目を覚ました時、そこは仄暗い穴倉の中であった。石造りの湿った壁、遠くに見える燭台の明かりだけが頼りの、じめじめとした不快感だけが支配する世界である。
一体何が起こったのか、少年にはまるで理解が出来なかった。
「ちょえー……何すか何すかこれぇ、ちょ、ひゃーんぴゃねーんですけどぉ……」
追いつかない理解と精神を補う為に軽口を叩く。それに答える者はいない。立ち上がり、燭台の見える方へと足を進めようとしたが、途中何かに阻まれた。
「――鉄格子?」
鉄格子である。疑問符要らない、鉄格子である。つまるところ人様を拘束し監禁する為に用いられる、ただの人間の力ではどうしようもない、スカスカの壁である。超人でも連れて来ない限り破られはしないだろう。
「むぅッ」
力を込める。無駄である。残念ながら少年はアレ○サンダー大王でも○レキサンダーカレリンでも○伏アレキサンダー広冶でもなく単なる一般人である。
「……あれ、これ、僕詰んでる?」
大体あっている。鉄格子を破って逃げられるのはゲームかアニメか映画か小説かともかくフィクションの人物だけだ。凡人と定義された人間に、この状況を打破するだけの力は、生憎と無い。
「――誰かきた?」
やがて、少年の耳に何者かの足音が届く。耳を済ませていると、その足音からそれが二人、そして女性であることが、何となしに理解出来た。
「今回は活きが良いですよ、まだ十代ですし、服毒もしてませんし、摂生で内臓も綺麗な事でしょう」
「出来れば女の子が良かったのだけれど」
「それはまた次の機会に。今回はこれでご勘弁を……あ、ハンコください」
「貴女が五月蠅いから作ったわよ、私名義で」
「珍しい名字は苦労しますね」
「ハンコにしろって言ったのは貴女」
「残念ながらご主人様がそうしろというので」
「お互い大変ね」
「まったく。ではでは、また二ヶ月後にでも」
「次は女の子ね。RHマイナスで」
「日本人に0.5%しかいないんですってば。半分にしたら0.25%じゃありませんか」
「ご主人様がいうので」
「お互い大変ですねえ」
「まったく。じゃ、宜しく」
「はいどうも、失礼しました」
一体どんなやりとりだろうか。平平凡凡に尚且つ当たり前に生きて来た一般現代人である少年には、当然理解不能の会話である。言葉の端々の意味は解るが、どうしてそんな会話が成り立つのか、が解らない。
解らない方が幸せであろう。
「あ、あの、どーもー」
「……」
少年の眼の前に現れたのは少女。歳の頃は、少年と同じか、少し上だ。白、というよりは銀色の髪。顔立ちはアジア系ではあるが、彫りも深く、ハーフかクォーターに見える。その服装といえば、なんとメイド服だ。少年は秋葉原かイベント会場でしか見た事がない。というか少年はこの少女にとても見覚えがあったのだ。
気が付いた瞬間、少年は噴き出す。
「ぶふっ」
「不躾ね。何笑ってるの」
「ええぇ――ちょ、えー……あ、ええと、三番目くらいに好きです」
「は?」
「でも今一番になる勢いですわ。いや、ほんと、完璧なコスプレって本人超えるんですね」
ちなみに少年が一番好きなのはフランちゃんであった。
「訳分からないこと言うわね。恐怖で脳に急性疾患でも催したのかしら」
「いやー、僕も良く解らないんですが、なんで僕、こんなとこ居て、しかも眼の前に咲夜さんがいるんですかね」
「……私の名前、何故知ってるの」
「あ、そういうプレイですか。何時参加したっけな……いや、記憶にないなあ……」
「あんまり食材と会話なんてしたくないんだけど」
咲夜の視線は実に冷めている。本当に、嘘偽りなく、人間を見る目をしていない。純粋にモノをみる目だ。家畜を見る目ですらない。
少年の耳には、今まさに食材、という言葉が届いたが、そういうプレイなんだとして納得する。どうも前後の記憶が怪しく、もしかしたら溜めたお小遣いでみんなより一足先に大人になってしまおうと、そういうお店に足を踏み入れて気を失ったという超絶不可解な現象に見舞われている可能性も否定出来ない。
少年の知識で行けば、眼の前の咲夜(コスプレ)の話は大体理解出来た。今自分は吸血鬼のお嬢様方にふるまわれる血液要員である(そういうプレイ)。これから恐らく、お目当てのフランちゃんがやってきて、ああいう感じでそういう感じのお話になるのだろう(そういうプレイ)。記憶は怪しいが、少年の軸にブレが無い限り、次に来るのはフランちゃん(コスプレ)である。
「気合い入ってるなあ……すげえ美人だし……こりゃ期待しちゃうなあ……」
「期待? 解体を? 変な食材ね」
「あ、じゃあ自分はこれから食材で良いです」
「そう。直ぐ死んでしまう人間の名前を覚えても無駄だし、食材君でいいわね。じゃあ食材君、夜には解体に来るから、楽しみにしていることね」
「焦らしかあ。延長かからないのかな。いや、そういう設定だろ、たぶん。はい。わかりましたー」
そう言い残し、咲夜(すごい美人のコスプレ)は去って行った。少年は実に幸せである。過去の自分の選択を褒めてやりたい程だった。法的に色々問題かもしれないが、終えてしまえばこっちのものである。
「いやはや。それにしても本格的だなあ。妥協許してない感凄いな。この地下っぽい空気も、雑居ビルの中にあるとは思えないよなあ。しかも女の子レベル高すぎるし。大丈夫か僕のお小遣い。記憶失う前の僕頑張りすぎだろ」
少年も色々と疑問に思う所はあるのだが、咲夜が美人すぎてそれどころではなかった。石畳に寝転がり、ゴロゴロする。すげーよ、どーすんだよこれ、やべーやべーなどとしている内に、一つの疑問がわく。
「あれ、でも解体(プレイ)に咲夜さんが来るの? フランちゃんじゃないの? ブレたのか僕」
もしかしたら、指名する段階で咲夜さんが美人すぎてブレたのかもしれない。あり得る話だ。何せ三番目に好きなのだ。人気投票において、キャラクター支援イラストの咲夜さんがあんまりにも可愛すぎて生きるのが辛くなり、フランちゃんを押しのけて咲夜を選んでしまったような感覚かもしれない。
ちなみに二番目はパチュリーだった。少年は典型的な紅魔スキーである。何度フランちゃんにボコボコにされたか覚えていない。お前は今まで避けたクランベリートラップの数を覚えているのかという質問に対して答えられないレベルである。
「……ま、そんなこともあるだろ。あるよな。ええと」
ポケットを漁り、携帯電話を取り出す。ツイッ○ーに『咲夜ちゃんマジ天使だった!!』などと呟こうとしたのだが、生憎と圏外だった。
「くそ、流石やわらか銀行流石」
通信運営会社をディスりながら携帯を仕舞う。もしかしたら本当に地下な御蔭で電波が届かないのかもしれないが、あの会社は町のど真ん中の喫茶店ですら電波が途切れるので敵意は全てそちらに向かう。
「しかしどのくらい待てば良いんだろうか。拙者、爆発しそうで御座る」
少年は俺爆発する、俺爆発する、などとホザきながら石畳をゴロゴロする。抑えきれないのだ。あんまり焦らされると、こう、色々爆発しそうなのである。
「うわ、ほんと元気良いんだ」
「むっ」
ガバりと起き上がり、声の方向へと顔を向ける。そこには驚いたような顔をした金髪の女児が居た。主に金髪で主に赤が基調で主に白い。
「フランちゃんktkr」
「これから死ぬのに元気が良い食材がいるって聞いたから見に来たんだけれど」
「いやあ、それほどでもないっすよぉ」
少年に戦慄走る。
これは不味い。
一体――どんな違法を犯している店に入ってしまったのか。眼の前にいるのは、間違いなく少年の記憶にあるフランドール・スカーレットちゃんそのものだ。どう考えても十代以下である。少年の見識にある人種には符合しない、白すぎる肌、赤すぎる目。幼すぎる容姿、滲み出る、人ならざる空気。
ちょっとやりすぎだろう、この店……などという言葉では片付けられない、何かがこの『フラン』にはあった。
(……あっれえ……いや……本物すぎないか? この店、もし本当にあったとしたら、特権階級の会員制なんじゃないか? てか……無い、と考えた方が、自然じゃないか? だってよ、このフランちゃん、フランちゃんすぎるぞ。てか、コスプレでどうにかなる範疇じゃないぞ。化粧でもねえ、カラコンでもねえ、コスプレでもねえ、素だ。素でフランちゃんだ。可愛すぎる。ありえん。存在しちゃいけないレベルでありえん……)
「なんでそんなに元気なの? 人間って、死の恐怖を感じると、元気っていうか叫びまわって震えるものだと思っていたのだけれど。あ、ちなみにね、私人間が私達と同じような格好をしているとは最近まで知らなかったのよ。ずっと私達に似た格好をした動物だと思っていたの。でも同じ格好をした動物が人間だったのよね。そう、でね、そいつらは大概暴れたり逃げたり叫んだり震えたり笑ったり気絶したりショック死したりしたんだけど、なんで貴方は元気なの?」
「ふ、フランちゃんが可愛いから?」
「わあ。お世辞も言える食材なのね」
「お世辞なんてとんでもない。フランちゃんはずっと地下にいたから解らないかもしれないけれど、世の女性に比べたらもう超絶びっくりするぐらい可愛いよ。三千世界で一番可愛いよ。たぶん宇宙一だよ。並行宇宙の先でもたぶん一番だよ」
「そうなんだあ。フラン、可愛い?」
などといいながら、フランは小首を傾げて微笑む。
少年は悶絶して地面に倒れ、首ブリッジをしながら苦しむ。あまりにも可愛すぎた。少年の少ない生とはいえ、テレビにも映画にも、可愛いと称される人間女は沢山いたが、これほどまでに可愛すぎる生物がいた試しが無い(少年の感覚であるが)。あり得てはいけない。会話するのもおこがましい。自分死ね、自分死ね、と呟きながら、少年は首ブリッジから変形三点倒立に移行し、髪が薄くてやせ形で芸名が時間っぽい、カッコイイアウトロー某芸人の真似をしながら冷静さを表現する。
「モノ申したい」
「何?」
「可愛すぎる。どうしよう」
「食材なのに、フランに惚れちゃったの?」
「いえ、はい、いえ、その、はい。その、ええ、済みません、生きてて済みません」
「死ぬまでは生きていた方がいいわ。その方が新鮮だし」
「ですよね。ですよね」
全面的に頷く。三点倒立しながら頷くあたり、少年の謎な身体能力の高さが伺えた。
「ねえ食材お兄さん」
(まったく新しい呼称が誕生した瞬間である)
「ん?」
「いえ、なんでしょうか」
「食材お兄さんは私の事が好きだっていうし、このまま殺しちゃうのも惜しいから、ちょっと遊びましょうよ」
「願ったりかなったりで御座います……が、生憎、監禁プレイ中でして」
「ドカーン」
彼女はドカーン、といった。ドカーンといえば、爆発のオノマトペの代名詞である。つまり爆発を意味しているのだ。では応報、爆発せねばなるまい。どこかが。
そうして、鉄格子が爆発した。
「うわー、すげー」
「あれ。あんまり驚かないね」
「流石ありとあらゆるものを破壊する程度の能力ぅー」
少年は、こういう演出だと理解する。たぶんフランちゃんの手の中にスイッチがあって、それをぎゅっとする事によって鉄格子がドカーンと爆発したのだろう。そうである。そうでなければいけない。
「じゃ、フランのお部屋、いこっか」
「hai!!」
おててをぎゅっとされ、少年の緊張は明らかにゲージを振り切っていた。おてて凄いすべすべ柔らかいのである。にしても、いささか力が強すぎて、少年は引っ張られた拍子にぶっ飛び、十歩先の壁に激突した。
「ぐべっ」
「あ、ごめん。ヒトと遊べるの、久しぶりだったから、加減が出来なくって」
(……これは演出これは演出……いや、演出で、少女が、人間を片手で投げられるか? だって僕、これでも身長175、体重だって70あるんだぞ。吸血鬼じゃあるまいに。吸血鬼がもっとも怖ろしいのはその単純な力であるーってなんだっけ、漫画で読んだような……だ、旦那ぁ)
混乱極まる少年の脳内はともかく、妙に頑丈な少年は壁に激突しても大した怪我はなかった。普通なら鼻の骨ぐらい折れていてしかるべきだが、そんな様子もない。
(あ、もしかしてこの暗い中だし、足元が跳ねあがって、やわらか壁にぶつかったのかもしれない)
少年はどこまでもポジティブだった。
「何してあそぼっかッ」
約四十センチ。それが少年とフランの距離であった。フランは少年を見上げ微笑み、頬を赤らめている。フランがひょこひょこと動くたびに、彼女の匂いが風に乗ってやってくる。なんだか知らないがお菓子みたいに甘い匂いなのだ。どうなってるんだ、いい加減にしろ、可愛すぎる、と少年は心の中で悶絶しながら平静を保っている様子だが、実際傍からみるとそわそわ感漂いまくりで不自然であった。
「なな、何がいいですかねぇ」
「カードもあるし、ボードゲームもあるよっ! それとも、ごっこ遊びの方が良い?」
「ごっこ遊びにしましょう」
少年の選択は速かった。
なんだか趣向はいまいち解らないが、ともかくごっこ遊びに興じる事となったのだ。フランは新婚三ヶ月目の奥さん。少年は新築の家に敷かれた絨毯の役である。少年は絨毯に徹した。何かがおかしい、どこかがおかしいと思いつつも、絨毯は敷かれるものである。そして新婚三ヶ月目の奥さんは新調した絨毯の上を歩く度に通りすぎるのもまた当然の話なのだ。少年は仰向けだった。仰向けの絨毯である。踏まれる度に幸せだった。
「フランさん、フランさん」
「きゃ、絨毯が喋ったわッ」
「実は私、ただの絨毯ではないのです。御主人がトルコから輸入した、高級トルコ絨毯なんです」
「ええ? でもあのヒト、普通の絨毯だって……」
「それは違います。私は由緒正しい家に代々引き継がれて来た絨毯なのです。故に永い年月をかけて魂を宿したのです」
「ツクモガミね。でも、貴方は、ずっと踏まれ続けて、平気なの?」
「私は絨毯です。その存在意義に、文句をつけるつもりはない。けれど、私は良家の絨毯。こんな一般的な家庭に敷かれるような器じゃあない……そう思っていました……」
「絨毯さん……」
「けれど、それは勘違いでした。フランさん、貴女は素敵な方だ。とても僕を大事にしてくれる……本当に大切なのは、家柄なんかじゃない……丁寧に扱ってくれる家人なんだって……」
感極まったフランが涙をこぼす。そうして、絨毯の上に座り、ゆっくりとその手で絨毯を撫でつける。少年は少年ではなく絨毯で良かったと心から思った。
「ありがとう……これからも、大事にするから……」
「フランさん……」
「絨毯……」
フラン×絨毯という全く新しいジャンルが確立かはともかく、フランは満足げである。当然ながら尻に敷かれる少年(絨毯)はもっと幸せであった。
「ふう……食材お兄さんったら、ノリがいいのねっ」
「いやいや。それほどでもないです。僕も大興奮でした」
結婚四年目倦怠期の奥さん×端の欠けた廃棄寸前の皿。
結婚四十年目の老婆×土壁。
結婚七日目の奥さん×机の下の埃。
複数のごっこプレイを重ね、二人の意気は投合して行く。最初こそ何か違うと思っていたが、少年は悟った。記憶の無い頃の自分は、きっとこういうお店を選んで入ったのだと。直接的なプレイは一切ない、特殊性癖向けのイメプレを楽しめる店なのだと。
少年の中に潜むどす黒い感情(単なる性欲だが)は、やがて晴れやかになって行く。新しい自分の目覚めである。
ここにおいて、自分は物。もしくは物以下。しかしそこには一抹の憂いが秘められた、切ない物語こそが展開する場所なのだと。
「参ったわ。まさか机の下の埃が本当はアレのカスだったなんて」
「直感です。アレだったらきっと驚くと思って」
「もう、食材お兄さんったら」
「えへへ」
「演技してたら、疲れちゃったね」
「あ、飲み物持って来ましょうか。とはいえ、紅魔館(雑居ビル)の内部図、公式にも無いから解りませんけど(笑)」
「? あ、館内は解らないものね。うん。でも大丈夫、呼べばくる有能なメイドがいるから。咲夜ー」
今更だが、やたらデカイ雑居ビル(仮)であると気が付く。この『フランちゃんのお部屋』とやらは、端から端まで二十メートル程もあり、全てが石造りだ。そもそも雑居ビルという仮定がおかしい。もっと違う施設なのかもしれない。
そう思っていたのだ。
本当に、心の底から、何の疑いもなかった。
これは全て、お金を払って行われる、何かとっても如何わしいイベントなのだと。
――しかしながら。
「……なんで食材君がここに……お呼びですか、フランドール様」
「……は?」
目前に、何の気配も無く、突如人間が現れた場合、通常の人間はどのような反応をすればいいだろうか。
『咲夜さんなんだから時間を止めるような演出があってもおかしくは無い』
とは思うものの、物理的に、これは説明不可能である。この石畳がエレベーターになっている訳でも、上から紐で吊るされて降りて来た訳でもない。突如として眼の前に、人間が現れたのだ。
「……――、いやいや……人間は、無からは生まれない」
「私としては、何故食材がここにいるのか疑問なのだけれど」
「咲夜、飲み物。二人分」
「フランドール様、これは食材ですわ。牢に戻しましょう」
「別にいつ食材にしたっていいじゃない。今は私の遊び相手なんだから、邪魔しないで」
「レミリアお嬢様が御怒りになられますわ」
「ウチの当主はそんなに狭量だったかしら、咲夜?」
咲夜がたじろぐ。確かに、レミリアがそのくらいで怒る事はないだろう。フランドールの遊び相手は随時募集中なのだ。
とはいえ、咲夜としては、いささかばかり、気に入らなかった。これは数時間後解体する予定の食材である。食材は、食材らしくしているのが相応なのだ。
ハッキリ言ってしまえば、咲夜の癇に障る。
「あの、良く解りませんが、そう怒らないでください、咲夜さん」
「食材が出歩かなければ私も怒ったりしないわ」
「出したの私だし。咲夜、早く飲み物」
「――フランドール様、使ったら、元の場所に戻す。レミリアお嬢様はいつもそうおっしゃっていましたわ」
「はいはい。ちゃんと戻すわ」
「では少々お待ちを」
少年の錯覚ではない。今度は眼の前で消えた。人間は眼の前で突然消えたりしない。仮に、仮に、本当に彼女が十六夜咲夜ならば、それもあり得るだろう。時間を操る程度の能力で、眼の前からかき消える事もあるだろう。
ここは現実、ここは現実。
「ええと、フランさん、ここは、紅魔館ですよね」
「ええ」
「ここは幻想郷の中にある紅魔館で、貴女はフランドール・スカーレットで、姉はレミリア・スカーレットで、図書館の主はパチュリー・ノーレッジで、門番は紅美鈴で、先ほどのメイドさんは十六夜咲夜で……ええと、マジで?」
「詳しいのね。本当に外からきた人?」
「……あー……」
少年は悟った。同時に、とてつもない興奮を覚える。来てしまった。
ここに。
幻想郷に――来てしまったのだ。
ここは現実である。現実の、幻想郷だ。
しかし、それは同時に最悪の事態でもある。どういった理由でここに自分が居るのかは知らないが、自分を攫って連れて来たのは、東方的に考えて八雲のお二人どちらかだろう。先ほど、牢の前でのやりとりから計るに、あれは口調的に藍ちゃんだな、などと考える。死にそうな人間やらを攫って如何にするかといった話は、良く耳にしていた。紅魔館、いや、レミリアは過去暴れた御蔭で、人間を襲えないよう制限を掛けられている。その変わり、どうやら人間を定期的に供給されているのではないかと……果たして公式だったか、二次だったか……ともかく、そのような設定があった筈であると、そこまで思い至る。
ヤバいのだ。
プレイではないのだ。
マジ、解体されるのだ。
「あ……僕、本当に、解体されるんですねえ」
「されるよ。血液供給機兼、美鈴のおやつかな?」
「うわー。神主、本当に幻想郷の事知ってて作ってたんだー東方ーすげー……」
「どうしたの? 突然死にそうな顔して。死ぬって言ってたじゃない。貴方も知ってたし」
「じ、実はですね?」
かくかくしかじかと、本当の、マジもんのフランちゃんに、自分の記憶が無い事を告げる。過去の自分はどうか知らないが、今の自分に死ぬ気なんぞ毛頭なく、やっぱ死ぬの怖いです、などといった泣き言をである。
「そうなの……? 大半の人間もね、最期の最期で死にたくなーいって叫ぶけどさ、大概死んだような顔してるのよー。でも食材お兄さん、さっきまで死ぬような顔でもなかったし……どうしよう?」
「どうしましょ」
「問題ありませんわ。供給されてきたものですもの。それがどんな精神状態にあるかなんて、瑣末な問題です」
と、そこに。ティーセット一式を台車に乗せた咲夜が現れる。ああここ幻想郷なんだな、と自覚しながら見る咲夜はやっぱり美人で眩しい。少年をモノのようにみる冷たい目線も怖いけどすごい最高だった。
「(ゾクゾク)」
「もう、咲夜は殺したがりなんだから」
「動物を捌くのにどうして感情が必要でしょうか。いちいち感慨にふけっていたら、鳥も豚も殺せませんわ」
「うわー、人間同列なんだー、他の肉と同列なんだー。すごいなー、すごい価値観だなー」
「うるさい喋る肉ね。モノは黙っていて」
「ごめんね食材お兄さん。咲夜ったら、人間の尊厳を奪いつくしてバラバラに解体するのが大好きなの。人間と同等かそれ以上の存在を蹂躙して辱める事でしか、快感を覚えられないのよ。だから、感情が無いなんて大ウソ。私も気をつけないと、いつかバラバラにされそうだわ」
「――そんなこと、ありませんわ。私は、お嬢様方の笑顔の為に、頑張っているんですもの」
「あはは。どうだか。ウズウズしてるクセに。そういうの、隠さなくてもいいわよ? ここは悪魔の館なんだから、悪魔の従者らしく振る舞えばいいのに。へんに人間のフリして……だけども、咲夜。食材お兄さん、まだ殺しちゃ駄目だからね。供給先の手違いかもしれないし。御姉様にもちゃんと連絡して」
「……畏まりました」
咲夜は、片目を瞑り、何かを我慢するようにして、背を向けて去って行く。
……少年は気がつかれないように溜息をついて、フランと自分分のお茶をいれはじめた。
「いや、助かりました。フランちゃんマジ天使ですね」
「悪魔よぅ」
「フランちゃんマジ悪魔ですね。あ、それにしても、これは失礼な話かもしれませんが、赤い館の妹君といえば、気が狂っていると専らの噂でして。思いの外理性的で、食材ビックリです」
「あー、うん。そういう宣伝してるの。ああでも、忌日は駄目。我慢出来ない。もう、食材お兄さんみたいな人いると、頭と足を持って一気に引きちぎりたくなるのよ。でも別にね、狂ってるとか、そういう訳じゃないの。だって私、吸血鬼よ? 生物に害をなす存在。人を蹂躙する事でその恐怖と畏怖を知らしめる妖怪なのだから、これは当たり前のことでしょ?」
「全くです。はいどうぞ」
「ありがと。それでね、特殊なのは御姉様なのよ。吸血鬼のクセに、人間に理解あるフリして、ここ数十年はまともに人間も襲ってないんだから。吸血鬼的価値観でいけば、絶対可笑しいのは姉」
「僕もあまり詳しくはないですけど、妖怪という人達は、人の恐怖や信仰から、その身を具現化させたものだと聞きます。そういう理屈であれば、フランさんのお話は実に論理的かと」
「食材お兄さんは、とっても理解力があるのね」
「フランさんもいろいろと考えているんですね」
「全部本の知識だけど。そもそも人間に恐怖を与えるって話、ピンとこなかったけど、食材お兄さんみたいな人が怖がっておしっこちびったりする姿みたら、きっとフラン、興奮しちゃうと思うよ」
フランは、ベッドに腰掛けてお茶を啜る。少年の目線は、無防備な彼女の、しかし見えない絶対な領域に行く。
そういえば外の世界に居る時、フランちゃんのあれやそれなら全然飲めちゃうだのなんだのと、幻○板やら2○hやらツイ○ターでぶつくさ言っていたのを思い出す。
それが眼の前にいるのだ。三次元的に。
『三次元とかwww無いわwwww俺www二次元に生きてるしwwwオウフwwwwコポォwwww』
などとも言っていた気もするが、もうホントそれどころではない。いつでも手に触れられる所にいるのだ。
生唾を飲み込む。
「――あー……目つき、いやらしいんだー」
「オウフ。失礼をば致しました」
「といってもね、解ってたよ? ずっとそういう目で見てたでしょ?」
「様々な事情がありまして」
「説明して?」
「それはですね」
かくかくしかじか、またフランちゃんに説明する。
「貴方ロリコンね?」
「年齢的に言えば間違いなくド熟女ですフランさん」
「そういえば、なんか随分と、詳しいよね。なんで?」
「……」
こればかりは、説明が躊躇われる。貴方達の日常は全て唯一神であるZUNがシューティングゲームとして発表されている、とはとても言えない。てかゲームが何かをまず説明して、それが何故なのか説明して、どうしてこうなっているのか説明して、ではとても追いつかない。
(しかしなんだ……まさか、ゲームの中に入り込んだ、という訳ではあるまいな。それならまだ幻想郷に迷い込みました、の方が僕納得出来るわ)
などと思う。紅魔郷やりすぎて脳がアレになってしまった、という話もあり得るだろうし、そもそも夢である可能性だって否定出来ない。
「私には言えないんだ」
「説明が煩雑すぎる、といいますか、困難、と言いますか。取り敢えず、隠すつもりは無いんです」
「へえ。でもなんかね」
「はい」
「貴方は、死ぬ為にここに来たんじゃないような、そんな気がするな。ここに来るのはね、本当に、もう、生命力の一つも感じられないような人間なの。生きてる価値がない人間でもある」
「に、人間の命って、そんなに差があるんですかね」
「私からしたら、牛も鳥も兎も人間も同じよ。あ、豚は可愛いから殺しちゃだめね。これは私の主観。貴方達人間の語る倫理観とかいう下らない話はどうでもいいの。ただ、何となくそう思うだけ」
「光栄であります」
「……」
「どうかしましたか」
「外の世界には戻してあげられないけれど……スキを見て、外にぐらいなら、出してあげられるよ」
フランはカップを置き、少年を真っ直ぐ見つめる。本当に殺すのが惜しいと思っているのだろう。フランからすれば、血液供給機など大して重要でもないし、固執もしていない。その中で、何となく殺すのが惜しくなってしまう動物も、たまにはいるのだ。確かに如何わしい目で見られていたかもしれないが、フランは気にとめない。相手は人間である。人間とは、欲望の生き物なのだ。
綺麗な物、美しい物、可愛い物を、我がものにせんと思うのは、当然のこと。まして、そういった欲求こそが、そういった劣情こそが、妖怪なんていう、反面教師を生み出しているといっても、過言ではない。
「そうだ。巫女だ」
「博麗霊夢ですか?」
「そうそう。本当に詳しいね、じゃあ解るかも」
そうだ。紅魔館の外に出て、霊夢に会えたならば。迷い込んだ人間を外に出す事も、彼女の仕事なのだ。自分は助かるかもしれない。咲夜に細切れにされず済むかもしれない。
……。
「ふ、フランさんは、確か、人間を『人間』として見た事がなかったんでしたっけ。人間は道具であったし、咲夜さんはメイドという種族だと思っていたとか」
「恥ずかしい話しないでよぅ……まあ、そうだけど。飲んでいたのだって、まさか血液だなんて思わなかったわ。でもね、自覚すると、やっぱり凄く美味しく思えるの……あれ、そんな話だっけ」
「……い、いえ」
少年に、わずかな歪が入る。それは、フランドール・スカーレットという『俺の嫁』が、現実として眼の前に存在しているという、とんでもない事実に起因するだろう。
この少女に襲われて――血を吸われたならば――どれほど幸福か――。
この調子ならば、恐らく、外に出られる。だが、それを否定する自分がいるのだ。このままずっとフランを見ていたい。折角死ぬなら、フランの手で殺されたい。
一体、フランドール・スカーレットと名称をつけられたものに、自分がどれだけ執心していたか。どれだけ固執していたか。思い返せば……毎日毎日、やれ結婚したいだの、やれ結婚しただの、やれ子供が出来ただの、散々俺東方を妄想の中で繰り広げ、耐えきれずヘタクソな絵を描き、SSを書き、狂ったように紅魔郷EXtraをやり続けていた。
もはやそれは生活の一部であり、己を形作る一つなのである。
眼の前にあるのだ。それが。
これほど歓喜する事実が、他にあるだろうか。
「フランさん」
「どしたの、改まって。あ、私に恋しちゃって、外に出たくないとか? こまっちゃうぅー」
「あながち間違いでもないです」
「わ、本気の顔。ふ、フフ、フラン、そういうの初めてだし……ちょっとドキドキする」
「お願いがあります」
「なな、何? 何かしら? どど、どうしたの? ち、近い、近いよ、食材お兄さん……」
「ドロワください!! あと外に出してください!!!」
少年は――本気だった。余すところなくリビドーを全開にし、渾身の土下座をお見舞いし腐ったのだ。あまりにも漢らしい、壮絶な潔さ。一切包み隠さない、後ろ暗い欲求。例えそれが吸血鬼であろうと――決して無視できない、それほどまでの、気迫であった。
「え? いいよ?」
「軽ッ! ホントですか!?」
「ドロワだけで良かったの?」
「えッ!!」
しかし少年は確実に願いの判断を誤った。きっと童貞だったからだろう。
急いでいる時に、廻っている暇はなかった。
咲夜が戻って来るまでに時間が無いのだ。地下を通る通路を抜け、大図書館のスキマを縫い、狭い階段を駆け上がると、そこには外の世界が広がっていた。既に陽は暮れ、周囲を不気味な闇が包み込んでいる。
「この塀を真っ直ぐ進むと、雑草にまぎれて穴があいているから、そこをくぐって外に抜けられるわ。この時間は御姉様が起きて来る頃だから、メイド達も居ないし、美鈴も寝ている」
「はい、解りました」
「それにしても、案外賢いのね」
「はい?」
「私の体臭なんて染み込んでる物持ってたら、確かに並の妖怪は近づいてこないもの」
全く意図していなかったが、どうやら魔除け効果があるらしい。見て良し嗅いで良し身につけても良しで魔除けにもなると来たら、これほど便利なアイテムそうそうお目にかかれないだろう。
「は、ははは。い、生きて帰りたいですからね」
「うん。御蔭で下半身がスースーするけど」
「代わりのはきましょうよ」
「でも気持ち良いかも」
(僕が死ぬ)
「じゃ、そろそろ行って。私は、咲夜に絡んで、適当に時間稼ぐから。道はさっき話した通り……ええとね、もし、私が咲夜を抑えきれなかった場合、貴方は息をひそめて、隠れて」
「やっぱ、走って逃げられませんか」
「無理。あの子は、貴方を人間らしい価値観では見てないの。見れないの。貴方は、私達の餌。咲夜は、私達に喜んで貰いたいから、そうするの。そして、人間をバラバラにするのが好きだから、そうするの」
「……咲夜さんは……何か……」
「……色々、あるのよ。女性を詮索しちゃダメって、御姉様が言っていたわ。でも、ともかく。貴方に関して、咲夜は妖怪よりも、怖ろしい。何せ、食材を逃がすなんて不手際……完全じゃないから」
「解りました。ありがとうございました」
ふかぶかと頭を下げ、少年はさっさと背を向ける。あまり長引かせると、咲夜に捕まる以前に、名残惜しすぎて帰れなくなってしまいそうだったからだ。
「ねえ、食材お兄さん」
「……」
「短い時間だけど、遊んでくれてありがと。私、人間とこんなに話したの、初めてだったかも」
「……」
「もし世の中がお兄さんみたいな人ばっかりだったら、吸血鬼は人なんて襲わなかったかもね」
「……」
「ああでも、それじゃあ、吸血鬼は生まれないっか。ええと」
「……」
「ばいばい」
少年は決して振り返らなかった。あれほど性的に見ていたのに。少年の心は、今や切なさだけが支配していた。違うんだと、歯を食いしばる。ポケットの中に仕舞い込んだフランのドロワーズを握り締めながら、僕は君にそんな目を向けて貰えるような人間ではないのだと、頭の中で己を殴りつける。
完全に参っていたのだ。
完全に恋をしていたのだ。たった数時間で――いいや、今の今まで抱き続けて来た情愛を、パソコンのディスプレイではなく現実にぶつけられるという機会を得てしまったからこそ、この爆発的な感情が存在するのだろう。
フランドール・スカーレット。
登場回数こそ少ないが……紅魔郷以来、来年で十周年。未だに衰えぬ人気を持つ、不動の妹キャラである。
少年が彼女に初めて出会ったのは、兄からの紹介であった。三年程前の頃。同人ゲームを好んでいた兄は、気まぐれに弟の少年に対して、プレイを勧めた。当然、絶滅寸前の弾幕シューティング、ましてSTG経験のない中学生の少年に、クリアできる筈もなかった。
だが少年は心躍ったのだ。流れるような縦スクロールに、次から次へと迫りくる華麗な弾幕に、弾の動きに合わせるような、心地の良い音楽に、そして不思議で魅力的なキャラクターに。
しかしながら、難しい。何度も挑戦した。何度も考察した。反射神経が、指の反応速度が、微妙な避け具合が、ままならない。本来ならばコントローラーをぶん投げている所である。しかし少年は諦めず、戦い続けた。
『やった! レミリア倒した!』
努力は功を奏し、とうとうレミリア・スカーレットを打ち破り、幻想郷は救われたのである。
これで全クリ。続編をやってみようと、そう思った時。
そこには、エキストラの文字があった。
猛烈な弾幕が少年を襲う。
そこには――絶望が存在した
『何この子……レミリアの妹?』
妹様はハンパではなかった。今までとは比べ物にならない程の理不尽に満ちていた。何故そこから弾が来るのか、なんで弾に囲まれるのか、どうしてそんな速い球がランダムで飛んでくるのか、どうやって避けろと、死ねと? 声には出さなかった。しかし魂は叫んでいた。こんな奴――誰が勝てるのか。
そうして、少年はコントローラーを置いた。
コントローラーを置いてからしばらく、兄が就職のために遠隔地に行くという。最初は気にも留めなかったが、しかし問題があったのだ。少年はパソコンを持っていなかったのである。
『結局、フランはクリア出来なかったな』
その心残りは、学校の授業でインターネットに触れて、改めて悔恨となる。様々なプレイヤーの超絶妙技、東方キャラ達が舞い踊る二次創作、音楽、東方の世界とは、一体どれほど深いものなのか――。
フランドール・スカーレットという存在が、どんな設定なのか。ここで初めて知る事になる。少年の頭に、まさかフォルダを開いて中のあとがきやら設定を見る、などという考えがなかったからだ。
それから一年後。高校生になった少年は、バイトで溜めたお金でパソコンを買い、狂ったように弾幕に興じた。
――ただただ、フランドール・スカーレットを撃破する為に。
少年は幸せであった。彼女の放つ弾幕をかわす事が、彼女のテーマを聞く事が、彼女と遊んでいられる事が、幸せだったのだ。
寂しい彼女をお相手するのは自分。
悲しい彼女をお相手するのは自分。
そして少年は、フランドールに幸せになって貰いたかった。
「――ああ、そうか……僕は……」
暗い夜道を一人行く。電灯なんてありゃしない、かがり火の一つだって見当たらない。あるのは煌々と照る紅い月。数多の星々。とても、現実の都会で暮らしていては観る事も出来ないような世界が、そこには広がっている。
昨日。
少年は死のうとしたのだ。
大した理由はない。何と無しに、嫌気がさしたのだ。両親は存命であるし、兄は結婚するという。少年もまた健康であり、精神的に苦の一つもない。もしかしたら、人以上に幸福な人生を漂っていたのかもしれない。
だが、少年は虚しかった。
最愛の人はディスプレイの中。毎晩毎晩、構築したパターンの通り、フランドールの相手をするだけ。描いた絵はヘタクソで、書いたSSはつまらなくて、集めたグッズも同人誌も、ふと我に還ると虚しくなる。
そこに本物のフランドールはおらず、彼女の弾幕は何も答えてはくれないのだ。
真剣に、嘘偽りなく、何一つ曲がりもせず、ただ真っ直ぐに――少年はフランドール・スカーレットが好きだった。
そしてそんな自分は、今後も一生、彼女を幸せにする事は叶わない。
気がつけば、少年は自宅マンションの屋上にいた。
「変なふうに、厨二拗らせちゃったなあ」
苦笑する。
「拗らせて死んだ事にする?」
それは凶星。いや、月か。夜空よりもつめたい声が、少年の耳元で響き渡る。
「が、さ、咲夜さんッ」
「食材が、出歩いたら、駄目でしょう」
少年は凡人である。物語において、何の力も付与されていない、ただの少年である。
故――この状況下を、生き延びる事は出来ない。
少年は飛び退くようにして咲夜から離れる。彼女は暗がりにありながら、異様なほど目を光らせていた。少年の知識で行けば、咲夜は恐らく人間である。だが、同時に常人をどこまでも突き放した上での人間なのだ。主人公機――妖怪を黙らせるだけの力を持った、超常存在である。
「随分と、フランドール様に可愛がられて。末期に甘い水は飲めたかしら」
「あ、あはは。いやはや、本当に、妹君は、可愛らしいですね」
「そうね。じゃあほら、そのお嬢様方の飲料になって貰えるかしら。幸せよきっと」
「そう、そうも思ったんですが、やっぱり命は惜しいものでして」
「死のうと思ったから、提供されて来た。提供されて来たから、貴方は血と肉になる。困るのよ、そうなって貰わないと。二カ月に一度の機会なの。それでお嬢様方は笑顔になって――私も幸せになれるわ」
人間を相手にしている目ではない。人語を解するから、人語で話しているだけ、というものだ。彼女の中に慈悲も何も無い。そもそも、そんなものを抱くような価値観は、彼女に無い。
十六夜咲夜は実に良く出来たメイドである。例え私情を挟もうとも、決してお嬢様方に迷惑はかけない。
する事なす事完璧に。
動作も仕草も行動も、態度も容姿も完全に。
ご主人様に笑顔を振りまき、友人たちに微笑みを分け与え、十六夜咲夜は何時も在る。
彼女からすれば、そして、普段通りであったのならば、彼女が何かしらの批難を受ける事は一切なかっただろう。それが日常であり、それが当然であり、それが仕事であるからだ。
だがどうも、今回はイレギュラーである。
「大人しく死んでくれたら、何も問題ないのに。これじゃあ、私が悪役みたいだわ」
「お、お勤め御苦労さまです」
少年は、頭を働かせる。何か、生き延びる手立てはないか。確実に死ぬ。確実に殺される。確実にバラバラにされる。彼女は、少年を少年などとは思っていない。血液供給食材だ。
少年は最初から、食材君と定義されていたのだから。
ある意味幸せではないか?
大好きなフランちゃんの餌になるのだ。
それは、先ほど少年でも考えた事だ。
逃げようがない。ならば大人しく捕まり、懇願してせめて、フランの手にかけて貰えば良い。
ここで咲夜にバラバラにされる必要もあるまい。
どうせ死ぬつもりだったのだろう?
羨ましい限りではないか?
フランちゃんに血すわれてるなうwwwとでも、呟けばいいのだ。
(でも)
でも。
(フランちゃん……いたし!! 居たし!! 遊んだし!! 死ぬ理由、ねえし!!)
……。
「ぬ」
「ん?」
「ぬおぉぉぉぉぉッッ!!」
「な、何よ?」
「あー目覚めたわ、突如目覚めたわー。窮地に追いやられて僕の真の力が目覚めたわー。ここはひとつ!! 弾幕勝負で如何か!! 格闘仕様で!!!」
「むっ……」
ここに一つ、天啓。弾幕勝負という、茶番である。例え相手が食材であろうと、弾幕勝負を申し込まれたならば、これは受けねばならぬ。もし受けないとあらば、それは幻想郷に敷かれたルールの根底を揺るがす。
「あまっちょろい事は言わない! 僕が勝ったら僕は逃げる!! 君が勝ったら僕を好きにするといいさ!! だが弾幕ルールからは逃げられない!! これを否定する事すなわち、僕というイレギュラーな異変を、力づくで解決した事になる!! まったくもって、美しくないじゃあありませんか!?」
「肉の癖に面倒ね。でも貴方、スペルカード、あるの?」
「勿論!!」
そういって、少年はポケットの財布からカードを二枚引き抜く。
四菱UFJカードと、郵便貯金カードである。もうヤケクソだった。吐いた嘘は突き通すしかない。
「さあ来るといい!! 覚醒した僕に、そのヘロヘロの弾幕、中てて見るがいいさ!!」
「はあ。まあ、いっか。結果変わらないし。じゃ、行くわよ」
宣言。開幕、咲夜が少年の眼の前から消える。
「……、え」
驚きの声があがる。それは少年のものではなく、咲夜のものだった。
「だあああれがまともにヤリあうかああああッッッ――――!!! 逃いぃぃげるんだよぉぉぉッッ――――!!!」
全力疾走。そしてなかなかどうして、やたらと速い。その足で少年は雑木林へと駆けこんで行く。
「え? え?」
流石の咲夜も、これには呆気にとられた。ある意味、超常慣れしてしまったが故の失策である。相手方が能力に目覚めたわ、本気出したわ、という場合、マジで出して来る。それが例え人間だろうと、例に漏れない。
幻想郷においては、一般人であろうとも、練習すればそれなりに弾幕で喧嘩が出来る程度にはなれるのだ。
そういった要素もあいまり、咲夜は信じ込んでいた。何せカラフルなスペルカードまで取り出したのだ。武器まで取り出して逃げる奴を、咲夜は過去、見た事がないのである。
「あ、お、追わないと」
が、やたらと速い。既に少年の影も見当たらなかった。
何を隠そう少年、運動会では何時も一位である。流石である。
「くっ……待ちなさいッ」
時間を断続的に止めながら、咲夜が追い掛ける。幾ら足が速かろうとも、時間を止められては少年も成す術がない。とはいえ、動いてさえいれば咲夜の狙いをそらす事だって多少は叶うであろうし、出だしの一発が効いているらしく、動揺もある。
このまま走り続ければ、光明は見えるかもしれない。
「見つけたっ――」
夜風に混じるように、銀のナイフが闇を裂き飛んでゆく。
「だはは!! だれが当たるかそんな3way弾!! 見飽きたわッ!! ひょひょいっと!! アバヨーゥwww」
「むきーーッ」
そして少年の策は、在ろうことかかなりの良策である。咲夜は本気で殺しに来ていた。そうなればルールは無用、さっさと後ろから突き刺してやればそれで終わりだが、今現在、弾幕勝負を挑まれた状態なのだ。相手が参ったでもしない限り、取引は成立しない。故に、天秤の掛けられた命は、勝負後に決めなければいけないのだ。
咲夜がルールを護る限り……直接的な殺戮は、不可能なのである。
「このっ……銀符『シルバーバウンド』ッッ」
とうとう、スペルカードが発動する。青い光を纏ったナイフが、木々に跳ね返って縦横無尽に雑木林を巡る。
(……ぐ、グレイズしたら死ぬかな)
どうも慣れで、飛んで来る弾に対してグレイズをかましたくなる。だがこれは現実だ、かすったら、痛いに決まっていた。だが、ではどうやってみんな避けているのだ、と考える。霊的な、魔力的な防御をしているからだろうか? それとも、幻想郷の住人は、当たり判定が本当に真ん中にしかないのか?
(めっちゃ追ってくるし……やっぱ本場は違うのか……)
追って来る。ゲームならばどこかに消えて行くナイフも、これ見よがしに追って来る。このまま走っていてもじり貧だ。
少年は腹をくくる。向かって来る方向に対して、少年はギリギリの距離を見計らい、身を伏せた。
「うごごごっ」
「げ、避けた」
「出来るグレイズ出来るこれッ」
距離にして十メートル程。改めて少年と咲夜は対峙した。方角は間違いない。里に近付いている。あれだけの危機的状況の中、少年の判断力は侮れない。
――在る意味、最早、現実離れしているといっても、過言ではない。
彼は死ぬべき人間であった。食材としての運命を与えられた少年であった筈だ。しかし、どんな因果の収束か。明らかに、決められていた死という結末に対して、反逆している。
「フランさんは、僕は死ぬべき人間じゃないって、言ったから。僕も、死にたくないし。咲夜さん、ごめんね。僕もう、死ぬ気無いんだ。フランさん、いや、フランちゃん、居たし。超、可愛かったし。こんな嬉しい事って、ないもん」
「貴方、何かおかしいと思っていたのよ。私の名前は知っているし、幻想郷に来たばかりなのに、色々詳しいみたい。私は、狐に化かされているのかしら?」
「いや、たぶん、本当に僕は食材なんだよ。食材だった。ただ、八雲藍は、連れて来る人間を間違えたんだ。供給する食材が、こんな面倒な奴だったなんて、思いもしなかっただろうしね」
「……。それじゃ困るわ。だって、お嬢様、ちょっと血を飲みたい顔、してたもの。暴飲暴食出来なくなって、吸血鬼の尊厳も殺がれて、たまに供給される血液ぐらい、飲ませてあげたいわ」
「咲夜さんは、優しいですね。美人だし。三番目くらいに好きです……じゃあ、こうしませんか。僕、血液を供給します。死なない程度に。それじゃあ駄目ですか」
「駄目よ」
「何故ですか」
「だってそれじゃ……私の楽しみ、減るじゃない?」
「あー……」
フランの言葉を思い出す。無感情に人を屠殺しているなど大ウソだと。十六夜咲夜は人間を蹂躙して楽しむ輩であると。
これを残虐と取るか。可哀想と取るか。
「ごめんなさい。でも僕、生きなきゃいけないんです」
「何故?」
「これからも――フランちゃんを、愛し続けなきゃいけないから」
咲夜は理解不能だったに違いない。現れて十数時間の人間が、何故そこまでフランドールに固執するのか。しかし食材の瞳はどこまでも澄み切っている。とても、死ぬような人間ではないのだ。希望に満ちた未来を見据える、輝かしいまでの若者。愛を突き通そうと覚悟したものの目。
「何故?」
「彼女の笑顔の為に。彼女の幸せの為に」
「それが貴方の独りよがりでも? フランドール様は、貴方の手には、届かないのよ?」
「それでも。独りよがりでも、手に入ろうが入るまいが、僕は、彼女の幸せを願い続けるんです」
「……何故?」
「そう、決めたからです。護りたい、あの笑顔」
「そう。でも、私には」
関係ないからと。咲夜は言った。
ノーモーションで放たれる鋭い刃。確実に、人間の反応速度を超える飛翔物。
因果は相応の結末に向かう。
一般高校生では、幻想郷の人間には敵わない。当然の話だ。
――だが。
生きると決意した人間の、その意思を無碍にする程……どうやら『食材君』が紡ぎ出した物語は、無慈悲ではなかった。
一迅の風と共に、超速度のナイフはあらぬ方向へと弾かれる。やがてそれは威力を失い、呆気なく地面へと落ちた。
動く七色。
泳ぐ紅蓮。
滾る波紋。
そうして食材は――理不尽にも、主人公となった。
「ふ、フランさんッ」
「もう。咲夜ったら人の話聞かないんだから」
「フランドール様。これから食材を解体する所ですわ。大人しく、館にいてくださいまし」
「やーよ」
「折角、若い血液を御馳走出来ると思っていましたのに」
「お兄さんのは要らないや。お兄さん、咲夜に悪気はないの。ごめんね」
「いやいや。僕もほら、一度は死のうとした身だし。そういう奴等が餌になっちゃうのは、幻想郷的に言えば当然な訳で。それに僕を追いかける咲夜さん、殺意に満ち満ちてて、それが逆に興奮するというか」
「咲夜。お兄さんが変態で妙に強靭な精神の持ち主で、本当に良かったわね」
「酷いや」
「……フランドール様は、召し上がりたくありませんか」
「うん。少なくとも、お兄さんのは」
「……。お嬢様にも、そう言われてしまって。本当は、飲みたいクセに」
「気まぐれで、適当で、そしてその気まぐれで適当な話を聞くのが、咲夜の仕事」
フランは咲夜をなだめるように言う。冷静を装っているが……フランの後ろ手は、少年の服を握りしめていた。いつでも、投げ飛ばしてでも、逃がす為だろう。
少年は、不思議に思う。確かに、少年は強烈な愛情をフランに注いでいた。だが、フランは別だ。こんな、牢屋にいた薄汚い高校生、何をもってして護る必要があるか。それも気まぐれや適当で、説明がつくだろうか。
わざわざ、館を抜け出して来てまで、少年を守る必要性など、どこにあるか。
「咲夜」
「はい」
「次で良いわ。次は、御馳走して。私だって、血液、嫌いじゃないし」
「――はい。腕をふるいますわ。次は、女の子で、RHマイナスの子を、注文しましたもの」
「うん。じゃ、解散。お兄さんも、行って」
「あ、う、うん」
そうして、三人は散り散りになる。少年は五分程雑木林を歩き、漸く人の道に出る事が出来た。
咲夜の残念そうな顔に胸が痛む。少年は、自分を殺そうとした相手に対して、怨みは無かった。むしろ、自分こそがイレギュラーすぎたのだ。咲夜はいつものお勤めを済まそうとしただけに過ぎない。見えないところで日常的に行われている作業をこなそうとしたにすぎない。それはきっと、霊夢も魔理沙も知らない事実だろうが――逆に、客観視し続けて来た少年にとっては、それを阻害して申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。
「お兄さん」
「あ、あれ。フランさん。帰ったんじゃ?」
「咲夜が変な気起こさないか、見てたの。もう大丈夫みたい」
「咲夜さんには、悪い事しちゃった。僕の代わりに、謝って貰えますか」
「へんなの。殺されそうになったのに……ま、今更かな。いいよ」
「ありがとう。フランさんは、本当に優しいですね。それじゃあ、僕は行きます。この先は、里でしょうから。上白沢女史に保護願って、後日博麗神社に行こうと思います」
「ねえねえ、お兄さん」
「……行かないと」
振り切ろうとする。これ以上、彼女の顔は観れなかった。後腐れなく、ただ、満足を抱えて、少年は帰るだけなのだ。
しかし、フランは腕を掴んで引きとめる。
「あの」
「はい?」
「さっきの、嘘」
「どの辺りでしょう」
「血、いらないって」
「あー」
「助けたお礼。ちょうだい?」
少年は――フランのあまりの可愛さに悶絶し、地面にぶっ倒れ、首筋をこれ見よがしに差し出した。
「全部どうぞっ!!!!!1111」
「だ、だめよぅ」
「じゃ、じゃあ半分でっ」
「死んじゃうわよ。助けた意味、なくなっちゃうわ」
「……」
どうして、そんなに悲しそうな顔をするのか。少年は、食材君である。超生命体である吸血鬼が、人間如きに配慮する必要なんてない筈だ。フランを本物と自覚した時から、少年の覚悟は粗方決まっていた。生きるも良し、死ぬならば仕方なし。そんな、人間的にどこか欠けている少年に、何故、そこまで生きていて貰いたいのか。
「豚の次くらいに、可愛いと思ったから」
「わあ、僕、豚以下なんだ――」
「そらそうよぅ。何せ、食材君だもの」
「左様でした。では、どうぞっ」
「んーんふふっ」
「嗚呼……んっあっ……」
少年は、ぶっ殺したく成程幸せそうな顔で気絶した。
少年は実にツイていた。
上白沢女史に付き添われ、辿り着いた博麗神社には、博麗霊夢がおり、霧雨魔理沙がおり、八雲紫がいたからだ。
(在る意味怖いな。ここまで可愛い子が揃うと)
博麗霊夢は相変わらず面倒くさそうに客を相手し、霧雨魔理沙は好奇心に目を輝かせ、八雲紫はやる気の無い霊夢をせっつく。少年の想像していた世界通りの流れが、そこには存在していたのだ。
「じゃあ、私はこれで。少年、もう来るんじゃないぞ」
「慧音先生、有難うございます。十番目くらいに好きです」
「……? あ、ああ? ありがとう。じゃあな」
「アンタはそうやって女の子に声かけて歩いていたの? 良く生きてたわね」
「面白そうな奴じゃないか。咲夜とやりあって逃げ切ったとは。なあなあ、私ともやってみないか?」
「イレギュラーに触れると、運命が変わるかもしれませんわ。やめたほうが、無難でしょう」
そういって、八雲紫が魔理沙を制止する。彼女は少年の前に出て、その顔をジロジロと見回した。
(あ、すっごい良い匂い。ゆかりんすっごい良い匂い)
「『知ってる』のね?」
「な、なんかまずかったですかね。余計な事は、してないつもりですが」
「……藍の手違いね。あれほど、気をつけろといったのに。ごめんなさいね」
「い、いえ。本来なら、死んでいた筈ですし。助かりました」
「……そう。そうね。いいかしら。ここは、虚構よ」
「……――」
「全て嘘。貴方が知る幻想郷は、あのヒトが作った夢物語。あのヒトの、酔夢」
「……はい」
「でもまあ、貴方が幻想郷に行ったと騒いでも、当然誰も信じない。それは、夢の話なのだから。皆もそれを夢の話だと知っている。現の呪は強烈なの。逃れられないから、心配はしていないわ。ただ、貴方個人でいえば、そうとも限らない。幻想郷という貪欲な世界は、一度掴んだものを、なかなか離そうとはしないから。囚われた貴方が、またこの郷を恋しがり、自ら命を断つとも……限らない。理解出来まして?」
「そういう設定の同人誌で予習しました」
「ふふ。ええ。あのヒトの作る作品はブラフ。本当にあるこの世界を……虚構であると錯覚させる為の、オトリ」
(本当に良い匂いだなあ……いかんいかん。浮気は出来んな。うん)
「良い夢は観れたかしら。幸せになれたなら、悪い事もないわね」
「存分に。僕は、僕だけの真実を手に入れました。誰にも、譲れませんよ」
「男らしいのね。いいわ。霊夢、ちゃっちゃと還してあげて」
「意味わかんない会話の挙句そんなフリかたするのね。ま、いいわ。ほら、こっちきなさい」
(霊夢ちゃんも良い匂いするなあ……てか超可愛いな……)
「なんだ、弾幕してかないのか。折角霊夢以外の練習台が出来ると思ったのに、残念だぜ」
(魔理沙ちゃんちっちぇえ。ちっちぇえ。すげえちっちぇえ。かわいすぐる……)
三人に目を移らせながら、いかんいかんと首を振る。
ここは本当に、後ろ髪を引くモノが多すぎて、危険である。紫の言葉に嘘の一つもない。例え死が近い場所であろうとも、それを覆い隠して余りある程の魅力が、ここには沢山とあるのだ。もう何年と行っていなかった手つかずの山々、現代日本人が最早拝む事も敵わないであろう、遺伝子に刻み込まれた郷愁を誘う光景。大らかな人々、魅力的な住人達。
ここで暮らせたらと、少年は考えた。考えたが、しかしその足は、博麗神社へと向かったのだ。
自分はイレギュラー。本来、ここに居てはいけない、名も無き一般人。
鮮烈だからこそ、魅力的であるからこそ――長居などしてはいけない。
「有難うございました。これからは、アホな事考えないように、暮らして行きます」
「そう。最期に『彼女』へ、伝える事はあるかしら」
何かあるだろうか。あの子に伝える事。
少年は、首筋を抑えながら、目一杯の笑顔で言う。
「何も! 僕は、幸福な奴ですっ!」
「うん。じゃ、さようなら」
世界が歪む。景色が曲がる。音はずれ、光はひび割れる。
夢が終わったのだ。
エピローグ
「あ」
気がつけば、少年はマンションの屋上で、大の字になり寝そべっていた。立ち上がって辺りを望めば、いつもと変わりのない、現代日本の猥雑とした景色が広がっていた。
「はは」
自宅に戻ると、父親が怪訝そうな顔で息子を睨む。
「何してた、お前」
「いやあ。ここ屋上出れるでしょ? 気持ち良くなってさ、寝そべってたら、そのまま意識を失ってね」
「ハハハ、こやつめ。信じると思うか?」
「お、俺不良だからよ、夜ふかしもするし夜遊びもする」
「……はあ。ま、いい。お母さんが心配していたから、挨拶に行きなさい」
リビングに行くと、母は少年にかけより、思い切りビンタをぶちかました。ちょっと姿を眩ませた程度でここまでされる程、少年の品行は良い。親の過保護とも言う。が、愛されている事に変わりは無い。
「ごめんね、ただいま」
「おかえり。遅くなるなら、ちゃんと、連絡してね」
「うん」
「お腹すいたでしょ。軽い物作るから」
愛されている。肉親として、息子として、心配されていたのだ。自分がどれほど罪深いのか、思い知らされる。たった少しの気の迷いで、両親が大切にした命を散らせる所だったのだ。愚かにも程がある。
(……傷が、無い)
首筋に触れる。そこには、あの愛しい痛みはなかった。しかし、それも仕方の無い話だ。八雲紫は、夢だと言った。では、彼女は夢としての整合性を合わせる為に、それなりの処置を施すだろう。
……いや、それこそが世迷言。本当に夢だったから、無いのだろう。
「母さん」
「なに?」
「好きな人がいてね、でも、とても遠くにいて、まず逢えないんだ。行こうとしたけど、無理だった」
「外人さんなの?」
「たぶんルーマニア系」
「そう……。言葉も通じないし、大変ね。でも、想いって案外通じるものよ」
「はて」
「遠くにいても、想い続ければ、相手もちゃんと受け取ってくれる。お父さんがそうだったわ」
「おほほ、ノロケで御座いますか。お腹一杯ですな」
「そういうもんなのよ。人間は、心の生物なんだから」
「……」
出されたものを食べる。味付けが妙にしょっぱく感じられた。昨日の残りの豚肉だろう。お前も屠殺されて、人様の栄養と成り果てた。僕もそうなるところだったよ、でもうまいから仕方ないなと、少年は豚肉を胃に納めて行く。
価値観の違う存在というのは、もはや別の星の生き物と言える。人間が動物を食べても罪悪感を覚えずに居られるのは、肉にされる過程が目に入らないからだ。だが、例え罪悪感を覚えたとしても、少年は肉を食うだろう。美味いからだ。
フランはどう想っただろうか。過程を知ったとしても、きっと今後も血は飲むだろう。
自分はきっと、何とも思われていない。食材君であるからだ。
そしてつまるところ、そういう話であるし……尚且つ、それは夢なのだ。
「ごちそうさま。少し休むよ」
自室に戻ると、パソコンを立ちあげ、東方紅魔郷を起動させる。タイトル画面が現れると、心がざわついた。
パターン通りに道中を行き、パチュリーを乗り越え、フランに到達する。
「ははは」
フランドール「ほら、鶏って」
霊夢「あー?」
フランドール「捌いたり出来ない人でも、美味しく頂けるの」
首筋をなでる。
そこに傷跡はない。痛みもない。
全てが虚妄。嘘。夢。非現実。
少年は愚かであると、悟る。
彼女が本物か偽物かなど、瑣末な問題なのだ。そこに想う気持ちさえあればいいのだ。対象が現実か、二進数かなど、元より問題にする方がおかしい。男ならば突き通せば良かったのだ。例え相手が人間を食材と思っていようとも、食材君は食べる側を愛している。それで良い筈だ。
彼女は、元から、誰の手にも触れられないものなのだから。ずっと孤独なのだから。
誰が愛そうと、彼女の迷惑にはならない。
あの世界が現実であろうと、虚構であろうと、大差ないではないか。
フランちゃんは超絶可愛くて、少年は食材なのだから。
だがちょっぴり悲しかった。弾幕戦の前に、涙を流していては、弾を避けられない。
少年は、ポケットからハンカチを取り出そうとした。
「……あ」
気が付く。
そして、笑顔になる。
ほくそ笑む。
食材君「はは、はははッ!! フランさん!! 何して遊びますかっ!?」
フランドール「弾幕ごっこッ」
食材君「イエスッ」
その日少年は泣きながらプレイした為、ボムを抱えたまま二回落ちたが、ぶん殴りたくなるほど幸せな顔をしていた。
了
一体何が起こったのか、少年にはまるで理解が出来なかった。
「ちょえー……何すか何すかこれぇ、ちょ、ひゃーんぴゃねーんですけどぉ……」
追いつかない理解と精神を補う為に軽口を叩く。それに答える者はいない。立ち上がり、燭台の見える方へと足を進めようとしたが、途中何かに阻まれた。
「――鉄格子?」
鉄格子である。疑問符要らない、鉄格子である。つまるところ人様を拘束し監禁する為に用いられる、ただの人間の力ではどうしようもない、スカスカの壁である。超人でも連れて来ない限り破られはしないだろう。
「むぅッ」
力を込める。無駄である。残念ながら少年はアレ○サンダー大王でも○レキサンダーカレリンでも○伏アレキサンダー広冶でもなく単なる一般人である。
「……あれ、これ、僕詰んでる?」
大体あっている。鉄格子を破って逃げられるのはゲームかアニメか映画か小説かともかくフィクションの人物だけだ。凡人と定義された人間に、この状況を打破するだけの力は、生憎と無い。
「――誰かきた?」
やがて、少年の耳に何者かの足音が届く。耳を済ませていると、その足音からそれが二人、そして女性であることが、何となしに理解出来た。
「今回は活きが良いですよ、まだ十代ですし、服毒もしてませんし、摂生で内臓も綺麗な事でしょう」
「出来れば女の子が良かったのだけれど」
「それはまた次の機会に。今回はこれでご勘弁を……あ、ハンコください」
「貴女が五月蠅いから作ったわよ、私名義で」
「珍しい名字は苦労しますね」
「ハンコにしろって言ったのは貴女」
「残念ながらご主人様がそうしろというので」
「お互い大変ね」
「まったく。ではでは、また二ヶ月後にでも」
「次は女の子ね。RHマイナスで」
「日本人に0.5%しかいないんですってば。半分にしたら0.25%じゃありませんか」
「ご主人様がいうので」
「お互い大変ですねえ」
「まったく。じゃ、宜しく」
「はいどうも、失礼しました」
一体どんなやりとりだろうか。平平凡凡に尚且つ当たり前に生きて来た一般現代人である少年には、当然理解不能の会話である。言葉の端々の意味は解るが、どうしてそんな会話が成り立つのか、が解らない。
解らない方が幸せであろう。
「あ、あの、どーもー」
「……」
少年の眼の前に現れたのは少女。歳の頃は、少年と同じか、少し上だ。白、というよりは銀色の髪。顔立ちはアジア系ではあるが、彫りも深く、ハーフかクォーターに見える。その服装といえば、なんとメイド服だ。少年は秋葉原かイベント会場でしか見た事がない。というか少年はこの少女にとても見覚えがあったのだ。
気が付いた瞬間、少年は噴き出す。
「ぶふっ」
「不躾ね。何笑ってるの」
「ええぇ――ちょ、えー……あ、ええと、三番目くらいに好きです」
「は?」
「でも今一番になる勢いですわ。いや、ほんと、完璧なコスプレって本人超えるんですね」
ちなみに少年が一番好きなのはフランちゃんであった。
「訳分からないこと言うわね。恐怖で脳に急性疾患でも催したのかしら」
「いやー、僕も良く解らないんですが、なんで僕、こんなとこ居て、しかも眼の前に咲夜さんがいるんですかね」
「……私の名前、何故知ってるの」
「あ、そういうプレイですか。何時参加したっけな……いや、記憶にないなあ……」
「あんまり食材と会話なんてしたくないんだけど」
咲夜の視線は実に冷めている。本当に、嘘偽りなく、人間を見る目をしていない。純粋にモノをみる目だ。家畜を見る目ですらない。
少年の耳には、今まさに食材、という言葉が届いたが、そういうプレイなんだとして納得する。どうも前後の記憶が怪しく、もしかしたら溜めたお小遣いでみんなより一足先に大人になってしまおうと、そういうお店に足を踏み入れて気を失ったという超絶不可解な現象に見舞われている可能性も否定出来ない。
少年の知識で行けば、眼の前の咲夜(コスプレ)の話は大体理解出来た。今自分は吸血鬼のお嬢様方にふるまわれる血液要員である(そういうプレイ)。これから恐らく、お目当てのフランちゃんがやってきて、ああいう感じでそういう感じのお話になるのだろう(そういうプレイ)。記憶は怪しいが、少年の軸にブレが無い限り、次に来るのはフランちゃん(コスプレ)である。
「気合い入ってるなあ……すげえ美人だし……こりゃ期待しちゃうなあ……」
「期待? 解体を? 変な食材ね」
「あ、じゃあ自分はこれから食材で良いです」
「そう。直ぐ死んでしまう人間の名前を覚えても無駄だし、食材君でいいわね。じゃあ食材君、夜には解体に来るから、楽しみにしていることね」
「焦らしかあ。延長かからないのかな。いや、そういう設定だろ、たぶん。はい。わかりましたー」
そう言い残し、咲夜(すごい美人のコスプレ)は去って行った。少年は実に幸せである。過去の自分の選択を褒めてやりたい程だった。法的に色々問題かもしれないが、終えてしまえばこっちのものである。
「いやはや。それにしても本格的だなあ。妥協許してない感凄いな。この地下っぽい空気も、雑居ビルの中にあるとは思えないよなあ。しかも女の子レベル高すぎるし。大丈夫か僕のお小遣い。記憶失う前の僕頑張りすぎだろ」
少年も色々と疑問に思う所はあるのだが、咲夜が美人すぎてそれどころではなかった。石畳に寝転がり、ゴロゴロする。すげーよ、どーすんだよこれ、やべーやべーなどとしている内に、一つの疑問がわく。
「あれ、でも解体(プレイ)に咲夜さんが来るの? フランちゃんじゃないの? ブレたのか僕」
もしかしたら、指名する段階で咲夜さんが美人すぎてブレたのかもしれない。あり得る話だ。何せ三番目に好きなのだ。人気投票において、キャラクター支援イラストの咲夜さんがあんまりにも可愛すぎて生きるのが辛くなり、フランちゃんを押しのけて咲夜を選んでしまったような感覚かもしれない。
ちなみに二番目はパチュリーだった。少年は典型的な紅魔スキーである。何度フランちゃんにボコボコにされたか覚えていない。お前は今まで避けたクランベリートラップの数を覚えているのかという質問に対して答えられないレベルである。
「……ま、そんなこともあるだろ。あるよな。ええと」
ポケットを漁り、携帯電話を取り出す。ツイッ○ーに『咲夜ちゃんマジ天使だった!!』などと呟こうとしたのだが、生憎と圏外だった。
「くそ、流石やわらか銀行流石」
通信運営会社をディスりながら携帯を仕舞う。もしかしたら本当に地下な御蔭で電波が届かないのかもしれないが、あの会社は町のど真ん中の喫茶店ですら電波が途切れるので敵意は全てそちらに向かう。
「しかしどのくらい待てば良いんだろうか。拙者、爆発しそうで御座る」
少年は俺爆発する、俺爆発する、などとホザきながら石畳をゴロゴロする。抑えきれないのだ。あんまり焦らされると、こう、色々爆発しそうなのである。
「うわ、ほんと元気良いんだ」
「むっ」
ガバりと起き上がり、声の方向へと顔を向ける。そこには驚いたような顔をした金髪の女児が居た。主に金髪で主に赤が基調で主に白い。
「フランちゃんktkr」
「これから死ぬのに元気が良い食材がいるって聞いたから見に来たんだけれど」
「いやあ、それほどでもないっすよぉ」
少年に戦慄走る。
これは不味い。
一体――どんな違法を犯している店に入ってしまったのか。眼の前にいるのは、間違いなく少年の記憶にあるフランドール・スカーレットちゃんそのものだ。どう考えても十代以下である。少年の見識にある人種には符合しない、白すぎる肌、赤すぎる目。幼すぎる容姿、滲み出る、人ならざる空気。
ちょっとやりすぎだろう、この店……などという言葉では片付けられない、何かがこの『フラン』にはあった。
(……あっれえ……いや……本物すぎないか? この店、もし本当にあったとしたら、特権階級の会員制なんじゃないか? てか……無い、と考えた方が、自然じゃないか? だってよ、このフランちゃん、フランちゃんすぎるぞ。てか、コスプレでどうにかなる範疇じゃないぞ。化粧でもねえ、カラコンでもねえ、コスプレでもねえ、素だ。素でフランちゃんだ。可愛すぎる。ありえん。存在しちゃいけないレベルでありえん……)
「なんでそんなに元気なの? 人間って、死の恐怖を感じると、元気っていうか叫びまわって震えるものだと思っていたのだけれど。あ、ちなみにね、私人間が私達と同じような格好をしているとは最近まで知らなかったのよ。ずっと私達に似た格好をした動物だと思っていたの。でも同じ格好をした動物が人間だったのよね。そう、でね、そいつらは大概暴れたり逃げたり叫んだり震えたり笑ったり気絶したりショック死したりしたんだけど、なんで貴方は元気なの?」
「ふ、フランちゃんが可愛いから?」
「わあ。お世辞も言える食材なのね」
「お世辞なんてとんでもない。フランちゃんはずっと地下にいたから解らないかもしれないけれど、世の女性に比べたらもう超絶びっくりするぐらい可愛いよ。三千世界で一番可愛いよ。たぶん宇宙一だよ。並行宇宙の先でもたぶん一番だよ」
「そうなんだあ。フラン、可愛い?」
などといいながら、フランは小首を傾げて微笑む。
少年は悶絶して地面に倒れ、首ブリッジをしながら苦しむ。あまりにも可愛すぎた。少年の少ない生とはいえ、テレビにも映画にも、可愛いと称される人間女は沢山いたが、これほどまでに可愛すぎる生物がいた試しが無い(少年の感覚であるが)。あり得てはいけない。会話するのもおこがましい。自分死ね、自分死ね、と呟きながら、少年は首ブリッジから変形三点倒立に移行し、髪が薄くてやせ形で芸名が時間っぽい、カッコイイアウトロー某芸人の真似をしながら冷静さを表現する。
「モノ申したい」
「何?」
「可愛すぎる。どうしよう」
「食材なのに、フランに惚れちゃったの?」
「いえ、はい、いえ、その、はい。その、ええ、済みません、生きてて済みません」
「死ぬまでは生きていた方がいいわ。その方が新鮮だし」
「ですよね。ですよね」
全面的に頷く。三点倒立しながら頷くあたり、少年の謎な身体能力の高さが伺えた。
「ねえ食材お兄さん」
(まったく新しい呼称が誕生した瞬間である)
「ん?」
「いえ、なんでしょうか」
「食材お兄さんは私の事が好きだっていうし、このまま殺しちゃうのも惜しいから、ちょっと遊びましょうよ」
「願ったりかなったりで御座います……が、生憎、監禁プレイ中でして」
「ドカーン」
彼女はドカーン、といった。ドカーンといえば、爆発のオノマトペの代名詞である。つまり爆発を意味しているのだ。では応報、爆発せねばなるまい。どこかが。
そうして、鉄格子が爆発した。
「うわー、すげー」
「あれ。あんまり驚かないね」
「流石ありとあらゆるものを破壊する程度の能力ぅー」
少年は、こういう演出だと理解する。たぶんフランちゃんの手の中にスイッチがあって、それをぎゅっとする事によって鉄格子がドカーンと爆発したのだろう。そうである。そうでなければいけない。
「じゃ、フランのお部屋、いこっか」
「hai!!」
おててをぎゅっとされ、少年の緊張は明らかにゲージを振り切っていた。おてて凄いすべすべ柔らかいのである。にしても、いささか力が強すぎて、少年は引っ張られた拍子にぶっ飛び、十歩先の壁に激突した。
「ぐべっ」
「あ、ごめん。ヒトと遊べるの、久しぶりだったから、加減が出来なくって」
(……これは演出これは演出……いや、演出で、少女が、人間を片手で投げられるか? だって僕、これでも身長175、体重だって70あるんだぞ。吸血鬼じゃあるまいに。吸血鬼がもっとも怖ろしいのはその単純な力であるーってなんだっけ、漫画で読んだような……だ、旦那ぁ)
混乱極まる少年の脳内はともかく、妙に頑丈な少年は壁に激突しても大した怪我はなかった。普通なら鼻の骨ぐらい折れていてしかるべきだが、そんな様子もない。
(あ、もしかしてこの暗い中だし、足元が跳ねあがって、やわらか壁にぶつかったのかもしれない)
少年はどこまでもポジティブだった。
「何してあそぼっかッ」
約四十センチ。それが少年とフランの距離であった。フランは少年を見上げ微笑み、頬を赤らめている。フランがひょこひょこと動くたびに、彼女の匂いが風に乗ってやってくる。なんだか知らないがお菓子みたいに甘い匂いなのだ。どうなってるんだ、いい加減にしろ、可愛すぎる、と少年は心の中で悶絶しながら平静を保っている様子だが、実際傍からみるとそわそわ感漂いまくりで不自然であった。
「なな、何がいいですかねぇ」
「カードもあるし、ボードゲームもあるよっ! それとも、ごっこ遊びの方が良い?」
「ごっこ遊びにしましょう」
少年の選択は速かった。
なんだか趣向はいまいち解らないが、ともかくごっこ遊びに興じる事となったのだ。フランは新婚三ヶ月目の奥さん。少年は新築の家に敷かれた絨毯の役である。少年は絨毯に徹した。何かがおかしい、どこかがおかしいと思いつつも、絨毯は敷かれるものである。そして新婚三ヶ月目の奥さんは新調した絨毯の上を歩く度に通りすぎるのもまた当然の話なのだ。少年は仰向けだった。仰向けの絨毯である。踏まれる度に幸せだった。
「フランさん、フランさん」
「きゃ、絨毯が喋ったわッ」
「実は私、ただの絨毯ではないのです。御主人がトルコから輸入した、高級トルコ絨毯なんです」
「ええ? でもあのヒト、普通の絨毯だって……」
「それは違います。私は由緒正しい家に代々引き継がれて来た絨毯なのです。故に永い年月をかけて魂を宿したのです」
「ツクモガミね。でも、貴方は、ずっと踏まれ続けて、平気なの?」
「私は絨毯です。その存在意義に、文句をつけるつもりはない。けれど、私は良家の絨毯。こんな一般的な家庭に敷かれるような器じゃあない……そう思っていました……」
「絨毯さん……」
「けれど、それは勘違いでした。フランさん、貴女は素敵な方だ。とても僕を大事にしてくれる……本当に大切なのは、家柄なんかじゃない……丁寧に扱ってくれる家人なんだって……」
感極まったフランが涙をこぼす。そうして、絨毯の上に座り、ゆっくりとその手で絨毯を撫でつける。少年は少年ではなく絨毯で良かったと心から思った。
「ありがとう……これからも、大事にするから……」
「フランさん……」
「絨毯……」
フラン×絨毯という全く新しいジャンルが確立かはともかく、フランは満足げである。当然ながら尻に敷かれる少年(絨毯)はもっと幸せであった。
「ふう……食材お兄さんったら、ノリがいいのねっ」
「いやいや。それほどでもないです。僕も大興奮でした」
結婚四年目倦怠期の奥さん×端の欠けた廃棄寸前の皿。
結婚四十年目の老婆×土壁。
結婚七日目の奥さん×机の下の埃。
複数のごっこプレイを重ね、二人の意気は投合して行く。最初こそ何か違うと思っていたが、少年は悟った。記憶の無い頃の自分は、きっとこういうお店を選んで入ったのだと。直接的なプレイは一切ない、特殊性癖向けのイメプレを楽しめる店なのだと。
少年の中に潜むどす黒い感情(単なる性欲だが)は、やがて晴れやかになって行く。新しい自分の目覚めである。
ここにおいて、自分は物。もしくは物以下。しかしそこには一抹の憂いが秘められた、切ない物語こそが展開する場所なのだと。
「参ったわ。まさか机の下の埃が本当はアレのカスだったなんて」
「直感です。アレだったらきっと驚くと思って」
「もう、食材お兄さんったら」
「えへへ」
「演技してたら、疲れちゃったね」
「あ、飲み物持って来ましょうか。とはいえ、紅魔館(雑居ビル)の内部図、公式にも無いから解りませんけど(笑)」
「? あ、館内は解らないものね。うん。でも大丈夫、呼べばくる有能なメイドがいるから。咲夜ー」
今更だが、やたらデカイ雑居ビル(仮)であると気が付く。この『フランちゃんのお部屋』とやらは、端から端まで二十メートル程もあり、全てが石造りだ。そもそも雑居ビルという仮定がおかしい。もっと違う施設なのかもしれない。
そう思っていたのだ。
本当に、心の底から、何の疑いもなかった。
これは全て、お金を払って行われる、何かとっても如何わしいイベントなのだと。
――しかしながら。
「……なんで食材君がここに……お呼びですか、フランドール様」
「……は?」
目前に、何の気配も無く、突如人間が現れた場合、通常の人間はどのような反応をすればいいだろうか。
『咲夜さんなんだから時間を止めるような演出があってもおかしくは無い』
とは思うものの、物理的に、これは説明不可能である。この石畳がエレベーターになっている訳でも、上から紐で吊るされて降りて来た訳でもない。突如として眼の前に、人間が現れたのだ。
「……――、いやいや……人間は、無からは生まれない」
「私としては、何故食材がここにいるのか疑問なのだけれど」
「咲夜、飲み物。二人分」
「フランドール様、これは食材ですわ。牢に戻しましょう」
「別にいつ食材にしたっていいじゃない。今は私の遊び相手なんだから、邪魔しないで」
「レミリアお嬢様が御怒りになられますわ」
「ウチの当主はそんなに狭量だったかしら、咲夜?」
咲夜がたじろぐ。確かに、レミリアがそのくらいで怒る事はないだろう。フランドールの遊び相手は随時募集中なのだ。
とはいえ、咲夜としては、いささかばかり、気に入らなかった。これは数時間後解体する予定の食材である。食材は、食材らしくしているのが相応なのだ。
ハッキリ言ってしまえば、咲夜の癇に障る。
「あの、良く解りませんが、そう怒らないでください、咲夜さん」
「食材が出歩かなければ私も怒ったりしないわ」
「出したの私だし。咲夜、早く飲み物」
「――フランドール様、使ったら、元の場所に戻す。レミリアお嬢様はいつもそうおっしゃっていましたわ」
「はいはい。ちゃんと戻すわ」
「では少々お待ちを」
少年の錯覚ではない。今度は眼の前で消えた。人間は眼の前で突然消えたりしない。仮に、仮に、本当に彼女が十六夜咲夜ならば、それもあり得るだろう。時間を操る程度の能力で、眼の前からかき消える事もあるだろう。
ここは現実、ここは現実。
「ええと、フランさん、ここは、紅魔館ですよね」
「ええ」
「ここは幻想郷の中にある紅魔館で、貴女はフランドール・スカーレットで、姉はレミリア・スカーレットで、図書館の主はパチュリー・ノーレッジで、門番は紅美鈴で、先ほどのメイドさんは十六夜咲夜で……ええと、マジで?」
「詳しいのね。本当に外からきた人?」
「……あー……」
少年は悟った。同時に、とてつもない興奮を覚える。来てしまった。
ここに。
幻想郷に――来てしまったのだ。
ここは現実である。現実の、幻想郷だ。
しかし、それは同時に最悪の事態でもある。どういった理由でここに自分が居るのかは知らないが、自分を攫って連れて来たのは、東方的に考えて八雲のお二人どちらかだろう。先ほど、牢の前でのやりとりから計るに、あれは口調的に藍ちゃんだな、などと考える。死にそうな人間やらを攫って如何にするかといった話は、良く耳にしていた。紅魔館、いや、レミリアは過去暴れた御蔭で、人間を襲えないよう制限を掛けられている。その変わり、どうやら人間を定期的に供給されているのではないかと……果たして公式だったか、二次だったか……ともかく、そのような設定があった筈であると、そこまで思い至る。
ヤバいのだ。
プレイではないのだ。
マジ、解体されるのだ。
「あ……僕、本当に、解体されるんですねえ」
「されるよ。血液供給機兼、美鈴のおやつかな?」
「うわー。神主、本当に幻想郷の事知ってて作ってたんだー東方ーすげー……」
「どうしたの? 突然死にそうな顔して。死ぬって言ってたじゃない。貴方も知ってたし」
「じ、実はですね?」
かくかくしかじかと、本当の、マジもんのフランちゃんに、自分の記憶が無い事を告げる。過去の自分はどうか知らないが、今の自分に死ぬ気なんぞ毛頭なく、やっぱ死ぬの怖いです、などといった泣き言をである。
「そうなの……? 大半の人間もね、最期の最期で死にたくなーいって叫ぶけどさ、大概死んだような顔してるのよー。でも食材お兄さん、さっきまで死ぬような顔でもなかったし……どうしよう?」
「どうしましょ」
「問題ありませんわ。供給されてきたものですもの。それがどんな精神状態にあるかなんて、瑣末な問題です」
と、そこに。ティーセット一式を台車に乗せた咲夜が現れる。ああここ幻想郷なんだな、と自覚しながら見る咲夜はやっぱり美人で眩しい。少年をモノのようにみる冷たい目線も怖いけどすごい最高だった。
「(ゾクゾク)」
「もう、咲夜は殺したがりなんだから」
「動物を捌くのにどうして感情が必要でしょうか。いちいち感慨にふけっていたら、鳥も豚も殺せませんわ」
「うわー、人間同列なんだー、他の肉と同列なんだー。すごいなー、すごい価値観だなー」
「うるさい喋る肉ね。モノは黙っていて」
「ごめんね食材お兄さん。咲夜ったら、人間の尊厳を奪いつくしてバラバラに解体するのが大好きなの。人間と同等かそれ以上の存在を蹂躙して辱める事でしか、快感を覚えられないのよ。だから、感情が無いなんて大ウソ。私も気をつけないと、いつかバラバラにされそうだわ」
「――そんなこと、ありませんわ。私は、お嬢様方の笑顔の為に、頑張っているんですもの」
「あはは。どうだか。ウズウズしてるクセに。そういうの、隠さなくてもいいわよ? ここは悪魔の館なんだから、悪魔の従者らしく振る舞えばいいのに。へんに人間のフリして……だけども、咲夜。食材お兄さん、まだ殺しちゃ駄目だからね。供給先の手違いかもしれないし。御姉様にもちゃんと連絡して」
「……畏まりました」
咲夜は、片目を瞑り、何かを我慢するようにして、背を向けて去って行く。
……少年は気がつかれないように溜息をついて、フランと自分分のお茶をいれはじめた。
「いや、助かりました。フランちゃんマジ天使ですね」
「悪魔よぅ」
「フランちゃんマジ悪魔ですね。あ、それにしても、これは失礼な話かもしれませんが、赤い館の妹君といえば、気が狂っていると専らの噂でして。思いの外理性的で、食材ビックリです」
「あー、うん。そういう宣伝してるの。ああでも、忌日は駄目。我慢出来ない。もう、食材お兄さんみたいな人いると、頭と足を持って一気に引きちぎりたくなるのよ。でも別にね、狂ってるとか、そういう訳じゃないの。だって私、吸血鬼よ? 生物に害をなす存在。人を蹂躙する事でその恐怖と畏怖を知らしめる妖怪なのだから、これは当たり前のことでしょ?」
「全くです。はいどうぞ」
「ありがと。それでね、特殊なのは御姉様なのよ。吸血鬼のクセに、人間に理解あるフリして、ここ数十年はまともに人間も襲ってないんだから。吸血鬼的価値観でいけば、絶対可笑しいのは姉」
「僕もあまり詳しくはないですけど、妖怪という人達は、人の恐怖や信仰から、その身を具現化させたものだと聞きます。そういう理屈であれば、フランさんのお話は実に論理的かと」
「食材お兄さんは、とっても理解力があるのね」
「フランさんもいろいろと考えているんですね」
「全部本の知識だけど。そもそも人間に恐怖を与えるって話、ピンとこなかったけど、食材お兄さんみたいな人が怖がっておしっこちびったりする姿みたら、きっとフラン、興奮しちゃうと思うよ」
フランは、ベッドに腰掛けてお茶を啜る。少年の目線は、無防備な彼女の、しかし見えない絶対な領域に行く。
そういえば外の世界に居る時、フランちゃんのあれやそれなら全然飲めちゃうだのなんだのと、幻○板やら2○hやらツイ○ターでぶつくさ言っていたのを思い出す。
それが眼の前にいるのだ。三次元的に。
『三次元とかwww無いわwwww俺www二次元に生きてるしwwwオウフwwwwコポォwwww』
などとも言っていた気もするが、もうホントそれどころではない。いつでも手に触れられる所にいるのだ。
生唾を飲み込む。
「――あー……目つき、いやらしいんだー」
「オウフ。失礼をば致しました」
「といってもね、解ってたよ? ずっとそういう目で見てたでしょ?」
「様々な事情がありまして」
「説明して?」
「それはですね」
かくかくしかじか、またフランちゃんに説明する。
「貴方ロリコンね?」
「年齢的に言えば間違いなくド熟女ですフランさん」
「そういえば、なんか随分と、詳しいよね。なんで?」
「……」
こればかりは、説明が躊躇われる。貴方達の日常は全て唯一神であるZUNがシューティングゲームとして発表されている、とはとても言えない。てかゲームが何かをまず説明して、それが何故なのか説明して、どうしてこうなっているのか説明して、ではとても追いつかない。
(しかしなんだ……まさか、ゲームの中に入り込んだ、という訳ではあるまいな。それならまだ幻想郷に迷い込みました、の方が僕納得出来るわ)
などと思う。紅魔郷やりすぎて脳がアレになってしまった、という話もあり得るだろうし、そもそも夢である可能性だって否定出来ない。
「私には言えないんだ」
「説明が煩雑すぎる、といいますか、困難、と言いますか。取り敢えず、隠すつもりは無いんです」
「へえ。でもなんかね」
「はい」
「貴方は、死ぬ為にここに来たんじゃないような、そんな気がするな。ここに来るのはね、本当に、もう、生命力の一つも感じられないような人間なの。生きてる価値がない人間でもある」
「に、人間の命って、そんなに差があるんですかね」
「私からしたら、牛も鳥も兎も人間も同じよ。あ、豚は可愛いから殺しちゃだめね。これは私の主観。貴方達人間の語る倫理観とかいう下らない話はどうでもいいの。ただ、何となくそう思うだけ」
「光栄であります」
「……」
「どうかしましたか」
「外の世界には戻してあげられないけれど……スキを見て、外にぐらいなら、出してあげられるよ」
フランはカップを置き、少年を真っ直ぐ見つめる。本当に殺すのが惜しいと思っているのだろう。フランからすれば、血液供給機など大して重要でもないし、固執もしていない。その中で、何となく殺すのが惜しくなってしまう動物も、たまにはいるのだ。確かに如何わしい目で見られていたかもしれないが、フランは気にとめない。相手は人間である。人間とは、欲望の生き物なのだ。
綺麗な物、美しい物、可愛い物を、我がものにせんと思うのは、当然のこと。まして、そういった欲求こそが、そういった劣情こそが、妖怪なんていう、反面教師を生み出しているといっても、過言ではない。
「そうだ。巫女だ」
「博麗霊夢ですか?」
「そうそう。本当に詳しいね、じゃあ解るかも」
そうだ。紅魔館の外に出て、霊夢に会えたならば。迷い込んだ人間を外に出す事も、彼女の仕事なのだ。自分は助かるかもしれない。咲夜に細切れにされず済むかもしれない。
……。
「ふ、フランさんは、確か、人間を『人間』として見た事がなかったんでしたっけ。人間は道具であったし、咲夜さんはメイドという種族だと思っていたとか」
「恥ずかしい話しないでよぅ……まあ、そうだけど。飲んでいたのだって、まさか血液だなんて思わなかったわ。でもね、自覚すると、やっぱり凄く美味しく思えるの……あれ、そんな話だっけ」
「……い、いえ」
少年に、わずかな歪が入る。それは、フランドール・スカーレットという『俺の嫁』が、現実として眼の前に存在しているという、とんでもない事実に起因するだろう。
この少女に襲われて――血を吸われたならば――どれほど幸福か――。
この調子ならば、恐らく、外に出られる。だが、それを否定する自分がいるのだ。このままずっとフランを見ていたい。折角死ぬなら、フランの手で殺されたい。
一体、フランドール・スカーレットと名称をつけられたものに、自分がどれだけ執心していたか。どれだけ固執していたか。思い返せば……毎日毎日、やれ結婚したいだの、やれ結婚しただの、やれ子供が出来ただの、散々俺東方を妄想の中で繰り広げ、耐えきれずヘタクソな絵を描き、SSを書き、狂ったように紅魔郷EXtraをやり続けていた。
もはやそれは生活の一部であり、己を形作る一つなのである。
眼の前にあるのだ。それが。
これほど歓喜する事実が、他にあるだろうか。
「フランさん」
「どしたの、改まって。あ、私に恋しちゃって、外に出たくないとか? こまっちゃうぅー」
「あながち間違いでもないです」
「わ、本気の顔。ふ、フフ、フラン、そういうの初めてだし……ちょっとドキドキする」
「お願いがあります」
「なな、何? 何かしら? どど、どうしたの? ち、近い、近いよ、食材お兄さん……」
「ドロワください!! あと外に出してください!!!」
少年は――本気だった。余すところなくリビドーを全開にし、渾身の土下座をお見舞いし腐ったのだ。あまりにも漢らしい、壮絶な潔さ。一切包み隠さない、後ろ暗い欲求。例えそれが吸血鬼であろうと――決して無視できない、それほどまでの、気迫であった。
「え? いいよ?」
「軽ッ! ホントですか!?」
「ドロワだけで良かったの?」
「えッ!!」
しかし少年は確実に願いの判断を誤った。きっと童貞だったからだろう。
急いでいる時に、廻っている暇はなかった。
咲夜が戻って来るまでに時間が無いのだ。地下を通る通路を抜け、大図書館のスキマを縫い、狭い階段を駆け上がると、そこには外の世界が広がっていた。既に陽は暮れ、周囲を不気味な闇が包み込んでいる。
「この塀を真っ直ぐ進むと、雑草にまぎれて穴があいているから、そこをくぐって外に抜けられるわ。この時間は御姉様が起きて来る頃だから、メイド達も居ないし、美鈴も寝ている」
「はい、解りました」
「それにしても、案外賢いのね」
「はい?」
「私の体臭なんて染み込んでる物持ってたら、確かに並の妖怪は近づいてこないもの」
全く意図していなかったが、どうやら魔除け効果があるらしい。見て良し嗅いで良し身につけても良しで魔除けにもなると来たら、これほど便利なアイテムそうそうお目にかかれないだろう。
「は、ははは。い、生きて帰りたいですからね」
「うん。御蔭で下半身がスースーするけど」
「代わりのはきましょうよ」
「でも気持ち良いかも」
(僕が死ぬ)
「じゃ、そろそろ行って。私は、咲夜に絡んで、適当に時間稼ぐから。道はさっき話した通り……ええとね、もし、私が咲夜を抑えきれなかった場合、貴方は息をひそめて、隠れて」
「やっぱ、走って逃げられませんか」
「無理。あの子は、貴方を人間らしい価値観では見てないの。見れないの。貴方は、私達の餌。咲夜は、私達に喜んで貰いたいから、そうするの。そして、人間をバラバラにするのが好きだから、そうするの」
「……咲夜さんは……何か……」
「……色々、あるのよ。女性を詮索しちゃダメって、御姉様が言っていたわ。でも、ともかく。貴方に関して、咲夜は妖怪よりも、怖ろしい。何せ、食材を逃がすなんて不手際……完全じゃないから」
「解りました。ありがとうございました」
ふかぶかと頭を下げ、少年はさっさと背を向ける。あまり長引かせると、咲夜に捕まる以前に、名残惜しすぎて帰れなくなってしまいそうだったからだ。
「ねえ、食材お兄さん」
「……」
「短い時間だけど、遊んでくれてありがと。私、人間とこんなに話したの、初めてだったかも」
「……」
「もし世の中がお兄さんみたいな人ばっかりだったら、吸血鬼は人なんて襲わなかったかもね」
「……」
「ああでも、それじゃあ、吸血鬼は生まれないっか。ええと」
「……」
「ばいばい」
少年は決して振り返らなかった。あれほど性的に見ていたのに。少年の心は、今や切なさだけが支配していた。違うんだと、歯を食いしばる。ポケットの中に仕舞い込んだフランのドロワーズを握り締めながら、僕は君にそんな目を向けて貰えるような人間ではないのだと、頭の中で己を殴りつける。
完全に参っていたのだ。
完全に恋をしていたのだ。たった数時間で――いいや、今の今まで抱き続けて来た情愛を、パソコンのディスプレイではなく現実にぶつけられるという機会を得てしまったからこそ、この爆発的な感情が存在するのだろう。
フランドール・スカーレット。
登場回数こそ少ないが……紅魔郷以来、来年で十周年。未だに衰えぬ人気を持つ、不動の妹キャラである。
少年が彼女に初めて出会ったのは、兄からの紹介であった。三年程前の頃。同人ゲームを好んでいた兄は、気まぐれに弟の少年に対して、プレイを勧めた。当然、絶滅寸前の弾幕シューティング、ましてSTG経験のない中学生の少年に、クリアできる筈もなかった。
だが少年は心躍ったのだ。流れるような縦スクロールに、次から次へと迫りくる華麗な弾幕に、弾の動きに合わせるような、心地の良い音楽に、そして不思議で魅力的なキャラクターに。
しかしながら、難しい。何度も挑戦した。何度も考察した。反射神経が、指の反応速度が、微妙な避け具合が、ままならない。本来ならばコントローラーをぶん投げている所である。しかし少年は諦めず、戦い続けた。
『やった! レミリア倒した!』
努力は功を奏し、とうとうレミリア・スカーレットを打ち破り、幻想郷は救われたのである。
これで全クリ。続編をやってみようと、そう思った時。
そこには、エキストラの文字があった。
猛烈な弾幕が少年を襲う。
そこには――絶望が存在した
『何この子……レミリアの妹?』
妹様はハンパではなかった。今までとは比べ物にならない程の理不尽に満ちていた。何故そこから弾が来るのか、なんで弾に囲まれるのか、どうしてそんな速い球がランダムで飛んでくるのか、どうやって避けろと、死ねと? 声には出さなかった。しかし魂は叫んでいた。こんな奴――誰が勝てるのか。
そうして、少年はコントローラーを置いた。
コントローラーを置いてからしばらく、兄が就職のために遠隔地に行くという。最初は気にも留めなかったが、しかし問題があったのだ。少年はパソコンを持っていなかったのである。
『結局、フランはクリア出来なかったな』
その心残りは、学校の授業でインターネットに触れて、改めて悔恨となる。様々なプレイヤーの超絶妙技、東方キャラ達が舞い踊る二次創作、音楽、東方の世界とは、一体どれほど深いものなのか――。
フランドール・スカーレットという存在が、どんな設定なのか。ここで初めて知る事になる。少年の頭に、まさかフォルダを開いて中のあとがきやら設定を見る、などという考えがなかったからだ。
それから一年後。高校生になった少年は、バイトで溜めたお金でパソコンを買い、狂ったように弾幕に興じた。
――ただただ、フランドール・スカーレットを撃破する為に。
少年は幸せであった。彼女の放つ弾幕をかわす事が、彼女のテーマを聞く事が、彼女と遊んでいられる事が、幸せだったのだ。
寂しい彼女をお相手するのは自分。
悲しい彼女をお相手するのは自分。
そして少年は、フランドールに幸せになって貰いたかった。
「――ああ、そうか……僕は……」
暗い夜道を一人行く。電灯なんてありゃしない、かがり火の一つだって見当たらない。あるのは煌々と照る紅い月。数多の星々。とても、現実の都会で暮らしていては観る事も出来ないような世界が、そこには広がっている。
昨日。
少年は死のうとしたのだ。
大した理由はない。何と無しに、嫌気がさしたのだ。両親は存命であるし、兄は結婚するという。少年もまた健康であり、精神的に苦の一つもない。もしかしたら、人以上に幸福な人生を漂っていたのかもしれない。
だが、少年は虚しかった。
最愛の人はディスプレイの中。毎晩毎晩、構築したパターンの通り、フランドールの相手をするだけ。描いた絵はヘタクソで、書いたSSはつまらなくて、集めたグッズも同人誌も、ふと我に還ると虚しくなる。
そこに本物のフランドールはおらず、彼女の弾幕は何も答えてはくれないのだ。
真剣に、嘘偽りなく、何一つ曲がりもせず、ただ真っ直ぐに――少年はフランドール・スカーレットが好きだった。
そしてそんな自分は、今後も一生、彼女を幸せにする事は叶わない。
気がつけば、少年は自宅マンションの屋上にいた。
「変なふうに、厨二拗らせちゃったなあ」
苦笑する。
「拗らせて死んだ事にする?」
それは凶星。いや、月か。夜空よりもつめたい声が、少年の耳元で響き渡る。
「が、さ、咲夜さんッ」
「食材が、出歩いたら、駄目でしょう」
少年は凡人である。物語において、何の力も付与されていない、ただの少年である。
故――この状況下を、生き延びる事は出来ない。
少年は飛び退くようにして咲夜から離れる。彼女は暗がりにありながら、異様なほど目を光らせていた。少年の知識で行けば、咲夜は恐らく人間である。だが、同時に常人をどこまでも突き放した上での人間なのだ。主人公機――妖怪を黙らせるだけの力を持った、超常存在である。
「随分と、フランドール様に可愛がられて。末期に甘い水は飲めたかしら」
「あ、あはは。いやはや、本当に、妹君は、可愛らしいですね」
「そうね。じゃあほら、そのお嬢様方の飲料になって貰えるかしら。幸せよきっと」
「そう、そうも思ったんですが、やっぱり命は惜しいものでして」
「死のうと思ったから、提供されて来た。提供されて来たから、貴方は血と肉になる。困るのよ、そうなって貰わないと。二カ月に一度の機会なの。それでお嬢様方は笑顔になって――私も幸せになれるわ」
人間を相手にしている目ではない。人語を解するから、人語で話しているだけ、というものだ。彼女の中に慈悲も何も無い。そもそも、そんなものを抱くような価値観は、彼女に無い。
十六夜咲夜は実に良く出来たメイドである。例え私情を挟もうとも、決してお嬢様方に迷惑はかけない。
する事なす事完璧に。
動作も仕草も行動も、態度も容姿も完全に。
ご主人様に笑顔を振りまき、友人たちに微笑みを分け与え、十六夜咲夜は何時も在る。
彼女からすれば、そして、普段通りであったのならば、彼女が何かしらの批難を受ける事は一切なかっただろう。それが日常であり、それが当然であり、それが仕事であるからだ。
だがどうも、今回はイレギュラーである。
「大人しく死んでくれたら、何も問題ないのに。これじゃあ、私が悪役みたいだわ」
「お、お勤め御苦労さまです」
少年は、頭を働かせる。何か、生き延びる手立てはないか。確実に死ぬ。確実に殺される。確実にバラバラにされる。彼女は、少年を少年などとは思っていない。血液供給食材だ。
少年は最初から、食材君と定義されていたのだから。
ある意味幸せではないか?
大好きなフランちゃんの餌になるのだ。
それは、先ほど少年でも考えた事だ。
逃げようがない。ならば大人しく捕まり、懇願してせめて、フランの手にかけて貰えば良い。
ここで咲夜にバラバラにされる必要もあるまい。
どうせ死ぬつもりだったのだろう?
羨ましい限りではないか?
フランちゃんに血すわれてるなうwwwとでも、呟けばいいのだ。
(でも)
でも。
(フランちゃん……いたし!! 居たし!! 遊んだし!! 死ぬ理由、ねえし!!)
……。
「ぬ」
「ん?」
「ぬおぉぉぉぉぉッッ!!」
「な、何よ?」
「あー目覚めたわ、突如目覚めたわー。窮地に追いやられて僕の真の力が目覚めたわー。ここはひとつ!! 弾幕勝負で如何か!! 格闘仕様で!!!」
「むっ……」
ここに一つ、天啓。弾幕勝負という、茶番である。例え相手が食材であろうと、弾幕勝負を申し込まれたならば、これは受けねばならぬ。もし受けないとあらば、それは幻想郷に敷かれたルールの根底を揺るがす。
「あまっちょろい事は言わない! 僕が勝ったら僕は逃げる!! 君が勝ったら僕を好きにするといいさ!! だが弾幕ルールからは逃げられない!! これを否定する事すなわち、僕というイレギュラーな異変を、力づくで解決した事になる!! まったくもって、美しくないじゃあありませんか!?」
「肉の癖に面倒ね。でも貴方、スペルカード、あるの?」
「勿論!!」
そういって、少年はポケットの財布からカードを二枚引き抜く。
四菱UFJカードと、郵便貯金カードである。もうヤケクソだった。吐いた嘘は突き通すしかない。
「さあ来るといい!! 覚醒した僕に、そのヘロヘロの弾幕、中てて見るがいいさ!!」
「はあ。まあ、いっか。結果変わらないし。じゃ、行くわよ」
宣言。開幕、咲夜が少年の眼の前から消える。
「……、え」
驚きの声があがる。それは少年のものではなく、咲夜のものだった。
「だあああれがまともにヤリあうかああああッッッ――――!!! 逃いぃぃげるんだよぉぉぉッッ――――!!!」
全力疾走。そしてなかなかどうして、やたらと速い。その足で少年は雑木林へと駆けこんで行く。
「え? え?」
流石の咲夜も、これには呆気にとられた。ある意味、超常慣れしてしまったが故の失策である。相手方が能力に目覚めたわ、本気出したわ、という場合、マジで出して来る。それが例え人間だろうと、例に漏れない。
幻想郷においては、一般人であろうとも、練習すればそれなりに弾幕で喧嘩が出来る程度にはなれるのだ。
そういった要素もあいまり、咲夜は信じ込んでいた。何せカラフルなスペルカードまで取り出したのだ。武器まで取り出して逃げる奴を、咲夜は過去、見た事がないのである。
「あ、お、追わないと」
が、やたらと速い。既に少年の影も見当たらなかった。
何を隠そう少年、運動会では何時も一位である。流石である。
「くっ……待ちなさいッ」
時間を断続的に止めながら、咲夜が追い掛ける。幾ら足が速かろうとも、時間を止められては少年も成す術がない。とはいえ、動いてさえいれば咲夜の狙いをそらす事だって多少は叶うであろうし、出だしの一発が効いているらしく、動揺もある。
このまま走り続ければ、光明は見えるかもしれない。
「見つけたっ――」
夜風に混じるように、銀のナイフが闇を裂き飛んでゆく。
「だはは!! だれが当たるかそんな3way弾!! 見飽きたわッ!! ひょひょいっと!! アバヨーゥwww」
「むきーーッ」
そして少年の策は、在ろうことかかなりの良策である。咲夜は本気で殺しに来ていた。そうなればルールは無用、さっさと後ろから突き刺してやればそれで終わりだが、今現在、弾幕勝負を挑まれた状態なのだ。相手が参ったでもしない限り、取引は成立しない。故に、天秤の掛けられた命は、勝負後に決めなければいけないのだ。
咲夜がルールを護る限り……直接的な殺戮は、不可能なのである。
「このっ……銀符『シルバーバウンド』ッッ」
とうとう、スペルカードが発動する。青い光を纏ったナイフが、木々に跳ね返って縦横無尽に雑木林を巡る。
(……ぐ、グレイズしたら死ぬかな)
どうも慣れで、飛んで来る弾に対してグレイズをかましたくなる。だがこれは現実だ、かすったら、痛いに決まっていた。だが、ではどうやってみんな避けているのだ、と考える。霊的な、魔力的な防御をしているからだろうか? それとも、幻想郷の住人は、当たり判定が本当に真ん中にしかないのか?
(めっちゃ追ってくるし……やっぱ本場は違うのか……)
追って来る。ゲームならばどこかに消えて行くナイフも、これ見よがしに追って来る。このまま走っていてもじり貧だ。
少年は腹をくくる。向かって来る方向に対して、少年はギリギリの距離を見計らい、身を伏せた。
「うごごごっ」
「げ、避けた」
「出来るグレイズ出来るこれッ」
距離にして十メートル程。改めて少年と咲夜は対峙した。方角は間違いない。里に近付いている。あれだけの危機的状況の中、少年の判断力は侮れない。
――在る意味、最早、現実離れしているといっても、過言ではない。
彼は死ぬべき人間であった。食材としての運命を与えられた少年であった筈だ。しかし、どんな因果の収束か。明らかに、決められていた死という結末に対して、反逆している。
「フランさんは、僕は死ぬべき人間じゃないって、言ったから。僕も、死にたくないし。咲夜さん、ごめんね。僕もう、死ぬ気無いんだ。フランさん、いや、フランちゃん、居たし。超、可愛かったし。こんな嬉しい事って、ないもん」
「貴方、何かおかしいと思っていたのよ。私の名前は知っているし、幻想郷に来たばかりなのに、色々詳しいみたい。私は、狐に化かされているのかしら?」
「いや、たぶん、本当に僕は食材なんだよ。食材だった。ただ、八雲藍は、連れて来る人間を間違えたんだ。供給する食材が、こんな面倒な奴だったなんて、思いもしなかっただろうしね」
「……。それじゃ困るわ。だって、お嬢様、ちょっと血を飲みたい顔、してたもの。暴飲暴食出来なくなって、吸血鬼の尊厳も殺がれて、たまに供給される血液ぐらい、飲ませてあげたいわ」
「咲夜さんは、優しいですね。美人だし。三番目くらいに好きです……じゃあ、こうしませんか。僕、血液を供給します。死なない程度に。それじゃあ駄目ですか」
「駄目よ」
「何故ですか」
「だってそれじゃ……私の楽しみ、減るじゃない?」
「あー……」
フランの言葉を思い出す。無感情に人を屠殺しているなど大ウソだと。十六夜咲夜は人間を蹂躙して楽しむ輩であると。
これを残虐と取るか。可哀想と取るか。
「ごめんなさい。でも僕、生きなきゃいけないんです」
「何故?」
「これからも――フランちゃんを、愛し続けなきゃいけないから」
咲夜は理解不能だったに違いない。現れて十数時間の人間が、何故そこまでフランドールに固執するのか。しかし食材の瞳はどこまでも澄み切っている。とても、死ぬような人間ではないのだ。希望に満ちた未来を見据える、輝かしいまでの若者。愛を突き通そうと覚悟したものの目。
「何故?」
「彼女の笑顔の為に。彼女の幸せの為に」
「それが貴方の独りよがりでも? フランドール様は、貴方の手には、届かないのよ?」
「それでも。独りよがりでも、手に入ろうが入るまいが、僕は、彼女の幸せを願い続けるんです」
「……何故?」
「そう、決めたからです。護りたい、あの笑顔」
「そう。でも、私には」
関係ないからと。咲夜は言った。
ノーモーションで放たれる鋭い刃。確実に、人間の反応速度を超える飛翔物。
因果は相応の結末に向かう。
一般高校生では、幻想郷の人間には敵わない。当然の話だ。
――だが。
生きると決意した人間の、その意思を無碍にする程……どうやら『食材君』が紡ぎ出した物語は、無慈悲ではなかった。
一迅の風と共に、超速度のナイフはあらぬ方向へと弾かれる。やがてそれは威力を失い、呆気なく地面へと落ちた。
動く七色。
泳ぐ紅蓮。
滾る波紋。
そうして食材は――理不尽にも、主人公となった。
「ふ、フランさんッ」
「もう。咲夜ったら人の話聞かないんだから」
「フランドール様。これから食材を解体する所ですわ。大人しく、館にいてくださいまし」
「やーよ」
「折角、若い血液を御馳走出来ると思っていましたのに」
「お兄さんのは要らないや。お兄さん、咲夜に悪気はないの。ごめんね」
「いやいや。僕もほら、一度は死のうとした身だし。そういう奴等が餌になっちゃうのは、幻想郷的に言えば当然な訳で。それに僕を追いかける咲夜さん、殺意に満ち満ちてて、それが逆に興奮するというか」
「咲夜。お兄さんが変態で妙に強靭な精神の持ち主で、本当に良かったわね」
「酷いや」
「……フランドール様は、召し上がりたくありませんか」
「うん。少なくとも、お兄さんのは」
「……。お嬢様にも、そう言われてしまって。本当は、飲みたいクセに」
「気まぐれで、適当で、そしてその気まぐれで適当な話を聞くのが、咲夜の仕事」
フランは咲夜をなだめるように言う。冷静を装っているが……フランの後ろ手は、少年の服を握りしめていた。いつでも、投げ飛ばしてでも、逃がす為だろう。
少年は、不思議に思う。確かに、少年は強烈な愛情をフランに注いでいた。だが、フランは別だ。こんな、牢屋にいた薄汚い高校生、何をもってして護る必要があるか。それも気まぐれや適当で、説明がつくだろうか。
わざわざ、館を抜け出して来てまで、少年を守る必要性など、どこにあるか。
「咲夜」
「はい」
「次で良いわ。次は、御馳走して。私だって、血液、嫌いじゃないし」
「――はい。腕をふるいますわ。次は、女の子で、RHマイナスの子を、注文しましたもの」
「うん。じゃ、解散。お兄さんも、行って」
「あ、う、うん」
そうして、三人は散り散りになる。少年は五分程雑木林を歩き、漸く人の道に出る事が出来た。
咲夜の残念そうな顔に胸が痛む。少年は、自分を殺そうとした相手に対して、怨みは無かった。むしろ、自分こそがイレギュラーすぎたのだ。咲夜はいつものお勤めを済まそうとしただけに過ぎない。見えないところで日常的に行われている作業をこなそうとしたにすぎない。それはきっと、霊夢も魔理沙も知らない事実だろうが――逆に、客観視し続けて来た少年にとっては、それを阻害して申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。
「お兄さん」
「あ、あれ。フランさん。帰ったんじゃ?」
「咲夜が変な気起こさないか、見てたの。もう大丈夫みたい」
「咲夜さんには、悪い事しちゃった。僕の代わりに、謝って貰えますか」
「へんなの。殺されそうになったのに……ま、今更かな。いいよ」
「ありがとう。フランさんは、本当に優しいですね。それじゃあ、僕は行きます。この先は、里でしょうから。上白沢女史に保護願って、後日博麗神社に行こうと思います」
「ねえねえ、お兄さん」
「……行かないと」
振り切ろうとする。これ以上、彼女の顔は観れなかった。後腐れなく、ただ、満足を抱えて、少年は帰るだけなのだ。
しかし、フランは腕を掴んで引きとめる。
「あの」
「はい?」
「さっきの、嘘」
「どの辺りでしょう」
「血、いらないって」
「あー」
「助けたお礼。ちょうだい?」
少年は――フランのあまりの可愛さに悶絶し、地面にぶっ倒れ、首筋をこれ見よがしに差し出した。
「全部どうぞっ!!!!!1111」
「だ、だめよぅ」
「じゃ、じゃあ半分でっ」
「死んじゃうわよ。助けた意味、なくなっちゃうわ」
「……」
どうして、そんなに悲しそうな顔をするのか。少年は、食材君である。超生命体である吸血鬼が、人間如きに配慮する必要なんてない筈だ。フランを本物と自覚した時から、少年の覚悟は粗方決まっていた。生きるも良し、死ぬならば仕方なし。そんな、人間的にどこか欠けている少年に、何故、そこまで生きていて貰いたいのか。
「豚の次くらいに、可愛いと思ったから」
「わあ、僕、豚以下なんだ――」
「そらそうよぅ。何せ、食材君だもの」
「左様でした。では、どうぞっ」
「んーんふふっ」
「嗚呼……んっあっ……」
少年は、ぶっ殺したく成程幸せそうな顔で気絶した。
少年は実にツイていた。
上白沢女史に付き添われ、辿り着いた博麗神社には、博麗霊夢がおり、霧雨魔理沙がおり、八雲紫がいたからだ。
(在る意味怖いな。ここまで可愛い子が揃うと)
博麗霊夢は相変わらず面倒くさそうに客を相手し、霧雨魔理沙は好奇心に目を輝かせ、八雲紫はやる気の無い霊夢をせっつく。少年の想像していた世界通りの流れが、そこには存在していたのだ。
「じゃあ、私はこれで。少年、もう来るんじゃないぞ」
「慧音先生、有難うございます。十番目くらいに好きです」
「……? あ、ああ? ありがとう。じゃあな」
「アンタはそうやって女の子に声かけて歩いていたの? 良く生きてたわね」
「面白そうな奴じゃないか。咲夜とやりあって逃げ切ったとは。なあなあ、私ともやってみないか?」
「イレギュラーに触れると、運命が変わるかもしれませんわ。やめたほうが、無難でしょう」
そういって、八雲紫が魔理沙を制止する。彼女は少年の前に出て、その顔をジロジロと見回した。
(あ、すっごい良い匂い。ゆかりんすっごい良い匂い)
「『知ってる』のね?」
「な、なんかまずかったですかね。余計な事は、してないつもりですが」
「……藍の手違いね。あれほど、気をつけろといったのに。ごめんなさいね」
「い、いえ。本来なら、死んでいた筈ですし。助かりました」
「……そう。そうね。いいかしら。ここは、虚構よ」
「……――」
「全て嘘。貴方が知る幻想郷は、あのヒトが作った夢物語。あのヒトの、酔夢」
「……はい」
「でもまあ、貴方が幻想郷に行ったと騒いでも、当然誰も信じない。それは、夢の話なのだから。皆もそれを夢の話だと知っている。現の呪は強烈なの。逃れられないから、心配はしていないわ。ただ、貴方個人でいえば、そうとも限らない。幻想郷という貪欲な世界は、一度掴んだものを、なかなか離そうとはしないから。囚われた貴方が、またこの郷を恋しがり、自ら命を断つとも……限らない。理解出来まして?」
「そういう設定の同人誌で予習しました」
「ふふ。ええ。あのヒトの作る作品はブラフ。本当にあるこの世界を……虚構であると錯覚させる為の、オトリ」
(本当に良い匂いだなあ……いかんいかん。浮気は出来んな。うん)
「良い夢は観れたかしら。幸せになれたなら、悪い事もないわね」
「存分に。僕は、僕だけの真実を手に入れました。誰にも、譲れませんよ」
「男らしいのね。いいわ。霊夢、ちゃっちゃと還してあげて」
「意味わかんない会話の挙句そんなフリかたするのね。ま、いいわ。ほら、こっちきなさい」
(霊夢ちゃんも良い匂いするなあ……てか超可愛いな……)
「なんだ、弾幕してかないのか。折角霊夢以外の練習台が出来ると思ったのに、残念だぜ」
(魔理沙ちゃんちっちぇえ。ちっちぇえ。すげえちっちぇえ。かわいすぐる……)
三人に目を移らせながら、いかんいかんと首を振る。
ここは本当に、後ろ髪を引くモノが多すぎて、危険である。紫の言葉に嘘の一つもない。例え死が近い場所であろうとも、それを覆い隠して余りある程の魅力が、ここには沢山とあるのだ。もう何年と行っていなかった手つかずの山々、現代日本人が最早拝む事も敵わないであろう、遺伝子に刻み込まれた郷愁を誘う光景。大らかな人々、魅力的な住人達。
ここで暮らせたらと、少年は考えた。考えたが、しかしその足は、博麗神社へと向かったのだ。
自分はイレギュラー。本来、ここに居てはいけない、名も無き一般人。
鮮烈だからこそ、魅力的であるからこそ――長居などしてはいけない。
「有難うございました。これからは、アホな事考えないように、暮らして行きます」
「そう。最期に『彼女』へ、伝える事はあるかしら」
何かあるだろうか。あの子に伝える事。
少年は、首筋を抑えながら、目一杯の笑顔で言う。
「何も! 僕は、幸福な奴ですっ!」
「うん。じゃ、さようなら」
世界が歪む。景色が曲がる。音はずれ、光はひび割れる。
夢が終わったのだ。
エピローグ
「あ」
気がつけば、少年はマンションの屋上で、大の字になり寝そべっていた。立ち上がって辺りを望めば、いつもと変わりのない、現代日本の猥雑とした景色が広がっていた。
「はは」
自宅に戻ると、父親が怪訝そうな顔で息子を睨む。
「何してた、お前」
「いやあ。ここ屋上出れるでしょ? 気持ち良くなってさ、寝そべってたら、そのまま意識を失ってね」
「ハハハ、こやつめ。信じると思うか?」
「お、俺不良だからよ、夜ふかしもするし夜遊びもする」
「……はあ。ま、いい。お母さんが心配していたから、挨拶に行きなさい」
リビングに行くと、母は少年にかけより、思い切りビンタをぶちかました。ちょっと姿を眩ませた程度でここまでされる程、少年の品行は良い。親の過保護とも言う。が、愛されている事に変わりは無い。
「ごめんね、ただいま」
「おかえり。遅くなるなら、ちゃんと、連絡してね」
「うん」
「お腹すいたでしょ。軽い物作るから」
愛されている。肉親として、息子として、心配されていたのだ。自分がどれほど罪深いのか、思い知らされる。たった少しの気の迷いで、両親が大切にした命を散らせる所だったのだ。愚かにも程がある。
(……傷が、無い)
首筋に触れる。そこには、あの愛しい痛みはなかった。しかし、それも仕方の無い話だ。八雲紫は、夢だと言った。では、彼女は夢としての整合性を合わせる為に、それなりの処置を施すだろう。
……いや、それこそが世迷言。本当に夢だったから、無いのだろう。
「母さん」
「なに?」
「好きな人がいてね、でも、とても遠くにいて、まず逢えないんだ。行こうとしたけど、無理だった」
「外人さんなの?」
「たぶんルーマニア系」
「そう……。言葉も通じないし、大変ね。でも、想いって案外通じるものよ」
「はて」
「遠くにいても、想い続ければ、相手もちゃんと受け取ってくれる。お父さんがそうだったわ」
「おほほ、ノロケで御座いますか。お腹一杯ですな」
「そういうもんなのよ。人間は、心の生物なんだから」
「……」
出されたものを食べる。味付けが妙にしょっぱく感じられた。昨日の残りの豚肉だろう。お前も屠殺されて、人様の栄養と成り果てた。僕もそうなるところだったよ、でもうまいから仕方ないなと、少年は豚肉を胃に納めて行く。
価値観の違う存在というのは、もはや別の星の生き物と言える。人間が動物を食べても罪悪感を覚えずに居られるのは、肉にされる過程が目に入らないからだ。だが、例え罪悪感を覚えたとしても、少年は肉を食うだろう。美味いからだ。
フランはどう想っただろうか。過程を知ったとしても、きっと今後も血は飲むだろう。
自分はきっと、何とも思われていない。食材君であるからだ。
そしてつまるところ、そういう話であるし……尚且つ、それは夢なのだ。
「ごちそうさま。少し休むよ」
自室に戻ると、パソコンを立ちあげ、東方紅魔郷を起動させる。タイトル画面が現れると、心がざわついた。
パターン通りに道中を行き、パチュリーを乗り越え、フランに到達する。
「ははは」
フランドール「ほら、鶏って」
霊夢「あー?」
フランドール「捌いたり出来ない人でも、美味しく頂けるの」
首筋をなでる。
そこに傷跡はない。痛みもない。
全てが虚妄。嘘。夢。非現実。
少年は愚かであると、悟る。
彼女が本物か偽物かなど、瑣末な問題なのだ。そこに想う気持ちさえあればいいのだ。対象が現実か、二進数かなど、元より問題にする方がおかしい。男ならば突き通せば良かったのだ。例え相手が人間を食材と思っていようとも、食材君は食べる側を愛している。それで良い筈だ。
彼女は、元から、誰の手にも触れられないものなのだから。ずっと孤独なのだから。
誰が愛そうと、彼女の迷惑にはならない。
あの世界が現実であろうと、虚構であろうと、大差ないではないか。
フランちゃんは超絶可愛くて、少年は食材なのだから。
だがちょっぴり悲しかった。弾幕戦の前に、涙を流していては、弾を避けられない。
少年は、ポケットからハンカチを取り出そうとした。
「……あ」
気が付く。
そして、笑顔になる。
ほくそ笑む。
食材君「はは、はははッ!! フランさん!! 何して遊びますかっ!?」
フランドール「弾幕ごっこッ」
食材君「イエスッ」
その日少年は泣きながらプレイした為、ボムを抱えたまま二回落ちたが、ぶん殴りたくなるほど幸せな顔をしていた。
了
途中もこれはなぁと思う所が何度もあったのですが、
あれよあれよと気が付いたら最後まで読み終えていました。
そして、最後の方では思わず涙腺に少しだけ来てしまいました…
非常に面白かったです。
でも言わないで! ふとした時に虚しくなるとか言わないで!
……ところで
おーい、誰か俄雨さんの頭のネジを知らんか?
私もうっかり藍しゃまにうっかり攫われてうっかりゆかりんの食材になりたい
なりたい
ちょっと間接クンカクンカさせなさい。
なんかこれ へんだよ。
www
けどさすがの俄雨さんでした。
フランちゃんの優しさと物語の展開で泣いた。
何故か感動した。
馬鹿だなぁ。
少年、やりおるわい!
面白かったです
かなり面白かったです…!
なんだろう、すごく悔しい!
妄想とはかくも気持ち悪く少年を成長させるものなのですね
最後の「イエスッ」はイージーシューターのへぼい弾幕魂すらも揺さぶるものがある
食材お兄さん→主人公までの流れは実にドツボ。
しかし、175cmの75kgは筋肉質すぎるだろwww
元から1000点だったので問題なかった
やっぱり俄雨さんで安心した。
あっちの秘封少女の幻想入り話の続きも待っています。
ひとつの完成形だと思います。
自分もフランちゃんとお話したい。
通して読んだら謎の感動が……
いいぞもっとやr(
「東方を知ってる人間が幻想入り」って話は、もっとあってもいいだろうにこれが初見でした。
しかし自分ノーマルシューターだから咲夜さんにやられて終わりだろうなー
これを一言で言いますと
フランちゃんに踏まれるシーンが最高です。