「……ふん。面白くないな」
レミリアはそう呟いて、先程まで目を通していた文々。新聞をテーブルの上に放った。
陽当たりのいいテラスの日陰に据え付けられたテーブル上には、新聞の他に紅い色の紅茶が置かれている。
少しふてくされた様子でそれに口を付けるレミリアに、その紅茶を注いだ本人が相手をする。
「お嬢様。それはいつものことでは?」
「新聞のことじゃないわ。むしろ興味深い事象が載っている」
「珍しいですこと」
「ああ。希少品だ。取って置くかな」
「そうですね。これは希少なだけでなく、濡らして窓を拭いたり揚げ物の油を切ったり、汎用性も高いですから」
そうさらりと、文が聞いたら新聞で涙を拭きそうな発言を述べて、咲夜は差し出されたカップに紅茶のお代わりを瀟洒に注ぎいれる。
するとレミリアは言葉遊びもそこそこに、神妙な顔で本当の意味を語る。
「運命が見えた。しかもかなり確信的なもの、だ」
「……」
咲夜の表情が変わる。主の言葉の重さを計る時の顔になった。
「少なくとも今日中、身近な人間の運命が変わる」
「……それは、どのような」
「さぁな。もしかしたら良いことかもしれないが、よくわからない。
だが起こる時は起こる。冷静に対処するように」
レミリアは肩を竦めると、気品を醸し出しながら紅茶を一口含む。
咲夜は微笑を貫いていたが、後ろに疑問符が大量に渦巻いている様な雰囲気を発散していた。
さすがに説明不足を感じたのか、レミリアは続ける。
「運命は川の流れと同じだ。自在に形を変え何百通りもの姿を見せるが、長い目で見れば大きな終着点に向かうだけ。
私たちはその川の中に立っていたり、泳いでいたり、時には溺れていたりする存在ね」
「さしずめ小魚や沢蟹といった所ですか」
「まぁ、私は川に入れないけどね。だから傍観者としておおまかな流れを観察できるし、客観的に干渉もできる。
だが忌々しいことに、その運命自体の回避は難しい。
だって川を堰き止めるわけにもいかないでしょ。流水に触れられない私にはどうしようもないし」
「歯がゆいですわ」
「ああまったく。私ができることは、川っぺりから小石を投げて、流れにちょっかいを出すことだけよ」
そう言うと、レミリアは席を立った。すかさず咲夜が反応する。
「お嬢様、どちらに?」
「ちょっと人里まで。咲夜も一緒に行こう。川に小石を投げに、ね」
レミリアはそう瞬時に日傘を用意した従者に命じる。
二人が出て行った後、一筋の風がテーブルに残された新聞をめくる。
そのページの見出しには、こう太字で記されていた。
『人里にある鉄製の大物 開かずならぬ閉まらずとなる』
――◇――
人里の大工が住む自宅には、花嫁道具の衣装箪笥ほどもある直方体の鉄塊が鎮座していた。
鉄塊と言っても中身はくり抜かれ、がらんどうの穴には蝶番のついたドアの様に開閉する蓋が付いている。
その蓋にはドアノブの代わりに無骨な金属製の取っ手と、子供の掌ほどもあるダイアルが取り付けてある。
人里ではあまり馴染みがないが、隣室の座布団に正座した慧音はその正体を知っていた。
「本当に、馬鹿に大きな金庫だな」
「ええ。これを運ぶのに荷車と馬、それに何人もの人足が必要でしたからね。
重さに関して言えば、間違いなく馬鹿ですよ」
そう、これは巨大な金庫。
その金庫の自虐の様な説明をする棟梁が、金庫を裏拳でコンコンと軽く叩く。しかし、反響音が全くしない。
人差し指と親指を一杯に広げないと挟めないくらい分厚い金属壁の、中身がぎっしり詰まっている証拠だ。
それが五面、最初から一枚板を折り曲げて造った様に隙間なく金属壁が覆っている。
残りの一面は中身を出し入れする蓋だ。しかしその蓋も壁と同じくらいの厚みがある。
まさに頑強にして剛健。この金庫に物を保管したら、並の泥棒では太刀打ちできないだろう。
もっとも、それはこの金庫の蓋を閉め、きちんと鍵を掛けたらの話だが。
「……先代のご主人に、お悔やみ申し上げる。惜しい人を亡くした」
「いえいえ。このように皆で丁寧に弔っていただき、親父も草葉の陰で喜んでいると思います」
そう座敷に戻ってきた棟梁と慧音は、お互いに座礼をし合う。
先代の棟梁は頑固だがきっぷが良く、威勢のいいべらんめえ口調が印象的な人物だった。
そんな先代が亡くなって五日。ようやく落ち着きを取り戻しかけた家の縁側で、喪主を務めた息子である二代目棟梁と慧音が世間話を続ける。
「親父も残った親族に財産や今後のこと、末期の言葉もきちんと言い含めて逝ったんでね、未練はないと思います。
ただ、どこか抜けているところがありましたからね、ウチの親父。それでこういう事態になったわけです」
「まだ、番号が分からないのか?」
「ええ。私も聞きそびれたことを後悔していますよ。書置きも無し、思い当たる数字も無し。もうお手上げです」
この金庫は何十年も前、無縁塚に流れ着いたものだった。
それを香霖堂の店主が発見したはいいが、あいにくその細腕にこの重量のお化けを持ち上げる器量はなかった。
そこで気前よく運搬の手伝いをしたのが先代の棟梁。当時、先代の人脈は人里のみならず森の雑貨店にまで広がっていたのだ。
その後、明らかに金庫がいらない香霖堂から金庫が必要なこの経営者に譲られ、仕事で得た収入や貴重品の守護者として長年重宝してきた。
そしてその金庫を開ける番号は先代のみが知り、息子でさえ開けられない難攻不落を誇った。
しかし先代は最後にうっかりを犯し、文字通り金庫の番号を墓の下に持って行ってしまったのだ。
「ですが、最後に金庫が開きっぱなしだったのが幸いしました。中の物を全部出して、今は扉を全開にしてつっかえ棒を掛けています。
次閉じた時が、この金庫が開いている姿の見納めですよ」
「うーむ。だから『閉まらずの金庫』か。不用心だな」
「ある意味用心はしていますが、複雑ですね」
そう棟梁は頭を掻いて苦笑した。
と、その時、店の入り口からドタドタと騒がしい足音がこちらに駆けてきた。
「とーちゃんただいま! 遊びに行ってくる!」
「こら! 家ん中を走るなってぇ何べんも言っただろうが! 先生がみえているんだ。挨拶ぐらいしろい」
家の廊下を全速力で突っ切り、持っていた風呂敷包みを部屋の中に放り投げた腕白小僧が、棟梁に小気味よく窘められる。
それを聞いて、子供はあわてて頭を下げた。
「あっ、わっ! 先生こんにちは」
「はい、こんにちは」
「じゃ、遊び行ってくる!」
「おい、ちゃんと晩飯には帰ってくるんだぞ」
棟梁の言葉が聞こえるかどうかの短い時間で、子供は嵐の様に去って行った。
それを見送り、主はやれやれと慧音に向き直る。
「すみません。ウチのガキはいつまでたっても落ち着きがなくて」
「ははは、あれくらいの子供は元気過ぎで丁度いいのさ。それにしても、やっぱり貴方はあの人の息子だ。口調がそっくり」
「そうですか。無意識なんですがね」
お客様と息子相手で口調が違う棟梁と慧音が談笑しつつ、本題へと移る。
「それで、前に話した寺子屋の修理の件だが」
「はい。屋根の雨漏りでしたね。ここんとこバタバタして待たせてしまいましたけど、今から具合を見に行きましょう」
「よろしく頼む」
そう言って棟梁は大工道具の入った長箱を肩に担ぎ、家紋入りの法被を纏って慧音と連れ立って寺子屋へと向かった。
――◇――
異変が起こったのは、それから幾ばくもしない時間だった。
「おい! 聞こえるか! おい!」
棟梁が金庫の扉をどんどんと拳で叩く。家の前には大勢の野次馬。
そして、金庫の扉は完全に閉まっていた。
家の入り口では泣きじゃくる子供たち、正確には棟梁の息子の友達をなだめつつ、慧音が事情聴取している。
「じゃあ、あの金庫の中にいるってことか!?」
「そう……あいつが中は結構広いんだぞって……それで金庫の中に入っていって……」
「俺たちやめようって言ったんだけど、ちょっとくらいなら平気だって……」
そう謝りながら状況を説明する子供たちに、慧音は焦燥の顔色となった。
慧音と棟梁が寺子屋に向かっている間、息子は自宅に戻ってきて、あろうことか金庫の周りで遊び始めた。
そしてふざけて金庫に入った拍子につっかいが外れ、扉は中に息子を残したまま閉ざされてしまったという。
焦った子供たちは扉を開けなければ、とダイアルをめちゃくちゃに回してしまったらしい。
こうして、金庫は子供を飲み込んだ鉄塊となってしまったのだ。
「なんてこった……しっかりしろ! 今助けてやるからな!」
棟梁はそう扉に向かって大声を張り上げ、耳を当てる。
しかし、中の音は全く聞こえない。棟梁の顔が一層険しくなった。
「下がっていてくれ」
慧音はそう野次馬と棟梁を下がらせると、剣を模した自身のスペルを発動する。
そして手元に現れた光の剣を、蝶番に向かって思い切り振り下ろした。
かなり大きな金属音がしたが、表面が少しはげただけだった。
「駄目だ、歯が立たない!」
「おい! ノミと金槌持って来い! 扉ぶっ壊す!」
「そんなので間に合うのか!? 中の空気が枯れちまうよ」
「じゃあどうするんだ!」
慧音に棟梁、野次馬を交えて侃々諤々と方策が紛糾するが、そうこうしているうちにどんどん状況は悪い方向に傾いていく。
そんな様子を、レミリアと咲夜が店の外の野次馬に混ざって眺めていた。
「――大きなうねりだな」
「……」
「このままだと、あの子は助からないわね」
「……」
「あなた、何でもできるわよね。何とかできない?」
日傘を支える咲夜は無言で、しかしその瞳は頼りなく揺れていた。
レミリアの見透かしたような言葉に、咲夜は大いに逡巡していた。
咲夜は何でもできる。
レミリアに仕える以前の咲夜は、何でも必死で習得して生きてきたから。
咲夜はそんな過去のワンシーンが去来していた。
――金庫
大きな金庫。
あの中に、奴隷商の売上金が山ほど入っている。
練習。
あいつは悪者だ。人間を大きなお屋敷や鉱山に売っているし、私と同じ年の女の子を、もっとひどい所に売ろうとしている。
練習練習。
そんなやつのお金を盗んで何が悪い。
練習練習練習。
だいぶコツがつかめた。いける。開けられる。これなら、バレずにお金を――
「咲夜」
はっ、と咲夜は現代に引き戻される。
名前を呼んだレミリアは、そっと日傘の柄を握る咲夜の手に両手を添えて、こう言った。
「あなたの運命よ。あの子を助けるか。それとも黙って踵を返すか。
傘は私が持っておくから、自分で選びなさい」
レミリアは全てを見透かしていてなお、咲夜に全てを委ねた。
咲夜は時を止め、他人から見れば一瞬、本人からすれば充分に悩んだ。
そして、決断した。
「お嬢様……すぐ戻ります」
「ん。いってらっしゃい」
咲夜はそういつものように笑顔で答えて、傘をレミリアに預ける。
一方のレミリアも、家の中に向かう咲夜をその場で見送った。
金庫の前では、棟梁が汗を垂らしながら金テコをわずかな隙間にねじ込んでいた。
しかし、この金庫相手じゃ爪楊枝で攻撃するようなものだった。
そんなてんやわんやの真っただ中を、咲夜は静かにしゃなりと歩みより、慧音と棟梁に話しかける。
「少しよろしいですか?」
「あ!? な、何だ」
「金庫の前から、離れていただけますか。それからお静かに願います」
さっきの慧音と同じセリフをのたまう咲夜。
突然現れ落ち着き払ってそう言う咲夜に棟梁は怪訝な顔をするが、なぜか笑顔の奥に逆らえない強みを感じた。
とりあえず、二人は横にどいた。
金庫の全景が咲夜の目にあらわとなり、陶然と、どこか懐かしむように咲夜が呟く。
「すごく、大きい……頑固そうだけど、こういう子は正攻法に弱い」
そうぶつぶつと漏らして金庫の前に座り込むと、右手でダイアルを持ち、左手でノブをつかんだ。
そしておもむろに耳を金庫に当て、ダイアルを回す。
この人は、金庫を開けようとしている?
そんな認識が伝播し始め、たまらず野次馬の一人が問いかける。
「なぁ、あんた開けられるのか? こいつの番号が分かるのか!?」
「……お静かに、と申し上げたはずです。この子の声が聞こえません」
凛とした注意の声に、問いかけた人間は思わず口を両手で塞いだ。
咲夜は静粛になったのを見て取り、再び金庫と対峙する。
「さぁ、聞かせて。私はあなたとお話がしたいのよ」
咲夜はお人形に話しかける様に口調はゆったりだが、しかしダイアルをまるで精密機械の如く素早く正確に回す。
反対の手ではノブを小刻みに揺らし、その手ごたえも探る。
刹那、咲夜の耳にかちゃりと極々小さな金属音が届き、ノブがほんの少しだけ開く方向に傾いた。
周囲の目が見開かれる。
「いい子。もっと、もっと聞かせて」
だが咲夜は、特に驚くことなくそのまま作業を続行する。
五感を集中させて金庫の反応を探るその手つきは、繊細かつなめらか。まるで熟練工の様に鮮やかな技だ。
すると、また金属音がした。今度は大きい。
周囲は水を打った様な静けさで、咲夜の手先を見守る。
そして、ふと咲夜のダイアルを回す手が止まった。
「……終わりです」
そう宣言するや、咲夜はノブをひねる。
果たして、何人も突っぱねてきた金属の扉は、ゴクンと鈍い音をひとつ響かせてあっさりと口を開いた。
途端に野次馬や両親がわっと集まる。
金庫の中では息子がぐったりと横たわっていたが、息はあるようだった。
すぐさま大勢の手で医者に運ばれていく。
その中に、咲夜の姿はもう無かった。
「ご苦労様」
人知れずレミリアの元に帰ってきた咲夜は、そうねぎらいの言葉をかけるレミリアに礼をして、日傘を受け取る。
日光が苦手なレミリアのために傘を掲げることが、咲夜にとっては最優先事項なのだ。
でも、その顔にはまだ影が残っていた。
――◇――
紅魔館に帰る道すがら、それは唐突に現れた。
「――先刻は大活躍でしたわね」
道の真ん中にスキマを開いて出現したのは、幻想郷の守護妖怪である八雲紫だ。
紫は妖艶な微笑を浮かべているのに対し、咲夜の顔はこわばる。
レミリアといえば、今朝新聞を読んでいた時の様にむすりとした表情だ。
「実に迅速でお見事な手さばきでしたこと。
紅魔館のメイド長ともなると、金庫破りも造作ないことなのでしょう。
しかし、この郷にあれほどの金庫はそう存在しません。いったいどこで技を磨いたのかしら?」
白々しい。咲夜はそう思ったが、口には出せない。
その言葉は、権力者に取り調べを受ける容疑者としてはふさわしくない。
とうとう咲夜は観念したように、とつとつと語り始めた。
「……あの技、いえ、あの手癖は外界にいた時に身につけたものです。
幼い頃から両親にさえ悪魔として迫害され、それ以前に脆弱な子供でしかなかった私が一人で生きていくためには……非合法な手段に頼るしかありませんでしたから」
そう言って、咲夜は自嘲の吐息を漏らす。
「無銭飲食、スリに窃盗。時を止められる私の能力は、それらを難なくこなすには充分でした。
盗んだ食料を齧り、腹が空けばまた盗む……そんな野良犬の様な生活と犯行を繰り返すうちに、私は金庫を狙うようになりました」
「金庫は逃げ回らないけど大金が入っているから効率がいい。しかも、まさか少女が金庫破りなんて考えられないから、ね」
紫の補足に、咲夜は目を伏せる。
天下の往来、しかもレミリアの面前で過去の罪を告白する。
それは完璧で瀟洒をモットーとする咲夜にとって、苦渋の懺悔であった。
「……金庫をわざわざ壊さずに開ける練習の時間は、それこそ無限にありました。
皆が寝静まったら時を止めて金庫に近づき、犯行を済ませたらそのまま逃亡。
周囲では謎の怪盗として騒がれていたようですが、私に結びつく証拠は何もありませんでした。
幸か不幸かバレずに腕は上がり続け、そしてある日、物陰でパンを齧っていた時に、お嬢様に見とめられました。
お嬢様はこんな私をかくまってくださっただけでなく、仕事と仲間、いえ、家族を与えてくださいました。
生きる意味も将来の展望もわからない、そんな生活から救ってくださったのです」
咲夜の弁舌に熱がこもる。日傘を握る力が自然と強くなった。
「でも、そんな生活もお終いですね……所詮犬には過ぎた日々でした」
それだけ言って、咲夜は黙りこくる。
いくら過去のことであっても、窃盗罪の刑は重い。郷からの追放で済めばマシな方だ。
それ以前に咲夜は、自らの腕前を大勢の目の前で曝した。狭い幻想郷だ、手癖の悪さから盗人の噂を立てられただけでも生きていけないだろう。
現にこうして郷の管理人が現れた。権力者は罪人の処遇を決定できる。
咲夜が全てを覚悟してうつむいていたその時、レミリアが初めて口を開いた。
「おいおい、私より身長の高い奴らはすぐこれだ。私の頭上で話をしたがる」
突然の発言に、咲夜は目を丸くし、紫はただスキマの縁に頬づえを突いて耳を傾けていた。
レミリアは続ける。
「賢者殿、あんたは私の従者を拘束したい様だな。もしくは処断か、島流しかな。
何でもいいけど、咲夜は私と悪魔の契約ってやつで繋がっている。一人で勝手ができないんだよ。
然るにその咲夜の身柄をどうこうしようっていうなら、まず私に話を通すのが筋ってもんじゃない?」
レミリアの声音は一定だったが、段々と鳥が驚いて飛び立つ程の凄みが増してきた。
咲夜は「お嬢様……」と呟きを震わせる。
「さて、賢者殿には儚い月の件で何かと世話になったし、貸し借りを精算するにはいい日和だと思うのよ」
そう言い放つと、レミリアは右手に緋色の槍を出現させ、切っ先を紫に向けて構える。
スピア・ザ・グングニル。レミリアは力づくでこの場を突破する気だ。
咲夜は一瞬息を呑むが、すぐさまナイフを構え臨戦態勢に移行する。
二人がかりでも無理を押し通せるか分からない相手だが、咲夜はレミリアの為ならどこまでも。
ひりつく緊張。凍りつく空気。
だが、いじらしい主従を目の当たりにした紫は、表情を柔和に崩してこうさらりと言った。
「――何のことでしょう?」
まったく他意のない、本当にのんきなこの発言に二人が「「はぁ?」」と疑問の声を同時に漏らす。
「私はこの郷の責任者として、子供の命を救ってくれたメイドさんに一言謝辞を述べに来ただけですわ。
そんな住人の命の恩人相手に、拘束する理由はありません」
そう言ってほほ笑む紫に、二人の警戒レベルが一気に下がる。
レミリアは槍を消して「ふん」と鼻を鳴らす。一方の咲夜は緊張が一気に解けて、ほーっと長い息を吐いた。
「そして私の役目は、彼らが来るまでメイドさんを引き留める事」
そう言って咲夜の後方を指差す紫。
二人が振り返ると、人影が二つ走り寄ってくる。一つは慧音、もう一つは棟梁だ。
慧音たちは咲夜を見とめると、手を振って呼び止める。
「はぁはぁ、こんな所にいたのか。探したぞ。彼が、貴女にお礼が言いたいと」
そう言って棟梁を指し示す慧音。棟梁は咲夜の手を取ると、額をこすり付けんばかりに頭を下げた。
「咲夜さんっていうんだよな。咲夜さん、ウチのガキを助けてくれてありがとう。
医者の話じゃ命に別状はねぇって。だがもうちょっと遅かったら危なかっただろうって。
ありがとう。ありがとう。あんたは英雄だよ」
棟梁の真っ直ぐな感謝の言葉に、咲夜の胸が熱くなる。
棟梁の言葉は、これからも咲夜がこの幻想郷で生きていけることを物語っていた。
咲夜が目を潤ませながら主と何度もお辞儀し返す最中、レミリアはふと振り返る。
そこにはもう、紫の姿は無かった。
――◇――
翌日の文々。新聞には、こんな見出しが躍った。
『お手柄メイド長 閉まらずの金庫再び開く!』
その記事には金庫に閉じ込められた子供と、金庫の番号がわからなくなった2つの事件が同時に解決したことが書かれ、最後に咲夜の器用さを称賛する言葉で締めくくられていた。
レミリアはその記事を見て微笑む。
その傍らには、いつもの様にティーポットを傾ける咲夜の姿がある。
咲夜の運命はあの日変わった。
自らの過去を打ち明けた咲夜は、ふっきれたようにまたレミリアの元で甲斐甲斐しく働いている。
最早過去の鎖は解け、とても晴れやかな気持ちだった。
ここでティーカップをレミリアに差し出した咲夜が、ふとした疑問を漏らす。
「お嬢様。あの時、運命を選択せよ、とおっしゃいましたよね。
もしかして、こうなることをご存じだったのでは?」
もっともな指摘に、レミリアは肩を竦めて軽く答える。
「さぁね。私の能力はそんな未来予知みたいに万能じゃないから。
でも、事件が起こる事。そしてその事件を分水嶺に、運命が二手に分かれていたのは見えたわ。
片方は幸福、もう片方は残酷って具合にね」
「残酷?」
咲夜の疑問詞に、レミリアは犬歯をのぞかせてその意味を伝える。
「あの騒動の陰で、私は咲夜の進路についてこう決断したんだ。
もし子供を助けようとしたなら、全てを許してまたメイド長を続けてもらおうと思った。
心優しくて繊細な小娘が糾弾される事態になったら、それを代わりに私が受け止めてやらないと潰れちゃうでしょ。
でも、もし子供を見捨てるようだったら、この館から出て行ってもらうつもりだった。
そういう処世術と利己的な冷酷さを備えた人間はこの館に不要よ。その能力が生かせる場所に行った方がいい」
それはあまりに悪魔的な選択だった。
あの時子供の命より保身を取ろうとしたら、皮肉にもそれが理想的な生活を崩壊させる引き金になったわけである。
思わず咲夜は心中で冷汗を一筋流すが、レミリアはくっくと喉を鳴らしてこう付け加えた。
「でも、信じていたから。咲夜は必ず正しい選択をする、私の元に帰ってきてくれるって。
それにこの郷は、私が思っている以上に懐が広く、何でも受け入れてくれる。
胸を張れ。昔の咲夜がどうあれ、今の咲夜は子供を助けた善良なる人間で、私の大事な従者なんだから」
レミリアはそう宣言してから、カップの紅茶に口を付ける。
レミリアの放った小石は見事に命中し、いい方向へと運命の流れを変えたのである。
従者の運命をチップにした賭けに勝利し、美酒よりも甘美な風味の咲夜特製紅茶を嗜むのは格別だった。
そんなレミリアに、咲夜は改めて敬愛の意を込め、深々とお辞儀をする。
信頼という形で咲夜に許しを与えたレミリアに対し、忠誠を誓ってひざまずく騎士の様に、ただただ礼をするのであった。
【終】
レミリアはそう呟いて、先程まで目を通していた文々。新聞をテーブルの上に放った。
陽当たりのいいテラスの日陰に据え付けられたテーブル上には、新聞の他に紅い色の紅茶が置かれている。
少しふてくされた様子でそれに口を付けるレミリアに、その紅茶を注いだ本人が相手をする。
「お嬢様。それはいつものことでは?」
「新聞のことじゃないわ。むしろ興味深い事象が載っている」
「珍しいですこと」
「ああ。希少品だ。取って置くかな」
「そうですね。これは希少なだけでなく、濡らして窓を拭いたり揚げ物の油を切ったり、汎用性も高いですから」
そうさらりと、文が聞いたら新聞で涙を拭きそうな発言を述べて、咲夜は差し出されたカップに紅茶のお代わりを瀟洒に注ぎいれる。
するとレミリアは言葉遊びもそこそこに、神妙な顔で本当の意味を語る。
「運命が見えた。しかもかなり確信的なもの、だ」
「……」
咲夜の表情が変わる。主の言葉の重さを計る時の顔になった。
「少なくとも今日中、身近な人間の運命が変わる」
「……それは、どのような」
「さぁな。もしかしたら良いことかもしれないが、よくわからない。
だが起こる時は起こる。冷静に対処するように」
レミリアは肩を竦めると、気品を醸し出しながら紅茶を一口含む。
咲夜は微笑を貫いていたが、後ろに疑問符が大量に渦巻いている様な雰囲気を発散していた。
さすがに説明不足を感じたのか、レミリアは続ける。
「運命は川の流れと同じだ。自在に形を変え何百通りもの姿を見せるが、長い目で見れば大きな終着点に向かうだけ。
私たちはその川の中に立っていたり、泳いでいたり、時には溺れていたりする存在ね」
「さしずめ小魚や沢蟹といった所ですか」
「まぁ、私は川に入れないけどね。だから傍観者としておおまかな流れを観察できるし、客観的に干渉もできる。
だが忌々しいことに、その運命自体の回避は難しい。
だって川を堰き止めるわけにもいかないでしょ。流水に触れられない私にはどうしようもないし」
「歯がゆいですわ」
「ああまったく。私ができることは、川っぺりから小石を投げて、流れにちょっかいを出すことだけよ」
そう言うと、レミリアは席を立った。すかさず咲夜が反応する。
「お嬢様、どちらに?」
「ちょっと人里まで。咲夜も一緒に行こう。川に小石を投げに、ね」
レミリアはそう瞬時に日傘を用意した従者に命じる。
二人が出て行った後、一筋の風がテーブルに残された新聞をめくる。
そのページの見出しには、こう太字で記されていた。
『人里にある鉄製の大物 開かずならぬ閉まらずとなる』
――◇――
人里の大工が住む自宅には、花嫁道具の衣装箪笥ほどもある直方体の鉄塊が鎮座していた。
鉄塊と言っても中身はくり抜かれ、がらんどうの穴には蝶番のついたドアの様に開閉する蓋が付いている。
その蓋にはドアノブの代わりに無骨な金属製の取っ手と、子供の掌ほどもあるダイアルが取り付けてある。
人里ではあまり馴染みがないが、隣室の座布団に正座した慧音はその正体を知っていた。
「本当に、馬鹿に大きな金庫だな」
「ええ。これを運ぶのに荷車と馬、それに何人もの人足が必要でしたからね。
重さに関して言えば、間違いなく馬鹿ですよ」
そう、これは巨大な金庫。
その金庫の自虐の様な説明をする棟梁が、金庫を裏拳でコンコンと軽く叩く。しかし、反響音が全くしない。
人差し指と親指を一杯に広げないと挟めないくらい分厚い金属壁の、中身がぎっしり詰まっている証拠だ。
それが五面、最初から一枚板を折り曲げて造った様に隙間なく金属壁が覆っている。
残りの一面は中身を出し入れする蓋だ。しかしその蓋も壁と同じくらいの厚みがある。
まさに頑強にして剛健。この金庫に物を保管したら、並の泥棒では太刀打ちできないだろう。
もっとも、それはこの金庫の蓋を閉め、きちんと鍵を掛けたらの話だが。
「……先代のご主人に、お悔やみ申し上げる。惜しい人を亡くした」
「いえいえ。このように皆で丁寧に弔っていただき、親父も草葉の陰で喜んでいると思います」
そう座敷に戻ってきた棟梁と慧音は、お互いに座礼をし合う。
先代の棟梁は頑固だがきっぷが良く、威勢のいいべらんめえ口調が印象的な人物だった。
そんな先代が亡くなって五日。ようやく落ち着きを取り戻しかけた家の縁側で、喪主を務めた息子である二代目棟梁と慧音が世間話を続ける。
「親父も残った親族に財産や今後のこと、末期の言葉もきちんと言い含めて逝ったんでね、未練はないと思います。
ただ、どこか抜けているところがありましたからね、ウチの親父。それでこういう事態になったわけです」
「まだ、番号が分からないのか?」
「ええ。私も聞きそびれたことを後悔していますよ。書置きも無し、思い当たる数字も無し。もうお手上げです」
この金庫は何十年も前、無縁塚に流れ着いたものだった。
それを香霖堂の店主が発見したはいいが、あいにくその細腕にこの重量のお化けを持ち上げる器量はなかった。
そこで気前よく運搬の手伝いをしたのが先代の棟梁。当時、先代の人脈は人里のみならず森の雑貨店にまで広がっていたのだ。
その後、明らかに金庫がいらない香霖堂から金庫が必要なこの経営者に譲られ、仕事で得た収入や貴重品の守護者として長年重宝してきた。
そしてその金庫を開ける番号は先代のみが知り、息子でさえ開けられない難攻不落を誇った。
しかし先代は最後にうっかりを犯し、文字通り金庫の番号を墓の下に持って行ってしまったのだ。
「ですが、最後に金庫が開きっぱなしだったのが幸いしました。中の物を全部出して、今は扉を全開にしてつっかえ棒を掛けています。
次閉じた時が、この金庫が開いている姿の見納めですよ」
「うーむ。だから『閉まらずの金庫』か。不用心だな」
「ある意味用心はしていますが、複雑ですね」
そう棟梁は頭を掻いて苦笑した。
と、その時、店の入り口からドタドタと騒がしい足音がこちらに駆けてきた。
「とーちゃんただいま! 遊びに行ってくる!」
「こら! 家ん中を走るなってぇ何べんも言っただろうが! 先生がみえているんだ。挨拶ぐらいしろい」
家の廊下を全速力で突っ切り、持っていた風呂敷包みを部屋の中に放り投げた腕白小僧が、棟梁に小気味よく窘められる。
それを聞いて、子供はあわてて頭を下げた。
「あっ、わっ! 先生こんにちは」
「はい、こんにちは」
「じゃ、遊び行ってくる!」
「おい、ちゃんと晩飯には帰ってくるんだぞ」
棟梁の言葉が聞こえるかどうかの短い時間で、子供は嵐の様に去って行った。
それを見送り、主はやれやれと慧音に向き直る。
「すみません。ウチのガキはいつまでたっても落ち着きがなくて」
「ははは、あれくらいの子供は元気過ぎで丁度いいのさ。それにしても、やっぱり貴方はあの人の息子だ。口調がそっくり」
「そうですか。無意識なんですがね」
お客様と息子相手で口調が違う棟梁と慧音が談笑しつつ、本題へと移る。
「それで、前に話した寺子屋の修理の件だが」
「はい。屋根の雨漏りでしたね。ここんとこバタバタして待たせてしまいましたけど、今から具合を見に行きましょう」
「よろしく頼む」
そう言って棟梁は大工道具の入った長箱を肩に担ぎ、家紋入りの法被を纏って慧音と連れ立って寺子屋へと向かった。
――◇――
異変が起こったのは、それから幾ばくもしない時間だった。
「おい! 聞こえるか! おい!」
棟梁が金庫の扉をどんどんと拳で叩く。家の前には大勢の野次馬。
そして、金庫の扉は完全に閉まっていた。
家の入り口では泣きじゃくる子供たち、正確には棟梁の息子の友達をなだめつつ、慧音が事情聴取している。
「じゃあ、あの金庫の中にいるってことか!?」
「そう……あいつが中は結構広いんだぞって……それで金庫の中に入っていって……」
「俺たちやめようって言ったんだけど、ちょっとくらいなら平気だって……」
そう謝りながら状況を説明する子供たちに、慧音は焦燥の顔色となった。
慧音と棟梁が寺子屋に向かっている間、息子は自宅に戻ってきて、あろうことか金庫の周りで遊び始めた。
そしてふざけて金庫に入った拍子につっかいが外れ、扉は中に息子を残したまま閉ざされてしまったという。
焦った子供たちは扉を開けなければ、とダイアルをめちゃくちゃに回してしまったらしい。
こうして、金庫は子供を飲み込んだ鉄塊となってしまったのだ。
「なんてこった……しっかりしろ! 今助けてやるからな!」
棟梁はそう扉に向かって大声を張り上げ、耳を当てる。
しかし、中の音は全く聞こえない。棟梁の顔が一層険しくなった。
「下がっていてくれ」
慧音はそう野次馬と棟梁を下がらせると、剣を模した自身のスペルを発動する。
そして手元に現れた光の剣を、蝶番に向かって思い切り振り下ろした。
かなり大きな金属音がしたが、表面が少しはげただけだった。
「駄目だ、歯が立たない!」
「おい! ノミと金槌持って来い! 扉ぶっ壊す!」
「そんなので間に合うのか!? 中の空気が枯れちまうよ」
「じゃあどうするんだ!」
慧音に棟梁、野次馬を交えて侃々諤々と方策が紛糾するが、そうこうしているうちにどんどん状況は悪い方向に傾いていく。
そんな様子を、レミリアと咲夜が店の外の野次馬に混ざって眺めていた。
「――大きなうねりだな」
「……」
「このままだと、あの子は助からないわね」
「……」
「あなた、何でもできるわよね。何とかできない?」
日傘を支える咲夜は無言で、しかしその瞳は頼りなく揺れていた。
レミリアの見透かしたような言葉に、咲夜は大いに逡巡していた。
咲夜は何でもできる。
レミリアに仕える以前の咲夜は、何でも必死で習得して生きてきたから。
咲夜はそんな過去のワンシーンが去来していた。
――金庫
大きな金庫。
あの中に、奴隷商の売上金が山ほど入っている。
練習。
あいつは悪者だ。人間を大きなお屋敷や鉱山に売っているし、私と同じ年の女の子を、もっとひどい所に売ろうとしている。
練習練習。
そんなやつのお金を盗んで何が悪い。
練習練習練習。
だいぶコツがつかめた。いける。開けられる。これなら、バレずにお金を――
「咲夜」
はっ、と咲夜は現代に引き戻される。
名前を呼んだレミリアは、そっと日傘の柄を握る咲夜の手に両手を添えて、こう言った。
「あなたの運命よ。あの子を助けるか。それとも黙って踵を返すか。
傘は私が持っておくから、自分で選びなさい」
レミリアは全てを見透かしていてなお、咲夜に全てを委ねた。
咲夜は時を止め、他人から見れば一瞬、本人からすれば充分に悩んだ。
そして、決断した。
「お嬢様……すぐ戻ります」
「ん。いってらっしゃい」
咲夜はそういつものように笑顔で答えて、傘をレミリアに預ける。
一方のレミリアも、家の中に向かう咲夜をその場で見送った。
金庫の前では、棟梁が汗を垂らしながら金テコをわずかな隙間にねじ込んでいた。
しかし、この金庫相手じゃ爪楊枝で攻撃するようなものだった。
そんなてんやわんやの真っただ中を、咲夜は静かにしゃなりと歩みより、慧音と棟梁に話しかける。
「少しよろしいですか?」
「あ!? な、何だ」
「金庫の前から、離れていただけますか。それからお静かに願います」
さっきの慧音と同じセリフをのたまう咲夜。
突然現れ落ち着き払ってそう言う咲夜に棟梁は怪訝な顔をするが、なぜか笑顔の奥に逆らえない強みを感じた。
とりあえず、二人は横にどいた。
金庫の全景が咲夜の目にあらわとなり、陶然と、どこか懐かしむように咲夜が呟く。
「すごく、大きい……頑固そうだけど、こういう子は正攻法に弱い」
そうぶつぶつと漏らして金庫の前に座り込むと、右手でダイアルを持ち、左手でノブをつかんだ。
そしておもむろに耳を金庫に当て、ダイアルを回す。
この人は、金庫を開けようとしている?
そんな認識が伝播し始め、たまらず野次馬の一人が問いかける。
「なぁ、あんた開けられるのか? こいつの番号が分かるのか!?」
「……お静かに、と申し上げたはずです。この子の声が聞こえません」
凛とした注意の声に、問いかけた人間は思わず口を両手で塞いだ。
咲夜は静粛になったのを見て取り、再び金庫と対峙する。
「さぁ、聞かせて。私はあなたとお話がしたいのよ」
咲夜はお人形に話しかける様に口調はゆったりだが、しかしダイアルをまるで精密機械の如く素早く正確に回す。
反対の手ではノブを小刻みに揺らし、その手ごたえも探る。
刹那、咲夜の耳にかちゃりと極々小さな金属音が届き、ノブがほんの少しだけ開く方向に傾いた。
周囲の目が見開かれる。
「いい子。もっと、もっと聞かせて」
だが咲夜は、特に驚くことなくそのまま作業を続行する。
五感を集中させて金庫の反応を探るその手つきは、繊細かつなめらか。まるで熟練工の様に鮮やかな技だ。
すると、また金属音がした。今度は大きい。
周囲は水を打った様な静けさで、咲夜の手先を見守る。
そして、ふと咲夜のダイアルを回す手が止まった。
「……終わりです」
そう宣言するや、咲夜はノブをひねる。
果たして、何人も突っぱねてきた金属の扉は、ゴクンと鈍い音をひとつ響かせてあっさりと口を開いた。
途端に野次馬や両親がわっと集まる。
金庫の中では息子がぐったりと横たわっていたが、息はあるようだった。
すぐさま大勢の手で医者に運ばれていく。
その中に、咲夜の姿はもう無かった。
「ご苦労様」
人知れずレミリアの元に帰ってきた咲夜は、そうねぎらいの言葉をかけるレミリアに礼をして、日傘を受け取る。
日光が苦手なレミリアのために傘を掲げることが、咲夜にとっては最優先事項なのだ。
でも、その顔にはまだ影が残っていた。
――◇――
紅魔館に帰る道すがら、それは唐突に現れた。
「――先刻は大活躍でしたわね」
道の真ん中にスキマを開いて出現したのは、幻想郷の守護妖怪である八雲紫だ。
紫は妖艶な微笑を浮かべているのに対し、咲夜の顔はこわばる。
レミリアといえば、今朝新聞を読んでいた時の様にむすりとした表情だ。
「実に迅速でお見事な手さばきでしたこと。
紅魔館のメイド長ともなると、金庫破りも造作ないことなのでしょう。
しかし、この郷にあれほどの金庫はそう存在しません。いったいどこで技を磨いたのかしら?」
白々しい。咲夜はそう思ったが、口には出せない。
その言葉は、権力者に取り調べを受ける容疑者としてはふさわしくない。
とうとう咲夜は観念したように、とつとつと語り始めた。
「……あの技、いえ、あの手癖は外界にいた時に身につけたものです。
幼い頃から両親にさえ悪魔として迫害され、それ以前に脆弱な子供でしかなかった私が一人で生きていくためには……非合法な手段に頼るしかありませんでしたから」
そう言って、咲夜は自嘲の吐息を漏らす。
「無銭飲食、スリに窃盗。時を止められる私の能力は、それらを難なくこなすには充分でした。
盗んだ食料を齧り、腹が空けばまた盗む……そんな野良犬の様な生活と犯行を繰り返すうちに、私は金庫を狙うようになりました」
「金庫は逃げ回らないけど大金が入っているから効率がいい。しかも、まさか少女が金庫破りなんて考えられないから、ね」
紫の補足に、咲夜は目を伏せる。
天下の往来、しかもレミリアの面前で過去の罪を告白する。
それは完璧で瀟洒をモットーとする咲夜にとって、苦渋の懺悔であった。
「……金庫をわざわざ壊さずに開ける練習の時間は、それこそ無限にありました。
皆が寝静まったら時を止めて金庫に近づき、犯行を済ませたらそのまま逃亡。
周囲では謎の怪盗として騒がれていたようですが、私に結びつく証拠は何もありませんでした。
幸か不幸かバレずに腕は上がり続け、そしてある日、物陰でパンを齧っていた時に、お嬢様に見とめられました。
お嬢様はこんな私をかくまってくださっただけでなく、仕事と仲間、いえ、家族を与えてくださいました。
生きる意味も将来の展望もわからない、そんな生活から救ってくださったのです」
咲夜の弁舌に熱がこもる。日傘を握る力が自然と強くなった。
「でも、そんな生活もお終いですね……所詮犬には過ぎた日々でした」
それだけ言って、咲夜は黙りこくる。
いくら過去のことであっても、窃盗罪の刑は重い。郷からの追放で済めばマシな方だ。
それ以前に咲夜は、自らの腕前を大勢の目の前で曝した。狭い幻想郷だ、手癖の悪さから盗人の噂を立てられただけでも生きていけないだろう。
現にこうして郷の管理人が現れた。権力者は罪人の処遇を決定できる。
咲夜が全てを覚悟してうつむいていたその時、レミリアが初めて口を開いた。
「おいおい、私より身長の高い奴らはすぐこれだ。私の頭上で話をしたがる」
突然の発言に、咲夜は目を丸くし、紫はただスキマの縁に頬づえを突いて耳を傾けていた。
レミリアは続ける。
「賢者殿、あんたは私の従者を拘束したい様だな。もしくは処断か、島流しかな。
何でもいいけど、咲夜は私と悪魔の契約ってやつで繋がっている。一人で勝手ができないんだよ。
然るにその咲夜の身柄をどうこうしようっていうなら、まず私に話を通すのが筋ってもんじゃない?」
レミリアの声音は一定だったが、段々と鳥が驚いて飛び立つ程の凄みが増してきた。
咲夜は「お嬢様……」と呟きを震わせる。
「さて、賢者殿には儚い月の件で何かと世話になったし、貸し借りを精算するにはいい日和だと思うのよ」
そう言い放つと、レミリアは右手に緋色の槍を出現させ、切っ先を紫に向けて構える。
スピア・ザ・グングニル。レミリアは力づくでこの場を突破する気だ。
咲夜は一瞬息を呑むが、すぐさまナイフを構え臨戦態勢に移行する。
二人がかりでも無理を押し通せるか分からない相手だが、咲夜はレミリアの為ならどこまでも。
ひりつく緊張。凍りつく空気。
だが、いじらしい主従を目の当たりにした紫は、表情を柔和に崩してこうさらりと言った。
「――何のことでしょう?」
まったく他意のない、本当にのんきなこの発言に二人が「「はぁ?」」と疑問の声を同時に漏らす。
「私はこの郷の責任者として、子供の命を救ってくれたメイドさんに一言謝辞を述べに来ただけですわ。
そんな住人の命の恩人相手に、拘束する理由はありません」
そう言ってほほ笑む紫に、二人の警戒レベルが一気に下がる。
レミリアは槍を消して「ふん」と鼻を鳴らす。一方の咲夜は緊張が一気に解けて、ほーっと長い息を吐いた。
「そして私の役目は、彼らが来るまでメイドさんを引き留める事」
そう言って咲夜の後方を指差す紫。
二人が振り返ると、人影が二つ走り寄ってくる。一つは慧音、もう一つは棟梁だ。
慧音たちは咲夜を見とめると、手を振って呼び止める。
「はぁはぁ、こんな所にいたのか。探したぞ。彼が、貴女にお礼が言いたいと」
そう言って棟梁を指し示す慧音。棟梁は咲夜の手を取ると、額をこすり付けんばかりに頭を下げた。
「咲夜さんっていうんだよな。咲夜さん、ウチのガキを助けてくれてありがとう。
医者の話じゃ命に別状はねぇって。だがもうちょっと遅かったら危なかっただろうって。
ありがとう。ありがとう。あんたは英雄だよ」
棟梁の真っ直ぐな感謝の言葉に、咲夜の胸が熱くなる。
棟梁の言葉は、これからも咲夜がこの幻想郷で生きていけることを物語っていた。
咲夜が目を潤ませながら主と何度もお辞儀し返す最中、レミリアはふと振り返る。
そこにはもう、紫の姿は無かった。
――◇――
翌日の文々。新聞には、こんな見出しが躍った。
『お手柄メイド長 閉まらずの金庫再び開く!』
その記事には金庫に閉じ込められた子供と、金庫の番号がわからなくなった2つの事件が同時に解決したことが書かれ、最後に咲夜の器用さを称賛する言葉で締めくくられていた。
レミリアはその記事を見て微笑む。
その傍らには、いつもの様にティーポットを傾ける咲夜の姿がある。
咲夜の運命はあの日変わった。
自らの過去を打ち明けた咲夜は、ふっきれたようにまたレミリアの元で甲斐甲斐しく働いている。
最早過去の鎖は解け、とても晴れやかな気持ちだった。
ここでティーカップをレミリアに差し出した咲夜が、ふとした疑問を漏らす。
「お嬢様。あの時、運命を選択せよ、とおっしゃいましたよね。
もしかして、こうなることをご存じだったのでは?」
もっともな指摘に、レミリアは肩を竦めて軽く答える。
「さぁね。私の能力はそんな未来予知みたいに万能じゃないから。
でも、事件が起こる事。そしてその事件を分水嶺に、運命が二手に分かれていたのは見えたわ。
片方は幸福、もう片方は残酷って具合にね」
「残酷?」
咲夜の疑問詞に、レミリアは犬歯をのぞかせてその意味を伝える。
「あの騒動の陰で、私は咲夜の進路についてこう決断したんだ。
もし子供を助けようとしたなら、全てを許してまたメイド長を続けてもらおうと思った。
心優しくて繊細な小娘が糾弾される事態になったら、それを代わりに私が受け止めてやらないと潰れちゃうでしょ。
でも、もし子供を見捨てるようだったら、この館から出て行ってもらうつもりだった。
そういう処世術と利己的な冷酷さを備えた人間はこの館に不要よ。その能力が生かせる場所に行った方がいい」
それはあまりに悪魔的な選択だった。
あの時子供の命より保身を取ろうとしたら、皮肉にもそれが理想的な生活を崩壊させる引き金になったわけである。
思わず咲夜は心中で冷汗を一筋流すが、レミリアはくっくと喉を鳴らしてこう付け加えた。
「でも、信じていたから。咲夜は必ず正しい選択をする、私の元に帰ってきてくれるって。
それにこの郷は、私が思っている以上に懐が広く、何でも受け入れてくれる。
胸を張れ。昔の咲夜がどうあれ、今の咲夜は子供を助けた善良なる人間で、私の大事な従者なんだから」
レミリアはそう宣言してから、カップの紅茶に口を付ける。
レミリアの放った小石は見事に命中し、いい方向へと運命の流れを変えたのである。
従者の運命をチップにした賭けに勝利し、美酒よりも甘美な風味の咲夜特製紅茶を嗜むのは格別だった。
そんなレミリアに、咲夜は改めて敬愛の意を込め、深々とお辞儀をする。
信頼という形で咲夜に許しを与えたレミリアに対し、忠誠を誓ってひざまずく騎士の様に、ただただ礼をするのであった。
【終】
レミリアかっけぇ!!
面白かったです。
最近、別SSにて『賢者の贈り物』について触れている作品も読んだのですが
素敵なストーリーばかりだと改めて思いました。
このSSも面白かったです。
咲夜さんが棟梁からお礼を言われるところでグっときました。
「実は私、昔は殺人鬼だったんですよ」「ふーん。まあ、どうでもいいわ」とか普通に言いそうなイメージのキャラの方が多いような。
でもこの手のベクトルの人間は嫌いじゃないわ寧ろおぜう様っぽいわ!
しかし異世界での罪悪ってどうなんだろ?
そこの基準で判断されるだろうけどなら善悪ってなんだろう?(哲学)
芸は身を助けるとはこのことでしょうか…?
7番様もすごい! 技術系の方なのでしょうか。
簡単な金庫なら、訓練しだいで出来ちゃうものなのですね。自分もホームセンターでうっかり商品の金庫を開けちゃって焦ったりしました(笑)
絶望を司る程度の能力様
しかも本人は、そんなにすごい事ではないと思っていそうです。
お嬢様はカッコいいイメージです。ごくたまに発作的に「う~☆」って言ってもね!
奇声を発する程度の能力
いつもご感想ありがとうございます。嬉しいです。
12番様
ありがとうございます。
非現実世界に棲む者様
咲夜さんならこれぐらい大丈夫だろうというイメージです。お気に召された様でよかったです。
15番様
もしかして、クリスマスプレゼントをめぐるさくめーモノですか? そうでしたら、あれも非常にハートフルなお話ですよね。
そして私のSSもお褒め頂き光栄です。原典では主人公がお礼を言われるくだりが無かったので、そんなシーンを差し込んでみました。
グッとこられたというご感想に、よしっ! とガッツポーズの私です。
16番様
紫様自身はどうも思っていないけど、人里民が不安がる様であればその人物の排除に動く、というイメージです。
それにあんなに仰々しく出てきたものだから「あ、ヤバイ……」と思った、のではないかなぁと。
でも確かにあの面々なら「別に」って言いそうだ……幻想郷、怖い所!(白目)
17番様
しかもその試す人が権力者だったら戦々恐々! でもお嬢様らしくて好きというご感想に一安心です。
善悪の意識について様々考察がありますが、幻想郷はちょっと緩い考え方なのではないかな、と思っています。
なので同じ罪でも咲夜さん一行は紫様の登場に動揺し、一方の紫様は泰然としているといった具合に温度差が生じたのではないかと。
しかし哲学にまで及ぶと手に負えないので、その命題はまたの機会に(汗)
18番様
本作の設定に関していろいろご意見あるかと身構えていたのですが、概ね好意的なご感想を頂き誠に嬉しいです。
技術もそうですし、咲夜さんならおそらく幻想郷イチつぶしの効く人材なのではないかと。
……自分も勉強しないとなー。
19番様
ありがとうございます。オチと引き際を綺麗に、をモットーに頑張っているので、そこをお褒めにあずかりとてもよかったです。
手提げ金庫におこづかいを保管、しかし手提げ金庫ごと持っていかれたらオシマイだと気付いて愕然としているがま口でした。
ご感想ありがとうございます。
なぜか私も金庫破りは金庫に話しかけているのがベタな認識です。喋っていたら集中できないような気もしますが……
自分で書いておいてなんなのですが、むしろ咲夜さんができないことを知りたい今日この頃です。