※ 流血、薬物、および不謹慎と思われる描写があります。ご了承ください……。
「うー、ゲロマズ。……幽香ぁ、流石にこれはないと思うなぁ」
朝も早いと言うのに、勤勉な太陽は今日も休むこと無くピカピカ光を振り撒き、向日葵畑を美しく照らしている。
大輪の大きな葉っぱからは時折雫が零れ、輝ける宝石のごとくきらりと陽光を反射していた。
季節は初夏。これから鰻登りに気温は上がっていくのだろうけど、少なくとも今に限れば半袖が素晴らしく快適。
空気中の適度な水分が夏の空気に清涼感を与えてくれている。
風穏やかにして、騒々しさと無縁な立地。遠く小鳥のさえずりと、ひらひら舞う紋白蝶たち。
うーん。実に宜しい理想的。
この上なく優雅。絵に書いたよりも爽やかな早朝。やんごとなき私に似つかわしい。
黄色の花畑に映ゆる白いパラソルの下、最高にご満悦の私は、紅茶片手に並の人間ならイチコロな筈の素敵過ぎる笑みを浮かべてみる。ククク……。
余裕の中に潜ませた一滴の哀愁と黒さと可憐さがアクセント。
私がもしフランス人であったなら、あんまりな素敵さ加減に、思わず「トレビアーン」とか呟いちゃってるに違いないわ。
「……幽香? さっきから何ニヤニヤしてるのかな? 気持ち悪い……」
この素敵さにノイズを混ぜ込むような声が聞えたけど、多分気のせい。
さて、この素敵な向日葵畑を一面に見渡せる、絶好のスポットに誂えたテーブル。純白のテーブルクロスの敷かれたその上には、この素晴らしき朝に相応しき至高の朝食。
こんがり焼いたベーコンは、
健康な豚ロース肉を桜のチップで燻製した自慢の一品。程良い塩味が肉そのものの旨みを引き出してくれる。
今朝産みたての新鮮卵はサニーサイドアップで頂きましょう。素材がいいから味付けはシンプルに胡椒だけ。張りのある黄身の色合いは濃厚で、見るからに食欲をそそってくれる。
そして、それらの隣で爽やかな緑を振りまくレタスは、私の手作り。土壌からこだわり手間暇かけて育てた彼らは、間違いなく幻想郷で最高の野菜だって胸を張って言えるわ。
うむうむ。実に素晴らしい。
そして、皿の中心に目を移せば――
「ねー、幽香ぁ。聞いてる? 貴方普段からこんなものばっかり食べてるの? 信じられない」
我が至高の朝食にケチをつけるような声が聞えたけど、やっぱり気のせい。
気を取り直して丸皿の中心に目を移せば、威風堂々たる佇まいを以って鎮座しておられる、四角くて、黒い? ……そう真っ黒な……炭素?
……あっれー、おかしいな?
朝食のメインたるこんがりきつね色に焼けた、トレビアン極まりないライ麦の食パンが溶かしバターを乗っけて機嫌良く私を迎えてくれてるはずだと思っていたのだけど?
『ハハハ。軟弱で歯触りがいいだけのギャル男の時代は終わったのさ。これからは剛健な筋肉の時代。
この鎧と化すまで鍛え上げたボクのワガママボディを思う存分鑑賞してくれたまえ御嬢さん。蜂蜜との相性もばっちりさ。ふん!』
そんな声が聞こえた気がする。
なるほど、確かに固そうだ。ヤスリの代わりとかになりそう。元があのやわこいパン生地だったとは思えない。
『虐められっ子だったからね、ボク。でも、マミーに心配かけちゃいけないって思って、だから厳しい鍛錬だって頑張ったのさ。
今じゃボクは街一番のハンサムボーイ。この黒光りする筋肉に振り向かない女の子はいないよ。ふん!』
そりゃ、うん、黒いけど……頑張ってるのは分かるけどさ。でもあんた胸筋とか無いじゃない。
無理してサイドチェストとかしないでいいのよ。あと、人型以外のイケメン基準とか私知らないし……。
『よかったら、ボクとお茶でもしないかい、お嬢さん? キミの事、もっと知りたいんだ』
だから、いきなり誘われても……。
私は妖怪、貴方は穀物。私達の間にある壁って貴方が言うほど、簡単なものじゃないと思うの……。
『愛の前じゃ、種族の壁なんて……』
そんな臭い台詞いわないでよ……。
思わず、信じてもいいのかなって、思っちゃうじゃない……。
「――ゆーか? ゆーかぁ? 何パンと喋って……。
ああ、そっか、ついに頭湧いちゃったんだね。前々から危ないかもとは思っていたけど……。
うん、驚きはしないよ。お幸せにね。パンと結婚した女とか世間の目は冷たいだろうけど、そんな可哀想な幽香でも私だけはお友達を続けてあげるから」
一見憐れんでるように見せかけて、その実『あ、なんか面白い事になってる』とかいうワクワクを瞳の奥に張り付けた、我が悪友の瞳が私を見つめていた。
口元は緩んでいる。
急激に感情が冷めたのが分かった。
……OK、OK。ちょっと落ち付きましょうか。
『さあ、御嬢さんついておいで。人生という長い道程の一歩を、ボクと君,ふたりで一緒に踏み出そうじゃないか。ははは』
一つ深呼吸。冷静な頭で本音を紡ぎだす。彼と向き合う。
決別の言葉なら、びっくりするくらい簡単に出てきた。
「黙れよ。麦屑。身分の違いを弁えなさい。そもそも私筋肉とか嫌いだったわ。暑苦しいし」
彼がぱりんと砕けたような気がした。振られた事に、驚愕の表情を浮かべて。
ああ、その顔いいかも……! ぞくぞくしちゃう。
図らずも満たされてゆく嗜虐心に私の唇がすっかり歪みきった頃には、彼の残滓はすっかり消え失せていて、皿の上には物言わぬ真っ黒いパンが一枚乗っかってるだけだった。
さて、冷静になった所で、もう一度このパンをじっくり見てみましょう。
うーん、黒い。実に黒い。これ以上なく黒い。
この黒さこそが、今私の直面している最大の問題であるわけで。
原子番号6番、化学式はC。有機物の必要条件にして、ダイヤモンドの正体。
炭素。この世界を構成する物質の中でも、大変に重要なそれ。十分な感謝と尊重を以って接しなければならない物質なことは知ってるわ。
でもね、私思うの。
優雅なブレックファストのメインを飾るのが純度99%超の黒炭ってのは色々と間違ってるんじゃないかしら?
ここで、おいしいじゃんwww(芸人的な意味で)とか空気読まない発言をのたまった奴がいたら、全裸に剥いて、地霊殿の火焔地獄跡に放り込んで、ブラウン管の手前からじゃ到底理解できるはずのない熱湯コマーシャルの苦しみをその肉体に深く深く刻み込んでやる。
胸中で燃え上がる怒気の炎を、引きつった笑顔で御しつつ、私は一縷の可能性に期待してその暗黒物質を手に取った。
……うわ、重!? なにこれ? 殆ど金属とか鉱物の質量じゃん。
一縷であった期待が、更にか細くなるのを目の当たりにして、それでも諦めきれないでいる私は、びくびくしながらもそれを唇に近づける。口を開く。歯で触れる。
がりっと、そんな音すらしなかった。
噛みながらも警戒を怠らなかった事が幸いしたらしい。それをしなければ今頃私の前歯は無残にも根元からばっきり折れてしまっていただろうから。硬直させた顎。
私の歯では傷つける事すら能わなかった暗黒物質を慎重に口から遠ざける。
表情はきっとこの上なく難しいそれになっていただろう。冷や汗が浮かんでいた。
……あり得ない……ちょっとこの固さはあり得ない。もはやこれは食品なんて概念を超えてる。
火曜サスペンス劇場の開始20分目くらいにしか使い道がなさそうなそれを、そっと皿の上に戻す。零れた溜息は落胆だ。
ああ、さようなら我が優雅なる至高の朝食よ。
「……とれびあーん」
素敵さの残滓を惜しむように、引きずるように、そんな呟きが私の口から転がり出る。
そしたら、何が不満だったのか、胡乱な目線を悪友は私に向けてきた。
「幽香? それじゃ駄目よ。トレビアーンってそんな易い言葉ではないのだわ。
おふらんすの人がそれを言う時は、もっと、そう、まるで自分こそが世界で最も祝福された存在であるが如き喜びに満ちているもの。
おふらんす。それはお耽美の国。おふらんす。それは愛の国。
今こそ最も煌びやかな喜びを! 立ち読みしたマーガレットで見たあの輝きを!
“ふらんすへ行きたしと思えども. ふらんすはあまりに遠し――”、まさか! だってベルサイユが意味するのは、もはや一都市名に留まっていないのだから。
私にも貴方にも、あるいは森羅万象全てがおふらんすを内在させているというなら、私達は自由・平等・博愛(トリコロール)の下、可愛らしくも革命的な愛の言葉を囁けるはずだわ!」
ばさりと、悪友がその天使を彷彿とさせる翼を広げた。舞い散る純白の羽。
彼女の眩しい笑みに、私はバロック・ロココ時代の栄華を見た気がした。
背景には咲き乱れる真っ赤な薔薇たち。まるで私達を祝福しているかの様。
……ああ! まさか!?
本当にベルサイユはここにだってあると言うのかしら!?
空気中にスパンコールでも浮かべたように、キラキラと景色は輝き。悪友よ! 貴方のお目目は星空でも閉じ込めたみたいに、もっとキラキラしているじゃない!
なるほど、これがおふらんすの力なのね。もはや目に映るもの全てが巴里巴里しく見えるわ!
「ああ、なんてモン・サン・ミシェルな気分なのかしら!」
「そう! まるでボナパルティズムするデカルトなムーラン・ルージュだわ!」
「きっとこれはオルレアンがシャルル・ドゴールで、ピノ・ノワールなコンコルドなのね!」
「そのとおりよ幽香。クロード・モネのブルボンだから、ロベスピエールするラ・マルセイエーズなのよ!」
「ああ、悪友よ。おふらんすの淑女はパンがなければどうするのかしら?」
「パンがなければブリオッシュをミシュランすればいいじゃないとか嘯きながら、ジョゼフ・ギヨタンの芸術的発明品でルイ17世して身長を縮めるのが高貴な淑女の嗜みよ」
「なるほど! トレビアーン! 世界はこんなにも美しくってよ!」
おっほっほ!
うふふふふ。
おっほっほ。
うふふふふ。
おっほっほ……。
うふふふふ。
おほほ……。
うふふふふ。
…………。
うふふふふ。
…………。
「……ここは日本だ。日本語を喋れ」
朝っぱらからこのテンションは正直ない。
我がモード・ベルサイユの終了宣告に、少女漫画臭を振り撒いていた赤薔薇達が、不平そうにぶつぶつ文句を漏らしながら撤退していった。
『まったく、ゆーかさまはお耽美ってお言葉を知らないのでしょうか』
『仕方ありませんわアンリエット。だってゆーかさまは通ぶっていながら、その実エッフェル塔と東京タワーと通天閣の区別がつかない知ったかちゃんですもの。
おノーブルでおシャンゼリゼなおふらんすトークに付いてこれる筈がなくってよ』
『道理ですわ道理ですわ。ああ、嘆かわしい。足りていない主を持ったわが身の不運を……って、ジュリエット!? ってあたくしも!? ゆーかさま痛いって痛い!!』
いーちまーい。にーまーい。さーんまーい。よーんまーい……。
私が数をカウントするたび、赤く艶やかな花びらが一枚ずつぶちりと千切られ、ひらひら風に舞う。ふーん、中々耽美的じゃないの。
許しを請う紅薔薇どもの叫びも今は耳に心地いい。
……べ、別にむかついたとか、そんなんじゃ無いんだからねっ。
ちょっと急に花占いしたくなっただけなんだから。
ん? 何占ってるっかって? ……んー、えーと……。こいつらの名前って事でいいや。
「……って事で、あんたらの名前今からお岩ね」
一枚たりな~いを口癖にすればいいわ。
そう付け加え、私は小生意気で西洋かぶれな赤薔薇二輪をぽいと放り棄てた。
『……うう、酷いです。あたくし自慢の勝負服が……』
『ぐすん……、もうお嫁に行けないです』
バリカンで中途半端に毛を刈られた羊みたいな小汚い風貌で、さめざめと泣きながら場面より退場する没落赤薔薇お岩その一とその二。
ざまあみろ。だいたいエッフェル塔が何だってのよ。結局鉄の塊でしょうが。腹に入れば何でも同じって旧知の幽霊嬢も言ってたわ。
「ちなみに幽香、お岩は四谷怪談。井戸でお皿を数える皿屋敷の幽霊はお菊だわ」
「腹に入れば全部同じよ」
「掘った墓穴を誤魔化す理論も、そこまでぶっとんでるとむしろ清々しく聞こえるわ」
こいつに冷静につっ込まれると、なんか猛烈に腹が立つ。
……と、ここで逆ギレしてみてもアリかなぁって気分ではあるのだけど、それは寛大な私の事。
ぐっと我慢して、それでもって、そろそろこいつの紹介をしておかないといけないかしらね。
きっと置いてけぼり食らっているに違いない沢山の読者諸兄の為に。
「幽香? 空見上げちゃって、誰と喋ってるの? やっぱり頭湧いちゃった?」
「ちょっと黙ってなさい。それが貴方の為よ」
キョトンとしたような、しかし何処か納得したような表情。しかし口元は緩い。いつだって緩い。
長い付き合いではあるけど、私はこいつの顔が、怒りとか悲しみとかで歪んだのを殆ど見た事がない。常に今みたいな緩い笑顔でいる。
ただ、それが朗らかさとか穏やかさとか、そういった肯定されるべき要素のおかげじゃない事なら私はよく知っていて。
かわいらしさ、無邪気さ。それらが本質的に孕んでいる残虐さ。
正常な感覚を持っていれば嫌悪で眉をひそめるような場面に出くわして、しかし彼女はそれでも憚ることなく満面の笑みを振りまいてるだろう。
生来備わっているべき感覚がいくつも欠落したまま生まれ育ってきた結果として、彼女のそんな笑顔がある。
悪徳。
純白の翼に、金色のさらさらとした髪。さしずめ天使のようなその容姿が既に冒涜だ。
まるで子供の様に、残虐さを無為に撒き散らす事を好む。
血の赤を好む。倒錯と快楽と刹那主義を好む。
十分な知識と知恵と才覚を持ちながら、しかし、それを悪趣味にしか使わない。
秩序とルールを尊重しない。当然の如くそれを汚す。
行動原理は気まぐれと欲望だけ。傍迷惑極まりない。
なぜこんなのが、今まで淘汰されず生き残ってしまったのか。悪魔としてすら異端な彼女なのに。
結局それは、これが単純な力量で他を圧倒できるだけの傑物だったからに他ならない。
かつて彼女が巫女との対戦で見せた発狂弾幕は、史上唯一の“回避させる気がないそれ”である。
幻月。それが彼女の名前だ。
最初にこいつと会ったのは、全ての絵具を混ぜこぜにしたような、酷い色した虚空の中でだった。
夢幻世界を支配する旧き悪魔。公式をして最凶と言わしめた悪魔。
そしてどういう訳か、私の友人。
付き合いなら長すぎる程だから腐れ縁と言ってもいいのかもしれない。
彼女の性格が破綻しているのは間違いないのだけど、ただそう言う私も決して性格がいいとは言えないから、ある意味お似合いなのかもとかは、まあ思ったりもする。
嫌われ者の私とわざわざ友人する奴なんてあんまりいないし、彼女だってそうだ。
若干の皮肉を込めて、悪友。私は彼女の事をそう呼んだりもする。
そんな彼女が私の住居を訪れたのは、随分な早朝……それこそ太陽が昇るよりも遥かに早い非常識な時間だった。
『うふ……ゆーかちゃんの寝顔かわいい。食べちゃいたいくらい……。あれー? もしかしておっぱいまた少し大きくなったのかな? もう、ほんとにゆーかちゃんはいやらしいなぁ。
襲っちゃうよ? ていうかこれ、誘ってるんだよね? 間違いないわ。パジャマの胸元もこんなに開いちゃってさぁ。うふふ、よーし幻月お姉さん頑張っちゃうぞー』
……目覚めと共にフライングニーキックを繰り出す必要性に迫られた朝は本当に久しぶりだった。
私の蹴りをひらりと無駄に軽やな動きで回避した彼女はキャハハと笑いながら、今度は私のほっぺを指先でプニプニ突っつきだす。……マジうぜぇ。
視界の端の壁掛け時計が教えてくれたところによると、時刻は3時を回ってすぐ。
ただでさえ寝起きには弱いのに、こんな深夜に起こされて。どこぞの騒霊長女のテンションがまるでリオのカーニバルでパッションとスマイルを振りまくサンバダンサーのそれに見えてしまうくらい、私のテンションは低空飛行だ。てか眠い。
「……幻月、こんな時間にどうしてあんたがここにいるのか、理由ならあとで聞くから、私はもう少し寝る。眠い。あんたも陽が昇るまでくらいはおとなしくしてなさい。そこの引き出しに入ってる寝袋使っていいから」
イライラをも上回る偉大なる眠気。私は再び布団に潜り込む。瞼はすでに殆ど閉じかけていた。
「寝袋? そんなのいいよ。私は幽香と一緒のベッドで寝るから」
「いやよ、あんたと一緒とか。絶対変な事してくるでしょう」
「当たり前じゃない」
……いや、そこで胸を張るなよ。
「ゆーかちゃんといやらしい事したいなぁ」
……ていうか、全年齢。ほらここ全年齢。そういうきわどい発言は自重してもらわないと色々困る。
「道具だって持ってきたのに。ほら幽香の大好きな\魚符『龍魚ドリル』!/だよ。これでゆーかちゃんの\雷符『エレキテルの龍宮』!/をじっくりと\棘符『雷雲棘魚』!/して、ゆーかちゃんを\光星『光龍の吐息』!/させてあげたいなぁ」
ああもう! だから自重しろって言ってるのに!
左手を腰に当て右手を天に突きあげるフィーバースタイルを以ってこのSSを発禁の危機から防いでくれた、竜宮の使いの存在に今は感謝したい。
いつの間にいたとか、そもそもどうしてここにいるんだとか、色々疑問はあるけれど!
『ふふふ……。私は空気が読める女ですから。助けを求められるであろう雰囲気を読んで一週間前からクローゼットの中で待機していました』
なるほど。最近食材の減りが妙に速かったのはそういう理由な訳ね。
ちょっと看過しちゃいけないような事を聞いた気がするけど、まあいいわ。それは不問にしてあげるから。あの色ボケ悪魔の発言をどうにか全年齢的な意味で凌いで頂戴。
『ふふふ……お安いご用です』
自信と誠実さに満ちた竜宮の使いの笑みの前。幻月は目をとろんとさせて、甘く囁くような声で欲望を駄々漏れにさせている。
「ゆーかちゃんの\衣玖、やっと追い付いた……!/が無残にも\総領娘様!? どうしてここに?/になっちゃった姿。あはは……想像するだけで\えへ。付いて来ちゃった……/になっちゃう。楽しみだわ」
……あれ? 何だか雲行きが怪しく? ちょっとそこな竜宮の使い! あんたが頑張らないと、創想話的に非常に不味い事態に……!
『……ねぇ、いいでしょ衣玖……衣玖が構ってくれないと、私寂しくて死んじゃう』
『総領娘様……やれやれ、そこまで言うなら仕方ありませんね。うふふ……でも覚悟していてくださいよ。失神するまで寝かせませんから』
『あん。衣玖ったらいきなり激しい。でも嬉しいわ……。天子のこと、衣玖の好きなようにして』
……永江衣玖。お前もか!
ハートマークを背景に浮かべ顔を赤らめる天人と、彼女を勢いよくベッドに押し倒した竜宮の使いの姿に、もはやこの空間がショッキングピンクに汚染されるのを防げるのは私しかいない事を悟る。
てか、お前らそのベッドはどこから持ってきた。
「幽香。私たちなら同じ事しても、もっと激しく且つアブノーマルにできるよね。見せつけてあげましょ」
ああもう。ああもう。いい加減黙れよこの色ボケ悪魔!
結局、その後の私に二度寝をするだけの平穏な時間は与えられず、ドタバタの数時間を挟んで、今現在朝食の時間と相成ったわけなのである。
……さて、話を戻しましょうか。
差し当たって私が直面している問題。皿の上にどんと乗っかった元穀物の暗黒物質。
ねえ、我が悪友よ。別にね、難しい事を頼んだつもりはないの。
食パンをトーストして頂戴。私が頼んだのは確かそれだけだったわよね?
「うん」
平然と幻月は答えた。
ついでに、彼女は例の暗黒物質を一口齧る。コンクリートを砕くような、とても食品が発生源のそれとは思えないような酷い音を立て、暗黒物質が食いちぎられる。
ガリガリと咀嚼し、ごくりと嚥下してから、彼女はとんでもなく渋い顔をこちらに見せつけてくる。
「ないわー。うん、これはない。うちの天井裏に棲んでる鼠だって、もうちょっといい物食べてるわよ」
そんな彼女の言葉を、私は殆ど呆れているような表情で聞いていたのだと思う。勿論自分の分の暗黒物質は皿の上で放置されたままだ。
ぐちぐちと文句を零しながらも、真っ黒いあの物質を幻月は順調に歯で削り取っていっている。
……悪友よ、貴方の顎の丈夫さは良く分かったから。
貴方がトースターの前にいた僅か数分の間で、ライ麦がブラックカーボンへ華麗な変貌を遂げてしまったその経緯についての詳細な説明を可及的速やかに行う事を要求するものだわ。
「うん? それはそれは丁寧に食パンを放り込んだのよ。しかもたっぷり十秒も待つ事をした。
なのにこんがりになってくれないから、あ、このトースターぶっ壊れてるんだなぁって。てかレーザーで焼いちゃえば手っ取り早いよねって発想になっても仕方ないよね」
「仕方なくねえよ」
……ぶっ壊れてるのはお前の頭だ。
幻月が親指が指し示した先で、かつてトースターであったはずの、半分融解してすっかり変形してしまった金属塊が転がっている。
ああ、また河童に言って新調してもらわないと……。
飛行機能も自爆装置も付いていない、ただパンが焼けるだけのトースターを河童の技師に作らせる労力を想像すると頭が痛くなった。
げふぅと、げっぷを洩らし、お腹をぽんぽんと叩いている幻月の皿は空っぽになっている。どうやらあの暗黒物質を平らげてしまったらしい。
私は溜息をついて、自分の分の暗黒物質を彼女の皿に乗せてやった。そしたら彼女はまた例の破砕音を響かせて、食事を再開する。
私は胡乱な眼で見ていた。
「てゆーかさぁ……」
「ん、自分の名前とかけたダジャレ?」
「違うわよ……ねえ、幻月。そもそも、なんであんたここにいるの?」
さも当然のように居座って、さも当然のように朝食を要求してきた彼女だけど、彼女は決して家なしという訳ではない。
というか、立派な屋敷に住んでいる。
そこで彼女は食っちゃ寝食っちゃ寝の自堕落な生活をしているのが大体だ。
まさか遊びに来たという事もあるまい。こんな早朝、いつもの彼女なら二度寝の真っ最中なのだから。
「あー、そういや幽香は知らないんだねぇ」
今更思い出したような顔をして、幻月はポケットをごそごそやりだす。中から取り出された一枚の紙切れ。
中央に、無駄に丁寧な字で書かれた一行を読み上げてみる。
『うぐ~。姉さんのバカァ!!』
……何これ?
「いやさぁ。昨日髪の毛ちょっと切ったのよ夢月。それからかったのが悪かったと思うんだけど、あの子、これ残してどっか行っちゃって。
だから、朝ご飯食べにここまで遥々きたの」
「あいつは結構そういうとこ繊細なんだから、あんたも分かってるだろうに。てか、朝食くらい自分で作ろうって発想は?」
「ご飯とか夢月が作ってくれるものでしょ。まさか私はそんな事しないよ。
なぁに、お腹が空いたら人様の好意に甘えればいいのだわ。最初は難しい顔をしてても誠実に頼み込めば誰だって喜んで一番の御馳走をしてくれる。
でも幽香は、私が殆ど何も言わないのにご飯用意してくれたから、そういうとこ大好き」
その鋭い爪先を哀れな被害者の首筋につぷつぷ沈ませていく事を、誠実な嘆願だとか悪びれる事もなくのたまえるのがこいつだ。
存在が天災みたいなものだと私は思ってる。
言っている事は明らかにおかしいけれど、まともに言葉の応報をする気にはなれない。無駄だと分かっているから。
こいつ相手には、十分な諦めを以って接するのが一番いい。
しかし、この超弩級の問題児の面倒を見ているのが、あの書き置きを残した夢月という女だ。
彼女はこいつの双子の妹。
冷酷なあたりは悪魔らしいのだと思う。でも彼女のおかげで、世の中の不慮の事故にあう人はだいぶ少なくなっているはず。
彼女は妹であると同時に幻月の専属メイドであり、幻月を自分の世界に引き籠らせる楔だ。
保護者と言ってもいいのかもしれない。まあ、その心労はちょっと想像もできないけれれど。
『幽香、なんかそっちの世界には凄く腕のいい薬師がいるって話じゃない。今度帰って来る時お土産には胃薬お願い』
胃薬の事を、夢月は戦友と呼んでいた。
姉に比べて些かマトモに生まれてしまった彼女の胃袋に平穏が訪れる日は、きっと永遠にないのだと思う。
図らずも姉の尻拭い担当ポジションに収まってしまった彼女は、その実とても優秀なメイドだ。
掃除洗濯炊事部下の折檻その全てを完璧にこなしつつ、歩く先にバナナの皮を置いてやれば芸術的なお約束転倒を見せてくれる空気の読める女。
実に完璧。パーフェクトにしてエクセレント。
嫌味にならない程度を良くわきまえつつ、ドジっ娘メイドの要素を振り撒くその様は正にメイドの鑑。
紅くてちっちゃいのの貧乳青メイドや、紅くてたくましいののホルスタイン赤メイドなんか勝負にもならない。
美しく体をくの字に曲げたまま、受身を取ることもせず後頭部より涙目で落下する、そんな額縁に収めて拝みたいレベルの転倒が奴らにできるはず無いのだから。
彼女は自分自身を趣味の延長で、純正のメイドじゃないとか言ってるけど、私に言わせれば知ってる中で一番メイドらしいメイドよ。
さて、そういった彼女の情報を頭に入れて、もう一度手紙を読み返してみましょう。
『うぐ~。姉さんのバカァ!!』
……うむ。良くない。とても良くない。パスタをアルデンテまで茹でて、その時初めて明太子とマヨネーズが無いのに気付くよりも良くないわ。
まずこの『ァ』が良くない。涙目の表情と、一言発した後、相手の反応も待たずに背中を向けてだーっと走り去る様子が目に見えるようじゃない。
そして『うぐ~』。これをわざわざ文面に入れてるってのがとても良くない。そりゃあいつの口癖だって事は知ってるけど、文字として残すのはどうかと思うわ。
似たようなものに、ムキューとかミョンとかウニュとか色々あるらしいけど、私に言わせればナンセンス極まりないわね。
宜しい事。あざとすぎるのよ。
夢月。媚びたり狙ったりはあんたのキャラじゃないでしょうが。
無理にキャラを変えるのは賢明じゃあないわ。
「……幾ら頑張ろうが、どうせ知名度は低いままなんだし」
「ん? 幽香何か言った?」
「別に」
悪友よ。多分読者の3割くらいは、貴方の事も未だオリキャラとかクロスとかそんなのだと思ってるわよ。
ざまあみろ。
花映塚で返り咲くまでの長く厳しい道のりを思い出し私は感慨深く笑んだ。
あの時の悪霊の悔しそうな顔ときたら……思い浮かべるだけで……プッ……ププッ!
「思い出し笑い? 幽香ちょっと気持ち悪いかも」
……いけないいけない。愉快すぎて思わずらしくない表情をみせてしまった。
表情をちょっと締まりのあるものにして、私は幻月の方を見る。いつの間にか彼女は二つ目の暗黒物質をすっかり平らげていた。
「で、あんたがここにいる理由は分かったとして……これからどうするつもり?」
「どうするって、夢月が機嫌直して帰ってきてくれるまで、しばらく厄介になるつもりだけど」
「まじで?」
「割かしまじで」
「割かし迷惑かも」
「いいじゃん。友達でしょ?」
はぁと、私はもう一つ溜息をついた。
こいつが居座りたいと言うのなら、それをどうにかする手段は残念ながら私にはない。
こっちの主張を聞くような奴じゃないし、力で訴えたなら、こいつと私の闘争の規模と破壊力。太陽の畑は、きっとペンペン草一本生えない荒野へと姿を変えてしまうだろう。
「……非常に仕方なくはあるけど、泊めるくらいはしてあげるわ。ただし大人しくしてること」
「わーい。ゆーかちゃん優しいー。大好き。大丈夫大丈夫、大人しくしとくから信用してくれていいよ」
あんたの信用していい発言ほど信用できないものはないんだけどなぁ……。
まあ、そんな事考えても今更かと、私は食器の片付けを始める。
青空には相変わらず雲がない。暑い暑い一日になりそうだと、そんな事を思った。
◆ ◆ ◆
「……で、やっぱついてくるの?」
「幻想郷も久しぶりだからねぇ。幽香がお出かけするって言うならそりゃついていくよ」
ちょっと家を空けるからと、うっかり言ってしまったのが不味かった。
せっかく幻月は、ソファーに寝そべって小説本を手にした怠惰モードでいたというのに。
これから私がしようとしている事は、最上級のトラブルメーカーであるこいつにはあんまり見られたくないそれで。
厄介な事にならなきゃいいけどなぁと、小さく一人言を零しながら私は玄関の扉を開けたのだった。
目的地は太陽の畑の一角。玄関より歩いて十分程の距離。
その空間は茨の格子で囲まれていた。棘は鋭く硬質であり、安易に触れれば、衣服を裂くだけでなく肉まで抉る。
そんな凶悪な茨に守られるのは、緑の茎の上がぽっこりと卵状の塊になっている、少し滑稽な植物の株たち。こぢんまりした。ケシの畑。
パチンと指を鳴らす。茨がそれに応え、格子に人一人通れる程度の隙間が空く。そこから私達は畑の中に入る。
後の幻月は予想通りニヤニヤしてる。絶対よからぬ事を考えている。
ああ、だからこいつには見せたくなかったのよ。
「ダメ。ゼッタイ?」
「触るのも、邪魔するのもね。今から仕事なのよ」
「幽香。私は悲しいわ。こんな物に手を出すなんて。しかも、お仕事って事は売人までやってるのね。
ごめんなさい幽香。昔から貴方はミーハーなところがあって、カッコいいとか思い込んだら形振り構わない事は知っていたのに。
ちょっと前もお顔を真っ黒に塗りたくって、馬鹿みたいに分厚いサンダルを履いて、やたらと語尾が伸びる奇妙な言語を操っていたわね」
「誰がヤマンバだコラ」
殊勝な顔して人の過去勝手に捏造するな。
「貴方がおかしなサブカルチャーに嵌る前に、私は友として救いの手を差し伸べるべきだった。後悔しているわ。
きっとアメリカンインディアンの渋いおじさまが烏羽玉サボテン(ペヨーテ)噛んでる写真でも見て、薬物カッコイイと勘違いしてしまったのね。
でも聞いて幽香。お薬をやっていいのは芸術家と哲学者と犯罪者だけよ。
ああ、幽香。絵が絶望的にへたっぴで、サルトルの分厚い原書に鈍器以上の価値を見出せない貴方を犯罪者にしたくない。
アンフェタミンやメタンフェタミンの誘惑は甘美だけど、貴方を本当の意味で幸せにしたりしないの。
でも私は信じてる。幽香は強い。お薬なんかに頼らなくても自分の足で立てるはずだわ」
そしてジャンキー扱い。
どの口がそんな事言ってるのかしら。サブカルカッコイイとか勘違いしてるのはあんたの方でしょ。
いつだったか全身にボディーピアス入れて鏡の前でニヤニヤしてたのを私が知らないとでも。あの時はドン引きしたわよ。
塞ごうと思えば穴はすぐ塞がるし、問題ない? いやそんな問題じゃないから。
ってか、さりげなく株を抜こうとするな! 厳重に管理してるの!
人里で阿片中毒者が出た日には、私は霊夢にズタボロに滅殺されるんだから! ちょっとは私を気遣え!
性格の突飛さが過ぎる悪友を羽交い絞めにする。
「……ちょべりばー」
不満げに幻月が呟いた。
だから女子高生はやめろって……。
きっとこいつの頭は、わざわざ外から注入しなくても脳内麻薬が年中駄々漏れなんだろうなぁ。
「邪魔しない。勘違いもしない。これは真っ当な商売よ。とある筋からの依頼でね。
でないと、こんな其処ら中を敵に回しそうな物をわざわざ栽培したりはしないわ」
ケシより産出される阿片は、最高にして最悪のドラッグと評されるヘロインの原料であり、それ自体も強力な麻薬として知られる。
かつて大陸で多くの廃人を生み出し、戦争の原因にまでなった悪魔の薬物。世間一般の評価はそれだ。
大体正しいと思うけど、しかし、悪い面ばかりでもない。毒と薬はコインの裏表。
阿片は鎮痛剤モルヒネの原料でもあるのだ。
末期癌患者が感じる痛み苦しみというのは想像を絶するという。それを緩和するのにモルヒネが投与される。
私は、永遠亭より原料供給の仕事を請け負った。
私が生阿片を集めて持って行くと、向こうでモルヒネに精製されるという算段だ。
花の一斉開花の異変で知り合った兎がこの依頼を携えてきた時には正直驚いたものだけど、確かにケシという植物をもっとも上手く扱えるのは私だろう。
永遠亭の好奇心旺盛な兎たちに栽培を任せればどんな悲惨な事になるか目に見えている。阿片禍な診療所なんて冗談にもならない。
暇なら持てあましていたから、私は二つ返事で了承した。
茎の上にできる卵状の塊は、ケシの果実。通称芥子坊主。傷をつけると乳白色の液が染み出してくる。これがいわゆる生阿片だ。
しばらく放っておくとそれは凝固する。
用意したブリキの缶の中に、へらでこそげ落とした生阿片を入れつつ、私は依頼の大元の顔を思い浮かべてみた。
八意永琳。それほど親しい仲ではない。あまり言葉を交わした事もない。
第一印象は、何とも胸糞の悪い笑みを浮かべる女。それだった。
ぱっと見が満面の笑みであっても、きっと心の中はいつも冷めているのだろう。諦観が滲み出る、薄っぺらい笑顔。
聞いたところによると彼女は永遠に老いる事も死ぬ事もないのだという。道理。それで精神が削られないはずがない。
深く詮索するつもりはないし、積極的に関わりたいとも思わない。ただ、ちょっとだけ可哀想だと思う。
これを本人に言ったら、多分例の薄っぺらい笑顔を返されるのだろうけど。
永遠亭の主とは数度しか会った事がないが、その彼女と比べると八意永琳は、器用だが、真面目さが過ぎるのだと思う。
彼女の持つ医療技術は不可能を可能にするもので。如何なる病魔も身体欠損も挽回できるものだ。もしかしたら死体を蘇らせるなんて芸当もできるのかもしれない。
しかし、診療所の彼女が万能であるように振舞わないのは、結局彼女の真面目さに起因しているのだろう。
モルヒネはあくまで痛み止めで根本的な解決にはならない。しかし、病の大元を断てる筈の彼女がこれを欲するのは、そこまでの医療を提供する気がないからだ。
八意永琳は人は死ぬものだという事に拘っているように見える。医療のレベルに明確な線を引いているのだ。
そんな事を考えてるうちに、いつの間にかブリキ缶の中は生阿片で一杯になっていた。丁寧に蓋をして、すっと立ち上がる。
永遠亭までは結構距離があるけれど、まあそんな急ぐ仕事でもない。ゆっくり歩いていけばいいだろう。
着くのは昼過ぎになるだろうから、ついでに昼食をたかってもいい。幻月がお腹すいたとぶーぶー言い出す頃だろうし。
「幽香とお出かけなんて、何年ぶりかしら。楽しみ」
喜色満面な悪友を引き連れ、私は目的地へ向かって足を進め始めた。
蒼穹に蝉の鳴き声。鮮烈な日差し。この上なく夏らしい、八月の午前の事だった。
◆ ◆ ◆
私達が人里に到着したのは、丁度正午の鐘が打ち鳴らされたくらいの時分だった。
特別用がある訳じゃないけれど、どうせ永遠亭への通り道だ。少しくらい寄り道しても問題はないだろう。
多くの商店が立ち並ぶ大通りは、今日も多くの人々が行き交い、活気に満ちている。
「へー、この前見た時と比べて、だいぶ雰囲気変わった?
昔は、里に入ろうとしたら、それこそ殺すような視線で睨まれたものだけど」
少し驚いたように幻月が言った。
「まあ、ここ何十年かで随分と緩くなったからねぇ。人間たちも、私達も」
「ふーん」
悪名高いフラワーマスターとあたまのおかしい悪魔。
私達がそれである事は何も変化していないと思うのだけど、そんな私達を見ても、人々は表情を歪ませる事をしない。
本当に時代は変わったと思う。
風車片手にキャッキャと笑いながら通りを駈けてゆく子供たち。
いらっしゃい! と威勢のいい呼び声を響かせている八百屋の店主。
甘味を
売る店の前には人だかり。軒先には『かき氷始めました』の看板。
日陰でかき氷をしゃりしゃりやってる人々の中には、人間以外もいくつか混じっていて。しかし、そんな彼らも浮かべている表情は冷たい触感に頬を緩ませる、人間のそれと同じで。
どこまでも、どこまでも平穏な、今の時代の人里だ。
幻月はふむふむと頷きながら、立ち並ぶ店を眺めている。
しばらくぶらぶらと通りを歩いていると、たまに興味深そうな顔を彼女はする。
基本自分の世界に引き籠っているのが彼女だから、物珍しい物もあるのかもしれない。
どうせこいつが欲しがるものなんか、違法すれすれの怪しげな薬とかそんなのに決まってるから、買い物に付き合ってやる気はないのだけれど、まあでも、甘味の一つくらいなら後で奢ってあげてもいいのかもしれない。
そんな事を考えていると、ふと横の方から聞いた事のある声。
「あれ? 幽香さんじゃないですか?」
彼女の敬語は割かし軽い。計算高く狡猾で、その実高慢な生物なのが彼女だし、内心誰も敬ってなんかいないんだろうなぁというのは、常々私が思っている事だ。
肩までの黒髪に快活な瞳。覗く白い歯。
射命丸文。
「随分とお久しぶりな気がしますねぇ。ん? この前向日葵畑の事で取材に訪れたばかりだから、そうでもないのかな? まあ、いいや。
ところで幽香さん、お隣の彼女はご友人ですか?」
「……古い友人よ」
「ほう……」
表情を興味で一杯にして文は幻月の方を向いている。
「初めまして。私の名前は射命丸文。鴉天狗の新聞記者です。どうかお見知り置きを」
そして、芝居がかったまでの大仰な所作で頭を下げ、幻月に自己紹介を始める。
「あらあら。これはご丁寧に。私は幻月。夢幻世界の悪魔さん。
ねえ天狗さん。貴方は幽香のお友達なのかしら?」
「勿論です。彼女とは時折焼き肉を奢ってもらう程の仲なのですよ。実は今晩もそういう約束をしていたのです。
よろしければ幻月さんも一緒にいかがです? 幽香さんの懐は最近とても暖かいという話なので」
「よろこんでご同伴に預かりますわ。ああでも良かった。幽香って知っての通り、性格がとっても悪いでしょ。
こっちで上手くやっていけてるか、ずっと心配していたのよ」
「心配なんて、まったく必要ありません。幽香さんは、皆からとっても愛されてますから」
ぺらぺらと、本当によく舌が回る奴だと思う。
ぱしゃりと、ツーショットを撮ったりして、いつの間にか意気投合してる文と幻月を私は呆れたような目で見ていた。
まあ、とりあえずさ……
「ねえ文。私はそんな約束した覚えないのだけど」
「そこは空気読んで奢ってくれる事を期待したのですが……まあ仕方ないですね。
ところで幽香さん達はどうして人里に?」
……うわ、あっさり流された。
「えーと何だっけ、えーえんてい? なんか幽香がそこに用があるとかで、二人でお出かけなの」
「ふむふむ、なるほど」
「天狗さんはお仕事中かしら? 取材?」
「ああ、そうそう。仕事。それで話しかけたんですよ。ささ、ちょっと付いてきてもらっていいですか?」
どうせ碌な事じゃないんだろうなぁと思いつつも、文に手を引かれた幻月がそれはそれは楽しそうに付いていったから、私も仕方なく後を追いかける。
それは、角を一つ曲がった少し先にあった。木材の香りがまだ残る、真新しい家屋。
何これと、疑問が浮かぶよりも早く、文の朗々として弁舌が高らかに響き渡った。
「じゃーん。この度私達、(株)八雲産業が提案しますは、この新築ピッカピッカのお家なのです。
設計は天才数学者にして一級建築士の資格を持つ才媛八雲藍。
シンプルながらも黄金比な数学的美しさを感じさせる緻密な室内構成に、仄かに香る女性的な柔らかさ。
勿論、シックハウス対策は万全ですから小さなお子様がいても大丈夫。
加えて、革新的な耐震技術によって、天人がうっかり要石を抜いてしまっても安心。余裕で震度7に耐えます。
この素晴らしい住居を、先着の一名様にお譲りしようというお話なのです。
さあ、幽香さん、買うなら今ですよ? これだけの物件今後10年はお目にかかれないでしょうから。
ええ、ご心配なく。最高にハイソでイケテルこの物件ですが、決して値段が法外という事はありませんから。
ローンだって勿論組めます。ユカリファイナンスは良心的な消費者金融ですから、グレーゾーンな金利を要求して、後々弁護士に利益をごっそり持って行かれるような間抜けな事はしません。もっと上手い方法を使いますよ」
「八雲産業?」
「ええ、(株)八雲産業です」
「紫の差し金?」
「ええ」
まあ紫のやる事、わざわざ突っ込むのもね……。
文が自信満々に紹介したその物件をじっと見てみる。確かにすっきりとセンスのいい建物ではあった。
式の方の設計なら、信用してもいいのだろう。主の設計だったなら、もっと悪趣味な造形になってたのは間違いないし、とりあえず欠陥住宅の線を疑うけれど。
……というか、さっき、何気に看過できないような事実を聞いた気がする。
八雲紫が変わった事をやりだすのは、もう今更だから、そこに驚きはしない。
しかし、射命丸文という天狗の、山への帰属意識の強さなら知っていたから、そんな彼女が“私達”と、天狗社会以外を指して言った事に少しばかりの疑問を私は抱いたわけだ。
「ねえ、文。あんた天狗辞めて、紫のところの式にでもなったのかしら」
「アルバイトというか、派遣というか、手伝いというか、暇つぶしというか、まあそんなのです。
なんか面白そうだから、協力してもいいかなぁって。独占取材権とかも貰っちゃいましたし」
「案外軽いのね、あんたの組織って」
「皆が皆、酷く誤解してるんですよ。天狗社会は殆ど恐怖的なまでに厳格な規律に縛られた縦社会だって。
まあ多少はそういうところもあるのは否定しませんけど……でも、私達天狗はいわば好きで群れているんです。
こういうと多少語弊はありますが、私達が組織やってるのは結局一種の趣味なわけですね。
だってそうでしょ? 私達は別に群れないと生きていけないような儚くか弱い存在じゃないですから。
ただですよ、ただいまって言うと、お帰りって返してくれる誰かがいると言うのは、とても幸せな事。
私達は言うなれば殆ど家族みたいなものです。そして父親役の天魔様とか兄役の大天狗様は、息子娘、妹弟にベタベタ。超甘です。
娘が一人ふらりと放浪して妙な事始めたところで、『そうかそうか頑張ってきなさい』の一言ですから。咎めるような身内は誰一人としていないって事ですね」
「……とりあえず、妙な事してるって自覚はある事は分かった」
「まあ、紫さんのする事ですから。そりゃですね……」
「しかし、その妙な事に付き合ってあげる気は、残念だけど私にはないかな。言っとくけど買わないわよ絶対」
「まあまあ、少しの時間でいいので、見ていってくださいよ。
なんだかさっき、向こうで騒ぎがあってですね。そのせいで人間のお客さんあんまり来てくれないんですよ……」
「……騒ぎって?」
珍しいと思った。
ここ十数年ほどの人里は、私達妖怪が牙を無闇に見せびらかす事をしなくなった事もあって、平和ボケてるんじゃないかってくらいの暢気な空気が流れているのが常だったから。
「ちんけな物盗りですよ。ただ盗みに入られた家が、人里じゃ知られた有力者のそれだったから結構大きな騒ぎになってます。
犯人がまた間抜けでしてね。何を思ったかこんな白昼堂々の犯行。そりゃ現行犯で見つかりますよね。
ただ逃げ足だけは速かったらしくて、今はその家と繋がりがある人たちが徒党を組んで、人狩りの真っ最中なわけです」
なるほどと、ちらりと大通りの方を一瞥すれば、槍やら火縄銃やらを携えた若者数人が難しい顔をして通り過ぎて行くのが見えた。
「あんたは取材いかなくていいの? 事件でしょ?」
「正直あんまり興味ないかなって。
これが魔理沙さんあたりが関わってる事件だったなら、カメラと文花帖を手に最高速で駈けつける事もやぶさかでないのですが。そうでないなら、所詮人間の詰まらない諍いですよ。
あんなの記事にしても誰も面白がってくれないでしょうし。それならこうやって、幽香さんの素晴らしき新居(予定)の解説でもしてた方が、後々いい記事が書けるというものです」
「買わないってだから。てか報道に必要なのは、面白いとか面白くないとかじゃなくて、事実を如何に正確に伝えるかってのが本来だと思うのだけど。あんたの姿勢ってマスコミとして正直どうなの?」
「んー」と、文はペンの端を顎にくっつけるようにして、あんまり深刻そうな表情もせず思案をしていた。
そして、いつもの軽い口調で答える。
「……ま、これもぶっちゃけ趣味ですから」
ああ、そうか。
その答えを聞いて、私は思い出す。
普段のお気楽さ軽薄さがあんまりにも目立つから、ついつい忘れていたけど。こいつだって千年を超える時を生きてきた、大妖怪の一人だった。
そのにやけ面にあって、しかし瞳だけは酷く冷めていたのを、この時私は確かに見たのだから。
彼女のその紅い瞳に映る世界はどんなものか、想像はできる。そしてそれは多分あんまり違った想像ではないと思う。
私たちみたいに長生きしてしまった妖怪は知っているんだ。
世界なんて、実は大したものじゃなかった。何百年かあれば大体すべてを分かってしまえる程度のそれだった。
だから私達は常に諦観しているのだ。そして仮面をかぶる。趣味としてでも、生きる事を続けるために。
ただ、莫大な諦観の中にあって、文は未だ好奇心も感情も失ってはいない。それは殆ど枯れてしまった私からすれば、少しばかり羨ましくも思えてしまって……。
「まあまあまあ。ともかく見てみて下さいよ。
匠の技って言うんですか? そういうのが満載なんですから」
影が差していたらしい私の表情に気付いたのだろう。
必要以上に明るい口調で、文は私の思考を別の所に向けようとしてくる。
こういう所、本当に要領がいいと思った。
しかし、そんな彼女の笑顔が、この時ばかりは好ましくも感じてしまって。
話くらいは聞いてもいいかなと思ってしまったのは、だからなのだろう。
「へー何だかよく分からないけど、すごいんだねぇ」
何だか悪友は結構乗り気みたいだし、なら、今日くらいはまんまと文の話術に乗せられてやってもいい。
さあ、説明を聞きましょうか?
「ありがとうございます。では不肖ながらわたくし射命丸文。この物件の解説をさせていただきたいと思います」
にこにことスマイルを浮かべ、文は嬉しそうに語りだす。
「さて、いくつかの画期的な機能がこの物件にはあるのですが、その中でも目玉となる機能をまず紹介しましょう。
さあ、幽香さん、幻月さん。あそこをご覧ください」
文が指し示した先。
この建物は、湿気対策なのだろうか、床下が相当に高く作ってある。
だから当然玄関の位置も高くて、そこへ通じる階段が設置されていた。高さは私の身長を少し低くしたくらい。
大理石のタイルが張られたそれの側面には、扉が一つ備え付けられている。
なるほど、多分階段の下は空洞になっていて、そこを収納スペースとして有効活用できるという設計なのだろう。
……しかし、それだけじゃ、画期的って言うほど斬新な試みでもないと思うのだけど?
「さあ、その扉を開けてみてください。きっとびっくりしますよ」
文に導かれるまま。私はノブに手をかける。
ふむ……もしかしたら、この中には、私の想像も及ばないような、すごい装置があったりするのかも?
若干の期待を込めて、ドアを開く。
そこにあったのは――。
「お初にお目にかかります主殿。拙者犬走椛と申す忍で候にんにん。
拙者がいれば、主殿の命を狙う狼藉者など、鎧袖一触に蹴散らして候にんにん。
……あ、この喋り方結構疲れるんで、普通の喋り方していいですか?」
「……え、ええ」
……にんにん?
余計な出っ張りのない、物置用に設計されているらしい階段の下の空間。
そこで彼女は、肩膝をつき、傅いていた。
小柄な体つきに、銀の髪。名前は犬走椛とか言ったっけ?
ちゃんとした面識はこれが初めてだけど、確か彼女は文の後輩の白狼天狗だった。
いや、しかし、これはどういう状況……。
「ねぇ……あんたは一体ここで何やってるのよ?」
「何って……見ての通り忍者ですよ」
まるでそれが当然であるが如く椛はそう答えた。
「に……にんじゃ?」
確かに、今の彼女が着ている服は、黒ずくめで、頭巾とかも被ってて、それっぽい格好ではあるけれど……。
「信用ならないと言うなら、忍術でも使ってみます? 痛みを感じたと思ったら、はらわたがぱっくり裂けてる術とか、超得意ですよ私?」
……いや、それはただの辻斬り。忍術違う。
背負った刀に手を伸ばしてかちゃかちゃ言わせながら、椛は何故か自慢げな顔をしていた。
正直状況についていけなくて、少しばかり混乱しちゃってる私に、文が畳みかけるように口を開く。
「住宅業界に新風を巻き起こす新発想。その名も忍者を収納できる階段!
これさえあれば、怪しげな訪問販売も、しつこい新聞勧誘(文々。新聞除く)も、自慢のチタン合金製ニンジャブレードで一刀両断。
安心快適な生活を保障してくれる、革新的な機能なのです。
今なら、忍者派遣料が三カ月半額と、忍者のコスチュームカラーを選べるサービス付き。
デフォルトのブラックに加え、カーマイン。スカイブルー。ビリジアン。ショッキングピンクの計五色。
さあ、幽香さん。契約するなら今です。そして外国人のお友達に『俺の家には忍者がいるんだぜーすげぇだろ。HAHAHA』と自慢しましょう!」
え、えー……?
状況を頭の中で整理するのに要した十数秒を挟んで、私が出した結論。
うん。ちょっと革新的過ぎて、幽香お姉さん付いていけないかな、これ。
別に外国人の友人とかいないし……忍者戦隊作って喜ぶような趣味もないし……。
「忍者ですって! 素晴らしいわ! それこそ私の求めていたものよ!」
えっ……? あれ、幻月?
どうしてあんたは、そんなに目をキラキラさせてるのかな? ちょっと私には分からないなー。
「ねぇ幽香。是非契約しましょう。それでトムに電話して『ワォ、リアルニンジャ? そいつは年がら年中オレンジのジャージを着ていて、語尾に“DATTEBAYO”って付けるのかい? アーハン?』
『ノンノン。本物のニンジャは体にナインテールなフォックスを宿したりはしていないの。でも主の言う事に忠実だから命令すればいつでもハラキリショーを見せてくれるわ』
『ヒュー。そいつはクールだぜ。今度のパーティーの時、是非とも実物を拝ませてもらいたいものだぜベイベー』って会話をしたい!」
とりあえず、落ち着いて幻月。
あんたの狂った価値観には今更何も言わないし。トムって一体誰ってのも聞かないであげるから。だからお願いだから落ち着いて。
「え、トムを知らないの? カリフォルニア州サクラメント出身のアナーキストにして、反政府団体“黒い独立記念日”の創始者のトムよ。
この前数年ぶりに人間界に顔出したら、なんか刑務所入ってて驚いたわ。何でもホワイトハウス爆破計画がFBIにばれて、禁固200年の判決を受けたとか。まあ、今頃は脱獄の準備が着々と……」
いやだから、言わなくていいからそういうの!
ああ! 分かったから! あんたの特殊な交友関係はよーく分かったから! だからそれ以上詳しく説明しようとしなくていいから!
「契約していただけるなら、ハラキリの一回二回、喜んでやりますが。どうせ死にやしませんし」
いやいや白狼、そういう健気さはいらないから。どうしてそこまで営業熱心になれるのか私には理解できない!
「まあまあ。幽香さん。色々葛藤あるのは分かりますよ。何しろ大きな買い物ですし。
でも、まずは前向きに一歩進む事が何よりも大事だと思うのです。そうすれば結果はあとから必ず付いてきます。
私は思うんです、葛藤するのは、試してみてからでも遅くはないと」
……いや、遅ぇよ。
文。あんたは白々しくも押し売りを美談っぽく脚色しようとするな!
何が何でも買わせようとしてくる、彼女らの言葉に私は必死に抵抗した。
「だから買わないって言ってるでしょ!」
些か感情的に、私ははっきりと拒否の言葉を発する。
これで、こいつらも少し考え直してくれるといいのだけど……。
「文さん……この人ノリ悪いです……」
「うんうん、よしよし、椛はがんばってるのにねぇ」
「椛ちゃんかわいそう……」
……え、なにこの雰囲気。まるで私が悪者みたいじゃない。
ぐいぐいと迫るプレッシャー。周りの全ての視線が、契約書に判を押す事を私に要求していた。
さて……私には二つの選択肢がある。
一つはこのまま、大人しく契約書に印鑑を押す事。
もう一つは……。
私は日傘をぱしゃりと閉じた。
なんだか、最近あちらこちらで舐められてる気がするのよね。
でも、眠れる恐怖の二つ名は伊達じゃないって事、そろそろ再認識してもらってもいいんじゃないかしら?
……もう、逆切れちゃっていいよね?
とりあえず、ぶっといレーザーの一発でもブチ込んでみようとみようかと思ったのだけど。
しかし、図ったようなタイミングで響いたのは、椛の能天気な声だった。
「あ、ちゃーす、社長」
椛が挨拶をした方へ、私は視線を向ける。
それは、ぱっくりと開いた刀傷を彷彿とさせる形状をしていた。
スキマ。空間の裂け目。こんな物を操る事ができるのは、幻想郷広しといえど一人だけだ。
這い出る様にして、彼女が姿を現す。
「お仕事はかどっているかしら?」
「まあ、それなりに順調ですかね」
「大変結構。労働は尊いわ。それに何より楽しい」
ただし、趣味でやってる時に限るけど――そう付け加え、彼女はその胡散臭い笑みを私に向けた。
八雲紫。境界を操る大妖怪にして、根っからの変人。
どうでもいいけど、ラメ入りバイオレットのスーツは流石に趣味が悪いと思う。
「あら幽香じゃない。おひさー」
「久しぶり……。紫、あんたはいつの間に、押し売り屋に転職したのかしら?」
「まあ、人聞きの悪い。(株)八雲産業は独善的な利潤よりも、社会の利益を社是として商いをする会社法人なのですわ」
「……まあいいけどさ」
とりあえず、紫の出現で、文達の興味は私から外れたみたいだし。
「あら、そちらの御嬢さんは初めてお会いした気がしますわ?」
「私も、多分初めてかも?」
紫の視線は幻月の方を向いている。まあ幻想郷の住人じゃないしね、こいつ。紫が知らないのも当然の事だと思う。
「初めまして。わたくしの名前は八雲紫。ここ幻想郷の管理者みたいな事やってますわ。以後よしなに」
「あなたが紫さん? 幽香からお話は伺っていますわ。ああでも、実際見ると話に聞いていたよりずっと魅力的……。
ああ、思わず興奮しちゃいそう……」
幻月の瞳が異常な色を孕んだのを、この時私は見た。悪い発作だ……。
闘争を望む彼女は、本当に形振り構わない。場所とか状況とか、相手の意志とか全部無視して。
壊したいから壊す。そんな単純で子供じみていて迷惑極まりない理由で闘争をふっかける。
ちょっと抑えなさいと、彼女に言おうとして。しかしそれよりも早く、紫の手が隙間に伸びた。
「あらあら御嬢さん。貴方にそういう顔はあんまり似合わないわ。これ差し上げますから、凶悪な牙を収めてくださらない?」
そして取り出したのは、カラフルな包み紙の棒付キャンディー。
「あ、チュッパチャップス?」
「貴方好きそうだなぁってこれ」
「え、くれるの? いいの? ありがとう紫さん。これ大好きなんだけど、人間界行かないと買えないから……。とっても感謝してるわ」
ばりばりと包み紙を剥がし、満面の笑顔で幻月は飴玉を口の中に入れた。それはそれは幸せそうな表情だった。
紫はどうやら、上手く彼女を懐柔してくれたらしい。
「……私からも感謝するわ紫。一回暴走した彼女を大人しくさせるのは、結構大変なのよ」
「でしょうね。他の場所ならともかく、ここ人里のど真ん中でドンパチやられるのは、私としてもちょっと歓迎できないから」
災害を未然に防いだ、達成感溢れる表情を紫はしていた。そしてこちらにそっと伸ばす手。
「何この手?」
「飴玉の代金」
え……?
ちょっとそれ紫、器小さ過ぎない?
「半分以上嫌がらせだけどね。いいじゃない幽香。たまには虐めさせてよ。ほらほらお金ちょうだい。1ドル札」
うわ……、やっぱこいつ性格悪い。
感謝するなんて言ってしまった数十秒前の自分を呪いたい。
とりあえず、こいつの言う通りにするのは癪だから。
「嫌だって。そもそも私は何も頼んでないわ。飴玉を取り出したのはあんたが勝手にやった事じゃない」
そんな風に言ってみた。そしたら紫の顔が不機嫌そうに歪む。こいつうぜぇ……。
「あらあら、宜しいのかしら? あんまり私を困らせると、貴方達に対して敵対的TOBを発動させる事も吝かでなくってよ?」
「は? 敵対的……て、てぃーおーびぃ?」
聞き慣れぬ単語に戸惑う私の肩を、飴玉舐めたままの幻月が叩いた。
「幽香ここはボケるところよ」
「ぼ、ぼけ? て、敵対的T(田吾作)O(オンザ)B(ボーダーオブライフ)!」
脳味噌を振り絞るようにして発した渾身のボケ!
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
……え? ちょ……ちょっとこの沈黙は一体何?
文も椛も紫も、なんだか可哀想なものを見る瞳をしていた。
お、面白い事を言ったつもりはないけど、せめて何かリアクションを……。
酷い寂寥感の中、とんとんともう一回肩を叩かれ振り返ると、何やら神妙な顔の幻月が。
……てか何、その表情、付き合いは長いはずだけどそんな顔初めて見るわよ。
「……幽香。謝って」
え? 何?
もしかして私の渾身のギャグ、謝らないといけない程酷かったの?
「まあ、そりゃ酷かったけど……。てかゆーかちゃん空気読もうよ。ほら、周り見て?
雰囲気すっかりシリアスのそれでしょ? お気楽にギャグ言ってる場合じゃないの。
本気で敵対的TOBとかかけられたら、どうするつもりなのよ」
ちょ、ちょっと状況がよく飲み込めない。
「そういえば幽香には言ってなかったけど……」
幻月がポケットから出した紙片……名刺?
『(株)夢幻館 社長代表取締役 幻月』
……は?
「従業員百人を路頭に迷わせるわけにはいかないの……お願い。大人しく頭を下げて」
「え? なにこれ? 初耳なんだけど。何これ、株式会社って、え……?」
「何してるって……そんなこと聞きたいの? もう、ゆーかちゃんたらおませさんなんだから」
いやいや、そこで顔を赤らめるな。
……というか、冷静になってよくよく考えると、悪いの私じゃないわよね?
悪いのは紫のあくどい根性と、こいつの気まぐれだし。
なら、私が謝るのはおかしいと思う。うん、私は正しい。断固たる態度をとればいい。
「どうしてそんな訳わからないものの為に、私が頭を下げないといけないのよ」
「そっか、仕方ないね」
幻月はまた何やらポケットから紙を取り出す。
「紫さん? これ、太陽の畑の権利書です。
差し上げますから、どうか幽香の非礼、お許しになってくださらない?」
「あらあら。そこまでの誠意を見せられたら私としても応えない訳にはいかないわね。
それに貴方の提案は私にとって渡りに船。
実は太陽の畑を取り潰して、その跡地に一大エンターテイメント施設を建設する計画を進めているところだったのよ。
その名もユカリーランド。夢とマネーを等価交換する画期的なワンダーランドなの。
だから断る要素は何一つ無いわ。貴方の提案を了承しましょう。この件は貴方の心意気に免じて水に流されました」
「さすがは紫さん。器の大きさが違うのね。
それにそんな素晴らしい計画を考え付くなんて、紫さんは賢者なのかしら。
ユカリーランド開園の際には是非手伝わせて欲しいな。風船を配るお姉さんを一度やってみたかったの」
「もちろん大歓迎ですわ。
その時には一日フリーパスチケットを差し上げましょう。
秒速三回転の観覧車と、一千回転のコーヒーカップが貴方を熱烈に歓迎するでしょう」
「あはは。楽しみ」
……何その遠心分離機。
てかユカリーランドってそんな安直なネーミング。かっこいいと思ってるのかしら?
思ってるんでしょうね。これだから年増は。センスが七世代くらい古いのよ。
例えば、こう……えーと、ユカリースト・スタジオ・幻想郷。略してYSGとか。
「幽香もあんまり変わらない気がするなぁ」
うるさい幻月。
って、ああもう。突っ込むのはそこじゃない!
「ちょっとちょっと! 何二人で話進めてるのよ! 大体何よ権利書って? 私は覚えがない。真っ赤な偽物に違いないわ」
「ん? 幽香登記とかからっきしでしょ? まあ私も興味ないけど。でもその辺りは、専門知識豊富な彼女が全部やっておいてくれたわ。後で幽香もお礼言っとくといいと思うな」
その書類のサイン欄で、よく見知った丁寧な筆跡を見つけて……。
「夢月! あいつのせいかぁ!」
「うちの妹は優秀でしょ?」
「いや、返せ! それ返せよ! 一片残さず灰に変えてやるから!」
「きゃー。ゆーかちゃんこわーい。ぼうりょくはんたーい」
少々冷静さを欠いてしまった私が、元に戻るまでには、一刻弱の時間と、相当量のドタバタを要した。
最終的に紫が折れて書類は戻って来たから、まあ良しとはするんだけど。
◆ ◆ ◆
「――それで、あの子とは結構長いのかしら?」
「まあね。あんたよりもずっと長い付き合いだわ。腐れ縁ね」
ドタバタの後の事だ。
幻月は今、椛と一緒になってキャッキャと笑いながらニンジャごっこをしている。文はそんな二人に絡んで楽しそうにしていた。
そして私と紫は、例の物件の庭に誂られたベンチに座っている。ちょうど木陰になる設計。そよ風が静かに木の葉を揺らしていた。
扇子を広げ、口元を隠しながら紫は私と言葉を交わす。話題は幻月の事についてだ。
「会ったのは今日が初めてだけど……今時珍しいタイプだわ。貴方も付き合うの大変でしょうね、何しろあの子は――」
若干の憂いを含んだような声色で紫が言う。
「……紫、そこまでにしておきなさい。貴方が何を言おうとしているかは分かるし。概ね同意だってできる。
でも、あれは私の友人だから。悪く言われるのは愉快じゃないわ」
「あらあら、これは失礼」
「でも、案外あんたとなら馬が合いそうな気もするけどね。嫌われ者同士、上手くやれるんじゃなくて?」
「わたくしお友達は選ぶのですわ。それにあの子はちょっと私とは違うもの」
「眩しいのかしら?」
「少しだけね」
……私は幻月が諦観とか絶望とかに表情を曇らせているのを見た事がない。一度だってだ。
結局彼女は、過去とか未来とかを顧みたりはせず、今が楽しければそれで満足な生物だから。
『そんな生き方、子供と同じじゃない』
何百年前だろう? 私は彼女にそんな事を言った気がする。私の髪がまだ腰ほどまであった頃。諦観なんて感情を孕むずっと昔。
果たして彼女はあの時なんと答えたのだったか? 思い出せない。もしかしたら、例の無邪気な笑みをこちらに向けただけだったのかもしれない。
何にしろ、あれから随分な時が経ったけど、やっぱり彼女は子供のままで、これからもずっと、そのまんまでいるのだろう。
永遠に続く刹那主義。それが幻月という悪魔なんだと思う。
……ああ、確かに眩しいのかもね。私にはそんな生き方、絶対に出来やしないから。
「花」
「……ん?」
少し考え込んでいた私に、紫がそんな事を言ってくる。しかしその単語は割かし脈絡がないようにも思うけれど?
「人を花に例えるあれよ。貴方、たまにやってるでしょ。
聞いてみたいなぁって、彼女を花に例えるなら一体何なのか。貴方の例えは中々に正鵠を射てたりするから、興味があるわ」
「ああ、なるほど。花ってそういうね」
そんなの決まってるじゃないと続けようとして、しかし、それは正面から聞えた明瞭にして生真面目な声によって中断させられる。
「なんだ……またえらく物騒なのが集まっているな」
知性を感じさせる顔立ちに、長く伸ばした髪は銀色に輝く。
上白沢慧音。里の守り役とかをやってる奇特な半獣だ。
「あらあらせんせ。そんな難しい顔してちゃ、生徒に怖がられますよ」
「物騒って……別に人狩りに来た訳じゃないわよ」
「まあ、大人しくしてるなら私も何も言わんさ。お前ら妖怪が金を落としてくれれば、里の経済も健全に回る。それと顔はもう生まれつきだ。今更どうしようとも思わんさ。
さて、隣失礼するぞ。……よっこらしょと」
紫のからかうような声色と、私の棘ある声色。それぞれを軽く受け流し、慧音は私達の隣に腰かけた。
どうでもいいけど、座る時よっこらしょって言うその癖は直した方がいいと思う。実年齢はともかく、見た目はまだまだ乙女のそれなんだからさ。
「最近少し疲れやすくなった気がするよ。私も昔ほど若くはないんだなぁって自覚したりな」
「望むなら完璧なハクタクにしてさしあげてもよろしいですわ。人妖の境界をいじくれば簡単な事。そしたら体が老いるって現象とは大体無縁になれるわよ」
「好意で言ってるんだろうが、遠慮させてもらおう。半分でいる事こそが私の存在意義だろうからな」
頑迷なところが彼女らしいと思った。紫に答えを返した慧音は、手にしていた何かをぽんぽんと私達に放って渡す。
ひんやりとした感触。薄く青色に着色されたガラスの瓶に、小さな泡が浮かんでいて。
「あら? ラムネ?」
「貰い物だがな。一人じゃとても三本も飲み切れんから、お前らがいて丁度良かった」
「うちの連れの分は?」
「あと、この炎天下の中頑張ってる私の社員の分も頂けると嬉しいですわ」
「それはお前らが買ってやれ。きっと喜ぶぞ」
栓になっているビー玉を、ぽんと押し込む。しゅわぁと、炭酸の弾ける快い音。
ごくりと一口飲み込む。喉への痛快な刺激。爽やかな酸味。熱くなっていた体に、染みわたる様だった。
ああ、なんか夏だなぁって。そんな事を実感したりして。しばらくは、ぼけーっとラムネを口にするだけで時間が過ぎて行ったんだっけ。
思い出したのは、瓶の中がすっかり空っぽになってしまった後。
「そういやさ。慧音。あんたこんなとこでまったりしていていいの? なんか事件らしいじゃない」
ドタバタですっかり忘れてたけど、物盗りとかで人里は騒がしいはずだった。
慧音の顔が若干気まずそうなそれに変化する。そして「あー」とか「うー」とかを前置きに、どうも歯切れのよくないまま語り始める。
「私はあくまで相談役だ。頼まれれば円満解決の努力もするが、基本的に人間同士の事は人間に任せるべきなのだろう。……まあ、それにだ」
彼女は遠くを見るような目つきで苦く笑った。
「どんな結末になるかは大体分かるからな。正直それは知らない事にしておきたい。
誰だって愛する者たちの汚れた部分からは目を逸らしたいものだ。
……ふう。……せめてきっちりと体系だった刑法があればと思うのだがな。しかし、それにも色々と難しいところがあるのだよ。
弱さゆえに人間は偉大だが、それだけにしがらみとか暗黙の了解とか、厄介なものもあるわけだ」
慧音の溜息に合わせるようにして、乾いた炸裂音が遠く響いた。
果たして鉛球は標的を捉えただろうか? それは分からない。正直あんまり興味も無かった。
気だるげな昼下がり。銃声の余韻を掻き消した蝉時雨が酷く五月蠅かった。
◆ ◆ ◆
あの後、幻月がニンジャごっこに飽き始める頃合いを見計らって、私は彼女に声をかけた。
そもそもあんまり長居する気はなかった事だし。永遠亭への道のりを再開する。
出発の際には、紫、文、椛と、三人揃って見事な営業スマイルで手を振って送り出してくれた。
慧音の言ってた事に素直に従って、露店で売ってたラムネを奢ってやると、幻月はとても喜んでくれた。
そして今。
午後三時を知らせる鐘が遠く聞える。予定よりは若干遅いけれど、まあ気にするほどでもないだろう。
気温は随分と高いし、日差しもきついけれど、この鬱蒼とした緑が支配する空間では、それらも幾らか和らぐようだった。
迷いの竹林。永遠亭を取り囲む広大な竹林。私達はそこにいた。
「広いねぇ。まだ結構歩くのかしら」
「この竹林の面積はちょっと異常だからね。まだ半分も行ってないわ」
「そっかぁ」
一緒にいる同じ事をやり続けていると、徐々に会話というのは減っていくものなのだと思う。
歩く事に没頭し始めるからだ。
だから交わす言葉は、ぽつりぽつりと、散発的なそれ。
「ところでさぁ、幽香」
「うん」
「鼻、鈍ってる?」
唐突に彼女が言い放ったその台詞。しかし、その意味なら、私は簡単に理解する事ができた。
ええ、勿論、気付いてはいる。敢えて関わる気にならなかっただけ。
鉄の香り。あるいは赤さと生命と、それらが消えゆく際に飛散させる香り。
すなわち血液の香り。
がさりと藪が揺れ、それは転がり出た。
すっかり蒼白になった貧相な顔。ただでさえみずぼらしい衣服は大きく破れ、血液がその大部分を赤土色に汚している。
必死で抱きしめているのは何やら重そうな麻袋。
「ねえ幽香。あれが例の?」
「……そうなんでしょうね」
人里で聞いた物盗りが、彼なのだろう。
地に伏す彼と目が合う。縋るような目つき。
確かに瞳の生気はとても弱々しいのだ。しかし湛えているのはギラギラした、強靭な意志。
銃弾に撃ち抜かれて尚、逃げる事を、生き延びる事を諦めないその執念には驚いてあげてもいいのだけど……。
私は自分の顔付きが不機嫌になったのが分かった。睨みつけるようにしながら、彼に歩み寄る。
鉄の匂いに硝煙のそれが僅かに混じっていた。出血が酷い。腹に大きな穴が空いている。
彼の生命力が例え人並み以上であったとしても、所詮は人間。放って置けば程無くして息絶えるだろう。
それは、まったく以って自然な事。
――しかし、それなのに。
私の不機嫌が大きくなる。あるいは軽く彼の頭を踏みしだく、私の脚力ならそれで十分事足りるというのに。
――まったく、それだというのに。
この土気色の顔した人間は。見た目のままの愚か者は、私の事を真っ直ぐ見つめているのだ。
濁った生気のない瞳で。それでも助けてほしいと私に訴えているのだ。
彼のすぐ側でその憐れな姿を見下ろす私は、苛立ちで思わず舌打ちした。
自分がこんなに不機嫌な理由を私は知っている。
自己嫌悪だ。
……まったく、腑抜けた歳月が長過ぎた。
まさか自分がここまで丸くなってしまっていたなんて。
気付けば私は、ポケットからハンカチを取り出し彼の傷口に当てていた。
小さく彼に声をかける。自分でも不思議なほど感情の篭っていない声色だった。
「……貴方はどうしたいのかしら?
止めを刺して欲しいなら協力しましょう。心臓を傘の先で一突き。それで貴方は全ての苦痛より解き放たれるわ。
しかし貴方は……それともまた別の結末を求めるのかしら」
私が妖怪らしい妖怪であろうとするなら。あくまで恐怖の権化であろうとするなら、話し掛けたりするべきではなかった。
当然の如く彼を無視し、その肉が土に帰る結末を自然とするべきだった。
「あは……どうしたの? 今日の幽香は優しいね」
皮肉るような幻月の声が聞こえる。
優しい? 違うわ。甘いだけよ。
自己嫌悪で腸が煮える音を聞きながら私は再び口を開く。
「例の盗人よね貴方。人里の何とかいう屋敷に忍び込んだとかいう。
私は貴方がそうする事に至った経緯を詳しく尋ねる事はしないわ。どうせ喋れやしないでしょうし。
勿論愚かだとは思う、でも咎めはしない。貴方が抱えるその金とか銀には貴方にとってそれだけの価値があったのだろうし。
ただね。虫が良すぎると思わない?
貴方は人里の住人としての己自身を賭したギャンブルに挑み、そして完膚なきまで敗れたというのに、それでもまだ未来を望むなんて。
この世界は万人の幸福を肯定しない。挽回の至難さならよく分かっているはずなのに」
それでも彼の意志は強固であり。
その傲慢さ愚かさが、しかし余りにも人間らしく……。
ああ、私はどうやら、甘さに抗いきれず、おもねってしまうらしい。
「……そう、なら貴方は見苦しく憐憫を乞う事ね。地べたに這いつくばり同情と嘲笑を勝ち取りなさい。
貴方が報いを受ける価値もない人間だと全ての人が認めるまで。
最下層民の苦しみは時として死をも超越するでしょう。しかしそれでも貴方は望んだ。頑迷なまでに。
ならば私は大妖怪としての気紛れを以って、貴方の苦痛に満ちたこれからの半生に興味を持つ事にしましょう。
……貴方を助命してあげる。永遠亭まで連れて行きましょう」
傷口を押さえていた手を離す。
凝固した大量の血液が彼の体にハンカチを貼り付けていたけど、今は気にする事もないだろう。
ともかく、圧迫により、出血は大体止まった。
私は永遠亭までの到達時間を概算する。妖怪の膂力だし、飛んで移動するのに大人一人の体重が負担になる事はない。
しかし、この竹林で迷わない為に踏破する事になる複雑なルートと、決して速いとは言えない私の飛行速度を鑑みるなら……。
「……厳しいかもね」
およそ一刻。それが算出された所要時間。
痛みで人は死ねる。
苦しみから逃れる為、生からの逃避という極端な選択肢を肉体が選ぶのはその実かなり自然な現象なのだ。
そして彼の弱った体。永遠亭に辿り着くのに必要な一刻の間、彼が意識を保ち続けるのは難しいように思えた。
だから私はブリキ缶の蓋を開けた。尋ねることもしない。何しろ望んだのは彼なのだから。
「これは貴方の一刻の生命を保障する悪魔の宝石だわ。ただし代償として、未来何年かの安楽を担保に取られるかもしれない。
でも、些細な問題よね。もはや苦痛の更なる上塗りに過ぎないのだから」
私は小粒の生阿片を取り出す。そしてレーザーを放つ要領の応用で指先に小さな炎を灯した。
ちりちりと音を立てて乳白色の塊が燃える。もやもやと煙が立ち昇る。
本当は口からの摂取が体に優しいのだけれども、それだと効き目も薄いし、何より彼に塊を嚥下する力なんて残されていない。
だから指先を彼の呼吸器へ近づけた。鼻より吸い込まれる煙。
程なくして、煙の含有するアルカロイドが彼の脳味噌から痛みという感覚を忘れさせるだろう。
彼の表情が少し緩んだのを見て、私はその体を抱き上げた。驚くほどに軽い肉体だった。
……ああ、嫌だ嫌だ。天狗のパパラッチにでも見つかったなら、『風見幽香人間を薬漬けにして拉致する』とかそんな記事を書かれてしまうのかしら。
それとも、あの狡猾な鴉は全て分かった上で、『実は優しい妖怪風見幽香、人間の命を救う』とでも書くのかしら。それは勘弁願いたいわね。
幻月は不思議そうな顔をしていた。
私の行動が、心底理解できないのだろう。
そうだろうと思う。何しろ私にだって理解できていないのだから。
ただ、一つだけ言えるのは、あんたみたいに、どこまでも残虐でいる事ができたあの時代には、私はもう戻れないのかもっていう事……。
ふわりと宙に浮く。
私と幻月に会話はなかった。無言のまま、急ぎ足で空を駈けてゆく。
……しかし、邪魔というのは、こういう急いでいる時に限って入るもの。
それは、とても目立つ紅と白だった。
艶やかな黒髪。右手にはスコップ。
竹林にいくつもある分岐路の一つで、地に足付かない彼女と私達は図ったようなタイミングではち合わせてしまったのだ。
ああ、厄介なのに見つかったと思った。
背負った大きな竹篭を地面に置き、軍手を脱ぎ捨てた紅白衣装の彼女は、さも面倒臭そうにこちらへ目を向ける。
「今日は竹の子掘りに来ただけなんだけど……やれやれ、物騒なもの見ちゃったなぁ。
あんたらは妖怪だし人を襲うなとは言わないけど、私の目の届かない所でそういう事はするべきだったわね。
残念だわ幽香。あんたならその辺よく心得ていると思ってたから」
だるそうな目付きのまま博麗霊夢は、盛大に勘違いをしたまま懐より針を取り出す。
不味いことになった。一見やる気が無さそうに見えるけど、霊夢は淡々と義務を履行するつもりだ。
大人一人背負ったこの状態で弾幕を張るのは正直勘弁願いたいし、なにより時間が無い。
私は霊夢を説得するべく口を開こうとして、しかしその私より先に空気を揺らしたのは、底抜けに明るく、それ故に不気味な我が悪友の声であったのだ。
「残念なのは私の方。久しぶりに人間のお肉が食べられると思ったのに、邪魔されちゃうんだもの。
でも、考えようによってはチャンスなのかしら? 貴方を倒しちゃえば明日もお肉だもんね」
「ちょっと! 幻月、何言っ……」
幻月の突飛な発言を制止しようとした私の口を彼女は手で塞ぐ。そして私の耳元に唇を近づけ、囁いた。
「……一刻を争うんでしょ? なら説明して誤解を解くまでの時間が勿体無いわ。
ここは私が預かってあげるから、幽香は先に行っちゃいなさい」
幻月はにっこり微笑むと、私の口に当てていた手を離した。
「ねえ幽香。私は人間の命なんて何とも思ってないの。それを奪うには太陽が眩しかったからとか、そんな理由にもならない理由ですら不要だと思ってるわ。
でも、幽香がその人を助けたいと思うなら協力はするよ。だって友達だもんね。
私が自分から空気を読んであげる事なんてあんまりないんだから、今日くらいは頼って欲しいな」
私の眉は顰められたまま。
まったく。悪友よ。
格好つけたような事言うなら、その期待で爛々と輝く瞳を隠す努力くらいはしなさい。緩み切って今にも涎が垂れそうな口元もよ。
でもその闘争心が。露骨なまでに剥き出しとなった牙が少し羨ましくも思えて。
何より、彼女がまた私を友と呼んでくれた事が少し嬉しくて……。
「……スマートなやり方じゃないわ。でも一番正しく一番私達らしいやり方だとも思う。
なら幻月、今は頼らせてもらうわ。ただし、間違いは絶対起こさないようにね」
「あは、分かってるって。今の私は最高に空気が読める私なんだよ。
幽香が望むように、上手く立ち振る舞ってみせるわ」
お互いに頷きあい、拳の先をコンと触れ合わせる。何だかんだで信頼はしているのだ。
私はできる限りの速度を以って、永遠亭への道を再び翔け出す。
「あっ! こら待て逃げるな!」
霊夢の声も勿論無視する。
さて、これで私達は彼女に対し、本格的に喧嘩を売ったわけだ。
私は後に目が付いている訳じゃないけど、霊夢が次に取るであろう行動なら予想が付いている。何と言っても彼女はとっても分かりやすい人間だから。
彼女の指と指の間に挟まれた凶悪な太い針、それがそろそろ投擲された頃だろう。
あれ当たると痛いのよね。背中にズブリと音を立ててめり込む感触はちょっと想像したくない。
でも私は避けるような事はしなかった。それは速さが削がれる事でもあるし、そもそも避ける理由なんてないのだ。
さあ、悪友よ。背中は任せたわよ!
「――あはは、痛いなぁ」
後から聞こえた幻月の声色は妙に嬉しそうで、それを聞いた私は針が一本たりともここまで到達しないことを確信したのだった。
「ねえ巫女さん。貴方が注意するべきなのは、幽香でもあの人間でもないわ。
私っていう脅威がすぐ目の前にいるんだよ? ちょっとは身の危険を感じた方がお利口さんだと思うな。
それとも私がどういう存在か良く分からない? ならその曇った眼球に私がメスを入れてあげるよ」
霊夢の針は退魔の処置が施されているから、私とか幻月みたいなのが触れられる様にはできていないのだけれど、そんな事は幻月にとって問題にもならない。
飛来する針をがっちりと掴み取り、握った拳の中で退魔針が肉を焼く痛みを気にすることもなく、無邪気な笑顔を霊夢に見せ付けているに違いないのだ。
背中越しで幻月の悪意に満ちた挑発が始まる。
「若いっていい事ね。瑞々しくて、生気に溢れていて。とっても美味しそう。
ああ、千切れた動脈から直接啜る貴方の血液はどんな味がするのかしら。
ああ、穿り出された貴方のお目目は私の口の中で、どんな風に弾けるのかしら。
楽しみ。とっても楽しみ。
私は貴方に誰も味わったことないような痛みをあげる。
四つ裂きの刑(ウィリアム・ウォレス)や三千刀の凌遅刑(劉瑾)がまだマシに思える苦しみをあげる。
その未成熟な肉体と不相応に達観した精神を、時間をかけて徹底的に蹂躙してあげる。自殺する事も発狂する事も許してあげない。
その綺麗なお顔が苦痛で歪んで、涙でぐちゃぐちゃになるのが見たいの。
体が少しずつ欠損していく絶望に耐え切れなくなって、殺してくれって泣き叫ぶ声を聞きたいの。
代謝がおかしくなって、生きながらにして膿み腐っていく末端の酷い匂いを知りたいの。
お腹に手を差し込んで、少しずつ冷たくなっていく臓物の温度を感じたいの。
そして、最後は唇を貪ってあげる。舌を差し込んで、生命の残滓を残さず味わい尽くすの。あはは。私ったら凄く興奮してる」
あー。そこまで言っちゃうか悪友よ。ドン引きした霊夢の顔が目に浮かぶわ。どうなっても知らないわよ。
「……今時あんたみたいに邪悪さを隠そうともしない妖怪は珍しいわ。いや、悪魔だったっけ? まあどうでもいいや。
私に向かってそんな口叩いた度胸は褒めてあげてもいいけど。きっと後悔するわよ。
ところであんた、昔私と会ったことあるわよね。
あの時はこてんぱんに伸したはずだったけど、全然学習してないってわけ?」
明らかに不機嫌な霊夢の声。ああなった霊夢はとても怖い。本気でずたぼろにするつもりで闘ってくるから。
でも。幻月。あんたの才覚なら、そんな霊夢の武威にも、あっさり膝を折ったりなんて事はないはず。
「あは……後悔かぁ。甘美な響き。その感情はしばらく味わってないしね。
楽しみだわ巫女さん。貴方は私にどんな感情をくれる?」
遠く背中で響き渡る弾幕の炸裂音。
そして、少し遅れて竹林に反響した狂ったような笑い声。喜びを爆発させる幻月の笑い。
それが何だか、凄く楽しそうだなぁとか思っちゃって、ちょっぴり私も笑いを零してみたのだった。
◆ ◆ ◆
「……まあ、悪かったとは思っているわよ」
夕焼けの人里。昼間の例の物件のベンチにぐったりと座りこみ、霊夢がぼそりとそう言った。
巫女服はところどころ破れていて、表情も酷く気だるそうだった。
敗北を喫する事はなかったみたいだけど、やはり本気でテンションの上がった幻月の相手をするのは流石の霊夢でも骨が折れる事だったらしい。
「霊夢のああいう短絡的なところは、ちょっとどうかと思う。でも。誤解を加速させたのは私と幻月だしね。別にあんたを責める気はないわ」
「そりゃどうも……」
ちなみにあの物盗りな人間は、永遠亭で治療を施され、どうにか一命は取り留めたらしい。慧音から聞いた情報によるとだけど。
私は彼を引き渡して、ついでに採取した分の生阿片の報酬を受け取ったら、すぐに帰路に就いたから。
今後の経過を見守る気はなかった。これ以上首を突っ込む気もない。これからの彼の人生は、全てが彼次第だ。
あんまりハッピーな結末は期待できないような気もするけど、まあそれもまた一つの人生だろう。
そういえば、紫が売りに出していたこの物件だけど、どうやら買い手が見つかったらしい。
里の奇特な金持ちの男だ。何でも今日盗みに入られたから、警備を考慮した物件を貴重品の保存庫として欲していたのだとか。
彼は、あの物盗りに入られた屋敷の主だ。そう考えると世の中って因果よねぇとか思ったりして。
紫と文は、満面の営業スマイルを浮かべて、彼にお辞儀をしていた。
「あー、しんどい……」
霊夢はさっきからずっとこの調子だ。人間としては明らかに異常な彼女だけど、肉体その物は特別製でもなんでもない、脆い人間の血と肉と骨だ。
殺す気でやらないと自分が殺られるって激闘だったんだと思う。
幻月の事だし、どうせ弾幕ルールなんか守ってないから。そりゃ消耗もする。
戦闘後の幻月は、ほんとに酷い有り様だった。
目玉は片方無くなってたし、羽ももげてたし、手足だって。とにかく血まみれの抉り傷だらけで、ひたすらずたぼろだった。
……まあ、彼女は悪魔だし、それくらいじゃ死にはしないんだけどさ。
しばらくは大人しく、ぐったりしていた幻月だけど、数時間も経てばすっかり元気を取り戻して、今現在では椛と一緒にサムライごっこの真っ最中らしい。
きゃははと、楽しそうな笑い声が向こうから聞こえて来ていた
「あれは、ほんと元気ねぇ……ああ、これだから人外ってやつは……」
気だるそうに、霊夢が口を開く。
「まあ、幻月は悪魔の中でも相当異端だけどね」
「あ、やっぱそうなんだ。だってあれ、絶対まともじゃないもん。
弾躱さないのよ。全部正面で受けとめて、血まみれになって、体削られて、それでも笑ってる。ケタケタと」
「例えば彼女が初対面の誰かと挨拶をしたとして、“初めまして”に続く言葉が、“ロボトミーを試していい?”であっても私は一向に驚きはしないわ。
そういう性格破綻者。狂った悪魔。世界からのはみだし者だから、自分だけの世界を作った。それが彼女だから。
そんな突飛な彼女と、誰が一体まともに付き合えると言うんでしょうね」
「ふーん。でも幽香は随分仲良さそうにしてたじゃない? ちょっと驚いたかも、私の中じゃ幽香は割とまともな妖怪に分類されるからさ。
ああいうのと、オトモダチ、よくやってるなぁって。結構疑問かも、これ」
「霊夢。あんたは歯に衣着せる事を少しは覚えた方がいいかも」
「あらごめんなさい。でも割と本音よこれ」
「……まあ、凄く理解はできるけどね。あんたが不思議がってるの」
私はそっと手の平を重ね合わせた。そして花を操る程度の能力を発動させる。
創造するのは、彼女の翼にような純白の花びら。可憐な容姿。
手の平の上で勢いよく花開いたそれを、霊夢に見せてみる。
さっきのあんたの疑問、これはその一つの回答だわ。
「この花見て、霊夢、あんたはどう思うかしら?」
数秒の思案を挟んで、霊夢が答える。
「綺麗だと思う。かわいらしいって言った方がより適切かしら。
……でも、どうしてだろ? こんなにかわいいのに、酷く禍々しい感じもする」
博麗の勘は流石といったところか。ぱっと見ただけで、これの本質を看破してしまった。
「霊夢、その感想は正解だわ。学名Papaver somniferum。英名ならOpium poppy。
ソムニフェルム種の一年草。悦楽と退廃を象徴する一輪。幻月を花に例えるなら、これ以外にないわ」
可憐でありながら、まったくの悪徳。それが彼女。
「すなわち彼女はケシの花。可愛らしくも疎まれる悪の華」
この時の私は、もしかしたら苦笑するような顔をしていたのかもしれない。
随分と、昔の事を思い出していた。
私と彼女が初めて出会った頃。
私はまだまだ青さ残る、暴力さえあればなんだってできると思いこんでいた若い妖怪。
彼女は今とまったく変わらない、自分勝手で突飛であたまがおかしい悪魔。
しかし、そもそも、どうして私達は友情なんて感情を共有する事ができたのだっけ?
「……ま、詰まるところ、尊大が過ぎる向日葵も実は寂しかったってことよ。
背が高くて下の方を見る事すらしない、孤高に拘る嫌われ者の仇花。
でも、嫌われ者な癖にそれを自覚しない構ってちゃんなケシの花だけはそんな向日葵の下でも明るく咲いてくれた」
まったく、本当に昔の話だ。
あの時彼女と出会わなければ、今頃私は一体どうしていたのだろう?
ずっと一人ぼっちでいたのかもしれないし、もしくは社交性に満ち溢れた妖怪になっていたのかもしれないし。
ただ一つ言えるのは、彼女と出会い、一緒に歩んできたからこそ、今みたいな私がいるって事で。それはまあ、よかった事なのかな。
……あ、どうしよ。なんだかこの台詞臭いかも。思い返すとだんだん恥ずかしくなってきた……。
「喋りすぎたわ……。霊夢さっき話した事は全部忘れてくれていいからね」
全く、今日の私は少しおかしい。
アヘンには自白剤として使われていた時代もあるという。
ケシの花な彼女と久しぶりに触れ合って、頭がゆるくなってしまったのだろうか。
夕日がそろそろ沈む。山に帰る鳥たちの影が、すぅっと流れて行った。
そろそろ帰って夕食の準備かなぁとか考える。そう言えば昼は何も食べてないし、幻月もお腹空かしてるだろうし。
あいつは子供舌だから、駄々甘いカレーとか、ハンバーグとかが好きだったりする。
材料買って帰るかなぁと、そんな事を考えてると、カツカツと大地を踏みならして近づく足音。
通りのど真ん中をずかずか傍若無人に歩んでくる金髪メイド娘。
流石。その敢えて空気を読まないあたりが清々しいと思う。
どっちかと言うと童顔だし、目尻は垂れ気味だし、おっとりとした顔の作り。
でもその立ち振る舞いは凛としていて、大体同じような顔の姉と、全く違う印象を受ける。
きりっと締まった口元と、力強い目付きのお陰だと思う。
緩みきった姉の、保護者の登場だった。
「おかえり夢月」
「私がいないうちに、なんか姉さんが迷惑かけたみたいね」
「ま、結構楽しかったから、別にいいわよ」
「そう言ってもらえると助かるわ。……ところで姉さんは?」
「あっちで天狗と遊んでる」
「……そう」
私が指し示した先を向き、すっと夢月は息を吸い込んだ。そして。
「姉さん。帰るわよ!」
彼女ら姉妹の間で今まで、何百何千回と繰り返されたのであろう、このやりとり。
途端、きゃははと騒いでいた声がぴたり止まる。
数秒の後に、『また今度遊ぼうねー』とかいう声が聞えて、彼女は姿を現した。とびっきりに無邪気ないつもの笑みを浮かべて。
「夢月おかえりなさい。心配したわ。ああ、そうそう髪型似合ってるよ」
「はいはい。今更ありがとう」
夢月は一つ溜息をつく。
この突飛な姉との付き合い方を一番知っているのが彼女だ。
今日みたいに、溜まりに溜まっちゃった日は爆発だってしちゃうんだろうけど、それでもちゃんと引き取りに来るあたり、ほんと真面目だと思う。
まあ、あんまりしんどかったら相談してくれていいし。私もちょっとくらいなら面倒みるしさ。
「今度は頼らせてもらうわ。ところで幽香、夕食はどうするつもりだった? もしかして、もう準備してたりする?」
「いいえ、これから考えようかなぁって。あ、でも夢月が丁度よく来てくれてよかった。献立考えたり作ったりする手間が省けたわ」
「うちに食べに来るつもりかしら? まあいいけどね。姉さんの面倒見てくれた謝礼の意味を込めて、腕を振るうわ」
「考えれば夢月の料理って、すごい久しぶりかも。期待してるわ」
「ま、過剰な期待は抱かない事ね」
腕組みして、口調はクールで、でも表情は満更でもなかったり。
実際、こいつの腕は確かだから、楽しみにしておいていいだろう。伊達にメイドはしていない。
幻月は『幽香と晩御飯とかすごい久しぶり』とか言ってはしゃいでいる。
そんな幻月に、私はすっと向き直った。表情を、締まりのあるそれにする。これから言うのは、少しばかりの真剣さを内包している台詞だから。
「ねえ幻月? まだ元気は余ってるかしら?」
「ん? もちろん」
「……久しぶりにごっこじゃない闘争をしてみたい。血みどろで知性の欠片も無い殴り合いをしてみたい」
「あは。大歓迎だわ。とっても楽しみ。私は久々に幽香と痛みを共有できるのね」
今日は、私の妖怪としての在り方とか、ちょっと考えちゃった日でもあったから……。
でも、どれだけ諦観しようとも、妖怪である事を、私はやっぱり捨てる気はないらしくて。だから、私は確かめてみたいのかも。
全力のぶつかり合いをすれば、それで解決って簡単な問題でもないって事は、分かっちゃいるけどね。
「なんとなーく。幽香が今考えてる事分かるかな。大丈夫、きっと幽香のそれは杞憂だから。
牙が折れちゃった幽香なんて幽香じゃないけど、でも私は知ってる。
幽香の牙はダイヤモンドよりも硬くて、ヒヒイロカネよりも靱性に富んでいる事を。絶対に折れるはず無いわ。
でも、もし幽香が牙が錆びたと感じていて、心曇らすのなら、私が力になってあげる。
喜んで砥石になるよ。だって友達だもん」
にっこりと笑って、すっごいナチュラルにこいつが言い放った友達とかいう単語が、なんだかとても嬉しく感じられて……。
例えば、これから千年後。私達がまだ生きているとして。
その頃には私はまた今とは随分と違った生き方をしていて、それでもってこいつは今とまったく変わらない無邪気さでいるんだろう。
さて、そんな私達は一体、どんな会話を交わしているのかしらね?
願わくは今日みたいなそれだといいと思っている。
友情は永遠なんて陳腐な事を言うつもりはないけどさ。まあ、とりあえず――
「今後ともよろしくって事で。ね、悪友?」
感動した的なリアクションを期待してたのに、こいつときら『ん?』とか言ってキョトンと首を傾げやがっている。
ああもう……まったくもってこいつは、空気読んでくれない。
ちょっと恥ずかしかったから、私は彼女の後ろに回って、ぎゅっと抱きついてやったのだった。
いつもなら、こいうのしてくるのは彼女の方だけど、たまにはやり返してやってもいいだろう。
お腹をこちょこちょとしてやると、キャハハって、くすぐったそうな、でもどこか楽しそうな笑い声を幻月は高く響かせていた。
私と彼女の、ちょっとだけ特別な平凡な夏の一日の終わり。
私達の帰路を夕焼けが、赤く明るく照らしていた。
「うー、ゲロマズ。……幽香ぁ、流石にこれはないと思うなぁ」
朝も早いと言うのに、勤勉な太陽は今日も休むこと無くピカピカ光を振り撒き、向日葵畑を美しく照らしている。
大輪の大きな葉っぱからは時折雫が零れ、輝ける宝石のごとくきらりと陽光を反射していた。
季節は初夏。これから鰻登りに気温は上がっていくのだろうけど、少なくとも今に限れば半袖が素晴らしく快適。
空気中の適度な水分が夏の空気に清涼感を与えてくれている。
風穏やかにして、騒々しさと無縁な立地。遠く小鳥のさえずりと、ひらひら舞う紋白蝶たち。
うーん。実に宜しい理想的。
この上なく優雅。絵に書いたよりも爽やかな早朝。やんごとなき私に似つかわしい。
黄色の花畑に映ゆる白いパラソルの下、最高にご満悦の私は、紅茶片手に並の人間ならイチコロな筈の素敵過ぎる笑みを浮かべてみる。ククク……。
余裕の中に潜ませた一滴の哀愁と黒さと可憐さがアクセント。
私がもしフランス人であったなら、あんまりな素敵さ加減に、思わず「トレビアーン」とか呟いちゃってるに違いないわ。
「……幽香? さっきから何ニヤニヤしてるのかな? 気持ち悪い……」
この素敵さにノイズを混ぜ込むような声が聞えたけど、多分気のせい。
さて、この素敵な向日葵畑を一面に見渡せる、絶好のスポットに誂えたテーブル。純白のテーブルクロスの敷かれたその上には、この素晴らしき朝に相応しき至高の朝食。
こんがり焼いたベーコンは、
健康な豚ロース肉を桜のチップで燻製した自慢の一品。程良い塩味が肉そのものの旨みを引き出してくれる。
今朝産みたての新鮮卵はサニーサイドアップで頂きましょう。素材がいいから味付けはシンプルに胡椒だけ。張りのある黄身の色合いは濃厚で、見るからに食欲をそそってくれる。
そして、それらの隣で爽やかな緑を振りまくレタスは、私の手作り。土壌からこだわり手間暇かけて育てた彼らは、間違いなく幻想郷で最高の野菜だって胸を張って言えるわ。
うむうむ。実に素晴らしい。
そして、皿の中心に目を移せば――
「ねー、幽香ぁ。聞いてる? 貴方普段からこんなものばっかり食べてるの? 信じられない」
我が至高の朝食にケチをつけるような声が聞えたけど、やっぱり気のせい。
気を取り直して丸皿の中心に目を移せば、威風堂々たる佇まいを以って鎮座しておられる、四角くて、黒い? ……そう真っ黒な……炭素?
……あっれー、おかしいな?
朝食のメインたるこんがりきつね色に焼けた、トレビアン極まりないライ麦の食パンが溶かしバターを乗っけて機嫌良く私を迎えてくれてるはずだと思っていたのだけど?
『ハハハ。軟弱で歯触りがいいだけのギャル男の時代は終わったのさ。これからは剛健な筋肉の時代。
この鎧と化すまで鍛え上げたボクのワガママボディを思う存分鑑賞してくれたまえ御嬢さん。蜂蜜との相性もばっちりさ。ふん!』
そんな声が聞こえた気がする。
なるほど、確かに固そうだ。ヤスリの代わりとかになりそう。元があのやわこいパン生地だったとは思えない。
『虐められっ子だったからね、ボク。でも、マミーに心配かけちゃいけないって思って、だから厳しい鍛錬だって頑張ったのさ。
今じゃボクは街一番のハンサムボーイ。この黒光りする筋肉に振り向かない女の子はいないよ。ふん!』
そりゃ、うん、黒いけど……頑張ってるのは分かるけどさ。でもあんた胸筋とか無いじゃない。
無理してサイドチェストとかしないでいいのよ。あと、人型以外のイケメン基準とか私知らないし……。
『よかったら、ボクとお茶でもしないかい、お嬢さん? キミの事、もっと知りたいんだ』
だから、いきなり誘われても……。
私は妖怪、貴方は穀物。私達の間にある壁って貴方が言うほど、簡単なものじゃないと思うの……。
『愛の前じゃ、種族の壁なんて……』
そんな臭い台詞いわないでよ……。
思わず、信じてもいいのかなって、思っちゃうじゃない……。
「――ゆーか? ゆーかぁ? 何パンと喋って……。
ああ、そっか、ついに頭湧いちゃったんだね。前々から危ないかもとは思っていたけど……。
うん、驚きはしないよ。お幸せにね。パンと結婚した女とか世間の目は冷たいだろうけど、そんな可哀想な幽香でも私だけはお友達を続けてあげるから」
一見憐れんでるように見せかけて、その実『あ、なんか面白い事になってる』とかいうワクワクを瞳の奥に張り付けた、我が悪友の瞳が私を見つめていた。
口元は緩んでいる。
急激に感情が冷めたのが分かった。
……OK、OK。ちょっと落ち付きましょうか。
『さあ、御嬢さんついておいで。人生という長い道程の一歩を、ボクと君,ふたりで一緒に踏み出そうじゃないか。ははは』
一つ深呼吸。冷静な頭で本音を紡ぎだす。彼と向き合う。
決別の言葉なら、びっくりするくらい簡単に出てきた。
「黙れよ。麦屑。身分の違いを弁えなさい。そもそも私筋肉とか嫌いだったわ。暑苦しいし」
彼がぱりんと砕けたような気がした。振られた事に、驚愕の表情を浮かべて。
ああ、その顔いいかも……! ぞくぞくしちゃう。
図らずも満たされてゆく嗜虐心に私の唇がすっかり歪みきった頃には、彼の残滓はすっかり消え失せていて、皿の上には物言わぬ真っ黒いパンが一枚乗っかってるだけだった。
さて、冷静になった所で、もう一度このパンをじっくり見てみましょう。
うーん、黒い。実に黒い。これ以上なく黒い。
この黒さこそが、今私の直面している最大の問題であるわけで。
原子番号6番、化学式はC。有機物の必要条件にして、ダイヤモンドの正体。
炭素。この世界を構成する物質の中でも、大変に重要なそれ。十分な感謝と尊重を以って接しなければならない物質なことは知ってるわ。
でもね、私思うの。
優雅なブレックファストのメインを飾るのが純度99%超の黒炭ってのは色々と間違ってるんじゃないかしら?
ここで、おいしいじゃんwww(芸人的な意味で)とか空気読まない発言をのたまった奴がいたら、全裸に剥いて、地霊殿の火焔地獄跡に放り込んで、ブラウン管の手前からじゃ到底理解できるはずのない熱湯コマーシャルの苦しみをその肉体に深く深く刻み込んでやる。
胸中で燃え上がる怒気の炎を、引きつった笑顔で御しつつ、私は一縷の可能性に期待してその暗黒物質を手に取った。
……うわ、重!? なにこれ? 殆ど金属とか鉱物の質量じゃん。
一縷であった期待が、更にか細くなるのを目の当たりにして、それでも諦めきれないでいる私は、びくびくしながらもそれを唇に近づける。口を開く。歯で触れる。
がりっと、そんな音すらしなかった。
噛みながらも警戒を怠らなかった事が幸いしたらしい。それをしなければ今頃私の前歯は無残にも根元からばっきり折れてしまっていただろうから。硬直させた顎。
私の歯では傷つける事すら能わなかった暗黒物質を慎重に口から遠ざける。
表情はきっとこの上なく難しいそれになっていただろう。冷や汗が浮かんでいた。
……あり得ない……ちょっとこの固さはあり得ない。もはやこれは食品なんて概念を超えてる。
火曜サスペンス劇場の開始20分目くらいにしか使い道がなさそうなそれを、そっと皿の上に戻す。零れた溜息は落胆だ。
ああ、さようなら我が優雅なる至高の朝食よ。
「……とれびあーん」
素敵さの残滓を惜しむように、引きずるように、そんな呟きが私の口から転がり出る。
そしたら、何が不満だったのか、胡乱な目線を悪友は私に向けてきた。
「幽香? それじゃ駄目よ。トレビアーンってそんな易い言葉ではないのだわ。
おふらんすの人がそれを言う時は、もっと、そう、まるで自分こそが世界で最も祝福された存在であるが如き喜びに満ちているもの。
おふらんす。それはお耽美の国。おふらんす。それは愛の国。
今こそ最も煌びやかな喜びを! 立ち読みしたマーガレットで見たあの輝きを!
“ふらんすへ行きたしと思えども. ふらんすはあまりに遠し――”、まさか! だってベルサイユが意味するのは、もはや一都市名に留まっていないのだから。
私にも貴方にも、あるいは森羅万象全てがおふらんすを内在させているというなら、私達は自由・平等・博愛(トリコロール)の下、可愛らしくも革命的な愛の言葉を囁けるはずだわ!」
ばさりと、悪友がその天使を彷彿とさせる翼を広げた。舞い散る純白の羽。
彼女の眩しい笑みに、私はバロック・ロココ時代の栄華を見た気がした。
背景には咲き乱れる真っ赤な薔薇たち。まるで私達を祝福しているかの様。
……ああ! まさか!?
本当にベルサイユはここにだってあると言うのかしら!?
空気中にスパンコールでも浮かべたように、キラキラと景色は輝き。悪友よ! 貴方のお目目は星空でも閉じ込めたみたいに、もっとキラキラしているじゃない!
なるほど、これがおふらんすの力なのね。もはや目に映るもの全てが巴里巴里しく見えるわ!
「ああ、なんてモン・サン・ミシェルな気分なのかしら!」
「そう! まるでボナパルティズムするデカルトなムーラン・ルージュだわ!」
「きっとこれはオルレアンがシャルル・ドゴールで、ピノ・ノワールなコンコルドなのね!」
「そのとおりよ幽香。クロード・モネのブルボンだから、ロベスピエールするラ・マルセイエーズなのよ!」
「ああ、悪友よ。おふらんすの淑女はパンがなければどうするのかしら?」
「パンがなければブリオッシュをミシュランすればいいじゃないとか嘯きながら、ジョゼフ・ギヨタンの芸術的発明品でルイ17世して身長を縮めるのが高貴な淑女の嗜みよ」
「なるほど! トレビアーン! 世界はこんなにも美しくってよ!」
おっほっほ!
うふふふふ。
おっほっほ。
うふふふふ。
おっほっほ……。
うふふふふ。
おほほ……。
うふふふふ。
…………。
うふふふふ。
…………。
「……ここは日本だ。日本語を喋れ」
朝っぱらからこのテンションは正直ない。
我がモード・ベルサイユの終了宣告に、少女漫画臭を振り撒いていた赤薔薇達が、不平そうにぶつぶつ文句を漏らしながら撤退していった。
『まったく、ゆーかさまはお耽美ってお言葉を知らないのでしょうか』
『仕方ありませんわアンリエット。だってゆーかさまは通ぶっていながら、その実エッフェル塔と東京タワーと通天閣の区別がつかない知ったかちゃんですもの。
おノーブルでおシャンゼリゼなおふらんすトークに付いてこれる筈がなくってよ』
『道理ですわ道理ですわ。ああ、嘆かわしい。足りていない主を持ったわが身の不運を……って、ジュリエット!? ってあたくしも!? ゆーかさま痛いって痛い!!』
いーちまーい。にーまーい。さーんまーい。よーんまーい……。
私が数をカウントするたび、赤く艶やかな花びらが一枚ずつぶちりと千切られ、ひらひら風に舞う。ふーん、中々耽美的じゃないの。
許しを請う紅薔薇どもの叫びも今は耳に心地いい。
……べ、別にむかついたとか、そんなんじゃ無いんだからねっ。
ちょっと急に花占いしたくなっただけなんだから。
ん? 何占ってるっかって? ……んー、えーと……。こいつらの名前って事でいいや。
「……って事で、あんたらの名前今からお岩ね」
一枚たりな~いを口癖にすればいいわ。
そう付け加え、私は小生意気で西洋かぶれな赤薔薇二輪をぽいと放り棄てた。
『……うう、酷いです。あたくし自慢の勝負服が……』
『ぐすん……、もうお嫁に行けないです』
バリカンで中途半端に毛を刈られた羊みたいな小汚い風貌で、さめざめと泣きながら場面より退場する没落赤薔薇お岩その一とその二。
ざまあみろ。だいたいエッフェル塔が何だってのよ。結局鉄の塊でしょうが。腹に入れば何でも同じって旧知の幽霊嬢も言ってたわ。
「ちなみに幽香、お岩は四谷怪談。井戸でお皿を数える皿屋敷の幽霊はお菊だわ」
「腹に入れば全部同じよ」
「掘った墓穴を誤魔化す理論も、そこまでぶっとんでるとむしろ清々しく聞こえるわ」
こいつに冷静につっ込まれると、なんか猛烈に腹が立つ。
……と、ここで逆ギレしてみてもアリかなぁって気分ではあるのだけど、それは寛大な私の事。
ぐっと我慢して、それでもって、そろそろこいつの紹介をしておかないといけないかしらね。
きっと置いてけぼり食らっているに違いない沢山の読者諸兄の為に。
「幽香? 空見上げちゃって、誰と喋ってるの? やっぱり頭湧いちゃった?」
「ちょっと黙ってなさい。それが貴方の為よ」
キョトンとしたような、しかし何処か納得したような表情。しかし口元は緩い。いつだって緩い。
長い付き合いではあるけど、私はこいつの顔が、怒りとか悲しみとかで歪んだのを殆ど見た事がない。常に今みたいな緩い笑顔でいる。
ただ、それが朗らかさとか穏やかさとか、そういった肯定されるべき要素のおかげじゃない事なら私はよく知っていて。
かわいらしさ、無邪気さ。それらが本質的に孕んでいる残虐さ。
正常な感覚を持っていれば嫌悪で眉をひそめるような場面に出くわして、しかし彼女はそれでも憚ることなく満面の笑みを振りまいてるだろう。
生来備わっているべき感覚がいくつも欠落したまま生まれ育ってきた結果として、彼女のそんな笑顔がある。
悪徳。
純白の翼に、金色のさらさらとした髪。さしずめ天使のようなその容姿が既に冒涜だ。
まるで子供の様に、残虐さを無為に撒き散らす事を好む。
血の赤を好む。倒錯と快楽と刹那主義を好む。
十分な知識と知恵と才覚を持ちながら、しかし、それを悪趣味にしか使わない。
秩序とルールを尊重しない。当然の如くそれを汚す。
行動原理は気まぐれと欲望だけ。傍迷惑極まりない。
なぜこんなのが、今まで淘汰されず生き残ってしまったのか。悪魔としてすら異端な彼女なのに。
結局それは、これが単純な力量で他を圧倒できるだけの傑物だったからに他ならない。
かつて彼女が巫女との対戦で見せた発狂弾幕は、史上唯一の“回避させる気がないそれ”である。
幻月。それが彼女の名前だ。
最初にこいつと会ったのは、全ての絵具を混ぜこぜにしたような、酷い色した虚空の中でだった。
夢幻世界を支配する旧き悪魔。公式をして最凶と言わしめた悪魔。
そしてどういう訳か、私の友人。
付き合いなら長すぎる程だから腐れ縁と言ってもいいのかもしれない。
彼女の性格が破綻しているのは間違いないのだけど、ただそう言う私も決して性格がいいとは言えないから、ある意味お似合いなのかもとかは、まあ思ったりもする。
嫌われ者の私とわざわざ友人する奴なんてあんまりいないし、彼女だってそうだ。
若干の皮肉を込めて、悪友。私は彼女の事をそう呼んだりもする。
そんな彼女が私の住居を訪れたのは、随分な早朝……それこそ太陽が昇るよりも遥かに早い非常識な時間だった。
『うふ……ゆーかちゃんの寝顔かわいい。食べちゃいたいくらい……。あれー? もしかしておっぱいまた少し大きくなったのかな? もう、ほんとにゆーかちゃんはいやらしいなぁ。
襲っちゃうよ? ていうかこれ、誘ってるんだよね? 間違いないわ。パジャマの胸元もこんなに開いちゃってさぁ。うふふ、よーし幻月お姉さん頑張っちゃうぞー』
……目覚めと共にフライングニーキックを繰り出す必要性に迫られた朝は本当に久しぶりだった。
私の蹴りをひらりと無駄に軽やな動きで回避した彼女はキャハハと笑いながら、今度は私のほっぺを指先でプニプニ突っつきだす。……マジうぜぇ。
視界の端の壁掛け時計が教えてくれたところによると、時刻は3時を回ってすぐ。
ただでさえ寝起きには弱いのに、こんな深夜に起こされて。どこぞの騒霊長女のテンションがまるでリオのカーニバルでパッションとスマイルを振りまくサンバダンサーのそれに見えてしまうくらい、私のテンションは低空飛行だ。てか眠い。
「……幻月、こんな時間にどうしてあんたがここにいるのか、理由ならあとで聞くから、私はもう少し寝る。眠い。あんたも陽が昇るまでくらいはおとなしくしてなさい。そこの引き出しに入ってる寝袋使っていいから」
イライラをも上回る偉大なる眠気。私は再び布団に潜り込む。瞼はすでに殆ど閉じかけていた。
「寝袋? そんなのいいよ。私は幽香と一緒のベッドで寝るから」
「いやよ、あんたと一緒とか。絶対変な事してくるでしょう」
「当たり前じゃない」
……いや、そこで胸を張るなよ。
「ゆーかちゃんといやらしい事したいなぁ」
……ていうか、全年齢。ほらここ全年齢。そういうきわどい発言は自重してもらわないと色々困る。
「道具だって持ってきたのに。ほら幽香の大好きな\魚符『龍魚ドリル』!/だよ。これでゆーかちゃんの\雷符『エレキテルの龍宮』!/をじっくりと\棘符『雷雲棘魚』!/して、ゆーかちゃんを\光星『光龍の吐息』!/させてあげたいなぁ」
ああもう! だから自重しろって言ってるのに!
左手を腰に当て右手を天に突きあげるフィーバースタイルを以ってこのSSを発禁の危機から防いでくれた、竜宮の使いの存在に今は感謝したい。
いつの間にいたとか、そもそもどうしてここにいるんだとか、色々疑問はあるけれど!
『ふふふ……。私は空気が読める女ですから。助けを求められるであろう雰囲気を読んで一週間前からクローゼットの中で待機していました』
なるほど。最近食材の減りが妙に速かったのはそういう理由な訳ね。
ちょっと看過しちゃいけないような事を聞いた気がするけど、まあいいわ。それは不問にしてあげるから。あの色ボケ悪魔の発言をどうにか全年齢的な意味で凌いで頂戴。
『ふふふ……お安いご用です』
自信と誠実さに満ちた竜宮の使いの笑みの前。幻月は目をとろんとさせて、甘く囁くような声で欲望を駄々漏れにさせている。
「ゆーかちゃんの\衣玖、やっと追い付いた……!/が無残にも\総領娘様!? どうしてここに?/になっちゃった姿。あはは……想像するだけで\えへ。付いて来ちゃった……/になっちゃう。楽しみだわ」
……あれ? 何だか雲行きが怪しく? ちょっとそこな竜宮の使い! あんたが頑張らないと、創想話的に非常に不味い事態に……!
『……ねぇ、いいでしょ衣玖……衣玖が構ってくれないと、私寂しくて死んじゃう』
『総領娘様……やれやれ、そこまで言うなら仕方ありませんね。うふふ……でも覚悟していてくださいよ。失神するまで寝かせませんから』
『あん。衣玖ったらいきなり激しい。でも嬉しいわ……。天子のこと、衣玖の好きなようにして』
……永江衣玖。お前もか!
ハートマークを背景に浮かべ顔を赤らめる天人と、彼女を勢いよくベッドに押し倒した竜宮の使いの姿に、もはやこの空間がショッキングピンクに汚染されるのを防げるのは私しかいない事を悟る。
てか、お前らそのベッドはどこから持ってきた。
「幽香。私たちなら同じ事しても、もっと激しく且つアブノーマルにできるよね。見せつけてあげましょ」
ああもう。ああもう。いい加減黙れよこの色ボケ悪魔!
結局、その後の私に二度寝をするだけの平穏な時間は与えられず、ドタバタの数時間を挟んで、今現在朝食の時間と相成ったわけなのである。
……さて、話を戻しましょうか。
差し当たって私が直面している問題。皿の上にどんと乗っかった元穀物の暗黒物質。
ねえ、我が悪友よ。別にね、難しい事を頼んだつもりはないの。
食パンをトーストして頂戴。私が頼んだのは確かそれだけだったわよね?
「うん」
平然と幻月は答えた。
ついでに、彼女は例の暗黒物質を一口齧る。コンクリートを砕くような、とても食品が発生源のそれとは思えないような酷い音を立て、暗黒物質が食いちぎられる。
ガリガリと咀嚼し、ごくりと嚥下してから、彼女はとんでもなく渋い顔をこちらに見せつけてくる。
「ないわー。うん、これはない。うちの天井裏に棲んでる鼠だって、もうちょっといい物食べてるわよ」
そんな彼女の言葉を、私は殆ど呆れているような表情で聞いていたのだと思う。勿論自分の分の暗黒物質は皿の上で放置されたままだ。
ぐちぐちと文句を零しながらも、真っ黒いあの物質を幻月は順調に歯で削り取っていっている。
……悪友よ、貴方の顎の丈夫さは良く分かったから。
貴方がトースターの前にいた僅か数分の間で、ライ麦がブラックカーボンへ華麗な変貌を遂げてしまったその経緯についての詳細な説明を可及的速やかに行う事を要求するものだわ。
「うん? それはそれは丁寧に食パンを放り込んだのよ。しかもたっぷり十秒も待つ事をした。
なのにこんがりになってくれないから、あ、このトースターぶっ壊れてるんだなぁって。てかレーザーで焼いちゃえば手っ取り早いよねって発想になっても仕方ないよね」
「仕方なくねえよ」
……ぶっ壊れてるのはお前の頭だ。
幻月が親指が指し示した先で、かつてトースターであったはずの、半分融解してすっかり変形してしまった金属塊が転がっている。
ああ、また河童に言って新調してもらわないと……。
飛行機能も自爆装置も付いていない、ただパンが焼けるだけのトースターを河童の技師に作らせる労力を想像すると頭が痛くなった。
げふぅと、げっぷを洩らし、お腹をぽんぽんと叩いている幻月の皿は空っぽになっている。どうやらあの暗黒物質を平らげてしまったらしい。
私は溜息をついて、自分の分の暗黒物質を彼女の皿に乗せてやった。そしたら彼女はまた例の破砕音を響かせて、食事を再開する。
私は胡乱な眼で見ていた。
「てゆーかさぁ……」
「ん、自分の名前とかけたダジャレ?」
「違うわよ……ねえ、幻月。そもそも、なんであんたここにいるの?」
さも当然のように居座って、さも当然のように朝食を要求してきた彼女だけど、彼女は決して家なしという訳ではない。
というか、立派な屋敷に住んでいる。
そこで彼女は食っちゃ寝食っちゃ寝の自堕落な生活をしているのが大体だ。
まさか遊びに来たという事もあるまい。こんな早朝、いつもの彼女なら二度寝の真っ最中なのだから。
「あー、そういや幽香は知らないんだねぇ」
今更思い出したような顔をして、幻月はポケットをごそごそやりだす。中から取り出された一枚の紙切れ。
中央に、無駄に丁寧な字で書かれた一行を読み上げてみる。
『うぐ~。姉さんのバカァ!!』
……何これ?
「いやさぁ。昨日髪の毛ちょっと切ったのよ夢月。それからかったのが悪かったと思うんだけど、あの子、これ残してどっか行っちゃって。
だから、朝ご飯食べにここまで遥々きたの」
「あいつは結構そういうとこ繊細なんだから、あんたも分かってるだろうに。てか、朝食くらい自分で作ろうって発想は?」
「ご飯とか夢月が作ってくれるものでしょ。まさか私はそんな事しないよ。
なぁに、お腹が空いたら人様の好意に甘えればいいのだわ。最初は難しい顔をしてても誠実に頼み込めば誰だって喜んで一番の御馳走をしてくれる。
でも幽香は、私が殆ど何も言わないのにご飯用意してくれたから、そういうとこ大好き」
その鋭い爪先を哀れな被害者の首筋につぷつぷ沈ませていく事を、誠実な嘆願だとか悪びれる事もなくのたまえるのがこいつだ。
存在が天災みたいなものだと私は思ってる。
言っている事は明らかにおかしいけれど、まともに言葉の応報をする気にはなれない。無駄だと分かっているから。
こいつ相手には、十分な諦めを以って接するのが一番いい。
しかし、この超弩級の問題児の面倒を見ているのが、あの書き置きを残した夢月という女だ。
彼女はこいつの双子の妹。
冷酷なあたりは悪魔らしいのだと思う。でも彼女のおかげで、世の中の不慮の事故にあう人はだいぶ少なくなっているはず。
彼女は妹であると同時に幻月の専属メイドであり、幻月を自分の世界に引き籠らせる楔だ。
保護者と言ってもいいのかもしれない。まあ、その心労はちょっと想像もできないけれれど。
『幽香、なんかそっちの世界には凄く腕のいい薬師がいるって話じゃない。今度帰って来る時お土産には胃薬お願い』
胃薬の事を、夢月は戦友と呼んでいた。
姉に比べて些かマトモに生まれてしまった彼女の胃袋に平穏が訪れる日は、きっと永遠にないのだと思う。
図らずも姉の尻拭い担当ポジションに収まってしまった彼女は、その実とても優秀なメイドだ。
掃除洗濯炊事部下の折檻その全てを完璧にこなしつつ、歩く先にバナナの皮を置いてやれば芸術的なお約束転倒を見せてくれる空気の読める女。
実に完璧。パーフェクトにしてエクセレント。
嫌味にならない程度を良くわきまえつつ、ドジっ娘メイドの要素を振り撒くその様は正にメイドの鑑。
紅くてちっちゃいのの貧乳青メイドや、紅くてたくましいののホルスタイン赤メイドなんか勝負にもならない。
美しく体をくの字に曲げたまま、受身を取ることもせず後頭部より涙目で落下する、そんな額縁に収めて拝みたいレベルの転倒が奴らにできるはず無いのだから。
彼女は自分自身を趣味の延長で、純正のメイドじゃないとか言ってるけど、私に言わせれば知ってる中で一番メイドらしいメイドよ。
さて、そういった彼女の情報を頭に入れて、もう一度手紙を読み返してみましょう。
『うぐ~。姉さんのバカァ!!』
……うむ。良くない。とても良くない。パスタをアルデンテまで茹でて、その時初めて明太子とマヨネーズが無いのに気付くよりも良くないわ。
まずこの『ァ』が良くない。涙目の表情と、一言発した後、相手の反応も待たずに背中を向けてだーっと走り去る様子が目に見えるようじゃない。
そして『うぐ~』。これをわざわざ文面に入れてるってのがとても良くない。そりゃあいつの口癖だって事は知ってるけど、文字として残すのはどうかと思うわ。
似たようなものに、ムキューとかミョンとかウニュとか色々あるらしいけど、私に言わせればナンセンス極まりないわね。
宜しい事。あざとすぎるのよ。
夢月。媚びたり狙ったりはあんたのキャラじゃないでしょうが。
無理にキャラを変えるのは賢明じゃあないわ。
「……幾ら頑張ろうが、どうせ知名度は低いままなんだし」
「ん? 幽香何か言った?」
「別に」
悪友よ。多分読者の3割くらいは、貴方の事も未だオリキャラとかクロスとかそんなのだと思ってるわよ。
ざまあみろ。
花映塚で返り咲くまでの長く厳しい道のりを思い出し私は感慨深く笑んだ。
あの時の悪霊の悔しそうな顔ときたら……思い浮かべるだけで……プッ……ププッ!
「思い出し笑い? 幽香ちょっと気持ち悪いかも」
……いけないいけない。愉快すぎて思わずらしくない表情をみせてしまった。
表情をちょっと締まりのあるものにして、私は幻月の方を見る。いつの間にか彼女は二つ目の暗黒物質をすっかり平らげていた。
「で、あんたがここにいる理由は分かったとして……これからどうするつもり?」
「どうするって、夢月が機嫌直して帰ってきてくれるまで、しばらく厄介になるつもりだけど」
「まじで?」
「割かしまじで」
「割かし迷惑かも」
「いいじゃん。友達でしょ?」
はぁと、私はもう一つ溜息をついた。
こいつが居座りたいと言うのなら、それをどうにかする手段は残念ながら私にはない。
こっちの主張を聞くような奴じゃないし、力で訴えたなら、こいつと私の闘争の規模と破壊力。太陽の畑は、きっとペンペン草一本生えない荒野へと姿を変えてしまうだろう。
「……非常に仕方なくはあるけど、泊めるくらいはしてあげるわ。ただし大人しくしてること」
「わーい。ゆーかちゃん優しいー。大好き。大丈夫大丈夫、大人しくしとくから信用してくれていいよ」
あんたの信用していい発言ほど信用できないものはないんだけどなぁ……。
まあ、そんな事考えても今更かと、私は食器の片付けを始める。
青空には相変わらず雲がない。暑い暑い一日になりそうだと、そんな事を思った。
◆ ◆ ◆
「……で、やっぱついてくるの?」
「幻想郷も久しぶりだからねぇ。幽香がお出かけするって言うならそりゃついていくよ」
ちょっと家を空けるからと、うっかり言ってしまったのが不味かった。
せっかく幻月は、ソファーに寝そべって小説本を手にした怠惰モードでいたというのに。
これから私がしようとしている事は、最上級のトラブルメーカーであるこいつにはあんまり見られたくないそれで。
厄介な事にならなきゃいいけどなぁと、小さく一人言を零しながら私は玄関の扉を開けたのだった。
目的地は太陽の畑の一角。玄関より歩いて十分程の距離。
その空間は茨の格子で囲まれていた。棘は鋭く硬質であり、安易に触れれば、衣服を裂くだけでなく肉まで抉る。
そんな凶悪な茨に守られるのは、緑の茎の上がぽっこりと卵状の塊になっている、少し滑稽な植物の株たち。こぢんまりした。ケシの畑。
パチンと指を鳴らす。茨がそれに応え、格子に人一人通れる程度の隙間が空く。そこから私達は畑の中に入る。
後の幻月は予想通りニヤニヤしてる。絶対よからぬ事を考えている。
ああ、だからこいつには見せたくなかったのよ。
「ダメ。ゼッタイ?」
「触るのも、邪魔するのもね。今から仕事なのよ」
「幽香。私は悲しいわ。こんな物に手を出すなんて。しかも、お仕事って事は売人までやってるのね。
ごめんなさい幽香。昔から貴方はミーハーなところがあって、カッコいいとか思い込んだら形振り構わない事は知っていたのに。
ちょっと前もお顔を真っ黒に塗りたくって、馬鹿みたいに分厚いサンダルを履いて、やたらと語尾が伸びる奇妙な言語を操っていたわね」
「誰がヤマンバだコラ」
殊勝な顔して人の過去勝手に捏造するな。
「貴方がおかしなサブカルチャーに嵌る前に、私は友として救いの手を差し伸べるべきだった。後悔しているわ。
きっとアメリカンインディアンの渋いおじさまが烏羽玉サボテン(ペヨーテ)噛んでる写真でも見て、薬物カッコイイと勘違いしてしまったのね。
でも聞いて幽香。お薬をやっていいのは芸術家と哲学者と犯罪者だけよ。
ああ、幽香。絵が絶望的にへたっぴで、サルトルの分厚い原書に鈍器以上の価値を見出せない貴方を犯罪者にしたくない。
アンフェタミンやメタンフェタミンの誘惑は甘美だけど、貴方を本当の意味で幸せにしたりしないの。
でも私は信じてる。幽香は強い。お薬なんかに頼らなくても自分の足で立てるはずだわ」
そしてジャンキー扱い。
どの口がそんな事言ってるのかしら。サブカルカッコイイとか勘違いしてるのはあんたの方でしょ。
いつだったか全身にボディーピアス入れて鏡の前でニヤニヤしてたのを私が知らないとでも。あの時はドン引きしたわよ。
塞ごうと思えば穴はすぐ塞がるし、問題ない? いやそんな問題じゃないから。
ってか、さりげなく株を抜こうとするな! 厳重に管理してるの!
人里で阿片中毒者が出た日には、私は霊夢にズタボロに滅殺されるんだから! ちょっとは私を気遣え!
性格の突飛さが過ぎる悪友を羽交い絞めにする。
「……ちょべりばー」
不満げに幻月が呟いた。
だから女子高生はやめろって……。
きっとこいつの頭は、わざわざ外から注入しなくても脳内麻薬が年中駄々漏れなんだろうなぁ。
「邪魔しない。勘違いもしない。これは真っ当な商売よ。とある筋からの依頼でね。
でないと、こんな其処ら中を敵に回しそうな物をわざわざ栽培したりはしないわ」
ケシより産出される阿片は、最高にして最悪のドラッグと評されるヘロインの原料であり、それ自体も強力な麻薬として知られる。
かつて大陸で多くの廃人を生み出し、戦争の原因にまでなった悪魔の薬物。世間一般の評価はそれだ。
大体正しいと思うけど、しかし、悪い面ばかりでもない。毒と薬はコインの裏表。
阿片は鎮痛剤モルヒネの原料でもあるのだ。
末期癌患者が感じる痛み苦しみというのは想像を絶するという。それを緩和するのにモルヒネが投与される。
私は、永遠亭より原料供給の仕事を請け負った。
私が生阿片を集めて持って行くと、向こうでモルヒネに精製されるという算段だ。
花の一斉開花の異変で知り合った兎がこの依頼を携えてきた時には正直驚いたものだけど、確かにケシという植物をもっとも上手く扱えるのは私だろう。
永遠亭の好奇心旺盛な兎たちに栽培を任せればどんな悲惨な事になるか目に見えている。阿片禍な診療所なんて冗談にもならない。
暇なら持てあましていたから、私は二つ返事で了承した。
茎の上にできる卵状の塊は、ケシの果実。通称芥子坊主。傷をつけると乳白色の液が染み出してくる。これがいわゆる生阿片だ。
しばらく放っておくとそれは凝固する。
用意したブリキの缶の中に、へらでこそげ落とした生阿片を入れつつ、私は依頼の大元の顔を思い浮かべてみた。
八意永琳。それほど親しい仲ではない。あまり言葉を交わした事もない。
第一印象は、何とも胸糞の悪い笑みを浮かべる女。それだった。
ぱっと見が満面の笑みであっても、きっと心の中はいつも冷めているのだろう。諦観が滲み出る、薄っぺらい笑顔。
聞いたところによると彼女は永遠に老いる事も死ぬ事もないのだという。道理。それで精神が削られないはずがない。
深く詮索するつもりはないし、積極的に関わりたいとも思わない。ただ、ちょっとだけ可哀想だと思う。
これを本人に言ったら、多分例の薄っぺらい笑顔を返されるのだろうけど。
永遠亭の主とは数度しか会った事がないが、その彼女と比べると八意永琳は、器用だが、真面目さが過ぎるのだと思う。
彼女の持つ医療技術は不可能を可能にするもので。如何なる病魔も身体欠損も挽回できるものだ。もしかしたら死体を蘇らせるなんて芸当もできるのかもしれない。
しかし、診療所の彼女が万能であるように振舞わないのは、結局彼女の真面目さに起因しているのだろう。
モルヒネはあくまで痛み止めで根本的な解決にはならない。しかし、病の大元を断てる筈の彼女がこれを欲するのは、そこまでの医療を提供する気がないからだ。
八意永琳は人は死ぬものだという事に拘っているように見える。医療のレベルに明確な線を引いているのだ。
そんな事を考えてるうちに、いつの間にかブリキ缶の中は生阿片で一杯になっていた。丁寧に蓋をして、すっと立ち上がる。
永遠亭までは結構距離があるけれど、まあそんな急ぐ仕事でもない。ゆっくり歩いていけばいいだろう。
着くのは昼過ぎになるだろうから、ついでに昼食をたかってもいい。幻月がお腹すいたとぶーぶー言い出す頃だろうし。
「幽香とお出かけなんて、何年ぶりかしら。楽しみ」
喜色満面な悪友を引き連れ、私は目的地へ向かって足を進め始めた。
蒼穹に蝉の鳴き声。鮮烈な日差し。この上なく夏らしい、八月の午前の事だった。
◆ ◆ ◆
私達が人里に到着したのは、丁度正午の鐘が打ち鳴らされたくらいの時分だった。
特別用がある訳じゃないけれど、どうせ永遠亭への通り道だ。少しくらい寄り道しても問題はないだろう。
多くの商店が立ち並ぶ大通りは、今日も多くの人々が行き交い、活気に満ちている。
「へー、この前見た時と比べて、だいぶ雰囲気変わった?
昔は、里に入ろうとしたら、それこそ殺すような視線で睨まれたものだけど」
少し驚いたように幻月が言った。
「まあ、ここ何十年かで随分と緩くなったからねぇ。人間たちも、私達も」
「ふーん」
悪名高いフラワーマスターとあたまのおかしい悪魔。
私達がそれである事は何も変化していないと思うのだけど、そんな私達を見ても、人々は表情を歪ませる事をしない。
本当に時代は変わったと思う。
風車片手にキャッキャと笑いながら通りを駈けてゆく子供たち。
いらっしゃい! と威勢のいい呼び声を響かせている八百屋の店主。
甘味を
売る店の前には人だかり。軒先には『かき氷始めました』の看板。
日陰でかき氷をしゃりしゃりやってる人々の中には、人間以外もいくつか混じっていて。しかし、そんな彼らも浮かべている表情は冷たい触感に頬を緩ませる、人間のそれと同じで。
どこまでも、どこまでも平穏な、今の時代の人里だ。
幻月はふむふむと頷きながら、立ち並ぶ店を眺めている。
しばらくぶらぶらと通りを歩いていると、たまに興味深そうな顔を彼女はする。
基本自分の世界に引き籠っているのが彼女だから、物珍しい物もあるのかもしれない。
どうせこいつが欲しがるものなんか、違法すれすれの怪しげな薬とかそんなのに決まってるから、買い物に付き合ってやる気はないのだけれど、まあでも、甘味の一つくらいなら後で奢ってあげてもいいのかもしれない。
そんな事を考えていると、ふと横の方から聞いた事のある声。
「あれ? 幽香さんじゃないですか?」
彼女の敬語は割かし軽い。計算高く狡猾で、その実高慢な生物なのが彼女だし、内心誰も敬ってなんかいないんだろうなぁというのは、常々私が思っている事だ。
肩までの黒髪に快活な瞳。覗く白い歯。
射命丸文。
「随分とお久しぶりな気がしますねぇ。ん? この前向日葵畑の事で取材に訪れたばかりだから、そうでもないのかな? まあ、いいや。
ところで幽香さん、お隣の彼女はご友人ですか?」
「……古い友人よ」
「ほう……」
表情を興味で一杯にして文は幻月の方を向いている。
「初めまして。私の名前は射命丸文。鴉天狗の新聞記者です。どうかお見知り置きを」
そして、芝居がかったまでの大仰な所作で頭を下げ、幻月に自己紹介を始める。
「あらあら。これはご丁寧に。私は幻月。夢幻世界の悪魔さん。
ねえ天狗さん。貴方は幽香のお友達なのかしら?」
「勿論です。彼女とは時折焼き肉を奢ってもらう程の仲なのですよ。実は今晩もそういう約束をしていたのです。
よろしければ幻月さんも一緒にいかがです? 幽香さんの懐は最近とても暖かいという話なので」
「よろこんでご同伴に預かりますわ。ああでも良かった。幽香って知っての通り、性格がとっても悪いでしょ。
こっちで上手くやっていけてるか、ずっと心配していたのよ」
「心配なんて、まったく必要ありません。幽香さんは、皆からとっても愛されてますから」
ぺらぺらと、本当によく舌が回る奴だと思う。
ぱしゃりと、ツーショットを撮ったりして、いつの間にか意気投合してる文と幻月を私は呆れたような目で見ていた。
まあ、とりあえずさ……
「ねえ文。私はそんな約束した覚えないのだけど」
「そこは空気読んで奢ってくれる事を期待したのですが……まあ仕方ないですね。
ところで幽香さん達はどうして人里に?」
……うわ、あっさり流された。
「えーと何だっけ、えーえんてい? なんか幽香がそこに用があるとかで、二人でお出かけなの」
「ふむふむ、なるほど」
「天狗さんはお仕事中かしら? 取材?」
「ああ、そうそう。仕事。それで話しかけたんですよ。ささ、ちょっと付いてきてもらっていいですか?」
どうせ碌な事じゃないんだろうなぁと思いつつも、文に手を引かれた幻月がそれはそれは楽しそうに付いていったから、私も仕方なく後を追いかける。
それは、角を一つ曲がった少し先にあった。木材の香りがまだ残る、真新しい家屋。
何これと、疑問が浮かぶよりも早く、文の朗々として弁舌が高らかに響き渡った。
「じゃーん。この度私達、(株)八雲産業が提案しますは、この新築ピッカピッカのお家なのです。
設計は天才数学者にして一級建築士の資格を持つ才媛八雲藍。
シンプルながらも黄金比な数学的美しさを感じさせる緻密な室内構成に、仄かに香る女性的な柔らかさ。
勿論、シックハウス対策は万全ですから小さなお子様がいても大丈夫。
加えて、革新的な耐震技術によって、天人がうっかり要石を抜いてしまっても安心。余裕で震度7に耐えます。
この素晴らしい住居を、先着の一名様にお譲りしようというお話なのです。
さあ、幽香さん、買うなら今ですよ? これだけの物件今後10年はお目にかかれないでしょうから。
ええ、ご心配なく。最高にハイソでイケテルこの物件ですが、決して値段が法外という事はありませんから。
ローンだって勿論組めます。ユカリファイナンスは良心的な消費者金融ですから、グレーゾーンな金利を要求して、後々弁護士に利益をごっそり持って行かれるような間抜けな事はしません。もっと上手い方法を使いますよ」
「八雲産業?」
「ええ、(株)八雲産業です」
「紫の差し金?」
「ええ」
まあ紫のやる事、わざわざ突っ込むのもね……。
文が自信満々に紹介したその物件をじっと見てみる。確かにすっきりとセンスのいい建物ではあった。
式の方の設計なら、信用してもいいのだろう。主の設計だったなら、もっと悪趣味な造形になってたのは間違いないし、とりあえず欠陥住宅の線を疑うけれど。
……というか、さっき、何気に看過できないような事実を聞いた気がする。
八雲紫が変わった事をやりだすのは、もう今更だから、そこに驚きはしない。
しかし、射命丸文という天狗の、山への帰属意識の強さなら知っていたから、そんな彼女が“私達”と、天狗社会以外を指して言った事に少しばかりの疑問を私は抱いたわけだ。
「ねえ、文。あんた天狗辞めて、紫のところの式にでもなったのかしら」
「アルバイトというか、派遣というか、手伝いというか、暇つぶしというか、まあそんなのです。
なんか面白そうだから、協力してもいいかなぁって。独占取材権とかも貰っちゃいましたし」
「案外軽いのね、あんたの組織って」
「皆が皆、酷く誤解してるんですよ。天狗社会は殆ど恐怖的なまでに厳格な規律に縛られた縦社会だって。
まあ多少はそういうところもあるのは否定しませんけど……でも、私達天狗はいわば好きで群れているんです。
こういうと多少語弊はありますが、私達が組織やってるのは結局一種の趣味なわけですね。
だってそうでしょ? 私達は別に群れないと生きていけないような儚くか弱い存在じゃないですから。
ただですよ、ただいまって言うと、お帰りって返してくれる誰かがいると言うのは、とても幸せな事。
私達は言うなれば殆ど家族みたいなものです。そして父親役の天魔様とか兄役の大天狗様は、息子娘、妹弟にベタベタ。超甘です。
娘が一人ふらりと放浪して妙な事始めたところで、『そうかそうか頑張ってきなさい』の一言ですから。咎めるような身内は誰一人としていないって事ですね」
「……とりあえず、妙な事してるって自覚はある事は分かった」
「まあ、紫さんのする事ですから。そりゃですね……」
「しかし、その妙な事に付き合ってあげる気は、残念だけど私にはないかな。言っとくけど買わないわよ絶対」
「まあまあ、少しの時間でいいので、見ていってくださいよ。
なんだかさっき、向こうで騒ぎがあってですね。そのせいで人間のお客さんあんまり来てくれないんですよ……」
「……騒ぎって?」
珍しいと思った。
ここ十数年ほどの人里は、私達妖怪が牙を無闇に見せびらかす事をしなくなった事もあって、平和ボケてるんじゃないかってくらいの暢気な空気が流れているのが常だったから。
「ちんけな物盗りですよ。ただ盗みに入られた家が、人里じゃ知られた有力者のそれだったから結構大きな騒ぎになってます。
犯人がまた間抜けでしてね。何を思ったかこんな白昼堂々の犯行。そりゃ現行犯で見つかりますよね。
ただ逃げ足だけは速かったらしくて、今はその家と繋がりがある人たちが徒党を組んで、人狩りの真っ最中なわけです」
なるほどと、ちらりと大通りの方を一瞥すれば、槍やら火縄銃やらを携えた若者数人が難しい顔をして通り過ぎて行くのが見えた。
「あんたは取材いかなくていいの? 事件でしょ?」
「正直あんまり興味ないかなって。
これが魔理沙さんあたりが関わってる事件だったなら、カメラと文花帖を手に最高速で駈けつける事もやぶさかでないのですが。そうでないなら、所詮人間の詰まらない諍いですよ。
あんなの記事にしても誰も面白がってくれないでしょうし。それならこうやって、幽香さんの素晴らしき新居(予定)の解説でもしてた方が、後々いい記事が書けるというものです」
「買わないってだから。てか報道に必要なのは、面白いとか面白くないとかじゃなくて、事実を如何に正確に伝えるかってのが本来だと思うのだけど。あんたの姿勢ってマスコミとして正直どうなの?」
「んー」と、文はペンの端を顎にくっつけるようにして、あんまり深刻そうな表情もせず思案をしていた。
そして、いつもの軽い口調で答える。
「……ま、これもぶっちゃけ趣味ですから」
ああ、そうか。
その答えを聞いて、私は思い出す。
普段のお気楽さ軽薄さがあんまりにも目立つから、ついつい忘れていたけど。こいつだって千年を超える時を生きてきた、大妖怪の一人だった。
そのにやけ面にあって、しかし瞳だけは酷く冷めていたのを、この時私は確かに見たのだから。
彼女のその紅い瞳に映る世界はどんなものか、想像はできる。そしてそれは多分あんまり違った想像ではないと思う。
私たちみたいに長生きしてしまった妖怪は知っているんだ。
世界なんて、実は大したものじゃなかった。何百年かあれば大体すべてを分かってしまえる程度のそれだった。
だから私達は常に諦観しているのだ。そして仮面をかぶる。趣味としてでも、生きる事を続けるために。
ただ、莫大な諦観の中にあって、文は未だ好奇心も感情も失ってはいない。それは殆ど枯れてしまった私からすれば、少しばかり羨ましくも思えてしまって……。
「まあまあまあ。ともかく見てみて下さいよ。
匠の技って言うんですか? そういうのが満載なんですから」
影が差していたらしい私の表情に気付いたのだろう。
必要以上に明るい口調で、文は私の思考を別の所に向けようとしてくる。
こういう所、本当に要領がいいと思った。
しかし、そんな彼女の笑顔が、この時ばかりは好ましくも感じてしまって。
話くらいは聞いてもいいかなと思ってしまったのは、だからなのだろう。
「へー何だかよく分からないけど、すごいんだねぇ」
何だか悪友は結構乗り気みたいだし、なら、今日くらいはまんまと文の話術に乗せられてやってもいい。
さあ、説明を聞きましょうか?
「ありがとうございます。では不肖ながらわたくし射命丸文。この物件の解説をさせていただきたいと思います」
にこにことスマイルを浮かべ、文は嬉しそうに語りだす。
「さて、いくつかの画期的な機能がこの物件にはあるのですが、その中でも目玉となる機能をまず紹介しましょう。
さあ、幽香さん、幻月さん。あそこをご覧ください」
文が指し示した先。
この建物は、湿気対策なのだろうか、床下が相当に高く作ってある。
だから当然玄関の位置も高くて、そこへ通じる階段が設置されていた。高さは私の身長を少し低くしたくらい。
大理石のタイルが張られたそれの側面には、扉が一つ備え付けられている。
なるほど、多分階段の下は空洞になっていて、そこを収納スペースとして有効活用できるという設計なのだろう。
……しかし、それだけじゃ、画期的って言うほど斬新な試みでもないと思うのだけど?
「さあ、その扉を開けてみてください。きっとびっくりしますよ」
文に導かれるまま。私はノブに手をかける。
ふむ……もしかしたら、この中には、私の想像も及ばないような、すごい装置があったりするのかも?
若干の期待を込めて、ドアを開く。
そこにあったのは――。
「お初にお目にかかります主殿。拙者犬走椛と申す忍で候にんにん。
拙者がいれば、主殿の命を狙う狼藉者など、鎧袖一触に蹴散らして候にんにん。
……あ、この喋り方結構疲れるんで、普通の喋り方していいですか?」
「……え、ええ」
……にんにん?
余計な出っ張りのない、物置用に設計されているらしい階段の下の空間。
そこで彼女は、肩膝をつき、傅いていた。
小柄な体つきに、銀の髪。名前は犬走椛とか言ったっけ?
ちゃんとした面識はこれが初めてだけど、確か彼女は文の後輩の白狼天狗だった。
いや、しかし、これはどういう状況……。
「ねぇ……あんたは一体ここで何やってるのよ?」
「何って……見ての通り忍者ですよ」
まるでそれが当然であるが如く椛はそう答えた。
「に……にんじゃ?」
確かに、今の彼女が着ている服は、黒ずくめで、頭巾とかも被ってて、それっぽい格好ではあるけれど……。
「信用ならないと言うなら、忍術でも使ってみます? 痛みを感じたと思ったら、はらわたがぱっくり裂けてる術とか、超得意ですよ私?」
……いや、それはただの辻斬り。忍術違う。
背負った刀に手を伸ばしてかちゃかちゃ言わせながら、椛は何故か自慢げな顔をしていた。
正直状況についていけなくて、少しばかり混乱しちゃってる私に、文が畳みかけるように口を開く。
「住宅業界に新風を巻き起こす新発想。その名も忍者を収納できる階段!
これさえあれば、怪しげな訪問販売も、しつこい新聞勧誘(文々。新聞除く)も、自慢のチタン合金製ニンジャブレードで一刀両断。
安心快適な生活を保障してくれる、革新的な機能なのです。
今なら、忍者派遣料が三カ月半額と、忍者のコスチュームカラーを選べるサービス付き。
デフォルトのブラックに加え、カーマイン。スカイブルー。ビリジアン。ショッキングピンクの計五色。
さあ、幽香さん。契約するなら今です。そして外国人のお友達に『俺の家には忍者がいるんだぜーすげぇだろ。HAHAHA』と自慢しましょう!」
え、えー……?
状況を頭の中で整理するのに要した十数秒を挟んで、私が出した結論。
うん。ちょっと革新的過ぎて、幽香お姉さん付いていけないかな、これ。
別に外国人の友人とかいないし……忍者戦隊作って喜ぶような趣味もないし……。
「忍者ですって! 素晴らしいわ! それこそ私の求めていたものよ!」
えっ……? あれ、幻月?
どうしてあんたは、そんなに目をキラキラさせてるのかな? ちょっと私には分からないなー。
「ねぇ幽香。是非契約しましょう。それでトムに電話して『ワォ、リアルニンジャ? そいつは年がら年中オレンジのジャージを着ていて、語尾に“DATTEBAYO”って付けるのかい? アーハン?』
『ノンノン。本物のニンジャは体にナインテールなフォックスを宿したりはしていないの。でも主の言う事に忠実だから命令すればいつでもハラキリショーを見せてくれるわ』
『ヒュー。そいつはクールだぜ。今度のパーティーの時、是非とも実物を拝ませてもらいたいものだぜベイベー』って会話をしたい!」
とりあえず、落ち着いて幻月。
あんたの狂った価値観には今更何も言わないし。トムって一体誰ってのも聞かないであげるから。だからお願いだから落ち着いて。
「え、トムを知らないの? カリフォルニア州サクラメント出身のアナーキストにして、反政府団体“黒い独立記念日”の創始者のトムよ。
この前数年ぶりに人間界に顔出したら、なんか刑務所入ってて驚いたわ。何でもホワイトハウス爆破計画がFBIにばれて、禁固200年の判決を受けたとか。まあ、今頃は脱獄の準備が着々と……」
いやだから、言わなくていいからそういうの!
ああ! 分かったから! あんたの特殊な交友関係はよーく分かったから! だからそれ以上詳しく説明しようとしなくていいから!
「契約していただけるなら、ハラキリの一回二回、喜んでやりますが。どうせ死にやしませんし」
いやいや白狼、そういう健気さはいらないから。どうしてそこまで営業熱心になれるのか私には理解できない!
「まあまあ。幽香さん。色々葛藤あるのは分かりますよ。何しろ大きな買い物ですし。
でも、まずは前向きに一歩進む事が何よりも大事だと思うのです。そうすれば結果はあとから必ず付いてきます。
私は思うんです、葛藤するのは、試してみてからでも遅くはないと」
……いや、遅ぇよ。
文。あんたは白々しくも押し売りを美談っぽく脚色しようとするな!
何が何でも買わせようとしてくる、彼女らの言葉に私は必死に抵抗した。
「だから買わないって言ってるでしょ!」
些か感情的に、私ははっきりと拒否の言葉を発する。
これで、こいつらも少し考え直してくれるといいのだけど……。
「文さん……この人ノリ悪いです……」
「うんうん、よしよし、椛はがんばってるのにねぇ」
「椛ちゃんかわいそう……」
……え、なにこの雰囲気。まるで私が悪者みたいじゃない。
ぐいぐいと迫るプレッシャー。周りの全ての視線が、契約書に判を押す事を私に要求していた。
さて……私には二つの選択肢がある。
一つはこのまま、大人しく契約書に印鑑を押す事。
もう一つは……。
私は日傘をぱしゃりと閉じた。
なんだか、最近あちらこちらで舐められてる気がするのよね。
でも、眠れる恐怖の二つ名は伊達じゃないって事、そろそろ再認識してもらってもいいんじゃないかしら?
……もう、逆切れちゃっていいよね?
とりあえず、ぶっといレーザーの一発でもブチ込んでみようとみようかと思ったのだけど。
しかし、図ったようなタイミングで響いたのは、椛の能天気な声だった。
「あ、ちゃーす、社長」
椛が挨拶をした方へ、私は視線を向ける。
それは、ぱっくりと開いた刀傷を彷彿とさせる形状をしていた。
スキマ。空間の裂け目。こんな物を操る事ができるのは、幻想郷広しといえど一人だけだ。
這い出る様にして、彼女が姿を現す。
「お仕事はかどっているかしら?」
「まあ、それなりに順調ですかね」
「大変結構。労働は尊いわ。それに何より楽しい」
ただし、趣味でやってる時に限るけど――そう付け加え、彼女はその胡散臭い笑みを私に向けた。
八雲紫。境界を操る大妖怪にして、根っからの変人。
どうでもいいけど、ラメ入りバイオレットのスーツは流石に趣味が悪いと思う。
「あら幽香じゃない。おひさー」
「久しぶり……。紫、あんたはいつの間に、押し売り屋に転職したのかしら?」
「まあ、人聞きの悪い。(株)八雲産業は独善的な利潤よりも、社会の利益を社是として商いをする会社法人なのですわ」
「……まあいいけどさ」
とりあえず、紫の出現で、文達の興味は私から外れたみたいだし。
「あら、そちらの御嬢さんは初めてお会いした気がしますわ?」
「私も、多分初めてかも?」
紫の視線は幻月の方を向いている。まあ幻想郷の住人じゃないしね、こいつ。紫が知らないのも当然の事だと思う。
「初めまして。わたくしの名前は八雲紫。ここ幻想郷の管理者みたいな事やってますわ。以後よしなに」
「あなたが紫さん? 幽香からお話は伺っていますわ。ああでも、実際見ると話に聞いていたよりずっと魅力的……。
ああ、思わず興奮しちゃいそう……」
幻月の瞳が異常な色を孕んだのを、この時私は見た。悪い発作だ……。
闘争を望む彼女は、本当に形振り構わない。場所とか状況とか、相手の意志とか全部無視して。
壊したいから壊す。そんな単純で子供じみていて迷惑極まりない理由で闘争をふっかける。
ちょっと抑えなさいと、彼女に言おうとして。しかしそれよりも早く、紫の手が隙間に伸びた。
「あらあら御嬢さん。貴方にそういう顔はあんまり似合わないわ。これ差し上げますから、凶悪な牙を収めてくださらない?」
そして取り出したのは、カラフルな包み紙の棒付キャンディー。
「あ、チュッパチャップス?」
「貴方好きそうだなぁってこれ」
「え、くれるの? いいの? ありがとう紫さん。これ大好きなんだけど、人間界行かないと買えないから……。とっても感謝してるわ」
ばりばりと包み紙を剥がし、満面の笑顔で幻月は飴玉を口の中に入れた。それはそれは幸せそうな表情だった。
紫はどうやら、上手く彼女を懐柔してくれたらしい。
「……私からも感謝するわ紫。一回暴走した彼女を大人しくさせるのは、結構大変なのよ」
「でしょうね。他の場所ならともかく、ここ人里のど真ん中でドンパチやられるのは、私としてもちょっと歓迎できないから」
災害を未然に防いだ、達成感溢れる表情を紫はしていた。そしてこちらにそっと伸ばす手。
「何この手?」
「飴玉の代金」
え……?
ちょっとそれ紫、器小さ過ぎない?
「半分以上嫌がらせだけどね。いいじゃない幽香。たまには虐めさせてよ。ほらほらお金ちょうだい。1ドル札」
うわ……、やっぱこいつ性格悪い。
感謝するなんて言ってしまった数十秒前の自分を呪いたい。
とりあえず、こいつの言う通りにするのは癪だから。
「嫌だって。そもそも私は何も頼んでないわ。飴玉を取り出したのはあんたが勝手にやった事じゃない」
そんな風に言ってみた。そしたら紫の顔が不機嫌そうに歪む。こいつうぜぇ……。
「あらあら、宜しいのかしら? あんまり私を困らせると、貴方達に対して敵対的TOBを発動させる事も吝かでなくってよ?」
「は? 敵対的……て、てぃーおーびぃ?」
聞き慣れぬ単語に戸惑う私の肩を、飴玉舐めたままの幻月が叩いた。
「幽香ここはボケるところよ」
「ぼ、ぼけ? て、敵対的T(田吾作)O(オンザ)B(ボーダーオブライフ)!」
脳味噌を振り絞るようにして発した渾身のボケ!
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
……え? ちょ……ちょっとこの沈黙は一体何?
文も椛も紫も、なんだか可哀想なものを見る瞳をしていた。
お、面白い事を言ったつもりはないけど、せめて何かリアクションを……。
酷い寂寥感の中、とんとんともう一回肩を叩かれ振り返ると、何やら神妙な顔の幻月が。
……てか何、その表情、付き合いは長いはずだけどそんな顔初めて見るわよ。
「……幽香。謝って」
え? 何?
もしかして私の渾身のギャグ、謝らないといけない程酷かったの?
「まあ、そりゃ酷かったけど……。てかゆーかちゃん空気読もうよ。ほら、周り見て?
雰囲気すっかりシリアスのそれでしょ? お気楽にギャグ言ってる場合じゃないの。
本気で敵対的TOBとかかけられたら、どうするつもりなのよ」
ちょ、ちょっと状況がよく飲み込めない。
「そういえば幽香には言ってなかったけど……」
幻月がポケットから出した紙片……名刺?
『(株)夢幻館 社長代表取締役 幻月』
……は?
「従業員百人を路頭に迷わせるわけにはいかないの……お願い。大人しく頭を下げて」
「え? なにこれ? 初耳なんだけど。何これ、株式会社って、え……?」
「何してるって……そんなこと聞きたいの? もう、ゆーかちゃんたらおませさんなんだから」
いやいや、そこで顔を赤らめるな。
……というか、冷静になってよくよく考えると、悪いの私じゃないわよね?
悪いのは紫のあくどい根性と、こいつの気まぐれだし。
なら、私が謝るのはおかしいと思う。うん、私は正しい。断固たる態度をとればいい。
「どうしてそんな訳わからないものの為に、私が頭を下げないといけないのよ」
「そっか、仕方ないね」
幻月はまた何やらポケットから紙を取り出す。
「紫さん? これ、太陽の畑の権利書です。
差し上げますから、どうか幽香の非礼、お許しになってくださらない?」
「あらあら。そこまでの誠意を見せられたら私としても応えない訳にはいかないわね。
それに貴方の提案は私にとって渡りに船。
実は太陽の畑を取り潰して、その跡地に一大エンターテイメント施設を建設する計画を進めているところだったのよ。
その名もユカリーランド。夢とマネーを等価交換する画期的なワンダーランドなの。
だから断る要素は何一つ無いわ。貴方の提案を了承しましょう。この件は貴方の心意気に免じて水に流されました」
「さすがは紫さん。器の大きさが違うのね。
それにそんな素晴らしい計画を考え付くなんて、紫さんは賢者なのかしら。
ユカリーランド開園の際には是非手伝わせて欲しいな。風船を配るお姉さんを一度やってみたかったの」
「もちろん大歓迎ですわ。
その時には一日フリーパスチケットを差し上げましょう。
秒速三回転の観覧車と、一千回転のコーヒーカップが貴方を熱烈に歓迎するでしょう」
「あはは。楽しみ」
……何その遠心分離機。
てかユカリーランドってそんな安直なネーミング。かっこいいと思ってるのかしら?
思ってるんでしょうね。これだから年増は。センスが七世代くらい古いのよ。
例えば、こう……えーと、ユカリースト・スタジオ・幻想郷。略してYSGとか。
「幽香もあんまり変わらない気がするなぁ」
うるさい幻月。
って、ああもう。突っ込むのはそこじゃない!
「ちょっとちょっと! 何二人で話進めてるのよ! 大体何よ権利書って? 私は覚えがない。真っ赤な偽物に違いないわ」
「ん? 幽香登記とかからっきしでしょ? まあ私も興味ないけど。でもその辺りは、専門知識豊富な彼女が全部やっておいてくれたわ。後で幽香もお礼言っとくといいと思うな」
その書類のサイン欄で、よく見知った丁寧な筆跡を見つけて……。
「夢月! あいつのせいかぁ!」
「うちの妹は優秀でしょ?」
「いや、返せ! それ返せよ! 一片残さず灰に変えてやるから!」
「きゃー。ゆーかちゃんこわーい。ぼうりょくはんたーい」
少々冷静さを欠いてしまった私が、元に戻るまでには、一刻弱の時間と、相当量のドタバタを要した。
最終的に紫が折れて書類は戻って来たから、まあ良しとはするんだけど。
◆ ◆ ◆
「――それで、あの子とは結構長いのかしら?」
「まあね。あんたよりもずっと長い付き合いだわ。腐れ縁ね」
ドタバタの後の事だ。
幻月は今、椛と一緒になってキャッキャと笑いながらニンジャごっこをしている。文はそんな二人に絡んで楽しそうにしていた。
そして私と紫は、例の物件の庭に誂られたベンチに座っている。ちょうど木陰になる設計。そよ風が静かに木の葉を揺らしていた。
扇子を広げ、口元を隠しながら紫は私と言葉を交わす。話題は幻月の事についてだ。
「会ったのは今日が初めてだけど……今時珍しいタイプだわ。貴方も付き合うの大変でしょうね、何しろあの子は――」
若干の憂いを含んだような声色で紫が言う。
「……紫、そこまでにしておきなさい。貴方が何を言おうとしているかは分かるし。概ね同意だってできる。
でも、あれは私の友人だから。悪く言われるのは愉快じゃないわ」
「あらあら、これは失礼」
「でも、案外あんたとなら馬が合いそうな気もするけどね。嫌われ者同士、上手くやれるんじゃなくて?」
「わたくしお友達は選ぶのですわ。それにあの子はちょっと私とは違うもの」
「眩しいのかしら?」
「少しだけね」
……私は幻月が諦観とか絶望とかに表情を曇らせているのを見た事がない。一度だってだ。
結局彼女は、過去とか未来とかを顧みたりはせず、今が楽しければそれで満足な生物だから。
『そんな生き方、子供と同じじゃない』
何百年前だろう? 私は彼女にそんな事を言った気がする。私の髪がまだ腰ほどまであった頃。諦観なんて感情を孕むずっと昔。
果たして彼女はあの時なんと答えたのだったか? 思い出せない。もしかしたら、例の無邪気な笑みをこちらに向けただけだったのかもしれない。
何にしろ、あれから随分な時が経ったけど、やっぱり彼女は子供のままで、これからもずっと、そのまんまでいるのだろう。
永遠に続く刹那主義。それが幻月という悪魔なんだと思う。
……ああ、確かに眩しいのかもね。私にはそんな生き方、絶対に出来やしないから。
「花」
「……ん?」
少し考え込んでいた私に、紫がそんな事を言ってくる。しかしその単語は割かし脈絡がないようにも思うけれど?
「人を花に例えるあれよ。貴方、たまにやってるでしょ。
聞いてみたいなぁって、彼女を花に例えるなら一体何なのか。貴方の例えは中々に正鵠を射てたりするから、興味があるわ」
「ああ、なるほど。花ってそういうね」
そんなの決まってるじゃないと続けようとして、しかし、それは正面から聞えた明瞭にして生真面目な声によって中断させられる。
「なんだ……またえらく物騒なのが集まっているな」
知性を感じさせる顔立ちに、長く伸ばした髪は銀色に輝く。
上白沢慧音。里の守り役とかをやってる奇特な半獣だ。
「あらあらせんせ。そんな難しい顔してちゃ、生徒に怖がられますよ」
「物騒って……別に人狩りに来た訳じゃないわよ」
「まあ、大人しくしてるなら私も何も言わんさ。お前ら妖怪が金を落としてくれれば、里の経済も健全に回る。それと顔はもう生まれつきだ。今更どうしようとも思わんさ。
さて、隣失礼するぞ。……よっこらしょと」
紫のからかうような声色と、私の棘ある声色。それぞれを軽く受け流し、慧音は私達の隣に腰かけた。
どうでもいいけど、座る時よっこらしょって言うその癖は直した方がいいと思う。実年齢はともかく、見た目はまだまだ乙女のそれなんだからさ。
「最近少し疲れやすくなった気がするよ。私も昔ほど若くはないんだなぁって自覚したりな」
「望むなら完璧なハクタクにしてさしあげてもよろしいですわ。人妖の境界をいじくれば簡単な事。そしたら体が老いるって現象とは大体無縁になれるわよ」
「好意で言ってるんだろうが、遠慮させてもらおう。半分でいる事こそが私の存在意義だろうからな」
頑迷なところが彼女らしいと思った。紫に答えを返した慧音は、手にしていた何かをぽんぽんと私達に放って渡す。
ひんやりとした感触。薄く青色に着色されたガラスの瓶に、小さな泡が浮かんでいて。
「あら? ラムネ?」
「貰い物だがな。一人じゃとても三本も飲み切れんから、お前らがいて丁度良かった」
「うちの連れの分は?」
「あと、この炎天下の中頑張ってる私の社員の分も頂けると嬉しいですわ」
「それはお前らが買ってやれ。きっと喜ぶぞ」
栓になっているビー玉を、ぽんと押し込む。しゅわぁと、炭酸の弾ける快い音。
ごくりと一口飲み込む。喉への痛快な刺激。爽やかな酸味。熱くなっていた体に、染みわたる様だった。
ああ、なんか夏だなぁって。そんな事を実感したりして。しばらくは、ぼけーっとラムネを口にするだけで時間が過ぎて行ったんだっけ。
思い出したのは、瓶の中がすっかり空っぽになってしまった後。
「そういやさ。慧音。あんたこんなとこでまったりしていていいの? なんか事件らしいじゃない」
ドタバタですっかり忘れてたけど、物盗りとかで人里は騒がしいはずだった。
慧音の顔が若干気まずそうなそれに変化する。そして「あー」とか「うー」とかを前置きに、どうも歯切れのよくないまま語り始める。
「私はあくまで相談役だ。頼まれれば円満解決の努力もするが、基本的に人間同士の事は人間に任せるべきなのだろう。……まあ、それにだ」
彼女は遠くを見るような目つきで苦く笑った。
「どんな結末になるかは大体分かるからな。正直それは知らない事にしておきたい。
誰だって愛する者たちの汚れた部分からは目を逸らしたいものだ。
……ふう。……せめてきっちりと体系だった刑法があればと思うのだがな。しかし、それにも色々と難しいところがあるのだよ。
弱さゆえに人間は偉大だが、それだけにしがらみとか暗黙の了解とか、厄介なものもあるわけだ」
慧音の溜息に合わせるようにして、乾いた炸裂音が遠く響いた。
果たして鉛球は標的を捉えただろうか? それは分からない。正直あんまり興味も無かった。
気だるげな昼下がり。銃声の余韻を掻き消した蝉時雨が酷く五月蠅かった。
◆ ◆ ◆
あの後、幻月がニンジャごっこに飽き始める頃合いを見計らって、私は彼女に声をかけた。
そもそもあんまり長居する気はなかった事だし。永遠亭への道のりを再開する。
出発の際には、紫、文、椛と、三人揃って見事な営業スマイルで手を振って送り出してくれた。
慧音の言ってた事に素直に従って、露店で売ってたラムネを奢ってやると、幻月はとても喜んでくれた。
そして今。
午後三時を知らせる鐘が遠く聞える。予定よりは若干遅いけれど、まあ気にするほどでもないだろう。
気温は随分と高いし、日差しもきついけれど、この鬱蒼とした緑が支配する空間では、それらも幾らか和らぐようだった。
迷いの竹林。永遠亭を取り囲む広大な竹林。私達はそこにいた。
「広いねぇ。まだ結構歩くのかしら」
「この竹林の面積はちょっと異常だからね。まだ半分も行ってないわ」
「そっかぁ」
一緒にいる同じ事をやり続けていると、徐々に会話というのは減っていくものなのだと思う。
歩く事に没頭し始めるからだ。
だから交わす言葉は、ぽつりぽつりと、散発的なそれ。
「ところでさぁ、幽香」
「うん」
「鼻、鈍ってる?」
唐突に彼女が言い放ったその台詞。しかし、その意味なら、私は簡単に理解する事ができた。
ええ、勿論、気付いてはいる。敢えて関わる気にならなかっただけ。
鉄の香り。あるいは赤さと生命と、それらが消えゆく際に飛散させる香り。
すなわち血液の香り。
がさりと藪が揺れ、それは転がり出た。
すっかり蒼白になった貧相な顔。ただでさえみずぼらしい衣服は大きく破れ、血液がその大部分を赤土色に汚している。
必死で抱きしめているのは何やら重そうな麻袋。
「ねえ幽香。あれが例の?」
「……そうなんでしょうね」
人里で聞いた物盗りが、彼なのだろう。
地に伏す彼と目が合う。縋るような目つき。
確かに瞳の生気はとても弱々しいのだ。しかし湛えているのはギラギラした、強靭な意志。
銃弾に撃ち抜かれて尚、逃げる事を、生き延びる事を諦めないその執念には驚いてあげてもいいのだけど……。
私は自分の顔付きが不機嫌になったのが分かった。睨みつけるようにしながら、彼に歩み寄る。
鉄の匂いに硝煙のそれが僅かに混じっていた。出血が酷い。腹に大きな穴が空いている。
彼の生命力が例え人並み以上であったとしても、所詮は人間。放って置けば程無くして息絶えるだろう。
それは、まったく以って自然な事。
――しかし、それなのに。
私の不機嫌が大きくなる。あるいは軽く彼の頭を踏みしだく、私の脚力ならそれで十分事足りるというのに。
――まったく、それだというのに。
この土気色の顔した人間は。見た目のままの愚か者は、私の事を真っ直ぐ見つめているのだ。
濁った生気のない瞳で。それでも助けてほしいと私に訴えているのだ。
彼のすぐ側でその憐れな姿を見下ろす私は、苛立ちで思わず舌打ちした。
自分がこんなに不機嫌な理由を私は知っている。
自己嫌悪だ。
……まったく、腑抜けた歳月が長過ぎた。
まさか自分がここまで丸くなってしまっていたなんて。
気付けば私は、ポケットからハンカチを取り出し彼の傷口に当てていた。
小さく彼に声をかける。自分でも不思議なほど感情の篭っていない声色だった。
「……貴方はどうしたいのかしら?
止めを刺して欲しいなら協力しましょう。心臓を傘の先で一突き。それで貴方は全ての苦痛より解き放たれるわ。
しかし貴方は……それともまた別の結末を求めるのかしら」
私が妖怪らしい妖怪であろうとするなら。あくまで恐怖の権化であろうとするなら、話し掛けたりするべきではなかった。
当然の如く彼を無視し、その肉が土に帰る結末を自然とするべきだった。
「あは……どうしたの? 今日の幽香は優しいね」
皮肉るような幻月の声が聞こえる。
優しい? 違うわ。甘いだけよ。
自己嫌悪で腸が煮える音を聞きながら私は再び口を開く。
「例の盗人よね貴方。人里の何とかいう屋敷に忍び込んだとかいう。
私は貴方がそうする事に至った経緯を詳しく尋ねる事はしないわ。どうせ喋れやしないでしょうし。
勿論愚かだとは思う、でも咎めはしない。貴方が抱えるその金とか銀には貴方にとってそれだけの価値があったのだろうし。
ただね。虫が良すぎると思わない?
貴方は人里の住人としての己自身を賭したギャンブルに挑み、そして完膚なきまで敗れたというのに、それでもまだ未来を望むなんて。
この世界は万人の幸福を肯定しない。挽回の至難さならよく分かっているはずなのに」
それでも彼の意志は強固であり。
その傲慢さ愚かさが、しかし余りにも人間らしく……。
ああ、私はどうやら、甘さに抗いきれず、おもねってしまうらしい。
「……そう、なら貴方は見苦しく憐憫を乞う事ね。地べたに這いつくばり同情と嘲笑を勝ち取りなさい。
貴方が報いを受ける価値もない人間だと全ての人が認めるまで。
最下層民の苦しみは時として死をも超越するでしょう。しかしそれでも貴方は望んだ。頑迷なまでに。
ならば私は大妖怪としての気紛れを以って、貴方の苦痛に満ちたこれからの半生に興味を持つ事にしましょう。
……貴方を助命してあげる。永遠亭まで連れて行きましょう」
傷口を押さえていた手を離す。
凝固した大量の血液が彼の体にハンカチを貼り付けていたけど、今は気にする事もないだろう。
ともかく、圧迫により、出血は大体止まった。
私は永遠亭までの到達時間を概算する。妖怪の膂力だし、飛んで移動するのに大人一人の体重が負担になる事はない。
しかし、この竹林で迷わない為に踏破する事になる複雑なルートと、決して速いとは言えない私の飛行速度を鑑みるなら……。
「……厳しいかもね」
およそ一刻。それが算出された所要時間。
痛みで人は死ねる。
苦しみから逃れる為、生からの逃避という極端な選択肢を肉体が選ぶのはその実かなり自然な現象なのだ。
そして彼の弱った体。永遠亭に辿り着くのに必要な一刻の間、彼が意識を保ち続けるのは難しいように思えた。
だから私はブリキ缶の蓋を開けた。尋ねることもしない。何しろ望んだのは彼なのだから。
「これは貴方の一刻の生命を保障する悪魔の宝石だわ。ただし代償として、未来何年かの安楽を担保に取られるかもしれない。
でも、些細な問題よね。もはや苦痛の更なる上塗りに過ぎないのだから」
私は小粒の生阿片を取り出す。そしてレーザーを放つ要領の応用で指先に小さな炎を灯した。
ちりちりと音を立てて乳白色の塊が燃える。もやもやと煙が立ち昇る。
本当は口からの摂取が体に優しいのだけれども、それだと効き目も薄いし、何より彼に塊を嚥下する力なんて残されていない。
だから指先を彼の呼吸器へ近づけた。鼻より吸い込まれる煙。
程なくして、煙の含有するアルカロイドが彼の脳味噌から痛みという感覚を忘れさせるだろう。
彼の表情が少し緩んだのを見て、私はその体を抱き上げた。驚くほどに軽い肉体だった。
……ああ、嫌だ嫌だ。天狗のパパラッチにでも見つかったなら、『風見幽香人間を薬漬けにして拉致する』とかそんな記事を書かれてしまうのかしら。
それとも、あの狡猾な鴉は全て分かった上で、『実は優しい妖怪風見幽香、人間の命を救う』とでも書くのかしら。それは勘弁願いたいわね。
幻月は不思議そうな顔をしていた。
私の行動が、心底理解できないのだろう。
そうだろうと思う。何しろ私にだって理解できていないのだから。
ただ、一つだけ言えるのは、あんたみたいに、どこまでも残虐でいる事ができたあの時代には、私はもう戻れないのかもっていう事……。
ふわりと宙に浮く。
私と幻月に会話はなかった。無言のまま、急ぎ足で空を駈けてゆく。
……しかし、邪魔というのは、こういう急いでいる時に限って入るもの。
それは、とても目立つ紅と白だった。
艶やかな黒髪。右手にはスコップ。
竹林にいくつもある分岐路の一つで、地に足付かない彼女と私達は図ったようなタイミングではち合わせてしまったのだ。
ああ、厄介なのに見つかったと思った。
背負った大きな竹篭を地面に置き、軍手を脱ぎ捨てた紅白衣装の彼女は、さも面倒臭そうにこちらへ目を向ける。
「今日は竹の子掘りに来ただけなんだけど……やれやれ、物騒なもの見ちゃったなぁ。
あんたらは妖怪だし人を襲うなとは言わないけど、私の目の届かない所でそういう事はするべきだったわね。
残念だわ幽香。あんたならその辺よく心得ていると思ってたから」
だるそうな目付きのまま博麗霊夢は、盛大に勘違いをしたまま懐より針を取り出す。
不味いことになった。一見やる気が無さそうに見えるけど、霊夢は淡々と義務を履行するつもりだ。
大人一人背負ったこの状態で弾幕を張るのは正直勘弁願いたいし、なにより時間が無い。
私は霊夢を説得するべく口を開こうとして、しかしその私より先に空気を揺らしたのは、底抜けに明るく、それ故に不気味な我が悪友の声であったのだ。
「残念なのは私の方。久しぶりに人間のお肉が食べられると思ったのに、邪魔されちゃうんだもの。
でも、考えようによってはチャンスなのかしら? 貴方を倒しちゃえば明日もお肉だもんね」
「ちょっと! 幻月、何言っ……」
幻月の突飛な発言を制止しようとした私の口を彼女は手で塞ぐ。そして私の耳元に唇を近づけ、囁いた。
「……一刻を争うんでしょ? なら説明して誤解を解くまでの時間が勿体無いわ。
ここは私が預かってあげるから、幽香は先に行っちゃいなさい」
幻月はにっこり微笑むと、私の口に当てていた手を離した。
「ねえ幽香。私は人間の命なんて何とも思ってないの。それを奪うには太陽が眩しかったからとか、そんな理由にもならない理由ですら不要だと思ってるわ。
でも、幽香がその人を助けたいと思うなら協力はするよ。だって友達だもんね。
私が自分から空気を読んであげる事なんてあんまりないんだから、今日くらいは頼って欲しいな」
私の眉は顰められたまま。
まったく。悪友よ。
格好つけたような事言うなら、その期待で爛々と輝く瞳を隠す努力くらいはしなさい。緩み切って今にも涎が垂れそうな口元もよ。
でもその闘争心が。露骨なまでに剥き出しとなった牙が少し羨ましくも思えて。
何より、彼女がまた私を友と呼んでくれた事が少し嬉しくて……。
「……スマートなやり方じゃないわ。でも一番正しく一番私達らしいやり方だとも思う。
なら幻月、今は頼らせてもらうわ。ただし、間違いは絶対起こさないようにね」
「あは、分かってるって。今の私は最高に空気が読める私なんだよ。
幽香が望むように、上手く立ち振る舞ってみせるわ」
お互いに頷きあい、拳の先をコンと触れ合わせる。何だかんだで信頼はしているのだ。
私はできる限りの速度を以って、永遠亭への道を再び翔け出す。
「あっ! こら待て逃げるな!」
霊夢の声も勿論無視する。
さて、これで私達は彼女に対し、本格的に喧嘩を売ったわけだ。
私は後に目が付いている訳じゃないけど、霊夢が次に取るであろう行動なら予想が付いている。何と言っても彼女はとっても分かりやすい人間だから。
彼女の指と指の間に挟まれた凶悪な太い針、それがそろそろ投擲された頃だろう。
あれ当たると痛いのよね。背中にズブリと音を立ててめり込む感触はちょっと想像したくない。
でも私は避けるような事はしなかった。それは速さが削がれる事でもあるし、そもそも避ける理由なんてないのだ。
さあ、悪友よ。背中は任せたわよ!
「――あはは、痛いなぁ」
後から聞こえた幻月の声色は妙に嬉しそうで、それを聞いた私は針が一本たりともここまで到達しないことを確信したのだった。
「ねえ巫女さん。貴方が注意するべきなのは、幽香でもあの人間でもないわ。
私っていう脅威がすぐ目の前にいるんだよ? ちょっとは身の危険を感じた方がお利口さんだと思うな。
それとも私がどういう存在か良く分からない? ならその曇った眼球に私がメスを入れてあげるよ」
霊夢の針は退魔の処置が施されているから、私とか幻月みたいなのが触れられる様にはできていないのだけれど、そんな事は幻月にとって問題にもならない。
飛来する針をがっちりと掴み取り、握った拳の中で退魔針が肉を焼く痛みを気にすることもなく、無邪気な笑顔を霊夢に見せ付けているに違いないのだ。
背中越しで幻月の悪意に満ちた挑発が始まる。
「若いっていい事ね。瑞々しくて、生気に溢れていて。とっても美味しそう。
ああ、千切れた動脈から直接啜る貴方の血液はどんな味がするのかしら。
ああ、穿り出された貴方のお目目は私の口の中で、どんな風に弾けるのかしら。
楽しみ。とっても楽しみ。
私は貴方に誰も味わったことないような痛みをあげる。
四つ裂きの刑(ウィリアム・ウォレス)や三千刀の凌遅刑(劉瑾)がまだマシに思える苦しみをあげる。
その未成熟な肉体と不相応に達観した精神を、時間をかけて徹底的に蹂躙してあげる。自殺する事も発狂する事も許してあげない。
その綺麗なお顔が苦痛で歪んで、涙でぐちゃぐちゃになるのが見たいの。
体が少しずつ欠損していく絶望に耐え切れなくなって、殺してくれって泣き叫ぶ声を聞きたいの。
代謝がおかしくなって、生きながらにして膿み腐っていく末端の酷い匂いを知りたいの。
お腹に手を差し込んで、少しずつ冷たくなっていく臓物の温度を感じたいの。
そして、最後は唇を貪ってあげる。舌を差し込んで、生命の残滓を残さず味わい尽くすの。あはは。私ったら凄く興奮してる」
あー。そこまで言っちゃうか悪友よ。ドン引きした霊夢の顔が目に浮かぶわ。どうなっても知らないわよ。
「……今時あんたみたいに邪悪さを隠そうともしない妖怪は珍しいわ。いや、悪魔だったっけ? まあどうでもいいや。
私に向かってそんな口叩いた度胸は褒めてあげてもいいけど。きっと後悔するわよ。
ところであんた、昔私と会ったことあるわよね。
あの時はこてんぱんに伸したはずだったけど、全然学習してないってわけ?」
明らかに不機嫌な霊夢の声。ああなった霊夢はとても怖い。本気でずたぼろにするつもりで闘ってくるから。
でも。幻月。あんたの才覚なら、そんな霊夢の武威にも、あっさり膝を折ったりなんて事はないはず。
「あは……後悔かぁ。甘美な響き。その感情はしばらく味わってないしね。
楽しみだわ巫女さん。貴方は私にどんな感情をくれる?」
遠く背中で響き渡る弾幕の炸裂音。
そして、少し遅れて竹林に反響した狂ったような笑い声。喜びを爆発させる幻月の笑い。
それが何だか、凄く楽しそうだなぁとか思っちゃって、ちょっぴり私も笑いを零してみたのだった。
◆ ◆ ◆
「……まあ、悪かったとは思っているわよ」
夕焼けの人里。昼間の例の物件のベンチにぐったりと座りこみ、霊夢がぼそりとそう言った。
巫女服はところどころ破れていて、表情も酷く気だるそうだった。
敗北を喫する事はなかったみたいだけど、やはり本気でテンションの上がった幻月の相手をするのは流石の霊夢でも骨が折れる事だったらしい。
「霊夢のああいう短絡的なところは、ちょっとどうかと思う。でも。誤解を加速させたのは私と幻月だしね。別にあんたを責める気はないわ」
「そりゃどうも……」
ちなみにあの物盗りな人間は、永遠亭で治療を施され、どうにか一命は取り留めたらしい。慧音から聞いた情報によるとだけど。
私は彼を引き渡して、ついでに採取した分の生阿片の報酬を受け取ったら、すぐに帰路に就いたから。
今後の経過を見守る気はなかった。これ以上首を突っ込む気もない。これからの彼の人生は、全てが彼次第だ。
あんまりハッピーな結末は期待できないような気もするけど、まあそれもまた一つの人生だろう。
そういえば、紫が売りに出していたこの物件だけど、どうやら買い手が見つかったらしい。
里の奇特な金持ちの男だ。何でも今日盗みに入られたから、警備を考慮した物件を貴重品の保存庫として欲していたのだとか。
彼は、あの物盗りに入られた屋敷の主だ。そう考えると世の中って因果よねぇとか思ったりして。
紫と文は、満面の営業スマイルを浮かべて、彼にお辞儀をしていた。
「あー、しんどい……」
霊夢はさっきからずっとこの調子だ。人間としては明らかに異常な彼女だけど、肉体その物は特別製でもなんでもない、脆い人間の血と肉と骨だ。
殺す気でやらないと自分が殺られるって激闘だったんだと思う。
幻月の事だし、どうせ弾幕ルールなんか守ってないから。そりゃ消耗もする。
戦闘後の幻月は、ほんとに酷い有り様だった。
目玉は片方無くなってたし、羽ももげてたし、手足だって。とにかく血まみれの抉り傷だらけで、ひたすらずたぼろだった。
……まあ、彼女は悪魔だし、それくらいじゃ死にはしないんだけどさ。
しばらくは大人しく、ぐったりしていた幻月だけど、数時間も経てばすっかり元気を取り戻して、今現在では椛と一緒にサムライごっこの真っ最中らしい。
きゃははと、楽しそうな笑い声が向こうから聞こえて来ていた
「あれは、ほんと元気ねぇ……ああ、これだから人外ってやつは……」
気だるそうに、霊夢が口を開く。
「まあ、幻月は悪魔の中でも相当異端だけどね」
「あ、やっぱそうなんだ。だってあれ、絶対まともじゃないもん。
弾躱さないのよ。全部正面で受けとめて、血まみれになって、体削られて、それでも笑ってる。ケタケタと」
「例えば彼女が初対面の誰かと挨拶をしたとして、“初めまして”に続く言葉が、“ロボトミーを試していい?”であっても私は一向に驚きはしないわ。
そういう性格破綻者。狂った悪魔。世界からのはみだし者だから、自分だけの世界を作った。それが彼女だから。
そんな突飛な彼女と、誰が一体まともに付き合えると言うんでしょうね」
「ふーん。でも幽香は随分仲良さそうにしてたじゃない? ちょっと驚いたかも、私の中じゃ幽香は割とまともな妖怪に分類されるからさ。
ああいうのと、オトモダチ、よくやってるなぁって。結構疑問かも、これ」
「霊夢。あんたは歯に衣着せる事を少しは覚えた方がいいかも」
「あらごめんなさい。でも割と本音よこれ」
「……まあ、凄く理解はできるけどね。あんたが不思議がってるの」
私はそっと手の平を重ね合わせた。そして花を操る程度の能力を発動させる。
創造するのは、彼女の翼にような純白の花びら。可憐な容姿。
手の平の上で勢いよく花開いたそれを、霊夢に見せてみる。
さっきのあんたの疑問、これはその一つの回答だわ。
「この花見て、霊夢、あんたはどう思うかしら?」
数秒の思案を挟んで、霊夢が答える。
「綺麗だと思う。かわいらしいって言った方がより適切かしら。
……でも、どうしてだろ? こんなにかわいいのに、酷く禍々しい感じもする」
博麗の勘は流石といったところか。ぱっと見ただけで、これの本質を看破してしまった。
「霊夢、その感想は正解だわ。学名Papaver somniferum。英名ならOpium poppy。
ソムニフェルム種の一年草。悦楽と退廃を象徴する一輪。幻月を花に例えるなら、これ以外にないわ」
可憐でありながら、まったくの悪徳。それが彼女。
「すなわち彼女はケシの花。可愛らしくも疎まれる悪の華」
この時の私は、もしかしたら苦笑するような顔をしていたのかもしれない。
随分と、昔の事を思い出していた。
私と彼女が初めて出会った頃。
私はまだまだ青さ残る、暴力さえあればなんだってできると思いこんでいた若い妖怪。
彼女は今とまったく変わらない、自分勝手で突飛であたまがおかしい悪魔。
しかし、そもそも、どうして私達は友情なんて感情を共有する事ができたのだっけ?
「……ま、詰まるところ、尊大が過ぎる向日葵も実は寂しかったってことよ。
背が高くて下の方を見る事すらしない、孤高に拘る嫌われ者の仇花。
でも、嫌われ者な癖にそれを自覚しない構ってちゃんなケシの花だけはそんな向日葵の下でも明るく咲いてくれた」
まったく、本当に昔の話だ。
あの時彼女と出会わなければ、今頃私は一体どうしていたのだろう?
ずっと一人ぼっちでいたのかもしれないし、もしくは社交性に満ち溢れた妖怪になっていたのかもしれないし。
ただ一つ言えるのは、彼女と出会い、一緒に歩んできたからこそ、今みたいな私がいるって事で。それはまあ、よかった事なのかな。
……あ、どうしよ。なんだかこの台詞臭いかも。思い返すとだんだん恥ずかしくなってきた……。
「喋りすぎたわ……。霊夢さっき話した事は全部忘れてくれていいからね」
全く、今日の私は少しおかしい。
アヘンには自白剤として使われていた時代もあるという。
ケシの花な彼女と久しぶりに触れ合って、頭がゆるくなってしまったのだろうか。
夕日がそろそろ沈む。山に帰る鳥たちの影が、すぅっと流れて行った。
そろそろ帰って夕食の準備かなぁとか考える。そう言えば昼は何も食べてないし、幻月もお腹空かしてるだろうし。
あいつは子供舌だから、駄々甘いカレーとか、ハンバーグとかが好きだったりする。
材料買って帰るかなぁと、そんな事を考えてると、カツカツと大地を踏みならして近づく足音。
通りのど真ん中をずかずか傍若無人に歩んでくる金髪メイド娘。
流石。その敢えて空気を読まないあたりが清々しいと思う。
どっちかと言うと童顔だし、目尻は垂れ気味だし、おっとりとした顔の作り。
でもその立ち振る舞いは凛としていて、大体同じような顔の姉と、全く違う印象を受ける。
きりっと締まった口元と、力強い目付きのお陰だと思う。
緩みきった姉の、保護者の登場だった。
「おかえり夢月」
「私がいないうちに、なんか姉さんが迷惑かけたみたいね」
「ま、結構楽しかったから、別にいいわよ」
「そう言ってもらえると助かるわ。……ところで姉さんは?」
「あっちで天狗と遊んでる」
「……そう」
私が指し示した先を向き、すっと夢月は息を吸い込んだ。そして。
「姉さん。帰るわよ!」
彼女ら姉妹の間で今まで、何百何千回と繰り返されたのであろう、このやりとり。
途端、きゃははと騒いでいた声がぴたり止まる。
数秒の後に、『また今度遊ぼうねー』とかいう声が聞えて、彼女は姿を現した。とびっきりに無邪気ないつもの笑みを浮かべて。
「夢月おかえりなさい。心配したわ。ああ、そうそう髪型似合ってるよ」
「はいはい。今更ありがとう」
夢月は一つ溜息をつく。
この突飛な姉との付き合い方を一番知っているのが彼女だ。
今日みたいに、溜まりに溜まっちゃった日は爆発だってしちゃうんだろうけど、それでもちゃんと引き取りに来るあたり、ほんと真面目だと思う。
まあ、あんまりしんどかったら相談してくれていいし。私もちょっとくらいなら面倒みるしさ。
「今度は頼らせてもらうわ。ところで幽香、夕食はどうするつもりだった? もしかして、もう準備してたりする?」
「いいえ、これから考えようかなぁって。あ、でも夢月が丁度よく来てくれてよかった。献立考えたり作ったりする手間が省けたわ」
「うちに食べに来るつもりかしら? まあいいけどね。姉さんの面倒見てくれた謝礼の意味を込めて、腕を振るうわ」
「考えれば夢月の料理って、すごい久しぶりかも。期待してるわ」
「ま、過剰な期待は抱かない事ね」
腕組みして、口調はクールで、でも表情は満更でもなかったり。
実際、こいつの腕は確かだから、楽しみにしておいていいだろう。伊達にメイドはしていない。
幻月は『幽香と晩御飯とかすごい久しぶり』とか言ってはしゃいでいる。
そんな幻月に、私はすっと向き直った。表情を、締まりのあるそれにする。これから言うのは、少しばかりの真剣さを内包している台詞だから。
「ねえ幻月? まだ元気は余ってるかしら?」
「ん? もちろん」
「……久しぶりにごっこじゃない闘争をしてみたい。血みどろで知性の欠片も無い殴り合いをしてみたい」
「あは。大歓迎だわ。とっても楽しみ。私は久々に幽香と痛みを共有できるのね」
今日は、私の妖怪としての在り方とか、ちょっと考えちゃった日でもあったから……。
でも、どれだけ諦観しようとも、妖怪である事を、私はやっぱり捨てる気はないらしくて。だから、私は確かめてみたいのかも。
全力のぶつかり合いをすれば、それで解決って簡単な問題でもないって事は、分かっちゃいるけどね。
「なんとなーく。幽香が今考えてる事分かるかな。大丈夫、きっと幽香のそれは杞憂だから。
牙が折れちゃった幽香なんて幽香じゃないけど、でも私は知ってる。
幽香の牙はダイヤモンドよりも硬くて、ヒヒイロカネよりも靱性に富んでいる事を。絶対に折れるはず無いわ。
でも、もし幽香が牙が錆びたと感じていて、心曇らすのなら、私が力になってあげる。
喜んで砥石になるよ。だって友達だもん」
にっこりと笑って、すっごいナチュラルにこいつが言い放った友達とかいう単語が、なんだかとても嬉しく感じられて……。
例えば、これから千年後。私達がまだ生きているとして。
その頃には私はまた今とは随分と違った生き方をしていて、それでもってこいつは今とまったく変わらない無邪気さでいるんだろう。
さて、そんな私達は一体、どんな会話を交わしているのかしらね?
願わくは今日みたいなそれだといいと思っている。
友情は永遠なんて陳腐な事を言うつもりはないけどさ。まあ、とりあえず――
「今後ともよろしくって事で。ね、悪友?」
感動した的なリアクションを期待してたのに、こいつときら『ん?』とか言ってキョトンと首を傾げやがっている。
ああもう……まったくもってこいつは、空気読んでくれない。
ちょっと恥ずかしかったから、私は彼女の後ろに回って、ぎゅっと抱きついてやったのだった。
いつもなら、こいうのしてくるのは彼女の方だけど、たまにはやり返してやってもいいだろう。
お腹をこちょこちょとしてやると、キャハハって、くすぐったそうな、でもどこか楽しそうな笑い声を幻月は高く響かせていた。
私と彼女の、ちょっとだけ特別な平凡な夏の一日の終わり。
私達の帰路を夕焼けが、赤く明るく照らしていた。
そしてその予感を裏切らない、幻月女史のキ印っぷりがまた良し。
彼女の前では、妹様すらハナ垂れガキに思えて……おやこんな夜に誰k
幻想郷にある風景でも、これほどファンタジー的で妖怪的で魅惑的な風景はなかなか無いと思う。好きな風景だ。
んでそんな一風景を一日単位まで拡大&解析してくれたお話って感じで、非常に満足した。
一見してまとまりが無いように見えるが、またそのダラダラ感が物語のテーマを語る論調というべきものに良く似合っている。これはこれで読み物としての完成度も高いと感じた。
妖怪という存在を書くにはこの手の手法が合ってるのかも知れない。
あと一つ一つの夏の風景がツボだ。
けいね先生にラムネおごられてえ。
ベルバラネタもそそわじゃレアで有り難い。
思えば自分がものを書くようになったのは昔ベルバラ読んだのが切っ掛けだったのを思い出した。
総じてこの作品には満足した。
面白い作品はいくつもあるが、満足出来るのは自分的にほとんど無い。
以前ねじ巻きさんの書いた。幻月姉さんがチルノの師匠をする話を読んでから、また幻月姉さんが活躍する話を読みたいと思ってたのでうれしいかぎりです。
欲を言えば、夢月の出番がもっとあればさらに良かったです。
やっぱり、夢幻姉妹は二人で一人前ですからね。
幽香と幻月の掛け合いが良かったです。幻月が霊夢と対峙する時のシーンは特に。
とても楽しんで読めました。またねじ巻きさんの幻月をみたいです
しかしそれがいい。幻月素敵。
でも、文が何だかんだ言いながら椛みたいな後進しっかり育てて、
それが幻月と遊んでる様を見ると
そんなに捨てたもんでもないのかしらと
自分もシャラントン以来の惚れ込みです。
幽香が幻月姉さんをケシの華に例えるあたり、幻月姉さんが幽香に「~だって友達
だもん」を言うあたり、シビレました。本当に二人は「悪友」なんだなぁと。
あと霊夢の
>弾躱さないのよ。全部正面で受けとめて、血まみれになって、体削られて、それでも笑ってる。ケタケタと
これがもうね。ツボりましたね。弾幕は躱すものじゃなく受けるものだと。
だから幻月姉さんはあんな発狂弾幕を放つんですね(笑
序盤でダレそうになりましたが、読み進めていく内に全て吹っ飛びました。
素敵。
しかし霊夢強いなぁ。
このテンポの良さは癖になります、