むかーしむかし。とある山のあばら屋に住む、一人の天邪鬼がおりました。
天邪鬼は悪さをするのが大好きで、その日も獲物を探して、春先の、まだまだ寒い川沿いを歩いていました。
「やや」
と、天邪鬼は小さく驚きの声を上げました。
なんと、川に一人の人間が流れているではありませんか。
(あれは死体かしらん)
そう思った天邪鬼は、すぐさま引き上げにかかりました。
死体なら皮を剥いで、それを使って人間に化けたら、さぞや面白おかしい悪戯ができるに違いないと考えたのです。
けれど、その目論見は外れてしまいました。水に漬かってすっかり重たくなっていたのを、どうにかこうにか引き上げた人間は、すっかり弱って気を失っていたものの、まだ息があったのです。
「なんだ、つまらない」
天邪鬼は残念そうに舌打ちをしました。生きているのでは綺麗に皮を剥ぐのが難しいし、悪戯をするにしても、相手が気を失っているのでは何の面白味もありません。かといって、せっかく苦労して引き上げたのに、何もせずに終わってしまうというのも癪でした。
「そうだ!」
考えるうちに、天邪鬼は一つ、名案を思い付きました。天邪鬼はひいひいと息をしながら人間を担ぎ、けれど嬉しそうににたりと笑って、自分の家へと引き返しました。
◆
家に戻った天邪鬼は、たいそう手厚く人間を介抱しました。火を焚いて濡れた体を乾かし、乾いた着物に着替えさせ、布団に寝かせてやりました。人間の世話を焼いている、という事に気味の悪い寒気を覚えましたが、自分の企みの為だと堪え、介抱を続けました。
やがて、人間はぱちりと目を覚ましました。その眼は、傍で焚かれている火のような紅い色をしていました。
「目が覚めたかい」
天邪鬼が声をかけると、紅い眼の人間は不思議そうな顔をしながらも、こくりと頷きました。
「お前は川で流されていたんだよ。それを私が引き上げたのさ」
そう言うと、人間は天邪鬼にお礼を言いました。天邪鬼はまたまた寒気が走るのを感じましたが、これまたぐっと堪えて、疲れているだろう、もう少し休んでいろ、と人間にいいました。
そうして、人間がふたたび眠ったことを確かめると、天邪鬼は包丁を人間の傍で研ぎ始めました。ざりざり、ざりざりと、丁寧に研ぎました。けれど、人間は余程疲れていたのか、まったく目を覚ましませんでした。怖がらせてやろうと思っていた天邪鬼は、あてが外れてまた舌打ちをしました。
しかし、それくらいでめげる天邪鬼ではありません。今度は、まな板の上でわざとらしく大きな音を立てながら食材を切り始めました。ざくざく、とんとん、二人分の食材を切りました。それでも、人間は目を覚ましません。
天邪鬼はまた舌打ちをして、今度は切った食料を入れた鍋を火にかけ、ぐらぐらと煮はじめました。しばらくして、湯気とともにいい匂いが立ち上ると、人間はようやく目を覚ましました。このやろう、と天邪鬼は舌打ちをしました。
しかし、ここで怒ってしまうようでは意味がありません。天邪鬼は吐き気を堪えながら笑顔を作り、鍋をよそって、食べるように勧めました。人間は余程お腹が減っていたのか、礼もそこそこにがつがつと食べました。あまりにも美味しそうに食べるものですから、天邪鬼の方は逆に何を食べているのやら分からなくなるくらい気分が悪くなりました。
「お前、名前は」
「ないよ、そんなの」
「じゃあ、家は」
「あるわけないじゃない」
「じゃあ、どうして川に流されてたんだ」
「知らないよ、気がついたらあんたに助けられてたんだ」
「なんだいそりゃあ」
「仕方無いじゃない、無いものはないんだから」
食べる代わりに、天邪鬼は人間に色んな事を尋ねました。人間の答えはどれもこれも無い無い尽くしでしたが、とりあえず人間は身なし子らしいということはわかりました。天邪鬼は内心でしめしめと思いながら、自分の考える精一杯醜悪な――つまり、端から見れば仏さまのように優し気な――笑顔を浮かべて、言いました。
「だったら、お前、しばらくここにいるといい。どうせ、あても無いんだろう?」
歯の浮くような台詞をなんとか詰まらずに言い切って、天邪鬼はまた笑いかけました。
「いいの? 私、見ての通り、一文無しだけど」
「そんなもの始めから期待してないさ。まぁ、手伝いくらいはしてもらうがね」
「じゃあ、そうする」
「そうしろそうしろ。丁度、私も話し相手が欲しかったところさ。何しろこの山の中じゃ人も居なくてね、気を抜いたら、すぐ舌が回り方を忘れちまうんだ」
天邪鬼はもう一度、にたりと笑いました。
◆
そうして天邪鬼が人間と暮らし始めてから時が経ち、山には冬がやって来ていました。
天邪鬼は、人間のことをそれはそれは丁重に扱い、また、色んな事を教えました。
獣や魚の狩り方や捌き方、毒のある草と薬になる草の見分け方、炊事、洗濯、破れた布の繕い方……とにかく、天邪鬼は自分が知っていることを人間に教えました。人間は始め、そういうことを何も知りませんでしたが、天邪鬼の教え方が良かったのか、どんなことでもすぐに覚え、そしてみるみる内に上手になっていきました。
そうして、春に山菜を集め、夏に川で魚を釣り、秋には山の幸を集め……そんな風に暮らしているうちに、人間はすっかり山での暮らしに馴れていました。そして、すっかり天邪鬼のことを信用していました。
◆
その日は、とても強い吹雪が吹く、寒い寒い冬の日でした。
協力して春の頃よりは随分と立派に頑丈にしてはいたものの、二人の住むあばら屋は、吹雪に吹かれてはみしみし、ぎいぎいと、嫌な音を立てていました。
そんなあばら屋の中で、二人は背中合わせに座って布団にくるまり、囲炉裏の火の傍で暖を取っていました。薪も食べ物も秋の内に二人で沢山用意していたので、心配はありませんでしたが、この吹雪では退屈を紛らわせるようなことも出来ず、二人は黙ってくっつき、暖めあっていました。
「ねぇ」
そんな中、人間がふと口を開きました。
「なんだい」
天邪鬼が、ぶっきらぼうに返事をします。
「冬が明けたら、山を降りて、少し出掛けてみないか」
「なんだってそんなこと」
「私さ、梅の花が綺麗な所を知ってるんだ。一緒に、見に行かないか」
「なんだそりゃあ。そんなもの、見たければ一人で行けばいいだろう。好きにすればいい」
「それじゃあ意味がないだろ。私は、お前に見てほしいんだよ」
「なんで」
「なんでって、そりゃあ……」
人間は少し口ごもったあと、はっきりとした声で続けました。
「お前には沢山世話になったからさ、少しくらい、お礼がしたいんだ」
すると、天邪鬼は突然、くつくつと喉を鳴らしはじめました。
「な、なんだよ、そんなにおかしいか?」
「あぁ、いや、別に。……そうだな、いいよ、じゃあ、冬が明けたら、な」
くつくつと喉を鳴らしながら、天邪鬼は答えました。
「よし、絶対だからな? お前もきっと、気に入ると思う。本当に、綺麗な梅の花、なんだ……」
人間は嬉しそうに言ったあと、一つ大きな欠伸をし、やがて、眠ってしまいました。
そうして少しだけ静かになったあばら屋の中では、囲炉裏の火が爆ぜる音と、吹雪に軋むあばら屋の音と、天邪鬼の喉が鳴る音が響いていました。
天邪鬼は未だ、くつくつと喉を鳴らし続けていました。
いつまでもいつまでも、くつくつと、喉を鳴らし続けていました。
◆
そして、冬が明けて。
「ほら、早く」
「まぁ待て、転んだらどうする」
「そんな心配ないよ。私だってもうこの山道には慣れっこだ」
まだまだ、枯れ木の目立つ山道を、天邪鬼は人間に手を引かれながら歩いていました。
「早く行かないと梅の花が散ってしまう」
「そんなに散るのが早いなら、今から行ったって散ってるだろうよ」
「だから散らない内に急ぐんだよ」
「訳がわからん」
興奮した様子で手を引く人間に少しばかり辟易しながらも、天邪鬼はゆっくりと人間の後に着いていきました。
「おっと、ここからは流石に気を付けないとね。落ちたら、只じゃ済まなさそうだ」
「なぁ」
「?」
そうして、山の半ば、大きな岩が幾つも地面から顔を出している所についたとき、天邪鬼がふと立ち止まり、口を開きました。
「お前と暮らしはじめて、もうすぐ一年か」
「あぁ、うん、そうだね。それがどうかした?」
「楽しかったか?」
「え? なんだい、急に。うん、そうだな……」
人間は少し不思議そうな顔をして、その紅い眼を細めました。けれど、すぐに笑顔になって、
「楽しかったよ。私は、ひとりぼっちだったからさ。お前がここにいればいいって、いていいって、言ってくれて、本当に嬉しかったよ。だから、感謝もしてる」
と言いました。
「そうか」
すると、天邪鬼はにたりと笑って、
「そりゃあ、良かった」
トン、と。人間の胸を、押しました。
あ、と、声をあげる暇もなく。人間は瞬く間に、険しい山道を転がり落ちていきました。途中、幾度か鈍い音が聞こえましたが、すぐにそれも聞こえなくなりました。
「あはははは、あははははははははははははははははははははははははははははははははななはははなははははははは!」
一人残った天邪鬼は、狂ったように笑っていました。笑って、嘲笑って、嗤っていました。やがて息が出来なくなって噎せ返っても、天邪鬼は笑い続けました。
あぁ、なんて愉快なんだろう! そうだ、この日のために私は、ずっと堪えて来たのだ! 吐き気がするような笑顔を浮かべて、寒気が走るような好意を向けて尽くし、反吐がでるような感謝を聞いて――それらは全て、今日のこの瞬間の為にこそあったのだ!
魂の芯から沸き起こる歓喜と快楽に酔いしれながら、天邪鬼は吼えるように嗤い続けました。
見たかあれを! 薄気味の悪い親愛の情を浮かべたあの間抜け面が、世に二つと無いほどに美しい、恐怖と驚愕の色に染まる瞬間を! 見たかあれを! 醜悪な安堵と幸福に染まった汚ならしい紅い眼が、甘美な怯えと絶望に染まって、地獄の焔のように美しく燃え上がる瞬間を! あぁ、見た! 見たとも! 全部! この目で! あぁ、なんて素晴らしいのだろう! なんて楽しいのだろう! なんて、なんて美しいのだろう!
「――じゃあな、間抜け」
息も絶え絶えになりながら、天邪鬼はもう死んでしまったであろう人間に向けて、手向けの言葉を送りました。そしてまた、あの瞬間の事を思い返しました。
「それにしても……くくっ、傑作じゃないか、え? あは、あはははは……」
間際に視線を絡めた、あの人間の恐怖や驚愕と言った感情に染まった、紅い瞳。それは、天邪鬼の脳裏に深く深く焼き付いていました。
「あっははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!」
そしてそれを思い返す度、天邪鬼はまた歓喜に打ち震え、嗤い続けるのでした。
他に誰も居なくなった山の中に、天邪鬼の、醜悪な笑い声だけが、響き続けていました。
◆
それから、数百年以上もの時が経ちました。
天邪鬼はある悪さをしたことから、お尋ねものとなって、あちこちを逃げ回っていました。
その日も、追っ手の一人である狼女から這々の体で逃げ延び、竹林の中を宛もなくさ迷っていました。
初めは竹林から抜け出そうとしていたのですが、行けども行けども同じような道を歩かされ、天邪鬼はすっかり参ってしまい、仕方無く、茂みに身を潜めていました。
「ん? おい、そこのあんた」
(見つかった!?)
ひくりと、天邪鬼は喉を鳴らし。それから、ゆっくりと、後ろを振り返りました。
「迷い人か、こんな時間に。いったいどんな酔狂者なら、こんな夜更けにのこのことここにやってこれるのかしら?」
暗がりで顔はよく見えませんでしたが、そこには長い髪に幾つも札を結わえ付けた、見慣れない姿の少女が立っていました。
見るからに強そうな少女でしたが、幸いなことに、天邪鬼の正体には気がついていない様でした。
「迷ってるなら、案内するよ。立てる?」
「え、あ、あぁ……」
「よしよし、それなら、私について来なさい」
言われるがままに立ち上がり、天邪鬼は少女の後ろに続きました。しかし、段々と我に返る内に、天邪鬼はあることを考え始めていました。
(こいつを利用すれば、楽に逃げられるかもしれない)
そう考えた天邪鬼は、どうやってこの少女を丸め込むかを考え始めました。恐らく一筋縄ではいかないだろうが、私の話術にかかればどうということはないに違いない。そう考え、天邪鬼は一人、声を殺して笑ったあと、少女に話しかけました。
「なぁ、あんた、何者だい」
「見ての通り、健康マニアの焼鳥屋さ」
「どこをどう見たらそうなるんだ」
「んー、髪?」
「意味がわからん。じゃあ、なんだってこんな辺鄙な所に住んでるんだ」
そう聞くと、少女は不意に立ち止まって、前を向いたまま、「聞きたいかい」と言いました。
「あぁ、聞きたいね。詳しく頼む」
理由によっては、付け込めるかもしれない。そう考え、天邪鬼は続けるように言いました。しかし、同時に、何か引っ掛かるものを感じました。
「復讐するためさ」
「ほう?」
少女が振り向かないのをいいことに、天邪鬼はほくそ笑みながら聞きました。復讐心を煽るのは、天邪鬼の得意とするところでした。しかし同時に、またまた引っ掛かるものを感じました。
「むかーしむかし、ずっと昔から、恨んでるやつがいてね。そいつに復讐するために、ずっとここで粘ってるのさ」
「何故ここなんだ?」
「勿論、そいつが今ここにいるからに決まってるじゃない」
そこまで聞いて、天邪鬼は引っ掛かりの正体に少し気が付きました。少女の声は、前にどこかで聞いたような声だったのです。脳裏に、なにか紅いものがちらつきました。何故だか、天邪鬼は少し怖くなりました。
「そうかい、頑張るんだな」
「どうも」
けれど、天邪鬼は気のせいだと思い、平静を取り繕って質問を続けました。
「一体、そいつにはどんなことをされたんだ?」
「なに、ちょっとばかし大切なものを奪われただけさ。……ところで、私も聞いていい?」
「な、なんだ」
少女の口ぶりは何気ないものでしたが、声音には有無を言わせない強さがあり、思わず、天邪鬼は気圧されてしまいました。
「あんた、名前は?」
「正邪――鬼人、正邪、だ」
先程よりもより強い声音で聞かれ、天邪鬼――鬼人正邪は、嘘をつく頭を働かせる余裕もなく、正直に答えてしまいました。紅いものが、さっきよりも色濃く、脳裏にちらつきました。
「ふぅん、変わった名だね。ところで、もう一つ、聞いていいかい」
「……な、なんだ。聞くならさっさとしろ」
三度、正邪の脳裏にちらつく紅いものは、はっきりと形を持ち始めていました。
正邪は怖くなって、思わず身構えました。
「なに、簡単な質問よ」
少女はそう言って、ゆっくりと振り返りました。
「あ、ぁ」
そして、正邪は見てしまったのです。思い出してしまったのです。
それも、そのはず。
竹林の隙間に漏れる月明かりに照らされ、銀の髪を翻し。
そして、少女の顔の丸い眼窩に嵌まるは、あのときの人間と、まったく同じ――
「今度は、殺してくれるなよ?」
焔のような、真紅の瞳だったのですから。
天邪鬼は悪さをするのが大好きで、その日も獲物を探して、春先の、まだまだ寒い川沿いを歩いていました。
「やや」
と、天邪鬼は小さく驚きの声を上げました。
なんと、川に一人の人間が流れているではありませんか。
(あれは死体かしらん)
そう思った天邪鬼は、すぐさま引き上げにかかりました。
死体なら皮を剥いで、それを使って人間に化けたら、さぞや面白おかしい悪戯ができるに違いないと考えたのです。
けれど、その目論見は外れてしまいました。水に漬かってすっかり重たくなっていたのを、どうにかこうにか引き上げた人間は、すっかり弱って気を失っていたものの、まだ息があったのです。
「なんだ、つまらない」
天邪鬼は残念そうに舌打ちをしました。生きているのでは綺麗に皮を剥ぐのが難しいし、悪戯をするにしても、相手が気を失っているのでは何の面白味もありません。かといって、せっかく苦労して引き上げたのに、何もせずに終わってしまうというのも癪でした。
「そうだ!」
考えるうちに、天邪鬼は一つ、名案を思い付きました。天邪鬼はひいひいと息をしながら人間を担ぎ、けれど嬉しそうににたりと笑って、自分の家へと引き返しました。
◆
家に戻った天邪鬼は、たいそう手厚く人間を介抱しました。火を焚いて濡れた体を乾かし、乾いた着物に着替えさせ、布団に寝かせてやりました。人間の世話を焼いている、という事に気味の悪い寒気を覚えましたが、自分の企みの為だと堪え、介抱を続けました。
やがて、人間はぱちりと目を覚ましました。その眼は、傍で焚かれている火のような紅い色をしていました。
「目が覚めたかい」
天邪鬼が声をかけると、紅い眼の人間は不思議そうな顔をしながらも、こくりと頷きました。
「お前は川で流されていたんだよ。それを私が引き上げたのさ」
そう言うと、人間は天邪鬼にお礼を言いました。天邪鬼はまたまた寒気が走るのを感じましたが、これまたぐっと堪えて、疲れているだろう、もう少し休んでいろ、と人間にいいました。
そうして、人間がふたたび眠ったことを確かめると、天邪鬼は包丁を人間の傍で研ぎ始めました。ざりざり、ざりざりと、丁寧に研ぎました。けれど、人間は余程疲れていたのか、まったく目を覚ましませんでした。怖がらせてやろうと思っていた天邪鬼は、あてが外れてまた舌打ちをしました。
しかし、それくらいでめげる天邪鬼ではありません。今度は、まな板の上でわざとらしく大きな音を立てながら食材を切り始めました。ざくざく、とんとん、二人分の食材を切りました。それでも、人間は目を覚ましません。
天邪鬼はまた舌打ちをして、今度は切った食料を入れた鍋を火にかけ、ぐらぐらと煮はじめました。しばらくして、湯気とともにいい匂いが立ち上ると、人間はようやく目を覚ましました。このやろう、と天邪鬼は舌打ちをしました。
しかし、ここで怒ってしまうようでは意味がありません。天邪鬼は吐き気を堪えながら笑顔を作り、鍋をよそって、食べるように勧めました。人間は余程お腹が減っていたのか、礼もそこそこにがつがつと食べました。あまりにも美味しそうに食べるものですから、天邪鬼の方は逆に何を食べているのやら分からなくなるくらい気分が悪くなりました。
「お前、名前は」
「ないよ、そんなの」
「じゃあ、家は」
「あるわけないじゃない」
「じゃあ、どうして川に流されてたんだ」
「知らないよ、気がついたらあんたに助けられてたんだ」
「なんだいそりゃあ」
「仕方無いじゃない、無いものはないんだから」
食べる代わりに、天邪鬼は人間に色んな事を尋ねました。人間の答えはどれもこれも無い無い尽くしでしたが、とりあえず人間は身なし子らしいということはわかりました。天邪鬼は内心でしめしめと思いながら、自分の考える精一杯醜悪な――つまり、端から見れば仏さまのように優し気な――笑顔を浮かべて、言いました。
「だったら、お前、しばらくここにいるといい。どうせ、あても無いんだろう?」
歯の浮くような台詞をなんとか詰まらずに言い切って、天邪鬼はまた笑いかけました。
「いいの? 私、見ての通り、一文無しだけど」
「そんなもの始めから期待してないさ。まぁ、手伝いくらいはしてもらうがね」
「じゃあ、そうする」
「そうしろそうしろ。丁度、私も話し相手が欲しかったところさ。何しろこの山の中じゃ人も居なくてね、気を抜いたら、すぐ舌が回り方を忘れちまうんだ」
天邪鬼はもう一度、にたりと笑いました。
◆
そうして天邪鬼が人間と暮らし始めてから時が経ち、山には冬がやって来ていました。
天邪鬼は、人間のことをそれはそれは丁重に扱い、また、色んな事を教えました。
獣や魚の狩り方や捌き方、毒のある草と薬になる草の見分け方、炊事、洗濯、破れた布の繕い方……とにかく、天邪鬼は自分が知っていることを人間に教えました。人間は始め、そういうことを何も知りませんでしたが、天邪鬼の教え方が良かったのか、どんなことでもすぐに覚え、そしてみるみる内に上手になっていきました。
そうして、春に山菜を集め、夏に川で魚を釣り、秋には山の幸を集め……そんな風に暮らしているうちに、人間はすっかり山での暮らしに馴れていました。そして、すっかり天邪鬼のことを信用していました。
◆
その日は、とても強い吹雪が吹く、寒い寒い冬の日でした。
協力して春の頃よりは随分と立派に頑丈にしてはいたものの、二人の住むあばら屋は、吹雪に吹かれてはみしみし、ぎいぎいと、嫌な音を立てていました。
そんなあばら屋の中で、二人は背中合わせに座って布団にくるまり、囲炉裏の火の傍で暖を取っていました。薪も食べ物も秋の内に二人で沢山用意していたので、心配はありませんでしたが、この吹雪では退屈を紛らわせるようなことも出来ず、二人は黙ってくっつき、暖めあっていました。
「ねぇ」
そんな中、人間がふと口を開きました。
「なんだい」
天邪鬼が、ぶっきらぼうに返事をします。
「冬が明けたら、山を降りて、少し出掛けてみないか」
「なんだってそんなこと」
「私さ、梅の花が綺麗な所を知ってるんだ。一緒に、見に行かないか」
「なんだそりゃあ。そんなもの、見たければ一人で行けばいいだろう。好きにすればいい」
「それじゃあ意味がないだろ。私は、お前に見てほしいんだよ」
「なんで」
「なんでって、そりゃあ……」
人間は少し口ごもったあと、はっきりとした声で続けました。
「お前には沢山世話になったからさ、少しくらい、お礼がしたいんだ」
すると、天邪鬼は突然、くつくつと喉を鳴らしはじめました。
「な、なんだよ、そんなにおかしいか?」
「あぁ、いや、別に。……そうだな、いいよ、じゃあ、冬が明けたら、な」
くつくつと喉を鳴らしながら、天邪鬼は答えました。
「よし、絶対だからな? お前もきっと、気に入ると思う。本当に、綺麗な梅の花、なんだ……」
人間は嬉しそうに言ったあと、一つ大きな欠伸をし、やがて、眠ってしまいました。
そうして少しだけ静かになったあばら屋の中では、囲炉裏の火が爆ぜる音と、吹雪に軋むあばら屋の音と、天邪鬼の喉が鳴る音が響いていました。
天邪鬼は未だ、くつくつと喉を鳴らし続けていました。
いつまでもいつまでも、くつくつと、喉を鳴らし続けていました。
◆
そして、冬が明けて。
「ほら、早く」
「まぁ待て、転んだらどうする」
「そんな心配ないよ。私だってもうこの山道には慣れっこだ」
まだまだ、枯れ木の目立つ山道を、天邪鬼は人間に手を引かれながら歩いていました。
「早く行かないと梅の花が散ってしまう」
「そんなに散るのが早いなら、今から行ったって散ってるだろうよ」
「だから散らない内に急ぐんだよ」
「訳がわからん」
興奮した様子で手を引く人間に少しばかり辟易しながらも、天邪鬼はゆっくりと人間の後に着いていきました。
「おっと、ここからは流石に気を付けないとね。落ちたら、只じゃ済まなさそうだ」
「なぁ」
「?」
そうして、山の半ば、大きな岩が幾つも地面から顔を出している所についたとき、天邪鬼がふと立ち止まり、口を開きました。
「お前と暮らしはじめて、もうすぐ一年か」
「あぁ、うん、そうだね。それがどうかした?」
「楽しかったか?」
「え? なんだい、急に。うん、そうだな……」
人間は少し不思議そうな顔をして、その紅い眼を細めました。けれど、すぐに笑顔になって、
「楽しかったよ。私は、ひとりぼっちだったからさ。お前がここにいればいいって、いていいって、言ってくれて、本当に嬉しかったよ。だから、感謝もしてる」
と言いました。
「そうか」
すると、天邪鬼はにたりと笑って、
「そりゃあ、良かった」
トン、と。人間の胸を、押しました。
あ、と、声をあげる暇もなく。人間は瞬く間に、険しい山道を転がり落ちていきました。途中、幾度か鈍い音が聞こえましたが、すぐにそれも聞こえなくなりました。
「あはははは、あははははははははははははははははははははははははははははははははななはははなははははははは!」
一人残った天邪鬼は、狂ったように笑っていました。笑って、嘲笑って、嗤っていました。やがて息が出来なくなって噎せ返っても、天邪鬼は笑い続けました。
あぁ、なんて愉快なんだろう! そうだ、この日のために私は、ずっと堪えて来たのだ! 吐き気がするような笑顔を浮かべて、寒気が走るような好意を向けて尽くし、反吐がでるような感謝を聞いて――それらは全て、今日のこの瞬間の為にこそあったのだ!
魂の芯から沸き起こる歓喜と快楽に酔いしれながら、天邪鬼は吼えるように嗤い続けました。
見たかあれを! 薄気味の悪い親愛の情を浮かべたあの間抜け面が、世に二つと無いほどに美しい、恐怖と驚愕の色に染まる瞬間を! 見たかあれを! 醜悪な安堵と幸福に染まった汚ならしい紅い眼が、甘美な怯えと絶望に染まって、地獄の焔のように美しく燃え上がる瞬間を! あぁ、見た! 見たとも! 全部! この目で! あぁ、なんて素晴らしいのだろう! なんて楽しいのだろう! なんて、なんて美しいのだろう!
「――じゃあな、間抜け」
息も絶え絶えになりながら、天邪鬼はもう死んでしまったであろう人間に向けて、手向けの言葉を送りました。そしてまた、あの瞬間の事を思い返しました。
「それにしても……くくっ、傑作じゃないか、え? あは、あはははは……」
間際に視線を絡めた、あの人間の恐怖や驚愕と言った感情に染まった、紅い瞳。それは、天邪鬼の脳裏に深く深く焼き付いていました。
「あっははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!」
そしてそれを思い返す度、天邪鬼はまた歓喜に打ち震え、嗤い続けるのでした。
他に誰も居なくなった山の中に、天邪鬼の、醜悪な笑い声だけが、響き続けていました。
◆
それから、数百年以上もの時が経ちました。
天邪鬼はある悪さをしたことから、お尋ねものとなって、あちこちを逃げ回っていました。
その日も、追っ手の一人である狼女から這々の体で逃げ延び、竹林の中を宛もなくさ迷っていました。
初めは竹林から抜け出そうとしていたのですが、行けども行けども同じような道を歩かされ、天邪鬼はすっかり参ってしまい、仕方無く、茂みに身を潜めていました。
「ん? おい、そこのあんた」
(見つかった!?)
ひくりと、天邪鬼は喉を鳴らし。それから、ゆっくりと、後ろを振り返りました。
「迷い人か、こんな時間に。いったいどんな酔狂者なら、こんな夜更けにのこのことここにやってこれるのかしら?」
暗がりで顔はよく見えませんでしたが、そこには長い髪に幾つも札を結わえ付けた、見慣れない姿の少女が立っていました。
見るからに強そうな少女でしたが、幸いなことに、天邪鬼の正体には気がついていない様でした。
「迷ってるなら、案内するよ。立てる?」
「え、あ、あぁ……」
「よしよし、それなら、私について来なさい」
言われるがままに立ち上がり、天邪鬼は少女の後ろに続きました。しかし、段々と我に返る内に、天邪鬼はあることを考え始めていました。
(こいつを利用すれば、楽に逃げられるかもしれない)
そう考えた天邪鬼は、どうやってこの少女を丸め込むかを考え始めました。恐らく一筋縄ではいかないだろうが、私の話術にかかればどうということはないに違いない。そう考え、天邪鬼は一人、声を殺して笑ったあと、少女に話しかけました。
「なぁ、あんた、何者だい」
「見ての通り、健康マニアの焼鳥屋さ」
「どこをどう見たらそうなるんだ」
「んー、髪?」
「意味がわからん。じゃあ、なんだってこんな辺鄙な所に住んでるんだ」
そう聞くと、少女は不意に立ち止まって、前を向いたまま、「聞きたいかい」と言いました。
「あぁ、聞きたいね。詳しく頼む」
理由によっては、付け込めるかもしれない。そう考え、天邪鬼は続けるように言いました。しかし、同時に、何か引っ掛かるものを感じました。
「復讐するためさ」
「ほう?」
少女が振り向かないのをいいことに、天邪鬼はほくそ笑みながら聞きました。復讐心を煽るのは、天邪鬼の得意とするところでした。しかし同時に、またまた引っ掛かるものを感じました。
「むかーしむかし、ずっと昔から、恨んでるやつがいてね。そいつに復讐するために、ずっとここで粘ってるのさ」
「何故ここなんだ?」
「勿論、そいつが今ここにいるからに決まってるじゃない」
そこまで聞いて、天邪鬼は引っ掛かりの正体に少し気が付きました。少女の声は、前にどこかで聞いたような声だったのです。脳裏に、なにか紅いものがちらつきました。何故だか、天邪鬼は少し怖くなりました。
「そうかい、頑張るんだな」
「どうも」
けれど、天邪鬼は気のせいだと思い、平静を取り繕って質問を続けました。
「一体、そいつにはどんなことをされたんだ?」
「なに、ちょっとばかし大切なものを奪われただけさ。……ところで、私も聞いていい?」
「な、なんだ」
少女の口ぶりは何気ないものでしたが、声音には有無を言わせない強さがあり、思わず、天邪鬼は気圧されてしまいました。
「あんた、名前は?」
「正邪――鬼人、正邪、だ」
先程よりもより強い声音で聞かれ、天邪鬼――鬼人正邪は、嘘をつく頭を働かせる余裕もなく、正直に答えてしまいました。紅いものが、さっきよりも色濃く、脳裏にちらつきました。
「ふぅん、変わった名だね。ところで、もう一つ、聞いていいかい」
「……な、なんだ。聞くならさっさとしろ」
三度、正邪の脳裏にちらつく紅いものは、はっきりと形を持ち始めていました。
正邪は怖くなって、思わず身構えました。
「なに、簡単な質問よ」
少女はそう言って、ゆっくりと振り返りました。
「あ、ぁ」
そして、正邪は見てしまったのです。思い出してしまったのです。
それも、そのはず。
竹林の隙間に漏れる月明かりに照らされ、銀の髪を翻し。
そして、少女の顔の丸い眼窩に嵌まるは、あのときの人間と、まったく同じ――
「今度は、殺してくれるなよ?」
焔のような、真紅の瞳だったのですから。
が、しかし点数には悩みます。あとがきは果たして作品の一部と解すべきか否か。
このあとがきは私から見るとどうにも蛇足に思えるのです。
無論、作者様もわかっているからこそ、本編内では無く後書き部分に書かれたのでしょう。
しかし、読者としてはやはり読後感を大切にしたいと考えてしまうのです。
狂ったように笑い続ける様がとても正邪らしい、たいへんごちそうさまでした。
どこまでもゲスい正邪ですが、相応の報復を前にすると途端に弱く見える、そんな人間味溢れる姿も彼女の魅力のひとつなんだなあと実感しました。正邪らしい正邪に大満足。
個人的に後書きはいらなかったかも。
さすが正邪ゲスいゲスい。面白かったです。
らしさが出てて良いのですけど、あとがきは蛇足に感じたかな。これは自分のわがままでしかないのですが。
小物感の演出もお見事。大変おもしろかったです。
なかったらもやもやしてましたね。
突き落とした人間にどんでん返しされるなんて、なんて小物。
キャラの設定が生きている良い作品でした。
アア、クワバラ。
不死人らしいカッコいい台詞ですね。
だから自分はあとがきは蛇足派です。
素晴らしいと思います
あとがきは、要ります!わざわざ隠すこともないでしょう。
しっかし、最後のインガオホーめいた報復の笑みを受けた正邪ちゃんの周章てようが、どうしてこうも鮮明に目に浮かぶのか。溢れんばかりの「悪人なんだけど、でっかいことでなさそう」オーラが安定だ。
天邪鬼らしいSSでした。
面白かったです
手間暇かけて得られる成果は一瞬ってのは何となくさびしいけれども
思わず頷いてしまうお話でした。
その最後のひとことで思う存分「おとぎ話」を食らった気がします
とても好きです