冬の風の強い日などに暖炉の前でうつらうつらとしていると、忘れたはずの古い記憶が夢うつつに顔を出すことがある。
「庭渡様、庭渡様」
その男は私に縋るような目を向ける。男の両腕には五つ、六つばかりになる幼子が抱かれている。子どもの頬は痩せこけ、肌はうっすらと青ざめ、生気がない。目は瞑られ、指はぴくりとも動かない。
かろうじて、私の耳にはその子の喉から幽かな息の音が漏れ聞こるのが聴こえた。だが……。可哀そうに。もう長くはあるまい。流行期に入った百日咳――あの頃は「とりしゃびき」と呼んだ――の犠牲者だ。
今からどんなに手を尽くしても、もってあと一日。もはや私にできることは何もない。
私の祠の裏手にある臨時の療養所がいっぱいで、退院患者と入れ替わるまであと二日というところで病状が急変したらしい。急変患者を減らすために私の霊力を込めた水を里の患者たちにあらかじめ配ってはいたが、私の水が彼らの喉を潤すよりも早く、初冬の乾いた風が彼らの身体から生きる力を奪っていった。幻想郷の百日咳は悪鬼妖怪の力が混じり、常に病態を変化させる魔物である。私がどれほど手を尽くしても、私の手から零れ落ちる命は少なくなかった。
「庭渡様、私どもの何が悪かったのでしょうか。お供えが足りなかったのでしょうか。それなら、私は田畑を売ってでももっと心を込めてお供えをいたします。だからどうか――」
私はそんな即物的な人間とのかかわりなど求めはしない。神に対して、無礼ともとられかねないあまりに率直な男の物言い。だが怒る気にはとてもなれない。彼がそのようになりふり構わず拝み倒すまで追い詰められたことが、私にはただ哀しかった。
「あなた方は何も悪くなどありません。いつも私にくださっていた祈りはしっかりといただいております」
「であれば、なぜ――」
子を抱えたまま私ににじり寄ろうとした男を、後ろから引っ張り、無理に退かせた初老の人間がいた。いつの間にか騒ぎを聞きつけて、願掛けや見舞に来ていた里のものが十名ばかり私たちのまわりに集まってきたのだ。
「よせ、清一どの。庭渡様に失礼ではないか。どうか堪えられよ」
父親は里のものに制止され、はっと我に返ったように私に向かって頭を下げた。
「ああ、これはご無礼をいたしました。お許しくだされ、庭渡様」
その声は何かを堪えているかのように不自然に震えていた。
「良いのです。どうかお子さんの最後は暖かな場所で。……さあ、寒空の下、あまり集まっていてはまた悪い気が蔓延ります。皆様もどうかご自愛くださいませ」
自分でも驚くくらい落ち着いた声が出た。
そう、神とは人に頭を下げる存在ではない。
私の声を聞いて、集まった人だかりもみな気が抜けたようにばらばらと散り始める。
だが、あの父親は最後の一人が手を引いてひっぱっていくまでその場に釘付けになったように私を見ていた。言葉はない。睨まれているわけでもなく、ただ茫然とした表情で目を向けられていた。そこにある感情は、私には読み取れない。私に対する恨みか、絶望か、それとも心が擦り切れてしまい私に対して何も思えなくなっているのか。
私に対して暗澹とした思いを抱くのは、この男だけではあるまい。ああ、一言、ごめんなさい。私の力不足でしたと言えればどれだけ良いだろう。
だが、言ってはいけないのだ。仮にも神が軽々しくそのようなことを口にすれば、それは本当に私の病を癒す力をそぎかねない。夏になれば、私はやすんじて頭を下げていただろう。今はまだ駄目なのだ。百日咳のここ百年のうちの最悪の流行が収まるまでは。
もうすぐ日が西の山々に落ちようとしている。
私の祠は雑木林と田圃に囲まれている。冬の田に水はなく、収穫を終えたあとのからりと乾いた光景が西にある里まで一面に続いている。里のあたりからは煙が立ち上っている。このところ、煙を見かけなかったことなどなかった。今年の百日咳はいつもと様子が違い、幼い子だけではなく、大人までよく殺した。火葬が追い付いていない。人間たちがそう話すのを漏れ聞いた。
だが今日の煙は山際の茜色の空にひときわ黒くたなびいており、一向に衰えない。それはひどく不吉な予感を抱かせた。
翌朝、手伝いの人間に何かあったのかと問いただす。
両親や年長の兄弟を失って幼い子どもたちだけで暮らしていた長屋の一角から火が出たらしい。火は長屋全体に燃え移り、足腰の弱い近所のものも巻き込まれて亡くなった。事故か、それとも家族の後を追ったのかは分からない。
冬は始まったばかりだ。山間の郷に春が来るのは遅い。
どんなに長い冬もいつかは終わると人は言う。
だが、冬が終わるまでに誰もが生き延びることができるわけではなかった。
暖炉の薪がふいに大きく爆ぜ、私はまどろみから覚醒した。外は妖怪の山をとりまく強い風がひゅうひゅう、ごうごうと唸りを上げている。
「庭渡様、庭渡様」
郷をめぐる冷たい風の中に、昔に聞いた誰かの声や呻きが時折混じる気がする。
私は夢から覚めると、かつて救えなかった人々の顔も名前も再びすっかり忘れてしまう。
だが彼らの声だけは郷の中にずっと在る。それが在るということだけは、私は忘れはしなかった。
「庭渡様、庭渡様」
その男は私に縋るような目を向ける。男の両腕には五つ、六つばかりになる幼子が抱かれている。子どもの頬は痩せこけ、肌はうっすらと青ざめ、生気がない。目は瞑られ、指はぴくりとも動かない。
かろうじて、私の耳にはその子の喉から幽かな息の音が漏れ聞こるのが聴こえた。だが……。可哀そうに。もう長くはあるまい。流行期に入った百日咳――あの頃は「とりしゃびき」と呼んだ――の犠牲者だ。
今からどんなに手を尽くしても、もってあと一日。もはや私にできることは何もない。
私の祠の裏手にある臨時の療養所がいっぱいで、退院患者と入れ替わるまであと二日というところで病状が急変したらしい。急変患者を減らすために私の霊力を込めた水を里の患者たちにあらかじめ配ってはいたが、私の水が彼らの喉を潤すよりも早く、初冬の乾いた風が彼らの身体から生きる力を奪っていった。幻想郷の百日咳は悪鬼妖怪の力が混じり、常に病態を変化させる魔物である。私がどれほど手を尽くしても、私の手から零れ落ちる命は少なくなかった。
「庭渡様、私どもの何が悪かったのでしょうか。お供えが足りなかったのでしょうか。それなら、私は田畑を売ってでももっと心を込めてお供えをいたします。だからどうか――」
私はそんな即物的な人間とのかかわりなど求めはしない。神に対して、無礼ともとられかねないあまりに率直な男の物言い。だが怒る気にはとてもなれない。彼がそのようになりふり構わず拝み倒すまで追い詰められたことが、私にはただ哀しかった。
「あなた方は何も悪くなどありません。いつも私にくださっていた祈りはしっかりといただいております」
「であれば、なぜ――」
子を抱えたまま私ににじり寄ろうとした男を、後ろから引っ張り、無理に退かせた初老の人間がいた。いつの間にか騒ぎを聞きつけて、願掛けや見舞に来ていた里のものが十名ばかり私たちのまわりに集まってきたのだ。
「よせ、清一どの。庭渡様に失礼ではないか。どうか堪えられよ」
父親は里のものに制止され、はっと我に返ったように私に向かって頭を下げた。
「ああ、これはご無礼をいたしました。お許しくだされ、庭渡様」
その声は何かを堪えているかのように不自然に震えていた。
「良いのです。どうかお子さんの最後は暖かな場所で。……さあ、寒空の下、あまり集まっていてはまた悪い気が蔓延ります。皆様もどうかご自愛くださいませ」
自分でも驚くくらい落ち着いた声が出た。
そう、神とは人に頭を下げる存在ではない。
私の声を聞いて、集まった人だかりもみな気が抜けたようにばらばらと散り始める。
だが、あの父親は最後の一人が手を引いてひっぱっていくまでその場に釘付けになったように私を見ていた。言葉はない。睨まれているわけでもなく、ただ茫然とした表情で目を向けられていた。そこにある感情は、私には読み取れない。私に対する恨みか、絶望か、それとも心が擦り切れてしまい私に対して何も思えなくなっているのか。
私に対して暗澹とした思いを抱くのは、この男だけではあるまい。ああ、一言、ごめんなさい。私の力不足でしたと言えればどれだけ良いだろう。
だが、言ってはいけないのだ。仮にも神が軽々しくそのようなことを口にすれば、それは本当に私の病を癒す力をそぎかねない。夏になれば、私はやすんじて頭を下げていただろう。今はまだ駄目なのだ。百日咳のここ百年のうちの最悪の流行が収まるまでは。
もうすぐ日が西の山々に落ちようとしている。
私の祠は雑木林と田圃に囲まれている。冬の田に水はなく、収穫を終えたあとのからりと乾いた光景が西にある里まで一面に続いている。里のあたりからは煙が立ち上っている。このところ、煙を見かけなかったことなどなかった。今年の百日咳はいつもと様子が違い、幼い子だけではなく、大人までよく殺した。火葬が追い付いていない。人間たちがそう話すのを漏れ聞いた。
だが今日の煙は山際の茜色の空にひときわ黒くたなびいており、一向に衰えない。それはひどく不吉な予感を抱かせた。
翌朝、手伝いの人間に何かあったのかと問いただす。
両親や年長の兄弟を失って幼い子どもたちだけで暮らしていた長屋の一角から火が出たらしい。火は長屋全体に燃え移り、足腰の弱い近所のものも巻き込まれて亡くなった。事故か、それとも家族の後を追ったのかは分からない。
冬は始まったばかりだ。山間の郷に春が来るのは遅い。
どんなに長い冬もいつかは終わると人は言う。
だが、冬が終わるまでに誰もが生き延びることができるわけではなかった。
暖炉の薪がふいに大きく爆ぜ、私はまどろみから覚醒した。外は妖怪の山をとりまく強い風がひゅうひゅう、ごうごうと唸りを上げている。
「庭渡様、庭渡様」
郷をめぐる冷たい風の中に、昔に聞いた誰かの声や呻きが時折混じる気がする。
私は夢から覚めると、かつて救えなかった人々の顔も名前も再びすっかり忘れてしまう。
だが彼らの声だけは郷の中にずっと在る。それが在るということだけは、私は忘れはしなかった。
鳥頭、人命に関わりかつ永く在り続ける神だからこそどうしてもそれが康寧の為に不可欠な気がしてなりません。
人に近ければ近いほどこんな思いをする、久侘歌に思いをはせずにはいられません。
鳥頭は大切な能力ですね
全体は暗鬱としながらも、庭渡様の抱えている優しさや諦観が伝わりどこかじんわりしました。
ごめんなさいと誰にも言えない久侘歌は、少しでも抱える想いを和らげるために、鳥頭であろうとしているのかなと想像しました。
短い文章ながらも久侘歌という神様の在り方が細やかに描かれていたと思います。
庭渡さまの立ち位置、題材の取り方が上手ですね
救う立場にあって救われないことは辛い事だなと感じました。
実際に神々が目の前にいる、自分がその神であるというのも、幻想郷の住人の希望であり苦悩なのですね。
ここに強烈なまでの非人間性と神性を感じました。その後にどれだけ人間の言葉で取り繕っても、やはり彼女は人間ではないのでしょうね。面白かったです。ご馳走様でした。
柳田などに言及のある作者は
今の社会にみられない想像上の惨めな気持ちを拡散したい欲求があると思いました。