※『2085年のベース・ボール』に登場した2人が出てきます。
あちらを先に読まれていた方が分かりやすいかと思いますが、読んでなくても大丈夫だと思います。たぶん……。
私の記憶は、黒々とした冷たい夜の海から始まります。
視界はゆらゆら、ゆらゆらと不安定に揺れ続けていました。頼りない小さなゴムボートの上で、私はその真っ暗な、夜をぶちまけたような水面を見つめていました。
海が青いのは空の色を映しているから、という言葉を聞くと、私は青く澄んだ海ではなく、あのときの黒い海を思い出すのです。
星も月も無い夜でした。ただ暗黒だけが果てしなく、水平線の彼方まで広がっていました。
そんな無限の孤独の中で、私はただ、妹の身体を抱きしめていたのです。
妹は私の腕の中で、びしょ濡れのまま、小さく震えていました。
みなみおねえちゃん、と色を失った唇が、私の名前を虚ろに呼んでいました。
ゆえ、と私は妹の名前を呼んで、その冷たい身体をきつく抱きしめました。
そうすることが、ただ自分にできることだったからです。
この子を守らなければいけない。
姉として――この小さな妹を守らなければいけない。
私たちを飲みこもうとする、この圧倒的な闇の中から。
私が守らなければいけないのだ、と、自分自身にそう言い聞かせていました。
ずっと、ずっと。
それ以外のことは、何も解らなかったのです。
――ええ、そうです。
その水難事故以前の記憶は、私にはありません。
私は五歳で、妹は三歳でした。事故のショックによる一時的な記憶喪失、と診断されたそうですが、結局十数年経った今でも記憶は戻らないままです。
だから、私は両親の顔も覚えていませんし、私たち一家がどうしてあの船に乗っていたのかも、未だに解っていないのです。あるいは借金でも作っていて、その取り立てから逃げていたのかもしれません。
記憶が戻らないことは、もう割り切りました。そういうものなのだと。それに――貴方がたはどうです? 五歳よりも昔のことを、すらすらと思い出せますか? ――そうですよね。そんな幼い頃のことは、忘れてしまっているのが普通のことなんです。
あの事故の直後、小学生になった頃の自分がそのことをどう受け止めていたのかも、今となってはよく解りません。ええ――何もかも過ぎ去ってしまったこと。今の私にあるのはただ、家族を失った五歳のあの夜より前のことは思い出せないという、それだけのことです。
いずれにしても、私と妹のゆえは、そうして天涯孤独の身の上となったのです。――……。
一 / 村田美波
あら、お客様ですか?
ここにお客様なんて珍しいですね。しかもお二人も。
ああ、星さんと夏莉さんのお友達ですか、なるほど。
こんにちは。『睡蓮の庭』にようこそ。
私は村田美波と申します。
宇佐見さんと――ええと。……メリーさん、ですか。
何もないところですが、どうぞごゆっくり。
星さん、夏莉さん。お客様がお見えですよ。宇佐見さんとメリーさんです。
――すみません、こちらで少しお待ちを。お茶でもご用意しますわ。
緑茶でよろしいですか? そうですか。
ええと、お二人は星さんたちとはどのような?
――ああ、野球で。甲子園で知り合われたのですか。ということはお二人も阪神の?
いえいえ、私は別に。ただ身近にファンがいるだけで、野球は詳しくないです。
そう、星さんのお誘いで。奈良観光のついでですか。楽しまれました?
それは何よりです。
え? ああ、いえいえ、私は睡蓮様ではありませんよ。
私はただの、ここの住人です。
睡蓮様はお出かけなさってまして。夕方には戻られるそうですが。
――睡蓮様のことはご存じですか? 星さんから聞かれましたか。
ええ、ここは、睡蓮様の運営している小さな孤児院のようなものです。
睡蓮様は――はい、睡蓮様というのは本名ではありません。蓮沼聖、というのが本名ですが、私たちは皆、睡蓮様と呼んでいます。
ほら、ちょうどそこに見えますでしょう?
この家のシンボルでもある、睡蓮の池です。
今は葉だけですが、夏頃にはそれは見事に咲き誇るのですよ。
この家の建つ前からあの池はここにありまして、ここは『睡蓮の庭』という名前なのもそれが由来です。そして、睡蓮様がその名前で呼ばれているのも。
ああ、星さん、夏莉さん。お客様がお待ちですよ。
いえいえ、お構いなく。では私はこれで。庭の掃除に戻りますね。
それでは失礼します。宇佐見さん、メリーさん、どうぞごゆっくり。
二 / 虎尾星
ああ、宇佐見さん、メリーさん。お二人とも、よく来てくださいました。
お久しぶりです。お元気そうで何よりですね。
しかし、わざわざ本当に、こんな何もないところまで。
――ああ、寺院の方を見学に? それはそれは。
あまり立派な寺院でもありませんけれどね。
ええ、ここは白蓮寺の施設で、『睡蓮の庭』と言います。
檀家で不幸があって、身寄りをなくした子供を引き取ったり、また檀家の方のための保育所的なことも引き受けております。
私と夏莉は、ここの職員です。保育士兼事務員ですね。
先代の住職である命蓮様が十五年程前から始めた施設でして、今は当代の住職の睡蓮様がここの理事を兼ねております。ああ、私と夏莉は僧ではありませんよ。仏門に帰依してはおりますが。
先ほどの方ですか? 美波さんですね。
彼女は身寄りをなくして、睡蓮様に引き取られた方です。
もう十年以上も、妹さんとここで暮らしておりまして、睡蓮様を除けばここでは一番の古株です。何か解らないことがあったら、彼女に訊くのが一番確実ですね。
――間違ってもって、夏莉!
い、いくら私でも、この家のお手洗いの場所を間違えて教えたりは――。
……うぐ。た、確かにそんなこともありましたけど。けど、過去の話です!
コホン。ともかく、何もないところですが、ゆっくりしていってください。
寺院の方に行かれるなら、案内しますが。ええ、今からでも構いませんよ。
――私ひとりで大丈夫ですから、夏莉はお仕事していてください。
大丈夫ですってば! もう。
ああ、ゆえさん。帰っていたのですか。お帰りなさい。
こちら、お客様の――あらら。すみません、無口で人見知りする子なので。
彼女は村田ゆえさん。ええ、先ほどの村田美波さんの妹さんです。
美波さんはこの春から大学生です。ゆえさんはそのふたつ下で、春から高校二年生ですね。
他にもここで暮らしている身寄りのない子供は数人おりまして、睡蓮様はその子たち皆の母親代わりをされております。
ええ、睡蓮様は素晴らしい方です。私も元々は、宗教の類とは縁の薄い暮らしをしていたのですが、こうして仏門に帰依して、ここで働いているのも、睡蓮様と出会ったからです。
ああ、いえ、別に勧誘しているわけでは。すみません。
夕方には睡蓮様は戻られるでしょうから、睡蓮様のことはまたそのときにでも。
では、寺院の方に参りましょうか。
※ ※ ※
――はい、そうです。
家族も記憶も一度になくした私と、妹のゆえに手をさしのべてくださったのが、睡蓮様でした。私たちの一家は白蓮寺の檀家だったそうです。
父も母も身寄りのない人だったようで、私たちは引き取ってくれる親戚もおりませんでしたので、まだ当時は出来たばかりだったこの睡蓮の庭に引き取られたのでした。
私たちの他にも、身寄りをなくしたり家庭の事情で預けられたりしていた子たちがおりました。今では皆先に独り立ちしてしまって、私たちが一番の古株になってしまいましたが。
もうよく覚えていませんが、記憶を無くし、拠り所がただひとり、妹しか無かった私にとって、睡蓮様の存在はどれほどの救いだったでしょうか。
当時の睡蓮様はまだ僧侶としては修行中の身の上で、お忙しい住職の命蓮様に変わって修行の合間にこの施設の管理手伝いをなさっていたようです。当時から、施設を任されていた職員の方――ああ、星さんたちの前の人たちですが、その人たちよりも睡蓮様の方がずっと慕われていたと思います。
睡蓮様は常に優しく、誰にも分け隔てなく接する方でした。たとえ相手が幼い子供でも、同じ目線で真摯に話を聞いてくれる、親身になってくれる、そんな方でした。
子供は、相手が自分をどう見ているかということに敏感です。睡蓮様が自分たちの味方だということは、私も、おそらくゆえも、皆が感じていたことでした。
あるいは実の母親よりも、睡蓮様は私たちの母であったかもしれません。
実の母の事を覚えていない私が言っても、仕方ないのですけれどね。――……。
三 / 村田美波
ゆえ、ゆえ。
ああ、ここにいたのね。お帰りなさい。
お客様がいらしてるわよ。星さんと夏莉さんのお友達みたい。
あら、ゆえも会ったの? そう、宇佐見さんとメリーさんと言うの。
メリーさん、綺麗な金髪だったわね。でも、外国の方にしては日本語がすごく上手で。留学生か何かかと思ったけど、日本生まれなのかしら。
野球観戦で知り合ったそうよ。今頃野球の話で盛り上がっているのかしらね。
……ゆえ。
またそれを作っているの?
ううん、別にいいのよ。ゆえが作りたいなら。
…………。
ねえ、まだ怒っているの?
私がここに残ることにしたの……そんなに、嫌だったのかしら。
ねえ、ゆえ。私はここが好きよ。睡蓮様は優しいし、星さんも夏莉さんもいい人だわ。
それに、――ゆえを置いてひとり暮らしなんて、出来るわけがないじゃない。
通えないほど遠くの大学でもないんだから。
私たち、たったひとりの家族でしょう?
だからね、ゆえ。
……ごめんなさい。
ねえ、ゆえ。――私のことは、嫌い?
…………。
本当にごめんなさい、意地の悪いことを言って。
でもね、ゆえ。
私は、ゆえのことはいつだって、世界で一番大切に思っているの。
それは本当だから――だから、ゆえ。
ゆえが大学に受かって、ひとり暮らしをするなら止めないわ。ついて行ったりもしないから。
それまでは、私は、ゆえのそばにいたいの。
……お願い、ゆえ。
――――。
ああ、夏莉さん。びっくりした。
すみません、少しぼうっとしてたようです。
大丈夫です、体調が悪いとかそういうわけじゃなくて。
――お見通しですか。やっぱり夏莉さんには敵いませんね。
私……ゆえが何を考えているのか、最近解らないんです。
私がひとり暮らしをすると言って拗ねるなら解るんです。でも、ここに残ると言って拗ねられる心当たりは無いのに。――私、そんなにゆえに嫌われてたんでしょうか。
それにあの、ボトルシップ。
あの子も、私たちが今の身の上になった理由、忘れたわけじゃないでしょうに。
どうしてあんなものを、一生懸命に――。
……ごめんなさい、夏莉さんに話しても仕方ないことでしたね。
いえ、いいんです。気にしないでください。
大丈夫です。睡蓮様にも、余計な心配はかけたくありませんから。
きっとそのうち、ゆえも話してくれると思います。何を思っているのか。
私たち、たったひとりの血の繋がった姉妹なんですから。
四 / 野原夏莉
やあ、おかえり。
寺院はどうだった? 何か君たちにとっては面白いものでもあったのかな。
ああ、随分といかつい坊さんがいただろう。雲海さんと言ってね。あれでも私たちより四つ上ぐらいなんだよ。とてもそうは見えないだろう? 私は初めて会ったとき、てっきり睡蓮様の先代の住職さんだと思ったよ。
三輪さんにも会ったのか。雲海さんの妹さんだよ。似てないだろう?
まあ、きょうだいなんてそんなものかもしれないね。美波ちゃんとゆえちゃんもあまり似ていないし。宇佐見さんとメリーさんは? ひとりっ子か。私もそうだけどね。
先輩は道に迷わず、落とし物もせず、無事に案内をこなせたかい?
そうかそうか、それは僥倖。良くできました、撫でてあげるからこっちおいで。
――ごめんごめん、痛いって先輩。
睡蓮様? まだ戻られていないよ。
時間的にはそろそろじゃないかと思うけれど――っと、噂をすれば。
皆の母上殿のお帰りだ。
おかえりなさい、睡蓮様。お疲れ様です。
ああ、こちらは私と先輩の友人で、宇佐見さんとメリーさんと言います。
ええ、わざわざ京都から白蓮寺の見学と、ここに遊びに。
――やれやれ。
そう、今のが睡蓮様。白蓮寺の住職で、この施設の理事にして、皆の母親代わり。
どうだい、第一印象を訊いてもいいかな。
――綺麗な人、か。まあ、確かにそう形容するのが一番適切かな。
先輩も大概お人好しだけど、あの人はそれに輪を掛けた底抜けの善人だよ。なんだろうね、私はどっちかというと性悪説側なんだけど、睡蓮様を見てるとうっかり性善説を信じてしまいそうになるから恐ろしいよ。とにかくあの人には悪意が無いんだ。誰に対しても慈悲深く、困っている人は放っておけない、まあ「善人」っていう言葉から想像のつく人柄を全部まとめてぶちこんだような人だよ。
――そういう風に誰にでも思わせるところが、また恐ろしいんだけどね。
ああ、いや、何でもない。まあ、とにかく睡蓮様が何か親切なことを言ってきたら、素直に言葉に甘えるといい。分かりやすい下心とか打算とかはどこにも無い人だから。
というか、今日はおそらく泊まっていくように君らを誘うんじゃないかな?
たぶん夕食の後はそういう話になると思うから、まあ、覚悟しておくことだね。
※ ※ ※
――水難事故のことですか?
いえ……実は私は、あの事故についてはあまり詳しくはないのです。
大きな客船事故とかではなく、小さな船の転覆事故だったようです。船に乗っていた中で助かったのは、私とゆえのふたりだけだったのは確かです。
皆、救命ボートに乗り込んだりする間も無く海に投げ出されて、私たちはたまたま船から外れたボートが近くに流れてきて、それに掴まって助かった、というのが事実のようです。五歳の私が、ゆえを抱えて海中からボートに自力で這い上がったなんて信じられませんけれど、助かったのが私とゆえだけなのだから、それが事実なのでしょう。火事場の馬鹿力、というものなのかもしれませんね。
私は事故のあと記憶を無くしていましたが、ゆえが一緒に助かったおかげで、自分が村田美波だということはすぐにはっきりしました。――私ひとりだけだったら、何しろ身寄りがありませんでしたから、私は身元不明のままだったかもしれません。自分の身元を示すものは、私自身は何も持っていなかったようですから。
記憶を無くしていたといっても、ゆえが自分の妹だということだけは、なぜかはっきりと覚えていました。村田ゆえという小さな少女は、私が守らなければいけない大切な妹だと。
あの真っ暗な海のただ中を漂いながら、ゆえを抱きしめ続けていたときから、それだけが私の全てでした。
ええ、それは今も変わりません。
ゆえは私の、たったひとりの血の繋がった妹。かけがえのない家族ですから。
ゆえは、人見知りで天の邪鬼な子です。
あの事故の前からそうだったのか、それとも事故のせいでそうなったのかは、私には解らないのですが。自分から人の輪に入っていくのが苦手で、そのくせ皆が楽しそうにしていると邪魔をしたがる悪い癖があって、そのせいでよくいじめられていました。
そんなゆえを守ってあげるのが、幼い頃から私の役目でした。
もちろん、いじめられるのはゆえが悪い部分も大きかったですが。誰だって遊んでいるところを、突然別の子に邪魔されれば面白くないに決まっていますから。でもゆえはどうしても、そうすることが止められないようでした。
それはきっと、私がゆえを幸せにしてあげられていないせいだと、私は思いました。
だから私はいつもゆえと一緒にいて、ゆえを楽しませてあげようとしました。
そのせいで私も友達がほとんど出来ませんでしたが、私にとってはゆえのことが何よりも優先すべきことだったので、そんなに苦ではなかった気がします。
ゆえの天の邪鬼な性格も、小学校に入る頃には少しは収まっていましたが、やはり皆が楽しそうにしているとたびたび癇癪を起こしてしまって、友達は少なかったようです。
身を寄せ合いすぎることが良くないのは分かっています。
だけれど、ゆえの存在は記憶を無くした私の唯一の拠り所でした。
そしてゆえも、その人見知りと天の邪鬼のために、私を必要としていたと思います。
いえ、決してふたりだけの世界に閉じこもっていたわけではない、と思います。私には私で小学校では友達もできました。ゆえも癇癪の頻度が下がるにつれて友達もできたようです。
もちろん、睡蓮様の存在も大きかったです。いつだったか、癇癪を起こしたゆえを、睡蓮様がじっと、収まるまで抱きしめていたことがありました。ゆえの癇癪は私にも手がつけられないことがありましたけれど、睡蓮様はどんなときでも、怒ることも放り出すこともせずに、ゆえにじっと付き合ってくださいました。
もし私とゆえのふたりだけだったら、本当にそのままふたりだけの世界に没入して、世界との接点を見失ってしまっていたかもしれません。
それを繋ぎ止めてくださったのは睡蓮様ですから、本当に感謝しているのです。
五 / 村田ゆえ
……こんばんは。何かご用ですか。
何をって……これがボトルシップ以外の何かに見えますか?
――すみません、別にこの船そのものに興味があるわけじゃないので。
どうしって、いいじゃないですか。
私はただ、作りたいから作ってるんです。
大変ですよ。当たり前じゃないですか。
こういうのは大変だから価値があるんですよ。
だって、作るのが大変な方が――壊し甲斐があるじゃないですか。
ええ、トランプタワーとか無性に崩したくなりません?
作りかけのドミノとかでも、何でもいいです。
頑張って積み上げてきたものを、壊してしまうのって――ぞくぞくしますよね?
お姉さんたち、今晩は泊まって行かれるんですか?
そう――あの人が、ね。
ひとつ忠告しておきますよ。睡蓮様を、あんまり信用しない方がいいですよ。
どうしてって? だってあの人、いい人ですから。
ふふ、そんな変な顔しないでくださいよ。
美波お姉ちゃんや星さんには、私がこんなこと言ったなんて告げ口しないでくださいね。
あの人たち、睡蓮様のこと神様みたいに崇めてますから。
神様にこんなこと言ったら、不敬罪で捕まっちゃいますので。
ああ、仏教だから仏様か。まあ、どっちでもいいですよね。
睡蓮様のこと? ええ――大好きですよ。
お姉ちゃんのことは大嫌いですけどね。
ふふ――。
蓮子さん、でしたっけ。
どうしてこんな田舎までわざわざいらしたんですか?
――へえ、不思議な話を探してるんですか。
そんな面白い伝説とか、あのお寺には無かったと思いますけどね。
あったとしても、きっと秘密にされていますよ。きっとね。
――何か隠し通すのに、一番いい方法って何だと思います?
ふふ、深い意味は無いですよ。どう思いますか?
ええ、隠しているものがあると相手に解っている場合です。
――ああ、なるほど。そういう答えですか。
いいですね。それも悪くないです。
でも、一番確実なのは。
《隠していることを知っている人がいなくなる》ことじゃないですか?
極論ですけどね。ふふ。
六 / 蓮沼聖
美波ちゃん。
どうしたの、そんなに思い詰めた顔をして。
そう、ゆえちゃんのこと。
そうね。ゆえちゃんが何を思っているのかは、私にも解らないわ。
でもね、美波ちゃん。
解らないのは、当たり前のことなのよ。
たとえ血が繋がっていても、人間同士、どんなことでもわかり得ることはあり得ないわ。
だから、そのために言葉があって、触れあうための腕があるの。
私はそう思うわ。
美波ちゃんは、今でも船は嫌いかしら。
……そうよね、それが当たり前よね。
でも、その感覚は美波ちゃんだけのものかもしれない。
同じ体験をしたからといって、ゆえちゃんも今もそうだとは限らない。
例えば、それだけの話かもしれないのよ。
もちろん、例えばの話だけれど。
ちょっとだけ、もの見方がすれ違っただけのことかもしれない。
ゆえちゃんは美波ちゃんの妹。
美波ちゃんは、ゆえちゃんのお姉さん。
それは確かなことなんだから。
もし解り合えないことがあっても、それは変わらないわ。
そして理解し合えるように、歩み寄ることだって。
誰だって、秘密のひとつやふたつ持っているものよ。
もしゆえちゃんのそれが、どうしても美波ちゃんには打ち明けられないことなら。
大丈夫、そこは私、睡蓮さんに任せなさい。
美波ちゃん、あなたも。ゆえちゃんも、私にとっては可愛い娘なんだから。
大丈夫よ。だから、安心なさいな。
※ ※ ※
いえ、本当に、あの事故のときのことは覚えていないのです。
最初の記憶は、暗い海の上、ボートに乗って、ゆえを抱きしめているところです。
それ以前のことは、本当に何も思い出せないのです。
どうして、そのことをそんなに?
ゆえがしたことと、あの事故は関係があるのですか?
ゆえは、何か私に隠し事でもしているのですか。私が無くした記憶について。
いえ、すみません。貴方がたに訊いても仕方のないことでしたね。
え? 何ですか?
はい、私は村田美波ですよ。やだ、どうかしたんですか?
今ここにいるのは、私に決まっているじゃないですか。――……。
七 / マエリベリー・ハーン
蓮子。ねえ、蓮子。
起きて。もう、寝ぼけたこと言わないで。
ううん、幽霊を見たわけじゃ――ないと思うわ。
ほら、見て、蓮子。あれ。
あれって、火よね。焚き火、かしら。
あんなところで、こんな時間に、庭でどうして焚き火をしているのかしら。
だって今、丑三つ時よ? 夜中に花火なんて季節でもないじゃない。
あ、ほら、誰かいるわ。焚き火のそばに。
あれ、美波さん? ……ううん。
ゆえちゃん、よね。あれって――。
あ、蓮子、待って。
もう、置いていかないでよ。
※ ※ ※
ゆえ? 何をしているの?
こんな時間に、焚き火? 危ないから、庭で火を使っちゃ駄目って。
――何を燃やしているの?
ねえ、ゆえ。貴方、こんなところで、いったい何を燃やして――。
え? 何? 何を言っているの?
ねえ、――ゆえ!? ちょっと、どこへ――。
※ ※ ※
もう、蓮子、待ってってば。……ああ、冷えるわね。
あ、美波さん。それに、ゆえちゃん……。
これは一体……あ、ゆえちゃん!? ど、どこへ――。
れ、蓮子、追わなくていいの? ねえ、ちょっと、火が危ないわ。
何? 何か落ちてるの?
――ガラス瓶? 割れてるけど、これがどうかしたの?
ねえ、蓮子――え? 星さんたちを?
わ、解ったわ。呼んでくるから。蓮子は? ゆえちゃんを追うの? うん、解った。
※ ※ ※
ゆえ、ゆえ!
どこへ行くの、ねえ、待ってってば、ゆえ――。
ゆえ、待って、ゆえ、ゆえってば、
――ゆえ、
――――。
何……。今の、何?
腕? 誰の腕? 私は、誰の腕を、
私が振り払った? あの海で、あの真っ暗な海の中で、私は――誰を――
――痛い。頭が痛い。なに、これ……何なの、ねえ、ゆえ――。
ゆえ? どうして……どうして、そんな。
そんな、悲しそうな顔で、私を見るの――?
ねえ、ゆえ――。
八 / 蓮沼聖
ええと。
夜中、貴方達はゆえちゃんが庭で何かを燃やしているのを見つけた。
庭に出てみると、ゆえちゃんと美波ちゃんが向き合っていて、そのうちにゆえちゃんが走りだして、美波ちゃんがその後を追いかけた。
メリーさんは虎尾さんたちを呼びに行って、宇佐見さんは遅れてふたりを追いかけて、そして白蓮寺の境内でふたりを見つけた、と。
そのとき、美波さんはしゃがみこんで震えていて、ゆえさんはそれを黙って見下ろしていた。
――以上で間違いはないのですね? そう……。
ありがとうございます。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。
ふたりとも、眠ったようです。今は虎尾さんと野原さんがついてくださってますわ。
でも、いったい何があったのでしょう?
ゆえちゃんは、こんな時間に庭で何を燃やしていたんでしょうか。
――え? 心当たりが?
これは……ガラス瓶ですか? しかしガラス瓶は燃やすものでは。
ボトルシップ? ――ゆえちゃんが作っていた、あの?
少々お待ちを。確かめてきます。
……仰る通りでした。ボトルシップが、ゆえちゃんの部屋から消えています。
じゃあ、ゆえちゃんは作っていたボトルシップを、瓶を割って取り出し、燃やした?
いったい、何のためにそんなことを――。
あのボトルシップは、ゆえちゃんが少し前から作っていたものです。
そのことでちょっと、美波ちゃんとゆえちゃんの間がぎくしゃくしていたのですが。
――ボトルシップで何故? ああ、そうですね。
おふたりには、お話ししておきましょうか。
美波ちゃんとゆえちゃんは、船の事故で家族を亡くしているんです。
家族で乗った船が転覆し、ふたりだけが助かったのだそうです。
そのせいで、美波ちゃんは今でも船を怖がっています。
ゆえちゃんは、どう思っていたのかはよく解りません。あの子は私たちにも、心の内をなかなか見せてくれない子でしたから――。
ともかく、美波ちゃんにはショックだったようです。ゆえちゃんがボトルシップを作り始めたことが。……同じトラウマを抱えているはずの妹に裏切られたような、そんな気持ちだったのかもしれません。
――ゆえちゃんが、何か言っていたのですか?
壊し甲斐が、ある――そんなことを?
どういう意味でしょうか。……壊すために、燃やすために作っていたのでしょうか?
しかし、いったいどうしてそんなことを――。
ああ……すみません。もうこんな時間ですね。
おふたりとも、今夜はもうお休みになってください。
お騒がせして本当に申し訳ありません。
美波ちゃんとゆえちゃんからは、私が話を聞いておきますので。
はい、それでは。おやすみなさい。
九 / 村田美波
ああ――おはようございます、宇佐見さん、メリーさん。
昨晩はお騒がせしてしまって、すみませんでした。
はい、私はもう大丈夫です。ゆうべはちょっと眩暈がして、はい、それで――。
……ゆえですか? ゆえは……部屋に閉じこもっているようなんです。
いえ、大丈夫です、はい。
大したことではないと思います。きっと何か、叱られるのを怖がっているとか、そういうことですから。心配なさらないでください。
ええ、今日はお休みですし、予定もありませんけれど――。
話、ですか? 何のお話でしょう?
――ゆえが燃やしていたもの? ……いえ、聞いていないです。何だったんですか?
ボトルシップ? ……あのボトルシップですか?
あれを、燃やした? 瓶を割って取り出して?
どうしてそんなことを?
いえ、すみません。宇佐見さんに聞いても仕方ありませんよね。
……え、私たちのことですか?
私とゆえのこと? どうしてそんなことを?
――気になりますか。そうですよね。はい……ご迷惑をおかけして、何も説明しないというのも不義理ですね。解りました。
いえ、お気になさらず。……正直に言えば、私もずっと気になっているのです。
ゆえが何を思っているのか。私のことをどう思っているのかも。
どうぞ、こちらへ。部屋でお話ししましょう。
私とゆえが家族を亡くした、事故の話から。
どうぞ、粗茶ですが。
事故のことは、もう睡蓮様から伺ったのですか。
では、私の記憶のことは? ……そうですか、そっちはご存じないですか。
実は私――記憶喪失なんですよ。と言っても、思い出せないのは五歳より前のことだけなんですけれど。
私の記憶は、黒々とした冷たい夜の海から始まります。――……。
※ ※ ※
……――それからずっと、私たちはここで暮らしてきました。
睡蓮様は私たちにとっては実の母親のようなものですし、この睡蓮の庭の皆さんは家族です。だけどやっぱり、ゆえは私にとっては特別な存在です。血を分けた妹ですから。
だから私はずっと、ゆえを守ろうと、ゆえのそばに居ようと思い続けていました。
……ひょっとしたら、ゆえにはそれが重荷だったのでしょうか。
ゆえがあのボトルシップを作り始めたのは、私が大学に受かって――ひとり暮らしをせずに、ここから大学に通うことを決めた頃からです。
私ははじめからこの家に残るつもりでした。少なくとも、自分の意志でゆえと離れて暮らすという選択肢は私にはありませんでしたから。もちろん、ゆえがひとり暮らしをしたいと言ったら、ついて行ったりするつもりはさすがに無いですが――。
はい、やっぱりそれが、ゆえには重かったのかもしれません。
だとしたらあのボトルシップは、私への無言の抵抗だったのでしょうか。
やっぱり、私のことを疎ましく思っていたのでしょうか。
……それ以外にありませんよね。ええ、解ってるんです。
でも――どうしてそれを、わざわざ燃やしたりしたんでしょうか。
ボトルシップを作ること自体が私への抗議なのだとしても――燃やす、というのは。
あの事故のとき? 船は……いいえ、燃えてはいなかったと思います。
船が燃えていたら、きっとその火は印象に残っていたでしょう。
でも私の記憶にあるのは、黒々とした夜の海の闇だけです。
――ええ、そうです。助かったのは私たちふたりだけです。
船に何人乗っていたのか? さあ……詳しいことは本当に知らないんです。
調べたって、仕方ないじゃないですか。……私は、覚えていないんです。
その事故で亡くなった父のことも、母のことも……何も。
十三年前です。それは間違いありません。私が五歳のときのことですから。
……睡蓮様と? ええ、我が家は白蓮寺の檀家だったそうですが。
私たち家族が睡蓮様と交流があったか? さあ、私には解りません。覚えていませんし。
それがいったい、どうかしたんですか?
十 / マエリベリー・ハーン
ねえ、蓮子。どうしたの? そんなに険しい顔をして。
美波さんの話から、また何か変なことでも考えたの?
――え? 十三年前の事故の話? 調べればいいの? 解ったわ。
蓮子? どこへ行くの?
探し物? 何を?
もう、解ったわよ。調べものをすればいいんでしょう。
でも、何を調べればいいの?
事故の犠牲者のこと? いいけれど……何を疑ってるの? ねえ、蓮子ってば。
――あら、蓮子。戻ったの?
って、どうしたの!? ずぶ濡れじゃない。こんな季節に、風邪をひいちゃうわ。
え、調べもの? ええ、見つかったけど――その前に、身体を拭いて。
でも、いったいなんでこんな濡れ鼠に? 外、雨なんか降っていないじゃない。
あ、星さん。すみません――お風呂、沸かしてもらえませんか?
いいから、蓮子。風邪を引いたら頭脳労働もままならないでしょう?
お風呂であたたまって。調べものの話はその後にしましょう。ね?
さっぱりした? ついでに落ち着いたかしら。
それで、なんであんな濡れ鼠になっていたの?
え、調べものの結果? もう、せっかちね。ほら、ここにあるわよ。美波さんとゆえちゃんに関することだからか、当時の記事がここに保存してあったの。
小さな連絡船の事故だったみたいね。亡くなったのは乗組員と、乗客の二家族。と言っても何人かは行方不明のままみたい。助かったのは、美波さんとゆえちゃんのふたりだけね。
――どうしたの、蓮子。
ああ、そう、船に乗り合わせて亡くなったもう片方の家族に、美波さんたちと同年代の子供がいるのよね。可哀想にね……。
蓮子? ねえ、本当にどうしたの?
顔が青いわよ。やっぱり風邪でも引いたんじゃないの? ねえ、蓮子――。
十一 / 宇佐見蓮子
睡蓮さん、今、少しだけよろしいですか。
確認したいことがひとつあるんです。ええ、大したことじゃありません。
美波さんとゆえちゃんのことです。
――端的に伺います。
あのふたりは、実の姉妹ではないですよね?
ええ、それを伺いたかったのです。
睡蓮さん、貴方がそれをご存じなのかも。
それだけです。
※ ※ ※
こんにちは、ゆえちゃん。
あのボトルシップ、燃やしちゃったのね。せっかくよく出来てたのに。
ああ、そっちの方が良かったんだっけ。壊し甲斐があるから。
……ねえ、本当にそう思ってるのかしら。
貴方は壊してしまいたいの? 壊してしまいたくなかったの?
お姉さんが貴方のためにつき続けた、彼女もそれと知らない嘘の世界を。
ごめんなさい。調べて、そして解ってしまったの。
お姉さんがついていた嘘。そして、貴方があのとき隠したかったもの。
見つけたわ。おかげでずぶ濡れになっちゃったけどね。
――誰かに見つけて欲しかったの? だから燃やさずに、あの池に沈めたのね。
どうして解ったのって?
昨日、貴方は私に聞いたじゃない。隠し事の上手い隠し方。
私はそれにこう答えたわ。
『別のところに隠した、もしくは既に無くなってしまったと思いこませる』
貴方がしたのは、つまりそういうことでしょう?
どうして貴方が、わざわざ庭で焚き火なんかしたのか。
ボトルシップなら単に壊してしまえばいいのに、燃やしまでした理由は何か。
――最初はね、ボトルシップ以外の別のものを燃やしたんじゃないかと思ったのよ。
それで焚き火の跡を調べていたんだけどね。ふと、すぐそばにあの池があるのに気付いたのよ。そう、この施設の名前の由来でもある睡蓮の池。
何か意味があると思ったわ。貴方が敢えて、私たちのいたあの夜に、ああして焚き火をしてボトルシップを燃やした理由。それを池のすぐそばでやった理由。
あなたはそれで、ふたりの人物にメッセージを伝えようとしたのね。
美波さんと、睡蓮さんに。
ええ、見つけたわ。貴方が隠そうと思ったもの。
――これでしょう? 貴方がお姉さんと一緒に映っている、この写真。
濡れないようにビニールにつつんで、石をくくりつけて蓮の葉の下に沈めるなんて、念入りなことね。貴方はこれを、睡蓮さんの目から隠してしまいたかったのでしょう?
でも、見つける役目は、私で良かったのかしら。
ええ、確かめたわ。星さんに聞いて、貴方と美波さんの昔の、この施設に来た頃の写真を。
貴方と美波さんって、姉妹なのにあんまり似ていないのよね。
――でも、この写真に映っている、ゆえちゃんと並んでいる女の子。
ゆえちゃん、貴方の小さい頃にそっくりだわ。
貴方はこれを燃やしてしまったのだと睡蓮さんに思わせたかったのね。
だってこれが、今となってはただひとつの、美波さんが村田美波ではない証拠だから。
十三年前の事故で亡くなった人のこと、調べさせてもらったわ。
沈んだ船には、村田家の他に、もう一家族が乗っていたのね。
けれどその一家は、船と一緒に全員が行方不明になってしまった。
――それが、南さんという一家だったのね。
その家には、貴方のお姉さんと同い年の娘さんがいたわ。南ちゆりさん。
つまりそれが、美波さんのついていた、彼女の知らない嘘。
そして、貴方と睡蓮さんが隠していた、たったひとつの事実。
「みなみおねえちゃん」は、「美波お姉ちゃん」じゃなく「南お姉ちゃん」だった。
つまりは、そういうことなんでしょう?
何かがおかしいと思ったのは、事故について美波さんの話を聞いたときだったわ。
貴方たちふたりだけが救命ボートに這い上がって助かったっていうけど、一度海に投げ出された五歳の女の子が、三歳の妹を抱えて無人のボートに這い上がるなんて、普通に考えれば無理よね。だとしたら、貴方たちをボートに引き上げた誰か――おそらく大人がボートに居たんじゃないかと思ったのよ。
でもその人は助からなかった。どうしてか?
最初は、貴方と美波さんがふたりでその大人を海に突き落としたんじゃないかと疑ったわ。でも、不安定なボートの上でも、幼稚園の子供ふたりの力で大人を海に突き落とすなんてまず無理よね。それなら――その大人は自分から敢えて海に飛び込んだんだと思ったの。
一度ボートに乗った大人が、またボートから海に飛び込む理由なんて、ひとつだけ。
自分の子供を助けるため。それ以外にあり得ないわ。
……何かここまでの話に、間違いはある?
あったら遠慮無く言って。妄想だと笑い飛ばしてくれても構わないわ。
ねえ、ゆえちゃん。
貴方は――美波さんのことを。――……。
十二 / 村田ゆえ
はい、ほとんど全て――事実は、その通りです。
お姉ちゃんは、彼女は私の実の姉ではありません。
元々は縁もゆかりもない、たまたま同じ船に乗り合わせただけの人なんです。
あの頃、私はお姉ちゃんと仲が悪くて、いつも喧嘩ばかりしていました。
私が生まれてからお母さんが私にかかりきりだったのが、お姉ちゃんには面白くなかったのかもしれません。私はお姉ちゃんにいつもいじめられて、泣いていました。
あのときもそうだったのです。
夜、船の中でいつものように喧嘩して、私は船の甲板に出て泣いていました。
そんな私を見つけて、慰めてくれたのが――南お姉ちゃんだったんです。
南お姉ちゃんは泣いていた私に飴玉をくれて、それから名前を聞きました。私がゆえと名乗って、それからお姉ちゃんの名前は美波と言うと、「私もみなみ。南ちゆり。ぐうぜんだね」って言って笑って。――こう言ったんです。
「よし、私が、本当のみなみおねえちゃんになってあげる」――って。
……それから。私は甲板で、南お姉ちゃんと色々なお話をしました。
お姉ちゃんがどんなにいじわるで、私をいじめてばかりいるのか、私はそればかり話して、南お姉ちゃんは私をなぐさめてくれました。
それで南お姉ちゃんは、「じゃあ、私がいじわるなお姉さんをこらしめてあげる」と立ち上がって、私たちの家族のところに向かおうとしたんです。
――船が大きく揺れたのはそのときでした。
気が付いたら、私は海に投げ出されていました。
泳いだことなんてありませんでしたから、そのままだとすぐに溺れていたでしょう。
でも、南お姉ちゃんが私の手を掴んでいて、板ぎれにしがみついていたんです。
私も必死でその板ぎれにしがみつきました。
何が起こったのかは解りませんでしたが、船から自分たちが落ちたというのはなんとなく理解して、板きれにしがみついたまま私は周囲を見回して、――乗っていた船が海面で横倒しになっているのを見ました。
わけがわからないまま、自分が今大変な状況にあるんだということだけは理解して、私は恐怖に震えました。けれど、その肩を抱いてくれる腕がありました。
南お姉ちゃんは「だいじょうぶだよ。南お姉ちゃんがゆえをまもるから」と言って、私を励ましてくれたのです。何度も、何度も。
だから私も、「うん、みなみおねえちゃん」と何度もそれに頷いたのです。
そうしているうちに、ゴムボートが近付いてくるのが見えました。
そのボートに乗っていたのは、私のお母さんでした。お母さんは私と南お姉ちゃんを見つけて、必死に手で波をかき分けて近付いて、私たちに手を伸ばしました。
それに掴まって、私と南お姉ちゃんはボートに上がることができたのです。
南お姉ちゃんを見て、お母さんは愕然としたような顔をして、「美波は? お姉ちゃんは?」と私に聞きました。私は首を横に振りました。お母さんはそれからずっと、海の上を見回してお姉ちゃんのことを探していました。
南お姉ちゃんは私を抱いて、だいじょうぶ、だいじょうぶと言い続けてくれました。
――そんなときでした。
ボートの、南おねえちゃんの座っていたあたりに、掴まる手があったのです。
それは子供の手でした。覗きこんで、私は息を飲みました。お姉ちゃんでした。
お姉ちゃんは必死の形相で、そこにいるのが私だと気付いて何か言いました。
その形相は、お姉ちゃんが怒ったときの顔に似ていて――私は恐ろしかったのです。
恐ろしくて、私は首を横に振って、「いや」と叫んでしまったのです。
その声にお母さんが気付くのと、
南お姉ちゃんが、ボートに掴まっていたお姉ちゃんの手を払うのが、同時でした。
南お姉ちゃんは、私を守ろうとしてくれたんです。
私が、お姉ちゃんにいじめられていたことを切々と訴えたから。
私のことを守ると言ってくれたから。
私をいじめるような子は、海に沈んでしまえ、と――。
お姉ちゃんは手を払われて、暗い海に沈んでいきました。
そのときのお姉ちゃんの、愕然とした顔は――今も、瞼に焼き付いて離れません。
そして、お母さんは悲鳴を上げて、ひとりで海に飛び込みました。
沈んでいったお姉ちゃんを助けようとしたのでしょう。
だけどお母さんも、そのまま浮かび上がってはきませんでした。
――あとは、たぶん南お姉ちゃんの語った通りだと思います。
私たちはボートの上で救助がくるまで、ずっと抱きしめ合って震えていました。
その間じゅうずっと、私は「みなみおねえちゃん」と彼女を呼び続けました。
私たち同様に、南一家も身寄りのない家族だったのが、きっと不幸だったのでしょう。
南ちゆりの身元を示すものは彼女の両親が持っていたようで、その両親は持ち物とともに海に沈んだまま未だに見つかっていません。
そして、救助され目を覚ましたときには、彼女は記憶を失っていました。
だから、彼女が「南ちゆり」か「村田美波」かを示すものは――私の証言だけだったのです。
そんな杜撰な、と思いますか?
だけど、姉妹が船に乗り込んでいて、女の子ふたりが救助されて、小さい方の子が大きい方の子を「お姉ちゃん」と呼んだら、誰だってそのふたりは姉妹だと思いますよね。
彼女が南ちゆりであると証言してくれる親族は、彼女には居なかったのですから、尚更です。
証人は私ひとりでした。そして私は、彼女を「村田美波」だと言ったのです。
全てはそれで決まってしまったのです。
現実は、救助されたのは南ちゆりで、行方不明になったのは村田美波なのに。
事実はその瞬間、あべこべになってしまったのです。
――でも、たったひとりだけ。
彼女が村田美波でないことを、知っている人がいました。
睡蓮様です。彼女は檀家である村田家と顔を合わせたことがあって、お姉ちゃんの顔を覚えていたのです。だからすぐに、彼女が村田美波でないことに気付いたはずでした。
けれど、睡蓮様はその嘘を、私がついた嘘を受け入れたのです。
そうして、今の生活が始まったのです。
私と彼女の――姉妹としての生活が。
だからそれは、彼女と私と、睡蓮様の三人でつき続けた嘘なのです。
誰のために? さあ……誰のための嘘だったんでしょうね。
もう、私には解りません。
お姉ちゃんのこと? ええ――大嫌いですよ。
大嫌いですから、早く出ていって欲しいんです。
早く出ていって――ニセモノの妹のことなんか、忘れてしまって欲しいんです――。
十三 / 宇佐見蓮子
それじゃあ、お世話になりました。
睡蓮さん、泊めてくださって本当にありがとうございました。
星さん、夏莉さん。シーズンが始まったら、また甲子園で。
美波さんも。ゆえちゃんにも、よろしく伝えてください。
では――さようなら。行こう、メリー。
ふぁ……バスの震動ってどうしてこんなに眠くなるのかしら。
メリー、よくバスの中で本読めるわね。私なら確実に酔うわ。
……うん? あの写真?
もう一回ビニールに包んで沈めてきたわよ。睡蓮の葉の下にね。
あれをどうするかは、私が決めることじゃないもの。
美波さんがしたことが緊急避難に当たるのかも、私が決めることじゃないわ。
――ゆえちゃんは結局、どうしたかったのかって?
美波さんに全て思い出して、南ちゆりとして生き直してほしかった? それは無いわね。だって現実に、南ちゆりさんは今も行方不明扱いなんだから、今さら思い出してしまったところで、彼女は村田美波として生きていくしかないのよ。
美波さんは間違いなく、忘れたままの方が幸せのはず。睡蓮さんが嘘を受け入れたのも、きっとそう思ったからだわ。
思い出してしまったら――本物の村田美波と、その母親を死なせた罪が彼女にのしかかることになるもの。今さら背負うには重すぎる話だわ。
……でもゆえちゃんは、ひとりでずっとそれを背負っていたのよね。
だからゆえちゃんは、それを美波さんにも背負わせたかったのかもしれない。
自分だけがその罪を背負っている理不尽に、十三年越しで耐えかねたのかもしれない。
でも――ゆえちゃんは絶対に、美波さんを嫌ってなんかいないはずなのよ。
そうでなければ、彼女のために十三年間も嘘をつき続けられるはずがないもの。
ゆえちゃんは結局、美波さんに全てを思い出させたかったのか、そうでないのか。
写真を燃やさず、睡蓮の底に沈めたその意味も――きっと、私が決めることじゃないわ。
ねえ、メリー。
いつだったか私の、「客観的な真実が存在する」という考えを前時代的って言ったわよね。
今の相対性精神学では、真実は主観の中にあるというのが常識、って。
考えを改めたつもりはないわよ。客観的な真実は確かに存在する。少なくとも観測可能な現象としての事実についてはね。行方不明になったのは村田美波さん、あの場所にいたのは南ちゆりさん。それは動かせない真実だわ。
だけど――心というのは、決して客観的には観測できないものね。
だから心の中の真実は、心の数だけ、主観の数だけ存在する。
いいえ、同じ心の中にもきっと、複数の真実が存在するのね。
前にも言ったじゃない、メリー。
主観の外に絶対的な真実は存在するわ。
けれど、主観的な真実というものがそれと両立してしまうのが、人間の心の不思議なのよ。
だからこそ、貴方の学んでいるような怪しげな学問が発展したんだろうけど。
ほら見て、メリー。夕焼けが綺麗。
水平線に映える夕焼けなら最高なのにね。ここが奈良と京都の境なのが残念だわ。
ねえ、メリー。
夕焼けが綺麗だというのは、客観的な真実だと思わない?
綺麗だと思わない人もいるから主観的? 相変わらず無粋ねえ。
でも、メリーは綺麗だと思ってるでしょ?
だったら今は、それが客観的真実でいいじゃない。ね?
面白かったです
かといって決して読みにくさは感じられず、リズムの良さを感じられました。
星のイメージキャラクターも、ある種の暗さを感じられて、とても好みでした。
いつもと違う作風でしたが、これはこれで素敵でした。
ミステリー要素を話に組み込んで、だれないようにしている構成が上手いと思います。
悲しくも優しい嘘のお話をありがとうございました。
ここまで来ると嫉妬すら出来ないなぁ、上手いなぁ。
こればっかりは優れた文章力抜きには出来ない。
とにもかくにも素晴らしい
ゆえの複雑な感情が伝わるいいお話でした
ところで、美波さんの本名はちゆりですが、容姿は水蜜のものでよろしいんでしょうか?
この姉妹の行く末を見たいような、見たくないような。
船が沈んで、正体不明だったのはじつは……と。
悲しくも優しいミステリーごちそうさまです。
>>26
原作での船長とぬえの容姿と、夏莉さんおよび蓮子の発言とを照らし合わせ、
その上でこの作品が告白体で書かれた理由からお察しくださいw
しかし上手い話だ、このシリーズ大好きです
言葉もない
わざわざ自分の姉のことを名前付きで呼ぶもんかい!普通「おねえちゃん」って呼ぶだろが!
とかなんとか思いながら読んでたら、まさかの伏線だった。
いやはや参りました。
原作の方は分からないけど読んでみようと思った
ゆえの心の内が分からないままなのが歯がゆいけど、それこそ部外者である蓮子達、ましてや
読み手の自分達が決めつけることじゃあないんだろうな
面白かったです
面白かったし、星キャラが好きなだけに読後のに少し落ち込んでしまった……w
容姿の件は、つまり今の美波さんはちゆりの容姿なんでしょうね。
ということは水蜜……orz
月並みですが残されたものは幸せになって欲しい。
この真実が残酷なのかどうか、それすらも自分にはわからない。
ちゆりと共通点があるキャラというとまず魔理沙が思い浮かぶけど、
そういえば船長もそうだよなあ。
本当あなたの作品は最後まで読んでて楽しいです
白いセーラーで帽子と短パンで