※注意※
ここから下はセルフ鑑賞というか、短歌の解説になっています。
作品外での内容解説が苦手な方はご注意ください。
・幽かにと 隠すつもりな 白雪も 過ぎて積もるが 広き桜葉
【直解】
(ほんの少しだけ、と隠すつもりの白雪だったが、桜の葉っぱが広すぎて積もりすぎてしまった。)
【解説】
桜餅の味について、八雲紫が言及した短歌。
ここでいう「白雪」とは「塩」の暗喩である。
和菓子に限らず料理全般において、とある味を際立たせるために、隠し味として真逆の味を少量入れることがある。
ここではあんこの甘さを際立たせるために、桜餅を作った人(=妖夢)が隠し味に塩を入れたわけだ。
しかし少し塩を入れすぎていた為に、この桜餅は思った味よりずっと塩っぱかった。
この不注意さに対して、教育が足りないんじゃないの? と、主の幽々子へ注文をつけているのである。
【使われている技法】
・暗喩
上記の解説の通り、白雪が塩の暗喩となっている。
また初句の「幽かにと」は、そのまま読めば「ごく少量」と言った意味になる。
しかし紫がわざわざ「幽」の字を使っていることから、これは「幽々子のために」との意味にも読めるだろう。
暗喩を全て分解すれば、「幽々子のために塩を隠し味として使ったが、思った以上に使いすぎてしまった」という短歌になる。
幽々子は甘党なのだろうか。
・押韻
二句目の「つもりな」と、四句目の「積もるが」で韻が踏まれている。
恐らく押韻である。和歌ではなく短歌(主に明治時代以降に詠まれたもの)でよく見られる技術。
元は漢詩の技術でもある。むしろこの用法は漢詩としての押韻に近い。
・体言止め
五句目に体言止めが用いられている。
【総括】
比較的様々な技法が使われていながらも、隠喩さえ解ければ解釈は容易。
漢詩の技法である押韻が使われている辺り、論語の類が好きそうな紫らしい短歌なのだろうか。
・私にと 握る手を強く 握るほど 大きくないわ あれも人の子(漢字変換)
【直解】
(私のためにと握っている手を握るほど、大きくないわ。あれも人の子だもの。)
【解説】
行間に秘められた文章が非常に多い。
要するに先ほど紫からなじられた妖夢をかばう歌である。
「握る手を強く握る」というのはつまり妖夢を叱りつけること。
「おおきくないわ」というのも、まずこれは幽々子本人の器の大きさに掛かっているのだろう。
しかし、幽々子本人は自分のために頑張って桜餅を作っている妖夢を、長い目で見れば妖夢自身の成長になると言えども、叱るほどの度量はない。
「あれもひとのこ」、妖夢だって人の子、間違いを犯すこともある。だから許してあげてよ、という意味となる歌であるだろう。
また初句の「わたしにと」を見る限り、しっかり紫の「幽かにと」という表現を解釈した上での返答と見える。
【使われている技法】
特に無いように見える。
しいて言えばこの歌は「四句切れ」であり、五句目の「あれもひとのこ」が強調されている。
少しの人的ミスは許して欲しい、という思いに主題があることが読み取れる。
【総括】
特に難しい技法が用いられておらず、そのまま読んでも(割と意味不明だが)読み取れる歌。
しかしそこから詠み手の思いをうかがい知るのは非常に難があるような作風。
先ほどの紫の歌と同じで、これも西行寺幽々子という人物の人となりが反映された歌ではないだろうか。
・さかずきへ いつの間にやら 浮く桜 持ちやがて往き 溶けるが如く
【直解】
(さかずきにいつの間にか桜が浮いていたが、それはさかずきを持つとすぐ溶けるように消えていってしまった。)
【解説】
何やら幻想的な歌だが、何のことはない、大食らいな幽々子を皮肉っただけの歌である。
まず初句の「さかずきへ」 そのまま「杯」と変換してもいいのだが、これは恐らく「酒好きへ」と変換することも可能である。
酒好きのあなたへ、つまり花を見るよりご飯やお酒をかきこむのに夢中なあなたへ、という出鼻からの嫌味である。
また、「さかずき」というのは酒を注がれる杯、いわば「手の延長線にある」ということを留意して欲しい。
そして詳しくは【使われている技法】で説明するが、この歌には二つの『掛詞』が使われている。
「浮く桜 持ちやがて」は「浮く桜餅 やがて」と掛かっている。
「やがて往き 溶けるが如く」は「やがて雪溶けるが如く」と掛かっている。
この辺りを分解した上で解釈すると、この歌は、(酒好きの君よ、手にした桜餅はまるで雪が溶けるみたいにすぐ無くなっていくね?)
と、花より団子状態になっている幽々子へ思いっきり嫌味を垂らした歌になるのである。
【使われている技法】
・掛詞(かけことば)
これは、ざっくり言えばいわゆる同音異義語を句の頭と尻に用いることで、音を重ねて表現を短縮する技法である。
この歌においては「もち」と「ゆき」に掛詞が使われている。
・直喩
暗喩と同じく比喩表現の仲間。「まるで~のように」という文言を使ったような比喩が直喩と呼ばれる。
ここでは「桜餅」という固形物が、溶けていくようにすいすいと減っていくので、「まるで雪が溶けるように」と、雪に対して直喩されている。
ちなみに、例えば雪をそのまま桜餅に見立てるのが暗喩である。やや難しい。
・言葉遊び
なんと言っていいのかは分からないが、「さかずき」と「酒好き」を掛けた言葉遊びが用いられている。
・体言止め
「浮く桜」で体言止めが使われている。
・脚韻?
【総括】
相変わらず色々な技法がこてこてと使われた歌。
本人の性格の悪さや胡散臭さが如実に出ている。
・春は過ぎ ノミ取りの手は かじかんで 布団を出る時 立つのが嫌ね(漢字変換)
【直解】
(春も過ぎてしまい、ノミを取る手がかじかむほど寒い。布団を出る時に立ち上がるのが嫌だね。)
【解説】
そのまま読めば、まあ風呂にも入れないほど貧乏なのか布団はある程度に裕福なのか分からない家庭の些細な冬の日常が見て取れる。
が、先ほど紫が幽々子を皮肉ったと同じく、これは幽々子が紫を盛大に皮肉った歌となっている。
この歌では先ほどの歌以上に「掛詞」が重要になってくるので、詳しい解説は技法の項目で行うとする。
【使われている技法】
・掛詞
上の紫の歌と同じく、二つの掛詞が用いられている。もっとも歌中での重要度と美しさはこちらが数段上に見える。
「春は過ぎ ノミ取りの手は」は、「春は 杉の実取りの手は」と掛かっている。
一見するとこの歌は春から突然冬に季節が変化しているように見える。
だがしかし。まず「春は過ぎ」という一文を見ると、春は過ぎ去った、なので次の季節である「夏」に移行したと言える。
次に「杉の実」だが、これは秋の季語である。なので此処で夏から秋に季節がまた移行したと言える。
そして「ノミ取りの手はかじかんで」なので、手がかじかむほどに寒い、季節は秋から冬に移行した……となる。
吹き飛ばされたように見える二つの季節も、掛詞を解けばしっかり含まれているように見える。
さて、そして次の掛詞が紫を皮肉るための大事な点だ。
「布団を出る時 立つのが嫌ね」は、「布団を出る 時経つのが嫌ね」に掛かっている。
時が経つとはつまり老化だ。外が寒い中で布団を出るのは確かに嫌だろう。
そして老化までしていれば、足腰は弱り自律神経も衰え、そういった意味でも布団から立ち上がるのが億劫になるものだ。
これを踏まえて歌を読み解けば、
(一年もあっという間に終わってしまう。時が経つのは早すぎて嫌になる。おばあちゃん、腰の調子は大丈夫? 膝は? 杖とか要る?)
といった意味になると思っていいだろう。相当にひねくれた解釈ではあるが。
【総括】
幽々子らしい。
・隠さずに 糖を掴んで にぎるほど 固き石となり あれもひとのこ
【直解】
(隠すこともなく思いっきり砂糖を掴み握り締めると、固い石のようになる。あれも人の子なのだ。)
【解説】
まあ殆ど意味不明である。技法の解釈を用いなければ普通にさえ読み取ることが出来ない。短歌としての完成度はだいぶ低い。
さてまずはこれにも掛詞らしきものが使われている。
「隠さずに 糖を掴んで」は、「隠さず 二刀を掴んで」に掛かっている。
そして言葉遊びとして、「固い石」は「固い意志」と変換出来るだろう。
この辺りを踏まえた上で読んでみると。
(二つの刀を隠さずに握るほど、その意志は固いようだ。やはりあれも人の子だ。<>)
というような文章になるだろう。最後の一文に関しては技法で補足する。
【使われている技法】
・掛詞 ・言葉遊び
上記の通り。
・本歌取り
……の、類似品。要するに、他の短歌から文章を少し組み替えて、あるいはそのまま持ってくるという技法。
パロディやオマージュに相当する。本来の本歌取りは史上に存在する特定の短歌を使うものなので、これは類似品とする。
本歌取りは、元となった作品の背景を拝借して表現に深みを与えるものだ。
なのでこの歌の背景には、「塩が効きすぎた桜餅を作った妖夢」が居る。
そして本歌取りの条件として、「元となった歌と主題を同一にしてはいけない」というものがある。
元の歌において主題となっているのは「妖夢の不注意によるミスを許してほしい」という内容だった。
しかし紫はこれを本歌取りの条件に倣って、「妖夢は主人の不摂生の為にわざと塩分を多くしたのだ」という『故意のミス』を主題とした。
この歌に居る二刀使い=妖夢の心情には、主人を亡き者にしたいという強い願望が現れているのである。
よって、上の解説にある<>が導き出される。
【総括】
煽り合いを通り越してただの悪口、しかも本人ではなくて本人と親しい者への悪口というゴミのような発想。
幽々子の前では子供っぽくなってしまうのかもしれない……ということにしよう。元々性格のいい妖怪ではない。
・己の穢れ 色紙にばかり 語らせて 角を立てるは 豆腐で良いか
【直解】
(自分の汚いところを色紙でばかり語るとは、穏やかじゃないわね。豆腐の角は充分に尖らせておいたけど)
【解説】
幽々子様ブチギレだ。直解の言う意味そのままで大体合っているだろう。
言葉遊びがいくつかある。「色紙」というのは、「しきがみ」と読むことも出来る。
これは、色々面倒なことや汚いことを、いつも式神任せにしている紫への批難である。
そして「角を立てるは豆腐で良いか」という文。そのまま「豆腐の角に頭ぶつけて死ね」という啖呵に繋がる。
また、「角が立つ」という慣用句も、「相手との関係が穏やかでなくなる」といった険悪な雰囲気を表している。
【使われている技法】
・言葉遊び
上記の通り。
【総括】
無駄な遊びを使わず、心情をストレートに書きだした歌。
美しくない感情は、こういう愚直な表現のほうが伝わりやすいものである。
・ひと巡り またも季節を おいていく あなたはずっと わたしの春よ
【直解】
(季節は巡り、またしても季節をおいていく。/あなたはずっと私の春よ)
【解説】
仲直りの歌。三句切れになっており、上の句へ下の句が言葉を投げかけている構成。
まず言葉遊びだが、「ひと巡り」の「ひと」とは、「一つ」であり「人」でもあるだろう。
人巡り……は、つまり人々の移ろいを表している。
そして「季節」というのは、妖怪・八雲紫が、自分自身を「世界」として見ての表現であると思う。
つまり季節=八雲紫自身ではないだろうか。同じ事を繰り返す、愚かな存在として自分を卑下しているのかもしれない。
「おいていく」というのは、「ひと巡り」が人間の移ろいと考えれば当たる漢字は「老いて逝く」だろうか。
大切な人との死別を繰り返した八雲紫の弱音だろう。
これに返答するのが幽々子で、「あなたはずっとわたしの春よ」という、シンプルな言葉である。
春、から連想するのは色々あるだろう。此処で言う『春』は、幽々子が紫をどういう存在だと思っているか、の直接的な隠喩である。
さて、幽々子の言う『春』とは果たして。
【使われている技法】
・言葉遊び
上記の通り。
・暗喩
上記の通り。
【総括】
答えは無粋だろう。ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました。
読者の教養が求められる作品ですが、解説があることで、自分にも何が起こっているのかわかりました。
そして、分かってみると、大変に面白いですね。昔の人が、このような遊びを楽しんだ理由がよく分かります。
結構酷いこと言い合っているのに、互いに笑って流せているのは、二人の付き合いの長さが偲ばれてよいですね。
まったくわからんかった by理系
この二人なら普段からこんな感じの頭を使う戯れをしていそうですね
最後の短歌イイネ
いや すばらしいかったです
学の無い自分でも解説のおかげで理解できました
もう一度じっくり解説を噛み締めながら読んできます
素晴らしいお話でした。
素晴らしかったです、ありがとうございました。
こういう作風も今さらながら流行ってほしいなあって思いました。
永遠亭の姫と薬師もこういった興を月を見ながらやっていてもおかしくないんじゃあないかと思います。
とっても良い作品でした。やっぱりゆかゆゆは最高です。
奥深すぎてわがんねぇ