『幻想郷最強は誰だ?』
【空を飛ぶ程度の能力】【冷気を操る程度の能力】【運命を操る程度の能力】【ありとあらゆるものを破壊する程度の能力】【境界を操る程度の能力】【純化する程度の能力】【何でも吸収する程度の能力】【三つの身体を持つ程度の能力】
崇められ、敬わられ、奉られ、畏れられる、各々が【最強】だと評されている異能の数々。
神・人妖達が持つ、多種あるその異能の全てが封じられた時、封じられた上で喧嘩した場合、最強は一体誰なのか?
【紅魔館プレゼンツ! 異能禁止の幻想郷最強喧嘩師決定戦!ヴァーリトゥードトーナメント『幻想格闘王』開催決定!出場選手募集中!】
「幻想郷最強、ね」
無造作にばら撒かれたチラシの一枚を掴み、内容を一読してから天邪鬼は笑う。
「その称号を幻想郷最弱と目される天邪鬼のこの私が手にしたら、さぞかしみんな嫌な気分になるんだろうなぁ」
天下の天邪鬼 鬼人正邪。
彼女は人知れず悪辣に口角を歪めた。
※
「わぁ、めちゃくちゃ賑わってるなぁ」
美鈴は門に寄り掛かったまま敷地内を俯瞰して他人事のように独り言ちる。ヴァーリトゥードトーナメント開催当日、紅魔館敷地内の特設会場には人里からの人間が押し寄せていた。娯楽の少ない幻想郷では何か催しものがあればこうして右へ倣えで人が集まるのだが、今回の賑わいは格闘技大会というイベントの物珍しさも手伝っている。会場内には河童の的屋や妖精の出店も並んでいて、さながらお祭り騒ぎだ。これだけの来場がいる時点でこの催しは興行的には成功していると言えるだろう。
空は快晴。もっとも、日の光は紅魔館の魔法使いが生み出した吸血鬼には無害な疑似太陽なのだが。本物の方の日の光は紅魔館の主に害をなすため紅霧に遮られている。
偽物の太陽を仰ぎながら美鈴は伸びをする。
「あなたは出場者でしょ。そんなにのほほんとしてていいのかしら」
いつの間にか美鈴の隣に立っていた悪魔の館のメイド長、十六夜咲夜は軽く発破を掛けた。音もなく現れ当たり前のように隣に居た彼女に動じず「大丈夫です」と美鈴は返す。
「今日は門番の仕事をしなくていいとお嬢様に仰せつかっているんで、大分身体は休めてますから。万全の体調で試合に臨めそうです」
「……普段から大して門番の仕事していないじゃない」
「あはは。それは言いっこなしですよ」
へらへらと笑う。こうして美鈴に気が入っていないのには理由があった。今回のトーナメント出場者が思ったより少なく、美鈴が警戒するレベルの選手がそう居なかったからだ。
今大会の主旨は『異能』禁止のタイマン勝負。そんな条件付きでわざわざ見世物になってまで戦おうと思う者は幻想郷の住人にはあまりいなかったらしく、集まった出場者は八人だけだった。
地底温泉街所属 星熊勇儀 使用格闘技→喧嘩殺法
永遠亭所属 鈴仙・優曇華院・イナバ 使用格闘技→軍隊格闘
白玉楼所属 魂魄妖夢 使用格闘技→無刀
妖怪の山所属 河城にとり 使用格闘技→河童相撲
命蓮寺所属 雲居一輪 使用格闘技→命蓮寺拳法
無所属 依神女苑 使用格闘技→ストリートボクシング
無所属 鬼人正邪 使用格闘技→なし
そして紅美鈴である。はっきり言って彼女が警戒しているのは星熊勇儀と雲居一輪くらいだった。疫病神と天邪鬼の体術の程は知らないが、ファイトマネー狙い(今大会は一戦ごとに戦うだけで賞金が出る)じゃないかと美鈴は睨んでいる。鈴仙・妖夢は何度も手合わせの経験があるが、異能禁止なら圧倒できると踏んでいたし、にとりに至っては流石に体格差があるので今回のルールでは負けはしない。
警戒すべき二人の試合以外は温存気味に美鈴は戦うつもりだった。
特に警戒している星熊勇儀とは順当にいけば二回戦で当たる。彼女に出来るだけ手の内を晒さずに一回戦を突破できるかどうかが肝要だ。
「美鈴。あんまり油断しちゃダメよ。負ければお嬢様の顔に泥を塗ることになるわ」
咲夜はそう釘を刺す。今回の大会は紅魔館の主、レミリアの思い付きで始まったことだが、しかしそれにしては身の入り方はかなり強かった。レミリアはこの興行を恒例のイベントにしたいらしく、永遠亭・地霊殿・博麗神社・守矢神社を巻き込んでまで大会の体裁を整えた。
その記念すべき第一回大会には自分の所属組織の選手に優勝して貰いたいと思うのは当然だろう。
「わかっています。私に有利なルールですし、そういう意味でも負けられませんね」
「あっはっはっは」
あざけるような笑い声。二人の会話に割って入るように。声の方を見やると、天邪鬼 鬼人正邪が門の上で二人を見下ろすように座っていた。今大会の出場選手の一人。無所属で、使用格闘技もなしと申告している変わり種。彼女は門から飛び降りて二人と視線を合わせた。煽るように相変わらず口角を歪めている。
「いや、笑っちまって失敬。自分有利なルールだなんて的外れなことお前が言い出すからおかしくてさぁ」
「……どういう意味ですか?」
「そのままの意味さ。この大会のルールは穴だらけだ。考えた奴はさぞ間抜けに違いない」
美鈴は反射的に天邪鬼を殴ろうと身を乗り出す。ルールを整備したのはレミリアだった。故に彼女には主を侮辱するようなその発言は聞き捨てならなかった。
「やめなさい、美鈴」
咲夜が美鈴を抑える。
「そのルールの穴、というのは『試合前に他の出場者に危害を加えた者は失格とする』の項かしら? 安い挑発でわざと殴られてこの子を失格に追い込むつもり?」
「それもいいが、それ以上に穴がたっぷりだ」
「へぇ。その穴って何なんですか? 聞かせてくれませんか?」
美鈴は半ば威嚇するように天邪鬼ににじり寄る。咲夜はそれを手で制す。
「美鈴、相手にしちゃダメよ。こいつの相手は私がするからあなたは控え室にでも行ってなさい」
美鈴は天邪鬼を睨みつけ、手を出さぬよう堪えて息を吐く。どうせこいつは一回戦で終わる。自分と戦うことはないのだ。多分、彼女はその天邪鬼の性質上、本能的に場をひっかき回したくて仕方なくてこうして突っかかってきているだけなのだ。そう考えたら哀れな奴である。
一人で納得して美鈴は天邪鬼の相手を咲夜に任せ、控え室へ向かう。
「なんだよ、張り合いのない奴だ」
「あんたと違って大人なだけよ。さあ、他の選手にちょっかい出されても困るからあんたも控え室に行って」
「まあそう邪険にするなよ」
正邪は馴れ馴れしく咲夜の肩に手を回す。
「ルールに穴があるってのはホントだぜ。私の話を聞かないと後悔するぞ」
咲夜は美鈴のセコンドだが、大会運営関係者でもあるためそう食い下がられては話を聞かないわけにはいかない。咲夜は諦めて天邪鬼に話をするよう促した。
※
美鈴が控え室で待っているとしばらくして咲夜も入ってきた。美鈴と目が合うと咲夜は何かを言いかけて、しかしそれを言わずに飲み込んだ。
「あれ。咲夜さん、どうかしましたか?」
あの天邪鬼に何か妙なことを吹き込まれたのか。美鈴が心配しているのを察し、咲夜は「何でもない」と返す。
(――あの天邪鬼の狙いは、美鈴を揺さぶることにあるのかもしれない。この子があいつと当たっても、普段の動きが出来ればまず負けない)
咲夜はそう結論付けて美鈴に何も伝えない。単純な実力差から言って異能無しの殴り合いで彼女が天邪鬼に負けるわけがないのだ。セコンドの自分は、ただ美鈴の邪魔にならないようにしていればいい。余計な情報を加えて美鈴の動きを制限するのが天邪鬼の作戦かもしれないのだ。
咲夜は天邪鬼との会話を脳内から追い出す。そもそも天邪鬼の一回戦の相手から言って、彼女と美鈴が当たることはないのだから、警戒するだけ損だ。余計な消耗。
咲夜は天邪鬼に吹き込まれた不穏な言葉を頭から叩き出し、タオルを握った。
※
【幻想格闘王】要項
ファイトマネーは一戦につき金一封。勝者には倍額の支払い。優勝者には初代幻想郷格闘王の称号と一年間の紅魔館でのお食事券とトロフィーを授与する。
ルール1 異能の仕様を禁止。また、リング内へはいかなる異能の干渉も禁止する。(リング内は博麗・守矢・八雲合同による結界によりあらゆる異能を封じられ、選手の身体能力も人間並みに弱体化する)
ルール2 リング内への武器の持ち込みは禁止。
ルール3 試合の決着はセコンドからのタオル投入、もしくはダウンしてから10カウント経過で試合続行不能と見做す。
ルール4 ダウン後の追撃を禁止する。(ダウン逃げを防ぐため、判定は選手が倒れてからさとり妖怪が行う)
ルール5 目付き、噛みつき、金的を禁止しない。
補足・リング上では選手は人妖特有の不死性を失い、人間並みの耐久力になるので、安全性を考慮してリングドクターとして八意永琳を配置する。
補足・その他、試合外の細かい規定については別項参照。
※
「正邪ー。仕掛けて来たけど、ホントにルール違反じゃないの?」
「ああ。針妙丸。違反じゃない。だからお前は心配せず、私の頼みだけ聞いてくれればいい」
咲夜と別れた後、正邪は自身のセコンド、少名針妙丸と合流する。
「うーん。そもそもあの結界がヤバすぎてそっちも心配なんだけど」
「確かに。ありゃかなり気合入った結界だぜ。試合がなけりゃ、私もあんな結界の内側には入りたくないね」
「そうは言うけど、あんたはそもそも結界の外でも内でも強さあんま変わんないでしょ」
「お前、私のセコンドのくせにめちゃくちゃ言うな」
事実であるから正邪はそれ以上言及しない。正邪は理解していた。トーナメント参加者で自分が最も弱いと。ただ、勝負に勝つのは必ずしも強い者であるとは限らないことも理解していた。勝負に勝つのは勝ち筋を作れる者だ。
そういう意味では、今トーナメントの出場者で正邪の敵になるものはいなかった。せいぜい自分と同じ属性の依神女苑くらいしか相手にならない、と正邪は考えていた。
「ところで、あんたあのメイドとは何話してたの」
「別に。ただ魔法を掛けておいただけさ」
「魔法? あんたにそんな特技あったなんて初めて聞いた」
バカにするように針妙丸は言う。実のところ、セコンドでありながら針妙丸は正邪が勝ち進むと思っていなかった。どうせいつものようにろくでもない企みの一環で大会に参加していると睨んでいて、場合によっては自分がブレーキにならないといけない。そういう思いで正邪に協力していた。正邪が致命的な騒動を起こしてまた以前のように幻想郷中から指名手配を受けて命を狙われる、なんて展開にならないようにしなくてはならない。
「まあ一応あんたには貸しがあるし、私は出来る限り協力はするけど」
「頼むぜ。当面、お前の役目は絶対にタオルを投げないことと、二回戦で小槌を振ることだけだ。そのくらいの役目はこなしてもらう」
「二回戦ねぇ。あのさ、メイドに掛けた魔法とやらも二回戦で効く仕掛けってことでしょ? 順当にいけば二回戦に当たるのは紅美鈴だもんね」
美鈴の最初の相手は軍隊格闘 鈴仙・優曇華院・イナバ。実力者だが、それは異能込みの話である。
「でもあんたが二回戦に上がれなきゃ意味なくない?」
「そうだな」
「あんたの一回戦の相手、星熊勇儀だよ」
死刑宣告。針妙丸はそのつもりで正邪に告げる。あるいは彼女が現実から目を逸らしているのではないかと疑っていた。
「勝てるわけないじゃん。小細工すらしてないのに」
運がないと針妙丸は珍しく正邪に同情する。
一回戦第一試合。星熊勇儀 対 鬼人正邪。たとえ何かの間違いで勝ち上がれたとしても、二回戦では紅美鈴と当たることを考慮すれば、呪いたくもなるような籤運である。二戦連続で優勝候補と当たることとなるのだから。美鈴と勇儀二人のオッズはほぼ均衡。対して正邪には何十倍もの倍率が付いていた。
そんな事実を指摘されているのに正邪は不敵に笑う。
「どいつもこいつもそう思ってるから、私が勝つんだよ」
正邪は自分を幸運だと思っていた。何故ならこの組み合わせ以外で自分が優勝するのは難しいと思っていたからだ。
――まもなく試合が始まる。
※
ヴァーリトゥードトーナメント一回戦
第一試合
・星熊勇儀 セコンド→伊吹萃香 対 鬼人正邪 セコンド→少名針妙丸
第二試合
・紅美鈴 セコンド→十六夜咲夜 対 鈴仙・優曇華院・イナバ セコンド→因幡てゐ
第三試合
・魂魄妖夢 セコンド→西行寺幽々子 対 雲居一輪 セコンド→雲山
第四試合
・依神女苑 セコンド→依神紫苑 対 河城にとり セコンド→茨華扇
※
『さぁ、試合開始の時間が迫ってまいりました!』
実況担当の射命丸文の声がこだまする。河童印の拡声器の作用だ。その他の機材も基本的には河童製である。
結界に関わる博麗・守矢・八雲もそうだが、今大会には永遠亭も地霊殿も妖怪の山も絡んでいる。このようなあらゆる陣営を巻き込んで興行を行えるのは紅魔館当主レミリア・スカーレットの人徳のなせる業か。
――もちろん、この興行で得られる利益も目的の一つではあるかもしれないが。
「あー、そこのチビちゃん。ポップコーンとビールちょうだい」
観客席に座る魔理沙は近くに居た河童の売り子にそう要求した。河童は「まいど~」と笑顔で応える。
「あんた、先に出店で買ってたたこ焼きとかポテト、もう食べちゃったの?」
隣に座る霊夢は呆れたように言う。
「まあいいじゃないですか。今回は私たち、大会運営に協力しているのでこの辺の物販は全部タダですし」
早苗はおいしそうに綿菓子を頬張りながら言う。
「私は別に協力なんてしてないけど、いいのかなぁ」
菫子はそう訊きつつも魔理沙に便乗して河童の売り子にノンアルコールの飲み物を頼む。
「構わん、私が許可するぜ」
「あんたも今回何もしてないでしょ。早苗と私に感謝しながら飲み食いしなさい」
「ですよですよ。いやぁ、あの結界張るの大変だったんですよー」
早苗はリングの結界を指す。博麗・守矢・八雲の合同結界。あらゆる異能を封じ、人妖の身体能力を人並みに下げる。この結界があるからこそ、大会への出場を渋る者も居たほどだ。今大会の選手の層の薄さは結界の強力さに起因する節があると言っても過言ではない。
「そういやなんだってあんな仰々しい結界になっちまったんだ?」
「鬼が出るからよ」
魔理沙の疑問に霊夢は間を置かずに応え、顎でリング上に入場した星熊勇儀を指す。勇儀が入場した途端、観客席が湧く。鬼の四天王の一角、星熊勇儀。普段は地底に居るため人里での露出は少ないが、それでも知名度が高かった。妖怪の山のプロモーションが上手くいっていたからだ。
「あー。そりゃ並みの結界じゃ抑えきれないわな」
「会場に被害が及ぶようなことになったら洒落にならないもの」
「……ホントに結界、ちゃんと作用してるんですかあれ」
菫子は心配そうに霊夢と早苗に訊く。ちょうど勇儀がリング上で大木を鯖折りで粉砕するパフォーマンスを披露していたからだ。人並みに弱体化しているとは思えない程の膂力。
「一応、人間の身体能力相応なはずですよあれで。勇儀さんがそもそも規格外だと納得するしかありません」
早苗は苦笑いで自分達の張った結界をフォローする。
「相手の天邪鬼?はご愁傷様ですねあれだと。私はあの子のことあんまり知らないですけど」
菫子はリング上の正邪を眺めながら率直な感想を言う。入場の時も申し訳程度の拍手しかなく、彼女に期待している観客がほとんどいないことはすぐに分かった。彼女を応援しているのは、大穴狙いで彼女に賭けているギャンブル狂いくらいである。今大会は賭けの対象にもなっていた。
菫子の同情に、しかし霊夢、魔理沙、早苗は同調しなかった。正邪に触れた途端、三人とも難しそうな顔をする。
「正邪、ね」
「まあ、奴はぶっちゃけその辺の野良妖怪に劣るぐらい弱いからなぁ」
事実である。だが、それ以上に――
「何かやらかしちゃう。そんな予感はあるんですよね」
正邪との交戦経験のある三人は何かを感じ取っていた。あの天邪鬼が無策でリングに上がるはずがない。
試合前に購入した券を無意識に握る。三人の賭け券には『無所属 鬼人正邪』と記されていた。
鬼人正邪の勝利を予測している者は他にも居た。
「姉さま、あの天邪鬼って強いの?」
妹、フランドール・スカーレットのその問いに対しレミリアは「弱いよ」と即答した。それを聞くとフランドールはすっかり天邪鬼に興味を失ったらしく主催者席を離れて屋台の方面へ向かった。
レミリアは苦笑する。天邪鬼が弱いのは議論の余地のない事実だが、妹には今後の知見を広めるためにこの試合は見ていて欲しかった。レミリアはその先見性で鬼人正邪が星熊勇儀を下すのを予見していた。
「勝ち方まではわからないけど、ね」
かつて天邪鬼をスペルカードルールを無視してまで追い込もうとしたときのことをレミリアは回想する。彼女は弱いが、しかし勝ち筋を追う力は誰よりも優れている。
試合が始まる。
勇儀はデモンストレーションで粉砕した大木を見ても全く萎縮していない正邪の様子に満足していた。勇儀は度胸のある者が好みだ。――だが、正邪は決して度胸があるわけではない。
彼女の動じなさは自分の策が上手く嵌る、という確信がありきの打算的な態度なだけだった。
「正邪……。ホント、やばいって。殺されちゃうよ」
針妙丸は震えていた。結界内では鬼でも弱くなるんじゃなかったのかと困惑する。砕けた大木を見せられると、こんなの聞いていないと愚痴も言いたくなる
「針妙丸。お前の役目はタオルを投げないことだけだ。余計な心配するな」
「余裕だねぇ。嫌いじゃないよ、そういうの」
二人のやり取りに勇儀は水を差す。正邪は勇儀に特に何も言い返さない。万に一つも彼女に警戒心を抱かせてはいけない。そう思い、正邪は自身の感情を隠すように無反応を装う。内心は違う。
高揚していた。この大衆の場でのジャイアントキリング。天邪鬼の血が滾る。
(――ただ策が嵌らなければ死ぬなこれ)
砕けた木片は自身の未来を暗示しているようにも見えた。不安は当然ある。策が嵌らなければさっきの言葉を撤回して針妙丸にタオルを投げさせるしかないな。そういったプライドのない切り替えも正邪は想定していた。
「両者、定位置までお願いします」
リング外で審判の古明地さとりはそう促す。試合開始のゴングは彼女に預けられていた。
正邪はリングに上がる。陰陽柄をしたマットの感触を足裏で確かめる。素材は不明だが、やや強い弾力が返ってくる。リングの四方は不可視の結界により物理的な障壁となっている。出ようと思わなければリングから出れず、試合中は壁として機能する。
二人の心の動きを見ていたさとりは、
(あ。勇儀さん、負けちゃいますねこれ)
と先の展開を予測した。
さとりに促されて二人はリング中央へ進む。
正邪は構える。半身程体勢を傾け腕を構える、天邪鬼には似つかわしくない【正眼】、一般的なファイティングポーズ。対して勇儀は両腕を大きく広げた構え。打ってこいと言わんばかりの。
「らしくないわね」
レミリア・スカーレットは正邪の構えを見てそう評す。彼女の構えはいわゆる打撃型【ストライカー】に多いものである。足回りは相手に対して垂直に置かれているので縦への移動に特化し、横への変化をしにくい打撃を真っ直ぐ通す型。
一方勇儀の戦闘スタイルは喧嘩殺法――とはいうがそれは正しくない。勇儀は自身の戦闘スタイルを形容する言葉を知らなかったから大会運営にはそう答えただけだった。
外の世界で言うならば勇儀のそれはプロレスラーの戦闘スタイルに近いものだった。攻撃を避けるのではなく、受けて切り返す。パフォーマンス重視の戦い方だった。
「はじめ」
さとりはゴングを鳴らした。試合開始の合図に会場が沸く。
正邪は勇儀に近づく。相変わらず勇儀は腕を広げたままだ。腰を低く落としている。いわゆる相撲で言うところの不知火型。打たせて、抱きしめる。そうするつもりだった。ベアハッグ。あるいは鯖折りと呼ばれる技――否、技と言われるほど技術を要しない、ただの力業である。
単純だが、勇儀の膂力であれば掴まれば脱出不可能。
デモンストレーションで見せたようになる。掴まえた時点でセコンドがタオルを投げるだろう。勇儀はそんな風に考えていた。
正邪は勇儀の前に来ると思い切りこぶしを振りかぶった。――蹴りではなく、拳を使うのか。
(上等)
勇儀は顎を引き、打撃に備える。正邪は勇儀が避けないことを想定していたかのように駆け引きもなく、そのまま拳を振り抜いた。
押すような鈍い打撃が勇儀の胸の中心に突き刺さる。
一見なんの変哲もない正拳突き。それを受けて勇儀は当たり前のように倒れた。
糸の切れた人形さながら。大の字になって。
水を打ったように会場が静まり返る。
「ダウン」
審判のさとりがそう宣言し、旗を上げた。10カウントが始まる。
「あぁ?」
突然の展開に勇儀のセコンドの伊吹萃香は能天気に飲んでいたのに酔いが醒めたかのようにリングに身を乗り出した。あまりの大番狂わせに遅れて割れるような歓声が巻き起こる。
何が起こったのか。それを把握しているのは会場内では正邪以外で三人しかいなかった。一人はリングドクターの八意永琳。
今の一撃を間近に見て、一目で勇儀の症状を察する。
(心臓部分を正確に撃ち抜かれている。結果、血管迷走反射性失神と心臓性失神の二種類の失神系の負荷が掛かった)
自ら起き上がることは出来ない。リング外に出せば人妖特有の不死性で蘇生するが、ここで放置し続ければ心室細動により死に至る。そう判断して10カウント終わった時点ですぐに永琳はリングに上がり、勇儀をそこから引きずり下ろした。
二人目は紅美鈴。彼女は正邪が拳を勇儀の胸の脂肪の邪魔にならない形に作ってるのを見ている。
(あれは心臓打ち。狙って打ってる!)
中国拳法にもある技術。鬼人正邪は一撃で終わる打撃を持っていた。振りが大きいので、あの打撃を使うには隙が無ければならない。普通にやれば当たることのない打撃。今のようなシチュエーションでなければ打てない打撃だ。
「……運が良かった。ただ、それだけですね」
美鈴はそう解釈して切り捨てた。あんな打撃があったとしても、自分の相手ではない。
そしてもう一人は――
「いや、マジかよ。ホントに勝っちまったな」
「魔理沙さん、今霊夢さんに話しかけちゃダメですよ。ダメ元で買った賭け券が大金に化けそうでちょっとおかしくなってます」
「おかしくないわよ私は。けれども、今後またあの天邪鬼が何かやらかして、またまた死刑宣告受けて指名手配されても、一度だけなら庇ってあげられるって宣言しとく。天邪鬼大好き」
「ほら、おかしくなってる」
「こりゃ重症だな」
霊夢、魔理沙、早苗が三人かしましく会話する中、一人それに混ざらず菫子は正邪の拳撃を回想する。
「今のは……『金剛』?」
※
「すごいすごい!正邪、ホントに勝っちゃうなんて」
針妙丸は興奮し、もろ手を挙げて祝福した。それを受けて正邪は気のない返事をする。
「ああ。運が良かった。くじ運に救われた」
一回戦第一試合。正邪が星熊勇儀を突破するには彼女が人間の耐久性を過大評価している開幕一発目しかなかった。他の勝ち筋はなくもないが、かなり難しい。
「奴が人間と最後にやり合ってたのは何百年も前のことだ。あの頃は人間側も化け物揃いだ。人間の耐久力をその時の基準の認識のままでいたんだろうな」
あるいは第二試合以降に試合が組まれてれば、勇儀も人間の耐久性を過信しなかったかもしれなかった。リング上では人間並みに力を抑えられる。人間は弱い。人体の欠陥によるこういった『まぐれ』も当然あり得る。
「問題は二戦目だ。お前の働きが頼りになる。幸い、『今日は快晴だ』。まるで天が私に勝てとお膳立てしてるみたいだぜ」
正邪は紅霧に覆われた空を仰ぎ見ながら針妙丸の頭をポンと手で叩いた。
※※※
天邪鬼による大番狂わせがあったものの、以降の試合は下馬評通りの結果となった。
ヴァーリトゥードトーナメント一回戦 試合結果
第一試合
・星熊勇儀× 対 鬼人正邪〇 決まり手→正拳突き
第二試合
・紅美鈴〇 対 鈴仙・優曇華院・イナバ× 決まり手→上段廻し蹴り
第三試合
・魂魄妖夢× 対 雲居一輪〇 決まり手→肘打ち
第四試合
・依神女苑〇 対 河城にとり× 決まり手→アッパーカット
これにより二回戦第一試合の組み合わせは
鬼人正邪 対 紅美鈴 となった。
「……」
咲夜は思案する。鬼人正邪は勝てない戦いはしない。美鈴と当たることを見越して謀略のタネを蒔いている。会場で自分に話しかけてきたのもその一環だろう。
『紅美鈴は確かに強い。まともにかち合ったらそりゃ勝てないだろう。だが私には――』
鬼人正邪は咲夜にそう言い放った。自分がどうやって美鈴を倒すのか、手の内を晒してきた。どんな技を決まり手にするのか。しかし流石にそれをそのまま鵜呑みにするほど咲夜は単純ではなかった。
『一試合目は『金剛』という正拳突きで星熊勇儀を倒す』
試合前、正邪はそこまで明かしていた。
それでも尚、咲夜は正邪に吹き込まれたことを美鈴には何も伝えなかった。普通に戦えば美鈴が勝つのだ。
(と、あのメイドは考えてるんだろうな)
鬼人正邪は十六夜咲夜の思考を読む。試合開始前、リング越しに美鈴と咲夜の姿を見て正邪は自分の策が順調に進んでいることを察した。
(あのいい子ちゃんのメイドは十中八九美鈴に何も伝えていない)
もはや確信だった。何故なら十六夜咲夜は紅美鈴の強さに依存しているから。否、咲夜でなくてもそう判断するだろう。普通にやれば美鈴が勝つ。天邪鬼の言葉に耳を傾ける必要などない。余計なノイズを混ぜてしまう方が悪手である。
十六夜咲夜は紅美鈴の強さに依存している。故に負けることになるのだ。
「正邪、ホントにこれルール違反じゃないの?」
針妙丸は小槌をさすりながら正邪に訊く。
「選手に危害を加えるわけじゃない。違反なもんか」
しかし声音は低く誰にも聞こえないように抑えながら正邪は喋る。やましいことをしているのは確かなのだから。
(理想は肋骨。もしくはそのまま勝負が決まればいいが、奴のフィジカルを考えるとそうはいかないだろう)
二の矢は用意している。ここからの戦いは手順通りに工程を進めるだけだ。正邪はリング越しに美鈴を見る。美鈴も応じるように正邪を睨み返していた。その態度に正邪はクツクツと嗤う。
(紅美鈴。お前の弱点を今から私は突くが、存分に怒ってくれよ)
美鈴が冷静さを欠けば欠くほど、鬼人正邪の勝率は上昇する。正邪はリングに上がった。
読心能力により全てを知るレフェリーのさとりは、
(なんて卑怯な奴なのかしら)
と天邪鬼を率直に評した。だが、特に咎めることはしない。明らかなルール違反ならまだしも正邪はまだ何もやっていないのだ。今回、古明地さとりは公平なレフェリーとして表向きには協賛という形で紅魔館の要請を受けて参加している。
ここで紅魔館に寄る判定を下せば、地霊殿がこの大会に忖度しているとギャラリーに思われる。地霊殿と紅魔館が癒着していると疑惑が立とうものなら今大会の興行に関わる。それは両陣営の望むところではない。
静観せざるを得ない。試合開始前に鬼人正邪を失格にすることは出来ない。
公平さを求められるが故、不公平なジャッジを下さなければならないジレンマ。
(この世に真の『公平』など存在しない。ならば、私はその不公平さを利用する)
当然、古明地さとりが自分を止められないのまで正邪の計算づくだった。その思考までも読んだためさとりはこの天邪鬼を『卑怯』と評したのだ。
(……今回の大会はヴァーリトゥード、『なんでもあり』。ルール違反でなければ使えるものは何でも使うという姿勢、嫌いではありませんが、普通ここまでやりますかね)
かつて幻想郷のパワーバランスを崩壊させようとし、あらゆる強者の不可能弾幕を退けた鬼人正邪。伝聞でしか知らなかった天邪鬼の実態を間近に見て、古明地さとりはわずかに好意を抱いていた。地底世界ではこういった非道外道は王道である。大会が終われば部下に欲しい。そう思っていた。
「両者、定位置までお願いします」
紅美鈴もリングに上がる。一回戦第二試合では軍隊格闘の鈴仙・優曇華院・イナバを下した。彼女は正しく『戦士』だった。だが、目の前の天邪鬼は違う。
明らかに『戦士』ではない。彼女からは野犬のような卑しさを感じる。それでいて狡猾。今大会で唯一格闘技を目的ではなく手段として用いている。一戦目と違い正邪は構えない。いわゆる無形。
初動が遅れる代わりに型が見えなくなる。が、無問題。何故なら美鈴の格闘センスなら後から動いても対応できる。後の先と呼ばれる技術である。
「美鈴、勝って」
セコンドの咲夜から声が掛かる。美鈴はそれに無言で応じた。言わずとも伝わる、同じ主に仕える従者としての絆がそこにはあった。
(見せつけてくれるじゃないか。だが、その『仲良しこよし』がお前らの『弱点』!!)
「はじめ」
さとりがそう宣言し、試合開始のゴングが鳴る――瞬間。
「紅霧よ、小さくなーれ」
誰にも聞こえない声量で、セコンドの針妙丸は小槌を振りながら呟いた。
空を覆っていた紅霧は一瞬で縮まり、日光が会場を照らした。
「キャッ」
ほんの一瞬の出来事。主催者席に座る紅魔館の吸血鬼姉妹は不意に襲って来た日光を何の防御手段もなく受けた。体表がわずかに蒸発する。
紅霧は次の瞬間には元のサイズに戻り日光を遮っていた。異変に気付いたのは会場でも日光を苦手とする限られた人妖だけ。
その一瞬で十分だった。リング内の美鈴は条件反射的に正邪から目線を切り、主の姿を確認してしまう。
(しまった!!)
美鈴の思考は早かった。何が起こったのかわからないが、間違いなく正邪の奇策だ。反射とはいえ、目線を切ったのは明らかな失態。
一回戦、鬼人正邪は星熊勇儀を下す一撃を見せている。心臓を突くことによる失神攻撃。――それでなくても他の『一撃』を持っている可能性も想定される。
――美鈴の判断は速かった。瞬時に一撃を封じるため両腕を中央寄りに位置させ内股になる、人体の急所を守るコンパクトな構えを取った。人体の弱点は身体の中央に寄っている。人中、喉、みぞおち、金的。意外と思われるかもしれないが、女性でも金的を食らうと身動きできない程悶絶してしまう。それらを保護する構えの選択として美鈴の判断は完璧なものだった。
頭部の揺れにも対応できるよう顎を引いている。
(私のミスだ。甘んじて一撃は貰う。でも、代わりに返しで仕留める!)
だが、鬼人正邪の選択は――
『左鉤突き』
深く、のけぞる程の強さで美鈴の脇腹は打たれた。
「ぐッ!」
一撃じゃない。連続攻撃! 瞬時にそう判断した美鈴は切り返しの技として前蹴りを選択した。が、それより速く。
『肘打ち』
側頭部に打撃が届く。カウンターしようと踏み込んだため強く喰らってしまう。続けざまに、両手突き、手刀、貫手、反撃できずに一方的に美鈴は打撃を食らう。
セコンドの咲夜は息を飲んだ。
「まさか、ホントに。これが、『煉獄』」
裏拳、裏打ち、鉄鎚、肘打ち、手刀。試合開始からおよそ二十秒経過。既に数十発にも及ぶ打撃を未だ美鈴は受け続けていた。
※※※
――一回戦第一試合前。
「実は私は、格闘技はからっきしでな。使える技は二種類しかない」
「は?」
鬼人正邪の突然の告白に、咲夜は面食らう。直ぐにそんなわけがないと呆れて首を振る。
「なに?それがあんたの作戦なのかしら。そんなことでこっちの油断が誘えるとでも?」
「一つ目は『金剛』。理屈は省略するが、相手を一撃で失神させられる。宣言しておくぜ。一試合目は『金剛』という正拳突きで星熊勇儀を倒す」
咲夜の疑問に応えず、口角を歪めながら正邪は告げる。咲夜は相手にせずはいはいと適当に返す。
「二試合目、おおよそ紅美鈴が上がってくるだろうが奴は『煉獄』という技で仕留める」
「はあ」
意味が分からなかった。何故手の内を晒すのか。そもそも狂言なのだろうが。選手に仕掛けるならまだしも、セコンドである自分にそう伝えるこの行為に果たして意味はあるのか。
「なんで私にそんなことを」
「私も流石にリング上で殺しはしたくないもんでな」
空気が一瞬冷える。軽口ではなく、その瞬間だけ正邪の発言は真に迫っているように聞こえた。
「……どういう意味?」
「紅美鈴は確かに強い。まともにかち合ったらそりゃ勝てないだろう。だが私には煉獄がある。煉獄は左鉤突きから始まる反撃不能の連続攻撃だ。私が止めようと思わない限り一方的に攻撃出来る」
格闘技に疎い咲夜で分かった。そんなバカげた技は存在しない。
「煉獄は今回のルールではダウンでも逃れられない。何せ、私が打ち続ける限り倒れられない攻撃なんだからな。今回のルールでは【ダウン逃げを防ぐため、判定は選手が倒れてからさとり妖怪が行う】となってる。わかるか? これが今大会のルールの不備だ。煉獄を食らわせている限り、ダウンを取られることはない」
正邪は続ける。
「お前がタオルを投げなければ、私は煉獄で紅美鈴を殺してしまうぞ。リング上なら人間と同じなんだからな。そうならないためにも、私がそういう技を持っていることをあの女に伝えておけよ。あるいは、奴の腕前なら警戒させておけばダメージを軽減できるよう立ち回れるかもしれないからな」
「もう一度言う。お前がタオルを投げなければ、私はリング上で紅美鈴を殺す」
※※※
一方的に殴られ続ける美鈴。観客席からは歓声と困惑の混じったざわめきが巡っている。
「ふーん。面白い打撃ね、あれ」
二回戦第二試合を控える依神女苑は正邪の連続攻撃を見て感嘆の声を漏らす。
「女苑、なんで美鈴は反撃できずに好き勝手に殴られまくってるの? 意味わかんない。堅実だって思って有り金全部はたいて美鈴に賭けたのに、これじゃ負けちゃうよ!」
試合を食い入るように見ながら涙目で姉の依神紫苑はぎりぎりと歯を食いしばる。
「反撃はしようとしてるわよ。それより天邪鬼の次手の方が速い。見たかんじいくつかの決められたパターンの攻撃を繰り返してるようね。規則性はわからないけど」
反撃不能の連続攻撃の決め打ち。正邪の打撃を大雑把にそう分析した。
そしてその分析はおおよそ正しい。
「おいおいおい、マジで正邪の奴美鈴を倒しちまうぞ」
「行けッ……行けッ……」
「霊夢さん、目が血走ってて怖い」
魔理沙、霊夢、早苗の三人も他の観客同様、困惑交じりに試合を観戦している。一方菫子は、
「右中段回し蹴り、左上段後ろ回し蹴り、左中段猿臂、右下段熊手、上段頭突き」
念仏のように正邪の打撃を先読みして唱える。菫子には正邪の打撃のパターンが予測できていた。
「やっぱり、煉獄じゃんあれ」
菫子は予見していた。一試合目から金剛を正邪が使った時点で、この技も使えるのじゃないかと。
【煉獄とは、天国と地獄の中間にある贖罪の場のことで、生前犯した罪を炎で浄化させられる場である。
煉獄の名を冠するこの技は、一度受けたが最後、逃げることはもちろん己の意志で倒れることも許されず、打ち手の体力が尽きるまでひたすら連打を叩き込まれ続けることとなる。
罪を浄化する煉獄の炎の如く、泣いて懺悔しようとも、決して逃れる術はない。】 ――ピクシブ百科事典より引用。
その正体はただの速い連続攻撃ではなく、ある規則性に則って放たれる決められた手順の打撃である。
【5つの急所への連続技からなる7種類(左右14種類)の型で構成される。
使い方としてはまずA~Gのうち1種から開始し、1つのパターンが終わると相手との距離・体勢などの状況に応じて新たなパターンを即座に選択・開始し、以降これを絶え間なく繰り返す。
反撃しようにも割り込む隙がなく、無理に反撃しようとすると逆に深く打撃をもらってしまい、倒れようにも鉤突きや肘振り上げなどによって無理矢理体をおこされてしまうため、この技を喰らった場合、使用者がやめるまで相手は逃れることができない。】 ――ピクシブ百科事典より引用。
外の世界のある格闘技術である。食らっている方は隙のないただの連続攻撃だと思うだろう。ただし、第三者から見ればその規則性に気付く者も居る。そういった打撃だった。
「必ず五手一組だから試合時間から逆算すると美鈴さんはもう六十発は貰ってる計算になるわね……」
五の倍数。会場で唯一技の仕組みを知る菫子は諦観を持って試合を眺めていた。
試合開始から四十秒経過。リング内で一方的に打たれる美鈴は、この打撃に対しての反撃を諦めていた。
幾度か反撃しようとして、手痛いダメージを負っている。この連続攻撃は、一つの技だ。仕組みがわからない以上、反撃は禁物。
おそらく空手の型のように決め打ちされている。朦朧とした意識の中美鈴はそう思考した。
最初の三十秒で無暗に反撃しようとしていたせいで既に取り返しが付かないほどのダメージを美鈴は負っていた。主を攻撃されたという怒りがそうさせたのだが、思えばそれが反撃を誘うための正邪の策略だったのだ。この技は反撃しようとするとさらに深い打撃を食らう。
朦朧としていた。最善の選択は『打ち疲れるまで防御に徹する』ことだった。
私のミスだ。
(ごめん、咲夜さん。私、立ってられな――)
鉤突き、肘打ち、両手突き、手刀、貫手。
ダウン直前、無理矢理体勢を起こされた。
(倒れ、られない)
レフェリーのさとりはダウンの旗を上げかけたが、手を止める。
【ダウン逃げを防ぐため、判定は選手が倒れてからさとり妖怪が行う】
まだ倒れていない。ルールがさとりの判定を縛っていた。
セコンドの咲夜はタオルを握りしめる。
「美鈴」
『お前がタオルを投げなければ、私は紅美鈴を殺してしまうぞ』
天邪鬼の言葉が脳裏に過ぎる。咲夜は歯を食いしばる。
「美鈴」
咲夜はつぶやく。
試合開始から一分経過。煉獄の持続時間も一分続いていた。
(早く投げろバカが)
打ちながら正邪は心内で毒づく。自身が咲夜に掛けた魔法でタオルを投げさせる。これが正邪の一番の勝ち筋だった。まだ煉獄は続いていたが、正邪の体力も限界に近い。このままでは倒しきれずに煉獄が途切れる可能性がある。
(十六夜咲夜。お前にタオルを投げさせることがこの試合の最大の勝ち筋だ。私の体力では、流石に美鈴を立ったまま殺すほどの打撃は打てない)
先んじて咲夜に告げた言葉はハッタリだった。これが通らなければ面倒なことになる。
咲夜は――
「美鈴、勝って!」
試合開始から一分三十秒。一方的に打たれ続ける美鈴の背に向かい咲夜は叫んだ。
十六夜咲夜は紅美鈴の強さに依存している、故にこの程度では彼女は死なないと信じていた。
(チクショウ)
正邪の体力が限界を迎える。打撃が途切れ、美鈴の五体は地に伏せる。
「ダウン」
さとりはそう宣言してカウントが開始される。正邪は祈った。起き上がってくるなと。
ここで倒せればそれが一番なのだ。
起き上がってきた場合、勝率は著しく下がる。
カウント8。そこで美鈴はゆっくりと体躯を起こした。割れんばかりの歓声が巻き起こる。
(チクショウ)
正邪は冷や汗をかきながら毒づく。深く息を吸い、消耗した体力の回復をはかる。およそ一分半の打撃により美鈴は満身創痍、正邪は全力疾走の後のような疲労による息切れ状態により試合の動きはようやく硬直した。
セコンドの咲夜は胸をなでおろす。
試合再開。美鈴は辛うじて起き上がったものの、ダメージは深く、依然朦朧としている。正邪はどの程度美鈴が動けるのか確かめるため、軽く下段蹴りを放った。
あっさりと、蹴りは当たり美鈴は怯んだ。
(肋骨を折った感触はあった。腰の捻りを要する蹴りや威力のある近距離での拳撃は封じたと見ていい。しかし、それ以上にフラフラじゃねーか)
正邪の方針は決まった。休ませず、遠巻きに削り殺す。まずは足を集中的に狙い壊す。正邪は下段を繰り返した。単純な繰り返し攻撃に美鈴は引くことでしか対応できない。反撃に転ずるほどの体力がないのだ。
(こうやってリーチの長い攻撃を繰り返してりゃ、そのうち――)
そう思案している最中、正邪の下段に合わせて美鈴は前に出た。下段蹴りを膝で受けつつ距離が詰まる。
(は?)
肋骨の骨折により捻りのある動きは封じている。だが、縦の動きは速かった。【縮地】と呼ばれる独特な足運びにより、正邪の反応速度より早く美鈴の体躯が迫る。
その勢いのまま、頭突きを伴った『体当たり』。正邪は横に跳ねるように避けた。
「がッ!?」
瞬間、正邪の脇腹に衝撃。避けた先に美鈴の右中段回し蹴りが置いてあった。
(な、なんで蹴りが打てる!?)
蹴りを食らって正邪はひっくり返った。正邪の肋骨もいくつか砕かれた。そういう感触があった。
美鈴は追撃せず、ぼうと立ったまま。
依然、ダメージは深い。が、故に放つことのできた蹴りだった。
肋骨が折れたことにより腰の捻りのある打撃が打てなくなるのは痛みに拠る効果だ。人体の構造的に蹴りに肋骨は必要としない。
美鈴の脳は一分半の150発以上の煉獄によるダメージで過剰にアドレナリンを分泌していた。それによる鎮痛効果の発生。結界の効力により、リング上では人妖は人となる。
(火事場の馬鹿力みたいなもんか。ふざけやがって)
正邪は脇腹を抑えながら起き上がる。あの蹴りはおそらく一度だけだ。その一度にやられた。迂闊だった。正邪は脇腹をかばいながら構え直す。
紅美鈴は強い。試合展開が上手く行き過ぎてそんな当たり前の情報を失念していた。
正邪は攻め込めなくなった。一度切りだと決めつけてまた手痛い打撃を食らうのはマズイ。
試合が停滞する。しかしそれは、美鈴にとって好都合だった。
(やっと、意識がはっきりしてきた)
ダウンからの復帰後、幽鬼のようにリング上に立っていた美鈴は真っ当な思考を確立し始める。時間を掛ければ掛けるほど体力が回復する。
時間を掛ければ掛けるほど、美鈴の方に勝利の天秤は傾く。
(この大会の試合に制限時間はない。このまま攻めるのを躊躇させて、奴を仕留めきれるだけの体力を回復させる)
試合の展開が自分の方へ傾き始めたことに気付いた美鈴は、殺意の籠った微笑を浮かべた。
対して正邪は、
(……マジかよ)
心中で嘆息を吐く。
(このままやっても勝ち目は薄い。決勝戦の相手は雲居一輪か依神女苑。どちらにも手の内を晒したくなかったのに)
決勝戦用の仕掛けを使う羽目になったことを嘆いていた。
正邪は美鈴の方へ距離を詰める。美鈴は困惑した。
(時間を掛ければ不利になると気づいたみたいだけど、そんな雑な攻めなら簡単に切り返せる。そんなこともわからないの?)
おそらく体当たり。それによりグラウンドに持ち込む算段か。こっちの体力がまだ回復してないから、それで制圧できると判断した? 美鈴はそう当たりを付けて衝撃に備える。加えて、あらかじめ折ってある正邪の脇腹を拳で狙う。
(体当たりを受けながらだからそんなに強くは撃ち込めないけど、それで十分。その程度の打撃でも、あわよくば仕留められる)
体当たりの衝撃を殺しつつ、且つ刺されば勝負を終わらせる拳撃。二段構えで美鈴は迎え撃った。
「そのボディーブローは余計だったな」
そんな声がした気がした。正邪が嗤う。強がりの笑みだと美鈴は思った。想定通り、体当たりを受けつつ拳撃が正邪の折れた脇腹に突き刺さった。
申し訳程度のガードすらしていないのは想定外だったが、勝負が終わった感触がした。瞬間――
左鉤突き。
「ぐッ!?」
深い打撃が美鈴を襲った。
(なんで、の、ノーガード!? 折れた脇腹をかばうことなく、打ってきた!?)
手痛い一撃だったが、続かない。痛みに耐えながら美鈴はそう確信していた。
何故ならこちらも同じような打撃を向こうに与えているからだ。しかも、より強く。再び仕切り直しになるし、向こうのほうが明らかにダメージが大きい。何なら正邪はこのまま沈むはず。そういう痛み分けだった。
そのはずなのに、肘打ち、両手突き、手刀、貫手。
続けざまに攻撃が続いた。
(な、なんで!?)
何故止まらない。こちらの打撃が効いていないかのように、正邪の表情には余裕すら見えた。汗も引いている。
正邪の使うそれは必ず左鉤突きから始まった。それとはすなわち、
「煉獄」
咲夜は強くタオルを握りしめる。十六夜咲夜は紅美鈴の強さに依存している。が、流石に限度があった。
異常事態だった。 二度目の煉獄。
(頭が下がってる、ので次は振り上げから入る五手)
振り上げ、手刀、鉄槌、中段膝蹴り、背足蹴り上げ、
一方的に美鈴は打たれ続ける。一度受けたら最後。逃げることも、己の意思で倒れることも出来ない。
(距離が空いたから次は右中段回し蹴りから入る五手)
右中段回し蹴り、左上段後ろ回し蹴り、左中段猿臂、右下段熊手、上段頭突き、
打ち手の体力が続く限り、叩き続けられる。
鉤突き、肘打ち、両手突き、手刀、貫手、下段回し蹴り、中段回し蹴り、下段足刀、踏み砕き、上段足刀、左上段順突き、右中段掌底、右上段孤拳、右下段回し蹴り、左中段膝蹴り、
それが、煉獄。
正邪の煉獄の精度はここにきてさらに上がっていた。煉獄は、相手の体勢を見てより効果的な組み合わせを選択することでその威力を倍増する。
今まで受けていたダメージがなくなったかのような軽快な動き。異常とも呼べる思考スピード。それを可能にしているのは、
(薬物)
読心能力によりレフェリーのさとりだけが正確に状況を読み取る。
(使った。メタンフェタミンとその化合物による瞬間的な『ドーピング』!)
口内にあらかじめ含んでいた不溶性カプセルに入ったそれをかみ砕き、覚醒状態を引き起こす。それが鬼人正邪の切札だった。覚醒状態が及ぼす効能は鎮痛作用と体力の回復。奇しくも先刻美鈴がアドレナリンの分泌によって引き起こした不意打ちと似た状況を正邪は薬物で引き寄せた。
リング上では人妖は人となる。本来、人妖には効かない『薬物』もリング上では機能するのだ。そして、ルール上それを禁ずる要項はない。
(武器の持ち込み禁止、の項でこじつけられるけど)
ギャラリーは納得しない。傍目から見たら気合で互いに打撃を耐えながら打ち合う試合でしかないのだ。それに正邪の薬物の使用をそもそもさとりには立証できない。
(リング外に出たら身体は人妖に戻り、薬物の痕跡が消える)
正邪はさとりに思考を読ませている。仮に今、試合を止めてもそうやって証拠の隠滅を図るぞと。警告している。
そうされれば残るのはさとりの主張だけ。今大会の興行を考えたとき、地霊殿は紅魔館に寄る判定を出しにくい。
計算づくだ。
(信じられないくらい卑怯者ですね、あなた)
リング上にタオルが投げられた。煉獄は中断される。
試合終了 二回戦第二試合 勝者 鬼人正邪 決まり手→セコンドのタオル投入によるギブアップ。
※※※
「やってるわね。あいつ」
女苑はリング上で起こった特異な攻防に気付いた数少ない一人だった。
「やってるって、なに……」
美鈴が敗北したことにより大損が確定した紫苑はすっかりと消沈しつつも女苑の言葉を聞いていた。
「ドーピング。しかも、試合の最中に。とんでもない奴が居たもんね」
女苑は自身の性質上、そういった厄事に対して知識があった。薬物により富を得て、薬物により破滅するものなど疫病神はそれこそうんざりするほど見て来た。
「覚醒剤か、いやそれにしちゃ効力強いから何かしらの混ぜ物かな。なんにせよ厄介ね」
「女苑! あいつズルしてるってこと!? じゃあ早く言いつけて失格にしちゃおうよ! それで不戦勝! 勝ち! 勝ち! 私たちの勝ちなんだから! 私はあんたにも大金掛けてるんだから勝ってよ!」
「私にも賭けてたの? 我が姉ながら、アホな賭け方するわねぇ」
優勝者はどうやっても一人なのに、それでどうやって利益を出すつもりだったのだろうか。女苑は呆れて息を吐く。
「言っとくけど反則負けには出来ないわよ、たぶん。リングから出たら証拠残んないだろうし。それに、確かルールじゃダメだって書いてる要項なかったはず」
「書いてないからやっちゃダメなんてまかり通るわけがないでしょ!」
「……貧乏神のくせに何言ってるの」
依神姉妹は属性としては鬼人正邪と同じ部類だ。使える手段は全て使う。
もっとも、女苑は今大会は自身のプロモーションをかねて出場しているのでそういった手段は眼中にない。ここで強さをアピールし、スポンサーを得るのが依神姉妹の目的だった。
「安心して。手の内がわかってれば私が負けることはないから」
自信たっぷりに女苑は言い放つ。自身の次の相手は雲居一輪。強敵だが、雲山なしなら自身の相手にならないと考えていた。
※※※
「正邪、小槌没収されたんだけど…」
針妙丸は涙目で正邪に訴える。
「当たり前だろ。主催者に日光照射なんて悪事働いたんだから」
「正邪がやれって言ったんでしょ!」
「まあそれはそうなんだが。でもこの大会終わったら返して貰えるんだろう? 紅魔館のご当主さまは慈悲深くて結構じゃないか」
「それは意外だよね。正邪、私に言ってないだけで他にも汚い手いっぱい使ってたでしょ」
「汚い手とは言ってくれるな」
レミリアの寛大さに関しては正邪も想定外だった。
一応舌戦のための材料はそろえていたのだが、日光照射に関しても、薬物の使用疑惑についても不問だった。
むしろ日光により気が逸れたのは美鈴の落ち度だと非難するそぶりすらあった。
「ヴァーリトゥード、を銘打ってるからってことなのかね」
正邪の謀略にレミリアは感心している節があった。
そこにもしかしたらレミリアが今大会を開いた意図があるのかもしれない。
あらゆる異能を禁じた上で、なんでもありで戦ったとき、最強は一体誰なのか。
「ところで、決勝の相手はどっちになったんだ?」
正邪は永琳の治療を受けていたので二回戦第二試合の結果を知らなかった。通常、リング外に出た時点で人妖の再生能力により試合中に負った負傷は治るのだが正邪はそこまで強い妖怪ではないのでは完治にまでいたらず、永遠亭からの治療を受けざるを得なかった。
「疫病神の依神女苑。あの子の試合私全部見てるけど、全部カウンターで倒してたよ」
「疫病神か」
陰陽遁で言えば、自分と同じ属性だと正邪は感じていた。陰側だ。
「セコンドはどんな様子だった?」
「セコンド?」
「依神女苑の姉貴がセコンドやってるんだろう。奴はどんな様子だった?」
「うーん。別に普通だったかな……いや、試合そっちの気でずっと飲み食いしてたかも」
姉妹の関係値は低い。これは正邪にとってあまりいい知らせではなかった。美鈴相手に使った戦法の応用が利かないかもしれない。
疫病神。嫌な相手が上がってきたと正邪は感じていた。
※※※
当初決勝候補筆頭だった紅美鈴と星熊勇儀を下したことにより正邪を弱小妖怪だと捉えている観客は誰も居なかった。下剋上ともいえるこの展開により会場の盛り上がりもひとしおである。――もっとも、特例として決勝戦のみの賭けが新たに開かれたのが盛り上がりの大きな要因であるのだが。払い戻し金額はどちらも均等に二倍。紅魔館運営に利益が行かない大盤振る舞い。
会場の観客の殆どが紅美鈴と星熊勇儀に賭けていたための措置である。
その喧噪を俯瞰して女苑は、
(金になりそうな盛り上がりねぇ。何とか紅魔館に掛け合って一枚噛ませて貰えないかしら)
と疫病神らしい思案に耽っていた。
姉の紫苑はそんな妹の様子など露知らず、他の観客同様会場の盛り上がりに巻き込まれていた。
「女苑! みてみて! たこ焼き!焼きそば!決勝戦観戦セットだってさ! 単品で一個ずつ買うより安くなるんだよ。すごくない?」
「姉さん。持ち金全部擦ったんじゃなかったの?」
「決勝に上がる女苑の姉だって言ったらツケ払いでいいってさ」
にへら、と紫苑は能天気な笑みを見せた。およそ返済計画など立てていないはずなのに、どうしてそんなにもヘラヘラしていられるのか、我が姉ながら女苑には不思議でならない。
「そこは我らが依神女苑が優勝して、優勝賞金で払うにきまってるでしょ」
「あのさぁ。私が獲得する金なんだから私のモンになるにきまってるでしょ」
「女苑ちゃん。大会要項を見たまえ。セコンドは出場選手の獲得金額の10%を報酬で貰えることになってるのよ」
「なんでそんなとこだけ抜け目ないのよ」
我が姉ながら卑しさに呆れる。
「そんなはした金より儲けられる話があるがどうだ?」
そう言って紫苑の肩を叩いたのは女苑の決勝の相手、鬼人正邪だった。紫苑は正邪の手を払いフーッと殺気立った猫のように威嚇を始める。
「天邪鬼! そうやって私を騙すつもりね」
「まあまあそうやって邪険にしなさんな。ほら、お近づきの印のお酒まで用意したんだから」
上等そうな日本酒の瓶を正邪は手渡す。それを紫苑は普通に受け取り、威嚇を再開する。
「それはそれ。これはこれ。こんなもので私を買収しようったってそうはいかないんだから」
「いや、真面目な話だって。お前が決勝で試合が始まると同時にタオルを投入してくれれば、私の獲得賞金を全部譲るっていうシンプルな契約の話さ」
「……ふむ」
「バカ姉。飲まれそうになってんじゃないわよ」
女苑は紫苑の頭を引っぱたき、首根っこを摑まえた。
「お駄賃やるから、なんか私の分も適当に買ってきて」
「わあ。私の分もついでに買っていいよね?」
「いいからさっさと行きなさい」
お金を受け取るが早い、紫苑はさっきまでの正邪との諍いなどなかったかのように機嫌よさげな小走りで飛ぶように屋台通りの方へ消えていった。
「しっかり者のようだな。これじゃどっちが姉かわからんな」
「よく言われるわ」
正邪と女苑。お互いがお互いを検分する。どちらも体格がいいとも言えないし、肉付きもよくない。しかし互いに直観していた。一筋縄ではいかないと。
女苑は不意に身を低くし、人込みに紛れて潜んでいた少名針妙丸の首根っこを摑まえて持ち上げた。
「わぁ!?」
掴まえられた針妙丸の手には吹き矢が握られていた。女苑はそれを取り上げ、矢じりを見る。
「このチビがずっと私のことを狙ってたのはわかっていたわ。私、視線には敏感なの。私の見立てじゃこれは毒ね。神経毒かしら、あんたで試してみようかな」
「ひぃー! やめて!」
女苑は針妙丸を放した。針妙丸は放されるが早い、一目散に駆けて行った。女苑は特にそれを追い立てることもなく見送る。
「あらあら。冗談なのに、見てくれ通り小心者なのねあの子。どうせあんたの仕込みでやらされただけでしょ。あとでちゃんと慰めてあげなよ」
「……お前は私のことを卑怯だとか言わないんだな」
「卑怯?なにそれ」
女苑は鼻で笑う。
「卑怯ってのは負け犬の言葉よ。『汚い手を使われたから私は負けました』って。言ってて恥ずかしくないのかしら」
かつて憑依異変時に女苑は姉を利用した『絶対に負けない戦法』で幻想郷の並み居る強者をことごとく返り討ちにした。しかしそれでも博麗の巫女には敵わなかった。
「強い奴は何されてもどんな手を使われても勝てるのよ。卑怯ってのは負け犬が考えた言い訳の言葉なの。あんたの『それ』は卑怯ではなく勝つための知恵と工夫と呼ぶべきね」
「『それ』って?」
「姉さんを買収しようとしたり、毒を仕込もうとしたり、『試合中にドーピング』キメたりすることのことよ。弱者の知恵として敬意を表するわ」
「……薬の件はお見通しというわけか」
あわよくば気づいてないことに期待して正邪は探りを入れたのだが、そう簡単に事は運ばない。
「運営にチクるか?」
「さあ。それも選択肢の一つね。ただ、私は別に優勝することだけが目的じゃないから」
女苑は手をひらひらとさせて正邪に背を向ける。
「あんたを真正面から叩き潰して、私は強さを示させて貰うわ。あんたは雑魚だけど、もう世間ではそういう評価じゃないでしょ。私に仕留められるためにここまで株を上げてくれてありがとね」
女苑の背を見送りながら、正邪は舌を出す。舌先には赤と青のツートンカラーの不溶性カプセルが乗っていた。
(張れるだけの罠は仕掛けた。あとはこいつの使いどころ次第か)
正邪は口を閉じ、舌使いで口内のカプセルを弄びながらリングの方へ向かった。
※※※
決勝戦特設リング――と言っても仕様は前試合のものと変わらない。陰陽柄をした低反発のキャンパスマットに博麗・守矢・八雲による合同結界の壁。レフェリーの古明地さとり、リングドクターの八意永琳。
会場を覆う紅霧の天蓋に河童製のスポットライトが当てられている。それにより紅霧には紅魔館・地霊殿・永遠亭…とスポンサーの名前が連なる。霧をスクリーンに見立てた演出である。
スポンサーを挙げ終わると、今回の決勝戦の二人の名前がスクリーンに写る。
『無所属 最凶最悪の双子の妹 疫病神 依神女苑』『無所属 逆襲のアマノジャク 天邪鬼 鬼人正邪』
「さあさあ。いよいよ決勝戦! 実況は引き続き、清く正しい射命丸がお送りいたします。皆さんはもうBETし終えましたかー? 今回は紅魔館のご厚意により払い戻しは一律二倍となっておりますよ!」
拡声器により増幅された天狗の声音が響き渡る。一部を除いて会場は湧いていた。
「美鈴、まだ引きづってるの?」
――主催者席。壁にもたれたまま難しい顔をして腕を組んでいる美鈴に対してレミリアは声を掛ける。
「はい。申し訳ありませんが、少しだけ落ち込まさせてください」
「そうね。落ち込みついでに頭も冷やしなさい。格闘勝負ならまだしも【なんでもあり】の喧嘩ならどんな達人だって遅れをとることがある。あんたは【勝てて当然】だと思って戦ったから負けたのよ」
ぐうの音も出なかった。実際その通りだった。非道外道と天邪鬼を非難するのは簡単だが、しかし先ほどの試合結果は運で決まったものじゃない。完全な【実力差】である。
「喧嘩なら鬼人正邪は強い。あんたみたいなスポーツマンがおよそ使わないような絡め手をふんだんに使ってくるんだから当然ね」
「お嬢様。その辺にしておいた方がよろしいのでは」
咲夜は思わず美鈴を庇い立てる。レミリアはそれに対して気を悪くすることなく同意し、リングの方へ視線をやって紅茶を啜る。
「ま、庇いたくなるのもわかるけどね」
レミリアは突っつくようにそんな言葉を咲夜に投げて会話を打ち切る。美鈴の敗北の要因が咲夜にもあることを知っているかのような口ぶりだった。主の洞察力に心酔しつつも、咲夜は美鈴以上に落ち込んでいた。
(タオルを投げさせるのが天邪鬼の作戦だった。だからあいつは私に仕掛けてきた)
咲夜が美鈴に何も伝えないのも織り込済みだったのだろう。いいように天邪鬼の手のひらの上で踊らされた形だ。あの天邪鬼の手の内は知っていたはずなのに、悔しい。
「……負けろ、鬼人正邪」
柄にもない言葉を咲夜は小声で毒づいた。
――観客席。霊夢は我が世の春が来たと言わんばかりに浮かれ散らかしていた。鬼人正邪の優勝が見えてきたので、いよいよ霊夢はおかしくなっていたのだ。
魔理沙と早苗はそんな霊夢の様子を苦笑いでなだめる。仮にも博麗の巫女ともあろうものがこうして異変の主犯だった妖怪に声援を飛ばすのは流石にばつが悪い。
一方、菫子は同じ席に座っているというのにそんな喧噪に参加せずリングの方を注視していた。主に、その視線は鬼人正邪へ向けられている。
(金剛、煉獄。無極も使えるのかしら)
菫子はそんな風に思案する。
正邪の使っている武術は富田流と呼ばれる古武術であると菫子は今までの戦いから確信していた。そしてその憶測は正しい。が――
正邪は金剛と煉獄の二種類の技しか使えなかった。特に煉獄に至っては左鉤突きからしか始動できない不完全な物。
(依神女苑。カウンター主体なのがキツイな)
正邪はそう真っ当に評価する。金剛も煉獄も大きな隙が無ければ入らない。隙を作るための仕掛けは用意したが、ほとんどが機能しないのが現状。女苑は既にリングへ上がっている。まもなく試合が始まる。
正邪は出来るだけ試合開始時間を遅らせたかった。時間経過で発動する仕掛けもあったからだ。
(ダメ元だが、やらないよりはましだろう)
入念にウォームアップする振りをする。しかし、それによる引き延ばしも限界があった。
「鬼人正邪選手、早くリングに上がって下さい。失格にしますよ」
そう宣言したのは審判の古明地さとりである。
「やれるもんならやってみろよ。決勝が不戦勝で終わるなんて、興行的におしまいだぜ」
「このまま遅延が続く方が興行的に不味いと私は判断します。最後の警告です。今すぐリングに上がらなければ失格にします」
さとり妖怪の、心が読めるが故の物言いだった。遅延することで作動する策を鬼人正邪はいくつか用意している。しかし流石にそこまで看過してしまうと審判として不公平である。さとりが正邪に対して興味を持っているのは事実だが、そこまで肩を持つ義理はない。
さとりの宣告に対し、正邪は仕方なくリングに上がる。相手は心を読めるさとり妖怪。これ以上の駆け引きは無意味だ。審判相手の時間稼ぎの手段を用意していなかったのはこちらの落ち度だ。
「随分と駄々こねてたわね」
既にリングに上がっていた女苑は嘲るように言う。
「卑怯者なんでね」
正邪は女苑の様子を観察する。万全そうに腕をぐるぐると回している。続いて正邪はセコンドの紫苑の様子を見る。紫苑は試合そっちの気で酒やつまみを飲み食いしていた。
正邪は開始ゼロ秒で勝つことをまず諦めた。ならば、虚を突くしかない。
「では、両者位置に付いたので。最終試合のゴングは紅魔館主催のレミリア・スカーレットさん。お願いします」
『承ったわ!』
レミリアの甲高い声が反響する。
『異能禁止の幻想郷最強喧嘩師決定戦!ヴァーリトゥードトーナメント『幻想格闘王』。決勝戦かい――』
――ゴングの鳴る直前。正邪は動いた。口内の『超人薬』をかみ砕きつつ。
決勝戦だけは審判ではなく主催のレミリアがゴングを鳴らすことを正邪はあらかじめ把握していた。故に成立する。本来反則負けに繋がる『フライング』。
距離があれば音の聞こえ方は相対的に変わってくる。主催者席に近い方から観客席→セコンド→リング上の順で。と言ってもその差は刹那。認識すら出来ない。それでも正邪は『自分にはゴングが聞こえたから試合を始めた』という主張をゴリ押そうと考えていた。
審判は正邪を反則負けには出来ない。
この聞こえ方が違ったという主張は観客も体感しているからだ。観客には人妖も混じっている。なまじ人を超える能力を持っているが故に認識すらできない程の音の届き方の差も実感している。そういった人妖を正邪は自分の主張の味方に付ける気だった。加えて正邪に賭けた幾人かの観客もサクラに使う気だった。
厳密に判定すれば反則になるだろう。だが、舞台は【決勝戦】。審判は会場の雰囲気を汲んだ判定しか出せない。仮に止められても、ダメージを負わせれば試合再開時にその分有利になる。
仕切り直しになったとしても回復を行わず試合が再開されるような仕掛けも用意してある。
そこまで組み込んだ上で行われたフライングによる不意打ちに選択した正邪の一手目は、
『左鉤突き』
煉獄の始動である。超人薬によるドーピングの火力があれば肋を砕ける算段だった。
――しかし、依神女苑は不意打ちに面食らうことなく冷静に肘を下げることによってそれを防いだ。
(構わない)
正邪はそのまま鉤突きから続く四手を撃ち込む。
防がれても構わない。煉獄を続けることにより煉獄を始動させる。薬物により正邪の技の回転速度は常人のそれではない。続けていればいずれ入る。――しかしそれは誤りだった。
『捌く、捌く、捌く! 女苑! 前試合で魅せた通り、あらゆる打撃をいなしています!』
実況の天狗の台詞が正邪の耳に入る。煉獄が入っていないとはいえ、ドーピング込みの継ぎ目のない連打を女苑は完璧に捌いていた。
(クソ、だが、時間の問題だ)
加速した思考で正邪は考える。こんなものいつまでも続かない。向こうは疲労する一方なのに対し、こちらは薬の効果中は全く疲労せず、息切れもない。まだ有利だ。
だが、依神女苑を知る者の見解は違う。
※※※
「命蓮寺で格闘するなら誰が一番? 当然私に決まっていますよ」
天狗記者のインタビューに対し住職の聖白蓮は謙遜なく答える。そこに驕りはなく、純然たる事実を述べているだけのようだった。
Q≪では何故今大会の出場を見送ったんですか?≫
「大会では異能解除の結界がリング内に張られるのでしょう? そんなことされたら私、術が解けておばあちゃんになっちゃいます。一応、私は人里では美人住職って評判で通っているんですよ。そんな人たちの期待を裏切るわけにはいきません。あ! この部分は記事にしないで下さいね」
白蓮はのほほんと人の良さそうな笑みを浮かべてぱたぱたと手を振り答える。確かに、男受けは良さそうだと天狗記者は感じた。
Q≪それでは、あなた以外なら命蓮寺で誰が一番ステゴロが強いんですか?≫
「うーん。一輪、村紗。この二人はいい勝負するかも。一輪には雲山仕込みの拳があるし、村紗は膂力と船上で鍛えられた平衡感覚があります。よーい、はじめ! の勝負だとどっちが勝つかわからないわ。ああ、でも星が居たわね。あの子は野生に戻ればなかなか手強いはずよ。なんたって元は虎なんですから」
そこまでの答えは天狗記者も想定通りだった。命蓮寺が異変に関わったとき観察していて天狗記者は知っていたのだが、この三名の動きは明らかに戦い慣れしている者の動きだった。
「……でもやっぱり、単純に格闘するなら女苑でしょうね」
天狗記者の想定外の名前が飛び出す。
「路上で鍛えられたのかしら。あの子と異能無しで立ち合ったら、私でも危ういわ。まず捌きにより攻撃が当たらない。それに拳も鋭い。力が無いのに、人体に正しく影響のある打撃が撃てる。経験がそうさせるのかしら。お姉さんの力込みとはいえ、異変の時はそれでみんな返り討ちに遭っていましたからね。あの子の実力だけは偽物じゃなく本物だった。
大会のルール前提なら命蓮寺で一番強いのは依神女苑よ」
聖白蓮はそう言い切る。純然たる事実を述べるように。
Q≪しかし依神女苑は今大会、命蓮寺ではなく無所属で登録していますが?≫
「えぇ? そんな」
※※※
振り上げ→手刀→鉄槌→中段膝蹴り→背足蹴り上げ。
全て捌かれていた。連打が始まってから五十秒経過していたが一向に当たる気配がない。この依神女苑の捌きと正邪の薬物による高速連打は会場を魅了していた。フライングだ、と騒ぎだす無粋な客はもはや残っていない。一人残らず試合に見入っている。
「見えているの……?」
菫子は二人の常軌を逸した攻防を前に一人呟く。煉獄は入らなければ隙のない連続攻撃でしかない。だとしても、この速度・回転率の打撃をノーダメージで捌き続けるのは尋常ではない。
「なるほど」
美鈴は第三者の視点から見てようやく正邪の連続攻撃の仕組みに気付く。
「同じパターンの連打は五手しか共通していない。急所に繋がるその五手の連続攻撃の後、相手の体勢によって選択した別のパターンの五手を繋げることで絶え間なく一方的に打撃を続けられるのか」
「へぇ。ちゃんと仕組みがあったのね。適当に打ってるんじゃなくて」
レミリアは美鈴の言葉を聞きながら試合を眺めている。確かに、美鈴の分析は正しい。格闘技に疎いレミリアでも美鈴の言葉を受けて正邪の打撃を見たとき、その打撃が五手七種類の35パターンしかないことに気が付けた。左右で分けられるので正確には70パターン。
「思ったより簡単そうね。美鈴ならもう使えるんじゃない?」
「……あの連打は初撃が綺麗に入らなければ始動しません。私なら、そこまで綺麗な一撃が入れられるなら別の技を選択します」
非効率だと美鈴はまず感じた。一貫して正邪は始動パターンに『左鉤突き』を選んでいる。おそらく、そこからしか基本的には繋がらないのだろう。自分ならばあの左鉤突きをする手間で相手を仕留められる技を持っている。
今回は左鉤突きを撃つためにフライングをした。明確に隙が無ければ使えない技だということだ。
「あの天邪鬼、失格にしないの?」
パチュリーが口を挟む。
「冗談。こんなに盛り上がってるんだから続行よ。それに、私の予想だとそろそろ裏返るわ」
レミリアはにいと口角を上げる。
レミリアの先見性は畑違いのジャンルでも作用する。
(マズイ。そろそろ薬の効力が切れる)
正邪は焦っていた。超人薬の効力は1分フラット。切れた瞬間、感覚は鈍化し疲労が始まる。
そこからの煉獄はおよそ三十秒も持たないだろう。
(入ってない煉獄を続けるより、別の手を使った方がいい。少なくとも、まだ薬により疲労が蓄積していない私の方が有利だ)
捌くのにも体力を使う。そういう公算だった。
正邪は薬の効力が切れるおよそ3秒ほど前に余裕をもって煉獄を打ち切り、女苑と距離を取る。
仕切り直しだ。
その間を、女苑はノータイムで詰めた。
「!?」
気づいた時には遅かった。女苑が正邪へ距離を詰めつつ放った技は命蓮寺・聖白蓮仕込みの『鉄山靠』。全身をひねりながら繰り出される背面による体当たりによる崩しである。
この技自体にダメージはない。だが、正邪はこれにより大きくバランスを崩しながら後退した。
(倒れれば、マウントを取られる!)
正邪は反射的にそう判断し転ばないよう踏ん張りを利かせた。決定的な隙だった。
その隙を狙い、女苑は鉄山靠の回転を活かして上半身を捻り、前進しつつ鋭い打撃を放つ。
『左鉤突き』
体勢が崩れていた正邪はそれをまともにガードすることなく食らう。
(な!?)
それは正邪の思考速度より速かった。
肘打ち→両手突き→手刀→貫手 立て続けに叩きこまれる。
その技の名を知る者は、震えた。
「煉獄!」
菫子は思わず叫んだ。
「煉獄」
咲夜は飲み込むように呟く。
「天邪鬼の使ってた連撃!」
技の仕組みを知ったレミリアは席を立ち前のめりになる。
美鈴は煉獄より、鉄山靠による体崩しからのコンビネーションに舌を巻いた。
(連撃の切れ目を見切り、正確なタイミングで割り込んでそのまま切り返す。流れに淀みがない)
あらかじめ相手側に脚を踏み込んでいないと出来ない動きだ。連撃を捌いている最中、いつでも反撃に転じられるよう女苑は布石を用意していたのだ。
こんな使い手が幻想郷に居たのか。
「……極好(ジーハオ)」
下段回し蹴り→中段回し蹴り→下段足刀→踏み砕き→上段足刀
(チクショウ、繋がってやがる)
一方的に殴られながらも正邪は毒づく。
正邪は亀のように防御に徹する。こうなってしまえば打ち疲れるのを待つしかない。
(たった二回だぞ。それで盗めるもんなのか)
理不尽だと正邪は感じた。これが才能か。天性のものだ。ずるい、ずるい。
(クソ、クソ。なにか、ないかないか)
右中段回し蹴り→左上段後ろ回し蹴り→左中段猿臂→右下段熊手→上段頭突き。
女苑の煉獄が始まってから三十秒が経過していた。不意に連打は途切れた。
「……ッ!!」
正邪は残っていた力の限りに後方へ吹っ飛んだ。情けない動きだった。だが今は、何よりも優先して女苑から距離を通りたかった。
「チッ!」
女苑は舌打ちをする。
「あんたの体が少し前のめりになったから、継ぎ目に何を撃てばいいか考えちゃった。一瞬でも間が空くと切れちゃうのね、この技」
「……てめ、ぇ。いつの間に、『煉獄』を」
「ふーん。この技、煉獄って言うのね。私は昔っから人の物を奪うのが得意なの。煉獄は今度から私の物にさせて貰うわ」
女苑は全く消耗した様子もなく笑っている。少なくとも正邪の煉獄を一分近く捌いた後で煉獄を放っているにも関わらず。
「いつの間にっていうけど、二回も見たらそりゃ盗めるわよ。しかも二回とも大分長い時間打ってたしね。今回は途切れちゃったけど、次はもっと上手くやるわ」
女苑は構え直す。もうとどめを刺す気だ。正邪は時間が欲しかった。
「盗むのが、得意、か。じゃあ、なんで金剛を盗まなかった?」
喋りながら正邪は息を整える。女苑の知らないワードを混ぜることで会話を繋げやすくする。
「金剛?」
「一回戦で、私が、星熊勇儀を倒した技だ。あれなら、一撃で終わっていた」
「あーあれね。仕組みはわかるわよ。でも練習しないと撃てないでしょあれ。そもそも、その練習するのも多分難しいわ」
息は整ってきた。骨は折れていない。だが、まだ全身が痛む。ダメージにより、万全の動きが出来ない。
「練習相手が心室細動で死んじゃうかもしれないでしょあれ。昔外の世界のアウトローでも流行った遊びで失神ゲームってのがあってさ。それで理屈は知ってたわ。死ぬような打撃を練習で使えるわけないでしょ」
あんたみたいなろくでなしは別として。そんな言葉を付け加えて女苑は正邪に近づく。拳が放たれる。今大会、初めて女苑から仕掛けた瞬間だった。
ガードが間に合わず、正邪はその拳をまともに顔面に受ける。カウンター主体の女苑を攻めっ気にさせるほど正邪は消耗していた。
(踏み込まなくていい。こうやって射程の長い打撃で削ってるだけで勝てる)
女苑は攻めつつも慎重だった。万が一にも身体を掴まれないよう速さとリーチを兼ねたリードパンチを小刻みに打ち込む。
対して正邪は亀になる。防戦一方。攻めっ気は全くなかった。いたずらに時間だけが過ぎて行く。
「勝ち目ないんなら降参しちまえよ」
「往生際悪いぞ!」
「引っ込めー!」
時間経過とともに焦れた観客達の罵声が増える。
「てめーもいつまでもちまちまやってんじゃねえぞ!」
「天邪鬼はもうフラフラだぞ!さっさとキメちまえよ!」
「俺でもあんな状態なら倒せるぞ!」
その罵声に混じり深く攻め込まない女苑にも非難の声が混じってきた。疫病神の気質と相まり、女苑への罵声は次第に大きくなる。
(うざ。バカどもが、好き勝手言いやがって)
あるいはそれこそが鬼人正邪の策略かもしれない。観客に煽られた女苑が勝負を決めようと深い打撃を撃ってくるのを待っている。しかし、だとしても女苑は今の方針を変える気はなかった。一定の距離を保ち、速い打撃で削り殺す。元より女苑は罵声怒声には慣れっこだった。今更客に煽られた程度で自分を曲げるなんてことは有り得ない。
「が、がんばれ女苑!」
姉の声を背に受ける。いつもはか細く貧乏くさい声が、らしくない程に張っていた。無意識に女苑は笑む。嬉しかった。たとえその声援が女苑に賭けているから出している打算的なものだとしても。無意識に拳に力が籠もる。拳速が上がって行く。
それに気づいた正邪は、醜悪に口角を吊り上げた。強がりの笑みだ。正邪の顔を見た誰しもがそう思った。限界は近い。
だが、それからも正邪は粘った。無駄に、無意味に、誰の目から見てもそこから勝ちに繋がるビジョンは見えない。このまま続けていても、状況は好転しない。いよいよ焦れた観客達が暴動を起こしかねない程に高まった時だった。
「待て」
正邪はそう一言女苑に訴えた。両手を突き出して、相手と距離を作るだけの間抜けな構え。降参でもするかのように。当然それを見ても女苑が止まることはない。構わず拳を振るい続ける。
「負けだ」
そう添えられて、流石に女苑は攻撃を止める。降参か。女苑が審判のさとりを見やるが、動きはない。この試合のルールでは降参するには手順が要るのだ。女苑ははぁと息を吐く。
「終わりにしたいならセコンドに言ってタオル投げて貰う必要があるわ。さっさとあのチビにそう伝えれば?」
「お前何勘違いしてんの」
「は?」
「私はお前の負けが決まったから終わってやってもいいと言っているんだぜ」
意味不明だった。あまりにも支離滅裂が過ぎて女苑は攻撃にすぐさま転じられなかった。正邪は息絶え絶えになりながらも気味の悪い笑みを浮かべている。ぐるりと、女苑に回り込むように立ち位置を変える。
「これならよく見えるか?」
正邪は親指で自身の背後を指す。女苑コーナー、セコンドの立ち位置を。
セコンドの紫苑は、顔を伏していた。よく見なくともわかるくらいに汗をかいて、小刻みに震えているのがわかる。女苑に明らかな隙が出来た。瞬間、正邪は女苑にしがみついた。
「!?」
クリンチ。窒息を狙うような技じゃない。女苑が振り払おうもがく間に、正邪は囁く。
「屍(かばね)だ」
女苑にしか聞こえない声量だった。肘打ち、殴られながらも正邪は言葉を紡ぐ。
「屍ってのは、とある古武術の隠語でな。毒という意味だ」
そこまで聞けば十分だった。女苑は攻撃を止め、正邪の言葉を待ってしまう。
「あんた、姉さんになにしたの?」
「訊くまでもなくわかってんだろ? お前らにくれてやった酒の中に毒を仕込んだってだけの話だ。永遠亭印の強力な奴だ。効能は神性を持つ実体を分解するというもの。わかるか? 死ぬよりヤバい状態になっちまうぜ。効き目が出るのに時間が掛かって焦ったが、間に合って良かった」
そこまで話したら正邪はクリンチを解いて女苑と距離を取った。相変わらず口角を歪めている。
「助かる見込みがあるとすれば今この試合のリングドクターをしてる八意永琳に診せることだな。まぁお前か私が倒れて試合が終わらない以上――」
そこからは速かった。女苑は威力重視の深い打撃を正邪に浴びせまくる。正邪はそれをいなしながら言葉を繋げる。
「気が早いな。そうだ、さっさと試合が終わらなければお前の姉は滅びる」
「このッ!!」
女苑は拳撃を更に加速させた。しかし、正邪はそれを躱す。先ほどと違い防御ではなく攻撃を見切っている。弱ってはいるが、今にも倒れそうな状態ではなくなっている。
「私はこう見えて演技派でね。実はまだまだ動けるぜ。だから言ったんだ。『お前の負けが決まったから終わってやってもいい』と」
そんな軽口を叩けるほどに正邪は軽快なフットワークを見せた。防戦一方なのには変わらないが明らかに防御の質が違った。それでも傍目から見れば正邪にまもなく限界が訪れるものだと思われた。長くは続かない。鬼人正邪はこのまま女苑に殴り倒される。
観客の誰しもが思った。このラッシュで試合が終わる。
しかし、鬼人正邪を知る者、鬼人正邪と戦ったことのある者の見解は違う。鬼人正邪はここからが強い。
「当たんないのよね」
霊夢が呟く。
「一発でも当たれば終わるって状況で死ぬほど粘るからな」
魔理沙が霊夢に同調する。
「雑魚妖怪のはずなのに、ありえませんよね」
早苗はうんざりしたように言う。
「フィットフルナイトメア」
「え?」
「パチェ。私がそう名付けた不可能弾幕を奴は避け切ったのよ。あの程度じゃ当たらないわ」
神懸かり的な先見性を持つレミリアは試合の結末をこの時点で予見していた。
(なんで、なんで当たらなくなった!?)
ほとんど無呼吸で、女苑は拳撃を続けていた。掠れば終わる。そのぐらいに正邪は消耗していた。なのに、当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。早く終わらせなければ、姉さんが――。
無呼吸の打撃にも限界が来た。一旦、息継ぎのために女苑は間を空ける。その瞬間に正邪はべぇと舌を出した。舌先には赤と青のツートンカラーのカプセルが乗っていた。女苑はそのカプセルの中身が何か直感した。
紅美鈴戦とこの試合の開幕で見せた、覚醒作用と疲労回復と鎮痛作用のある薬物。
女苑は、正邪を倒して試合を終えることを諦めた。
「このッ……卑怯者ッ……!!」
女苑はガードを下げ、無防備になる。女苑の目じりからは涙が浮かんでいた。
『卑怯ってのは負け犬の言葉よ』
試合前に女苑が言った台詞を回想しつつ、
「超ウケる」
正邪は容赦なく拳を胸に打ち込んだ。
心臓を正確に撃ち抜かれた女苑はそのまま抵抗なく倒れる。
「金剛」
すぐに審判のさとりによりダウン判定が上がる。そのまま10カウントが終わり、あっさりと試合は終わった。意味が分からないままだったが、会場は湧いていた。
決勝戦
・依神女苑× 対 鬼人正邪〇 決まり手→正拳突き
「待ちなさい」
ダメージが癒えず、フラフラしながらリングを降りようとする正邪に永琳は声を掛けた。
「なんだ?」
「先日、永遠亭に賊が入りました。そしていくつかの薬剤が盗まれています。疲労回復鎮痛作用覚醒作用のある超人薬が『二』錠と強力な腹痛を伴う下剤が一錠」
「あー?何を言ってるのかさっぱりわからんが、下剤の方のありかなら覚えがあるぜ」
正邪はリングの端でうずくまっている依神紫苑を指さす。
「……うぅ。おなか、いたい」
紫苑は顔を真っ青にして身動き一つ取れずにいた。
「このままで済むと思っているの?」
「なんの話かわからんと言ってるだろ。それよりさっさとあの貧乏神を診てやれよ。てめぇが医者ならな」
正邪は悪びれることなくそんな言葉を吐いて足早に会場から出ようとする。
「とんでもない卑怯者が居たものね」
「同意します」
いつの間にか永琳の傍らに居たさとりは同調し、天邪鬼の背を見送る。
『幻想郷最強は誰だ?』
【空を飛ぶ程度の能力】【冷気を操る程度の能力】【運命を操る程度の能力】【ありとあらゆるものを破壊する程度の能力】【境界を操る程度の能力】【純化する程度の能力】【何でも吸収する程度の能力】【三つの身体を持つ程度の能力】
崇められ、敬わられ、奉られ、畏れられる、各々が【最強】だと評されている異能の数々。
神・人妖達が持つ、多種あるその異能の全てが封じられた時、封じられた上で喧嘩した場合、最強は一体誰なのか?
幻想郷最強は未だ決まっていない。
【空を飛ぶ程度の能力】【冷気を操る程度の能力】【運命を操る程度の能力】【ありとあらゆるものを破壊する程度の能力】【境界を操る程度の能力】【純化する程度の能力】【何でも吸収する程度の能力】【三つの身体を持つ程度の能力】
崇められ、敬わられ、奉られ、畏れられる、各々が【最強】だと評されている異能の数々。
神・人妖達が持つ、多種あるその異能の全てが封じられた時、封じられた上で喧嘩した場合、最強は一体誰なのか?
【紅魔館プレゼンツ! 異能禁止の幻想郷最強喧嘩師決定戦!ヴァーリトゥードトーナメント『幻想格闘王』開催決定!出場選手募集中!】
「幻想郷最強、ね」
無造作にばら撒かれたチラシの一枚を掴み、内容を一読してから天邪鬼は笑う。
「その称号を幻想郷最弱と目される天邪鬼のこの私が手にしたら、さぞかしみんな嫌な気分になるんだろうなぁ」
天下の天邪鬼 鬼人正邪。
彼女は人知れず悪辣に口角を歪めた。
※
「わぁ、めちゃくちゃ賑わってるなぁ」
美鈴は門に寄り掛かったまま敷地内を俯瞰して他人事のように独り言ちる。ヴァーリトゥードトーナメント開催当日、紅魔館敷地内の特設会場には人里からの人間が押し寄せていた。娯楽の少ない幻想郷では何か催しものがあればこうして右へ倣えで人が集まるのだが、今回の賑わいは格闘技大会というイベントの物珍しさも手伝っている。会場内には河童の的屋や妖精の出店も並んでいて、さながらお祭り騒ぎだ。これだけの来場がいる時点でこの催しは興行的には成功していると言えるだろう。
空は快晴。もっとも、日の光は紅魔館の魔法使いが生み出した吸血鬼には無害な疑似太陽なのだが。本物の方の日の光は紅魔館の主に害をなすため紅霧に遮られている。
偽物の太陽を仰ぎながら美鈴は伸びをする。
「あなたは出場者でしょ。そんなにのほほんとしてていいのかしら」
いつの間にか美鈴の隣に立っていた悪魔の館のメイド長、十六夜咲夜は軽く発破を掛けた。音もなく現れ当たり前のように隣に居た彼女に動じず「大丈夫です」と美鈴は返す。
「今日は門番の仕事をしなくていいとお嬢様に仰せつかっているんで、大分身体は休めてますから。万全の体調で試合に臨めそうです」
「……普段から大して門番の仕事していないじゃない」
「あはは。それは言いっこなしですよ」
へらへらと笑う。こうして美鈴に気が入っていないのには理由があった。今回のトーナメント出場者が思ったより少なく、美鈴が警戒するレベルの選手がそう居なかったからだ。
今大会の主旨は『異能』禁止のタイマン勝負。そんな条件付きでわざわざ見世物になってまで戦おうと思う者は幻想郷の住人にはあまりいなかったらしく、集まった出場者は八人だけだった。
地底温泉街所属 星熊勇儀 使用格闘技→喧嘩殺法
永遠亭所属 鈴仙・優曇華院・イナバ 使用格闘技→軍隊格闘
白玉楼所属 魂魄妖夢 使用格闘技→無刀
妖怪の山所属 河城にとり 使用格闘技→河童相撲
命蓮寺所属 雲居一輪 使用格闘技→命蓮寺拳法
無所属 依神女苑 使用格闘技→ストリートボクシング
無所属 鬼人正邪 使用格闘技→なし
そして紅美鈴である。はっきり言って彼女が警戒しているのは星熊勇儀と雲居一輪くらいだった。疫病神と天邪鬼の体術の程は知らないが、ファイトマネー狙い(今大会は一戦ごとに戦うだけで賞金が出る)じゃないかと美鈴は睨んでいる。鈴仙・妖夢は何度も手合わせの経験があるが、異能禁止なら圧倒できると踏んでいたし、にとりに至っては流石に体格差があるので今回のルールでは負けはしない。
警戒すべき二人の試合以外は温存気味に美鈴は戦うつもりだった。
特に警戒している星熊勇儀とは順当にいけば二回戦で当たる。彼女に出来るだけ手の内を晒さずに一回戦を突破できるかどうかが肝要だ。
「美鈴。あんまり油断しちゃダメよ。負ければお嬢様の顔に泥を塗ることになるわ」
咲夜はそう釘を刺す。今回の大会は紅魔館の主、レミリアの思い付きで始まったことだが、しかしそれにしては身の入り方はかなり強かった。レミリアはこの興行を恒例のイベントにしたいらしく、永遠亭・地霊殿・博麗神社・守矢神社を巻き込んでまで大会の体裁を整えた。
その記念すべき第一回大会には自分の所属組織の選手に優勝して貰いたいと思うのは当然だろう。
「わかっています。私に有利なルールですし、そういう意味でも負けられませんね」
「あっはっはっは」
あざけるような笑い声。二人の会話に割って入るように。声の方を見やると、天邪鬼 鬼人正邪が門の上で二人を見下ろすように座っていた。今大会の出場選手の一人。無所属で、使用格闘技もなしと申告している変わり種。彼女は門から飛び降りて二人と視線を合わせた。煽るように相変わらず口角を歪めている。
「いや、笑っちまって失敬。自分有利なルールだなんて的外れなことお前が言い出すからおかしくてさぁ」
「……どういう意味ですか?」
「そのままの意味さ。この大会のルールは穴だらけだ。考えた奴はさぞ間抜けに違いない」
美鈴は反射的に天邪鬼を殴ろうと身を乗り出す。ルールを整備したのはレミリアだった。故に彼女には主を侮辱するようなその発言は聞き捨てならなかった。
「やめなさい、美鈴」
咲夜が美鈴を抑える。
「そのルールの穴、というのは『試合前に他の出場者に危害を加えた者は失格とする』の項かしら? 安い挑発でわざと殴られてこの子を失格に追い込むつもり?」
「それもいいが、それ以上に穴がたっぷりだ」
「へぇ。その穴って何なんですか? 聞かせてくれませんか?」
美鈴は半ば威嚇するように天邪鬼ににじり寄る。咲夜はそれを手で制す。
「美鈴、相手にしちゃダメよ。こいつの相手は私がするからあなたは控え室にでも行ってなさい」
美鈴は天邪鬼を睨みつけ、手を出さぬよう堪えて息を吐く。どうせこいつは一回戦で終わる。自分と戦うことはないのだ。多分、彼女はその天邪鬼の性質上、本能的に場をひっかき回したくて仕方なくてこうして突っかかってきているだけなのだ。そう考えたら哀れな奴である。
一人で納得して美鈴は天邪鬼の相手を咲夜に任せ、控え室へ向かう。
「なんだよ、張り合いのない奴だ」
「あんたと違って大人なだけよ。さあ、他の選手にちょっかい出されても困るからあんたも控え室に行って」
「まあそう邪険にするなよ」
正邪は馴れ馴れしく咲夜の肩に手を回す。
「ルールに穴があるってのはホントだぜ。私の話を聞かないと後悔するぞ」
咲夜は美鈴のセコンドだが、大会運営関係者でもあるためそう食い下がられては話を聞かないわけにはいかない。咲夜は諦めて天邪鬼に話をするよう促した。
※
美鈴が控え室で待っているとしばらくして咲夜も入ってきた。美鈴と目が合うと咲夜は何かを言いかけて、しかしそれを言わずに飲み込んだ。
「あれ。咲夜さん、どうかしましたか?」
あの天邪鬼に何か妙なことを吹き込まれたのか。美鈴が心配しているのを察し、咲夜は「何でもない」と返す。
(――あの天邪鬼の狙いは、美鈴を揺さぶることにあるのかもしれない。この子があいつと当たっても、普段の動きが出来ればまず負けない)
咲夜はそう結論付けて美鈴に何も伝えない。単純な実力差から言って異能無しの殴り合いで彼女が天邪鬼に負けるわけがないのだ。セコンドの自分は、ただ美鈴の邪魔にならないようにしていればいい。余計な情報を加えて美鈴の動きを制限するのが天邪鬼の作戦かもしれないのだ。
咲夜は天邪鬼との会話を脳内から追い出す。そもそも天邪鬼の一回戦の相手から言って、彼女と美鈴が当たることはないのだから、警戒するだけ損だ。余計な消耗。
咲夜は天邪鬼に吹き込まれた不穏な言葉を頭から叩き出し、タオルを握った。
※
【幻想格闘王】要項
ファイトマネーは一戦につき金一封。勝者には倍額の支払い。優勝者には初代幻想郷格闘王の称号と一年間の紅魔館でのお食事券とトロフィーを授与する。
ルール1 異能の仕様を禁止。また、リング内へはいかなる異能の干渉も禁止する。(リング内は博麗・守矢・八雲合同による結界によりあらゆる異能を封じられ、選手の身体能力も人間並みに弱体化する)
ルール2 リング内への武器の持ち込みは禁止。
ルール3 試合の決着はセコンドからのタオル投入、もしくはダウンしてから10カウント経過で試合続行不能と見做す。
ルール4 ダウン後の追撃を禁止する。(ダウン逃げを防ぐため、判定は選手が倒れてからさとり妖怪が行う)
ルール5 目付き、噛みつき、金的を禁止しない。
補足・リング上では選手は人妖特有の不死性を失い、人間並みの耐久力になるので、安全性を考慮してリングドクターとして八意永琳を配置する。
補足・その他、試合外の細かい規定については別項参照。
※
「正邪ー。仕掛けて来たけど、ホントにルール違反じゃないの?」
「ああ。針妙丸。違反じゃない。だからお前は心配せず、私の頼みだけ聞いてくれればいい」
咲夜と別れた後、正邪は自身のセコンド、少名針妙丸と合流する。
「うーん。そもそもあの結界がヤバすぎてそっちも心配なんだけど」
「確かに。ありゃかなり気合入った結界だぜ。試合がなけりゃ、私もあんな結界の内側には入りたくないね」
「そうは言うけど、あんたはそもそも結界の外でも内でも強さあんま変わんないでしょ」
「お前、私のセコンドのくせにめちゃくちゃ言うな」
事実であるから正邪はそれ以上言及しない。正邪は理解していた。トーナメント参加者で自分が最も弱いと。ただ、勝負に勝つのは必ずしも強い者であるとは限らないことも理解していた。勝負に勝つのは勝ち筋を作れる者だ。
そういう意味では、今トーナメントの出場者で正邪の敵になるものはいなかった。せいぜい自分と同じ属性の依神女苑くらいしか相手にならない、と正邪は考えていた。
「ところで、あんたあのメイドとは何話してたの」
「別に。ただ魔法を掛けておいただけさ」
「魔法? あんたにそんな特技あったなんて初めて聞いた」
バカにするように針妙丸は言う。実のところ、セコンドでありながら針妙丸は正邪が勝ち進むと思っていなかった。どうせいつものようにろくでもない企みの一環で大会に参加していると睨んでいて、場合によっては自分がブレーキにならないといけない。そういう思いで正邪に協力していた。正邪が致命的な騒動を起こしてまた以前のように幻想郷中から指名手配を受けて命を狙われる、なんて展開にならないようにしなくてはならない。
「まあ一応あんたには貸しがあるし、私は出来る限り協力はするけど」
「頼むぜ。当面、お前の役目は絶対にタオルを投げないことと、二回戦で小槌を振ることだけだ。そのくらいの役目はこなしてもらう」
「二回戦ねぇ。あのさ、メイドに掛けた魔法とやらも二回戦で効く仕掛けってことでしょ? 順当にいけば二回戦に当たるのは紅美鈴だもんね」
美鈴の最初の相手は軍隊格闘 鈴仙・優曇華院・イナバ。実力者だが、それは異能込みの話である。
「でもあんたが二回戦に上がれなきゃ意味なくない?」
「そうだな」
「あんたの一回戦の相手、星熊勇儀だよ」
死刑宣告。針妙丸はそのつもりで正邪に告げる。あるいは彼女が現実から目を逸らしているのではないかと疑っていた。
「勝てるわけないじゃん。小細工すらしてないのに」
運がないと針妙丸は珍しく正邪に同情する。
一回戦第一試合。星熊勇儀 対 鬼人正邪。たとえ何かの間違いで勝ち上がれたとしても、二回戦では紅美鈴と当たることを考慮すれば、呪いたくもなるような籤運である。二戦連続で優勝候補と当たることとなるのだから。美鈴と勇儀二人のオッズはほぼ均衡。対して正邪には何十倍もの倍率が付いていた。
そんな事実を指摘されているのに正邪は不敵に笑う。
「どいつもこいつもそう思ってるから、私が勝つんだよ」
正邪は自分を幸運だと思っていた。何故ならこの組み合わせ以外で自分が優勝するのは難しいと思っていたからだ。
――まもなく試合が始まる。
※
ヴァーリトゥードトーナメント一回戦
第一試合
・星熊勇儀 セコンド→伊吹萃香 対 鬼人正邪 セコンド→少名針妙丸
第二試合
・紅美鈴 セコンド→十六夜咲夜 対 鈴仙・優曇華院・イナバ セコンド→因幡てゐ
第三試合
・魂魄妖夢 セコンド→西行寺幽々子 対 雲居一輪 セコンド→雲山
第四試合
・依神女苑 セコンド→依神紫苑 対 河城にとり セコンド→茨華扇
※
『さぁ、試合開始の時間が迫ってまいりました!』
実況担当の射命丸文の声がこだまする。河童印の拡声器の作用だ。その他の機材も基本的には河童製である。
結界に関わる博麗・守矢・八雲もそうだが、今大会には永遠亭も地霊殿も妖怪の山も絡んでいる。このようなあらゆる陣営を巻き込んで興行を行えるのは紅魔館当主レミリア・スカーレットの人徳のなせる業か。
――もちろん、この興行で得られる利益も目的の一つではあるかもしれないが。
「あー、そこのチビちゃん。ポップコーンとビールちょうだい」
観客席に座る魔理沙は近くに居た河童の売り子にそう要求した。河童は「まいど~」と笑顔で応える。
「あんた、先に出店で買ってたたこ焼きとかポテト、もう食べちゃったの?」
隣に座る霊夢は呆れたように言う。
「まあいいじゃないですか。今回は私たち、大会運営に協力しているのでこの辺の物販は全部タダですし」
早苗はおいしそうに綿菓子を頬張りながら言う。
「私は別に協力なんてしてないけど、いいのかなぁ」
菫子はそう訊きつつも魔理沙に便乗して河童の売り子にノンアルコールの飲み物を頼む。
「構わん、私が許可するぜ」
「あんたも今回何もしてないでしょ。早苗と私に感謝しながら飲み食いしなさい」
「ですよですよ。いやぁ、あの結界張るの大変だったんですよー」
早苗はリングの結界を指す。博麗・守矢・八雲の合同結界。あらゆる異能を封じ、人妖の身体能力を人並みに下げる。この結界があるからこそ、大会への出場を渋る者も居たほどだ。今大会の選手の層の薄さは結界の強力さに起因する節があると言っても過言ではない。
「そういやなんだってあんな仰々しい結界になっちまったんだ?」
「鬼が出るからよ」
魔理沙の疑問に霊夢は間を置かずに応え、顎でリング上に入場した星熊勇儀を指す。勇儀が入場した途端、観客席が湧く。鬼の四天王の一角、星熊勇儀。普段は地底に居るため人里での露出は少ないが、それでも知名度が高かった。妖怪の山のプロモーションが上手くいっていたからだ。
「あー。そりゃ並みの結界じゃ抑えきれないわな」
「会場に被害が及ぶようなことになったら洒落にならないもの」
「……ホントに結界、ちゃんと作用してるんですかあれ」
菫子は心配そうに霊夢と早苗に訊く。ちょうど勇儀がリング上で大木を鯖折りで粉砕するパフォーマンスを披露していたからだ。人並みに弱体化しているとは思えない程の膂力。
「一応、人間の身体能力相応なはずですよあれで。勇儀さんがそもそも規格外だと納得するしかありません」
早苗は苦笑いで自分達の張った結界をフォローする。
「相手の天邪鬼?はご愁傷様ですねあれだと。私はあの子のことあんまり知らないですけど」
菫子はリング上の正邪を眺めながら率直な感想を言う。入場の時も申し訳程度の拍手しかなく、彼女に期待している観客がほとんどいないことはすぐに分かった。彼女を応援しているのは、大穴狙いで彼女に賭けているギャンブル狂いくらいである。今大会は賭けの対象にもなっていた。
菫子の同情に、しかし霊夢、魔理沙、早苗は同調しなかった。正邪に触れた途端、三人とも難しそうな顔をする。
「正邪、ね」
「まあ、奴はぶっちゃけその辺の野良妖怪に劣るぐらい弱いからなぁ」
事実である。だが、それ以上に――
「何かやらかしちゃう。そんな予感はあるんですよね」
正邪との交戦経験のある三人は何かを感じ取っていた。あの天邪鬼が無策でリングに上がるはずがない。
試合前に購入した券を無意識に握る。三人の賭け券には『無所属 鬼人正邪』と記されていた。
鬼人正邪の勝利を予測している者は他にも居た。
「姉さま、あの天邪鬼って強いの?」
妹、フランドール・スカーレットのその問いに対しレミリアは「弱いよ」と即答した。それを聞くとフランドールはすっかり天邪鬼に興味を失ったらしく主催者席を離れて屋台の方面へ向かった。
レミリアは苦笑する。天邪鬼が弱いのは議論の余地のない事実だが、妹には今後の知見を広めるためにこの試合は見ていて欲しかった。レミリアはその先見性で鬼人正邪が星熊勇儀を下すのを予見していた。
「勝ち方まではわからないけど、ね」
かつて天邪鬼をスペルカードルールを無視してまで追い込もうとしたときのことをレミリアは回想する。彼女は弱いが、しかし勝ち筋を追う力は誰よりも優れている。
試合が始まる。
勇儀はデモンストレーションで粉砕した大木を見ても全く萎縮していない正邪の様子に満足していた。勇儀は度胸のある者が好みだ。――だが、正邪は決して度胸があるわけではない。
彼女の動じなさは自分の策が上手く嵌る、という確信がありきの打算的な態度なだけだった。
「正邪……。ホント、やばいって。殺されちゃうよ」
針妙丸は震えていた。結界内では鬼でも弱くなるんじゃなかったのかと困惑する。砕けた大木を見せられると、こんなの聞いていないと愚痴も言いたくなる
「針妙丸。お前の役目はタオルを投げないことだけだ。余計な心配するな」
「余裕だねぇ。嫌いじゃないよ、そういうの」
二人のやり取りに勇儀は水を差す。正邪は勇儀に特に何も言い返さない。万に一つも彼女に警戒心を抱かせてはいけない。そう思い、正邪は自身の感情を隠すように無反応を装う。内心は違う。
高揚していた。この大衆の場でのジャイアントキリング。天邪鬼の血が滾る。
(――ただ策が嵌らなければ死ぬなこれ)
砕けた木片は自身の未来を暗示しているようにも見えた。不安は当然ある。策が嵌らなければさっきの言葉を撤回して針妙丸にタオルを投げさせるしかないな。そういったプライドのない切り替えも正邪は想定していた。
「両者、定位置までお願いします」
リング外で審判の古明地さとりはそう促す。試合開始のゴングは彼女に預けられていた。
正邪はリングに上がる。陰陽柄をしたマットの感触を足裏で確かめる。素材は不明だが、やや強い弾力が返ってくる。リングの四方は不可視の結界により物理的な障壁となっている。出ようと思わなければリングから出れず、試合中は壁として機能する。
二人の心の動きを見ていたさとりは、
(あ。勇儀さん、負けちゃいますねこれ)
と先の展開を予測した。
さとりに促されて二人はリング中央へ進む。
正邪は構える。半身程体勢を傾け腕を構える、天邪鬼には似つかわしくない【正眼】、一般的なファイティングポーズ。対して勇儀は両腕を大きく広げた構え。打ってこいと言わんばかりの。
「らしくないわね」
レミリア・スカーレットは正邪の構えを見てそう評す。彼女の構えはいわゆる打撃型【ストライカー】に多いものである。足回りは相手に対して垂直に置かれているので縦への移動に特化し、横への変化をしにくい打撃を真っ直ぐ通す型。
一方勇儀の戦闘スタイルは喧嘩殺法――とはいうがそれは正しくない。勇儀は自身の戦闘スタイルを形容する言葉を知らなかったから大会運営にはそう答えただけだった。
外の世界で言うならば勇儀のそれはプロレスラーの戦闘スタイルに近いものだった。攻撃を避けるのではなく、受けて切り返す。パフォーマンス重視の戦い方だった。
「はじめ」
さとりはゴングを鳴らした。試合開始の合図に会場が沸く。
正邪は勇儀に近づく。相変わらず勇儀は腕を広げたままだ。腰を低く落としている。いわゆる相撲で言うところの不知火型。打たせて、抱きしめる。そうするつもりだった。ベアハッグ。あるいは鯖折りと呼ばれる技――否、技と言われるほど技術を要しない、ただの力業である。
単純だが、勇儀の膂力であれば掴まれば脱出不可能。
デモンストレーションで見せたようになる。掴まえた時点でセコンドがタオルを投げるだろう。勇儀はそんな風に考えていた。
正邪は勇儀の前に来ると思い切りこぶしを振りかぶった。――蹴りではなく、拳を使うのか。
(上等)
勇儀は顎を引き、打撃に備える。正邪は勇儀が避けないことを想定していたかのように駆け引きもなく、そのまま拳を振り抜いた。
押すような鈍い打撃が勇儀の胸の中心に突き刺さる。
一見なんの変哲もない正拳突き。それを受けて勇儀は当たり前のように倒れた。
糸の切れた人形さながら。大の字になって。
水を打ったように会場が静まり返る。
「ダウン」
審判のさとりがそう宣言し、旗を上げた。10カウントが始まる。
「あぁ?」
突然の展開に勇儀のセコンドの伊吹萃香は能天気に飲んでいたのに酔いが醒めたかのようにリングに身を乗り出した。あまりの大番狂わせに遅れて割れるような歓声が巻き起こる。
何が起こったのか。それを把握しているのは会場内では正邪以外で三人しかいなかった。一人はリングドクターの八意永琳。
今の一撃を間近に見て、一目で勇儀の症状を察する。
(心臓部分を正確に撃ち抜かれている。結果、血管迷走反射性失神と心臓性失神の二種類の失神系の負荷が掛かった)
自ら起き上がることは出来ない。リング外に出せば人妖特有の不死性で蘇生するが、ここで放置し続ければ心室細動により死に至る。そう判断して10カウント終わった時点ですぐに永琳はリングに上がり、勇儀をそこから引きずり下ろした。
二人目は紅美鈴。彼女は正邪が拳を勇儀の胸の脂肪の邪魔にならない形に作ってるのを見ている。
(あれは心臓打ち。狙って打ってる!)
中国拳法にもある技術。鬼人正邪は一撃で終わる打撃を持っていた。振りが大きいので、あの打撃を使うには隙が無ければならない。普通にやれば当たることのない打撃。今のようなシチュエーションでなければ打てない打撃だ。
「……運が良かった。ただ、それだけですね」
美鈴はそう解釈して切り捨てた。あんな打撃があったとしても、自分の相手ではない。
そしてもう一人は――
「いや、マジかよ。ホントに勝っちまったな」
「魔理沙さん、今霊夢さんに話しかけちゃダメですよ。ダメ元で買った賭け券が大金に化けそうでちょっとおかしくなってます」
「おかしくないわよ私は。けれども、今後またあの天邪鬼が何かやらかして、またまた死刑宣告受けて指名手配されても、一度だけなら庇ってあげられるって宣言しとく。天邪鬼大好き」
「ほら、おかしくなってる」
「こりゃ重症だな」
霊夢、魔理沙、早苗が三人かしましく会話する中、一人それに混ざらず菫子は正邪の拳撃を回想する。
「今のは……『金剛』?」
※
「すごいすごい!正邪、ホントに勝っちゃうなんて」
針妙丸は興奮し、もろ手を挙げて祝福した。それを受けて正邪は気のない返事をする。
「ああ。運が良かった。くじ運に救われた」
一回戦第一試合。正邪が星熊勇儀を突破するには彼女が人間の耐久性を過大評価している開幕一発目しかなかった。他の勝ち筋はなくもないが、かなり難しい。
「奴が人間と最後にやり合ってたのは何百年も前のことだ。あの頃は人間側も化け物揃いだ。人間の耐久力をその時の基準の認識のままでいたんだろうな」
あるいは第二試合以降に試合が組まれてれば、勇儀も人間の耐久性を過信しなかったかもしれなかった。リング上では人間並みに力を抑えられる。人間は弱い。人体の欠陥によるこういった『まぐれ』も当然あり得る。
「問題は二戦目だ。お前の働きが頼りになる。幸い、『今日は快晴だ』。まるで天が私に勝てとお膳立てしてるみたいだぜ」
正邪は紅霧に覆われた空を仰ぎ見ながら針妙丸の頭をポンと手で叩いた。
※※※
天邪鬼による大番狂わせがあったものの、以降の試合は下馬評通りの結果となった。
ヴァーリトゥードトーナメント一回戦 試合結果
第一試合
・星熊勇儀× 対 鬼人正邪〇 決まり手→正拳突き
第二試合
・紅美鈴〇 対 鈴仙・優曇華院・イナバ× 決まり手→上段廻し蹴り
第三試合
・魂魄妖夢× 対 雲居一輪〇 決まり手→肘打ち
第四試合
・依神女苑〇 対 河城にとり× 決まり手→アッパーカット
これにより二回戦第一試合の組み合わせは
鬼人正邪 対 紅美鈴 となった。
「……」
咲夜は思案する。鬼人正邪は勝てない戦いはしない。美鈴と当たることを見越して謀略のタネを蒔いている。会場で自分に話しかけてきたのもその一環だろう。
『紅美鈴は確かに強い。まともにかち合ったらそりゃ勝てないだろう。だが私には――』
鬼人正邪は咲夜にそう言い放った。自分がどうやって美鈴を倒すのか、手の内を晒してきた。どんな技を決まり手にするのか。しかし流石にそれをそのまま鵜呑みにするほど咲夜は単純ではなかった。
『一試合目は『金剛』という正拳突きで星熊勇儀を倒す』
試合前、正邪はそこまで明かしていた。
それでも尚、咲夜は正邪に吹き込まれたことを美鈴には何も伝えなかった。普通に戦えば美鈴が勝つのだ。
(と、あのメイドは考えてるんだろうな)
鬼人正邪は十六夜咲夜の思考を読む。試合開始前、リング越しに美鈴と咲夜の姿を見て正邪は自分の策が順調に進んでいることを察した。
(あのいい子ちゃんのメイドは十中八九美鈴に何も伝えていない)
もはや確信だった。何故なら十六夜咲夜は紅美鈴の強さに依存しているから。否、咲夜でなくてもそう判断するだろう。普通にやれば美鈴が勝つ。天邪鬼の言葉に耳を傾ける必要などない。余計なノイズを混ぜてしまう方が悪手である。
十六夜咲夜は紅美鈴の強さに依存している。故に負けることになるのだ。
「正邪、ホントにこれルール違反じゃないの?」
針妙丸は小槌をさすりながら正邪に訊く。
「選手に危害を加えるわけじゃない。違反なもんか」
しかし声音は低く誰にも聞こえないように抑えながら正邪は喋る。やましいことをしているのは確かなのだから。
(理想は肋骨。もしくはそのまま勝負が決まればいいが、奴のフィジカルを考えるとそうはいかないだろう)
二の矢は用意している。ここからの戦いは手順通りに工程を進めるだけだ。正邪はリング越しに美鈴を見る。美鈴も応じるように正邪を睨み返していた。その態度に正邪はクツクツと嗤う。
(紅美鈴。お前の弱点を今から私は突くが、存分に怒ってくれよ)
美鈴が冷静さを欠けば欠くほど、鬼人正邪の勝率は上昇する。正邪はリングに上がった。
読心能力により全てを知るレフェリーのさとりは、
(なんて卑怯な奴なのかしら)
と天邪鬼を率直に評した。だが、特に咎めることはしない。明らかなルール違反ならまだしも正邪はまだ何もやっていないのだ。今回、古明地さとりは公平なレフェリーとして表向きには協賛という形で紅魔館の要請を受けて参加している。
ここで紅魔館に寄る判定を下せば、地霊殿がこの大会に忖度しているとギャラリーに思われる。地霊殿と紅魔館が癒着していると疑惑が立とうものなら今大会の興行に関わる。それは両陣営の望むところではない。
静観せざるを得ない。試合開始前に鬼人正邪を失格にすることは出来ない。
公平さを求められるが故、不公平なジャッジを下さなければならないジレンマ。
(この世に真の『公平』など存在しない。ならば、私はその不公平さを利用する)
当然、古明地さとりが自分を止められないのまで正邪の計算づくだった。その思考までも読んだためさとりはこの天邪鬼を『卑怯』と評したのだ。
(……今回の大会はヴァーリトゥード、『なんでもあり』。ルール違反でなければ使えるものは何でも使うという姿勢、嫌いではありませんが、普通ここまでやりますかね)
かつて幻想郷のパワーバランスを崩壊させようとし、あらゆる強者の不可能弾幕を退けた鬼人正邪。伝聞でしか知らなかった天邪鬼の実態を間近に見て、古明地さとりはわずかに好意を抱いていた。地底世界ではこういった非道外道は王道である。大会が終われば部下に欲しい。そう思っていた。
「両者、定位置までお願いします」
紅美鈴もリングに上がる。一回戦第二試合では軍隊格闘の鈴仙・優曇華院・イナバを下した。彼女は正しく『戦士』だった。だが、目の前の天邪鬼は違う。
明らかに『戦士』ではない。彼女からは野犬のような卑しさを感じる。それでいて狡猾。今大会で唯一格闘技を目的ではなく手段として用いている。一戦目と違い正邪は構えない。いわゆる無形。
初動が遅れる代わりに型が見えなくなる。が、無問題。何故なら美鈴の格闘センスなら後から動いても対応できる。後の先と呼ばれる技術である。
「美鈴、勝って」
セコンドの咲夜から声が掛かる。美鈴はそれに無言で応じた。言わずとも伝わる、同じ主に仕える従者としての絆がそこにはあった。
(見せつけてくれるじゃないか。だが、その『仲良しこよし』がお前らの『弱点』!!)
「はじめ」
さとりがそう宣言し、試合開始のゴングが鳴る――瞬間。
「紅霧よ、小さくなーれ」
誰にも聞こえない声量で、セコンドの針妙丸は小槌を振りながら呟いた。
空を覆っていた紅霧は一瞬で縮まり、日光が会場を照らした。
「キャッ」
ほんの一瞬の出来事。主催者席に座る紅魔館の吸血鬼姉妹は不意に襲って来た日光を何の防御手段もなく受けた。体表がわずかに蒸発する。
紅霧は次の瞬間には元のサイズに戻り日光を遮っていた。異変に気付いたのは会場でも日光を苦手とする限られた人妖だけ。
その一瞬で十分だった。リング内の美鈴は条件反射的に正邪から目線を切り、主の姿を確認してしまう。
(しまった!!)
美鈴の思考は早かった。何が起こったのかわからないが、間違いなく正邪の奇策だ。反射とはいえ、目線を切ったのは明らかな失態。
一回戦、鬼人正邪は星熊勇儀を下す一撃を見せている。心臓を突くことによる失神攻撃。――それでなくても他の『一撃』を持っている可能性も想定される。
――美鈴の判断は速かった。瞬時に一撃を封じるため両腕を中央寄りに位置させ内股になる、人体の急所を守るコンパクトな構えを取った。人体の弱点は身体の中央に寄っている。人中、喉、みぞおち、金的。意外と思われるかもしれないが、女性でも金的を食らうと身動きできない程悶絶してしまう。それらを保護する構えの選択として美鈴の判断は完璧なものだった。
頭部の揺れにも対応できるよう顎を引いている。
(私のミスだ。甘んじて一撃は貰う。でも、代わりに返しで仕留める!)
だが、鬼人正邪の選択は――
『左鉤突き』
深く、のけぞる程の強さで美鈴の脇腹は打たれた。
「ぐッ!」
一撃じゃない。連続攻撃! 瞬時にそう判断した美鈴は切り返しの技として前蹴りを選択した。が、それより速く。
『肘打ち』
側頭部に打撃が届く。カウンターしようと踏み込んだため強く喰らってしまう。続けざまに、両手突き、手刀、貫手、反撃できずに一方的に美鈴は打撃を食らう。
セコンドの咲夜は息を飲んだ。
「まさか、ホントに。これが、『煉獄』」
裏拳、裏打ち、鉄鎚、肘打ち、手刀。試合開始からおよそ二十秒経過。既に数十発にも及ぶ打撃を未だ美鈴は受け続けていた。
※※※
――一回戦第一試合前。
「実は私は、格闘技はからっきしでな。使える技は二種類しかない」
「は?」
鬼人正邪の突然の告白に、咲夜は面食らう。直ぐにそんなわけがないと呆れて首を振る。
「なに?それがあんたの作戦なのかしら。そんなことでこっちの油断が誘えるとでも?」
「一つ目は『金剛』。理屈は省略するが、相手を一撃で失神させられる。宣言しておくぜ。一試合目は『金剛』という正拳突きで星熊勇儀を倒す」
咲夜の疑問に応えず、口角を歪めながら正邪は告げる。咲夜は相手にせずはいはいと適当に返す。
「二試合目、おおよそ紅美鈴が上がってくるだろうが奴は『煉獄』という技で仕留める」
「はあ」
意味が分からなかった。何故手の内を晒すのか。そもそも狂言なのだろうが。選手に仕掛けるならまだしも、セコンドである自分にそう伝えるこの行為に果たして意味はあるのか。
「なんで私にそんなことを」
「私も流石にリング上で殺しはしたくないもんでな」
空気が一瞬冷える。軽口ではなく、その瞬間だけ正邪の発言は真に迫っているように聞こえた。
「……どういう意味?」
「紅美鈴は確かに強い。まともにかち合ったらそりゃ勝てないだろう。だが私には煉獄がある。煉獄は左鉤突きから始まる反撃不能の連続攻撃だ。私が止めようと思わない限り一方的に攻撃出来る」
格闘技に疎い咲夜で分かった。そんなバカげた技は存在しない。
「煉獄は今回のルールではダウンでも逃れられない。何せ、私が打ち続ける限り倒れられない攻撃なんだからな。今回のルールでは【ダウン逃げを防ぐため、判定は選手が倒れてからさとり妖怪が行う】となってる。わかるか? これが今大会のルールの不備だ。煉獄を食らわせている限り、ダウンを取られることはない」
正邪は続ける。
「お前がタオルを投げなければ、私は煉獄で紅美鈴を殺してしまうぞ。リング上なら人間と同じなんだからな。そうならないためにも、私がそういう技を持っていることをあの女に伝えておけよ。あるいは、奴の腕前なら警戒させておけばダメージを軽減できるよう立ち回れるかもしれないからな」
「もう一度言う。お前がタオルを投げなければ、私はリング上で紅美鈴を殺す」
※※※
一方的に殴られ続ける美鈴。観客席からは歓声と困惑の混じったざわめきが巡っている。
「ふーん。面白い打撃ね、あれ」
二回戦第二試合を控える依神女苑は正邪の連続攻撃を見て感嘆の声を漏らす。
「女苑、なんで美鈴は反撃できずに好き勝手に殴られまくってるの? 意味わかんない。堅実だって思って有り金全部はたいて美鈴に賭けたのに、これじゃ負けちゃうよ!」
試合を食い入るように見ながら涙目で姉の依神紫苑はぎりぎりと歯を食いしばる。
「反撃はしようとしてるわよ。それより天邪鬼の次手の方が速い。見たかんじいくつかの決められたパターンの攻撃を繰り返してるようね。規則性はわからないけど」
反撃不能の連続攻撃の決め打ち。正邪の打撃を大雑把にそう分析した。
そしてその分析はおおよそ正しい。
「おいおいおい、マジで正邪の奴美鈴を倒しちまうぞ」
「行けッ……行けッ……」
「霊夢さん、目が血走ってて怖い」
魔理沙、霊夢、早苗の三人も他の観客同様、困惑交じりに試合を観戦している。一方菫子は、
「右中段回し蹴り、左上段後ろ回し蹴り、左中段猿臂、右下段熊手、上段頭突き」
念仏のように正邪の打撃を先読みして唱える。菫子には正邪の打撃のパターンが予測できていた。
「やっぱり、煉獄じゃんあれ」
菫子は予見していた。一試合目から金剛を正邪が使った時点で、この技も使えるのじゃないかと。
【煉獄とは、天国と地獄の中間にある贖罪の場のことで、生前犯した罪を炎で浄化させられる場である。
煉獄の名を冠するこの技は、一度受けたが最後、逃げることはもちろん己の意志で倒れることも許されず、打ち手の体力が尽きるまでひたすら連打を叩き込まれ続けることとなる。
罪を浄化する煉獄の炎の如く、泣いて懺悔しようとも、決して逃れる術はない。】 ――ピクシブ百科事典より引用。
その正体はただの速い連続攻撃ではなく、ある規則性に則って放たれる決められた手順の打撃である。
【5つの急所への連続技からなる7種類(左右14種類)の型で構成される。
使い方としてはまずA~Gのうち1種から開始し、1つのパターンが終わると相手との距離・体勢などの状況に応じて新たなパターンを即座に選択・開始し、以降これを絶え間なく繰り返す。
反撃しようにも割り込む隙がなく、無理に反撃しようとすると逆に深く打撃をもらってしまい、倒れようにも鉤突きや肘振り上げなどによって無理矢理体をおこされてしまうため、この技を喰らった場合、使用者がやめるまで相手は逃れることができない。】 ――ピクシブ百科事典より引用。
外の世界のある格闘技術である。食らっている方は隙のないただの連続攻撃だと思うだろう。ただし、第三者から見ればその規則性に気付く者も居る。そういった打撃だった。
「必ず五手一組だから試合時間から逆算すると美鈴さんはもう六十発は貰ってる計算になるわね……」
五の倍数。会場で唯一技の仕組みを知る菫子は諦観を持って試合を眺めていた。
試合開始から四十秒経過。リング内で一方的に打たれる美鈴は、この打撃に対しての反撃を諦めていた。
幾度か反撃しようとして、手痛いダメージを負っている。この連続攻撃は、一つの技だ。仕組みがわからない以上、反撃は禁物。
おそらく空手の型のように決め打ちされている。朦朧とした意識の中美鈴はそう思考した。
最初の三十秒で無暗に反撃しようとしていたせいで既に取り返しが付かないほどのダメージを美鈴は負っていた。主を攻撃されたという怒りがそうさせたのだが、思えばそれが反撃を誘うための正邪の策略だったのだ。この技は反撃しようとするとさらに深い打撃を食らう。
朦朧としていた。最善の選択は『打ち疲れるまで防御に徹する』ことだった。
私のミスだ。
(ごめん、咲夜さん。私、立ってられな――)
鉤突き、肘打ち、両手突き、手刀、貫手。
ダウン直前、無理矢理体勢を起こされた。
(倒れ、られない)
レフェリーのさとりはダウンの旗を上げかけたが、手を止める。
【ダウン逃げを防ぐため、判定は選手が倒れてからさとり妖怪が行う】
まだ倒れていない。ルールがさとりの判定を縛っていた。
セコンドの咲夜はタオルを握りしめる。
「美鈴」
『お前がタオルを投げなければ、私は紅美鈴を殺してしまうぞ』
天邪鬼の言葉が脳裏に過ぎる。咲夜は歯を食いしばる。
「美鈴」
咲夜はつぶやく。
試合開始から一分経過。煉獄の持続時間も一分続いていた。
(早く投げろバカが)
打ちながら正邪は心内で毒づく。自身が咲夜に掛けた魔法でタオルを投げさせる。これが正邪の一番の勝ち筋だった。まだ煉獄は続いていたが、正邪の体力も限界に近い。このままでは倒しきれずに煉獄が途切れる可能性がある。
(十六夜咲夜。お前にタオルを投げさせることがこの試合の最大の勝ち筋だ。私の体力では、流石に美鈴を立ったまま殺すほどの打撃は打てない)
先んじて咲夜に告げた言葉はハッタリだった。これが通らなければ面倒なことになる。
咲夜は――
「美鈴、勝って!」
試合開始から一分三十秒。一方的に打たれ続ける美鈴の背に向かい咲夜は叫んだ。
十六夜咲夜は紅美鈴の強さに依存している、故にこの程度では彼女は死なないと信じていた。
(チクショウ)
正邪の体力が限界を迎える。打撃が途切れ、美鈴の五体は地に伏せる。
「ダウン」
さとりはそう宣言してカウントが開始される。正邪は祈った。起き上がってくるなと。
ここで倒せればそれが一番なのだ。
起き上がってきた場合、勝率は著しく下がる。
カウント8。そこで美鈴はゆっくりと体躯を起こした。割れんばかりの歓声が巻き起こる。
(チクショウ)
正邪は冷や汗をかきながら毒づく。深く息を吸い、消耗した体力の回復をはかる。およそ一分半の打撃により美鈴は満身創痍、正邪は全力疾走の後のような疲労による息切れ状態により試合の動きはようやく硬直した。
セコンドの咲夜は胸をなでおろす。
試合再開。美鈴は辛うじて起き上がったものの、ダメージは深く、依然朦朧としている。正邪はどの程度美鈴が動けるのか確かめるため、軽く下段蹴りを放った。
あっさりと、蹴りは当たり美鈴は怯んだ。
(肋骨を折った感触はあった。腰の捻りを要する蹴りや威力のある近距離での拳撃は封じたと見ていい。しかし、それ以上にフラフラじゃねーか)
正邪の方針は決まった。休ませず、遠巻きに削り殺す。まずは足を集中的に狙い壊す。正邪は下段を繰り返した。単純な繰り返し攻撃に美鈴は引くことでしか対応できない。反撃に転ずるほどの体力がないのだ。
(こうやってリーチの長い攻撃を繰り返してりゃ、そのうち――)
そう思案している最中、正邪の下段に合わせて美鈴は前に出た。下段蹴りを膝で受けつつ距離が詰まる。
(は?)
肋骨の骨折により捻りのある動きは封じている。だが、縦の動きは速かった。【縮地】と呼ばれる独特な足運びにより、正邪の反応速度より早く美鈴の体躯が迫る。
その勢いのまま、頭突きを伴った『体当たり』。正邪は横に跳ねるように避けた。
「がッ!?」
瞬間、正邪の脇腹に衝撃。避けた先に美鈴の右中段回し蹴りが置いてあった。
(な、なんで蹴りが打てる!?)
蹴りを食らって正邪はひっくり返った。正邪の肋骨もいくつか砕かれた。そういう感触があった。
美鈴は追撃せず、ぼうと立ったまま。
依然、ダメージは深い。が、故に放つことのできた蹴りだった。
肋骨が折れたことにより腰の捻りのある打撃が打てなくなるのは痛みに拠る効果だ。人体の構造的に蹴りに肋骨は必要としない。
美鈴の脳は一分半の150発以上の煉獄によるダメージで過剰にアドレナリンを分泌していた。それによる鎮痛効果の発生。結界の効力により、リング上では人妖は人となる。
(火事場の馬鹿力みたいなもんか。ふざけやがって)
正邪は脇腹を抑えながら起き上がる。あの蹴りはおそらく一度だけだ。その一度にやられた。迂闊だった。正邪は脇腹をかばいながら構え直す。
紅美鈴は強い。試合展開が上手く行き過ぎてそんな当たり前の情報を失念していた。
正邪は攻め込めなくなった。一度切りだと決めつけてまた手痛い打撃を食らうのはマズイ。
試合が停滞する。しかしそれは、美鈴にとって好都合だった。
(やっと、意識がはっきりしてきた)
ダウンからの復帰後、幽鬼のようにリング上に立っていた美鈴は真っ当な思考を確立し始める。時間を掛ければ掛けるほど体力が回復する。
時間を掛ければ掛けるほど、美鈴の方に勝利の天秤は傾く。
(この大会の試合に制限時間はない。このまま攻めるのを躊躇させて、奴を仕留めきれるだけの体力を回復させる)
試合の展開が自分の方へ傾き始めたことに気付いた美鈴は、殺意の籠った微笑を浮かべた。
対して正邪は、
(……マジかよ)
心中で嘆息を吐く。
(このままやっても勝ち目は薄い。決勝戦の相手は雲居一輪か依神女苑。どちらにも手の内を晒したくなかったのに)
決勝戦用の仕掛けを使う羽目になったことを嘆いていた。
正邪は美鈴の方へ距離を詰める。美鈴は困惑した。
(時間を掛ければ不利になると気づいたみたいだけど、そんな雑な攻めなら簡単に切り返せる。そんなこともわからないの?)
おそらく体当たり。それによりグラウンドに持ち込む算段か。こっちの体力がまだ回復してないから、それで制圧できると判断した? 美鈴はそう当たりを付けて衝撃に備える。加えて、あらかじめ折ってある正邪の脇腹を拳で狙う。
(体当たりを受けながらだからそんなに強くは撃ち込めないけど、それで十分。その程度の打撃でも、あわよくば仕留められる)
体当たりの衝撃を殺しつつ、且つ刺されば勝負を終わらせる拳撃。二段構えで美鈴は迎え撃った。
「そのボディーブローは余計だったな」
そんな声がした気がした。正邪が嗤う。強がりの笑みだと美鈴は思った。想定通り、体当たりを受けつつ拳撃が正邪の折れた脇腹に突き刺さった。
申し訳程度のガードすらしていないのは想定外だったが、勝負が終わった感触がした。瞬間――
左鉤突き。
「ぐッ!?」
深い打撃が美鈴を襲った。
(なんで、の、ノーガード!? 折れた脇腹をかばうことなく、打ってきた!?)
手痛い一撃だったが、続かない。痛みに耐えながら美鈴はそう確信していた。
何故ならこちらも同じような打撃を向こうに与えているからだ。しかも、より強く。再び仕切り直しになるし、向こうのほうが明らかにダメージが大きい。何なら正邪はこのまま沈むはず。そういう痛み分けだった。
そのはずなのに、肘打ち、両手突き、手刀、貫手。
続けざまに攻撃が続いた。
(な、なんで!?)
何故止まらない。こちらの打撃が効いていないかのように、正邪の表情には余裕すら見えた。汗も引いている。
正邪の使うそれは必ず左鉤突きから始まった。それとはすなわち、
「煉獄」
咲夜は強くタオルを握りしめる。十六夜咲夜は紅美鈴の強さに依存している。が、流石に限度があった。
異常事態だった。 二度目の煉獄。
(頭が下がってる、ので次は振り上げから入る五手)
振り上げ、手刀、鉄槌、中段膝蹴り、背足蹴り上げ、
一方的に美鈴は打たれ続ける。一度受けたら最後。逃げることも、己の意思で倒れることも出来ない。
(距離が空いたから次は右中段回し蹴りから入る五手)
右中段回し蹴り、左上段後ろ回し蹴り、左中段猿臂、右下段熊手、上段頭突き、
打ち手の体力が続く限り、叩き続けられる。
鉤突き、肘打ち、両手突き、手刀、貫手、下段回し蹴り、中段回し蹴り、下段足刀、踏み砕き、上段足刀、左上段順突き、右中段掌底、右上段孤拳、右下段回し蹴り、左中段膝蹴り、
それが、煉獄。
正邪の煉獄の精度はここにきてさらに上がっていた。煉獄は、相手の体勢を見てより効果的な組み合わせを選択することでその威力を倍増する。
今まで受けていたダメージがなくなったかのような軽快な動き。異常とも呼べる思考スピード。それを可能にしているのは、
(薬物)
読心能力によりレフェリーのさとりだけが正確に状況を読み取る。
(使った。メタンフェタミンとその化合物による瞬間的な『ドーピング』!)
口内にあらかじめ含んでいた不溶性カプセルに入ったそれをかみ砕き、覚醒状態を引き起こす。それが鬼人正邪の切札だった。覚醒状態が及ぼす効能は鎮痛作用と体力の回復。奇しくも先刻美鈴がアドレナリンの分泌によって引き起こした不意打ちと似た状況を正邪は薬物で引き寄せた。
リング上では人妖は人となる。本来、人妖には効かない『薬物』もリング上では機能するのだ。そして、ルール上それを禁ずる要項はない。
(武器の持ち込み禁止、の項でこじつけられるけど)
ギャラリーは納得しない。傍目から見たら気合で互いに打撃を耐えながら打ち合う試合でしかないのだ。それに正邪の薬物の使用をそもそもさとりには立証できない。
(リング外に出たら身体は人妖に戻り、薬物の痕跡が消える)
正邪はさとりに思考を読ませている。仮に今、試合を止めてもそうやって証拠の隠滅を図るぞと。警告している。
そうされれば残るのはさとりの主張だけ。今大会の興行を考えたとき、地霊殿は紅魔館に寄る判定を出しにくい。
計算づくだ。
(信じられないくらい卑怯者ですね、あなた)
リング上にタオルが投げられた。煉獄は中断される。
試合終了 二回戦第二試合 勝者 鬼人正邪 決まり手→セコンドのタオル投入によるギブアップ。
※※※
「やってるわね。あいつ」
女苑はリング上で起こった特異な攻防に気付いた数少ない一人だった。
「やってるって、なに……」
美鈴が敗北したことにより大損が確定した紫苑はすっかりと消沈しつつも女苑の言葉を聞いていた。
「ドーピング。しかも、試合の最中に。とんでもない奴が居たもんね」
女苑は自身の性質上、そういった厄事に対して知識があった。薬物により富を得て、薬物により破滅するものなど疫病神はそれこそうんざりするほど見て来た。
「覚醒剤か、いやそれにしちゃ効力強いから何かしらの混ぜ物かな。なんにせよ厄介ね」
「女苑! あいつズルしてるってこと!? じゃあ早く言いつけて失格にしちゃおうよ! それで不戦勝! 勝ち! 勝ち! 私たちの勝ちなんだから! 私はあんたにも大金掛けてるんだから勝ってよ!」
「私にも賭けてたの? 我が姉ながら、アホな賭け方するわねぇ」
優勝者はどうやっても一人なのに、それでどうやって利益を出すつもりだったのだろうか。女苑は呆れて息を吐く。
「言っとくけど反則負けには出来ないわよ、たぶん。リングから出たら証拠残んないだろうし。それに、確かルールじゃダメだって書いてる要項なかったはず」
「書いてないからやっちゃダメなんてまかり通るわけがないでしょ!」
「……貧乏神のくせに何言ってるの」
依神姉妹は属性としては鬼人正邪と同じ部類だ。使える手段は全て使う。
もっとも、女苑は今大会は自身のプロモーションをかねて出場しているのでそういった手段は眼中にない。ここで強さをアピールし、スポンサーを得るのが依神姉妹の目的だった。
「安心して。手の内がわかってれば私が負けることはないから」
自信たっぷりに女苑は言い放つ。自身の次の相手は雲居一輪。強敵だが、雲山なしなら自身の相手にならないと考えていた。
※※※
「正邪、小槌没収されたんだけど…」
針妙丸は涙目で正邪に訴える。
「当たり前だろ。主催者に日光照射なんて悪事働いたんだから」
「正邪がやれって言ったんでしょ!」
「まあそれはそうなんだが。でもこの大会終わったら返して貰えるんだろう? 紅魔館のご当主さまは慈悲深くて結構じゃないか」
「それは意外だよね。正邪、私に言ってないだけで他にも汚い手いっぱい使ってたでしょ」
「汚い手とは言ってくれるな」
レミリアの寛大さに関しては正邪も想定外だった。
一応舌戦のための材料はそろえていたのだが、日光照射に関しても、薬物の使用疑惑についても不問だった。
むしろ日光により気が逸れたのは美鈴の落ち度だと非難するそぶりすらあった。
「ヴァーリトゥード、を銘打ってるからってことなのかね」
正邪の謀略にレミリアは感心している節があった。
そこにもしかしたらレミリアが今大会を開いた意図があるのかもしれない。
あらゆる異能を禁じた上で、なんでもありで戦ったとき、最強は一体誰なのか。
「ところで、決勝の相手はどっちになったんだ?」
正邪は永琳の治療を受けていたので二回戦第二試合の結果を知らなかった。通常、リング外に出た時点で人妖の再生能力により試合中に負った負傷は治るのだが正邪はそこまで強い妖怪ではないのでは完治にまでいたらず、永遠亭からの治療を受けざるを得なかった。
「疫病神の依神女苑。あの子の試合私全部見てるけど、全部カウンターで倒してたよ」
「疫病神か」
陰陽遁で言えば、自分と同じ属性だと正邪は感じていた。陰側だ。
「セコンドはどんな様子だった?」
「セコンド?」
「依神女苑の姉貴がセコンドやってるんだろう。奴はどんな様子だった?」
「うーん。別に普通だったかな……いや、試合そっちの気でずっと飲み食いしてたかも」
姉妹の関係値は低い。これは正邪にとってあまりいい知らせではなかった。美鈴相手に使った戦法の応用が利かないかもしれない。
疫病神。嫌な相手が上がってきたと正邪は感じていた。
※※※
当初決勝候補筆頭だった紅美鈴と星熊勇儀を下したことにより正邪を弱小妖怪だと捉えている観客は誰も居なかった。下剋上ともいえるこの展開により会場の盛り上がりもひとしおである。――もっとも、特例として決勝戦のみの賭けが新たに開かれたのが盛り上がりの大きな要因であるのだが。払い戻し金額はどちらも均等に二倍。紅魔館運営に利益が行かない大盤振る舞い。
会場の観客の殆どが紅美鈴と星熊勇儀に賭けていたための措置である。
その喧噪を俯瞰して女苑は、
(金になりそうな盛り上がりねぇ。何とか紅魔館に掛け合って一枚噛ませて貰えないかしら)
と疫病神らしい思案に耽っていた。
姉の紫苑はそんな妹の様子など露知らず、他の観客同様会場の盛り上がりに巻き込まれていた。
「女苑! みてみて! たこ焼き!焼きそば!決勝戦観戦セットだってさ! 単品で一個ずつ買うより安くなるんだよ。すごくない?」
「姉さん。持ち金全部擦ったんじゃなかったの?」
「決勝に上がる女苑の姉だって言ったらツケ払いでいいってさ」
にへら、と紫苑は能天気な笑みを見せた。およそ返済計画など立てていないはずなのに、どうしてそんなにもヘラヘラしていられるのか、我が姉ながら女苑には不思議でならない。
「そこは我らが依神女苑が優勝して、優勝賞金で払うにきまってるでしょ」
「あのさぁ。私が獲得する金なんだから私のモンになるにきまってるでしょ」
「女苑ちゃん。大会要項を見たまえ。セコンドは出場選手の獲得金額の10%を報酬で貰えることになってるのよ」
「なんでそんなとこだけ抜け目ないのよ」
我が姉ながら卑しさに呆れる。
「そんなはした金より儲けられる話があるがどうだ?」
そう言って紫苑の肩を叩いたのは女苑の決勝の相手、鬼人正邪だった。紫苑は正邪の手を払いフーッと殺気立った猫のように威嚇を始める。
「天邪鬼! そうやって私を騙すつもりね」
「まあまあそうやって邪険にしなさんな。ほら、お近づきの印のお酒まで用意したんだから」
上等そうな日本酒の瓶を正邪は手渡す。それを紫苑は普通に受け取り、威嚇を再開する。
「それはそれ。これはこれ。こんなもので私を買収しようったってそうはいかないんだから」
「いや、真面目な話だって。お前が決勝で試合が始まると同時にタオルを投入してくれれば、私の獲得賞金を全部譲るっていうシンプルな契約の話さ」
「……ふむ」
「バカ姉。飲まれそうになってんじゃないわよ」
女苑は紫苑の頭を引っぱたき、首根っこを摑まえた。
「お駄賃やるから、なんか私の分も適当に買ってきて」
「わあ。私の分もついでに買っていいよね?」
「いいからさっさと行きなさい」
お金を受け取るが早い、紫苑はさっきまでの正邪との諍いなどなかったかのように機嫌よさげな小走りで飛ぶように屋台通りの方へ消えていった。
「しっかり者のようだな。これじゃどっちが姉かわからんな」
「よく言われるわ」
正邪と女苑。お互いがお互いを検分する。どちらも体格がいいとも言えないし、肉付きもよくない。しかし互いに直観していた。一筋縄ではいかないと。
女苑は不意に身を低くし、人込みに紛れて潜んでいた少名針妙丸の首根っこを摑まえて持ち上げた。
「わぁ!?」
掴まえられた針妙丸の手には吹き矢が握られていた。女苑はそれを取り上げ、矢じりを見る。
「このチビがずっと私のことを狙ってたのはわかっていたわ。私、視線には敏感なの。私の見立てじゃこれは毒ね。神経毒かしら、あんたで試してみようかな」
「ひぃー! やめて!」
女苑は針妙丸を放した。針妙丸は放されるが早い、一目散に駆けて行った。女苑は特にそれを追い立てることもなく見送る。
「あらあら。冗談なのに、見てくれ通り小心者なのねあの子。どうせあんたの仕込みでやらされただけでしょ。あとでちゃんと慰めてあげなよ」
「……お前は私のことを卑怯だとか言わないんだな」
「卑怯?なにそれ」
女苑は鼻で笑う。
「卑怯ってのは負け犬の言葉よ。『汚い手を使われたから私は負けました』って。言ってて恥ずかしくないのかしら」
かつて憑依異変時に女苑は姉を利用した『絶対に負けない戦法』で幻想郷の並み居る強者をことごとく返り討ちにした。しかしそれでも博麗の巫女には敵わなかった。
「強い奴は何されてもどんな手を使われても勝てるのよ。卑怯ってのは負け犬が考えた言い訳の言葉なの。あんたの『それ』は卑怯ではなく勝つための知恵と工夫と呼ぶべきね」
「『それ』って?」
「姉さんを買収しようとしたり、毒を仕込もうとしたり、『試合中にドーピング』キメたりすることのことよ。弱者の知恵として敬意を表するわ」
「……薬の件はお見通しというわけか」
あわよくば気づいてないことに期待して正邪は探りを入れたのだが、そう簡単に事は運ばない。
「運営にチクるか?」
「さあ。それも選択肢の一つね。ただ、私は別に優勝することだけが目的じゃないから」
女苑は手をひらひらとさせて正邪に背を向ける。
「あんたを真正面から叩き潰して、私は強さを示させて貰うわ。あんたは雑魚だけど、もう世間ではそういう評価じゃないでしょ。私に仕留められるためにここまで株を上げてくれてありがとね」
女苑の背を見送りながら、正邪は舌を出す。舌先には赤と青のツートンカラーの不溶性カプセルが乗っていた。
(張れるだけの罠は仕掛けた。あとはこいつの使いどころ次第か)
正邪は口を閉じ、舌使いで口内のカプセルを弄びながらリングの方へ向かった。
※※※
決勝戦特設リング――と言っても仕様は前試合のものと変わらない。陰陽柄をした低反発のキャンパスマットに博麗・守矢・八雲による合同結界の壁。レフェリーの古明地さとり、リングドクターの八意永琳。
会場を覆う紅霧の天蓋に河童製のスポットライトが当てられている。それにより紅霧には紅魔館・地霊殿・永遠亭…とスポンサーの名前が連なる。霧をスクリーンに見立てた演出である。
スポンサーを挙げ終わると、今回の決勝戦の二人の名前がスクリーンに写る。
『無所属 最凶最悪の双子の妹 疫病神 依神女苑』『無所属 逆襲のアマノジャク 天邪鬼 鬼人正邪』
「さあさあ。いよいよ決勝戦! 実況は引き続き、清く正しい射命丸がお送りいたします。皆さんはもうBETし終えましたかー? 今回は紅魔館のご厚意により払い戻しは一律二倍となっておりますよ!」
拡声器により増幅された天狗の声音が響き渡る。一部を除いて会場は湧いていた。
「美鈴、まだ引きづってるの?」
――主催者席。壁にもたれたまま難しい顔をして腕を組んでいる美鈴に対してレミリアは声を掛ける。
「はい。申し訳ありませんが、少しだけ落ち込まさせてください」
「そうね。落ち込みついでに頭も冷やしなさい。格闘勝負ならまだしも【なんでもあり】の喧嘩ならどんな達人だって遅れをとることがある。あんたは【勝てて当然】だと思って戦ったから負けたのよ」
ぐうの音も出なかった。実際その通りだった。非道外道と天邪鬼を非難するのは簡単だが、しかし先ほどの試合結果は運で決まったものじゃない。完全な【実力差】である。
「喧嘩なら鬼人正邪は強い。あんたみたいなスポーツマンがおよそ使わないような絡め手をふんだんに使ってくるんだから当然ね」
「お嬢様。その辺にしておいた方がよろしいのでは」
咲夜は思わず美鈴を庇い立てる。レミリアはそれに対して気を悪くすることなく同意し、リングの方へ視線をやって紅茶を啜る。
「ま、庇いたくなるのもわかるけどね」
レミリアは突っつくようにそんな言葉を咲夜に投げて会話を打ち切る。美鈴の敗北の要因が咲夜にもあることを知っているかのような口ぶりだった。主の洞察力に心酔しつつも、咲夜は美鈴以上に落ち込んでいた。
(タオルを投げさせるのが天邪鬼の作戦だった。だからあいつは私に仕掛けてきた)
咲夜が美鈴に何も伝えないのも織り込済みだったのだろう。いいように天邪鬼の手のひらの上で踊らされた形だ。あの天邪鬼の手の内は知っていたはずなのに、悔しい。
「……負けろ、鬼人正邪」
柄にもない言葉を咲夜は小声で毒づいた。
――観客席。霊夢は我が世の春が来たと言わんばかりに浮かれ散らかしていた。鬼人正邪の優勝が見えてきたので、いよいよ霊夢はおかしくなっていたのだ。
魔理沙と早苗はそんな霊夢の様子を苦笑いでなだめる。仮にも博麗の巫女ともあろうものがこうして異変の主犯だった妖怪に声援を飛ばすのは流石にばつが悪い。
一方、菫子は同じ席に座っているというのにそんな喧噪に参加せずリングの方を注視していた。主に、その視線は鬼人正邪へ向けられている。
(金剛、煉獄。無極も使えるのかしら)
菫子はそんな風に思案する。
正邪の使っている武術は富田流と呼ばれる古武術であると菫子は今までの戦いから確信していた。そしてその憶測は正しい。が――
正邪は金剛と煉獄の二種類の技しか使えなかった。特に煉獄に至っては左鉤突きからしか始動できない不完全な物。
(依神女苑。カウンター主体なのがキツイな)
正邪はそう真っ当に評価する。金剛も煉獄も大きな隙が無ければ入らない。隙を作るための仕掛けは用意したが、ほとんどが機能しないのが現状。女苑は既にリングへ上がっている。まもなく試合が始まる。
正邪は出来るだけ試合開始時間を遅らせたかった。時間経過で発動する仕掛けもあったからだ。
(ダメ元だが、やらないよりはましだろう)
入念にウォームアップする振りをする。しかし、それによる引き延ばしも限界があった。
「鬼人正邪選手、早くリングに上がって下さい。失格にしますよ」
そう宣言したのは審判の古明地さとりである。
「やれるもんならやってみろよ。決勝が不戦勝で終わるなんて、興行的におしまいだぜ」
「このまま遅延が続く方が興行的に不味いと私は判断します。最後の警告です。今すぐリングに上がらなければ失格にします」
さとり妖怪の、心が読めるが故の物言いだった。遅延することで作動する策を鬼人正邪はいくつか用意している。しかし流石にそこまで看過してしまうと審判として不公平である。さとりが正邪に対して興味を持っているのは事実だが、そこまで肩を持つ義理はない。
さとりの宣告に対し、正邪は仕方なくリングに上がる。相手は心を読めるさとり妖怪。これ以上の駆け引きは無意味だ。審判相手の時間稼ぎの手段を用意していなかったのはこちらの落ち度だ。
「随分と駄々こねてたわね」
既にリングに上がっていた女苑は嘲るように言う。
「卑怯者なんでね」
正邪は女苑の様子を観察する。万全そうに腕をぐるぐると回している。続いて正邪はセコンドの紫苑の様子を見る。紫苑は試合そっちの気で酒やつまみを飲み食いしていた。
正邪は開始ゼロ秒で勝つことをまず諦めた。ならば、虚を突くしかない。
「では、両者位置に付いたので。最終試合のゴングは紅魔館主催のレミリア・スカーレットさん。お願いします」
『承ったわ!』
レミリアの甲高い声が反響する。
『異能禁止の幻想郷最強喧嘩師決定戦!ヴァーリトゥードトーナメント『幻想格闘王』。決勝戦かい――』
――ゴングの鳴る直前。正邪は動いた。口内の『超人薬』をかみ砕きつつ。
決勝戦だけは審判ではなく主催のレミリアがゴングを鳴らすことを正邪はあらかじめ把握していた。故に成立する。本来反則負けに繋がる『フライング』。
距離があれば音の聞こえ方は相対的に変わってくる。主催者席に近い方から観客席→セコンド→リング上の順で。と言ってもその差は刹那。認識すら出来ない。それでも正邪は『自分にはゴングが聞こえたから試合を始めた』という主張をゴリ押そうと考えていた。
審判は正邪を反則負けには出来ない。
この聞こえ方が違ったという主張は観客も体感しているからだ。観客には人妖も混じっている。なまじ人を超える能力を持っているが故に認識すらできない程の音の届き方の差も実感している。そういった人妖を正邪は自分の主張の味方に付ける気だった。加えて正邪に賭けた幾人かの観客もサクラに使う気だった。
厳密に判定すれば反則になるだろう。だが、舞台は【決勝戦】。審判は会場の雰囲気を汲んだ判定しか出せない。仮に止められても、ダメージを負わせれば試合再開時にその分有利になる。
仕切り直しになったとしても回復を行わず試合が再開されるような仕掛けも用意してある。
そこまで組み込んだ上で行われたフライングによる不意打ちに選択した正邪の一手目は、
『左鉤突き』
煉獄の始動である。超人薬によるドーピングの火力があれば肋を砕ける算段だった。
――しかし、依神女苑は不意打ちに面食らうことなく冷静に肘を下げることによってそれを防いだ。
(構わない)
正邪はそのまま鉤突きから続く四手を撃ち込む。
防がれても構わない。煉獄を続けることにより煉獄を始動させる。薬物により正邪の技の回転速度は常人のそれではない。続けていればいずれ入る。――しかしそれは誤りだった。
『捌く、捌く、捌く! 女苑! 前試合で魅せた通り、あらゆる打撃をいなしています!』
実況の天狗の台詞が正邪の耳に入る。煉獄が入っていないとはいえ、ドーピング込みの継ぎ目のない連打を女苑は完璧に捌いていた。
(クソ、だが、時間の問題だ)
加速した思考で正邪は考える。こんなものいつまでも続かない。向こうは疲労する一方なのに対し、こちらは薬の効果中は全く疲労せず、息切れもない。まだ有利だ。
だが、依神女苑を知る者の見解は違う。
※※※
「命蓮寺で格闘するなら誰が一番? 当然私に決まっていますよ」
天狗記者のインタビューに対し住職の聖白蓮は謙遜なく答える。そこに驕りはなく、純然たる事実を述べているだけのようだった。
Q≪では何故今大会の出場を見送ったんですか?≫
「大会では異能解除の結界がリング内に張られるのでしょう? そんなことされたら私、術が解けておばあちゃんになっちゃいます。一応、私は人里では美人住職って評判で通っているんですよ。そんな人たちの期待を裏切るわけにはいきません。あ! この部分は記事にしないで下さいね」
白蓮はのほほんと人の良さそうな笑みを浮かべてぱたぱたと手を振り答える。確かに、男受けは良さそうだと天狗記者は感じた。
Q≪それでは、あなた以外なら命蓮寺で誰が一番ステゴロが強いんですか?≫
「うーん。一輪、村紗。この二人はいい勝負するかも。一輪には雲山仕込みの拳があるし、村紗は膂力と船上で鍛えられた平衡感覚があります。よーい、はじめ! の勝負だとどっちが勝つかわからないわ。ああ、でも星が居たわね。あの子は野生に戻ればなかなか手強いはずよ。なんたって元は虎なんですから」
そこまでの答えは天狗記者も想定通りだった。命蓮寺が異変に関わったとき観察していて天狗記者は知っていたのだが、この三名の動きは明らかに戦い慣れしている者の動きだった。
「……でもやっぱり、単純に格闘するなら女苑でしょうね」
天狗記者の想定外の名前が飛び出す。
「路上で鍛えられたのかしら。あの子と異能無しで立ち合ったら、私でも危ういわ。まず捌きにより攻撃が当たらない。それに拳も鋭い。力が無いのに、人体に正しく影響のある打撃が撃てる。経験がそうさせるのかしら。お姉さんの力込みとはいえ、異変の時はそれでみんな返り討ちに遭っていましたからね。あの子の実力だけは偽物じゃなく本物だった。
大会のルール前提なら命蓮寺で一番強いのは依神女苑よ」
聖白蓮はそう言い切る。純然たる事実を述べるように。
Q≪しかし依神女苑は今大会、命蓮寺ではなく無所属で登録していますが?≫
「えぇ? そんな」
※※※
振り上げ→手刀→鉄槌→中段膝蹴り→背足蹴り上げ。
全て捌かれていた。連打が始まってから五十秒経過していたが一向に当たる気配がない。この依神女苑の捌きと正邪の薬物による高速連打は会場を魅了していた。フライングだ、と騒ぎだす無粋な客はもはや残っていない。一人残らず試合に見入っている。
「見えているの……?」
菫子は二人の常軌を逸した攻防を前に一人呟く。煉獄は入らなければ隙のない連続攻撃でしかない。だとしても、この速度・回転率の打撃をノーダメージで捌き続けるのは尋常ではない。
「なるほど」
美鈴は第三者の視点から見てようやく正邪の連続攻撃の仕組みに気付く。
「同じパターンの連打は五手しか共通していない。急所に繋がるその五手の連続攻撃の後、相手の体勢によって選択した別のパターンの五手を繋げることで絶え間なく一方的に打撃を続けられるのか」
「へぇ。ちゃんと仕組みがあったのね。適当に打ってるんじゃなくて」
レミリアは美鈴の言葉を聞きながら試合を眺めている。確かに、美鈴の分析は正しい。格闘技に疎いレミリアでも美鈴の言葉を受けて正邪の打撃を見たとき、その打撃が五手七種類の35パターンしかないことに気が付けた。左右で分けられるので正確には70パターン。
「思ったより簡単そうね。美鈴ならもう使えるんじゃない?」
「……あの連打は初撃が綺麗に入らなければ始動しません。私なら、そこまで綺麗な一撃が入れられるなら別の技を選択します」
非効率だと美鈴はまず感じた。一貫して正邪は始動パターンに『左鉤突き』を選んでいる。おそらく、そこからしか基本的には繋がらないのだろう。自分ならばあの左鉤突きをする手間で相手を仕留められる技を持っている。
今回は左鉤突きを撃つためにフライングをした。明確に隙が無ければ使えない技だということだ。
「あの天邪鬼、失格にしないの?」
パチュリーが口を挟む。
「冗談。こんなに盛り上がってるんだから続行よ。それに、私の予想だとそろそろ裏返るわ」
レミリアはにいと口角を上げる。
レミリアの先見性は畑違いのジャンルでも作用する。
(マズイ。そろそろ薬の効力が切れる)
正邪は焦っていた。超人薬の効力は1分フラット。切れた瞬間、感覚は鈍化し疲労が始まる。
そこからの煉獄はおよそ三十秒も持たないだろう。
(入ってない煉獄を続けるより、別の手を使った方がいい。少なくとも、まだ薬により疲労が蓄積していない私の方が有利だ)
捌くのにも体力を使う。そういう公算だった。
正邪は薬の効力が切れるおよそ3秒ほど前に余裕をもって煉獄を打ち切り、女苑と距離を取る。
仕切り直しだ。
その間を、女苑はノータイムで詰めた。
「!?」
気づいた時には遅かった。女苑が正邪へ距離を詰めつつ放った技は命蓮寺・聖白蓮仕込みの『鉄山靠』。全身をひねりながら繰り出される背面による体当たりによる崩しである。
この技自体にダメージはない。だが、正邪はこれにより大きくバランスを崩しながら後退した。
(倒れれば、マウントを取られる!)
正邪は反射的にそう判断し転ばないよう踏ん張りを利かせた。決定的な隙だった。
その隙を狙い、女苑は鉄山靠の回転を活かして上半身を捻り、前進しつつ鋭い打撃を放つ。
『左鉤突き』
体勢が崩れていた正邪はそれをまともにガードすることなく食らう。
(な!?)
それは正邪の思考速度より速かった。
肘打ち→両手突き→手刀→貫手 立て続けに叩きこまれる。
その技の名を知る者は、震えた。
「煉獄!」
菫子は思わず叫んだ。
「煉獄」
咲夜は飲み込むように呟く。
「天邪鬼の使ってた連撃!」
技の仕組みを知ったレミリアは席を立ち前のめりになる。
美鈴は煉獄より、鉄山靠による体崩しからのコンビネーションに舌を巻いた。
(連撃の切れ目を見切り、正確なタイミングで割り込んでそのまま切り返す。流れに淀みがない)
あらかじめ相手側に脚を踏み込んでいないと出来ない動きだ。連撃を捌いている最中、いつでも反撃に転じられるよう女苑は布石を用意していたのだ。
こんな使い手が幻想郷に居たのか。
「……極好(ジーハオ)」
下段回し蹴り→中段回し蹴り→下段足刀→踏み砕き→上段足刀
(チクショウ、繋がってやがる)
一方的に殴られながらも正邪は毒づく。
正邪は亀のように防御に徹する。こうなってしまえば打ち疲れるのを待つしかない。
(たった二回だぞ。それで盗めるもんなのか)
理不尽だと正邪は感じた。これが才能か。天性のものだ。ずるい、ずるい。
(クソ、クソ。なにか、ないかないか)
右中段回し蹴り→左上段後ろ回し蹴り→左中段猿臂→右下段熊手→上段頭突き。
女苑の煉獄が始まってから三十秒が経過していた。不意に連打は途切れた。
「……ッ!!」
正邪は残っていた力の限りに後方へ吹っ飛んだ。情けない動きだった。だが今は、何よりも優先して女苑から距離を通りたかった。
「チッ!」
女苑は舌打ちをする。
「あんたの体が少し前のめりになったから、継ぎ目に何を撃てばいいか考えちゃった。一瞬でも間が空くと切れちゃうのね、この技」
「……てめ、ぇ。いつの間に、『煉獄』を」
「ふーん。この技、煉獄って言うのね。私は昔っから人の物を奪うのが得意なの。煉獄は今度から私の物にさせて貰うわ」
女苑は全く消耗した様子もなく笑っている。少なくとも正邪の煉獄を一分近く捌いた後で煉獄を放っているにも関わらず。
「いつの間にっていうけど、二回も見たらそりゃ盗めるわよ。しかも二回とも大分長い時間打ってたしね。今回は途切れちゃったけど、次はもっと上手くやるわ」
女苑は構え直す。もうとどめを刺す気だ。正邪は時間が欲しかった。
「盗むのが、得意、か。じゃあ、なんで金剛を盗まなかった?」
喋りながら正邪は息を整える。女苑の知らないワードを混ぜることで会話を繋げやすくする。
「金剛?」
「一回戦で、私が、星熊勇儀を倒した技だ。あれなら、一撃で終わっていた」
「あーあれね。仕組みはわかるわよ。でも練習しないと撃てないでしょあれ。そもそも、その練習するのも多分難しいわ」
息は整ってきた。骨は折れていない。だが、まだ全身が痛む。ダメージにより、万全の動きが出来ない。
「練習相手が心室細動で死んじゃうかもしれないでしょあれ。昔外の世界のアウトローでも流行った遊びで失神ゲームってのがあってさ。それで理屈は知ってたわ。死ぬような打撃を練習で使えるわけないでしょ」
あんたみたいなろくでなしは別として。そんな言葉を付け加えて女苑は正邪に近づく。拳が放たれる。今大会、初めて女苑から仕掛けた瞬間だった。
ガードが間に合わず、正邪はその拳をまともに顔面に受ける。カウンター主体の女苑を攻めっ気にさせるほど正邪は消耗していた。
(踏み込まなくていい。こうやって射程の長い打撃で削ってるだけで勝てる)
女苑は攻めつつも慎重だった。万が一にも身体を掴まれないよう速さとリーチを兼ねたリードパンチを小刻みに打ち込む。
対して正邪は亀になる。防戦一方。攻めっ気は全くなかった。いたずらに時間だけが過ぎて行く。
「勝ち目ないんなら降参しちまえよ」
「往生際悪いぞ!」
「引っ込めー!」
時間経過とともに焦れた観客達の罵声が増える。
「てめーもいつまでもちまちまやってんじゃねえぞ!」
「天邪鬼はもうフラフラだぞ!さっさとキメちまえよ!」
「俺でもあんな状態なら倒せるぞ!」
その罵声に混じり深く攻め込まない女苑にも非難の声が混じってきた。疫病神の気質と相まり、女苑への罵声は次第に大きくなる。
(うざ。バカどもが、好き勝手言いやがって)
あるいはそれこそが鬼人正邪の策略かもしれない。観客に煽られた女苑が勝負を決めようと深い打撃を撃ってくるのを待っている。しかし、だとしても女苑は今の方針を変える気はなかった。一定の距離を保ち、速い打撃で削り殺す。元より女苑は罵声怒声には慣れっこだった。今更客に煽られた程度で自分を曲げるなんてことは有り得ない。
「が、がんばれ女苑!」
姉の声を背に受ける。いつもはか細く貧乏くさい声が、らしくない程に張っていた。無意識に女苑は笑む。嬉しかった。たとえその声援が女苑に賭けているから出している打算的なものだとしても。無意識に拳に力が籠もる。拳速が上がって行く。
それに気づいた正邪は、醜悪に口角を吊り上げた。強がりの笑みだ。正邪の顔を見た誰しもがそう思った。限界は近い。
だが、それからも正邪は粘った。無駄に、無意味に、誰の目から見てもそこから勝ちに繋がるビジョンは見えない。このまま続けていても、状況は好転しない。いよいよ焦れた観客達が暴動を起こしかねない程に高まった時だった。
「待て」
正邪はそう一言女苑に訴えた。両手を突き出して、相手と距離を作るだけの間抜けな構え。降参でもするかのように。当然それを見ても女苑が止まることはない。構わず拳を振るい続ける。
「負けだ」
そう添えられて、流石に女苑は攻撃を止める。降参か。女苑が審判のさとりを見やるが、動きはない。この試合のルールでは降参するには手順が要るのだ。女苑ははぁと息を吐く。
「終わりにしたいならセコンドに言ってタオル投げて貰う必要があるわ。さっさとあのチビにそう伝えれば?」
「お前何勘違いしてんの」
「は?」
「私はお前の負けが決まったから終わってやってもいいと言っているんだぜ」
意味不明だった。あまりにも支離滅裂が過ぎて女苑は攻撃にすぐさま転じられなかった。正邪は息絶え絶えになりながらも気味の悪い笑みを浮かべている。ぐるりと、女苑に回り込むように立ち位置を変える。
「これならよく見えるか?」
正邪は親指で自身の背後を指す。女苑コーナー、セコンドの立ち位置を。
セコンドの紫苑は、顔を伏していた。よく見なくともわかるくらいに汗をかいて、小刻みに震えているのがわかる。女苑に明らかな隙が出来た。瞬間、正邪は女苑にしがみついた。
「!?」
クリンチ。窒息を狙うような技じゃない。女苑が振り払おうもがく間に、正邪は囁く。
「屍(かばね)だ」
女苑にしか聞こえない声量だった。肘打ち、殴られながらも正邪は言葉を紡ぐ。
「屍ってのは、とある古武術の隠語でな。毒という意味だ」
そこまで聞けば十分だった。女苑は攻撃を止め、正邪の言葉を待ってしまう。
「あんた、姉さんになにしたの?」
「訊くまでもなくわかってんだろ? お前らにくれてやった酒の中に毒を仕込んだってだけの話だ。永遠亭印の強力な奴だ。効能は神性を持つ実体を分解するというもの。わかるか? 死ぬよりヤバい状態になっちまうぜ。効き目が出るのに時間が掛かって焦ったが、間に合って良かった」
そこまで話したら正邪はクリンチを解いて女苑と距離を取った。相変わらず口角を歪めている。
「助かる見込みがあるとすれば今この試合のリングドクターをしてる八意永琳に診せることだな。まぁお前か私が倒れて試合が終わらない以上――」
そこからは速かった。女苑は威力重視の深い打撃を正邪に浴びせまくる。正邪はそれをいなしながら言葉を繋げる。
「気が早いな。そうだ、さっさと試合が終わらなければお前の姉は滅びる」
「このッ!!」
女苑は拳撃を更に加速させた。しかし、正邪はそれを躱す。先ほどと違い防御ではなく攻撃を見切っている。弱ってはいるが、今にも倒れそうな状態ではなくなっている。
「私はこう見えて演技派でね。実はまだまだ動けるぜ。だから言ったんだ。『お前の負けが決まったから終わってやってもいい』と」
そんな軽口を叩けるほどに正邪は軽快なフットワークを見せた。防戦一方なのには変わらないが明らかに防御の質が違った。それでも傍目から見れば正邪にまもなく限界が訪れるものだと思われた。長くは続かない。鬼人正邪はこのまま女苑に殴り倒される。
観客の誰しもが思った。このラッシュで試合が終わる。
しかし、鬼人正邪を知る者、鬼人正邪と戦ったことのある者の見解は違う。鬼人正邪はここからが強い。
「当たんないのよね」
霊夢が呟く。
「一発でも当たれば終わるって状況で死ぬほど粘るからな」
魔理沙が霊夢に同調する。
「雑魚妖怪のはずなのに、ありえませんよね」
早苗はうんざりしたように言う。
「フィットフルナイトメア」
「え?」
「パチェ。私がそう名付けた不可能弾幕を奴は避け切ったのよ。あの程度じゃ当たらないわ」
神懸かり的な先見性を持つレミリアは試合の結末をこの時点で予見していた。
(なんで、なんで当たらなくなった!?)
ほとんど無呼吸で、女苑は拳撃を続けていた。掠れば終わる。そのぐらいに正邪は消耗していた。なのに、当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。当たらない。早く終わらせなければ、姉さんが――。
無呼吸の打撃にも限界が来た。一旦、息継ぎのために女苑は間を空ける。その瞬間に正邪はべぇと舌を出した。舌先には赤と青のツートンカラーのカプセルが乗っていた。女苑はそのカプセルの中身が何か直感した。
紅美鈴戦とこの試合の開幕で見せた、覚醒作用と疲労回復と鎮痛作用のある薬物。
女苑は、正邪を倒して試合を終えることを諦めた。
「このッ……卑怯者ッ……!!」
女苑はガードを下げ、無防備になる。女苑の目じりからは涙が浮かんでいた。
『卑怯ってのは負け犬の言葉よ』
試合前に女苑が言った台詞を回想しつつ、
「超ウケる」
正邪は容赦なく拳を胸に打ち込んだ。
心臓を正確に撃ち抜かれた女苑はそのまま抵抗なく倒れる。
「金剛」
すぐに審判のさとりによりダウン判定が上がる。そのまま10カウントが終わり、あっさりと試合は終わった。意味が分からないままだったが、会場は湧いていた。
決勝戦
・依神女苑× 対 鬼人正邪〇 決まり手→正拳突き
「待ちなさい」
ダメージが癒えず、フラフラしながらリングを降りようとする正邪に永琳は声を掛けた。
「なんだ?」
「先日、永遠亭に賊が入りました。そしていくつかの薬剤が盗まれています。疲労回復鎮痛作用覚醒作用のある超人薬が『二』錠と強力な腹痛を伴う下剤が一錠」
「あー?何を言ってるのかさっぱりわからんが、下剤の方のありかなら覚えがあるぜ」
正邪はリングの端でうずくまっている依神紫苑を指さす。
「……うぅ。おなか、いたい」
紫苑は顔を真っ青にして身動き一つ取れずにいた。
「このままで済むと思っているの?」
「なんの話かわからんと言ってるだろ。それよりさっさとあの貧乏神を診てやれよ。てめぇが医者ならな」
正邪は悪びれることなくそんな言葉を吐いて足早に会場から出ようとする。
「とんでもない卑怯者が居たものね」
「同意します」
いつの間にか永琳の傍らに居たさとりは同調し、天邪鬼の背を見送る。
『幻想郷最強は誰だ?』
【空を飛ぶ程度の能力】【冷気を操る程度の能力】【運命を操る程度の能力】【ありとあらゆるものを破壊する程度の能力】【境界を操る程度の能力】【純化する程度の能力】【何でも吸収する程度の能力】【三つの身体を持つ程度の能力】
崇められ、敬わられ、奉られ、畏れられる、各々が【最強】だと評されている異能の数々。
神・人妖達が持つ、多種あるその異能の全てが封じられた時、封じられた上で喧嘩した場合、最強は一体誰なのか?
幻想郷最強は未だ決まっていない。
どんな卑怯な手を使ってでも相手をこき下ろすその手腕はまさに弾幕アマノジャクを生き抜いた彼女ならでは。
ただ、正邪を持ち上げるために周りの人妖たちが不当に下げられているように感じたのと、正邪はどんな過去があってこんな技術を身に着けたんだ?弱いって設定はどこに?と思ってしまったのが残念。