お空は暗かった。
――いったいどうして?
分からないよ。
――空は青いものよ。
分からないよ。
――月は丸いものよ。
知らないよ。
――お空にぽっかりと浮いているのよ。
うっそだぁ。
▼
「ねぇ、お姉様ぁ」
真っ黒い空に、ぽっかりと穴の開いたような満月がこのテラスからは、はっきりと見えた。
わたしは椅子から乗り出すようにして、テラスから空に向かって手を伸ばした。その先には大きな大きな満月がある。ぐっと右手を握ってみる。何も起こらなかった。当たり前だ。わたしには、あの月の『目』が見えていないのだから。
「ねぇ、お姉様」
反対側に座って、紅茶をちびちびと飲んでいるお姉様に再度呼びかけてみる。また無視は止めて欲しいなぁ、とか思いながら。
お姉様は紅茶の入ったカップを置いて、わたしのほうを向いた。
置いた拍子に紅茶が少し零れ、真っ白なテーブルに、紅い跡を残した。
「なにかしら?」
「あれ」
伸ばしていた手を握り締めて、人差し指をぴんと伸ばす。その指で、おっきな満月を指した。金色に光るそれが、わたしの髪の毛みたいで、少しおかしかった。
お姉様がその指をじっと見て、
「月ね」
と、言った。
いやいや、そうじゃなくってさ。
「違うよ」
「ふぅん?」
「や、あれは月だけどさ」
「そうね」
わたしはちょっとした好奇心で、さっき頭に浮かんだ情景を言うのだった。
「お姉様は、あれを壊すことができる?」
お姉様は怪訝な顔をした。
それもそうだろうな、とわたしは思った。唐突に、月を壊せるか、なんて不思議ちゃんじゃあるまいし。
だけども、お姉様はにやりと笑って、
「ええ、できるわよ」
ふん、と胸を張って言った。ちょっとムカついた。
「ムカつく、なんて使うのは良くないとお姉ちゃんは思うな」
「あれ、いつの間に心を読めるようになったの」
わたしは思わず目を丸くして聞いた。そしたらさらに笑みを深めて「くっくっく」とか笑い始めた。
「違うわ。運命を読んだのよ」
「どんな?」
「フランが私に対してムカつくって思う運命」
「なんだよそれ。そのままじゃんか」
期待して損したよ。ちょっとイラっとした。
「あらあら。イライラしちゃだめよ。牛乳飲む?」
「いらないよ」
「あらそう?」
「うん」
カルシウムは足りてるよ。
「で、さぁ」
「うん」
「お姉様はどうやってあれを壊すのかしら?」
「教えて欲しい?」
「……うん」
不承不承にわたしは了解をした。すっごい嫌そうな顔してるんだろうなぁ、わたし。ああ、いやだ。こういうわたしが、わたしは大嫌い。もっと素直になろうよ? 分かってるよ。教えて欲しいよ。もっともっと。たくさん。お姉様の口から。
「ひ・み・つ」
お姉様は人差し指を立てて、口元に持っていった。そしてそのままウィンクをぱちりと飛ばす。
ああ、これは、わたしが嫌いなお姉様だ。もうちょっとまともでいてよ。そんなのムカつくだけなんだから。主にわたしが。
「うっさいよ」
ひょいと投げたわたしのカップは、お姉様に当たることもなく、地面に落ちることもなかった。元通り、わたしの目の前に、そのままの姿で帰ってきていた。ああ、咲夜。いたのかな? でも部屋を見る限り、どこにもいなかった。
神出鬼没だね。
波打つカップの中を見ながら、わたしはそう思った。
カップの中に映った満月が、小さく揺れた。
▼
わたしは、わたしのベッドに寝そべると、部屋の本棚から抜いてきた、一冊の本を広げる。
いつのころからか、たぶんずっと昔からある本だと思う。
そして、ずっと読んでいる本でもある。
何年も、何年も。
もうずいぶんとボロボロで、著者の名前もタイトルも、擦り切れて読めなくなっていた。でも、わたしにはそれが良かった。著者名もタイトルも分からない、正体不明の絵本。わたしにぴったりだと思った。
内容は至極簡単で単純なもの。
ある姉妹が壊れてしまったものを元に戻すために旅に出る、と言う話だ。
何が壊れているかも書いてない。
わたしは、何故だかこの物語が好きだ。
壊れたものを、直すために旅に出る。それがちょっとうらやましかったのかもしれない。
たったそれだけのために、姉妹は協力して進んでいく。
草原を歩いて、荒野を歩いて、ときには山に阻まれたりしながら進んでいくのだ。
それぞれのページに、けっして上手いとは言えない、いやむしろ下手くそな絵が添えられている。それが、なんだかとても良かった。
わたしにとって、その下手くそな絵が何より魅力的に思えたのだ。
そうして、感動のラスト、となるのが普通なんだけど、この本はちょっと違った。
最後のシーンがないのだった。
姉妹は冒険して、何かを手に入れる。
そこでお終い。
何故だろう? と昔は疑問に思ったりしたが、今ではもう気にならなくなっている。
わたしはそうして空想するのだ。
彼女たちは何を手に入れたのか。
そして、どういう結末を迎えたのか。
それを空想する。
わたしは何でも壊すことができる。だから、直す、と言うことに興味を引かれたのかもしれない。
じっと考えているとたくさんの結末が浮かんでくる。
何も成せずに終わったのか、幸せに終わったのか、死に別れたのか、それとも二人とも死んでしまったのか。けれど、できることなら幸せに終わっていて欲しい。
幸せに終わって。
壊れてしまったものを元に戻して、仲良く過ごして欲しい。
わたしはそう思ったのだ。ずっと昔から。
ぱら、とページをめくる。
絵の具で書かれた柔らかな草原。
ぱら、とページをめくる。
緩やかな丘。
ぱら、とページをめくる。
暗い、光を通さないくらい暗い森。
わたしは、足をぱたぱた揺らして、羽も一緒にぱたぱた揺らして。
知っているページをめくっていく。
それが、何故だかとても楽しいのだ。
そしてその全てが、夜の風景を描いていたことに、わたしが気づくのは、もう少ししてからだった。
▼
カップに揺れる満月をじっと見つめて、わたしはカップを壊してみた。当然のように中身が零れて、机の上が紅茶で溢れる。上からは柔らかい光。ああ、こんなことしたって、あの月は壊れやしない。溢れた紅茶の上で光ってる。
お姉様はずっと何も言わずに、わたしを見ずに、目線を逸らして、空を見上げている。
月を見ているのかな?
わたしはぶんぶんと腕を振って、手に着いた紅茶を払う。
立ち上がって、お姉様の目の前まで行く。
月を遮って、腰を折って、お姉様に目線を合わせて
「お姉様は、月でも壊せるんだよね?」
「ええ」
ちょっと目を大きく見開いてお姉様は頷いた。
ならさ、
「ならさ、どうして、そんなことができるって分かるの?」
だってあそこに月はあって、今このときも、ずぅっと光を放ってるじゃん。夜を優しく照らしてる。
壊れてなんかいないよ。
お姉様はちょっぴし微笑んで言った。
「運命よ」
ほら、またそれだ。
「運命って便利な言葉だよね」
「ええ、そうね」
「どうやったら運命で月が壊れて直るのさ」
それを聞くとお姉様は両手を適当に広げて説明した。しかしそれは、そのジェスチャーは必要なのか? と思うほど単純なもので、わたしは簡単に騙されてしまう。そんなわけはないんだけどね。
くいくいと糸を引くようなジェスチャー。
説明は簡潔。
「月が壊れる運命を手繰り寄せて、月が直る運命を引き寄せればいいのよ」
たったそれだけだった。それだけを言ったのだ。わたしができないのに、この姉はどちらもできる、と言ったのだ。
でもお姉様は、
「でも、しないよ」
そう言って、小さく、ころころと笑った。
「どうして?」
わたしが聞くと、
「だって月がなくなったら、夜が怖いでしょ?」
と、冗談のように言って、けらけらと声をあげて笑ったのだった。
▼
ぱらり、とページをめくる。
姉妹が小さなお城に入っていった。全部が真っ赤なお城だった。
ぱらり、とページをめくる。
そして姉妹は直すための何かを手に入れる。
ぱたん、と本を閉じる。
ふぅ、と一息。
結局、この姉妹が何を壊したのかなんて分からなかった。何を直そうとしているかなんて分からなかった。けれどそれは、長い道のりの末に手に入れたものだ。だからきっと、価値のあるものだ。少なくともこの姉妹にとっては。
わたしはそれを何度も考えた。
考えてはその考えを放棄して、また考えた。
お金かな、なんて思ったこともあった。
けれど違う、とも思った。そんなものに価値なんてないんだろう。たぶんこの姉妹にとっては。
じゃあ、いったい何がこの姉妹にとって大切だったんだろうか。
わたしはそればかりを考えていた。
そして、表紙のかすれた月の絵から、もしかしたらこの姉妹は月を壊してしまったんじゃないか。とか荒唐無稽な話に発展していった。それで、月の欠片を探して、世界を歩き回った、なんてことも考えた。
それだったらわたしも月を壊せるのかなぁ、なんて思ったけど無理だった。お月様はあんまりにも大きくて、あんまりにも遠すぎた。
わたしの手は、届かなかったのだ。
ぱらり、と表紙をめくる。
最初の扉絵。
そこには、下手くそな絵で描かれた姉妹が、寄り添うようにして眠っていた。
そこに、微かな嫉妬を覚えて、わたしは頭を思いっきり振った。
片方は青みがかった銀髪。もう片方は金の髪。
どこかで見たような感じ。
どっちも幸せそうに眠っている。
これは、旅に出る前なのだろうか。それとも目的を終わらせて眠っているのだろうか。
わたしには分からなかった。
幸せなのだろうか。もしかしたら不幸かもしれない。
けれど、わたしはその表紙の絵が好きだった。曖昧で下手くそで、だけどだからこそ好きだった。嫉妬を覚えた姉妹も好きだ。背景も下手くそだけど、それが良かった。
暗い夜。満月の下で眠る姉妹が、とても羨ましかった。
ああ、それなら、わたしもこんなことができるのかなぁ、って何回も思った。
そうしたいなぁ、とも思った。
▼
「それでも夜は、怖くはならないよ」
きっと。たぶん。そんな言葉を繋げそうになる。
ゆっくり、ゆっくり、小さく、呟くようにして、ぽつり、とわたしは言った。お姉様はきょとん、とした顔のまま、
「怖いわよ?」
と言った。
続けて。
「空を見上げ月が見えないなんて、怖いわ。私にとって」
「でもわたしは月をあまり見たことがないよ」
「だから壊してみたいって思ったの?」
「運命?」
「そう」
「便利だね」
「ええ」
運命運命、そんな簡単に決まっちゃうのかなぁ? あの絵本の姉妹は違ったような気がするけど。あれはきっと運命とかそんなものじゃなかったような気がするし。
空を見て、月を見て、何もかも分かった気になってるだけじゃないの? だってわたしはそういう理由であの月を壊してみたかったんじゃないし。
わたしはお姉様に背中を向けて、テラスの柱にもたれかかって、月を仰ぐ。
あの扉絵の月は、ひょっとして今みたいな月なのではないのだろうか。とつまらないことを思った。
ねぇ、お姉様。
あなたは今、何を思っていますか?
ふいに、そんなことが頭を過ぎって。
そして、ふいに後ろから抱きしめられた。
「こう思っているわ」
優しい声。
「また運命?」
「違うわ」
「じゃあ、何よ?」
「勘、かなぁ」
「何よ、それ」
振り払いたくても、振り払えなくて、どうすることもできないでいた。
沈黙して、そろって空を、ばかみたいに眺めてた。頭の上にある、お姉様の顎に頭突きでもしてやろうかと思った。でも、そんな気分じゃなかった。
そして何となく、あのことを聞いてみることにした。本当に何となくだ。
それ以外の何でもない。
「……ね、お姉様」
「ん?」
ぷるぷると背伸びしたままのお姉様。
おかしくって、笑ってしまいそう。
「わたしの部屋にね、絵本があるの」
「絵本?」
「うん、結末の書いてない絵本が」
「結末がない?」
「主人公がね、何かを直そうとしているの。でもね、何を成し遂げたのか、何を直そうとしていたのか、全然書いてないの。ただ、主人公の姉妹が世界中を旅してるって話。けれど扉絵では幸せそうなの。
ね、お姉様はどう思う?」
わたしは、特に期待もせずに、そう聞いた。支離滅裂みたいな感じになってしまったけれど。そんな言葉にでも、お姉様は律儀に答えてくれる。
「さぁてねぇ。何かを壊してしまったから、何かを直しに行って、何かを成し遂げたんじゃない?」
そんなことをのたまった。
「答えになってないよ」
「いいのよそれで」
「いいのかなぁ」
「きっと幸せに違いないわ」
「それは運命?」
「さぁてね?」
意地悪な言い方。
お姉様は笑いながら離れた。
そして、わたしの隣に並ぶ。
空にはぽっかりと白い月。
わたしは手を伸ばす。
「お姉様」
「なにかしら?」
「もし、わたしが月を壊しちゃったら?」
「怖いわねぇ」
「冗談じゃなくって」
「そうねぇ」
けらけらと笑いながら、手を振って。
「そんなことのないように、私がいるのよ」
わたしは小さく微笑んで、ふぅ、とため息。
「嬉しくないなぁ、もう」
月は遠くて、届かなくて、けれど光は届いて、お姉様が隣にいて、わたしは今、幸せなのだろうか?
そんなことを、ほんの少しだけ思った。
後には、ベッドの上で丸くなって眠る姉妹の姿があった。
小さく緩んだ口元は、幸せそうだった。
月は遥かにあって。
それでも、光は優しかった。
[了]
――いったいどうして?
分からないよ。
――空は青いものよ。
分からないよ。
――月は丸いものよ。
知らないよ。
――お空にぽっかりと浮いているのよ。
うっそだぁ。
▼
「ねぇ、お姉様ぁ」
真っ黒い空に、ぽっかりと穴の開いたような満月がこのテラスからは、はっきりと見えた。
わたしは椅子から乗り出すようにして、テラスから空に向かって手を伸ばした。その先には大きな大きな満月がある。ぐっと右手を握ってみる。何も起こらなかった。当たり前だ。わたしには、あの月の『目』が見えていないのだから。
「ねぇ、お姉様」
反対側に座って、紅茶をちびちびと飲んでいるお姉様に再度呼びかけてみる。また無視は止めて欲しいなぁ、とか思いながら。
お姉様は紅茶の入ったカップを置いて、わたしのほうを向いた。
置いた拍子に紅茶が少し零れ、真っ白なテーブルに、紅い跡を残した。
「なにかしら?」
「あれ」
伸ばしていた手を握り締めて、人差し指をぴんと伸ばす。その指で、おっきな満月を指した。金色に光るそれが、わたしの髪の毛みたいで、少しおかしかった。
お姉様がその指をじっと見て、
「月ね」
と、言った。
いやいや、そうじゃなくってさ。
「違うよ」
「ふぅん?」
「や、あれは月だけどさ」
「そうね」
わたしはちょっとした好奇心で、さっき頭に浮かんだ情景を言うのだった。
「お姉様は、あれを壊すことができる?」
お姉様は怪訝な顔をした。
それもそうだろうな、とわたしは思った。唐突に、月を壊せるか、なんて不思議ちゃんじゃあるまいし。
だけども、お姉様はにやりと笑って、
「ええ、できるわよ」
ふん、と胸を張って言った。ちょっとムカついた。
「ムカつく、なんて使うのは良くないとお姉ちゃんは思うな」
「あれ、いつの間に心を読めるようになったの」
わたしは思わず目を丸くして聞いた。そしたらさらに笑みを深めて「くっくっく」とか笑い始めた。
「違うわ。運命を読んだのよ」
「どんな?」
「フランが私に対してムカつくって思う運命」
「なんだよそれ。そのままじゃんか」
期待して損したよ。ちょっとイラっとした。
「あらあら。イライラしちゃだめよ。牛乳飲む?」
「いらないよ」
「あらそう?」
「うん」
カルシウムは足りてるよ。
「で、さぁ」
「うん」
「お姉様はどうやってあれを壊すのかしら?」
「教えて欲しい?」
「……うん」
不承不承にわたしは了解をした。すっごい嫌そうな顔してるんだろうなぁ、わたし。ああ、いやだ。こういうわたしが、わたしは大嫌い。もっと素直になろうよ? 分かってるよ。教えて欲しいよ。もっともっと。たくさん。お姉様の口から。
「ひ・み・つ」
お姉様は人差し指を立てて、口元に持っていった。そしてそのままウィンクをぱちりと飛ばす。
ああ、これは、わたしが嫌いなお姉様だ。もうちょっとまともでいてよ。そんなのムカつくだけなんだから。主にわたしが。
「うっさいよ」
ひょいと投げたわたしのカップは、お姉様に当たることもなく、地面に落ちることもなかった。元通り、わたしの目の前に、そのままの姿で帰ってきていた。ああ、咲夜。いたのかな? でも部屋を見る限り、どこにもいなかった。
神出鬼没だね。
波打つカップの中を見ながら、わたしはそう思った。
カップの中に映った満月が、小さく揺れた。
▼
わたしは、わたしのベッドに寝そべると、部屋の本棚から抜いてきた、一冊の本を広げる。
いつのころからか、たぶんずっと昔からある本だと思う。
そして、ずっと読んでいる本でもある。
何年も、何年も。
もうずいぶんとボロボロで、著者の名前もタイトルも、擦り切れて読めなくなっていた。でも、わたしにはそれが良かった。著者名もタイトルも分からない、正体不明の絵本。わたしにぴったりだと思った。
内容は至極簡単で単純なもの。
ある姉妹が壊れてしまったものを元に戻すために旅に出る、と言う話だ。
何が壊れているかも書いてない。
わたしは、何故だかこの物語が好きだ。
壊れたものを、直すために旅に出る。それがちょっとうらやましかったのかもしれない。
たったそれだけのために、姉妹は協力して進んでいく。
草原を歩いて、荒野を歩いて、ときには山に阻まれたりしながら進んでいくのだ。
それぞれのページに、けっして上手いとは言えない、いやむしろ下手くそな絵が添えられている。それが、なんだかとても良かった。
わたしにとって、その下手くそな絵が何より魅力的に思えたのだ。
そうして、感動のラスト、となるのが普通なんだけど、この本はちょっと違った。
最後のシーンがないのだった。
姉妹は冒険して、何かを手に入れる。
そこでお終い。
何故だろう? と昔は疑問に思ったりしたが、今ではもう気にならなくなっている。
わたしはそうして空想するのだ。
彼女たちは何を手に入れたのか。
そして、どういう結末を迎えたのか。
それを空想する。
わたしは何でも壊すことができる。だから、直す、と言うことに興味を引かれたのかもしれない。
じっと考えているとたくさんの結末が浮かんでくる。
何も成せずに終わったのか、幸せに終わったのか、死に別れたのか、それとも二人とも死んでしまったのか。けれど、できることなら幸せに終わっていて欲しい。
幸せに終わって。
壊れてしまったものを元に戻して、仲良く過ごして欲しい。
わたしはそう思ったのだ。ずっと昔から。
ぱら、とページをめくる。
絵の具で書かれた柔らかな草原。
ぱら、とページをめくる。
緩やかな丘。
ぱら、とページをめくる。
暗い、光を通さないくらい暗い森。
わたしは、足をぱたぱた揺らして、羽も一緒にぱたぱた揺らして。
知っているページをめくっていく。
それが、何故だかとても楽しいのだ。
そしてその全てが、夜の風景を描いていたことに、わたしが気づくのは、もう少ししてからだった。
▼
カップに揺れる満月をじっと見つめて、わたしはカップを壊してみた。当然のように中身が零れて、机の上が紅茶で溢れる。上からは柔らかい光。ああ、こんなことしたって、あの月は壊れやしない。溢れた紅茶の上で光ってる。
お姉様はずっと何も言わずに、わたしを見ずに、目線を逸らして、空を見上げている。
月を見ているのかな?
わたしはぶんぶんと腕を振って、手に着いた紅茶を払う。
立ち上がって、お姉様の目の前まで行く。
月を遮って、腰を折って、お姉様に目線を合わせて
「お姉様は、月でも壊せるんだよね?」
「ええ」
ちょっと目を大きく見開いてお姉様は頷いた。
ならさ、
「ならさ、どうして、そんなことができるって分かるの?」
だってあそこに月はあって、今このときも、ずぅっと光を放ってるじゃん。夜を優しく照らしてる。
壊れてなんかいないよ。
お姉様はちょっぴし微笑んで言った。
「運命よ」
ほら、またそれだ。
「運命って便利な言葉だよね」
「ええ、そうね」
「どうやったら運命で月が壊れて直るのさ」
それを聞くとお姉様は両手を適当に広げて説明した。しかしそれは、そのジェスチャーは必要なのか? と思うほど単純なもので、わたしは簡単に騙されてしまう。そんなわけはないんだけどね。
くいくいと糸を引くようなジェスチャー。
説明は簡潔。
「月が壊れる運命を手繰り寄せて、月が直る運命を引き寄せればいいのよ」
たったそれだけだった。それだけを言ったのだ。わたしができないのに、この姉はどちらもできる、と言ったのだ。
でもお姉様は、
「でも、しないよ」
そう言って、小さく、ころころと笑った。
「どうして?」
わたしが聞くと、
「だって月がなくなったら、夜が怖いでしょ?」
と、冗談のように言って、けらけらと声をあげて笑ったのだった。
▼
ぱらり、とページをめくる。
姉妹が小さなお城に入っていった。全部が真っ赤なお城だった。
ぱらり、とページをめくる。
そして姉妹は直すための何かを手に入れる。
ぱたん、と本を閉じる。
ふぅ、と一息。
結局、この姉妹が何を壊したのかなんて分からなかった。何を直そうとしているかなんて分からなかった。けれどそれは、長い道のりの末に手に入れたものだ。だからきっと、価値のあるものだ。少なくともこの姉妹にとっては。
わたしはそれを何度も考えた。
考えてはその考えを放棄して、また考えた。
お金かな、なんて思ったこともあった。
けれど違う、とも思った。そんなものに価値なんてないんだろう。たぶんこの姉妹にとっては。
じゃあ、いったい何がこの姉妹にとって大切だったんだろうか。
わたしはそればかりを考えていた。
そして、表紙のかすれた月の絵から、もしかしたらこの姉妹は月を壊してしまったんじゃないか。とか荒唐無稽な話に発展していった。それで、月の欠片を探して、世界を歩き回った、なんてことも考えた。
それだったらわたしも月を壊せるのかなぁ、なんて思ったけど無理だった。お月様はあんまりにも大きくて、あんまりにも遠すぎた。
わたしの手は、届かなかったのだ。
ぱらり、と表紙をめくる。
最初の扉絵。
そこには、下手くそな絵で描かれた姉妹が、寄り添うようにして眠っていた。
そこに、微かな嫉妬を覚えて、わたしは頭を思いっきり振った。
片方は青みがかった銀髪。もう片方は金の髪。
どこかで見たような感じ。
どっちも幸せそうに眠っている。
これは、旅に出る前なのだろうか。それとも目的を終わらせて眠っているのだろうか。
わたしには分からなかった。
幸せなのだろうか。もしかしたら不幸かもしれない。
けれど、わたしはその表紙の絵が好きだった。曖昧で下手くそで、だけどだからこそ好きだった。嫉妬を覚えた姉妹も好きだ。背景も下手くそだけど、それが良かった。
暗い夜。満月の下で眠る姉妹が、とても羨ましかった。
ああ、それなら、わたしもこんなことができるのかなぁ、って何回も思った。
そうしたいなぁ、とも思った。
▼
「それでも夜は、怖くはならないよ」
きっと。たぶん。そんな言葉を繋げそうになる。
ゆっくり、ゆっくり、小さく、呟くようにして、ぽつり、とわたしは言った。お姉様はきょとん、とした顔のまま、
「怖いわよ?」
と言った。
続けて。
「空を見上げ月が見えないなんて、怖いわ。私にとって」
「でもわたしは月をあまり見たことがないよ」
「だから壊してみたいって思ったの?」
「運命?」
「そう」
「便利だね」
「ええ」
運命運命、そんな簡単に決まっちゃうのかなぁ? あの絵本の姉妹は違ったような気がするけど。あれはきっと運命とかそんなものじゃなかったような気がするし。
空を見て、月を見て、何もかも分かった気になってるだけじゃないの? だってわたしはそういう理由であの月を壊してみたかったんじゃないし。
わたしはお姉様に背中を向けて、テラスの柱にもたれかかって、月を仰ぐ。
あの扉絵の月は、ひょっとして今みたいな月なのではないのだろうか。とつまらないことを思った。
ねぇ、お姉様。
あなたは今、何を思っていますか?
ふいに、そんなことが頭を過ぎって。
そして、ふいに後ろから抱きしめられた。
「こう思っているわ」
優しい声。
「また運命?」
「違うわ」
「じゃあ、何よ?」
「勘、かなぁ」
「何よ、それ」
振り払いたくても、振り払えなくて、どうすることもできないでいた。
沈黙して、そろって空を、ばかみたいに眺めてた。頭の上にある、お姉様の顎に頭突きでもしてやろうかと思った。でも、そんな気分じゃなかった。
そして何となく、あのことを聞いてみることにした。本当に何となくだ。
それ以外の何でもない。
「……ね、お姉様」
「ん?」
ぷるぷると背伸びしたままのお姉様。
おかしくって、笑ってしまいそう。
「わたしの部屋にね、絵本があるの」
「絵本?」
「うん、結末の書いてない絵本が」
「結末がない?」
「主人公がね、何かを直そうとしているの。でもね、何を成し遂げたのか、何を直そうとしていたのか、全然書いてないの。ただ、主人公の姉妹が世界中を旅してるって話。けれど扉絵では幸せそうなの。
ね、お姉様はどう思う?」
わたしは、特に期待もせずに、そう聞いた。支離滅裂みたいな感じになってしまったけれど。そんな言葉にでも、お姉様は律儀に答えてくれる。
「さぁてねぇ。何かを壊してしまったから、何かを直しに行って、何かを成し遂げたんじゃない?」
そんなことをのたまった。
「答えになってないよ」
「いいのよそれで」
「いいのかなぁ」
「きっと幸せに違いないわ」
「それは運命?」
「さぁてね?」
意地悪な言い方。
お姉様は笑いながら離れた。
そして、わたしの隣に並ぶ。
空にはぽっかりと白い月。
わたしは手を伸ばす。
「お姉様」
「なにかしら?」
「もし、わたしが月を壊しちゃったら?」
「怖いわねぇ」
「冗談じゃなくって」
「そうねぇ」
けらけらと笑いながら、手を振って。
「そんなことのないように、私がいるのよ」
わたしは小さく微笑んで、ふぅ、とため息。
「嬉しくないなぁ、もう」
月は遠くて、届かなくて、けれど光は届いて、お姉様が隣にいて、わたしは今、幸せなのだろうか?
そんなことを、ほんの少しだけ思った。
後には、ベッドの上で丸くなって眠る姉妹の姿があった。
小さく緩んだ口元は、幸せそうだった。
月は遥かにあって。
それでも、光は優しかった。
[了]
でも、色々と考えてる、という雰囲気がよかったです。
お嬢様かっこいいなぁ。フランも可愛いなぁ。
くそう、いいなぁ。
書籍ぶんかちょーのフランの解釈が更にかわいい事になるじゃないですかー!!
やたー!!
ラスト近くの二人で月を見上げるシーンは、積み重ねてきたイメージと相まって
まるで一幅の名画のようで、グッときました。