誰もいない、最早存在し得ない、楽園のようなその地の上に、
私は一人で、立ち尽くしていた。
1
深い夜だった。
その夜の中に、提灯、鬼火、人魂、光の精霊、とにかく明かりの発するものを節操なくかき集めたような、一つだけとんでもなく浮かれた場所があった。
それはさる神社の境内。そこに在るは、人妖その他区別なく溢れかえらんばかりに入り乱れて、天を割ろうとでもするかのように暴れ、騒ぎ、そして笑う、饗宴の姿。
博麗神社の大宴会、その真っ只中であった。
§
その中に一人、飲み騒ぐ誰しもがそうしているように石畳に直に座り込んで、杯が空けば何故かすぐにでもまたどこかから勝手に回ってくる酒を呑みながら、少し遠い視線でその宴会を眺める姿があった。
深い蒼を塗り込めたような直髪を垂らして、桃を抱いた帽子を被る、その少女。
その身は天上に住む人仙の類である少女は――
遠く、眺めるようなその視線を向けながら、天人少女、天子は一人杯を傾け、喉を鳴らす。
§
そんな場所に意識を置きながら、天子はぼんやりと、酒による酔いを混ぜながら思考していた。
思うのは、
……不思議な……
「不思議なもんよねぇ」
意識せず、口に出して。
……本当に
思い返す。
過去の自分は、こういったものを天上から眺めるだけの存在だった。
その位置に対して別段不満があったわけではない、ただずいぶんと、上から見ていて楽しそうだったその姿に、退屈で持て余していた心が少しだけ動いた。
あの只中にある存在達に、その心に、少しだけ興味がわいて。
だから、それが一体どういうものであるのか、天と比ぶれば、地の獄という字も頷けるようなその中にあって、どうしてあんな顔で笑えるのか。
その全てを己に知らしめてもらいたくて、だから、地を揺らした。
己に向かってくるそれを打つことで、知ろうとしたのだ。
それが二年前のことであり、今は、
「……どうしてこうなってんだかね」
そして今は、自分がその、天から揺らした地上の、興味を抱いたその光景のど真ん中にいる。
あの時、向かってきた存在達を打ち倒し、逆に打ち倒されもし、そんなことをしている間に、いつの間にかここまで引きずり出され、そして酒を飲まされていた。
一体どうしてこうなったのだか、というよりもこいつらがこうさせる心が、そもそも好奇を感じて知ろうとしたはずのそれが、いまだによくわからないという有様である。
よく理解できない心でこいつらは喧嘩し、酒を呑み、そして肩を並べて騒ぎ合い、そしてまたその中で喧嘩をしている。
「あ? んだゴラ、この不真面目三文ゴシップ記者かつ天狗族の恥曝しが、売ってんのか? それは、私に売ってんのか……喧嘩を……!」
「おお? 今日は隣の家の馬鹿な飼い犬がよく吠えるわねぇ……ああ、ごめんごめん、いつものことだったわ」
「噛み殺す」
「あー、もう、落ち着きなさいってば椛ぃ! 文も煽るんじゃない!」
「おお、はたてちゃんが怖い怖い」
「っ……誰か、っつかにとり、そこの首を左右にかくかくさせてる馬鹿天狗の口塞げ!」
「ひゅいっ!? 私かよぉ!?」
というより、今まさに目の前で始まりやがった。
取り押さえようとして殴られ、そして次の諍いが飛び火し、というような混沌とした状況をうわぁと思い眺めながら、
「っ、ははっ」
思わず笑いがこぼれ出た。結局こいつらの心なんてわからず、そしてまた、
「馬っ鹿みたい」
そんな自分が、ここで同じようにこうしている心も、本当のところよくわかっていないのだ。
その不明瞭な心は、果たしてこいつらと同じものなのか、それとも別のものなのか。
やっぱりそれもよくわからないけれど、ただ一つ、確かなこともあって。
「……」
瞬く天を仰ぎ見る。ここでこうして、不思議な感情を抱きながら、地に在って空を見る、そんな状況も悪くないと、そう思っていることだけは
「確かだわ、ぬへっ!?」
「あ、ごめん!」
突如顎に走った衝撃と共に間抜けな声を出して、そのまま天子がゆっくりと前を向けば、さらに拡大してしまった殴り合いの現場が目の前まで迫っており、それに混ざって騒いでいた氷精の肘がきれいにヒットしたというような状況らしく、
「……ふふ」
理解して、とりあえず天子は静かに笑うと、杯をぐびりと飲み干して空ける。
「上等だゴラァ!」
そして空いたそれをどこかへ投げ捨てると同時に叫びながら、そのもみ合いの火中へと突っ込んでいった。
2
「はぁ……」
疲れたような息を吐き、そして天子はまた天を仰ぐ。
今度の先に見えるのは、抜けるような、己の髪色のようなその空と、焼き殺さんとばかりに爽やかで暴力的な光を放つ太陽。
「体、だっる……」
呟いて、手に持った串団子へと、よろよろと口をつけた。
§
昨夜の宴会の途中から意識を失い、気がつけば天子は早朝の靄漂う神社の境内、石畳の上に仰向けで倒れている己に気がついた。
肌寒さに思わず自分の腕を抱きながら体を起こすと、見渡せば辺りには同じような屍達が両指では足りないほど無惨にも放置されており、全員意識を失ったまま、早朝の気温と石畳に体温を奪われ、ガタガタと震えていた。
「奈落か、ここは……」
思わず寒さのせいだけではない背筋の震えを覚えながら、とりあえず天子は掌を合わせてその仏達の安息を祈ってから、凄惨な現場からふらふらと逃げ出した。
それから当て所もなくぶらぶらと歩き、酒は残ってはいないが、とりあえずまともな休息が取れなかったことによる虚脱感を抱きながら、
「天子さん、調子悪そうですねぇ……はい、お茶」
「ん、どうも」
人里の茶屋にて団子をかじりながら、一息ついているというところであった。
お茶を運んできた、茶屋の店主の娘である少女から温かい湯飲みを受け取りながら、天子はもそもそと口を動かして団子を噛み、
「あ゛ー……沁みるわ……」
一口含んだ熱い茶と共に飲み下して、喉から体を走っていく温かさに思わずそんな声をこぼす。
「ふふ、やだ、おじいさんみたいですよ、天子さん」
「実際、あんたと比べればその十倍くらいの歳の差よ」
あまりにじじむさい天子の行動に笑ってしまう少女へ、天子はいまだ茶の効能に感動しながらそう答える。
二年前のあれから天子は、地上にたまにふらっと降りてきては、人里やこの郷中をもの珍しそうに歩いて回ったりしていた。
そしてそんな放浪の中でこの茶屋を見つけ、中々うまい茶を出すことが気に入って、そこそこの頻度で通うようになってから、今ではこんな会話が成り立つくらいに常連となっていた。
「昨日も博麗神社で宴会だったんですか?」
「まあねえ……霧雨の魔法使いと弾幕ごっこしてやってたら、ついでに誘われてね」
「すごいですよね、あの宴会……この里からも何人も酒豪自慢の人達が挑んでますけど、まともに歩いて帰ってこれたのは数えるくらいですもん」
今は他に客もいないので、少女は店の外に面した朱布の席に座る天子の横に立ちながら、そんな会話を続ける。
最初は気難しい客だと思われていた天子だったが、いつの間にかいつも茶を持ってくる少女と二、三、言葉を交わしたりしている内に、向こうから打ち解けてきて、こんな世間話をするようになって、
「天界にだってあんな酒呑み共はそうそういないわよ……なんかもう、破綻者の集いだね、あれは。参加しない方がまともだわ」
そして、天子も存外、そんな会話と、それをしてくる少女を気に入っていた。
最初の方こそ、下賤な地上の者というような認識も頭の隅にあったが、結局そんな奴らの一部にぶっ飛ばされた自分というのも、どれほどのもんかと自嘲するようになって。
今では天人としての誇りなんていうのも、天子の中ではくだらない、退屈な思想に成り下がっていた。
「あれ? それじゃあ、天子さんも破綻者ということなんじゃ……」
「そうよぉ、不良天人だからね。破綻者としても超一流さ、地上の奴らにゃ負けないわ」
偉ぶった調子でそう言うと、二人は顔を見合わせて笑う。
「でも本当に、すごいですよね。二年前の地震とか、変な天気とかって、全部天子さんが起こしたんですよね?」
「ん……まあ、ね」
その言葉に、天子は少し煮え切らない返事を返す。
そんな事実もすっかり話してしまうくらい交わってしまった今となっては、
「ここら辺も結構揺れて、私も地震なんて初めてでしたから。もうびっくりして……」
少女の話を聞きながら、天子は黙り込んで、ぼんやりと考える。
天上に在ったあの頃は、今横にいる少女も、目の前を通り過ぎていく地上の者達も、まるで蟻の這っているようにしか思えなかった。
だから何のためらいもなく、地を揺らせた。
しかし、今となっては、
「それで、すごく怖くって」
少女の言葉に、苦みを覚える。ああ、そうだ。
……悪いこと、しちゃったのよねぇ……
そんなことを思ってしまうくらいには、天子の心はそこに近づき過ぎていた。
天界にまでカチ込みかけてきたような奴らに対しては全然思っちゃいないが、巻き込んでしまった、こういう無関係な者達に対しては、天人としちゃあるまじきだったかなぁ、と、天子は目をつぶって静かに考える。
「それで、また、あんな地震が起こったらどうしようとか、最近思ってしまうんですよね……」
「ああ、そうね……」
そして少女のそんな言葉に、ぼんやりしていた意識を戻して、言葉を返す。
「……私の力ってさ、大地を操るものなのよね」
そこまで言って、不意に自分を不思議そうに見つめる少女の視線と、己の言わんとしている言葉に気恥ずかしさを覚えて、
「だからさ、こんな郷の地震くらいなら」
顔を逸らしてそっぽを向きながら、
「私が鎮めて……あげるわよ」
最後の方は小さく口ごもるようにして、そう告げた。
「……」
しかし、それを最後までしっかりと聞いて受け取った少女は、一瞬驚いたような表情からすぐに戻って、
「はい、お願いしますね!」
満面の笑顔と共にその言葉を、耳まで赤くしている天子の後ろ頭へ返した。
3
そんな風にしばらく地上をブラブラとしてから、その日の夜に天子は地上から天界へと戻って来た。
天人くずれと称される比那名居の一族にあって尚札付きと称される不良天人の天子である。
更にはこの地上へ遊びに行くクセがついてからは放蕩娘の号までいただいているらしいが、どんな呼び名が付こうが本人にとっては知ったことではなく、また同じくくずれと呼ばれる程度には変わり者の一族の者達も娘の矯正は早々に諦め、口うるさく干渉することもなかった。
だから今回もまた、数日ぶりに家を空けてまたふらりと戻って来た娘に対して家人が問うことなど何もないはずで、天子もそのつもりで家に入り、
「総領娘様! 大変でございます、御当主様が至急顔を出すようにと……!」
いつも通りの日々が、いつものように終わるはずであった。
§
深夜の博麗神社。昨夜の宴会がまるで幻であったかのように、今その境内には何もない。
ただそこを照らす月と、星と、
「……」
そこに無言で立ち尽くす、天子が一人だけで在った。
背腰に緋色の刀身を抱く剣を斜めに差し、感情を浮かべぬ顔で本殿に背を向け、鳥居の方を睨んでいた。
そうしながら天子は、先程天界の自宅にて聞かされた話を静かに思い返す。
§
「あの郷に挿した要石の具合がな、どうも大分良くない」
小間使い天女の必死な声に急かされて、比那名居の現当主である父の前へ出ると、そう言われた。
郷、と、その単語を聞いた瞬間、天子の心臓がどくんと跳ねる。
「よろしくありませんか」
「まあな」
「……どの程度で?」
内心の動揺を押し隠して、平然を装いながら問う天子へ、当主は本当に何でもないことのようにこちらも平然と、
「無茶な挿し方をしたせいか、地脈がすでに滅茶苦茶にひずんでおる。挿し直さなければ、近く崩壊するだろう」
そう、言い放った。
「……っ」
言われて天子は息と共に、生じた驚愕を無理矢理に飲み込む。飲み込んで、その荒れる心が、跳ねる鼓動が、表層に飛び出さないように必死に抑えつけながら、
「それ、で……それを私に話して、どうせよと?」
「それだがな、娘よ。お前が」
最早睨みつけるような娘の視線へ、見下ろすように向き合いながら父は告げる。
「お前がその郷の石を抜いて、挿し直し、大地を禊げ。家の務めだ」
言われて目を見開く、その娘へ、
「お前が、やるんだ」
§
「それでも大分に地は揺れ、裂け、酷いことにはなるだろうがな。完全に崩壊してしまうよりはマシだろう」
感情を一欠片も乗せずにそう言い放つ当主へ、天子は最早先程までの焦燥から別物へと変化した、煮え滾るような感情を込めながら言葉を返す。
「……では、家の務めだとおっしゃるのでしたら、このような半端者になど任せずに、御当主自ら行われてはどうですか? そこまで決断を下されているのならばね」
しかし、その言葉にすら、まるで取り合う価値などないと断じているかのように、変わらぬ態度で当主は返す。
「いや、やらん。私だけではない、お前以外の誰もだ。お前がやらぬと拒否しても、家人の誰もその任は継がぬし、継がせぬ。半端者だからこそ」
そして、話はこれで終わりだと告げるように背を向けて、
「お前がやるのだ、天子よ。己の不始末は、己の手で決着をつけてこい。わかったな」
首だけ振り向いて、睨みつけ、そうされてびくっと一瞬竦む娘へもう何も向けずに、父はその前から去っていった。
§
そして天子の意識は、視界はまたここへ戻って来た。
あの後に家を飛び出して、そして真っ先にここへ、その要石を大地に抱く博麗神社へとやって来て、そして誰も存在しないそこでただ一人、立ち尽くす。
見据える先は鳥居の方角、そこを越えて更に遠く、神社から見渡せる、この郷の大地。
ここから見える、湖へ、人里へ、竹林へ、森へ、山へ、幻想郷の全てへ、天子は向き合っていた。
そして、静かに思う。
「ここを……」
この郷を、その大地を揺らし、かき乱させて、そうして、禊ぐ。
今にも崩壊を起こそうとしている大地の力を吐き出させるために、そうして吐き出したその力を全て均等に振り分け、正すために。
そして、その代償は――
「……」
代償は、崩壊に劣らぬほどの大地震だ。地は揺れ、裂け、その上に立つものを等しく飲み込むようにして引きずりまわし、そして壊す。
それでも、大地が砕け、全てが消滅するよりは大分マシだろう。ああ、言葉通りだ。
そして、それを行うのは、
「私、か……私が、起こすのか、それを」
呟いて、目を伏す。
確かに、それは比那名居の家の務めであり、そして私の役目だ。
以前の天子なら、以前の自分ならば、多少反目するところはあれど、基本的に家というものには忠実であろうとした。
己の能力と務めには少なからず誇りを持っていたし、任されたならば果たすことに何の異論もなかっただろう。地の崩壊と大地震、比べた場合の損得勘定など、簡単に出来ていたはずだ。
けれど、今は、違う。
「違う……」
そして、今一度、それを見据える。
その大地を。己があの時から今日まで歩き、そして見て回り、それに触れ、感じた、その郷の全てを。
見渡していた視線を、ある場所へ固定する。それは、人里。
「違うんだ……」
そこに住む、ちっぽけな茶屋のちっぽけな娘と交わした、約束とも呼べぬような、ちっぽけなその、己の言葉を思い返す。
強く、拳を握る。
「私は……っ」
比那名居天子には、もうその少女には、この自分ではもう、それは起こせない。そんな地震を、起こすことは出来ない。
最早、家と、己の身と、務めと比べて、簡単に放り捨てることのできないものがここにあった。
ここに、この郷に、その全てに、私は、作ってしまった。
そんなものを、そんな心を。
「――」
だったら、だったらどうする。どうすればいい。
向かい合うのは――
「己の、業か」
自分の全てを決めつけようと、喰らいつこうとするそれに、抗うしかない。刃向かうしかない。
背腰の剣を抜いて、眼前に掲げると、夜に照らす。
「私の力は、地を操る……だったら」
そしてその刃先をくるりと反転させると、己が立つ地に突き立て、
「こんな郷の地震くらい、見事鎮めてやろうじゃないの」
背を曲げてその柄へ額をつけ、己に言い聞かせるようにそう呟いた。
4
それから神社は朝を迎え、昼を過ぎ、緋色を空が抱き始める頃、ようやく境内へ一つの影が降りる。
「お待たせしたかしら」
軽やかに石段を登りきった歩を踏み終える、波打つ金髪を垂らし、紫色の服を纏った妖しい女。妖怪、
「あんたが来たか……」
ゆっくりと振り返る天子へ、薄気味悪い微笑みをおくる、八雲紫。
「私以外の、誰が来ようと言うのかしら。ねえ?」
見透かすようなその眼差しに、天子は負けじと睨み返す。
「道理で、巫女が一日中神社放り出して不在なわけだ」
「ええ、ここには最早、当事者しか存在し得ない……」
喋りながら紫は、どこからか手扇を取り出すと、開く動作のまま口元を隠して、
「ならば、さあ、早く要石を抜き、そして挿し直して頂戴。この郷の」
唯一見える眼差しが、一気に熱を失い、冷め切っていく。
「大地震と、引き換えにね」
§
そう言われて、しかし天子は向かい合って動かず、ただ目を伏せるだけ。
「私は……」
ゆっくりと紡がれる言葉は、
「私には、出来ない……する気も、ない」
どこか、何かに請うような、響きを含んで。
それを聞いて紫は、
「あら? これは珍しい……どうしたの? 貴方が」
からかうような、楽しそうなその調子とは裏腹な、
「かつて同じようにこの地を、己の退屈と共に揺らして、乱したお前が、そんな言葉を吐くだなんて」
酷く温度の下がった、冷淡な声で言い放った。
「随分笑える冗談だわ。どういう心境の変化かしら」
「……」
その言葉に、天子は無言で目をつぶる。
その瞼の裏側で、これまでと、
――お願いしますね、天子さん
あの時の笑顔を、思い返して。
「……お前には」
目を開くと、目の前の女を見据えて、告げる。
「お前には、わからん」
その視線に、紫は相変わらず口元を開いた扇で隠したまま、その目だけでしか感情を表さない。
「ふぅん……ああ、そう」
そして退屈そうに、そう相槌を打った。
「……それに、そもそも自分より偉そうにしてるような奴の言うことに従うっていうのが嫌いでね」
そんな紫へ、次に天子はいつもの己の、傲岸不遜な調子を見せながら、
「私がどうするかは、私だけが決める。従わせたいのならば」
好戦的な笑みを作って、背腰の剣を抜き、地に突き立てる。
「力づくで、やってみせるがいいわ」
そうして己を睨みつけてくる天子に、紫は静かに虚空へ息を吐く。
「――そう、ああ、そうね。そう言えば私って、天人って奴らが大嫌いなのよ。傲慢で、全てを見下していて、そして反吐が出るくらいに合理的」
それから、そう一気にまくし立てるように言い、
「でもね」
そう、続けて、
「それ以上に、まるで聞き分けのない、頭の悪い餓鬼っていうのが、それ以上に大嫌いだったの。思い出したわ」
紫はにこやかに目を歪ませると、手首を振って扇を畳み、その中程を掴んで握る。
「だからね。今度は『美しく残酷に』だなんて、生温いことは言わないわ」
握って、そのまま力を込め続け、
「屠殺される豚のような醜い泣き声をあげながら――」
へし折って、潰す。
「這え」
手を返してその扇の残骸を地に降らせると、同時に二人は構え、全てが動き出す。
§
しかし、
「……っぁ!」
しかし、その戦いの実は、酷く一方的で、
「はっ……! はぁっ……!」
「……」
その差は、恐ろしい程に歴然と存在して、
「っ……くしょう……! 何で……」
緋に染まる神社の境内で、言葉の通りに、傷だらけで、蒼髪の少女は這い、
「……」
妖怪の女は、その姿を無傷のまま、無言で見下ろしていた。
§
「何でだよ……!」
膝をつき、背を曲げて、そうして俯いた先にある、石畳を見つめながら、
「何で、私は……っ!」
引き倒され、投げ倒され、殴り倒され、打ち倒され、繰り出す抵抗の全てを弾き、受け、逸らされて、一方的に何もかもを打ちのめされた。
そのボロボロの体で、必死に立ち上がろうとしながらも、最早体の何処にも力が入らずに、天子はか細い叫び声だけをあげる。
「……覚悟もない」
そんな天子の目の前に悠然と立ち、見下ろしながら紫は、あれから今まで一言も発することのなかった口をようやく開く。
「守るものも、背負うものもない、そんな己の身一つだけのちっぽけな餓鬼が」
そして、まるで一欠片の許容も慈悲もなく、
「勝てる道理など在るわけがなく、そんなものに私が負ける道理というのも、微塵も其処に在りはしないわ」
その事実を言い放った。
§
それを聞いて、
「ふざっ……けんな……!」
天子は湧き上がるその感情と共に、目の前の地を殴りつける。
「私にだって……っ」
そうだ、こんな自分にだって、
「守りたいものくらい、あるんだよ……っ」
いつの間にか、手放したくないものが出来ていて、
「背負ってるもんくらい、ちゃんと、あんのよぉ……!!」
だから、だからこそここにいて、そして抗っているのだ。
掠れた、それでもしっかりとした叫びと共に顔を上げて眼前を睨みつけて、立ち上がろうとする。
しかし、
「笑わせるわね、お前が守りたいものだなんて」
目の前のその女は、冷ややかな視線のまま睨み返して、
「己の今の位置で、評価で、ただ誰かに、嫌われたくないというそれだけで」
放たれるその言葉に、動きが縫いつけられたように止まる。
「結局は、己が身一つのことだけじゃあないか」
女のその顔が、嗜虐的な笑みに歪む。
「なあ、比那名居天子」
§
「自分の得た居場所を失うのが怖い?」
女の口がそう言葉を紡ぐのを呆然と、動かそうとしていた体をぴたりと止めて少女は見上げる。
「得た関係を失うのが怖い?」
やめろ。唇が震えるように動いて、掠れた息だけを吐き出す。やめろ。
「また孤独な自分に、己以外の存在は全て下にしかなく、縛るものすら存在しない拘束の中へ戻るのが怖い?」
やめてくれ。
「本当に笑わせてくれるわね。だから今のお前は、天人ですらない。只々、自分の業に向き合うことも出来ずに、背を向け、耳を閉じ、震え続けている」
やめてくれ……!
咄嗟に手を動かして耳を塞ぐと、少女は地にうずくまる。
「ただの、馬鹿でちっぽけな餓鬼の一匹に過ぎないのよ」
§
わかっていた。本当はわかっていたんだ。
地震を起こして鎮めなければ、大地が崩壊することもわかっていた。
崩壊を防ぐには、他に方法なんか一つもないこともわかっていた。
そしてそれは私以外には出来なくて、それを私以外が、その原因を二年前に作った私以外が行うべき責任なんて、他の誰にもないこともわかっていた。
そして、私の、こんな私のちっぽけな力では、それに、自分の業に抗いきれるはずなど、刃向かえるはずなど、それから逃げきれるはずなどないこともわかっていた。
そして何よりも、何よりもわかっていたのは、その全てを考えないようにして、見ないようにして、気づかないふりをしていた自分自身だ。
そうすることで、それを行うことで、私は、自分を失うのがたまらなく恐ろしかったのだ。
今の、一人じゃない、誰かと一緒にいられる自分というのを失ってしまうのが恐ろしかったのだ。
私はあの約束を、あのちっぽけな己の言葉を守れないのが怖かったんじゃない、それを破ってしまうのが怖かっただけだ。
結局、私が守りたかったのは、この郷のことでも、酒を酌み交わしたあいつらのことでも、あの子のことでもない。
私が守りたかったのは、ただ私自身だ、その輪の中にいた私自身だ。
私が背負っていたのは、責任でも、使命感でもない、ただそれを失いたくないという恐怖だけだ。
結局、私の中にあったのは、私自身のことだけで。
そんなこと、最初から、わかっていたんだ。
わかってた。
わかってたさ……。
§
「……かって、るわよ……!」
うずくまったその体から、くぐもった声がこぼれ出た。
「……わかってんのよ、そんくらい……!」
見つめ続ける石畳に、ぽたぽたと滴が落ちる。
「あんたみたいな奴に言われなくたって、全部わかってるわよ!!」
そして、一際大きくそう叫ぶと、天子は地を殴りつけ、一気に立ち上がって眼前を睨みつけた。
「じゃあ、だったら、だったら何なのよ!? こんなものを抱くことが」
睨みつけるその瞳からは、止めようもない涙が溢れ出て、
「こんなものしか抱けないことが、そんなに悪いことなのかよ……!!」
溢れ出す涙も、悲しみも、後悔も、怒りも、恐怖も、全てを混ぜ合わせて叫び声にして、天子は目の前の女へと突っ込んでいく。
「嫌われたくないって……そう思うことが、願うことが……!!」
最早、何もない。自分以外何もない天子は、自分だけを、その拳だけをぶつけるしかない。しかし、まるで動こうとせず、避けようともせずに、何も言わず、無表情で、その天子の殴打を紫は受け続ける。
「そんなに悪いことだって、いうのかよぉ……!!」
それから最後にそう叫ぶと、紫の頬を思いっきり殴りつけて、天子の動きは止まった。
そして、殴られた紫は、口の端から一筋の血をこぼしながら、
「だったら……」
張り付いたような天子の拳を引き剥がすと、その手首を強く握って、
「だったら、どうするのよ。お前は、そうして」
持ち上げると、引っ張られるように紫より背の低い天子の体が引き寄せられ、そしてその顔が力なく上を向くのを、鋭利な視線で見下ろす。
「そうして、誰もいなくなった大地の上でただ一人、誰にも好かれも嫌われもせずに、生きていこうとでもいうの?」
天子の目が驚きに見開かれるのを見下ろしながら、紫は続ける。
「ふざけんじゃないわよ。嫌われたくないと、好かれていたいと、一緒にいたいと、そんなどうしようもなく願うならね」
その鼻先まで顔を近づけると、相手の虚ろな瞳の中に己の顔を映しながら、
「そんな風に思えるような存在がお前の中にあるのなら、それができたのならば、どんなことをしてでも、自分が泥を被ってでもそれを守り抜こうと、そうしようとするのが何よりも大事なことでしょうが!」
そう、はっきりと至近距離で言い放つと、ふんと鼻を鳴らして、掴んでいた腕を投げ捨てるように放す。
「う……ぁ……」
そうされて、その言葉に狼狽えたまま、腕の放たれる勢いに引きずられ、天子は後ろに二、三歩下がった。
「だから、だから私はここに来ているのよ……! この郷を、その全てを失うくらいなら、私は……!」
そして、そのまま真っ直ぐ天子を見つめるその女は、そこから血がゆっくりと滴り落ちるほどに拳を握り締めて、
「それを、決断出来るわ。自らが行うことだって辞さない。たとえ、己がどう思われようが、どうなろうが、それを、私の全てに等しいものを守ることが出来るならばね……!」
射抜くような視線の強さと共に、抑えきれずに溢れ出たその激情と共に、確かにそう言い切った。
しかし、それでも、そのような強さと共にあって尚、目の前のその女は己の身を震わせて、言葉を続ける。
「――けれどね、だけれど、今回それが出来るのは、貴方だけなのよ……! 貴方しかいないのよ……!」
だから、と、その女は、最早激情だけではない、願うようなその思いも込めて、
「だから、お前が自分を殴りつけて従わせて欲しいのなら、素直にそうしてやる。地に頭を擦りつけて頼みこんで欲しいのなら、そうすることで行ってくれるのなら、喜んでやってやるわ。だから、比那名居天子――」
少しだけ俯くようにして顔を伏せ、その言葉を、
「お前の中にも、この郷に対して、少しでもそんなものがあるのならば、頼む……!」
その強く誇り高い、誰に対して弱みの一つすら見せなかった心の全てを投げ打って、
「……お願い……この郷を、その地の捻じれを、正して、鎮めて頂戴――」
その懇願とも言えるような言葉を天子へと放った。
§
それを、その姿を、
「あ……」
その妖怪の、この郷の守護者の確かな覚悟を目の前に見て、天子は悟る。
「ああ……」
最早、自分はやるしかないのだと。
「うああ……」
この女が、妖怪が、そうしているように、あの笑顔を、あの場所を、あの気持ちを守るためには。
「うああぁぁ……! あああぁぁあぁ……!」
同じような覚悟でもって、それを行うしかないのだ。
ここから今でも見渡せる、この景色を。
この、美しい郷を。
自分が揺らして、引き裂いて、壊すしかないのだ。
「ああぁああぁあぁ!!」
自然、己の内から溢れ出る慟哭を抑えることなく放ちながら、天子は再び地に跪き、それを濡らした。
5
「……」
緋に染まる天と、それに照らされて、いまだ美しくそこ在る郷が、天子の目の前に広がっていた。
「ねえ……」
そして天子は、己の傍に立っているであろう存在へ、顔を向けずに問いかける。
「里の人間達は、大丈夫なんでしょうね……?」
その問いへ、同じく問われた紫も顔を向けずに、
「心配されるようなことじゃあないわよ。何のために巫女がいないと思っているの? 郷中総出で、避難や何やらは既に済ませてあるわ」
「……そう、ならよかったわ」
その答えが得られたなら、最早これ以上交わす必要もなかった。
「……」
そして、天子は無言で緋想の剣を掲げ、その終末的な、見上げる先の空と同じような緋を抱く刃の輝きを網膜に焼き付ける。
その色は、波打つように煌々と纏うそれは、血気を盛んとさせる魔にも似て――かつ、地を浄化せし天にも通じているようにも見え、天子は不意に自らが握り締めている物に意識を乗っ取られるかのような錯覚を得た。
これを大地に一刺しすれば、それだけで郷は崩落する。
眼下に在る景色の全てが圧され、潰されて。
世界が……その、誰しもの居場所が壊れてしまう。
人が、妖怪が、神が、妖精が、花が、木が、山が、自然が、家が、里が、何もかもが、全て、荒れ果てた大地に放り出される。
「――」
確かに、幻想郷がその形態を失うことはないのだろう。その後で荒野に呆然と佇むしかない命も、やがて再び郷を立て直すことができるだろう。だがしかし、そんなことを言い訳とできる筈もない。
今より放つ衝撃がどれほどの不幸を生み出すか――理解出来ない筈がない。
これまで話してきた人妖、これまで見てきた風景、これまで聞いてきた命の音。その全てが落ちて行くのは、緋色の闇で満ちた奈落の未来。
導くのは、この両の手に握った一振りの剣。
あまりにも重い、一本の緋想。
意識すると共に、汗が静かに地に落ちた。
災いを前にしてあらゆる自然が押し黙り、世界が静謐に満ちる中、天子はただ一人、その鈍い輝きが心臓を圧迫する音に耳を侵される。
車輪の回る音にも似たそれを拒んで、ふるい落とそうとするかのようにその身体が震えても、効果はまるでそこに無くて、
「あっ……」
不意に涙が静かに地に落ちた。
滅茶苦茶に暴れ、乱れる動悸は、同じような呼吸を生み出し、冷静さを残酷なまでに削り取っていく。
「……!」
それを無理矢理抑えつけるように、全ての指に力を込めた。
そうして、自らが握っている物が何であるのかを再度確認する。
あまりに多くのものを奪う、あまりに眩しい光。
それを更に高く、高く掲げて、天子は目を強くつぶると涙を散らす。
それから、勢いをつけるように、胸の内に在った息を全て吐き出し、
「っ……!!」
刃先を真下へ向け、一気に刃の半分以上までを石畳を越えてその下の地面へと突き立てた。
そうしてから、一瞬動きを止め。
「ご……」
――ごめん……
――ごめんなさい……
誰へ向けるでもなく、そう呟こうとして、
「……っ」
しかし、己にはそんなことを呟く資格すらないのだと思い当たり、それを飲み込む。
そして、その代わり、
「あ――」
自分の身体へと突き立てたそれを引き抜くような、
「っ、あぁ――」
その身体の、心の痛みを、その感覚を全て乗せて、
「――――ッッ!!」
嘆きのような、子供の泣きじゃくるような、そんな声にならぬ叫びを上げて、一気に地へ突き立てた刃を、剣を引き抜いた。
§
その動きと同時に鼓動のように一度神社の地を揺らし、そして一定間隔でそれを鳴らしながら、破裂しそうなペースまで到達すると地を突き抜け、その上の石畳を引き剥がしながら、注連縄をつけた巨大な要石がその姿を二人の目の前に現した。
そして、
「……!」
郷中に響くように、地中の奥深くで、ずん、と、何かが破裂したような音が響いた。
続いて視界が震え、足下が震え、木が震え、山が震え、目の前の景色が震え、何もかもが震え出す。
地が揺れている。揺れて、震えて、うねり、叫び声を放つように轟音を鳴らしながら、のたうっている。
その上に立つものを、在るものを、全てふるい落とそうとするかのように、引き裂くかのように、揺らし、飲み込んで、抵抗すら許さずに、崩し壊してゆく。
そして、それに、その渦中に飲み込まれることすら出来ずに、天子はその、大地の暴れ狂う様を見つめていた。
その郷の、美しかったその景色が全て蹂躙され、無へ還ってゆくのを、ただしっかり立ったまま、見つめていた。
目を背けるな、見届けろ。そう、自分に言い聞かせながら。
その己の業から、最早逃げ出すことも出来ないのなら、せめてしっかりと目に焼き付けろ。
己が何を為したのか、その全てを、余すことなく。
すでにその心の中には何もなく、その口からは何も発さず、その瞳からは何もこぼさずに、天子は最後までしかと地面に足をつけて直立不動のまま、それを見つめ続けていた。
§
そうして、いつしか目の前の全てが止まっていた。
泣き腫らしたように濃く緋い空の下、最早そこに神々が恋をした程の美しい郷の姿は、一欠片も残ってはいない。
全ては巨大な、巨大な獣がその上で暴れ回ったかのように、何処へも引き裂かれた爪痕が残され、磨り潰された残骸で溢れ、空へこぼれ落ちるような黒煙が上がっている。
「……わた、しは」
そしてあれから微動だにせず、ただそれを見つめ続けていた天子がようやく口を開いた。
「私は、許されないだろうな……」
ただ静かに、何の感情も乗せず、確認するようにそう呟く。
「……そうね」
そして同じようにして無言でその傍に立ち続けていた紫も、ようやく言葉を返す。
「少なくとも私は、私の大事なものをここまで滅茶苦茶にしてくれた奴を、絶対に許しはしないわ」
睨みつけるように視線鋭く、その黄昏の風景を見ながら吐き捨てるようにそう言って、
「ただ――」
それから少しだけ目を伏せ、
「同じように、少なくともこの郷を救ってくれた誰かのことは、ずっと覚えているでしょうね」
静かに、しかしはっきりと、そう告げた。
その言葉を受け止めて、
「――ありがとう……」
天子は目をつぶり、絞り出すような声でそう返した。
「……さて……」
そしてようやく顔を上げて視線を動かすと、それを見上げる。
引き抜いてから、そのままずっとそこに浮遊し続けていた、その巨大な要石を。
「そろそろ、こいつもまた挿し直してやらないとね……」
そして、次に目の前にぽっかりと開いた、それが挿さっていた大穴へ視線を動かしてそう言った。
「……今度は、こんなことにならないように、しっかり頼むわ。癪だけれども、やはり貴方にしか出来ないのだから」
少し悔しそうにそう返す紫に、天子はその背を向けたまま、
「ああ……」
右手に掴んだ緋想の剣を一瞬見やって、
「ああ、わかってる」
そう、紫だけではなく、己に向かって応えるように言うと、左手で帽子を脱いで放り捨て、次に自分の、腰程まである長さの蒼い直ぐ髪を一束にして、首の後ろ辺りで掴んだまま、
「――」
剣を持った右腕を頭の上から回すように左肩へ、刃先が地を向くように動かし、それから束ねたその髪の房へと緋色の刀身を走らせる。
何の抵抗もなく、するりと刃が通り、その蒼色を切り落とした。
断たれ、離された掴まれていない方の髪が、ばらけるようにして重力に従い、天子の耳の辺りをくすぐって、止まる。
「っ、何を……?」
思わず呆然と紫が問いかける先、初めて天子は首だけを振り向いて流すようにして紫を見ると、
「地を鎮めるには、供物が必要でしょう?」
掴んだその髪束を掲げてみせる。
「……一応、こちらでも準備していたものはあったんだけれどね」
そう、軽い驚きと共にこぼして、紫はすでに開いて何かを取り出そうとしていた隙間を、指を鳴らして閉じる。
「それ以上に、十分過ぎるものが現れたわ。天人の頭髪だなんて、ね」
その紫の言葉に、初めて天子は、
「十分ですって? はは、まさか……」
自嘲の、軽い笑い声を漏らして、視線を大穴へと戻す。
「これでも全然、足りないくらいだよ」
そして吐き捨てるようにそう言うと、その穴の真ん中へと、その蒼色の髪を投げ入れた。
6
それから、しばらくの月日が流れた。
あれだけの大地震にも関わらず、郷の全員の協力により奇跡的に一人の死傷者も出ずにどこも何とか乗り越えて、ただほぼ廃墟同然と化した自分達の住居やらを復興する日々。
そんな、地上の日々の中に、人里の復興に協力して、ただ一人黙々と大工仕事に働き続ける、肩までの長さの蒼い髪をした少女の姿があった。
「……」
全ての事実は既に全員に知れ渡っていた。働く天子を見る、人間達の視線は決して温かいものではない。
そして天子もそれに対して何の釈明もせず、ただ黙ったまま、仕事に必要な最低限の会話をするだけで、決して以前のようにその中に交わろうとはしなかった。
もし何か、何かこの少女が自分から言ってくれるならば、人間達も、他の誰も、彼女とまた新しい関係を築こうと、そうすることが出来るかもしれない。
しかしそれにはまだ、幾許かの時間の流れが必要なように、少女も、誰しもが感じているようだった。
§
あの日のような緋に染まる空の下で、全員に休憩を促す声が響いた。
それに応えて、作業の手を止め、笑って何かを話し合いながら、働いていた全員が休息用に設けられた場所へ向かって歩いて行く。
ただ一人、その流れから逸れて全く別の方向へ向かう蒼髪の少女と。
「あっ……」
それに気づいて、その背中を見つめる、もう一人の少女を除いて。
§
「ふぅ……」
ゆっくりと、疲れを一緒にそこへ込めるようにして天子は息を吐き出して、誰もいないその廃墟の一角へ腰を下ろす。
仕事は休憩、しかし自分がその中へ混ざれるはずもなく、仕方なく全く別の場所でこうして休んでいるというわけであった。
「……」
天子は無言で空を仰ぎ見る。罪悪感がある、後悔がある、しかし、そこへ向かう足を止めさせる何よりの理由は、やはり恐怖だった。
あれだけのことを経ても、覚悟を抱いても、やはりそれに直面する恐怖というものだけが、どうしても抜けない。
ならばやはり、以前のように、そんな恐怖を感じることもなかった、そんな以前の自分に、戻ってしまう方がいいのかもしれない。
不意に手を動かして、あれからもう少し短く整えた後ろ髪を撫でるように触る。
覆うもののない首筋に感じる、突き刺さるような涼しさには、まだ慣れそうもなかった。
「はぁ……」
また息を吐いて、目をつぶる。しばらくそうしていると、
「はい、天子さん」
不意にそんな声が目の前で響いて、驚きと共にすぐさま顔を上げる。
「な……!?」
果たしてそこには、あの日以来顔も合わせていなかった、あの茶屋の少女がいて、そして湯呑みをこちらへと差し出していた。
§
「お茶だなんて贅沢はまだ出来ませんから、ただのお水ですけど……それでも、疲れた体には結構おいしいと思いますよ」
にこやかに、あの時のように微笑みながら、こちらへそう差し出す少女。
「な、何で……!」
それから思わず顔を逸らしながら、ぶっきらぼうな調子で天子は尋ねてしまう。
「何で、って……こうしちゃいけない理由がありましたっけ?」
あっけらかんとそう尋ね返してくる少女へ、天子は震える自分の声を意識しながら、
「理由なんて……聞いているはずでしょう、あんたも……!」
そう言って、思う。
顔を逸らしているのは、顔向け出来ないのと、それよりもやはり怖いからだ。
こんな、あのちっぽけな言葉すら守れずにここにいる自分を、この少女がどういう目で見ているのか、どういう思いでいるのか、それを、知るのが。
「それは、天子さんが、あの地震を起こしたから――そういうことですか?」
また問い返す少女に、天子はゆっくりと頷いて答える。
それを見てから、少女もゆっくりと息を吐いて、
「……実は、私にもね、わからなかったんです。あの地震はやっぱり凄く怖かったし、こうして生きてはいるけど、家はぺしゃんこになっちゃってたし、みんなはそれを天子さんのせいだと言うし、天子さんは何も言わないし……」
言葉を、続けていく。
「だから、どうしていいのかわからなかった。この地震のことで天子さんを恨めばいいのか、それともこの郷に住んでいる以上、いつものことだと諦めちゃうべきなのか。そんな風に悶々としてる間に、時間ばっかり結構過ぎちゃってて……」
そして、少女は、でもね、と、優しい声で、
「そんな風にしてる間、ずっと遠くから天子さんのことを見ている内にね、最近ようやくわかったんです。あなたが、何も喋らなくても、何も弁解しなくても、それでも」
微かに震える目の前の同じ少女へ、少しでも伝えられるように。
「里を復興するのに協力して、みんなのために働いている天子さんは、やっぱり以前の、私の知っている天子さんだって。だったらもう、それでいいじゃないかって、そう思ったんです。だから」
もう一度、次はもう少し前へと、それをずいっと差し出す。
「だから、また、いつもみたいに飲んでください。いつか、お茶が出せるようになる頃には、きっとみんなも、私みたいに思っているはずですよ」
その言葉に、震えを止めて恐る恐る、ようやく顔を向ける天子へ、少女はにこりと笑いかけた。
「あっ……」
その笑顔を見て、
「あぁ……!」
天子は崩れ出した己の顔を見せないように、咄嗟に動いてその少女へ抱きついて、その肩へ顎をのせる。
「ごめん……!」
そうして、戸惑う少女を強く抱きしめながら、
「ごめんね……!」
嗚咽を混じらせたその声で、謝り続ける。守れなかった己の言葉を、壊してしまったこの郷のことを、全てのことを、そこへ込めて。
決して消えることのない、刻まれた罪も、背負い続ける業も。
今この時だけは、許されてもいいのだと、淡く信じて。
私は一人で、立ち尽くしていた。
1
深い夜だった。
その夜の中に、提灯、鬼火、人魂、光の精霊、とにかく明かりの発するものを節操なくかき集めたような、一つだけとんでもなく浮かれた場所があった。
それはさる神社の境内。そこに在るは、人妖その他区別なく溢れかえらんばかりに入り乱れて、天を割ろうとでもするかのように暴れ、騒ぎ、そして笑う、饗宴の姿。
博麗神社の大宴会、その真っ只中であった。
§
その中に一人、飲み騒ぐ誰しもがそうしているように石畳に直に座り込んで、杯が空けば何故かすぐにでもまたどこかから勝手に回ってくる酒を呑みながら、少し遠い視線でその宴会を眺める姿があった。
深い蒼を塗り込めたような直髪を垂らして、桃を抱いた帽子を被る、その少女。
その身は天上に住む人仙の類である少女は――
遠く、眺めるようなその視線を向けながら、天人少女、天子は一人杯を傾け、喉を鳴らす。
§
そんな場所に意識を置きながら、天子はぼんやりと、酒による酔いを混ぜながら思考していた。
思うのは、
……不思議な……
「不思議なもんよねぇ」
意識せず、口に出して。
……本当に
思い返す。
過去の自分は、こういったものを天上から眺めるだけの存在だった。
その位置に対して別段不満があったわけではない、ただずいぶんと、上から見ていて楽しそうだったその姿に、退屈で持て余していた心が少しだけ動いた。
あの只中にある存在達に、その心に、少しだけ興味がわいて。
だから、それが一体どういうものであるのか、天と比ぶれば、地の獄という字も頷けるようなその中にあって、どうしてあんな顔で笑えるのか。
その全てを己に知らしめてもらいたくて、だから、地を揺らした。
己に向かってくるそれを打つことで、知ろうとしたのだ。
それが二年前のことであり、今は、
「……どうしてこうなってんだかね」
そして今は、自分がその、天から揺らした地上の、興味を抱いたその光景のど真ん中にいる。
あの時、向かってきた存在達を打ち倒し、逆に打ち倒されもし、そんなことをしている間に、いつの間にかここまで引きずり出され、そして酒を飲まされていた。
一体どうしてこうなったのだか、というよりもこいつらがこうさせる心が、そもそも好奇を感じて知ろうとしたはずのそれが、いまだによくわからないという有様である。
よく理解できない心でこいつらは喧嘩し、酒を呑み、そして肩を並べて騒ぎ合い、そしてまたその中で喧嘩をしている。
「あ? んだゴラ、この不真面目三文ゴシップ記者かつ天狗族の恥曝しが、売ってんのか? それは、私に売ってんのか……喧嘩を……!」
「おお? 今日は隣の家の馬鹿な飼い犬がよく吠えるわねぇ……ああ、ごめんごめん、いつものことだったわ」
「噛み殺す」
「あー、もう、落ち着きなさいってば椛ぃ! 文も煽るんじゃない!」
「おお、はたてちゃんが怖い怖い」
「っ……誰か、っつかにとり、そこの首を左右にかくかくさせてる馬鹿天狗の口塞げ!」
「ひゅいっ!? 私かよぉ!?」
というより、今まさに目の前で始まりやがった。
取り押さえようとして殴られ、そして次の諍いが飛び火し、というような混沌とした状況をうわぁと思い眺めながら、
「っ、ははっ」
思わず笑いがこぼれ出た。結局こいつらの心なんてわからず、そしてまた、
「馬っ鹿みたい」
そんな自分が、ここで同じようにこうしている心も、本当のところよくわかっていないのだ。
その不明瞭な心は、果たしてこいつらと同じものなのか、それとも別のものなのか。
やっぱりそれもよくわからないけれど、ただ一つ、確かなこともあって。
「……」
瞬く天を仰ぎ見る。ここでこうして、不思議な感情を抱きながら、地に在って空を見る、そんな状況も悪くないと、そう思っていることだけは
「確かだわ、ぬへっ!?」
「あ、ごめん!」
突如顎に走った衝撃と共に間抜けな声を出して、そのまま天子がゆっくりと前を向けば、さらに拡大してしまった殴り合いの現場が目の前まで迫っており、それに混ざって騒いでいた氷精の肘がきれいにヒットしたというような状況らしく、
「……ふふ」
理解して、とりあえず天子は静かに笑うと、杯をぐびりと飲み干して空ける。
「上等だゴラァ!」
そして空いたそれをどこかへ投げ捨てると同時に叫びながら、そのもみ合いの火中へと突っ込んでいった。
2
「はぁ……」
疲れたような息を吐き、そして天子はまた天を仰ぐ。
今度の先に見えるのは、抜けるような、己の髪色のようなその空と、焼き殺さんとばかりに爽やかで暴力的な光を放つ太陽。
「体、だっる……」
呟いて、手に持った串団子へと、よろよろと口をつけた。
§
昨夜の宴会の途中から意識を失い、気がつけば天子は早朝の靄漂う神社の境内、石畳の上に仰向けで倒れている己に気がついた。
肌寒さに思わず自分の腕を抱きながら体を起こすと、見渡せば辺りには同じような屍達が両指では足りないほど無惨にも放置されており、全員意識を失ったまま、早朝の気温と石畳に体温を奪われ、ガタガタと震えていた。
「奈落か、ここは……」
思わず寒さのせいだけではない背筋の震えを覚えながら、とりあえず天子は掌を合わせてその仏達の安息を祈ってから、凄惨な現場からふらふらと逃げ出した。
それから当て所もなくぶらぶらと歩き、酒は残ってはいないが、とりあえずまともな休息が取れなかったことによる虚脱感を抱きながら、
「天子さん、調子悪そうですねぇ……はい、お茶」
「ん、どうも」
人里の茶屋にて団子をかじりながら、一息ついているというところであった。
お茶を運んできた、茶屋の店主の娘である少女から温かい湯飲みを受け取りながら、天子はもそもそと口を動かして団子を噛み、
「あ゛ー……沁みるわ……」
一口含んだ熱い茶と共に飲み下して、喉から体を走っていく温かさに思わずそんな声をこぼす。
「ふふ、やだ、おじいさんみたいですよ、天子さん」
「実際、あんたと比べればその十倍くらいの歳の差よ」
あまりにじじむさい天子の行動に笑ってしまう少女へ、天子はいまだ茶の効能に感動しながらそう答える。
二年前のあれから天子は、地上にたまにふらっと降りてきては、人里やこの郷中をもの珍しそうに歩いて回ったりしていた。
そしてそんな放浪の中でこの茶屋を見つけ、中々うまい茶を出すことが気に入って、そこそこの頻度で通うようになってから、今ではこんな会話が成り立つくらいに常連となっていた。
「昨日も博麗神社で宴会だったんですか?」
「まあねえ……霧雨の魔法使いと弾幕ごっこしてやってたら、ついでに誘われてね」
「すごいですよね、あの宴会……この里からも何人も酒豪自慢の人達が挑んでますけど、まともに歩いて帰ってこれたのは数えるくらいですもん」
今は他に客もいないので、少女は店の外に面した朱布の席に座る天子の横に立ちながら、そんな会話を続ける。
最初は気難しい客だと思われていた天子だったが、いつの間にかいつも茶を持ってくる少女と二、三、言葉を交わしたりしている内に、向こうから打ち解けてきて、こんな世間話をするようになって、
「天界にだってあんな酒呑み共はそうそういないわよ……なんかもう、破綻者の集いだね、あれは。参加しない方がまともだわ」
そして、天子も存外、そんな会話と、それをしてくる少女を気に入っていた。
最初の方こそ、下賤な地上の者というような認識も頭の隅にあったが、結局そんな奴らの一部にぶっ飛ばされた自分というのも、どれほどのもんかと自嘲するようになって。
今では天人としての誇りなんていうのも、天子の中ではくだらない、退屈な思想に成り下がっていた。
「あれ? それじゃあ、天子さんも破綻者ということなんじゃ……」
「そうよぉ、不良天人だからね。破綻者としても超一流さ、地上の奴らにゃ負けないわ」
偉ぶった調子でそう言うと、二人は顔を見合わせて笑う。
「でも本当に、すごいですよね。二年前の地震とか、変な天気とかって、全部天子さんが起こしたんですよね?」
「ん……まあ、ね」
その言葉に、天子は少し煮え切らない返事を返す。
そんな事実もすっかり話してしまうくらい交わってしまった今となっては、
「ここら辺も結構揺れて、私も地震なんて初めてでしたから。もうびっくりして……」
少女の話を聞きながら、天子は黙り込んで、ぼんやりと考える。
天上に在ったあの頃は、今横にいる少女も、目の前を通り過ぎていく地上の者達も、まるで蟻の這っているようにしか思えなかった。
だから何のためらいもなく、地を揺らせた。
しかし、今となっては、
「それで、すごく怖くって」
少女の言葉に、苦みを覚える。ああ、そうだ。
……悪いこと、しちゃったのよねぇ……
そんなことを思ってしまうくらいには、天子の心はそこに近づき過ぎていた。
天界にまでカチ込みかけてきたような奴らに対しては全然思っちゃいないが、巻き込んでしまった、こういう無関係な者達に対しては、天人としちゃあるまじきだったかなぁ、と、天子は目をつぶって静かに考える。
「それで、また、あんな地震が起こったらどうしようとか、最近思ってしまうんですよね……」
「ああ、そうね……」
そして少女のそんな言葉に、ぼんやりしていた意識を戻して、言葉を返す。
「……私の力ってさ、大地を操るものなのよね」
そこまで言って、不意に自分を不思議そうに見つめる少女の視線と、己の言わんとしている言葉に気恥ずかしさを覚えて、
「だからさ、こんな郷の地震くらいなら」
顔を逸らしてそっぽを向きながら、
「私が鎮めて……あげるわよ」
最後の方は小さく口ごもるようにして、そう告げた。
「……」
しかし、それを最後までしっかりと聞いて受け取った少女は、一瞬驚いたような表情からすぐに戻って、
「はい、お願いしますね!」
満面の笑顔と共にその言葉を、耳まで赤くしている天子の後ろ頭へ返した。
3
そんな風にしばらく地上をブラブラとしてから、その日の夜に天子は地上から天界へと戻って来た。
天人くずれと称される比那名居の一族にあって尚札付きと称される不良天人の天子である。
更にはこの地上へ遊びに行くクセがついてからは放蕩娘の号までいただいているらしいが、どんな呼び名が付こうが本人にとっては知ったことではなく、また同じくくずれと呼ばれる程度には変わり者の一族の者達も娘の矯正は早々に諦め、口うるさく干渉することもなかった。
だから今回もまた、数日ぶりに家を空けてまたふらりと戻って来た娘に対して家人が問うことなど何もないはずで、天子もそのつもりで家に入り、
「総領娘様! 大変でございます、御当主様が至急顔を出すようにと……!」
いつも通りの日々が、いつものように終わるはずであった。
§
深夜の博麗神社。昨夜の宴会がまるで幻であったかのように、今その境内には何もない。
ただそこを照らす月と、星と、
「……」
そこに無言で立ち尽くす、天子が一人だけで在った。
背腰に緋色の刀身を抱く剣を斜めに差し、感情を浮かべぬ顔で本殿に背を向け、鳥居の方を睨んでいた。
そうしながら天子は、先程天界の自宅にて聞かされた話を静かに思い返す。
§
「あの郷に挿した要石の具合がな、どうも大分良くない」
小間使い天女の必死な声に急かされて、比那名居の現当主である父の前へ出ると、そう言われた。
郷、と、その単語を聞いた瞬間、天子の心臓がどくんと跳ねる。
「よろしくありませんか」
「まあな」
「……どの程度で?」
内心の動揺を押し隠して、平然を装いながら問う天子へ、当主は本当に何でもないことのようにこちらも平然と、
「無茶な挿し方をしたせいか、地脈がすでに滅茶苦茶にひずんでおる。挿し直さなければ、近く崩壊するだろう」
そう、言い放った。
「……っ」
言われて天子は息と共に、生じた驚愕を無理矢理に飲み込む。飲み込んで、その荒れる心が、跳ねる鼓動が、表層に飛び出さないように必死に抑えつけながら、
「それ、で……それを私に話して、どうせよと?」
「それだがな、娘よ。お前が」
最早睨みつけるような娘の視線へ、見下ろすように向き合いながら父は告げる。
「お前がその郷の石を抜いて、挿し直し、大地を禊げ。家の務めだ」
言われて目を見開く、その娘へ、
「お前が、やるんだ」
§
「それでも大分に地は揺れ、裂け、酷いことにはなるだろうがな。完全に崩壊してしまうよりはマシだろう」
感情を一欠片も乗せずにそう言い放つ当主へ、天子は最早先程までの焦燥から別物へと変化した、煮え滾るような感情を込めながら言葉を返す。
「……では、家の務めだとおっしゃるのでしたら、このような半端者になど任せずに、御当主自ら行われてはどうですか? そこまで決断を下されているのならばね」
しかし、その言葉にすら、まるで取り合う価値などないと断じているかのように、変わらぬ態度で当主は返す。
「いや、やらん。私だけではない、お前以外の誰もだ。お前がやらぬと拒否しても、家人の誰もその任は継がぬし、継がせぬ。半端者だからこそ」
そして、話はこれで終わりだと告げるように背を向けて、
「お前がやるのだ、天子よ。己の不始末は、己の手で決着をつけてこい。わかったな」
首だけ振り向いて、睨みつけ、そうされてびくっと一瞬竦む娘へもう何も向けずに、父はその前から去っていった。
§
そして天子の意識は、視界はまたここへ戻って来た。
あの後に家を飛び出して、そして真っ先にここへ、その要石を大地に抱く博麗神社へとやって来て、そして誰も存在しないそこでただ一人、立ち尽くす。
見据える先は鳥居の方角、そこを越えて更に遠く、神社から見渡せる、この郷の大地。
ここから見える、湖へ、人里へ、竹林へ、森へ、山へ、幻想郷の全てへ、天子は向き合っていた。
そして、静かに思う。
「ここを……」
この郷を、その大地を揺らし、かき乱させて、そうして、禊ぐ。
今にも崩壊を起こそうとしている大地の力を吐き出させるために、そうして吐き出したその力を全て均等に振り分け、正すために。
そして、その代償は――
「……」
代償は、崩壊に劣らぬほどの大地震だ。地は揺れ、裂け、その上に立つものを等しく飲み込むようにして引きずりまわし、そして壊す。
それでも、大地が砕け、全てが消滅するよりは大分マシだろう。ああ、言葉通りだ。
そして、それを行うのは、
「私、か……私が、起こすのか、それを」
呟いて、目を伏す。
確かに、それは比那名居の家の務めであり、そして私の役目だ。
以前の天子なら、以前の自分ならば、多少反目するところはあれど、基本的に家というものには忠実であろうとした。
己の能力と務めには少なからず誇りを持っていたし、任されたならば果たすことに何の異論もなかっただろう。地の崩壊と大地震、比べた場合の損得勘定など、簡単に出来ていたはずだ。
けれど、今は、違う。
「違う……」
そして、今一度、それを見据える。
その大地を。己があの時から今日まで歩き、そして見て回り、それに触れ、感じた、その郷の全てを。
見渡していた視線を、ある場所へ固定する。それは、人里。
「違うんだ……」
そこに住む、ちっぽけな茶屋のちっぽけな娘と交わした、約束とも呼べぬような、ちっぽけなその、己の言葉を思い返す。
強く、拳を握る。
「私は……っ」
比那名居天子には、もうその少女には、この自分ではもう、それは起こせない。そんな地震を、起こすことは出来ない。
最早、家と、己の身と、務めと比べて、簡単に放り捨てることのできないものがここにあった。
ここに、この郷に、その全てに、私は、作ってしまった。
そんなものを、そんな心を。
「――」
だったら、だったらどうする。どうすればいい。
向かい合うのは――
「己の、業か」
自分の全てを決めつけようと、喰らいつこうとするそれに、抗うしかない。刃向かうしかない。
背腰の剣を抜いて、眼前に掲げると、夜に照らす。
「私の力は、地を操る……だったら」
そしてその刃先をくるりと反転させると、己が立つ地に突き立て、
「こんな郷の地震くらい、見事鎮めてやろうじゃないの」
背を曲げてその柄へ額をつけ、己に言い聞かせるようにそう呟いた。
4
それから神社は朝を迎え、昼を過ぎ、緋色を空が抱き始める頃、ようやく境内へ一つの影が降りる。
「お待たせしたかしら」
軽やかに石段を登りきった歩を踏み終える、波打つ金髪を垂らし、紫色の服を纏った妖しい女。妖怪、
「あんたが来たか……」
ゆっくりと振り返る天子へ、薄気味悪い微笑みをおくる、八雲紫。
「私以外の、誰が来ようと言うのかしら。ねえ?」
見透かすようなその眼差しに、天子は負けじと睨み返す。
「道理で、巫女が一日中神社放り出して不在なわけだ」
「ええ、ここには最早、当事者しか存在し得ない……」
喋りながら紫は、どこからか手扇を取り出すと、開く動作のまま口元を隠して、
「ならば、さあ、早く要石を抜き、そして挿し直して頂戴。この郷の」
唯一見える眼差しが、一気に熱を失い、冷め切っていく。
「大地震と、引き換えにね」
§
そう言われて、しかし天子は向かい合って動かず、ただ目を伏せるだけ。
「私は……」
ゆっくりと紡がれる言葉は、
「私には、出来ない……する気も、ない」
どこか、何かに請うような、響きを含んで。
それを聞いて紫は、
「あら? これは珍しい……どうしたの? 貴方が」
からかうような、楽しそうなその調子とは裏腹な、
「かつて同じようにこの地を、己の退屈と共に揺らして、乱したお前が、そんな言葉を吐くだなんて」
酷く温度の下がった、冷淡な声で言い放った。
「随分笑える冗談だわ。どういう心境の変化かしら」
「……」
その言葉に、天子は無言で目をつぶる。
その瞼の裏側で、これまでと、
――お願いしますね、天子さん
あの時の笑顔を、思い返して。
「……お前には」
目を開くと、目の前の女を見据えて、告げる。
「お前には、わからん」
その視線に、紫は相変わらず口元を開いた扇で隠したまま、その目だけでしか感情を表さない。
「ふぅん……ああ、そう」
そして退屈そうに、そう相槌を打った。
「……それに、そもそも自分より偉そうにしてるような奴の言うことに従うっていうのが嫌いでね」
そんな紫へ、次に天子はいつもの己の、傲岸不遜な調子を見せながら、
「私がどうするかは、私だけが決める。従わせたいのならば」
好戦的な笑みを作って、背腰の剣を抜き、地に突き立てる。
「力づくで、やってみせるがいいわ」
そうして己を睨みつけてくる天子に、紫は静かに虚空へ息を吐く。
「――そう、ああ、そうね。そう言えば私って、天人って奴らが大嫌いなのよ。傲慢で、全てを見下していて、そして反吐が出るくらいに合理的」
それから、そう一気にまくし立てるように言い、
「でもね」
そう、続けて、
「それ以上に、まるで聞き分けのない、頭の悪い餓鬼っていうのが、それ以上に大嫌いだったの。思い出したわ」
紫はにこやかに目を歪ませると、手首を振って扇を畳み、その中程を掴んで握る。
「だからね。今度は『美しく残酷に』だなんて、生温いことは言わないわ」
握って、そのまま力を込め続け、
「屠殺される豚のような醜い泣き声をあげながら――」
へし折って、潰す。
「這え」
手を返してその扇の残骸を地に降らせると、同時に二人は構え、全てが動き出す。
§
しかし、
「……っぁ!」
しかし、その戦いの実は、酷く一方的で、
「はっ……! はぁっ……!」
「……」
その差は、恐ろしい程に歴然と存在して、
「っ……くしょう……! 何で……」
緋に染まる神社の境内で、言葉の通りに、傷だらけで、蒼髪の少女は這い、
「……」
妖怪の女は、その姿を無傷のまま、無言で見下ろしていた。
§
「何でだよ……!」
膝をつき、背を曲げて、そうして俯いた先にある、石畳を見つめながら、
「何で、私は……っ!」
引き倒され、投げ倒され、殴り倒され、打ち倒され、繰り出す抵抗の全てを弾き、受け、逸らされて、一方的に何もかもを打ちのめされた。
そのボロボロの体で、必死に立ち上がろうとしながらも、最早体の何処にも力が入らずに、天子はか細い叫び声だけをあげる。
「……覚悟もない」
そんな天子の目の前に悠然と立ち、見下ろしながら紫は、あれから今まで一言も発することのなかった口をようやく開く。
「守るものも、背負うものもない、そんな己の身一つだけのちっぽけな餓鬼が」
そして、まるで一欠片の許容も慈悲もなく、
「勝てる道理など在るわけがなく、そんなものに私が負ける道理というのも、微塵も其処に在りはしないわ」
その事実を言い放った。
§
それを聞いて、
「ふざっ……けんな……!」
天子は湧き上がるその感情と共に、目の前の地を殴りつける。
「私にだって……っ」
そうだ、こんな自分にだって、
「守りたいものくらい、あるんだよ……っ」
いつの間にか、手放したくないものが出来ていて、
「背負ってるもんくらい、ちゃんと、あんのよぉ……!!」
だから、だからこそここにいて、そして抗っているのだ。
掠れた、それでもしっかりとした叫びと共に顔を上げて眼前を睨みつけて、立ち上がろうとする。
しかし、
「笑わせるわね、お前が守りたいものだなんて」
目の前のその女は、冷ややかな視線のまま睨み返して、
「己の今の位置で、評価で、ただ誰かに、嫌われたくないというそれだけで」
放たれるその言葉に、動きが縫いつけられたように止まる。
「結局は、己が身一つのことだけじゃあないか」
女のその顔が、嗜虐的な笑みに歪む。
「なあ、比那名居天子」
§
「自分の得た居場所を失うのが怖い?」
女の口がそう言葉を紡ぐのを呆然と、動かそうとしていた体をぴたりと止めて少女は見上げる。
「得た関係を失うのが怖い?」
やめろ。唇が震えるように動いて、掠れた息だけを吐き出す。やめろ。
「また孤独な自分に、己以外の存在は全て下にしかなく、縛るものすら存在しない拘束の中へ戻るのが怖い?」
やめてくれ。
「本当に笑わせてくれるわね。だから今のお前は、天人ですらない。只々、自分の業に向き合うことも出来ずに、背を向け、耳を閉じ、震え続けている」
やめてくれ……!
咄嗟に手を動かして耳を塞ぐと、少女は地にうずくまる。
「ただの、馬鹿でちっぽけな餓鬼の一匹に過ぎないのよ」
§
わかっていた。本当はわかっていたんだ。
地震を起こして鎮めなければ、大地が崩壊することもわかっていた。
崩壊を防ぐには、他に方法なんか一つもないこともわかっていた。
そしてそれは私以外には出来なくて、それを私以外が、その原因を二年前に作った私以外が行うべき責任なんて、他の誰にもないこともわかっていた。
そして、私の、こんな私のちっぽけな力では、それに、自分の業に抗いきれるはずなど、刃向かえるはずなど、それから逃げきれるはずなどないこともわかっていた。
そして何よりも、何よりもわかっていたのは、その全てを考えないようにして、見ないようにして、気づかないふりをしていた自分自身だ。
そうすることで、それを行うことで、私は、自分を失うのがたまらなく恐ろしかったのだ。
今の、一人じゃない、誰かと一緒にいられる自分というのを失ってしまうのが恐ろしかったのだ。
私はあの約束を、あのちっぽけな己の言葉を守れないのが怖かったんじゃない、それを破ってしまうのが怖かっただけだ。
結局、私が守りたかったのは、この郷のことでも、酒を酌み交わしたあいつらのことでも、あの子のことでもない。
私が守りたかったのは、ただ私自身だ、その輪の中にいた私自身だ。
私が背負っていたのは、責任でも、使命感でもない、ただそれを失いたくないという恐怖だけだ。
結局、私の中にあったのは、私自身のことだけで。
そんなこと、最初から、わかっていたんだ。
わかってた。
わかってたさ……。
§
「……かって、るわよ……!」
うずくまったその体から、くぐもった声がこぼれ出た。
「……わかってんのよ、そんくらい……!」
見つめ続ける石畳に、ぽたぽたと滴が落ちる。
「あんたみたいな奴に言われなくたって、全部わかってるわよ!!」
そして、一際大きくそう叫ぶと、天子は地を殴りつけ、一気に立ち上がって眼前を睨みつけた。
「じゃあ、だったら、だったら何なのよ!? こんなものを抱くことが」
睨みつけるその瞳からは、止めようもない涙が溢れ出て、
「こんなものしか抱けないことが、そんなに悪いことなのかよ……!!」
溢れ出す涙も、悲しみも、後悔も、怒りも、恐怖も、全てを混ぜ合わせて叫び声にして、天子は目の前の女へと突っ込んでいく。
「嫌われたくないって……そう思うことが、願うことが……!!」
最早、何もない。自分以外何もない天子は、自分だけを、その拳だけをぶつけるしかない。しかし、まるで動こうとせず、避けようともせずに、何も言わず、無表情で、その天子の殴打を紫は受け続ける。
「そんなに悪いことだって、いうのかよぉ……!!」
それから最後にそう叫ぶと、紫の頬を思いっきり殴りつけて、天子の動きは止まった。
そして、殴られた紫は、口の端から一筋の血をこぼしながら、
「だったら……」
張り付いたような天子の拳を引き剥がすと、その手首を強く握って、
「だったら、どうするのよ。お前は、そうして」
持ち上げると、引っ張られるように紫より背の低い天子の体が引き寄せられ、そしてその顔が力なく上を向くのを、鋭利な視線で見下ろす。
「そうして、誰もいなくなった大地の上でただ一人、誰にも好かれも嫌われもせずに、生きていこうとでもいうの?」
天子の目が驚きに見開かれるのを見下ろしながら、紫は続ける。
「ふざけんじゃないわよ。嫌われたくないと、好かれていたいと、一緒にいたいと、そんなどうしようもなく願うならね」
その鼻先まで顔を近づけると、相手の虚ろな瞳の中に己の顔を映しながら、
「そんな風に思えるような存在がお前の中にあるのなら、それができたのならば、どんなことをしてでも、自分が泥を被ってでもそれを守り抜こうと、そうしようとするのが何よりも大事なことでしょうが!」
そう、はっきりと至近距離で言い放つと、ふんと鼻を鳴らして、掴んでいた腕を投げ捨てるように放す。
「う……ぁ……」
そうされて、その言葉に狼狽えたまま、腕の放たれる勢いに引きずられ、天子は後ろに二、三歩下がった。
「だから、だから私はここに来ているのよ……! この郷を、その全てを失うくらいなら、私は……!」
そして、そのまま真っ直ぐ天子を見つめるその女は、そこから血がゆっくりと滴り落ちるほどに拳を握り締めて、
「それを、決断出来るわ。自らが行うことだって辞さない。たとえ、己がどう思われようが、どうなろうが、それを、私の全てに等しいものを守ることが出来るならばね……!」
射抜くような視線の強さと共に、抑えきれずに溢れ出たその激情と共に、確かにそう言い切った。
しかし、それでも、そのような強さと共にあって尚、目の前のその女は己の身を震わせて、言葉を続ける。
「――けれどね、だけれど、今回それが出来るのは、貴方だけなのよ……! 貴方しかいないのよ……!」
だから、と、その女は、最早激情だけではない、願うようなその思いも込めて、
「だから、お前が自分を殴りつけて従わせて欲しいのなら、素直にそうしてやる。地に頭を擦りつけて頼みこんで欲しいのなら、そうすることで行ってくれるのなら、喜んでやってやるわ。だから、比那名居天子――」
少しだけ俯くようにして顔を伏せ、その言葉を、
「お前の中にも、この郷に対して、少しでもそんなものがあるのならば、頼む……!」
その強く誇り高い、誰に対して弱みの一つすら見せなかった心の全てを投げ打って、
「……お願い……この郷を、その地の捻じれを、正して、鎮めて頂戴――」
その懇願とも言えるような言葉を天子へと放った。
§
それを、その姿を、
「あ……」
その妖怪の、この郷の守護者の確かな覚悟を目の前に見て、天子は悟る。
「ああ……」
最早、自分はやるしかないのだと。
「うああ……」
この女が、妖怪が、そうしているように、あの笑顔を、あの場所を、あの気持ちを守るためには。
「うああぁぁ……! あああぁぁあぁ……!」
同じような覚悟でもって、それを行うしかないのだ。
ここから今でも見渡せる、この景色を。
この、美しい郷を。
自分が揺らして、引き裂いて、壊すしかないのだ。
「ああぁああぁあぁ!!」
自然、己の内から溢れ出る慟哭を抑えることなく放ちながら、天子は再び地に跪き、それを濡らした。
5
「……」
緋に染まる天と、それに照らされて、いまだ美しくそこ在る郷が、天子の目の前に広がっていた。
「ねえ……」
そして天子は、己の傍に立っているであろう存在へ、顔を向けずに問いかける。
「里の人間達は、大丈夫なんでしょうね……?」
その問いへ、同じく問われた紫も顔を向けずに、
「心配されるようなことじゃあないわよ。何のために巫女がいないと思っているの? 郷中総出で、避難や何やらは既に済ませてあるわ」
「……そう、ならよかったわ」
その答えが得られたなら、最早これ以上交わす必要もなかった。
「……」
そして、天子は無言で緋想の剣を掲げ、その終末的な、見上げる先の空と同じような緋を抱く刃の輝きを網膜に焼き付ける。
その色は、波打つように煌々と纏うそれは、血気を盛んとさせる魔にも似て――かつ、地を浄化せし天にも通じているようにも見え、天子は不意に自らが握り締めている物に意識を乗っ取られるかのような錯覚を得た。
これを大地に一刺しすれば、それだけで郷は崩落する。
眼下に在る景色の全てが圧され、潰されて。
世界が……その、誰しもの居場所が壊れてしまう。
人が、妖怪が、神が、妖精が、花が、木が、山が、自然が、家が、里が、何もかもが、全て、荒れ果てた大地に放り出される。
「――」
確かに、幻想郷がその形態を失うことはないのだろう。その後で荒野に呆然と佇むしかない命も、やがて再び郷を立て直すことができるだろう。だがしかし、そんなことを言い訳とできる筈もない。
今より放つ衝撃がどれほどの不幸を生み出すか――理解出来ない筈がない。
これまで話してきた人妖、これまで見てきた風景、これまで聞いてきた命の音。その全てが落ちて行くのは、緋色の闇で満ちた奈落の未来。
導くのは、この両の手に握った一振りの剣。
あまりにも重い、一本の緋想。
意識すると共に、汗が静かに地に落ちた。
災いを前にしてあらゆる自然が押し黙り、世界が静謐に満ちる中、天子はただ一人、その鈍い輝きが心臓を圧迫する音に耳を侵される。
車輪の回る音にも似たそれを拒んで、ふるい落とそうとするかのようにその身体が震えても、効果はまるでそこに無くて、
「あっ……」
不意に涙が静かに地に落ちた。
滅茶苦茶に暴れ、乱れる動悸は、同じような呼吸を生み出し、冷静さを残酷なまでに削り取っていく。
「……!」
それを無理矢理抑えつけるように、全ての指に力を込めた。
そうして、自らが握っている物が何であるのかを再度確認する。
あまりに多くのものを奪う、あまりに眩しい光。
それを更に高く、高く掲げて、天子は目を強くつぶると涙を散らす。
それから、勢いをつけるように、胸の内に在った息を全て吐き出し、
「っ……!!」
刃先を真下へ向け、一気に刃の半分以上までを石畳を越えてその下の地面へと突き立てた。
そうしてから、一瞬動きを止め。
「ご……」
――ごめん……
――ごめんなさい……
誰へ向けるでもなく、そう呟こうとして、
「……っ」
しかし、己にはそんなことを呟く資格すらないのだと思い当たり、それを飲み込む。
そして、その代わり、
「あ――」
自分の身体へと突き立てたそれを引き抜くような、
「っ、あぁ――」
その身体の、心の痛みを、その感覚を全て乗せて、
「――――ッッ!!」
嘆きのような、子供の泣きじゃくるような、そんな声にならぬ叫びを上げて、一気に地へ突き立てた刃を、剣を引き抜いた。
§
その動きと同時に鼓動のように一度神社の地を揺らし、そして一定間隔でそれを鳴らしながら、破裂しそうなペースまで到達すると地を突き抜け、その上の石畳を引き剥がしながら、注連縄をつけた巨大な要石がその姿を二人の目の前に現した。
そして、
「……!」
郷中に響くように、地中の奥深くで、ずん、と、何かが破裂したような音が響いた。
続いて視界が震え、足下が震え、木が震え、山が震え、目の前の景色が震え、何もかもが震え出す。
地が揺れている。揺れて、震えて、うねり、叫び声を放つように轟音を鳴らしながら、のたうっている。
その上に立つものを、在るものを、全てふるい落とそうとするかのように、引き裂くかのように、揺らし、飲み込んで、抵抗すら許さずに、崩し壊してゆく。
そして、それに、その渦中に飲み込まれることすら出来ずに、天子はその、大地の暴れ狂う様を見つめていた。
その郷の、美しかったその景色が全て蹂躙され、無へ還ってゆくのを、ただしっかり立ったまま、見つめていた。
目を背けるな、見届けろ。そう、自分に言い聞かせながら。
その己の業から、最早逃げ出すことも出来ないのなら、せめてしっかりと目に焼き付けろ。
己が何を為したのか、その全てを、余すことなく。
すでにその心の中には何もなく、その口からは何も発さず、その瞳からは何もこぼさずに、天子は最後までしかと地面に足をつけて直立不動のまま、それを見つめ続けていた。
§
そうして、いつしか目の前の全てが止まっていた。
泣き腫らしたように濃く緋い空の下、最早そこに神々が恋をした程の美しい郷の姿は、一欠片も残ってはいない。
全ては巨大な、巨大な獣がその上で暴れ回ったかのように、何処へも引き裂かれた爪痕が残され、磨り潰された残骸で溢れ、空へこぼれ落ちるような黒煙が上がっている。
「……わた、しは」
そしてあれから微動だにせず、ただそれを見つめ続けていた天子がようやく口を開いた。
「私は、許されないだろうな……」
ただ静かに、何の感情も乗せず、確認するようにそう呟く。
「……そうね」
そして同じようにして無言でその傍に立ち続けていた紫も、ようやく言葉を返す。
「少なくとも私は、私の大事なものをここまで滅茶苦茶にしてくれた奴を、絶対に許しはしないわ」
睨みつけるように視線鋭く、その黄昏の風景を見ながら吐き捨てるようにそう言って、
「ただ――」
それから少しだけ目を伏せ、
「同じように、少なくともこの郷を救ってくれた誰かのことは、ずっと覚えているでしょうね」
静かに、しかしはっきりと、そう告げた。
その言葉を受け止めて、
「――ありがとう……」
天子は目をつぶり、絞り出すような声でそう返した。
「……さて……」
そしてようやく顔を上げて視線を動かすと、それを見上げる。
引き抜いてから、そのままずっとそこに浮遊し続けていた、その巨大な要石を。
「そろそろ、こいつもまた挿し直してやらないとね……」
そして、次に目の前にぽっかりと開いた、それが挿さっていた大穴へ視線を動かしてそう言った。
「……今度は、こんなことにならないように、しっかり頼むわ。癪だけれども、やはり貴方にしか出来ないのだから」
少し悔しそうにそう返す紫に、天子はその背を向けたまま、
「ああ……」
右手に掴んだ緋想の剣を一瞬見やって、
「ああ、わかってる」
そう、紫だけではなく、己に向かって応えるように言うと、左手で帽子を脱いで放り捨て、次に自分の、腰程まである長さの蒼い直ぐ髪を一束にして、首の後ろ辺りで掴んだまま、
「――」
剣を持った右腕を頭の上から回すように左肩へ、刃先が地を向くように動かし、それから束ねたその髪の房へと緋色の刀身を走らせる。
何の抵抗もなく、するりと刃が通り、その蒼色を切り落とした。
断たれ、離された掴まれていない方の髪が、ばらけるようにして重力に従い、天子の耳の辺りをくすぐって、止まる。
「っ、何を……?」
思わず呆然と紫が問いかける先、初めて天子は首だけを振り向いて流すようにして紫を見ると、
「地を鎮めるには、供物が必要でしょう?」
掴んだその髪束を掲げてみせる。
「……一応、こちらでも準備していたものはあったんだけれどね」
そう、軽い驚きと共にこぼして、紫はすでに開いて何かを取り出そうとしていた隙間を、指を鳴らして閉じる。
「それ以上に、十分過ぎるものが現れたわ。天人の頭髪だなんて、ね」
その紫の言葉に、初めて天子は、
「十分ですって? はは、まさか……」
自嘲の、軽い笑い声を漏らして、視線を大穴へと戻す。
「これでも全然、足りないくらいだよ」
そして吐き捨てるようにそう言うと、その穴の真ん中へと、その蒼色の髪を投げ入れた。
6
それから、しばらくの月日が流れた。
あれだけの大地震にも関わらず、郷の全員の協力により奇跡的に一人の死傷者も出ずにどこも何とか乗り越えて、ただほぼ廃墟同然と化した自分達の住居やらを復興する日々。
そんな、地上の日々の中に、人里の復興に協力して、ただ一人黙々と大工仕事に働き続ける、肩までの長さの蒼い髪をした少女の姿があった。
「……」
全ての事実は既に全員に知れ渡っていた。働く天子を見る、人間達の視線は決して温かいものではない。
そして天子もそれに対して何の釈明もせず、ただ黙ったまま、仕事に必要な最低限の会話をするだけで、決して以前のようにその中に交わろうとはしなかった。
もし何か、何かこの少女が自分から言ってくれるならば、人間達も、他の誰も、彼女とまた新しい関係を築こうと、そうすることが出来るかもしれない。
しかしそれにはまだ、幾許かの時間の流れが必要なように、少女も、誰しもが感じているようだった。
§
あの日のような緋に染まる空の下で、全員に休憩を促す声が響いた。
それに応えて、作業の手を止め、笑って何かを話し合いながら、働いていた全員が休息用に設けられた場所へ向かって歩いて行く。
ただ一人、その流れから逸れて全く別の方向へ向かう蒼髪の少女と。
「あっ……」
それに気づいて、その背中を見つめる、もう一人の少女を除いて。
§
「ふぅ……」
ゆっくりと、疲れを一緒にそこへ込めるようにして天子は息を吐き出して、誰もいないその廃墟の一角へ腰を下ろす。
仕事は休憩、しかし自分がその中へ混ざれるはずもなく、仕方なく全く別の場所でこうして休んでいるというわけであった。
「……」
天子は無言で空を仰ぎ見る。罪悪感がある、後悔がある、しかし、そこへ向かう足を止めさせる何よりの理由は、やはり恐怖だった。
あれだけのことを経ても、覚悟を抱いても、やはりそれに直面する恐怖というものだけが、どうしても抜けない。
ならばやはり、以前のように、そんな恐怖を感じることもなかった、そんな以前の自分に、戻ってしまう方がいいのかもしれない。
不意に手を動かして、あれからもう少し短く整えた後ろ髪を撫でるように触る。
覆うもののない首筋に感じる、突き刺さるような涼しさには、まだ慣れそうもなかった。
「はぁ……」
また息を吐いて、目をつぶる。しばらくそうしていると、
「はい、天子さん」
不意にそんな声が目の前で響いて、驚きと共にすぐさま顔を上げる。
「な……!?」
果たしてそこには、あの日以来顔も合わせていなかった、あの茶屋の少女がいて、そして湯呑みをこちらへと差し出していた。
§
「お茶だなんて贅沢はまだ出来ませんから、ただのお水ですけど……それでも、疲れた体には結構おいしいと思いますよ」
にこやかに、あの時のように微笑みながら、こちらへそう差し出す少女。
「な、何で……!」
それから思わず顔を逸らしながら、ぶっきらぼうな調子で天子は尋ねてしまう。
「何で、って……こうしちゃいけない理由がありましたっけ?」
あっけらかんとそう尋ね返してくる少女へ、天子は震える自分の声を意識しながら、
「理由なんて……聞いているはずでしょう、あんたも……!」
そう言って、思う。
顔を逸らしているのは、顔向け出来ないのと、それよりもやはり怖いからだ。
こんな、あのちっぽけな言葉すら守れずにここにいる自分を、この少女がどういう目で見ているのか、どういう思いでいるのか、それを、知るのが。
「それは、天子さんが、あの地震を起こしたから――そういうことですか?」
また問い返す少女に、天子はゆっくりと頷いて答える。
それを見てから、少女もゆっくりと息を吐いて、
「……実は、私にもね、わからなかったんです。あの地震はやっぱり凄く怖かったし、こうして生きてはいるけど、家はぺしゃんこになっちゃってたし、みんなはそれを天子さんのせいだと言うし、天子さんは何も言わないし……」
言葉を、続けていく。
「だから、どうしていいのかわからなかった。この地震のことで天子さんを恨めばいいのか、それともこの郷に住んでいる以上、いつものことだと諦めちゃうべきなのか。そんな風に悶々としてる間に、時間ばっかり結構過ぎちゃってて……」
そして、少女は、でもね、と、優しい声で、
「そんな風にしてる間、ずっと遠くから天子さんのことを見ている内にね、最近ようやくわかったんです。あなたが、何も喋らなくても、何も弁解しなくても、それでも」
微かに震える目の前の同じ少女へ、少しでも伝えられるように。
「里を復興するのに協力して、みんなのために働いている天子さんは、やっぱり以前の、私の知っている天子さんだって。だったらもう、それでいいじゃないかって、そう思ったんです。だから」
もう一度、次はもう少し前へと、それをずいっと差し出す。
「だから、また、いつもみたいに飲んでください。いつか、お茶が出せるようになる頃には、きっとみんなも、私みたいに思っているはずですよ」
その言葉に、震えを止めて恐る恐る、ようやく顔を向ける天子へ、少女はにこりと笑いかけた。
「あっ……」
その笑顔を見て、
「あぁ……!」
天子は崩れ出した己の顔を見せないように、咄嗟に動いてその少女へ抱きついて、その肩へ顎をのせる。
「ごめん……!」
そうして、戸惑う少女を強く抱きしめながら、
「ごめんね……!」
嗚咽を混じらせたその声で、謝り続ける。守れなかった己の言葉を、壊してしまったこの郷のことを、全てのことを、そこへ込めて。
決して消えることのない、刻まれた罪も、背負い続ける業も。
今この時だけは、許されてもいいのだと、淡く信じて。
大勢の人を巻き込む、ということになるとやはりその重圧、というのも計り知れないものですよね。
狭い目で見るとマイナスだけど、広い目で見るとプラスの場合は特に。
熱い紫様、大らかで逞しい茶屋の少女ちゃん、何気に渋い比那名居家総領、
それぞれに味があってとても素敵。
自分のケツを己で拭いただけの天子には何ら思うことは無い!
というのは大嘘で、確かに自業自得で郷の人々からも簡単には許されてはいけないのだろうけど、
それでも彼女を応援してあげたくなるなぁ。
泥まみれになって禊を終えて、いつの日か自己の罪を許容して欲しいです、天子ちゃんには。
最後に作者様二人の名勝負、堪能させて頂きました。
感謝感謝です。
天子の覚悟、しかと見届けました。
紫と天子の双方の考え方が熱く交差してたね
GJ
途中何か気になる事があったような気がしたんですが、最後まで読んだ今はすっかり飲み込まされてしまった。
見事でした。
天子は後半の里の復旧作業みたいな役回りがよく似合う
……背負ったものが重く重く背中にのしかかろうとも、天子はきっと立ち続けるでしょう。
泥にまみれて罵声を浴びようとも、立ち続けるでしょう。
簡単に許されることではないのかもしれません、ですが永劫に許されないことでもないでしょう。
良いお話をありがとう。
二人の想いは確かに重なっていたと信じています。本当、二人とも背負ってるもんがでけえよな。
そんなに分量はないのに、なんだか大作を読ませてもらった気分です。
ありがとうございました。
天子と紫の一騎討ちには「meaning of birth」が似合うと思ったがそうでもなかった。
傍若無人の主人公。幻想郷の崩落。己の罪に抗い、向き合い、受け入れる姿。
そして最大の見せ場、髪の毛バッサリ。
見事に原作の序~中盤を表してますねww
お話自体も大変素晴らしかったですし、こういったオマージュにもニヤリとさせていただきましたw
振り返ってみれば全編に渡ってTOAのシナリオなんですね…驚きました。
違和感がなさが驚異的すぎます。
台詞パロでもあるのかな?気付かなかったけど。
茶屋の少女がいい子過ぎてまた涙目
熱血ゆかりんが新鮮。ツンデレ……とはちょっと違うかな?そんな感じの天子もかわいい。主人公って感じ。
個人的には髪を切った所が良かった!(テイルズで唯一知ってる所
どうでもいいがテイルズ オブ ザ 天子 じゃないかと・・・
内容はまさしく期待以上。
うおお、合作もっと増えろー!
天子の主人公っぷりに燃え、紫の賢者としての姿に惚れた
物語も容量考えたらやや唐突だけど、その荒削りさ加減がまたいいのかもしれない
どこがそれ風なのかなと思ってたけど、確かにまんまアビスだ、スゲー!
緋想の剣を挿すとことかあのシーンではないか
本当に言われるまで分からないくらいでした
コメ見てくうちに思い出し泣きした私がいた
天子が聖なる焔の光だとするなら紫はその燃えかすでしょうか。
テイルズも東方も好きな自分にはたまらない作品でした
確かにまんまだわw
すごいな違和感なかったです
>天子が聖なる焔の光だとするなら紫はその燃えかす
何がいいたいんだ、こいつは…?