いつもこの季節が来ると悲しくなる。
冬。この寒いだけの残酷な季節に、一体どんな価値があるというのだろう?
全ての生命は息をひそめ、ひたすらに春を待つ。中には命を落としてしまう者もある。
だというのに、何を楽しめというのだろう?
冬が来るたび、僕はとても悲しくてたまらなかった。
寒い夜中にひとりで目を覚ましたときなど、泣きだしてしまうくらいだ。
兄さんは僕を見るたび「お前は神経質すぎるんだよ」と言った。
シンケイシツ、という言葉が僕にはよく分からない。
冬を厭い、春を好むのは、人として当然のことではないのだろうか?
すると決まって兄さんは、
「いいか、春は餓えた熊がうろうろしてるし、夏は暑さで人が死ぬだろ。
秋には台風がくる。なのに、お前はどうして冬だけを嫌うんだ?」
と、もっともらしい理屈を並べるのだ。
それこそ神経質な物言いじゃないか。悲しいことを列挙していたらキリがない。
悲しい季節なんて、どれか一つだけで十分だ。だから僕は冬が嫌いだ。
そんな考えがより一層強くなったのは、去年の冬のことだった。
あれは確か、稲の収穫が終わり、豊穣祭も済んだ日だった。
僕は何の気無しに、すっかり寂しくなってしまった裏山へと足を運んだ。
足元には無数の枯葉が舞い落ち、カサカサと音を立てる。
――まるで死体を踏んでいるようだ。
そう思った瞬間、僕は急に気持ちが悪くなって、家に帰りたくなってしまった。
枯葉だけではない、見えないだけで虫や獣の死骸も転がっているはずだ。
それもこれも冬が近づいてくるのが悪いのだ。
「くそっ、これだから冬は嫌いだ!」
「あら、貴方もそう思うの? なんだか気が合いそうねえ」
いきなり背後から聞こえた声に、僕はぎょっとして振り返った。
そこには、いつの間にか赤いワンピースに身を包んだ少女が立っていた。
ウェーブのかかった金色の髪には、一枚の紅葉が飾られている。
なんだか、もみじ人参を添えた卵豆腐みたいだと思ってしまう。
その途端、僕は急に笑いが止まらなくなった。
「ぷっ、あは、あはははははは!」
「な、なによ、いきなり笑いだして。気色悪いわね」
放っておいてくれ、僕は家族公認の物狂いなのだから。
ひとしきり笑い終える頃には、目の前の彼女の視線は、すっかり冷たくなっていた。
「サイテー。私の何がそんなに面白いわけ? ホント、今すぐ祟ってやろうかしら」
「ごめんごめん、君の髪が卵豆腐みたいだなと思ったら、急に笑えてきて」
「卵豆腐ぅ!?」
しまった、しゃべっちゃった。
少女は目と口を丸くしている。鳩に豆鉄砲なんてもんじゃない、猟師に遭遇した雉みたいな顔だ。
早々に謝るべきだろう。僕は謝罪の言葉をいくつか用意し、一番気の利いたやつを使おうとした。
「あの、今のは――」
「卵豆腐……食べたいわね」
少女の口から意外な言葉が出る。今度は僕が黙ってしまう番だった。
「ねえ、貴方。今すぐ卵豆腐を持ってきてくれない? そうしたら笑ったことは許してあげるわ」
「なんだよ、自分で買いに行けばいいだろう」
「それじゃ駄目なのよ。神様が手にするのは買い物じゃなくて、捧げ物でしょう?」
「……神様?」
僕は背中を一筋の汗が伝うのを感じた。
ひょっとして、僕はとんでもない相手に、とんでもないことをしてしまったのではなかろうか?
※ ※ ※
「ぜえ、ぜえ、ぜえ……はい、これ」
「遅かったわねえ」
「全速力だよ!」
村の豆腐屋まで往復すること半刻あまり。
陽は陰り、風は凍りつくような北風に変わってきている。
少女は木と木の間に、紅葉を橋のように渡し、その上に寝転がっている。
どうやら神様と名乗ったのは本当のことらしい。
たぶん他人から見たら「おかしな」自分の神経が、偶然にも正しい解を導いてくれた幸運に、僕はそっと感謝した。
「ねえ」
「なんだよ」
少女は寝転がったままで言う。
夕陽に照らされた横顔が、すごく億劫そうに見えた。
「食べさせて」
「はあ!? 自分で食べろよ!」
「じゃあ呪う。今すぐ呪って、狂わせてあげる」
「すいません、食べさせてあげるんで許してください」
紅葉が竜巻のように舞い上がるのを見て、僕はとっさに土下座を敢行した。
ああくそ、なんでこんな女の子相手に土下座しなきゃならんのだ?
少女が指を振ると、紅葉は地面に落ちて大人しくなった。
ついでに彼女の体を支えていた分も無くなる。
ふわり、と空中で体を回転させて、彼女は地上に降り立った。
とことこと僕の前まで歩いてくる。
背の高さは、僕の方が少しだけ高かった。
「はい、食べさせて。あーん」
「……」
「どうしたの?」
「箸が無い……」
僕は呆然と呟いた。
まさか、そんな物が必要になるとは思わなかったのだ。
すると少女は、けらけらと笑って言った。
「いいわよ、手で食べさせて」
「えっ」
「早く」
少女はふっくらした唇を開いて、あーんと声を出してみせた。
紅葉と同じ色をした口内で、小さな舌がぬらぬらと光っている。
ごくり、と喉が鳴る。
異性にこんなことするなんて、初めてだ。しかも相手は神様ときている。
「……どうしよう」
「ほらっ、早く!」
せかされて、ふと気付いた。
彼女の頬が、かすかに赤く染まっている。
やはり彼女も恥ずかしいのだ。
それを待たせておくのは、なんというか、男として許されない気がする。
僕は思い切って卵豆腐に指を突っ込んだ。
北風に晒された卵豆腐は、思っていた以上に冷たかった。
そっと力を入れたつもりだったが、柔らかくて、すぐに崩れてしまう。
ずいぶん苦労して、一口分の卵豆腐を人差し指の先に乗せた。
「それじゃ、行くよ」
「うん」
彼女の唇が閉じてゆき、僕の指を挟みこむ。
温かく、ぬらりとした感触が指先を包み込む。
胸の奥からこみ上げる熱に耐えきれなくなって、僕はそっと目を逸らした。
ちゅ、と音がして彼女の唇が離れた。
唾液に濡れた指先が、外気に触れて急速に冷やされる。
寒さをこらえて、僕は尋ねた。
「どうだった?」
「……おいしかった」
彼女は満足そうに目を閉じると、その場で横になった。
「ありがとう。今年最後の食事、楽しかったわ」
「最後……?」
「見て」
言われるがままに天を見上げると、フワリと何かが舞い降りてきた。
目をこらさなければ見えないような、小さな小さな、粉雪。
今年最初の雪だった。
「冬が来る。秋の神様である私は消えなければならない」
「消えるって……ちょっと、大丈夫!?」
僕は驚いて彼女を抱き起した。
なぜなら彼女の体がどんどん消えていくからだ。
粉雪の触れたところから、次第次第に範囲が広がってゆく。
少女は微笑んで言った。
「私のことは心配しないで。来年の秋になれば、また会えるから」
「なんだよ、来年って! わけわかんないよ、神様なんだろ! 消えなきゃいいじゃないか!」
「悲しまないで」
少女の手が僕の頬をこする。
その場所がヒヤッとしたので気付いた。
僕はいつの間にか泣いていた。
「また来年会いましょう。そうね、今度は湯豆腐が食べたいわ」
「それは冬の食べ物だよ、秋の食べ物じゃない」
「だからいいのよ」
ほとんど消えかけた彼女は、最後にこう言った。
――私は、冬を味わえないのだから。
※ ※ ※
それからというもの、僕は彼女の言葉をずっと考えていた。
冬を味わう、と彼女は言った。
味わうとはなんだ? 冬なんて嫌な季節に、良い部分なんてあるのか?
熱々の湯豆腐をかきこんでみても答えは出なかった。
兄さんに「おいしい?」と聞いてみると、
「おう! こう、呑みこんだ瞬間に熱の塊がグーッと喉を通って行ってな!
生きているって実感がわくぞ!」
とまあ、案の定、僕には理解できない返事が返ってきた。
そうして冬が過ぎ、春が来て、夏が訪れて。
僕は、また山へ行こうと思っている。
もちろん、今度は彼女に冬の良さを尋ねるためだ。
(了)
冬。この寒いだけの残酷な季節に、一体どんな価値があるというのだろう?
全ての生命は息をひそめ、ひたすらに春を待つ。中には命を落としてしまう者もある。
だというのに、何を楽しめというのだろう?
冬が来るたび、僕はとても悲しくてたまらなかった。
寒い夜中にひとりで目を覚ましたときなど、泣きだしてしまうくらいだ。
兄さんは僕を見るたび「お前は神経質すぎるんだよ」と言った。
シンケイシツ、という言葉が僕にはよく分からない。
冬を厭い、春を好むのは、人として当然のことではないのだろうか?
すると決まって兄さんは、
「いいか、春は餓えた熊がうろうろしてるし、夏は暑さで人が死ぬだろ。
秋には台風がくる。なのに、お前はどうして冬だけを嫌うんだ?」
と、もっともらしい理屈を並べるのだ。
それこそ神経質な物言いじゃないか。悲しいことを列挙していたらキリがない。
悲しい季節なんて、どれか一つだけで十分だ。だから僕は冬が嫌いだ。
そんな考えがより一層強くなったのは、去年の冬のことだった。
あれは確か、稲の収穫が終わり、豊穣祭も済んだ日だった。
僕は何の気無しに、すっかり寂しくなってしまった裏山へと足を運んだ。
足元には無数の枯葉が舞い落ち、カサカサと音を立てる。
――まるで死体を踏んでいるようだ。
そう思った瞬間、僕は急に気持ちが悪くなって、家に帰りたくなってしまった。
枯葉だけではない、見えないだけで虫や獣の死骸も転がっているはずだ。
それもこれも冬が近づいてくるのが悪いのだ。
「くそっ、これだから冬は嫌いだ!」
「あら、貴方もそう思うの? なんだか気が合いそうねえ」
いきなり背後から聞こえた声に、僕はぎょっとして振り返った。
そこには、いつの間にか赤いワンピースに身を包んだ少女が立っていた。
ウェーブのかかった金色の髪には、一枚の紅葉が飾られている。
なんだか、もみじ人参を添えた卵豆腐みたいだと思ってしまう。
その途端、僕は急に笑いが止まらなくなった。
「ぷっ、あは、あはははははは!」
「な、なによ、いきなり笑いだして。気色悪いわね」
放っておいてくれ、僕は家族公認の物狂いなのだから。
ひとしきり笑い終える頃には、目の前の彼女の視線は、すっかり冷たくなっていた。
「サイテー。私の何がそんなに面白いわけ? ホント、今すぐ祟ってやろうかしら」
「ごめんごめん、君の髪が卵豆腐みたいだなと思ったら、急に笑えてきて」
「卵豆腐ぅ!?」
しまった、しゃべっちゃった。
少女は目と口を丸くしている。鳩に豆鉄砲なんてもんじゃない、猟師に遭遇した雉みたいな顔だ。
早々に謝るべきだろう。僕は謝罪の言葉をいくつか用意し、一番気の利いたやつを使おうとした。
「あの、今のは――」
「卵豆腐……食べたいわね」
少女の口から意外な言葉が出る。今度は僕が黙ってしまう番だった。
「ねえ、貴方。今すぐ卵豆腐を持ってきてくれない? そうしたら笑ったことは許してあげるわ」
「なんだよ、自分で買いに行けばいいだろう」
「それじゃ駄目なのよ。神様が手にするのは買い物じゃなくて、捧げ物でしょう?」
「……神様?」
僕は背中を一筋の汗が伝うのを感じた。
ひょっとして、僕はとんでもない相手に、とんでもないことをしてしまったのではなかろうか?
※ ※ ※
「ぜえ、ぜえ、ぜえ……はい、これ」
「遅かったわねえ」
「全速力だよ!」
村の豆腐屋まで往復すること半刻あまり。
陽は陰り、風は凍りつくような北風に変わってきている。
少女は木と木の間に、紅葉を橋のように渡し、その上に寝転がっている。
どうやら神様と名乗ったのは本当のことらしい。
たぶん他人から見たら「おかしな」自分の神経が、偶然にも正しい解を導いてくれた幸運に、僕はそっと感謝した。
「ねえ」
「なんだよ」
少女は寝転がったままで言う。
夕陽に照らされた横顔が、すごく億劫そうに見えた。
「食べさせて」
「はあ!? 自分で食べろよ!」
「じゃあ呪う。今すぐ呪って、狂わせてあげる」
「すいません、食べさせてあげるんで許してください」
紅葉が竜巻のように舞い上がるのを見て、僕はとっさに土下座を敢行した。
ああくそ、なんでこんな女の子相手に土下座しなきゃならんのだ?
少女が指を振ると、紅葉は地面に落ちて大人しくなった。
ついでに彼女の体を支えていた分も無くなる。
ふわり、と空中で体を回転させて、彼女は地上に降り立った。
とことこと僕の前まで歩いてくる。
背の高さは、僕の方が少しだけ高かった。
「はい、食べさせて。あーん」
「……」
「どうしたの?」
「箸が無い……」
僕は呆然と呟いた。
まさか、そんな物が必要になるとは思わなかったのだ。
すると少女は、けらけらと笑って言った。
「いいわよ、手で食べさせて」
「えっ」
「早く」
少女はふっくらした唇を開いて、あーんと声を出してみせた。
紅葉と同じ色をした口内で、小さな舌がぬらぬらと光っている。
ごくり、と喉が鳴る。
異性にこんなことするなんて、初めてだ。しかも相手は神様ときている。
「……どうしよう」
「ほらっ、早く!」
せかされて、ふと気付いた。
彼女の頬が、かすかに赤く染まっている。
やはり彼女も恥ずかしいのだ。
それを待たせておくのは、なんというか、男として許されない気がする。
僕は思い切って卵豆腐に指を突っ込んだ。
北風に晒された卵豆腐は、思っていた以上に冷たかった。
そっと力を入れたつもりだったが、柔らかくて、すぐに崩れてしまう。
ずいぶん苦労して、一口分の卵豆腐を人差し指の先に乗せた。
「それじゃ、行くよ」
「うん」
彼女の唇が閉じてゆき、僕の指を挟みこむ。
温かく、ぬらりとした感触が指先を包み込む。
胸の奥からこみ上げる熱に耐えきれなくなって、僕はそっと目を逸らした。
ちゅ、と音がして彼女の唇が離れた。
唾液に濡れた指先が、外気に触れて急速に冷やされる。
寒さをこらえて、僕は尋ねた。
「どうだった?」
「……おいしかった」
彼女は満足そうに目を閉じると、その場で横になった。
「ありがとう。今年最後の食事、楽しかったわ」
「最後……?」
「見て」
言われるがままに天を見上げると、フワリと何かが舞い降りてきた。
目をこらさなければ見えないような、小さな小さな、粉雪。
今年最初の雪だった。
「冬が来る。秋の神様である私は消えなければならない」
「消えるって……ちょっと、大丈夫!?」
僕は驚いて彼女を抱き起した。
なぜなら彼女の体がどんどん消えていくからだ。
粉雪の触れたところから、次第次第に範囲が広がってゆく。
少女は微笑んで言った。
「私のことは心配しないで。来年の秋になれば、また会えるから」
「なんだよ、来年って! わけわかんないよ、神様なんだろ! 消えなきゃいいじゃないか!」
「悲しまないで」
少女の手が僕の頬をこする。
その場所がヒヤッとしたので気付いた。
僕はいつの間にか泣いていた。
「また来年会いましょう。そうね、今度は湯豆腐が食べたいわ」
「それは冬の食べ物だよ、秋の食べ物じゃない」
「だからいいのよ」
ほとんど消えかけた彼女は、最後にこう言った。
――私は、冬を味わえないのだから。
※ ※ ※
それからというもの、僕は彼女の言葉をずっと考えていた。
冬を味わう、と彼女は言った。
味わうとはなんだ? 冬なんて嫌な季節に、良い部分なんてあるのか?
熱々の湯豆腐をかきこんでみても答えは出なかった。
兄さんに「おいしい?」と聞いてみると、
「おう! こう、呑みこんだ瞬間に熱の塊がグーッと喉を通って行ってな!
生きているって実感がわくぞ!」
とまあ、案の定、僕には理解できない返事が返ってきた。
そうして冬が過ぎ、春が来て、夏が訪れて。
僕は、また山へ行こうと思っている。
もちろん、今度は彼女に冬の良さを尋ねるためだ。
(了)
タグにオリキャラを入れてほしいです。
作品はシンプルで静葉とのかかわっているシーンが小説の一部を読んでいる感じがして、私としては少し物足りなくもっと話を膨らましても面白いとおもいました。上からですみません。
しかし話全体はまとまっているためさっぱりと読め、秋の終わりを感じました。
追記
しかし静葉をみて卵豆腐は思いつかなかった。
確かに長編の一部を抜き取ったみたいな感じはありますが、この雰囲気好きですね。
食べさせてって言うのが実は自分で食べるだけの力も箸を用意する時間も残されていなかったって思うと儚げですね。でも最期に望みが叶えられてよかったなと。
静葉姉が可愛い>何を言っているんだあなたは。「静葉姉さんは美しい」でしょう。
いいですね卵豆腐。アツいご飯と冷たい豆腐でお米が進みそうだ。湯豆腐はもっといい。しかし静葉姉はなお美味いでしょうな。
里の人間と幻想の神様の不思議な一幕の出会いとか、こういうシチュエーションが好きです。
あと静葉様が大好きです。
それにしても、えろす。
一撃必殺という名の、えろす。