霧の湖の畔、堂々と佇む紅魔館の図書館。
そこに住む魔法使い、パチュリー・ノーレッジは、気紛れに館の従者を呼び出した。
「咲夜、ちょっと来なさい」
滅多に無いパチュリーからの呼び出しに、咲夜はやや怪訝な顔をしている。
大抵の場合、よく分からない事かしょうもない事、この二つが起きているだけだ。
「…貴女の猫度は、60点といった所ね」
今回は前者の様だ。
咲夜の顔をじっと眺め、パチュリーはそう告げる。
「大分良い評価を貰える様になりましたね、嬉しい限りです」
以前、パチュリーから貰った評価は、24点という厳しい数字だった。
咲夜にしてみれば、何故猫度なのかという理由は分からないが、高い点数は貰って損は無いのだろう。
「もう猫イラズは必要無さそうね、猫が居るんだもの」
「6割では猫とは言い切れないのではないですか?」
「別に100点満点だなんて言ってないわ、咲夜。 忘れたの?」
「覚えてますが、大差無いですわ」
「だから貴女は大雑把なのよ」
結論や答えといったものを、この魔女は中々口には出さない。
人の知識を引き出す事にはよく使われる手段だが、自分から話を進めておいてこれでは、相手が混乱するばかりだ。
「これからも精進します」
咲夜は、こういった事は適当に流す事にしている。
魔法使いの知識は、普通の人間には計り知る事も、理解する事も難しいからだ。
「まあ、これで一安心ね」
「鼠の事、ですか?」
「違うわ、うちの我儘っ子の事よ。 貴女を随分気に入ってるみたいだからね。
本当、自分勝手な人達が多くて困るのよ」
パチュリーの忠告めいた言葉を心に留め、咲夜は図書館を後にした。
主に気に入られるのは、従者としては非常に喜ばしい事だ。
ただ、それと猫度の関係が、咲夜には今一理解し切れていなかった。
猫といえば愛玩用として飼われている事が殆どであるが、あのパチュリーがその程度の意味で言うとは思えない。
鼠退治の方も、退治しなくてはならない回数が減ってからは、咲夜もあまり手は出していない。
それでも、猫度は以前より上がっている。
「…あまり気にしない方が良いのかも」
パチュリーにはパチュリーの考えが有って、そう言ったのだろう。
無理に思考を合わせる必要は無いと感じ、咲夜はこの事について考えないようにした。
何しろ、今夜は満月だ。
十分考えて分からないものに、もう五分掛ける暇も無い。
館周りの警備も含めた門番隊・メイド妖精への命令、指揮。
館内の清掃・炊事洗濯その他諸々も、常より念入りに行い、主が出歩きたいと言うのならば、万端の準備を用意してお供し、
主が宴を開きたいと言うならば、数多の料理と酒を用意し客人を出迎える。
その他、あらゆる状況に対応出来るよう、備える必要が有った。
満月の光は妖の力を注ぎ、人ならざる者を活性化させる。
その影響を色濃く受けるのが、夜の王とも言われている吸血鬼である。
レミリア・スカーレットもまた、吸血鬼の一人である以上、満月の夜には異常とも呼べる力を滾らせる。
不測の事態が起こったとしても、何ら不思議は無い。
「お嬢様、いらっしゃいますか?」
図書館を出たその足で、咲夜はレミリアの部屋を訪ねる。 その間約10秒。
例え操る事が出来たとしても、時間は惜しむに越した事は無い。
「咲夜?」
レミリアは、滅多に使われる事の無い机に向かって、何かをしていた。
「はい。 今夜の予定はどうしましょうかと聞いておきたかったので」
その姿に多少違和感を覚えたものの、気紛れなお嬢様のする事と咲夜は割り切った。
それよりも、今夜の予定の事の方が大事だった。
「何もしないわ、今日はずっと此処に居る」
「判りました…メイド妖精達にもそのように」
レミリアの言葉を聞いて、咲夜は部屋の戸に手を掛けた。
例え何を準備する必要は無くとも、門番に活を入れるくらいはしておく必要が有る。
調子に乗った妖怪は、夜に騒々しくなるのだ。
「―――ああ、咲夜、ちょっと待って」
戸を閉めようとした所で、レミリアが咲夜を呼び止める。
振り向いた咲夜が部屋の中に見たのは、いつの間にか立ち上がっていたレミリアと、
その手に持つ本―――魔道書という、絵になりそうではあるが、あまりにも似合わない組み合わせだった。
「今夜、私の部屋に来て頂戴」
何かを思いついた様な怪しい笑顔で、レミリアは咲夜に告げる。
レミリアの部屋を出た咲夜は、レミリアの持っていた魔道書を見て、パチュリーの言葉を思い出していた。
パチュリーから咲夜の評価を聞いて、何かしようとしているのだろうか。
「お嬢様が魔道書を……」
脳を必要無いと言ってのけた吸血鬼の魔法なんて、危なっかしいとしか言い様が無い。
本職の魔法使いがサポートしようと、使い手に問題が有ればそれは非常に危険なものとなる。
「命さえ無事なら良いのだけど」
咲夜は、大雑把だった。
レミリアの言う今夜とは、基本的に館中が寝静まる丑三つ時以降を指している。
館で働く人間にとっては行動するのも辛い時間ではあるのだが、咲夜にしてみれば何も問題は無い。
一日が二十四時間である事すら覆す咲夜の能力を用いれば、夜も朝も寝起きの時間と同じである。
「失礼します、お嬢様」
万全の体調管理をもって、咲夜はレミリアの部屋へ向かう。
深夜に自分の部屋へメイドを呼び出す主となると、それなりに不埒な想像をする者も居るだろうが、
「…良い月ね、咲夜」
その一言で、煩悩すら霞んでしまうだろう。
強大な力を纏い主の居るべき所に座する、遥か高みに在る威厳。
幼子にすら見られる外見を、我儘と評価される言動を、全てを凌駕する圧倒的な存在感、
それこそが、他の妖怪が挙って恐れ戦く吸血鬼のカリスマというものだ。
「…はい、とても良い満月です」
咲夜は一礼し、部屋の戸を閉めた。
「ねえ、咲夜。 私、良い事を思いついたわ」
月明かりだけが照らす部屋に咲夜の目が慣れてくると、段々とレミリアの姿がはっきり見えてくる。
微かに携えた笑みで、レミリアはじっと咲夜を見つめている。そしてその手には、昼に見た時と同じ魔道書が一冊。
「咲夜は、長生きしてみる気は無いかしら?」
「不老の魔法…ですか?」
「そう、それを使えば咲夜はずっと紅魔館に居られるわ。
パチェに聞いてみたら、出来るかもねって言ってたしね」
不老を得るという事は、即ち人間を捨てるという事と同義という事である。
咲夜自身、人間を捨てる気は全く無く、その旨もレミリアには伝えた事は有った。
「…何故、今更そう思ったのですか?」
微かに湧き上がる感情を押し殺し、顔色一つ変えずに咲夜はレミリアの真意を訊ねる。
単なる気紛れでは済まされない行動は、例え主の考えでも疑って掛からなければならない。
「理由? そうね…今日は気分が良いから、教えてあげるわ」
気分が良くなければ、何も言われずに不老の魔法を施されていたのだろうか。
そんな意味である発言を気にもせず、レミリアは大きな羽をはためかせ、咲夜に歩み寄る。
「――貴女が欲しいからよ、咲夜」
レミリアは、咲夜を求めた。
白い頬に微かに紅を散らし、懇願にも似た眼差しを咲夜に向けて。
「咲夜は人間のまま死なせるには、凄く惜しいわ。
だから、不老を得て永遠に私と一緒に居て欲しいの」
レミリアは、咲夜をとても重用していた。
紅魔館の管理の大部分を一手に引き受け、主への忠誠や奉仕も完璧にこなす。
誰が見ても、咲夜は完全な従者だと評価出来るだろう。 勿論、主であるレミリアからも。
「咲夜、私と同じ時間を歩んでくれないかしら。
これは主としての命令じゃないわ、…私のお願いよ、咲夜。 」
主としての命令で従わせても、それは咲夜の意思ではなく、レミリアの希望でもない。
レミリアが望んでいるのは、あくまで咲夜の意思の下でレミリアと共に永劫を歩んでもらう事。
「ずっと、そばに居て………頂戴」
息が詰まり、言葉が途切れても、せめて主として振舞おうと気をしっかりと保つ。
咲夜の顔から目を逸らさず、真っ直ぐにレミリアは言い放った。
ただ自分の想いを伝えるだけで、ここまで苦しくなるのだろうか。
レミリアの中で、満月の高揚感だけではない、初めての気持ちが胸に詰まっていく。
「お嬢様…」
咲夜とて、レミリアの様子の変化に気付かない訳ではない。
レミリアの言葉の意味と、その気持ちも、咲夜なりに十分に理解していた。
一時の気紛れでも、戯れでもない、咲夜と同じになりたいという気持ちを。
「…そう言われては、断る事しか出来ませんわ」
「良かった、咲夜…………えっ?」
咲夜の言葉を理解するのに、レミリアは数秒を要した。
今、咲夜ははっきりと拒否の返事を口に出していた。
「咲夜……?」
表情こそ崩してはいなかったが、レミリアは動揺していた。
心臓を押し潰してしまいそうな苦しさに、心が流されてしまいそうになり、きゅっと口を結ぶ。
「…お嬢様は、常に自分の立場に絶対の自信と誇りを持っていました。
私は、お嬢様の従者です、それ以外の立場は、考えていません。
ですから、私とお嬢様が対等になったとすれば、私は私ではありませんし、お嬢様はお嬢様ではないでしょう」
咲夜は、思いのままに理由を伝える。
「…矮小な人間の私が、吸血鬼のお嬢様の従者で居られる事が、人間の私にとって何よりの誇りでした」
人間が吸血鬼に仕える。 それは人間にしてみれば破格の扱われ方だろう。
その違いが有るからこそ、咲夜はレミリアのカリスマに惹かれ、
召抱えてくれている事を喜び、レミリアに尽くしていた。
「咲夜……」
レミリアは、ただ溢れる感情を押し殺すのに精一杯だった。
「…今のお嬢様に、心から忠誠を誓う事は出来ません。
私は、ただお嬢様の従者として居たかっただけですから」
とても自分勝手な、従者として有り得ない台詞を、咲夜は淡々と続けている。
我儘な主は、それでも、従者の我儘を聞く事しか出来ない。
弱みは、レミリアに有る。
「……そう、分かったわ、咲夜」
――どう足掻いても結果が同じであるのならば、せめて吸血鬼として、主として。
「私は言った事を曲げる気は無いわ、何処へでも行きなさい」
毅然とした態度で、咲夜に告げた。
十六夜咲夜は、紅魔館を出て行った。
部屋に残っていたレミリアは、ベッドの縁に腰掛けて、
「…全部、咲夜のせいだからね」
一人の人間を気に入ってしまったのも、その人間ど同じ時間を重ねたいと思ったのも、
全ては、咲夜が居たからだ。
咲夜と居た間は、レミリアは自分が吸血鬼だという事も忘れてしまいそうな程、平和な時間が続いた。
咲夜がいつも調達しているおかげで誰かの血を吸う事も無く、咲夜のおかげで殆ど不自由無く行動する事も出来た。
そして、咲夜が居たからレミリアは本来の力を振るう事も少なくなった。
「咲夜……ッ!」
こんなにも、咲夜を気に入ってしまったのだから。
想い破れた吸血鬼は、流れ出でる自らの涙と、永劫の後悔を齎した数奇な運命を憎んだ。
「…咲夜、居なくなっちゃったの?」
そこへ、レミリアと然程背の変わらない、歪な羽を持つ少女が入れ替わりにレミリアの部屋を訪れた。
「フラン…見ていたの?」
「うん。 咲夜、何か寂しそうな感じだったけど…」
レミリアの妹・フランドールも、ただならぬ咲夜の様子に、不安を露にしていた。
「ええ、ついさっき紅魔館を出て行ったわ。 とても自分勝手な理由でね」
「そっか…」
「ねえ、フラン。 代わりに、私と遊んでくれないかしら」
レミリアは、フランを戯れに誘う。
「えっ、お姉さまと? もちろん! 何して遊ぶ?」
「フランに任せるわ、貴女の一番したい事を教えて頂戴」
「へえ…今日のお姉様、何だか凄く優しいね。咲夜が居なくなっちゃったから?」
真っ直ぐに突き付けられる現実を、紛らわせる様に。
「そうよ、とても清々しい気分なの」
「……そんな事言うんだ、酷いよお姉様」
「私は吸血鬼だもの、人間なんて一握りで消える存在なんて、どうでも良いのよ」
雫を蓄えた瞳が、月に赤く光る。
「え……? お姉さま……」
「ねえ、フラン。私達は、一緒に居られるわよね?」
「――うん、お姉さまが良いのなら、私は」
自分が何者であるかを、もう一度確かめる様に。
「良い子ね。 それじゃあ、思いっきり遊びましょう、貴女のやりたい遊びで」
「…あははっ、お姉様とやりたい事は沢山有るけど、やっぱり一番やりたいのはコレ!」
眼前で巻き起こる圧倒的な力の奔流に、かつての自分を見ながら。
「いくらでも、いつまでも来なさい、フラン」
何を恐れる必要など、有りはしない。
彼女達は、吸血鬼である。
矮小な存在である人間に手を出す事も、相容れる事も、望む事も出来ない絶対的な力の象徴なのだから。
「あれ、咲夜さん、お出掛けですか?」
「ええ。 …私は、もう紅魔館には戻らないわ」
「……そうですか」
「咲夜さん…本当に良かったんですか?」
「ええ。私は出来る限りの事をしたわ、後はお願いね」
「……分かりました。 さようなら、咲夜さん」
「ありがとう、美鈴」
「…美鈴、最後に一つ、聞いても良いかしら」
「何ですか?」
「貴女はどうして、紅魔館に仕えているの?」
「―――私は、紅魔館の皆さんが大好きだからです。
皆さんが暮らすこの館を守るのが、私の生き甲斐ですから」
「そう……とても良い事ね。 これからも忘れちゃ駄目よ」
「…はい、ありがとうございます、咲夜さん」
「確かに、私は猫の様な存在だったのかもしれないわね。
けど、爪牙を失くした猫は、生かされ続ける事が何よりも辛いものなんですよ、お嬢様。
それに、こんな皺だらけの手では、お嬢様の御手を取る事なんて、出来ません」
運命は、歩み続ける時を止める事は、出来なかった。
「ちなみに、100点満点じゃなくて60点満点。
100以下の数字の中で、6以下の何でも争いの起きない、調和の数。
…貴女の仕事は良かったわよ、咲夜」
咲夜が出て行った事を知り、パチュリーは一人呟いた。
そこに住む魔法使い、パチュリー・ノーレッジは、気紛れに館の従者を呼び出した。
「咲夜、ちょっと来なさい」
滅多に無いパチュリーからの呼び出しに、咲夜はやや怪訝な顔をしている。
大抵の場合、よく分からない事かしょうもない事、この二つが起きているだけだ。
「…貴女の猫度は、60点といった所ね」
今回は前者の様だ。
咲夜の顔をじっと眺め、パチュリーはそう告げる。
「大分良い評価を貰える様になりましたね、嬉しい限りです」
以前、パチュリーから貰った評価は、24点という厳しい数字だった。
咲夜にしてみれば、何故猫度なのかという理由は分からないが、高い点数は貰って損は無いのだろう。
「もう猫イラズは必要無さそうね、猫が居るんだもの」
「6割では猫とは言い切れないのではないですか?」
「別に100点満点だなんて言ってないわ、咲夜。 忘れたの?」
「覚えてますが、大差無いですわ」
「だから貴女は大雑把なのよ」
結論や答えといったものを、この魔女は中々口には出さない。
人の知識を引き出す事にはよく使われる手段だが、自分から話を進めておいてこれでは、相手が混乱するばかりだ。
「これからも精進します」
咲夜は、こういった事は適当に流す事にしている。
魔法使いの知識は、普通の人間には計り知る事も、理解する事も難しいからだ。
「まあ、これで一安心ね」
「鼠の事、ですか?」
「違うわ、うちの我儘っ子の事よ。 貴女を随分気に入ってるみたいだからね。
本当、自分勝手な人達が多くて困るのよ」
パチュリーの忠告めいた言葉を心に留め、咲夜は図書館を後にした。
主に気に入られるのは、従者としては非常に喜ばしい事だ。
ただ、それと猫度の関係が、咲夜には今一理解し切れていなかった。
猫といえば愛玩用として飼われている事が殆どであるが、あのパチュリーがその程度の意味で言うとは思えない。
鼠退治の方も、退治しなくてはならない回数が減ってからは、咲夜もあまり手は出していない。
それでも、猫度は以前より上がっている。
「…あまり気にしない方が良いのかも」
パチュリーにはパチュリーの考えが有って、そう言ったのだろう。
無理に思考を合わせる必要は無いと感じ、咲夜はこの事について考えないようにした。
何しろ、今夜は満月だ。
十分考えて分からないものに、もう五分掛ける暇も無い。
館周りの警備も含めた門番隊・メイド妖精への命令、指揮。
館内の清掃・炊事洗濯その他諸々も、常より念入りに行い、主が出歩きたいと言うのならば、万端の準備を用意してお供し、
主が宴を開きたいと言うならば、数多の料理と酒を用意し客人を出迎える。
その他、あらゆる状況に対応出来るよう、備える必要が有った。
満月の光は妖の力を注ぎ、人ならざる者を活性化させる。
その影響を色濃く受けるのが、夜の王とも言われている吸血鬼である。
レミリア・スカーレットもまた、吸血鬼の一人である以上、満月の夜には異常とも呼べる力を滾らせる。
不測の事態が起こったとしても、何ら不思議は無い。
「お嬢様、いらっしゃいますか?」
図書館を出たその足で、咲夜はレミリアの部屋を訪ねる。 その間約10秒。
例え操る事が出来たとしても、時間は惜しむに越した事は無い。
「咲夜?」
レミリアは、滅多に使われる事の無い机に向かって、何かをしていた。
「はい。 今夜の予定はどうしましょうかと聞いておきたかったので」
その姿に多少違和感を覚えたものの、気紛れなお嬢様のする事と咲夜は割り切った。
それよりも、今夜の予定の事の方が大事だった。
「何もしないわ、今日はずっと此処に居る」
「判りました…メイド妖精達にもそのように」
レミリアの言葉を聞いて、咲夜は部屋の戸に手を掛けた。
例え何を準備する必要は無くとも、門番に活を入れるくらいはしておく必要が有る。
調子に乗った妖怪は、夜に騒々しくなるのだ。
「―――ああ、咲夜、ちょっと待って」
戸を閉めようとした所で、レミリアが咲夜を呼び止める。
振り向いた咲夜が部屋の中に見たのは、いつの間にか立ち上がっていたレミリアと、
その手に持つ本―――魔道書という、絵になりそうではあるが、あまりにも似合わない組み合わせだった。
「今夜、私の部屋に来て頂戴」
何かを思いついた様な怪しい笑顔で、レミリアは咲夜に告げる。
レミリアの部屋を出た咲夜は、レミリアの持っていた魔道書を見て、パチュリーの言葉を思い出していた。
パチュリーから咲夜の評価を聞いて、何かしようとしているのだろうか。
「お嬢様が魔道書を……」
脳を必要無いと言ってのけた吸血鬼の魔法なんて、危なっかしいとしか言い様が無い。
本職の魔法使いがサポートしようと、使い手に問題が有ればそれは非常に危険なものとなる。
「命さえ無事なら良いのだけど」
咲夜は、大雑把だった。
レミリアの言う今夜とは、基本的に館中が寝静まる丑三つ時以降を指している。
館で働く人間にとっては行動するのも辛い時間ではあるのだが、咲夜にしてみれば何も問題は無い。
一日が二十四時間である事すら覆す咲夜の能力を用いれば、夜も朝も寝起きの時間と同じである。
「失礼します、お嬢様」
万全の体調管理をもって、咲夜はレミリアの部屋へ向かう。
深夜に自分の部屋へメイドを呼び出す主となると、それなりに不埒な想像をする者も居るだろうが、
「…良い月ね、咲夜」
その一言で、煩悩すら霞んでしまうだろう。
強大な力を纏い主の居るべき所に座する、遥か高みに在る威厳。
幼子にすら見られる外見を、我儘と評価される言動を、全てを凌駕する圧倒的な存在感、
それこそが、他の妖怪が挙って恐れ戦く吸血鬼のカリスマというものだ。
「…はい、とても良い満月です」
咲夜は一礼し、部屋の戸を閉めた。
「ねえ、咲夜。 私、良い事を思いついたわ」
月明かりだけが照らす部屋に咲夜の目が慣れてくると、段々とレミリアの姿がはっきり見えてくる。
微かに携えた笑みで、レミリアはじっと咲夜を見つめている。そしてその手には、昼に見た時と同じ魔道書が一冊。
「咲夜は、長生きしてみる気は無いかしら?」
「不老の魔法…ですか?」
「そう、それを使えば咲夜はずっと紅魔館に居られるわ。
パチェに聞いてみたら、出来るかもねって言ってたしね」
不老を得るという事は、即ち人間を捨てるという事と同義という事である。
咲夜自身、人間を捨てる気は全く無く、その旨もレミリアには伝えた事は有った。
「…何故、今更そう思ったのですか?」
微かに湧き上がる感情を押し殺し、顔色一つ変えずに咲夜はレミリアの真意を訊ねる。
単なる気紛れでは済まされない行動は、例え主の考えでも疑って掛からなければならない。
「理由? そうね…今日は気分が良いから、教えてあげるわ」
気分が良くなければ、何も言われずに不老の魔法を施されていたのだろうか。
そんな意味である発言を気にもせず、レミリアは大きな羽をはためかせ、咲夜に歩み寄る。
「――貴女が欲しいからよ、咲夜」
レミリアは、咲夜を求めた。
白い頬に微かに紅を散らし、懇願にも似た眼差しを咲夜に向けて。
「咲夜は人間のまま死なせるには、凄く惜しいわ。
だから、不老を得て永遠に私と一緒に居て欲しいの」
レミリアは、咲夜をとても重用していた。
紅魔館の管理の大部分を一手に引き受け、主への忠誠や奉仕も完璧にこなす。
誰が見ても、咲夜は完全な従者だと評価出来るだろう。 勿論、主であるレミリアからも。
「咲夜、私と同じ時間を歩んでくれないかしら。
これは主としての命令じゃないわ、…私のお願いよ、咲夜。 」
主としての命令で従わせても、それは咲夜の意思ではなく、レミリアの希望でもない。
レミリアが望んでいるのは、あくまで咲夜の意思の下でレミリアと共に永劫を歩んでもらう事。
「ずっと、そばに居て………頂戴」
息が詰まり、言葉が途切れても、せめて主として振舞おうと気をしっかりと保つ。
咲夜の顔から目を逸らさず、真っ直ぐにレミリアは言い放った。
ただ自分の想いを伝えるだけで、ここまで苦しくなるのだろうか。
レミリアの中で、満月の高揚感だけではない、初めての気持ちが胸に詰まっていく。
「お嬢様…」
咲夜とて、レミリアの様子の変化に気付かない訳ではない。
レミリアの言葉の意味と、その気持ちも、咲夜なりに十分に理解していた。
一時の気紛れでも、戯れでもない、咲夜と同じになりたいという気持ちを。
「…そう言われては、断る事しか出来ませんわ」
「良かった、咲夜…………えっ?」
咲夜の言葉を理解するのに、レミリアは数秒を要した。
今、咲夜ははっきりと拒否の返事を口に出していた。
「咲夜……?」
表情こそ崩してはいなかったが、レミリアは動揺していた。
心臓を押し潰してしまいそうな苦しさに、心が流されてしまいそうになり、きゅっと口を結ぶ。
「…お嬢様は、常に自分の立場に絶対の自信と誇りを持っていました。
私は、お嬢様の従者です、それ以外の立場は、考えていません。
ですから、私とお嬢様が対等になったとすれば、私は私ではありませんし、お嬢様はお嬢様ではないでしょう」
咲夜は、思いのままに理由を伝える。
「…矮小な人間の私が、吸血鬼のお嬢様の従者で居られる事が、人間の私にとって何よりの誇りでした」
人間が吸血鬼に仕える。 それは人間にしてみれば破格の扱われ方だろう。
その違いが有るからこそ、咲夜はレミリアのカリスマに惹かれ、
召抱えてくれている事を喜び、レミリアに尽くしていた。
「咲夜……」
レミリアは、ただ溢れる感情を押し殺すのに精一杯だった。
「…今のお嬢様に、心から忠誠を誓う事は出来ません。
私は、ただお嬢様の従者として居たかっただけですから」
とても自分勝手な、従者として有り得ない台詞を、咲夜は淡々と続けている。
我儘な主は、それでも、従者の我儘を聞く事しか出来ない。
弱みは、レミリアに有る。
「……そう、分かったわ、咲夜」
――どう足掻いても結果が同じであるのならば、せめて吸血鬼として、主として。
「私は言った事を曲げる気は無いわ、何処へでも行きなさい」
毅然とした態度で、咲夜に告げた。
十六夜咲夜は、紅魔館を出て行った。
部屋に残っていたレミリアは、ベッドの縁に腰掛けて、
「…全部、咲夜のせいだからね」
一人の人間を気に入ってしまったのも、その人間ど同じ時間を重ねたいと思ったのも、
全ては、咲夜が居たからだ。
咲夜と居た間は、レミリアは自分が吸血鬼だという事も忘れてしまいそうな程、平和な時間が続いた。
咲夜がいつも調達しているおかげで誰かの血を吸う事も無く、咲夜のおかげで殆ど不自由無く行動する事も出来た。
そして、咲夜が居たからレミリアは本来の力を振るう事も少なくなった。
「咲夜……ッ!」
こんなにも、咲夜を気に入ってしまったのだから。
想い破れた吸血鬼は、流れ出でる自らの涙と、永劫の後悔を齎した数奇な運命を憎んだ。
「…咲夜、居なくなっちゃったの?」
そこへ、レミリアと然程背の変わらない、歪な羽を持つ少女が入れ替わりにレミリアの部屋を訪れた。
「フラン…見ていたの?」
「うん。 咲夜、何か寂しそうな感じだったけど…」
レミリアの妹・フランドールも、ただならぬ咲夜の様子に、不安を露にしていた。
「ええ、ついさっき紅魔館を出て行ったわ。 とても自分勝手な理由でね」
「そっか…」
「ねえ、フラン。 代わりに、私と遊んでくれないかしら」
レミリアは、フランを戯れに誘う。
「えっ、お姉さまと? もちろん! 何して遊ぶ?」
「フランに任せるわ、貴女の一番したい事を教えて頂戴」
「へえ…今日のお姉様、何だか凄く優しいね。咲夜が居なくなっちゃったから?」
真っ直ぐに突き付けられる現実を、紛らわせる様に。
「そうよ、とても清々しい気分なの」
「……そんな事言うんだ、酷いよお姉様」
「私は吸血鬼だもの、人間なんて一握りで消える存在なんて、どうでも良いのよ」
雫を蓄えた瞳が、月に赤く光る。
「え……? お姉さま……」
「ねえ、フラン。私達は、一緒に居られるわよね?」
「――うん、お姉さまが良いのなら、私は」
自分が何者であるかを、もう一度確かめる様に。
「良い子ね。 それじゃあ、思いっきり遊びましょう、貴女のやりたい遊びで」
「…あははっ、お姉様とやりたい事は沢山有るけど、やっぱり一番やりたいのはコレ!」
眼前で巻き起こる圧倒的な力の奔流に、かつての自分を見ながら。
「いくらでも、いつまでも来なさい、フラン」
何を恐れる必要など、有りはしない。
彼女達は、吸血鬼である。
矮小な存在である人間に手を出す事も、相容れる事も、望む事も出来ない絶対的な力の象徴なのだから。
「あれ、咲夜さん、お出掛けですか?」
「ええ。 …私は、もう紅魔館には戻らないわ」
「……そうですか」
「咲夜さん…本当に良かったんですか?」
「ええ。私は出来る限りの事をしたわ、後はお願いね」
「……分かりました。 さようなら、咲夜さん」
「ありがとう、美鈴」
「…美鈴、最後に一つ、聞いても良いかしら」
「何ですか?」
「貴女はどうして、紅魔館に仕えているの?」
「―――私は、紅魔館の皆さんが大好きだからです。
皆さんが暮らすこの館を守るのが、私の生き甲斐ですから」
「そう……とても良い事ね。 これからも忘れちゃ駄目よ」
「…はい、ありがとうございます、咲夜さん」
「確かに、私は猫の様な存在だったのかもしれないわね。
けど、爪牙を失くした猫は、生かされ続ける事が何よりも辛いものなんですよ、お嬢様。
それに、こんな皺だらけの手では、お嬢様の御手を取る事なんて、出来ません」
運命は、歩み続ける時を止める事は、出来なかった。
「ちなみに、100点満点じゃなくて60点満点。
100以下の数字の中で、6以下の何でも争いの起きない、調和の数。
…貴女の仕事は良かったわよ、咲夜」
咲夜が出て行った事を知り、パチュリーは一人呟いた。
時の違う者達はいつかは別れる
だからそのためにできることは……
時の流れについて深く考えさせられました
彼女達が気付くまで百年か千年か、それとも万年?