柔らかな月の光が射しこむ室内で、文はごくりと喉を鳴らした。
文の目の前には一人の少女が布団の上に寝転がっていた。「くーかー」と暢気な寝息を立てて幸せそうな微笑みを浮かべている。薄い肌掛けがくしゃくしゃに丸まっていて、その少女の控えめな胸やすらりとしたウエストがよく見える。寝巻きが肌蹴ていたせいで臍も丸見えだった。キメ細かい肌が月明かりに映し出されて微かな光沢を放っている。
文は思わず写真を撮りそうになり、溜息をついてカメラを首にかけなおした。
普段の性格からは考えられない可愛さだ。現像した写真は高値で飛ぶように売れるのだろうが、シャッターを切れば霊夢が起きてしまう。そもそも誰にも売る気にはならないだろうが。
文は霊夢の寝顔を見つめた。霊夢の容姿はまるで人形のようだ。人工物と思えるくらいに整っている。だが違和感はなくむしろ人の目を奪って返さない様な美しさだ。
「霊夢……」
文は聞こえない様に、起こさない様にぽつりと呟く。瞬間顔が日に焼けた様に熱くなった。両手を頬に当てて、ドクドクと高鳴る鼓動を感じる。
「ん~、ふぁ、いい気持ち」
突然の言葉に文は飛び上がった。そして、それが寝言だと気が付いて冷静に呼吸を整えた。
普段はあんなんだが、やはり霊夢。微笑んだ寝顔は天使を超越する。
どんな夢を見ているんだろうと文の表情も緩む。
お風呂に入っている夢だろうか、それとも昼寝をしている夢だろうか。夢の中で寝ることなど、この能天気娘には朝飯前だろう。
文はほっと一息ついて、ここに来てよかったと思った。
今、妖怪の山ではとある事件が起きていて、文の様な平の新聞記者ですら駆り出されて調査させられるような状態なのだ。それにも関わらず全く事態は好転せず、足がかりさえない状況。忙し過ぎて最近はほとんど睡眠時間もない。それでも文はこの少女の顔を見るためにここを訪れた。貴重な休み時間を削ってまで。
少しの間見つめていると、突然霊夢の息が荒くなった。それは段々と酷くなっていく。表情も何かに耐えるように辛そうに眉を歪めている。
「はぁ、はぁっ。はっはっは……はっ」
まさか悪夢にでも繋がったのかと文は心配して覗き込む。
霊夢は小さく寝言を呟いていた。よく聞き取れないので、耳を近づける。
「は……は、そろそろ……ふふ、嫌がっても無駄無駄。ちゃんと孕ませてあげるからね。くくくくっさあさあイくわよっ」
「どんな夢見とんじゃあ!!」
まるで無防備な霊夢の顔面を、文の鉄拳が強襲する。
躊躇のない天狗の一撃。食らえば顔面にクレーターが出来上がって畳に沈み込みケチャップが撒き散らされて出来そこないのミートパイになる威力なのだが流石は博麗の巫女。拳という名の殺人兵器が鼻に触れるか触れないかの刹那に目を見開いた。
「――殺気っ!」
首を捻って、それを避ける。目標を取り逃がした文の右腕は霊夢の頭が上がっていた枕を真っ二つに引き千切って畳を粉砕して貫通した。
ズドンッと物凄い音が静かな神社にこだました。
「……」
ぱらぱらと埃が舞う寝室代りの私室で、霊夢はポカンと口を開けた。
「おはようございます、霊夢さん。お目覚めは如何ですか?」
文が額に青筋を浮かべながら訊ねる。
霊夢はだらしない表情のまま「えっ? あ、うん。中々のお手前で」と返した。
「……あれ、私の下僕は? やっと親愛が芽生えたのに。どこ?」
「夢でしょう、夢。煩悩に塗れた腐った夢を見ていたのでしょう」
というか、あの寝言を聞く限り親愛が湧いたとはとても思えないが。
霊夢はがばっと跳ね起きて自分の股間を確かめて呆然とした。
「あれ!? 私の息子がない!」
「あなたは女でしょう!」
「……え、嘘。あれ夢? まさか、あそこまでやるのにどれだけ苦労したと思ってるの?」
「知りませんよ」
「何でいいところで起こしたのよ! うっう……私の夢を返して、返してよー」
そして泣き出す。
文はやり場のない怒りと情けなさに頭を押さえた。
「あのですねー少しは自粛してくれませんか?」
「私の辞書に自粛なんて文字はないわ。そんなことより私のグレゴリータ・ゴリゴリーナ二世を返して……」
ひでぇな。それ、下僕の名前か。
「あんまりですね」
「そうよ! あんまりよ!」
「今更ですけどこの惨状見て何も思わないんですか?」
霊夢はぐちゃぐちゃになった室内を見渡した。
「慣れてるわよこれくらい。それよりこんな夜中に何の用よ。夜這いなら誘い受けって所に落ち着いてくれれば歓迎――ふぉっ!」
文の右足が空を割く。霊夢は正座したまま跳ね跳んでそれを避けた。空振った足が烈風を起こし足もとの埃を舞いあがらせて渦を巻いた。
霊夢は着地しながら呻いた。
「い今マジで殺そうとしたでしょ。私以外の連中なら死んでるわよ」
「大丈夫、あなた以外にはやりませんから」
にこりと文は笑う。
「はぁ。で、何しに来たのか言ってみなさいよ」
「それは――」
言いかけて、返答に困る。
何を代わりの理由にしようかと考えるが、焦っているためかいい案が浮かばない。
「あの、ね。その」
「何よ」
霊夢は文に歩み寄った。
「もしかして私を暗殺しに来ただけ? 全く物騒な。おちおち淫夢も見てられないわよ」
「見なきゃいいじゃないですか」
とうとう何も思いつかなかった文は真っ先にここを出ることを考えた。他人の行動なんて大して興味のわかないこいつなら、後になってもまだ覚えているなんてことはないだろう。
「私はそろそろ仕事があるんで、これで」
さっと踵を返す。
そして障子に手をかけた瞬間、静電気のようなものが指先に走った。
パチッと指を弾かれて文は反射的にそれを離した。
「痛っ。何これ?」
「ふふ、ノコノコとやってき獲物を逃がすわけないじゃない」
「な……! あなたは人としての尊厳まで捨てる気ですか!?」
「そんなもの、当の昔に捨てておるわ!」
霊夢は「くけけけけ」と笑うと文に掴みかかった。
「変態! 来るな変態!」
「はぁはぁ、堪んねぇ。いただきますっありがとうイエス様っ」
「あなたは神道でしょうがぁ!」
霊夢の右腕が文の胸を掴む。素早く一揉み二揉み。文の迎撃が来ると身を翻して触れるか触れないかのギリギリのところでそれをよけ、また懐に飛び込む。そしてまた素早く一揉み二揉み。
逃げようとする文の後ろに回り込んで今度は小さくキュートなお尻を撫でる。流石にキレかけた文の踵落としを薄皮一枚で見切って避け、今度は身を屈ませ下着を覗く。
「青と白の縞々っ」
文は愕然とする。普通に考えて天狗と人間はまともに戦えるわけがない。例えれば人間と子ネズミほどの力の差がある。それなのにこの巫女は臆せず、最善の手を持って自分を追いつめている。
信じられない。改めて、この変態の天才性を思い知らされる。
しかし、こんな天才誰も必要としてない。公害以外の何物でもない。
「く、くそっ。人間如きが調子に乗るなっ」
腰に差した扇を取るが、いつの間にか懐に飛び込んできていた霊夢が蹴りで扇をたたき落とした。
「何!?」
「ひゃあ! 柔らけぇ!」
「うぁん! ちょっと、止めっあ!」
何故無駄にテクニシャン!?
絶妙な力加減で両胸を揉みしだかれ、甘い官能が脊髄を通って脳に送りつけられる。
ここにきて文は疑問に思う。ぶっちゃけ文は霊夢に襲われてもいいわけで、むしろ何でそんなラッキーな展開に自ら抵抗しているのか。
「ふふふっこの前より一センチも大きくなってるわ。私のおかげね」
「ぐっ」
しかし理由なら分かっている。好色な者が多い天狗。文ももちろん例外ではないのだが、一様女の子である。幾らなんでもムードも何も無いこんなシチュエーションはごめんだ。大切な人とだからこそ、それは真面目に、真摯に考える。
「……あ! 障子の向こうに小野小町が!」
「何ですって!?」
「かかったなこのアホゥが!」
隙を見せた霊夢の腕を掴んで、そのまま勢いをつけて襖に張られた結界に叩き付ける。
ドガッという激突音の次にバチバチバチッ! と火花が散った。
「あびゃあぁあぁあぁあ!」
ガシャンと結界がガラスの様に割れて崩れ、霊夢は吹き飛んで夜の庭先に転がった。
「全く、手間取らせて」
文は縁側を出て、ピクピクと痙攣を続ける霊夢を見やった。
ため息を吐いて「ほっといて帰ればいいものを」と自分で呟きながら、歩み寄って霊夢を助け起こした。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫に見えるかしら?」
巫女服は所々焦げ付いて解れている。どれだけ強力な結界を張ったのやら。
「自業自得っていうんですよそれ」
文は霊夢を抱き上げた。
霊夢は感動のあまり涙を流した。
「あぁ、文。私はあんたを無理やり食べようとしたのに。何ていい奴なのかしら。しくしく、いい匂い」
「嗅がないでください」
放り捨てようかと迷ったが、結局文は寝室まで霊夢を運んだ。甘くするのはよくない、ということを一番よく分かっているのは文であったのだが。
「それにしても、本当にあなたは強い。私には気付かれずにあれだけの強度の結界を張るのは大した腕ですよ。誇ってもいい」
「私は強さよりもハーレムが欲しかったわ」
体が痛むのか、腕を庇いながら布団の上に霊夢は座り込んだ。
文は密かに「あなたがもっとまともになれば簡単に実現できるでしょうね」と思っていたが何も言わなかった。
「それで、何でここに来たの?」
まだ言うか。弱ったな。
文は一瞬だけ返答に困り、すぐにもっともらしいことを思いついた。
「実はですね、今山で奇妙な事件が起こっていまして、全く解決の糸口が見つからないんです。それで巫女たるあなたにアドバイスをもらおうとやって来たわけです」
霊夢は「ふーん」と呟いた。
「じゃあ神社に来た理由より先にそっちを聞いておくわ。それで、何が起こってるの?」
くそぅ、鋭い。
しかし事件の解決の糸口が見つからないのもまた事実。
あまり意味はないかもしれないが一様聞いてみようか。
「数日前に、とある白狼天狗が殺されました。それで犯人を追っているのですが」
「へぇ、妖怪も死ぬのね」
「えぇ。まあ珍しいことではありますね。妖怪は身体的ダメージで殺すとなるととても面倒なのですよ。頭を潰しても死なないことがありますからね。いくら低級の天狗と言っても天狗です。それを殺すとなると自然と犯人候補が狭まってくるわけではありますが」
「見つからないのね」
「……最大の候補は妖怪の山の妖怪なのですが、私が強いと判断している者は全員同盟を組んでますし、そもそもこんなことをするメリットが見つからない。天狗に喧嘩を売って何になります? 殺されたのは別に恨まれているわけでもない、極々ありきたりの白狼なのです。それなのに食いつくされたみたいに全身ぐちゃぐちゃで」
「……食いつくされた?」
「えぇ、でも私は本当に食いつくされたとは思ってません。妖怪の肉は基本不味いですし、食うなら人間ですよ。美味くて弱いですし。だから猟奇的な思考を持っている、とこちらに思わせるためのカモフラージュだと私は考えています」
霊夢は少し考え込んでから言った。
「カモフラージュじゃない、としたら?」
「……そうですね。ありえない話だと思いますが」
文はメモ帳をぱらぱらと流し読んで言った。
「もしかしたら『蟲』の仕業かもしれませんね。こいつらは食った分だけ強くなりますから手の届く範囲で最も強い白狼天狗なんかは格好の餌です」
「蟲って、私文献でしか見たことないからどれだけ強いのか分からないのよね」
「もう絶滅してしまいましたが、強い蟲は本当に強かったですよ。私も殺されかけたことがありますから」
「あんたより強いの!?」
「えぇ、私より強いのも珍しくなかったですよ。姿形は人型に近いほど知能があります。そこは個人差があるかもしれませんが、身体能力だけでも私たち並み。しかも者によっては猛毒を持っていたり鋭い爪があったり」
「化け物じゃないの」
「化け物ですよ。でも知能があるといっても会話をするまでには至りませんし。今はもう負ける気はしませんが。私が記者になる前だから何百年も前の話です」
霊夢は「へぇー」と呟くと目を輝かせた。
「あんたにも過去があるんだ。記者になる前何してたの? ストーカー?」
私に興味を持つなんて珍しいなと思いながら文は答えた。
「あなたと一緒にしないでください。真面目に組織の情報部で働いてましたよ。平和な今と違って昔は大変でしたからね」
「組織とか情報部とか聞くと痛いわね」
「やかましい」
そこで、ボーンと時計が鳴った。
文と霊夢は同時に時計を見上げた。
「あら、もう三時か」
「はぁ、五時までに情報をまとめて戻らないといけないのに。これじゃあ寝れないわ」
ふぁと欠伸をして、文は呟く。
「どうも隈が濃いと思ったら、大分休んでないでしょ?」
この暗いのによく見えるなと文は感心した。そして誰かに労わってもらえるのは久しぶりだし嬉しかった。
「休む暇なんて寝る時ぐらいです。仕事しながら新聞を書くのは大変なんですよ?」
と言っても仲間の烏天狗は全員漏れなくそんな状態なのだが。
「そう、寝る暇削って私に会いに来てくれたわけね」
一瞬呆けてから、文は取り繕う様に叫んだ。
「……! 違っ」
しかし霊夢が一枚上手のようだ。
「違わない」
焦る文を霊夢は抱きしめた。かぁっと血が顔に集まる。
文はひどく暴れたが霊夢の腕は文を放さなかった。そして静かに、文の額に唇を落とした。
キィンと文の頭の中で何かが弾けて、急に瞼が重くなる。
「なっ何を……」
「お休みなさい」
視界が暗転していく中で最後に見たのは暢気な笑顔だった。愛しく思うくらいに。温かな感触とそれだけでも催眠効果がありそうな芳香のせいで全く抵抗できず、視界を黒に染められて行く。
完全に真っ暗になった世界で、文は赤くなった顔を見られてなかったか心配になった。仕事よりも、そっちが重要だった。頭の中で「明日は満月か。それじゃ月光浴でもさせといてあげるわ」と声が響いたのを最後に意識がなくなった。
後頭部が何か柔らかいものに乗っけられているのか、やけに心地よかった。今まで使ってきたどんな枕よりも。
目を開けると、白み始めた空と淡い青色の寝巻き、少女の顔が見えた。
がばっと飛び起きて時刻を確認する。現時刻は四時半。ほっと一息。
どうやら縁側で寝ていたようだ。一時間と三十分しか寝ていないはずなのだが、妙に体が軽い。ここ数日堪っていた疲れもどこかに吹っ飛んでしまっていた。頭もすっきりしてるし視界が広い。
文は霊夢に目を移した。ずっとこうして膝枕してくれていたのだろうか。霊夢は正座したまますやすやと寝息を立てていた。
集合時間まであと三十分。急げば十分で着く。
周りを見渡すと、傍に扇と弁当箱が置いてあった。とりあえず扇を腰に差して、弁当箱を手に取った。まだ温かかった。
「……はぁ、何で変なところで献身的なのかしら」
まだ眠っている霊夢をじっと、文は見つめた。
「うへへ……私のゴリシュニツァ」
にへっと邪気のある笑みを浮かべた霊夢に文はむっとしたが、今回だけは我慢してやることにした。
「ありがとう、霊夢」
そう呟いて、文は霊夢の額に口付けた。霊夢は起きなかった。「……むぅ?」と小さく漏らしただけでそれ以上は反応しなかった。
本当は愛しさのあまり押し倒してしまいたかったが、これから仕事がある分疲れるようなことはできない。
文は微笑むと弁当を持って空に駆けだした。翼が大きくしなって、白んだ空を叩いた。
縁側に大きな風が一度だけ吹き抜け、霊夢の髪を揺らした。
高く広がる空。雲一つない晴天。涼しい風。揺れる風鈴。
文がまた一つ霊夢を好きになった日、それは、人里でも惨殺死体が発見された日だった。
――――――――
慧音に呼ばれて、その日霊夢は人里に下りた。人里近くの小屋にその男は住んでいたらしい。
「死体は?」
「せめて遺体と言ってくれ」
慧音はハンカチで口元を覆った。
「正直、あのような惨状をお前には見せたくない。巫女と言えどもお前は女で子供だ。嫌だと言うのなら、状況だけお前に伝えるが」
「気使いはいらないわ。遺体は動かしてないでしょうね」
「見れば分かると思うが、動かす動かさないの問題じゃないんだ」
里の離れの森に出ると、人が集まっていた。慧音と霊夢は人々に一礼すると奥に進んだ。
すぐに小屋は見えた。小さな家だった。
「変わった男でな、子供のころから周りから浮いていて里には基本的に干渉してこない奴だったよ。もう四十は過ぎる頃か」
生臭い臭いが漂ってきた。慧音はハンカチの下から嗚咽を漏らした。
「うぇっ。ぐ……うぷっ。ハンカチはいらないのか? 吐いても知らないぞ?」
次第に足取りを重くする慧音を置いて、霊夢は小屋の正面に立った。近くの木の幹が抉れている。そして地面も所々が抉られていた。
玄関は破壊されていて吹き抜けになっていた。その中から臭いは漂ってきている。魚の内臓の様な、苦い臭い。
霊夢は足もとに注意しながら中に入った。すぐに血溜まりを見つけた。乾いているが、波紋状に広がったそれは明らかに致死量を超えていた。そして所々に肉の破片やら、骨の欠片やらが散らばっていてまるで具たくさんのシチューをぶちまけた様だと霊夢は思った。
「……顎ね、これ」
霊夢は目の前に転がっている、黄ばんだ物がU字型に並んでいるもの指して行った。切断面はぶさぶさで骨が見える。無理やり引きちぎられたのであろう。近くにでろんと長い舌も萎びてあった。
「喰われてから一日位かしら」
「時々里の者も食われることがあるが……こんな酷いのは初めてだぞ?」
「ある分だけでもいいから、丁寧に集めて供養してあげて」
「それも本来ならお前の仕事なんだが」
「巫女はお坊さんじゃないわ。あんただったらその人も納得するわよ」
霊夢は言い終わると踵を返した。
霊夢が向かったのは山の神社だった。山の神社の風祝は境内でせっせと箒を動かしていた。
「こんにちは、早苗」
「げぇっ霊夢!」
「相変わらずいい尻ね。触らせてくれないかしら」
早苗は霊夢を見るや身構えた。
「いいじゃない! ちょっとくらい」
「嫌ですよ! もう!」
霊夢はぶーと唇を尖らせた。
早苗は身構える。
「あなた、顔はいいんですからまともになる努力をしたらどうですか? 宝の持ち腐れにもほどがありますよ?」
「私のパトスは縦横無尽!」
意味不明である。
「はぁ、もっとまともになれるなら私がお嫁さんに貰ってあげなくもないですけどね」
「え!? ちょっと今のセリフ忘れないでよ?」
「はいはい」
早苗が何か仕方ない人を見る目で霊夢を見つめる。
霊夢は今更になって「この流れじゃ話が進まん」と気が付いた。
「あんたのお尻を触りに来たってのもあるけど、今日は別件がメインなの」
「別件? というかあなた、何だか生臭いですよ」
霊夢は「あぁ、しまった」と思ったが口には出さなかった。
「魚料理をしていたのよ。今お昼じゃない」
「なんだか魚とも違うような」
「気にしない。それより、最近山で起こった事件について何か知ってる?」
「あぁ、天狗様の一人がお亡くなりになられたと」
「知ってるのね」
「えぇ、山の情報は入ってきやすいですから。というより、その犯人に八坂様と洩矢様が挙げられて事情聴取されましたからね」
早苗は箒を置くと「上がりますか?」と言った。霊夢はお言葉に甘えることにした。
卓袱台を挟んで、霊夢と早苗は向き合った。
「粗茶ですが」
霊夢はお茶を一啜りした。
「じゃあ詳しく聞かせて。どんな状態だったか」
「それが、私は見てないんですよね。現場直前に八坂様に目を塞がれてそのまま神社に強制送還されましたし」
早苗は「んー」と唸ると思いだし思い出しに語った。
「そうですね、三日四日前です。白狼の椛さんが『同僚が殺された。現場を見てほしい』ってここに来たんですよ。八坂様によると全身を食いちぎられたようだと」
「あなたは関与してる?」
「いいえ全く。基本的に妖怪のことですから、八坂様と洩矢様がことに当たっています。そういうあなたは何故それを聞きに?」
「いや、文にそれを聞かされてね。気になって」
早苗は沈黙してお茶を啜った。
すると、がたんと襖が開いた。
「東風谷様!……って何時ぞやの暴力巫女も一緒?」
入ってきた銀髪の天狗に霊夢は見覚えなかったが、可愛かったので脳内メモリーに保存しておいた。
「あら、椛さんじゃないですか。お茶でも飲みます?」
「そんな場合じゃないです! また同僚が!」
「何ですって!?」
早苗が立ち上がったのを見て、霊夢も立ちあがる。
「行きましょう! 場所は!?」
「滝の下です! 早く!」
椛に案内されて向かったのは、椛が警護している滝の下だった。
下には数名の天狗が、すでに集まっていた。
「って、人数少なくない? 大きな事件じゃないの?」
「河童は避難させてますし、みんな疲れ果ててまともに動けるのはこれだけなんです」
天狗の中には文もいた。文は霊夢を見つけると嬉しそうに走ってきた。
「霊夢さんも来たんですね。これからお呼びしようと思ってたのに」
「こんにちわおっぱい」
霊夢は言うと全く無警戒の文の胸を掴んだ。
文はピキッと青筋を立てたが、やんわりとその手を退けた。
「流石にこの状況ではダメですよ」
「そうね。ごめんなさい。それで……」
「アレなら向こうに。来てください」
文について行った先の河淵に、それはあった。
ちゃぷちゃぷと流れに揺られて、それから滲むもので川が赤く染められていた。
「椛と交代でここの警固をしていた白狼天狗です。多分。椛、顔……と言っても分からないか」
「……いえ、間違いなく彼女です。彼女の匂いがします」
椛は目を細めた。
それは霊夢が見たのと同様、いくら妖怪でも再生できないだろうと思わせることができるくらい損傷が激しい遺体だった。損傷といっても、遺体自体の量が少なくて元がどんな形かも言われてみないと分からないが。
霊夢はふむと唸った。
「霊夢さん、これはもしや本当に」
「えぇ、蟲かもね」
霊夢は何気なく早苗の方を見やった。
そして気が付く。
早苗は慣れていないのだ。こういう状況に。幼い頃からこういったものの片づけをしていた霊夢と違って。
「早苗……」
早苗は目を皿の様にして放心していた。やがて瞳孔がきゅうっと収縮するのが見えた。
「うっ……! うぇっ! ……うげぇっ!」
傍の木まで走り寄り、手をついて嘔吐した。
涙を滲ませて、膝を折るとまたげーげーと胃の中身を吐き出した。
「放っておいてあげましょう。誰でも最初はああなりますよ」
吐き終わると、震えながら泣きだした。きっとああならない為に神奈子は早苗を庇ったのだろう。「うっうっ……」という嗚咽が聞こえてくる。
「……それで、蟲が出現しているとしたら?」
「だとしたら厄介ですね。もう二匹も天狗を喰らっているのですから大分力を蓄えているかも。椛、この子はどれくらい強かったの?」
「……私と大差ありません」
「解った。あなたもここの警固から外れて貰うわ」
文が手を挙げると他の鴉天狗たちは頷いて一斉に飛び上がって行った。
「どうしたの?」
「上の者に報告を頼んだのですよ。血が乾いてないと言うことは殺されてからあまり経っていない。もしかしたらまだ近くにいるかもしれません。周囲の散策をするために一番動ける私が残ったのです。椛、そこのお荷物を連れて天狗の里に戻って下さい」
「了解しました」
椛はまだ泣いている早苗を担いで飛び立った。
霊夢は飛び立っていく二人の様子を見つめた。
今回は自分の失敗だった。外の人間がこっちの事情に慣れていないのは知っていたのに。私のミスだ。
ごめん、早苗。
そして、思わずぽつりと呟いた。
「黒と……あぁ畜生椛の方は見えないか。ガッデム」
「この状況下でも己を失わないとは見上げた根性ですね。流石に怒りますよ?」
「あーごめん。だから振り上げたその拳を収めて」
文が拳を下ろすと霊夢はほっと息を吐き出した。そしてどちらともなく歩き出す。
「ねぇ、今更昔の蟲が生まれるなんて事あるの?」
「普通に考えればありえませんが……推測でなら」
「聞かせて」
「私も専門ではないですが……劣性遺伝というのをご存知ですか?」
「美味しくないってことはわかるわ」
文はため息を吐き出した。
「要するに……エロくない人間とエロい人間に四人の子供を作らせたとしましょう。エロくない人間が優勢だとすると単純に言って、生まれてくる四人の子供は全員エロくない子供です。その中の二人にまた子供を作らせると今度は三人はエロくない子供で、一人がエロい子供になります」
「エロい子供は私ってわけね」
「その通り。エロい子供は社会不適合者なので殺しちゃいましょう。ブシュッ」
「えぇ!?」
「そんな不安そうな顔しないでください。残ったエロくない三人の子供ですが……実は、この子供たちも二代目と同様エロい遺伝子を受け継いでいるのです。この内で子供を作った場合も、エロい子供が生まれてくることがあります。かなり低い確率ですが」
「……話が見えた。つまり絶滅してない弱い蟲から、何かの拍子に強い蟲が生まれたってことね?」
「その通りです。まぁ推測の域は出ません」
文はそこかしこを眺めて回った。
鋭利なもので木の幹がざっくりと抉れていた。
「ここは危険です。あなたも退散したほうがいい」
「それがね、あんた達だけの事件じゃなくなったの」
「……と言いますと?」
「人里でも一人」
文は驚いた様子で霊夢を見た。
「昨日の今頃かしら。二日で二人食べるなんて大食いね」
「異常ですよ」
文は小石を蹴り飛ばした。
霊夢は驚いて目を見開いた。
「怒ってるの? 珍しい」
「当たり前です。山の妖怪は仲間意識が強いんです。幾ら地位が下の者とは言えそれは同じこと。家族を殺されて黙っているなんてありえません。どこまでも追いつめて絶対にぶっ殺します」
文の双眸が赤く燃え上がった。縦に収縮した鳶色の瞳が、鋭い光を放っていた。
「文……」
「私だって感情的になったりしますよ。悪いですか?」
「感情的になるのはいいけど、油断しちゃダメよ」
霊夢は文の腕を掴んで、歩みを止めた。
「……霊夢さん?」
文がそれを言い終わるか終らないかの内に、霊夢は文を強く抱きよせた。文は「むぐっ」と呻いて霊夢の胸に顔を埋められた。
出し抜けに、霊夢を囲んで結界が発動する。
「何の真似で――」
刹那に、カッというこぎみの良い音を立てて目の前にあった木が削れた。
「……は?」
「来るわよ」
木は深く深く穴が穿たれ、そこからしゅうと煙が上がっていた。
何が起きたか、文が理解するより早く、翠色の雨が降り注いだ。それは葉を刻み、木を貫通し、土を堀り上げ結界に食い込んだ。まさに弾丸の嵐だった。
ガガガガガガガガッとドリルで岩を削るような音だけが耳の中に反響し、次々と目の前の景色が変わっていった。
周りの景色がズタズタになって行くのを文は呆然と見詰めたが、霊夢はこれを放った主の方を睨んでいた。
やがて攻撃が終わると、それの気配がなくなった。
霊夢は結界を解いた。刺さっていたいくつかの針が支えを失って地面に落ちた。
「確かに今回の奴は相当ヤバいみたいね」
霊夢は笑みを浮かべながら呟く。
文は目の前に落ちた翠色の針を見つめた。粘膜の様な物に濡れているそれは小さく煙を上げていた。
「麻痺性の毒です」
医療研究系と札の下がった部屋から出てきた文は、向かいのソファに転がっている霊夢にそう言った。
「非常に強力でまともに食らえば恐らく、どんな妖怪でも動けなくなります。揮発性が高く、当たらなくてもガスを吸うだけで毒が回ります。少しだけなら平気ですが、多量に吸うと致命的ですね」
「そそそそう……わわわ私ととしたことがががゆゆゆ油断……」
「無理に喋らなくても結構です。今日は私が付いてて上げますから」
文は霊夢を担ぎ上げると医務室に運んだ。
「本当は組織の内部まで人間を連れ込むなんて前代未聞なんですからね」
「あばば……あばばばばぁ、ありがとぅ」
「……わざとやってません?」
霊夢はカタカタと震えていた。表情筋も引き攣っており、苦笑したような表情で氷付いている。色は青白い。
「さっきはあんなにかっこよかったのに、台無しですよ。お年寄りですか」
「わわわわしゃあ美少女じゃけん……」
「はいはい、面白い面白い」
文は霊夢はベットに寝せて、近くの椅子に座った。
あの時霊夢が倒れなければ文は蟲を追って行っただろう。勝てたかどうかは分からないが、何かしらの情報を得ることが出来たのも事実。
自分はこの巫女のせいで甘くなったのだろうかと疑問に思う。
「何か飲み物買ってきますよ。何がいいですか?」
「あやたんのお乳が吸いたひ」
「爆ぜますか?」
アイアンクローをかけられた霊夢は痛みのあまりガタガタと震えた。
毒で動けないのだろう。かわいそうと思う反面凄い征服感が味わえて堪らない。やはり私はS属性なのかと文は納得した。
「ポポポ……ポンジュース……」
「お茶ですね、わかりました」
文は医務室を出て行った。
バタンとドアが閉まって、気配が遠ざかる。
「ごめん、文」
それを見届けてから、霊夢は起きあがった。ぜえぜえと息をして、痺れる足を叩いて喝を入れる。
呼吸には気を付けていたのだが、思った以上に強力なようだ。手足の痺れが取れない。少しの演技じゃ怒り心頭の文を留めることが出来ないと考えた霊夢はほんの少し毒を吸ったのだが、計算違いでこのざまだ。
しかしあのまま文を追わせたら――多分文は死んでいただろうと考えると、この程度は安い代償かもしれない。一度でも文が自分から目を切ったら、もう霊夢は文に追いつくことは出来ないのだから。命あってのモノダネだ。命と引き換えの情報なんてどんなビッグニュースでも釣り合いはしない。
霊夢はおぼつかない足取りで立ち上がると、幻想空想穴を発動した。
毒の影響か、上手く術が発動しない。移動範囲はかなり狭く天狗の里も越えられないようだった。
「急がなきゃいけないのに……!」
己の非力さに怒りを覚えるのは初めてではないが、もどかしい。
霊夢はとにかく、それに飛び込んだ。
すると開けた青空の下に出た。足が縺れてべしゃりと地面に顔面をぶつける。
鼻が熱くなって涙が出た。
「つ~!」
どうにか立ち上がって、早苗を探す。
まだいるはずだ。あの様子じゃ大分ショックを受けているだろうが、どうしても行動してもらわなきゃいけない。
壁伝いに歩いて、角を曲がる。すると碧色の髪が翻った。
「痛ぁ!」
「あうっ!」
霊夢は尻もちをついた。前を見ると、早苗も尻もちをついていた。
「たた……あれ? 霊夢さん。どうしたんですか?」
霊夢は自分の幸運に感謝した。そして目の前の少女の奇跡を呼び込む力にも。
「早苗……!」
「顔色悪いですよ? まああんなの見た後だから当然かもしれないですけど」
「いや、ショックを受けていたのはあんた……って、もう平気なの?」
もう立ち直れないほどダメージを受けていても不思議ではなかったのに。
「えぇ当然! ちょっと吃驚しましたけど、現人神たる私に妥協の文字はないです!」
早苗はにぱっと笑った。
霊夢は驚いた。もっと脆い子だと思っていたが、真ん中にある彼女を彼女たらしめる芯が太い。
「今度はお荷物呼ばわりなんてさせませんよ」
「早苗、私あんたのことが前より好きになったわ」
霊夢は早苗を抱きしめた。こんなにも心強い子だとは。
早苗は「ふぇえ!?」と顔を赤らめた。
「そんないきなり……い、一緒のお墓に入ることから始めましょう!?」
「あんたにお願いがあるの」
必死な霊夢の表情を見て、早苗は妙な新鮮さを味わった。セクハラをしない霊夢なんて都市伝説みたいなものだと思っていたが、仕事関係になれば話は別なようだ。
というか、必死な表情は何気カッコいい。あれ? 誰この美形。
「な……何ですか?」
「里に急いで。慧音に出来るだけ大勢の人を里に避難させてって伝えて。山にある集落とかにも人が住んでるだろうし」
「解りました。あの、霊夢は?」
「私はまだやることがあるの。私に構わず急いで。お願い」
霊夢のことが気にかかる早苗であったがとにかく言われたとおりに里に急ぐことにした。
「あの、私あなたのこと誤解してました。今のあなたなら、その……交際を考えても……」
耳の遠くなった霊夢には、残念ながらそのごにょごにょとした言葉は聞こえなかった。
初めて見る早苗のしおらしい姿に「うひょう!」なテンションになってしまった霊夢はそれを遮って言った。
「早苗……一つ忘れてたわ。こっちに来て」
「はい。何でしょうか」
ドキドキと心臓を高鳴らせて早苗は霊夢に近づいた。
霊夢はにこりと笑い、おもむろに手を伸ばすと早苗の胸を揉んだ。
「さ……サナパイサナパイ、はぁはぁ……C後半……ぐひゃぁっ!!」
早苗は霊夢に肘鉄を打ち込んでから空に飛びたった。
どんな状況だろうが霊夢は霊夢。地上最強のセクハラ野郎。
まともに動けない体に鞭打って、霊夢は次に香霖堂を目指した。
あそこには頼れる兄がいるのだ。と言っても血が繋がっているわけではないが、肉親のいない霊夢は霖之助を兄のように慕っている。何より気が合うのだ。
途中魔理沙の家に寄り道し、香霖堂につく頃には夜になっていた。
「こんばんわ」
幸い明かりは点いていた。まだ避難警報を聞いていないのか、それともここを動きたくないだけか。
霖之助は書物を読みふけっていた。
「やあ、君が挨拶して入店してくれるとはね。槍でも降るのかな?」
「それに近いものならもう見たわ。それより警報聞いてないの? ここも危ないわよ」
「それなら魔理沙に聞いたよ。でも君が来るような気がしてね。待っていたんだよ。まあ動きたくないって言うのもあったけどね」
そうか、早苗はちゃんと伝えてくれたんだな。
霊夢が崩れる様に店の椅子に腰かけると、霊夢の顔を見た霖之助は顔色を変えて立ちあがった。
「だ、大丈夫かい? 顔色が悪いが……」
「大丈夫、大丈夫。ちょっと猛毒を吸って心停止しかけてるだけ。全然平気よ」
「そうか、いつも見たいに内臓が飛び出したりはしてないんだな」
「そうそう、今日は中身も全部詰まってるわ」
「何だそうか。はっはっは。……って、いやいや死ぬだろうそれでも」
霖之助は薬箱から幾つかの薬を取り出すとコップ一杯の水を汲んで来た。
「永遠亭から買ったものだから効果はあると思う。早く飲みなさい」
「出来ることなら口移しで……」
「冗談を言えるのであれば、まだ大丈夫かな」
霖之助は無理やり薬を押し込むとコップを逆さにして口に突っ込んだ。
霊夢は苦しみながらうごうごと唸って薬を飲み下した。
「げほごほ、霖之助さん、優しさはあるかしら?」
「ただいま品切れ中です。それ以外の注文は承りますが」
霊夢ははっとなって口を開いた。わざわざここを訪れたのはある物を取りに来たからである。意識がはっきりしていないのかそれすらも忘れかけていた。
「そうだ霖之助さん! いい加減掘っていい!?……あっ間違えた! お祓い棒と封魔針はある!?」
「どう間違えればそうなるんだ!?」
霖之助は奥へ走っていき、新しく新調しておいたお祓い棒と、封魔針を二十本ほど持ってきた。
「二十本で足りるかい?」
「えぇ、充分」
結界で空間ごと捻じ曲げて使うから、一本が千本にでも万本にでもなるが、スペアは多く持っておいた方がいいだろう。
神社に置いているお祓い棒を取って来るよりも、この店の方が近かったのでここを訪れたのだ。しっかり準備をしてくれている霖之助は流石だと言える。
霊夢は封魔針を布に包んで懐に入れ、お祓い棒を持って立った。
「もう行くのかい? せめて休んで行ったら」
「いま余裕なくてね、休むわけにいかないのよ」
「でもふらふらじゃないか。無理をしてはいけないよ」
「無理なんてしてないわ。心配しすぎよ」
「……そうか」
霖之助は目を伏せた。
「言っておくが、もしも君に何かあったら、僕は泣くぞ。周りから引かれるくらいに泣くぞ。その影響で唯でさえお客の少ない僕の店が破産したら、それはすなわち君のせいだ。全部君が悪い。わかっているな?」
「……霖之助さん」
「小さい頃からの付き合いじゃないか。もうちょっと僕を頼ってくれ。信用してくれ。信頼してくれ。君にとっては迷惑かも知れないが、僕は君のことを実の妹の様に――」
霖之助は恥ずかしくなったのか、口を噤んだ。
霊夢はそんな霖之助を見やって、にこりと笑った。
「何を今さら。信頼してなきゃここには来なかったわよ。結果、霖之助さんも待っててくれたし、言うことはないわ。ただ、ここからは巫女の役目。今回のはヤバいから霖之助さんも早くここから――」
「僕はここから動かないぞ」
「はぁ、もう。駄々を捏ねないでよ。貴重なイケメンがいなくなったら目の保養が出来ないじゃない」
「そんな心配をする必要はない」
霖之助はカウンターの椅子に腰かけて霊夢を見据えた。
「君がそいつを倒すと言うのなら、ここがどんなに危険だろうが関係はないだろう? 僕は自分の心配なんてしなくていいわけだ。違うかい?」
「そう言われればそうね」
霊夢は笑った。
「よっしゃ、行ってきます」
「霊夢」
霖之助は霊夢を呼びとめた。
「また二人で、女風呂を覗こうな」
霊夢はきょとんとしたが、さっきよりもやんちゃな笑みを浮かべた。
「もちろん。今度は別の穴を見つけたのよ。今度こそ絶対バレないわ」
「そうか、それは楽しみだ」
霖之助は目を細めて笑った。
「あぁそうだ。渡すの忘れてたわ。これさっき魔理沙の家から取ってきたドロワーズ。お土産に」
「あぁ、すまないねいつも。早速被ることにするよ」
「それでツケがチャラになればいいんだけど」
「馬鹿を言うんじゃない。それはきっちり払ってもらうさ」
「あはは、わかってるわよ。それじゃあ改めて――」
霊夢はドアを開けた。月の光が美しく闇を照らしていた。
しかし、それでもなお暗い闇。どこまでも続きどこまでも人を飲み込んでいきそうな、そんな途方もない闇。
その向こうで何かが動いた。
機械的で、金臭い臭いのする何かが。
霊夢は口の端を歪めて足を踏み出した。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい霊夢。気を付けて」
凛とした男の呟きは確かに少女の耳に届いた。
バタンとドアが閉められる。
霖之助はそれを見届けると、静かにドロワーズを被った。
元気をつけてやるつもりが、逆に元気づけられてしまうとは。
霖之助は苦笑して窓の外を見た。大きな満月が浮かんでいた。
あぁ、月よ。せめて出来るだけ彼女の足元を照らしてやっておくれ。何もしてやれない僕の代わりに。
そう願いながら、霖之助は目を閉じた。
――――――
時を少し遡り、霊夢がドロワーズを奪取するため血反吐を吐きそうになりながら魔理沙の家に向かっている最中、空には高速で飛行する烏天狗の姿があった。
「少し目を放した隙にどこに行ったのよ!」
文は半ばキレぎみに空を走っていた。霊夢が失踪してから半刻が立とうとしている。
動ける体じゃないはずなのに。一体どこに行ったのか。里にいたはずの早苗までもがいつの間にやらいなくなっていて、足がかりさえ掴めない。
文はとりあえず、人間の里に向かった。あの巫女が行くところは限られている。あの体じゃ神社までは遠すぎていけないだろう。天狗の里にいないと言うことは自然と人里と言うことになる。
文の推理は当たり半分外れ半分と言ったところだった。体が動くのなら、霊夢は自分でここに来ていただろうから。
里はまわりに柵を設けたり、札を貼ったりといつにない騒動になっていた。
その中で慧音はテキパキと指示を出していた。
「すみません! 慧音さん!」
慧音は驚いた様子で文を見た。
「どうしたんだ? 今回のことでも取材しに来たのか?」
「そんな場合じゃないんです! 霊夢さんが!」
ことの経緯を説明すると、慧音は唸った。
「ふむ、残念だが霊夢はここにきてはいない。代わりに東風谷の……」
「早苗さんですか!? 彼女は今どちらに!?」
「そこで手伝ってる。何気助かってるよ」
慧音が指さした先には確かに早苗がいた。数刻前に泣いていたとは思えないほど溌剌とした笑顔で柵に札を貼っていた。
「今日も元気に札貼り家業っと」
「早苗さん!」
「うぁ!? 誰かと思った文さんじゃないですか!」
「もう大丈夫なんですか? てっきり立ち直れないだろうと思っていましたが」
そう聞くと、早苗は胸を張って笑った。
「あなたまで霊夢と同じことを言うんですか。でも大丈夫! 今度はお荷物どころか主役級の活躍を見せてあげましょう! 正義は一度くらい負けるものですからね!」
文は内心驚いていた。褒める言葉も多々あったが今はそれどころではない。
「霊夢さんの居所について何か知りませんか?」
「わかりません。ただ、『まだやることがある』と」
「はぁ、まったく。動きもしない体で何を……」
早苗は怪訝そうに眉を顰めた。
「動けもしないって、ふら付いてはいましたけど自分の足で立って歩いてましたよ?」
「はぁ? そんなわけないですよ。ぐったりしてて話すのも億劫だったんですから」
「話すにも普通に話してましたよ?」
文は首を傾げた。
「じゃああれは……」
「演技じゃないですか?」
「何でそんな真似を……」
あの馬鹿がそんな器用なことを出来るはずがないと思う反面、文は何故霊夢が自分に対して演技を行ったのか理解できる部分もあった。
「今の文さん、相当焦ってるみたいですね」
「……」
「頭に血が上ると周りが見えなくなるタイプでしょう?」
「勝手に決めつけないでください」
「私でもわかるんですから、霊夢にはお見通しだったでしょうね」
文は悔しいが何も言えなかった。
「文さん、霊夢がどこに行くか見当は付きますか?」
「……里にいないなら、もう当てはありません」
早苗はくすりと笑った。
「霊夢の性格を読んでください。体はだるい、まともに動けない。しかし里以外に居を構える人間は全員里に集まっています。一部を除いてですが。さてあの変態はどこに向かうでしょう?」
「……」
「わかりませんか? だったら天狗の里の医務室で待っていたほうがいいんじゃないですか? もうすぐそこに運ばれるでしょうから」
「そんな不吉なこと言わないでください」
大体、何故あいつはそんな無茶をしているのだろうか。
人間ならまだしも、天狗の消化には数日はかかる。あと二日三日は危険はないはずだ。そんなこと、あの巫女が知らない筈もない。
なのにどうして?
……わからない。悔しいが。
ちらりと前を見ると、早苗はまた札を貼っていく作業に戻っていた。
もしや、この人は何か気が付いているのだろうか。
文はじぃっと早苗を見つめた。
早苗は見られていることに気配で感付いたのか、振り向かずに言った。
「あなたが何を考えているのか、手に取るように分かりますよ」
「……言ってみてください」
「もう二、三日は危険もないのに、どうして霊夢は無茶苦茶しているか。ですよね?」
ぴたりと当てられる。
「何も言わないってことは当たってましたか。私も椛さんから先ほどいろいろ教わったので、何となく蟲の危険度は理解しました。椛さんの話だと『迷彩ができるのか、自分たちでも容易に探せない』という話でした。そしてとても学習能力が高い、ということも」
聞き流しているうちに、文はあることを失念していたことに気付いた。
蟲の学習の力の高さ。
そこから頭が高速回転していく。
「気づきましたか? あれは今食べる必要はないんです。攫って保存して、腹が減ったら食べる。これでも言いわけですよ。私でもすぐに気付くのにあなたが気付かないなんて。それだけあなたは冷静さに欠けているんですよ。頭を冷やして出直したらどうでしょうか」
そうか、新たに攫われるものが出るという可能性があったから、霊夢は無茶をやっているんだ。
気づいたときに、文は自己嫌悪に陥った。
「……返す言葉もありません」
早苗は肩を落としている文に言った。
「よかったら、手伝ってくれませんか?」
文は早苗を見上げて、それを断ろうとした。
しかし、元々頭のいい文は最も霊夢の助けになるであろう行動を瞬時に思考し終えていた。
警戒が厳しくなった山での狩りは成功しにくい。なら、次に奴が狙ってくるのは人里だ。人里なら、幾ら警戒が厳しくなろうともさして支障はない。そういうことだろう。だから霊夢は早苗に言伝を頼んだのだ。ここは霊夢の勘を信じる。
「わかりました。手伝いましょう。あなたも夜間はここの警固に当たるのでしょう? 私もお付き合いしますよ」
「ありがとうございます。実は慧音さんと二人きりだったので心苦しかったんですよ。ほら、あの人堅物だし」
「あはは、そうですね。あの人の堅物加減は、自身の頭突きといい勝負ですよ」
「ぷっ、文さん上手い」
「……うぉ~い。聞こえてるぞ?」
不満そうにこちらを睨みつける慧音から二人は逃げだした。何故この少女が現人神として山に君臨することができたのか、文は少しわかった気がした。ベクトルこそ違うが、何処か霊夢と同じ匂いを感じさせる言動は、確かに皆を引っ張るカリスマを兼ね揃えていた。
夜。
文は早苗と二人で矢倉の上で里を見張っていた。
じっとりと重く圧し掛かる闇。
アレは椛でさえ発見が困難な敵だ。少しでも油断したら即、死に繋がる。気が付いたら首がありませんでした(笑)なんてギャグにもならない。
「慧音さんは?」
「あの人は反対側の矢倉で見張っています。ここよりは危険が少ないと思います」
「危険が少ないって言っても、あんまり変わらないんですけどね。まぁ蓬莱人が協力してくれているので大丈夫でしょう」
文は背をもたれた。
「それにしても紅魔館や永遠亭にこの情報は伝わってないんでしょうか。助けに来てくれてもいいのに」
「わかってても助けないですよ。彼女らも私ら天狗が気に食わないでしょうからね」
文は呟くように言った。
東側は札が足りたので十分強固な結界ができた。他の足りなかったところは、慧音と村人集が南側を、妹紅が西側を。
そして札が足りず一番穴の大きい北側を、文と早苗は守ることとなった。
早苗はじっと外を見やって動かない。昼間の間の抜けた雰囲気は消え失せ、射抜くような眼光がその双眸に宿っている。
本当に少し前まで外で暮らしていた外来人なのだろうか。こっちの人間でもこれだけの集中力を発揮できるものは少ないというのに。
「才能――ですかね」
思わず呟く。
聞こえたのか、早苗は文に微笑みかけた。
「そうですね。私は天才ですから」
「自分で言いますか? そういうこと」
おかしくなって、文は笑ってしまう。
早苗も口元に笑みを浮かべていた。
「文さんは、天才と優秀の違いって何だと思います?」
「……そうですね。努力しなくても人より遥かに突出できるのが天才。努力して人並み以上が優秀ですかね」
「そう思いますか? でもそれは違うんですよ」
ふわりと吹いた風に、早苗の髪が揺れた。
文は黙って早苗の話を聞いた。
「私、外にいた時、ある漫画で読んだんです。優秀とは、一から十を身につけ慢心している者のことだと」
「……では天才は?」
「天才は、一から十を身につけ、そこからさらに努力を怠らず、斜めの考えを得た者だと。ほら、だから才能の『才』には『十』に『/』線が入っているでしょう? 十を極めても慢心してはいけない。さらにその上がある。面白いですよね」
「なるほど、納得です。外の世界には哲学な漫画があるんですね」
「いえいえ、それって激熱の野球漫画で、女の子が読むものじゃなかったんですけど」
文は笑った。
「あなたって、わかってはいましたけど外でもかなり変わった方だったでしょう?」
「えぇ、何というか。周りと一緒だと嫌だというか。とにかく非常識に走りましたね。私は特別だって」
「わかりますよ、その気持ち。私もいろいろ無茶やりましたから」
思っている以上に気が合う。
文はこの少女とは仲良くやれそうだと思った。
早苗自身もそう思っているだろう。笑顔に偽りがない。
霊夢の演技を見破れなかったのは焦りと怒りで目が濁っていたからだ。元々記者であり何百年も他人を観察し続けた文の観察力と洞察力は類を見ないほどに高い。
「あなたの判断基準でいけば、霊夢は?」
「答える必要ないと思いますが、間違いなく天才ですよ」
「あははは、じゃあ私はどうですか?」
「それは貴女自身が一番よくわかっているはずです。それに幾ら才能才能言ったって、私たちはあなた達には劣りますから。生き物の種類が違いますし」
文は目を丸くした。
文が一番感嘆したのは、自分の強さを知りつつも早苗は決して慢心していないところだった。自分と周りとの差をしっかりと見極めている。
しかしその上でこちらを恐れず、対等に接してくる。どこか霊夢と似ていると疑問に思っていたが、文はようやく理解した。
周りに流されない、強い芯を持った心。それこそが霊夢と似ている点だった。
「……早苗さん、私は今まであなたを甘く見てました。これからは評価を改めましょう」
「ありがとうございます。でもやっぱりこんな話、女の子がするようなものじゃありませんね」
「じゃあ女の子っぽい話でもしましょうか? 早苗さんの好きな人、なんておいしいニュースは即新聞ですよ」
「そうですねぇ」
早苗は遠くを見るように、言った。
「あっちの世界では普通に男の子が好きだったんですけどね。こっちに来たらなんだか……」
「なんだか?」
「……いえ、やっぱり何でもないです」
「き、気になるじゃないですか。誰ですか? 教えてくださいよー」
早苗は「う~ん」と唸った。
「いえ、私も気の迷いかもしれませんし」
「気の迷い?」
「えぇ、偶に見せるギャップにやられただけかもしれませんし。それとも吊り橋効果?」
「そうですか~。きっちり心が決まったら教えてくださいね」
「えぇもちろん。それより、人ばっかで文さんはいないんですか? 好きな人」
「わ私ですか? そうですね。企業秘密です」
「何ですかそれ。もう」
「だって恥ずかしいじゃないですか」
「この話振ったのあなたですよ?」
お互いに笑いあう。
その瞬間だった。
普通の人間なら気付かないほどの、僅かな臭いが風に乗って矢倉の上を吹きぬけた。
文と早苗は同時に外の闇を睨んだ。今まであった和やかな雰囲気はもう消失していた。
「近いですね」
「えぇ、どうします? 慧音さんにも一様連絡を――」
「私は血の臭いのする方へ行ってみます。連絡は早苗さんが行ってください」
早苗はこくりと頷いて言った。
「……文さん」
「何ですか?」
「焦らないでくださいね」
「……わかってますよ」
そして二人は同時に矢倉から飛び立った。
臭いの正体に二人ともが気付いていたが、お互い何も言わなかった。
その臭いは鉄臭い、人間独特の血の臭いだった。
霊夢は初めてそれを見たとき、少々の驚きを隠せなかった。
香霖堂を出てから少し歩いた先で、満月に照らされたそいつの姿を霊夢は見た。
蟲を見るのは初めてだということもあったが、まるで精巧な蝋人形を見ているようだった。
姿形はほぼ人系。しかしその表皮は鱗のような細かな甲殻で全身を覆われており、青紫色の光沢を放っていた。
背丈は大体二メートル前後。がっちりとした体つきで首や腕、脚は太い。背を猫背気味に前のめりになって歩いていた。
気配はない。微塵も。目で見ることができないのならそこに存在することすら気づけないだろう。
そして対峙しただけでわかるその強さ。本気で、死ぬ気で今を生きてきた者だけが纏う常に背水の陣の殺気。
ぱっと見たとき、霊夢は「あ~、こりゃ多分勝てないわ」と思った。
薬で多少回復したとはいえ満身創痍には変わりなし。最高のコンディションでも恐らくはイーブン。
勝率はゼロ。多く見積もればコンマ一パーセントあるかな、くらい。
霊夢は風下からそれを観察した。
それは真っ直ぐ、里に向かって行く。幸いこちらは風下。気づかれることはない。
このまま奇襲をかければ勝率コンマ一パーセント。それ以外は死。
さて、どうしよう。
霊夢は少しの間迷い、くすりと笑った。
どう考えようが、自分がやることは一つだとわかったからだった。
奇襲をかけたって仕様がない。妖怪退治は正々堂々、お互いの力と技を比べ合うものなのだ。
例えその先に死が待っているとしても、それは巫女の力が及ばないということ。仕方ないことなのだ。
「もしもし、こんばんわ」
霊夢の声を聞いた瞬間蟲は跳ね飛んで霊夢の方に体を向けた。
恐ろしく機敏な動きだった。
「私は幻想郷の管理者で、博麗霊夢と申します」
なるべく丁寧に言ってみる。文の話では知能的に会話はできないということだったが、さて。
蟲はギリギリと唸ると、牙を剥いた。
蟲の顔は人間のそれとはかけ離れていた。目は縦に四個ずつ計八個並び、口は蜘蛛のようだった。
むろん、話が通じるとは思えない。
蟲が口からぶっと何かを吐き出した。それは弾丸のように霊夢に迫ったが、霊夢は難なくそれをお祓い棒で弾き飛ばした。
近くの草場に例の毒針が転がった。
「やっぱ通じないか。まぁいいわ。それじゃあ最後に」
霊夢は足を肩幅に開いて、左手にはお祓い棒を、右手には封魔針を握りしめた。
「管理者としてあんたの行動は見過ごせない。せっかく再誕したのに悪いけど、もう一度絶滅してもらうわ」
そう言った瞬間にはそれは地面を蹴って霊夢に迫っていた。
速い。恐ろしく速い。
霊夢は苦笑いすると、黙ってその剛腕を受けた。
ガードをすることも避けることもできなかった。
霊夢は肋骨が絶叫するのを聞きながら、数メートルも吹っ飛んで木に叩きつけられた。そのまま脱力してうつ伏せになって倒れる。後頭部が熱を持ち、歪んでいた視界が今度は霞み始めた。
「ぐっが、がはっ」
横隔膜が痙攣を起こし、呼吸もままならない。
霊夢は肺が抗議の声を上げるのを無視して立ち上がり、負けじと封魔針を投擲した。
驚くべきことに、蟲は霊夢が投げた針よりも速く移動ができるらしく、楽々とそれを避けるとまた一直線に走ってきた。
霊夢はお祓い棒を媒体に結界を張った。もう自分自身の力だけでは結界を張ることもできないくらい消耗していた。
蟲の、空間を吹っ飛ばすような剛腕が結界に食い込み、先端に付いている爪が皮膚を裂き肉を分け、肩甲骨を突き砕いて霊夢の左肩を貫通して止まった。
頭がおかしくなるほどの激痛が体中を駆け回る。傷口からは鮮やかな赤色に混じって骨髄液の赤黒色が盛り上がってくる。
「封魔陣!」
そこを狙い目だと、霊夢は思い切って今度は攻撃用の結界を発動した。
弾幕ばかりに凝り、オリジナルの術を疎かにしていた霊夢だが恙無く封魔陣は展開された。
蟲は封魔陣の展開によって、皮膚を焼かれながら弾き飛ばされた。
爪が抜けた肩からはシャワーのように血が噴き出す。生温かい液体の感触が左腕を滲んでお祓い棒まで達した。
直撃だったはずなのに、蟲は大したダメージはないのかくるりと中で一回転すると四足動物のような体制で着地した。
霊夢はそいつが低い声で「グルルルル」と唸ったのを聞いた。
焼いたはずの皮膚にダメージがない。甲殻のせいだろう。これではダメージを与えられない。
「ぶっ……げほっ……」
技をぶつけた霊夢の方に疲労が溜まり、ぶくぶくと血の泡が喉元から競り上がってきた。
もしかしたら内臓がイカれているのかもしれない。肩の方はどう考えても致命傷なので頓着しない。
続けて封魔針を放つ。これが今の霊夢では最も攻撃力の高い。
今度も避けられるかと思ったが、蟲は避けなかった。大して霊力も込められてない封魔針は蟲の甲殻を貫くことができず、全て甲殻に弾かれ地面に落ちた。
蟲は霊夢が己に遠く及ばないと知るや否や、両手の剛腕の先の四指から鋼のような爪を伸ばした。カシャンと硬い甲殻と爪が接触する音が聞こえた。
一気に決める気だろう。だらだらやっても得るものなんてないし。
「参ったわね。降参は……させてくれないか」
霊夢は仕方がないと踏切り、有りっ丈の霊力を溜めた。自分の術で最強の技――夢想天生。魔理沙に名付けられて弾幕戦型にするまでは名称すらなかった技。
相当の力を喰うが、もうこれしかなかった。
「うおぉ……!」
だらっと鼻から血が流れた。そう言えばうなじも熱い。後頭部からも出血してるのだろう。
蟲も只ならぬ雰囲気に危険を覚えたのか、さっきのように突っ込んでくることはない。
しかしあれは距離など関係ない。発動すれば終わりだ。
霊夢は更に力を溜めこむ。もう少しだ。発動まで、もう少し。
にやりと顔が弛んだ矢先に、霊夢の口と鼻から大量の血が噴き出した。それはびちびちと跳ねて足元に真っ赤な水たまりを作り、巫女服をまるでトマトスープをぶちまけたように汚した。
自分で吐き出した血の量があまりにも現実離れしていて、それをきょとんとした顔で霊夢は見詰めた。
そして毒の影響と大量出血のせいで意識が薄れる。
骨身を削って集めた力は、靄が晴れるように霧散した。
「あっく……く、くそ……」
霊夢はぐらりと一度傾いてから、崩れ落ちるように両膝を地面に落した。
全身の筋肉に力を入れてみるが、血が無駄に吹き出るだけでどこも動きはしなかった。
「ははは……まあ仕方ない、か。ごめ、ん……あ……」
霊夢は最後に乾いた笑いを漏らした。そしてがくっと脱力し沈黙した。
震える右手には、血塗れの封魔針が今なお握られ続けていた。
文は自身が思っていたより速く、蟲を発見した。
それは単純に蟲を見つけたのではない。強い血の臭いの出所がわかったからだった。
気持ちが焦る。
霊夢が心配で堪らない。あの巫女がやられる姿なんて想像ができないけど、何故か悪寒が背中を走る。
「……!」
それを見たときに、文は不思議と動じなかった。心の中で、こうなっているかもしれないとシミュレーションしきっていたからかもしれない。
紅白の巫女装束をまとった少女は蟲の腕にくの字になって抱えられていた。
「霊夢さん!」
文は霊夢を救出しようとトップスピードに入ろうとしたその時、頭の中で声がした。「焦らないでくださいね」と。
文は反射的に止まって扇を構えた。蟲の口から、ジャラッと大量の針が溢れ出た。
刹那に毒針が豪雨のように吐き出される。
「っでぇい!」
文は団扇を思いっきり横に薙いだ。
猛烈な風が起こり、毒針の進行方向をことごとく変えてそれを回避した。
そしてもう一度扇を振り切って、その風に乗って蟲へと突っ込む。
五十メートル以上の距離は、一秒を待たない内にゼロに縮まっていた。
蟲すら反応できないスピード。文はその速度に乗って、思いっきり右拳を振り切った。
ガツンッと、鉄板でも殴ったのだろうかと疑いたくなるような音が鳴り響いて、蟲は吹っ飛んだ。
「……霊夢さん!」
蟲の腕から投げ出された霊夢を文は空中で捕まえ、抱きかかえた。
ぐしょっとした水気の多い感触と、強い鉄臭さ。霊夢は「ひゅー……ひゅー……」と必死で呼吸をしていた。
鳥肌が立った。吐き気がするくらいの怒りと泣きたくなるような後悔が同時に込み上げてきた。
カタカタと腕を震わせて、文は霊夢の顔を見た。満月に照らされた霊夢の顔は青白く、死人と言われても違和感がわかないほど生気がないのに、口元からは真っ黒な液体がだらだらと流れていて、赤く染まり切っていた。
遠くで、蟲が起き上った。胸元の甲殻は砕けて陥没しており、その奥から緑色の液体が染み出してきていた。
文は不意に流れ始めた涙を拭きもせず絶叫した。
「この糞ゴミ野郎っ! 殺すっ! 殺すっ! 絶対ぶっ殺すっ!」
有りっ丈の声量に殺気を込めて叫ぶ。
蟲は文に背を向けると、今来た道を全力で戻り始めた。
文はぎりっと歯軋りすると、蟲が逃げた方と逆の方向へ駆けだした。文は冷静だった。
ここで蟲を追えば、そのまま攻め入って倒せるだろうか。
答えはノーだ。
今回は不意打ちで入ったラッキーパンチだ。もう隙は見せてくれないだろう。
なら多分、地形的に有利な奴が私を上回る。
森の中では木に阻まれて風の威力が極端に減少するし、速さを生かした突撃もできない。奴は暗闇に紛れて私を襲うこともできる。あいつには鋭い爪があるが、自分にはない。
文はぼろぼろと涙を溢れさせながら、永遠亭に向かった。
「死なないで……お願い、死なないで……」
文は幻想郷最速の足が――トップスピードは音速に近い自分の足が――こんなにも遅いものなのかと思い、喘いだ。
細い顎を伝った涙はきらきらと輝いて、霊夢の肩口の血溜まりに落ちて混ざり合った。
「これは……」
霊夢の状態を見た永琳は息を飲んだ。鈴仙は口元を押さえていた。近くで、多くのうさぎ達が血に塗れた文と霊夢を覗き見していた。
そして、永琳は早急に霊夢の体を診察し始める。
文はそれがもどかしかった。
「早く何とかして下さい! このままだと……!」
永琳は霊夢の衣類を剥ぎ取って傷や心臓と脈、内臓の動き、呼吸の音などを調べた。
そして、最後に泣きじゃくる文を冷静に見やって――ゆっくりと首を振った。
文は自分の中で何かが砕け体が一気に冷たくなるのを感じた。
「どういうことですか? 何で早く治療してくれないんですか? あなたそれでも医者ですか!? この――」
飛びかかろうとした文を鈴仙は後ろから押さえつけた。
永琳はすまなそうに、説明を始めた。
「まず、肩口の傷。骨が砕けて背中まで貫通している。大きな動脈が切断されて多量の出血があるわ。これだけでも致命傷なの。それに――」
永琳は呼吸が不安定になり始めた霊夢の腹部に手を置いた。
浮いている肋骨が歪んで鬱血し、グロテスクな青紫色に変色していた。
「ここ、物凄い圧力が加わったのね。内臓の三分の一近くが潰れて機能しなくなってる。肝臓や腎臓、膵臓、腸の半分は二度と使い物にならないの。わかる?」
「わかりません……」
聞きたくなかった。耳を押さえたかった。
しかし、永琳の透き通った声は嫌でも脳を反響した。
「この子の体は、もう死んでいるの」
「……嘘よ! そんなわけ……! こいつは冗談好きな人間だから今回も……!」
「うどんげ、霊夢にモルヒネを注射してやって。これ以上苦しまないように」
鈴仙は少しの間を置いてから「……はい」と返事を返した。
文は永琳に縋った。
「止めて! お願い何でもするから!……何でも言うこと聞くわ! 私にできることなら何だって……だから」
「無駄よ。私だって辛いけど……仕方ないわよ。人間はいずれこうなるもの。彼女はちょっとだけ早かった。それだけよ」
視界が真っ白に染まっていく。絶望の、白へと。
あれが、最後だったなんて。
天狗の里の、医務室を思い出す。
あんなつまらない会話が、最後だったなんて。
こんなことなら意地なんて張らずに、素直に言っておけばよかった。一度だけでも、言っておけばよかった。
たった一言。簡単なことだったのに。
たった一言。ものの二秒で伝えられるのに。
たった一言。それはもう二度と、霊夢の耳には入らない。
もう二度と、伝えられない――
文は蹲って泣いた。
永琳はそれを見ていることができずに、目を逸らした。
鈴仙も注射器に薄黄色の液体を吸い上げながら、文に憐みの視線を投げかけた。
「では……」
鈴仙が注射針を、霊夢の腕に刺そうと屈んだその時だった。
ガチャリと扉が開いた。
「今の話、本当でしょうね」
皆が一斉に、扉の方を見た。
文は涙でぼやけた視界に、煌びやかな色彩の――十二単を見た。
長い黒髪が、地面を流れている。
文は顔を上げた。そこには、輝夜が立っていた。
輝夜は苛立たしげに眉をひそめた。
「聞いているの? 今の話、何でもするっていうのは本当?」
「は……はい! 何でもします!」
輝夜は満足そうに笑った。
「そう。約束よ。永琳、その巫女を治しなさい」
「輝夜……無理を言わないで。これはもう死んでいます。今はロスタイムを生きているだけ。無駄です。よしんぼ助かっても内臓がほとんど機能しない体。長くは持ちま――」
「永琳、誰が言い訳をしろと言ったの? 私は治しなさいと言ってるの。言葉がわからないのかしら?」
「そんなことを言われましても……」
永琳は申し訳なさそうに、焦り混じりの声色で受け答えした。
輝夜はつまらなそうな顔で永琳を睨む。永琳はびくっと肩を震わせた。
「あなたは馬鹿かしら。何で手術や薬に凝ろうとするの? あなたにはまだ武器があるじゃない」
永琳は少し呆けてから、はっと息を飲んだ。
「……うどんげ! 手術室の準備! てゐはその本棚の真ん中右から三冊目の二百十二ページ第二十項を参考に結界を張りなさい!」
「ラジャー師匠!」
「……え!? ちょっと待ってよ、お師匠様! これって上級術の研究資料本じゃん! 私じゃ無理だよ!」
「そこのカラスに手伝ってもらいなさい! 私は別の結界式を書かなきゃいけないから!」
永琳はかなりの大きさの紙を取り出すとペンを走らせ始めた。
複雑な式が紙に描かれていく。
輝夜は皆が急ぎだすのを見てくすくすと笑った。
「皆がんばれー、ミスったら役立たずの称号をプレゼントするわよー。特に永琳、あなたにはがっかりしたわ。これ以上恥をさらすのなら永遠亭から出て行ってもらうから」
文は確かに、永琳の顔から血の気が引くのを見た。
そして永琳のペンの動きが三割増しになった。ガガガガガガガっと猛烈な筆音が聞こえてきた。
文はくいと袖をひかれた。
てゐが分厚い本を片手に、文に大きな紙とペンを突き出していた。
「早く手伝って、私じゃお師匠様におっつかないから。ほら――」
文にペンを握らせようとしたてゐが、硬直する。
「あ、あんたまでその怪我!? 一体どうしたのよ!」
文は自分の右手を見た。
人差し指と中指がぷらぷらと揺れていた。気が付かなかった。今まで。
恐らく蟲を殴り飛ばした時だろう。二本の指は完全に圧し折れていた。
痛みはないがこれではペンを持てない。
「貸しなさい」
輝夜は文の手を取った。そして、真っ直ぐに指を伸ばして整える。
思い出したように、強烈な痛みが指先を走り抜けた。
「じっとしてなさいよ。曲がってくっついても知らないから」
すると、文の指が回復し始めた。
まるでビデオの早回しのようにそれはあっという間にくっついて全快した。
文は指を曲げて伸ばした。間違いなく治っていた。幾ら妖怪は再生力が強いといっても、これは異常だった。
「一体どうやって……」
「時間を早めたのよ。ほら、治ったんならペン動かしなさい。それでも記者?」
我に返った文はペンをとると、てゐが紋様を書いている反対側にペンを付けた。
本の図形と公式を写し書く、単純な作業。
それはあっという間に終わった。今度はその紙に妖力を注ぐ。
式の文字をなぞる様に、それを光り輝いた。どうやら成功したようだ。
同時に永琳も椅子から立ち上がった。
「よっしゃ終わった! てゐ! あなたも手術室へ! あぁその紙は忘れちゃだめよ!」
「はいお師匠様!」
文を置いて、二人は奥の部屋へと走って言った。
それを追おうと文も立ち上がるが、輝夜に引きとめられてしまった。
「手術室には入れないから、ここで待ってなさい」
文は割り切れない思いを感じながら、そこに立ちつくした。
輝夜は手を叩いた。
「因幡たち。お茶とお菓子を持って来なさい」
うさぎ達はさっと身を翻して、すぐに二人分のお茶と生菓子を持ってきた。
「甘いものを食べると元気が出るのよ。食べなさい」
永琳は小さな竹製の爪楊枝で、椿を模った生菓子を半分にして口に運んだ。
文は一口でそれを飲みこんだ。甘ったるい味がした。
「もっとゆっくり食べるものよ、お菓子は」
「あの、手術じゃ無駄って、どうやって治すんですか? まさか蓬莱の秘薬――」
「そんなわけないじゃない」
輝夜はお茶をすすった。
「取りあえず魂を無理やり固定する結界で覆ってから、内臓を丸ごと培養して、その上からまた回復促進の結界を張る。そういうことよ」
「内臓を培養って……そんなの不可能ですよ。凝固した血液とか負傷部位とかいろいろ問題が」
「細かい事はわからないわよ。そんなの永琳にまかせておきなさい」
「……成功率は」
「う~ん、多分前例はないと思うけど、全体的に高等技術のオンパレードだから結構低いんじゃない?」
「そんな」
「まぁ、永琳に任せれば百パーセント大丈夫よ。永遠亭に役立たずなんて置いてないからね」
輝夜は言うと、半分残っていた生菓子を食べた。そしてお茶を啜る。
少し経つと文も大分落ち着いてきた。
渡されたお茶を――高級の玉露を飲んで、一息ついた。
「里は大騒ぎになっているんでしょう? まったく羨ましいわ」
「霊夢さんのざまを見ても、そんなことが言えますか?」
文は多少憤って言った。不謹慎にもほどがある。
「何が起こっているか、知っていますよね」
「えぇ。私と永琳、へにょりの因幡は知ってるわ。因幡は里に薬売りに行くから、その時耳にしたようね」
輝夜はお茶を啜った。
「あの馬鹿も人里にいるんでしょう?」
「え、馬鹿?」
「妹紅のことよ。弱いくせにでしゃばって二言目には『慧音』って。まったくムカつくわ」
文は輝夜の表情をよく観察した。
そして「ふふっ」っと思わず笑ってしまった。
「妬いてるんですか?」
「当たり前じゃない」
何でもなく言ってのける輝夜に文は尊敬の念が湧いた。
「それにしてもすごいですよね、輝夜さんて。あの月の頭脳をあろうことか馬鹿扱いするなんて」
「馬鹿に馬鹿と言って何が悪いの? 私はお姫様、ご主人様よ。先を見失った従者に光を与えてあげるのが主人の務め」
「そういうものですか」
「私の永琳はやればできるんだから。なまじ頭がいいと先入観ですぐ『これはダメだ』と決めつける。可能性はあるのに、それが限りなく低い事でゼロと結論付けるの。それじゃあ成長しないわ。馬鹿よ馬鹿」
輝夜は欠伸をした。
永琳が手術室に引っ込んで二時間が経っていた。
「もう十時間は掛かるでしょうね。私は寝るわ。あなたはここで祈りなさい。祈りは確かに心に届くものだから」
輝夜はそういうと廊下の奥へと歩いて言った。
一人残された文は、輝夜の言ったとおりにぎゅっと手を握り合わせた。
そして目を閉じる。
それから手術が終わるまでの八時間もの間、文は静かに黙祷を続けた。
手術が終わり出てきた永琳は疲労困憊しており、ソファに横になるなり「ぐーすかぴーすか」と寝てしまった。
同じく鈴仙とてゐもぐったりと廊下に倒れ、駆けつけてきたうさぎ達によって介抱されていた。
「あの、手術は」
文がぐったりとしているてゐに聞いた。てゐは面倒そうに言った。
「お師匠様が失敗するわけないでしょ。見て来てもいいよ。器具には触れないでね」
「いいんですか?」
「いいよ。意識は戻ってないけど、一様全快してるよ」
それを聞くと文は手術室に入った。消毒液の臭いが鼻を刺す。
霊夢は白い布に包まれており、その周りには様々な紋様や陣などが描かれていた。
その真ん中で霊夢は眠っていた。昨日見たままの寝顔だった。
もう涸れるほど流したと思っていた涙だが、また自然に溢れてきた。
今度は温かい涙だった。
そういえば、あれからまだ一日しか経っていないんだということに文は気が付いた。
たった三十分の睡眠で、永琳は全快した。
ただしてゐは自室に引き上げたし、傍に付いている鈴仙も隈がひどい。
「問題ないわ。魂が定着するまで少しの間意識がないかもしれないけど、やはり私に不可能はないわ」
「またまた、手術中に『輝夜に捨てられる、輝夜に捨てられる』って目茶苦茶必死でやり遂げたようなもんじゃ――ぶは!」
永琳のビンタが鈴仙を強襲。鈴仙は床を舐める羽目になった。
「ということはもう大丈夫ってことですよね。よかった。よかった」
文は眠っている霊夢に頬ずりしていった。
「それで、お代の方なんですけど。払える?」
「な、何とかします」
「ぶっちゃけ、あの鴉天狗が泣いて跪いて懇願するのを見れただけでお釣りが出るんだけどね」
輝夜はくすくすと笑った。
「輝夜、手術したのは私なんだけど」
「冗談。きっちり払って貰うわ。お代と、『何でもする』の両方をね」
輝夜が黒い笑みを浮かべた。文が身震いをする。
「……うぅ、もちろん。どちらも私が負担しますよ」
永琳が不思議そうに言った。
「あなたは変わり者ね。天狗と言えば昔から自己中心的で保身が第一だったのに」
「私だって保身に走りたいですよ。でも、それじゃまた後悔してしまう気がして」
「そんなに好きなのね、その巫女が。自分を投げ売ってもいいくらいに」
文は顔を赤くして、否定しようとした。だが、輝夜の全てを見透かすような黒い瞳を見た瞬間、誤魔化しは無駄だと悟った。
「……はい」
「どこに惚れたの? やっぱり顔が好いから?」
「まさか、顔だけじゃ私は堕ちませんよ」
文は今までの霊夢の言動を全て思い出して、脳内で再生させた。
奇跡的に思い出の九割がセクハラ絡みだった。恐ろしきは博麗の血。
しかし残りの一割。
それは優しさ。あるいは思いやり。誰もを平等に見据える心。
どこに自分はやられたのか、それははっきりしすぎていた。
「……凄くべたかもしれないですが――真っ直ぐな心、でしょうか」
「ぷっ」
輝夜が噴き出した。
永琳も微笑ましそうに文を見た。
「あなた良い目してるわ。ねぇ、永琳」
「えぇ、まったく」
すると、うさぎが入ってきた。
「永琳様、お客様が」
「そう、誰かしら」
「魔理沙様と……早苗様でしょうか、新しいお客さんの」
「そう。ここは私が見てるから行って来なさい。どうせ誰にも連絡してなかったんでしょ」
「はい」
「永琳も詳しく説明してきて頂戴。五月蠅いのは好きじゃないわ」
「わかりました」
文と永琳は、一緒に医務室を出た。
輝夜は妙に意味ありげな笑みを浮かべていたが、あまり気にはしなかった。
客間に行くと、早苗と魔理沙が座っていた。
「文さん! 心配したじゃないですか! 何も言わずに居なくなるなんて酷いですよ!」
「この烏! 霊夢は無事なんだろうな!?」
「すいません早苗さん! 一刻を争ったので。ところで魔理沙さんは今までどちらに?」
「私は警報聞いて、それを香霖に伝えて、それからアリスのところに待機してたぜ。里になんか入りたくないしな。それで少し経ってから、また香霖のところに行ってみたんだ。そしたら何故か私のドロワを被った香霖が『霊夢がぼろぼろになって来た』って。凄く心配したんだぜ!? さっき早苗を捕まえられなかったらと思うと私は……」
涙ぐむ魔理沙を見て、文は「あぁ、この人も私と同じ穴のムジナか」と思った。
「慧音さんと妹紅さんは?」
「二人とも蟲を追って行きました。それで霊夢さんはどうなんですか? 大丈夫ですよね?」
「えぇ、大丈夫よ。この永琳にかかれば死体一歩手前の患者も全快よ」
「よかった。あいつ無茶するからさ。血の跡みて、今度こそもうダメかって、私……」
「文さん、あそこで何があったか、後で説明して貰いますからね」
「まぁ、二人とも霊夢の様子をみたいでしょ。ついてきて」
永琳はファイルをぱらぱらと捲りながら言った。
早苗と魔理沙は永琳について行った。文もその後ろを追う。
やがて霊夢の寝転がっている医務室にたどり着いた。
「今霊夢は魂が完全に入ってない状態で、意識がないの」
ドアノブを捻って、部屋に入る。皆後に続いて部屋に入った。
永琳は相変わらずファイルに目を落としながら説明を続けた。
「意識がないってのは眠ってるのと同じなんだけど。可愛い寝顔でしょ? これから何日目で意識が戻るのか、実はよくわからないの。具合から見て多分一週間後には戻ると思うんだけど」
「なぁ、永琳」
「さっきも言ったとおり、体だけは大丈夫よ。傷も跡形もなく消えてるし。血液の量は減ったままでギリギリだけどね。結構つらい貧血にこれから少しの間悩まされるかもしれないわ」
「永琳さん」
「何にしたってあと一週間は寝てるだけだから、その間によくなるかもしれないけどね」
「輝夜さんっ!」
文はしゃりしゃりと林檎を食べている輝夜に詰めいった。
「霊夢さんは! 霊夢さんはどこですか!?」
輝夜はしょうもなさそうに笑った。永琳がファイルを落として、ばさっという音が聞こえた。
ベットの上は、もぬけの殻になっていた。
霊夢を包んだシーツだけが、その真ん中で萎びていた。
「あいつから皆に、伝言があるわよ」
輝夜は林檎を置いた。
「伝言!? 大丈夫なのか!? 重症じゃ……」
「身体的な問題はないはず……だけど、いやそんな。あり得ない。輝夜、人が悪いですよ?」
「私は何もしてないわよ、永琳」
「それで……伝言とは何でしょうか」
早苗が言った。
魔理沙もごくりと喉を鳴らす。
「あいつなんて言ったと思う?」
「何て言ったんだ!?」
「『お前ら全員嫁に来い』ですって」
口元を袖で隠し、輝夜はくすくすと笑った。
魔理沙と早苗は一瞬呆けた後、顔を真っ赤にした。
「こういう場面でもあいつはちっとも変わらないな! まったく馬鹿じゃないか!? 死にかけのくせして!」
「そうですね! なんか心配し損な気がしてきました!」
「それと、あなたによ」
輝夜は文を見た。
「心配?」
「当たり前です。いつも勝手に突っ走って、人がどれだけ心配しているのか考えたことなんてないんですよ、あの巫女は」
袖で目元を拭う文を見て、輝夜は言った。
「そういうわけでもなさそうだけどね、ふふっ」
蟲は文にやられた傷を押さえながら山の中腹まで逃げ延びた。
ここは天狗の山じゃないから大分低いが、それでも気配を殺せる自分が見つかる可能性はゼロに近い。
蟲は一息ついて、木の根元に座り込んだ。傷の具合を確認してみる。
砕けた甲殻から体液が滴っている。皮膚と違い、甲殻は再生に時間がかかる。あの鴉天狗は危険な相手だったが、追ってはこないようだった。
そのかわり、別の追手が迫ってきている。半獣の方は大したことなさそうだが、もう一方の白髪頭は危ない。これも直感ではあったが、あれと戦うのはヤバすぎると思った。
体を適当に動かしてみると、チクリと痛みが走った。見ると、右肘の甲殻の隙間に針が刺さっていた。多分あの巫女のものだろう。
それを牙で挟んで引き抜いた。渇いた血がべったりと付着したそれ。蟲はそれを口にためて、思いっきり吹き出した。自身の毒針と同じ速さをもって、それは正面の木に突き刺さった。
カッという音が夜明け間近の森に響いた。
あの巫女は危ないという感じはしなかったが、自分のより下回っている感じもしなかった。恐らく互角だったのだろう。今は生きてはいるまいが。
遠くからは自分を追い詰めるための声が聞こえてきている。
あの白髪から逃げるには、ただ逃げるだけじゃだめだ。ここはじっと動かず気配を殺し、まずは回復に努めることが先だ。
蟲はその場で、手足を折り畳んだ。そして複眼をすべて閉じる。
睡眠もとらなくては集中力が落ちる。
そして神経を研ぎ澄ませたまま、しばしの睡眠に入った。
それからどれくらい寝ただろうか。
朝日が昇った。
蟲は軋む体を起こした。声はもうしなくなっていた。どうやら別の山へ移動していったようだ。
ほっと一息つく。そしてこれからどうしようか考える。
天狗の里に行くのはもう危険だ。アレを喰えば強くなれるのだが、次は返り討ちになる可能性大。
かといって人間の里には、あの白髪がいる。こちらも返り討ちになる。
ではどうするか。
少し考えたところで妙な気配を感じた。
まるで風が変わったような、空気が違うような。そう、空間がずれた様な。
「久しぶり。今度はおはよう、かしら」
声がした。そんなわけはないと思ったが、それは確かに昨日聞いた声だった。
ザクッと空間が裂けた。その中から青と白のシマシマの布を羽織った人間が現れた。
「こんなこともあろうかと、目印付けといて正解だったわ」
見るとその空間の裂け目は木に刺さっている針を目印に作られているようだった。
しまった、と後悔するがもう遅い。
人間はふらふらと歩いて、頭を押さえた。
「うぇ、なんか凄いくらくらするわ。血が足りないのかしら。女でよかった。男だったらなんかの拍子に興奮しちゃった時、別の部分に血を取られてあっという間に気を失っちゃうもんね」
蟲は身構えた。今度は、本能が告げていた。昨日と違う。
こいつは、危ない。
人間はダンッと地面を踏みつけた。すると地面際の空間が裂けて、お祓い棒がばねの様に飛び出してきた。
それを鮮やかな手つきで捕まえ、蟲に向ける。
今度は逆の手で指をパチンと鳴らす。
次の瞬間には空中に夥しい数の札が出現して、浮かび上がった。
「今度はイーブンよ。私も本気を出すわ」
にこりと人間は笑みを浮かべる。
蟲は地面を蹴った。あっという間に人間の目の前に迫る。
そして前と同じように右腕を薙いだ。
風を切るような轟音。
しかし、おかしい。
腕には何の感触もなかった。
人間は確かに、目の前にいたはずなのに。
「こっちよ」
その声は背後から聞こえて来ていた。
人間はいつの間にか、蟲が今まで睡眠をとっていた場所に移動していた。
何が何だかわからない。
今まで確かここに――。
人間は指をまたパチンッと鳴らした。
次の瞬間、宙に浮いていた無数の札から、同じく無数の針が打ち出された。
蟲はその針の雨を諸に浴びた。
体中に重たい音が鳴り響き、切っ先が皮膚に抉り込む強烈な痛みが脳髄を叩いた。
痛みのあまり「キチッキチチッ」という牙の軋みが漏れた。
見ると、複眼の一つに針が深々と刺さっていた。そして全身がまるで、サボテンの様なさまになっている。
何とかそれを抜こうとするが針は甲殻を突き抜けあまりにも深く刺さりすぎていて、それは不可能だった。
「ギギギッ、ギッ」
蟲は毒針を吐こうと口を開けた。
人間はここから二十メーターの距離。射程圏内。
むしろ、この距離では避けられまい。近すぎる。今度は外さない。複眼の全てで人間を睨みつけた。
当たる。今度こそ逃がさない。
そう思った時には、いつの間にか棒の切っ先が口元に突きつけられていた。
じゃらりと口に毒針が補充される。後は吐くだけ。後は――。
目の前に来ていた人間が、くすりと笑う。
吐くだけ。距離は二十メーター。避けられない。避け、アレ? 二十メーター?
何で? いつの間に――?
口の中で爆発が起こった。
牙が砕けて、舌や粘膜がズタズタになる。
そこらじゅうに緑色の体液を吐き散らして、蟲は吹き飛んだ。
地面を転がり、頭を巨木に叩きつける。口の中から、砕けた牙の破片や毒針の一部が体液と一緒になって流れ落ちた。
グラつきながら立ち上がる。
目の前の人間はにっと笑った。
「さぁ、あなたも本気を出しなさい」
蟲は本能的に逃げた方がいいということを感じ取った。
しかし、同時にこれでは逃げられないということも感じ取ったので結局、臨戦態勢に入った。
それを見て人間は満足そうに微笑む。
蟲は本能で「自分はここで死ぬ」ということを悟った。
「生まれ変わったら、可愛くして私のところに来なさい。面倒見てやるわよ」
凄まじいほどの霊力が目の前の少女に宿る。
蟲は何も考えずに突っ込んだ。考えてたら死ぬ。そう思ったから。
生きるのに必死な自分と違って目の前の人間はこの殺し合いでさえも、ひどく楽しそうな顔をしていた。
―――――――
永琳と文が部屋を出ていってから、輝夜はぼそっと言った。
「起きてるんでしょう? まったく博麗というのは化け物なのかしら」
霊夢はぎくりと動いた。
「いつから目覚めてたのか知らないけど、私にはわかるわよ」
「……」
「博麗の特性かしら。流石に目覚めが早すぎるわ」
「大結界自身が私を擁護してるからね。こういう時の回復力は妖怪並みなの」
そしてむくりと起き上る。
「何でわかったの。文にも、永琳にもばれなかったのに」
「あの子はあなたのこととなると目が曇るし、永琳は自分の計算外のことには弱いからね。全部聞いてたでしょ?」
「えぇ、聞いてたわ」
「どうするの?」
「浮気を許してくれるのなら」
「馬鹿ねぇ。体は大丈夫?」
「私は昔から丈夫なのよ。それより……」
「あぁはいはい。あなたがどこに行こうと止めないわ。どうぞ行ってらっしゃい」
輝夜が笑うと、霊夢も笑った。
「後、文が負担するって言ってたお金と『何でもする』は私請け負うわ。あいつは勘弁してやって」
「あなたよりもあの天狗の方が丈夫じゃない。そういうのは女に負担させておくものよ」
「ふざけんじゃないわよ」
霊夢は憤って言った。
「女の子を働かせるとかマジ論外。綺麗な肌に傷が付いたらどうすんのよ」
「思いやりあるんだか、ただのバカなんだかわからなくなるセリフね」
「男なら、全部受け止めてやれる心意気が必要なのよ。女の子のためなら過労死したって、私は後悔しないわ」
「それであの烏がどれだけ傷ついても?」
「それは……悪いとは思ってるわよ。だけどあいつのこと考えたら、やっぱり危険なことはさせられないわ」
「罪悪感はあるのね」
「あるわよ。でもどうしたらいいかわかんないし。言ったら絶対止められるわ。天狗の力には勝てないもの」
霊夢は体を伸ばして動かして、準備体操をすると神経を集中させた。
目の前の空間に亀裂が入る。
「よーし、絶好調。それよりあんたも他人事じゃないからね」
霊夢は輝夜に詰め寄った。
「あんたみたいな美少女なんてそうそういないんだから。何れは私のものになってもらうわ」
「それは楽しみだわ」
「あと、そこに転がっているバニーちゃんもね」
「あぁ、因幡もいたのね。永琳のビンタは強烈だから」
気絶している鈴仙を指差して、輝夜はくすくすと笑った。
「ビンタで失神する軟弱者にハーレムは築けないわよ。精進させなさい」
「折角来てくれたお客様たちには何か一言ないの? 黙って行くなんて失礼だと思うけど」
「……そうね、なんか紳士的じゃないわね」
霊夢は「う~む」と考えた。
「何か一言、私が言伝してあげるわよ」
「そうね、じゃあ頼まれてくれるかしら」
霊夢は空間の亀裂の前に立って深呼吸をした。
そして振り返ると、にっと笑った。
「お前ら全員、嫁に来い」
「馬鹿丸出しだわ」
「煩いわね、あと文にも伝えてくれるかしら」
「いいわよ」
霊夢は少し躊躇ってから言った。
「……ありがとう文、大好きって。お願いするわ」
そしてすぐに隙間に飛び込んでいった。
輝夜は一人でくすくすと笑った。微かに頬が染まっていたことに気が付いたから。
ひとしきり笑った後、小腹が空いたので近くにあった林檎を手に取った。
赤く輝くそれは、上った太陽の光を受けてつやつやとした光沢を放った。
廊下の向こう側から姦しい声が響いて来るのを聞きながら、輝夜はしゃくっとそれに齧りついた。
了
文の目の前には一人の少女が布団の上に寝転がっていた。「くーかー」と暢気な寝息を立てて幸せそうな微笑みを浮かべている。薄い肌掛けがくしゃくしゃに丸まっていて、その少女の控えめな胸やすらりとしたウエストがよく見える。寝巻きが肌蹴ていたせいで臍も丸見えだった。キメ細かい肌が月明かりに映し出されて微かな光沢を放っている。
文は思わず写真を撮りそうになり、溜息をついてカメラを首にかけなおした。
普段の性格からは考えられない可愛さだ。現像した写真は高値で飛ぶように売れるのだろうが、シャッターを切れば霊夢が起きてしまう。そもそも誰にも売る気にはならないだろうが。
文は霊夢の寝顔を見つめた。霊夢の容姿はまるで人形のようだ。人工物と思えるくらいに整っている。だが違和感はなくむしろ人の目を奪って返さない様な美しさだ。
「霊夢……」
文は聞こえない様に、起こさない様にぽつりと呟く。瞬間顔が日に焼けた様に熱くなった。両手を頬に当てて、ドクドクと高鳴る鼓動を感じる。
「ん~、ふぁ、いい気持ち」
突然の言葉に文は飛び上がった。そして、それが寝言だと気が付いて冷静に呼吸を整えた。
普段はあんなんだが、やはり霊夢。微笑んだ寝顔は天使を超越する。
どんな夢を見ているんだろうと文の表情も緩む。
お風呂に入っている夢だろうか、それとも昼寝をしている夢だろうか。夢の中で寝ることなど、この能天気娘には朝飯前だろう。
文はほっと一息ついて、ここに来てよかったと思った。
今、妖怪の山ではとある事件が起きていて、文の様な平の新聞記者ですら駆り出されて調査させられるような状態なのだ。それにも関わらず全く事態は好転せず、足がかりさえない状況。忙し過ぎて最近はほとんど睡眠時間もない。それでも文はこの少女の顔を見るためにここを訪れた。貴重な休み時間を削ってまで。
少しの間見つめていると、突然霊夢の息が荒くなった。それは段々と酷くなっていく。表情も何かに耐えるように辛そうに眉を歪めている。
「はぁ、はぁっ。はっはっは……はっ」
まさか悪夢にでも繋がったのかと文は心配して覗き込む。
霊夢は小さく寝言を呟いていた。よく聞き取れないので、耳を近づける。
「は……は、そろそろ……ふふ、嫌がっても無駄無駄。ちゃんと孕ませてあげるからね。くくくくっさあさあイくわよっ」
「どんな夢見とんじゃあ!!」
まるで無防備な霊夢の顔面を、文の鉄拳が強襲する。
躊躇のない天狗の一撃。食らえば顔面にクレーターが出来上がって畳に沈み込みケチャップが撒き散らされて出来そこないのミートパイになる威力なのだが流石は博麗の巫女。拳という名の殺人兵器が鼻に触れるか触れないかの刹那に目を見開いた。
「――殺気っ!」
首を捻って、それを避ける。目標を取り逃がした文の右腕は霊夢の頭が上がっていた枕を真っ二つに引き千切って畳を粉砕して貫通した。
ズドンッと物凄い音が静かな神社にこだました。
「……」
ぱらぱらと埃が舞う寝室代りの私室で、霊夢はポカンと口を開けた。
「おはようございます、霊夢さん。お目覚めは如何ですか?」
文が額に青筋を浮かべながら訊ねる。
霊夢はだらしない表情のまま「えっ? あ、うん。中々のお手前で」と返した。
「……あれ、私の下僕は? やっと親愛が芽生えたのに。どこ?」
「夢でしょう、夢。煩悩に塗れた腐った夢を見ていたのでしょう」
というか、あの寝言を聞く限り親愛が湧いたとはとても思えないが。
霊夢はがばっと跳ね起きて自分の股間を確かめて呆然とした。
「あれ!? 私の息子がない!」
「あなたは女でしょう!」
「……え、嘘。あれ夢? まさか、あそこまでやるのにどれだけ苦労したと思ってるの?」
「知りませんよ」
「何でいいところで起こしたのよ! うっう……私の夢を返して、返してよー」
そして泣き出す。
文はやり場のない怒りと情けなさに頭を押さえた。
「あのですねー少しは自粛してくれませんか?」
「私の辞書に自粛なんて文字はないわ。そんなことより私のグレゴリータ・ゴリゴリーナ二世を返して……」
ひでぇな。それ、下僕の名前か。
「あんまりですね」
「そうよ! あんまりよ!」
「今更ですけどこの惨状見て何も思わないんですか?」
霊夢はぐちゃぐちゃになった室内を見渡した。
「慣れてるわよこれくらい。それよりこんな夜中に何の用よ。夜這いなら誘い受けって所に落ち着いてくれれば歓迎――ふぉっ!」
文の右足が空を割く。霊夢は正座したまま跳ね跳んでそれを避けた。空振った足が烈風を起こし足もとの埃を舞いあがらせて渦を巻いた。
霊夢は着地しながら呻いた。
「い今マジで殺そうとしたでしょ。私以外の連中なら死んでるわよ」
「大丈夫、あなた以外にはやりませんから」
にこりと文は笑う。
「はぁ。で、何しに来たのか言ってみなさいよ」
「それは――」
言いかけて、返答に困る。
何を代わりの理由にしようかと考えるが、焦っているためかいい案が浮かばない。
「あの、ね。その」
「何よ」
霊夢は文に歩み寄った。
「もしかして私を暗殺しに来ただけ? 全く物騒な。おちおち淫夢も見てられないわよ」
「見なきゃいいじゃないですか」
とうとう何も思いつかなかった文は真っ先にここを出ることを考えた。他人の行動なんて大して興味のわかないこいつなら、後になってもまだ覚えているなんてことはないだろう。
「私はそろそろ仕事があるんで、これで」
さっと踵を返す。
そして障子に手をかけた瞬間、静電気のようなものが指先に走った。
パチッと指を弾かれて文は反射的にそれを離した。
「痛っ。何これ?」
「ふふ、ノコノコとやってき獲物を逃がすわけないじゃない」
「な……! あなたは人としての尊厳まで捨てる気ですか!?」
「そんなもの、当の昔に捨てておるわ!」
霊夢は「くけけけけ」と笑うと文に掴みかかった。
「変態! 来るな変態!」
「はぁはぁ、堪んねぇ。いただきますっありがとうイエス様っ」
「あなたは神道でしょうがぁ!」
霊夢の右腕が文の胸を掴む。素早く一揉み二揉み。文の迎撃が来ると身を翻して触れるか触れないかのギリギリのところでそれをよけ、また懐に飛び込む。そしてまた素早く一揉み二揉み。
逃げようとする文の後ろに回り込んで今度は小さくキュートなお尻を撫でる。流石にキレかけた文の踵落としを薄皮一枚で見切って避け、今度は身を屈ませ下着を覗く。
「青と白の縞々っ」
文は愕然とする。普通に考えて天狗と人間はまともに戦えるわけがない。例えれば人間と子ネズミほどの力の差がある。それなのにこの巫女は臆せず、最善の手を持って自分を追いつめている。
信じられない。改めて、この変態の天才性を思い知らされる。
しかし、こんな天才誰も必要としてない。公害以外の何物でもない。
「く、くそっ。人間如きが調子に乗るなっ」
腰に差した扇を取るが、いつの間にか懐に飛び込んできていた霊夢が蹴りで扇をたたき落とした。
「何!?」
「ひゃあ! 柔らけぇ!」
「うぁん! ちょっと、止めっあ!」
何故無駄にテクニシャン!?
絶妙な力加減で両胸を揉みしだかれ、甘い官能が脊髄を通って脳に送りつけられる。
ここにきて文は疑問に思う。ぶっちゃけ文は霊夢に襲われてもいいわけで、むしろ何でそんなラッキーな展開に自ら抵抗しているのか。
「ふふふっこの前より一センチも大きくなってるわ。私のおかげね」
「ぐっ」
しかし理由なら分かっている。好色な者が多い天狗。文ももちろん例外ではないのだが、一様女の子である。幾らなんでもムードも何も無いこんなシチュエーションはごめんだ。大切な人とだからこそ、それは真面目に、真摯に考える。
「……あ! 障子の向こうに小野小町が!」
「何ですって!?」
「かかったなこのアホゥが!」
隙を見せた霊夢の腕を掴んで、そのまま勢いをつけて襖に張られた結界に叩き付ける。
ドガッという激突音の次にバチバチバチッ! と火花が散った。
「あびゃあぁあぁあぁあ!」
ガシャンと結界がガラスの様に割れて崩れ、霊夢は吹き飛んで夜の庭先に転がった。
「全く、手間取らせて」
文は縁側を出て、ピクピクと痙攣を続ける霊夢を見やった。
ため息を吐いて「ほっといて帰ればいいものを」と自分で呟きながら、歩み寄って霊夢を助け起こした。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫に見えるかしら?」
巫女服は所々焦げ付いて解れている。どれだけ強力な結界を張ったのやら。
「自業自得っていうんですよそれ」
文は霊夢を抱き上げた。
霊夢は感動のあまり涙を流した。
「あぁ、文。私はあんたを無理やり食べようとしたのに。何ていい奴なのかしら。しくしく、いい匂い」
「嗅がないでください」
放り捨てようかと迷ったが、結局文は寝室まで霊夢を運んだ。甘くするのはよくない、ということを一番よく分かっているのは文であったのだが。
「それにしても、本当にあなたは強い。私には気付かれずにあれだけの強度の結界を張るのは大した腕ですよ。誇ってもいい」
「私は強さよりもハーレムが欲しかったわ」
体が痛むのか、腕を庇いながら布団の上に霊夢は座り込んだ。
文は密かに「あなたがもっとまともになれば簡単に実現できるでしょうね」と思っていたが何も言わなかった。
「それで、何でここに来たの?」
まだ言うか。弱ったな。
文は一瞬だけ返答に困り、すぐにもっともらしいことを思いついた。
「実はですね、今山で奇妙な事件が起こっていまして、全く解決の糸口が見つからないんです。それで巫女たるあなたにアドバイスをもらおうとやって来たわけです」
霊夢は「ふーん」と呟いた。
「じゃあ神社に来た理由より先にそっちを聞いておくわ。それで、何が起こってるの?」
くそぅ、鋭い。
しかし事件の解決の糸口が見つからないのもまた事実。
あまり意味はないかもしれないが一様聞いてみようか。
「数日前に、とある白狼天狗が殺されました。それで犯人を追っているのですが」
「へぇ、妖怪も死ぬのね」
「えぇ。まあ珍しいことではありますね。妖怪は身体的ダメージで殺すとなるととても面倒なのですよ。頭を潰しても死なないことがありますからね。いくら低級の天狗と言っても天狗です。それを殺すとなると自然と犯人候補が狭まってくるわけではありますが」
「見つからないのね」
「……最大の候補は妖怪の山の妖怪なのですが、私が強いと判断している者は全員同盟を組んでますし、そもそもこんなことをするメリットが見つからない。天狗に喧嘩を売って何になります? 殺されたのは別に恨まれているわけでもない、極々ありきたりの白狼なのです。それなのに食いつくされたみたいに全身ぐちゃぐちゃで」
「……食いつくされた?」
「えぇ、でも私は本当に食いつくされたとは思ってません。妖怪の肉は基本不味いですし、食うなら人間ですよ。美味くて弱いですし。だから猟奇的な思考を持っている、とこちらに思わせるためのカモフラージュだと私は考えています」
霊夢は少し考え込んでから言った。
「カモフラージュじゃない、としたら?」
「……そうですね。ありえない話だと思いますが」
文はメモ帳をぱらぱらと流し読んで言った。
「もしかしたら『蟲』の仕業かもしれませんね。こいつらは食った分だけ強くなりますから手の届く範囲で最も強い白狼天狗なんかは格好の餌です」
「蟲って、私文献でしか見たことないからどれだけ強いのか分からないのよね」
「もう絶滅してしまいましたが、強い蟲は本当に強かったですよ。私も殺されかけたことがありますから」
「あんたより強いの!?」
「えぇ、私より強いのも珍しくなかったですよ。姿形は人型に近いほど知能があります。そこは個人差があるかもしれませんが、身体能力だけでも私たち並み。しかも者によっては猛毒を持っていたり鋭い爪があったり」
「化け物じゃないの」
「化け物ですよ。でも知能があるといっても会話をするまでには至りませんし。今はもう負ける気はしませんが。私が記者になる前だから何百年も前の話です」
霊夢は「へぇー」と呟くと目を輝かせた。
「あんたにも過去があるんだ。記者になる前何してたの? ストーカー?」
私に興味を持つなんて珍しいなと思いながら文は答えた。
「あなたと一緒にしないでください。真面目に組織の情報部で働いてましたよ。平和な今と違って昔は大変でしたからね」
「組織とか情報部とか聞くと痛いわね」
「やかましい」
そこで、ボーンと時計が鳴った。
文と霊夢は同時に時計を見上げた。
「あら、もう三時か」
「はぁ、五時までに情報をまとめて戻らないといけないのに。これじゃあ寝れないわ」
ふぁと欠伸をして、文は呟く。
「どうも隈が濃いと思ったら、大分休んでないでしょ?」
この暗いのによく見えるなと文は感心した。そして誰かに労わってもらえるのは久しぶりだし嬉しかった。
「休む暇なんて寝る時ぐらいです。仕事しながら新聞を書くのは大変なんですよ?」
と言っても仲間の烏天狗は全員漏れなくそんな状態なのだが。
「そう、寝る暇削って私に会いに来てくれたわけね」
一瞬呆けてから、文は取り繕う様に叫んだ。
「……! 違っ」
しかし霊夢が一枚上手のようだ。
「違わない」
焦る文を霊夢は抱きしめた。かぁっと血が顔に集まる。
文はひどく暴れたが霊夢の腕は文を放さなかった。そして静かに、文の額に唇を落とした。
キィンと文の頭の中で何かが弾けて、急に瞼が重くなる。
「なっ何を……」
「お休みなさい」
視界が暗転していく中で最後に見たのは暢気な笑顔だった。愛しく思うくらいに。温かな感触とそれだけでも催眠効果がありそうな芳香のせいで全く抵抗できず、視界を黒に染められて行く。
完全に真っ暗になった世界で、文は赤くなった顔を見られてなかったか心配になった。仕事よりも、そっちが重要だった。頭の中で「明日は満月か。それじゃ月光浴でもさせといてあげるわ」と声が響いたのを最後に意識がなくなった。
後頭部が何か柔らかいものに乗っけられているのか、やけに心地よかった。今まで使ってきたどんな枕よりも。
目を開けると、白み始めた空と淡い青色の寝巻き、少女の顔が見えた。
がばっと飛び起きて時刻を確認する。現時刻は四時半。ほっと一息。
どうやら縁側で寝ていたようだ。一時間と三十分しか寝ていないはずなのだが、妙に体が軽い。ここ数日堪っていた疲れもどこかに吹っ飛んでしまっていた。頭もすっきりしてるし視界が広い。
文は霊夢に目を移した。ずっとこうして膝枕してくれていたのだろうか。霊夢は正座したまますやすやと寝息を立てていた。
集合時間まであと三十分。急げば十分で着く。
周りを見渡すと、傍に扇と弁当箱が置いてあった。とりあえず扇を腰に差して、弁当箱を手に取った。まだ温かかった。
「……はぁ、何で変なところで献身的なのかしら」
まだ眠っている霊夢をじっと、文は見つめた。
「うへへ……私のゴリシュニツァ」
にへっと邪気のある笑みを浮かべた霊夢に文はむっとしたが、今回だけは我慢してやることにした。
「ありがとう、霊夢」
そう呟いて、文は霊夢の額に口付けた。霊夢は起きなかった。「……むぅ?」と小さく漏らしただけでそれ以上は反応しなかった。
本当は愛しさのあまり押し倒してしまいたかったが、これから仕事がある分疲れるようなことはできない。
文は微笑むと弁当を持って空に駆けだした。翼が大きくしなって、白んだ空を叩いた。
縁側に大きな風が一度だけ吹き抜け、霊夢の髪を揺らした。
高く広がる空。雲一つない晴天。涼しい風。揺れる風鈴。
文がまた一つ霊夢を好きになった日、それは、人里でも惨殺死体が発見された日だった。
――――――――
慧音に呼ばれて、その日霊夢は人里に下りた。人里近くの小屋にその男は住んでいたらしい。
「死体は?」
「せめて遺体と言ってくれ」
慧音はハンカチで口元を覆った。
「正直、あのような惨状をお前には見せたくない。巫女と言えどもお前は女で子供だ。嫌だと言うのなら、状況だけお前に伝えるが」
「気使いはいらないわ。遺体は動かしてないでしょうね」
「見れば分かると思うが、動かす動かさないの問題じゃないんだ」
里の離れの森に出ると、人が集まっていた。慧音と霊夢は人々に一礼すると奥に進んだ。
すぐに小屋は見えた。小さな家だった。
「変わった男でな、子供のころから周りから浮いていて里には基本的に干渉してこない奴だったよ。もう四十は過ぎる頃か」
生臭い臭いが漂ってきた。慧音はハンカチの下から嗚咽を漏らした。
「うぇっ。ぐ……うぷっ。ハンカチはいらないのか? 吐いても知らないぞ?」
次第に足取りを重くする慧音を置いて、霊夢は小屋の正面に立った。近くの木の幹が抉れている。そして地面も所々が抉られていた。
玄関は破壊されていて吹き抜けになっていた。その中から臭いは漂ってきている。魚の内臓の様な、苦い臭い。
霊夢は足もとに注意しながら中に入った。すぐに血溜まりを見つけた。乾いているが、波紋状に広がったそれは明らかに致死量を超えていた。そして所々に肉の破片やら、骨の欠片やらが散らばっていてまるで具たくさんのシチューをぶちまけた様だと霊夢は思った。
「……顎ね、これ」
霊夢は目の前に転がっている、黄ばんだ物がU字型に並んでいるもの指して行った。切断面はぶさぶさで骨が見える。無理やり引きちぎられたのであろう。近くにでろんと長い舌も萎びてあった。
「喰われてから一日位かしら」
「時々里の者も食われることがあるが……こんな酷いのは初めてだぞ?」
「ある分だけでもいいから、丁寧に集めて供養してあげて」
「それも本来ならお前の仕事なんだが」
「巫女はお坊さんじゃないわ。あんただったらその人も納得するわよ」
霊夢は言い終わると踵を返した。
霊夢が向かったのは山の神社だった。山の神社の風祝は境内でせっせと箒を動かしていた。
「こんにちは、早苗」
「げぇっ霊夢!」
「相変わらずいい尻ね。触らせてくれないかしら」
早苗は霊夢を見るや身構えた。
「いいじゃない! ちょっとくらい」
「嫌ですよ! もう!」
霊夢はぶーと唇を尖らせた。
早苗は身構える。
「あなた、顔はいいんですからまともになる努力をしたらどうですか? 宝の持ち腐れにもほどがありますよ?」
「私のパトスは縦横無尽!」
意味不明である。
「はぁ、もっとまともになれるなら私がお嫁さんに貰ってあげなくもないですけどね」
「え!? ちょっと今のセリフ忘れないでよ?」
「はいはい」
早苗が何か仕方ない人を見る目で霊夢を見つめる。
霊夢は今更になって「この流れじゃ話が進まん」と気が付いた。
「あんたのお尻を触りに来たってのもあるけど、今日は別件がメインなの」
「別件? というかあなた、何だか生臭いですよ」
霊夢は「あぁ、しまった」と思ったが口には出さなかった。
「魚料理をしていたのよ。今お昼じゃない」
「なんだか魚とも違うような」
「気にしない。それより、最近山で起こった事件について何か知ってる?」
「あぁ、天狗様の一人がお亡くなりになられたと」
「知ってるのね」
「えぇ、山の情報は入ってきやすいですから。というより、その犯人に八坂様と洩矢様が挙げられて事情聴取されましたからね」
早苗は箒を置くと「上がりますか?」と言った。霊夢はお言葉に甘えることにした。
卓袱台を挟んで、霊夢と早苗は向き合った。
「粗茶ですが」
霊夢はお茶を一啜りした。
「じゃあ詳しく聞かせて。どんな状態だったか」
「それが、私は見てないんですよね。現場直前に八坂様に目を塞がれてそのまま神社に強制送還されましたし」
早苗は「んー」と唸ると思いだし思い出しに語った。
「そうですね、三日四日前です。白狼の椛さんが『同僚が殺された。現場を見てほしい』ってここに来たんですよ。八坂様によると全身を食いちぎられたようだと」
「あなたは関与してる?」
「いいえ全く。基本的に妖怪のことですから、八坂様と洩矢様がことに当たっています。そういうあなたは何故それを聞きに?」
「いや、文にそれを聞かされてね。気になって」
早苗は沈黙してお茶を啜った。
すると、がたんと襖が開いた。
「東風谷様!……って何時ぞやの暴力巫女も一緒?」
入ってきた銀髪の天狗に霊夢は見覚えなかったが、可愛かったので脳内メモリーに保存しておいた。
「あら、椛さんじゃないですか。お茶でも飲みます?」
「そんな場合じゃないです! また同僚が!」
「何ですって!?」
早苗が立ち上がったのを見て、霊夢も立ちあがる。
「行きましょう! 場所は!?」
「滝の下です! 早く!」
椛に案内されて向かったのは、椛が警護している滝の下だった。
下には数名の天狗が、すでに集まっていた。
「って、人数少なくない? 大きな事件じゃないの?」
「河童は避難させてますし、みんな疲れ果ててまともに動けるのはこれだけなんです」
天狗の中には文もいた。文は霊夢を見つけると嬉しそうに走ってきた。
「霊夢さんも来たんですね。これからお呼びしようと思ってたのに」
「こんにちわおっぱい」
霊夢は言うと全く無警戒の文の胸を掴んだ。
文はピキッと青筋を立てたが、やんわりとその手を退けた。
「流石にこの状況ではダメですよ」
「そうね。ごめんなさい。それで……」
「アレなら向こうに。来てください」
文について行った先の河淵に、それはあった。
ちゃぷちゃぷと流れに揺られて、それから滲むもので川が赤く染められていた。
「椛と交代でここの警固をしていた白狼天狗です。多分。椛、顔……と言っても分からないか」
「……いえ、間違いなく彼女です。彼女の匂いがします」
椛は目を細めた。
それは霊夢が見たのと同様、いくら妖怪でも再生できないだろうと思わせることができるくらい損傷が激しい遺体だった。損傷といっても、遺体自体の量が少なくて元がどんな形かも言われてみないと分からないが。
霊夢はふむと唸った。
「霊夢さん、これはもしや本当に」
「えぇ、蟲かもね」
霊夢は何気なく早苗の方を見やった。
そして気が付く。
早苗は慣れていないのだ。こういう状況に。幼い頃からこういったものの片づけをしていた霊夢と違って。
「早苗……」
早苗は目を皿の様にして放心していた。やがて瞳孔がきゅうっと収縮するのが見えた。
「うっ……! うぇっ! ……うげぇっ!」
傍の木まで走り寄り、手をついて嘔吐した。
涙を滲ませて、膝を折るとまたげーげーと胃の中身を吐き出した。
「放っておいてあげましょう。誰でも最初はああなりますよ」
吐き終わると、震えながら泣きだした。きっとああならない為に神奈子は早苗を庇ったのだろう。「うっうっ……」という嗚咽が聞こえてくる。
「……それで、蟲が出現しているとしたら?」
「だとしたら厄介ですね。もう二匹も天狗を喰らっているのですから大分力を蓄えているかも。椛、この子はどれくらい強かったの?」
「……私と大差ありません」
「解った。あなたもここの警固から外れて貰うわ」
文が手を挙げると他の鴉天狗たちは頷いて一斉に飛び上がって行った。
「どうしたの?」
「上の者に報告を頼んだのですよ。血が乾いてないと言うことは殺されてからあまり経っていない。もしかしたらまだ近くにいるかもしれません。周囲の散策をするために一番動ける私が残ったのです。椛、そこのお荷物を連れて天狗の里に戻って下さい」
「了解しました」
椛はまだ泣いている早苗を担いで飛び立った。
霊夢は飛び立っていく二人の様子を見つめた。
今回は自分の失敗だった。外の人間がこっちの事情に慣れていないのは知っていたのに。私のミスだ。
ごめん、早苗。
そして、思わずぽつりと呟いた。
「黒と……あぁ畜生椛の方は見えないか。ガッデム」
「この状況下でも己を失わないとは見上げた根性ですね。流石に怒りますよ?」
「あーごめん。だから振り上げたその拳を収めて」
文が拳を下ろすと霊夢はほっと息を吐き出した。そしてどちらともなく歩き出す。
「ねぇ、今更昔の蟲が生まれるなんて事あるの?」
「普通に考えればありえませんが……推測でなら」
「聞かせて」
「私も専門ではないですが……劣性遺伝というのをご存知ですか?」
「美味しくないってことはわかるわ」
文はため息を吐き出した。
「要するに……エロくない人間とエロい人間に四人の子供を作らせたとしましょう。エロくない人間が優勢だとすると単純に言って、生まれてくる四人の子供は全員エロくない子供です。その中の二人にまた子供を作らせると今度は三人はエロくない子供で、一人がエロい子供になります」
「エロい子供は私ってわけね」
「その通り。エロい子供は社会不適合者なので殺しちゃいましょう。ブシュッ」
「えぇ!?」
「そんな不安そうな顔しないでください。残ったエロくない三人の子供ですが……実は、この子供たちも二代目と同様エロい遺伝子を受け継いでいるのです。この内で子供を作った場合も、エロい子供が生まれてくることがあります。かなり低い確率ですが」
「……話が見えた。つまり絶滅してない弱い蟲から、何かの拍子に強い蟲が生まれたってことね?」
「その通りです。まぁ推測の域は出ません」
文はそこかしこを眺めて回った。
鋭利なもので木の幹がざっくりと抉れていた。
「ここは危険です。あなたも退散したほうがいい」
「それがね、あんた達だけの事件じゃなくなったの」
「……と言いますと?」
「人里でも一人」
文は驚いた様子で霊夢を見た。
「昨日の今頃かしら。二日で二人食べるなんて大食いね」
「異常ですよ」
文は小石を蹴り飛ばした。
霊夢は驚いて目を見開いた。
「怒ってるの? 珍しい」
「当たり前です。山の妖怪は仲間意識が強いんです。幾ら地位が下の者とは言えそれは同じこと。家族を殺されて黙っているなんてありえません。どこまでも追いつめて絶対にぶっ殺します」
文の双眸が赤く燃え上がった。縦に収縮した鳶色の瞳が、鋭い光を放っていた。
「文……」
「私だって感情的になったりしますよ。悪いですか?」
「感情的になるのはいいけど、油断しちゃダメよ」
霊夢は文の腕を掴んで、歩みを止めた。
「……霊夢さん?」
文がそれを言い終わるか終らないかの内に、霊夢は文を強く抱きよせた。文は「むぐっ」と呻いて霊夢の胸に顔を埋められた。
出し抜けに、霊夢を囲んで結界が発動する。
「何の真似で――」
刹那に、カッというこぎみの良い音を立てて目の前にあった木が削れた。
「……は?」
「来るわよ」
木は深く深く穴が穿たれ、そこからしゅうと煙が上がっていた。
何が起きたか、文が理解するより早く、翠色の雨が降り注いだ。それは葉を刻み、木を貫通し、土を堀り上げ結界に食い込んだ。まさに弾丸の嵐だった。
ガガガガガガガガッとドリルで岩を削るような音だけが耳の中に反響し、次々と目の前の景色が変わっていった。
周りの景色がズタズタになって行くのを文は呆然と見詰めたが、霊夢はこれを放った主の方を睨んでいた。
やがて攻撃が終わると、それの気配がなくなった。
霊夢は結界を解いた。刺さっていたいくつかの針が支えを失って地面に落ちた。
「確かに今回の奴は相当ヤバいみたいね」
霊夢は笑みを浮かべながら呟く。
文は目の前に落ちた翠色の針を見つめた。粘膜の様な物に濡れているそれは小さく煙を上げていた。
「麻痺性の毒です」
医療研究系と札の下がった部屋から出てきた文は、向かいのソファに転がっている霊夢にそう言った。
「非常に強力でまともに食らえば恐らく、どんな妖怪でも動けなくなります。揮発性が高く、当たらなくてもガスを吸うだけで毒が回ります。少しだけなら平気ですが、多量に吸うと致命的ですね」
「そそそそう……わわわ私ととしたことがががゆゆゆ油断……」
「無理に喋らなくても結構です。今日は私が付いてて上げますから」
文は霊夢を担ぎ上げると医務室に運んだ。
「本当は組織の内部まで人間を連れ込むなんて前代未聞なんですからね」
「あばば……あばばばばぁ、ありがとぅ」
「……わざとやってません?」
霊夢はカタカタと震えていた。表情筋も引き攣っており、苦笑したような表情で氷付いている。色は青白い。
「さっきはあんなにかっこよかったのに、台無しですよ。お年寄りですか」
「わわわわしゃあ美少女じゃけん……」
「はいはい、面白い面白い」
文は霊夢はベットに寝せて、近くの椅子に座った。
あの時霊夢が倒れなければ文は蟲を追って行っただろう。勝てたかどうかは分からないが、何かしらの情報を得ることが出来たのも事実。
自分はこの巫女のせいで甘くなったのだろうかと疑問に思う。
「何か飲み物買ってきますよ。何がいいですか?」
「あやたんのお乳が吸いたひ」
「爆ぜますか?」
アイアンクローをかけられた霊夢は痛みのあまりガタガタと震えた。
毒で動けないのだろう。かわいそうと思う反面凄い征服感が味わえて堪らない。やはり私はS属性なのかと文は納得した。
「ポポポ……ポンジュース……」
「お茶ですね、わかりました」
文は医務室を出て行った。
バタンとドアが閉まって、気配が遠ざかる。
「ごめん、文」
それを見届けてから、霊夢は起きあがった。ぜえぜえと息をして、痺れる足を叩いて喝を入れる。
呼吸には気を付けていたのだが、思った以上に強力なようだ。手足の痺れが取れない。少しの演技じゃ怒り心頭の文を留めることが出来ないと考えた霊夢はほんの少し毒を吸ったのだが、計算違いでこのざまだ。
しかしあのまま文を追わせたら――多分文は死んでいただろうと考えると、この程度は安い代償かもしれない。一度でも文が自分から目を切ったら、もう霊夢は文に追いつくことは出来ないのだから。命あってのモノダネだ。命と引き換えの情報なんてどんなビッグニュースでも釣り合いはしない。
霊夢はおぼつかない足取りで立ち上がると、幻想空想穴を発動した。
毒の影響か、上手く術が発動しない。移動範囲はかなり狭く天狗の里も越えられないようだった。
「急がなきゃいけないのに……!」
己の非力さに怒りを覚えるのは初めてではないが、もどかしい。
霊夢はとにかく、それに飛び込んだ。
すると開けた青空の下に出た。足が縺れてべしゃりと地面に顔面をぶつける。
鼻が熱くなって涙が出た。
「つ~!」
どうにか立ち上がって、早苗を探す。
まだいるはずだ。あの様子じゃ大分ショックを受けているだろうが、どうしても行動してもらわなきゃいけない。
壁伝いに歩いて、角を曲がる。すると碧色の髪が翻った。
「痛ぁ!」
「あうっ!」
霊夢は尻もちをついた。前を見ると、早苗も尻もちをついていた。
「たた……あれ? 霊夢さん。どうしたんですか?」
霊夢は自分の幸運に感謝した。そして目の前の少女の奇跡を呼び込む力にも。
「早苗……!」
「顔色悪いですよ? まああんなの見た後だから当然かもしれないですけど」
「いや、ショックを受けていたのはあんた……って、もう平気なの?」
もう立ち直れないほどダメージを受けていても不思議ではなかったのに。
「えぇ当然! ちょっと吃驚しましたけど、現人神たる私に妥協の文字はないです!」
早苗はにぱっと笑った。
霊夢は驚いた。もっと脆い子だと思っていたが、真ん中にある彼女を彼女たらしめる芯が太い。
「今度はお荷物呼ばわりなんてさせませんよ」
「早苗、私あんたのことが前より好きになったわ」
霊夢は早苗を抱きしめた。こんなにも心強い子だとは。
早苗は「ふぇえ!?」と顔を赤らめた。
「そんないきなり……い、一緒のお墓に入ることから始めましょう!?」
「あんたにお願いがあるの」
必死な霊夢の表情を見て、早苗は妙な新鮮さを味わった。セクハラをしない霊夢なんて都市伝説みたいなものだと思っていたが、仕事関係になれば話は別なようだ。
というか、必死な表情は何気カッコいい。あれ? 誰この美形。
「な……何ですか?」
「里に急いで。慧音に出来るだけ大勢の人を里に避難させてって伝えて。山にある集落とかにも人が住んでるだろうし」
「解りました。あの、霊夢は?」
「私はまだやることがあるの。私に構わず急いで。お願い」
霊夢のことが気にかかる早苗であったがとにかく言われたとおりに里に急ぐことにした。
「あの、私あなたのこと誤解してました。今のあなたなら、その……交際を考えても……」
耳の遠くなった霊夢には、残念ながらそのごにょごにょとした言葉は聞こえなかった。
初めて見る早苗のしおらしい姿に「うひょう!」なテンションになってしまった霊夢はそれを遮って言った。
「早苗……一つ忘れてたわ。こっちに来て」
「はい。何でしょうか」
ドキドキと心臓を高鳴らせて早苗は霊夢に近づいた。
霊夢はにこりと笑い、おもむろに手を伸ばすと早苗の胸を揉んだ。
「さ……サナパイサナパイ、はぁはぁ……C後半……ぐひゃぁっ!!」
早苗は霊夢に肘鉄を打ち込んでから空に飛びたった。
どんな状況だろうが霊夢は霊夢。地上最強のセクハラ野郎。
まともに動けない体に鞭打って、霊夢は次に香霖堂を目指した。
あそこには頼れる兄がいるのだ。と言っても血が繋がっているわけではないが、肉親のいない霊夢は霖之助を兄のように慕っている。何より気が合うのだ。
途中魔理沙の家に寄り道し、香霖堂につく頃には夜になっていた。
「こんばんわ」
幸い明かりは点いていた。まだ避難警報を聞いていないのか、それともここを動きたくないだけか。
霖之助は書物を読みふけっていた。
「やあ、君が挨拶して入店してくれるとはね。槍でも降るのかな?」
「それに近いものならもう見たわ。それより警報聞いてないの? ここも危ないわよ」
「それなら魔理沙に聞いたよ。でも君が来るような気がしてね。待っていたんだよ。まあ動きたくないって言うのもあったけどね」
そうか、早苗はちゃんと伝えてくれたんだな。
霊夢が崩れる様に店の椅子に腰かけると、霊夢の顔を見た霖之助は顔色を変えて立ちあがった。
「だ、大丈夫かい? 顔色が悪いが……」
「大丈夫、大丈夫。ちょっと猛毒を吸って心停止しかけてるだけ。全然平気よ」
「そうか、いつも見たいに内臓が飛び出したりはしてないんだな」
「そうそう、今日は中身も全部詰まってるわ」
「何だそうか。はっはっは。……って、いやいや死ぬだろうそれでも」
霖之助は薬箱から幾つかの薬を取り出すとコップ一杯の水を汲んで来た。
「永遠亭から買ったものだから効果はあると思う。早く飲みなさい」
「出来ることなら口移しで……」
「冗談を言えるのであれば、まだ大丈夫かな」
霖之助は無理やり薬を押し込むとコップを逆さにして口に突っ込んだ。
霊夢は苦しみながらうごうごと唸って薬を飲み下した。
「げほごほ、霖之助さん、優しさはあるかしら?」
「ただいま品切れ中です。それ以外の注文は承りますが」
霊夢ははっとなって口を開いた。わざわざここを訪れたのはある物を取りに来たからである。意識がはっきりしていないのかそれすらも忘れかけていた。
「そうだ霖之助さん! いい加減掘っていい!?……あっ間違えた! お祓い棒と封魔針はある!?」
「どう間違えればそうなるんだ!?」
霖之助は奥へ走っていき、新しく新調しておいたお祓い棒と、封魔針を二十本ほど持ってきた。
「二十本で足りるかい?」
「えぇ、充分」
結界で空間ごと捻じ曲げて使うから、一本が千本にでも万本にでもなるが、スペアは多く持っておいた方がいいだろう。
神社に置いているお祓い棒を取って来るよりも、この店の方が近かったのでここを訪れたのだ。しっかり準備をしてくれている霖之助は流石だと言える。
霊夢は封魔針を布に包んで懐に入れ、お祓い棒を持って立った。
「もう行くのかい? せめて休んで行ったら」
「いま余裕なくてね、休むわけにいかないのよ」
「でもふらふらじゃないか。無理をしてはいけないよ」
「無理なんてしてないわ。心配しすぎよ」
「……そうか」
霖之助は目を伏せた。
「言っておくが、もしも君に何かあったら、僕は泣くぞ。周りから引かれるくらいに泣くぞ。その影響で唯でさえお客の少ない僕の店が破産したら、それはすなわち君のせいだ。全部君が悪い。わかっているな?」
「……霖之助さん」
「小さい頃からの付き合いじゃないか。もうちょっと僕を頼ってくれ。信用してくれ。信頼してくれ。君にとっては迷惑かも知れないが、僕は君のことを実の妹の様に――」
霖之助は恥ずかしくなったのか、口を噤んだ。
霊夢はそんな霖之助を見やって、にこりと笑った。
「何を今さら。信頼してなきゃここには来なかったわよ。結果、霖之助さんも待っててくれたし、言うことはないわ。ただ、ここからは巫女の役目。今回のはヤバいから霖之助さんも早くここから――」
「僕はここから動かないぞ」
「はぁ、もう。駄々を捏ねないでよ。貴重なイケメンがいなくなったら目の保養が出来ないじゃない」
「そんな心配をする必要はない」
霖之助はカウンターの椅子に腰かけて霊夢を見据えた。
「君がそいつを倒すと言うのなら、ここがどんなに危険だろうが関係はないだろう? 僕は自分の心配なんてしなくていいわけだ。違うかい?」
「そう言われればそうね」
霊夢は笑った。
「よっしゃ、行ってきます」
「霊夢」
霖之助は霊夢を呼びとめた。
「また二人で、女風呂を覗こうな」
霊夢はきょとんとしたが、さっきよりもやんちゃな笑みを浮かべた。
「もちろん。今度は別の穴を見つけたのよ。今度こそ絶対バレないわ」
「そうか、それは楽しみだ」
霖之助は目を細めて笑った。
「あぁそうだ。渡すの忘れてたわ。これさっき魔理沙の家から取ってきたドロワーズ。お土産に」
「あぁ、すまないねいつも。早速被ることにするよ」
「それでツケがチャラになればいいんだけど」
「馬鹿を言うんじゃない。それはきっちり払ってもらうさ」
「あはは、わかってるわよ。それじゃあ改めて――」
霊夢はドアを開けた。月の光が美しく闇を照らしていた。
しかし、それでもなお暗い闇。どこまでも続きどこまでも人を飲み込んでいきそうな、そんな途方もない闇。
その向こうで何かが動いた。
機械的で、金臭い臭いのする何かが。
霊夢は口の端を歪めて足を踏み出した。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい霊夢。気を付けて」
凛とした男の呟きは確かに少女の耳に届いた。
バタンとドアが閉められる。
霖之助はそれを見届けると、静かにドロワーズを被った。
元気をつけてやるつもりが、逆に元気づけられてしまうとは。
霖之助は苦笑して窓の外を見た。大きな満月が浮かんでいた。
あぁ、月よ。せめて出来るだけ彼女の足元を照らしてやっておくれ。何もしてやれない僕の代わりに。
そう願いながら、霖之助は目を閉じた。
――――――
時を少し遡り、霊夢がドロワーズを奪取するため血反吐を吐きそうになりながら魔理沙の家に向かっている最中、空には高速で飛行する烏天狗の姿があった。
「少し目を放した隙にどこに行ったのよ!」
文は半ばキレぎみに空を走っていた。霊夢が失踪してから半刻が立とうとしている。
動ける体じゃないはずなのに。一体どこに行ったのか。里にいたはずの早苗までもがいつの間にやらいなくなっていて、足がかりさえ掴めない。
文はとりあえず、人間の里に向かった。あの巫女が行くところは限られている。あの体じゃ神社までは遠すぎていけないだろう。天狗の里にいないと言うことは自然と人里と言うことになる。
文の推理は当たり半分外れ半分と言ったところだった。体が動くのなら、霊夢は自分でここに来ていただろうから。
里はまわりに柵を設けたり、札を貼ったりといつにない騒動になっていた。
その中で慧音はテキパキと指示を出していた。
「すみません! 慧音さん!」
慧音は驚いた様子で文を見た。
「どうしたんだ? 今回のことでも取材しに来たのか?」
「そんな場合じゃないんです! 霊夢さんが!」
ことの経緯を説明すると、慧音は唸った。
「ふむ、残念だが霊夢はここにきてはいない。代わりに東風谷の……」
「早苗さんですか!? 彼女は今どちらに!?」
「そこで手伝ってる。何気助かってるよ」
慧音が指さした先には確かに早苗がいた。数刻前に泣いていたとは思えないほど溌剌とした笑顔で柵に札を貼っていた。
「今日も元気に札貼り家業っと」
「早苗さん!」
「うぁ!? 誰かと思った文さんじゃないですか!」
「もう大丈夫なんですか? てっきり立ち直れないだろうと思っていましたが」
そう聞くと、早苗は胸を張って笑った。
「あなたまで霊夢と同じことを言うんですか。でも大丈夫! 今度はお荷物どころか主役級の活躍を見せてあげましょう! 正義は一度くらい負けるものですからね!」
文は内心驚いていた。褒める言葉も多々あったが今はそれどころではない。
「霊夢さんの居所について何か知りませんか?」
「わかりません。ただ、『まだやることがある』と」
「はぁ、まったく。動きもしない体で何を……」
早苗は怪訝そうに眉を顰めた。
「動けもしないって、ふら付いてはいましたけど自分の足で立って歩いてましたよ?」
「はぁ? そんなわけないですよ。ぐったりしてて話すのも億劫だったんですから」
「話すにも普通に話してましたよ?」
文は首を傾げた。
「じゃああれは……」
「演技じゃないですか?」
「何でそんな真似を……」
あの馬鹿がそんな器用なことを出来るはずがないと思う反面、文は何故霊夢が自分に対して演技を行ったのか理解できる部分もあった。
「今の文さん、相当焦ってるみたいですね」
「……」
「頭に血が上ると周りが見えなくなるタイプでしょう?」
「勝手に決めつけないでください」
「私でもわかるんですから、霊夢にはお見通しだったでしょうね」
文は悔しいが何も言えなかった。
「文さん、霊夢がどこに行くか見当は付きますか?」
「……里にいないなら、もう当てはありません」
早苗はくすりと笑った。
「霊夢の性格を読んでください。体はだるい、まともに動けない。しかし里以外に居を構える人間は全員里に集まっています。一部を除いてですが。さてあの変態はどこに向かうでしょう?」
「……」
「わかりませんか? だったら天狗の里の医務室で待っていたほうがいいんじゃないですか? もうすぐそこに運ばれるでしょうから」
「そんな不吉なこと言わないでください」
大体、何故あいつはそんな無茶をしているのだろうか。
人間ならまだしも、天狗の消化には数日はかかる。あと二日三日は危険はないはずだ。そんなこと、あの巫女が知らない筈もない。
なのにどうして?
……わからない。悔しいが。
ちらりと前を見ると、早苗はまた札を貼っていく作業に戻っていた。
もしや、この人は何か気が付いているのだろうか。
文はじぃっと早苗を見つめた。
早苗は見られていることに気配で感付いたのか、振り向かずに言った。
「あなたが何を考えているのか、手に取るように分かりますよ」
「……言ってみてください」
「もう二、三日は危険もないのに、どうして霊夢は無茶苦茶しているか。ですよね?」
ぴたりと当てられる。
「何も言わないってことは当たってましたか。私も椛さんから先ほどいろいろ教わったので、何となく蟲の危険度は理解しました。椛さんの話だと『迷彩ができるのか、自分たちでも容易に探せない』という話でした。そしてとても学習能力が高い、ということも」
聞き流しているうちに、文はあることを失念していたことに気付いた。
蟲の学習の力の高さ。
そこから頭が高速回転していく。
「気づきましたか? あれは今食べる必要はないんです。攫って保存して、腹が減ったら食べる。これでも言いわけですよ。私でもすぐに気付くのにあなたが気付かないなんて。それだけあなたは冷静さに欠けているんですよ。頭を冷やして出直したらどうでしょうか」
そうか、新たに攫われるものが出るという可能性があったから、霊夢は無茶をやっているんだ。
気づいたときに、文は自己嫌悪に陥った。
「……返す言葉もありません」
早苗は肩を落としている文に言った。
「よかったら、手伝ってくれませんか?」
文は早苗を見上げて、それを断ろうとした。
しかし、元々頭のいい文は最も霊夢の助けになるであろう行動を瞬時に思考し終えていた。
警戒が厳しくなった山での狩りは成功しにくい。なら、次に奴が狙ってくるのは人里だ。人里なら、幾ら警戒が厳しくなろうともさして支障はない。そういうことだろう。だから霊夢は早苗に言伝を頼んだのだ。ここは霊夢の勘を信じる。
「わかりました。手伝いましょう。あなたも夜間はここの警固に当たるのでしょう? 私もお付き合いしますよ」
「ありがとうございます。実は慧音さんと二人きりだったので心苦しかったんですよ。ほら、あの人堅物だし」
「あはは、そうですね。あの人の堅物加減は、自身の頭突きといい勝負ですよ」
「ぷっ、文さん上手い」
「……うぉ~い。聞こえてるぞ?」
不満そうにこちらを睨みつける慧音から二人は逃げだした。何故この少女が現人神として山に君臨することができたのか、文は少しわかった気がした。ベクトルこそ違うが、何処か霊夢と同じ匂いを感じさせる言動は、確かに皆を引っ張るカリスマを兼ね揃えていた。
夜。
文は早苗と二人で矢倉の上で里を見張っていた。
じっとりと重く圧し掛かる闇。
アレは椛でさえ発見が困難な敵だ。少しでも油断したら即、死に繋がる。気が付いたら首がありませんでした(笑)なんてギャグにもならない。
「慧音さんは?」
「あの人は反対側の矢倉で見張っています。ここよりは危険が少ないと思います」
「危険が少ないって言っても、あんまり変わらないんですけどね。まぁ蓬莱人が協力してくれているので大丈夫でしょう」
文は背をもたれた。
「それにしても紅魔館や永遠亭にこの情報は伝わってないんでしょうか。助けに来てくれてもいいのに」
「わかってても助けないですよ。彼女らも私ら天狗が気に食わないでしょうからね」
文は呟くように言った。
東側は札が足りたので十分強固な結界ができた。他の足りなかったところは、慧音と村人集が南側を、妹紅が西側を。
そして札が足りず一番穴の大きい北側を、文と早苗は守ることとなった。
早苗はじっと外を見やって動かない。昼間の間の抜けた雰囲気は消え失せ、射抜くような眼光がその双眸に宿っている。
本当に少し前まで外で暮らしていた外来人なのだろうか。こっちの人間でもこれだけの集中力を発揮できるものは少ないというのに。
「才能――ですかね」
思わず呟く。
聞こえたのか、早苗は文に微笑みかけた。
「そうですね。私は天才ですから」
「自分で言いますか? そういうこと」
おかしくなって、文は笑ってしまう。
早苗も口元に笑みを浮かべていた。
「文さんは、天才と優秀の違いって何だと思います?」
「……そうですね。努力しなくても人より遥かに突出できるのが天才。努力して人並み以上が優秀ですかね」
「そう思いますか? でもそれは違うんですよ」
ふわりと吹いた風に、早苗の髪が揺れた。
文は黙って早苗の話を聞いた。
「私、外にいた時、ある漫画で読んだんです。優秀とは、一から十を身につけ慢心している者のことだと」
「……では天才は?」
「天才は、一から十を身につけ、そこからさらに努力を怠らず、斜めの考えを得た者だと。ほら、だから才能の『才』には『十』に『/』線が入っているでしょう? 十を極めても慢心してはいけない。さらにその上がある。面白いですよね」
「なるほど、納得です。外の世界には哲学な漫画があるんですね」
「いえいえ、それって激熱の野球漫画で、女の子が読むものじゃなかったんですけど」
文は笑った。
「あなたって、わかってはいましたけど外でもかなり変わった方だったでしょう?」
「えぇ、何というか。周りと一緒だと嫌だというか。とにかく非常識に走りましたね。私は特別だって」
「わかりますよ、その気持ち。私もいろいろ無茶やりましたから」
思っている以上に気が合う。
文はこの少女とは仲良くやれそうだと思った。
早苗自身もそう思っているだろう。笑顔に偽りがない。
霊夢の演技を見破れなかったのは焦りと怒りで目が濁っていたからだ。元々記者であり何百年も他人を観察し続けた文の観察力と洞察力は類を見ないほどに高い。
「あなたの判断基準でいけば、霊夢は?」
「答える必要ないと思いますが、間違いなく天才ですよ」
「あははは、じゃあ私はどうですか?」
「それは貴女自身が一番よくわかっているはずです。それに幾ら才能才能言ったって、私たちはあなた達には劣りますから。生き物の種類が違いますし」
文は目を丸くした。
文が一番感嘆したのは、自分の強さを知りつつも早苗は決して慢心していないところだった。自分と周りとの差をしっかりと見極めている。
しかしその上でこちらを恐れず、対等に接してくる。どこか霊夢と似ていると疑問に思っていたが、文はようやく理解した。
周りに流されない、強い芯を持った心。それこそが霊夢と似ている点だった。
「……早苗さん、私は今まであなたを甘く見てました。これからは評価を改めましょう」
「ありがとうございます。でもやっぱりこんな話、女の子がするようなものじゃありませんね」
「じゃあ女の子っぽい話でもしましょうか? 早苗さんの好きな人、なんておいしいニュースは即新聞ですよ」
「そうですねぇ」
早苗は遠くを見るように、言った。
「あっちの世界では普通に男の子が好きだったんですけどね。こっちに来たらなんだか……」
「なんだか?」
「……いえ、やっぱり何でもないです」
「き、気になるじゃないですか。誰ですか? 教えてくださいよー」
早苗は「う~ん」と唸った。
「いえ、私も気の迷いかもしれませんし」
「気の迷い?」
「えぇ、偶に見せるギャップにやられただけかもしれませんし。それとも吊り橋効果?」
「そうですか~。きっちり心が決まったら教えてくださいね」
「えぇもちろん。それより、人ばっかで文さんはいないんですか? 好きな人」
「わ私ですか? そうですね。企業秘密です」
「何ですかそれ。もう」
「だって恥ずかしいじゃないですか」
「この話振ったのあなたですよ?」
お互いに笑いあう。
その瞬間だった。
普通の人間なら気付かないほどの、僅かな臭いが風に乗って矢倉の上を吹きぬけた。
文と早苗は同時に外の闇を睨んだ。今まであった和やかな雰囲気はもう消失していた。
「近いですね」
「えぇ、どうします? 慧音さんにも一様連絡を――」
「私は血の臭いのする方へ行ってみます。連絡は早苗さんが行ってください」
早苗はこくりと頷いて言った。
「……文さん」
「何ですか?」
「焦らないでくださいね」
「……わかってますよ」
そして二人は同時に矢倉から飛び立った。
臭いの正体に二人ともが気付いていたが、お互い何も言わなかった。
その臭いは鉄臭い、人間独特の血の臭いだった。
霊夢は初めてそれを見たとき、少々の驚きを隠せなかった。
香霖堂を出てから少し歩いた先で、満月に照らされたそいつの姿を霊夢は見た。
蟲を見るのは初めてだということもあったが、まるで精巧な蝋人形を見ているようだった。
姿形はほぼ人系。しかしその表皮は鱗のような細かな甲殻で全身を覆われており、青紫色の光沢を放っていた。
背丈は大体二メートル前後。がっちりとした体つきで首や腕、脚は太い。背を猫背気味に前のめりになって歩いていた。
気配はない。微塵も。目で見ることができないのならそこに存在することすら気づけないだろう。
そして対峙しただけでわかるその強さ。本気で、死ぬ気で今を生きてきた者だけが纏う常に背水の陣の殺気。
ぱっと見たとき、霊夢は「あ~、こりゃ多分勝てないわ」と思った。
薬で多少回復したとはいえ満身創痍には変わりなし。最高のコンディションでも恐らくはイーブン。
勝率はゼロ。多く見積もればコンマ一パーセントあるかな、くらい。
霊夢は風下からそれを観察した。
それは真っ直ぐ、里に向かって行く。幸いこちらは風下。気づかれることはない。
このまま奇襲をかければ勝率コンマ一パーセント。それ以外は死。
さて、どうしよう。
霊夢は少しの間迷い、くすりと笑った。
どう考えようが、自分がやることは一つだとわかったからだった。
奇襲をかけたって仕様がない。妖怪退治は正々堂々、お互いの力と技を比べ合うものなのだ。
例えその先に死が待っているとしても、それは巫女の力が及ばないということ。仕方ないことなのだ。
「もしもし、こんばんわ」
霊夢の声を聞いた瞬間蟲は跳ね飛んで霊夢の方に体を向けた。
恐ろしく機敏な動きだった。
「私は幻想郷の管理者で、博麗霊夢と申します」
なるべく丁寧に言ってみる。文の話では知能的に会話はできないということだったが、さて。
蟲はギリギリと唸ると、牙を剥いた。
蟲の顔は人間のそれとはかけ離れていた。目は縦に四個ずつ計八個並び、口は蜘蛛のようだった。
むろん、話が通じるとは思えない。
蟲が口からぶっと何かを吐き出した。それは弾丸のように霊夢に迫ったが、霊夢は難なくそれをお祓い棒で弾き飛ばした。
近くの草場に例の毒針が転がった。
「やっぱ通じないか。まぁいいわ。それじゃあ最後に」
霊夢は足を肩幅に開いて、左手にはお祓い棒を、右手には封魔針を握りしめた。
「管理者としてあんたの行動は見過ごせない。せっかく再誕したのに悪いけど、もう一度絶滅してもらうわ」
そう言った瞬間にはそれは地面を蹴って霊夢に迫っていた。
速い。恐ろしく速い。
霊夢は苦笑いすると、黙ってその剛腕を受けた。
ガードをすることも避けることもできなかった。
霊夢は肋骨が絶叫するのを聞きながら、数メートルも吹っ飛んで木に叩きつけられた。そのまま脱力してうつ伏せになって倒れる。後頭部が熱を持ち、歪んでいた視界が今度は霞み始めた。
「ぐっが、がはっ」
横隔膜が痙攣を起こし、呼吸もままならない。
霊夢は肺が抗議の声を上げるのを無視して立ち上がり、負けじと封魔針を投擲した。
驚くべきことに、蟲は霊夢が投げた針よりも速く移動ができるらしく、楽々とそれを避けるとまた一直線に走ってきた。
霊夢はお祓い棒を媒体に結界を張った。もう自分自身の力だけでは結界を張ることもできないくらい消耗していた。
蟲の、空間を吹っ飛ばすような剛腕が結界に食い込み、先端に付いている爪が皮膚を裂き肉を分け、肩甲骨を突き砕いて霊夢の左肩を貫通して止まった。
頭がおかしくなるほどの激痛が体中を駆け回る。傷口からは鮮やかな赤色に混じって骨髄液の赤黒色が盛り上がってくる。
「封魔陣!」
そこを狙い目だと、霊夢は思い切って今度は攻撃用の結界を発動した。
弾幕ばかりに凝り、オリジナルの術を疎かにしていた霊夢だが恙無く封魔陣は展開された。
蟲は封魔陣の展開によって、皮膚を焼かれながら弾き飛ばされた。
爪が抜けた肩からはシャワーのように血が噴き出す。生温かい液体の感触が左腕を滲んでお祓い棒まで達した。
直撃だったはずなのに、蟲は大したダメージはないのかくるりと中で一回転すると四足動物のような体制で着地した。
霊夢はそいつが低い声で「グルルルル」と唸ったのを聞いた。
焼いたはずの皮膚にダメージがない。甲殻のせいだろう。これではダメージを与えられない。
「ぶっ……げほっ……」
技をぶつけた霊夢の方に疲労が溜まり、ぶくぶくと血の泡が喉元から競り上がってきた。
もしかしたら内臓がイカれているのかもしれない。肩の方はどう考えても致命傷なので頓着しない。
続けて封魔針を放つ。これが今の霊夢では最も攻撃力の高い。
今度も避けられるかと思ったが、蟲は避けなかった。大して霊力も込められてない封魔針は蟲の甲殻を貫くことができず、全て甲殻に弾かれ地面に落ちた。
蟲は霊夢が己に遠く及ばないと知るや否や、両手の剛腕の先の四指から鋼のような爪を伸ばした。カシャンと硬い甲殻と爪が接触する音が聞こえた。
一気に決める気だろう。だらだらやっても得るものなんてないし。
「参ったわね。降参は……させてくれないか」
霊夢は仕方がないと踏切り、有りっ丈の霊力を溜めた。自分の術で最強の技――夢想天生。魔理沙に名付けられて弾幕戦型にするまでは名称すらなかった技。
相当の力を喰うが、もうこれしかなかった。
「うおぉ……!」
だらっと鼻から血が流れた。そう言えばうなじも熱い。後頭部からも出血してるのだろう。
蟲も只ならぬ雰囲気に危険を覚えたのか、さっきのように突っ込んでくることはない。
しかしあれは距離など関係ない。発動すれば終わりだ。
霊夢は更に力を溜めこむ。もう少しだ。発動まで、もう少し。
にやりと顔が弛んだ矢先に、霊夢の口と鼻から大量の血が噴き出した。それはびちびちと跳ねて足元に真っ赤な水たまりを作り、巫女服をまるでトマトスープをぶちまけたように汚した。
自分で吐き出した血の量があまりにも現実離れしていて、それをきょとんとした顔で霊夢は見詰めた。
そして毒の影響と大量出血のせいで意識が薄れる。
骨身を削って集めた力は、靄が晴れるように霧散した。
「あっく……く、くそ……」
霊夢はぐらりと一度傾いてから、崩れ落ちるように両膝を地面に落した。
全身の筋肉に力を入れてみるが、血が無駄に吹き出るだけでどこも動きはしなかった。
「ははは……まあ仕方ない、か。ごめ、ん……あ……」
霊夢は最後に乾いた笑いを漏らした。そしてがくっと脱力し沈黙した。
震える右手には、血塗れの封魔針が今なお握られ続けていた。
文は自身が思っていたより速く、蟲を発見した。
それは単純に蟲を見つけたのではない。強い血の臭いの出所がわかったからだった。
気持ちが焦る。
霊夢が心配で堪らない。あの巫女がやられる姿なんて想像ができないけど、何故か悪寒が背中を走る。
「……!」
それを見たときに、文は不思議と動じなかった。心の中で、こうなっているかもしれないとシミュレーションしきっていたからかもしれない。
紅白の巫女装束をまとった少女は蟲の腕にくの字になって抱えられていた。
「霊夢さん!」
文は霊夢を救出しようとトップスピードに入ろうとしたその時、頭の中で声がした。「焦らないでくださいね」と。
文は反射的に止まって扇を構えた。蟲の口から、ジャラッと大量の針が溢れ出た。
刹那に毒針が豪雨のように吐き出される。
「っでぇい!」
文は団扇を思いっきり横に薙いだ。
猛烈な風が起こり、毒針の進行方向をことごとく変えてそれを回避した。
そしてもう一度扇を振り切って、その風に乗って蟲へと突っ込む。
五十メートル以上の距離は、一秒を待たない内にゼロに縮まっていた。
蟲すら反応できないスピード。文はその速度に乗って、思いっきり右拳を振り切った。
ガツンッと、鉄板でも殴ったのだろうかと疑いたくなるような音が鳴り響いて、蟲は吹っ飛んだ。
「……霊夢さん!」
蟲の腕から投げ出された霊夢を文は空中で捕まえ、抱きかかえた。
ぐしょっとした水気の多い感触と、強い鉄臭さ。霊夢は「ひゅー……ひゅー……」と必死で呼吸をしていた。
鳥肌が立った。吐き気がするくらいの怒りと泣きたくなるような後悔が同時に込み上げてきた。
カタカタと腕を震わせて、文は霊夢の顔を見た。満月に照らされた霊夢の顔は青白く、死人と言われても違和感がわかないほど生気がないのに、口元からは真っ黒な液体がだらだらと流れていて、赤く染まり切っていた。
遠くで、蟲が起き上った。胸元の甲殻は砕けて陥没しており、その奥から緑色の液体が染み出してきていた。
文は不意に流れ始めた涙を拭きもせず絶叫した。
「この糞ゴミ野郎っ! 殺すっ! 殺すっ! 絶対ぶっ殺すっ!」
有りっ丈の声量に殺気を込めて叫ぶ。
蟲は文に背を向けると、今来た道を全力で戻り始めた。
文はぎりっと歯軋りすると、蟲が逃げた方と逆の方向へ駆けだした。文は冷静だった。
ここで蟲を追えば、そのまま攻め入って倒せるだろうか。
答えはノーだ。
今回は不意打ちで入ったラッキーパンチだ。もう隙は見せてくれないだろう。
なら多分、地形的に有利な奴が私を上回る。
森の中では木に阻まれて風の威力が極端に減少するし、速さを生かした突撃もできない。奴は暗闇に紛れて私を襲うこともできる。あいつには鋭い爪があるが、自分にはない。
文はぼろぼろと涙を溢れさせながら、永遠亭に向かった。
「死なないで……お願い、死なないで……」
文は幻想郷最速の足が――トップスピードは音速に近い自分の足が――こんなにも遅いものなのかと思い、喘いだ。
細い顎を伝った涙はきらきらと輝いて、霊夢の肩口の血溜まりに落ちて混ざり合った。
「これは……」
霊夢の状態を見た永琳は息を飲んだ。鈴仙は口元を押さえていた。近くで、多くのうさぎ達が血に塗れた文と霊夢を覗き見していた。
そして、永琳は早急に霊夢の体を診察し始める。
文はそれがもどかしかった。
「早く何とかして下さい! このままだと……!」
永琳は霊夢の衣類を剥ぎ取って傷や心臓と脈、内臓の動き、呼吸の音などを調べた。
そして、最後に泣きじゃくる文を冷静に見やって――ゆっくりと首を振った。
文は自分の中で何かが砕け体が一気に冷たくなるのを感じた。
「どういうことですか? 何で早く治療してくれないんですか? あなたそれでも医者ですか!? この――」
飛びかかろうとした文を鈴仙は後ろから押さえつけた。
永琳はすまなそうに、説明を始めた。
「まず、肩口の傷。骨が砕けて背中まで貫通している。大きな動脈が切断されて多量の出血があるわ。これだけでも致命傷なの。それに――」
永琳は呼吸が不安定になり始めた霊夢の腹部に手を置いた。
浮いている肋骨が歪んで鬱血し、グロテスクな青紫色に変色していた。
「ここ、物凄い圧力が加わったのね。内臓の三分の一近くが潰れて機能しなくなってる。肝臓や腎臓、膵臓、腸の半分は二度と使い物にならないの。わかる?」
「わかりません……」
聞きたくなかった。耳を押さえたかった。
しかし、永琳の透き通った声は嫌でも脳を反響した。
「この子の体は、もう死んでいるの」
「……嘘よ! そんなわけ……! こいつは冗談好きな人間だから今回も……!」
「うどんげ、霊夢にモルヒネを注射してやって。これ以上苦しまないように」
鈴仙は少しの間を置いてから「……はい」と返事を返した。
文は永琳に縋った。
「止めて! お願い何でもするから!……何でも言うこと聞くわ! 私にできることなら何だって……だから」
「無駄よ。私だって辛いけど……仕方ないわよ。人間はいずれこうなるもの。彼女はちょっとだけ早かった。それだけよ」
視界が真っ白に染まっていく。絶望の、白へと。
あれが、最後だったなんて。
天狗の里の、医務室を思い出す。
あんなつまらない会話が、最後だったなんて。
こんなことなら意地なんて張らずに、素直に言っておけばよかった。一度だけでも、言っておけばよかった。
たった一言。簡単なことだったのに。
たった一言。ものの二秒で伝えられるのに。
たった一言。それはもう二度と、霊夢の耳には入らない。
もう二度と、伝えられない――
文は蹲って泣いた。
永琳はそれを見ていることができずに、目を逸らした。
鈴仙も注射器に薄黄色の液体を吸い上げながら、文に憐みの視線を投げかけた。
「では……」
鈴仙が注射針を、霊夢の腕に刺そうと屈んだその時だった。
ガチャリと扉が開いた。
「今の話、本当でしょうね」
皆が一斉に、扉の方を見た。
文は涙でぼやけた視界に、煌びやかな色彩の――十二単を見た。
長い黒髪が、地面を流れている。
文は顔を上げた。そこには、輝夜が立っていた。
輝夜は苛立たしげに眉をひそめた。
「聞いているの? 今の話、何でもするっていうのは本当?」
「は……はい! 何でもします!」
輝夜は満足そうに笑った。
「そう。約束よ。永琳、その巫女を治しなさい」
「輝夜……無理を言わないで。これはもう死んでいます。今はロスタイムを生きているだけ。無駄です。よしんぼ助かっても内臓がほとんど機能しない体。長くは持ちま――」
「永琳、誰が言い訳をしろと言ったの? 私は治しなさいと言ってるの。言葉がわからないのかしら?」
「そんなことを言われましても……」
永琳は申し訳なさそうに、焦り混じりの声色で受け答えした。
輝夜はつまらなそうな顔で永琳を睨む。永琳はびくっと肩を震わせた。
「あなたは馬鹿かしら。何で手術や薬に凝ろうとするの? あなたにはまだ武器があるじゃない」
永琳は少し呆けてから、はっと息を飲んだ。
「……うどんげ! 手術室の準備! てゐはその本棚の真ん中右から三冊目の二百十二ページ第二十項を参考に結界を張りなさい!」
「ラジャー師匠!」
「……え!? ちょっと待ってよ、お師匠様! これって上級術の研究資料本じゃん! 私じゃ無理だよ!」
「そこのカラスに手伝ってもらいなさい! 私は別の結界式を書かなきゃいけないから!」
永琳はかなりの大きさの紙を取り出すとペンを走らせ始めた。
複雑な式が紙に描かれていく。
輝夜は皆が急ぎだすのを見てくすくすと笑った。
「皆がんばれー、ミスったら役立たずの称号をプレゼントするわよー。特に永琳、あなたにはがっかりしたわ。これ以上恥をさらすのなら永遠亭から出て行ってもらうから」
文は確かに、永琳の顔から血の気が引くのを見た。
そして永琳のペンの動きが三割増しになった。ガガガガガガガっと猛烈な筆音が聞こえてきた。
文はくいと袖をひかれた。
てゐが分厚い本を片手に、文に大きな紙とペンを突き出していた。
「早く手伝って、私じゃお師匠様におっつかないから。ほら――」
文にペンを握らせようとしたてゐが、硬直する。
「あ、あんたまでその怪我!? 一体どうしたのよ!」
文は自分の右手を見た。
人差し指と中指がぷらぷらと揺れていた。気が付かなかった。今まで。
恐らく蟲を殴り飛ばした時だろう。二本の指は完全に圧し折れていた。
痛みはないがこれではペンを持てない。
「貸しなさい」
輝夜は文の手を取った。そして、真っ直ぐに指を伸ばして整える。
思い出したように、強烈な痛みが指先を走り抜けた。
「じっとしてなさいよ。曲がってくっついても知らないから」
すると、文の指が回復し始めた。
まるでビデオの早回しのようにそれはあっという間にくっついて全快した。
文は指を曲げて伸ばした。間違いなく治っていた。幾ら妖怪は再生力が強いといっても、これは異常だった。
「一体どうやって……」
「時間を早めたのよ。ほら、治ったんならペン動かしなさい。それでも記者?」
我に返った文はペンをとると、てゐが紋様を書いている反対側にペンを付けた。
本の図形と公式を写し書く、単純な作業。
それはあっという間に終わった。今度はその紙に妖力を注ぐ。
式の文字をなぞる様に、それを光り輝いた。どうやら成功したようだ。
同時に永琳も椅子から立ち上がった。
「よっしゃ終わった! てゐ! あなたも手術室へ! あぁその紙は忘れちゃだめよ!」
「はいお師匠様!」
文を置いて、二人は奥の部屋へと走って言った。
それを追おうと文も立ち上がるが、輝夜に引きとめられてしまった。
「手術室には入れないから、ここで待ってなさい」
文は割り切れない思いを感じながら、そこに立ちつくした。
輝夜は手を叩いた。
「因幡たち。お茶とお菓子を持って来なさい」
うさぎ達はさっと身を翻して、すぐに二人分のお茶と生菓子を持ってきた。
「甘いものを食べると元気が出るのよ。食べなさい」
永琳は小さな竹製の爪楊枝で、椿を模った生菓子を半分にして口に運んだ。
文は一口でそれを飲みこんだ。甘ったるい味がした。
「もっとゆっくり食べるものよ、お菓子は」
「あの、手術じゃ無駄って、どうやって治すんですか? まさか蓬莱の秘薬――」
「そんなわけないじゃない」
輝夜はお茶をすすった。
「取りあえず魂を無理やり固定する結界で覆ってから、内臓を丸ごと培養して、その上からまた回復促進の結界を張る。そういうことよ」
「内臓を培養って……そんなの不可能ですよ。凝固した血液とか負傷部位とかいろいろ問題が」
「細かい事はわからないわよ。そんなの永琳にまかせておきなさい」
「……成功率は」
「う~ん、多分前例はないと思うけど、全体的に高等技術のオンパレードだから結構低いんじゃない?」
「そんな」
「まぁ、永琳に任せれば百パーセント大丈夫よ。永遠亭に役立たずなんて置いてないからね」
輝夜は言うと、半分残っていた生菓子を食べた。そしてお茶を啜る。
少し経つと文も大分落ち着いてきた。
渡されたお茶を――高級の玉露を飲んで、一息ついた。
「里は大騒ぎになっているんでしょう? まったく羨ましいわ」
「霊夢さんのざまを見ても、そんなことが言えますか?」
文は多少憤って言った。不謹慎にもほどがある。
「何が起こっているか、知っていますよね」
「えぇ。私と永琳、へにょりの因幡は知ってるわ。因幡は里に薬売りに行くから、その時耳にしたようね」
輝夜はお茶を啜った。
「あの馬鹿も人里にいるんでしょう?」
「え、馬鹿?」
「妹紅のことよ。弱いくせにでしゃばって二言目には『慧音』って。まったくムカつくわ」
文は輝夜の表情をよく観察した。
そして「ふふっ」っと思わず笑ってしまった。
「妬いてるんですか?」
「当たり前じゃない」
何でもなく言ってのける輝夜に文は尊敬の念が湧いた。
「それにしてもすごいですよね、輝夜さんて。あの月の頭脳をあろうことか馬鹿扱いするなんて」
「馬鹿に馬鹿と言って何が悪いの? 私はお姫様、ご主人様よ。先を見失った従者に光を与えてあげるのが主人の務め」
「そういうものですか」
「私の永琳はやればできるんだから。なまじ頭がいいと先入観ですぐ『これはダメだ』と決めつける。可能性はあるのに、それが限りなく低い事でゼロと結論付けるの。それじゃあ成長しないわ。馬鹿よ馬鹿」
輝夜は欠伸をした。
永琳が手術室に引っ込んで二時間が経っていた。
「もう十時間は掛かるでしょうね。私は寝るわ。あなたはここで祈りなさい。祈りは確かに心に届くものだから」
輝夜はそういうと廊下の奥へと歩いて言った。
一人残された文は、輝夜の言ったとおりにぎゅっと手を握り合わせた。
そして目を閉じる。
それから手術が終わるまでの八時間もの間、文は静かに黙祷を続けた。
手術が終わり出てきた永琳は疲労困憊しており、ソファに横になるなり「ぐーすかぴーすか」と寝てしまった。
同じく鈴仙とてゐもぐったりと廊下に倒れ、駆けつけてきたうさぎ達によって介抱されていた。
「あの、手術は」
文がぐったりとしているてゐに聞いた。てゐは面倒そうに言った。
「お師匠様が失敗するわけないでしょ。見て来てもいいよ。器具には触れないでね」
「いいんですか?」
「いいよ。意識は戻ってないけど、一様全快してるよ」
それを聞くと文は手術室に入った。消毒液の臭いが鼻を刺す。
霊夢は白い布に包まれており、その周りには様々な紋様や陣などが描かれていた。
その真ん中で霊夢は眠っていた。昨日見たままの寝顔だった。
もう涸れるほど流したと思っていた涙だが、また自然に溢れてきた。
今度は温かい涙だった。
そういえば、あれからまだ一日しか経っていないんだということに文は気が付いた。
たった三十分の睡眠で、永琳は全快した。
ただしてゐは自室に引き上げたし、傍に付いている鈴仙も隈がひどい。
「問題ないわ。魂が定着するまで少しの間意識がないかもしれないけど、やはり私に不可能はないわ」
「またまた、手術中に『輝夜に捨てられる、輝夜に捨てられる』って目茶苦茶必死でやり遂げたようなもんじゃ――ぶは!」
永琳のビンタが鈴仙を強襲。鈴仙は床を舐める羽目になった。
「ということはもう大丈夫ってことですよね。よかった。よかった」
文は眠っている霊夢に頬ずりしていった。
「それで、お代の方なんですけど。払える?」
「な、何とかします」
「ぶっちゃけ、あの鴉天狗が泣いて跪いて懇願するのを見れただけでお釣りが出るんだけどね」
輝夜はくすくすと笑った。
「輝夜、手術したのは私なんだけど」
「冗談。きっちり払って貰うわ。お代と、『何でもする』の両方をね」
輝夜が黒い笑みを浮かべた。文が身震いをする。
「……うぅ、もちろん。どちらも私が負担しますよ」
永琳が不思議そうに言った。
「あなたは変わり者ね。天狗と言えば昔から自己中心的で保身が第一だったのに」
「私だって保身に走りたいですよ。でも、それじゃまた後悔してしまう気がして」
「そんなに好きなのね、その巫女が。自分を投げ売ってもいいくらいに」
文は顔を赤くして、否定しようとした。だが、輝夜の全てを見透かすような黒い瞳を見た瞬間、誤魔化しは無駄だと悟った。
「……はい」
「どこに惚れたの? やっぱり顔が好いから?」
「まさか、顔だけじゃ私は堕ちませんよ」
文は今までの霊夢の言動を全て思い出して、脳内で再生させた。
奇跡的に思い出の九割がセクハラ絡みだった。恐ろしきは博麗の血。
しかし残りの一割。
それは優しさ。あるいは思いやり。誰もを平等に見据える心。
どこに自分はやられたのか、それははっきりしすぎていた。
「……凄くべたかもしれないですが――真っ直ぐな心、でしょうか」
「ぷっ」
輝夜が噴き出した。
永琳も微笑ましそうに文を見た。
「あなた良い目してるわ。ねぇ、永琳」
「えぇ、まったく」
すると、うさぎが入ってきた。
「永琳様、お客様が」
「そう、誰かしら」
「魔理沙様と……早苗様でしょうか、新しいお客さんの」
「そう。ここは私が見てるから行って来なさい。どうせ誰にも連絡してなかったんでしょ」
「はい」
「永琳も詳しく説明してきて頂戴。五月蠅いのは好きじゃないわ」
「わかりました」
文と永琳は、一緒に医務室を出た。
輝夜は妙に意味ありげな笑みを浮かべていたが、あまり気にはしなかった。
客間に行くと、早苗と魔理沙が座っていた。
「文さん! 心配したじゃないですか! 何も言わずに居なくなるなんて酷いですよ!」
「この烏! 霊夢は無事なんだろうな!?」
「すいません早苗さん! 一刻を争ったので。ところで魔理沙さんは今までどちらに?」
「私は警報聞いて、それを香霖に伝えて、それからアリスのところに待機してたぜ。里になんか入りたくないしな。それで少し経ってから、また香霖のところに行ってみたんだ。そしたら何故か私のドロワを被った香霖が『霊夢がぼろぼろになって来た』って。凄く心配したんだぜ!? さっき早苗を捕まえられなかったらと思うと私は……」
涙ぐむ魔理沙を見て、文は「あぁ、この人も私と同じ穴のムジナか」と思った。
「慧音さんと妹紅さんは?」
「二人とも蟲を追って行きました。それで霊夢さんはどうなんですか? 大丈夫ですよね?」
「えぇ、大丈夫よ。この永琳にかかれば死体一歩手前の患者も全快よ」
「よかった。あいつ無茶するからさ。血の跡みて、今度こそもうダメかって、私……」
「文さん、あそこで何があったか、後で説明して貰いますからね」
「まぁ、二人とも霊夢の様子をみたいでしょ。ついてきて」
永琳はファイルをぱらぱらと捲りながら言った。
早苗と魔理沙は永琳について行った。文もその後ろを追う。
やがて霊夢の寝転がっている医務室にたどり着いた。
「今霊夢は魂が完全に入ってない状態で、意識がないの」
ドアノブを捻って、部屋に入る。皆後に続いて部屋に入った。
永琳は相変わらずファイルに目を落としながら説明を続けた。
「意識がないってのは眠ってるのと同じなんだけど。可愛い寝顔でしょ? これから何日目で意識が戻るのか、実はよくわからないの。具合から見て多分一週間後には戻ると思うんだけど」
「なぁ、永琳」
「さっきも言ったとおり、体だけは大丈夫よ。傷も跡形もなく消えてるし。血液の量は減ったままでギリギリだけどね。結構つらい貧血にこれから少しの間悩まされるかもしれないわ」
「永琳さん」
「何にしたってあと一週間は寝てるだけだから、その間によくなるかもしれないけどね」
「輝夜さんっ!」
文はしゃりしゃりと林檎を食べている輝夜に詰めいった。
「霊夢さんは! 霊夢さんはどこですか!?」
輝夜はしょうもなさそうに笑った。永琳がファイルを落として、ばさっという音が聞こえた。
ベットの上は、もぬけの殻になっていた。
霊夢を包んだシーツだけが、その真ん中で萎びていた。
「あいつから皆に、伝言があるわよ」
輝夜は林檎を置いた。
「伝言!? 大丈夫なのか!? 重症じゃ……」
「身体的な問題はないはず……だけど、いやそんな。あり得ない。輝夜、人が悪いですよ?」
「私は何もしてないわよ、永琳」
「それで……伝言とは何でしょうか」
早苗が言った。
魔理沙もごくりと喉を鳴らす。
「あいつなんて言ったと思う?」
「何て言ったんだ!?」
「『お前ら全員嫁に来い』ですって」
口元を袖で隠し、輝夜はくすくすと笑った。
魔理沙と早苗は一瞬呆けた後、顔を真っ赤にした。
「こういう場面でもあいつはちっとも変わらないな! まったく馬鹿じゃないか!? 死にかけのくせして!」
「そうですね! なんか心配し損な気がしてきました!」
「それと、あなたによ」
輝夜は文を見た。
「心配?」
「当たり前です。いつも勝手に突っ走って、人がどれだけ心配しているのか考えたことなんてないんですよ、あの巫女は」
袖で目元を拭う文を見て、輝夜は言った。
「そういうわけでもなさそうだけどね、ふふっ」
蟲は文にやられた傷を押さえながら山の中腹まで逃げ延びた。
ここは天狗の山じゃないから大分低いが、それでも気配を殺せる自分が見つかる可能性はゼロに近い。
蟲は一息ついて、木の根元に座り込んだ。傷の具合を確認してみる。
砕けた甲殻から体液が滴っている。皮膚と違い、甲殻は再生に時間がかかる。あの鴉天狗は危険な相手だったが、追ってはこないようだった。
そのかわり、別の追手が迫ってきている。半獣の方は大したことなさそうだが、もう一方の白髪頭は危ない。これも直感ではあったが、あれと戦うのはヤバすぎると思った。
体を適当に動かしてみると、チクリと痛みが走った。見ると、右肘の甲殻の隙間に針が刺さっていた。多分あの巫女のものだろう。
それを牙で挟んで引き抜いた。渇いた血がべったりと付着したそれ。蟲はそれを口にためて、思いっきり吹き出した。自身の毒針と同じ速さをもって、それは正面の木に突き刺さった。
カッという音が夜明け間近の森に響いた。
あの巫女は危ないという感じはしなかったが、自分のより下回っている感じもしなかった。恐らく互角だったのだろう。今は生きてはいるまいが。
遠くからは自分を追い詰めるための声が聞こえてきている。
あの白髪から逃げるには、ただ逃げるだけじゃだめだ。ここはじっと動かず気配を殺し、まずは回復に努めることが先だ。
蟲はその場で、手足を折り畳んだ。そして複眼をすべて閉じる。
睡眠もとらなくては集中力が落ちる。
そして神経を研ぎ澄ませたまま、しばしの睡眠に入った。
それからどれくらい寝ただろうか。
朝日が昇った。
蟲は軋む体を起こした。声はもうしなくなっていた。どうやら別の山へ移動していったようだ。
ほっと一息つく。そしてこれからどうしようか考える。
天狗の里に行くのはもう危険だ。アレを喰えば強くなれるのだが、次は返り討ちになる可能性大。
かといって人間の里には、あの白髪がいる。こちらも返り討ちになる。
ではどうするか。
少し考えたところで妙な気配を感じた。
まるで風が変わったような、空気が違うような。そう、空間がずれた様な。
「久しぶり。今度はおはよう、かしら」
声がした。そんなわけはないと思ったが、それは確かに昨日聞いた声だった。
ザクッと空間が裂けた。その中から青と白のシマシマの布を羽織った人間が現れた。
「こんなこともあろうかと、目印付けといて正解だったわ」
見るとその空間の裂け目は木に刺さっている針を目印に作られているようだった。
しまった、と後悔するがもう遅い。
人間はふらふらと歩いて、頭を押さえた。
「うぇ、なんか凄いくらくらするわ。血が足りないのかしら。女でよかった。男だったらなんかの拍子に興奮しちゃった時、別の部分に血を取られてあっという間に気を失っちゃうもんね」
蟲は身構えた。今度は、本能が告げていた。昨日と違う。
こいつは、危ない。
人間はダンッと地面を踏みつけた。すると地面際の空間が裂けて、お祓い棒がばねの様に飛び出してきた。
それを鮮やかな手つきで捕まえ、蟲に向ける。
今度は逆の手で指をパチンと鳴らす。
次の瞬間には空中に夥しい数の札が出現して、浮かび上がった。
「今度はイーブンよ。私も本気を出すわ」
にこりと人間は笑みを浮かべる。
蟲は地面を蹴った。あっという間に人間の目の前に迫る。
そして前と同じように右腕を薙いだ。
風を切るような轟音。
しかし、おかしい。
腕には何の感触もなかった。
人間は確かに、目の前にいたはずなのに。
「こっちよ」
その声は背後から聞こえて来ていた。
人間はいつの間にか、蟲が今まで睡眠をとっていた場所に移動していた。
何が何だかわからない。
今まで確かここに――。
人間は指をまたパチンッと鳴らした。
次の瞬間、宙に浮いていた無数の札から、同じく無数の針が打ち出された。
蟲はその針の雨を諸に浴びた。
体中に重たい音が鳴り響き、切っ先が皮膚に抉り込む強烈な痛みが脳髄を叩いた。
痛みのあまり「キチッキチチッ」という牙の軋みが漏れた。
見ると、複眼の一つに針が深々と刺さっていた。そして全身がまるで、サボテンの様なさまになっている。
何とかそれを抜こうとするが針は甲殻を突き抜けあまりにも深く刺さりすぎていて、それは不可能だった。
「ギギギッ、ギッ」
蟲は毒針を吐こうと口を開けた。
人間はここから二十メーターの距離。射程圏内。
むしろ、この距離では避けられまい。近すぎる。今度は外さない。複眼の全てで人間を睨みつけた。
当たる。今度こそ逃がさない。
そう思った時には、いつの間にか棒の切っ先が口元に突きつけられていた。
じゃらりと口に毒針が補充される。後は吐くだけ。後は――。
目の前に来ていた人間が、くすりと笑う。
吐くだけ。距離は二十メーター。避けられない。避け、アレ? 二十メーター?
何で? いつの間に――?
口の中で爆発が起こった。
牙が砕けて、舌や粘膜がズタズタになる。
そこらじゅうに緑色の体液を吐き散らして、蟲は吹き飛んだ。
地面を転がり、頭を巨木に叩きつける。口の中から、砕けた牙の破片や毒針の一部が体液と一緒になって流れ落ちた。
グラつきながら立ち上がる。
目の前の人間はにっと笑った。
「さぁ、あなたも本気を出しなさい」
蟲は本能的に逃げた方がいいということを感じ取った。
しかし、同時にこれでは逃げられないということも感じ取ったので結局、臨戦態勢に入った。
それを見て人間は満足そうに微笑む。
蟲は本能で「自分はここで死ぬ」ということを悟った。
「生まれ変わったら、可愛くして私のところに来なさい。面倒見てやるわよ」
凄まじいほどの霊力が目の前の少女に宿る。
蟲は何も考えずに突っ込んだ。考えてたら死ぬ。そう思ったから。
生きるのに必死な自分と違って目の前の人間はこの殺し合いでさえも、ひどく楽しそうな顔をしていた。
―――――――
永琳と文が部屋を出ていってから、輝夜はぼそっと言った。
「起きてるんでしょう? まったく博麗というのは化け物なのかしら」
霊夢はぎくりと動いた。
「いつから目覚めてたのか知らないけど、私にはわかるわよ」
「……」
「博麗の特性かしら。流石に目覚めが早すぎるわ」
「大結界自身が私を擁護してるからね。こういう時の回復力は妖怪並みなの」
そしてむくりと起き上る。
「何でわかったの。文にも、永琳にもばれなかったのに」
「あの子はあなたのこととなると目が曇るし、永琳は自分の計算外のことには弱いからね。全部聞いてたでしょ?」
「えぇ、聞いてたわ」
「どうするの?」
「浮気を許してくれるのなら」
「馬鹿ねぇ。体は大丈夫?」
「私は昔から丈夫なのよ。それより……」
「あぁはいはい。あなたがどこに行こうと止めないわ。どうぞ行ってらっしゃい」
輝夜が笑うと、霊夢も笑った。
「後、文が負担するって言ってたお金と『何でもする』は私請け負うわ。あいつは勘弁してやって」
「あなたよりもあの天狗の方が丈夫じゃない。そういうのは女に負担させておくものよ」
「ふざけんじゃないわよ」
霊夢は憤って言った。
「女の子を働かせるとかマジ論外。綺麗な肌に傷が付いたらどうすんのよ」
「思いやりあるんだか、ただのバカなんだかわからなくなるセリフね」
「男なら、全部受け止めてやれる心意気が必要なのよ。女の子のためなら過労死したって、私は後悔しないわ」
「それであの烏がどれだけ傷ついても?」
「それは……悪いとは思ってるわよ。だけどあいつのこと考えたら、やっぱり危険なことはさせられないわ」
「罪悪感はあるのね」
「あるわよ。でもどうしたらいいかわかんないし。言ったら絶対止められるわ。天狗の力には勝てないもの」
霊夢は体を伸ばして動かして、準備体操をすると神経を集中させた。
目の前の空間に亀裂が入る。
「よーし、絶好調。それよりあんたも他人事じゃないからね」
霊夢は輝夜に詰め寄った。
「あんたみたいな美少女なんてそうそういないんだから。何れは私のものになってもらうわ」
「それは楽しみだわ」
「あと、そこに転がっているバニーちゃんもね」
「あぁ、因幡もいたのね。永琳のビンタは強烈だから」
気絶している鈴仙を指差して、輝夜はくすくすと笑った。
「ビンタで失神する軟弱者にハーレムは築けないわよ。精進させなさい」
「折角来てくれたお客様たちには何か一言ないの? 黙って行くなんて失礼だと思うけど」
「……そうね、なんか紳士的じゃないわね」
霊夢は「う~む」と考えた。
「何か一言、私が言伝してあげるわよ」
「そうね、じゃあ頼まれてくれるかしら」
霊夢は空間の亀裂の前に立って深呼吸をした。
そして振り返ると、にっと笑った。
「お前ら全員、嫁に来い」
「馬鹿丸出しだわ」
「煩いわね、あと文にも伝えてくれるかしら」
「いいわよ」
霊夢は少し躊躇ってから言った。
「……ありがとう文、大好きって。お願いするわ」
そしてすぐに隙間に飛び込んでいった。
輝夜は一人でくすくすと笑った。微かに頬が染まっていたことに気が付いたから。
ひとしきり笑った後、小腹が空いたので近くにあった林檎を手に取った。
赤く輝くそれは、上った太陽の光を受けてつやつやとした光沢を放った。
廊下の向こう側から姦しい声が響いて来るのを聞きながら、輝夜はしゃくっとそれに齧りついた。
了
とりあえず霖之助はドロワを脱げ、話(処刑)はそれからだ。
シリアスで盛り上がる所を壊れギャグで水をさされて残念
しかもネタ的にあうあう気味
グロのタグとグロ注意は必要かと思われ
次回に期待
あなたの作風は好きですよ。
作風は好きなのでこの点数で。
ドロワを……あれぇ…?
その他にも気付いた限りでは
よしんぼ→よしんば
あとこちらの読解力不足かもしれないが、一ヶ所輝夜が永琳になっていたような…
話自体はおもしろかったので、こういった小さなミスが残念でした。
こういうの大好き
後は二次設定に毒されていない輝夜が素敵でした。この輝夜は確かに貴種
変態巫女というキャラ付けからしてギャグとシリアスの配分はこれくらいでいいんじゃないかと、面白かったです。
あと、びみょーにヘタレな永琳とカリスマ輝夜も良かった。
つーか霖之助と霊夢の会話が最高に最低だw
相変わらずのHENTAIぶりがステキでした。
変態最高ー!
霊夢さんのイケメンっぷりに惚れました。
霊夢と結婚してくれ。
このままの姿勢でいって欲しい。
あと、へタレ永琳も良かったです。
それ以外は殆ど文句なし。
その突き抜けぶりに敬意を表して。
つーか夢の中でeratohoやってんじゃねえ!w
いや満足も満足も大満足。
まさかの続編(?)、楽しませていただきました。
この霊夢はこれからも見てみたいですねぇ……文も早苗も乙女過ぎる。霖之助は自重しろw
もしも続きがあるのならば期待してます。
あぁ、100点以上をつけたい。
誤字報告
>式の文字をなぞる様に、それを光り輝いた。どうやら成功したようだ。
それは光り輝いた、かな?
次回は紅魔館や白玉楼らへんが登場してほしいなぁ
ありがとうございました
今回もそれぞれのキャラがスゴク良かった。
ただ終わり方が唐突で「あれ?これで終わり?」と感じてしまった。次回にも期待しとります
今回もそれぞれのキャラがスゴク良かった。
ただ終わり方が唐突で「あれ?これで終わり?」と感じてしまった。次回にも期待しとります
斜め上 みんなでトべば 怖くない
アクが強烈過ぎて負ける気がしない。
それと輝夜が帝の求婚を蹴った時ぐらい輝いてる。
次は紅魔館や地霊殿がみたいですね
あと大手術の後の立ち直りがどうみても花山な霊夢www
昔のエロゲ主人公みたいな霊夢が最高でした。次も期待してます。
そこからがはじまりってどんなんだよ早苗さんw
先にこっちを読んでしまったので前作を探しに行ってきますよっと。
ふざけてるくせに〆るところはきっちり〆るのも素敵
文可愛すぎてどうにかしそう
これから過去作見てきます
続きがあると信じています
あなたの名前を脳内メモリーに保存しました。
こんなの初めてだwwwwww
霊夢自重しないしバトル上手いしwwww
これは最高だwww
素晴らしすぎるw
つかこーりんてめえwww
紫と霊夢の二人でも肝試しになるくらいだから当然か…
シリアスばかりだと何か気恥ずかしくなる世代の読み手を考えられてはいるんだろうが
あまりに下ネタがくどいので
>>誤字
>「痛っ。何これ?」
>「ふふ、ノコノコとやってき獲物を逃がすわけないじゃない」
ノコノコとやってきた獲物ではないかと
とりあえずどいつもこいつもナイスキャラすぎる。つーか霊夢と輝夜カッコよ杉。
所々散りばめられたギャグは爆笑したし、バトルシーンは燃えたし、香林アホだし(ぉ
いやいいもの読ませていただきました。次回があればまた読ませていただきます。
誤字
「腹が減れば云々~…それでも言いわけですよ」
言いわけ→良いわけ、ですかね?
霖之助は妹分にドロワ返してやれw
HENTAI霊夢いいよ、HENTAI霊夢!!
余談ですが、はじめの方の
障子の向こうに小野小町が!
障子の向こうに小野塚小町が!
ではないでしょうか?
間違ってたら、ゴメンナサイ
それが気になった以外は最高でした。
霊夢もカッコよかったけど姫様もカッコよかった
流石は永遠亭の主
この変態巫女のさらなる物語が読んでみたいです
終盤の勢いがすごすぎてすっかり忘れてたけど優秀と才能のくだりはDreamsですね
ここの霊夢は普段「/」しかないけど本気になったら「才」になるって感じだw
次回作も期待しております
頑張ってください
>>182
小野小町でも意味は通る。昔の歌人で絶世の美女だったらしい
東方の小町でも歌人の小町でも意味は通るってことだね
一様が気になったけど、それ以外は満点
霊夢結婚してくれ
淑女も紳士もカッコよすぎる。
…誉めてるよ?
名作かどうかはコメント数が保証する。さぁこの世界観の次回作はまだか(何を今さら
霊夢はおいといて、輝夜が本業(職業:姫)を発揮しているめずらしい作品。これは周りの連中も慕わざるおえない。そしてメインヒロイン(?)の文、早苗や魔理沙の描写もこのHEN☆TAIな霊夢をさらに男前に仕立て上げる。いやこれは面白かった。
みんなが霊夢に惚れるのも無理はない。
何この変態で紳士で圧倒的強さなイケメン。
イキイキとしたキャラクタ、誰も彼もが可愛らしい。
シリアスシーンに盛り込まれたギャグもほどよく、胸がときめきました。
素敵な時間をありがとうございました。面白かったです!