雨に打たれる。
私の全てを洗い流してもらうために。貴女への想いを全て消すために。
綺麗に洗い流して、また愛せるように、歪んでしまった想いをリセットする。
雨粒が目に入っても閉じることなく、私が腕を振り上げたときの貴女のように目を見開いて。
どこで間違ってしまったんだろう。芽生えた想いの行き着く先を。
所詮、無理だったんだろうか。温かな想いを育むなんて。
力で相手を捩じ伏せようとした自分の暴力性にぞっとする。
生まれ持っての性質なのかもしれない。
他人を好きになって初めて気づいた。自分の加虐性に。暗く濁った部分に。
その暗い部分に目を凝らしてみても、霧のようにおぼろげで、混沌として、上手く掴めない。
自分では制御出来ない、黒く渦巻く支配欲を、為す術もなく持て余す。
持て余して、抱えきれなくなったときは、時を止めて、力の限り、思い切り叫ぶ。
床を踏み鳴らし、壁を蹴り、支配された空間で平常心を取り戻す。
こういうとき、現実世界に自分だけの世界を持っていて本当に良かったと思う。
空想の世界みたいに、誰にも見られることのない、無限に広がる私だけの世界を。
だけど、あのときは、その世界へ逃げ込む余裕さえ持てなかった。
すっかり余裕をなくして、熱い衝動に突き動かされるまま、美鈴に手を上げてしまった。
雨の日の庭園は、濃い土の匂いが立ち込めている。
雨に濡れた木々がいつもより青く色づいて見えて綺麗だ。
ぼおっと木偶のように立ち尽くした先に、鈴蘭の群が見える。
小さな白い花を咲かせた後、小さな種を零して、鈴蘭は毎年毎年増えていく。
その小さな群れは、少しずつ庭園の中で勢力を広げている。
近づいて、靴の爪先で意味もなくつついてみた。
美鈴に見られたら顔をしかめられるに違いない。
私も、私以外の誰かがこんなことをしていたら窘めるだろう。
身勝手だとは思うけど、私以外の誰かがこの庭を傷つけるのは許せない。
そういえば、身勝手なんて感情も、美鈴と付き合い始めて知った感情かもしれない。
今までは、身勝手になる必要なんてなかったから。
自分のためだけに身勝手になるパワーは私にはなかった。
美鈴を好きになって、私は今までにない力を手に入れた。
そして随分我儘になった。感情が理性を上回り暴走する感覚も、初めて知った。
感情が暴走し始めると、かあっと全身が熱くなって、衝動的に動いてしまう。
衝動的に動いている状態が本能に近いと言うのなら、私の本質はとんでもなく攻撃的だ。
凶暴で残虐で、獲物を狙う肉食獣のよう。出来るなら知りたくなかった私の本質。
例えば、そう、この目の前の鈴蘭のように、高潔で凛とした本質なら良かったのに……。
雨を含んで柔らかくなった土を踏みしめて、鈴蘭の前に立った。
小さな花を、その場にしゃがみ込んでじっと眺めた。ナチュラルな白が目に眩しい。
今度は指先で突いてみた。白い花についた小さな水滴がつるりと零れ落ちていく。
触れるだけなら、美鈴に注意されることもないだろう。
美鈴……。どうしよう。美鈴には、もう触れることは出来ないかもしれない。
唐突に、衝動的に手を上げてしまったことを、許してはもらえないだろう。
手のひらにはまだそのときの感触が残っている。ひりひりとした鋭い痛み。
無防備に打たれた頬は痛かっただろう。腫れていたらどうしよう。
白くて柔らかな頬を、力任せに叩いてしまった。
上手く言語化出来ない、でもどうしても伝えたい熱い想いを、手のひらに込めて。
……あぁ、もっと、頭を冷やさなきゃ。こんな雨じゃ足りない。
冷徹だの血が通ってないだの言われて、私自身そういうやつだと思ってたのに、凍りついた心の奥の、重く冷たい扉を開けてみたら、真っ赤なマグマが眠っていた。
流れ出して、どろどろと心を爛れさすマグマは、美鈴までも傷つける。
一度開けてしまった扉は完全には塞げない。
再び完全に塞がるとしたら、美鈴への想いが冷めたときだろう。
今のところそんな予定はないから、どうすることも出来ない。
上手く制御していくしかないけど、私には自信がない。
初めての感情に、私はまだ為す術なく戸惑っている。
ふと雨音に混じって、小さな水飛沫の音が聞こえた。
背後に控えめな存在感を感じる。振り返るまでもなく美鈴のものだと分かった。
もっとも、雨の日にこんなところでずぶ濡れになりながらしゃがみこんでいる人間の元へやって来るような酔狂な妖怪は、彼女くらいしかいないけど……。
「……美鈴?」
声をかけて良いのかどうか逡巡する気配を感じて、こちらから声をかけると「あっ」と戸惑った小さな声が零れた。
二人の間に静寂が訪れる。お互いに動けない。
もし、今振り返って、美鈴の頬が赤く腫れていたら、私はどうしたら良いのか分からない。
いきなり立ち上がって怯えられるのも嫌だ。だから私は立ち上がれない。
雨の音が絶えず鼓膜を打つ。現実逃避するかのようにしばし耳を傾けていると「すみません」と美鈴は消え入りそうな声で言った。
ぎゅっと眉が寄る。一体何に対して謝ったのか分からない。思わず立ち上がり、振り返ると、ぽん、と青い傘を開いた美鈴と目が合った。
「……あ」
美鈴の目に怯えが走る。そのことにショックを受ける余裕はなかった。
美鈴の、腫れた左頬に目が釘づけになる。青みがかった色に変色している。
力いっぱい叩くと、こうなるんだ……。
普段、相手を傷つけるときは銀のナイフを使うから知らなかった。
当たり前だけど、切りつけるのとは全然違う。
まるで大きな所有の証を刻み込んだような錯覚を受けたところで、はっと我に返った。
最低だ、私は。違うのに。美鈴を大切にしたいのに。
どうして暴力的な、加虐的な想いに捕らわれてしまうんだろう。
白い肌に広がった痛々しい痕は、私の醜い身勝手な想いの印なのに。
こんなはずじゃなかった。こんなふうに傷つけたいわけじゃなかったのに。
誰かを好きになれば、もっと温かな想いが育めると信じていたのに。
言語化出来ない想いが美鈴を傷つけた。どうして私はこうなんだろう……。
目を逸らさずじっと痣を見つめていたからか、美鈴はそっと俯いてさしていた傘で顔を隠した。
「……風邪、引きますから」
ぽつりとそう言って、美鈴は開いた傘を差し出した。少し腰が引けている。
怖いなら、近寄らなければ良いのに、本当に馬鹿だ。
無理して来なくたって良いのに。私みたいなやつ、放っておけば良いのに。
たとえ風邪を引いたって、自業自得って言葉で済ませれば良いのに。
「いらないわ。どうせもう濡れてるし」
「でも……、駄目です、やっぱり……」
「なら、そこに置いていって」
「……」
そこ、と地面を指差すと、美鈴は少し傘を上向けて黙り込んだ。
近寄りたくもないだろうし、こうするほうが良いだろう。本当は傘なんていらないけど、好意を無駄にする理由もない。ささなければ良いだけだし。それに早く美鈴を館の中に戻さないと、痣を作った上に風邪まで引かれたら、私はもうどうしたら良いのか分からない。
「……どうしたの? 早く置いていきなさい」
黙り込んだまま動かない美鈴を促すと、すん、と小さな音が聞こえた。
怪訝に思って見つめるも、再び淡いオレンジ色の傘に隠れてしまって、表情が窺えない。
そのうち青い傘がするりと手のひらから地面に滑り落ちた。
あ、と思う間もなく、オレンジ色の傘も地面に落ちた。
露わになった美鈴の顔は、悲しげに歪み、涙に濡れていた。思わず息を呑んだ。
「……私を嫌いになったんですか?」
「は……? 何言ってるの。傘をさしなさい。濡れるでしょ」
「嫌です。ずぶ濡れの人には言われたくないです」
「何子供みたいなこと言ってるのよ。早く傘をさしなさい」
「もう濡れちゃいましたから」
ああもう、と内心舌打ちした。
風邪を引かれたくないのに。怖がらせたくないのに。どうして上手くいかないの。
一歩前に踏み出した。ぱしゃりと水飛沫が上がる。
いい加減、額に張りついた前髪が邪魔で払った。びくっと美鈴が怯えた顔になる。
それに構わず近づいて傘を拾い、立ち竦む美鈴を傘の中へ入れた。
「館に戻りなさい」
「……」
「大丈夫。何もしないから。貴女が傘を受け取ったら、すぐに離れるから」
「……」
「これ以上怖がらせたくないの。だから、早く受け取って」
美鈴は傘を受け取らず突っ立ったまま、まじまじと私の顔を見つめた。
近づいたことで頬の痛々しさがよりはっきりと見える。
今すぐ頬に触れて、手当してあげたいけど、そんなことをする資格はない。
美鈴は泣き腫らした目を擦って、俯いた。
「突然、怖くなったり、優しくなったり……私には咲夜さんが分かりません」
「……ごめん。でも、両方私なの。不本意だけど、両方で私」
「私を嫌いになったわけじゃ、ないんですよね」
「嫌いになんてなるわけないでしょ。好きよ」
「じゃあ、何で、叩いたりなんか……」
「……貴女が、妖精たちと仲良さそうに話してたから」
「え……?」
「それ見た後で、二人きりになったとき、何かすごく気持ちが高ぶって、気づいたら……」
「それだけの、理由で……?」
「そうよ」
顔を上げて、美鈴は驚いたように目を見開いた。それから力が抜けたように大きく息をついた。
何とも言えず複雑そうな表情を浮かべる美鈴に、私も苦々しい表情になった。
今、きっと、彼女の中の美化された私の像が、がらがらと音を立てて崩れたことだろう。
「幻滅した?」
「いえ……。あの、でしたら……咲夜さん、一つお願いがあります」
「何?」
「そういう、気持ちが高ぶったときは」
そう前置きすると、美鈴は両手でそっと私の右手を取った。
突然触れられて身を固くしていると、美鈴は私の手を腫れた頬に当てて、軽く撫でた。
「こうして、触れてください」
「……」
真っ直ぐな目をして言われて、動けなくなった。
柔らかで温かな頬の感触が、手のひらに伝わってくる。
本当は触れる資格なんてないはずなのに……。胸がつまった。
どういう顔をして良いのか分からなくて、結局、顔をしかめることしか出来なかった。
「触れても良いの?」
「そうしてください」
「私こそ、貴女が分からないわ」
渋面のままそう言うと、美鈴はそっと笑った。
「痛いのは嫌いですけど、触れられるのは好きです」
「そう。……私も、叩くより、撫でるほうが好きよ」
「良かった」
そう言って、心底ほっとしたように笑った美鈴を見て、私もようやく肩の力を抜いた。
気を抜いた途端、額にべったり張りついた前髪や頬を伝う雨粒が気になりだして緩く頭を振ると、美鈴は、はっとした表情になって私の手を離し、身を寄せてきた。
「咲夜さんも入ってください」
「傍に寄って、大丈夫なの」
「最初は、確かに怖かったですけど、もう大丈夫です」
身を寄せてきた美鈴を濡らさないように気をつけながら、二人で一緒の傘に入った。
美鈴に触れられた手のひらをじっと眺めた後、今度は自分から腫れた頬に触れた。
痛まないようにそっと撫でると、美鈴は静かに目を閉じた。
「手当がしたいんだけど、良い?」
「はい。……優しくしてくださいね」
「任せて。心配しなくても、大丈夫よ」
そう言うと、美鈴の目尻から、一粒涙が零れた。
「……怖かったです」
「ごめん……」
静かに涙を流した美鈴の目尻に触れた。唇で触れると、すん、と鼻をすする音が聞こえた。
「本当にごめん」
もう一度、心からそう言って、美鈴の腰に手を回して引き寄せた。
結局、濡らしちゃったな……と申し訳なく思いながら、身体を預けてきた美鈴の背中を撫でた。
確かなぬくもりを感じながら、美鈴の言葉を頭の中で反芻する。
触れても良いと、彼女は言った。それならば、何度でも触れようと思った。
抑えきれない衝動に駆られたときは、その熱情を指の先にまで込めて。何度でも、何度でも。
一瞬の暴力ではぶつけきれない強い想いを、触れる手のひらを通して貴女に伝える。
何度でも。何度でも。何度だって、優しく……。
腕の中の美鈴を撫でていると、何だか救われた気持ちになって「ありがとう」と、小さく呟いた。
返事はなく、ぐいぐいと子犬のように顔を擦りつけてくる美鈴を、心の底から愛しいを思った。
静かに目を閉じて、雨音と、温かな体温を感じながら、ほんの少しだ泣いた。
このお話の咲夜さん、ある意味男性的なんですけど、行動原理は凄く女性的というか。
とにかく、彼女の内面描写が物語の大半を占めているのですが、全くダレずに最後まで
読めてしまいました。 うーん、凄い。
>霧のようにおぼろげで、混沌といて→混沌として、ですかね。
包み隠さずに「こわい」と言える美鈴が、何故か素敵に感じました。
うまく言葉に出来んけど分かったことは
美咲は新しい希望
調味料を使わずに作った白身魚のソテーの様に真っ白で綺麗
流石ベテランさくめー師だ