Coolier - 新生・東方創想話

ナズーリン地底に行く

2011/02/12 14:06:48
最終更新
サイズ
147.05KB
ページ数
1
閲覧数
1465
評価数
7/32
POINT
1680
Rate
10.33

分類タグ

       ▼

 すごいこと、教えてあげましょうか。
 貴方は、もうすぐ殺される。そのためだけに、いままで生かされてたの。
 厭かしら? ええ、そうでしょうとも。貴方は間違ってない。命ある者すべて、いつか死ぬと解ったフリをしているけれど、今日と変わらぬ生が明日も続くと思っている。いつまでも生を謳歌していられると信じている。お笑い種だわ。なんの保証もないって言うのにね。だからこそ、急な死について――突然すぎる終焉を倦厭せずにいられないワケだけど。
 でもね、それは私を含めた全員が産まれた瞬間に、もう決定されていた役割なの。
 みんな認めようとしないけれど、決まっていたことなのよ。

       ▲ 
 
 
  【1】
 
 
「なに、これ?」
 
 奇妙な夢を見たあとは、いつも魂を半分もっていかれたような気怠さに苛まれる。寝起きにナズーリンが呟いたときも、やはり脳裏にしつこく焼きついた夢の余韻で、意識が朦朧としている状態だった。
 じわじわと、夢の世界に置き忘れていた魂を手繰り寄せるにつれて、彼女の思考も本格的に覚醒する。
 まずは状況分析。ここは、どこ?
 狭くて薄暗い部屋。窓らしき箇所は見当たらない。視界の隅に揺らめく残像を捉えて紅い瞳を向ければ、いつの時代の物かも判然としない黒ずんだ燭台に、数本の蝋燭が灯されていた。それ以外の光源は、なし。炎が照らしきれない部屋の隅などは、濃い闇に沈んで見えない。
 なるほど、炎の揺らぎだったか。ひとつ確かなことを得てしまえば、そこから情報は怒濤のごとくなだれ込んでくる。当然ながら疑問も爆発的に膨れあがり、雪原でもないのに、ナズーリンの思考はホワイトアウトした。一時的なこととは言え、処理能力が追いつかなくなったのだ。
 
「そもそも、どうしてこうなっているの?」
 
 こう――とは、岩盤を掘削して拵えたと思しい空間の、冷たく堅い寝台に横たえられている状態だ。それも、得体の知れないナニかで身体の自由を奪われている。つまりが、拘束されていた。
 身を捩り、肘を突っ張ってみるものの、ナズーリンの痩身を幾重にも覆った縛めは緩まない。ばかりか、もがけばもがくほど余計に締めつけがキツくなる代物らしい。胸を圧迫される息苦しさに堪えかねて、ナズーリンは大きな動作を控えた。これ以上は、窒息してしまう。
 代わりに、辛うじて自由になる手首を捻り、この奇妙な縛めを摘んでみた。なにやら粘っこく、弾力性に富んでいて、気色の悪い触感である。トリモチを用いたネズミ罠を想起させられて、ナズーリンは怖気を震った。
 
「いったい、誰の仕業なの?」
 
 共に暮らす仲間たちによる悪ふざけか。可能性としては、皆無ではない。けれども、そうする理由に考えを巡らせると、はて、なにも思い当たらなかった。ここ最近を振り返ってみても、懲罰を受けるほどの失態を演じた憶えはない。ナズーリンの自覚していない過失があったとしても、それを罰するなら然るべき手順を踏むのが常識である。こんな不意討ちをするはずがなかった。
 では、ドッキリ大作戦みたいな悪戯や、軽いお仕置きの類と見るのはどうか。
 百歩譲って、それなら、まあ理解できる。親密であればあるほど、悪戯の内容が過激になるのは、間々あること。共に過ごす時間に比例して、ナズーリンの隙を衝くことも容易になろう。蝋燭の明かりだけでは暗すぎて判然としないが、ここは急拵えの箱庭で、周囲の壁に覗き穴でも開けてあるのではないか。そして、隣の部屋からこちらの狼狽えぶりを観察しながら、笑いを堪えているのかも知れない。この想像どおりだとするなら、児戯にも等しい、呆れるべき所業である。
 
「まったく、馬鹿げた真似をしてくれるじゃな――痛っ!」
  
 やれやれと頭を振った瞬間、頭頂部と頚部に鋭い痛みが走り、ナズーリンは顔を顰めた。寝違えたとか、そんな生やさしい痛みではない。そこそこ重量のある物で、骨も折れよとばかりに殴られたかのような激痛だ。いくら悪戯のためでも、そこまでするだろうか? するはずがない、信頼し合う仲間ならば。
 ナズーリンは、僅かでも疑ったことを恥じた。同じ夢を抱き、その実現に東奔西走してきた仲間たちである。遊び半分に、こんな馬鹿げた真似をするはずがなかった。なにより、彼女たちのリーダー的存在が、過ぎた悪ふざけを一喝するだろう。そんな暇があるなら飛倉の破片を探すべきだ、と。
 
「……あれ?」
 
 唐突に、ナズーリンは思い出す。そう言えば、私も飛倉の破片を探してる途中じゃなかったっけ?
 どうも記憶が錯綜している。思い出そうとすると、頭頂部や頚部に居座った痛みが、それを妨げる。ナズーリンは不安に駆られた。本当に、どうなってしまったのだろう。まさかとは思うが、謎の円盤に攫われて記憶を弄られたとか、忠実な下僕となるよう悪の組織に改造手術されたとか……。
 
「いやいやいや。それはないでしょ、さすがに」
 
 事後ならば、拘束は解かれているはずだ。自我だって、保っていられるか判らない。そもそも改造手術なんて発想が突飛に過ぎた。転んだ拍子に頭を打って、軽度の記憶障害に陥ったと考えるほうが、よっぽど理性的かつ常識的である。
 引き攣った笑いを浮かべて、深呼吸ひとつ。
 
「さて……最初から順序を追って、思いだしてみようか」
 
 僅かばかり、ナズーリンは冷静さを取り戻した。この事態を打開するためにも、ここは自身が置かれた境遇を、正確に把握しなければ。
 瞼を閉じて、深い呼吸を繰り返してから、彼女は徐に記憶を遡った。
 愛用のダウンジングロッドを掲げ、それらしい反応を探りながら彼方此方へ飛び回っていたまでは、鮮明に憶えている。矢庭に空模様が怪しくなり、ふと視線をおろした山腹に見かけた小さな洞窟へ、これ幸いと逃げ込んだことも。
 
「ああ、そうそう」
 
 徐々に、断片的だった記憶が繋がってくる。だが、まだ現状を理解するには至らない。ナズーリンの回想は続いた。
 その洞窟は入り口こそ狭いものの、奥に進むほど広くなっており、陳腐な表現ながら、地獄まで続いているみたいだと、ナズーリンに思わせたほどだ。湿っぽく澱んだ洞内の空気は、コウモリの糞とカビの臭いに満たされ、御世辞にも健康的だなんて言えなかった。少しぐらい不潔な場所でも平気なナズーリンでさえ、長居したくない禍々しさがあったのである。腰を据えて調べたくなるほどの発見があれば別だが、彼女の興味を惹く物など、なにもなかった。
 束の間、雨宿りするだけ。それだけ。
 
「だったはずなのに……どうして私は、こんな目に遭わされている?」
 
 言った直後、ナズーリンの脳裏に答えが降ってきた。
 洞窟の探索を始めたからだ。それも能動的ではなく、受動的に。 
 
「そうだ。アイツのせいだ」
 
 呟いたナズーリンの頬と目元が、引き攣る。
 洞窟に入る前日から――やけに馴れ馴れしく、まとわりついてきたアイツ。いまにして思えば、最初から胡散臭かった。一緒に連れていけ、と。いきなり現れたアイツは、そう言わんばかりの図々しさと厚かましさでナズーリンの傍を離れなかったのである。なにかと助言めいた仕種を繰り返し見せてもいたが、それはナズーリンの主観であって、アイツの本音とは乖離していたかも知れない。むしろ、意志の疎通ができない状況で、好意的な解釈をするほうが不自然だろう。
 
「手の込んだ罠――だったのかな?」
 
 邪推だろうか。己が不遇を儚むあまり、疑心暗鬼になっているだけなのか。
 しかし、洞窟に踏み込んでからの記憶が曖昧なのが、罠にかけられたなによりの証左にも思えた。まんまとアイツに洞窟まで誘導された挙げ句、辿り着いたら着いたで、ひと眠りしようとするナズーリンを奥に踏み込ませるべく執拗に煽ってきた。文字どおりに、尻を叩かれもしたのだ。ひどい屈辱だった。
 ナズーリンの疑念は、まるで癌細胞が分裂するかのごとく爆発的に増殖し、巨大にして強固な妄執の塊に成長していった。思い込みは証拠さえ捏造する。彼女の中ではもう、加害者と被害者の明確な構図が描き上げられていた。自分は唆され、まんまと嵌められたのだ、と。
 
「くっ! 私としたことが、なんて迂闊な。こんな幼稚な手に引っかかるなんて」
 
 どうにも本心の読めない相手だったが、それだけに、しばらく様子を見ようだなんて悠長にも思ってしまった結果が、これだ。いや、それすら既に、アイツの術中に陥っていたからかも知れない。普段のナズーリンであれば、遭遇した時点で相手をじっくり観察し、愚かしい企てなど看破していただろう。
 なんという油断と失態、そして屈辱。いいように踊らされたことが忌々しく、死ぬほど悔しいらしく、ナズーリンは恥辱に歪んだ顔を激しく振り、身悶えた。
 けれど、それも長くは続かない。逃げる術を模索するうちに、別の心配が彼女の頭をよぎったからだ。
 
「そう言えば、私の相棒は……」
 
 思い浮かべるのは、いつも連れ歩いている相棒ネズミのこと。けれど、いまナズーリンの尻尾に、馴染んだ重さはなかった。寝床のバスケットごと、どこかに置いてきてしまったらしい。
 
「どこで? うぅ……思い出せない。頭、痛い……」
 
 いつ、はぐれたのか。まったく憶えていない。無理に思い出そうとすると、頭が割れそうに痛んだ。
 けれど、はっきりしたこともある。いよいよ核心に迫りつつあるのだ。洞窟の探索中から、ついさっき眼を醒ますまでの記憶が抜け落ちているのも、それを物語っている。何者かに頭を殴られ、気を失っていたのは間違いあるまい。
 
「誰が、なんの目的でしたのかは知らないけど、捕まったままじゃいられない。なんとか、この縛めを裁って逃げないと」
 
 ネズミたちを呼び集め、縛めを噛み切らせたいところだが、勝手の判らない場所で大声をだすわけにいかないし、呼びにいかせようにも相棒ネズミはいない。当てにできるのは、自分の力だけである。
 かと言って、また藻掻けば締めつけられる。なにを、どうしようとも、事態は悪化しかしない。ネガティブな思考に、ナズーリンは支配されつつあった。
 溜息を吐くと、ナズーリンは途方に暮れた様子で、視線を宙に彷徨わせた。その眼の動きが、はたと止まる。彼女が見つめる部屋の片隅には、小さな蜘蛛の巣が張られていた。
 じっと物思いに耽ること、暫し。ナズーリンは怖々と、自分を縛りつけている奇怪な物体に触れてみた。
 蜘蛛の糸。この粘っこく伸縮性に富んだ物体は、もしかして……。 およそ考えたくないことだが、もし彼女の想像が正しいのなら、拘束されている理由は明らかだった。
 どんな生物も、生き長らえるためには養分の摂取が必須となる。それは妖怪も同じ。腹が減れば、他の生き物を捕って喰らいもする。この世界では、妖怪が食物連鎖の頂点なのである。だからこそ、ナズーリンも今日この瞬間まで、真剣に危ぶんだことがなかったのだろう。
 よもや自分が、誰かの餌にされる事態に陥るなどとは。
 
「つまり……これって」
 
 悪い予感は、更なる悪い想像を呼び覚ます。あるいはもう既に、体内に卵が産みつけられているのでは? 無責任に膨張する不安が、ナズーリンの怖れを徒に煽り立てた。事実、それをする種類の蜂がいると知っていた。獲物は麻痺させられ、その身は体内で孵化した幼虫の餌となるのだ。とすれば、なおのこと悠長に構えている暇はなかった。
 幸い、まだ身体のどこにも麻痺した感じはない。可及的速やかに脱出して、然るべき場所で診てもらわねば。幸いにもナズーリンは、探索の途中で竹林に隠された屋敷に住まう名医の噂を聞きつけていた。そこを訪ねれば、なんとかなるだろう。いや、是が非でも、なんとかしてもらわないと困る。
 しかし、爪で掻いた程度で切れてくれる代物ならば苦労はない。ネバネバは驚異的な弾力性でナズーリンの爪を受け止め、切れ目を入れることさえ許さなかった。噛み切りたくても、首が倍以上は伸びなければ口が届かない。悪戦苦闘を続けるうち、指先や手首に激痛ばかりが宿り、握力も失われていった。 
 弱々しい歎息が、口惜しさに歯噛みしたナズーリンの唇から零れる。他に聞く者がいたならば、きっとこう感じたに違いない。心身共に衰弱した者が、いよいよ死を受容したのだ、と。
 すっかり身じろぎを止めてしまうと、鼓膜が痛くなるほどの静寂が、ナズーリンの耳に捻り込まれた。頭上に大きく広がる彼女の耳は、ただでさえ拾う音の幅が広い。ここでは、その感度のよさが災いして耳鳴りを催していた。
 失意と苦悩と頭痛と疲労の最中、ナズーリンは一縷の希望にしがみつく。忠実な相棒のネズミが、いまにも助けに来てくれるのではないか、と。是非、そうであって欲しい。信じる者は救われなければならない。それが正しい。
 
「でも、あの人なら――」
 
 不意に、ナズーリンの脳裏に主人の凛々しい姿が浮かんだ。時を同じくして再生される、聞く者を不思議と安堵させる声。
 
『正しいと信じたから、救われるのではない。救われた者だけが正しいのです』
 
 きっと彼女ならば、そう言って、朗らかに笑ったことだろう。教えを説く側にいるのだから、もう少し教条主義に傾いていてもよさそうなものだが、そうではないからこそ……人々の弱さや曖昧さに共感を示しているからこそ、彼女は衆生に慕われるのかも知れない。そもそも頑冥不霊の者であったならば、毘沙門天も弟子にとは絶対に思わなかったはずだ。
 
       ▼
 
 事の始まりは、主人である毘沙門天の御下命へと遡る。
 とある妖怪の娘を弟子にする際、五千を数えると言われる眷属の中から、たまたま手の空いていたナズーリンに白羽の矢が立ったのである。
 
「初めまして、寅丸星と申します。貴女が、ナズーリンさんですね! お会いできて光栄です」
 
 ナズーリンの手を馴れ馴れしく握りながら、笑いかけてきたその娘は、姓を寅丸、名を星と言った。妖怪の身でありながら毅然として温厚。情義を欠かぬ人柄も手伝い、怖れられるどころか多くの者から敬われていた。ゆえに、毘沙門天も自らの名代とするに吝かでなかったのだろう。
 ナズーリンとしても興味を覚える存在だった。当分は退屈せずに済みそうだと思えたこともあり、寅丸星の従卒たる役目を、喜んで拝受したのだ。
 しかし、この世に欠点のない者などいない。幾日かを共に過ごしてみると、星は凛とした立ち居振る舞いの割にそそっかしく、ちょくちょくヘマをやらかすドジ娘さんだと判明した。
 
「あの、ナズーリン……じつはですね」
「今度はなにを、やらかしたですか? 世話の焼かせないでくれませんかね、まったく」
「とほほ~ん……すみませんですぅ」
 
 初めての大役に、星もいろいろ戸惑っていたのだろうが、それにしても彼女の言動には粗が目立ちすぎた。こうと決めたら梃子でも動かぬほど思い込みが強かったり、かと言えば些細な失敗で食事も喉を通らなくなるほど落ち込んだり。つまりは、感情の波が激しい娘だったのである。
 勘のいいナズーリンはすぐに、毘沙門天の真意を察した。この性格ゆえに一抹の不安を拭いきれず、然るべき補佐を同道させたのだ。やはり神仏、卓抜した先見の明である。その判断は真にもって正しかったと、ナズーリンは主君の慧眼を称えずにいられなかった。
 その一方で、見込み違いを嘆いてもいた。簡単そうだからと安易に引き受けてしまったことを、ナズーリンは悔やんだ。実際のところ職務は難しくない。来る日も来る日も、仕事は専ら尻拭いの雑用係。むしろ、恐れ多くも毘沙門天の名代が、こんなことでいいのかと懸念するほどだった。
 そろそろ本気で、信仰を集める者としての心構えを厳しく指導教育していくべきかも知れない。そんな気構えと肩透かしの日々に、ナズーリンまでが鬱憤を溜め込んでしまうのも、やんぬるかな、である。
 とは言え、手のかかる子ほど可愛くなるのが、これまた世の常。ナズーリンも多分に漏れず、いまでは寅丸星を陰日向と支えることに、少なからぬ歓びを感じていた。
 
       ▲
 
 また、あの歓びに浸れるのだろうか。
 胸を張って、快哉を叫べるときが訪れるのか。
 
「は……情けない。弱気になるなんて」
 
 ナズーリンは、なけなしの勇気を掻き集めて、自嘲した。埒もない。他力本願にならざるを得ない状況で歓びだ快哉だのと、愚かしいにもほどがある。生きる希望と言えば響きはいいが、なんのことはない、ただの現実逃避ではないか。
 仲間だの役目だの一切合切をかなぐり捨てて、大声で泣き喚けたら、どんなにか気が晴れるだろう。ナズーリンは、そうしたい衝動に駆られていた。子供のように駄々をこねて、誰かが「よしよし」と頭を撫でて慰めてくれるまで泣きじゃくっていたかった。
 けれど、現実は気紛れ。叶えて欲しい願いほど、皮肉な結果へと転がったりする。泣きっ面に蜂の諺どおりになりたくなければ、我を見失って涙で頬を濡らすばかりではダメだろう。なにより、毘沙門天の眷属として、不甲斐なく醜態を晒すことに強い抵抗を感じてもいた。
 
「つまらない意地と矜持だとしても、それでも――」
 
 プライドを守るために抗いたい。たとえ、ここでの終焉が産まれた瞬間から決められていたことだとしても。
 そんな心境の変化がもたらしたものか。ふと、高感度ナズーリンイヤーが微かな物音を捉えた。遠いような、近いような。洞窟の壁面で共鳴しているのか、距離感が判然としない。横目に確かめた蝋燭の炎は、ほとんど揺れておらず、音を運ぶだけの風が吹いていないことを物語っている。
 ならば、音源はそう離れていないはずだ。
 そう判断して、ナズーリンは耳をそばだてる。
 息さえ止め、耳に全神経を集中すると……音が、少女の脳裏で明確な文字のイメージを結び始めた。
 しゃりこー。しゃりこー。
 なにか硬質な物同士を擦り合わせているような、そんな感じの音だ。
 
「あああああああぁ」
 
 ナズーリンは長く嘆息して、聞いたことを激しく悔やんだ。そして今度こそ、涙腺の堤防が決壊するのを抑えきれず、眦から噴水のごとく涙を溢れさせた。聞けば聞くほど、包丁を研ぐ音にしか思えない。得体の知れない化け物の幼虫に、生きながら腹の中を貪られる不安はやや薄れたとは言え、喰われることに違いはないのだろう。であれば、包丁で切り刻まれたほうが苦しみは短いし、むしろ歓迎すべきかも。いっそ、ひと思いに舌を噛み切ってしまおうか……。
 
「辞世の句でも詠もうかな」
 
 悲観が過ぎれば、諦めるために希望を捨ててしまいたくなる。万にひとつの僥倖を信じ続けて、結局は裏切られるだけならば、さっさと観念したほうが楽になれると錯覚するからだ。視野狭窄ゆえの本末転倒、とでも言おうか。
 では、すんでのところでナズーリンに短気を思い留まらせた要因は、なにか? それは、帰りたいという真っ直ぐな想いだった。無粋な表現をするなら、帰巣本能か。幼子が夕闇迫る中で温かい家庭を求め泣くように、ナズーリンもまた、彼女を優しく受け容れてくれる場所に思いを募らせていた。
 もう一度、この縛めを裁つべく抗わねば! 泣く暇があるのなら。
 両腕に力を漲らせ、ズキズキと痛む指を動かす。爪が割れて、血が滲んでいるのか、やたらと滑る。だが、つい漏れそうになる呻きを噛み殺しながら、ひたすらに足掻く。ほんの少しでいい、縛めが緩んでくれさえすれば可能性は見えてくる。脱出できるのだ。
 が――
 
「おや、起きてたのかい?」
 
 不意に声をかけられて、ナズーリンはぶるりと身を震わせた。気力を取り戻しかけたところを見計らって、更なる絶望を与えんばかりのタイミングである。現実に、謎の声は囚われの少女を嘲っていた。無駄な努力をする娘だ、と。
 
「だ、誰?」
 
 気丈にも声を絞りだし、誰何するナズーリン。だが次の瞬間、彼女は天井に目を向けて、か細い悲鳴を放っていた。蝋燭の炎が届く限界に、ゆらりと蠢く影が見えたからだ。
 女が歩いてくる。天井を、ひたひたと。天地真逆の姿で、これ見よがしに研いだばかりの包丁を光らせながら。
 
「うふふふ……怯えちゃって、可愛いねぇ」

 ふがふがと唇を戦慄かせるばかりのナズーリンを見下ろしながら、女は喜色満面そのもので呵々大笑した。炎に照らし出された女の唇は血のように紅く、毒々しさと冷酷な印象を、これでもかと言わんばかりに醸しだしていた。
 
「地獄の土産に教えてあげる。私は黒谷ヤマメ。黒い谷のヤマメさ」
「えっと……風の谷のナウシカの従姉妹かなにか?」
「それってカモシカの仲間? どんな鹿だか知らないけれど、違うわ。見てのとおり――で解ってくれるかは微妙かな。ハッキリ言っちゃうと、泣く子も黙る土蜘蛛よ」
「土蜘蛛だって? 蟲は森の番人って話を、聞いてるけど」
「いや、ここ森じゃないし、蜘蛛は昆虫じゃないし。て言うか、意味が解らないし。あんた、ガクブル状態のくせして危機感ないのかい」
「危機感ありすぎて、周章狼狽してると思ってよ。この縛めは、君の仕業?」
「そう言うこと。やっと本題に入れそうね。大歓迎よ、地底にようこそ」
 
 鼻歌でも歌いだしそうな風情で、ヤマメは軽く応じる。ばかりか、ナズーリンが聞きたくなかった台詞まで、あっさりと続けた。
 
「なにせ、久しぶりのご馳走だもの。逃がしたら勿体ない」
「ご馳走? いやいや、そんな――ご冗談を」
「いやいや」
 
 ナズーリンのオロオロする姿が愉しくて仕方がないのか、ヤマメはくくっと喉を鳴らしながら寝台の真上まで来るや、見えない糸に支えられているかのように、するすると頭を下にしたまま降りてきた。そして、ややも待たずナズーリンに跨り、これ見よがしに舌なめずり。
 
「ご存知ないなら、教えてあげる。地底では、ネズミとキノコとミミズが一般的な食材なのよ。どれも養殖しやすいからね」
「でも、私は普通のネズミじゃなくて、妖怪だけど?」
「あらあら、察しが悪いネズ公ねぇ。だからこそ、ご馳走になるんじゃないか」
「なんと!」
 
 ヤマメのギラついた眼差しは、どうみても本気である。このままでは、サクッと料理されかねない。と言って、一発逆転の妙案奇策があるわけでもない。毘沙門天の名を出すのも一手だろうが、ナズーリンは賢明にも、そうしなかった。目の前の土蜘蛛娘が、神仏の御威光に平伏してくれるとは限らない。妖怪ネズミと言うだけで、これほど嬉々としている点を鑑みても、神仏の眷属などと知れれば余計に事態を悪化させるだろうことは想像に難くなかった。
 とにかく、なりふり構わず時間を稼ごう。ナズーリンは口を開いた。ヤマメも妖怪。それに言葉が通じる。情に訴えれば、逃がしてもらえるかも。
 
「でも、あのさ……どうせ食べるなら、人間のほうが美味しくない? あの赤いチーズは、私のネズミたちも大好物でね」
「人間かい。そう言えば、久しく食べてないね。どんな味だったかも、あんまり憶えてないわ」
 
 言葉どおり、ヤマメは懐かしむように双眸を細めた。
 弛められたその目元に、疲労と寂寥の色が浮かんだのを、ナズーリンは見逃さなかった。なにが説得の糸口に化けるか解らない現状、話題が多いに越したことはない。
 
「なにがあったのさ」
「私らは忌むべき存在として、地底に追いやられたのさ。それからは、人間は高級珍味にも等しい存在になってね。なにしろ、地上の妖怪たちとは相互不可侵の取り決めがあったもので」
「ずっと地底で暮らしてるのかい?」
「そうさ。まあ、地底を私らの自由にしていいって交換条件つきだし」
「律儀なことだね。それで、人間は一切、食べられなくなったと?」
「ごく稀に迷い込んでくる人間は例外だけどね。それだけじゃあ、地底の者たちの糊口をしのぐことは無理よ。でしょ? ばかりか、生活環境が急変しちまったものだから、深刻な食糧難になってもう大変」
「その結果が、キノコとネズミとミミズ……」
「食材としての研究が進んで品種改良もされたし、レシピも増えて、いまじゃネズミは地底住民の大好物さ。年に一回、旧都でネズミの早食い大会や、盆栽キノコの品評会も――」
 
 それ以降も、ヤマメは得意げに喋り続けていたが、ナズーリンの頭には内容が入ってこなかった。驚愕のあまり思考停止に陥って、理解不能になっていたのである。ヤマメの素振りを観察する限り、嘘や冗談の類ではなさそうだった。とんでもない話である。
 ――だが、それは地上の常識に当て嵌めればの話であり、地底の歴史的背景を鑑みれば、納得してはいけないものの認めざるを得ないと言うか、なんと言うか……。
 
「ち、ちなみに……ネズミ料理って、どんな?」
「そうねぇ。主なところでは開きにしたり、まるっと塩焼きとか、躍り食い。ネズミの骨酒なんかもお奨めかしら。まぁ、あんたは食べられないけどね。食べられる側だから」
「どっちも遠慮したいよ、叶うことならね」
「あらあら残念。もうキスメも待ちきれないって」
 
 また、初めて聞く名詞が出てきた。話の流れから、ヤマメの親類縁者だろうことは予想できるが、一応は誰何しておく。
 
「キスメ?」
「ふふぅん。あんた、一発で気絶させられたそうじゃないか。憶えてないのも当然よ」
 
 鼻先に指を突きつけられて、ああ――とナズーリンも思い至った。
 いきなりの雨を凌ぐために寄った洞窟が意外に奥深く、アイツに煽られ仕方なしに探索してみれば、ロッドが強い反応を捉えたのだ。もしや、お目当ての物では? 根拠のない期待が、ナズーリンの判断を鈍らせた。そして、入り口から光が届かなくなる辺りまで進んだところで、いきなり脳天にガツンと……。
 返す返すも、なんたる油断、愚かしい失態だろうか。痛恨の一撃、この一語に尽きる。ナズーリンは唇を噛んだ。
 
「ちょっと痩せ気味だけど」と、ヤマメが無遠慮にナズーリンを眺め回す。
 
「付いてるところは、ちゃんとお肉も付いてるみたいだし……しゃぶりがいがありそうね。あーん、見れば見るほど美味しそうなネズミちゃん」
「いえいえ、実は私、ネズミじゃなくてヌートリアの妖怪で」
「ふふん。カピバラと安直に言わなかったのは、褒めてあげる」
「じゃあ、ご褒美に解放して欲しいなぁ……なんて」
「ソレとコレとは話が別だよ、この与太郎が」
「ゲゲゲ!」
「それは鬼太郎」
「コノウラミハラサ……」
「はいはい、魔太郎ね。往生際が悪いよ、いい加減にしておきな」
「うぐぅ」
 
 いよいよ話題が尽きかけたところに、「ヤマメちゃ~ん」と新たな声が。
 もしや、ここで正義の味方が登場? およそ虫のいい発想ながら、ナズーリンは地獄に蜘蛛の糸が垂らされるような展開を期待した。この一縷の希望に縋りつこうとした。
 ……したのだが。
 
「うぁ!」
 
 ナズーリンの喉から迸ったのは、濁った落胆の塊。
 彼女の視線の先にあったのは、宙に浮いた桶のような――正確なところは手に取ってみないと判別できないが、パッと見、仲間たちの依頼で探している物体に似通っていた。
 
「まさか、飛倉の破片っ!?」
「トビクラ? それとも、ドビックリって言ったの?」
 
 桶の縁から、ひょっこりと幼気な娘が顔を覗かせたことで、見当違いを悟るナズーリン。さらさらの緑髪を頭の両脇に結い上げ、元気いっぱい天真爛漫な感じの少女。さては、これが私を昏倒させてくれたキスメという妖怪娘か。その予測は、ヤマメによって肯定された。
 
「ああ、キスメ。来ちゃったのかい」
「だって待ちきれないんだもん。もう我慢できないよぉ~」
「はいはい。ちゃちゃっと捌いちゃおうかね」
「私、お刺身とステーキがいいなぁ。筋張ったところは嫌いだから抜いてね」
「じゃあ、胸トロと腕は刺身にして、腿を厚切りのステーキにしよう。内臓はモツ鍋とかホルモン焼き用に――」
「きゃっほ~!」
「ま、待て待て待てーいっ!」
 
 嬉々として弾むヤマメとキスメの会話に、ナズーリンが割り込んだ。黙って聞いていれば、よくもまあ身の毛もよだつ料理話を、当人の前で語り合えるものである。デリカシーの欠片もありはしない。寅丸星の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいと、ナズーリンはかなり本気で考えていた。
 
「そんな狼藉が許されると思ってるの? 鬼っ! 悪魔っ! キミら地獄に落ちるからねっ! でも、いまならまだ間に合うから改心しようよ帰依しましょう!」
 
 しかし、ナズーリン必死の喚きも、どこ吹く風。
 
「ここが地獄の一丁目よ。鬼たちとも仲良しさ。悪魔は……まぁ、別にどうでもいいけど。それに、明日の心配より、今日の食事が優先ってね。刹那的と蔑まれようとも、そこは譲れない。こんな私らを卑しいと馬鹿にしたいなら、すればいい。あんたの勝手さ。でも、本物の飢餓を経験したこともなしに、ふざけた口を叩くのは承知しないよ」
 
 と、ヤマメが言えば、キスメも、うんうんと頷くばかり。どうやら、毘沙門天の御威光も、地底までは及ばないらしい。いや、及んではいるが、地底の住人が逞しく大胆不敵なのか。いずれにしても待ったなし。もはや絶体絶命の崖っぷち。
 
「さーて、お肉になる時間よ。覚悟おしっ!」
 
 ヤマメが、逆手に握った包丁を高々と振り翳した。蝋燭の炎が、研いだばかりの刃を不気味に浮き上がらせる。
 
「きゃ~、ヤマメちゃ~ん。サンデーナイトフィーバー!」
「うんうん。明日は地獄の月曜日ってね」
「興奮しすぎて、おしっこ漏れそう~」
「桶の中ですればオッケー」
「も~、ヤマメちゃんてばオヤジギャグ言っちゃってぇ。やだぁ」
 
 やだぁ、と言いたいのは私のほうだよ。ナズーリンは反駁したかったが、迫りくる圧倒的な恐怖で歯の根が噛み合わず、うまく喋れなかった。どこを斬るのか、どこを狙っているのか。切り裂かれる痛みは、どれほどのものなのだろう。想像を絶する激痛で、一瞬のうちに気を失えるなら救われるかも知れないが、そう簡単にいくだろうか。できれば一撃で急所を突いて、絶命させて欲しい。ナズーリンは泣きながら、思った。次に生まれてくるときは、ネズミじゃなければいいな、とも。
 
(死の間際には、いままでの記憶が走馬灯のように再生されるそうだけど……)
 
 自分には、どんな記憶が甦るのやら。
 毘沙門天のこと? それとも、寅丸星や仲間たちのこと? 相棒のネズミは――?
 どれも大事な思い出だし、最後に回想するなら、やはり大切な人たちのことだろう。そうであるべきだ。
 だが次の瞬間、脳裏に浮かんだ意外な姿に、ナズーリンは素っ頓狂な声をあげていた。
 
(これ……誰だっけ)
 
 少女だった。名前が、即座に思い出せない。でも、どこかで逢っている。そして彼女は、間違いなくナズーリンにとって大切な存在だった。
 懐かしい感情が胸に迫り、喜びに心臓が高鳴る。けれども、感傷に浸る間もなく、その映像は掻き消された。ナズーリンの目と鼻の先を掠めた閃光が、黒板消しのように払拭していったのだ。
 
「な、なんだって言うの!?」
「んぎゃっ!」
 
 なにが起きたのか……。ナズーリンは、すぐには理解できなかった。それは、ヤマメとキスメも同じである。狭い室内を縦横無尽に駆け回る閃光に翻弄されている間に、キスメは桶ごと壁まで弾き飛ばされ、ヤマメの手からは包丁がもぎ取られていた。
 それで一応の目的を果たしたのだろう。正体不明の閃光が、徐に収束する。
 
「これって――」と、ヤマメが目を見開き。
「ふにゃぁ」キスメは弾かれて目を回したらしく、頭上に鳩サブレーと銘菓ひよ子の輪を歩かせていた。
「き、君は!」
 
 ナズーリンだけは、閃光の正体を理解した。熱く燃え盛る、オレンジ色の憎いヤツ。待たせたな! と言わんばかりに、これ見よがしな明滅をしている。しかし、颯爽と現れただけのことで、正義の味方などではない。誰がどう見ても火の玉。正確には怨霊。他でもない、ナズーリンを罠に掛けたはずの胡散臭いアイツだった。
 
「なんで? まさか……私を助けに?」
 
 嵌められたとはナズーリンの邪推で、最初から敵ではなかったのか?
 困惑するナズーリンの前で、唐突に始まる睨み合い。場の空気が、ピリピリと緊張の度合いを増してゆく中、弾幕勝負の火蓋が切って落とされた。先攻したのは、ヤマメとキスメ。
 
「おふざけでないよ、怨霊ごときが!」
「むー、ご飯を横取りする気ね。そんなの許せない~。とりゃぁ~」
 
 お楽しみタイムを邪魔された二人による、怒りにまかせたスペルカードの乱発。大小色とりどりの弾幕が弾け、炎の柱が空を焦がし、闇に慣れた視界を眩く裂いた。
 ところが、怨霊もなかなかに大したもので、室内の大半を占めて飛び交う弾の隙間をすいすい躱しながら、ヤマメとキスメに肉薄していくではないか。血気に逸ってはいても、妖怪は妖怪。しかも二人がかりとなれば、容易ならざる相手である。にも拘わらず、怨霊は同時に相手して引けを取るどころか、明らかに圧していた。
 
「嘘でしょ? アイツ、何者なの」
 
 呆然と呟いたナズーリンは、いつの間にか身体に自由が戻っているのを感じた。見れば、忌々しい縛めが解かれている。狭い室内で、これほどに濃密な弾幕を張られたら、流れ弾が掠って切れることもあろう。だが、縛めだけ切れたというのは、偶然にしても話ができすぎていた。
 怨霊が、そのように弾を誘導したとでも? そんな芸当は可能だろうか。
 できないことでは、ない。それが、ナズーリンの出した結論だった。直線的な弾道であれば、軌跡を予想するのは容易い。自分と標的を同一射線上に置き、相手の射撃を誘うだけで、目的は達成される。もっとも、縛めだけにピンポイントで掠らせるには、非凡なセンスが要求されるが……。
 
「それを、アイツは平然とやってのけた」
 
 これほどまでに微妙で繊細な誘導を、何度も連続成功させるからには、生前は名うての戦士だったか。あるいは妖怪退治でも生業にしていたか。いずれにせよ、徒者ではない。正体が気にならないと言えば、嘘になる。
 しかし、詮索しかけた頭を、ナズーリンは横に振った。いまは先に、やるべきことがある。さんざん脅かしてくれた礼を、ヤマメとキスメにせねばならない。
 これは仕返しでは決してなくて、調伏という名の布教活動。手前勝手なお題目を胸裡で唱えながら、ナズーリンは首にかけたペンデュラムを握りしめた。
 
 
       ▼
  
「いやぁ、参った参った」
 
 ほつれた髪に手櫛を入れながら、ヤマメは苦笑を漏らした。衣服のところどころも破けて、満身創痍の風体である。それでも、顔に傷を負っていない辺りは、さすが乙女の心意気。ボロっちい服装も、ルーズなファッションと言われれば、そのように見えなくもない。
 
「たかが怨霊一匹と舐めてかかったら、まあ驚くぐらい強いこと。完全に翻弄されっぱなしだったわ」
「うぅ~、頭がズキズキするよぅ。ヤマメちゃ~ん」
「どれどれ。あぁ、ちょっと火傷っぽくなってる。これ、ヒリヒリするでしょ」
 
 涙目で告げるキスメの頭には、もうひとつ顔を描けそうなほど大きな瘤ができていた。そんな発想が出てくるのも、彼女が仏の世界に属している証だろう。複数の顔を持つ仏は、ナズーリンにとって見慣れた存在だった。
 瘤の天辺に、ヤマメが指で唾をひと塗りしてからX印の絆創膏を貼ると、顔と言うよりデベソみたいに見えてしまい、ナズーリンは思わず噴きだした。
 
「なんだい?」
「ん……いや、別に。それより、もう私を食べようとはしないのかな」
「食べたいのは山ふたつだけどねぇ。そこの怨霊に痛めつけられるのは、もう懲り懲りだよ」
 
 ジトリ……。ヤマメとキスメの恨みがましい視線が、ふよふよと宙を漂う怨霊へと注がれる。触発されたように、ナズーリンの眼も怨霊に向けられた。
 本当に、何者なのだろう。まったくもって意図が解らない。ナズーリンを力尽くで危険な石窟の奥に進ませようとしたり、いなくなったと思えば、急に助けに現れたり。もしや見かけが似ているだけで別の怨霊なのか、とも訝ったけれど、放射している気配は紛れもなくアイツだった。
 
「まったく、最近は退屈しないね。珍妙な来客が増えたもんさ」
 
 怨霊から眼を逸らし、ヤマメはナズーリンを見つめた。
 
「あんたの相棒ってさ、いったいなんなの?」
「さぁね。私が知りたいくらいさ。それと、ひとつ訂正させてもらえば、アイツは相棒じゃない。ただの金魚のフ――んぎゃっ!」
 
 いきなり熱い塊に尻尾を一撃されて、ナズーリンは飛びあがった。飛びすぎて天井にも頭をぶつけた彼女の鼻先を、怨霊がこれ見よがしに横切ってゆく。もしも顔があったなら、きっとドヤ顔と呼ばれる得意げな表情だったに違いない。じつに生意気なヤツである。
 頭と尻尾をさすりながら、忌々しげに舌打ちしたナズーリンと対照的に、ヤマメは感嘆の面持ちを見せた。
 
「へぇ、こっちの言葉は理解できてるらしいじゃないか。そんじょそこいらの怨霊とは、少し違うみたいね」
「と言うと?」
「自我を保ってるって意味よ。あんたには馴染みが薄いかも知れないけど、幽霊とか怨霊ってのは、自分が誰だか解らなくなってるのが普通でね。ただただ妄執とか怨念だけで彷徨ってるだけ。そういった共通観念に誘われ、ゲジやコウモリみたいに一ヶ所に寄り集まって、群をなしてるのさ」
「だけど、こいつは違う?」
「ああ、違うわね。さっきの弾幕勝負でも、動きに明確な意志が見て取れたし。はぐれ怨霊や野良幽霊じゃなく、一匹狼って感じ」
「ふむ……」
 
 言われてみれば、あんなにキビキビと弾幕を回避する怨霊なんて、聞いたこともない。ナズーリンの経験上でも、それは確かだった。大概は、ボーっと弾幕に突っ込んできて四散するだけだ。
 
「せめて会話ができたなら、いろいろな疑問も氷解するだろうに」
 
 無理は承知で独りごちたナズーリンに、「そりゃそうだ」とヤマメが笑いかける。にまりと細められた彼女の眼には、なにかの意図が潜んでいた。
 見咎めたナズーリンが、それを訊ねるより早く、
 
「だったら、その怨霊を連れて、地霊殿の主人に会っておいきよ」
 
 あっさり答えが返ってきた。「あの娘――古明地さとりなら、怨霊の心も読めるから」
 
 地霊殿。そして、古明地さとり。
 ナズーリンが初めて耳にする名前だった。それを言うなら、ヤマメとキスメについても同様なのだが、しかし、古明地さとりの響きには特に威圧めいたものが感じられた。動物的な勘と呼ばれるものだろうか。ナズーリンの中で警鐘がけたたましく鳴っている。近づくべきではない、と。
 だが、その一方で合ってみたい欲求が芽生えていたのも、また事実。ナズーリンの迷いを読んだらしく、にこやかに進みでるヤマメ。
 
「なんなら、私が案内してあげようじゃないか。旧都までは道に迷ったりしないだろうけど、途中には灰汁の強い連中も、わんさかいるからね。無用なトラブルを避けないなら、私が一緒にいたほうがいいよ」
 
 至極もっともな意見である。先に進むのを前提とするならば、だが。
 さて、どうしたものか。ヤマメが同行することに、一抹の不安は残る。いつ心変わりして、ナズーリンを食べようと襲いかかってくるか判らないからだ。案内すると言うのも、罠に嵌める口実にありがちである。
 しばしの逡巡を経て、ナズーリンは首を縦に振った。その表情に貼りついた翳りが、彼女の心境を如実に表している。疑惑を抱きつつも、勝手の解らない地底では否応なくヤマメの協力を仰ぎ、進まざるを得ない実状を憂えていた。相棒のネズミを置き去りにはできないし、寅丸星やその仲間たちから頼まれている失せ物が得られるかも……なんて打算的な目論見をせずにいられないくらいに。
 けれど、怨霊の正体や意図に興味を惹かれるのも、紛れもない事実だった。
 
「ひとつ、先に確かめておきたいんだけど」
 
 ナズーリンに話しかけられて、頭の瘤をさすっていたキスメが動きを止める。表情こそ普通だが、瞳に微かな怯えが窺えるのは、コテンパンに叩きのめされたからだろう。
 
「なぁに?」
「君が、私の頭を殴って気絶させた張本人だよね」
「う……そ、そうだけど。もしかして……いぢめる?」
「いやいや、謝れとかって話じゃないんだ。侵入者を止めたり、追い返すのが君の役目でもあるんだろうし、済んだことを責めるつもりはない。私が訊きたいのは、相棒のネズミについてだよ。バスケットに入れて連れ歩いてたんだけど、見てないかな」
「バスケットに入ったネズミ? えっと……どうだったかなぁ。ヤマメちゃん、憶えてるぅ?」
「ううん、私は見てないねぇ。ヤマメに呼ばれて行ったときには、もうなかったはずよ」
 
 困惑した顔を見合わせるキスメと、ヤマメ。しらばっくれているとか、芝居がかった仕種は見受けられない。ナズーリンも猜疑心は強いほうだが、どうやらヤマメたちは本当に知らなそうだとの結論に達した。
 と、なると――ヤマメたち以外の何者かが、バスケットを持ち去ったわけだ。ネズミの臭いを嗅ぎつけた獣の仕業とも考えられる。
 すると、そのとき。
 
「ん? どうしたの」
 
 ナズーリンの目の前で、怨霊がぐるぐると円を描き始めたではないか。いきなりの奇行に面食らったのも束の間、ナズーリンの直感が冴えを見せた。
 
「もしかして、君は知ってるのかい? バスケットと私の相棒の行方を」
 
 すると今度は、ぶんぶんと縦に上下する怨霊。頷いているつもりなのか。ともあれ、知っているなら話は早い。ナズーリンが案内を頼むと、怨霊は再び上下に揺れた。人情の機微までは解りかねるが、想像力とジェスチャーを駆使すれば、なんとか簡単な意志の疎通はできそうである。
 
「よし! だったら、急いで出発しよう。いま、こうしてる間にも、相棒は危機に瀕してるかも知れないんだから」
「地底の住人は、みんな活きのいいネズミに目がないからね。騒がしさに導かれていけば、ネズミ捕りの場面にも当たるかもよ。それが、あんたの連れかどうかは保証の限りじゃないけど」
「それでも、私は探し続ける。見捨てるなんて、できっこないんだから」
「だろうね。あんた気持ちは、私にだって解るさ。それじゃあ、キスメ。ちょっと地霊殿まで行ってくるから、留守番は頼んだよ」 
「任せといてぇ~。いってらっしゃ~い」
 
 相変わらず、のほほんとした空気を漂わせるキスメに見送られ、ナズーリンとヤマメと正体不明の怨霊は、石窟のさらに奥へと進んだ。
 
「風が強くなってきたね。それに、どんどん広くなってる」
 
 ナズーリンは眼に飛び込んでくる前髪を鬱陶しげに手で押さえながら、隣をゆくヤマメに話しかけた。まるで、侵入者を拒んでいるかのような風圧だ。この洞窟を巨大生物に見立てるなら、さしずめ彼女たちに吹きつける向かい風は異物を除去するために分泌される涙や粘液みたいなものか。
 
「これから訪ねる地霊殿ってのは、かつての灼熱地獄を封じるために建てられたのさ」
 
 さすがに長く暮らしているヤマメには、この程度の風など日常茶飯事なのだろう。涼しい顔を崩さなかった。そもそも、耳を聾する強風の中で普通に会話できていることが、ナズーリンには驚きだった。ヤマメの耳は人間のそれと大差ないサイズだが、感度はナズーリンの耳に匹敵する高性能らしい。
 
「それでも封じきれない熱が、大きな気流を生んでるんだろうね。年がら年中、強い風が吹き続けてるのさ。なんなら、吹き飛ばされないように手でも繋いであげようか、ネズミちゃん」
「遠慮するよ」
「あら、つれない。私とあんたの仲じゃないの」
「いつの間に、手を繋いで歩く仲良し同士になったって? まったくもって記憶にないんだけどな」
「ノリが悪いよねぇ、澄ました顔してさ。そんなんじゃ、人付き合いで苦労するよ。実際してるでしょ」
「ん、まあ……って、余計なお世話!」
 
 憮然とするナズーリンの周囲を、先導していた怨霊までが戻ってきて茶化すように飛び回る。叩き落としてやろうとナズーリンが振るったロッドは、あっさり躱された。これ見よがしな怨霊の余裕が、また忌々しさを募らせる。
 ――が、直接行動には及ばなかった。ヤマメの呟きが聞こえて、そちらに意識を引っ張られたからだ。
 
「でもさぁ、こんなこと言うのも、変な気がするんだけど」
「なにが」
「私は、あんたに親しみを感じてるよ」
「だろうね。捌いて食べようとしたぐらいだもの」
「はは……まあ、そんなこともあったっけねぇ。じゃなくてさ、似た者同士って言ったらいいのかしら。巧い表現が浮かばないんだけど、そんな感じ」
「ふん。つまりは、日陰者の馴れ合いたがりな心境なんじゃないのかい。私がネズミだから、身勝手な仲間意識を抱いてるだけさ。ただの妄想だよ」
「おや、あんたは嫌われ者じゃないのかい? ネズミってだけで、汚物を見るような眼を向けられたことは?」
「さあね、どうだったかな」
 
 違うと断言する根拠はなかった。ナズーリン個人が尊崇を集めたことなど、ただの一度もない。捜し物は得意だけれど、それだって他者より少し秀でた程度の能力だ。それなりに評価されているのは、毘沙門天の眷属だからこそ。主人の御威光に守られなければ、所詮ちっぽけで非力なネズミの大将ぐらいにしか見做されないと、敬仰に値しない存在だと、ナズーリン自身は常日頃から思っていた。地底に降りるや、いきなり捕食されそうになったことも、その認識を肯定しているように感じられていた。
 しかし、自分が虎の威を借るネズミにすぎないと素直に認めるのは、当然のことながら面白くない。彼女が仲間と思っている者たちが、毘沙門天の御威光に擦り寄ってきただけだとは考えたくなかったのである。
 
「忌み嫌われてはいない……と思う。帰納的推理によれば、だけど」
「少なくとも、私やキスメは嫌っちゃいないから安心おし」
「単なる食糧として、でしょ」
「あらあら、ひねくれてるわね。ま、そんなクールなとこが可愛くもあるんだけどさ。好きだよ、あんたみたいな気の強い娘」
「よしてよ、気持ち悪い」
 
 素っ気なく距離を置こうとするナズーリンだったが、僅かに早く伸ばされたヤマメの腕に、肩を捕らえられていた。逃れようとしたものの、華奢な見た目に反して土蜘蛛の膂力は強く、びくともしない、動かせない。逆にグイと抱き寄せられたナズーリンの耳元に、ヤマメの囁きと吐息が流れ込んできた。
 
「そう邪険にしないでおくれよぅ。私にだって心はあるんだ。つれなくされたら傷つくし、冷たくされたら泣きたくもなるんだからね」
「蓮っ葉に振る舞ってるくせに、実はナイーブな性格なのかい?」
「ナイーブ……か。そうかもね。地底の住人は、みんな寂しがり屋さ」
 
 ナズーリンの肩を抱き寄せたまま、ヤマメは細めた双眸を、地底世界の彼方へと向けた。すべてを呑み込まんばかりの深淵が、不気味な吐息を吹きかけてくる。それは奇妙に生暖かく、怨嗟の涙に湿った嗚咽を彷彿させ、ナズーリンの身体を戦慄かせた。
 くす……と。ヤマメは微笑して、震えるナズーリンを抱く腕に力を込めた。
 
「それも仕方がないと思わない? 地上を逐われ、暗い洞穴に閉じ込められてきたんだもの。ここは地獄の跡地だけど、いまだ牢獄には変わりないのさ。咎人ではなく、私たちを収監し続けてるんだ。ねえ、私たち『呪われた存在』と忌み嫌われた者たちが、なんで道化の真似事をしてでも笑いをとったり酒宴に溺れたり、殊更に愉しもうとするのか……あんたに解るかい? 自由な生活を謳歌してるからじゃない。そうでもしなければ堪えられないからよ。寂しくて、寂しくて、みんな頭が変になりそうだから、身を寄せ合って賑やかにしてるのさ」
 
 妖怪にとって、精神を蝕まれるほど恐ろしいことはない。それは仏の眷属ながら妖怪でもあるナズーリンも承知していた。おしなべて、妖怪は肉体的ダメージに強い。即死級の強烈な一撃を与えられない限りは、驚異的な回復力をもって消滅を免れる。反面、精神的ダメージには意外なほど脆弱で、治癒力も微々たるものだ。そして精神の崩壊とは、つまるところ存在の消失と同義だった。
 
「君たちにも、いろいろと抱えてるものがあるんだね。気が立ってたとは言え、ちょっと意地悪を言いすぎたかも知れない。すまなかった」
「いいさ。私も、柄にもなく悄気て愚痴を零したりして……恥ずかしいったらありゃしない。いまのは忘れておくれ。湿っぽいのは嫌いなんだ」
 
 陽気で気さくで、ちょっとガサツな妖怪娘だと思っていたけれど、そんなキャラクターを努めて演じていたのかと思うと、いじましくもある。ナズーリンの気持ちも僅かながら和らいだ。緊張一色だった心に余白が生まれ、好ましさへと塗り替えられてゆく。自分らしからぬ気安さを奇異に感じつつも、ナズーリンはヤマメに問いかけた。
 
「君のこと、ヤマメって呼んでもいいかい」
「――断る理由なんて、ないよ」
 
 交わされる微笑みと、親愛を湛えた眼差し。ついさっきまで、喰う者と喰われる者の関係だったのが嘘のようだ。言葉が通じたからこそ、情が移ったのかも知れない。
 
「そう言えば、まだ訊いてなかったね。あんたの名前は?」
「私は……ナズーリン」
 
 だが、過剰なまでに警戒心の強いナズーリンは、まだ完全に気を許したり、ヤマメを信じ切ったりはできなかった。
 
「見てのとおりの、失せ物捜しが好きな妖怪ネズミさ」
 
 毘沙門天の眷属であることは、ひた隠しにするつもりだった。口は災いの元。それを、よく承知していたのである。
 
 
 
  【2】
 
 
「――で」
 
 ナズーリンの見つめる先には、彼女が長く愛用しているバスケットだけが転がっていた。人っ気のない洞窟の暗がりにおいては、ひどく場違いな印象だ。ナズーリンはバスケットを手に取り、こびりつく土を払った。
 
「私が気を失ってる間に、君が相棒をここまで運んでくれたのは解ったよ」 
 
 怨霊は首肯するように、上下に揺れる。しかし、その揺れ幅は小さく、いかにも申し訳なさげだ。それは、そうだろう。肝心の相棒ネズミが、どこにも見当たらないのだから。責任を感じているのか、怨霊は宙に佇んだまま。ショボーンと擬音が付きそうな様子だった。
 
「そんなに、気に病まないでいい」
 
 見かねて、ナズーリンが吐息混じりに慰めを口にした。彼女が前後不覚に陥っている際、隙を衝いて相棒を逃がしてくれた恩人なのだから、そうするのが当然と思ったに違いない。実際、ナズーリンと相棒が一緒に捕まっていたら、相棒から先に料理されていた可能性が高い。ひと呑みにされていたかも知れない。
 
「本当に、心から感謝してるんだ。君のせいじゃない。私の相棒が、勝手に彷徨くから悪いのさ。まったく、あのトンチキは非凡だけど、食い意地が張りすぎて困るよ。お腹が空いて、食べ物を探してるに違いない」
「ってことは、匂いに誘われて旧都に向かったかもね。あそこは鬼が多く暮らしてる繁華街だし、飲み食いするに困らないはずさ」
 
 ヤマメは顎をさすりながら、示唆に富んだ話を続ける。「でも、そうなると悠長に構えてもいられないねぇ。鬼たちは気性が荒いし、あれでなかなか素早いんだ。見つかれば最後、ネズミなんかとっ捕まって酒の肴にされちまうよ」
 
 それは嫌だ。尻尾を摘まれ宙づりにされた相棒ネズミが、鬼の口の中に「んがんぐ」と消えるシーンを想像して、ナズーリンは激しく頭を振った。
 
「旧都とやらは、ここから近いのかい?」
「近いと言えば、まあ近いわね。この辺に、深い縦穴がある。そこが、地底世界との境界ってわけ。降りきったところが旧都よ」
「なら、急ごう。さあ早く」
「慌てなさんなって。縦穴の場所は一定じゃないんだよ」
「どう言うこと?」
 
 首を傾げるナズーリンに、ヤマメは肩を竦めて見せた。
 
「言ったとおりの意味さ。旧都に繋がる縦穴には守護者がいてね、そいつと共に移動してるんだ。守護者――橋姫の協力を仰がないと、旧都に行くことも、逆に旧都から出られもしないわ」
「と言うことは……私のネズミも旧都に入れない理屈じゃない?」
「橋姫だって四六時中、見張ってるわけじゃないさ。うっかり見過ごしちまうこともあるだろうね。ネズミなんて珍しくもないし、ちょろっと抜けられても気づかないと思うよ。で、逆に訊くけど――」
 
 付近に、相棒ネズミの気配は感じられないのか? 問うたヤマメの真意は、こうだ。洞窟は幾筋にも分岐しているものの、どれもすぐ行き止まりになる。まだ橋を渡れていないのなら、この辺で足止めを食っているに違いない。地形を熟知しているからこその問いかけだった。
 しばしの後、ナズーリンは弱々しく首を横に振った。相棒の匂いは疎か、ネズミの気配そのものが感知できない。認めがたいものの、状況はヤマメの推測を裏づけるばかりだ。やはり、相棒ネズミは橋姫の目を盗んで旧都に……?
 
「行くしかないね、旧都に。それで、どうやって橋姫を見つけるのさ。ヤマメが呼べば、現れてくれるのかい?」
「んー、どうかな。案外、あいつも気紛れだからねぇ。手っ取り早いのは、土産を持参することさ」
「手土産か……なるほど、餌で釣るわけだ。だったら、私に妙案がある」
「ま、だいたいの察しはつくわ。寄せ餌が釣りの秘訣ね」
「そう言うこと」
 
 顔を見合わせ、ニマリと邪悪な笑みを交わすナズーリンとヤマメ。
 ナズーリンは襟首を緩めて、深く息を吸い込むと――
 
「うわーっ! なってこったあぁぁぁぁぁ!」これ以上ないくらいに、声を張りあげた。「こんなところに怨霊が彷徨いてるよ!」
 
 調子に乗ったヤマメも、そこに和する。
 
「大変! また怨霊が逃げ出してるじゃないのさ。とっ捕まえて、鬼に引き渡してやらなきゃ」
 
 ……と、二人がかりで怨霊に飛びかかり、わぁわぁ騒ぎながら撲つわ蹴るわのタコ殴り。ヤマメとキスメを相手に八面六臂の大立ち回りを演じた怨霊も、これは完全な不意打ちだったせいか対処が遅れ、されるがままだった。
 けれど、効果は覿面。
 
「怨霊ですって?」
 
 どこからともなく、一陣の風をまといつかせた娘が宙に現れ、ナズーリンたちを見おろしていた。してやったり。そう言わんばかりのヤマメの目配せに、ナズーリンもこの娘が橋姫なのだと察した。
 
「はぁい、パルスィ。元気そうじゃないのさ。いつもながら顔色は悪いけど」
「ヤマメこそ、相変わらずね。今日もお友だちと仲良く遊んでるの? いつも孤独な私への当てつけに違いないわ、妬ましい」
「あんたにかかると、なんでも嫉妬の対象かい。それでこそパルスィだけどさ」
「嫉妬こそが私の糧であり、橋を維持するチカラの源ですもの。……で、怨霊はどこかしら。旧都まで護送するから、身柄を引き渡してちょうだい」
「その前に、私の連れを気にしないのかい?」
「連れ? そう言えば、見ない顔ね。……ネズミ?」
  
 パルスィの翠瞳が、ナズーリンを射る。また美味そうとか言われるのだろうか。機先を制し、ナズーリンがぐいと睨み返すと、パルスィは「ふぅん」と。小首を傾げたばかりで、興味を失ったように鼻で吐息した。
 
「なんの用か知らないけど、鬼に見つかる前に帰ったほうが身のためよ。あなたなんか呆気なく捕まって、しゃぶりつくされちゃうんだから」
「そうしたいけど、そうもいかないんだ。私の相棒が旧都に入ったらしくてね。探して、連れ戻さないと」
「パルスィ、あんた橋番のくせに気がつかなかったのかい?」
 
 ヤマメに詰られ、パルスィは決まり悪そうに頬を赤らめ、両の人差し指を付き合わせ始めた。
 
「だって、しょうがないじゃない。さっきまで笛の練習に夢中だったんだもの」
「誰もこないと退屈だからねぇ、ここ」
「それを知ってて会いにきてくれないなんて、ヤマメも相当なイケズよね。しかも、私をほったらかして、新しいお友だちゲットしてるなんてさ! あぁ考えれば考えるほど、心がささくれ立ってくるわ。キィーッ! 見せびらかすなんて妬ましい恨めしい。いっそ、ふたり纏めて縊り殺してやろうかしら」
 
 などと物騒なことを口走ったそばから、空中に緑色のモヤモヤした物が蜷局を巻き始める。それは意外に俊敏な動きで、ヤマメとナズーリンに迫ってきた。
 
「わっ、わっ……や、ヤマメっ、あとは任せた!」
「はぁ!? ちょいとお待ち! パルスィも落ち着きなさいよ、この馬鹿」
「どうせ馬鹿よ。ええ、ええ、そうですとも。独りぼっちで橋番しながら、笛を吹くしか能のない女だわ。ふ……如才なく立ち振る舞える利口な人たちが妬ましい。みんな死ねばいいのよ」
「うひぃー! 誰か、あのプッツン娘を止めとくれー!」
 
 馬の耳に念仏ならぬ、橋姫の耳に説得。百万言の美辞麗句も、ネガティブ変換されて一千万の恨み言になるらしい。
 我先に逃げだしたナズーリンを追いかけて、ヤマメも踵を返し駆けだした。その足元へと滑り込んでくる緑色の靄。しかし、ヤマメが緑色の靄に囚われるより、やや早く――
 
「ふごっ!?」
 
 すこーん! と、ひどく間抜けな音がした直後、ぼてっ……とパルスィが墜ちてきた。それと同時に緑色の靄も消え失せ、辺りはまた吹き抜ける風の音ばかりに包まれた。
 ナズーリンとヤマメは咄嗟に理解できず、顔を見合わせ、怖々とパルスィに近づく。パルスィの額は、なにかで強打されたらしく赤く腫れていた。軽い脳震盪でも起こしたらしい。この程度の物理的ダメージなら、すぐに回復するだろう。
 
「いったい、なにが?」
 
 ナズーリンの呟きは、ヤマメの感想でもあった。狐に摘まれたような面持ちの彼女たちは、次の瞬間、脳天に加えられた衝撃で全容を把握した。
 
「痛たたた……ま、また君の仕業か」
「くぅ~……手加減なしだね、この怨霊は。さっきの意趣返しってかい?」
 
 脳天をさするナズーリンたちの前に浮かぶ怨霊は、どこか誇らしげだ。助けてやったんだから、恩に着なさいよ。そう言わんばかりである。
 
「まあ、これは認めないわけにいかないね。橋姫を誘いだすためとは言え、タコ殴りにして悪かった」
「この礼は、きっとするよ。地底者は義理堅いんだ。……っと、あっちも目を醒ましたらしい」
 
 微かな呻き声に振り返れば、パルスィが横たわったまま額を押さえていた。
 
「具合はどうよ、パルスィ」
「……まさか、怨霊に殴られるとは思わなかった。しかも気絶してしまうなんて、かなりショックだわ」
「あははっ。解る解る。私も、あいつには痛い目に遭わされたからね」
「ヤマメも?」
「油断大敵ってやつよね。ま、あんたもさ、やたらと嫉妬するのはおよし」
「できない相談よ、それは。ええ、無理だわ」
 
 パルスィは、ふと表情を翳らせた。
 
「ふたつの異世界をひとつに繋ぐために、橋は必要不可欠なもの。そして、嫉妬を自在に操ることでチカラを蓄え、橋を維持するのが私の役目。私こそが橋そのものなの。私が消えれば、地底と地上は分断されてしまうわ」
「それにしたって、嫉妬じゃなくてもいいと思うけど」
 
 ナズーリンの言い分を、「解ってないのね」とパルスィは笑い飛ばした。
 
「地底に追い落とされた妖怪たちは、地上を羨み、妬んだ。一方、地上に暮らす妖怪たちもまた、地底世界が保有する豊富な資源と強大なチカラに関心を持ち、羨んだ。両者の妬みと羨み、彼らの暗い情念が、私を介して地底と地上を強固に結びつけたのよ。あるいは、それが私という存在を生みだしたのかも知れない。ともあれ、おそらく地底と地上は、これまで以上に相互を意識し合うでしょうね。未練という名の橋が、その役目を終えることは当分ないわ」
「確かにねぇ、この前みたいな強い人間がきたら、その実力が妬ましくなっちまうよ」
「あの巫女と魔法使いね。ふふ……まったく、呆れるほど人間離れした強さだったわ」
「なぁに、次に会ったときは地底妖怪の意地に掛けて、リベンジしてやるさ。やられっぱなしは、私の趣味じゃないんでね」
 
 ヤマメとパルスィは愉快そうに笑い合ったが、ナズーリンには、なんのことやら。彼女の視界の隅で、怨霊が居心地悪そうに揺れているのは、同じく蚊帳の外にされたからだろうか。それとも、まさかヤマメたちの話に思い当たる節でもあるからなのか。
 いずれにしても、ナズーリンは、いちいち詮索する気になれなかった。地底には地底なりの、地上には地上なりの、それぞれ言い分があるに違いないが、ナズーリンにとって重要なのは相棒ネズミの安否であり、次点で飛倉の破片を集めることだ。他の要素になど、関心を注いでいる余裕はなかった。
 
「楽しいお喋りを邪魔して悪いけど――」皮肉を込めた裏腹の前置きは、お約束。
「そろそろ旧都に入らせてくれないかな。急ぐんだ」 
 
 それについてはパルスィが難色を示した。
 
「さて、どうしようかしら。一応、旧都に赴く目的を訊かせて欲しいものね。橋の守護者として、不埒者を通すわけにもいかないの」
「だろうね。私の目的は、さっき言ったとおりだよ。相棒のネズミを探して、連れ戻したいだけ」
「私はナズーリンの付き添い。不必要なトラブルを避けるためにね」
「じゃあ、そっちの怨霊は――」
 
 やおら、思案顔で懐をまさぐりだすパルスィ。すぽんと抜きだした手には、ポケットサイズの薄い小冊子が収まっていた。ナズーリンとヤマメは眉間に皺を寄せて、しげしげと小冊子を眇めた。
 
「なに、それ?」
「やぁね、もぉ。ヤマメも持ってるでしょう。この前、怨霊が溢れでたときの反省を活かして、再発防止策にって無料配布されたはずよ」
「さぁてね……あぁ! もしかして、それって幽パックで送られてきた?」
「ええ。差出人は、地霊殿の主人よ」
 
 聞くなり、ヤマメは天を仰いで、額をぴしゃりと叩いた。
 
「あちゃー。それなら受け取ったけど、開封しないまま放り投げっぱなしだわ。部屋のどっかで埃かぶってるね、きっと。あはは……」
「もう……暢気なんだから。あなたの、そんな脳天気なところが妬ましいわ」
「だってさぁ、あの娘はどうも苦手なんだよ。あんまり交流がないのに、いきなり荷物を送りつけられてもね、なんか怪しい感じするじゃない。見たところ中身もたいした物じゃなさそうだし、開けなくて正解だったわ」
「まぁ、そうかもね。私も今日、初めて使うもの」
  
 タイトルには『三分でマスター! 猫でも解る、さとりんのカンタン霊会話』とある。どうやら、幽霊や怨霊との会話を目的とした手引き書らしい。辞書と呼べるほどの代物ではなさそうだった。
 
「幽霊や怨霊はボキャブラリーが乏しいから、割と簡単に意志を読めるそうよ。アルキメンデスを食べながらでも、マスターできるんですって」
「ねえ、ヤマメ。アルキメンデスって、なんなのさ」
「最近、地底で流行ってるインスタント食品よ。トロッとした具をかけて、歩きながら食べられる麺ってことで、アルキメンデス。ま、麺と称しちゃいるけど、ぶっちゃけミミズでね」
「ほほぅ、それは美味しそうだ」
「旧都にいけば、好きなだけ食べられるよ。奢ったげる」
「楽しみにしてるよ」
 
 ナズーリンが地底の食べ物について簡単なレクチャーを受けている間、その隣ではパルスィが顰めっ面で『カンタン霊会話』を熟読していた。釈然としない面持ちで、「うーん」と呻る。
 
「三分くらい読んでみたけど……本当にマスターできたのかしら。嘘だったら妬んでやるわ」
「妬んでどうするのよ」
 
 ヤマメのつっこみを無視して、パルスィは小冊子を片手に、怨霊を見据えた。
 
「教えなさい。あなたの目的は、なに?」
 
 それに答えるように、怨霊が微妙な明滅を繰り返す。音声ではなく、輝き方で意志の疎通をするとは、なんとなくホタルっぽい。けれど、それが逆にリアルな印象も生み出していた。脇で見守るナズーリンのヤマメの瞳も、あるいはと期待に輝いている。まさに簡単にして感嘆の霊会話。
 
「えぇ……と。ワ・タ・シ……ト・リ・モ・ド・ス……カ・ラ・ダ」
「身体を取り戻すだって? 君は、もう死んでるのかい?」
「なに戯けたこと言ってるの、お間抜けなネズ公ね。死後、三途の川を渡る前に亡骸を奪われてしまうと、その魂は怨霊になる。ここに、そう書かれているわ」
 
 嘲りと共にパルスィがナズーリンの鼻先へと突きだした冊子には、確かに書いてある。すると、この怨霊は自分の亡骸を取り返すべくナズーリンに付きまとい、果ては地底に降りるよう仕向けていた……と? そうまでして成仏を望むのなら、協力するに吝かでない。毘沙門天の眷属としてではなく、ひとりの妖怪として、何度か助けられた恩を返すためだ。
 決意を新たにするナズーリン。胸元で握り締めた両の拳と、燃える瞳がその証し。しかし、彼女の横から聞こえてきたのは、水を差すような溜息。ヤマメとパルスィが表情を翳らせているのを眼にして、ナズーリンは訝しげに眉根を寄せた。
 
「どうしたの、ふたりとも。辛気くさい顔して」
「いやぁ……ちょいとね、心当たりがあってさ」
「なにが? もしかして、怨霊の正体を知ってるのかい?」
「そっちじゃなくて。いるのよ、強くて美しい人間の死体収集が趣味っていう、困ったちゃんなニャンコが。そうよね、ヤマメ?」
「ああ。ついこの前、間欠泉を通して地上に怨霊が溢れでた件だって、あの猫の仕業らしいって専らの噂だからねぇ。とんだ悪戯者さ」
  
 よりにもよって、犯人は猫? 奇妙に思ったナズーリンだったが、怨霊が『猫』に過敏な反応を示したのを見て、考えを改めた。当たらずも遠からずどころか、ドンピシャ大正解らしい。怨霊の激しい明滅と霊会話テキストを何度も見比べながら、パルスィが解読する。
 
「ツレテイケ ワタシ ソイツ シツケル、ですって」
「請われるまでもないよ。ちょうど、地霊殿にもいく予定だったし。その猫は地霊殿の主が飼ってるペットでね。旧都でナズーリンの相棒を捜してからになるけど、それでもいいかい」
「……リョウカイ、だそうよ」
「なら、決まり。すぐに出発しよう、ヤマメ」
「はいよ。それじゃ、ちょいと橋を渡らせてもらうよ、パルスィ」
「ええ、いってらっしゃい。せいぜい、手でも繋いで仲よく進むことね。道中の安全を妬んであげるから」
 
 つまりは、彼女が妬むことで旧都への橋は安定性を増すと――そう言うことなのだろう。ナズーリンたちは、パルスィのややこしい物言いに微苦笑しつつ、底の見えない縦穴へと身を躍らせた。
 三人の姿が、すっかり深淵に呑み込まれてしまうと、
 
「本当に、妬ましいこと」
 
 パルスィはシニカルな笑みを湛えた唇に、懐から抜きだした笛を、艶めかしく宛った。彼女に紡ぎだされる音色は、か細く、儚く。洞窟を抜ける風と相俟って、物悲しい雰囲気を漂わせる。けれど、掠れようとも途切れることはない。
 ふたつの個を結んで対となす堅牢な絆。その強かさも、彼女の奏でる調べは内包していた。
 
 
 
  【3】
 
 
 それにしても――と、ナズーリンは昂る感情を懸命に抑えながら、思う。

「うーん。なんとも奇妙な展開になったものだ」
 
 彼女の前に広がるのは、喧噪と饗宴の坩堝。地底の巨大な空間には、長屋風の家屋が所狭しと立ち並び、往来には数え切れないほどの人影。ちらほらと、赤提灯を吊した屋台も見える。呆気にとられながら天を仰げば、幽霊や怨霊に混じって、なにやら眩い光線がチリチリと音を立てて飛び交っている。この賑わい、まさに『眠らない街』と評するのが相応しく思えた。
 
「ふふーん、驚いたかい?」
 
 呆然と立ち尽くすナズーリンの肩に腕を回して、ヤマメが得意顔で鼻を鳴らした。この土蜘蛛娘、どうやら仲良くなったら『べったり型』な性格らしい。寂しがりなのは仕方がないとしても、やたらと触れ合いたがるのは、いかがなものだろう。ナズーリンはジロリと横目で睨み鼻白んでみたものの、どっこい逆効果。ヤマメは相方の動揺を察してか、却って挑むように顔を近づけてきた。
 
「ねぇ、どうなのさー」
 
 からかわれている。ナズーリンは鬱陶しげに肩を竦めたが、反抗的な態度は、そこまで。ヤマメの問いには素直に頷いておいた。その点は認めざるを得ない。
 
「正直、予想外だったよ」
「ま、無理もないよねぇ。まさか、地底がこれほど活気に溢れてるとは思わなかっただろうし」
「旧都と言うから、もっとこう……ゴーストタウンと言うか、寂れて閑散とした感じだろうと、勝手に想像してた」
 
 ところが、どうだ。もう一度、ぐるり見渡して、ナズーリンは思いっきり息を吸い込んだ。料理や人いきれ、種種雑多な臭いが鼻腔に流れ込み、肺腑を満たす。それは彼女の胸に、奇妙不可思議な感情をもたらした。端的に言えば、昂揚感とか、懐旧の情に近い印象だろうか。
 ナズーリンは高鳴る胸元に拳を握り、眩しげに大都市の雑踏を観察した。
 
「いいね、この空気。匂いとか音とか、熱気とか。なんだか、ずっと昔に感じたことがあるような……懐かしい気がするよ。遠くから眺めてるだけなのに、お祭りに行くときみたいにワクワクする」
「それが地底の文化ってやつさ。寂しさや、地上への未練とか怨嗟を抱えて自暴自棄になるよりは、パーッと陽気に騒いだほうが前向きだし、愉しいじゃないか。まぁ、開き直りの成り行き任せだわね。威張れることじゃないか」
「いやいや、開き直って騒げる仲間がいるだけ幸せじゃないのかな。ヤマメが羨ましいよ」
「お? なんだか感傷的ね。旧都の賑わいを見て、地上が恋しくなったかい?」
「そうだね。んー、でも、恋しさよりは心配って気持ちが強いかな。なにしろ私がいないと満足に捜し物もできない連中だから。まったく世話が焼けるよ」
「あんたも苦労してるんだねぇ」
 
 ふと、寅丸星のことがナズーリンの頭に浮かぶ。それから、ただひとつの理想で結びついた仲間たちに想いを馳せた。同じ夢を見て、歓びを分かち合うこと。それが、目下のところの切望だった。相棒ネズミを救出する名目で、こんな場所にまで踏み込んではいるが、元々は仲間たちのために飛倉の破片を探索していたのだ。
 
(みんな、どうしてるかな? 行方知れずになった私を、捜してくれてたりして。それとも、まさか……)
 
 基本的に、のんびり屋な面々である。寅丸星などは「帰りが遅いですね~」とか、暢気に構えている姿が容易に想像できた。雲井一輪に至っては「あのネズミ、どこでサボってるんだか」なんて悪態を吐いているに相違ない。まあ、結果として、サボりに近い状況となっているから、ナズーリンとしても強く反撥できないところではあるが。
 
「やれやれ、どんな難癖つけられてるか解ったもんじゃない。早く片づけて帰るとしよう」
「そりゃ異議なしだけどさ、どう探すのよ。相棒だって言うのなら、気配で辿れないのかい?」
「いや、それは――」
 
 ロッドを構えようともせず、ナズーリンが満面に苦渋を貼りつける。「無理だね。ネズミの気配が多すぎる」
 
 旧都は、多くの地底者が暮らす場所。主な食材であるネズミ、ミミズ、キノコの集積地となるのは、これまた当然の成り行きだ。ナズーリンが気配を辿った数匹は、ほとんどが調理待ちの食用ネズミに違いなかった。野良ネズミや、ペットとして飼われているネズミなどは、全体の一割にも満たないだろう。
 
「まさかとは思うけど……助けたい、とか考えてる?」
 
 渋面の意味を曲解したらしく、ヤマメまでが不安げに眉を曇らせる。食用ネズミの命運について、ナズーリンが胸を痛めていると思ったのだろう。だが実際には、思うに任せない状況が歯がゆくて、臍を噛んだにすぎなかった。
 
「いいや。ネズミたちに大号令をかけるのは簡単だけどね、それは私の本意じゃあない」
「そりゃよかったわ。もしも治安を乱すような真似をするつもりなら、私はナズーリンを取り押さえなきゃいけなくなる」
「徒に混乱を招けば、ヤマメの立場だって悪くなるものね。最初はいろいろあったけど、それなりに君のことは気に入ってるんだよ。迷惑はかけられないさ」
「嬉しいこと言ってくれるねぇ」
 
 それに、とナズーリンは続ける。
 
「すべてのものは、生まれた瞬間に割り振られた役割を演じているんだ。己が身を養うためにする仕事とは違う、本当の役割をね。そのようにしか生きられないんだよ。自覚しようと、しまいと」
「殺されて料理されるのも、役割ってのかい?」
「確かに、食べられてしまうのは可哀想かも知れない。でも、そんなものは所詮、一時的な感傷でしかないのさ。食べてしまえば、もうほとんど省みたりしないでしょ。そう言うことなんだよ。むしろ大切なことは、食べた側の生命が育まれ養われている事実さ。それが調理されたネズミたちに与えられた役割であり、彼らは立派に務めきったんだ。だから、私はいつも思ってる。哀れむよりも讃えるべきだってね」
 
 ナズーリンは言いながら、ふと、奇妙な感覚に襲われた。自分の言葉が、自分のものではないように感じられたのだ。かつて、誰かに聞かされた台詞が、無意識のうちに記憶の淵から浮かび上がってきたのかも知れない。
 だとして、では誰が言った台詞だったのか……。少なくとも、寅丸星とその仲間たちは違う。彼女たちと出逢うより古い話だ。
 
 
 ――でもね、それは貴方が産まれた瞬間にはもう決定されていた役割なの。
 ――みんな認めようとしないけれど、決まっていたことなのよ。
 
 
 ナズーリンの記憶が、徐々に掘り下げられてゆく。
 その『誰か』は、こうも語っていた。
 
 
 ――斯く語る私も、実のところ自分の役割を知っているわけじゃない。
 ――ただ、私と貴方がここで出逢ったことは、お互いの役割に含まれている。
 ――それだけは確実よね。
 
 
 回想の続きは、ヤマメの暢気な声に中断された。
 
「ほぉほぉ……讃えるべき、か。なるほど、そんなふうに考えたことはなかったよ。にしても、なんだか神仏の説教みたいな内容ねぇ」
「えぇ? そ、そうかな?」
 
 敢えて素っ気ない答えを返すナズーリンだったか、内心は焦っていた。これを端緒に毘沙門天の眷属であることがバレたら、どうしよう。そんな不安に駆られていた。
 
「あれ? でもさぁ――」
 
 肩を組んだままだったヤマメが、意味深長な流し目を寄越す。なにを言いだすつもりか。もしや、正体がバレた? ナズーリンが身を強張らした、次の瞬間。
 
「それなら、あんたも私に食べられるのが、本来あるべき役割じゃないのかい?」
 
 ぺろり。頬を舐められたナズーリンは、黄色い声を放って身体を戦慄かせた。彼女の動揺が伝播したものか、一部始終を見ていた怨霊までが気まずそうに震えている。生前はどんな人間だったか知る由もないが、いまのウブな反応を見る限り、少年少女くらいと推定したところで当たらずも遠からずだと思えた。
 
「ちょっと! 悪ふざけは、よしてくれないかな。私は遊びにきてるんじゃないんだ」
「あはっ……ごめんよ。でも、なかなかいい出汁がとれそうよ、あんた」
 
 まったく悪びれた様子がない。ナズーリンも毒気を抜かれて頭を振った。
 
「これだもんなぁ、もう。ヤマメって案外、食いしん坊だよね」
「そりゃ、生きる歓びってのは、食べる愉しみでもあるもの。まあ、私は冗談で言ってるけど、他の連中まで同じと思わないほうがいいわ。あんたが旧都を歩き回れば、襲われないとも限らない。ううん、きっと食おうとするから。そうなれば、私でも庇いきれるか解らないねぇ。少しは腕に自信があるけどさ」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「とりあえずは、その耳と尻尾を隠すこと。変装したら、旧都の顔役に助力を頼みにいこうか。ちょいと顔見知りがいるから」 
「顔役?」
「鬼さ。旧都の治安維持と怨霊の管理は、鬼の一族が担ってるんだ」
 
 鬼と聞いて、ナズーリンは怖れるよりも親近感を覚えた。なまじっかの妖怪と比べたら、よっぽど神仏に近い存在である。その中でも顔役ともなれば、毘沙門天の眷属である八大夜叉大将に匹敵する力量の持ち主だろう。
 
「ほら。こいつで、ほっかむりしな。尻尾はスカートの中に収めて。そのペンデュラムも目立つから、シャツの中に入れておきなよ」
「う、うん……解った」
 
 その辺に干してあった洗濯物を、ろくに品定めもせずに持ってきたらしい。ヤマメが差しだしたのは、どう見ても褌である。
 しかし、選り好みしている猶予もない。いまこの瞬間、相棒が食べられかけているかも知れないのだ。それは、相棒ネズミ生来の役割とは違う。ナズーリンは、そう信じたかった。ここで喰われるために、相棒は生きてきたのではない、と。それに、遊びにきてるんじゃないと見得を切った手前、ぐずるわけにいかなかったのもある。ナズーリンはヤマメの手から褌を引ったくると、ターバンのように頭に巻いた。
 
「これで、どう?」
 
 なにかの拍子に耳が飛びだしては敵わないので、かなりきつく締めてある。そのためナズーリンの聴力は著しく悪化し、しかも血流が滞って、痛かった。
 
「これ、あんまり長くは我慢できそうにないな。ヤマメ、早く案内して」
「じゃあ、ちょいと走るよ。ついといで」
 
 言ったはいいが聞こえにくいだろうと慮ったらしく、ヤマメは徐にナズーリンの手を握って走りだした。腕には多少の自信があると称するとおり、ヤマメの引っぱる力は強い。ややもすると、凧のように宙を飛んでしまいそうで、ナズーリンを慌てさせた。
 しかし、彼女に驚きと困惑を与えたのは、そればかりが理由ではない。およそ思い出せる限りで、誰かと手を繋いで走った記憶がなかったからである。さらに言い足せば、この奇妙な疾走を面白いと感じているのが意外だったのだ。
 
「愉しいね」
「ん? なんか言ったかい、ナズーリン」
「いや……別に、なんでもないよ」
「ふぅん?」
 
 にこやかに言うナズーリンを怪訝そうに見つめ返したものの、ヤマメは強いて質問を重ねることなく、脚を止めることもなかった。
 旧都の喧噪を縫って、ふたりと怨霊は中心部に向かって走り続けた。
 
 
   ▼
  
 時間にすれば、およそ15分かそこら。ヤマメに連れられ旧都の中心部に足を踏み入れたナズーリンは、目の前に建つ番屋の重苦しい雰囲気に、すっかり怖じ気づいていた。鬼と言ってもピンからキリまでだが、神仏に匹敵する力を持つ者がざらにいるのも事実である。番屋から漂ってくる圧力は、文字どおり鬼気迫るものがあった。およそ徒者ではあるまい。
 
「どうしたのさ、ナズーリン。怖い顔しちゃって」
「そ、そんなこと……ないけど?」
「そんなことあるっての。あんまり挙動不審だと、要らない誤解を受けるよ」
「この格好からして、既に不審者だけどね」
「あははっ、そりゃ違いないわ。頭に褌なんか巻いてるんだからさぁ」
「なっ!? 適当に持ってきたんじゃなかったのっ?」
「いやいや」
「だぁぁっ! ひどいよヤマメさん」
 
 してやられたと歯噛みしても、あとの祭り。ここまで辿り着くのに変装は不可欠だったし、慌てていたのも確かだ。すべて、仕方がなかったのだ。
 ナズーリンは褌を解く気力も失って、憂鬱そうな吐息を漏らした。
 
「いいよ、もう……。君の顔見知りの鬼さんと、早いとこ話をつけてしまおう」
「はいよ。勇儀ぃ、いるのかーい」
 
 ヤマメは軽い調子で呼びかけながら、番屋の戸を開いた。いかにも、親しい者同士の寛容さが感じられる。でなければ、戸板ごしにも他を圧倒する迫力に対して、こんな陽気に振る舞えるはずがない。とんでもない鈍感ならば話は別だが、ヤマメがそうだとは思えなかった。
 
「おう、ヤマメかい。久しぶりじゃないか」
 
 轟くような声と下駄の音も高らかに、ひとりの鬼が、大杯を手に衝立の向こうから歩みでてきた。見上げるほどの巨躯で、額には力の象徴と言わんばかりの角が一本。両の手首には鈍色に輝く枷と、太い鎖。ばさっと手櫛で梳いたような金髪に粗野で蓮っ葉な印象を醸しているものの、身なりや容姿には確かな女性らしさも現れており、質実剛健を地でいくような鬼だ。毘沙門天の眷属であるナズーリンにとっては、ある意味、寅丸星やその仲間たちよりも慣れ親しんだ存在だったかも知れない。
 
「急に顔なんか見せて、どうしたの? あぁ、酒の差し入れなら大歓迎だよ」
「お生憎、差し入れにきたのは面倒事よ」
 
 鬼――星熊勇儀は、「ほぅ?」と右の眉を吊りあげた。口元に微笑を浮かべてはいても、眼が笑っていない。ナズーリンと怨霊の間を行き交っていた勇儀の鋭い眼光が、ひた、と止まる。
 
「その面倒事ってのは、こっちの娘のことね」
 
 地底において、怨霊は珍しくない。勇儀の判断は、単純な消去法によるものだろう。
 徐に伸びてきた勇儀の手がナズーリンの顎に添えられ、上を向かせた。それに留まらず、勇儀は身を屈め、ナズーリンの眼を無遠慮に覗き込んでくる。まるで、額を鋭利な角で突き破られそうな勢いだ。気の弱い者なら威圧感だけで失神することもあろうが、毘沙門天の眷属は、そこまでヤワではない。ナズーリンは毅然と、勇儀を睨み返した。
 
「は! こりゃまた跳ねっ返りの強そうな娘だね。いい眼をしてるし、なかなか可愛いじゃないか。気に入った! 思わず食べてしまいたくなるくらいにね」
 
 愉快そうに目尻を下げたのも一瞬。「しかし、見ない顔だ。地上者かい? それに……わずかながら、ネズミの匂いがするね」
 
 恐るべし鬼の嗅覚。鬼は元々、魑魅魍魎の中でも特に身体能力の優れた種族だが、暗い地底に暮らし続けて聴覚や嗅覚がさらに研ぎ澄まされたのだろう。よもや正体までは見抜かれていないと思うが、それでもナズーリンの背筋には、嫌な汗が滲みだしていた。
 やれやれ、とヤマメは肩を竦めながら、両者の間に割って入る。
 
「まぁ端っから、あんたを誤魔化せるとは思ってなかったけど」
「それだって、よほど近づかないと嗅ぎ取れなかったさ。ヤマメの移り香に、かなり覆い隠されてるからね」
「えっ? もしかして、ヤマメが私にベタベタくっついてきたのは、そのために――」
 
 寂しがりだと言うから、てっきり甘えているのだとナズーリンは思っていた。けれど、勇儀の話を聞く限り、それは別の意図による行動だったらしい。当のヤマメは「たまたまよ」と苦笑って見せるが、どうにも芝居がかっている。空惚けているのは、誰の眼にも明らかだった。
 素直じゃないねぇ。ヤマメをからかったのも束の間、勇儀は、やおら表情を引き締めてナズーリンを見据えた。
 
「それで、私にどうしろと言うんだい? このネズミっ娘を地上に送り返す程度なら、ヤマメにだってできるだろうに」
「どうか、私のネズミを探すのを手伝って欲しい。大切な相棒なんだ」
 
 ここぞとばかり、ナズーリンは率先して頼み込む。さすがに鬼の性格は熟知していた。ごちゃごちゃ回りくどい言い方は嫌われる。白々しい嘘もだ。しかし情に脆い面もあるので、要点を話して訴えかければ同情を引きやすい相手だった。
 
「洞窟の入り口付近で、はぐれてしまって……。あいつ、橋姫の隙を衝いて旧都に潜り込んだらしいんだけど、それからの手懸かりがなくて困ってるんだ」
「そりゃあ、そうだろうさ。旧都には無数のネズミがいるんだ。その中から一匹だけ探そうったって、簡単な話じゃないね」
 
 勇儀は言って、ナズーリンに大杯を突きつけた。
 
「でもまあ、あんたの心意気によっては手を貸してあげようじゃないか」
「呑め、と?」
「郷に入りては郷に従え。訪れた理由はさておき、私らの街にきた以上は、私らのルールを受け容れるのが筋ってもんだろう」
 
 ひとつの杯で、同じ酒を呑む。これも立派な通過儀礼である。同じ釜の飯を一緒に食えば、なお結構。だが同時に、黄泉竈食ひの意味も思い出された。
 ナズーリンは大杯を覗き込んで、こくりと唾を呑み込んだ。一見して鮮血と思われる液体が満たされている。漆の赤よりも、さらに深く鮮やかな紅。匂いを嗅いでも、うっすらと酸味を感じる程度だ。人間の血か、動物のものかまでは判別がつかなかったが、後者だとしたらネズミの血である可能性が高い。
 
「戴くよ。それで協力してもらえるなら、喜んで」
 
 勇儀から両手で杯を受け、ナズーリンは躊躇いなく、化粧っけのない唇に赤い液体を流し込んだ。
 ……が、血液に特有の生臭さはない。ばかりか、仄かに甘酸っぱくて、口当たりや喉ごしも悪くはなかった。むしろ美味しい部類に入るだろう。もう一口ぐいと呑んで、ぺろりと舌なめずり。ナズーリンが口の端から零れた酒を手の甲で拭い、素直な感想を述べつつ大杯を返すと、勇儀は呵々大笑した。
 
「あんたは初めて呑むだろうね。これはキノコから作った、地底限定の濁り酒さ。貴族の娘を拐かして生き血を搾ったり、その肉を喰らってたのも、いまは昔ってね」
「もう人間は食べてないの?」
「人間の肉や血は、地底じゃもう稀少品よ。みーんな代用品ができちゃって、それほど需要もなくなった」
「その辺の話は、さっき私が説明してあげたでしょ、ナズーリン。あの怨霊漏洩事件以来、ようやく地上とちらほら交流が再開され始めたけどさ、以前ほど人間を食べたいとは思わなくなったわね」
「あの殴り込んできた巫女と魔法使いは、人間だてらに強かったよねぇ。私も久しぶりに血が騒いじまって、しばらく眠れなかったわ。旧都の連中もさ、まさか私まで負かされるとは思わなかったらしくて、いまだに語り種になってるよ」
 
 勇儀とヤマメのやり取りに、ナズーリンは驚きを露わにした。パルスィとの会話でも小耳に挟んだが、どうやら鎖国状態だった地底に旋風を巻き起こした巫女と魔法使いがいるらしい。しかも、ふたりとも人間だと言うではないか。妖怪が脆弱な人間風情に後れをとるなど、同じく妖怪であるナズーリンには到底、信じられる話ではなかった。
 そして隣りに目を向ければ、前回と同様に、やはり怨霊が不審な動きをしている。単なる気のせいか。それても、巫女と魔法使いと、怨霊――なにか繋がりがあるのだろうか。
 気にはなる。しかし、いまは驚異的な人間の詮索よりも、優先すべきことが残っている。ナズーリンが焦れて促すと、勇儀は鷹揚に頷いた。
 
「もちろん手を貸すさ。あんたはもう、私らの仲間だ……ナズーリンだったね。私の名にかけて誰にも手出しさせないから、そんなもの取っちまいなよ」
「助かるよ。これ、耳を締めつけてるから痛くて仕方がないんだ。じゃあ遠慮なく――」
 
 そそくさと頭から外されたのが褌だと解ると、勇儀は腹を抱えて笑い転げた。その様子を満足そうに眺めるのはヤマメ。ナズーリンだけが、笑い者にされて憮然としている。
 
「ごめんごめん……笑ったりして悪かった。とにかく、詳しい話を聞かせてもらおうじゃな……ぶふっ! あー、やっぱりダメ! あははははっ!」
「あのー、そう言うお約束は間に合ってるんだけど」
「ひ~、苦しい。腹筋……切れ……ちゃう~」
 
 眦に溜まる涙を指の背で拭いながら、勇儀が呼吸を整えながら言う。

「……はぁはぁ……よ、よし落ち着いたよ。それで、あんたの相棒に目立った特徴は、ないのかい? 手懸かりは多いほうがいい」
「大きさは猫ぐらい。銀毛で、小太りぐらいしか」
「なるほどね。充分すぎる特徴じゃないのさ。早速、伝書コウモリを飛ばして情報を集めるよ。さて……返事を待つ間に、もうひとつ片づけておかないとね」
 
 なんのことだろう。訝るナズーリンとヤマメを余所に、勇儀は射竦めるような眼を怨霊に向けた。それまでの和やかなムードから一転、いまにも掴みかからんばかりの勢いだ。
 
「あんた、何者だい? ヤマメたちに同行してる意図が解せないね。地底に徒なす危険分子ってほどでもなさそうだけど」
「それなんだけどさぁ、勇儀ぃ。この怨霊、どうも地霊殿の猫に死体を奪われたらしいのよ。自分の身体を取り返すため、ナズーリンと一緒に地底へ降りてきたんだって」
「お燐の仕業だって? まぁた、あいつは」
 
 勇儀は、いかにも憂鬱だと言わんばかりに溜息を吐いて、わしわしと頭を掻いた。
 
「確かに、あの娘は強くてかっこいい人間の死体を集めるのが好きだからね。怨霊になってることを鑑みても、その可能性は高いか。お燐が認めるくらいの力量を持った人間となると、そう多くないだろうね。名前は?」
「知らん。と言うかね、怨霊と意志の疎通を図るのが、これまた面倒で。カンタン霊会話って冊子を使ってみたら、まあ口で言うほど簡単じゃないったらさぁ」
「はは……三分でマスターってのは、まあ誇大広告だよね。仕方がないな――」
 
 と、やおら胸元をまさぐる勇儀。再び引き抜かれた彼女の手には、こぶし大の丸い物体が握られていた。よく見れば眼球を模したデザインらしい。血管こそ走っていないから不気味さも和らいでいるが、あまりいい趣味ではないなと、ナズーリンは肩を竦めた。
 ヤマメも初めて見る物なのか、勇儀の手元に好奇の眼差しを注いでいる。
 
「ねえ勇儀、なにこれ?」
「山に古い友人がいてね。そのツテで、河童に翻訳機のプロトタイプを作ってもらったんだ。触れるだけで霊のキモチが解る『サトリンガル』だって」
「外観も大概だけど、ネーミングも呆れたセンスだねぇ」
「私も、まったくヤマメに同感だよ。機能的には信頼できるの、それ?」
 
 訊ねるナズーリンに、勇儀は胸を張って応じる。
 
「どっこい、これが初使用でね。さぁて、本当に動くかどうかも怪しいね」
「いいのかなぁ、そんな適当で」
「地上者は、せっかちでいけないねえ。駄目だったら、また別の方法を考えればいいのさ」
「それもそうか」
 
 あっさり納得のナズーリン。勇儀が『サトリンガル』のスイッチをオンにすると、ひゅいひゅいひゅい……と、奇妙な起動音が番屋の屋内に鳴り響いた。そこからして既に充分すぎるほど胡散臭いが、勇儀は気にするふうもなく、この珍品を怨霊に押し当てる。
 
「災いの種になりそうなものを摘み取るのが、私の役目でもあるのでね。気を悪くしないでおくれよ」
 
 勇儀の立場も承知の上らしく、怨霊はされるがままになっている。弾幕勝負の腕前からして目を瞠るものがあったが、頭も相当に働くようだ。
 どんな人間だったのだろう? いつしか、ナズーリンは怨霊の正体について考えを巡らせていた。相棒のネズミを安全なところに避難させたり、囚われのナズーリンを救出しに戻ったり、やることに如才がない。そこは利己的な面も多分にあるかも知れないが、独善的な正義感に偏っている部分も、それなりにあるようだった。
 見たままの特徴を手懸かりに、いろいろとイメージを膨らませる。
 しかし、ナズーリンの脳裏に確かな像が結ばれるより早く、チカチカ点滅していた『サトリンガル』の瞳に、じわりじわりと白文字が滲みでてきた。
 
「えーと、なになに? おしっこしたい……?」
 
 バギャッ! 音読した勇儀の頭に炸裂する怨霊アタック。その反応だけで、居合わせた三人には状況が把握できた。
 
「はっはっは……どうやら変換ミスだったみたいね。それにしても気の強い怨霊だこと」
「まったく、とんだ『じゃじゃ馬』ならぬ『じゃじゃ怨霊』さ。私とキスメも、ほぼ一方的に痛めつけられたのよ」
「へぇ? そりゃまた驚きだね。ますます興味が湧いてきた」
 
 勇儀の言を受けて、ナズーリンが憂鬱そうな溜息をもらす。
 
「その意見には全面的に賛同するけど、肝心の手段がこの体たらくじゃあね……。致命的欠陥品じゃないの、それ?」
「いやいや、まあお待ちよ。短気は損気って言うだろう。まだサンプリングが充分じゃないから、おかしな翻訳になってるだけかも知れないよ。取り説にも、使えば使うほど精度が高くなると書いてあるし」
「ふぅん? そんな仕様になってるのかい。河童の技術ってのも侮れないねぇ。もう一度、試してごらんよ勇儀」
「あいよ」
 
 再び、サトリンガルが押し当てられる。チカチカと読み取っている間がもどかしいらしく、ナズーリンとヤマメは左右から、勇儀の手元に頭を寄せた。文字の表示とほぼ同時に反応したのは、ナズーリンだった。
 
「あ、出た。よ……よとり?」
「鵺と書いて『ぬえ』と読むんだってば。しょーもないネズ公ねぇ」
「ヤマメこそ、ほんの幼気なボケを真に受けないでよね」
「ホントにボケだったの?」
「ごめん。実は本気で読めてなかった」
「ふふーん、やっぱりぃ~」
「あっ! だーからもー、ことある毎に抱きつかないでくれないかな。暑苦しいんだけど」
「まぁ、いいじゃないのさ。ナズちん、イケズなんだから」
「ナズちんってなんなの! 変な綽名つけないでよ」
「はは……あんたら仲いいんだねえ。まったく、妬けちまうよ」
 
 じゃれ合うヤマメとナズーリンに苦笑を向けていた勇儀は、出揃ったサトリンガルの表示を声にだした。
 
「鵺の鳴く夜は恐ろしい――だとさ。なんなのかしらね」
「いやー、私に訊かれても困るわ。ナズちん、解る?」
「だからさ……いや、もういいよ、ナズちんで。それより、鵺の鳴く夜は恐ろしいって一文でパッと思いつくのは、悪霊島だね」
「怨霊じゃなく、悪霊? まあ、どっちも似たようなもんだけど」
 
 言って、勇儀は顎を撫でた。「そんなのは見れば解ることさね。わざわざ翻訳機を使うまでもない」
 
 正論。そもそも、怨霊の気持ちを読み込んだのに『こいつ悪霊です』なんて反応が示されるのは不自然だ。動作不良ではないとすれば、先の一文には別の意味が含まれていると考えるべきなのだろう。
 ふと、ナズーリンの脳裏に閃くものがあった。
 
「そう言えば、鵺は正体の解らない妖怪だって、風の噂に聞いた憶えがあるな」
「眼に見えないってことかい?」
「違うよ、ヤマメ。見る者によって、違う見え方をするって意味。たとえば私には小石に見えるものが、君の眼には可愛い少女に映ったり……とかね」
「それじゃあ、ナズちんは、この怨霊の正体が『鵺』だって言うのかい?」
「怨霊になるのは人間だけでしょ。もっと単純に、正体不明のニュアンスでサトリンガルが『鵺』と表現したのかも知れないって思ったんだ」
「いずれにせよ身元は特定できず、か。はてさて困ったねぇ」
 
 勇儀の口振りは、言うほど困ったようには聞こえない。元々が、こんな口調なのか。それとも、怨霊の一匹くらい、いざとなれば容易く叩き潰せると侮っている? 勇儀をよく知らないナズーリンには、どちらとも判断がつかなかった。
 
「ひょっとしたら、だけどさ」腕組みしていたヤマメが口を開いた。「名前を変換し切れなくて、変な表示になってるんじゃないのかねぇ」
 
 その可能性は、なきにしもあらず。同音異義語など、微妙なところで混乱が生じているのかも知れない。
 ならばと、勇儀はサトリンガルを当て直して、怨霊に問いかけた。
 
「さあ、可能な限り思い出してもらおうじゃないか。どんな生活をしていたか、どういう状況で怨霊になったのか」
「おお、なるほどねぇ。日常生活を辿って、どこのどなた様だか見当をつけようってかい。妙案じゃないのさ勇儀」
「はっは……臨機応変に切り口を変えるのは、尋問の基本だからね」
 
 それだって、ある程度の場数を踏んでいないと難しいだろう。なかなかのやり手らしいと、ナズーリンは勇儀の評価を改めた。女性に対して偉丈夫とは些か失礼な表現だろうが、仰ぎ見る彼女の身躯の半分かそれ以上は、なんとしても旧都を――大切な存在を護ろうとする使命感で占められているように思われた。
 三度目の表示が繰り返され、勇儀がそれを読みあげる。
 
「ふむ……買い物しようと町まで出かけたら――」
「肥溜めに落ちて不快なサ●エさんってかい?」
「なに馬鹿なこと言ってるのさ、君は。ヤマメは少し黙ってて」
「えー」
「えー、じゃなくて。泣きそうな顔してもダメっ! 勇儀さん、その続きは?」
「……死体をくわえたドラ猫、追っかけて――」
「裸足で肥溜めに落ちて病気なサ●エさんってかい?」
「もうっ! なんで肥溜めに拘るのさ君は!」
「なんとなく」
「はぁ……ヤマメって、実は相当な馬鹿じゃないのかい」
「えーん、勇儀ぃ。ナズちんが言葉責めで苛めるぅ」
「事実を言ったまででしょ。って、あぁまた抱きついてくるんだから、もぉー」
「だって、獲物に絡みつくのは蜘蛛の習性だしー」
「はは……あんたら仲いいんだねえ。まったく、妬けちまうよ」
 
 ついさっきも同じ台詞を聞いた気がしたのは、ご愛敬。
 とりあえず、買い物で町に赴く辺り、人里から少し離れた生活をしていたらしい。それだけでも、ナズーリンにとっては該当者を絞り込むに充分すぎる手懸かりだった。地上に戻って片っ端から訪ねれば、ほどなく身元が判明するだろう。
 しかし、それをするくらいなら地霊殿に出向いて、怨霊の亡骸を奪還したほうが手っ取り早い。勇儀ももはや、河童の道具に振り回されるのに倦んだらしい。投げ遣りな感じでサトリンガルを懐に押し込んだ。
 
「ま、解らないものは仕方ないねぇ。自分の死体を取り返したいってのは本当らしいし、そいつは当事者を交えて相談しとくれ。さとりが命じれば、お燐も同意せずにはいられないだろうし」
「さとりって?」
「地霊殿の主人だってば。パルスィに会う前にも教えたじゃない。そりゃまあ、地上者のナズちんは興味ないかも知れないけどさ」
「いやぁ、恥ずかしながら、つい最近まで封印されてたもので。どうにも調子が戻ってないんだよ」
「あらあら、封じられるような悪さ働いたのかい? ナズちんったら可愛い顔して、意外にワルなんだ~」
「可愛いのは事実だけど、ワルってのは心外だよ。私はこれでも毘――」
「お? び――って、なんなのさ」 
「あ、いや……び、眉目秀麗でとおった才女だったし」
「へえぇ。そんな大層なお嬢が、なんだって封印されたのかねぇ。おかしいじゃない」
「そこはそれ、人間と妖怪の間にはね、いろいろと理屈どおりにいかない問題もあるんだよ。ヤマメにだって、そんな経験があるでしょ」
「ん……まあ、ねぇ」
「つまり、そういうこと」
 
 うっかり口を滑らせるところだったが、どうにか誤魔化せたらしい。ナズーリンはひっそりと安堵の息を吐いた。ヤマメはまだしも、旧都の番人たる鬼に毘沙門天の眷属だなんて知れたら、いろいろと面倒を招きかねない。
 この際、スパッと話題を切り変えてしまうのが得策。幸いにも、振るネタには困っていない。ナズーリンは先ほど飛ばした伝書コウモリの様子を、勇儀に訊ねた。あれから、それなりに時間が経っている。旧都がどれだけ広いかナズーリンには見当もつかないが、放った内の半数は戻ってもよさそうな頃だと推測していた。
 
「どれどれ。……おっ、ほぼ全部が戻ってきてるじゃないか。さすが、さとりに調教された伝書コウモリだけあるね。優秀、優秀っと」
「地霊殿の主は、動物に芸を仕込むこともできるの?」
「さとりは心を読めるのさ。相手が動物でも、その能力は通用する」
「怨霊でも?」
「もちろん」
 
 ヤマメに聞かされたとおりだ。勇儀にも肯定されて、信憑性は俄然、高まった。やはり地霊殿を訪ねるのが、正しい選択らしい。
 しかし、それはあくまで、相棒ネズミを見つけてからの話である。
 
「それで、私のネズミについての情報は?」
「慌てなさんな。そう時間はかからないよ」
 
 言葉どおり、勇儀は一分と要さず、ナズーリンが最も欲する答えを投げて寄越した。「ふん……。あんたら、本当に地霊殿とは無縁なのかい? 私には、どうも意図的に引き寄せられてるように思えるね」
 
 それはつまり、地霊殿がすべてのゴールと言う意味。しかしながら、話の流れで冗談めかしただけとしても、疑われたら面白くはない。ナズーリンもまた多分に漏れず、ムッと眉間に皺を刻んだ。彼女の隣で、怨霊も憤ったように激しく横揺れしている。
 だが、続けられた勇儀の言葉がナズーリンの関心を惹いたのも、また事実。意図的に引き寄せられている――とは、どういう意味なのか? そうだとするなら、理由は?
 
「無縁だよ。付け加えれば、割と普通にある偶然さ。私はヤマメに会うまで、地霊殿の存在すら知らなかったんだもの。君らだって、それは同じでしょ」
 
 存在するかも判らない誰かを、意図的に呼び寄せたりするかと百人に問えば、九割方は「しない」と答えるだろう。残りの一割は酔狂な人間か、よほどの暇人に違いない。ナズーリンは、その九割方に属していた。
 ナズーリンの返答を受けて、勇儀はあっさりと矛を収めた。やはり、疑惑を匂わせたと言うよりは、悪い冗談の域を出ない軽口だったようだ。
 
「とにかく、お礼を言わせて欲しい。相棒の捜索を手伝ってくれて、ありがとう。いろいろ面倒をかけてしまったお詫びも兼ねて、恩返しがしたいけど――」
 
 鬼がもらって喜びそうな物と言えば上質の酒だが、それを用意するだけの持ち合わせはないし、正直なところ時間も惜しい。
 ならば……と、ナズーリンはシャツに隠していたペンデュラムを引き抜いた。驚いたヤマメが止めるのも聞かず、首から外して、勇儀に差し出す。
 
「いまの私には、こんな物しかあげられない。酒代の足しにしてくれたら嬉しいよ」
 
 せめてもの感謝の気持ち。ナズーリンにとっては、それだけのつもりだった。
 それだけに、勇儀の目つきが矢庭に険しくなるのを見て、大いに焦ってしまった。もしや、とんでもない藪蛇だったのだろうか。
 勇儀はペンデュラムを摘みあげて矯めつ眇めつしながら、低い声を発した。
 
「これは、あんたの物なのかい?」
「そうだけど、なにか?」
「どこかの店で買ったとか、拾った物をネコババしたのじゃなくて?」
「ち、違うよ! これは最初から、私の物だってば!」
「相違ないだろうね」
 
 執拗に念を押す勇儀にカチンとなりながらも、ナズーリンは無駄に反抗的な態度はとらなかった。なんの得にもならないことを、敢えてするのは愚かだと思っていたのである。如才なく振る舞うこと。それが彼女の信条でもあった。
 
「買ったのでも、拾ったのでもない。ずっと私が持っていたんだ」
「ほぅ……。なるほど、偶然ってのは私らが思ってる以上に、ありふれたものらしいね」
「んん? どういう意味なのさ、勇儀ぃ」 
「ようするに、さっさと地霊殿に行っといで、ってことさね」
 
 釈然としない様子のヤマメに言って、勇儀はナズーリンの首にペンデュラムをかけ直す。思いがけず、優しい手つきだった。ナズーリンに親兄弟の記憶はないが、もしも憶えていたならば、いま感じた勇儀の優しさを、母や姉みたいと形容しただろう。
 
「これは返しとくよ。気持ちだけで充分さ」
「で、でも、それじゃあ」
「気が済まないってかい? だったら、また今度くるときに、地上の美味い酒を持ってきておくれよ。さあさあ、早く相棒を迎えに行ってやりな」
 
 勇儀は、なにかを知っている。ナズーリンとヤマメにも、それは容易に察せられた。けれど、ここで問い質すのは躊躇われた。勇儀の好意を踏みにじるに等しいからだ。
 
「ん……解った。また近いうちに、お土産を持ってくるから」
「楽しみにしてるよ。あぁ、それからさ、ひとつ言伝を頼まれてくれるかい。山に住んでる萃香って鬼に、たまには一緒に呑もう、ってさ」
「地上に戻ったら、必ず伝えるよ」
「地霊殿までは、特に危険な場所もないはずけど、気をつけてね」
「ありがとう。じゃあ、これで」
 
 ナズーリンと勇儀は固い握手を交わし、手を振り合って別れた。
 もはや、進むしかない。たとえ袋小路への一方通行だとしても、ナズーリンは引き返すつもりなどなかった。相棒ネズミのため、怨霊に恩を返すため、だが、なにより自身のために。
 
「ヤマメは、どうするの?」
 
 妖怪と怨霊、並んで番屋を出たところで、ナズーリンは訊ねた。
 
「ここからだったら、私と怨霊だけでも地霊殿まで迷わず行けそうだし。キスメちゃんのことが心配なら、無理に付き合ってくれなくても構わないよ」
「この際だから、厄介払いしようってかい?」
「そんな……邪推はよしてよ。そりゃあね、君はなにかにつけて抱きついてくるし、暑苦しいなって思ったのも、一度や二度じゃない。けどさ――」
 
 ナズーリンは言いにくそうに、少しだけ顔を逸らせた。
 
「そんなところも含めて、ヤマメのことは気に入ってるんだよ。だからこそ迷惑はかけたくないって言うか、用事があるなら、そっちを優先して欲しいだけ」
「あらあら、嬉しいこと言ってくれるじゃないのさ。でも、心配いらないわよ。私にとっての最優先は、ナズちんを地霊殿に連れてくことだからねっ」
「うわっ!? あーもぅ、またぁ」
 
 言うが早いかヤマメに抱擁されて、ナズーリンは失笑を禁じ得なかった。
 けれど同時に、誰かの体温を心地よく感じている自分を発見して、苦い笑みは氷のように融けて消えた。
 なぜ、会って間もないヤマメに懐かれたくらいで、安らいだ気持ちになっているのか……? 性格的に似た者同士だ、とでも?
 どうにも、腑に落ちるものがない。失せ物探しのスペシャリストを自負するナズーリンと言えども、形のない答えは見つけようがなかった。それがまた、やたらと癪に障って落ち着かないナズーリンは、とりあえずヤマメの手の甲をつねって、意趣返しと称する照れ隠しをした。
 
 
 
  【4】
 
 
「うへぇー」
 
 旧都の繁栄ぶりを見てからこっち、いい加減もう驚くことはないだろうと高を括っていただけに、ナズーリンは地霊殿の偉容を目の当たりにして、感嘆の息を吐かずにいられなかった。
 なにしろ、でかい。いかにも宮殿めいた名称とは言っても、地底なら利用できるスペースは限られてくる。そんな先入観から、ナズーリンは民家をひと回り大きくしたくらいの建造物を描いていた。よもや、見上げてもなお視界に収まりきらないほど巨大だとは、夢にも思わぬ事態だった。
 
「あのね、ナズちん。間抜けな顔で、間抜けな声を出さないでくれる? こっちまで気が抜けちまうじゃないのさ」
「いや……なんか圧倒されちゃって。凄いよね、これ」
 
 ヤマメの毒舌も意に介さないほど、ナズーリンの瞳は地霊殿に奪われていた。
 窓という窓は、例外なくステンドグラスで飾られている。それだけでも教会のような荘厳さを充分すぎるほど醸しているのに、漆黒の外壁がコウモリかカラスの翼のごとく覆い被さってくる。大振りな扉の表面に、仰々しく施された装飾も圧巻だ。聖と邪、相対するものが渾然一体と化したデザインだった。にも拘わらず、破綻した箇所はどこにもない。屁理屈を捏ね回し、是が非でも白黒つけようとする教条主義者たちを揶揄するための建造物だと教えられても、あっさり信じたに違いないとナズーリンは思った。
 
(どうしてなのかな……眼を逸らすことが、できない)
 
 このときナズーリンは、不思議と懐かしさを覚えていた。網膜に焼き付いた、確かな記憶。根拠を伴わない既視感。
 そう――論理的に、あり得ない。あってはならないことだ。
 
(馬鹿げてるね。地霊殿どころか、私は旧地獄に踏み込んだことさえなかったんだから)
 
 結局、ナズーリンはほとんど思考を迷走させることもなく、ごく在り来たりな結論に縋りついた。ただの気のせい。毘沙門天の使いで駆け回っているとき、どこかで似たような建築物を眼にしていたのだ、と。
 
「やれやれ、ポケーッとしちゃってさ。感激したいなら、あとで独りのときに好きなだけおしよ。なんなら、おしっこ漏らしたって構わないよ」
「漏らさないってば。どうして、すぐに下ネタ系の発想になるかな、ヤマメは」
「痴女みたいに言わないでよ。いいじゃん、別に。世界の中心で下ネタを叫んでるワケじゃないしぃ」
「なにそれ、話が噛み合ってないよ。ますますワケ解らない」
「ま、気にしたら負けな世界もあるってね。それより、地霊殿で用事を済ますんじゃなかったのかい? あの怨霊なんか、その辺の窓を蹴破って突撃しそうな勢いだよ」
 
 いいように誤魔化された気がしないでもないが、面倒くさくなったナズーリンは怨霊を一瞥して、適当に相槌を打った。
 
「ホントだ。よっぽど死体を取り戻して、成仏したいらしい」
「生き返りたいだけかもよ」
「……あぁ、確かに。そっちのほうが説得力ある見解だね」
 
 遺体に執着する意味を突き詰めれば、おのずと甦りに行き着く。むしろ、なぜ成仏にばかり考えが偏ったのか。
 ナズーリンは、ひとつの可能性を答えに挙げた。霊体は供養されれば消え去るものと思い込んでいたから、である。毘沙門天の眷属として、妖怪の身でありながら神仏に近い立ち位置にいるせいだろう。
 
「職業病って言うのかな、これ」
「なんのこと?」
 
 怪訝な顔をするヤマメに、ナズーリンは頬を弛めて見せた。
 
「こっちの話さ。気にしないで」
「ふぅん? ま……なんだって構わないけどね」
「じゃあ、地霊殿の主人に挨拶しに行こうか。ほら、そこの怨霊も着いておいでよ。それが目的だったんでしょ」
 
 言われるまでもないとばかりに、怨霊はナズーリンの傍らに寄り添っている。闘志を燃やしているらしく、放つ輝きも三割り増しと言った感だ。
 頼もしいことだね。怨霊を横目に見て独りごちると、ナズーリンは訪問者を無言の圧力で突っ撥ねんばかりの重厚な扉を、力任せに押し開けた。
 
「えぇっと」
 
 踏み込んだ館内は茫漠たる様相を呈しており、ナズーリンを戸惑わせた。勝手に家捜しするわけにもいくまい。とりあえず常識的な呼びかけをしてみる。
 
「であえであえー!」
 
 返答は、思いがけず近く――ナズーリンたちの頭上から降ってきた。
 
「待ってたわ」
 
 ギョッと仰ぎ見た先には、これ見よがしに漆黒の翼をはためかせる少女の姿。黒く長い髪と、不敵な眼差し。それに、胸元を覆うように飾る深紅の宝玉らしき物が印象的な、活発そうな娘だ。マントの裏地に描かれた模様のせいで、夜空を背負っているかに見える。左右の足と右腕の異様さにも目を惹かれたが、ナズーリンは順を追って訊くことにした。
 
「君は?」
「霊烏路空。さとり様に飼われている地獄鴉よ。みんなは――」
「はぁい、おくう。相変わらず脳天気そうじゃないか」
「――そう。こんなふうに『おくう』と呼ぶわ。それにしても珍しいわね、ヤマメ。さとり様が苦手で、あまり地霊殿を訪れないのに、どういう風の吹き回し?」
「なーに、ナズちんの付き添いってだけさ。そうする理由は、あんたの鳥頭でも解るでしょ」
「もちろんよ! そのネズミは、放っておくと集団で海に飛び込んで死んじゃうくらいの方向音痴なのねっ」
「いや、そうじゃなくて」
「うにゅ?」
 
 空はキョトンとしつつ、ナズーリンたちの前に降り立った。
 
「まあ、細かいことは、どうだっていいわ。みんな纏めて、さとり様の元に案内してあげる。そうするように命じられてるから」
「聞き分けがいいね、話が早くて助かるよ」
 
 ナズーリンの返事に、ヤマメと怨霊も頷く。誰もが、ここまできて素直に待つつもりなどなかったのだ。もしも足止めを食わせられでもしたら、空の身に大なり小なりの危険が及んだことは間違いない。
 さっさと歩きだす空のあとを、ナズーリンたちも足早に追った。
 それにしても、広い。ナズーリンは物珍しげに辺りを見回しながら、ヤマメの話を思いだしていた。地霊殿は、灼熱地獄を封じるために建てられた――とは、言うなれば、巨大な釜に被せた蓋だろう。その役割を考えれば、これだけの広さになってしまうのも、納得できるが……。
 
「暮らすには不便そうな屋敷だ」
 
 と、率直な感想を漏らすナズーリンに、ヤマメが和する。
 
「住めば都って言うけどさぁ、灼熱地獄の真上で暮らすなんて、ゾッとしないよねぇ」
「まったくだよ。いつ床が抜けるかと危惧しながらじゃ、おちおち寝てもいられないったら」
「ちょっと! 普通に生活してる者を前にして、随分な言い種じゃないの。よくもそんな暴言を――」
「でも、事実なんでしょ?」
「正真正銘の事実だものねぇ?」
 
 空の憤りもどこ吹く風で、悪びれないナズーリンとヤマメ。なかなか息の合ったコンビネーションである。実のところ、ふたりの性格は似たり寄ったりなのかも知れなかった。似た者同士は、理解し合う時間を要さないだけ、打ち解けるのが早い。そこにヤマメの人当たりのよさが手伝えば、こうなるのは、むしろ当然の帰結だろう。
 
「ぐぬぬ……ふたりがかりとは卑怯な」
「悔しかったら、おくうも相方を連れといでよ。そのほうが、こっちも手っ取り早いわ。お燐にも用事があるんでね」
「正確には、私の連れの怨霊が……だけどね」
「焦らなくたって、お燐ならさとり様と一緒にいるわよ。勇儀さんから連絡をもらっているから、だいたいの事情は理解してるわ」
 
 なるほど、話が円滑に進んでいるのは、勇儀が気を利かせてくれたお陰だったか。見かけこそ粗野な印象ながら、地底を護ってきただけに細やかな配慮ができる女性らしい。ナズーリンは胸中で勇儀に謝意を述べると同時に、地上の美味い酒を必ずや奉納することも誓っていた。
 
「さあ着いたわ。さとり様は、この部屋で貴女たちをお待ちよ」
 
 空が歩を止めて、振り返った。彼女の背後は、一般的な家屋では決して見られないだろう巨大な扉に塞がれている。黒檀だろうか、鈍色の光沢は堅牢そのものだ。実際、封術の気配も感じられた。
 
(あ……れ?)
 
 そんなことを漠然と思うや否や、またしてもナズーリンの脳裏に触れるものがあった。
 
(封術……解錠の言葉……)
 
 私は、それを知っている。根拠の疑わしい確信。戸惑いと動揺。
 まさか。有り得ない。否定するそばから、記憶が肯定してくる。
 眼前の扉を開く方法も、開いた先に広がっている光景も、すべて。
 
(私……どうして? どうなってるの?)
 
 
 ――斯く語る私も、実のところ自分の役割を知っているわけじゃない。
 ――ただ、私と貴方がここで出逢ったことは、お互いの役割に含まれている。
 ――それだけは確実よね。 
 
 
 不意に、しかし鮮やかに甦る一瞬。
 ナズーリンの鼓膜に、声ならざる声が響く。
 
 
 ――なるほどね……やっと、解ったわ。
 ――私と、貴方。ここで出逢ったワケが。
 ――いまこそ、私は……。
 
 
「おーい、ナズちん! まーた突発性のボケが始まったのかい」
 
 肩を叩かれた痛みが、ナズーリンを我に返らせた。気がつけば扉は空によって既に開かれており、ヤマメに顔を覗き込まれていた。
 
「え? あ……」
「あ、じゃないっての、まったく。しっかりおしよ」
「ごめん。ちょっと……変な感じがして」
「変な感じぃ? はて、私はナズちんを病気にした憶えはないけどね」
「確かに。君には抱きつかれたり、顔を舐められる以上のことは、されてない」
「だよねー」
 
 例によって例のごとく、ナズーリンの首に腕を絡みつかせてくるヤマメ。いい加減あれこれ言うのも疲れるだけと諦めたか、ナズーリンは溜息だけを吐いた。
 
「ねえ、ちょっと貴女たち!」
 
 そんな妖怪娘ふたりに、空の鋭い声音が投げつけられた。
 
「イチャイチャするのも大概にしてくれないかしら。無礼にも押し掛けた、招かれざる客のくせに、さとり様を待たせるなんて言語道断だわ。会う気がないのなら、いますぐ間欠泉経由で地上に排出してあげたっていいのよ」
 
 さすが地獄鴉の一声。迫力をはじめ、すべてにおいて鶴には劣るが、それでも土蜘蛛やネズミに対しては、充分な決定力を宿しているらしい。ヤマメとナズーリンは、「うへぇ」と舌を出して、肩を竦めた。それがまた打ち合わせていたような一致を見たものだから、本人たちでさえ思わず顔を見合わせ、クスッと唇を弛めた。
 
「奇遇って、思ってる以上によくあることらしいねぇ」
「まぁね。ヤマメと出逢ったのだって奇遇だし」
「もしかしたらさ、私とナズちんは魂の双子じゃないかしらん?」
 
 やおら突拍子もない戯言を吐いたヤマメに、ナズーリンは千切れそうな勢いで首を横に振った。
 
「ない! それだけは絶対ないから! 私を食べようとしたくせに、よくもヌケヌケと魂の双子だなんて言えるよね。ヤマメと姉妹だなんて――うぅっ、考えただけで怖気が……」
「えーっ? つれないじゃないのさ、ナズち~ん」
「うるさいっ。ほらもぅ、歩きにくいから抱きつかないでってば」
「獲物に抱きつくのは蜘蛛の習性だしぃ~」
「すっかり開き直ったね。やれやれ……もう好きにしてよ」
「うー、ナズちんが冷たい。さては倦怠期ってやつね、きっと。もう愛は褪めたんだわ。浮気者ー、スケコマシー、チューチュートレインネズ公ー」
「もう本気で意味が解らないよ。勝手にしなさい」
「わーん! 勝手にしてやるわー! ナズちん殺して私も死ぬっ!」
 
 よよよ――嘘臭さ全開の嗚咽を漏らして、痛いくらいに身体を締めつけてくるヤマメを渋々と引きずりながら、ナズーリンは黒の扉を潜り抜けた。その際に思ったことは、みっつ。
 
(やっぱり、か)
 
 ステンドグラスによって煌びやかに染められた光が、部屋中に満ちている。万華鏡に迷い込んだみたいだと、ナズーリンは思わずにいられなかった。
 もうひとつは、この景色を知っている――と言うこと。いまや彼女の脳裏では、確かな記憶が形作られていた。紙上に広げた砂鉄に裏から磁石を近づければ、磁力線に添って幾何学模様が描かれる。それと同じく、散り散りになっていた欠片は、視覚的なバイアスによって本来の役目を思いだしていった。
 
(そして――)
 
 部屋の奥に向けられたナズーリンの瞳は、ひた、と止まる。
 玉座と呼ぶには些か質素すぎる椅子に、少女のあどけなさを残す娘が腰掛けていた。癖っ毛らしい、すみれ色の髪はショートカット。眠たげな目元と相俟って、ややもすれば、起き抜けで寝癖を直す間もなかったようにさえ見える。
 地霊殿の主、古明地さとり本人だろうことは、ナズーリンにも察しがついた。ハートのアクセサリーが付いたヘアバンドは、さながら王冠と言ったところか。
 その娘を護衛するように囲んでいるのは、案内してくれた霊烏路空と、初めて顔を合わせる娘が、ふたり。さとりと面差しの似た柳色の髪の少女と、暗い色調の服を着た三つ編みおさげの娘である。頭からピンと突き出た猫耳と二本の尻尾から、こちらが『お燐』と呼ばれる猫に相違ない。それは、お燐がバツ悪そうにしていることと、いまにも飛びかからんばかりの怨霊を見ても明らかだった。
 
「ようこそ、と言うべきなのかしらね。それとも――」
 
 さとりが、徐に口を開く。膝に乗せた、銀色のブランケットを撫でながら。
 否、それはブランケットなどではなく、猫ほどもあるネズミだった。紛れもなく、ナズーリンの相棒ネズミである。本気で身を案じていただけに、安堵が憤りに変わるのも、また早かった。
 
「あぁっ!? な、なにくつろいでるのさ、このバカタレ! いっぺん死んでみるかい?」
「あれー? ペットに向かって、ひどいこと言うのね」
 
 即座に切り返したのは、さとりの脇に立つ柳色の髪の少女。くりくりっとした眼を無遠慮に投げかけてくるものだから、ナズーリンは思わず後ずさってしまった。それに誘われたように、少女も身を乗り出してくる。
 
「この子、いらないの? じゃあ、私がもらっていいわよね」
「だ、ダメっ! 絶対にダメだから!」
「えー? だって、死ねばいいとか言ってたし」
「あれは……こ、言葉のアヤで、だから……あぅあぅ」
 
 口ごもるナズーリンを、さとりは含み笑いで受け止める。そして、相棒ネズミを抱き上げると、見せつけるようにネズミの耳元に囁きかけた。
 
「――だ、そうよ。なんだかんだ憎まれ口を叩いてるけど、実際はあなたのことが心配で胸が張り裂けそうだったのよ、彼女。愛されてるのですね」
「なぁっ!?」
「もー、ナズちんったら。さとりは心を読めるんだって、教えたでしょうに。まあ、さとりじゃなくてもバレバレだけどねぇ。態度があからさますぎるもの」
「いや、まあ……うん」
 
 ナズーリンが適当すぎる相槌を打ったのは、驚愕のあまり呆けていたからでも、反論を諦めたからでもない。多くの情報が一度に押し寄せて、既に彼女の処理限界を越えそうになっていたのである。
 別けても大きなショックは、古明地さとりの存在だった。その姿は紛れもなく、ヤマメに捌かれそうになった瞬間、ナズーリンの走馬灯に甦った像そのものだったからだ。寅丸星でも、夢を同じくする仲間たちでもなく、逢った憶えもない娘が脳裏をよぎったのは、なぜだったのか……。
 
(あのとき、私は確かな懐かしさを感じていた)
 
 ばかりか、愛情さえ抱いていたふしもある。それは、なぜ?
 ナズーリンが憶えていないだけの話で、実のところは、ずっと以前に逢っていたのかも知れない。でなければ、思い出した説明がつかない。しかし、感情を波立たせるほどの間柄であったなら、まったく記憶にないのもまた不自然ではなかろうか?
 考えれば考えるほど、ナズーリンは却って記憶の迷路を彷徨う羽目になった。もちろん、そこから抜け出す方法は、ナズーリンにも解っている。しかし、踏み出すことに少なからぬ抵抗も感じていた。
 
(忘れてたのは、憶えていることが辛かったからじゃないの?)
 
 ならば、このまま相棒ネズミを受け取り、引き返すべきだろう。ただの夢物語として、なにも確かめないまま、忘れたままで。
 けれども、地底に降りてから何度か耳に甦った声が決断を鈍らせる。あれは、何者の声なのか。少なくとも、たったいま聞いた少女のものでも、さとりの声でもない。それは断言できた。ナズーリンの大きな耳は、犬の嗅覚と同様に精密な聞き分けが可能だったのである。
 しばしの逡巡の後、ナズーリンは、さとりに向かって歩を進めた。
 
「名乗るのが遅れたけど――」
 
 さとりの前で立ち止まり、気持ちばかりの一礼をする。そこに敬意はなくとも、下手に出ることで余計な諍いを避けられるなら、そうすべきだ。実際に、ナズーリンはそうやって世を渡ってきた。和気藹々とした空気に絆され気味ではあるけれど、敵地にあることも忘れていない。用心深く、さとりを観察し続けた。
 
「私は、ナズーリン。物探しの最中に、地底へ迷い込んでしまったんだ。君が抱いているネズミは、もう知っているようだけど、私の大事な相棒でね。ちょっとしたトラブルの際にはぐれてから、ずっと探していたんだよ」
「ええ。委細は承知していますよ、あなたが思っている以上にね。それに、謝らないといけないのは、こちらも同じ。この子――妹のこいしが、あなたの相棒さんを、ここまで連れてきてしまったのですからね」
「そうなのよー。だって、てっきり野良ネズミだとばかり思ってたんだもの」
「なるほどね。ようやっと腑に落ちたわ」
 
 やおら手を打ち鳴らすヤマメ。
 
「パルスィが気づかなかったり、旧都を難なく抜けて地霊殿に辿り着いてるのが変だと思ってたけど……ふぅん、そういうことかい」
「こいしの無意識にも困ったものですね。もし、危害を及ぼす相手だったら、誰にも察知されず斃されていたかも知れない。それは、とても怖ろしいことよ」 
 
 顔を斜に向け、妹に哀しげな眼差しを向けるさとりに、柳色の髪の少女こいしは拗ねたように唇を突きだして見せた。
 
「平気よ、お姉ちゃん。地底のことは、お姉ちゃんより熟知してるつもりだし」
「その過信に足元を掬われてからでは遅いのよ、こいし。お願いだから、あまり私を不安にさせないで」
「はーい。でも、この子は見つけたとき衰弱してたのよ。危なくなさそうだって思ったから、捕まえちゃったの。最初は、お姉ちゃんやペットたちと、みんなで食べちゃうつもりだったけどね」
「やたらと懐っこいから、こいしも情が移ってしまったのね」
「うん! 私、この銀毛が気に入っちゃった。ねぇ、いいでしょ。この子、私にちょうだい?」
 
 さも、そうするのが当然と言わんばかりに、こいしは期待に輝く瞳でナズーリンを見据えた。だが、なし崩し的に状況を変えられるのは、ナズーリンとしても面白くない。ひた……と、こいしの瞳を睨めつける。
 
「保護してくれたことには感謝しても仕切れないけど、それだけは承諾しかねるね。私にとって、無二の相棒なんだ」
「そう……だったら、力尽くで奪っちゃおうかしら」
「およしなさい、こいし! 悪い癖よ」
 
 剣呑な空気が漂ったのも一瞬、さとりは茫洋とした雰囲気に似合わぬ語気の鋭さで、その場を支配した。空と燐を見れば、両者とも表情に緊張の色を滲ませている。無論、彼女たちばかりでなく、こいしも、ナズーリンとヤマメも気圧されて言葉を失っていた。まったく動じなかったのは、身元不明の怨霊だけである。もっとも、怯んで見えなかっただけで、真相は闇の中だ。
 さとりは椅子から腰を浮かすと、ナズーリンの前まで歩み寄った。そして、両腕に抱えていた銀毛の大ネズミを差し出した。
 
「この子は、あなたと共にあるべきなのです。分かたれては、いけないの」
 
 穏やかな口調に秘められた、有無を言わせない気迫。水が高山から平野へと流れるように、斯くあらねばならない、自然な法則を破ることは許されない、との強い意志が感じられた。大切な相棒が、それまで考えてもみなかった奇妙な強迫観念の塊に思えてくる。
 だが結局、ナズーリンは徐に上げた両腕で、相棒ネズミを抱き留めた。そうするために、地底まで降りてきたのだから。今更、照れ隠しの言い訳を探すことなど億劫なだけだった。
 
「それでいい。すべては、この子の役割であり、あなたの役割でもあるのですから」
「役割?」
「ええ、そう。誰もが、それぞれに役割を担っている。産まれた瞬間に決められていた役割を」
 
 おうむ返しの問いに返されたさとりの言葉が、ナズーリンの胸の奥深いところを掻いた。それは、他でもない。地底にきてからと言うもの、たびたびナズーリンの脳裏に甦ってきた、何者かの台詞。
 ただの偶然? それとも、さとりは記憶さえも読む能力があるとでも?
 心に生じた正体不明の疼きに戸惑い、驚愕と怯臆が綯い交ぜになった瞳で、さとりを見据えるナズーリン。その瞳を、さとりもまたまっすぐに見つめ返して、柔らかく微笑んだ。
 
「残念ながら、そこまでの能力は、ないわ。あくまで思考を読むだけですよ。記憶を辿ろうと思ったら、相手を会話で誘導して、回想を促さないといけない」
「でも、いまのは――」
「……ふぅん。あなたも、少しは憶えているみたいですね」
 
 言って、さとりは不思議な魅力を感じさせる双眸を懐かしげに細めると、その奥に潜む瞳を、いまはナズーリンの腕に収まっている大ネズミに注いだ。
 
「千年なんて歳月は、午睡の夢。うたた寝に見たことの悲喜こもごも、その逐一を憶えてなんかいられない。とても、そんな気にはなれないわ」
 
 ふふ……と、鼻を鳴らすさとり。けれど、その笑みに悪びれた様子はなく、嘲弄や驕慢といった識者にありがちな優越感も見受けられない。有り体に言ってしまえば、誰がどう見ても、自嘲に他ならなかった。
 さとりは、問わず語りに続ける。
 
「なぜって? それはね……私が、か弱い女の子だからですよ。あれもこれもと記憶していたら、その重さに押し潰されてしまうわ」
「本人が臆面もなく自分を礼賛するときは大概、事実に反しているものだよ。君は見た目よりも、ずっとしたたかな食わせ者らしいね」
「褒め言葉と受け取っておきますね」
 
 客人の無礼な断定も、薄ら笑いながら柳に風と受け流す。少女の見た目に騙されそうになるが、さすがに地霊殿の主だけはあると、ナズーリンは内心で舌を巻いた。妖怪にとっては、たかが千年。されど、手練手管を磨くには充分すぎる時間だ。そこにもって、相手の思考を読める能力まで有しているなら、答えを自分の望むカタチに誘導するなど造作もないだろう。
 長く話せば煙に巻かれ、うまうまと言いくるめられそうな気がして、ナズーリンは率直に切り出した。
 
「回りくどい話は、なしにしよう。結局のところ、君はなにが言いたいのさ」
「取るに足らない体験で溢れた千年において、私が珠玉のものと見なし大切にしている思い出が……『彼女』が、あなたの中にも息づいている。それが嬉しいだけ。本当に、それだけなのよ」
「それって、どういうこと――」
「ちょ、ちょっと待った待った!」
 
 ナズーリン声を掻き消す勢いで口を挟んだのは、それまで注意深く沈黙を保っていた燐だった。好奇心は猫を殺すと言うが、燐も多分に漏れないらしいことは、キラキラ輝く瞳をみても明らかだ。落ち着きなく揺れる二本の尻尾にも、ありありと心境が表れている。
 そして見回せば、ヤマメを初め、空とこいしも同じ眼をしていた。彼女たちにとって、ナズーリンは招かれざる未知の客、一介の余所者にすぎない。その余所者に対し、なぜ地霊殿の主が親しげに接しているのか……気になるのも、無理からぬことだろう。加えて、ヤマメが言っていた『地底の住人は、みんな寂しがり屋』な性格も、影響しているのかも知れない。
 
「さとり様さとり様っ! そいつと知り合いなんですか?」
「差し支えなければ、教えてもらえませんか。もしかして、そのネズミは私やお燐より前に飼われていたペットだとか?」
「そうなの? お姉ちゃん」
「ナズちんが……さとりのペットだったって? ホントにぃ?」
 
 反応は五者五様。燐と空は、ナズーリンが自分たちの先輩かも知れないと思い、勝手に親近感を募らせたらしい。こいしとヤマメの驚きは、純粋な意外性に因るものだろう。それは、ナズーリンが受けた衝撃に負けず劣らずだったに違いない。この場に居合わせた者で興味なさげなのは、マイペースな怨霊だけだ。
 一同の注目を浴びながら、さとりは微笑みを崩すことなく語り始めた。
 誰にとっても衝撃的な事実を。
 
「おくうの言うとおりよ。ナズーリン、あなたは私のペットでした」
「はあぁっ!?」
 
 誰もが同じ台詞を疑問符つきで口にしたが、誰よりもナズーリンの声は大きかった。
 当然だろう。身に憶えのないことを、さも周知の事実のごとく語られて驚かない者はいない。憤慨し、なにそれ嘘だネズミ違いだと喚くナズーリンを意にも介さず、さとりは続ける。
 
「おくうとお燐を飼い始める、ずっとずっと前の話ですけどね。あなたはまだ普通のネズミで、私は別の名前で呼んでいたわ。あの小さくて脆弱だった子が、こんなにも立派になって帰ってきたなんて……なんだか不思議な気持ち」
「そんな話、初めて聞きましたよ、さとり様。ねぇ、お燐」
「いやはや世間は狭いねぇ、おくう。なんとなく勘が働いたんで訊いてみたけど、本当に、あたいらの先輩だったとは」
「こんなカタチで再会するなんて、つくづく奇遇ってあるものだねぇナズちん」
「当事者の私は完全に置いてきぼりなんだけど……どうなってるの?」
 
 さとりはナズーリンを自分のペットだったネズミと確信しているらしいが、そう言い切る根拠は、なんなのだろう? あとになって、やっぱり勘違いでしたと告げられても、笑って済ませられるレベルではない。然るべき場所に訴えでてもいいくらいだ。
 
「ぜひとも証拠を見せて欲しいね。そっちの言い分を証拠もなしに信じるほど、私はお人好しじゃないよ」
「証拠なら、もちろんありますとも」
 
 即答。さとりは、大ネズミを抱きかかえるナズーリンの胸元を視線で示すだけでなく、実際に手を伸ばした。さとりの掌で、ナズーリンが肌身離さず持っているペンデュラムが、蒼い輝きを放っていた。
 
「こ、これぇ?」上擦る、ナズーリンの声。
「そう、これよ」平静すぎる、さとりの声。
 
「そのペンデュラムは、ペットの首輪として私が与えた物です。そして、あなたが持つダウジングロッドは、元々『彼女』が所有していた物――」
「あー、言われてみれば、お姉ちゃんが持ってたペンデュラムにそっくりね」
「同じ物だってば。こいしったら、まったくもう」
「そう言えば……勇儀もナズちんのペンデュラムを見て、なんか険しい顔してたっけね。これはナズちんの物かって、殴りそうな勢いで詰め寄ってたし」
「勇儀には解ったのね。まあ、元々は彼女が私に贈ってくれた物だけれど」
 
 ヤマメの台詞を継いで、さとりは悠然と微笑んだ。
 たしかに、さっさと地霊殿に向かえと言った勇儀は、なにかを確信している様子だった。知っている者のみが持つ余裕に、満ち溢れていた。
 しかし、百歩譲って、さとりのペットだったとするなら、どうして妖怪と化する以前の記憶がないのか。この地底では、ネズミは貴重なタンパク源とされている。さとりに飼われるとは、つまり食物連鎖の底辺から頂点へと引き上げられたことを意味した。さとりにとって、それが酔狂にすぎなかったとしても、一介のネズミにとっては大恩である。食われるだけの者から、食う者へと変われたのだから。
 
(そんなにも生活環が一変したなら、記憶だって強烈に焼き付けられたはずなのに……)
 
 
 ――すごいこと、教えてあげましょうか。
 
 
 懸命に思い出そうとしても、ナズーリンの脳裏に甦るのは、あの声だけ。
 
 
 ――貴方は、もうすぐ殺される。そのためだけに、いままで生かされてたの。
 
 
 殺される? 誰に?
 諸々の条件を延々と羅列するまでもなく、“食料として地底の住民に”と示唆していたのだろう。生まれた瞬間に決められていた役割だなんて、大仰すぎる言い回しまで用いて。
 
「時折、私の中に甦る声……あれは、君が『彼女』と呼ぶ娘と同じなのかい?」
「賢いことね。ええ、そのとおりです。あなたを旧都の小料理屋から連れだし、地霊殿で飼ってくれと頼み込んだのも『彼女』よ。言わば、あなたの生命の恩人ね」
 
 ペンデュラムを元の位置に戻すと、さとりはナズーリンの緩くカールした髪に触れた。その指づかいは、あくまで優しく、慈しみに満ちている。
 
「私の無二の親友にして、毘沙門天の眷属でもあった娘。ハツカネズミの妖怪でね。流れ落ちる滝のような、長くて綺麗な白色の髪を、いつも私に見せびらかしたものです。露骨に自慢しないところが、また小憎らしいったら。なにしろ私は、このとおりの癖っ毛ですからね。正直、羨ましくて仕方なかったですとも」
 
 毘沙門天の眷属と聞いて、色めき立つ一同。今度ばかりは、怨霊も我関せずの態度を貫かなかった。もしかして、神仏に近い立ち位置にいる人間だったのか。
 けれど、誰にも増して驚き、畏縮していたのはナズーリンだった。ただの一言で、突如として膨れあがった場の緊張感に、身の縮む思いをしていた。まさかまさか、さとりの唇から毘沙門天の眷属という表現が紡がれるとは、予想もしていなかったのである。
 否、まったくの想定外ではなかった。さとりは他者の思考を読む。ナズーリンが素性を証さずとも、対面して間もなくに正体を看破されていただろう。その上で、さとりは喋らずにいてくれると、虫のいい期待をしていたのだ。そして実際、さとりは毘沙門天の毘の字も口に出さなかった。ナズーリンの真意を覚って、黙っていてくれたのだ。
 
(余計なお喋りをしたのは、私のほうだったか)
 
 そうと知っていれば、わざわざ水を向けなかったものを……などと後悔したところで、もう遅い。
 
「お姉ちゃんは、その眷属さんと、いまも友だちなの?」
 
 疑心暗鬼に陥り始めている面々を代表して、こいしが訊ねた。畏怖とは真逆の願望を、瞳と唇に宿しながら。こいしは、姉の口から肯定の言葉が紡がれることしか求めていなかった。その点では、ヤマメや空、燐より寛容だった。
 妹に対して、さとりは余裕をもって笑いかけた。場の緊張を和らげようとするかのように。
 
「もちろんよ。懐かしいわ。こいしが行方不明になると、『彼女』に捜してもらったっけ。何度も連れ戻してもらったものよ。憶えていないのかしら?」
「えー? うーん……無意識だったからかなぁ? 思い出せないんだけど」
「まったくもう、本当に天真爛漫な子ね」
「てへっ、褒められちゃった」
「褒めてません」
 
 重い溜息を吐く、さとり。眉間にくっきりと一本、深い縦皺が刻まれている。
 けれど、すぐに気を取り直すと表情を和らげ、話を引き戻した。
 
「かつて――『彼女』は毘沙門天王二十八使者の一人、伏蔵使者としての役割を担っていました。この千年ほど逢っていなかったし、音沙汰もなくて心配していたけれど、元気そうで嬉しいわ。以前のように声を交わすことはできなくても……それでもね、再び逢えて体温を感じられただけでも、私は満足よ」
「伏蔵使者だって? まさか、そんな」
 
 ナズーリンは耳を疑った。それは他でもない、ナズーリンに与えられた肩書きだったからだ。そのことは、さとりも既に承知していただろう。
 にも拘わらず、かつて……と、さとりは前置いた。現職を前にして、昔の話だ、と。そこで話を終えようとしているのだ。ナズーリンの素性には触れないままで。
 それなのに――
 
「いろいろ聞かせてくれないかな。前任者が、どんな妖怪だったのか」
 
 まさに、さとりの配慮を無にする致命的な申し出を、ナズーリンは口にしていた。自分が現職の伏蔵使者だと白状した。普段の狡猾にして慎重な彼女ならば、決して選ぶことのない迂闊な選択肢だ。しかし、愚行だと解っていても、ナズーリンは、そうせずにいられなかったのである。
 
「ナズちん、あんた……まさか」
 
 ヤマメが呆けたように呟き、後ずさる。いままでの馴れ馴れしい態度が嘘のように、警戒心を露わにしていた。食い入るような瞳に、あからさまな敵意が込められていなかったことは、唯一の救いだろう。
 
「ど、どうしたもんかねぇ、おくう」
「私に訊かれても……こ、こいし様ぁ~、どうしましょう?」
「えぇー、こっちに振られても困るよぅ。いっそ、やっつけちゃう?」
「じゃあ、あたいとおくうはチアリーダーやりますんで、こいし様よろしく!」
「ちゃちゃっとネズミ汁に料理しちゃってくださいよ、こいし様っ!」
「言われるまでもないわ。少しでも、おかしな素振りを見せたら……」
 
 だが、さとりの妹とペットにまで身構えられると、室内の雰囲気はどうしても排他的な気配を強くした。その距離、僅か数歩と言えども、両者の間は強固にして不可視の障壁によって、確かに隔絶されている。毘沙門天の眷属は、主人の威光により人妖を問わず畏れ敬われるのだ。当の本人が、それを望まなくても。
 腫れ物に触るかのような態度には慣れているナズーリンだったが、やはり、そう扱われることは寂しい。殊に、暫しの間でも親交を深めた者に忌避されると、彼女の小さな胸は張り裂けそうに痛んだ。そうなることが解っているからこそ、敢えて孤高を持そうとしてしまう不器用さが、新たに生まれた心の裂け目に自己嫌悪という塩を擦り込む。
 
(他者と接点を作りたがらないことを、臆病者の自己防衛と蔑まれたっていい。身元を知られて忌避されるくらいなら、最初から親しくならなければいい。そうすれば、深く傷つくこともないから……)
「ええ、解るわ」
 
 やおら同意されて、ナズーリンは無様に肩を震わせた。そんな真似ができるのは、さとり以外にない。見れば、さとりは静かに、ナズーリンを見つめていた。その瞳には、憐れみの色しかなかった。
 
「そんなふうにしか、生きられないのよ。損なふうにしか。私も、あなたも『彼女』も……誰も彼もが、あまねく与えられた役割に従って生きているのです。自覚の有無に拘わらずね」
 
 さとりは、さながら舞台女優のように両腕を広げ、天を仰ぐ。
 
「ああ、すべては役割のために! なんて素晴らしく、非情にして残酷な哀話でしょう! でもね、だからこそ、とても平等だとも私は思っているのよ。あなたも、そう思わない?」
「例外なくって点だけに限れば、きみの言うとおりなのかもね」
 
 そんな両者の会話を、遠巻きに聞いていた燐は――
 
「ねえねえ、おくう。話の内容、理解できてるかい?」
「愚問だわ、お燐。途中から頭が拒絶反応を起こしてるわ。……あれ? こいし様は?」
「こいし様なら、とっくに聞くのをやめて、ヤマメとアクロバティックあやとりしてるよ。あーあー、逆さ釣りでパンツ丸見えにされてるし。あたいたちも、あっちで仲間に入れてもらおうかね?」
「賛成。もう脳が限界臨界メルトダウンしそう」
「そりゃあ一大事だねぇ。おっかないおっかない」
 
 そそくさと周囲の者が脱落する中で、怨霊だけは頑なに、ナズーリンの傍らを離れようとしなかった。いったい、何者なのだろう? 奇妙に思いつつも、さとりとの会話に意識を戻すナズーリン。
 
「でもさ、その考えって堕落や怠慢の根源にも、なり得るんじゃないかな。どう足掻こうと、なるようにしかならないのでは、努力する意味がない。そりゃあ、すべての努力が報われたりはしないけどさ」
「諦めるしかないと思わせるのも、役割の強制力だとしたら?」
「与えた務めを果たさせるために、脇目を振らせないって? 馬鹿馬鹿しい。それじゃあ、どうして思考なんてものがあるのさ。役割に殉じることを強いるなら、最初からものを考えない道具のままにしておけばいいじゃない」
「それだと不慮の事故が起きたとき、軌道修正ができなくなってしまうわ。例えば『進め』という命令には、『目標までの確実なルートを絶えず検索しながら』という条件が、付加されていなければならないのです。でなければ、障害物の前で足踏みし続けたり、穴に嵌まって身動きが取れなくなったり、まるっきり見当違いの方角に向かい続けてしまうでしょう?」
「思考は所詮、導き出すべき答えを決められたルーチンワークだと言うの? そんな馬鹿な」
 
 ならば、こうは言えなくないか。『彼女』は、役割に社会的な自殺を強要されたのだ、と。用済みになったから、役割を果たせなくなったから、多細胞生物におけるアポトーシスのごとく抹消されたのだ、と。
 ナズーリンの脳裏に甦る『彼女』の声。
 
 
 ――なるほどね……やっと解ったわ。
 ――私と、貴方。ここで出逢ったワケが。
 ――いまこそ、私は……。
 
 
 瞼を閉ざして、ナズーリンは思いを巡らせた。もっと過去を思い出すため。そして、もっと『彼女』の本音に迫るため。
 徐々に、過去と繋がっていく感触。メンタルな部分とフィジカルな部分が融合して、深淵の一点を目がけて急速に収束してゆく。そこが底ではなくとも、辿り着くことで、すべてを取り戻せそうな予感を、ナズーリンは抱いた。
 けれど、募らせすぎた期待ほど儚く散るのが、この世の皮肉。漠然と脳裏に映りだしていた光景は、とうとう確かな像を結ぶことなくナズーリンの中で弾け飛んだ。ほんの一瞬、長い白髪を風に遊ばせている乙女を垣間見た気がしたが、それさえも、蜃気楼のごとき揺らぎの悪戯が見せた白昼夢だったかも知れない。
 それっきり、ナズーリンは過去を回想できなくなった。頭の中で同じ作業を繰り返し、さっきの道筋を辿ろうとしても、記憶が甦りそうになるたび、道は掻き消された。そして、その道を見つけることは、二度とできなくなった。
 
「どうして?」
 
 初めての体験に戸惑うナズーリン。彼女の心の揺らぎが深い哀しみに変わるまで、たいした時間はかからなかった。
 
「これも……役割だと言うの? 記憶を弄られることも、役割のためには甘受しなければいけないの?」
 
 独りごちると、ナズーリンは相棒のネズミを顔の高さに掲げ、繰り返し鼻先を擦りつけ合った。傍目には、飼い主とペットの微笑ましい触れ合いと映ったかも知れない。だが、事情を知る者たちには、痛ましい慰め合いにしか見えなかった。
 
「大切なことなのに、君を思い出せない」
「それもまた、役割を役割たらしめるファクター。あなたが伏蔵使者を引き継ぐに当たって、役割を果たせるだけの知識を、最優先に植えつける必要がありました。それ以外の記憶など――」
「捨てられて然るべきだって? 私がネズミとして生きてた時間も、『彼女』のプライベートな記憶も、役割にとっては取るに足らないゴミだ……と」
 
 気色ばんで詰め寄りかけたナズーリンを、さとりの冷ややかな瞳が押し戻す。哀れむようであり、また叱りつけるようでもあり……同情と情愛の綯い交ぜになった眼差しだった。
 
「結果的には、そうなりますね。冷たいようですけど、得てして優先順位は、より社会的な貢献度が上位に置かれるのです。知識について言うならば、それらは集団における共有の財産と見做されるから。対して、プライベートな記憶は、当人を含めたごく少数にしか価値のないもの。扱いに差が生まれるのも、むしろ当然だとは思わないかしら?」
 
 ナズーリンは唇を噛んだ。現実は、さとりの言うとおりなのだろう。だが、肯定すれば自分ばかりか『彼女』さえも貶めてしまう。消し去られ、忘れ去られても仕方のない、つまらない存在だったと認めるに等しい。そのことが、ナズーリンを頑なにさせていた。
 さとりは穏やかな眼差しをナズーリンに注ぎながら、続ける。
 
「優しい子ですね、ナズーリンは……。そうまで想ってもらえれば、『彼女』も満足でしょう。そして、断言してもいい。あなたに伏蔵使者の座を託したこと、『彼女』は悔いていない。ばかりか、喜んでいるくらいだと」
「たとえ、自分という存在が消えてしまうとしても?」
「言ったはずですよ、役割とは残酷な平等なのです」
「それを納得する気はない。理解する気は、もっとないね。ただ――」
 
 せめて『彼女』のことだけは、憶えておきたい。回想できないのなら、他人の言葉を経て、新たに記憶を刻み直しておきたい。語られないナズーリンの願いに、さとりは鷹揚に頷いて見せた。
 
「一介のネズミとなり果てた『彼女』の中にも、僅かながら記憶が残されていました。突然の落盤に遭って瀕死の重傷を負い、身動きとれなくなってしまったことや、偶然にも居合わせたネズミ……ナズーリン、あなたとの融合を――苦肉の策を選ぶに至った経緯もね。あなたは知らないから、落盤ぐらいでと意外に思うでしょうけど、旧地獄の岩盤は煉獄たる役割ゆえに、妖力さえ無力化するのです。ここの岩に押し潰されて、ただで済むのは鬼くらいのものですよ」
「苦肉の策と言ったね。つまり、それによって私はただのネズミから、妖怪に変化した……と?」
「ええ。あなたは『彼女』と融合して、能力を含めたかなりの情報を譲り受けたのです。滞りなく伏蔵使者の任に就くために」
 
 しかし、ナズーリンは考える。なぜ、融合なんて面倒な手段を選んだ? もっと簡単で確実な方法が、ありそうなものだ。
 語られない言葉に、またしても、さとりが答えを差しだす。
 
「考えてもごらんなさいな。息も絶え絶えとは言え『彼女』は、毘沙門天の眷属を務めるほどの強い妖怪ですよ。ただのネズミが、それを吸収できるだけのキャパシティを持っていると思う? 肉体が耐えきれずに破裂しますって」
「あぁ、それで……」
「もっとも、強力な妖怪だって重傷の身で融合を行えば、無事で済むはずもないけれどね。そして案の定、想定外の事態が起きたのです」
「想定外って?」
「あなたがネズミだった頃の記憶は、ほとんど省みられずに、『彼女』が持っていたデータが上書きされてしまったこと。それが元で、記憶の混濁や断片化が生じたのでしょう。ばかりか、完全な融合がなされないまま、あなたと『彼女』は不完全な別個の存在に、分裂してしまったのよ」
 
 記憶の混濁と、欠落による断片化。ナズーリンが、生まれ故郷である地底世界を忘れていた一応の説明はつく。食材にされるだけだった普通のネズミが、妖怪となり、毘沙門天の眷属に収まっている理由についてもだ。それ以上のことを識る必要は、実際のところ、もうないかも知れない。
 にも拘わらず――
 
「どっちが幸せだったんだろう?」素朴な疑問が、ナズーリンの口を衝いて出た。
「融合が成功して、『彼女』と一心同体であり続けたほうが、よかったのかな」
 
 その仮定をしたところで、不可逆反応は覆らない。しかし、過去への手懸かりに触れてしまったナズーリンが言わずにいられなかったのも、厳然たる事実。自分が妖怪となり、伏蔵使者の役目を継いでいることに、今更ながら気後れしていたのである。
 さとりは緩い曲線を描く顎を指で撫でつつ、ナズーリンと彼女が抱いている銀毛の大ネズミを交互に見遣り、冷ややかに笑った。
 
「当人が納得していなくとも、現状こそが正解でしょうよ。この世には、絶えず変化する模範解答もあるのだから。ただ……敢えて私見を述べさせてもらえば、あなたたちが分裂していなかったなら、いまより幸せではなかったと思うわよ」
 
 そうだろうか? 自問したところで、答えなど出ようはずもない。
 十秒と悩みもせず、ナズーリンは考えるのを止めた。所詮は、たらればの話だ。真面目に考察する価値もない。
 肩を竦めて微苦笑するナズーリンに、さとりも鼻を鳴らして応じたけれど、その仕種に嘲りの気配はない。むしろ、旧友に向けるかのような慈愛を、見る者に感じさせた。
 
「さあ、そろそろ昔話は終わりにしましょう。あなたも、その子と再会できたことですし。目的が果たされたのなら、あなたが本来いるべき場所に帰りなさい」
「いや、まったく……私としても、そうすることに吝かでないね。でも――」
「――なるほど。元々の地底にきた理由を、まだ果たしてはいないのね。望みどおりの結果が得られるまで、居座るつもりかしら?」
「愚問だね。君はもう、答えを覚っているくせに」
 
 間欠泉の噴出によって飛散してしまった飛倉の破片と、寅丸星が紛失した毘沙門天の宝塔の探索こそが、ナズーリンの目的だった。イレギュラーな事態で相棒ネズミと自分の過去を知ることとなったが、それは副次的な問題である。
 さとりは、もう一度「なるほど」と繰り返し、思案顔になった。
 
「でも、私はそれを許容したくないのよ。毘沙門天の眷属が彷徨いていると知れれば、地底世界に不必要な動揺を与えるでしょう。勇儀にも叱られてしまうわ」
「君の立場なら、当然の配慮だろうね。けれど――」
「慌てない慌てない。力尽くで追い返すこともまた、私の望まない方法なのよ。あなたを邪慳に扱いたくはない。むしろ、頻繁に遊びにきて欲しいくらいですもの。矛盾撞着よね、まったく」
「本当にね。どうしたいのさ、君としては」
「率直に言えば、あなたの捜し物を、私たちが代わりに探してあげる。見つけた分は、私の責任で、あなたに届けるわ。悪い話ではないはずですよ」
 
 確かに、悪い話ではない。飛倉の破片のすべてが地上に噴出したとも限らない状況で、探す範囲と手間とを分散できるのはありがたかった。それに、地底のことなら、地底で暮らす者たちのほうが効率もいいだろう。協力を申し出たさとりの顔を立てることで、以後の関係にプラスアルファも期待できる。
 ただひとつ懸念するならば、強力な力を宿した毘沙門天の宝塔を、地底妖怪の手に預けてもいいのか……ということだ。仮に、悪意ある妖怪が宝塔を持ち逃げすれば、その責めは地底全般へと及ぶ。全面戦争の引鉄にも、なりかねないのだ。
 
「解った。その条件なら、私は地上に戻ろう」
 
 結局、ナズーリンは承諾した。損益を秤にかけて、まだ有益であると判断したのである。もちろん、さとりを含めた地底妖怪たちを、好きになり始めていたのも確かだ。さらに理由を挙げるなら、さとりの地底での影響力を信頼してのことだし、宝塔の力を発動できる妖怪は滅多にいないだろうとの目算もあった。実際、使い方を知らない者にとって毘沙門天の宝塔は美術品かそれに準ずる程度の価値しかない、猫に小判のツールだった。
 
「あなたが賢い子でよかったわ、本当に」
 
 ナズーリンに向けられた地霊殿の主の笑顔は、契約の締結を意味した。
 そうと決まれば、長居は無用。ナズーリンは踵を返し、立ち去ろうと――
 
「アチチ、アチッ!?」
 
 したところで、怨霊に尻を炙られ、飛び上がった。
 
「……あぁ。すっかり忘れてた。こいつの本音も、君に見て欲しいんだけど」
「あら。その怨霊も、あなたの相棒だとばかり思ってましたけど」
「旅の道連れってヤツだよ。なんだか、地霊殿の猫に恨みがあるらしくてさ」
「お燐に? ふぅん……なるほどね」
 
 怨霊を凝視すること暫し、さとりの眼差しに微かな嘲りが浮かんだ。
 
「どちらかと言えば、お燐は降りかかる火の粉を払っただけに思えますけどね」
「この怨霊のほうが加害者だって? まぁ、そうであっても不思議はないか」
「人間ながらに、並々ならない力を持っている者ですからね。お燐の所行を見て正義感を強くしたのかも。あるいは、それさえ体のいい口実で、ただ腕試しをしたかっただけかも知れませんが」
 
 いままで、いろいろと危害を加えられた記憶ばかりが先に浮かんで、ナズーリンは咄嗟に怨霊を擁護できなかった。とは言え、生命の危機を救われた恩を忘れてもいない。さらに口実を設ければ、今後もつき纏われる煩わしさを払拭したいのも、偽らざる事実だ。
 ナズーリンは、ちらと怨霊を一瞥して、さとりに向き直った。
 
「それで、なにを願ってるのかな、こいつは」
「生き返りたいって。お燐に持ち去られた身体を、取り戻したいそうよ」
「至って普通の願いだね。そんなことが、可能なのかな」
「身体と魂があるから、なんとかなるかも知れませんよ。とは言え、私のペットに危害を加えようとした者に、協力する義理はないですね。そのまま悔恨の日々を送ったら?」
 
 さとりの声音は、その内容に相応しく、薄情かつ冷徹だった。焦らすことで懺悔を強いるのとは違う、本気で突き放した口振り。静かに燃える怒りが、そこにあった。
 
「君の憤りは理解できるよ」
 
 けれど、やはり、意趣返しを肯定する気にはなれない。
 ナズーリンは決然と、さとりと対峙した。
 
「君や、地底の住民たちにも親切にしてもらって、これ以上の駄々を捏ねたら罰が当たるよね。でも、敢えて言うよ。この怨霊に、身体を返してあげて」
 
 冷ややかに見つめ合うこと、数秒。

「お燐、おくう、こっちにいらっしゃい」
 
 先に口を開いたのは、さとりだった。
 呼べば、燐と空はいかにもペットらしく、アクロバティックあやとりを中断して、跳ねるようにやってきた。その後ろを、ヤマメとこいしも何事かと追ってくる。
 
「ごはん? ごはんの時間ですか、さとり様っ!」
「お燐、つい最近に持ってきた死体がありましたね。アレの持ち主が、取り返しにきてるわよ」
「えー? でも、アレは同意の上で得た、あたいの戦利品だしー」
「この怨霊は、同意してないと言っているけど?」
「にゃんと!?」
「つべこべ言わずに、返してあげなさい。それを理由に、地霊殿に居着かれても困りますからね」
「……はぁい。ここ最近では一番に気に入ってたんだけどなぁ、あの死体。さとり様のご命令じゃあ、しょうがないね。うん、しょうがない。おくう、手伝ってよ」
「解ったわ。アレを演るのね、お燐」
「そう言うことそう言うこと。それじゃ、イッツ、ショータイム!」
 
 掛け声をあげるが早いか、燐と空は横並びになってチャッとポーズをとり――
 
「UGO! 手っを合わせて見っつめるだけで~♪」
 
 いきなり無伴奏も気にせず、気持ちよさげに歌って踊りだしたではないか。さとりを筆頭に地底妖怪たちが黄色い歓声をあげる中、一人だけポカーンとするナズーリン。
 
「ちょっと、ヤマメ。なんなの、あれ?」
「最近、地底で人気急激メルトダウン中のツインボーカル、パンクレディーさ。いい感じに弾けてると思わない?」
「あーそうだね。弾けてると思うよ、頭がパーンって感じに」
「私も、こう見えてアイドルなんだけどね。強力なライバル登場で、俄然やる気が湧いてきてるよ」
「へぇ……ヤマメでアイドル務まるなら、私もデビューできそうだよ」
「ナズちんなら、食品メーカーのCMガールに抜擢されるね、きっと」
「タダで美味しい物を食べられるなら嬉しいけど、ネズミの姿焼きとか食べさせられたら嫌だなぁ……って言うか、歌って踊るのも儀式の内なの?」
「慌てない慌てない。まずは一曲、歌わせてあげるのが地底の流儀さ」
 
 そんなものだろうか? まあ、郷に入りては郷に従えとも言うし。
 強引に納得しようとしているのか、胡乱げなナズーリンと怨霊。そんな彼女らを気に留めるふうもなく、燐と空は、しっかと手を繋ぎ合った。
 
「いくよ、おくう! ネコとカラスが力を合わせて――」
「怨霊の幸せを~招き猫……えぇと。お燐、英語で鴉のこと、なんて言うの?」
「はてな、クロゥだかレイヴンだったか……まあ、適当でいいじゃん?」
「それもそうね。怨霊の幸せを~招き猫鴉ぅ~」
「やるじゃん、おくう。苦労しすぎでからっからに萎びた感じの怨霊には、鴉に掛けた枯らすがピッタリだね。語呂もいいし。それじゃあ、どんどんいくよ」
 
 などなど、勝手に掛け合い漫才みたいなことを始めて、そこにまた地底妖怪たちが黄色い歓声を浴びせる。なんという茶番劇だ。ナズーリンは、ひっそりと溜息を吐いた。
 
「ついていけないよ。もう、どうにでも好きにしてよね」
 
 地底生まれのネズミが、その身に馴染ませていた習俗も、地上の妖怪として過ごした時間によって、すっかり塗り替えられてしまったらしい。もしくは『彼女』と融合・分裂した際に、綺麗サッパリ初期化されたか。
 ともあれ、相棒ネズミに頬ずりしながら紡がれたナズーリンの呟きは、怨霊にとっても偽らざる本音だったに違いない。もはや彼女たちは怒りに震えるどころか、ひと回りほど萎んだようにすら見えた。
 その間にも儀式は粛々と進められ、お燐が一輪の手押し車――世間一般的に猫車と呼ばれるもので、なにかを運んできた。それは、着衣をすべて剥ぎ取られた人間……うら若い乙女の死体に相違なかった。もう死後硬直が解けているらしく、猫車の揺れに合わせて、死体の四肢も関節部でぐにゃぐにゃと揺れた。
 突如、いきりたつ怨霊。その反応からして、ナズーリンにも察しがついた。燐の運んできた死体こそ、怨霊の身体なのだと。
 
「いよいよか」
 
 ナズーリンが言うのを待っていたかのように、一変する場の空気。固唾を呑む間もなく、それは、おこなわれた。
 
「そぉい! バシッと決めとくれ、おくう!」
 
 軽い掛け声そのままに、燐が軽々と死体を投げあげた。さすがに妖怪、見た目の細さからは想像もつかない膂力である。
 驚きはまだ続く。
 
「眼に焼きつけてあげますわ! 吼えろ、溶岩より熱くっ! 煉獄シュートぉぉぉぉっ!」
 
 まさに天翔る黒色火薬のごとく、目にも留まらぬ速度でナズーリンの背後に回り込んだ空が、右足を振り抜いた。サッカーボールよろしく蹴り飛ばされたのは、言わずもがなの怨霊。インパクトの瞬間、見ている者が気の毒になってしまうほど拉げていた。ほとんど『く』の字だったと評しても、過言ではない。
 先に鉛直投射されていた死体が、その運動エネルギーを位置エネルギーに変えきって空中に制止した、まさにその瞬間……蹴り飛ばされた怨霊は絶妙の軌跡を描いて死体を直撃。衝突時の閃光に包まれながら、二個の存在は、元どおりの一個へと融合してゆく。
 こいしが、ヤマメが、燐と空が、さとりさえもが興奮気味に手を打ち鳴らし、声を裏返して叫んだ。
 
「ゴ――――――ル!」
 
 完全に置いてきぼりのナズーリンは、ただただ呆然とするばかり。だが、力なく落ちてくる娘を見るや、考えるより先に動いていた。空中で掻っ攫い、ふわりと着地。ナズーリンの腕に抱えられながら、娘は掠れた呻きを漏らした。
 どうやら息を吹き返したらしい。冷たかった身体にも、じわじわと温もりが戻りつつある。改めて、安堵の息を吐くナズーリン。
 
「成功したらしいね。呼吸も、落ち着いてる」
 
 改めて、じっくり観察する。歳の頃は、二十歳前後。それなのに、切り詰めた髪は奇妙なくらい白く、ナズーリンを戸惑わせた。
 
「どこの誰なのかな……気を失ってる相手でも、心が読めるかい?」
 
 ぐるり見回すナズーリンに、さとりが歩み寄って答えた。
 
「眠っている者の思考は朧気で、正確には読みとれません。けれど――」
「けれど?」
「一秒でも早く、帰りたがっている。『お嬢様』と『館』のことが気懸かりで、仕方がないみたい。この人は、その館で働くメイド長ですね」
「そうなんだ……どうせ地上に戻るついでだし、私が館まで連れていくよ」
「心当たりがある?」
「いいや全然。けれど、あれこれ探すのは得意でね。この狭い幻想郷、それだけ手懸かりがあれば、なんとかなるよ」
「そうですか。では、あなたに託しましょう」
「了解。じゃあ早々に退散しよう。この女が目を覚ましたら、また厄介なことになりそうだし」
「……賢明な判断ですね」
「よく言われるよ」
 
 さとりに笑いかけて、ナズーリンは取り囲む面々を、ぐるり眺め回した。
 視線が、山吹色の髪の少女を捉えて、ひたと停まる。
 
「さて……それじゃあ、帰りも出口まで案内を頼めないかな、ヤマメ」
 
 毘沙門天の眷属だと身を明かしたから、迷いを見せるかと思いきや。「もちろん」
 土蜘蛛の娘は即答して、朗らかに笑った。
 
「頼まれなくても、ナズちんを送っていくさ」
「きちんと帰るのを、確認するためかい?」
「友だちだからに決まってるじゃないの。言わせないでよ、恥ずかしい」
「あははっ……それは失敬」
「それに私のほうが、ナズちんより力持ちだしさ。このメイド長を運んであげなきゃ」
「心遣い、痛み入るよ」
 
 どちらからともなく伸ばされた手が重なり、握り合う。
 ヤマメと握手をしたまま、ナズーリンは再び地霊殿の主に向き直ると、丁重に頭を下げた。
 
「いろいろと、お世話になりました。さよなら」
「また、『彼女』と一緒に遊びにいらっしゃい。次は、極上のお茶を用意して、もてなしてあげますよ」
 
 さとりの背後に、こいしとペットたちも並んで手を振る。
 
「地上が嫌になったら、いつでも連絡してね。私のペットにしてあげるから」
「あたいらも、熱烈歓迎してあげるよ。ねぇ、おくう」
「ええ。地霊殿の仲間として、退屈させたりしませんわ」
 
 まったく、気のいい連中である。ナズーリンはまた、ヤマメの言葉を思い出した。地底の住人は、みんな寂しがり屋――いまなら、それが理解できた。
 そして、自分もまた地底に繋がりを持つ者なのだと言うことも。
 揃って地霊殿の門を潜ったところで、ナズーリンはいま一度、惜別の言葉を口にした。
 
「ありがとう。いまの用件が片づいたら、寄らせてもらうよ……きっとね」
「せっかくだし、私も地上にいこうかな~」
「こいし、あなたはダメですよ。しばらく地霊殿で、おとなしくしてなさい」
「えー?」
「えー、じゃありません。守矢神社にいったきり、なんの連絡もなしに放浪して、やっと帰ってきたばかりでしょうに」
「うっ……それを言われると辛いわー」
「納得したなら、ナズーリンを笑顔で見送ってあげましょう」
「はぁい。絶対に、またきてねナズーリン。きっとよ」
 
 真剣な表情で言ったこいしに、ナズーリンが笑顔で手を振って見せたのは、了承の合図。それは正しく伝わったらしく、こいしも同じ仕種を繰り返した。それに引きずられるように、さとりを始め、燐も空も、人好きのする笑みを浮かべて手を振った。
 遠ざかるナズーリンたちを見送る間も、それは終わることを知らなくて。
 結局、互いの姿が見えなくなるまで、ずっと続いていた――
 
 
 
  【5】
 
 
 暗い。
 彼女の胸中に、真っ先に浮かんだ感想は、それだった。瞼を開けているのか、いないのか。あまりにも闇が濃すぎて、時間や空間の概念すら覚束なくなる。自分という存在が、圧倒的な虚無の前に、なす術もなく稀薄になってゆく。
 ふと思いついて、腕を動かす。それから、ゆっくりと自分の身体に掌を滑らせた。顔、胸、腹、脚、しっかり返ってくる確かな感触に、ようやく彼女の唇から安堵の息が漏れた。
 
「ところで……ここ、どこ?」
 
 自身の実在を確認できたら、次は取り巻く環境が気に懸かる。これも当然の発想。
 地底にいたことは、朧気にしか憶えていなかった。しかし、身体が存在する以上、一応の目的を果たしたことは、確からしい。とするなら、まだ地底の闇黒に横たわり、ほったらかされたままなのか。だが、そうなると身体を受け止めている柔らかな感覚の説明は、どうつける?
 釈然としないまま、彼女は胸に蟠る想いを押し潰した。
 
「こうしちゃいられないわ。早く帰らないと、お嬢様に叱られる」
 
 屋敷のメイドたちは、そこそこに働き者だ。上司として、仕事に関しては厳しく躾けてきたと、彼女は自負していた。お陰で可もなく不可もなく、指示どおりに黙々と義務を果たす。
 だが、それだけ。命じられないことはしない、できない。使い勝手のよさと、融通の利かなさは、まさしく表裏一体だった。そして、道具が真価を発揮できるように駆使しないのは、使い手の責である。
 ゆえに、メイド長たる彼女の使命感たるや、溶岩のごとく熱く滾っていた。私がやらなければと、自意識過剰ですらあった。
 だが、ふと――
 身を起こしかけて、気づいた。自分が寝かせられていたのは、地底の堅い岩盤などではなく、ベッドだったと。
 
「それに、この匂い……」
 
 身を覆っていたシーツを掴み、鼻先に寄せて息を吸い込めば、とても嗅ぎ慣れた匂いが鼻腔に流れ込んでくる。日焼けしたカーテンの薫り。少女が好みそうな、柑橘系のフレグランス。それらに紛れた仄かな鉄臭さ。
 有り体に言ってしまえば、彼女が起居する館の空気であり、自室の薫りであり、彼女が愛用する化粧品の匂いに間違いなかった。
 この状況で考えられる可能性は、ひとつしかない。
 
「なるほど……あのネズミ妖怪が、昏倒したままの私を、ここまで連れ戻してくれたのね。なかなかに律儀じゃないの」
 
 どこの誰かは憶えていない。怨霊だと記憶が定着しないのか、名前ばかりか顔すら、いまや朧気にしか回想できなくなっていた。それも、間もなく消えてしまうのかも知れない。完全に忘れ去ってしまう前に、探し出して礼を言うべきだろう。そのためにも、まずは起きなければ。
 しかし、彼女がそうするより早く、ノックもなしにドアが開けられた。この館で、そんな不躾が許されるのは、ただ一人。彼女が仕えている主人だけだ。
 
「ようやくお目覚め、咲夜? 買い物に出たっきり戻ってこないわ、ろくに仕事もせず眠りこけているわ、どうなってるの? まったく、いいご身分だこと。やはり、人間は使えないわね」
 
 主の嘲りが、遠慮会釈もなく彼女の心に突き刺さる。確かに、そう言われても仕方がないと覚悟はしていた。すべての原因は、自分の油断と軽挙妄動、そして慢心にあったと。
 しかし、だ。上に立つ者として、義理にでも、まずは慰撫してくれたってよくはないか。叱責ばかりでは、やっと戻れて高揚していた気分も萎えてしまう。彼女は顔に不満の色を表し、主の気遣いのなさを責めた。
 
「また、そんな嫌味を……ひどいですわ、お嬢様」
「ひどい? それなら私を心配させたことは、ひどくないとでも言うのか」
「うっ……こ、言葉が過ぎました。ですが、これにはですね、いろいろと複雑な理由が――」
「あらましは知っている。咲夜を運んできたネズミに、いろいろと聞かされたからね。なぁに? 怨霊になってたそうじゃない。なにをどうしたら、そんな状況になるのかしら」
「死んだ……いえ、殺されたと言うのが正しいですね」
「くだらない答えに、合格点は与えられないわ。いちいち私が問い質すより先に、従者たる者、率直に語るべきよ」
 
 まったくもって正論である。メイド長、十六夜咲夜は、あまりにも間抜けすぎる自分の答えを恥じた。主、レミリア・スカーレットが知りたいのは、咲夜を斃した者の詳細な情報なのだ。敵対する意志を有する相手か、否か。それ如何によっては、早々に潰すことも辞さない。そんな算段を、既に始めているのかも知れなかった。
 傲岸かつ無遠慮に注がれるレミリアの視線から逃れるように俯いて、咲夜はことの次第を訥々と語り始めた。
 買い物の途中で擦れ違った葬列を窺う、怪しげな猫を見かけたこと。
 案の定、それは死霊を操る妖怪猫であり、隙を衝いて死体を奪おうとしたため、看過できずに応戦したこと。
 結果、無様にも返り討ちに遭い、自分の身体さえ持ち去られてしまったこと。
 
「……ふぅん? 猫妖怪にしては、なかなかの手練れみたいね。まあ、咲夜はそそっかしいところあるし、不覚をとったとしても驚くに値しないけれど」
「侮りすぎました。よもや、肝心なところで体調を狂わされるとは思いもよらず」
「なるほど、病原菌を媒介するのか、あるいは修練を積んで、病気を操る術でも会得したのか。どうあれ、防疫対策が必要らしいね。それで、咲夜は殺されて怨霊と化した挙げ句、そいつを地底深くまで追って、めでたく身体を奪還したわけね」
「お恥ずかしい限りです。面目次第もありませんわ」
「結果オーライとも言えるわね。とにかく、不在期間の穴埋めはキッチリしてもらわないと」
「それは、もちろん。私の留守中に、なにかトラブルはありましたか? まず、その対処から始めますね」
 
 咲夜の問いかけに、ふん、と鼻を鳴らすレミリア。病み上がりが、仕事を完璧にこなせるのか? 語られない言葉が、咲夜の胸裡で再生され、また、ぐさりと心に突き刺さった。
 
「館のことなら、メイドたちがよくやってくれている。その点では、咲夜の教育が行き届いていると評価しなくもないけどね。それ以外には、そう……ここ最近、空を飛ぶ不審船が頻繁に目撃されているくらいか」
「船が、空を飛んでいると?」
「船が、空を飛んでいるのよ。それも、かなりの高速でね。宝船じゃないかと、もっぱらの噂だけど」
「宝船……ですか。そういった美味い話には裏があるものですよ、お嬢様。もしかしたら、何者かが不埒を働こうと企んでいるのかも。私が調査してきましょう」
 
 早くも汚名返上の場面とばかりに、意気込む咲夜。
 しかし、跳ね上げた上半身は、レミリアの細腕によって捉えられた。見かけは華奢な少女だが、やはり紛うことなき妖魔の類。咲夜は盤石の重みに抗うことも許されず、再びベッドに沈められた。
 
「それには及ばないわ、咲夜」
「なぜです、お嬢様」
「私は宝なんかに興味ないもの。くだらない。それに放っておいても、どうせ博麗の巫女や、うちに出入りしてる黒いネズミが出張るでしょ。あとで、あの連中から話を聞きだせば済むことだわ。さらに言えば、いまは夜。メイド長が夜遊びに耽っているなんて知れたら、下の者に示しがつかないじゃない。二、三日は館に完全待機すること。いいわね? 咲夜は私の命令に服従する義務がある」
「要するに、私の身を案じてくれているのですね」
「館の主として、メイド長の不在を苦々しく思っているだけ」
「はい。ありがとうございます、お嬢様」
「……まったく。幽体離脱なんかしたせいで、頭のネジが脱落したのかしら。身勝手な解釈をして、礼を言うなんて」
 
 溜息混じりに吐き捨てられたレミリアの台詞は、しかし内容に反して毒も蔑みの色も薄く、むしろ特効薬であるかのように咲夜の傷ついた心を癒した。
 レミリアは踵を返し、「ほんと、くだらない」と続けたものの、それすら弁解めいた響きに満ちていた。実際、ただの照れ隠しだったのだろう。
 部屋のドアをわずかに開けたところで、肩越しに振り返るレミリア。
 
「ともかく明日から、与えられた役割を遂行しなさい」
 
 それだけを咲夜に告げて、部屋を後にした。
 
「与えられた、役割?」
 
 ドアの閉ざされる音を聞くなり、全身の力を抜き、ベッドに深く身を沈めながら、咲夜が独りごちる。
 どこかで聞いた憶えのあるフレーズ。誰に聞かされた? なんだか、役割と言う単語を、ここ最近よく耳にしていた気がする。
 しかしながら、それを咲夜が思いだすことは、遂になかった。
 安堵による気の弛みと、本調子ではない身に生じた猛烈な眠気が、咲夜の意識と瞼をシャットダウンしてしまったから……。
 
 
 それから三日三晩、咲夜は目を覚まさなかった。
 世間が宝船騒動で揺れに揺れているのも露も知らず、昏々と眠り続けていた。
 
 
 
  【6】
 
 
「――ということがあってね、いまに至るわけさ」
 
 ナズーリンの大雑把にして簡潔な報告が締め括られるや、その場に居合わせた少女たちは落胆の色も露わに項垂れ、場の空気を重苦しくさせた。揃いも揃って、妖怪らしさと言うより亡霊じみた辛気くささを全力放射している。気の弱い者ならば、その暗澹たる雰囲気に堪えきれず壁に頭を打ちつけ、割れた頭蓋に豆腐とプリンを詰めて頓死したことだろう。
 
「ようするに、なんの成果もなかったってことね」
 
 白を基調としたセーラー服が活発そうな舟幽霊――村紗水蜜が、恨めしげに言う。彼女の眼の下には、そのキャピキャピ溌剌とした出で立ちには似つかわしくない隈が黒々と浮かび、憔悴甚だしい様子である。
 
「だいぶ、お疲れだね。もう寝たら、村紗?」
「そうしなさいよ。あとは、私たちに任せといて」
「ええ……そうする。おやすみ、二人とも」
 
 ナズーリンと頭巾を被った娘――雲居一輪に気遣われ、口数も少なく退散する舟幽霊。疲労困憊の極致で、口を開く暇すら惜しんで眠りたいのが本音なのだろう。先刻のナズーリンの弁明を聞きいている途中にも、瞼を閉じて、うつらうつら船を漕いでいた。
 引き比べて、一輪の威勢のよさと辛辣さは際立った。
 
「話を戻すけど、手ぶらで戻った言い訳としちゃあ、お粗末すぎるんじゃないかしら? 本当はサボってたんでしょ、ナズーリン。監視がいないのを幸いと、適当に忙しいフリしてさぁ」
 
 地霊殿で見聞きした情報の大部分を伏せた報告は、どうしても整合性に欠けて嘘臭く聞こえたのだろう。一輪の言い分も、ある意味では当然であるし、ナズーリンにも納得できる面があった。
 けれど――話せないこともある。
 話すわけにいかないけれど、しかし――
 疑われっぱなしでは、ナズーリンも面白くない。いかにも偉そうに腕組みして、高圧的な視線を投げかけてくる一輪の態度に、神経を逆なでされる。彼女の背後に控えて演出に一役を買っている入道、雲山の存在も癪に障った。もはや、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、と言うレベルだった。
 しかし、皮肉のキツさならナズーリンも負けてはいない。さながらペルチエ素子のごとく、内面の憤りとは真逆の冷たい笑みを化粧っ気のない唇に浮かべて、一輪に軽蔑の流し目を浴びせた。
 
「それって思いっきり、君のことでしょ。警護と称して、ろくに船から離れてないそうじゃないか。飛倉の破片、君はいくつ見つけたのかな?」
「ぐっ……それは、仕方ないじゃない。いまでこそ辛うじて飛行しているけど、間欠泉の噴出で動力系が壊されたこの船は、つい先日まで飛ぶことさえできなかったんだから。村紗は間に合わせの部品で修理するのにかかりっきりだし、あんたはちっとも帰ってこないし。それなのに妖精やら妖怪が、ひっきりなしに集まってくるし。私の他に、誰が聖輦船の警護するって言うのよ! ああ、もうっ!」
「ご主人様は?」
「星なら、ひと足先に魔界へ向かったわよ。あの娘も、姐さんのことでは後悔し続けてたみたいだからね。聖輦船の修理が終わるまで、待っていられなかったんでしょうよ、まったく」
 
 それだけではあるまい。ナズーリンは胸裡で、そう呟いた。この状況での単独行動など以ての外。仲間たちを大切に想っているのならば、迷惑をかけたくないと、身勝手な真似を控えるはずだ。
 にも拘わらず、星がそうせざるを得ない理由は――毘沙門天の宝塔を、秘密裏に探さねばならなかったからだろう。宝塔なくして封印を解くことは叶わない。この重大な懸案は、星とナズーリンしか関知しないこと。村紗や一輪、雲山には完璧に伏せられていた。
 
「なるほど。今日まで聖輦船を護り抜いたことは一応、労っておくよ」
「一応とか、ケンカ売ってるのかしら? このネズミは」
「先に売ってきたのは、君のほうじゃないか。私は事実を話したまでだし、成果が捗捗しくない点では、私も君も大差ないよ」
「あーぁ……この調子じゃあ、いつになったら姐さんを迎えにいけるのやら」
「私が言えた義理じゃないけど、焦っても仕方がないさ。結果を急げば、後悔しか残らない。千年前にも思い知らされたでしょ、それは」
「そうだったわね」
 
 明るい題材は、ほとんどない。だが、これから八方手を尽くして探せばいいだけ。すべきことは山積しているのに、気落ちなどしていられなかった。
 
「それからさ、一輪。もうひとつ、訂正させてもらうとね」
「……なによ」
「私は手ぶらで戻ったりしてない。きちんと、地底の土産を山ほど持ち帰っているからね。ほら、これ」
 
 言って、ナズーリンがバスケットから取り出したのは、掌サイズの小さなカップ。初めて目にする物体に、一輪は眉を顰めた。
 
「なに、それ?」
「アルキメンデス。旧都で爆発的人気を博している食べ物さ。場所を選ばず手軽に食べられるし、味も悪くないよ。腹が減っては戦もできないと言うからね。聖輦船に積み込む非常食として、うってつけじゃないかな」
「へぇ? ……って、これ、もしかしてミミズ?」
「もしかしなくてもミミズ。まあ、騙されたと思って味見してみなよ」
「騙しだったら、あんたを挽肉に変えて、ハンバーグにするからね」
 
 トロッとした具をかけ、フォークでぐるぐる……。あんかけとミミズが万遍なく馴染んだところで、一輪の動きが止まった。
 
「なにやらグロテスクな」
「グロテスクな物ほど美味い。食の世界では常識だよ。さぁ、パクッと。そんなに怖がらなくても大丈夫だよ、死にはしないから」
「ぐぬぬ……。では、いただきます」
 
 ギュッと目を閉じて、フォークに搦めたミミズを口に運んだ一輪は、次の瞬間カッと双眸を見開いていた。
 
「死ぬー! 死ぬー! 美味すぎて死ぬー!」
「イケるでしょ? ヤマメの話だと、ミミズに与える飼料が味の秘訣らしいよ」
「いやぁ、これ気に入ったわ。ぜひ、姐さんにも食べさせてあげないと」
「かなり買い込んできたから、当分なくならないさ」
「気が利くじゃない。地底で遊んでた疑いは一応、撤回しておくわ」
「一応とか、ケンカ売ってるのかい?」
「お互い様よ」
「そんな馬鹿な。元々は君から――」
 
 言いかけて、急にキョロキョロし始めるナズーリン。
 頬張ったミミズを嚥下して、一輪が訝しげに問いかける。
 
「どうかした?」
「いま、微かに飛倉の反応が」
「近くにあるの?」
「どうかな……微妙。とにかく調べにいってくる。当たれば御の字だね。残念な結果になっても、文句は言わないで欲しいな」
「もう一回だけは、アルキメンデスに免じて許してあげる」
「なんで、上から目線なのさ」
 
 やれやれ。苦笑したのも束の間、ナズーリンは愛用のロッドと、相棒ネズミを乗せたバスケットを携えて、船縁から春めいた空へと舞った。
 春は名のみの、風の寒さや。頬に当たる風は、切れるように冷たい。
 けれど、ナズーリンはスピードを緩めることなく、ロッドが示す反応に向かって飛び続けた。
 
「誰も彼もが、あまねく与えられた役割に従って生きている……か」
 
 古明地さとりの言葉を思い返して、独りごちる。
 それなら、こうして失せ物探しに駆けずり回るのが、自分に――否、一時的にとは言え融合した『彼女』に与えられ、遂行すべき役割。
 
「いいさ。いつか私たちの代わりが現れるまで、役割とやらを演じきって見せようじゃないか。ね?」
 
 笑いかけるナズーリンに、銀毛の相棒ネズミも頷き、目をパチクリさせた。
 そうこうする間にも、急速に強くなる反応。ナズーリンの瞳が、動くものを捉えた。眼下に広がる森の、少し上空を飛んでいる。
 
「あれか」
 
 短く呟き、スピードを緩めながら、対象物と併走するコースにつける。相手は、紅と白の装束に身を包んだ巫女のようだった。
 
「本当に、あの巫女が飛倉の破片を持っているの? ……まあ、いい。つついて反応を見れば、済む話だね」
 
 接近したことで、向こうもナズーリンに気づいた。だが、巫女の目当てはあくまで聖輦船らしく、ナズーリンを一瞥しただけで飛び去ろうとする。足止めするべくナズーリンが張った弾幕も、難なく躱されてしまった。
 
「ふぅん……なるほど徒者じゃなさそうだ。見込みあり、か」
 
 こうなれば、力尽くでも捕まえて、所持品検査をしてやらなければなるまい。
 ナズーリンは再度、先回りして巫女の前を塞いだ。互いに緊張を隠しつつ、空中に制止して対峙する。
 不敵な眼差しを向けてくる巫女を斜に見おろしながら、ナズーリンは戯けるように話しかけた。
 
 
「狭い狭い幻想郷、そんなに急いでどこにゆく?」 
 
 
 
 
  了
 
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
佐乃一
http://
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.1070簡易評価
2.70名前が無い程度の能力削除
なかなか新しい展開ですね。全体的に楽しめましたが、咲夜さんについては少し唐突すぎたかもしれません
5.100半妖削除
圧倒的容量と出だしの一行を見た時には既に、僕の時間は90分ほど奪われていたのであった。
軽妙な言い回しと所々の小ネタのおかげで、楽しみながらサクサク読めました。
さり気ない幽パックが一番好きかなw
物語の設定も良かったです。"卑近な"ダウザーで"ネズミ"であるナズーリンにはこんな生い立ちが良く似合う。
後もう一つ、ナズとヤマメの掛け合いが素晴らしかった。
6.100名前が無い程度の能力削除
ヤマメちゃんかわかわという感想しか浮かばない自分は心底ダメだと思った
9.100名前が無い程度の能力削除
とても面白かった
この容量のくせに全く目を離せるところが無いとは…その文才が妬ましい

ただ一言、「怨霊」という単語を見て反射的に魅魔様を想起して、まさかの復活フラグかと思ったのは俺だけでいい
13.80名前が無い程度の能力削除
良い意味で期待を裏切る展開に、つい引き込まれてしまいました
19.80名前が無い程度の能力削除
やや導入から序盤にかけてが冗長に感じる。
テキスト量も多いことだし、ヤマメと旧都に向かうまでの部分はもう少しコンパクトにした方がより読者をストーリーに惹き付けられたんじゃないかと思う。

とはいえ、それ以降はグイグイと話に引き込まれて読まされてしまった。
話のテンポはよかったし、オリジナルの設定も面白かった。もっと評価されていいと思うんだけど。あと、ナズーリンとヤマメのやりとりがかわいらしくてよい。
25.80名前が無い程度の能力削除
会話の楽しさが良かったです
まさか咲夜とは思いませんでしたが