夏の服はワンピースに限る。自分の部屋にいるときは下着の上に着るだけで楽だし何より涼しい。
今日は休日だったので、朝食だけいつもの門番の制服を着て部屋に戻ったらワンピースに着替えた。
締め切っていた窓を開け放すと、幾分からっとした風が流れこんできた。空はくっきりとした青、日の光を浴びた庭園は鮮やかな緑色に輝いている。ここ最近ずっと曇りがちでじめじめした日が多かったから、気温は高くても大分過ごしやすく感じた。
小さなサイドテーブルと椅子を窓の近くまで運ぶと、アイスティーを淹れて座った。大きめのグラスで淹れたアイスティーをごくごく飲んで、暑さを吹き飛ばすように、あぁ~! と息をはき出した。
そのまま力を抜いてずるずると行儀悪く椅子の背にもたれながら、ぼんやりとテーブルの上の花を眺めた。咲夜さんが苺のムースを作ったときに使ったガラスの器に水を張って、庭園で作った花を活けたシンプルなものだ。だけど今の自分には、そしてのんびりした時間には、ちょうど良い。キキョウの瑞々しい青紫が爽やかで良い。
両腕をぐぐっと上げて大きく伸びをしてから、図書館から借りてきた花の育て方の本を開いた。借りてきたと言いつつ、半分私物化している。館の庭園作りのために借りてから、もう何年になるだろう。元々真新しい本ではなかったけれど、使い込んだせいか色あせたり、紙がかさついたりして、ますます年期の入った本になってしまった。まぁ、パチュリー様が読むような魔術書ではないし、今まで返却を迫られたことは一度もないので、問題ないだろう。貸し出したことすら忘れているかもしれない。
今日は昼前にアリスの家に遊びに行く予定なので、それまでのんびりと本を読むつもりだ。自分が丹精込めて手入れしている庭園を眺めながら、冷たいアイスティーを飲んで、花の本を読む。制服を脱ぎ捨て、楽なワンピースを着て、裸足のまま足を投げ出す。最高だ。これで足を氷水が張られた桶にでも浸せばなお最高だけど、誰かに見られたら小言をくらいそうなので、想像だけに留めておいた。
薄汚れたページを捲って、次は何を植えようかと考える。コスモスのページになって捲る指を止めた。そういえば、アリスが前にコスモスが欲しいって言っていたような気がする。咲き揃ってきたことだし、庭園にあるのを持って行ってあげよう。白、紅、ピンク、お人形のような端正な顔立ちのアリスには、可憐なコスモスが良く似合う。
そうだ。魔理沙の分も持って行こう。どうせアリスの家に入り浸っているんだろうから、花を多めに持って行って、アリスにお願いして渡してもらおう。花に興味があるかは分からないけど、アリスと同じものを飾るっていうのには興味があるだろう。そう思い至って、思わず笑みが零れた。
「――美鈴、いる?」
「あ、はい。います」
にまにま笑っていると、ノックする音と声とが、耳に届いた。はっとしてドアへ顔を向けた。
あの声は咲夜さん。慌てて本を閉じてドアに向かった。
咲夜さんは無断で部屋に入ってきたりはしない。魔理沙みたいに。
「お待たせしました。あ、ケーキ!」
「十時になるし、お茶にしようかと思って。良いわね、楽そうな格好で」
「あはは……」
私の顔から下に視線を移して、咲夜さんは心底羨ましそうに言った。お勤めご苦労様です。と言おうと思ったけど、嫌味になりそうなのでやめた。誤魔化すように笑いながら、大きくドアを開いて咲夜さんを部屋へ迎え入れた。
咲夜さんが持つトレーの上には、二人分のフルーツケーキが乗っていた。大きめに切り分けられており、たっぷりの生クリームでコーティングされた上に、フルーツがこれでもか! と言うほど盛られている。
そういえば、いきなりケーキ! と言ったのは、食い意地がはっているようで失敗だったかもしれない。
「今、アイスティー淹れますから、ちょっと待っててくださいね」
ドアを閉じて走ってテーブルへ向かうと、本をベッドに置いて部屋の隅に置いていた椅子をテーブルの前に持ってきた。それから背の低い収納棚からグラスを取り出して、残っていた氷を使ってアイスティーを作った。厨房から少し多めに氷を持ってきていて良かった。
「どうぞ」
「ありがとう」
咲夜さんは既にケーキをテーブルに並べ終えていた。
花を挟んで二人分のケーキとアイスティーを並べると、それだけで狭いテーブルはいっぱいになってしまう。壁に立てかけられたトレーが目についた。
「やっぱりちょっと狭いですよね。このテーブル」
「一人用なんだから仕方ないわよ。良いじゃない。ほら、距離が近くて」
「そ……そうですね」
顔を近付けられたので反射的に退いてしまった。しまった……。
顔に出たのか、咲夜さんは面白そうに目を細めた。
「食べましょうか」
「そうですね……」
からかわれる、と身構えていたので、何も言われなかったことにほっとしながら(決してがっかりはしていない)いただきます! と誤魔化すように明るく言って、フォークを手に取りケーキを切った。
ふんわりしたスポンジの柔らかさが、フォークを通じて伝わってくる。一口口に入れると思ったとおり甘かった。生地も、生クリームも、スポンジの間に挟まれた生クリームが絡んだ桃もとても甘い。けど、決してくどくはない。品のある甘さだ。
「どう?」
「美味しいです」
「それは良かった」
柔らかく微笑んで咲夜さんがグラスに口をつけたので、私はフォークを止めてじっと見つめた。再び身構えてしまう。美味しくないわけではないと思うけど、咲夜さんが淹れるものに比べたらまだまだだ。お茶会のような改まった場面でもないし、気にするようなことではないのかもしれないけど、咲夜さんに美味しくないと言われたら傷つくので、身構えてしまう。
「前より、淹れるの上手くなったわね。美味しいわ」
「本当ですか? 良かった! 淹れるの練習したんですよ」
「そうなの。どこで?」
「アリスの家で」
「ふぅん、アリスの家で」
「あ……」
褒められて高揚した気分が一気に冷めた。
咲夜さんは優雅な仕草でグラスを置くと、表情が変わった私を見てふっと笑った。細められた目には、今度は少し意地悪そうな光が宿っている。
「今日のケーキ、少し大きくてボリュームがあるじゃない。気づいた?」
「はい」
「貴女、これからアリスの家に行くじゃない?」
「そうです」
「お昼、一緒に食べるんでしょ?」
「はい。作ってくれるそうなので」
「でも貴女は大きなケーキを食べている。たっぷりと生クリームとフルーツが乗ったケーキをね。これがどういうことか、分かる?」
「え……?」
どういうことか。どういうことって、というかやっぱりいつもより大きく切ってたんだ、ケーキ。
どういうこと。どういうことなんだろう。大きく切られたケーキ、甘くて濃厚なクリーム、たっぷりのフルーツ、これ食べたら、おなかいっぱいになりそうだなぁ。これからお昼を……って、ちょっと待って。
「――あ」
分かった途端、どくんと胸が高鳴り、頭が真っ白になった。
「やっと気付いた?」
「……わざと、ですか?」
「えぇ。おなかがいっぱいになれば、お昼、あんまり食べられなくなるかなぁと思って」
良ければ私の分もどうぞ、と咲夜さんは愉しげに皿を私のほうへ押しやった。
どうしよう。どうぞと言われても、分かった途端に一気に食べ辛くなってしまった。
だって食べきったら、私は咲夜さんが大好きなんです。だから貴女に従順なんです。ほら、見てください! とアピールしてるみたいで恥ずかしい。けど食べなかったら食べなかったで、いつも咲夜さんの思い通りにいくとは限りませんよ。と抵抗するみたいで、具合が悪い。
あぁ、どうしてこう咲夜さんは意地悪なんだろう! どっちを選んでも結局は……。
私はフォークを握り締めると、黙ってケーキを見つめた後、勢い良く突き刺した。
大きめに切って口に入れると、とろりとした甘さが広がった。咀嚼しながらちらりと咲夜さんの表情を窺うと、黙って私を眺めていた咲夜さんは満足げに微笑んだ。
「私の分も、食べるでしょ?」
「……いただきます」
「冗談よ」
「うぅ……」
可笑しそうな表情で、ばっさり切り捨てられた。
分かってましたけどね。半分冗談だってことは分かってましたけど、もう半分は結構本気だってことも分かってましたからね。どうせここで食べていなかったら、その笑顔は消えていたんでしょう? 何か、良い度胸ね、っていう展開に突入していたんでしょう? 口には出しませんけど。
「どうしてそう意地悪なんですか? 咲夜さんは」
「うーん。愛情表現?」
「そんなさらりと。もっと優しくしてください」
「……優しくして欲しいの?」
皿のふちに置いていた手に手を置かれ、指先でなぞられた。再び胸が高鳴る。そのまま上目遣いで見つめられて、動けなくなった。ざわざわする胸が苦しくて辛い。けど、身体が硬直して動かない。あぁ、やっぱり今度、二人用のテーブルを買ってこよう。この距離で咲夜さんの視線を受け止めるのは、毒だ。どこか誘うような意味深な視線を受け止めるのが辛い。目を逸らしたいのに逸らせない。
「私は……良い意味で優しくして欲しいんです」
「悪い意味の優しさって何よ」
「それは、その……」
口ごもると、くすくす笑われた。悪戯が成功した子供のように、少し得意そうな笑顔。
恥ずかしくて手を引っ込めようとすると、深追いはされず咲夜さんも手を引いた。触れられた手の甲をさすりながら返す言葉を捜したけれど、下手なことを言ったらまた何か言い返されそうな気がして、誤魔化すようにアイスティーを飲んだ。
「あ。そうだ。忘れないうちにこれ渡しとくわね」
私の葛藤などおかまいなしに、咲夜さんは思い出したようにエプロンのポケットから小さな手帳を取り出した。差し出された手帳を受け取って、ぱらぱらと捲った。流麗な文字がびっしり書き込まれている。
「……レシピ、ですか?」
「そう。ケーキのね。それ、アリスに渡してくれる?」
「え? それはまたどうして」
「前にアリスが紅魔館に来たときに、少し立ち話してね。お菓子作りの話になって、少しレシピを教えて欲しいって言われたのよ。代わりに私も教えてもらう予定なんだけど」
「へぇー。すごく細かく書いてありますね。これ」
几帳面な字で事細かに書かれているレシピは、どこか薬の調合を思わせるような正確さだった。中途半端な表記は一切ない。さすがだなぁ、と感心してしまう。これだけ正確に作られているからこそ、思わず笑顔になるような美味しいお菓子や料理が作れるんだろう。こうして手順を追ってみると、いかに手間がかかっているのかが分かった。
「えぇ。半端なことは書きたくないじゃない? でも、アリスの家にある調理器具とか、どのくらい揃ってるのかが分からないのよね。うちはお嬢様が投資してくれるから、結構、良いのが揃ってるんだけど」
「あぁ、咲夜さん新しいもの好きですもんねぇ」
思わずあはは、と乾いた笑いが零れた。
お嬢様から頂いた軍資金を元に、毎月のように人里の金物屋に行っては新しい器具を物色する昨夜さん。二人で出かけたくて、私もここぞとばかりに荷物持ちという名目でついて行くんだけど、店に入る前から目を爛々と輝かせているので、私のことはあまり見えていないに違いない。それでも態度は普段どおりで、それにだまされて安心して店内を見回っていると、いつの間にか高級な器具や、何に使うのか分からない器具を購入しているので油断ならない。慌てて阻止するけど、咲夜さんの機嫌を損ねた代償は重い。阻止されたときの咲夜さんの表情と言ったら、自分が妖怪だってことも忘れるくらい恐ろしい。
まぁ、私もついて行かなかれば良いのかもしれないけれど、子供のように目をキラキラ輝かせて品物を眺める咲夜さんや、良い買い物をして満足そうに微笑む咲夜さんを眺めるのは楽しいので、機嫌を損ねて痛い目を見ても、翌月にはまたこりずについて行ってしまう。それに、不用意に高い器具を買ってきて、お嬢様に小言をくらう咲夜さんなんて見たくない。
「そうだ。私、今日アリスの家に行ったとき、どんな調理器具があるか確認して来ましょうか?」
「そうねぇ、でも私が直接見に行ったほうが良いと思うのよね。今度お邪魔しようかしら。ついでに一緒にお菓子を作っても良いし、そうアリスに伝えておいて」
「え……と、はい」
「何?」
「あ、いえ」
驚いた。咲夜さんが誰かの家に自分から行こうとするなんて初めてだ。私が誰かの家に遊びに行くときについて来ることはあったけど、自分から行くと言い出すなんて……。迎えることは得意だけれど、迎えられることは苦手な人なのに。
喜ばしい変化と思いつつも、ちくりと胸が痛んだ。やっぱり一緒に料理ができる人のほうが良いのかな。でも、私には庭師という仕事があるから、それを完璧にこなして、咲夜さんや館の皆やお客様に綺麗な花を見せられたらって思っているんだけど。私は私のあるべき場所で、頑張っているんだけどな……。
「何か不都合でもあるの?」
「いえ、ありませんよ」
「そう? あぁ、安心して。お土産のケーキ、持って帰って来るから」
「本当ですか? ありがとうございます」
「……変な顔」
私が笑みを浮かべた途端に、咲夜さんの眉根が寄った。
まずい。精一杯笑ったつもりなのに、失敗してしまったようだ。
「貴女って、いつも自然に笑うから、作ってるのかどうか、すぐに分かるのよね」
「すみません……」
「私がアリスの家に行くのは嫌なの?」
「嫌と言いますか……。一緒に行きませんか?」
「え?」
咲夜さんの目が一瞬まん丸になって、それから納得したように細められた。
「ねぇ、それって、焼きもち焼いてるってことで良いのかしら?」
「え! いや、焼いてない……こともない、と言うか、焼いてるような気も……」
「ふぅん。ちなみにどっちに焼いてるの? 私? アリス?」
「ど、どっちもです!」
「まったく、素直じゃないわねぇ……」
くすくす笑われて、頬が熱くなった。「まぁ良いわ。今度、一緒に行きましょ」と笑い混じりに言われて、ほっとしてしまった自分が悔しい。素直じゃないなんて、咲夜さんには言われたくない。でも良かった。別に咲夜さんとアリスの仲を疑うわけではないけど、二人きりになられるのは何となく嫌だ。
ひょっとしたら咲夜さんも、こんな想いから初めの頃は私がアリスの家に行くのを嫌がったのかな……。そう思うと、悪いことをしていたかもしれない。他人の家に遊びに行っておきながら、咲夜さんが行こうとしたら傷つくなんて、どれだけ自分本位なんだ、私は。心を広く持たないと駄目じゃない。
「あの、咲夜さん。帰ってきたら、今度は私が咲夜さんの部屋に遊びに行きますね」
「良いけど、他の女の香りを漂わせたままで、私のところに来るつもりなの?」
「え? えぇーと……? じゃあシャワーを浴びてからでも……」
「うんうん、そうして。そうしたら美味しく頂くわ。私のお茶菓子は、貴女で」
「えっ!? な、ちょっと咲夜さん、何言ってるんですか! 暑さで頭をやられたんですか?」
「酷いわねぇ。そんなに怒らなくてもいいじゃない」
「もう、今は昼間ですよ!」
「じゃあ、夜なら良いのかって話だけど……時間だわ。私はそろそろ戻るわね」
私の激しい剣幕も何のその。咲夜さんはアイスティーを一気に飲みほすと席を立った。
じろりと睨みつけると、満足げな表情を浮かべてこめかみ辺りにキスされた。そんな咲夜さんに、私は怒ってるんですよ! と言いたい。でも言ったら、じゃあ何でキスを……とやり返されるので言わない。
「ケーキ、私の分も食べといて」
「さっき、冗談だって」
「残したいなら、それでも良いけど」
「残すだなんて……」
口ごもると「それじゃあ後片付けもよろしくね」と咲夜さんは踵を返し、颯爽とドアへ向かった。
これは最初から自分で食べる気なかったな……と綺麗に盛りつけられた手付かずのケーキをまじまじと眺めた。残すなんて、出来るわけがない。見たまんまの、この多量で濃厚な愛情が詰まったケーキを。
「あ! そうだ。美鈴」
「……何です?」
まだ何かあるのかと少し疲れた思いで咲夜さんを見やると、振り返った咲夜さんは少し改まった表情をしていた。あの、私が大好きな、時折見せる真面目で格好良い表情だ。
「そのワンピース、似合ってる」
「え……っ」
「それじゃあね」
突然の告白を受けて思考が止まっている間に、ドアが閉められた。何という不意打ち。どうしてこのタイミングでそんなこと言うんだろう。ここに来たときすぐに言ってくれれば、素直に喜べたのに、今は色んな感情がごちゃごちゃしていて素直に喜べない。いや、嬉しい。嬉しいけど、悔しい。
「……本当に咲夜さんは」
はぁ、と深いため息をついて、ごくごくアイスティーを飲んだ。それから黙々とケーキを食べ始める。甘い苦行は苦行と言えるのだろうか? と訳の分からない疑問が頭をよぎった。
こうなったら早く食べて、早く消化して、アリスの手料理を美味しく頂こう!
でも、悔しいけど美味しい。咲夜さんのケーキはすごく美味しい。味わって食べたくなる。あぁ、もう! 私は一体何をしてるんだろう。何でこんな目にあったんだっけ? 貴重な休みに、優雅なティータイムを楽しもうとしていただけなのになぁ……。
これはアリスに愚痴を聞いてもらわなきゃ! と思うも、これじゃまた惚気って言われるな、と今日何度目かのため息をつきながら思った。ついたため息まで、甘い気がした。
3ボスは苦労人、なんだかこの話を読んでて、その言葉を思い出してしまった。
ごちそうさまでしたw
咲夜さん瀟洒すぎるんだぜ。