Coolier - 新生・東方創想話

世界は黄昏

2010/11/20 00:21:21
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(はじめに)


 この小説はオリジナル設定を含みますので、そういったものに嫌悪感をもたれる方はご注意ください。

 オリジナル設定の内容については、作中にてご確認ください。

 内容はともかく、何故オリジナル設定が存在するかどうしても気になる方は、二つ目のオチだけご覧下さい。当作品は二段オチです。

 物語に矛盾があるかもしれません。注意不足です、すみません…。

 これって東方じゃなk(ry ←へへえ、すみません…。 


「世界は黄昏」1~4(完)


(1)




 ある夏の日の、太陽が天上へ登りきった中、西行寺幽々子は寝床に臥している少女の看病をまめまめしくしていた。

 身動きが取れない病人の汗を拭い、扇で風を送る。時々体を軽く転がしてやり、床ずれを防ぐ。こういった介護を彼女が始めたのは数ヶ月前の、梅雨に入った頃からである。病人は以前はいたって健康な体を持っていた少女であったが、彼女は詳しくは知らなかった。

「今日も暑いわね、妖夢」

 幽々子は病人の名前は知っていた。

 妖夢は何も言わず、そのままでいた。彼女は言葉すらも利けず、意識があるのか無いのかもはっきりしなかった。

 幽々子はそのままの妖夢の表情が微動する幻想を見て、限りなく無表情に等しい笑顔を読み取った。その硬化したえくぼの辺りに、湿らせた布を当ててやった。

 彼女は、自分の汗も滴り落ちるほどであったが、ほとんど関心を示そうとしなかった。汗というものを完全に受容していた。彼女たちの住む、わらぶき屋根を備えた居間と台所のある小屋は、蒸し暑さに加え裏山からのけたたましいセミの鳴き声で、息苦しい空間を作り、不健康な発汗を促しているようだった。

 日が暮れて、西日が差す頃になった。

 セミの変わりにヒグラシの鳴き声が響き、その間からかすかに、車輪の、ごとごと、という音が聞こえてきた。やがて台車の軋む音がだんだん近づいてきて、小屋の正面で止まった。人間が定期的に里から薪や食料を運んできてくれて、顔も知らない人物が引き戸の前にそれらを積んでいるのを幽々子は知っていた。しかし、彼女は台車が停止してからまた車輪を転がし始めるまでの間、彼女は両手で妖夢の左手を握っているだけだった。

 幽々子は人間がもたらす死を、消滅を恐れていた。厳密に言えば、妖夢を残したまま死ぬことに対して恐怖していた。

 「今日もおいしい卵かゆを作ってあげるから」

 そう言って幽々子は妖夢の頭をなでると、横座りをやめて静かに立ち上がった。彼女はこれから届けてもらった物資を片付けて、自分のための食事と、妖夢のための食事を作らなければならない。しかし普段なら造作なく家事や仕事をするのだが、今日のように人間がやってきた日は気分が滅入って、体が思うように動く無くなってしまうのであった。

 幻想郷に月明かりが白々と輝く頃に、二人分の食事の用意が終わった。妖夢の枕元には、卵かゆと焼いた小魚、ツクシの塩漬け、あと幽々子が食べる少しの玄米があった。それにすり鉢が用意してあった。妖夢は既に流動食しか食べられない、というより喉に直接流し込むしか出来ない、ようになっていた。

 食事の前に、幽々子は妖夢の身体を左側から転がして寝返りをさせようとしたときに、ふと妖夢の足元を見ると、単から出ていた左足の甲の向きが、食事を準備する前よりも少し内側に寄っているのを見た。気休めにも彼女は、幽々子はまだ生きている、と思うことが出来て、生理的な食欲は全く無かったものの、かすかに食事への意欲はわいた。

 妖夢が寝たきりになって、目を開けなくなって大分経ち、最近になって吐息もかすかに弱まっているように感じられる今、生きているという証がほんの少しでも彼女の身体に認めることが出来れば、幽々子はとても安心した。その内側に向けられた足先は、ロウのともし火を受けて躍動感があり、肉付きが悪いのにも関わらず、まるで赤子のような色をしていた。

「いい眺め」

 底の無い欲求に駆られたような声であった。その、人間が心の奥底に持つ倒、錯的な肉体への羨望は、不思議にも日に日に強く幽々子を襲うのであった。

 夜は大がま小がまの鳴き声が満ち満ちていた。

 ロウのともし火に火消しが被さると、小屋の柵窓から強い月光が差し込んできた。それを眺めた幽々子は、夕暮れ時に小屋の裏で見かけた月見草を思い出した。

 月見草は月光を求めて花を咲かせるらしいが、もしかしたら月光は人体に何らかの良い効果があるかもしれない、と彼女は考えた。しかし、あまりにも光が強すぎるような気がして、妖夢を月光にさらそうと移動させることを思いとどまった。そして、月影にすっぽりと包まれた彼女の身体を眺めているだけであった。




◆◆◆




 次の日の早朝、一番鶏も既に鳴き終えて、日の出が浮かんでから少し経った頃に、幽々子は薄い板が二三度打たれる音で目を覚ました。

 「誰」

 「上白沢よ。入るから。……」

 上白沢慧音はそう言って、目の前の引き戸をためらいも無く開けて小屋の下駄場に入った。居間の、囲炉裏の奥を覗くと、山沿いの向きに二人の少女が寄り添って寝ていた。

 彼女には深い影が、二人の少女を覆っているように見えた。少し哀れみを覚えたが、朝の日差しの快活さを背に浴びて、自身の心を郎らかにするように努めた。

 「何故昨日便りを寄こさなかったの」

 慧音は黒い革靴を脱いで、囲炉裏の下座の左側に落ち着いた。引き戸は全く開いたままであった。横になっていた幽々子は、寝床からの視界に入る小道の横、小屋の正面の荒れた畑から無尽蔵に生える草草に加え、慧音の美しい正座姿勢に、起床をせかされている感じがした。それで、彼女は先日の倦怠感が残る身体を、時間をかけて、懸命に起こすことにした。

 「あなたと直接お話がしたかったから」

 「その旨を書いた便りが欲しいものね」

 幽々子は思わず苦笑した。

 「それで、妖夢の体調はどうなの?勿論あなたの体調、心の調子も教えてもらうけれど」

 幽々子の背中に、かすかな寝息を熱に溶かす妖夢が寝ているのを、慧音はちらりと一瞥した。

 「少し待っていて。お茶をだすから」

 そうはにかんで言って立ち上がろうとした幽々子を、慧音は驚いて引き止めた。

 「そんなもてなしをしなくても私はまた来るから。あまり働かないで」

 「けど、のどが渇いているんじゃない」

 「渇いていないよ」

 青白い顔と、吐息が病的なのを幽々子からみてとった慧音は、そういった身体の不調は細かい心的苦痛の蓄積に一因があると推理した。しかし、当面の、その心的苦痛に因果のある問題は妖夢であることは明らかであったので、彼女は幽々子の問題は後回しにすることとした。

 「もう、少しも食べ物を噛まなくなったわ。意識があるのか無いのかも分からない。もう死ぬのを待つしかないのかもしれないわね。佳人薄命とはよく言ったものだわ。やはり…薬師様の話が伺いたいわ。あなた、以前話を聞いてくれる約束を私としたわね」

 うん、と慧音はうなずくと、目を瞑り少し間を作った。

 「薬師は原因は分からない、かといって診てくれもしない。薬師曰く、肉体が半分になった場合、妖怪は生きていけるか。強力な再生能力があるから、まず問題は無い。なら、人間は生きていけるか。まあ、かろうじでは生きてゆけるだろう」

 「横に」

 「そう」

 幽々子は慧音とその薬師の話が疎ましく感じられた。というのも、まるで彼女たちから同情心が感じられないのである。

 「縦は……」

 慧音の一直線の力強い視線が、幽々子に注ぎ込まれた。

 「気の毒だが、治療も出来なければ、先ももう長くない」

 幽々子は両手で顔を覆いわああ、と泣き出した。肩を震わせ、嗚咽する姿は、慧音の同情を掻き立てるようなものでなく、むしろ自分の伝言が相手を深く傷つけることに苦痛を覚えた。彼女はせめてもの慰めにと、加えて免責のつもりで、心的苦痛の軽減に期待をよせた。しかし実際は、上白沢慧音は本気で、死の宣告というものを衝撃療法に適応できると思い込んでいるのだった。

 二人とも余裕が無かった。

 幽々子が落ち着きを取り戻すと、慧音は彼女にハンカチイフを与えてやろうと傍へ寄った。幽々子が身体を前に丸めているその後ろには、弱弱しい病人の姿が見えた。

 妖夢の姿は、左半分はいたって普通の肉体であるが、右半分は血液の通った物ではなかった。白くかさかさした石膏のような材質が、まるで彫刻物のように身体の線を浮かせていながら、半身全てを支配していた。顔面も例外なく、その天井には輝く銀髪が、鬘(かつら)のように乗っていた。

---

 小屋にいる三人の内、この現象の原因を知っている者は誰もいなかった。妖夢は「知っていた」かもしれない、あるいは「知っている」のだが、この際は意味をなさない。幽々子は「知らない」のだが、「知っている」のが当然であるべき人物であった。

 数ヶ月前の、桜の散り行く季節に、慧音の屋敷の前で二人の少女が倒れていた。慧音が見つけたとき、両者とも意識は無かったが、脈はあったので、兎に角彼女は部屋に寝床を用意して介抱してやった。小一時間もすると、15、6位の歳の、桃色の髪をした少女が身体を起こした。彼女は特に際立った態度も示さず、隣の寝具に寝ている 、彼女より2,3歳下回っていそうな銀髪の少女をじっとみつめているだけだった。

 慧音が名前を尋ねると、少女は

 「西行寺幽々子。隣の娘は魂魄妖夢」

 と答えた。

 「確かそのような妖怪の名前がいたような覚えがある」

 慧音があいまいな記憶をぽつりとこぼすと、幽々子は枕を手持ち無沙汰に触りながらこう言った。

 「もしそうなら、私たちは妖怪なのかしら」

 慧音が憶えていないのかと聞くと、幽々子は何も憶えていない、と言った。その後、妖怪に詳しい人間に聞いてみると、そのような名前の妖怪は知らない、との返答であった。

 しかし、二人の少女が妖怪か人間かという素性の問題のほかに重要な問題があった。妖夢の半身の問題はもちろんだが、これは素性問題に関連するが、慧音が彼女たちを仰向けの状態で発見したという事も考察に値するのである。つまり彼女たちは人為的に運ばれた可能性があるのだ。

 問題を一挙に解決するには、幽々子の記憶が戻るのを待つのは時間がかかり過ぎるだろうし、保証もある訳ではない。かといって妖夢の身体が快復するのを待つというのも、薬師が逃げ出すほどであるから、信憑性に乏しい。慧音は受動的な解決方法を止めて、彼女たちを運んだ人物を探すことにした。なんにせよ関連する人間に話を聞かなければ進展しない。

 そういう訳で、里内での聞き込みが彼女のもっぱらの仕事となった。しかし、もしかしたら、その人物が、行き倒れになっていた娘たちを運んだだけだ、とか言ったり、やもすると貧乏娘の自作自演かもしれない。そんな考えが慧音の脳裏によぎることもあったが、結局は彼女の努力もむなしく、関連する人物はおろか目撃者すらも見つけることが出来なかった。

 幻想郷が梅雨の香りに包まれた頃、慧音が二人の少女を保護して一月余りが経った。ある日、慧音は「嘆願書」といった書類を里の人間から受け取った。差出人の欄には、古風な字体で、里の自治集団の長老達の名前が書いてあった。長い形式ばった社交辞令の後、内容に移り、屋敷にかくまう二人の娘を里の離れに転居させろ、という旨が書いてあった。元々彼らの排撃的な性質に加えて、里内に二人が妖であるという噂が広まっていたという理由が、彼らの申し出の動機であった。慧音はすぐ、彼女たちへの援助を条件に承諾の返事を書いた。

 そして半人半妖の慧音はしみじみと思うのであった。「嘆願書」という書式を見るにつけて、人間の妖怪からの被虐の歴史は深い。しかし、西行寺幽々子と魂魄妖夢の歴史は、果たして蘇るのだろうか。---

 「そういえば、新しい退魔札を持ってきたわ」

 そう言って慧音は、首襟から胸に手を入れて、数枚の古びた紙札を取り出した。

 「博霊の巫女は留守だったから、守矢の神社の世話になったよ」

 幽々子は礼を言って退魔札を受け取り、居間の隅にある箪笥(たんす)の横にある、小さな小物入れの引き出しの中にしまった。その黒々とした漆塗りの小物入れは、その光沢を影にまるきり隠していた。

 「守矢の巫女は、博霊の巫女と何が違うのかしら」

 「大して変わらないわ。似たような服をきて、巫女をしているだけ」

 「巫女をする、というのはいったい何をするのかしら」

 「言葉通りよ。巫女をするということは、巫女をするということ。幻想郷には、具体性を包括した概念が確かに存在する。つまり、純粋な具体性を持つ物に我々はあえて意義を与える必要は無い。巫女をする、とはそれ自体が完全であって、補完する余地がないから、ただ巫女をする、と表現せざるを得ないわ」

 「あなた、巫女にはやかましいのね」

 そう言って幽々子はこくりとうなずき、後ろを向いて妖夢の銀髪を撫でた。その病人を愛でる彼女の表情が慧音には神妙に感じられた。しかし、いつの間にか居間に差す日差しは無く、灰色の影が幽々子の身体を陰湿に覆って、加えて彼女たちの身の上の境遇と相まって、慧音は不愉快な印象を感じずにはいられなかった。彼女の視線は気休めに、正面の囲炉裏の底に向けられた。消し炭のかけらも無かった。というのも、幽々子と妖夢はまだこの小屋で冬を越していなかった。

 慧音はふと、越冬用の備品や寝具は一人分でよいだろう、と思った。彼女は「死」という概念を深く考えることは無い。それは憐憫の麻痺とかそういう感情的なものでなくて、長い年月をかけて達観した思想を練り上げた賜物であった。つまり彼女は、唯物論のような考えを一定の現象に対して持つのである。だから彼女が妖夢に下した個人的見解は、すなわち生物か死物かという答えに対しては、早々に決まっていたのであった。

 「今、この娘はいったい何をしているのかしら」

 慧音ははっとして幽々子に視線を向けると、憂鬱な目つきとぶつかった。まったくぶっきらぼうな口調は、不機嫌な色をした瞳と不気味に調和していた。

 「いや。---おそらく、病なり、呪いなりと闘っているよ」

 最初の「いや。」という前置きが幽々子の癪に障った。怒りで彼女は口元の筋肉を微動させていた。彼女の手に握り締められていたハンカチイフは、しわを寄せた布地に大きな水滴のしみをさらして、いつの間にか板敷きの床に放って置かれていた。

 「心の機微をご存知でいらっしゃらないのね」

 慧音は黙っていた。女が女に鈍感さを指摘されるのは呆れたことであるが、彼女は念仏を唱えるよりかはるかに為になる言葉を選んだと自負していた。が、結局は沈黙が一番良かったと考え直した。だから損切りのつもりで、汚名を返上するような言葉を話すことはしなかった。

 風がびゅうとふいて、荒れ畑はさささとうなり、小屋の引き戸はがたたと音を立てた。強い風であった。開かれた戸から直線上にまっすぐ吹いて、三人の髪を放縦に散らしたが、誰も気に留めることは無かった。

 雨が降りそうだった。慧音は藍色のかさを借りて里へ戻っていった。そのかさは元々彼女のものであったが、転居の際に幽々子に贈ったのであった。女二人が気兼ねなく相傘できるほどの大きさであった。幽々子は、いつか妖夢と一緒に相傘をしたかった。

 そう思うと幽々子は心細くなった。風が吹きすさび、セミは今日はやけに大人しい。慧音は里へ帰った。妖夢と慰めあいたかった。

 妖夢と一緒に枕を使おうと、幽々子は彼女の傍へ寄った。そして脚を絡ませ、両腕で抱きしめほおを首に添えた。

 「妖夢」

 幽々子。その言葉を願って、妖夢の口元に耳をあてた。

 妖夢の吐息は無かった。





(2)





 厳しい風に小粒の雨が交わり始めた頃、慧音は二、三里ほどの帰路を駆け足で進んでいた。借り物の藍色の傘は風に折られる心配があったので早々と閉めていた。幽々子の小屋から、痩せた田畑の長いあぜ道を経て、最近になって干上がった小川の木橋を渡り、人間の里の南面に着いた。彼女は里の大通りへと入ったが、誰一人住人は居なかった。

 大通りの左側を北に歩いて、少しすると横道が現れるのだが、その三つ目を西に曲がった奥の袋小路に慧音の屋敷があった。おごそかな寝殿風で、とは言っても寝殿のみであるが、一人で住むほどには余りにも大きすぎる家であった。

 しばらく横道を歩いていると、慧音は少し先の、自宅の渡り廊下に人影があるのを見つけた。それは、天狗風の赤い烏帽子を被り、天狗風の歯が高い下駄を履いた、天狗風の妖怪であった。

 「お久しぶりです」

 烏天狗の射命丸文は、そう言ってにこりと微笑むと、三つ段を降りて愛想よく手を振ったりした。

 「またあなたなの。一体何の用」

 「もちろん、取材に来たんです」

 文の足元でぱたぱた、と布袋がはためいた。彼女はそれを拾い上げて、お近づきの印に、と言って差し出した。

 「これは何?」

 「鮎です。知り合いから大きいものを譲ってもらいましたので、是非慧音さんにと思って」

 「あの娘たちは居ない」

 「知っています。だからあなたに取材をして、場所を伺おうと思いまして」

 「そんな事は教えない」

 「それでも結構。ただ、私は真実を報道するために取材するだけです。それはご理解していただきたい」

 カラスめ、と慧音は心の中で呟いた。

 目の前にいる外見は若々しいが齢は鶴二匹くらいである文の、功名心がというより、本能が「光モノ」を集めさせているにすぎない、と彼女には思えて仕方が無かった。しかしあえて、文を泳がせるのも一つの問題解決のための手段であるとも考えた。

 そんな思惑があったので、慧音は鮎を受け取ると、段を登り正面の妻戸を開けて文を応接の間に招いた。そして、自分はひとまず奥に引っ込んで、濡れてよれよれになった服から小袖に着替ると、すぐに茶を沸かし始めた。

 慧音と文が合い向かう頃には、ひどい暴風が屋敷中を叩きまわっていた。

 「それにしても立派なお屋敷ですね。しかし大自然にはそういう趣が分からないから、獣のように屋敷を吹いていて残念なことです」

 「私はもっと控えめな住まいが良かったのだけれど。それに、稗田家の屋敷には全く敵わない」

 応接の間は六畳程度の空間で、正面の妻戸を入ってすぐである上に、飾り気のがなかったので、便宜上の応接にはすべからく正しい所である、と文は考えた。彼女の上座に居る慧音の背中、正面と右側に襖(ふすま)があり、左に向けば一枚格子が降りていた。二人に挟まれているのは、細長くどっしりとした焼き物に
生けてある白百合で、慧音がもてなしの意味で用意していた。

 文は慧音の昼食を気遣ったが、食欲が無いと返答があった。

 「では、本題に入りましょうか。あなたの屋敷の前で倒れていた二人の、まあ種族が人間か妖怪かはともかく、これは相当重要ですが、便宜上娘といいましょう---」

 慧音は肘置きから腕を浮かせて、あわてて文の話をさえぎるように手を振った。

 「相当重要ですが?一体全体、あなたはそれを最重要問題として扱った上で私を取材しに来たんじゃないの」

 「物事は刻一刻と移り行くものですよ。兎に角」

 そう言って言葉を止めると、文は手前の膳に乗っている、これまたどっしりとした湯飲みに手を伸ばした。そして軽く持ち上げるとすぐに元に戻した。

 「兎に角。単刀直入に言いますと、あなたと彼女の関係を詳しく伺おうかと思います。一体、あなたは彼女らのどういった存在なのですか」

 「もしかしてあなたは、---」

 あの娘達を私の隠し子だと疑っているのか、といった言葉を慧音は口にしようとした。その刹那、彼女の思考にある閃きが輝いた。文は自分をある立場へと誘導しようとしている。おそらく円滑な取材のためであろう。慧音はこういった回りくどい、ある意味不正なやり方を好まなかったが、回避すれば堂々巡りは必定である。なんにせよ、彼女は俗世間的な発言を撤回して、相手の出方を伺うことにした。

 「赤の他人よ」

 「そんな事は知っています」

 ああ、やはり。自然と慧音のこめかみに力が入った。

 「…保護者」

 なるほどと言って、文は万年筆と小さな記帳を胸の隠しから取り出して、すらすらと書き物をした。そして、茶をちびりとだけ飲んだ。

 結局慧音は、文を泳がせるどころか、自分が泳ぐ羽目になってしまったのである。

 「では、あなた方は一時期生活を共にしたそうですが。どういった生活を三人でしていらっしゃったのですか」

 「あなたは、”どういった何々”という質問が好きみたいね」

 「頭の良い人には有効な問いかけなのですよ」

 そう言うと文はあはは、と快活に笑って、湯飲みの隣に添えてある饅頭の皮をほんの少しかじった。お返しに慧音もふふふ、と笑った。こちらは屋敷の外の暴風にかき消されるほどの、しかし居間の畳を這うが如く陰険な、微笑であった。そうして彼女は正座していた脚を崩してゆったりとし、肘を立てて頬杖をついた。

 「私は彼女たちに部屋を用意して、衣類、寝具を与えた。食事は自炊させたわ。というのも、基本的に生活の干渉をしたくなかった。いずれは自立してもらうつもりだったから。けれど、桃色の髪の娘には桜の写本を与えてやったり、たまに銀髪の娘を見舞ったりもした。決してかかわりが無いわけではなかったわ」
 
 話を一段落させると、慧音は目を閉じて、まるで瞑想をしているかのように黙り込んでしまった。回想をしているのであろう。文は彼女のくつろいだ姿勢にも関わらず、底知れぬ叡智を垣間見たような気分になった。そして、この様子を居眠りだと記事に書き付けるほど、自分は愚か者ではないと思った。そこで文は記帳に

 (上白沢慧音氏は、過去に存在したとされる宗教者を彷彿とするような、深い思案の旅をはじめた)

 と殴り書きをした。そう筆を走らせて間もなく、慧音の目が開かれた。

 「桃色の髪の娘、西行寺幽々子は、私が与えた桜の写本を好んで読んだ。というより、日の昇る間はそればかり読んでいたみたいだったわ。私は彼女に、桜が気に入ったのか、と聞くと彼女はうなずいて、切れない縁があるような気がして、と答えた。梅の写本もあるわ、と勧めてみたけれどあまり興味を示さなかったわ」

 「桜のほうが派手で美しいと思いますね、個人的に。梅は地味」

 と、文は筆の手を止めて言葉を挟んだ。

 「その花の小ぢんまりしたのが、控えめなところが良いのよ。香りも素晴らしいわ。人は皆さくらさくらとはやし立てるけれど、花の跡が興ざめするし…」

 そして、季節が季節なら、中央の焼き物に生けてある白百合は梅の木であると慧音は話した。なるほど、室内には梅も悪くさそうだ。そう文は思って、確かにと同意をしたあと、彼女は慧音に話の続きを促した。

 「一度、私は彼女を里の外へぶらりと、散歩に連れて行ったことがある。梅雨前の臥待月が輝く夜で、里の北向きに提灯(ちょうちん)を持って私たちは歩いた。星はあまり見えなくて、かと言って辺りの景色も暗がりでつまらないものだった。それでも、私には幽々子の持つ心が色彩やかであると思われたわ。その訳は、少し歩いた先に見えた川の傍を通りかかったとき、彼女が、触れたい、とだけ言ったから。日中は里の人間に配慮して、彼女に屋敷に居てもらわないといけなかったけれど、自然への憧願はやはりあったのよ。本当に殊勝な娘ね」

 文は慧音に、二人を軟禁をしていたのか、と問い詰めたくて仕方が無かった。しかしそれは我慢して、概ね殊勝な娘であるという点を記帳の中で強調することにした。幽々子は幼子のごとく梅雨前の敏感な川の流れに関心を示し、あるいは単純に動物的な警戒反応、あるいは風流の理解、あるいは精神の浄化と、確かに殊勝な---感心の湧く---娘である。しかし、記事の読者の同情を引き立てる殊勝---けなげな---娘でもあり、そういう意味で二重の殊勝さを持っていて、慧音の言う”本当に”といった修飾語も納得できる、と文は思った。もちろん後者のけなげな娘というのも、新聞の記事になれば、の話ではあるが…………

 「それで彼女は、川辺に座り込んでじっと水面を眺めていたわ。私が月が映っているわねと言うと、彼女は歪んでいるわと答えて、川底の石を拾って、月面にじゃぼんと落とした。月は大きな波紋を広げて、濁り、しばらくするとまた元に戻ったわ。それを眺めて彼女は、しんみりとしていた。私は川原に咲いていた忘れ草を摘んで、彼女に贈った。彼女は、花の色が暗がりで見えないわ、と言ったので、私は闇にもっとも美しく踊る花の色は白よ、と言ったわ。なのに何故あなたは白を壊したの、と聞いたら彼女は怖かったから、と答えたわ」

 「獼猴(びこう)よりよっぽど現実的で利口な娘ですねえ」

 「むしろ私は、かろうじで幻想の誘惑に打ち勝ったと思ったけれど」

 「それはどうか知りませんが。まあ、ひとまず、逸話としてそれらのお話を掲載させていただく事にしましょう」

  雨風はだいぶ弱まっているようであった。

 「このまま日が差すくらいに快復してくれたら良いのですが」

 そう言って文は万年筆を手入れした後、それを半そでのカッタアシャツの、胸の隠しに戻した。そして饅頭を一口食べた。饅頭の形は十三夜から七日の月になった。しばらくして彼女はややぶっきらぼうに、というより単に八方美人的な愛想を控えただけであるが、話を切り出した。

 「慧音さんの話を伺う中で、私の頭にぴんときました。つまり、あなたはその娘をよく宣伝したいと考えている。あるいはそういう意図が無くても、幾らかの人間が娘に対して警戒を解く可能性もなくはなくて、やはり宣伝に利点を見出すことができる。少なくともあなたは、私に悪意ある記事を書かせまいと話している」

 「その推測が、一体何だと言うの」

 回想の余韻が残る中、慧音はまたか、とうんざりした。自分の表現方法と比べて、文は露骨なのか回りくどいのかはっきりしない、むしろどちらも均衡していて尚更彼女の気に食わなかった。もしかしたら自分をからかっているのではないかとさえ思ったのだが、これ以上神経を衰弱させたくなかったので文を信用することにした。

 「ですから、あなたの要望に答えて、美談風に記事を仕立て上げるようお約束しましょう。もっとも私の文才を以ってしてでも、あなたの想像する効果が望めるとは」

 文は控えめに、咳払いを一つした。

 「分かりませんがね。その話はもう良いでしょう。私にはまだ、あなたから聞くべきことがあるのです。二つ」

 「なら、話してみなさい……」

 慧音はいやな予感がしたから、というよりいやな予告をもったいぶってされたから、再び神経の疲労を覚えずにはいられなかった。

 「一つは、西行寺幽々子ではない、銀色の髪をした少女についてですが。彼女は」

 文は手刀を作って、自身を真っ二つにする動作をした。

 「半身が人間のそれで無いらしいですが。曰く、石膏のようであるとか」

 「誰に聞いたの」

 「そんなこと聞いてどうするんですか?」

 慧音は黙った。そして、人間の浅はかさを怨まずには居られなかった。盗み見か、やはり目撃者なのか知らないが、黙っていればいいものを、目先の享楽に駆られてまわりに言いふらしたに違いない、と彼女は思った。

 慧音の沈黙を構わないで、文は話を続けた。

 「もう一つは、彼女たちの出現について。ある里の人間の話によりますと、某日早朝、急に二人の身体が宙から、あなたの屋敷前に落ちてきたのを見たとか」

 「私は彼女たちを屋敷の前で見つけたのは確かだけれど、そんな形で運ばれてたなんて思いも寄らなかった。その人間は、娘たち以外誰も目撃しなかったの」

 「ええ。手品は手品ですが、手品師が居ないのは奇妙千万です。もっとも、その里の人間はほうぼうに歩きまわっていた酔っ払いの話なのですが、仮に信用すれば」

 文はにやりとした目つきを慧音に送って、ある言葉を待ち望んだ。

 「妖の仕業とも考えられるわね」

 「そうです。となると、銀髪の娘の半身にはやはり妖怪が絡むはずです。そうでしょう?それが肝心なのですよ」

 文の口調から興奮が読み取ることができて、ついつい気圧された慧音はそうだろう、と彼女を喜ばせる同意の返事をした。

 「しかし、あなたはよくもまあ情報を集めてくる。だいたい、聞くべきこととはなんだったの」

 「言葉のあやですよ。同意、つまり妖という言葉を求めていただけです」

 物事の取材というものが、取材者は大小であれ一方的に情報を得、被取材者はこちらも大小であれ情報を一方的に与えるのが一般的であるとするならば、上白沢慧音と射命丸文の場合は異様であるといえる。お互い有益な収穫を得て、さらに取材者が情報を提供している。かといって取材そのものが破綻しているかといえば、そうではない。そもそも、文が回りくどく「取材」などと名目をつけるから異様に思えるのである。なら最初から話し合いにすればよかったのではないか、しかしそうなると慧音は承諾しないだろう。その細かい駆け引きに、文の回りくどさの意味を見出すことができるのであった。

 「そうなると、ますますあなたに協力してもらう必要があるわね。確かに、銀髪の娘、名前は妖夢というのだけれど、半身は完全に物質化している。薬師には、治療はおろか、石膏を生身の肉に変えるなんて不可能だ、妖の呪いだとしても、そんな妖術を使う妖怪など知らないと言われ、私も分からなかったから、仕方なしに幽々子には病気だと方便を使っていたわ」

 「私の知る限りでも、肉体を物質に変化させる能力を持つ妖怪など知りませんね。まあ、あなたが知らないのだから当然ですが」

 「だから手がかりを求めて、彼女たちを運んだ人物を探していたのよ」

 「しかし、私の提供した手がかりは、宙から降ってきたという夢のような、それも酔っ払いによる話ですから、どうもいけませんね」

 宙から降ってきた---。慧音は心もち首を右に傾げて、これは意図的な現象であろうか、と考えてみた。それも低空から落ちてくるなど、やはり意図的で、高低の空間を無視した---。

 空間?まさか、空間から空間へと娘たちは移動させられたのだろうか。となると、空間の境界を操る妖は---。

 「いや、その手品には心当たりがある」

 文は慌てて万年筆を取り出して、記帳の白紙を開いた。

 「それは一体」

 「以前、博霊の巫女に話を聞いたのだけれど、空間の境界を自由に操る能力を持った妖が存在するらしい。名前は八雲紫という」

 「はあ、空間の境界を」

 文は記帳に空間の境界、とだけ記してみた。この際妖怪の名前はどうでも良くて、それよりも自分にとってつかみにくい、その抽象的な概念が重要であった。

 たとえば、冥界や魔界などの境目と言われれば理解できる。幻想郷をつなぐ境界である。これは文にはごく普通の物事であると思われる。しかし、「空間」そのものの境界となると、物理的な認識をはるかに超えて、彼女を悩ませるのである。その境界は外界はもちろん、宇宙空間、いやその遥か彼方、すなわち無の空間へとを幻想郷とつなぎ、やもすると精神の空間まで達するかもしれないだろう。

 しかし抽象的すぎる。文は恐ろしさを感じて、妖術の一種、とだけ書き加えておいた。

 「つまり、その妖怪が能力を使って、何処からか彼女たちを、あなたの屋敷に運んだのですね」

 「そうよ」

 文はますます恐ろしくなった。何処から、とは一体「何処から」なのだろうか。

 人は、何処から来て、何処へ行くのだろうか。過去の文献に残されたこの言葉は、人間たちに漠然とした不安を与えた。妖怪たちにも然りであった。しかし、両者は価値観を異にしていた。人間は死後を恐れ、妖怪は生前を恐れた。何処から来たのか、という命題は、一介の烏天狗にすぎない射命丸文を困惑させた。

 「二人の娘たちが気の毒です」

 文は外の様子を伺おうと、少し暇をとった。入り口の妻戸を少し開けると、まだ雨雲が空を覆いつくしているようだった。今日は慧音に宿の世話になろうか、彼女はそう考えながら首を突き出して辺りの風景を見渡した。ほこりっぽく、色彩の劣った小屋が、正面の道の両側に軒を並べて建っていた。これといって興味を惹くものもない殺風景な感じを受けて、やはり山が良い、と彼女は思った。

 「慧音さん。山は良いですよ」

 相槌がなかったので、文は首を戻して後ろを振り返ると、慧音の姿はなく、奥の襖が開いていた。彼女はもう妻戸を閉めてしまおうと思って、また正面を向くと、足元からにゃあ、と猫の鳴き声が聞こえた。

 黒猫だった。左耳に小さな鉄の輪がついていたが、飼い猫であろうか、と文は思った。

 「何処からきたのかしら」

 その黒猫は妻戸の間をするりとぬけて、文の右足に毛ざわりの感触を残していった。そして、慧音の肘置きのある上座の傍に丸まった。

 少しすると慧音が、湯差しと、丸く平べったい焼き物を持って開いていた襖から現れた。焼き物には白い乳が並々と注がれていた。

 「やっぱり、今日もやってきたのね。来る頃だと思っていたから、御飯を用意したのだけれど」

 文は席に戻り、茶を注いでもらって礼を言った。今日は肌寒さを感じるほどの気温で、湯飲みからもくもくと湯気がたち、彼女の鼻腔を湿らせた。

 「その黒猫は飼っていらっしゃるのですか」

 「いいえ。最近うちの屋敷をうろついているのを見かけて、乳を与えたら懐いてしまったのよ」

 焼き物の乳をなめる猫を見て、文はこの猫は何処へ帰るのだろうか、と思った。やはり本来の飼い主の家だろう。何処でも良い。しかし---。

 「その黒猫は何処から来たのですか」

 「さあ、わからないわ」

 慧音は時々にゃあ、という鳴き声に耳を傾けてながら、ぼんやりと猫を眺めていた。そして心の中で、何処でも良いじゃないか、と呟いた。何処でも良い。

 結局八雲紫に会う手立ては、博霊の巫女に力を借りることにして、二人はひとまず、それらの問題に仮の終止符を打った。

 猫が帰る頃まで、二人は色々と、他愛のない雑談を交わした。二人の価値観は大分違っていたが、お互い譲歩や尊重といった社会的礼儀を心得ていたから、仲睦まじい懇話のような雰囲気が応接の間に広がっていた。慧音は筋の通った礼儀、すなわち礼儀の本分をわきまえていれば、結構であり、先ほどと違って、回りくどい文の話し振りも許容することができた。文は文で、目的は達成されたのだから、波風を立てようとせず気楽な会話に勤めた。過程はともかくも、おおむね、二人は満足の行く時間を過ごしたのであった。

 里に夕闇が流れ、夜が出来上がった。

 猫は帰った。雨風が暴虐の勢いを取り戻したのにも関わらず、それでも帰った。文は帰れなかったので、慧音の屋敷に宿を一室借りることにした。 

 二人はその晩、それぞれの寝具に包まれてめいめい好きな考え事をした。慧音はほっとしながら、文は不安を感じながら。

 しかし両者はついに、満足する結論に導く前に、意識をまどろみのへと滑り込ませるのであった。



(3)




 幽々子はその場から動けなかった。

 昼が過ぎて、夕方がやってきて、夜になっても、暴風が小屋のあらゆる板を震わせても、その風に流された雨粒が柵窓から居間に吹き込んで、床板を濡らし蝋(ろう)をしめらせても、時折なにかが飛んできて小屋にぶつかって大きな音を立てても、駄目だった。

 幽々子の大変な心労は、妖夢の死体が横たわる傍で、彼女の身体を正座の体制に固めた。彼女の目は充血しない代わりに、その目元に黒ずんだ陰りが出来上がっていた。

 彼女は妖夢の死を認めたとき、泣いた。

 しかし数刻も泣き続けると、ある考えが彼女の心の中に現れた。

 「何故泣くのか」

 涙を止められないほど悲しいはずであるのに、不思議にもその考えに支配された。その結果、心理的疲労が悲しみの潮を追いやったのである。

 加えてその疲労の怠惰性は彼女を諦めの心境に推移させた。これなら死後よりも生前のほうがずっと悲しかった、と逆説的な思いに駆られ、それがまた彼女に疲労を蓄積させた。

 自分にとって妖夢とはなんであったか。大切な人である、と思っていた。慧音の屋敷で目覚めて、自身の記憶がすっかりなくなっていると自覚した時から今まで、一貫してそう思ってきた。粉々になった記憶の欠片が本能的に自分の理性に対して訴えかけているからである。だから信頼関係を疑わなかった。

 もしかしたら単に利己性が原因であるかもしれない、というのも妖夢を自分自身の"あて"にしている節もあるからであるが、しかし何にせよ、彼女の心の底から、妖夢に対してあたたかい愛情が溢れ、向けられていたのである。彼女にとって妖夢は、必ずなくてはならない存在であったのだ。

 しかし、妖夢の死は幽々子の思想を歪ませた。彼女の感情は、確かに今も妖夢への愛を感じている。理性はというと、限りなく大切な人に近い、と判断していたのであるが、大切な人の死というものは自身を苦しめる上に最悪の結末をももたらす非常に悪い出来事であって、直面に際してそれを回避するかどうか混乱をきたしていた。

 惨事を避けるために、理性は記憶の不確かなことを利用してある妥協案をあげた。妖夢を自身と関連のない、全くの他人であると再定義するというものである。この妥協案は幽々子が妖夢に対する判断を、「限りなく大切な人」から「限りなく大切であったような人」にならしめた。そして彼女は愛情を持ちながら、不正確な物事を見つめて、憐憫の気持ちを持ち出せずにいる宙ぶらりんの状態になった。

 この心の葛藤は主に自己を確立できないが故に引き起こされたものであり、そもそも幽々子の自己は妖夢の存在によって仮に形成されていた。つまり、妖夢の消滅は自己の消滅に等しいのであった。感情を抑えて生命を護るべく例の提案を挙げたのだが、しかし全く意味を成さないもので、なにせ感情的な衝撃に対してしか効果を発揮しないものだからである。

 逆にそれに対し理性が震撼したのであって、時間稼ぎどころか、この自己崩壊の過程で混乱した理性は、ついには自身がもっとも恐れていた考えに行き着いたのであった。

 幽々子はか細い声で歌を詠んだ。

 ---たまきはる命惜しけどせむすべもなし

(自身の魂は、心の正と反の思考のせめぎあいにきわまった。命は惜しいが、魂が消滅しようとしていてはどうしようもない)

 枕詞の控えめなつぼみを咲かせたのも、彼女は体面を気にするほどの余裕がなかったからであった。

 幽々子は自身の倦怠した身体を、時間をかけて精一杯持ち上げようとした。立ち上がった途端、彼女の両足の筋肉が痙攣をおこして、無防備に膝をついてしまった。床板は大きな音をたてて、彼女の足は痛みと痙攣で再び立ち上がるほどの余力を失った。

 息も切れ切れに、幽々子は妖夢を寝床から引っ張り出して、そのまま居間から小屋の裏口へと向けて這って行った。意識が朦朧(もうろう)とする中、彼女は妖夢と二人で樹の養分になりたい、と思った。桜がいい。だが裏山に桜の樹があっただろうか、杉やら櫨(はぜ)やらではなかっただろうか、しかしそれならそれで仕方ない。なんにせよ、樹がよい。

 ずるずると、妖夢も自分自身も、床に散らばる雨の水滴を小袖に染み込ませながら、裏口の下駄場にたどり着いた。手前の引き戸は暴風にうたれて音をたてていた。開けるときっと酷い雨風と、さらなる暗闇が襲うであろう、彼女は思った。しかし一刻も早く、樹の下で妖夢と溶暗(フエイドアウト)の瞬間を迎えたい、その衝動が彼女のためらいを消し去った。

 幽々子は引き戸に手をあてた。すると、突然それまで震えていた戸がおとなしくなった。幸運にも風が弱ったか、風向きが変わったのだ、と彼女は反射的に考えた。何とかたどり着けるかもしれないと彼女は思って、目は喜びでかすかな光を取り戻し、疲労困憊の肉体には何処からともなく力が沸いてきた。その力いっぱいに戸を横に滑らせたが、目の前に現れたのは、あるべきはずの畑や草木、竹の垣根でもなく、風に流れる布と、視線を落とせば布の底から出る二つの皮作りの靴であった。

 その障害物は、幽々子の意識を失せさせるほどには十分であった。彼女はついに脱力し、頬を下駄場の土に落とした。そのひんやりとした土の感触は、死とは縁のない、淡白な印象を彼女に与え、不思議と安心が沸き起こるのを自覚することもできず、無意識のへと旅立った。

---

 幽々子が意識を取り戻したのは、月が大分西に傾いた頃であった。暴風は相変わらず吹いているものの、小屋にその音がこもっていた。柵窓に板がはめてあったからであった。

 彼女は寝床、それも妖夢の寝ていた所で寝かされていた。裸になっていた。ろうが一本枕元にあって、それに囲炉裏には火がくすぶっていて、小屋は明るく暖かかった。私は助かった、と彼女は思った。あれほど混乱していた心も落ち着き払っていて、妖夢の居場所も気にならなかったし、妖夢のほのかな汗の香りが枕から漂ってきても、動揺はなかった。全身を直に包む、蘇芳(すおう)色の掛布の肌触りが生にリアリテイを付与させて、自然と彼女を現実的にならしめた。

 裏口のほうから、焼き物の椀がかたかたと音をたてて、居間の方へ向かってきた。それを乗せた膳を運んでいる人物が、自分を介抱してくれたのだ、と彼女は思って、色々な疑問はおいといて、まず第一に感謝の台詞を考えることにした。
それに、誰かにすがりつきたい欲求もあって、出来れば唯一の知り合い、慧音が現れることを願った。

 しかし、慧音は現れなかった。代わりに、黄金色の髪をそなえて、独特な、異国風の服装をした若い女であった。

 「久しぶりね、幽々子」

 そう言って女は、茶と南瓜(かぼちゃ)入りの粥の乗った膳を囲炉裏の上座に置いた。どちらからも湯気がたちのぼっていた。幽々子は女と目もあわせず、加えて瞑って、礼を言った。

 「けれど貴女、妖怪でしょう」

 「ええ」

 「私を知っているのね」

 「ええ」

 「教えて。私は妖怪なのかしら」

 女は言葉を詰まらせた。幽々子が目をあけて彼女を見ると、二つの美しい紫水晶からほろり、と薄い悲しみが流れていた。顔は見る見るうちに紅潮し、全身を震わせて目を瞑った。しかし忽然と表情は笑顔に変化して、ふふ、と含み笑いをしたので幽々子の内心を驚かせた。

 「食事が冷える前に召し上がれ」

 「妖夢は何処」

 「埋めたわ」

 「何処に」

 「桜の樹の下」

 幽々子はまた礼を言って、疲労の残る上身を起こした。背中が涼し気を覚えつつ、胸元を掛布で隠したままで、女から膳の茶を取ってもらって、それを軽くすすった。囲炉裏からは、薪のぱちぱちと弾ける音が小屋中に響いた。

 「この家に詳しいのね。見ず知らずの家で家事なり火を熾(おこ)すなり、難しいわ」

 「それ程でも。火は木も蝋も駄目だったから、新しいものを用意したけれど」

 「私たちのことも詳しいんでしょう」

 「ええ」

 「妖怪って嫌だわ」

 「そうかしら」

 「胡散臭いから」

 女はふふふ、と笑って、自分の顔を幽々子に近づけた。伸びすぎていない上品な睫毛、鼻筋は鋭く、笑窪の堀は浅い、美しい女のお手本のような顔立ちを目の前にして、思わず幽々子はああ、と感嘆がもれてしまった。

 「一緒に寝ましょうか」

 女はそう言って立ち上がると、自分の着ている衣服を床板へとさらりと滑らして、影のある美しい裸体をさらした。彼女の浮かべる妖艶な笑みに、幽々子は全てを任せてしまいたい衝動に駆られた。女は幽々子の背中を抱いた。幽々子はあたたかい乳房と心臓の鼓動を感じながら、女の髪の香りを抱いた。

 「貴女、紫」

 「そうよ、そうよ」

 「本当に…」

 「ええ、私は紫。紫」

 紫は顔を幽々子の頬に預けた。紅玉と紫水晶が、きらきらと輝いていた。情愛の熱が、幽々子の無意識の木の、記憶という養分を吸った言の葉を揺らし、八雲紫、という名前が生まれたのであった。

 紫は嬉しかった。まだ終わっていない、と思った。彼女の感動は幽々子の頬につたわり、指先へ伝わり、そしてその指先は一方の指先へと伝わった。二人は愛情を循環させた。ごく単純なそれは、お互いの感情の河を流れ、幽々子の理性の堤防は跡形もなくなった。

 幽々子は思った。妖夢への愛情は本当であったと。そして、紫への愛情も本当であると。こうして彼女に、過去と現在に整合性が生まれた。

 「ねえ幽々子」

 「何」

 「脚をみせて」

 「好きなの?」

 「貴女の脚が」

 掛布は取り払われ、幽々子の膝の曲線が二本、天井に向けて突出した。腿(もも)の肉付きは控えめで、脛(すね)は鋭く、腓(こむら)は滑らかな円線をひいた、優美で、長い脚である。清潔な白々とした本来の色に、妖しい緋の色に染められて、遊糸が昇りそうなほど、幻想的であった。紫はそれを目の当たりにして、興奮を覚えずにはいられなかった。脚がほんの少しでも動くと、放つ輝きの色が微妙に変わり、腿下が美しいと思えば、突然脛が舞い、脛が舞い終えると腓裏が濃厚な表情に変わる。その一挙一動に紫は心を躍らせたり、動揺したりする。その姿を見て幽々子は、自身の脚を加虐的に使い、密かに喜びが満ちる心に罪悪感を覚えないではいられなかった。

 「ねえ、脚に接吻させて頂戴」

 「服従したいの?それとも、させたいのかしら」

 「そんな問答、昔貴女としたわ」

 「そのとき、貴女は接吻をしたのかしら」

 「ええ」

 「なら私は過去、あなたに服従させるようにさせたのね」

 「そうよ。服従させてくれたから、服従させたわ。---良いでしょう?」

 乾いた接吻が、不自然に響いた。幽々子は身体を震わせると同時に、心に背徳感という理性の堤防が再び建てられた。

 親愛なる人物が命を落として間もなく、接吻の音を立てるなど、遊女にも劣る、と彼女は思った。しかし、その下劣で賤しい自分が他者を隷属させている状態に優越感を覚え、ますます自身を貶めるのであった。

 幽々子は表情を曇らせ、紫が唇を交わそうとすると、幽々子の瞳は対面の壁板にそらされた。

 「やはりいけないわ。もうお帰りになって」

 二人の唇は二寸とも間がなく、声の響きが刻銘にお互いの心の機微を語らせた。

 「嫌らしくなったのね」

 「あなたはきっと言うわ。肉欲は愛情の亜種だって。私もそう思うけれど、今日だけは悩まずにはいられないのよ。だって、大切な人が死んだときに持ち出す愛情に、少しでも不埒な考えを関連させたくないから。肉欲は心を荒ぶ、愛情とは別種のものよ。私は過去に妖であったとしても、今日(こんにち)は人間のように、貞操観念を持ち、百八煩悩、七十二でもいいわ、それを忌み、魂の成仏を願うわ。こういう清い精神を持って死者を弔うのは、やはりしなければいけないこと。私が人間的道徳に従うのは、身も心も人間だから---」

 また幽々子の瞳が潤い、輝きを鋭くはなった。潤いがこぼれると、紫はもう彼女を見つめていられなくなり、身体を後ろに戻し囲炉裏のほうを向いた。

 「そう、もう貴女は人間よ。身も心も」

 紫はひとつ小さなため息をついて、床に放ってある洋服の裏地に結んでいる赤い紐をほどいて、髪をひとつに束ねた。それから服を着て、さっさと裏口の方へ向かっていった。間もなくすると彼女が居間に戻ってきて、手元には小袖と単(ひとえ)、そして真紅の帯(リボン)があった。

 「服装の用意が出来たわ」

 小袖は真白のいたって普通のものだが、単は独特で、袖の細い、縹色(はなだいろ)が主に使われていて、縁飾り(フリル)が襟、袖口、また単の正面の両切れ目にも上から下へと続いていた。和装と洋装の折衷のような感じの単であった。

 帯は紫が締めてやった。結び方は蝶であった。
 
 二人は囲炉裏を囲んで、対面に座った。幽々子にとって、これ程永い夜は過ごしたことがないように感じられた。朝になれば何事も逃れて行くに違いないと思うにつけて、小屋を打つ暴風の音が印象的に耳に残った。紫は消し炭を軽くつついていた。消し炭たちはまだ鮮明に光っていた。

 「単の着心地はどうかしら」

 「帯の結び方が素敵で、私はやっとあの夢を見ないですみそう」

 「貴女は幽々子よ。---蝶ではなく、人間の」

 「妖夢は」

 「妖夢は、」

 紫は言葉を少し切った。別段意味を含む中断ではなかった。過去の愛人の美貌と、現在の目の前に座っている愛人の美貌とが、少したりとも違わず、それでいて考え方や態度が微妙に違っているから、どうも気まずさがあって話が進まないのであった。しかし大方はそれも含めた彼女の魅力に惚けているからだと、彼女は心の中で苦笑した。

 「妖夢は、霊魂と人間の折衷。ある事件で、霊魂の方が消滅したから、半身が石化した。消滅に対する代償か知ら、少なくとも自然科学的には原因は説明できないし、そうであるからそうだとしか言いようがないわ」

 その言葉に、幽々子は首を伏せて頷くだけであった。紫は話を続けた。

 「私は、その事件の一部始終を目撃したわ。肝心なところを先に言うと、幽々子、貴女が霊魂を消滅させたのよ」

 「私が」

 「あの娘の備えていた長刀で、貴女が霊魂を斬った。あの娘の霊魂に妖が、いえ強大な妖が取り付いたから、両者一緒に一刀両断した。冥界の出来事だったわ。強大な妖とあの娘は激闘の末に、妖が倒れたのだけれど、最後に霊魂へと憑依したのよ。そもそも、西行寺幽々子という亡霊姫が禁呪を以って、西行妖(さいぎょうあやかし)と呼ばれる妖怪を目覚めさせたのが事の発端なのよ。しかし妖は強大すぎ、彼女の手に余り、ついには自身の亡霊体を取り込まれてしまった。西行妖は桜の妖樹。西行寺幽々子の妖力を吸収してさらに強力になり、冥界は消滅寸前までに陥ったのよ。そして、あの娘は貴女を妖樹から救ったの」

 紫は幽々子の手が震えているのを見つけた。それで、自分の手を見てみると、やはりこちらも震えていた。恐ろしい妖であった。

 「そんなこと、知らないわ。亡霊姫、妖樹、そんなこと…分からないし、覚えていない」

 「幽々子、」

 「ねえ紫。あなたの歴史はとても長いでしょうけれど、私の歴史は白紙なのよ。白紙になにも求めようがないわ」

 「なら書きなさい」
 
 その強い口調をともなった言葉に、幽々子は怯えずにはいられなかった。

 「だって……」

 「実は、その事件が原因で人間と妖の歴史は改ざんされたのよ。懲罰の意味で、西行寺幽々子と魂魄妖夢は幻想郷の歴史から抹消されたの。そして幽々子、貴女は西行妖の呪いによって反魂したのよ。幾つかの物事を除いて、記憶は生前に戻った。そして、この事件を知っているのは、幻想郷に三人、私と、」

 「全部でたらめよ」

 そう幽々子はぽつりともらすと、立ち上がって居間の奥の檜の箪笥(たんす)へ向かって、黒々とした長い鞘を取り出した。刀を抜いて、素早く紫の対面に戻ったが、一向に座へつこうとしない。

 「何をしようとしているの」

 「これがあなたの言う、妖怪と霊魂を斬った刀ね」

 そう言って幽々子は、刃元の辺りを自分の首にあてがった。刃先は天井を避けて後ろに向けて、柄(え)を持つ両手は重さに耐えて微動していた。

 「証拠を見せて頂戴」

 何をいまさら、と思ったのは紫でなくて、幽々子だった。禍(わざわい)の渦に飲まれて平衡感覚を失っている上、その渦の原因は自分であるというのは、大いに彼女を混乱させた。しかし混乱は心が楽になるから、そういうふりをしての発言であった。混乱を処理すると、死への欲求が高ぶる。だからずっとふりをしていないといけない。それでも身体は自然と手段を両手に握らせた。

 「弱い人間ね」

 「もう…生きたくないわ」

 自業自得だ、と思ったのも、やはり紫ではなく幽々子であった。妖夢を死に追いやり、記憶を失って、そしてただの、紫と多様にわたって釣り合いのない、人間に成った自分は、やはり死がもっとも必然性をおびた選択だと彼女は思った。

 紫は幽々子を見上げて哀れみの視線を送ったが、何もいわなかった。幽々子の感情の背景を十分理解し、同情すらも感じていたが、それでも言葉を殺した。非常に危険だったから。

---

 幻想郷の今までに流れ去った時間の合計は一体どれほどかは分からない。仮説は立てられるが、証明する手立てがない。八雲紫は無数の仮説を立てた。材料をこつこつためて、立てるのはいいが、大黒柱がない。だから不良の星が無数に、彼女の頭の中を照らしていた。堅実な彼女は、ここでもまだ大黒柱を見つけられずにいた。

 好機(タイミング)である。幽々子を救う手段はあった。好機があれば彼女の生(せい)を証明できる。ただそれを待たないと、やもするとすべでが倒壊するかもしれない。大黒柱無しではせいぜい九割九分九厘程度の証明確立である。証明もどきだ。十割の完璧な生にはやはり待つしかなかった。

---

 「ねえ紫」
 
 「何」

 「あなたは運命を信じるのかしら」

 「運命ねえ。あるのかもしれないし、無いのかもしれない。そういう曖昧な物事は、簡単な確率論で方をつければいいのよ。そういえば、幻想郷には運命を操る能力を持つ妖がいるのだけれど。---貴女は今胡散臭いと思ったでしょう。けれど、その能力に対しては私も実際そうだと思っているわ。だって、いくら物事の可能性が低確率でも、零割は存在しなくってよ。小数点がある以上、物事が起こる可能性はある。つまり、その妖の予知や予言じみた行為があたるのは、単にとても運が良かったと言うだけ。それがたかだか数百年続いただけで、大それた能力を自称するなんて、可笑しくて」

 「ねえ紫」

 「何」

 「私…お料理は下手なの。けど、貴女の好きなものなら頑張って作るから…」

 「幽々子が作ってくれるだけで嬉しいわ」

 「ねえ………」

 幽々子は話をやめた。そして、肩に休ませていた刃を再び持ち直して、腕の力を振り絞って手元の震えを止めると、いよいよ本気だと紫は思った。

 紫の考えていた好機はまさしくその時であった。

 「妖夢はね」

 出し抜けに言い放った紫の言葉は、幽々子にとって意外であった。

 「妖夢…?」

 「貴女に遺言を残している。私は全てを記憶しているわ」

 「まさか」

 言葉とは裏腹に、幽々子は身体を震わせて涙を流した。何も聞いていなくても、その遺言自体が彼女が待ち望んでいたものの一種で、嬉し涙がこぼれるのであった。やっと絆が、妖夢と自分の間に生まれたのだから。


---


 西行妖の消滅後、霊魂の消滅で右半身が石化し始めていた妖夢と、霊魂に取り付いた西行妖を斬った後気絶した幽々子を紫が運んだ先は、人間の里の北にある湖のほとりであった。真夜中の、星の美しい場所で、大きな柳の木の元に二人はもたれかけさせられた。冥界の彼女らの屋敷は既に崩壊していた。

 妖夢は紫を呼んだ。彼女は事件の初めから紫の存在を認知していなかったが、おそらく監視していることを予想していた。それで、西行妖との戦闘で視覚を失っていても、自身を下界に運んでくれたのは紫だとやはり確信していて、返事が傍から聞こえるとありがとうございます、と礼を言った。

 妖夢の右手は幽々子の左手を握っていた。力はほとんどなかったが、確かに握っていた。彼女は、紫に幽々子への遺言を頼んだ。紫は承諾の返事をした。

 幽々子様

 前略。私は貴女におつかえしてから今まで、貴女の行動を盲信してまいりましたが、今回に関しましては、やはりまた、一つの提言をしないわけにはゆきません。すなわち、貴女は初めから例の妖樹に操られていたのです。

 私がその心配をすると貴女は表情に出さなくても不機嫌になって、いつもより食事の注文を細かくおっしゃったり、茶の味に小言をもらしたり、按摩を長い時間私にさせたりします。素直に私の申し上げることをお聞きになればよかったのです。呆れた人。そのくせ、機嫌を悪くした日が変わると、とても早く起床なさって、下界に花を摘みに行って、こっそり私の枕元に添えるのですから。今でも可愛らしいやまぶきがあった、うぐいすが鳴くあの郎らかな春の朝を忘れずにはいられません。

 私はいやしい性質なのでしょうか、死に際が近いとどうも体面を気にせず、失礼にも貴女に生意気な口を利いてしまうようです。お許しください。しかしその減らず口を再び開きますと、貴女はおそらく反魂した様なのです。理由は分かりませんが、私の拙刀桜観剣で妖樹から貴女を取り出したときには、もう妖力が微塵も感じられませんでしたので、もしかしたら、と思うと貴女は目を開けなさったので、やはり人間になってしまわれた。妖力のない妖怪、亡霊は例えどんな奇形でも人間なのです。これは昔貴女と紫様に否定されましたが。なんにせよ通説を申しあげますと、肉体、精神、記憶が生前に戻ったのですよ。

 ですから、私は何も知らないただの人間に言葉を残しているようなもので、空を斬る様な怨めしさでございます。しかし、名前だけは、心にとどめて下さい。私は魂魄妖夢、貴女の従者兼ご自宅の庭師で、八雲紫は貴女のご友人、貴女自身は、西行時幽々子。
 
 私たちは長い間、幸福な時間を過ごしました。そして、無常というものを心に留めています。ですから、冥界は消滅してしまいますが、辛くはありません。貴女も儚さを知り、無常というものを達観してください。

 話が乱雑になってまいりました。私は今も幸福です。右手の感覚がなくても、貴女の暖かい左手の熱が心にしみています。貴女は記憶がなくても、名前だけは大切にしてください。それが、貴女の歴史の証、存在そのものです。

 言うべきことも言いたいこともまだ沢山ありますが、少し疲れましたので休ませて頂きます。けど、ひとつだけ言いたいことが今浮かびました。また貴女の機嫌を損ねるかもしれませんが、もうお料理もお茶だしも按摩も、何も出来そうにないので、小言に安心してお話しすることが出来ます。

 西行時幽々子、生きてください。

 貴女の従者、魂魄妖夢

 その後紫は、二人を自分の屋敷へ連れて行き、彼女たちの服を清潔な小袖に着替えさせた。そして、自分で匿わず、人間の里のある人物の屋敷前に、二人を置いたのだった。歴史が蘇る事を願って。


---



 遺言の暗唱が終わる頃には、非道かった嵐もぱったり止んで、夜も白みかけていた。紫が柵窓の板をはずすと、外は薄暗闇で霧がかかっているのが見えた。
 
 幽々子は座に落ち着いていて、既に刀も傍に放っておいていた。そして、遺言を聞きながらしくしくと泣いていた。

 「私の可愛い幽々子。こちらにおいで」

 雀が鳴き始めてやっと、紫の膝枕からすすり泣きの声が止んだ。紫も、桜色の波立った髪を撫でるのを止めた。まるで示し合わせていたかのようにぴったりと。

 「樹に。連れて頂戴」

 「ええ」

 一番鶏とセミの声も、示し合わせたかのように鳴き始めた。二人は火も消さず、硬く手をつないで小屋を出た。湿り気のある、心地の良い暁時だった。二人が手をつないでいないもう片方の手には、鞘に納まった刀があった。幽々子は長刀、紫は短刀を持っていた。そして彼女たちが後にした小屋は、生活の香りを残して、二度と人を住まわせることはなかった。





(4)





 夏が去って秋が訪れた。

 水辺では荻(おぎ)が穂をなびかせて、野原にはススキが尾花を咲かせていた。ススキの傍には競うように萩(はぎ)が伸び伸びとしている。

 落ち着いたところでは、しおんやきくが睦まじく生えていて、また別の場所ではききょうやなでしこの花が可憐に咲いている。

 山では沢山の紅葉が舞う。ほおずきの実、ひおうぎの実、さねかづちの実は小ぶりに幾房となっていて、宝石のようにきらきらとしていている。

 流れる清流は雪解け水と変わらないほど冷たい。

 コケは霜におびえ、コオロギは口ばしにおびえる。蓑虫はただ、樹と生きる。

 すずむしとまつむしは、秋の夜長に音を奏でる。

 ふと、見上げれば三日の月。上弦、下弦は正と反。


 こんな秋が今年、いつものように、毎年のように、幻想郷にやってきた。

この季節、人間の里では豊穣祭を収穫後の望日に催すことになっていた。今年はかなりの豊作で、平年は葉月に祭りがあるのだが、里人の収穫が忙しく長月にずれ込んでしまった。

 最初、紫は幽々子から、二人で祭りを観に行きたいと話を聞いたとき、露骨に嫌な顔をしてはっきりと断った。人間から非難の視線を浴びてまで観に行くほど価値があるとは思えなかった。それに、獅子が羊の群れに近寄り、さらに自分は羊を連れてなど、羊の群れにとって面白いものではないに違いない、と彼女は思った。

 「あら、あなたは羊を捕食していない獅子でしょう」

 「獅子に対しては大体捕食者という固定観念があるのよ、羊には。それに、寅と未(ひつじ)は正反対じゃないの」

 「まあ。それなら両方とも幻想郷の門番じゃないの。仲良くしないといけないわ」

 「お上手な返しだこと」

 こんな二人の会話が紫の屋敷で、月見の最中に交わされた。

 もしかしたら固定観念があるのは自分のほうかもしれない、それに実際人間を食らうなどとうの昔で止めているのだから、と紫が考えていたのは、白露が過ぎた頃だった。

 祭りの延期が決まって、それを小耳に挟んだ幽々子は、一層説得の弁に力を入れた。自分は人間なので、やはり人間と関わって生きたいし、紫にも理解して欲しかった。それに、なんとか慧音と会って、自分の話をしないといけない。というのも、慧音との接触を紫から堅く禁じられていたのだ。

 幽々子は進歩的に考えた。祭りは人々を陽気にさせ、誰彼にも親近感を持つ。そんな有難い行事に、我々が行かない訳にはゆかない。それに我々をとやかく気にするほど手持ち無沙汰な人間もいるまい。そういった彼女の積極性は、用心深い紫を次第に心変わりさせ、寒露の頃には紫はもう参っていた。

 「お好きになさい。けど、音頭は嫌よ」

 紫は幽々子に甘かった。それに、慧音に会わせないようにしてただでさえ不平を言われるのに、祭りを一度断ってから小言が耳に入る頻度も増えて、これ以上幽々子の機嫌を損ねたくなかった。結局彼女は、幽々子の拗ね顔より断然、笑顔を選んだのであった。

 里に行けば必ず幽々子と慧音は接触するだろうが、紫は幽々子の身の危険なんて、これは彼女の心配のひとつであるが、容易に回避できると思った。彼女は幽々子がもともとは慧音と自分だけで会いたいと言うから、禁止せざるを得なかった。今回は自分が傍についているからという理由で、どうにかなると彼女を楽観的にさせたのであった。

 しかし紫には、慧音が次に何をするのか想像もつかなかった。

 祭りの当日、紫と幽々子は満月が出てから少しして、西門から里の中に入った。

 家軒には例外なく紅提灯(べにちょうちん)がぶらさがっていて、里内はきらびやかであった。二人が歩く西大路には出店が連ねて、その間にたくさんの老若男女が行きかっていた。

 服装が派手な色の男はまず見当たらない。それでいて、地味な服装の女もやはり見当たらなかった。おかげで紫と幽々子の奇抜な服装も普段より目立たないようであった。子供たちについても大体は男女の傾向が当てはまるが、少女たちは桃色や紅色の帯がほとんどで、大人の女性みたいに自由に着飾れない風であった。

 豊穣祭といえども、この里で催しているのは神を祭り感謝するような種類ではなく、単に収穫を喜び、皆で祝い楽しむ享楽的なものであった。幻想郷では凶作がまず起こらず、貧弱な収穫でも山の恵や川の恵に頼るので、形式的な祭事に陥るのも無理は無かった。

 幽々子は足袋の並ぶ出店の前に立ち止まると、紫にこれが欲しい、と厚く白い蚕糸の物を指した。

 「おいくら?」

 「へえ。牝牛半分くらいでさあ」

 縁日商人とは賢い人間で、身なりを見るや否や商品に適当な値段をつける。彼の頭の回転のよさに紫は感心した。

 「このくらいでいかが」

 紫は自分の背後に両腕を回して、何やらつかんだかと思うと、砂金を両拳一杯に持って、宙吊りの小さな銭入れざるにこぼした。商人はわっと驚いて、重みに揺れるざるを慌てて押さえた。こぼれた砂金は道行く人が全て掠め取って行った。

 「妖術師さまだったんですかい」

 「ここらで面白い出し物はやっていないかしら」

 「そんでがすな、そろそろ、東大路に人形遣いが洋劇をやりまさあ。けどお嬢さんの出し物の方が面白いにきまってましょ」

 「それはどうかしらねえ」

 紫が幽々子を見ると、幽々子はふふ、と笑って、軒下で足袋を履き替えた。脱いだ薄地の足袋は商人に処分してくれるよう頼んだ。

 「そんな事できやしやせん。こりゃ上等でがすから、うちの可愛いおぼこ娘にやりまさあ」

 商人は黄色く、歯並びの悪い口元をにやつかせた。紫も幽々子も、その足袋がすぐに陳列されるのは分かりきっていた。

 東大路には、二三の家軒を囲む人だかりが目立っていた。二人が人々の肩から中心を垣間見ると、人形用の、小さな木製の舞台が出来上がっていて、枠の内側では西洋甲冑を装備した、金髪の、青い眼をした少女人形が三体いた。一方の人形は青い帯の髪飾りを、もう一方は赤い帯の髪飾りを金髪に結んでいた。さらにもう一体は黄色の髪飾りだった。

---

 青い帯の髪飾り:

 In the same figure,like the king that's dead.

 赤:

 Thou art a scholar,speak to it Horatio.

 青:

 Looks it not like the king? Mark it Horatio.

 黄:

 Most like : it harrows me with fear and wonder.

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 人形たちは吊られてもいなかったし、文楽風でもなかった。人形遣いらしき人物は、舞台の右側に離れて、籐椅子に、何処から持ってきたのか知らないが、腰掛けて、洋語の台詞を詠っていた。

 里の人々は訳の分からない台詞などどうでも良い風で、人形がどうやって動いているのかに感心を示した。どうせ小細工があるに違いないが、それにしても恐ろしく自然に動くと彼らは思った。子供たちは、本気で人形が自分で動いていると信じた。なんにせよ、その舞台の周りは笑みが溢れていた。

 「あなたの手品より立派ね」

 「まさか。私には糸が見えるから、何とも思わないわ」

 糸があればあるで、尚更立派な人形たちだと人々は考えるだろう、と幽々子は思った。彼女は興味を持って、人々の隙間をぬって、最前列の子供たちと一緒になって人形劇を観た。

 人形自体、素晴らしく精巧にできていた。

 関節をさらさない、肉付が人体のような愛玩人形でありながら、舞台に足をしっかりついて、膝や腰、肩、首といった要所の自在な動きが目を見張る。つぶらな二つの青眼は明るくなく、動作と共に放縦に転がっていた。

 幽々子はまた人を掻き分けて、紫の方へ向かった。

 「どうだったの」

 「ええ。糸は見えなかったけれど、良い人形ね」

 「あの子達が悲劇をやっていても?」

 「悪いのは人形遣いよ」

 「人形遣いは大体捻くれているから」

 「やはり三弦が恋しいわ。そうね、弾妓(ひきこ)を呼んで、人形たちにだらりの帯を締めて、”高砂”(たかさご)でも舞うようにさせたらいいわ」

 「それはうれしいけれど、あの人形遣いに謡えるとは思えないわ」

 「私が謡うことにしましょう」

 「貴女と二人で観れないじゃない」

 「ふふ」

 前隣の初老の夫婦が、人形劇がいつ終わるのか言葉を一言づつ交わした。まだ一幕も終えていなかった。

 二人は人だかりの輪から離れ、中央の四辻へと向かった。途中、梅干大の小さな林檎飴を買って、あんまの老婆が売っているひよこ達を眺めた。

 北大路の先から、太鼓の音頭が始まった。

 人の流れは北大路に向かって、幼い子供達が面をかぶって、駆け足で大きな身体を易々とすり抜けていった。

 「ねえ紫」

 紫は幽々子の満面の笑みをまぶしく感じた。

 「傍で見ていてあげるから」

 四辻で、ふと紫が南大路に顔を向けると、距離を置いて男が三人、こちらの様子を伺っていることに気がついた。すると、体格の良い二人の三十路男に挟まれた、齢六十も過ぎているであろう、地味な羽織を着た杖もちの翁が、深々とお辞儀をした。

 「上白沢様がお呼びで御座います」

 紫と幽々子が案内されたのは、南大路を下りきった、南門の出口手前であった。そこは全く人気がなく、出店もないし提灯もない。幽々子には背中に聞こえる謡が、遠い遠いところで謡われているように思われた。

 しばらくすると、南の田畑のあぜ道から、慧音がやってきた。

 しかし、普段の彼女とは様子が違い、二本の反った鋭い角と、長い尾を生やしていた。獣性が身体からにじみ出ていた。

 三十路男二人と翁は、慧音に臆することもなく、音頭の鳴り響く方へ帰っていった。

 「お前達に話がある」

 慧音の瞳は紅色で、髪の色は青みが消えていた。服は青地から緑地になっていた。幽々子はその姿に訝しがったが、声は確かに昔聞いた慧音の声と違わなかったので、面倒を見てもらった恩を懐かしく振り返ることができた。

 「今まで会いにも来ないで、心配をかけたわ」

 「構わない。お前の傍に居る八雲紫が、そうさせた事を知っているから」

 「ワーハクタクには全て、お見通しのようね」

 紫の言葉を聞いた慧音は、急にこめかみが険しくなった。

 「しかし……八雲紫、お前は何処から来た?私の知識を以ってしても分からない、つまりこの幻想郷以外の事柄なのだよ」

 「何処から来た?」

 「だから、お前と西行寺幽々子、魂魄妖夢の二人は、何処から来たのだ?西行寺幽々子と魂魄妖夢を、何処からつれてきた?」

 「冥界よ」

 「冥界!」

 慧音は小声で、もう一度「冥界」という言葉を吐き棄てた。

 「お前に伝えなければならないことがある」

 「何」

 「お前も、西行寺幽々子も、魂魄妖夢も、この幻想郷には存在するべき人物ではない」

 「いきなり何を---」

 「聞け。お前達三人がこの幻想郷にやってくるまで、確かに八雲紫、西行寺幽々子、魂魄妖夢という妖怪、亡霊、半人半霊が存在した。しかし数ヶ月前に、お前が何処からか西行寺幽々子と魂魄妖夢をつれて来て、おまけにお前を含めて三人。それが元々三人の居る幻想郷にやってきて、六人になったのだ。お前達は不規則的な存在なのだよ。私は、この幻想郷に規則的な存在の歴史は書き換えることができるが、不規則的なものには手を出しようがない。だから規則的な八雲紫、西行寺幽々子、魂魄妖夢は消えてもらった。ともかく要所は、お前達はこの幻想郷の住人ではない」

 「出鱈目を」

 「出鱈目?違う、おそらくお前は何処かの幻想郷の、妖々夢事件の頃の八雲紫だ。お前の瞳の色が、我々の幻想郷の、八雲紫と違うのだ!」

 太鼓の音が止んだ。すると里中の提灯の明かりが消えて、夜空に丸い花火が、どおん、どおんと上がった。

 (季節外れの、それたまや。月の兎は、餅をつけ)

 幽々子は花火のほうに振り向いて、心の中で謡った。紫と慧音は、花火に見向きもしなかった。 

 「そんなことはもういい。既に歴史を創った。神の遣いと、人間と、妖が集いし社で。この幻想郷の根底を揺るがしたお前には、責任を担ってもらう。分かるだろう」

 「まだ間に合うわ」

 「馬鹿な事を。もう遅すぎる。それに、神の意思を尊重しなければならない。従ってもらうぞ、八雲紫---」

 「ねえ、あなた達は何を---」

 幽々子の存在に一瞬はっとさせられた紫には、慧音の手刀を止めるすべは無かった。鋭い指先が幽々子の胸に突き刺さり、小さな空洞を作った。紅血が縹色の単を染めた。

 「慧音、何故…。血が出ている。助けて、紫…」

 「幽々子、しっかりして」

 「---即死しない。人間、お前の行動は彼女達を苦しめるだけだぞ。何故理解できない」

 紫は意識を失いかけている幽々子を背負った。じんわりと液体が背中全体に広がるのを感じつつ、幽々子の吐息が首に伝わり、そのか弱さに紫は深い絶望を感じられずにはいられなかった。

 そして紫は境界を操り、妖夢の眠る桜の樹へと向かった。---

 花火は終わった。里の羅生門には、身体が何処か彼方に消えた、不吉なユウミルの首があった。その紅い瞳からは、一筋の涙が頬を伝っていた。




◆◆◆




 博霊霊夢は境内に居た。

 彼女は茶をすすりながら、明神鳥居の柱に座って、里から昇る最後の花火を見届けていた。

 「そろそろかしら」

 里がふたたび紅くなるのを見て、霊夢が立ち上がると、右肩から紫が姿を現した。

 「久しぶりね、紫」

 紫は黙っていた。鳥居の傍のたいまつの炎が照らす彼女は、服も手も泥だらけで、ところどころ血が混じっている様子であった。

 「比翼塚を建てて来たのね」

 「ええ。次の如月には、この上なく美しい桜が幻想郷に咲くわ。あの娘たち二人の力を借りて」

 「幽々子は何を遺したの」

 「とりとめも無いことよ。もっと栗が食べたかったとか、慧音は気がふれたとか、謡の稽古が必要かどうかとか、妖夢と化けて出ようとか」

 「未来がある話」

 「この箱庭で、未来に思いを馳せる事ができたのは、きっと幽々子だけ。作られた過去と作られた現実の偏屈な世界から、唯一抜け出せた人間。今、彼女が反魂した意味をやっと見つけられたわ」

 「そうね。あなたの幽々子は、きっと幸せよ。---あと、あなたは向こうに帰っても構わないのよ。ワーハクタクにカミサマの耄碌(もうろく)だと何度言い聞かせても、不規則な存在はすなわち幻想郷の黄昏だ、とか騒いじゃって。急がなくても待っていれば勝手に終わるのに、頭堅いんだから。」

 「幽々子の居ない幻想郷に、未練は無いわ」

 「あんた、未練なんて言うようになったのね」

 「幽々子のヒュウマニズムにアテられたのかしら」

 「可笑しい」

 ふふ、と二人は目も合わさずに笑った。そして、紫は霊夢の肩を引いて、正面を向かせると、右手を大きく振りかぶって平手打ちをした。霊夢の左頬には乾いた泥がついた。

 「また会いましょう、霊夢」

 「また会いましょう、紫」

 紫は、何処かへ消えていった。

 霊夢は頬に泥をつけたまま、寝床についた。

 そして、無の境界が広がり、幻想郷を支配した。

 幻想郷の黄昏である。




◆◆◆




 某老人介護施設にて…………

A「---それより、三○八号室のじいさんの入院先は、まだ決まらないんですか?」

B「駄目ですね。病院も身内の居ない老人はめっぽう嫌がるし、今のご時世じゃ私達に丸投げが普通ですから」

A「お陰で、僕達は就職先に困らないんですよ。大体病人より老人を相手にする方が遥かに気が楽だし」

B「そういった考えは悲しい気持ちになりますが。最近のその、三○八のおじいさんの様子はどうなのですか」

A「やはり耄碌はなはだしいですね。素人目でも脳の病気だと分かります。なにせ、飯を食った食ってないで怒り出しますし、訳の分からないことを言い出すし」

B「訳の分からないこと?」

A[ええ、サイギョウのムスメは存在しないだの、エオンはプラス…なんだったかな。とりあえず色々と、変なじいさんですよ」

B「エオンはともかく、サイギョウのムスメなら私に分かります。昔の歌人の娘です。しかし、ムスメは鴨長明の"発心集"など文献をひけば、存在を認められるはずです。ムスコの方は分かりませんが」

A「そのサイギョウのムスメと、あのじいさんに何の関係があるんですか?」

B「実は、あのおじいさんは大昔に、今とは違った旧いやりかたのシューティング・ゲームを作っていて、そのゲームにサイギョウのムスメを模したキャラクターがいるんですよ」

A「あのじいさんがゲームを。それは初耳ですが、所長はそのゲームのファンだったんですか?」

B「ええ…ただもう愛情は薄れて、追憶の香りを楽しむばかりです。それに何十年も前ですから、記憶が曖昧で仕方がありません」

A「あのじいさんも、自分の作ったゲームをまるきり忘れているのでしょうかね」

B「彼が忘れても、私達が忘れても、ゲームの世界は自立していきますよ。いやこれは、私個人の希望ですね。サイギョウのムスメも、記憶に生かされるのでなく、それを克服し、自分で世界を生きて欲しいものです」

A「はあ、よく分かりません。それより、サイギョウのムスメって、変な名前ですね」

B「…確か彼女は、ゲームの中では、サイギョウジ・ユユコという名前だったような---」


アルツハイマー病

主として四、五十歳代に発祥し、徐々に進行する痴呆の一。今聞いたことや食べたことを忘れる、慣れた道に迷うなどの症状で始まる。末期には痴呆が高度になり、全身衰弱で死亡する。脳の広範な萎縮が見られる。原因は不明。ドイツのアルツハイマー(A.Alzheimer 一八六四~一九一五)が報告。
(大辞林より引用)



(世界は黄昏 完)
読んでくださった方が居られましたら、お礼申し上げます。

オチはすいません…。というか、我ながら4はアレな出来かな…。
出直してまいります。
俺もO型
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コメント



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2.90名前が無い程度の能力削除
とても良かったです!オリ設定をすごく活かせてると思います。ああ、続きが気になるぅ