はっ、と。
顔に水でもかけられたような、いきなりの目覚めだった。
わずかばかりの星明りが、カーテンを突き抜けて、部屋の中を灯している。
顔を動かさずに群青色の天井を見て、もう一度寝直そうかと考えたが、それには目が冴えすぎていた。
頭を重くするまどろみも、体を縛りつける気だるさもない、クリアーな覚醒。
それでも、頑張ってしばらく目をつぶってみたが、結局どうすることも出来ずに、静かに上半身を起こす。
そうしてようやく起き上がったのは、銀色の髪をした、まだ本当に幼い少女。
静かに動くのは、隣にもう一人寝ているから。銀色の真横に、豪快な寝息をたてる紅い髪。
一度、紅髪のその大きな体を見て、何故だか少し安心した心地になり、次に、枕の横の銀色の懐中時計に手を伸ばした。
覗いてみると、それは、今までおよそ見たことのない時間を示していた。それは少女の時間ではなかった。
しばらくそれを見ていると、同時に、仄かな興奮のようなものが、少女の心にどんどんと染み出してきていた。
少女にとって、知らない時間は、知らない世界も同義だった。そんな時間と世界にいるというその興奮は、好奇心と名付けられ。そして、その体を突き動かそうとする。
興奮の最中、残った冷静さでもう一度だけ、ちらと隣へ視線を送る。その紅髪が、時計の短針が半周ほど前だったころ、「今日は久しぶりに早く眠れる」と、幸せそうな顔でばたんとベッドに倒れ込んでいたことを思い出す。
ちくりと、胸を刺す何か。でも、それすら今は少女を動かす燃料の一つとして、心にくべられる。
せめて、絶対に起こさないように。握りこんだ懐中時計に、懺悔の祈りを込めて、世界を止める。
ぴょんと、その大きな体を飛び越えて着地すると、世界はまた動き出す。
少女は寝間着姿もそのままに、振り返らずにその小さな部屋を出た。
小走りに、星明かりの廊下を行く。燭台に蝋燭はない、忙しなく行き交う人影もない、いつも溢れかえっている音もない。
動いているのに、世界はまるで止まっているようだった。本当に止まったそれをよく見知っているが故に、少女にはそれが何とも可笑しかった。
静かに燃え上がる心は、体を急がせる。目的地も定めぬまま、その足はほとんど走る様に。
少女が住まう館に、今動いているのもその少女だけ。銀色の髪が、肩の少し上で踊る。
少女は止まらない。もはや、自分が今この世界の支配者であるような錯覚にまで陶酔したところで。
「いけないね、夜は私の時間だよ」
ふいっと首根っこ、ではなく、そこの寝間着の部分を何者かに掴まれて、少女は、ぐ、と小さく呻き。
そのまま、向かっていた運動とは反対方向に、軽く持ち上げられて止まった。それは、あたかも猫を捕まえるが如く。
「なあ、お姫様」
少女の顔の横で、紅い瞳が光っていた。芝居がかった、重苦しく、低い声もそこから。
心臓を握り潰されるような驚愕に、少女はぴんと伸びて固まり、息も止まる。
いい気になっていた自分に、この世界の本当の主が憤慨し、罰を与えに来た。
ほとんど一瞬で、行き場を失った陶酔が、そんな荒唐無稽な妄想をとりつかせて、少女は固く目を閉じた。
ああ、自分はこのまんま、怒りに駆られた夜の化け物に、頭からむしゃむしゃと食べられてしまうのではあるまいか。
「なんてね、冗談だ」
せめての抵抗にと、固く凍らせた身体は、突然、すとんと地に降り立った。
薄目を開いて恐る恐る、その静かな笑いの混じった声の方を向けば。
「でも、夜更かしは感心できないわね」
それはまさしく本当に、この静かなる世界の主だったのだ。
少女より、頭一つほど背丈の高いその体。青白い鬼火の髪。薄く笑う口からこぼれる、真っ白な牙。
その、夜の主の姿を認めて。
「ふぁぁ……」
少女の体は、安堵と、それと同値の恐怖で、空気が抜けたように床にへたり込んだ。
「あらら? 驚かし過ぎたかしら……」
困ったような声の吸血鬼を、残したままで。
「ほら、まずは駆けつけに一杯どうぞ、ってね」
未だ抜け切らぬ、軽い緊張と恐怖の面持ちで、少女は己の前に置かれた水を見つめる。
「……それ飲んで、落ち着いてくれってことだよ」
そんな、睨むように水を見つめたままの少女に、吸血鬼は苦笑しながら。
そこから、一度視線を回す。見渡すは、従者用の大食堂。館の主が身を置くには似つかわしくない場所にあって、しかし、その主は平然と、むしろ興味深そうな態度でそこにある。
よく、機能してそうじゃないか、そう思い。
石造りの、広大な床には、数多の長机と、ここを埋め尽くすであろう影に見合う数の椅子。
堂の片端はここからは遠い、代わりにもう一端はすぐ側に。食堂に直結した調理場、開けたカウンターから、中の様子はよく見える。
しかし、そこで忙しなく働く、ヘッドドレスの代わりに帽子をつけたメイドの姿は今はない。その仕事の完了を待望する、机を埋める姿も同じ。
燭台の明かりはない、星明かりは入る。薄青く照らされる、そのホールに今は二人。夜の主と、小さな姫。
腰を抜かした姫を抱いて運び、とりあえず入口傍らの机につかせ、己はがさごそと調理場を漁り、戻って来て水を差し出した。
状況を戻してみれば、そんなところであった。なんとまあ、早寝し過ぎたせいか、変な寝覚めをしてみれば、面白い運命に出会うもんだ。
「あの……」
口に含むような笑いの途中で、視線を少女へ戻す。次は、心配そうにこちらを見つめる、その蒼い眼。
「お嬢様は、飲まなくていいんですか?」
問いかけは、恐る恐るといった風に。しかし、そこに純粋な気遣いを見出し、吸血鬼は声に出して静かに笑いながら。
「構わないとも。 私はこっちにあるからね」
少女の対面に座って、左手を掲げる。人指し指と中指の間に瓶の口辺りを挟み、その隣でグラスを挟むそれを見せつけるように。
「お酒、ですか?」
「Exactly」
言って、弾くようにグラスを離すと、空いている手で受け取り。
それを机にそっと置きながら、並行して瓶を自分の口に近づけ、吸血の牙をコルクにがっちりと突き立てると、捩じる様に瓶を引いてすぽんと抜く。
行儀のいいやり方ではなかったが、お嬢様は気にすることもなく。大体において行儀を極めつくした上で、それを平然と投げ捨てることに楽しみを覚えるような性分の当主であるのだ。
調理場へ向かって吐き捨てるようにコルクを放ると、血のようなそれをグラスに注ぐ。
「うわぁ……」
「ん?」
呆気にとられたような顔で、一連の行動を見ていた少女が、どぶどぶと注がれる紅を見て、静かな感嘆の声をあげる。
「血、みたいですね」
「まあね。見た目はそうでも、味は明確に違うが……」
グラスを目線まで持ち上げ、その紅を通して世界を見るようにしながら。
「ここ数百年は、こっちの方が好みなのさ。酒はいいわよ、血では酔えないからね」
軽く笑いかけ、未だ口をつけていない少女のコップを見て、自分のグラスを軽く差し出す。
「夜に。お姫様」
その言葉と動きに、姫は慌てて、両手でコップを握ると、軽く持ち上げて。
「は、はい!」
笑いながら軽口と共に杯を掲げてくれるのは、まだまだ当分先のことだろうなぁ。脳裏に、紅い髪の、それを平然としてくる従者の姿を思う主と。
二人の杯が、綺麗な音を響かせる。
くいっと、飲み干して。
「どうだい?」
葡萄酒の香りが抜けていくままに心地よさを感じながら、とろんとした調子で問えば。
「水です!」
緊張と、至極真面目な声色で。その返答に、ずるっと少し椅子から滑って。
「そうかい。そりゃそうだわね……」
くっくっと、首を傾げてこちらを不思議そうに見やる姫を見ながら、吸血鬼は笑う。
しばらくそうしてから、ふいに、静かな夜明かりの中に、くるるといったような音が響いた。
目を丸くする吸血鬼と、温度計が上昇するように、顔の下から上へと赤くなっていく少女。
「……っ!!」
恥を晒してしまった自覚と、目の前の主の性質を鑑みるに、大笑いされることを覚悟して、少女は耐えるようにぎゅうと目を瞑る。
しかし、意外にもその主は、静かに微笑んだだけで。
「そういえば、私も些か腹が減ったんで起きてきたのよ」
手を伸ばして、俯く少女の銀色の髪をくしゃりと撫で。
「……何か、作るとするかね。食べるだろう?」
そう笑って、立ち上がると、調理場へと歩き出す。
固まっていた少女は、その動きを見てから慌てて。
「い、いえ! そ、そんなことをお嬢様にしていただくわけにはまいりません! 私が――」
がた、と、立ち上がる少女に、当主は興味深そうな瞳を向けながら。
「ほう、何が出来るのかしら?」
「卵焼きです!」
「いい、座っててくれ」
自信満々の宣言に、吸血鬼は気が抜けそうになる自分の額に手をやって、もう片手を突き出してそれを制止する。
でも、と、食い下がろうとする少女に、主は調理場をまたもがさごそ探りながら。
「いいのよ。大体ね、この館で今一番偉いのが誰か知ってるかい?」
自明の理である。わかりきった質問であるからこそ、少女はまたも声を出せずに首を傾げて。
「お前だよ、お姫様。ああ、私なんて、あなたの前では如何ほどのものかしら? なんせ、従者も友も、みんなお前に取られてしまったのだから」
吸血鬼は芝居がかった風にそう告げながら、鍋に水を張ると、石を打って火にかけ。
「だから、精々今はふんぞり返って座っていなさい。いつかまた私が、この館の最上位を取り返した時は、存分に恩は返してもらうよ」
姫は、笑いの混じったその声に、よくわかっていない様子ながらも、渋々と席に戻った。
吸血鬼は、その間も手は止まらず。てきぱきと、暗がりの中でも、昼間のように見通す目でもって、調理を進めていく。
まな板、上にトマトをのせてさくさくと、細かくサイの目に切り。
「大蒜は好かんのだよな」
入れようか迷った一欠片を指で弾いて後方に、次に唐辛子を輪に切り。
「外でもないのに、よくまあ調達するもんだ」
湯の沸けた鍋に塩を一つまみ放り込み、しばらくしてから、感嘆と共に乾燥したパスタを放り込む。
次にフライパンに、『貴重なので使い過ぎないように!』との注意書きの貼られた、香りのいい油を引くと。
さらに瓶の中で油漬けにしてある、これまた『貴重なので~!』との、黒い種と、鰯の塩漬けを。
「まあ、使い過ぎないようにったって、私には関係ないことよね」
種を適当に数個、塩漬けは一切れを細かく千切って、油の温まってきたフライパンに放り込み、唐辛子も放りこんで、馴染ませるようにゆっくりと炒める。
しばらくしてから、切っておいたトマトをフライパンへ入れ、塩、胡椒、味を適当に整えて混ぜ、煮立たせること数分。
いい感じに湯だった鍋からパスタを掬うと、そのままフライパンへと直接移し、絡めるように混ぜ合わせ。
「久々だけど、案外覚えてるものだよ」
味を確認して、頷く。まあ、こんなもんだっただろう。皿へ移すと、フォークも二本、忘れないように。
魅入られたように、その作業を見つめていたお姫様の前へ、湯気の立つ皿を置き。
「はい、お待ち遠様」
慌てて、緊張に戻って姿勢を正す少女へ、笑いながらフォークを手渡して、吸血鬼も卓につく。
「か、からひ!?」
いただきます、と、固い声で丁寧に手を合わせて後、少しの遠慮もなく伸ばしたフォークで巻き上げた獲物を口に含んで、第一声がそれであった。
「辛いものだからねぇ」
が、吸血鬼は気遣いもせずに、己もフォークで巻き上げたそれを、つるりと口に含む。
「か、からひけど……おいひいです……」
舌を空気にさらして冷ましながら、少女は涙の滲んだ顔で。
「当たり前だよ、私が作ったのだからね」
ふふ、と、余裕の笑みで、吸血鬼はくいと葡萄酒を呷る。夜食ってのはどうもこう、酒に合ってたまらない。
「何ていう料理なんですか?」
いまだ舌を襲う刺激と格闘しながら、少女も図太く食べ進めていく。よっぽど腹でも減っていたのか。
「プッタネスカ」
「ぷったねすか?」
「そ、この料理の名前の由来が面白くてねぇ。忙しいしょう――」
笑いながら、つらつらと解説しようとした舌が急に止まり。
「しょう?」
それだけでは思い当たりのない単語を呟きながら、少女は続きを促すように。
しかし、主はその視線から目を逸らしながら。
「あー、悪いわね……子供にはまだ早いことだよ。言ったら私が怒られる……」
脳裏で、あの魔女なら嬉々として教えた後に、笑いながら遁走するんだろうなぁ、などと我が親友の顔を思い浮かべ。
溜息と共に、また杯を傾ける。
ふーん、そーなのかー、と、少女は中途半端に納得したように頷いて、手をまた動かし始めて。
「でも、どこでこんなの、作り方とか、覚えたんですか?」
話題を変える質問に、助かったように吸血鬼は乗っかる。
「まあ、昔、色々あってねぇ……こんな、長靴みたいな形をした、島みたいな国にいたこともあったのよ」
指でその形を、宙に描いて見せながら。
「そん時に、そこの味を盗んで来たのさ。私だけじゃなくて、お前の母親も作れると思うよ」
ふむふむと、少女はまた頷く。そこで、会話は一旦途切れた。
そうして、しばらく、もそもそと食べ続けながら、美味しそうに酒を飲みほす、主のその顔を静かに見つめる。
その、何かを懐かしむような視線の先が、目の前のこの料理に込められた色々な事が、何もかもが少女には気になって。
でも、色々と詮索するのも憚られて。
少女は考える。食べながら、辛さにも慣れてきて、そうして、どうすれば、最小限の言葉で、自分が色々と聞きたいことの答えを、たくさん引き出せるのだろうか。
思う眼前、とにもかくにも、自分が一番聞きたいことを聞こう。そう、決意と共にズゾゾと麺をすすり。
「ふぁの」
「……食べ終えてから喋りなさい」
ごくりと飲み込むと。
「どうしてお嬢様は」
どうして、貴方は。
「こんなに色々なことが、一人で出来るのに……それを全部、誰かにやらせるのですか?」
それが、一番気になったのだ。
こんなに、何もかも出来るのなら……。
問いかける先、吸血鬼は、夜の主は、少しだけ悲しそうな顔で微笑むと。
「それはね……一人で何でも出来るからって、一人で何でもやったところで」
絡み合っていた視線を、そっと外しながら。
「それでも、一人で生きるのは寂しいからね」
そう呟くように言った主の顔が、どうも少女には引っ掛かり――。
鈍重な目覚めであった。
覚醒の主は、しばし布団に座り込んで、己の間抜けな眠りの浅さを密かに呪う。
なんでまあ、久々に早く眠り始めたら、こんな時間に目覚めにゃならん。部屋は群青で、外は星で。
思って一瞬、この時間こそが己の支配するべきであったそれであることを思い出し、苦笑すら出ないまま頭を抱え込んだ。
「腹が減ったよ……酒、酒も飲みたいな」
蹴る様に掛け布を撥ね退け、悪態をつきながら床へ降り立ち、部屋の外へ。
廊下を歩く、睡眠の神に嫌われしその身は、幼い少女のそれ。
青白く波打つ髪をぐしゃぐしゃとかきながら、夜に照らされる廊下を歩く。
人影は見えずとも、何となくの気配は感じる。どこかで今も、働いているのがいるのだろうか。
随分昔から、目茶苦茶に不規則な己の就寝時間で、この少女はいつも従者を振り回す。
結局、その内、どの時間であろうが、この紅い館は。
「そう、私に関係なく、昼夜問わずの終日営業」
とはいえ、それも、この気紛れな当主に対応するためのそれであり、この館はいつだって、彼女のために回っているのだ。
しかし、そんな己のための従者に、今はどうにも会いたくないような気分で、こそこそと夜の少女は急ぐ。
別に不意の対応をさせられるそちらを気遣ったわけでもなく、何となく今夜はそんな気分だっただけで、この当主はいつも自分の胸に正直に生きるのだ。
自分の内がそう思ったなら、たとえ火中であろうが水中であろうが、己が侍従を呼び付ける君主である。
そうして深夜営業を免れた従者達の幸運を祝いつつ、頭の中で、このぽっかり空いた時間を潰す算段を試みる、睡眠不足の欠伸から覗く白い牙。
「魔女様がお眠りになっておられないならば、図書館で飲むのもいいわね……」
寝てる方が稀な友人であるから、大丈夫だろう。とりあえずの進路を定め、角を曲がった辺りで。
「いけませんわ」
ぐぅ、と、服の首後ろを掴まれて、そのまま軽く持ち上げられる。
「お休みになられたはずの御方がこそこそと、隠れるように廊下を歩いているなんて」
その失礼な持ち上げ方は、一瞬で、忠実な僕が姫を抱くそれに変わる。
二本の支えに寝かせられるような体勢の主は、急に回った視線の先の、銀色に光るその髪を。
「誰か適当な従者がそれを見かけたなら、胆を潰してしまうでしょうに……私以外は。そうではございませんか、お嬢様?」
悪戯っぽく光る蒼い瞳を見て、観念したように溜息をついた。
少し強張った体を解き、気の抜けたように全体重を、己を抱くメイド服に預ける。
「驚かせ過ぎましたかしら?」
冗談めかしたその問いに、苦い笑いを覚えながら。
「まったくだよ」
魔女との酒宴は延期にするしかないだろうな。ああ、これに捕まったなら、諦めるしかない。
「仕方ない……なら、お前を共犯に引き込むとしよう」
目をつぶって、その銀髪のメイドの胸を、ノックするように軽く、こんこんと叩き。
「食堂へやってちょうだい。誰にも気づかれないように、ね。急げよ」
「仰せのままに」
メイドはくすりと、花のような笑顔で笑むと、世界を止めた。
気がつけば、折よく無人の食堂に、抱き上げられた主は到着していた。
「さ、ご到着ですわ」
丁寧に降ろされるような気配を感じ、それも癪なので、びょんと自分で飛び降りる。
メイドは少し呆れた顔で、我が主へその体を向けて、主もそれに向かい合い。
「御苦労」
「恐悦に」
見つめ合う二人。主が吸血鬼の背丈は、銀色のメイドの半分ほどしかない。
主は見上げ、従者は見下ろし、いつかとは逆転してしまったその光景。
「後は、酒と……何か小腹を満たせるものでも、用意してくれたら嬉しいのだけどね」
静かに笑いながら、主は、くいくいと、人指し指を動かして催促するように。
「はて、今度は御自分ではなさらないのですか?」
とぼけるように尋ねながらも、メイドは調理場へと向かう。
「当然さ、今夜とっ捕まって、腰を抜かしたお姫様の役は私だよ。さあさ、頼んだわよ、我が従者。当主の地位と権威は取り返させてもらうぞ」
自身は椅子に座って、唄うように姫。麗しきその身に似つかぬ笑い声をあげながら。
「……まだまだ敵いませんね……」
聞こえないように小さく呟いて、あれから少し成長した少女は、苦笑しながら用意の手を動かし始める。
主は、紅い紅いその酒を。
従者は、透明な。
「水?」
「ええ、一応まだ仕事が残っていますので」
「修行が足らないわねぇ、先代はむしろ気つけに一本空けて仕事に臨む気迫だったわよ」
困ったように笑いながら、少女は飲んだくれの紅い髪と紫色の髪と目の前の青白い髪を見て、ああならないようにしようと決意した幼き日を少し思い返す。
しかし、主はそれをさほど追求せずに、まあいいさ、と、納得したような顔で杯を掲げる。
「何に? メイドさん」
「……では、この後の快眠に。どうでしょう?」
「……言うようになったよ、まったく」
重なる笑いと共に、軽くぶつかり合うグラスが、澄んだ音を響かせる。
二人の飲み物は変わらず、姫と従者の位置は変わり、少女は主を満足させることを覚え。
そして、二人の前に置かれた皿は、あの時のままで。
「ふむ、うまい」
主は、フォークでつるりと、それを口に運ぶ。味まであの時と同じ。
「だって、唯一お嬢様に習った料理ですもの。忘れる筈がありませんし、再現するのも苦労しましたわ」
従者も遠慮なく、それを口に運ぶ。
「一度気紛れに作ってやっただけでねぇ……まさしく、運命の因果は己に返る。この場合は、いい行いだったようだけど」
笑いながら、杯を空ける。やはり、こういう時に飲む酒はどうにもうまい。
「そうですわね。苦労したのは、名の由来を調べるのにも」
変わらぬ笑顔でのその言葉に、主は酒を吹き出しそうになった。意地と気合いで咽そうになるのを耐え。
「ええ、まったく、お嬢様が気に入られるのもわかるくらい、面白い理由でしたわ」
「……ああ、そうだったろう? あの時の、お前にそれを伝えるのを思いとどまった私の苦悩も理解して、初めて完璧な習得を名乗れるのだけれどね」
憮然として、呆れた態度を作りながら、主はどんどんと杯を空けていく。
そんな主を、微笑んで眺めながら、メイドは密かに考える。
今この時が、少しだけでも、あの夜の再現であるのならば……。
たとえ再現でも、重ねた月日は、所々を変わらせて、それでも変わらないところもあって。
それならば。
「お嬢様」
問いかける先、紅色を飲み下しながら視線を流すその吸血鬼へ。
「あの時を覚えてくださっているのならば……」
その答えを、自分が変わらせることが出来たのか。
「もう一度だけ、お聞かせください」
最後の問いを、あの時の、自分の気掛かりを。
その言葉に、吸血鬼はグラスを下ろして向き合う。
しばしの沈黙にあって、真っ直ぐに突き合わせるその顔を見ながら、少女はなんとなくそれだけで、答えを得ているような気がした。
何故なら、自信はある、確信もある、その答えを、変えさせられるような日々を、二人は進んできて――。
でも、そうじゃない。あの時の引っ掛かりは、やっぱり。
「……言い方が違っていたんじゃありませんか?」
元々そうだったのだ。自分と過ごしてきた時間は、単にそれを倍増させたに過ぎないけれど……それだって十分誇れるものだ。
だからこそ、その答えを今引き出せるのだとも思う。
「……遠回しな事ばかり言ってないで、確信をつきにおいで。どんな質問だろうと、出来るだけ、逃げないで向き合おうじゃないか」
試すような主の誘いと、その表情。
何故なら、今もあの時も、目の前のその顔は、寂しさを覚えながらも、それを埋められることを知っているようで。
だから少女は、確信と共に行く。
「では……どうして、貴方は」
どうして、お嬢様は。
「これほどまでに強いのに……それでも、誰かと一緒にいたがるのですか?」
問いかけは、あの時より少しだけ、大人になった自分を混ぜて。
受ける主の顔は変わらない、あの時の引っ掛かりを残したままのそれを見つめて、しばしの間を刻む。
と、その時、二人の間に、廊下から、微かに声が届いた。
「うん? 何だろう、このおいしそうな匂いは!」
……あー、この声は、夜勤の妖精メイド達か。二人、思い出したような表情を見合せて。
「あ、食堂に誰かいる! きっと誰かが夜食作ってるんだ!」
そうなのだ、あの時と違うのはもう一つ。
「そういえば、メイド長がさっきから見当たらないんだけど……ま、まさか!?」
もうここには、夜も昼も関係なく、いつでも誰かが、楽しそうに、忙しく、働いていたりするのだから。
「ず、ずるいー!」
バタバタと、慌ただしい音が近づいてくる。
それを聞いて、もう笑いだしそうな少女と、見つめる先の、溜息をついて、諦めたような吸血鬼。
「ああ、そうね……何でかって? そりゃあ、やっぱり……」
夜の主の顔に、少女のその引っ掛かりを、どこかへ追いやってくれるような、満面の笑顔が繋がって。
「みんなで生きるのは、楽しいからね」
顔に水でもかけられたような、いきなりの目覚めだった。
わずかばかりの星明りが、カーテンを突き抜けて、部屋の中を灯している。
顔を動かさずに群青色の天井を見て、もう一度寝直そうかと考えたが、それには目が冴えすぎていた。
頭を重くするまどろみも、体を縛りつける気だるさもない、クリアーな覚醒。
それでも、頑張ってしばらく目をつぶってみたが、結局どうすることも出来ずに、静かに上半身を起こす。
そうしてようやく起き上がったのは、銀色の髪をした、まだ本当に幼い少女。
静かに動くのは、隣にもう一人寝ているから。銀色の真横に、豪快な寝息をたてる紅い髪。
一度、紅髪のその大きな体を見て、何故だか少し安心した心地になり、次に、枕の横の銀色の懐中時計に手を伸ばした。
覗いてみると、それは、今までおよそ見たことのない時間を示していた。それは少女の時間ではなかった。
しばらくそれを見ていると、同時に、仄かな興奮のようなものが、少女の心にどんどんと染み出してきていた。
少女にとって、知らない時間は、知らない世界も同義だった。そんな時間と世界にいるというその興奮は、好奇心と名付けられ。そして、その体を突き動かそうとする。
興奮の最中、残った冷静さでもう一度だけ、ちらと隣へ視線を送る。その紅髪が、時計の短針が半周ほど前だったころ、「今日は久しぶりに早く眠れる」と、幸せそうな顔でばたんとベッドに倒れ込んでいたことを思い出す。
ちくりと、胸を刺す何か。でも、それすら今は少女を動かす燃料の一つとして、心にくべられる。
せめて、絶対に起こさないように。握りこんだ懐中時計に、懺悔の祈りを込めて、世界を止める。
ぴょんと、その大きな体を飛び越えて着地すると、世界はまた動き出す。
少女は寝間着姿もそのままに、振り返らずにその小さな部屋を出た。
小走りに、星明かりの廊下を行く。燭台に蝋燭はない、忙しなく行き交う人影もない、いつも溢れかえっている音もない。
動いているのに、世界はまるで止まっているようだった。本当に止まったそれをよく見知っているが故に、少女にはそれが何とも可笑しかった。
静かに燃え上がる心は、体を急がせる。目的地も定めぬまま、その足はほとんど走る様に。
少女が住まう館に、今動いているのもその少女だけ。銀色の髪が、肩の少し上で踊る。
少女は止まらない。もはや、自分が今この世界の支配者であるような錯覚にまで陶酔したところで。
「いけないね、夜は私の時間だよ」
ふいっと首根っこ、ではなく、そこの寝間着の部分を何者かに掴まれて、少女は、ぐ、と小さく呻き。
そのまま、向かっていた運動とは反対方向に、軽く持ち上げられて止まった。それは、あたかも猫を捕まえるが如く。
「なあ、お姫様」
少女の顔の横で、紅い瞳が光っていた。芝居がかった、重苦しく、低い声もそこから。
心臓を握り潰されるような驚愕に、少女はぴんと伸びて固まり、息も止まる。
いい気になっていた自分に、この世界の本当の主が憤慨し、罰を与えに来た。
ほとんど一瞬で、行き場を失った陶酔が、そんな荒唐無稽な妄想をとりつかせて、少女は固く目を閉じた。
ああ、自分はこのまんま、怒りに駆られた夜の化け物に、頭からむしゃむしゃと食べられてしまうのではあるまいか。
「なんてね、冗談だ」
せめての抵抗にと、固く凍らせた身体は、突然、すとんと地に降り立った。
薄目を開いて恐る恐る、その静かな笑いの混じった声の方を向けば。
「でも、夜更かしは感心できないわね」
それはまさしく本当に、この静かなる世界の主だったのだ。
少女より、頭一つほど背丈の高いその体。青白い鬼火の髪。薄く笑う口からこぼれる、真っ白な牙。
その、夜の主の姿を認めて。
「ふぁぁ……」
少女の体は、安堵と、それと同値の恐怖で、空気が抜けたように床にへたり込んだ。
「あらら? 驚かし過ぎたかしら……」
困ったような声の吸血鬼を、残したままで。
「ほら、まずは駆けつけに一杯どうぞ、ってね」
未だ抜け切らぬ、軽い緊張と恐怖の面持ちで、少女は己の前に置かれた水を見つめる。
「……それ飲んで、落ち着いてくれってことだよ」
そんな、睨むように水を見つめたままの少女に、吸血鬼は苦笑しながら。
そこから、一度視線を回す。見渡すは、従者用の大食堂。館の主が身を置くには似つかわしくない場所にあって、しかし、その主は平然と、むしろ興味深そうな態度でそこにある。
よく、機能してそうじゃないか、そう思い。
石造りの、広大な床には、数多の長机と、ここを埋め尽くすであろう影に見合う数の椅子。
堂の片端はここからは遠い、代わりにもう一端はすぐ側に。食堂に直結した調理場、開けたカウンターから、中の様子はよく見える。
しかし、そこで忙しなく働く、ヘッドドレスの代わりに帽子をつけたメイドの姿は今はない。その仕事の完了を待望する、机を埋める姿も同じ。
燭台の明かりはない、星明かりは入る。薄青く照らされる、そのホールに今は二人。夜の主と、小さな姫。
腰を抜かした姫を抱いて運び、とりあえず入口傍らの机につかせ、己はがさごそと調理場を漁り、戻って来て水を差し出した。
状況を戻してみれば、そんなところであった。なんとまあ、早寝し過ぎたせいか、変な寝覚めをしてみれば、面白い運命に出会うもんだ。
「あの……」
口に含むような笑いの途中で、視線を少女へ戻す。次は、心配そうにこちらを見つめる、その蒼い眼。
「お嬢様は、飲まなくていいんですか?」
問いかけは、恐る恐るといった風に。しかし、そこに純粋な気遣いを見出し、吸血鬼は声に出して静かに笑いながら。
「構わないとも。 私はこっちにあるからね」
少女の対面に座って、左手を掲げる。人指し指と中指の間に瓶の口辺りを挟み、その隣でグラスを挟むそれを見せつけるように。
「お酒、ですか?」
「Exactly」
言って、弾くようにグラスを離すと、空いている手で受け取り。
それを机にそっと置きながら、並行して瓶を自分の口に近づけ、吸血の牙をコルクにがっちりと突き立てると、捩じる様に瓶を引いてすぽんと抜く。
行儀のいいやり方ではなかったが、お嬢様は気にすることもなく。大体において行儀を極めつくした上で、それを平然と投げ捨てることに楽しみを覚えるような性分の当主であるのだ。
調理場へ向かって吐き捨てるようにコルクを放ると、血のようなそれをグラスに注ぐ。
「うわぁ……」
「ん?」
呆気にとられたような顔で、一連の行動を見ていた少女が、どぶどぶと注がれる紅を見て、静かな感嘆の声をあげる。
「血、みたいですね」
「まあね。見た目はそうでも、味は明確に違うが……」
グラスを目線まで持ち上げ、その紅を通して世界を見るようにしながら。
「ここ数百年は、こっちの方が好みなのさ。酒はいいわよ、血では酔えないからね」
軽く笑いかけ、未だ口をつけていない少女のコップを見て、自分のグラスを軽く差し出す。
「夜に。お姫様」
その言葉と動きに、姫は慌てて、両手でコップを握ると、軽く持ち上げて。
「は、はい!」
笑いながら軽口と共に杯を掲げてくれるのは、まだまだ当分先のことだろうなぁ。脳裏に、紅い髪の、それを平然としてくる従者の姿を思う主と。
二人の杯が、綺麗な音を響かせる。
くいっと、飲み干して。
「どうだい?」
葡萄酒の香りが抜けていくままに心地よさを感じながら、とろんとした調子で問えば。
「水です!」
緊張と、至極真面目な声色で。その返答に、ずるっと少し椅子から滑って。
「そうかい。そりゃそうだわね……」
くっくっと、首を傾げてこちらを不思議そうに見やる姫を見ながら、吸血鬼は笑う。
しばらくそうしてから、ふいに、静かな夜明かりの中に、くるるといったような音が響いた。
目を丸くする吸血鬼と、温度計が上昇するように、顔の下から上へと赤くなっていく少女。
「……っ!!」
恥を晒してしまった自覚と、目の前の主の性質を鑑みるに、大笑いされることを覚悟して、少女は耐えるようにぎゅうと目を瞑る。
しかし、意外にもその主は、静かに微笑んだだけで。
「そういえば、私も些か腹が減ったんで起きてきたのよ」
手を伸ばして、俯く少女の銀色の髪をくしゃりと撫で。
「……何か、作るとするかね。食べるだろう?」
そう笑って、立ち上がると、調理場へと歩き出す。
固まっていた少女は、その動きを見てから慌てて。
「い、いえ! そ、そんなことをお嬢様にしていただくわけにはまいりません! 私が――」
がた、と、立ち上がる少女に、当主は興味深そうな瞳を向けながら。
「ほう、何が出来るのかしら?」
「卵焼きです!」
「いい、座っててくれ」
自信満々の宣言に、吸血鬼は気が抜けそうになる自分の額に手をやって、もう片手を突き出してそれを制止する。
でも、と、食い下がろうとする少女に、主は調理場をまたもがさごそ探りながら。
「いいのよ。大体ね、この館で今一番偉いのが誰か知ってるかい?」
自明の理である。わかりきった質問であるからこそ、少女はまたも声を出せずに首を傾げて。
「お前だよ、お姫様。ああ、私なんて、あなたの前では如何ほどのものかしら? なんせ、従者も友も、みんなお前に取られてしまったのだから」
吸血鬼は芝居がかった風にそう告げながら、鍋に水を張ると、石を打って火にかけ。
「だから、精々今はふんぞり返って座っていなさい。いつかまた私が、この館の最上位を取り返した時は、存分に恩は返してもらうよ」
姫は、笑いの混じったその声に、よくわかっていない様子ながらも、渋々と席に戻った。
吸血鬼は、その間も手は止まらず。てきぱきと、暗がりの中でも、昼間のように見通す目でもって、調理を進めていく。
まな板、上にトマトをのせてさくさくと、細かくサイの目に切り。
「大蒜は好かんのだよな」
入れようか迷った一欠片を指で弾いて後方に、次に唐辛子を輪に切り。
「外でもないのに、よくまあ調達するもんだ」
湯の沸けた鍋に塩を一つまみ放り込み、しばらくしてから、感嘆と共に乾燥したパスタを放り込む。
次にフライパンに、『貴重なので使い過ぎないように!』との注意書きの貼られた、香りのいい油を引くと。
さらに瓶の中で油漬けにしてある、これまた『貴重なので~!』との、黒い種と、鰯の塩漬けを。
「まあ、使い過ぎないようにったって、私には関係ないことよね」
種を適当に数個、塩漬けは一切れを細かく千切って、油の温まってきたフライパンに放り込み、唐辛子も放りこんで、馴染ませるようにゆっくりと炒める。
しばらくしてから、切っておいたトマトをフライパンへ入れ、塩、胡椒、味を適当に整えて混ぜ、煮立たせること数分。
いい感じに湯だった鍋からパスタを掬うと、そのままフライパンへと直接移し、絡めるように混ぜ合わせ。
「久々だけど、案外覚えてるものだよ」
味を確認して、頷く。まあ、こんなもんだっただろう。皿へ移すと、フォークも二本、忘れないように。
魅入られたように、その作業を見つめていたお姫様の前へ、湯気の立つ皿を置き。
「はい、お待ち遠様」
慌てて、緊張に戻って姿勢を正す少女へ、笑いながらフォークを手渡して、吸血鬼も卓につく。
「か、からひ!?」
いただきます、と、固い声で丁寧に手を合わせて後、少しの遠慮もなく伸ばしたフォークで巻き上げた獲物を口に含んで、第一声がそれであった。
「辛いものだからねぇ」
が、吸血鬼は気遣いもせずに、己もフォークで巻き上げたそれを、つるりと口に含む。
「か、からひけど……おいひいです……」
舌を空気にさらして冷ましながら、少女は涙の滲んだ顔で。
「当たり前だよ、私が作ったのだからね」
ふふ、と、余裕の笑みで、吸血鬼はくいと葡萄酒を呷る。夜食ってのはどうもこう、酒に合ってたまらない。
「何ていう料理なんですか?」
いまだ舌を襲う刺激と格闘しながら、少女も図太く食べ進めていく。よっぽど腹でも減っていたのか。
「プッタネスカ」
「ぷったねすか?」
「そ、この料理の名前の由来が面白くてねぇ。忙しいしょう――」
笑いながら、つらつらと解説しようとした舌が急に止まり。
「しょう?」
それだけでは思い当たりのない単語を呟きながら、少女は続きを促すように。
しかし、主はその視線から目を逸らしながら。
「あー、悪いわね……子供にはまだ早いことだよ。言ったら私が怒られる……」
脳裏で、あの魔女なら嬉々として教えた後に、笑いながら遁走するんだろうなぁ、などと我が親友の顔を思い浮かべ。
溜息と共に、また杯を傾ける。
ふーん、そーなのかー、と、少女は中途半端に納得したように頷いて、手をまた動かし始めて。
「でも、どこでこんなの、作り方とか、覚えたんですか?」
話題を変える質問に、助かったように吸血鬼は乗っかる。
「まあ、昔、色々あってねぇ……こんな、長靴みたいな形をした、島みたいな国にいたこともあったのよ」
指でその形を、宙に描いて見せながら。
「そん時に、そこの味を盗んで来たのさ。私だけじゃなくて、お前の母親も作れると思うよ」
ふむふむと、少女はまた頷く。そこで、会話は一旦途切れた。
そうして、しばらく、もそもそと食べ続けながら、美味しそうに酒を飲みほす、主のその顔を静かに見つめる。
その、何かを懐かしむような視線の先が、目の前のこの料理に込められた色々な事が、何もかもが少女には気になって。
でも、色々と詮索するのも憚られて。
少女は考える。食べながら、辛さにも慣れてきて、そうして、どうすれば、最小限の言葉で、自分が色々と聞きたいことの答えを、たくさん引き出せるのだろうか。
思う眼前、とにもかくにも、自分が一番聞きたいことを聞こう。そう、決意と共にズゾゾと麺をすすり。
「ふぁの」
「……食べ終えてから喋りなさい」
ごくりと飲み込むと。
「どうしてお嬢様は」
どうして、貴方は。
「こんなに色々なことが、一人で出来るのに……それを全部、誰かにやらせるのですか?」
それが、一番気になったのだ。
こんなに、何もかも出来るのなら……。
問いかける先、吸血鬼は、夜の主は、少しだけ悲しそうな顔で微笑むと。
「それはね……一人で何でも出来るからって、一人で何でもやったところで」
絡み合っていた視線を、そっと外しながら。
「それでも、一人で生きるのは寂しいからね」
そう呟くように言った主の顔が、どうも少女には引っ掛かり――。
鈍重な目覚めであった。
覚醒の主は、しばし布団に座り込んで、己の間抜けな眠りの浅さを密かに呪う。
なんでまあ、久々に早く眠り始めたら、こんな時間に目覚めにゃならん。部屋は群青で、外は星で。
思って一瞬、この時間こそが己の支配するべきであったそれであることを思い出し、苦笑すら出ないまま頭を抱え込んだ。
「腹が減ったよ……酒、酒も飲みたいな」
蹴る様に掛け布を撥ね退け、悪態をつきながら床へ降り立ち、部屋の外へ。
廊下を歩く、睡眠の神に嫌われしその身は、幼い少女のそれ。
青白く波打つ髪をぐしゃぐしゃとかきながら、夜に照らされる廊下を歩く。
人影は見えずとも、何となくの気配は感じる。どこかで今も、働いているのがいるのだろうか。
随分昔から、目茶苦茶に不規則な己の就寝時間で、この少女はいつも従者を振り回す。
結局、その内、どの時間であろうが、この紅い館は。
「そう、私に関係なく、昼夜問わずの終日営業」
とはいえ、それも、この気紛れな当主に対応するためのそれであり、この館はいつだって、彼女のために回っているのだ。
しかし、そんな己のための従者に、今はどうにも会いたくないような気分で、こそこそと夜の少女は急ぐ。
別に不意の対応をさせられるそちらを気遣ったわけでもなく、何となく今夜はそんな気分だっただけで、この当主はいつも自分の胸に正直に生きるのだ。
自分の内がそう思ったなら、たとえ火中であろうが水中であろうが、己が侍従を呼び付ける君主である。
そうして深夜営業を免れた従者達の幸運を祝いつつ、頭の中で、このぽっかり空いた時間を潰す算段を試みる、睡眠不足の欠伸から覗く白い牙。
「魔女様がお眠りになっておられないならば、図書館で飲むのもいいわね……」
寝てる方が稀な友人であるから、大丈夫だろう。とりあえずの進路を定め、角を曲がった辺りで。
「いけませんわ」
ぐぅ、と、服の首後ろを掴まれて、そのまま軽く持ち上げられる。
「お休みになられたはずの御方がこそこそと、隠れるように廊下を歩いているなんて」
その失礼な持ち上げ方は、一瞬で、忠実な僕が姫を抱くそれに変わる。
二本の支えに寝かせられるような体勢の主は、急に回った視線の先の、銀色に光るその髪を。
「誰か適当な従者がそれを見かけたなら、胆を潰してしまうでしょうに……私以外は。そうではございませんか、お嬢様?」
悪戯っぽく光る蒼い瞳を見て、観念したように溜息をついた。
少し強張った体を解き、気の抜けたように全体重を、己を抱くメイド服に預ける。
「驚かせ過ぎましたかしら?」
冗談めかしたその問いに、苦い笑いを覚えながら。
「まったくだよ」
魔女との酒宴は延期にするしかないだろうな。ああ、これに捕まったなら、諦めるしかない。
「仕方ない……なら、お前を共犯に引き込むとしよう」
目をつぶって、その銀髪のメイドの胸を、ノックするように軽く、こんこんと叩き。
「食堂へやってちょうだい。誰にも気づかれないように、ね。急げよ」
「仰せのままに」
メイドはくすりと、花のような笑顔で笑むと、世界を止めた。
気がつけば、折よく無人の食堂に、抱き上げられた主は到着していた。
「さ、ご到着ですわ」
丁寧に降ろされるような気配を感じ、それも癪なので、びょんと自分で飛び降りる。
メイドは少し呆れた顔で、我が主へその体を向けて、主もそれに向かい合い。
「御苦労」
「恐悦に」
見つめ合う二人。主が吸血鬼の背丈は、銀色のメイドの半分ほどしかない。
主は見上げ、従者は見下ろし、いつかとは逆転してしまったその光景。
「後は、酒と……何か小腹を満たせるものでも、用意してくれたら嬉しいのだけどね」
静かに笑いながら、主は、くいくいと、人指し指を動かして催促するように。
「はて、今度は御自分ではなさらないのですか?」
とぼけるように尋ねながらも、メイドは調理場へと向かう。
「当然さ、今夜とっ捕まって、腰を抜かしたお姫様の役は私だよ。さあさ、頼んだわよ、我が従者。当主の地位と権威は取り返させてもらうぞ」
自身は椅子に座って、唄うように姫。麗しきその身に似つかぬ笑い声をあげながら。
「……まだまだ敵いませんね……」
聞こえないように小さく呟いて、あれから少し成長した少女は、苦笑しながら用意の手を動かし始める。
主は、紅い紅いその酒を。
従者は、透明な。
「水?」
「ええ、一応まだ仕事が残っていますので」
「修行が足らないわねぇ、先代はむしろ気つけに一本空けて仕事に臨む気迫だったわよ」
困ったように笑いながら、少女は飲んだくれの紅い髪と紫色の髪と目の前の青白い髪を見て、ああならないようにしようと決意した幼き日を少し思い返す。
しかし、主はそれをさほど追求せずに、まあいいさ、と、納得したような顔で杯を掲げる。
「何に? メイドさん」
「……では、この後の快眠に。どうでしょう?」
「……言うようになったよ、まったく」
重なる笑いと共に、軽くぶつかり合うグラスが、澄んだ音を響かせる。
二人の飲み物は変わらず、姫と従者の位置は変わり、少女は主を満足させることを覚え。
そして、二人の前に置かれた皿は、あの時のままで。
「ふむ、うまい」
主は、フォークでつるりと、それを口に運ぶ。味まであの時と同じ。
「だって、唯一お嬢様に習った料理ですもの。忘れる筈がありませんし、再現するのも苦労しましたわ」
従者も遠慮なく、それを口に運ぶ。
「一度気紛れに作ってやっただけでねぇ……まさしく、運命の因果は己に返る。この場合は、いい行いだったようだけど」
笑いながら、杯を空ける。やはり、こういう時に飲む酒はどうにもうまい。
「そうですわね。苦労したのは、名の由来を調べるのにも」
変わらぬ笑顔でのその言葉に、主は酒を吹き出しそうになった。意地と気合いで咽そうになるのを耐え。
「ええ、まったく、お嬢様が気に入られるのもわかるくらい、面白い理由でしたわ」
「……ああ、そうだったろう? あの時の、お前にそれを伝えるのを思いとどまった私の苦悩も理解して、初めて完璧な習得を名乗れるのだけれどね」
憮然として、呆れた態度を作りながら、主はどんどんと杯を空けていく。
そんな主を、微笑んで眺めながら、メイドは密かに考える。
今この時が、少しだけでも、あの夜の再現であるのならば……。
たとえ再現でも、重ねた月日は、所々を変わらせて、それでも変わらないところもあって。
それならば。
「お嬢様」
問いかける先、紅色を飲み下しながら視線を流すその吸血鬼へ。
「あの時を覚えてくださっているのならば……」
その答えを、自分が変わらせることが出来たのか。
「もう一度だけ、お聞かせください」
最後の問いを、あの時の、自分の気掛かりを。
その言葉に、吸血鬼はグラスを下ろして向き合う。
しばしの沈黙にあって、真っ直ぐに突き合わせるその顔を見ながら、少女はなんとなくそれだけで、答えを得ているような気がした。
何故なら、自信はある、確信もある、その答えを、変えさせられるような日々を、二人は進んできて――。
でも、そうじゃない。あの時の引っ掛かりは、やっぱり。
「……言い方が違っていたんじゃありませんか?」
元々そうだったのだ。自分と過ごしてきた時間は、単にそれを倍増させたに過ぎないけれど……それだって十分誇れるものだ。
だからこそ、その答えを今引き出せるのだとも思う。
「……遠回しな事ばかり言ってないで、確信をつきにおいで。どんな質問だろうと、出来るだけ、逃げないで向き合おうじゃないか」
試すような主の誘いと、その表情。
何故なら、今もあの時も、目の前のその顔は、寂しさを覚えながらも、それを埋められることを知っているようで。
だから少女は、確信と共に行く。
「では……どうして、貴方は」
どうして、お嬢様は。
「これほどまでに強いのに……それでも、誰かと一緒にいたがるのですか?」
問いかけは、あの時より少しだけ、大人になった自分を混ぜて。
受ける主の顔は変わらない、あの時の引っ掛かりを残したままのそれを見つめて、しばしの間を刻む。
と、その時、二人の間に、廊下から、微かに声が届いた。
「うん? 何だろう、このおいしそうな匂いは!」
……あー、この声は、夜勤の妖精メイド達か。二人、思い出したような表情を見合せて。
「あ、食堂に誰かいる! きっと誰かが夜食作ってるんだ!」
そうなのだ、あの時と違うのはもう一つ。
「そういえば、メイド長がさっきから見当たらないんだけど……ま、まさか!?」
もうここには、夜も昼も関係なく、いつでも誰かが、楽しそうに、忙しく、働いていたりするのだから。
「ず、ずるいー!」
バタバタと、慌ただしい音が近づいてくる。
それを聞いて、もう笑いだしそうな少女と、見つめる先の、溜息をついて、諦めたような吸血鬼。
「ああ、そうね……何でかって? そりゃあ、やっぱり……」
夜の主の顔に、少女のその引っ掛かりを、どこかへ追いやってくれるような、満面の笑顔が繋がって。
「みんなで生きるのは、楽しいからね」
全体的に読みづらかったのが少し残念だけど、それを補う面白さだった。
次回作も期待してます。
とても好みの紅魔館、ニヤリと笑うお嬢様が見えるようです
もうちょっと句読点の数を減らすと読みやすくなるかもしれません
また、状況描写がもう少しあると嬉しかったです
正直個々の場面転換についていけずちょっと混乱気味に…
中盤からは実に読みやすく、最後のお嬢様の一言で綺麗に落ちていて実に面白い作品でした
だけど、中盤からはそんなことが気にならないくらいに物語の雰囲気に引き込まれてました。
物語が醸し出す静かな魅力に、読み終わった後心地良かったです。
あぁ、純粋に楽しかったです。
本当に良いお話、ありがとうございました。
文章云々については特に言う事はありません
言わせて貰うなら最初が長すぎたって事位でしょうか 短編ですしね
それを踏まえて読めば最初の方も結構すらすら読めました。
ただそれがないと最初の方は分かりづらいかなとも思います。
後書きの下から2行目「背景が~」を冒頭でも示していただけると
少なくとも「優しい妖怪」を読んだ方は、わりかしすんなりと物語に入れるのではないかと感じました。
それはともかくとして、「優しい妖怪」と合わせてこの紅魔館が大好きになって仕方がありません。
我侭な読み手としてすべて飲み下せるわけではないけれど、そういう姿勢はとても好きです。
……しかしお嬢様お手製の夜食なんて。相伴にあずかれたら思い残すことはないなあ(笑
お酒はやっぱり素敵であるべき
今でも楽しく作ってますよ。…ちょっとだけ辛さが物足りないので、僕のはお嬢様の嫌いな物が入ってるんですけどねw