Coolier - 新生・東方創想話

天翔ける日よもう一度

2023/06/14 23:09:01
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「出せえええっ!!」

薄暗く湿った牢獄に猛獣の雄叫びが響き渡る。
早鬼は自慢の脚力で忌々しい鉄格子を何度も蹴りつけるも、びくともしなかった。ここは広大な地獄の片隅に配置された牢獄の一つで、地獄に堕ちるような手のつけようのない極悪人や荒々しい亡者の収容が主たる目的なだけあって、小規模ながらも堅牢である。

「うるせえぞ、畜生界のヤクザめが!」

どこからか罵声が飛んでくる。近くに牢番はいないのか、そいつを恫喝してやると息巻いて鉄格子にかじりつくも、それらしき影はなく、鍵も当然ながら見当たらない。手の届かない場所にぶら下がっているこれまた頑丈そうな錠を、早鬼は忌々しげに睨み付けた。

「暴れても無駄ですよ」

同じ檻に囚われたもう一人のヤクザ者が、早鬼を冷ややかに見つめていた。早鬼の宿敵の一人、鬼傑組の組長・吉弔八千慧である。早鬼は自慢の筋力で自分の手足に繋がれた枷の鎖は即座に引きちぎったが、八千慧は自分を牢獄に繋ぐ枷を外そうともせず、まして早鬼に加勢しようとすらせず、普段通りの冷静沈着な構えのまま大人しく座っていた。
八千慧の澄ました態度に早鬼はカチンとくる。こいつと一緒にブタ箱にぶちこまれただけでも不名誉なのに、脱出するそぶりすら見せないとは何事か。

「吉弔! 偉そうにふんぞり返ってないで、お前も少しは脱出する手伝いをしろよ!」
「雨垂れ石を穿つとでも? 鎖はともかく、貴方の馬鹿みたいな怪力でもこの鉄格子は壊れないんです、何度試しても無駄だといい加減わかるでしょう」
「やってみなけりゃわからないだろ!」
『驪駒様、落ち着いてください』

そこへ、同じく収容された部下のオオカミ霊がおろおろと親分を宥めにかかる。ギロっと睨みつけると、怯んだオオカミ霊に代わって、もう一頭のオオカミ霊が臆することなく進言してきた。

『決して吉弔めに同調するわけではありませんが、このままでは驪駒様のお御足が痛むばかりです。別の手段を考えましょう』

そう言いながら、一対のオオカミ霊は霊体を活かして鉄格子をすり抜けられないかと試みるも、何かしらの結界が張ってあるのか、オオカミ霊が近づいても弾かれるだけだ。
悔しそうに地団駄を踏むオオカミ霊を尻目に、八千慧は冷たい石の壁をぺたぺたと素手で触る。八千慧のそばに、本来ならつと寄り添っているべきカワウソ霊の姿はどこにもなかった。

「シンプルな石造りとはいえ、よくできている。獄囚を簡単には逃さないためのものなのでしょうね。ぜひ我が組の搦手にも参考に取り入れたい」
「さっきからお前はなんでそう冷静でいられるんだよ。部下とはぐれたくせに」
「足手まといならついてこない方がマシです。ただでさえ狭い牢獄が窮屈になるだけでしょう」
「……お前」

ここに閉じ込められてから、いや、さらに遡れば八千慧に遭遇した時から早鬼はずっと機嫌が悪かったのだが、八千慧から吐き捨てられた侮蔑すら滲む冷たい言葉によって怒り心頭に発し、ずいと詰め寄った。

「何ですか?」
「吉弔よお。確かに部下ってのは役に立たない、言うことを聞かない、気が利かない、思い通りにならなくて私だって頭に来る時も度々ある」
『く、驪駒様……』
「けど一度盃を交わした相手なら、何があろうと全力で庇ってやるのが親分の義理ってもんじゃないのか! 少なくともカワウソ連中はお前を慕っているだろう!」
「ずいぶんお熱いですね。いっぱしの任侠でも気取ってるんですか。義理と人情を兼ね備えたヤクザ者なんて幻想ですよ。――それとも例の、貴方のご自慢のご主人様を思い出してるんですか?」
「ああ、少なくとも太子様は同じ知性派でも、お前みたいないけすかないインテリじゃないからな! ふんっ、こんな牢獄がなんだってんだ。さっさと脱出して、お前なんかとはとっととおさらばして、私は太子様に会いに行くんだ!」

最後に勢いよく啖呵を切ると、いくばくか気持ちがすっきりして、早鬼はそれ以上八千慧に絡むのをやめた。オオカミ霊は何やら感慨に咽せいでいるようだった。日頃ブラックな頸牙組で散々こき使われているというのに、お頭は早鬼ほど悪くないはずだが、情に絆されやすくて単純である。早鬼もまた単純明快なやり方を好む口であり、似た者同士で主従の絆が成立しているのだ。
それはさておき、二人はなぜこんなところに閉じ込められているのか。経緯を話せば長くなるが、端的に言えば早鬼はかつての主人・太子様こと豊聡耳神子に会いたかったのである。
早鬼は長年畜生界の天下を賭けた抗争に明け暮れ、幻想郷に復活した神子の噂を耳にしつつも、挨拶一つ入れられないまま早数年が過ぎてしまった。
先日、例の埴輪軍団騒動の時に、八千慧の策で連れてこられた生身の人間達を見て、

「畜生界に人間が来られるなら私が地上に顔を出したっていいだろう。そうだ、この機に太子様に会いに行こう!」

と急に思い立ったのだ。
しかし早鬼も一組織の頭として忙しい身の上である。ようやっと邪魔っけな埴輪軍団を追い払えたと思ったら、同盟を結んだはずの饕餮尤魔が密かに旧血の池地獄の石油に目をつけていたとかで一悶着あり、さらにお隣の地獄で何やら揉め事があったとかで、あちこちのしがらみに巻き込まれるうちに、すっかり神子に会う機会を逃してしまった。
それでも早鬼はたびたび地上に顔を出すようになったし、機会ならいくらでも作れたはずなのだが、何を隠そう早鬼は根っからの戦闘好きだ。地上には畜生界では滅多にお目にかかれないような強くてタフな連中がうようよいるのである。新たな妖怪や人間を見るたびに戦闘好きの血が騒ぎ、単純な早鬼の目的はたちまち『太子様に会いに行く』から『私より強い奴に会いに行く』に変わってしまうのだった。存分に暴れて満足して畜生界に凱旋した後になって、ようやく神子に会う目的を失念していたのを思い出しては落胆する、というパターンを何度繰り返したかわからない。
誤解のないように言っておくと、決して早鬼が神子を弱いと認識しているわけではない。殿堂入りみたいなものだ。
それでも今日こそは、と気合いを入れて地上へ向かうべく出かけたのはいいが、畜生界と地獄界の境目あたりで宿敵の八千慧と会ってしまったのがまずかった。短気な早鬼は八千慧に挑発されると頭に血が昇って、部下を率いて抗争が始まり、運の悪いことに地獄の内輪揉めでピリついていた獄卒連中に見つかり捕まってしまった。
普段なら彼らは『お隣さんの事情に首は突っ込むまい』と黙殺を続けているのだが、一方で年々激しさを増す畜生界の抗争に手を焼いているのも事実である。どうやら巡回していた獄卒達は選りすぐりの精鋭だったらしく、必死の抵抗も虚しく早鬼と八千慧は獄卒に検挙され、牢獄にぶち込まれた。その時に八千慧は部下のカワウソ霊とはぐれたのだ。
状況は最悪といっていいにもかかわらず、八千慧はなおも平然と構えている。

「言われなくとも、私だって脱獄策くらい考えています。このまま牢獄で貴方と二人お陀仏なんて死んでも御免ですからね」
「よく言うよ、もう死んでるくせに」

早鬼は「御陀仏なんて胸くそ悪い」と吐き捨てるように言う。神子が重んじないものは早鬼も重んじない、というより、早鬼のお頭では難しい仏教の経文の意味がちっともわからないのである。
もう一度鉄格子を蹴り飛ばそうかと思った早鬼を八千慧が呼び止めた。

「だから、同じことを繰り返しても無駄だと何度言えばわかるのです」
「うるさいな、お前がちんたら策略とやらを練っている間も働いてやってるんだ、文句を言われる筋合いはないね」
「まあ落ち着いて私の話を聞きなさい。馬鹿とナントカは使い様と言うでしょう」
「お前わざとハサミの方を伏せたな?」
「貴方の力は、使い方を誤ればただの無能な馬鹿力。しかしここぞという好機を、天候を、地の利を、人脈を活かせば、百万馬力を発揮するのも夢じゃない。その点だけは評価していますよ」
「な、なんだ? お前が私を素直に褒めるとは気持ち悪い。何か裏があるな?」
「はあ。私がせっかく貴方に策を授けてあげようと謙っているのに、聞く耳を持たないんですね、豊聡耳のご主人とは大違い。ペットは実は飼い主に似ないんでしょうか」
「どこが謙ってるんだ、どこが! お前みたいな傲慢な奴の考える策なんてろくでもないに決まってる!」
「おや、事あるごとに『吉弔の奴がなんとかする』とのたまったのはどこのどなたでしたっけ。作戦を考えろと言ったのは? もしや貴方の翼は天馬ではなく鳥頭の鳥のものでしたか。いやはや、私としたことが空目をするとは」
「吉弔~!!」

再びカチンときた早鬼が八千慧に蹴りを入れようとしたその時だった。
堅牢な牢獄すら縦に揺れる地響きが起きて、早鬼は両膝を石の床にしたたかに打った。

「な、なんだ、地震か?」

痛む膝をさすりながら立ち上がると、外から「奇襲だー!」と叫ぶ声が聞こえてきた。次いで早鬼達を閉じ込めたっきり一度も姿を見せなかった獄卒の鬼が血相を変えて飛び込んできた。

「お前ら、一体何をした!?」
「は、はあ? 何をって、この邪魔くさい鉄格子を蹴っ飛ばしてただけだ」
「馬鹿な! だとしたらあの大量の動物霊は……うわっ!」

何やらわけのわからないことを一方的に喋って、獄卒は逃げてしまった。その間にも地響きはひどくなるばかりで、頑丈な石の牢がみしみしと嫌な音を立て始め、天井からは砂埃すら降ってくるようになった。さすがに早鬼も焦った。このまま石の下敷きになって圧死だなんて冗談じゃない。

「おい、せめて鍵は開けていけ! 捕虜の安全確保も立派な仕事だろうが!」

早鬼の必死な叫びが届いたのか否か、先ほどの獄卒とはまた違った輩がやってくる。こいつは早鬼達の牢獄に鍵をかけた張本人の牢番だった。
牢番は地獄の無慈悲な獄卒らしくもなく、焦燥し切って青ざめていた。よく見ればあちこち傷だらけだが、そんなことより、牢番が腰に鍵を下げているのを早鬼は見逃さなかった。
早鬼が鍵を奪おうとしたその瞬間、「お前ら、よくも……」とうめき声を上げ、目の前で牢番は倒れてしまった。牢番の背後には、八千慧とはぐれたはずの部下・カワウソ霊がいた。

「あーっ! お前は!」
『やりましたよ、吉弔様! すべて作戦通りです!』
「ご苦労。さっさとその鍵で牢を開けなさい」
『はっ!』

命じられるや否や、カワウソ霊は牢番から鍵を奪い取って錠に刺した。どうやら鍵が開くと同時に結界も解ける仕組みになっているらしく、カワウソ霊は容易く鉄格子の隙間を抜けて八千慧の元へ跪いた。
八千慧はするりと身を捩って――ずいぶん身体が柔らかい――両手を縛る枷から手を引き抜いた。早鬼はオオカミ霊と揃って唖然とするばかりである。間抜けに口を開けたままの早鬼を見て、八千慧はにやりと笑った。

「全員一網打尽にされれば面倒ですから。あらかじめ部下には別行動をするよう命じておいたのです」
「吉弔、お前……」
「何か早とちりをしているようですが、私は〝自分の部下〟が足手まといだと言った覚えはありませんよ」
『へん、搦手と奇襲の鬼傑組を侮るな!』
「……組長に似て口達者な部下だわ」

早鬼は自分ごとまんまと出し抜かれたようで納得がいかないが、文句を言う暇もない。何やら爆破音らしきものまで聞こえてきた。牢獄の倒壊が近かった。

「もう何でもいい! 説明は後で聞かせてもらうからな、とっととずらかるぞ!」
「待ちなさい。部下達には牢獄中に罠を仕掛けられるだけ仕掛けるよう命じておきました。正面口から抜け出そうとすれば貴方も木っ端微塵ですよ」
「はあ!? お前なんてことしてくれるんだ!」
「何も正面だけが道ではないでしょう。……おや、こんなところにほころびが」

八千慧はこれ見よがしに自分の座っていた真下の石を指差す。ぼこっと音がして、別のカワウソ霊が侵入してきた。この抜け道も密かに部下に掘らせていたらしい。一切動かなかったのは、獄卒の監視の目を避けるためだろうか。周到というか抜け目がないというか。

『ぷはあー! 私はカワウソであってモグラじゃないのにー』
「上々ですよ。しかし、この狭さでは貴方達はともかく、私達が抜けるにはいささか窮屈そうですね」

そこでまた八千慧は早鬼に視線をよこす。この意図ばかりは早鬼にも読めた。
力は使い所を見計らってこそ。早鬼の脚力でぶち抜けというのだ。

「しょうがない、お前に従うのは癪だが、今は緊急時なんでな!」

ありったけの馬力を込めて、早希は小さな穴ぼこにかかとを落とした。

「はあっ!!」

鈍い音を立てて、地下の空洞が一気に広がった。一応、カワウソ霊なりに広く掘るようには心がけていたようだ。

「よし、これなら余裕で通れるな。行くぞお前ら!」
『はい!』

オオカミ霊を駆り立てつつ自分も穴を降りようとして、早鬼は一度振り返り「吉弔!」と呼びかけた。不本意ながら彼女と彼女の部下の力を借りてしまった以上、礼は言っておかねば気が済まないのだ。

「悪くはない作戦だった。この借りは後できっちり返してやる、抗争の続きもそれまでおあずけだ。じゃあな!」

颯爽と地下の穴蔵を駆け抜けていった早鬼は、八千慧が密かに笑ったのに気づかなかった。

「……本当に、馬鹿と天馬は使い様ですね」

即座に笑みを引っ込めた八千慧もまた、カワウソ霊と共に崩れゆく牢獄を脱出した。



さて、所は変わって、こちらはこの世とあの世の境目、三途の河の手前にある賽の河原である。
普段は決して生きる者の来るはずがない場所に、二人の聖人が並んでいた。

「不思議だな。この先は死者の世界に通じているというのに、川の流れは恐ろしいほど静かで穏やかだ」
「ゆく川の水は……この水だって、いつも同じものを湛えているわけではないのですよ」
「流石、三途の河底をぶち抜かせた奴は言うことが違うな」
「緊急事態だったんだもの。仏様も見逃してくれるわ」
「お前はずいぶん都合のいい仏様を拝んでいるのだなあ」

死者の世界にまでやってきて、呑気な会話を交わしているのは神子と白蓮である。

『一緒に地獄へ行かないか?』

命蓮寺に来た神子にそう言われた時、白蓮は新しい決闘の誘い文句かと勘違いした。ところが神子の提案は文字通りの地獄行きだったのである。

『貴方はそんな場所に足を運ぶのを嫌がるかと思っていましたが、どういう風の吹き回しです?』
『一生縁のない場所だと思えば、かえって腹を括って足を踏み入れようと思えるものだ』
『一生って、まさか本気で死神のお迎えを振り切るつもり?』
『死ななければどうということはない』
『無謀だわ。とはいえ、貴方のことですから、ただの酔狂とも思えませんけど……』
『ああ。時に白蓮よ、ペットの面倒は最期まで見るのが飼い主の務めだな?』
『当たり前でしょう、極めて重大な責任です。最近はそれを忘れている人間も少なくないようですが』
『……まさか死後まで面倒を見ることになるとは思っていなかったよ』
『貴方、少し長く生きすぎたんじゃないの』

項垂れる神子に、白蓮はそっけない返答をした。
畜生界の抗争に地上の人間が巻き込まれて以来、地上には畜生界の動物霊がちょくちょく顔を出すようになっていた。聖徳太子の愛馬にして畜生界の組織・頸牙組の組長、驪駒早鬼もその一人である。
畜生界の霊が地上に来ていいのか――そんな疑問は冥界と顕界の境や地底と地上の不可侵が緩んでから、みんなどうでもよくなっているようだ。
問題は死霊と生者の交流ではなく、早鬼が極めて好戦的で喧嘩っ早く、自分が〝強い〟と見込んだあちこちの人間や妖怪に喧嘩を売って回っていることだ。私的な決闘なら幻想郷ではよくあることなので無問題のはずだが、早鬼の場合はあまりに度がすぎるのか、ヤクザ者の頭がしょっちゅう顔を出すのに怯えているのか、最近は神子の元に早鬼に関する苦情が絶えない。
そんなこんなで神子は「うちのペットがどうもすみません」と方々に謝る羽目になっている。そもそもなんで元の主人に挨拶に来ないんだ、という不満はあるが、あの直情的かつ単純な早鬼の性格を思えば、その場その場の戦闘に熱狂して神子をうっかり失念しているのは想像に難くないのだった。

『こうなったらもう私が直々に畜生界まで会いに行って話をするしかない。――白蓮』
『は?』

やにわに神子は身を乗り出して白蓮の手を両手で握った。さすがに白蓮も困惑する。

『頼む、一緒に来てくれ』
『え、いや、何言ってるんですか。貴方のペットの事情なんて私には関係ないわ。自分の部下を連れて行けばいいでしょう』
『いいやお前じゃなきゃ駄目だ。暗く険しい地獄の道もお前なら強くて頼りになるし、安心して背中を預けられる』

神子の口調は熱っぽい。何やら自分に酔っているような気配すらある。
情熱的な口説き文句の裏に、そこはかとない胡散臭さを読み取って、白蓮は白い眼を向ける。

『要は商売敵の私なら道連れにしても構わないというわけね』
『なんだ、もうちょっと騙されてくれてもいいのに』

神子はあっさり手を離して、白蓮はため息をつく。

『台詞がクサすぎるのよ』
『いやあ、さすがの私も可愛い部下達を地獄の道連れにするのは良心が痛むものでね』
『道連れ同然に復活まで付き合わせておいてよく言うわ』
『というわけで、お前も来い』
『何が〝というわけで〟なんです』
『どうせお前の来世は地獄行きなんだから今のうちに下見をしておいてもいいんじゃないか?』
『お引き取りください。僧侶に向かって無体な言い方をする人には付き合いきれません』
『なるほど。断るのか。先日の石油騒動ならびに水漏れ騒動にお前達が関わっていると吹聴しても構わないと』

神子の意地の悪い言い方に、白蓮は微かに眉を動かした。灼熱地獄の冷却によって守谷神社の融合炉も水没するのは想定内だったが、その水が地上にまで漏れ出し少なからず影響を出したのは少々予想外ではあった。神奈子は神様らしく寛大なためか、あるいは恩を売りつけたかったのか、笑って許してくれたものの、さて、この厄介な商売敵はどんな手段でこちらの信仰を奪おうとしてくるかわからない。

『貴方らしくもない強請りだこと。ペットが飼い主に似るのではなく、飼い主がペットに似たのかしら』
『人をヤクザ者扱いするな、私は人のために動く道士だ』
『その人のために動く道士様が、人々が水没に困っている中、みすみす静観の構えで治っていたなんてね』

こちらも負けじとやり返せば、わざとらしく笏で口元を隠す。神子は白蓮のやり口を『石橋を叩いて手を痛める』と評するが、普段は目立ちたがりなくせに肝心な時に叩きも渡りもしない神子のやり口もどうなのだ、と白蓮は思っている。

『まあ、いいでしょう』

それでも熟考の末、白蓮は神子の頼みを承諾した。伝説に聞く聖徳太子の愛馬を直々に見れるのなら悪くない。

『旧地獄でしたら、私の仲間が封じられていた縁で少しは顔が効くわ。貴方に地獄で一人野垂れ死にされても後味が悪いし、しょうがないからついて行ってあげましょう』
『お前ならそう言うと思ったよ。お前の実力を信頼しているのは本当だからな』

というわけで、二人の地獄めぐりが始まったのであった。
なお、生者が地獄ならびに畜生界を通るには許可が必要なのだが、妖怪の山にいた庭渡神と交渉した時も、

「あー、貴方があの驪駒の飼い主? あの暴れ馬には本当に迷惑してるんですよ、飼い主ならちゃんと手綱を握ってください。地上に抜け出されるたびに地獄が騒がしいの何の……そちらのお坊さんも、あまり罰当たりな真似を重ねると死後の罪が重くなりますよ?」

と、二人に対する風当たりは強かったが、閻魔への打診は円滑に進み、通行許可自体はあっさり降りたのだった。
それにしても、と神子は改めて三途の河の静かな水面を見やる。何をどう考えれば舟幽霊の能力で水底を抜かせようなんて思いつくのだろうか。

「お前もなかなかどうして、涼しい顔をしてとんでもない作戦を実行に移す。仏罰が恐ろしくないのか? 山の神だけならまだしも、下手したら閻魔王の怒りを買って通行止めを喰らっていたぞ」
「通してもらえたのだからいいじゃありませんか。どうも閻魔様は地上からの侵入者より地獄の脱走者の方がお嫌みたいね」
「あれは比類なき駿馬であると同時に、私以外の手には負えない暴れ馬だからな。そのうちお前の寺にカチコミに来るかもしれないよ」
「そんな、困ります、お寺で殺生は禁じているのですから。可哀想に。飼い主が不甲斐ないばかりに、哀れなペットが死してなお生き恥を晒すなんて……」
「お前迎え撃つ気満々だな?」
「命蓮寺流のおもてなしをいたしますわ」
「あいつが地上の作法をわかっているかどうか。たとえ礼儀知らずな言動を取ったとしても私の責任ではないな」
「あら、飼い主としての責任と言った舌の根も乾かぬうちに」

などといつもの調子で軽口の応酬が始まる。別に二人に死後の世界へ進む躊躇いがあるわけではないのだが、いつまで経っても先へ進めそうにない。

「そろそろ行こうか」
「ええ」

二人は揃って賽の河原を突き進んだ。
あちこちに石の塔の出来損ないが積み上がっており、「一つ積んでは」とお決まりの文句を唱えながら、贖罪のためにせっせと石を積む健気な子供の霊の姿が散見される。神子は子供達の邪魔をしないように素通りしていくが、白蓮は何やら歩みが遅い。子供と石を見比べてはいちいち足を止めているのである。

「何を珍しげな顔をしているんだ」
「いえ、本当に子供の霊がいたんだと思って。私が外の世界にいた頃には、三途の河のほとりに賽の河原があるなんて言われていなかったのよ」
「私が昔見た経典にも見当たらなかったな」

そもそも賽の河原の伝承や地蔵和讃は、仏教の経典から発生したものというよりは、民間伝承に近い。それも中世から近世あたりに成立したため、飛鳥生まれの神子や平安生まれの白蓮が賽の河原の仔細を知らなかったのも当然だった。
白蓮はいずれ鬼に石を崩される悲劇を思ってか、苦しげに胸に手を当てる。

「子供だけでなく、水子までこんなところに集められてしまうの。……心が痛むわ」
「そうか? てっきりお前は坊さんらしく親不孝の罪を説くものだと」
「何の罪もない幼子にそんな真似をしますか」

白蓮は強く反論する。白蓮としては頑是ない子供に謂れ無い罪を被せるのに抵抗があるのだ。
元より賽の河原に子供はいても、水子はいないはずだった。現代と比べて恐ろしく死亡率の高い乳幼児や胎児を仏教の中で〝供養する〟という考えが、昔の人間には希薄だったためだ。今の賽の河原に水子がいるのは水子を供養するようになったから、つまり最近になって子供や胎児に対する考え方が変わったからなのだろう。
つい最近まで法界に封じられていた白蓮は、仏教の移ろいを人伝にしか知らない。とはいえ、時代が変わりゆく中で、時に仏教が――そして他の宗教も、少々理解し難い変容を遂げているのを、見過ごせはしなかった。
白蓮の面差しが険しくなり、眉間にはしわが寄ってゆく。神子は深くため息をついた。

(まったく、こっちも世話のかかる難儀な奴だ)

神子は両手を伸ばして、唇を引き結ぶ白蓮の頬をつまんでやった。

「な、なに?」
「心の平穏を求める宗教家が心乱れているのはいけないね」

白蓮は真剣に悩んでいるのに、神子は愉快そうに笑っている。むっとしてすぐさま神子の手を振り払った。

「宗教家こそ、迷いの中に身を置くべきなのです。いつ正しくない道に入ってしまうかわからないのだから」
「そうだとしても、表面上は明鏡止水のごとく振る舞えなければならないよ。人を導く者が心細げに迷っていては、民も安心できまい」
「……」
「まあ、私ですらここまで仏教の歴史が長引くとは思っていなかったけど、一度でも権力や金と結びつけば、そういう予期せぬ広まり方をするものだ。今更嘆いても仕方あるまい」
「……」
「お前はこのままここに立ち止まっているつもりか? 仏教を通じて多くを救いたいんじゃなかったのか?」
「……そうでした。うかうかしていると貴方に信仰を奪われてしまうものね」

考えるべきことは山積みだが、今は、仏教の欺瞞に不信感を抱いてまごついている場合ではない。気を取り直した白蓮は、遠方の子供達に手を合わせた。

「では、せめてお地蔵様の代わりに私が念仏を」
「いや私の愛馬に会うんだよ」
「あ、そうでした」

このままでは白蓮が本来の目的そっちのけでいつまでも賽の河原に居座ってしまいそうなので、神子は無理矢理引っ張っていった。

(これだから仏教徒というものは)

神子が思うに、賽の河原にまつわる伝承は、子供に仏教的あるいは儒教的な親不孝の罪を背負わせようとして生まれたのではない。七つまでは神の子とされるほど成長の心許ない子供が、死後どこへ行くのかと昔の人々が切実な思いを巡らせた結果の一つが賽の河原なのだろう。――どの道、仏教への関心を失くした神子が顧みる場所ではなかったが。
後ろ髪を引かれぬよう二人で河原を走り抜けていた、その時だった。

「ちょっと、そこの二人!」

甲高い声に呼び止められて振り返ると、小さな少女が腰に手を当てて憤慨していた。少女の姿を認めて、神子と白蓮は揃って首を傾げた。

「恵比寿様?」
「蛭児命?」

おそらくこの少女も水子の霊なのだが、二人の着目するポイントは違うらしい。白蓮は立派な福耳から七福神の恵比寿天を、神子はぐにゃぐにゃした骨のない身体から日本神話の蛭児命を連想したのだった。

「どっちでもいいけど、あんた達がバタバタ走るから、せっかく積み上げた石が崩れちゃったじゃないの!」

ぷりぷり怒る少女の指し示す先を見やれば、石が散らばっている。元々石だらけの河原なのでわかりにくいが、よく見れば色や形がそこらの砂利とは異なるようだった。

「あら、ごめんなさいね、急いでいたものだから……」
「どうせ鬼が後から崩すんだろう。私達だけに怒っても仕方ないよ」
「今崩したのはあんた達なのよ!」

神子は辟易している。元より水子はここにいないはずのものだし、留めているのは現世の大人の欺瞞だ。なら功徳を積むための石積みだって無駄な作業みたいなものだ。
いちいち構ってられるか、と立ち去ろうとした神子だったが、白蓮は律儀に石を拾い集めている。

「こら、白蓮」
「だって、こんな小さな子の頼みは無碍にできないわ」
「……お前ね、私達の目的を忘れちゃいないだろうな?」

呆れた口ぶりで文句を言いながらも、不思議と身体が動いて、白蓮と共に石を積み上げている神子なのだった。

「うわ、下手くそ。コツがなってないよ」
「うるさいな。私は仏塔作りなんか興味はないんだよ」
「数々の寺社や仏像を建立した人の言葉とは思えませんね」
「でもそっちのお姉さんもセンスない。本当にお坊さん?」
「……む」

あどけなく可愛らしい容姿に反して辛辣な子供である。神子には無意味としか思えない作業だが、少女には石積みへの美学があるらしい。

「石積みだって大変なんだからね、ここの子達はみんな飽きっぽいところがあるし、ただ積み上げるだけじゃ芸がないでしょ? だからいろいろ遊びを考えてるんだけど、どうも最近ネタ切れ気味なのよねー」
「なるほど、遊びか」

そこで神子も無意味だという認識をほんの少しだけ改めた。法華経に『子供が戯れに作った仏塔にも功徳はある』とあるように、贖罪よりも子供の無邪気な遊びに石積みの本質を見出す考え方である。彼女達にとって重要なのはあくまで〝遊び〟なのだ。

「なら、私から一つ提案なんだが、こんな遊びはどうだ?」
「え、なになに?」

神子は積み上げていた石を一度崩し、五つほどの石を無造作に選んで河原に並べた。

「いいか、よく見なさい」

まず、一番右端の石を拾い、お手玉の要領で軽く上に放り投げる。その石が宙を舞っている間に、すかさず神子はすぐ隣に置かれた石を拾い、同じように放る。最初の石がちょうど手元まで落下してきたのを見て、空中でキャッチする。そして今度は真ん中の石を放り投げて、落ちてくる二番目の石を掴んで……それを最後の一つまで繰り返す。最後まで石を一つも地面に落とさなければゲームクリアという寸法だ。

「へー、なんか変わったお手玉みたい」
「神子、もしかしてそれって〝石なご取り〟?」
「なんだ、お前も知ってたのか?」
「平安の頃にもあった遊びよ」

懐かしいわね、と白蓮は目を細める。飛鳥の頃の遊びが平安の時代にもまだ続いていたと思うと、神子は少し誇らしい気持ちになる。
そして肝心の少女はといえば、目を輝かせて神子の手中にすべて収まった石を眺めていた。

「ねえ、これ、単にキャッチするだけじゃなくて、キャッチした石を手の上で積み上げるのはどうかな!?」
「まるで大道芸だな。難しそうだけど、君にできるのか?」
「何さ、私は石積みのプロなんだからお茶の子さいさいよ!」

などと言って、少女は鼻歌まじりに石を拾い集める。気がつけば他の子供や水子達も集まってきていた。

「みんな見てて、さっきの人より、私の方がうまくやってみせるから!」
「大きく出たもんだ。今の私はちっとも本気を出していないぞ?」
「負け惜しみじみたことを言うのはやめなさいな。だけど、私も久々に石なごをやってみたくなったわ」

懐かしさに心を動かされたのか、いつの間にやら白蓮も遊びに乗り気になっている。早鬼のことは依然として気がかりだが、確かに白蓮の言う通り、子供の訴えを無視してしまうのは良心の呵責を覚えなくもない。
神子と白蓮は、しばらく賽の河原の子供達と一緒に石なごに熱中したのだった。



さてさて、またも所は変わって、ここは地獄のどこかしか。早鬼は八千慧とどうにか協力して牢獄を脱出したのはいいが、案の定、外はやたらと殺気立った獄卒連中がうようよしていた。本来なら八千慧とは牢獄を出た時点でおさらばする予定だったのだが、二人して部下もろとも取り囲まれてしまい、早鬼はままならない現状に苛立っていた。

「ちっ、数が多すぎる。今更何を躍起になってるんだか」
「貴方が地上に足繁く通うからでしょう。そのたびに地獄の連中を足蹴にして、目をつけられるのは当たり前では?」
「うるさいな、お前が無駄に奇襲を仕掛けまくったせいでもあるだろ。畜生界には畜生界の輝かしき掟があるんだ、たとえお隣さんでも地獄の連中に邪魔される覚えはないね。全員まとめて蹴散らしてやる!」

威勢よく吠えたのはいいが、はっきりいって早鬼と八千慧の実力をもってしても、さらにオオカミ霊とカワウソ霊の戦力を合わせても、所狭しと集まった獄卒連中を相手に正面からやり合うのは分が悪い。
早鬼はオオカミ霊を引き連れて獄卒の群れに突進し、片っ端から容赦なく蹴り技を浴びせていくも、次から次へと援軍がやってくる。畜生界の動物霊ならとっくに恐れをなして逃げ出すところだが、獄卒はちっとも怯む気配がない。

「っだあああ! 鬱陶しい! キリがない!」

ゾンビのように湧いてくる獄卒連中に業を煮やした早鬼が叫ぶ。
獄卒は地獄の亡者を責め立てる番人というか、下級役人みたいなものだ。生前の罪を挙げて亡者を――それこそ屈強で悪辣非道の限りを尽くした悪人をも苛むのだから、当然頑丈にできているだろう。
とはいえ、いくらなんでもこの数は異常であり、無限の勇気を自慢とする頸牙組にも引けを取らない向こう見ずな進撃も不可解だ。

(なんていうか、こいつら、いつもと様子がおかしいぞ)

金棒を振り上げて殴りかかってくる獄卒の顔面に飛び膝蹴りを決めて、その荒々しさに注意を留める。
元よりせっかちな気質で、戦場にて敵を冷静に観察するのは得意ではない早鬼だが、このままでは埒があかないのは身に沁みてきた。
オオカミ霊も消耗してきている。軟弱者、とどやしつけたところで大した成果はあげられないだろう。早々に万策尽きた早鬼は背後で戦い続ける八千慧を振り返った。

「なあ吉弔よお」
「なんです」
「獄卒ってのはいつからこうも勇敢になったんだ?」
「勇敢? 蛮勇の間違いでしょう。ある意味貴方と同じ穴のムジナというか」
「いちいち一言多いんだよ、インテリヤクザめ」
「しかし、確かに妙ですね。冷静さを欠いて、命知らずで、統率も取れていない……集団パニックを起こしているように見えます」
「おいおい、パニック起こした奴らに力負けするなんて冗談じゃないぞ」
「窮鼠猫を噛むというでしょう。追い詰められた者は、時にこちらの想像を上回る馬力を発揮するものです」
「ったく、面倒臭い。いっそのこと大技ぶちかまして全員薙ぎ払ってやろうか?」
「無謀ですね」

八千慧はあっさり早鬼の提案を切り捨てる。彼女も苦戦を強いられているくせに、ひーひー喚いているのはカワウソ霊だけで、八千慧本人は涼しげな顔を崩さない。そこがまた早鬼の鼻につく。

「今の私達には、敵の情報が少なすぎる。無計画に突っ込んだっていたずらに消耗するだけですよ」
「だからってちまちま敵を潰してようが結果は同じだろ、ならこっちが力尽きる前に全力で蹴散らせばいいんだ」
「――小敵の堅は大敵の禽なり」
「はあ?」

早鬼は鼻白らんだ。何やらむつかしい書物の引用なのは理解できたが、勉学の類を大の苦手とする早鬼にとっては八千慧の言葉は陰湿な嫌味でしかなく、不愉快極まりない。

「如何に勝つかとは、如何に敵を知るか、如何に味方の損害を減らすかということ。本来なら私達はさっさと退却するべき戦力差なんですよ。貴方の提案は敵のやり口と同じ、蛮勇としか言いようがない。その小さなおつむによく叩き込んでおきなさい」
「はっ、こんな時にまで嫌味ったらしいご高説かよ。くどくどと勿体ぶった言い方をしてるけど、要は臆病なだけじゃないか。お前は負けるのが怖いんだ」

八千慧は眉を動かし、冴え冴えとした眼差しで早鬼を睨む。普段は早鬼の挑発など歯牙にも掛けない八千慧だが、苦戦を強いられて気が立っているのかもしれない。

「少なくともうちのオオカミ霊はカワウソ霊ほど腰抜けじゃないね」
「少なくともうちのカワウソ霊はオオカミ霊ほど向こう見ずではありません」
「どうだか、カワウソ霊は涙目になってるじゃないか、仮にも畜生界の一員のくせに情けない」
「オオカミ霊はずいぶん息が荒いようですが? ハアハアと舌を出して、だらしないったらない」
「部下は主人の鑑だそうじゃないか、要はお前がその程度の器だってことだ!」
「その言葉、そっくりそのままお返しします」
『お二人共、今は争ってる場合じゃないでしょー! 私達だけ働かせて何やってるんですか!』
『そうです、いい加減落ち着いてください驪駒様! 吉弔なんぞに乗せられないで!』

次第に険悪な雰囲気になり、今にも一触即発といったところで、二人の間に割って入ったのは部下達だ。
真剣な眼差しで訴えてくるオオカミ霊と目が合って、早鬼の頭は少し冷えた。普段から容赦なくこき使っている部下ではあるが、早鬼なりに彼女らの言葉にはなるべく耳を貸すよう心がけている。早鬼のかつての主人がそうであったように。

(こいつらの前で、何よりいけすかない吉弔の前で、無様な姿は見せられないな)

早鬼は素早く気持ちを切り替えた。思い切りのよさも早鬼の長所である。

「吉弔、何かいい策はないのか」
「おや、またもやこの私に嘆願ですか。知恵のない獣は哀れですねえ」
「私だってお前なんかと二度も手を組むのは腹立たしいが、この状況で力を合わせないなんて道があると思うか?」
「……つまり、饕餮こそいませんが、仮初の同盟を今ここに復活させようと?」
「ああ」

早鬼は潔く腹を括った。目的のためなら手段を選ばない――というのは、姑息な八千慧のやり口をなぞっているようで胸糞悪いが、早鬼はとにかく邪魔な獄卒を蹴散らして神子の元へ行きたいのだ。そのためならたとえそりの合わない八千慧の力でも借りてやる。これでも早鬼は饕餮と並ぶ自らの宿敵として、八千慧の実力を評価していた。
八千慧もまたそれが最も効率がいいと判断したのだろう。不敵な笑みを浮かべてうなずいた。

「いいでしょう。今回は貴方と二人、呉越同舟と行きましょうか」
「はっ、頭ばっか使って遅れを取るなよ!」
「貴方こそもっと頭を使うべきなのです」

二人は背中合わせに舌鋒鋭く言い放った。



神子と白蓮が賽の河原を通り過ぎたのは、ずいぶん時間が経ってからのことだった。遊びに熱中し、子供達に「もっと、もっと」とせがまれるままに相手をし、先ほどようやく解放されたのである。

「まったく、いらぬ道草をしてしまった。子供と遊ぶと時間がいくらあっても足りやしない。だというのにお前のお節介ときたら……」
「何よ、貴方が一番むきになっていたわ。子供相手に遊びで本気を出すんだもの、大人気ない」
「知っているか、子供は〝まだ幼いんだから〟と舐めた態度を取られるのを最も嫌う」
「私には貴方がただ目立ちたいだけに見えましたけど。前々から貴方ってそうなのよ、思えば弾幕花火の時だって最後まで誰よりも目立っちゃって……途中から趣向が変わったのに本気で気づいていなかったわけがないでしょう? 素知らぬ顔で参加し続けいたのでしょう? いったいどこまで自分の名前を誇示すれば気が済むんです」
「お前は私の伴侶でもなんでもないのに口うるさいな」

説教くさい文句が煩わしくなってつい言い返した途端、白蓮の小言がぴたりと止んだ。
振り返れば、白蓮は怒りとも呆れともつかない表情で絶句して、握りしめた拳がかすかに震えている。

「ええ、そうですよ、私は貴方の商売敵であって、伴侶なんかじゃありませんから!」
「なんだよ」

そこまで気を悪くしなくてもいいのに――刺々しい白蓮の文句に肩をすくめるが、神子はふと気づく。
よく観察してみれば、白蓮は神子の軽口に怒っているのではない。むしろ、照れ隠しに近いと見破った。

(ふーん、なるほどね)

気づいてしまえばもう、口元が緩むのを抑えきれない。

「なんですか、ニヤニヤと気持ち悪い。早く愛馬に会いに行くのではなかったの?」
「うん、もちろん行くよ。お前に私の自慢の愛馬を見せてやろう」
「本当に自信過剰なんだから。期待外れにならない程度に期待しておくわ」

などと戯れあっているうちに、二人は賽の河原の先の三途の河に着いた。川の流れは相変わらず穏やかで、遠くに亡者を送り届ける船頭の船が見える。

(やはり私には縁のない場所だ)

天道を邁進する神子はそう思うが、三途の河に弟子がちょくちょく顔を出す白蓮にとっては初めて来る場所でもないせいか、感慨深げに川辺を眺めている。

「お前もいつかはここを正式に渡るわけか」
「まるで自分はそうじゃないとでも言いたげですね」
「本来なら、生きている限り決して辿り着くはずのない場所だもの」
「はいはい、せいぜい死神に寝首をかかれないようにね。……そうだ。思い出したんだけど、三途の河といえば」
「なんだ?」
「昔、こんな俗信があったのよ。女は死後、初めて契った男に背負われて三途の河を渡って行くって」

神子はみるみる目つきが険しくなるのが自分でもわかった。白蓮が尼僧であり、本人も馬鹿みたく律儀に戒律を守っている風なのでその方面はちっとも心配していなかったが、彼女に男の影を匂わせられるのは不快だった。

「なんだそりゃ。いつの時代も処女信仰は気持ち悪い」

自分が一番気にしているのは棚に上げて一般論のように吐き捨てると、白蓮は平然と笑っていた。神子の露骨な嫉妬心をまんざらでもないと思っているようなそぶりである。まさか先ほどの意趣返しのつもりなのだろうか、白蓮も大概意地が悪い。

「残念ながら私を背負ってくれる男の人なんていないわよ。一人寂しく渡っていくだけ」
「どうだか、お前みたいな破戒僧は裏で何をやっているかわかったもんじゃない」
「心外です。そういう貴方こそ、誰か心当たりでもあるの?」
「誓ってないね。少なくとも私を背負うような〝男〟は、誰一人」

わざわざ〝男〟を強調してやれば、今度は白蓮の方が剣呑な目で神子を見つめてくる。〝男〟に心当たりはないが、〝女〟はそうでもない――言外に匂わせたニュアンスを、賢しくも白蓮は正確に読み取ったようだ。
――へえ、そうなの。やっぱり聖徳太子の妃は、後世に作られた伝説などではなく……神子を睨む眼差しには紛れもない嫉妬が込められている。
白蓮の反応に気を良くした神子は、少しばかり余裕を取り戻して、白蓮にうそぶいてみせる。

「籍は又、能く青白眼を為す。礼俗の士を見れば、白眼を以って之に対す。なら妬ましい相手を見る眼は何色だ?」
「緑よ、嫉妬は緑色の眼をした怪物ですもの」
「今のお前はそんな眼をしているよ」
「言っておきますけど、大昔の俗信なんて、本気で信じてる人はもういないわ。第一、そんな俗信が本当だったら、船頭が必要なくなっちゃうじゃない」

自分から俗信を持ち出したくせに、白蓮は話はこれでおしまいとでも言いたげにそっぽを向く。拗ねた態度がおかしかったが、これ以上は突っつかないことにした。

「ちょいと、お前さん達」

と、そこへまた二人を呼び止める者が現れる。賽の河原にいた水子の少女よりはいくらか大人びた、頭に牛の角を生やした女である。

「あら、奪衣婆さんかしら」
「どちらかというと牛頭だろう、馬頭の姿が見当たらないようだが」
「なら貴方の愛馬を貸してあげたら?」
「あいつに獄卒なんか務まるか」
「おいおい、お二人さん、冗談はそのへんにしておいてくれ」

牛の角の女はからからと笑う。人間の赤子を模った石を、あたかも本物の我が子のように大事そうに抱えていた。

「私は潤美。漁業を営むただの牛鬼さ。あんたらは噂に聞く地上の聖人だね?」
「いかにも。私は豊聡耳神子、こっちは聖白蓮。訳あって畜生界を目指している。心配しなくとも、すでに庭渡神および閻魔王からの通行許可はもらっているよ」
「畜生界だって?」

潤美と名乗った女は眉をひそめる。

「悪いことは言わない、あんな危ないところに行くのはやめときな。ここから先は生きた奴の来るべきところじゃないんだよ。あそこの連中と関わってもろくな目に遭わないよ」
「お気遣いはありがたいが、こちらも畜生どもに負かされるほど弱くはないつもりだ」
「ふうん、そうかね?」

潤美の視線は、神子から白蓮へと向かう。じろじろと値踏みするような視線に、白蓮は警戒を強める。

「何か私に問題でもありますか。それとも、私の弟子が貴方にまで粗相を……」
「あー、あの舟幽霊ってあんたの弟子だったっけ。あいつとはいろいろあったけど、まあ、それは今はいいや」

何やら含みのある表情で、潤美は腕の中の赤子を白蓮に差し出した。

「あんた、ちょっとこの子を抱いてみな」
「え? いいんですか?」
「ああ、大事に扱ってよね」

潤美に石の赤子を渡され、白蓮はおっかなびっくり抱き抱えた。手つきはおぼつかなく、もっと抱き方を工夫して――と、かつて少しだけ赤子の世話をした経験のある神子はお節介を焼きたくなったのだが、たちまちそれどころではなくなった。

「わっ」

赤子が予想以上に重かったのか、白蓮は辛うじて石の赤子を落とさなかったものの、河に身を浸してしまう。白蓮が足をつけていたのは浅瀬のはずが、白蓮の身体はずぶずぶ水中に沈んでゆく。心なしか、石の赤子が先ほどより大きくなっているような……。

「潤美さん、この子って――」

白蓮が抗議の声を上げた時にはもう遅い。あっという間に全身が水に浸かり、溺れないように首だけをどうにか水面から出していたが、やがて白蓮は三途の河の中に消えた。
これが潤美の能力なのだろう。子泣き爺のように、赤子だと思って背負えばみるみる重さを増し、親切心で手を貸した者が重みに押しつぶされてしまう話があるが、潤美もそういう手管で人を騙す妖怪なのだ。
潤美は赤子もろとも河底に沈みゆく白蓮を平然と見つめていた。水泡だけが水面に浮かぶのを見届けると、神子の方を振り返り、「さて」とため息をついた。

「あんたが例の暴れ馬の飼い主だよね。躾はちゃんとやってほしいもんだよ、ほんと」
「それより、あいつに石の赤子を持たせた理由はなんだ」
「あのお坊さんはあんたの用事とは直接関係がないんでしょう。なら帰った方がいいよ。地獄なんて自ら進んで行くもんじゃない。まして迷いを抱えた者がこの先へ進んだって、お陀仏になるのは火を見るより明らかだ」
「……」
「進む資格のない者を追い返してやるのも親切ってもんだ。どの道、ここで私相手にへこたれるようじゃ、畜生界の猛獣どもには勝てないね」
「本当にそんな老婆心だけか? 漁師として、僧侶に思うところがあるんじゃないか?」
「うーん、そう聞かれると、まんざら嘘だとも言えないかもね?」

潤美は曖昧な答えではぐらかした。
言わずもがな、仏教において殺生は禁忌である。そのため、現代はともかく、かつては狩猟や屠殺、漁業などの〝殺生〟を生業とする者に厳しく当たる時代があった。潤美が親切から追い返そうとしているのも本心なのだろうが、一見大人しそうに見えて、牛鬼らしく猛々しい気性を秘めているのに、神子は勘づいている。

(歴史を重ねれば、また、罪の歴史も積み重なる。お前も難儀なものを信仰してしまったなあ、白蓮)

もっとも、同じく古い歴史の道教を信仰する神子にとっても、それは他人事でいられない問題なのだが。

「というか」

潤美は呆れの眼差しを神子に投げかける。先ほどから、神子は沈んだ白蓮の心配を一切していないし、潤美を咎めもしない。潤美からすれば神子の態度は不可解極まりないのだ。

「連れが沈んじゃったのに、あんたはえらく冷静だね」
「貴方はあいつに迷いがあると言ったな? その迷いなら、ついさっき私が払ってやったばかりだ。残りの迷いもあいつなら自分で何とかするだろう」

賽の河原で念仏を唱えるでも仏の教えを説くでもなく、ただ子供達と一緒に遊んでいた白蓮の姿を思い浮かべて、神子は口元をつり上げた。

「私の女は強いよ。舟幽霊を調伏した奴が牛鬼ごときに負けはしない」
「こりゃあ舐められたもんだ。お次はあんたの番だよ。二人まとめて古代魚達の餌になってもらおうじゃないか、聖人の肉はさぞ美味かろう」

潤美が腕をまくり、神子も笏を構える。二人が一触即発となったその時、三途の河から勢いよく水柱が上がった。その中から、白蓮は石の赤子を抱えて、悠々と岸に上がってきた。

「ああ、重たい。赤子がこんなに重いなんて初めて知ったわ。子守りなんて気軽に手を貸すものではありませんね」

白蓮の周囲には虹色に輝く巻物が浮いている。肉体強化の魔法を使ったのだろう。白蓮は大きさと重さを増した赤子を軽々と抱き抱え、迷わず潤美の元へ歩み寄った。水の滴る面には微笑みすら浮かんでいて、潤美は少し恐ろしさを覚えた。

「はい、お返しします。この子は貴方の腕の中にいるのが一番いいでしょう」
「ああ、ありがとう……」

潤美が帰ってきた赤子の重さをいじれば、石の赤子は元の大きさになって腕の中に収まる。
神子もそうだが、白蓮もやはり潤美に文句一つ言わない。潤美が気味悪く思っていると、白蓮は潤美に向かってにっこり笑った。

「私は仏に仕える身であると同時に、毘沙門天を信仰する者です。毘沙門天は牛頭の鬼から修行僧を助けてくれるのよ」
「……あっはっは! 仏の加護に加えて、毘沙門天の加護ときたか。参ったね、それじゃあ私の分が悪いわけだ」

潤美は膝を叩いて大笑いし、自らの負けを悟った。白蓮は自分の信じる道を迷わず見つめている。仏や毘沙門天の加護とやらがどこまで及ぶかわからないが、白蓮はこのまま地獄に行ってもくたばらなさそうだ。「それ見ろ」と言わんばかりにドヤ顔をしている神子は少々憎たらしいが。

「それから」

と、白蓮は怒った顔で神子に詰め寄った。

「聞こえたわよ、誰が誰の女ですって?」

神子はさも意外そうに首を傾げる。

「違ったのか? 伴侶よりはいいかと思ったんだが」
「あのね、そういう言い方は一方的に所有物扱いされてるみたいで不愉快です。貴方が私のものになってくれるなら、考えてあげなくもないけど」
「それは無理な相談だ。私は私のものだから」
「潤美さん、この人も沈めていいわよ。たぶん死なないから」
「おい、よせ」
「わかった、わかった。あんた達、畜生界でも地獄でも好きなところに行きな。邪魔して悪かったから、もう私を巻き込むのはやめておくれ」

嫌気がさしてきた潤美は道はあっちだと指さす。二人は礼を言って、河沿を歩き出した。

「やれやれ、仲がいいんだか悪いんだか」

潤美はため息をついて、生業の漁業に戻った。

「さて、いよいよだな」

神子は河の向こう岸を見つめる。船頭がどうのとは言ったものの、正式なお迎えを待っているわけではないので、自力で渡ればいい。河は浅く見えるので徒歩でも渡れそうだが、また深みにはまるのはごめん被りたいので、飛んで行けば安全だろう。
一旦呼吸を整えて、白蓮を振り返る。いつのまにか白蓮は濡れた服を乾かし切っていた。

「心してかかれよ。ここから先はあの牛鬼みたく追い返してくれる奴もいないだろう。行きは良い良い、帰りは怖いだ」
「貴方、怖いの?」

白蓮は挑発的に言って、神子の顔を覗き込む。

「貴方だって、愛馬のことがなければ、本当は地獄だの畜生界だのなんて行きたくないはずよ。一人じゃ怖いんでしょう。だから私を連れてきたんでしょう」
「そういうお前はどうなんだ、死を恐れ拒んだ外道の魔女よ」
「そうね、ドキドキしてるわ」
「さっき危うく溺死しかけたところだからな、さすがにおっかなくなってきたか」
「違うわよ。貴方がいるから」

屈託なく笑いかけられて、神子は一瞬言葉を失った。

「賽の河原を通って、三途の河を臨んで……一介の僧侶として思うところは色々あるけれど、この先に何があろうと私は大丈夫。貴方の愛馬に会うのも楽しみになってきたわ」
「単なる強がりではなさそうだな」
「貴方と一緒なら、どこに行こうが怖いことなんて何もないわ」
「ほう?」

神子は苦笑とも愉悦ともつかない笑いが込み上げてくる。この魔女ときたら、地獄を恐れるどころか、スリルを楽しんでいるわけだ。
罰当たりめと言いたいところだが、神子にとってはその精神の強靭さが好ましい。神子は自ずと白蓮の手を取った。

「そんな調子で、心臓が破れたって知らないからな」
「破れないわ。修行で心身はみっちり鍛えていますし、何より貴方のお供をしてあげなくちゃならないんだから」
「余計なお世話だ」

笑いながらも、二人は気を引き締めて三途の河を渡った。



「で、結局いい作戦は浮かびそうか? 吉弔」
「鬼傑組を舐めてもらっては困ります。……が、こちらとしても甚だ不本意なのですが」

襲いかかる獄卒をカワウソ霊のバリアで弾き飛ばしながら、八千慧は早鬼に語りかける。早鬼と八千慧は目下襲いかかる獄卒達と交戦中だった。

「正直言ってこちらの形勢が悪すぎます。カワウソ霊達はまだ散らせたままですし、搦手と奇襲が我らの十八番といっても、こうも多勢に囲まれた状態では奇襲を仕掛ける余地がない。罠を張ろうにも、こんな身を隠す場所もない開けた地では充分に機能しませんね」
「だったら飛べばいいじゃないか、陸が駄目なら空だ。お前の半分は龍だろうが」
「あいにく私の半分は地に足のついた陸亀なので」
「こんのどっちつかずのコウモリ野郎が!」
「長寿の亀と神聖な龍のハイブリッドですよ、そのありがたみが貴方にはわからないらしい。まあ貴方は生まれた時代的にもサラブレッドではありそうにないですからね」

早鬼がどんなに吠え立てても、八千慧は一切涼しい顔を崩さないのが憎たらしい。
早鬼には八千慧の考えていることがよくわからない。伏せがちな眼の下で、八千慧は現状を打破する策略を練っているのだろうか。手を組むことを承諾しながら、用が済めば早鬼をばっさり切り捨てる――その可能性を完全に払い除けさせてくれないのが根性曲がりの鬼傑組組長である。

「まあ落ち着きなさい。速さが売りだからって貴方はせっかちすぎるのです。何も手段がないとは一言も言っていませんよ」

八千慧は早鬼の漆黒の翼を指差し、ついで空を指差した。

「貴方が行けばいいんです。ご自慢の翼で空を飛び、空中から獄卒どもの動きをよく観察なさい。こちらの獄卒どもは、私がどうにか引きつけてみせます」
「……つまり、挟み撃ちか?」
「せっかく二人でいるのです。手分けした方が効率がいいでしょう。地上から私が合図を送りますから、貴方は機を待って追撃すればいい」

言われてみれば、獄卒は二人をまとめて追いかけているのであり、別れれば追っ手も分散される――単純なことだ。
だが、八千慧の言い分を素直に聞くのは、八千慧の下につくようで気に食わない。手を組むのなら、力関係は平等かつ対等であるべきだ。

「一つ確認しておきたんだが、同盟とはあくまで対等な関係の元に成り立つものだよな?」
「当たり前でしょう。それとも何です、私に泣きついておきながら私の提案を呑むのが嫌だとでも?」
「誰が泣きついた、誰が!」

早鬼が思わず食ってかかると、八千慧は冷ややかな眼を向けてくる。いちいち嫌味ったらしい言い方をするのが八千慧の鼻につくところだ。

「私が策を出す以上、貴方が従うのは当然でしょう。何の代案も出せない奴に文句だけつけられるのはこちらも鼻持ちなりません」
「だったらその居丈高な態度をなんとかしな! 私はお前の部下じゃないんだ、一方的に命令される謂れはない!」
「……なら逆らう気力を削いであげましょうか?」
「できるもんならやってみろ! お前は私を馬鹿だ能無しだと罵るが、私にだってわかってるんだよ。お前は自分で言うほど有能じゃないんだ。ご自慢の能力が万能なら、とっくのとうにお前が畜生界の王になっているはずだもんな!」

即席の同盟は早くも雲行きが怪しくなってきて、剣呑な空気が漂う。今度ばかりは部下達も割って入れない、というより、獄卒の相手で精一杯なのだ。
八千慧の眼差しは氷のように冷たい。睨み返そうとして、早鬼はなぜだか蛇に睨まれた蛙のように、自分まで凍りついてしまう。

(この私が吉弔ごときにビビってるのか? 馬鹿な)
「見上げた忠誠心ですね」

動揺する早鬼に向かって、八千慧は淡々と語りかける。

「高慢な貴方はただ一人にしか傅くつもりがない。ゆえに他のすべての支配を嫌う。――聖人といっても、元はただの人間に過ぎないというのに」
「お前が気安く太子様を語るな」

神子の名前を出されればまた頭に血が昇る。本当なら八千慧と争っている場合じゃない。部下を放置している場合じゃない。ここで争いを長引かせればそれだけ神子への道が遠のくと頭ではわかっているのに、早鬼は八千慧への怒りを抑えられない。

「お前の言う通り、私が仕えるのは、後にも先にも太子様だけだ。――お前なんかには、死んでも下るものか!」

啖呵を切った後も、あまりの怒りのためか、早鬼の身体は震えていた。
いつも早鬼を白い眼で見てくる八千慧であるが、心なしか、その眼差しは今までで一番冷たい。地獄の業風のような赤い瞳に緑色の光が差したのは、見間違いだろうか。
早鬼もそうだか、八千慧もまた自分の力量に絶対的な自信を持つがゆえに、プライドが非常に高い。能力を貶されたのが癇に障ったのか? いや、普段から早鬼をボロクソに乏している八千慧がそれしきで感情を荒げるわけがない。神子と比べたから? それこそあり得ない、八千慧が人間風情を――少なくとも八千慧にとってはそうだ――歯牙にかけるわけがないのだ。

(何だよ、私が悪いっていうのか? 当然のことじゃないか!)

八千慧が理解できなくて、それ以上に苛立ちが優って、

「もういい、そこでノロノロ考えてろ、鈍臭い亀が!」

早鬼は怒りに任せて空高く飛び上がった。『驪駒様!』と慌ててオオカミ霊が追ってくる。八千慧はやはり動かなかった。

(ああ腹が立つ、吉弔め、あいつだけは本当にいけすかない!)
『驪駒様、よろしいのですか?』
「何がだ!」
『吉弔に言われた通り、まんまと空中に移動してしまったわけですが……』
「うげっ!」

空の上で存分に八千慧を罵倒していた早鬼であったが、オオカミ霊に言われて、やっと自分の間抜けさに気づいた。

「き、吉弔の奴! まさかここまで見越して私を怒らせたっていうのか!?」
『いえ、吉弔もいつになくピリついて冷静さを欠いていたように見えましたが』
「下手な慰めはいらん!」

この時ばかりは自分の愚かさがほとほと嫌になると同時に、ますます八千慧への苛立ちが強くなってゆく。
思えば畜生界で八千慧と出くわしてからずっと、早鬼は今日一日、八千慧の手のひらの上で転がされっぱなしではないか。
八千慧の自分の賢さを鼻にかけているところが気に食わない。
だいたい知識や頭脳なんてものを頼みとするのは畜生の生き方ではない。どちらも下等な人間のものだ。小賢しくて生半な知恵を持つばかりに、ひ弱な人間霊達は厄介な造形神を召喚してしまったではないか。

(いつもそうだ、饕餮ほどではないにしろ、あいつは真っ向勝負を避けて裏でコソコソ悪知恵を働かせる卑怯な奴で、人を馬鹿にしきってて、回りくどくてねちっこくて嫌味ったらしくて……)

悪口を思いつくまま並べ立て、はたと気づく。
その八千慧が、三組で同盟を組んだ際に、自ら表に出て人間達の案内役を買って出たのも動かぬ事実なのだ。地上の人間になら自分の能力が通じると判断したのだろうが、少なくとも部下のオオワシ霊をよこすだけで姿をくらませていた饕餮とは違う(とはいえ、饕餮が滅多に表に出ないのはいつものことで、たかを括っていた二人がまんまと石油の利権で出し抜かれたのだから間抜けな話だが)。

「饕餮も大概だが、吉弔の方がまだ信じられなくもない……こともないのか?」

自分で口に出してからも、早鬼は疑いを捨てられない。
八千慧になんらかの策があるのは早鬼にもわかるが、かといって簡単には信頼できない。何かを〝信じる〟という行為が、早鬼には胡散臭く感じられる。
偉大な宗教家を主人に持ちながら、早鬼は宗教が嫌いである。造形神に手こずらされて余計に苦手意識が増した。信仰もまた人間の営みであって畜生の営みではない。かといって、早鬼が神子に向ける崇拝が神や仏を信じる心と何が違うのかと聞かれたら、早鬼にもうまく説明できないのだが……。
〝信じる〟行為について考え出したら頭が痛くなってきたので、早鬼は思考を放棄し、追ってくる獄卒を蹴落としながら地上の八千慧を見下ろす。八千慧は動かないが、カワウソ霊がせっせと動き回って、何やら陣形らしきものを組んでいるのがよく見える。

「ふん、圧倒的に不利だとか抜かしながら、抜け目なく動いてるじゃないか」

カワウソ霊は早鬼の思ったより広範囲に配置されているようで、ぐるりと大きな円形になって獄卒を包囲しながら、弾幕を浴びせては獄卒を中央へじわじわと追い込んでゆく。

「出た、あいつお得意のねちっこいやつだ」

鬼傑組は搦手こそ最短と謳うだけあって、やたらと追い回したり、相手の動きを封じたりするのが好きなのだ。空上から見るといっそうわかりやすい。

「いいじゃないか、敵がどんどんひとまとめに……ん?」

一見抜かりのない包囲網に見えるが、よく観察してみれば、一箇所だけ包囲に穴がある。カワウソ霊は気づいていないのか、穴を塞ぎもせず、このままでは敵が節穴に気づくのも時間の問題だ。

「馬鹿だな、せっかく追い詰めてもそこから逃げられるじゃないか」

案の定、硬直していた獄卒の群れが、抜け道に気づいて押し寄せる様を見て――早鬼はあっと声を上げた。
違う、八千慧の狙いはまさに〝そこ〟なのだ。
バラバラに散った敵を一体ずつ相手取るのは骨が折れ兵力も削られるが、ひとまとめにしてしまえば一網打尽にできる。
――まさか。
気づいた時には、早鬼は考える間もなくオオカミ霊に大声で命じていた。

「お前ら、頸牙組の名に賭けて決して遅れは取るなよ! 迷わず私についてこい!」
『はっ、はい!』

早鬼はじりじりとその時を待つ。もう少し、もう少し引きつけてから……。
やがて早鬼の動物的直感が、その時を告げる。

「そこだ!!」

早鬼は地上目掛けて一気に急降下した。



『いやー、ヒヤヒヤしましたけど、驪駒様ときたら、まんまと吉弔様の口車に乗せられましたね!』
「いや……そうでもありません」
『はい?』

首を傾げるカワウソ霊を「さっさと持ち場に戻りな」と追い払い、八千慧は迫り来る敵を遠ざけながら思案に暮れる。

『私が仕えるのは、後にも先にも太子様だけだ。――お前なんかには、死んでも下るものか!』

早鬼は迷いなく、真っ直ぐに言い切った。

(これだから直情的な馬鹿は嫌いだ)

八千慧だって畜生界の獣なのだから、支配欲は当然強い。早鬼は力こそが正義と思っているようだが、八千慧にとっては頭脳こそが何よりの武器だ。強い抵抗を見せる者をじわじわと嬲り、追い詰め、逆らえないよう籠絡するのはお手のものだ。
しかし早鬼は、他の獣とは違う。饕餮のようなのらくらと立ち回り利益を一気に掻っ攫おうとする強欲な獣とも違う。
比類なき脚力、向こう見ずと紙一重の無尽蔵の勇気。馬鹿みたいに真っ直ぐで、単純で、力さえあれば何でも思い通りになると思っているし、実際にそれだけの実力も兼ね備えている厄介な奴。
カワウソ霊は何もかも八千慧の思いのままと信じ込んでいるようだが、今だって八千慧の計画は何をしでかすか読めない早鬼のせいで少しずつ狂わされている。早鬼には伏せているものの、攪乱のためにカワウソ霊達に流させた情報が予期せぬ方向に動いているのも気づいている。
第一、早鬼と元主人との再会の橋渡しをしてやる義理なんぞ八千慧にはないのに、成り行きとはいえ、いつのまにか早鬼と協力することになっているではないか。

(私らしくもない失策を……)

八千慧は失笑する。早鬼が日頃から聞かれてもいないのに繰り返してきた神子の自慢話に辟易していたせいなのか、早鬼の口から神子の名を聞くと、冷静な八千慧の心に波紋が広がる。早鬼だってごく一部を除くすべての人間を見下しているくせに、元人間の神子にそこまで入れ込む理由が、八千慧には理解できない。
もう一つ、理解できないといえば――早鬼が同盟において対等な関係を確認してきたことだ。邪魔な輩は弱肉強食の理に則って力でねじ伏せ、蹴倒し、我が意のままに従わせるのが驪駒早鬼ではなかったか。なぜ八千慧に対して「私が頭だ、指揮を取るからお前が私に従え」と強請りかけなかったのだ。

「よく言うわ、対等なんて、〝信頼〟なくしては決して成立し得ないものを」

八千慧は嘲笑う。先の三組による同盟では埴安神袿姫、此度は獄卒と、共通の敵が存在するからこそ、平時は鎬を削り合う集団の団結が成立し得たのだ。そこに利害の一致はあっても、〝信頼〟などはない。

『吉弔様、こちらは整いました』

カワウソ霊の一匹が報告に来る。悠長に物思いに耽っている場合ではない。八千慧はすぐさま組長の顔つきに戻った。

「包囲は厳重だな?」
『はい、抜かりありません!』
「少しでも手を抜けばお前達の給料が下がるよ」
『ひ、ひいー』

カワウソ霊達には包囲網を敷くよう命じてある。早鬼と分かれたおかげでいくらか敵の数が減ったため、カワウソ霊達は八千慧の指示通りに立ち回れたはずだ。
頭上を見やれば、早鬼はオオカミ霊と共に空中で敵をぶちのめしている。筋力馬鹿のおかげか、戦いが長引いているわりには消耗する気配もない。
八千慧は注意深く辺りを見渡す。囲師必闕。狙い通り、故意に一箇所だけ空けた包囲の穴に、追い詰められた獄卒達が雪崩れ込もうとしている。

(もう少し!)

今一歩引きつけたのちに、早鬼へ合図を送る――とはいえ、早鬼は黙殺するかもしれない。八千慧の下につくことを嫌がる早鬼だ、目的通りに事が運ぶ保証はない。
それでもその時を迎えた瞬間、八千慧は天に向かって吠えた。

「今だ! くろ――」

驪駒、こいつらを蹴散らせ。八千慧が言い終わる前に、流星よりも速く天上から漆黒の塊が落下した。
急降下の勢いに加えて持ち前の馬力、瞬く間に数多の獄卒が蹂躙されたのちに、そいつは天馬の翼を広げて悠然と地に立っていた。

「どうした、吉弔。今、私を呼んだか?」

目を丸くする八千慧に気づいた早鬼が、したり顔で笑う。八千慧は自ずと口元が緩んでいた。

「……いえ、貴方の空耳でしょう」

八千慧もやはり何事もなかったかのように、平然と答えた。今の二人にそれ以上の言葉はいらなかった。



気持ちよく敵を蹴散らせたおかげか、早鬼の気分は爽快である。いけすかない八千慧の短所も、今は少しくらいなら大目に見てやれる気がした。

「用心は怠らないように。まだ敵を全滅させたわけではありませんからね」
「はっ、言われなくてもわかってるよ」
「いいですか。仮初とはいえ、同盟を結んだ以上は貴方と私は味方同士です。また諍いを起こすのはごめんですよ」
「よく言うよ、お前の口の悪さが原因なのに。で、次の手はなんだ?」
「そうですね……」

今は八千慧の指示を仰ぐのもさほど苦痛ではない。元より八千慧の実力は認めていたし、協力してより大きな力を発揮できるのもわかった。
八千慧は残った敵の処理を考えているようだ。ここまで残るだけあって、どいつもしぶとく頑丈で知恵の回る奴ばかり。
さて、どう来るかと早鬼が鷹揚に構えていた刹那、八千慧は不意に手をかざして背後から弾幕を放った。無差別かつ無軌道な弾は早鬼もろとも敵に向かってゆく。予告なしに飛んできた弾幕に面食らい、早鬼は慌てて地面に伏せた。

「てめえ吉弔! 味方だと言った舌の根も乾かないうちに同盟を反故にする気か!」
『落ち着いてください驪駒様、これは実弾じゃありません!』

即座に食ってかかれば、オオカミ霊にたしなめられる。よく見れば、身体に弾がかすったはずなのに傷一つない。八千慧の弾幕はイミテーションだ。

「さすがに連戦で弾切れ寸前でして。脅し程度にはなるかと」
「こっちが驚いたわ、先に言えよ!」
「敵を欺くにはまず味方から」

早鬼は八千慧の澄まし顔を思いっきり蹴飛ばしたくなったが、かろうじて踏みとどまった。

「退却……いや、進軍でしょうか? 獄卒も地上まで追っては来ないでしょう、急ぎますよ」

八千慧は走りながら早鬼を呼び寄せる。今の攻撃で怯んだ者はいるが、単なる猫騙しと見抜かれたせいか、すぐさま追っ手が迫り来る。
追いつかれそうになったところで、八千慧は再び弾幕を放った。

(またイミテーションか)

と思ったものの、口には出さない。余計なお喋りで計画が敵に漏れたら台無しだ。
しかし二回目は一回目ほどの効果がない。八千慧達の戦力の枯渇が悟られたのか、ますます敵の士気が上がった気がする。

「おいどうするんだ、振り切れそうにないぞ」
「では貴方の弾数は?」
「……あんまり」
「なら逃げるが勝ちです」

そうは言っても、早鬼とオオカミ霊はともかく、八千慧の指示でずっと動き回っていたカワウソ霊はもうヘロヘロに見える。八千慧だって弾切れが近いと言ったのに、本当に逃げ切れるのか。
三度、八千慧が弾幕を撃つ。獄卒は構わず突っ込んでくる。もう目眩しの効果もないようだ――ところが、弾幕をじかに浴びた獄卒達が次々に倒れてゆくのである。

「あ、あれっ?」

早鬼は目を瞬く。八千慧のよく使う鱗や粒の弾は、先の二回と何ら変わりないように見えたが。

「私が猫騙しを何度も使うと思いますか」

八千慧は不敵に笑っている。三度目の何とやら、今度こそ実弾を撃ったようだ。八千慧らしいやり口だ。

「数少ない武器も使いようってか」
「進みて禦(ふせ)ぐべからざる者は、其の虚を衝けばなり」
「まーた難しい書物の引用かよ」
「貴方も孫子くらいは読んだらどうです?」
「中国はナントカ子が多すぎてわからないんだよ!」
「……貴方の主人が聞いたら泣くでしょうね。虚実を使い分けるのは兵法の基本ですよ。伏兵を駆使したり、味方の消耗を気取らせないようにして、小勢を多勢に見せかけたり」
「あー、そうか。孔明が『空城の計』で味方が少ないのにかえって敵を踏み込ませなかったようなものか」
「孫子は知らないくせになんで三国志はわかるんですか」
「お堅い書物は嫌いだが、屈強で逞しい戦士の物語は大好きだ。策士タイプだけど悪くないよな、孔明」
「……なるほど」

漫画かゲームか人形劇かは知らないが、おそらく早鬼が触れたのは正史の三国志でなく三国志演義である。

「貴方の脳みそには教養より娯楽が合うわけですね」
「っだああ、お前はいちいち嫌味ったらしいな!」

早鬼は憤慨して、「いいんだ、もうすぐ太子様に会えるんだから、そしたらムカつくお前とも今度こそおさらばだ」とずんずん先を駆け抜けてゆく。
早鬼がもう少し注意深く八千慧の表情を見ていたら、その僅かな変化に気づいただろう。
孔明こと諸葛亮は、天才的な策略で味方を勝利に導く軍師といったイメージの他に、もう一つの顔がある。
諸葛亮は道士、ないし仙人的な才能を持つ人間だったとも言われていた。
彼にまつわる世捨て人としての――ある意味、後世の聖(ここでは隠者のこと)や法師に近い――伝説が、彼を人智を超えた奇跡を起こす仙人に昇華させたのだ。
八千慧はもちろん、早鬼がどこまで書物を読み込んでいるかなど知らない。たとえ読んでいたとしても理解できているか甚だ怪しいと疑っている。
ただ、もしかしたら彼女が好感の持てる戦士として筋骨隆々で百戦錬磨のいかにもな猛将より先に諸葛亮を挙げたのは、彼女が深く敬愛する道士・神子と近しいものを本能的に感じ取ったからかもしれない。

(いえ、さすがに買い被りすぎですね)

八千慧は苦笑して妄想じみた考えを打ち消す。早鬼は自分とは正反対の知性的な群雄にも好感を持つのだと思えば、早鬼がどんなに神子を慕っていようが、もう八千慧の心にさざなみは立たない。それどころか早鬼の直感に感心しただなんて、意地でも悟らせてやるものか。



さて、また所は変わって、三途の河を無事に渡り終えた神子と白蓮はようやく地獄にたどり着いた。そしてたどり着くなり、暴れ回る獄卒達に熱烈な歓迎を受けていた。

「どういうことです? 閻魔様に話は通っていたはずでは」
「ちょっと静かにしろ」

神子は耳当てに手を当てた。あまり使いたくはないのだが、最短で現状を把握するには文句を言っていられない。
無数にさんざめく欲望の渦の中から、必要な情報だけを取捨選択して、

「……驪駒だな」

神子はため息をつく。押し寄せる欲望の波と愛馬のやらかしで二重に頭が痛い。

「今ので状況がわかったんですか」
「畜生界のヤクザ者が脱獄した、牢獄は倒壊した、奇襲も受けた、いずれ奴らは大軍で攻めてくるに違いない――そういう不確かな情報が出回って、獄卒達はパニックに陥っているようだ」
「大丈夫なんですか、獄卒がフェイクに踊らされて」
「わざと撹乱のためのデマを流している奴が畜生界にいるんだろう」

弱肉強食の畜生界にて頭脳を武器に戦う動物霊がいるとは噂に聞いていた。おそらくそいつの仕業に違いない。獄卒は神子と白蓮の姿を認めるなり、ぎょっと大袈裟にのけぞって、

「な、なんでまた生身の奴がここに!?」
「さてはまた畜生界の連中の企みだな! 者ども、かかれ!」
「……どうするんです、完全に誤解されています。とても話を聞いてくれそうにありませんよ」
「ここまできて立ち往生してられるか、全員薙ぎ払う」
「獄卒達と戦うんですか。ああ、また私は罪を重ねる……南無三宝、南無三宝」
「どうせお前は来世じゃ成仏できないだろう。諦めな、お前が堕ちる時は私も一緒に堕ちてやるから」
「さっき三途の河で私のことほっといたでしょ。貴方一人で私を置いて地上に舞い戻るんじゃないの?」
「異国の太陽神みたいな馬車があるならそれもいいけどね。肝心の馬がいなければ」

どちらにせよ神子の目的は一つきりだ。笏を払い剣をかざす神子を見て、白蓮も観念して巻物を広げるのだった。

(どうやら驪駒も地獄まで来ているようだが)

単なる噂ではない、実感に基づいた恐怖の叫びが獄卒の中に混じっている。しかし絶望的に広い地獄で、しかも獄卒の群れがひしめく中で、早鬼への道は簡単に開けそうにない。

「白蓮、こっちは任せた」
「え、ちょっと」

とりあえず襲い来る獄卒を武闘派僧侶に任せて、神子はもう一度耳を澄ませる。獄卒の悲鳴が減っても、今度は地獄に本来あるべき亡者達の呻きが絶えず聴こえてくるばかりだ。

(駄目だな、地獄にも案内人がいてくれればいいのに)

諦めて神子も戦いに専念する。白蓮はおそらく衣川の弁慶もかくやの孤軍奮闘ぶりを発揮しているだろうから心配はしていない。
少々敵の数が減ってきたところで、ちょうど白蓮と背中が合った。

「あら、生きてたのね」
「お前こそ。殺生嫌いのわりにはうまく戦っているな」
「すべて昏倒させました」
「そうか。地獄行きに相応しい罪は稼げたか?」
「往復料金にしても大量のおつりがくるわよ、もう」
「嘆いているわりには気楽そうだ」
「簡単なことです。一度どん底まで堕ちたなら、後は上を見て這い上がればいいだけなの」
「どん底に堕ちればあるのは希望だけ、か」

神子は意地悪く微笑んだ。

「しかし『最悪だ』と言っていられるうちは真のどん底ではないとも言う」
「西洋の戯曲でしたっけ。貴方、今が最悪だと思っているんですか?」
「否。私もお前がいれば、どこだろうと恐れるものなど何もない」
「私は天道なんて行きませんからね。来世で往生が叶わずとも、私は何代かかっても浄土を目指すつもりです」
「念仏三昧のしみったれた尼さんには道教の魅力がわからないらしいな」

見せつけてやらんとばかりに、神子は笏を高く掲げた。
――刮目せよ。思い知れ。日出る処の道士・聖徳太子ここにありと、その心に刻め。
私がここまで足を運んでやったんだ、いい加減主人の迎えに気づけ、驪駒よ。

「――詔を承けては必ず慎め!」

眩い光線が暗い地獄を一筋に天高く貫き、次いで放射状に広がる。獄卒が一切に倒れ伏して見通しがよくなった。

「どうだ?」
「眩しくて目を開けられないわ」
「おい」
「大丈夫よ、目で見て耳で聴くものばかりがすべてではないでしょう」
「何が言いたいんだ」
「たとえその伝説が欺瞞に満ちているとわかってしまっても、貴方に惹かれざるを得ないのよ。きっと甲斐の驪駒もそうなんだわ。誰よりも目立ちたがり屋な眩しい人」
「私の人徳の賜物かな」
「誘蛾灯に引き寄せられる蛾みたいなものね」
「お前という奴は……」

真正面からは褒める気のないらしい白蓮に、神子は肩をすくめるのだった。

「……おや」

ふと、神子は耳当てに手を当てた。
懐かしい蹄の音が響いたのは、聴き間違いではなかった。



八千慧ともども退却とも進軍ともつかない奔走を続ける中で、早鬼は確かに暗い地獄の天上を一筋の光が貫くのを見た。

「あの光は!」

それを目にした瞬間、早鬼の鼓動は逸る。
見紛うはずがない。忘れるわけがない。決して地獄に届くことのない日輪のごとき眩い光は、誰にも屈しない早鬼を唯一跪かせるものだ。

「お前ら、その鼻は鈍っちゃいないな?」
『はっ、我らはじかに会うたことがありませんが、微かに驪駒様と通じるものを感じます』
「間違いない……太子様だ!」
「あっ、驪駒!」

八千慧の声も振り切って、早鬼は疾風のように駆けた。
残りの獄卒を蹴散らすのに手間取りはしなかった。部下のオオカミ霊が『驪駒様、お待ちください』と悲鳴を上げるのも耳に入らない。
もう馬の姿に戻ってしまおうかと思ったが、逸る脚が止まらない。
かつて、献上された数百の馬の中から、聖徳太子はたった一匹の駿馬を選んだ。
今度は早鬼が神子を見つける番だ。

「太子様!」

果たしてそこには、堂々たる佇まいのかつての主人がいた。
その耳の聡さを示すような髪型は変わらないが、さすがに身なりは昔とは違って現代風だ。地獄の業風にたなびく紫のマント――彼女にはやはり高貴な色が似合う。
隣の女も何やら眩いが、神子しか眼中にない早鬼には錯覚に過ぎなかった。
早鬼と目が合うなり、神子はしたり顔で微笑んだ。

「やあ、遅かったな」
「遅参の無礼をお許しください。お会いしとうございました。私です。貴方に見出された甲斐の驪駒です!」

跪く早鬼を見下ろして、神子は悠然と語りかけた。

「頸牙組の長、驪駒早鬼。噂はかねがね聴いているよ。畜生界に名を馳せるだけでは飽き足らず、何やら地上でも暴れ回っていたと」

声音に皮肉っぽさが滲んでいるのを感じて、早鬼の肩が跳ねる。
叱責されるだろうか。当然かもしれない。本来ならいの一番に挨拶に向かわねばならなかったのに、抗争や戦闘に明け暮れて長い間先延ばしにしてしまった。
畜生界最強を自負する頸牙組組長の早鬼に恐れるものなど何もなかったが、唯一、神子の不興を買うのを恐れている。

「面を上げよ」

言われるがまま、顔を上げる。笏ではたかれるのかと思ったが、そこにはただ眩い笑みがあった。

「久方ぶりの再会だ。特別に煩わしい小言は後にしてやろう。今はただ、懐かしき知己と再会の喜びを分かち合おうではないか」

差し伸べられた手のひらに、後光が差しているような気がした。

「よくぞ舞い戻ってきた、我が驪駒よ!」

早鬼は感涙に咽びそうなのを、ぐっと堪える。後ろからようやく早鬼に追いついたオオカミ霊、ならびに八千慧とカワウソ霊の足音が聞こえてきたが、気を遣ってか声をかけてはこなかった。
その手を取るのは、あまりに畏れ多い。神子を驚かせただけで食事が喉を通らなくなるほど、早鬼は意外と繊細なのである。
かつての主人の手に、馴れ馴れしく触れるわけにはいかない――だというのに。
そこで早鬼は初めて神子につかず離れずの距離で付き添っている尼僧をまじまじと見つめた。一応、彼女の噂も聞くともなしに聞いてはいる。千年前に人間達に封じられ、幻想の地で大復活を遂げた伝説の魔法使いにして、神子達の眠る神聖な霊廟の上に寺を建てた不届き者、それでいて神子にとっての良き商売敵であるという聖白蓮である。

「ところで太子様、なぜその女と連れ立ってわざわざ地獄まで……」

早鬼は商売敵と言えるほどの緊張感もない白蓮の雰囲気を見て訝しむ。昔の神子が布教の目的で僧侶達と親しくしていたのは知っているが、本心では仏の教えになどかけらも信仰を抱かず、三宝も体裁のいい道具としか見做していなかったはずである。
今更僧侶なんぞとつるんで太子様になんの得が――その時、稲妻のようなひらめきが走った。
仏教は既存の神道や民間伝承などと融合し、現代まで勢力を保ち続けたと聞く。何なら道教と重なる部分もあるという。要は巧みに他の宗教を利用してきたのだ。
仏教にできて、道教に同じことができないわけがないではないか! 賢明な太子様ならなおのこと!

「尼僧と政略結婚して新たに仏教勢力を取り込もうというのですね!」
「は?」
「ぶっっ」

早鬼は目を輝かせて言ったのに、神子は目を丸くし、白蓮は盛大に吹き出した後で必死に笑いを噛み殺そうとしている。後ろの八千慧は『これだから脳筋馬鹿は』とでも言いたげに頭を抱えていた。
神子はすかさず笏を振りがさして早鬼の頭を叩いた。

「あいたっ!」
「何を戯けたことを。おい白蓮、お前も笑うな」
「だ、だって貴方、愛馬にまでスケコマシと思われてるんですか?」
「濡れ衣だ。大王の皇子が複数の妻を持って何が悪い」

開き直る神子だが、古来、色好みは王者の必要条件とも言えた。といっても『英雄色を好む』なんて色ボケな話だけでなく、政略的な事情が多大に絡み、名だたる豪族は皇族と婚姻関係を結ぶことで地位を盤石にしようとしたのだ。それは皇族側も同じである。
まあ現代でそんな言い分は通用しないのだが、ここは現代の読者諸氏にも大目に見ていただこう。

「とにかく驪駒よ。こいつは断じて私の妻ではない、あろうことか私を封印しようとした憎らしい商売敵だ」
「さっき私の女とか言ったのはなんだったんです?」
「やっぱり! 尊き太子様の死を怪しむ無礼者は他にもいたのですね。太子様の障害はすべて私が蹴散らしてご覧ぜましょう、さあ、何なりとご命令を!」
「勘違いで感激したかと思えばすぐに鼻息荒く怒り出す、さすがはトリ頭ならぬウマ頭といったところでしょうか」
「吉弔お前は黙ってろ!」
「よし、なら驪駒よ、一四◯◯年ぶりにお前に命ずる」

命ずると言われて、自ずと背筋が伸びる。詔を承るような厳かな心持ちで、早鬼は神子の言葉を待った。

「お前はこいつに何もするな」
「……はい?」

早鬼は目を瞬かせた。
神子は一瞬、ちらと八千慧の方を見た。早鬼になぜ、と食い下がる隙を与えず、神子は滔々と言い聞かせた。

「お前がその吉弔を獲物とするように、こいつも私の獲物なのさ。余計な手出しは無用だ。私もお前の敵に手出しはしない。互いに己の敵は己の手で倒そうではないか。……よいな?」

決して威圧感を与える語気ではないのに、早鬼を見下ろす瞳は有無を言わせぬ王者の貫禄がある。八千慧が獲物と正しく認識されたのはいいのだが、同時に何やら牽制をされたような。それでも早鬼は恭しく首を垂れるほかなかった。

「……仰せのままに」
「畜生界に名を馳せた駿馬も、貴方の威光の前では形なしですね」

早鬼の殊勝な態度に八千慧がまた皮肉を飛ばす。反発しようとしたまさにその時を見計らったかのように、神子は「驪駒よ」と、今度は先ほどより親しげに、懐かしげに声をかけてきた。

「かつて、私はお前に乗って倭を、日ノ本を駆け巡ったものだ。久しぶりに私を乗せてくれるか?」
「――喜んで!」

単純にもたちまち歓喜に震えた早鬼にためらいはなかった。
黒い翼が巨大化し、全身を包む。開かれた時には、早鬼は翼をそのままに生前の、漆黒の美しい毛並みを持つ立派な馬の姿に変わっていた。

『さあ太子様、私の背に。馬具はなくとも太子様なら問題ありませんね?』
「いかにも。一つ聞きたいんだが、今のお前はたいそうな筋肉自慢で通っているそうだな」
『はい! すでに死霊の我が筋力と体力は無尽蔵、千里でも万里でも駆け抜けてみせましょうぞ!』
「そうか、安心したよ」

神子は颯爽と早鬼の背に飛び乗った。さすがに手綱だけはないと心許ないので、神子はマントを括る紐を解いて簡略な手綱をこしらえ、早鬼の身体に装着する。そして、

「はっ!」

神子の掛け声と同時に、早鬼は主人を乗せて天高く飛んだ。
瞬く間に、地上に残してきた八千慧達が小さく見える。早鬼達の蹴散らした獄卒達も――そこでまだ獄卒は八千慧らへの警戒を解いていないと気づいてもよさそうだが、主人との懐かしい時間に浸っている早鬼に他のことを省みる余裕など一切なかった。

「懐かしいな。覚えているか、お前が初めて空を飛んだ日を」
『忘れるわけがありません。私は雲を蹴り、富士の山の頂まで太子様をお連れしたのです』
「あの時は本当に驚いた。けど愉快だったよ。あの頃は調子丸もいたね」
『調子丸……太子様ほどではありませんが、まずまずの人間でしたね。……あいつも仙人に?』
「いや。私が死んだ後、私の死を嘆きながら死んだという」
『……そうですか』
「今では富士の山はもう煙を吹いていないと聞くよ」
『甲斐の地もさぞや昔と変わってしまったのでしょうね。ご一緒に復活されたお仲間はお変わりなく?』
「みんな元気だよ、ちっとも修行にやる気がないのが玉に瑕だが」

八千慧ほどの頭脳のない早鬼はただ〝懐かしい〟と陳腐な感想しか繰り返せないが、自らに乗った神子の身体の温かさは生前と何一つ変わらず、本当に一四◯◯年前に時が戻ったかのようである。ただ、仙人となったその身は昔より軽やかだった。

『あの時は、もう二度とお目にかかれないのかと思いました』

不意に自分が神子をおいて死んだことを思い出して、早鬼は涙ぐみそうになる。早鬼は生前、神子が不老不死を目指し、密かに仙術を学んでいたことは朧げにしか知らなかった。死後になってようやくあらましを知った。
自分が死ぬのは構わない、所詮は馬だ。けれど神子が黄泉の国に来ないのなら、あのような輝かしい人間にはもう二度と会えない。そう思うと寂しさが募って、日夜喧嘩に明け暮れて、気がつけば脚力自慢の馬がいると畜生界に名を轟かせていた。鬼のように素早い、そこから驪駒の早鬼とあだ名がついた。吉弔八千慧や饕餮尤魔らとの因縁も始まり、新たな生きがいを得た早鬼は畜生界で楽しく暮らしていた。いつかどこかで神子は必ず復活する。そうしたら、早鬼は再び神子の元に馳せ参じて昔のように仕える――そのつもりだったが。

『こうして、またお会いできて……太子様がご健在で……私はっ』
「驪駒」

優しく諫められて、早鬼ははっと気づく。おめでたい再会の日に、涙は似合わない。
いや、そうではない。
早鬼にとって、神子は焦がれてやまない太陽のようなものである。神子との再会に感極まっているのは確かだが――。
早鬼の脳裏に、胸に、懐かしく輝かしい日々の記憶が次から次へと甦る。
あの頃は、神子の周りに大勢の人間がいた。神子の父王は早くに亡くなったが、母后は長らく健在だった。神子に付き従う布都と屠自古がいた。胡散臭い師匠の青娥がいた。神子が長らく摂政を務めた女帝がいた。神子と女帝と手を携えて政に取り掛かる蘇我の大臣がいた。秦氏の出身だという少々変わった部下もいた。妃もいた。その他数えきれないほどの信奉者がいた。
早鬼の世話をする舎人の調子丸もいた。早鬼が体調を崩すと昼も夜も付き添って、どこが悪いのかと必死に看病をする。恐らく聖徳太子の愛馬の世話を仰せつかった責任感もあろうが、彼の献身に偽りはないと早希は気づいていた。だからだろうか、調子丸に対しては、早鬼も少しばかり他の人間とは違うと見ていた。

(……だけど)

追憶を繰り返して、早鬼は気づく。昔の私はああだった、懐かしい、あの人は今頃どうしているだろう、あの場所はどうなったのだろう。気がかりなことは山ほどある。
けれど今となっては、どんなに美しい思い出も、流星のように過ぎ去った過去でしかないのだ。
思い出に浸るたびに、早鬼は何者かに後ろ髪を引かれる。そこには龍と亀を合わせた影が見えた。

(え、えっ?)

内心困惑する早鬼などお構いなしに、そいつは『何を悠長に思い出に浸っているんです』と語りかけてきた。

『ご自慢の最速はどうしたんです? 貴方がうかうかしている間に、畜生界は私のものになりますよ』

八千慧が極めて挑発的に、逆らう気力を失わせるような威圧感を漂わせて口元をつり上げる。

(こら吉弔、人の心の中にまで出しゃばってくんな。それとも何だってんだ、この私がまさか、吉弔なんぞが気になっているとでも?)

あるいはついに八千慧の能力の毒牙が……などと慌てふためいていると、八千慧の後ろから見慣れた悪魔のような赤い角が覗いた。

『クックック。お前達がぶつかって派手に目立ってくれれば上々、後は私が隙を見てすべてを掻っ攫って行くだけさ』

饕餮が、小柄な体躯に似合わぬ大きな得物を携え、何もかもを噛み砕き平らげるような鋭利な牙を覗かせて笑う。

(あ、なーんだ、ちゃんと饕餮もいたのか。そうだよな、あいつはプライドばっか高いように見えて意外と抜け目のない奴だった、だからわざと吉弔の後ろに潜んでたんだな)

早鬼は拍子抜けすると同時に安心した。その他にも、早鬼達に表向きは従順な態度を見せながら、虎視眈々と下剋上の機を狙う数多の動物霊が見えるではないか。

(ああ、そうだ、私はあいつらに勝たなくちゃならないんだ)

死してその生を終えてなお、早鬼は生き甲斐を求めている。血湧き肉躍る闘いに身を投じることを至上の喜びとしている。
ある意味、畜生界の天下を取ることは、大王になろうとした昔の神子のやり口と似ているかもしれない。
しかしその道は、自らと民の心の安寧を求め、人々の迷いを取り除こうとする宗教家とは真逆の道である。

(――私は、畜生界の頂に立ちたい)

早鬼は神や仏を信じない代わりに、今でも神子を崇拝している。もしも神子が早鬼を呼ぶのなら、どこであろうと疾風の勢いで馳せ参じるだろう。しかし、早鬼はもはや、昔のように神子のそばに仕えようとは強く望んでいない自分に気がついた。そういう自分にさしてショックを受けていないことにも。

「お前も新たな自分の道を見つけたようだな」

そんな早鬼の思いを見透かしたかのように、真上から神子の声が響く。

『太子様、私は、私は……』
「皆まで言うな。人は、いや、畜生ですら、誰しも欲望を抱えている。死のうが生きようが、命の続く限り、その野望を成し遂げようとする。今の私にも野望がある。お前が手を貸してくれるならありがたいが、残念ながらお前は布教活動には向いていないね」

早鬼は言葉がなかった。
早鬼には人間の政はむつかしいのでわからない。宗教だって、つい最近まで袿姫率いる埴輪軍団とそれらを呼び出した人間霊の信仰心に手こずらされたばかりで、正直あまり関わりたくないと思っている。
神子はいつだってこちらの考えはお見通しで、あるがままの欲望を受け止め、肯定してくれる。だからこそ早鬼の願望を読み取った上で自由にしてくれるのだと思うと、かつての愛馬として大事にされているようで嬉しくもあり、また、もはや早鬼の力は必要ないとそっけなく突き放されたようで寂しくもある。歳月は人も獣も変えてしまうのだと思うと、柄にもなく切なくなった。
湿っぽい気分を振り払うように、早鬼は神子に問いかけた。

『お聞かせください。今の太子様の求める道とはなんですか?』
「もちろん、宇宙の真理、道(タオ)を追及すること。私の伝説を広く知らしめること。かつてのような王座を得られずとも、私は必ず高みに立つさ……と言いたいところだが、残念ながら、私の野望を阻もうとするしつこい不届き者がいてね」

あの僧侶だ、と早鬼にはすぐピンときた。けれど、なぜだろう、神子は本気で僧侶を忌々しく憎らしいとは思っていないようだ。むしろ、そいつが邪魔をしに食らいついてくることが楽しみですらあるような……。

(ああ、そうか。そうだったんだ)

早鬼は一人で納得した。自他共にお頭が弱いと認める早鬼であるが、主人の心の機微くらいは察せられる。彼女がその名の通り神子の人生に花を添えるのなら悪くないし、何より一度は自分を封じた相手にそこまで気を許すなど、太子様はなんと寛大なお心のお方なのだろう――少々神子の意思とはズレている気がするが、早鬼は一度認めた相手を過大評価してしまう傾向があるのだ。

「さあ、そろそろ暗い顔はおしまいにしたらどうだ。お前の宿敵に馬鹿にされてしまうぞ」
『そっ、そうでした!』

早鬼は咄嗟に顔を大きく振り払った。
たとえ道が分かれても、神子の前ではいつだって自慢の〝驪駒〟でいたかった。神子にみっともない姿は見せられないし、何より八千慧のようないけすかない相手に弱みを握られるのは死より重い屈辱である。

『我が頸牙組は畜生界随一の筋力と脚力を誇る最速にして最強の組織、次に太子様とお会いする頃には、畜生界はすべて私のものとなっているでしょう』
「そうか。それは楽しみだ」

神子は早鬼のたてがみを撫でた。くすぐったく懐かしい感触だった。

「励めよ、驪駒。死してなお志を高く保つその意気や天晴。今も昔も、お前は私の自慢の愛馬だよ」
『――はい!』

神子から過分な評価をもらって、早鬼はただただ敬服の意を示した。

「たまには顔を見せなさい。けれど畜生界の外であまり羽目を外さないように」
『無論、心得ております』
「それからお前の挨拶が遅かったことに私は怒っている」
『それは……何とも弁明のしようが……』
「あと、地上の連中に見境なく喧嘩を売るのもやめなさい。お前のやらかしが全部私のところに苦情が来て困るのなんの」
『本ッ当に申し訳ございません!!』

早鬼はひたすら平身低頭で詫びるしかなかった。神子は言葉ほどには怒っていないのか、からからと笑っていた。



早鬼が神子と地獄の空を飛び回る一方で、地上に残された八千慧達は、残りの獄卒達に事情を説明して回っていた。ようやくパニックの治った獄卒達は、大人しく持ち場へ戻る者もあれば閻魔様に言いつけると憤慨する者もあり、損害賠償を請求する者もあり、また抜け目なく八千慧ら畜生界のヤクザ者を恫喝する者もあり。オオカミ霊とカワウソ霊は忙しなさに早々に目を回してしまった。

「まったく、神子ったら愛馬と再会した途端にこっちのことはほったらかしにするんだから」
「どうでしょう。あの方はきちんと覚えていて、貴方は面倒事を押し付けられてしまったようにお見受けしますが」

文句を言う白蓮に、八千慧は嫌味っぽく言い放つ。別に八千慧は神子にも白蓮にも興味はないのだが、袿姫の余波であらゆる宗教家を警戒しているのだ。
白蓮は八千慧を振り返って眉を下げる。

「それは貴方も同じではないかしら。大変そうですね、猪突猛進な子に因縁をつけられるというのは」
「ご心配には及びません、あいつは主人にまったく似るところのない馬鹿なので」
「確かに、知性の面ではまるで似ていないかもしれませんが……」

白蓮は天を仰いだ。暗い地獄の空でも、神子の姿はすぐに見つけられる。神子が漆黒の毛並みが美しい立派な馬にまたがって空を飛ぶところを見ていると、かつて読んだ書物に書かれていた聖徳太子と甲斐の驪駒の伝説を思い出して、自然とため息が出てしまう。

「名だたる絵師の描いた名画も色褪せてくるように思えるわ」
「本物の聖徳王とその愛馬ですからね。あれをそっくり描き写すなんて、誰にもできやしないでしょう」
「ええ。――あれはまさしく、聖徳太子のペガサスね」

白蓮は再び八千慧の方を向いた。

「あの子、一途に神子を慕って、可愛い子ですね」
「人間は動物を見ると二言目には〝可愛い〟と言い出すので、あまり信用できませんね」
「私はもう人間ではありませんし、簡単に嘘はつきませんよ。あの子は貴方のライバルなのですね」
「いいえ敵です。そんな甘っちょろいものじゃない」
「神子は今日だけで何度も『愛馬の手綱を握っておけ』と文句を言われていたけれど。もしかして、誰よりもあの子の手綱を握りたいのは、貴方なのかしら」
「さて、何のことやら、私には理解しかねる」
「心配しなくても、私だって貴方の獲物を横取りしたりはしません」
「誰がそのような心配を……しかし、貴方は驪駒に用がないのだとしたら、本当にただのお供で地獄まで? 命蓮寺の住職はお暇なのですね」
「貴方、馬頭観音はご存知かしら」
「宗教勧誘はお断りです。まさか畜生界の騒動を知らないとでも?」
「かといって、僧侶が地獄くんだりまで赴いておきながら布教の一つもしないのも不精進ですからね」

白蓮は図々しくも勝手に話を進めていく。八千慧は面倒なことになったと顔をしかめながら、白蓮があのやたらと態度の大きい神子と行動を共にしていた理由がわかった気がした。

「名前から想像がつきますよ、馬を守護する仏でしょう」
「厳密に言えば大元は違うのですが、確かにそういうものでした。けれど時代が降るにつれて、畜生すべてを救済する観音様として信仰を集めるようになったのが馬頭観音です。地獄に仏というように、賽の河原にお地蔵様が降臨するように、畜生界にだって御仏の手は差し伸べられるのです」
「厚かましい宗教ですね」
「お困りならば心に馬頭観音を念じてご覧なさい。きっと貴方達を救ってくださるわ」
「結構です。ただでさえ宗教は気に入らないのに、まして〝馬〟の名を冠した仏に縋るなど……」

八千慧の複雑な表情の意味を察して、白蓮は笑った。
そうこうしているうちに、遊覧飛行が一通り済んだのか、早鬼と神子が降りてきた。

「ちょっと神子、獄卒の苦情が全部私達のところに来たわ。積もる話は済んだのでしょう? こんなところに長居しても私達にメリットはなさそうよ」
『お見送りしましょうか、太子様。そろそろ人型に戻ろうかな……』
「あー、ちょっと待ってくれるか」

変化を解こうとする早鬼を押し留めて、神子は白蓮の手を引っ張った。

「お前も来い、白蓮!」
「えっ、ちょ、ちょっと!」

そのまま有無を言わせず早鬼に飛び乗って、自分の後ろに跨らせた。

『た、太子様? まさか』
「二人ぐらいいけるだろう? 筋肉自慢の驪駒よ」
『……当たり前です! あんまり他の奴は乗せたくないんですが、太子様のご希望なら仕方ありません。僧侶の同伴を許可します』
「そっちの吉弔はどうだ?」
「お断りです。暴れ馬に跨るなど正気の沙汰ではない」
『何だと吉弔! 太子様が気狂いだとでも言いたいのか! 私だってお前なんか土下座されたって乗せてやるもんか!』
「こら、その姿で暴れるな」

憤慨して鼻息が荒くなる早鬼を宥めると、今度は背後から白蓮の文句が飛んでくる。

「待ってったら、私は乗馬なんて慣れてないのよ」
「あのバイクとかいう乗り物に乗ったつもりでいればいいじゃないか」
「無茶苦茶な」
「なら振り落とされないように私にしがみついてろ。……行け、驪駒!」
『はッ!』

早鬼は二人を乗せて再び舞い上がる。
白蓮は神子の腰に手を回したっきり、無言だった。神子と早鬼、二人の再会の時間を邪魔しないように、との気遣いらしい。
騒々しい三人を動物霊と共に見送って、八千慧は肩をすくめた。

「面倒事を押し付けられ、振り回されているわりには楽しそうですね、あの坊さん」
『吉弔様も仲間に入りたいのなら遠慮しなければいいのに……いだーっ! やめて吉弔様、ヒゲだけは引っ張らないでー!!』



しばらくの間三人で飛び回り、地上に降りてからは尽きぬ名残りを惜しみなく語り尽くし、今度はぜひ部下や師や仲間も共にと約束し、ようやく神子は早鬼達に別れを告げて帰路についた。帰りは怖いと言ったが、獄卒に話を通したおかげか、行きよりも道はかえって静かである。あるいは騒がしい早鬼がいなくなってしまったから余計にそう思うのかもしれない。
人より儚い獣の命とはいえ、早鬼に死なれた時は相応に落ち込んだのに、元気で溌剌とした姿を久しぶりに見たら、神子も湿っぽい気持ちは吹き飛んでしまった。もう少し彼女の悪さについてお灸を据えるつもりだったのに、それらも予定より緩くなってしまった。やはりペットは可愛いものだ。こんな調子だから神子に苦情が飛んでくるのだろうが。
行きと同じように白蓮と二人で並んで歩くと、白蓮は「ねえ」と不満げに言った。

「結局、私は貴方の愛馬自慢のために道連れにされたの?」
「それ以外に何があるというんだ? 山の仙人ほどの愛好家じゃないが、動物はいいものだ。お前は一匹も飼わないのが勿体ない」
「当たり前でしょう。確かに動物は可愛いけれど、生き物を無闇に捕まえるのは罪なことです」
「北山の尼君みたいなことを言う。でも乗り心地は悪くなかっただろう」
「そりゃあ武帝や穆王の伝説をなぞるようで素敵でしたよ、あんな名馬は滅多にお目にかかれないわ。だけど、素直に貴方の仲間を連れて行ってあげればいいじゃない。あの子も初対面の私と話すより気楽でしょう」
「あいつもそこまで繊細じゃないから心配しなくていい」
「貴方は味方と認定した相手の扱いが雑よ、好意に甘えているんだわ」
「あいつらはその気になればいつだって驪駒と会えるよ。だが、こうでもしなきゃ、あいつは自分からお前に挨拶するとも思えないんでな」

白蓮は意外そうに神子を見つめる。
――本当にそれだけなの? とでも言いたげに、目を丸くしている。
裏もタネも仕掛けもない神子はそのまま歩き続ける。ワンテンポ遅れて、白蓮がついてくる。
獄卒達の雑多な欲望がすっかり聴こえなくなった反動か、白蓮の足音や鼓動がよく聴こえる。もちろん亡者の叫びもひっきりなしに響くのだが、慣れてしまったのかそちらはあまり気にならなかった。

「ねえ、神子。あの子はどうして私を貴方の妻になると勘違いしたのかしら」
「あいつはお頭がいまいちなんだ、昔の感覚が抜け切ってないみたいだから気にするな」
「私と結婚したら政略結婚になるそうね。いつの時代の話よ?」
「戦国時代じゃないか、あいつは戦ばっかりしているみたいだし」
「もう飛鳥も平安も戦国もとっくの昔になったのにね。ああでも、貴方も意外と昔気質なところがありますし、そういう目論見が皆無ではないとも……」
「馬鹿を言え、今更この私が仏教なんぞを頼みにするか。道教と仏教を習合させたって何のメリットもありはしない。お前と政略結婚なんて何があっても有り得ないから安心しろ」

神子がここまで言えば白蓮は気づくと確信があった。手厳しい拒絶の裏に隠した本当の狙いを正確に読み取るはずだ。
ドクン、ドクンと音を立てるのは白蓮か、神子か、はたまた地獄の唸りか。

「そうですか。畜生界の獣といい、貴方といい、僧侶としての私はとことん必要とされていないわけね」

いつのまにか白蓮は隣に並ばず、神子の少し後ろからついてくる形で落ち着いている。
背中に痛いほどの眼差しを感じる。神子は何も言わない。辛抱強く、白蓮の口から決定的な一言を聴くのを待っている。それはある種の駆け引きに近い。

「だけど、今日の私は一介の僧侶として貴方の頼みを引き受けたんじゃないわ」
「吉弔にきっちり布教をしてたくせに?」
「聴いてたの? 地獄耳なんですから……本当よ、私は自分が僧侶であることを片時も忘れないけど、だからって、いついかなる時も僧侶としての振る舞いを徹底しているわけでは」
「まだるっこしいな。要点を話せ」

いい加減しびれを切らして水を向ければ、途端に白蓮は静かになる。
しばしの逡巡ののち、白蓮は上擦った声で告げた。

「神子。私が今、何を考えているか、わかるでしょう?」
「私はサトリ妖怪じゃないんだ」

神子は毅然と言い放った。

「お前は歯に絹着せぬ物言いをする性格だろう。言いたいことがあるなら自分の口で言うんだな」
「……つれないわ。誰よりも聡い耳を持っているくせに、肝心な時は何も聴こえないふりをするんだから。いいですよ、私だってスケコマシにスケコマされるのはごめんですから」
「スケ……だから誤解だと言っているだろう」

白蓮の口ぶりはいたく不満げだった。どうやら今回の駆け引きは勝たずとも優勢のようだと神子は思った。

――貴方が望むなら、商売敵以上のものになってあげてもいいけど?

さすがの白蓮も口にするのは憚られたのだろう。自分は僧侶であるとはっきり言ったように、彼女にもいっぱしの躊躇いがあるのだ。
神子は悟っておきながら知らぬ存ぜぬを貫く。もし白蓮が他に伴侶を得るようなことがあれば全力を賭けて邪魔をする自信があったが、お前が望むなら私も構わない、なんて言うはずもなかった。

(いい加減、気づけ。今の私がこうもちょっかいをかけるのはお前しかいないって)

別に惚れたが負けとか自分から言ったら下みたいとか思っているわけではないが、神子は白蓮の口から聴きたい。誰よりも聡い耳を持つからこそ、はっきりと口に出して言う、簡単には取り消せない言葉を求めているのだ。それは白蓮の言葉を借りるなら『好意に甘えている』わがままな状態に近い。
神子の身体にはまだ、丈夫な体を持つくせに、早鬼の上で神子にしがみついて離れなかった白蓮の温もりが残っている。
それらを振り払うように、「帰るぞ」と速度を上げた。気がつけば三途の河岸まで戻ってきていた。河を渡れば幻想郷まであと少しだ。

「待ってよ、神子」

少し早足に歩く神子の後ろを白蓮が追いかける。振り返らなくても、神子は白蓮の様子がわかる。青白眼をなす――白蓮はきっと、好ましい相手を見る時の青い眼で一途に神子を見つめている。
神子は一人ほくそ笑んで、生涯誰も背負うことも、誰にも背負われることもなく渡る河を白蓮と二人で歩いていった。



神子を見送った早鬼は、心置きなく思い出を語り切った充実感と、かつての主人と道を分かれたある種の寂しさの入り混じった、一言では言い表しにくい心境だった。
自分がそばにいなくても、神子は迷わず己の道を邁進するだろう。早鬼もまた自分の進みたい道が鮮明に見えて、別れの名残り惜しさはすぐに吹き飛んだ。

「決めた。私は一刻も早く畜生界の天下を取る」

振り返れば八千慧が不敵な笑みを浮かべて早鬼を見つめている。神子からあれだけ発破をかけられたのだ、未練がましく思い出にしがみついている暇はない。早鬼が蹴散らすべき敵は目の前にいるのだ。

「私が傅くのは過去にも未来にも、太子様お一人だけだ。他の奴に媚びへつらうくらいなら死んだ方がマシだね」
「もう死んでますけどね」
「うるさい!」

相変わらず減らず口ばかりの八千慧に改めて闘争心を燃やす。今回、二度目の同盟を組むことになったが、それもここで解消だ。これまで通り、八千慧は早鬼にとっての侮り難い宿敵となる。

「私を認めてくれた太子様のため、何より私自身のために! 畜生界のすべては私のものだ、容赦はしないぞ、覚悟しろ吉弔!」

高らかに啖呵を切った早鬼を前に、八千慧はますます口元の笑みを深めてゆく。やれるものならやってみろ。そう言いたげだった。

「やはり貴方とはこうして向かい合う方が性に合う。さすがに三度目の同盟はないことを願っていますよ」
「こっちこそ!」

売り言葉に買い言葉で反応したはいいが、早鬼は今更ながらはたと気づく。
考えてみれば、獄卒に追われていたので仕方なかったとはいえ、八千慧は早鬼に協力するメリットなど何一つなかったはずだ。

「お前、どうして私に協力してくれたんだ?」
「……貴方は主のようにそ知らぬふりをするのですか? それとも聡明な主に似ず残念なお頭のせいですか?」

八千慧はため息をつくなり、ずいと早鬼に顔を近づける。

「言わなければわからないのですか?」
「わ、からない」

じとりと細められた赤い目に見つめられて、早鬼の鼓動がはやる。この感覚は覚えがある、神子を乗せて飛んだ時に、八千慧や饕餮を思い出した感覚に近い。

(とうとう私まで吉弔の能力にかかるようになってしまったのか!?)

混乱する早鬼にはそうとしか考えられない。八千慧は自分の能力を簡単に明かしたがらないし、逆らう気力を削ぐ能力がどの程度の相手に、どの程度の範囲まで有効なのか早鬼にはわからない。
まずい、非常にまずい。かくなる上は実力行使あるのみ――咄嗟に脚を動かしたのを見て、八千慧は蠱惑的に笑って、一枚の紙を早鬼に握らせてきた。

「貴方に恩を売りつけるためですよ。私は部下を大量に使いましたし、軍備も消耗しました。埋め合わせはすべて頸牙組に請求します」
「はあ!?」

何かと思えば、手渡されたのは請求書である。小さく丁寧な字で、獄卒への損害賠償やら鬼傑組の備蓄の内訳やらが事細かにしたためられている。
請求書に並んだゼロの数を見てオオカミ霊の一匹は『け、頸牙組の資金が……』と嘆き、もう一匹は泡を吹いて倒れた。
八千慧は勝ち誇った笑みのカワウソ霊を従えて、悠々と畜生界へ帰ってゆく。

「こ、こら待て吉弔! この金額を私にだけ負担させる気か!? 同盟は対等だと言っただろうが!」
「ええ、もちろん対等です。まさか仁義を大事にする頸牙組の組長ともあろう貴方が、借金を踏み倒したりなどしないと〝信頼〟していますよ?」

なんという鬼畜生の所業! 鬼傑組への支払いだけなら逃げ切る方法などいくらでもあるが、地獄の獄卒まで含まれているのが厄介だ。さすがにもう一度獄卒を敵に回すのは、いくら早希といえども骨が折れるではないか。
今回の共闘でせっかく八千慧を少し見直したと思えばこの仕打ちだ。卑怯で狡猾で陰湿極まりない八千慧に、早鬼の怒りは怒髪天に達した。

「やっぱりあいつは大嫌いだ!!」

早鬼は地獄界、畜生界全土に響き渡るような猛獣の雄叫びを上げた。
武闘派と頭脳派のコンビはいいものです。書きながら早鬼と八千慧は少年漫画の熱血おバカ主人公と嫌味なクールインテリライバルの趣があるなと思いました。
早鬼と神子の再会の話をちゃんと描きたかったのと、さきやちにプリズンブレイクしてほしかったので混ぜました。ひじみこはもう「いい加減難しい話はいいからとりあえずイチャついてくんない?」くらいのノリで書いたらああなった。地獄はデートスポットじゃないんだよ。
原作が作品数を経るに連れて、聖は命蓮寺に仲間や一時預かりが集まっていくのに対して、神子は神霊廟の外にかつての縁があると思わしき人が増えていくのが対照的で面白いですね。
朝顔
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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
2.100七草粥削除
コミカルかつ軽快な会話がとても読み心地が良かったです。その上、節々で故事の内容が絡められていて読みごたえが増している気がしました。面白かったです
3.100のくた削除
それぞれのコンビ(バディ? カップル?)がそれらしくて面白かったです。
4.100夏後冬前削除
いちゃいちゃハッピーセットのダブルデートでトールホイップキャラメルマキアートショコリキサーな感じの非常にカロリーマシマシで、とても満足しました。面白かったです。
5.100南条削除
面白かったです
やちさきコンビもひじみこコンビもなんだかんだ言って仲がよさそうで素晴らしかったです
これはもうダブルデートですね
7.100名前が無い程度の能力削除
とても良かったです。二組のコンビの軽妙なやり取りがすっと入ってきて心地よく読み進めることができました。
8.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしいWデートでした。
知った通じた仲なみこひじと、それに反するまだまだこれからカップリングのさきやち。対極ながら通じるものもある噛み合い高い二つのカップルを大変面白く読むことができました。
神子がかなり露骨に聖に矢印向けてるのが素晴らしかったです。
ひじやちの会話もとても良かったです。有難うございました