあるから、全部聞くぜ?」
とどめを刺されたような気がした。退路を絶たれたようにも感じた。
正面から私を見据える魔理沙の優しい瞳が、今の私にはとても辛くて。
それでも、静かにこちらが話し出すのを待ってくれている彼女を前に、
これ以上だんまりを続ける方が私には心苦しかった。
酸欠の魚みたいに口をパクパクと動かした後に、私はポツポツと語り始めた。
「……私、魔理沙に謝らないといけない事があると思うの。
ただ、まだ私の中で整理ができてなくて、何て言ったらいいのかも分からなくって。
でも、居ても立ってもいられなくて! それで、それで……」
「それで、こんな時間に会いに来てくれたのか」
「うん……。私ね、魔理沙と一緒に過ごした時間が、とても楽しかったの。
でもそれって、魔理沙にとても大きな負担をかけていたんじゃないかって。
そう思い当たったのよ……」
うつむきがちな顔に力を篭めて、何とか下を向かないように努力をする。
それでも、こちらをじっと見つめる魔理沙の目と目を合わせる勇気は無かった。
手を膝の上に置いて、スカートをギュッと握り締める。
「続けてくれ」
「うん。それで、えっと……魔理沙は本気で私にぶつかって来てくれたのに、私はそうじゃなくって。
むしろ全然自覚も何も無くって、それが心苦しくて……ああ、どうしよう。全然纏まらないわ……」
「大丈夫、ちゃんと聞いているぜ。纏まらないままでいいから、話してくれよ」
「ありがとう……。それで、思ったの。魔理沙は包み隠さず、ありのままの全部を私にくれたのよね。
だから、私もそれに応えるべきなんじゃないかって」
「うん、それで?」
「そう考えたら、魔理沙の事を思い出す度に、胸の奥がキュッと締め付けられるような感覚を覚えたわ。
もしかしたら、これが魔理沙の言う恋心なのかなって……そう思ったの」
膝に置いた手を上げて、顔を覆う。たぶん、もう碌な顔をしていない。
それでも頬と口元を力任せに揉み解して、面を上げる。
「わ、私ね!もしかしたら、魔理沙の事が、好きなんじゃないかって!
だ、だから魔理沙! この前の返事を、無かった事にしてくれないかしら!」
上げた面を深く下ろして、魔理沙に無茶なお願いをする。
あの日の告白の返事を、一度無かった事にして欲しいと。
どれだけ頭を下げていただろうか。
体内時計は5秒程度の沈黙だったと告げているが、私の体感時間はそれこそ夜が明けるほどに長く感じた。
そんな長い長い沈黙の後。魔理沙がやっと声を上げてくれた。
「アリス、とりあえず頭を上げてくれ。お互いに顔が見えないと、話もできないだろう?」
「う、うん……」
言われて再び面を上げると、驚くほどすぐ目の前に魔理沙の顔があった。
私が顔を下げている間に近付いてきたのか、椅子に座っている私を見下ろす形で、普段とは逆の立場だ。
私と無理矢理視線を合わせた魔理沙は、互いの吐息がかかるくらいまでの距離まですっと近付いてきた。
「ま、魔理沙……?」
「なぁ、アリス。私の事を好きだって、本当か?」
「え、ええ、そうよ。この想いは、きっとそうだわ」
「そうか。じゃあ、私の事を好きだと言ってくれるのなら……」
このまま、キスしてもいいか?
そう問われて、気が付く。既に二人の距離はそれくらいまで近くなっていたのだ。
頭にカアッと血が登る。眩暈がしてグルグルと視界が回る。心臓がバクバクと打ち鳴らされて耳鳴りもする。
それでも自分から『好き』と言い出した手前、拒絶するわけにもいけない。
「わ、分かったわ。私はどうすればいいの?」
「目を閉じて、肩の力を抜いてくれ。私に任せてくれればそれで大丈夫だ」
そう言って優しく私の肩に手を置く魔理沙の表情は、私が知らない顔だった。
優しい、とはまた少し違う。それは神綺様や年嵩の妖怪等が時折見せる、いわゆる『女』の顔に見えた。
その魔理沙に言われるまま、流れに身を任せてギュッと目を閉じる。
肩の力を抜けと言われても、それは全然無理で。きっと私の顔は湯当たりしたみたいに赤くなっているはずだ。
無意識のうちに口は真一文字にギュッと引き締められて、緩んでくれる様子は無かった。
「アリス、落ち着いて。誰も取って食いはしないぜ?」
「ん、んんぅ……」
唇の上を指で軽くトントンとノックされて、口元の硬直を解けと指示される。
食い縛った歯を意識して開いて口笛を吹くように軽く唇を尖らせると、その先端にそっと何かが触れた。
柔らかい。まるで上等な絹のようだ。
唇の感覚だけが脳裏に残り、何も考える事ができない。
完全に停止した思考の中で、魔理沙の声が『後ろから』聞こえた。
「アリス、目を開けてもいいぜ」
「……え?」
言われた通りに目を開けると、そこには目を 『><』の形にしている上海がいた。
しばらくは私の顔にしがみついていた上海だったが、
魔理沙がその背中を引っ張ると渋々と言った様子で離れて行き、
クルクルと嬉しそうに飛び跳ね回り始めた。
上等な絹のようなではなく、そのまんま絹だった。
「え? え、え、えぇ? しゃ、上海……?」
次第に状況が読み込めてくる。
私の唇に押し付けられたのは、上海だったのだ。
私が思考を停止させている間に後ろに回りこんだ魔理沙は、上海に身代わりをさせたのだ。
人形達は私の子供同然だからキスのカウントには入らないし、そもそも日常的にしている。
そう理解が追いついて、魔理沙とキスをしたわけではないと知った瞬間。
私は全身から力が抜けて椅子にへたりこんでしまった。
不甲斐ない話だが、腰が抜けてしまってかもしれない。
「はは、どうだったよ? 私とキスをしたと思ったか?」
「……何よ、何なのよ! 人の気も知らないで、こんな時に悪戯を仕掛けるなんて! 最低よ!」
「すまんすまん。でもアリス、キスをした相手が上海だって気が付いた時、安心したか?」
「えっ?」
言われてみれば、確かに。
今まで張り詰めていた緊張の糸がぷっつりと切れて、深い安堵感が私を満たしているのが分かった。
「……ええ、そうね。ちょっと立ち上がれないくらい、脱力しちゃったわ」
「そうかそうか。……なぁ、アリス。このままで話を聞いてくれるか?」
背後から私の肩に手を置き、軽く体重を乗せてくる魔理沙。
こんなに近くにいるのに、先ほどとは違って頭が熱くなる様な感覚はなかった。
「まず、な。お前の感じている感情は、恋心じゃない。
それはアリスの優しさが生み出した、一種の強迫観念だ」
「強迫観念?」
「ああそうだ、強迫観念だ。アリスは私からの好意を受けて、それに応じないといけないような気になっているんだ。」
「そんな、単純な……」
「心当たり、あるだろう」
『これは貴方の問題だから、私が口出しするものではないわ』
『あなたの恋愛経験ってどうなっているのかしら?』
あの二人の言葉が蘇る。
「……ええ、あるわ。私はあの二人に言われて、私はやっと自分で考え始めたのですから」
「あの二人って……ああ、パチュリーと紫だな? ったく、お喋りな奴らだな」
「どうして、あの二人が?」
「あ、うん。お前に渡した本だけどな。あれを譲って貰ったのがあの二人なんだ。
服飾大百科はパチュリーから、魔法使いの手記は紫からな」
「譲って貰った?」
「ああ。ちゃんとした対価を払って、正式に譲り受けたんだ。アリスに渡すプレゼントが借り物じゃあ悪いからな」
「そうだったの……。でも、高かったのでしょう?」
「大したものじゃなかったよ。アリスの喜んでくれる顔を想像したら、手放すのが惜しくも何とも無かった程度にはさ」
懐にそっと手を当てると、そこにはミニ八卦炉の硬質な感覚があった。
私の笑顔のためだけに、魔理沙はこれを手放したと言うのだろうか。
「こんなに沢山の贈り物を貰っていたのに、私ったらダメね。
鈍感で、考えなしで、甘えん坊で。魔理沙から貰った気持ちに全然気が付きもしない。
こうやって魔理沙に会いに来たのも、結局は自分のためじゃない……」
こうやって魔理沙に会いに来たのも、何のことはない。
自己嫌悪を紛らわせるために、自分を慰めに来たのだ。
あるいは、また魔理沙の魂を吸おうと言う魂胆でもあったのだろうか。最低だ。
「ほら、それが強迫観念なんだ。アリスは優しいから、受けたものを全部返そうとしているんだ。そうだろう?」
「そう……かもね。だって、私はまだ魔理沙に何も報いる事ができていないもの」
「……アリスは、一つだけ勘違いをしているな。私は、アリスから十分に見返りとお返しを貰っているぜ?」
「それは嘘よ。だって私は、魔理沙に対して真剣では無かったわ。
思いに応える事も、きちんと話あってから別れる事もしなかったじゃない。
そんな私が、魔理沙に何を渡せたと言うの?」
「思い出さ」
魔理沙の体がぐっと沈みこみ、私の頭に鼻先が触れる。
「実はな。アリスに振られた後、全然落ち込んだりはしなかったんだ。自分でも薄情に思うくらいにな」
「え?」
「だって、アリスは私が欲しかった物を全部くれたからな。
告白の結果は失敗に終わったけど、その代わりに沢山の思い出が手に入ったんだ。
……そりゃあ、悲しくなかったと言えば嘘になるぜ。
それこそ心配したパチュリーが来てくれるくらいにはな。まったく、あいつも抜け目無いぜ」
クスクスと楽しげに笑う魔理沙。
「けどな。悲しい気持ちが過ぎ去って、アリスと一緒に居た時間を振り返る余裕ができたら、幸せな思い出ばかりが頭に浮かぶんだ。
喧嘩したり、罵り会ったり、最後に振られたりしたのも、全部全部楽しかった思い出として再生されるんだ。
それは、何物にも変えがたい私だけの宝物さ」
クルリと正面に回り込んで相対した魔理沙は、私を慰めるように肩をポンポンと叩いた。
一度叩かれるその度に、私の中で持て余していた魔理沙の魂が小さく凝縮され、すっぽりと私の魂の中に収まるような感覚を覚えて、
いつの間にか自己嫌悪の感情も消えていた。
魔理沙の恋心が私の中に染み入って、しっくりとはまり込んだような感じだ。
暖かさは今までと同じだが、もう持て余す事は無い。
「アリスは、気が付いていないだろうけど、私は十分に見返りを貰ったよ。
私は、幸せだった。いや、今でも幸せさ!
私の恋心は、全部アリスの中に置いてきた。
この恋に悔いは無いし、アリスが気に病む事何て一つも無い!
むしろ誇って欲しい。アリスは、私をこんなにも幸せにしてくれたんだからな!」
背中に手が回されて、魔理沙に抱き締められる。
私の手も自然と動き、柔らかい抱擁を返した。ギュッと抱き締める。
「魔理沙、ありがとう……」
「それでも足りないって言うんなら……もう一度、目を閉じてくれないか?」
「ええ、分かったわ」
今度は肩に力を入れず、自然に目を閉じる事ができた。
魔理沙が近付いて来る気配を感じてじっとしていると、魔理沙は唇のすぐ横、頬と唇の間にあるとても際どい所に口付けをした。
目を開けると、顔を真っ赤にした魔理沙がはにかんだ笑みを浮かべているのが見えた。
それはさっき彼女が見せた『女』のような笑みではなく、本当に嬉しそうに笑う『少女』の笑みで。
きっと、これが魔理沙の素顔なのだろう。
不意に、私の心臓がトクンと鳴った。
「……アリス、愛しているぜ。また何かあったら、私の所に来いよ。必ず力になるぜ」
「……ありがとう、魔理沙。あなたは私の親友よ」
「何だよ、改まって……照れるぜ」
「ふふ。いつもそうやって殊勝にしていれば、可愛いのにね」
「馬鹿やろう。私に可愛いの何て似合わないぜ。アリスに比べたら、全然大した事は無いさ」
「そんなに謙遜しなくてもいいのに。……あ、そうだ魔理沙。これを」
懐からミニ八卦炉を取り出し、魔理沙に手渡す。
「ん? これはミニ八卦炉じゃないか。どうしてこれをアリスが?」
「パチュリーから受け取ったのよ。『私には重過ぎる』と言っていたわ」
「ああ。押し付けちまったアリスには悪いけれど、私の愛は基本的に重いんだ。
だから、アリスをこんなにも混乱させちまった。それは本当に申し訳ないと思ってる」
「……私には、良く分からないわ。経験が無いから、重いも軽いも分からないの」
「そっか。まあ、それならそれでいいさ。ただ、重荷になると思ったら、素直に捨ててくれて構わないからな。
妖怪にとって、それは毒だろうからさ」
「そんな寂しい事は言わないで頂戴。今の私があるのは、魔理沙のお陰なんだから。
あのままスランプを抜け出せずにいたら、今頃どうなっていたか……」
「スランプを抜け出したのは、アリス自身の力だよ。私が何もしなくても、きっと一人で何とかしていたさ」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。でも、私はそうだと考えているわ。
だから、本当に感謝しているの。ありがとう」
「……それなら、一つ頼みがある」
「何かしら?」
「このミニ八卦炉はアリスが持っていてくれ」
一度手渡したミニ八卦炉を、私の手の中に戻す魔理沙。
それに対して困惑の表情を向けると、照れたような、困ったような複雑な笑みを返してくれた。
これも見た事が無い表情だ。
「ん、まあ、何だ。そのミニ八卦炉は大百科と引き換えにパチュリーに渡したものだ。
だから持ち主はパチュリーなわけで……そのパチュリーがお前に渡したんなら、それはお前のものだ。
持っていてくれ、きっと何かの役に立つ」
「そんなわけには行かないわよ。私はこれを魔理沙に返すために預かったんだから」
「だから、お願いだ。思い出だけじゃなくて、それ以外の何かをアリスに遺してやりたいんだ」
「私に、残す?」
「ああ。ペンダントは既に渡したけれど、それとは毛色が少し違う。
ミニ八卦炉は、私が魔法使いとして自立する時に香霖から貰った大切な品だ。私の魂の一部だ。
それをアリスに持っていて欲しい。遺してやりたい。そう思うんだ」
「……つまり、預かればいいのね?」
「そうだな。しばらくの間預かっていてくれ。私もアリスに対する未練を整理して、心を片付けたら受け取りに行くからさ。
そうしたら、また一緒にお茶を飲もう。打ち上げパーティーをしよう。一緒にまた星を見に行こう。いいかな?」
「分かったわ、待ってる。それじゃあ、魔理沙には代わりにこれをあげるわ」
「……これは、人形?」
「先日の人形劇で使った、主役の二体よ。きっと、この子達はあなたと一緒にいるのが相応しいと思うの」
「これ、本当に貰ってもいいのか? こんな汚い家に置いておいたら、すぐに汚れちまうかもしれないぜ?」
「そうしたら、また綺麗にしてあげる。いつでも言いなさい」
「本当に、本当に貰ってもいいのか!?」
「もちろん。言ったでしょう、この子達はあなたと一緒にいるのが相応しいって」
「うわぁ、嬉しいぜ。ありがとうな、アリス! 大切にする!」
最初に渡した帽子と一緒に、人形達を胸に抱き締める魔理沙。
今度は見た目の年よりも更に幼く見える、無防備な笑みだった。
こんな魔理沙、今までに一度だって見た事は無い。
本当に、渡せて良かった。気を回してくれた輝夜には感謝しないといけない。
「それじゃ、私はもう帰るわね。こんな時間に押し掛けてしまって、ごめんなさい」
「気にするな親友。……あ、そうだ。もう一つ頼みたい事があったんだ。いいかな?」
「何かしら?」
「アリスは一度魔界に帰るんだろう? それなら、この手紙と荷物を神綺の奴に渡して欲しい」
「マ……神綺様に? 別に構わないけど、どうしたの?」
魔理沙が部屋の隅から取り出したのは、絵画と思しき大きさの長方形の品物と、しっかりと封蝋を施された親書だった。
前者は恐らく、以前のスケッチをした時に書いたものだろう。
それはそれでいいのだが、どうして魔理沙が神綺様にそれを送ろうとするのかが疑問だった。
「……いや、本当にどうしたの? どういう繋がり?」
「なぁに、大した要件じゃない。アリスの好物とか、誕生日とか、癖を聞いたソースってだけだよ。
私が何の考えもなしにクレープ屋を勧めたと思うのか?」
「何て用意周到な……知っていたって事は、ママは応じたのよね。
仮にも個人情報を、一体何を考えているのかしら。まったく!」
「はっはっは、怒るなよアリス~。可愛い顔が台無しだぜ~?」
「ええい、頬をつつかないで頂戴! 荷物は確かに預かったから、安心しなさい」
「勝手に見るなよー」
「見ないわよ。それじゃあ、またね。上海、帰るわよ」
『ハーイ! キョウハイイヒダナー』
「アリスも上海も元気でな。今度は他の人形達も一緒に連れて来いよ」
「分かったわ。お休みなさい」
「ああ、お休み。さようなら」
魔理沙の家を出て、自宅へとフライトコースを取る。
来る時に感じていた胸のムカムカが綺麗さっぱり消え去り、今はとても清々しい気分だった。
心は高揚感に満ちていて、星空を眺めるだけで嬉しくなる。
「これが魔理沙の言っていた『思い出』なのね。きっと私は、あの星空を見る度に魔理沙の事を思い出すんだわ。
……実家から戻ったら、いつでも魔理沙をもてなせるように準備をしておきましょう。きっと楽しい時間になるわ」
魔理沙の事を思うだけで、フワフワとした浮き上がるような感覚が身を包んだ。
その不可思議な感覚を抱いたまま、私は帰路についた。
続きを読みたい!
ハッピーエンドで終わってくださいお願い
間に合ってくれっ…!
そんな不安を抱いて新年を迎えろだなんて貴方はすげえドSだw
でも続きを楽しみにしています。
次回も楽しみにしております!
できることなら魔理沙を今すぐ抱きしめたい
続きが楽しみです。
この作品でも若干感動しましたけど、まだまだ序の口でしょうね。