その日、花屋で、その花を見たからだと思う。
小さな鉢植えの中で、空に向かって咲く、色とりどりの花を見たからだと思う。
奇妙で、とても不思議な、美しいクロッカスの夢を見た。
辺りは真っ暗で、きらきらと星が瞬いていた。
星の色は、心なしか、紅く色づいているような気がする。
薄紅のつつじの花のような星の下、地上には一面のクロッカスの花。
白、黄色、薄紫、赤紫の花が、見渡す限り空に向かって花開いている。
匂い立つ花の香り。まるで異世界に足を踏み入れたかのよう。
あの境界を操る妖怪に、時空の歪にでも投げ込まれたかのような、不自然に美しい世界。
美しすぎて、少し怖い。可愛いクロッカスの花が、まるで口を開けた魔性の物のように思える。
でも、そんな中でも私は、一方では呑気に、こんなスペルカード、素敵かも……なんて思っていた。
怖いけれど、とても、とても美しい世界。
足元の花を触れようと身を屈めたところで、強い風か吹いて、そうして私は目を覚ました。
午後、仕事の休憩時間に、私は何とはなしにその夢の話を咲夜さんにした。
日当たりの良い私の部屋で、私と咲夜さんはお菓子を囲んでのんびりとした時間を過ごしていた。
その、話が途切れた瞬間、ふと、昨夜見た夢を思い出したのだ。
いや、思い出したというか、するりと意識に上ってきた、と言ったほうが正しいかもしれない。
夢の中の何とも不可思議な光景を思い出しながら、その美しさと恐怖を伝えた。
あまり夢は見ない、と、以前咲夜さんに言われた事を思い出し、変な話を初めてしまったかな、と思いながら……。
それでも、テーブルの向かい側、二杯目の紅茶を淹れながら、咲夜さんは私の話に耳を傾けてくれた。
全てを話終えると、ふうん、と一つ言葉を漏らして、
「で、結局、怖い夢だったの? 綺麗な夢だったの?」
と、尋ねてきた。
だから、怖くて綺麗な夢だったんですってば、と内心突っ込みを入れながらも、私は両方です、と返した。
そして、ああ、そうだった。咲夜さんはこういう抽象的な会話が出来る人ではなかったな、と思い出す。
少しがっかりしたけれど、同時に安心もしていた。何と言うか、その反応にリアリティーを感じられたから。
ヘンな夢に引きずられてふわふわしていた私の心が、すっと収まるべきところに収まったような気がした。
咲夜さんは、なおも、ふうん、と気のない返事をして、次の瞬間、何気ない口調で恐ろしい事を口走った。
「ねえ、じゃあ、次にまた同じ夢を見たら、根元から花を蹴り上げてみなさいよ」
……と。まるで、良い事を思いついた、みたいな表情で。
恐ろしい、と思いつつも、私は咲夜さんの言葉を実行しようとしていた。
今夜も私は、一面のクロッカスの花と対峙していた。
当分、クロッカスは見たくもない、と思うほどの花。花。花。
そして何故だか今日は、クロッカスの花弁が風に吹かれて飛んでいるのだ。
正直言って、綺麗だと思う。こういうスペルカードを作りたいな、なんて思ってしまう。
でも、それは作り物だからこそ美しく感じるのであって、現実に、目で肌で感じると恐怖も募る。
ひらり、と頬に花弁が当たった。空を見上げると、昨日よりも赤みを増した星が見える。
今は、これが夢だと分かる。だけど起きろ、と念じても夢の世界から解放されない。
俯いて、どうしよう、と思う。開き直って寝転がってみようかとも、何とかして逃げ出したいとも思う。
まじまじと足元のクロッカスを見つめながら、昼間の咲夜さんの言葉を思い出していた。
「ねえ、次にまた同じ夢を見たら、根元から花を蹴り上げてみなさいよ」
「その土の中には、何があるのかしらね?」
思いきって蹴り上げると、罪悪感が足先からぞわぞわと這い上がって来た。
花が好きなのに、庭師なのに、何故私は花を蹴っているのだろう。やはり恐怖が勝るからだろうか。
焦燥感が募って、足元に目を向けると、蹴り上げたクロッカスの下からぎっしりと詰まったクロッカスの花が見えて、ひっ、と思わず息をのんだ。その瞬間、私は目を覚ましていた。全身に嫌な汗をびっしょりとかいて。
その日の休憩時間、昨夜の夢の一部始終を、私は再び咲夜さんに話した。
これは話を聞いてもらわない事には、どうにもこうにも、気持ちが落ち着かなかったのだ。
咲夜さんは、私が話す間、カップに二人分の――匂いで分かる――ローズヒップティーを淹れていた。
これは嫌味なのか、それとも鎮静効果を狙っての事なのか、判断がつかない。
苛立ちと頼りたい気持ちを持て余しながら、全てを咲夜さんに話し終えると、カップを差し出された。
「まあ、まずは落ち着いて、一息つきなさいよ」
酷い“クマ”が出来てるわよ、と咲夜さんは自分の目元を指し示す。
「……咲夜さん、私の話、聞いてました?」
「ええ、聞いていたわよ。一言一句、聞き逃さずにね」
「私、すっごくどきどきというか、あわあわというか、そういう気分なんですよ、今」
「落ち着かないのよね」
「そう、それです」
「だからほら、ローズヒップティーを勧めてるんじゃないの」
「……う、えと……はぁ、そうですか」
これは咲夜さんの善意、と解釈して、カップを手に取り一口飲んだ。
花の香りが鼻から流れ込んできて、デジャヴみたいに昨夜の花の香りを思い出す。
こびりついて離れない花の香り。夢だと言うのに、何であんなに鮮明なんだろう……。
「ねえ、美鈴、今回のは花弁が舞っていたのよね」
「ええ、空から降り注いでいるようにも、地面から巻き上がっているようにも見えて……綺麗なんですけど、やっぱり怖いんですよ」
「怖い? ただの花弁なのに?」
「はい、……本当、変に思われるかもしれませんけど、私には怖かったんです」
ふうん……とどこか考え込むような表情で、咲夜さんはカップに口をつけた。
「花なんて、ほら、人の手でこういうふうにお茶にだって出来てしまうものなのに、怖いのね」
「え……」
「そうだ、花を蹴った時の感想を聞いてなかったわ。どんな気分だった?」
「咲夜さん!」
「嫌ね、怒らないでよ。冗談よ」
睨みつけると、咲夜さんは困ったように眉を下げて笑った。
「……じゃあ、今度その夢を見たら、私を呼んでみなさいよ。何とかしてあげられるかもしれないわよ」
貴女ほど、花に愛着はない事だしね。花の世界から解き放ってあげるわ。
どこか愉しげに――いや、確実に愉しんでいる――咲夜さんは歌うように言った。
その口ぶりは、私の眉をむっと顰めさせたけれど、話の内容は私を期待させるのに十分なものだったので、考えておきます、と短く言いつつも、もしもまた同じ夢を見たら、実践するだろうな、とも思った。
果たして、三夜連続して同じ夢を見た。
今日は前よりも酷い。空には、狂ったように幾筋もの真っ赤な流れ星が現れては消えている。
時折足元に落ちてきて、澄んだ鈴のような音を立てる。
宙を舞う花弁はいよいよ密度を増して、紅い星の光を受けて薄っすらと発光している。
私のスペルカードを受ける相手は、いつもこんな花の大群に襲われているのかと思うと、何だか申し訳なくなる。
足元に咲くクロッカスは、今日は一面赤一色だ。真っ赤で、生々しい血の色をしている。
花の香りはどこか血のにおいに似ていた。何故だろう、どうしてこんな夢を見てしまうんだろう。
今夜は花を蹴飛ばすのも恐ろしくて、竦みそうになる身体を何とか踏ん張って立たせながら、いよいよこの光景を見るのも我慢の限界が近付いていた。気持ち悪い。こんな世界は耐えられない。
咲夜さん! と私は叫んだ。
瞬間、ドドド、と凄まじい耳をつんざくような音がした。
思わず悲鳴を上げて、花の群れに蹲る。その姿勢のまま見上げると、咲夜さんが夜空を背にして浮かんでいた。
その周りには、おびただしい数のナイフがぐるぐると幾重にも輪を描いている。
流れ星を煩そうに避けながら、情け容赦なく、地上の花にそのナイフを突き立てていく。
夢だからなのか、そのナイフの数には際限がなく、辺り一面に突き刺さっていくナイフを、ただ呆然を眺めた。
血のにおいが強くなり、思わず口元を押さえた。妖怪にも辛い、禍々しいにおいだ。
生理的な涙が滲み、視界が霞む。もう止めて欲しいと思う。
この花は怖いけれど、でも、蹂躙され続けるのを見続けるのも耐えられない。
血のにおいは、花の悲鳴のように思えて、胸が押し潰されそうなくらいの罪悪感が湧き上がる。
「咲夜さん! 止めて下さい」
空に向かって叫ぶ。気付けば、咲夜さんの目も紅い。
ナイフの輪の中にいる咲夜さんは、とてつもなく恐ろしい。恐ろしいのに、美しい。
どうして夢の中にいても、こんなにもリアリティーを感じられるの。
このまま行けば、世界を滅茶苦茶に壊してくれるんだろう、という確信が持てるほどの、強い存在感。
カチリと、紅い瞳と目が合う。どきりとする。恐怖からか鼓動が高鳴る。
その氷の瞳に魅せられたかのように、身体が動かなくなる。
はっと息をのんだ瞬間、一本のナイフが私目がけて飛んできた。
スローモーションを見るかのように、その道筋を捕らえる事が出来た。けれども、あいにく身体は動かない。
焦燥感からか、心臓がおかしくなったように強く鳴り響く。
目の前まで迫ったナイフは、辛うじて瞬きした次の瞬間、薔薇の花に変わっていて、けれどもナイフのような切れ味で、私の胸に突き刺さった。その瞬間、確かに音を立てて、この世界が崩れていくのを感じた。
朝目覚めて、私は身支度もそこそこに、咲夜さんの部屋に向かった。
早朝だとか、もう仕事を始めてるかもだとか、そんな事が脳裏をよぎったけれど、気にしていられなかった。
ドンドン強く扉を叩き、声をかけると、美鈴? という声が内側から聞こえた。
途端に金縛りにあったかのように、ぴたりと身体が動かなくなる。どきどき心臓がうるさい。
扉を開けて私を見るなり、咲夜さんは、何て顔してるのよ、と苦笑を零した。
それでも、項垂れる私を、とりあえず入りなさい、と部屋に入れてくれた。
咲夜さんに導かれるまま、ベッドの端に腰かけ、私はぽつぽつと夢の話を始めた。
隣で耳を傾けている咲夜さんは、ヘッドドレスはつけていないものの、いつも通りメイド服をかっちりと着ている。
私はと言えば、ブラウスにスカートを着て、髪だって大雑把に梳かしただけの酷い有様だ。
その事に恥ずかしさを感じつつも、全てを話終えると、咲夜さんはそう、と呟き、組んでいた足を戻した。
「……じゃあ、もう、その生々しい夢は見ないわね、きっと。私が壊したんだから」
「そう、でしょうか……」
「嫌ね、私の力が信じられないの? 確かに私は貴女と違って力のない人間だけれど」
「いえ、咲夜さんの力を疑っているわけではないんです」
「なら素直に信じなさいな。暗示の力っていうのも、あるかもしれないしね」
「暗示……ですか」
「ええ、暗示よ。思いこみの力は存外強いものなのよ」
「思いこみ……かぁ」
確かに、今までだって、咲夜さんに言われた事を夢で実践出来たのだし、もうあの夢は見ない、と思っていればその通りになるのかもしれない。それに、胸に薔薇が突き刺さったあの瞬間から夢が始まったりでもしたら恐ろしい。ここは素直に咲夜さんの言う事を信じたほうが良いように思える。
「分かりました。信じてみる事にします」
「ええ、それが良いわ。ナイフをね、たくさん投げるのも、くたびれるの」
「そうなんです……か?」
ぞく、と何かが背筋を這い上がって、思わず咲夜さんの目を見つめると、水色の瞳がゆっくりと細められた。
どきどきどきどき心臓が鳴り響く。まるで警鐘のよう。びりびりした緊張感が全身を包み込む。
……待って。ねえ、咲夜さんは今何て言った……? これもただの、冗談なの?
真意を測ろうと咲夜さんの瞳を覗きこむと、腕が伸ばされ、ひんやりとした手のひらが私の頬を包みこんだ。
冷たい手なのに、触れられた箇所から熱が広がっていく。
「ねぇ、美鈴、……聞かせて? 恋に落ちた気分はどう?」
「え……?」
それは暗示と言うにはあまりにも鮮やかで、生々しい言葉で。
薔薇が突き刺さった左胸に手を置かれた瞬間、暗示が真実に変わってしまった事を自覚した。
何かが音を立てて崩れていく。その音は、あの夢の世界が崩壊する音に似ていた。