その日は朝からどきどきしていた。門番の仕事に身が入らないくらいに。
梅雨が開けて、もうすぐ夏に差し掛かろうとしているのに、私の頭は春の陽気のようにぽかぽかと浮ついている。風に吹かれる満開の桜を真下から眺めたときのようなぽおっとした高揚感に、温かなため息を零す。このままずっと味わっていたいような、今すぐ解放されたいような、どきどきそわそわとした待ち時間。まだかな。そろそろかな? と時折門の内側を気にしながらも、私は門に背を向けて、目の前に広がる霧の湖を眺めていた。出来ることならぽんと肩を叩かれて、期待に胸を膨らませながら振り返りたい。突然叩かれて驚きながらも、嬉しさを堪えて満面の笑みで迎えたい。なのに、時折後ろを確認してしまうのは、本当は一刻も早く会いたいから。でも、もう少しくらいなら、こうして待っていても良いかもしれない。珍しく湖の霧が晴れて、青空と白雲が水面に映り込んで綺麗で見ていて飽きないし、待ち切れない思いを抑えて、淑女のように澄ました顔で行儀良く待っているのも楽しい。いや、本当は今すぐ会いたいけれど、会ったら頭にお花がぽんぽん咲きかねない勢いだけれど、でもやっぱりもう少しだけこの時間を楽しみたい気もする。
詰まるところ、私は今とても胸が高鳴っていて気持ちがふわふわしていて何が何だか分からないくらい幸せなのだ。何て言ったって、これから咲夜さんと二人でピクニックに出かけるんだから。と言っても、前から予定していたことではなく、今日の朝一番にお嬢様に二人で呼び出されて、「今日は特に予定もないから、午後は適当に休んで良いわよ」と言われて急遽決まった。突然のことに驚き、戸惑ったけれど、二人同時に休める機会もそうないので、二人で深々と一礼をしてお嬢様のお言葉に甘えることにした。
今日は朝から快晴で、しかも爽やかな風まで吹いている。吸血鬼であるお嬢様にとっては、あまり良い天気とは言えないのかもしれないけれど、私や咲夜さんにとっては絶好の行楽日和だ。そんな日に、午後まるまる休めるなんて、とても贅沢に感じる。全く思ってもみなかったことだったし、何より咲夜さんと一緒に休めるので何倍も嬉しい。何故お嬢様が二人一遍に休みをくれたのか少し気になったけれど、万一、咲夜さんとの関係を知られていたら……、と思うと、どきどきして、あわあわして聞けなかった。
それにしても、朝からずっとふわふわしっぱなしの頭がぐるぐる回ってこんがらがって、どうしようもない。著しく判断力に欠けた状態だけれど、嫌な感覚ではない。持て余した感情は私の思考回路を狂わす甘いお酒みたいなもので、私はその強くて口当たりの良いお酒を浴びるように飲んで浸って、思いっきり酔っぱらっているのだ、きっと。堪え切れない衝動からくるりと門を振り返るのも、これで何度目になるだろう。振り返って咲夜さんの姿が見えなくて、ほっとしてがっかりするのは何度目になるだろう。反復運動のように、私はさっきから同じ動きを繰り返し、同じことを考えている。咲夜さんの姿を探しながら咲夜さんを想っている。
「……はぁーもう無理だ。無理。無理過ぎる」
堪えきれなくなってわーっと両手を振り上げた。行儀良く姿勢を正して立っていたけれど、身も心もそわそわし過ぎてどうしようもない。せっかくお嬢様みたいな上品な雰囲気で待っていようと思ったのに、身体が勝手に動いてしまう。無意味にストレッチをしてしまう自分が悲しい。何で私は待ち合わせ場所で勢い良く身体の曲げ伸ばしなんかしてるんだろう。確かに気は紛れるけれどこれじゃ門番の私が不審者だ。
「……あー萎えるわ。哀しいくらい」
「うひゃぁあ!」
ほっ、と身体を横に伸ばし切ったと同時に声をかけられて、変な声を上げてしまった。全身がぶわっと総毛立つ。途端にバランスを崩して、地面に膝を突きへたり込んだ。心臓がどきどきどきどき、物凄いことになっている。
「まったく、色気の欠片もないわね。……らしいと言うか、何と言うか」
頭上から、ため息混じりの声が聞こえてきた。胸を抑えながら見上げると、眉根を寄せて呆れ切った表情を浮かべる咲夜さんと目が合った。
「咲夜さん。びっくりしたじゃないですかぁ……」
「びっくりしたじゃないわよ。こっちは脱力したわよ。ねぇ、何で体操なんかしてるわけ? せっかく、ごめん。待った? とか、だーれだ! とか、してあげようと思ってたのに。白けちゃったわ」
「え! 本当ですか? じゃあもう一回! 今度はきちんと待ってますから」
「嫌」
「そんなぁ……」
取りつく島もなく、表情一つ変えずにぴしゃりと言い切られてしまった。……あぁ馬鹿! 私の馬鹿! いつも完璧で瀟洒な咲夜さんが、そんなベタなことをしてくれる機会なんて滅多にないのに、せっかくの機会をストレッチなんかで失うなんて間抜け過ぎる。だーれだ♪ とか、すっごくしてもらいたかったな。まぁ、そんな可愛らしいことをする咲夜さんは、とても想像出来ないけれど……。
「残念だけど、諦めなさい。……ほら」
さして残念そうでもなくそう言うと、咲夜さんはすっと手を差し出してきた。
「え?」
「鈍いわね。いつまで地面に座ってるつもり?」
「あ! ありがとうございます」
慌てて差し伸べられた手に手を重ねると、ぐいっと引っ張り上げられた。けれど、立ち上がった後も離れず、掴まれたまま。私から離すのも変だし、不思議に思って咲夜さんの顔を窺うと、咲夜さんはふっと表情を緩めて、掴んだ手のひらを親指でなぞった。
「嫌?」
「え? あ、嫌じゃないですけど……」
「じゃあこのままで」
「え? わ、わ!」
いきなりふわりと舞い上がった咲夜さんに引っ張られて、慌てて私も地を蹴った。
「今日はこのままで行きましょう」
「え? でも……」
「嫌?」
「い、嫌じゃないですけど」
「じゃあ良いじゃない」
咲夜さんに手を引かれて空を飛ぶ。こんなこと滅多になくて、どきどきする。手のひらに汗が滲んだらどうしよう。誰かに見られても良いのかな? 私はあまり気にしないけれど咲夜さんも大丈夫なのかな。ちらりと前を飛ぶ咲夜さんを見つめると、右手に持った大きなバスケットが目に入った。
「あ、咲夜さん。そのバスケット持ちますよ」
「大丈夫よ。別に。……あ、それより館の昼食作るついでに作ったから、お弁当は簡単なサンドイッチだけなんだけど、良かった?」
「全然構いませんよ。咲夜さんの作った物は何でも美味しいですもん」
「そう。それなら良かったわ」
「……やっぱり、そのバスケット私が持ちますよ」
「重くないし、大丈夫」
「そうですか……」
むぅ……と私は黙り込んだ。忙しい中、お弁当を用意してもらったので、せめてそれくらいはと思ったのに、やっぱり駄目だった。取りつく島もない。でも食い下がりたくはない。何か良い手はないだろうか。
「……あの、でもですね。咲夜さん」
「何?」
再びちらりと振り返った咲夜さんは、どこか愉しそうな目をしていた。それは私が苦手とする表情だ。何だか気恥ずかしくなって、目を逸らしたくなる。それを知っていて咲夜さんは私をからかう。
「あの、もしもですよ? 今妖怪とか敵が襲ってきたらですね、両手が塞がってたら咲夜さんはとっさに応戦出来ないじゃないですか。だから私が持ちますよ」
「ふぅん。それは私に戦えって言ってるの?」
「……だって私、咲夜さんに守ってもらいたいですもん」
これでどうだ。と少し上目遣いで控えめに、けれどはっきり答えると、一瞬咲夜さんの表情が固まり、直後に思い切り噴き出された。分かってた。分かっていた反応だったけれど恥ずかしくて顔が熱くなる。本当はこんな恥ずかしい台詞私だって言いたくなかった。
「あはは、良いわねそれ。はいはい、良いわよ。そういうことなら守ってあげるから……ふふ」
「……ありがとうございます」
思わず棒読みになってしまうのはしょうがない。咲夜さんが笑いを堪えながらバスケットを差し出してきたので、空いているほうの手で受け取った。良かった。これでやっぱり持たなくて良いわよとかもっと何か言うことはないのとか言われたら、涙目になるところだった。
「美鈴のね、そういうところが好きよ。私」
「それはどうもありがとうございます」
「そう拗ねないでよ」
「拗ねてなんかいません」
「ふぅん」
咲夜さんは可笑しそうに目を細めながらも、それ以上は何も言わず再び飛び始めた。手を引かれながら気付かれないようにそっと息を吐く。取り敢えずこれ以上の深追いはないらしい。目の前の咲夜さんから視線を外すと、新緑樹と光を反射する湖が目に入った。上を向けば、青空と雲と太陽。太陽は何故か眺め過ぎるとくしゃみが出るので、湖に視線を戻した。きらきら白く光を弾いて、空を映しこんでいる。
「咲夜さん、見てください。湖が綺麗ですよ」
「……あぁ、本当ね」
「滅多にないんですよ。霧が晴れるの。今日は特別ですよ」
「そうね。氷精がどこかに遊びに行っているのかもしれないわね」
「私たちと一緒ですね」
「えぇ」
えぇ、と言われて、何だか凄く嬉しかった。咲夜さんとこれから二人だけで遊びに行くんだ、っていう実感が、じわじわ湧き上がってきた。咲夜さんと二人っきりになれる機会は紅魔館にいてもあるけれど、二人で出かけるということにはやっぱり特別な価値がある。しばしほわほわと喜びを噛みしめていると、チッ! と大きな舌打ちが聞こえたので、思わずびくっと身体が跳ね上がった。
「さ、咲夜さん?」
「あぁ、ごめん。ったく、スルーしようかしら……でも向こうのほうが速いし、時を止めるのも面倒ね」
「え? え」
一体何が? と思う間もなく、聞きなれた声が前方から微かに聞こえてきた。見る見るうちに近付いてくる。――あっ、と思って手を離そうとすると、手のひらに力を込められ、ぐっと引き寄せられた。
「良いのよ」
「咲夜さん……」
「――……あーほらやっぱりな、咲夜と美鈴発見!」
「――こんの馬鹿魔理沙! 速いって言ってるでしょ!」
光のごとく猛スピードで飛んできた魔理沙は、箒を持ち上げるようにして急ブレーキをかけ、私たちの間横で止まった。後ろに腰かけていたアリスは、悪態を吐きながら必死に魔理沙にしがみついている。
「……あー、面倒臭いのに見つかったわ。何、何か紅魔館に用でもあるの?」
「何だよ。そういう言い方しなくたって良いじゃんか。アリスが図書館行って本借りたいって言うから、こうして乗っけてきたんだ」
「ふーん、そう。まぁ、本を借りるだけなら特に問題ないわね。じゃ」
「あ、おいちょっと待てって」
話を早々に切り上げて行こうとする咲夜さんの目の前に、魔理沙はすっと回り込んだ。進路を塞がれて、咲夜さんが小さく舌打ちする音が聞こえた。まずい。まさか本当に戦うことにでもなったらどうしよう。お互いぼろぼろになるのは免れない。ちょっと、いやかなり嫌だ。せっかく二人きりで出かけるのに……。
「何?」
「そうカリカリするなよ。何、お前たちこれからデート? 手繋いでるけど」
「魔理沙、あんた少しは言葉を選んだらどう?」
後ろでぼさぼさになった髪を手櫛で直しながらアリスが呆れ混じりに窘めた。
「そうよ。だから邪魔しないで欲しいわね」
「へぇ、そうなんだ。そっかそっか……。良かったな。美鈴」
「え! あぁ、うん。嬉しいよ」
にかっと満面の笑みで言われて、つられて私も表情を緩めた。何だか魔理沙の笑顔には、不思議と人を笑顔にさせる力があるなぁ、と思っていると、咲夜さんに手を引っ張られた。
「泥棒魔法使い。今話してるのは私でしょ?」
「おーおー、相変わらず独占欲がお強いことで。これくらいで怒るなよ。今日はさ、咲夜にちょっとしたお土産を持って来てるんだよ」
そう言うと魔理沙は帽子を取って中から巾着袋を取り出し、咲夜さんに差し出した。
「何よこれ」
愛想の欠片もなく、不機嫌そうな表情をしながらも、咲夜さんは包みを受け取った。こんな表情、お嬢様はおろか私の前でだって見せたことはない。そう思うと、魔理沙はやっぱり人の表情を変える天才な気がする。
「んー、何か怪しそうな薬草。効果は不明。私の専門茸だからさ、良く分かんないんだけど、魔法使いの直感が何か怪しそうなものをビビッ! とキャッチしたわけ。前に咲夜さ、魔法の森で面白そうな草とか葉っぱとか見かけたらちょうだいって言ってたじゃん。だから持って来たんだよ」
「あぁ、そんなこと言ったわね。そうそう、そうだった。何これ、もらっちゃって良いの? 何か結構、ごっそり詰まってるんだけど。しかもちゃんと乾燥させてあるし」
「魔法の研究で茸乾燥させたついでだよ。どうせ茶葉として使うんだから好都合だろ?」
「あら、ふふ、分かってるじゃない。礼を言うわ」
突然、ころっと表情を変えて、嬉々とした笑みを浮かべる咲夜さんを見て、私は少し恐ろしくなった。好奇心からか、目が爛々と輝いている。そんな危険なものをもらってどうするつもりなんだろう。何となく想像はつくけれど、怖いからあまり考えたくない。ちらりとアリスの表情を窺うと、呆れ切った目をして二人を見ていた。その表情になるのは凄く分かる。
「あぁ、で、その礼なんだけどさ……」
「分かってるわよ。図書館でしょ?」
「そうそう。一回見逃しってことで」
「一回だけよ。……あ、その日はきちんと門から入ってね」
「了解。後、効果分かったら教えてくれよな」
「良いわよ。こういうのって、自分で効果を検証していく過程が楽しいのよねぇ」
「自分でとか言いながら、どうやって検証していくんだか」
ニヤリと人の悪い笑みを浮かべる二人を見て私も閉口してしまった。若干引き気味になりながら二人のやり取りを眺めていると、アリスに、美鈴、美鈴、と声を掛けられた。
「そういえば頼まれてた夏物のワンピースが仕上がったから、今度取りに来てよ」
「本当に? ありがとう! じゃあ、花をお土産に持ってくね。何かリクエストある?」
「そうね。撫子があったら欲しいかな」
「撫子なら育ててるからあるよ。じゃあそれをメインに夏の花適当に合わせて持ってくね」
「ありがとう。楽しみにしてるわ」
「――ちょっと待った! アリス、それどういうことだよ。私が破れたエプロン直してくれって言っても悪態吐きながら嫌々直すくせに、ワンピースって何だよ?」
「美鈴! 花をあげるってどういうこと?」
「あーうるさいうるさい。あんたは勝手に戦って勝手に破いてくるんでしょうが」
「さ、咲夜さん。お嬢様に許可は頂いてますので……」
「私は許可してないじゃない」
「えぇー!?」
それはちょっと、いや、かなり俺様発言な気がする。けれど今の咲夜さんにそんなことを言ったら何を返されるか分からない。もっともらしいことをつらつら並べたてられ、上手く丸め込まれそうな気がする。どうしたものかとアリスを見やると、魔理沙をあしらう合間に、目で小さく合図された。
「……魔理沙、あんまりぐだぐだ言ってると、私降りるわよ」
「だってさ、いくら私だってさぁ、ヘコむって言うか、優先順位みたいなのがあるじゃんか」
「ぐちぐち言わなくてもあんたの優先順位は一番高いわよ。あんたの服だってしっかり作ってるわ」
「え! 本当か?」
「本当。嘘吐いたって仕方ないでしょう? 分かったら早く紅魔館連れてってよ」
「あぁ、うん。そういうことなら、全速力で行かせてもらうぜ」
「ちょっ、安全運転で良いってば。……って、あぁもう!」
アリスの言葉を待たず魔理沙は猛スピードで飛びだした。……じゃーねー、めーりーん! こんど……というところでアリスの声は完全に聞こえなくなってしまった。一瞬の出来事にしばし呆けていると、隣からぼそりと「私はあんなんじゃ納得しないわよ」と低い声が聞こえてきて思わず「うひゃっ!」と本日二度目の変な声を出してしまった。
「さ、咲夜さん。怖いですよー……」
「悪いけど、私は魔理沙ほど単純じゃないから」
「うぅ……」
いっそ、魔理沙くらい切り替えが早いほうがありがたいんだけれど、やっぱりそんなことは言えない。何だか却って状況が悪化してしまったような気がする。助け船を出してくれる人はもういない。
「花くらい良いじゃないですか。駄目ですか?」
「花くらいって何よ。丹精込めて育ててるんでしょ。そんな言い方ないんじゃない?」
「す、すみません」
「……私はね、貴女がいつも一所懸命育ててるのを、一番近くで見てるつもりなの。だから……あんなに軽々しく花をあげるって言うのが、何だか、少し嫌だったのよ。……ごめん」
謝罪の言葉に若干俯き加減だった顔を上げると「だからそんな顔をしないで」とばつが悪そうに言われた。
「あぁ、駄目ね。やっぱり私、美鈴に嫌な思いばかりさせているわ」
「そんなことありませんよ」
「良いのよ。気を遣わなくても」
「咲夜さん……」
重苦しい表情を浮かべる咲夜さんに何か声をかけてあげられたら良いのに、上手い言葉が見つからない。焦れば焦るほど陳腐な言葉しか浮かんでこない。何で私はこう頭が働かないんだろう……。咲夜さんは私が望む様々な言葉をくれるのに、私は上手く言葉に出来ない。だけど気持ちは伝えたい。やっぱり私は態度で示すことしか出来ないみたいだ。ふわりと咲夜さんの前に回り込むと、何も言わずにそっと肩に寄り掛かった。寄りかかった途端、大胆なことをしているような気がしてきて緊張が走った。
「……咲夜さん。あの、私、咲夜さんが一番好きです」
耳元で、咲夜さんの息を飲む音が聞こえた。
「だから、あの、私……、花じゃなくて、私、は、咲夜さんの、ものなので、だから、あの……」
駄目だ。これ以上は言えない。だから、花をあげたとしても私自身はずっと咲夜さんの傍にいますから。と伝えたかったのに心が折れてしまった。でも言いたかったことは言えた。私が咲夜さんのものだってこと。自分がとても恥ずかしいことを言っている自覚はあるけれど、本当のことだから仕方ない。だって私は咲夜さんが思っている以上にずっと咲夜さんのことが好きだ。だから仕方ない。これで良かったんだ……と何度も自分に言い聞かせながら身を固くしていると、さらりと髪を撫でられた。
「……貴女にバスケット持ってもらってて良かったわ」
「え……?」
「可愛い」
片腕で抱き寄せられ、耳元で情感たっぷりに囁かれて今度は全身が硬直した。どきどきどきどき心臓が壊れたように鳴り響いている。呼吸が上手く出来ない。今すぐにでも咲夜さんから離れて乱れた心を落ち着けたいのに、動けない。私がこういう声に弱いって、咲夜さんは絶対に気付いている。
「何か、無性に食べちゃいたくなるわね」
「……ピクニックに行く前に死ねません」
「そういう意味じゃ……うーん、ちょっとあるかもしれないけど、違うわよ」
「え、ちょっとあるんですか?」
「うーん……美鈴がもう一人いたら片方食べちゃいたいけど、一人しかいないからそんなことしないわよ。……代償行動もしてるしね」
「代償行為?」
「例えば、こうやって二人でくっついてることとか」
そういえば咲夜さんにはよく抱きしめられているような気がする。私は咲夜さんに抱きしめられると、どきどきしたり緊張したり安心したり幸せだったりする。だけど咲夜さんは、少し違うのかもしれない。
「くっつくだけじゃ足りないんですか?」
「……貴女って、たまに変に地雷踏んでくるわよね。まぁぶっちゃけ足りないわよ。もっともっと近付きたい」
「それは、あの……いわゆる……」
「多分、いわゆるやつよ」
「そうですか……」
それきり言葉が続かない。咲夜さんといわゆることをするというのは、いくら鈍感と言われる私だって全く考えていなかったわけではない。だけどいざそう言われるとどういう反応をして良いか分からない。今こうしているだけでもどきどきして仕方ないのに、それ以上のことをされたら一体どんな状態になるか分からない。それが怖いし、何より恥ずかしい。もちろん興味がないわけではないけれど……。
「……自分で言っておいて何恥じらってるの?」
「は、恥じらってなんか……。でも、ほら、今はピクニックに行かないと……」
「へぇ、うやむやにして終わるのね」
「そういうわけじゃ……」
「私じゃ嫌なの?」
「嫌なわけないじゃないですか」
「そう。じゃあ、近いうちにお部屋にお伺いしますわ」
「えぇ!?」
「もちろん良いわよね?」
良いわよね? と聞いているけれど私に選択権がないことは明白だ。しばし無言でいると、答えを促すように繋いだ指先を撫でられ、「良いわよね?」と優しく囁くように問われた。こんなやりとり、真昼間の青空の下でするようなことじゃない……と頭の片隅で思いながら、小さく頷いた。
「ありがと」
頬に一つ口付けを落とすと、咲夜さんは私から離れた。何だか晴れやかな表情をしているように見える。空の青を背にしている咲夜さんは、空に溶け込むように爽やかで涼しげで、少し眩しい。吸血鬼の従者という立場上、夜空が似合う人だと思っていたけれど、青空の下の咲夜さんも素敵だ。
「何ぼーっとしてるの?」
「ぼーっとしてましたか?」
「何? 私に見惚れてるとか?」
「……当たらずとも遠からず、です」
「本当に?」
面白そうに微笑むと咲夜さんは再びふわりと飛び始め、私も咲夜さんに手を引かれるまま飛び始めた。繋いだ手のひらに少し力を込めると、同じように、いやそれ以上に力強く握り返されて胸が熱くなった。
咲夜さんに導かれ、のんびりと空を飛ぶことしばらくして、眼下に木立に囲まれた野原が見えてきた。黄色や白や桃色の淡い色合いの野花が、野草に混じって可憐に咲き乱れている。作られたものではない、自然のままの美しさに目を奪われた。
「……綺麗」
「前に一人で出たときに見つけてね。下りるわよ」
「はい」
咲夜さんは野原のちょうど真ん中辺りを目指してゆっくりと下り始め、私は上に差し出された手に手を重ねるようにして下りた。エスコートされてるんだな、と思うと嬉しくてどきどきした。お嬢様気分っていうのは、こういうものなのかもしれない。それにしても咲夜さんは何でいつもこう、私の喜びのツボを的確に突いてくるんだろう。こんなに綺麗な野原に連れて来てくれたのもそうだ。喜ばないはずがない。着地すると、さくっと草を踏む柔らかな感触がした。思わず頬が緩む。
「……咲夜さん、綺麗なところですね。凄く気持ち良いです」
「でしょう? 気に入ってくれたなら私も嬉しいわ」
そう言うと、咲夜さんは私の手をすっと離した。あっ、と思う間もなく、咲夜さんは私に背を向けると、何かを探すようにきょろきょろ辺りの花を物色し始めた。初めはあんなに恥ずかしかったのに、手を離された途端寂しくなるなんて、私は何て現金なんだろう。……でも、そうさせたのは咲夜さんだ、と意味もなく責任転嫁してみる。
「使う花は、やっぱり白が良いかしらね。イメージ的に」
「使うって何にですか?」
少し、ほんの少しだけ口を尖らせて聞くと、咲夜さんは怪訝そうな顔で私を見た。
「何、覚えてないの。約束したでしょう。花冠作ってあげるって」
「えっ……」
思ってもみないことを言われてとっさに言葉が出てこなかった。頭が真っ白になって、次第に胸の奥のほうからじわじわと嬉しさが湧き上がってきた。それはもう際限なく溢れるくらいに。
「ちょっ、何泣きそうな顔してるのよ」
「違います。嬉しいんです。感極まってるんです」
「え、そこまで? まぁ、良いわ。花冠なんてすぐに作っちゃうから見てなさい」
咲夜さんは少し困ったように微笑むと、身体を曲げて白詰草を摘み始めた。
「そういえば、白詰草って、今の時期も咲いてるのよね」
「春になると咲くから春の花ってイメージがありますけど、夏頃まで咲くんですよ」
「そうなの。私、結構この花好きなのよ」
「私もです。可愛いし、幸せのシンボルですしね」
「えぇ、貴女に贈るのにふさわしい花よね」
「……」
これはどういう返事をすれば良いんだろう。正直、ひゃああぁと叫びながら野原を走り回りたいくらい嬉しいけれど、同意するのも何だか変だし……。戸惑いながらもありがとうございます。と小声で言った。
一緒になって白詰草を摘んで、両手いっぱい集めると、野原の外れにある木立の下に、バスケットから出したシートを敷いて座った。座るとすぐに、咲夜さんは器用に花冠を編み始めた。花と花の間に隙間が出来ないようにきっちりと綺麗に編まれていく様を、私はじっと見ていた。
「やっぱり咲夜さんは器用ですね」
「これくらい簡単よ」
編まれた白詰草は蔓のようにどんどん長さを増していく。途中、30センチほど編んだところで花がなくなりそうになって、私は近くの白詰草の群から摘んでくることにした。小さな群を作って白詰草は野原に点在している。その中から数本ずつ取り、また違う群の花を摘もうとすると、珍しいものが目に入った。
「――あ!」
「何、どうしたの? 虫にでもやられた!?」
「違いますよ」
過保護な母親のように心配そうな声を上げる咲夜さんに苦笑しながら花と一緒に摘み取ると、さくさく音を立てて小走りに咲夜さんのところへ戻った。確かに今足元で何か虫が跳ねたけど、私はそんなのまったく気にならない。見慣れているし、それだけ自然豊かなんだなって思う。まぁ、花を駄目にする害虫はちょっと苦手だけれど……。
「見てください。四葉を発見しました!」
「あ、珍しいわねぇ。私、本物見るのは初めてだわ」
「そうなんですか? じゃあ、これ咲夜さんにあげます」
「え? 良いわよそんな。悪いわよ。これこそ幸せのシンボルでしょ? 貴女が持ってなさい」
「私はこれから咲夜さんに幸せをもらう予定なのでいいです」
一息で言い切って咲夜さんに四葉を差し出すと、咲夜さんは一瞬呆けた後、くすくす笑い出した。
「……だって、さっき貴女にふさわしい花って咲夜さんが……」
「言った言った。もらうから、そんな拗ねた顔しないの」
頬が熱い。きっと私の顔は赤くなってしまっている。咲夜さんは私の手から四葉を抜き取ると、指先で弄びながら、しげしげと熱心に眺め始めた。咲夜さんは珍しい植物が好きだ。少し葉の大きさが歪なのが残念だけれど、四葉は四葉。咲夜さんに何か幸運を運んできてくれたら嬉しい。
「……でも私も十分幸せもらってるしねぇ」
「え?」
「何でもない。これ、しばらくグラスに生けたら、押し花にさせてもらうわね」
「はい、ぜひ! 私も子供の頃よく押し花にして、それから色紙に貼り付けて栞を作ったりしました」
「あぁ、良いわねそれ。うちは本を読むのにはこれ以上ないくらいの環境だから」
そう言うと咲夜さんは、エプロンのポケットから綺麗な淡い若草色のハンカチを取り出して四葉を包み、そっとしまった。さっき空で魔理沙から受け取った袋の中に入れるのかな、と思っていたから凄く嬉しい。大切にしてくれてるんだ、と思うと自然と笑顔になる。
「どうしたの? にこにこしちゃって」
「花冠が待ちきれないだけですよ」
「そうなの? じゃあ時を止めて作ろうかしらね」
「え! それは嫌です」
「冗談よ」
少し意地悪そうに笑うと、咲夜さんは再び熱心に花冠を編み始めた。すらりと伸びた白い綺麗な指先で一束一束綺麗に編み上げていく。メイドという仕事柄爪は短く切りそろえられていて何も塗られていないけれど、形は綺麗に整えられている。この綺麗な手でいつも触れられているんだ……と思うと、何だかよく分からないけれど、どきどきして、けれど目は離せなかった。
「これくらいで良いかしらね」
咲夜さんは編み上げた花を両手で持つと、私の頭で輪を作るようにして長さを確かめた。既に頭に輪がはまるくらいの十分な長さになっていた。
「これなら安定しそうですね」
「そうね。じゃあ、後は縛って終わり」
そう言うと、咲夜さんは余りの白詰草の茎を使ってしっかりと両端を結び、余分な茎を切って形を整え、花の向きまで調節し始めた。最後まで手を抜かないところはさすがだと思う。
「はい、出来た」
「わぁ、綺麗ですねぇ」
「我ながら良い出来だわ。今までで一番。じゃあ乗せるわよ」
丁寧に編み込まれた見事な作りの花冠を私に見せてくれてから、咲夜さんは股立ちになってそっと私の頭の上に花冠を乗せてくれた。思った以上にしっかりとした重みがある。言い表せないくらいに嬉しくて、笑いを通り越して泣きそうになった。花冠の形を頭で整えてくれてから再びシートに座った咲夜さんは、私をまじまじと見て照れくさそうに笑った。
「凄く似合ってる。可愛いわ」
「ありがとうございます。嬉しいです……」
「またそんな泣きそうな顔する……。大げさね」
「すみません……あ」
咲夜さんの指先が伸びてきて、目尻に浮かんだ涙を掬われた。伏目がちにおとなしくしていると、もう片方の涙も掬ってくれた。その涙を咲夜さんが舐め取ったような気がしたけれど、どういう反応をしたら良いのか分からないので、見なかったことにした。
「目的も果たせたし、そろそろお昼にする?」
「……あ、そうですね」
咲夜さんがバスケットを開けると、中には大きめのお弁当箱、水筒、カップ、ケースにしまわれたおしぼりが入っていた。お弁当箱の中には隙間なくサンドイッチがつめられ、卵とベーコンとレタス、ハムとチーズ、ツナとキュウリ、照り焼きチキン……などなど様々な種類のものが揃っていた。
「急に来ることになったから、大したもの用意出来なくて。昼食の片手間に作っちゃったしね」
「そんな、これのどこが片手間ですか! ありがとうございます。何だか私お腹すいてきちゃいました」
「ふふ。お昼はとっくに回ってるものね。どうぞ、食べて」
「頂きます」
おしぼりで手を拭き、少し迷ってから卵サンドを口に運んだ。とろりとした卵としゃきしゃきしたレタス、ベーコンのカリッとした香ばしさが堪らない。食べることが大好きな私にとって至福の瞬間だ。
「美味しいですー」
「それは良かった」
咲夜さんにアイスティーを入れてもらって飲みながら、二人でのんびりと昼食を取った。目の前では草花が風に吹かれてゆらゆら揺れて、周りの木立からは、ざぁっと葉の擦れる音が聞こえてくる。空を見上げれば、さっき飛んでいたときよりも大きさを増した雲が、ゆっくりと流れていく。雲は野原に大きな影を落とし、影は雲の流れと同じように野原をゆっくりと移動していく。
「静かね」
「そうですね」
音と言えば、風で草木が擦れる音と、時折鳥の鳴き声が聞こえるくらいだ。柔らかな風が頬をするりと撫でていく。風も以前より大分熱を帯び始め、今年の夏本番も、もうすぐ、といった感じだ。
「何だか落ち着くわ」
「たまにはこういうところでゆっくり休むのも良いですよね」
「たまに、じゃなくても来たいわね」
「あはは、じゃあ時間を合わしてまた来ましょうよ」
「そうね」
昼食を食べ終わると、言葉少なに二人で並んで野原を眺めた。心地良い沈黙。暖かく清々しい陽気に、隣には咲夜さん。何だか心が緩んでとろとろと眠気が込み上げてきた。あ、このままじゃ眠ってしまいそう……と思ったところで隣から欠伸を噛み殺した音がして、はっとして振り向いた。
「咲夜さん、眠いんですか?」
「うーん、少しね」
「眠っても良いですよ。今日は絶好のお昼寝日和です」
「貴女そう言っていつも昼寝してるわよね」
「うっ! ……咲夜さんに教育的指導をされたから、最近は気をつけてますよ」
「そんなこと言って、しばらくしたら懲りずにまたするくせに……まぁ、良いけど」
咲夜さんは一度大きく伸びをすると、シートの上に寝転がり、何の戸惑いもなく私の膝に頭を乗せた。当たり前のことをするような自然な仕草で私は何も反応出来なかった。落ち着く場所を探しているのか、頭をもぞもぞ動かす感触が服越しに太股に伝わってくる。
「……あの、咲夜さん?」
「だって眠っても良いって言ったじゃない」
「確かに言いましたけど……」
「嫌なの? あ、この位置しっくりくる」
「そ、そうですか。……それなら、まぁ、良いですけど。嫌じゃないですし……」
ただ少し驚いただけで、こういうのは別に嫌じゃない。嫌というより、むしろ好きかもしれない。
「ありがとう」
そう言って微笑むと咲夜さんは足を伸ばして真っ直ぐ空を仰いだ。つられて私も顔を上げた。木の枝の隙間から、青空と雲が見える。
「私、昔子供の頃、川の近くの岩の上に寝転がって、よく青空を眺めてました。それがまた気持ち良くて」
「気持ち良くて、そのまま寝ちゃうんでしょ?」
「そうなんです。……うーん、進歩してませんね。私」
「まぁ、そういうところが貴女らしくて良いんじゃない?」
「それって褒めてるんですか?」
「半分ね」
「うぅ……」
喜んで良いのか悪いのか分からない。分からないから何とも言えない表情になってしまう。黙り込むと咲夜さんは困ったように微笑んで、私の頬を軽くなぞった。
「また苛めちゃった。貴女って、何て言うかこう……自然体で素直だから、ついからかいたくなるのよね。……あ、これは褒めてるから」
「……そうですか」
最後の取って付けたような言葉が気になって少し素っ気なく言うと、咲夜さんは面白そうに笑った。
「何? お気に召さなかった」
「だって、それって単純ってことですよね?」
「違うわよ。そんなんじゃなくて、貴女が自然でいてくれるから、傍にいる私は凄く癒されるってことよ。楽でいられるって言うか。だからこうやって寝転がっていられるの」
「リラックス出来るってことですか?」
「そういうこと」
「そうですか。それなら嬉しいです」
日頃忙しい咲夜さんの癒しになれているのなら凄く嬉しい。
「あ、そうだ。これ」
咲夜さんは思いついたようにスカートのポケットから銀の懐中時計を取り出し、「はい」と差し出してきたので、両手で受け取った。繊細な模様が入った蓋をぱかりと開けると、針は14時半を指していた。
「今何時?」
「2時半を回ったところです」
「じゃあ、3時くらいに起こしてくれる?」
「それくらいで良いんですか? もっとゆっくりしても良いと思いますよ。せっかくの休みなんですし、時間を気にせずのんびりしても」
「それもそうだけど、貴女と過ごす時間もきちんと取りたいの。せっかくの休みだしね?」
「そうですか」
そう言われると何も言えない。
「それじゃよろしくね」
そう言うと咲夜さんはぐぐっと腕を上げて伸びをしてから、お腹の上で腕を重ねて目を閉じた。
「おやすみなさい。ゆっくり休んでください」
「ん。おやすみ」
それきり会話はなくなった。再び訪れた静寂。何とはなしに咲夜さんの寝顔を眺めてみた。横になり、目を閉じていても怜悧な印象は変わらない。隙がない感じがする。私とは大違いだ。でも、そんな咲夜さんが私の膝の上で寝ているのは気を許してくれているからで、その事実が堪らなく嬉しい。こうして付き合い始めた今も、咲夜さんは私の憧れであり続けていて、そんな人に甘えてもらえるのが嬉しい。
壊れ物を扱うように、手のひらの銀時計をそっと閉じて、両手で包んだ。微かに時を刻む音が聞こえる。大切な人の大切なものを預けてもらったという実感が胸に押し寄せてきて、満ち足りた気分になった。
頬を撫でる風に顔を上げれば、目の前では何も変わらず草花が風に吹かれて揺れている。鳥の鳴き声や草木の音が聞こえる。太陽の光が暖かく降り注ぎ、雲が色濃い影を落としている。腕を伸ばして、そっと花冠を撫でてから、意を決して咲夜さんの髪に触れ、頭を撫でた。柔らかな感触に胸がいっぱいになる。目を閉じたまま、咲夜さんは何も言わずされるがままになっていたので、そのまま撫で続けた。
さっきよりも表情が緩んだように見えたのは、私の気のせいだろうか……?
さくめーもマリアリも良いものだ。
貴方が、私が信仰する神か!
うー☆
にやにやが止まらなかった