鍵山雛は厄神である。比喩ではなく文字通りの、災厄の神であった。彼女の周りは常に厄が溜め込まれている。目に見えるほどに濃くなったどす黒い災厄は、雛の身体にぴったりと纏わり付いて、雛ともども人間たちから引き離されるのだ。
人間たちが彼女を恐れていたわけではない。ただ彼女に近づくのには、彼らは弱すぎた。
雛はいつからか人間を避けるようになった。たまに人里の近くまで下りてきては、ちょろちょろっと厄を集めて、すぐに山へと帰ってしまう。嫌がるというよりは、厄に当てられやすく弱い人間たちのため、苦慮してのことだった。
雛は普段、人間の寄り付かない、山麓の暗い樹海へと身を潜めていた。厄の充満するこの樹海は、雛が人間から身を隠すのにとても適していた。樹海の機嫌が悪い時は、入っただけで人間が取り殺されてしまうような場所だ。さすがにこんなところへ来てまで、好き好んで雛に近づこうとするものはいなかった。尤も暮らしは少々難儀で、神であるはずなのに住処に祠ひとつ持てはしなかったが、それでも目の前でばたばたと人が死んでいくような場所に住むよりは、余程快適であった。人々の信仰も弱くなり、力もさほど持てはしなかったが、信仰する人間を次々取り殺す悪霊のようなものに成り下がるよりは余程よかった。
寂しくはなかった。元来神は群れることをしない。たまに孤独を心配する人間もいたが、それは人間の価値観である。要するに、雛は現状にたいそう満足していたのだった。
ところが人間はそうは考えなかった。いや、人間はというより、この青年は、である。死にそうな顔をしてまでこの樹海へ来て、雛を探していたのだそうだ。彼は雛を見つけるなり、死にそうな顔から一転して、喜びの表情を雛へ見せた。
「雛様、やっとお会いできました」
少し疲れたような表情をしているが、優しく誠実そうな顔をした青年であった。まだ微かに幼さの残る頬が初々しく、瞳にはキラキラとした確かな光が宿っている。服装は地味だが、それが却って彼の人となりを物語っているように、雛には思えた。
彼は土の上に跪き、両手を組んだ。未だたじろぐ雛へと、目線を一切外さないままに。
「人里の外れで貴方を一目見たその時から、ずっとお会いしとうございました」
「ああ、そう……?」
二人はそれっきりほとんど何も話さなかった。結局彼は土産とばかりに幾らかの作物を置いただけで、後は挨拶もそこそこあっという間に去っていった。雛はひどく不思議に思いながらも、彼の背中をしばらく見送っていた。
こんなことをするためだけに、危険を犯してまでここに来たというのだろうか。暗い樹海ではすぐに彼の背中は闇に消える。雛はその日じゅう首を傾げていた。雛には彼の気持ちが何もわからなかった。
雛が再び彼を見つけたのは、翌日の午後、彼が樹海で迷い呆けている時であった。彼は雛と再開するなりまた、疲れた顔でめいっぱい笑う。昨日よりも明らかに辛そうだった。
「雛様!」
駆け寄ってきた彼は再び土産を手に持っていた。この調子であれば、一度はきちんと家に帰ることができたのだろう。一瞬といえど心配させるものだと、雛は呆れたような笑みを返した。
途端、彼は転んだ。雛に夢中になるあまり、足元の木の根に引っ掛かり、湿った土に頭から突っ込んでいった。雛はそれを、助けることはできない。自力で立ち上がる彼の足は少しふらついている。
「こんなになって。ここがどういう場所か分かっているの?」
雛がそう告げると、青年は少し寂しそうな顔をして、こう答えた。
「はい。でも、どうしても雛様に会いたくて……」
彼は指で頬を掻くような仕草をした。何も分かっちゃいないようだと、雛はため息を吐いた。どうして人間はこうも、触れてはいけないものに触れたがるのか。
「気持ちは嬉しいけど、そんなに慌てなくたって、いいでしょう? 私は月に一度、人里近くまで出て行くもの。お供えはその時にしてくれればいい。こんな危険なことをしなくたって―――」
「それじゃダメなんです!」
青年は突然声を張り上げた。雛は少し驚いて、目を丸くした。彼の言うことは、昨日からずっと理解できないことばかりだった。ここで彼は急にはにかんで、頬を掻くような仕草をした。
「俺は……雛様のお傍に居たいのです。本当なら、美しい貴方を四六時中見ていたい。それが叶わないのなら、せめて毎日、貴方の元へ」
「馬鹿な」
雛は鼻で笑った。疫病神の傍になど居れば、弱い人間は当然大量の厄による不運を浴びて、最悪は死に至る。彼は何を思って死にたがるのか。雛は考えることを放棄して、彼を笑った。もはやそうすることでしか、答えられなかった。
彼は自らの死と雛を天秤にかけ、そうして雛を選んだというのだ。戯けと言わずして何と言うか。
「人間も愚かになったものね」
「愚かかもしれません。しかし俺は、この感情の止め方が分からないのです。貴方が傍にいなければ、気持ちだけが脈々と高まり、どうにかなってしまいそうなのです」
「変なの」
雛は毒づきながら、しかし何となく説得されてしまって、彼を無碍にしたくない気持ちが高まっていた。彼の目や言葉にはそれだけの輝きがあり、確かさがあった。雛は彼の厄を受け取ってやることにした。まこと愚かな人間ではあるが、少なくとも雛への信仰心だけは立派なものに相違ない。
「手を出して」
雛はそう思って、おもむろに右手を差し出すと、青年が今更のように戸惑った。彼は顔を真っ赤にして、恐る恐るといったように雛の右手に両手を添えた。片手でよかったが、まあよい。雛はその両手を両手で包む。彼の手の甲は、顔と比べると随分ゴツゴツしていて、傷も多かった。さてほんの少々の時間を経て、彼の身体に纏わりつく厄を、雛は吸い取るように根こそぎ奪った。彼の疲れた表情が少し和らいだ。
厄除けの時間は、雛が唯一人間に触れられる時であった。しかも力を消費するので、あまり何度も行うことはできない。
「貴方、この樹海を通ったせいで、かなりの厄に憑かれていたのよ」
雛がそう告げると、青年はなぜかはっとしたような顔をする。
「あっ。や、厄ですか……ありがとうございます」
この辺りで、さすがの雛も青年の心に気が付いてくる。しかし知らない振りをして、手を離した。
「私が受け取ってあげたから、もうしばらくは安心。けど、この樹海に入り浸ると、どうなるか分からないよ」
青年は仄かに頬を高潮させながら、しかし複雑そうな顔をした。この分だと、また自分に会いにくるだろうな、雛は思った。
そして、その予想は的中することになる。
出会いから一年も経った。それでも青年は樹海に訪れることをやめなかった。毎日のように厄を引き連れてくるものだから、雛としては危なっかしくて仕方ない。結局彼が来るたび厄除けをして、彼はそのたび頬を強張らせていた。
さすがにこれだけ接触が続くと、雛も彼の扱いに慣れて、いつしか顔馴染みの関係を通り越していた。
彼は農家の家に次男坊として生まれたが、家計補助のため、家で一人だけ出稼ぎに大工仕事をしているらしい。一度だけ彼は、毎日毎日怒られてばかりで大変なんです、僕が仕事をできないせいですけど、と笑いながら雛に向かって愚痴をこぼしたことがあった。
彼は誠実だったが、大工というには少し身体も気風も頼りない感じが、雛にはしていた。
所詮人間、ということなのかもしれない。いくら雛の力が小さくとも神は神、それから見れば人間などちっぽけで可愛い存在。まして彼はまだ若い。頼りなくて男らしく見えないのも、それでは仕方ないのかもしれない。
ただ、彼は心の芯だけはやたらに太かった。事実一年じゅう雛に付き従った彼は、その間雛の嫌がることは何一つしなかったし、雛を喜ばせるためなら何でもやった。彼が大工だと聞いたとき、雛はつい祠を作ることをねだってしまったが、彼は快く引き受けてくれたし、多少時間はかかったものの見事完成させてしまった。小さなものだったが、樹海の片隅に佇むには充分だった。今では雛の宝物だ。
ある日には、彼は雛に農作物でなく、花を贈った。二人とも花に詳しくはなく、名前も分からなかったが、丁寧に色分けされたブーケは、雛の忘れかけていた女心をくすぐった。雛はこれを自分の祠の前に飾って、彼に「これも宝物にするね」と約束した。
またある日、雛は手作りのお守りを彼に贈った。人間にお守りを寄こすことはこれまでにも何度かあったが、このお守りは特別製である。そんじょそこらのお守りとは訳が違う。桃色と藤色、二つで一つのこのお守りは、片方を雛が、もう片方を彼が持つことで、厄の流れを作り強力な厄除け効果を発揮する。
彼はこれを受け取って相当嬉しかったようで、人里じゅうに吹いて回ったというのは、後に雛が月に一度の山下りをしたときに里人から知らされたことだった。
雛が思うに、彼は幸せなのだろう。雛と話す彼は生き生きしているし、笑顔が何より美しい。
彼と同じくらいの里の青年に聞けば、最近の彼は仕事に精を出し、真面目で誠実に生きる好青年になったと評判であるそうだ。里の好々爺は、彼は急に顔つきがよくなったと話す。雛は彼が清く生きていることは分かっていたし、彼がどれだけ雛を信仰しているかも分かっているから、自分のために彼が生き生きしていることが嬉しかった。
しかし同時に、これがいつまでも続くことはないのだろうとも感じていた。彼は最近、同じ悪夢をよく見るようになったという。孤独の恐怖に苛まれながら、暗闇のなかを目的もなくひたすら彷徨い続ける夢。自分には目がなく何も見えないが、なぜか体じゅうが痛くて、重い。肩からずっしりとくる重圧に、身体より先に床が耐え切れず、穴が開き、落ちてしまう。そうして落下しながら、「ああ、俺は地獄に行くんだ」と悟るように思ったところで、目が覚める。
盲目の恋をする彼にも、罪の意識はあったのかもしれない。
「雛様、いつもありがとうございます」
この日、樹海の大きな切り株の上で、彼は雛の膝の上に頭を乗せながら、不意にそう言った。雛は悲しくなって、彼の髪を撫でる手が震えた。
「いつも、俺の我侭を聞いてくれて」
「我侭だなんて、そんな」
雛の言葉に、彼は微笑みで答えた。
「嬉しいよ、貴方が幸せそうで」
樹海は相変わらず薄暗くて、どんよりとしている。天気は分からない。ただ、二人の間にある空気は穏やかだった。
「我侭ついでに、もうひとつ我侭を聞いてくれませんか」
彼は微笑みながら言った。答えを分かっていて聞いているのだろう。雛は何も言わずに、微笑んで返す。
「俺」
言いかけて、照れたように目を逸らし、頬を掻きながら、彼は続けた。
「雛様に抱かれて眠りたい。雛様の香りに包まれながら、雛様のお優しい心に触れながら、雛様腕に抱かれて、安心したまま眠りたいのです」
甘えるような瞳。頬は真っ赤だった。
可愛い我侭だ。雛はこそばゆい気持になった。
だからこそ、雛は迷った。彼と居ると、自分が厄神であることをしばしば忘れそうになる。眠ったままの彼を雛が抱き締め続けることは、一晩中雛の厄に当てられることを意味する。そんな重大なことを忘れて、つい二つ返事で許してしまうところだった。
「だめ、ですか」
彼の表情がしゅんと暗くなる。どの表情もが初々しく、愛らしい。雛はすっかり参ってしまった。
それほどまでにこの人間が私の傍に居たがるなら、と。
相応の代償を受けるにせよ、この人間が幸せならば、と。
「いえ……貴方がそこまで言うなら」
そうして、雛は間違いを起こした。
翌々日、樹海に現れた彼は右腕全部に包帯を巻いていた。目を丸くする雛に向かって「仕事で失敗してしまいました」と、いつもと同じ照れ笑いを見せた。
無論、そんなことで雛の心配は拭えなかった。胸が張り裂けそうな気持になった。あの晩のせいであることは明々白々である。彼は厄に当てられ、既に体中に染み付いてしまっていた。
生まれて初めて二人で目覚めた朝、雛はその余韻もどこへやら、真っ先に彼の厄を除けた。にも拘らず災厄が降り注ぐのは、その時には既に手遅れで、彼の身体を厄が癌細胞のように蝕んでしまっていたからだろう。
こうなってしまっては、雛はただの疫病神である。彼女の弱い力では、彼から厄を引き剥がしたとて、もはや何の意味もない。せいぜいこれ以上厄に蝕まれないよう、距離を置いておくしかない。
雛の様子が明らかにおかしかったのか、青年はとにかく笑って元気を訴えた。包帯はしていても肩を回すぐらいならできたので、少々笑顔が引きつったが、それもやってみせた。
それに雛は苦笑いをして答えた。あれだけ魅力的だった彼の笑顔が、今日は全く虚しく見えていた。
彼を心配するあまり、余程、もう来ないでほしいと言いたかった。それができなかったのは、彼の幸せは雛とともにあることだと、雛自身知っていたからだった。
だから雛はこう言った。
「私のお守りを、肌身離さず持っていてね。貴方の怪我が治るように、精一杯のおまじないをかけてあげるわ」
彼は驚いたような、しかしとても喜ばしい表情をした。
言葉通り、その日から雛は一生懸命、彼を救うために尽力した。お守りに力を込めた。ありったけの彼の厄を受け取った。この際手段を選ばずと、別の神様にも懇願した。
どうかあの愚かな、しかし私の愛しい人間が、無事に天寿を全うしますように。自身が神であるにも拘らず、星に、太陽に、山に、願った。
一週が経った。この間、彼は一度も樹海に現れなかった。
雛は孤独に苛まれていた。不安というよりは、空虚であった。彼女の行動は真一文字の様子であったが、その実心中はどこか諦めが見え隠れしていて、彼女はそれを必死に誤魔化していたのだった。一心不乱願いながら、他方でけして人里まで様子を見に行かなかったのも、その辺りの心理が働いていた。
なんて薄情な神だろうと、雛は自分で自分を蔑んだ。祠の前で、彼女は蹲っていた。こうなりたくなかったがために、今まで人間と過度に接触することを拒んでいたのに。どうして私は彼に気を許してしまったのだろうと自問自答すると、ふと彼の照れたような笑顔が頭に浮かんだ。
彼から貰った花が、もうすっかり枯れてしまっていた。
彼の居ない一月は、長い長い時間だったように思う。雛は一月ぶりに人里に下りたとき、真っ先に里の好々爺から、彼が死んだことを知らされた。彼が樹海へ来なくなったのは、病気に罹って歩けなくなったからだったそうだ。
あぁ。雛は嘆息した。薄々感づいてはいた。だが、それでも認めたくなかった。雛の心にあるぽっかり開いた空間が、大きく広がったのが自覚できた。何も言葉が出なくなったが、翁の遺憾そうな表情だけが、かろうじて認識できた。
彼の墓は里の中心から少し離れた墓地の、さらに外れにあった。好々爺が言うには、青年の家族が、雛が訪れやすいようにと配慮してくれたらしかった。怨まれると思っていたから、意外であった。
小さな墓石には、雛のお守りが添えてあった。藤色のそれは、厄を受けすぎて壊れてしまっていた。
雛はその隣に花を携えた。彼が渡してくれた花のうちひとつと、同じ種類の花を。ただその花は、雛がここまで持ってくる間に、厄によって萎れてしまっていた。
雛は墓に向かって囁いた。亡き人に萎れた花を贈るなんて非情だけど、どうか許してください。貴方と一緒に過ごした時間は、幸せでした。ありがとう。それから―――
そこで彼女は、初めて彼のために泣いた。空虚だった心の隙間は、彼の愛情と思い出で埋め尽くされていた。
―――これほど信じてくれた人を救えなかったこと、とても後悔しています。ごめんなさい。
そう言ったつもりで、しかし声は震えて殆ど出ていなかった。
雛はそれから、ただひたすらに泣いた。こんな気持ちを教えてくれたのは、彼に相違なかった。その彼が、まして自分のせいで、もういない。
数刻。彼の、歳の離れた兄の足音に気付くまで、雛は泣くことをやめられなかった。喪服に身を包んだ兄は悲しそうに笑って、雛を迎えた。彼とはあまり似ていなく、すぐには気付かなかった。
「雛様」
ただ、そう呼ぶ声の調子はやけによく似ていたから、それで理解できたのだった。雛は真っ赤に腫らした目で兄を見上げた。
「弟がどれだけ心を弾ませ、貴方のために救われたか、里のみんながよく知っています。どうかあまり自分を責めないで」
穏やかにそう言って、兄は雛に手紙を差し出した。雛は震える手でそれを受け取ると、ますます胸の痛い思いがした。雛様へと細い字で弱々しく書かれた文字は、しかし彼らしくもあった。
手が震えて紙をくしゃくしゃにしそうだったが、雛は綴られた言葉ひとつひとつをゆっくりと噛み締めた。そこには彼らしい愛嬌ある言葉が幾つも散りばめられていた。
そうして読み終えたとき、雛に僅かながらも笑顔が戻っていた。彼女は彼の墓に微笑みかけ、もう一度、ありがとう、と震える声で彼に伝えた。
面白かったです。
いつの間にかこてんと転んでしまったような。あれっ、もう終わりなの?という気分です。もっとこの独特な雰囲気と文章を感じていたかったなぁ。
雛さま可憐