Coolier - 新生・東方創想話

牛歩(中)

2008/12/26 04:00:43
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 正史の妹紅が慧音の頭に刺身のタンポポをあしらい、笑いを堪えている頃である。





 手紙を書き終え、疲れ切った妹紅姫は慧音卿の膝の上で眠っていた。

「ミスティア」

 慧音は妹紅を起こさぬように小声でミスティアを呼ぶ。
 ミスティアは枕を持ってやって来た。
妹紅を起こさぬように細心の注意を払いつつ、頭を持ち上げて膝と枕を入れ替える。
 台の上には、妹紅の書き上げた帝への返事と、輝夜への便りが置かれている。
後者は所々が涙に濡れている。
 現代と同じく季節の挨拶に始まり、結びに終わる便りの内容は「しばらく会っていないが、会いたい」というようなものであった。
 大分時間がかかってしまったため、朝日が昇り始めていた。

「今日は忙しいというのに、徹夜をしてしまったよ」

 慧音が言うと、ミスティアが答えた。

「はい。少しでもお休みになりますか」

「ああ。そうしよう」







 慧音は布団の上で2刻ばかり横になった後、再び起こされた。
憂鬱だった。
 一月ほど前から出国に際しての挨拶回りを始め、全て終わったと思った矢先、今度は歌合わせ会の問題が持ち上がったのだから当然である。
それに加えて諸々の用事が残っている。
便りも2つほど預かってしまった。
 疲れは限界に達していた。

 日が高く昇り、妹紅姫も起きた頃、次期教育係・稗田阿求 中納言が訪ねてきた。
彼女は数ヶ月前まで無位の学者であったが、先達の慧音によって妹紅姫の次期教育係に指名され突如中納言になった。
 既に慧音の部屋の隣には彼女の部屋が用意されていた。
阿求は家が近いこともあり、伴の者も付けずにやって来た。
 妹紅姫の様子を窺いにやって来たと言ったので奥の間へ通され慧音と妹紅とで三人して他愛もない話しをしたが、どうにも弾まず半刻ほどして席を立った。

「それでは、私はそろそろ失礼しますので」

「ええ」

 妹紅は浮かない顔で言った。

「帰りも伴はいないのか」

 慧音が聞いた。

「はい。家が近いので」

「ならば、私が伴をしよう」

 稗田は頷き、二人は家の外へ出た。
慧音は道すがら近所の蓬莱山家に立ち寄り、便りを渡してしまうつもりだった。

「妹紅姫はあの調子だ」

 ゆっくりと歩きつつ慧音が言うと、阿求は悲しそうな表情をした。

「はい。昔は私にも懐いてくれていたように思うのですが、やはりあなたがいないと駄目ですね」

 慧音は溜息を吐く。

「今まで、私が過保護だった面もあると思う。私がいなくなると多少変わるかも知れん」

 慧音は自分に言い聞かせるように言い切った。

「かも知れませんね」

 二人の間に沈黙が起きた。

「ここ最近、学問は進んでいるか」

「ええ。まあ、あなたには遠く及びませんが。私には学問のためだけに海外へ行く気力などありません。みんな、そう言っていますよ。学者連中が」

「それは映姫の大納言様だって同じことだろう。大体、最初に渡航を希望したのは彼女だ。私は便乗しただけだ」

 阿求は何がおかしいのか、声も出さずに笑った。
 そして、「大納言様は誰の教育係ではありません。あなたは」とまで言いかけて口を噤んだ。

「すみませんでした」

「いや」

 また沈黙が起きた。
 と、その時、道の脇の塀の中から楽しげな声が聞こえてきた。
何やら知った声である。

「おお、賑やかなことだ。ここは誰の家だったか」

 慧音が聞くと、稗田は「マーガトロイド家です」と即答した。

「ああ、そうそう。アリス姫」

 このアリス姫というのはまだ年端もいかぬ姫君なのだが、実に奇妙な人物で出生が全く分からない。
その割に立派な邸宅と教育係が与えられており、何やら裏があるという話しなのである。

「誰か、そこで私の話しをしているのですか」

 塀の向こうから幼い声が聞こえた。
慧音は思わず身をすくめる。
阿求は「まずいことを言ってしまいました」と呟いた。

「失礼。上白沢の中納言である。悪意があったわけではない」

 すると、「アリス姫、いけません。大変失礼いたしました」ともう一つの声が割り込んできた。
この声なら知っている。霧雨魔理沙の大納言だ。アリス姫の教育係で、宮中でも度々顔を合わせた。

「慧音ですか」

「はい。そうです。稗田もおります」

「そうですか。こちらには博麗と伊吹らがおります。お急ぎでなければ、中にいらっしゃいませんか」

 慧音と阿求は顔を見合わせた。
阿求は目を輝かせている。
まだ日は高いし、特に急ぎの用事という訳ではない。

「聞きました? あの霧雨様と博麗様。伊吹様までいらっしゃるそうですよ。ねえ、行きましょうよ」

 阿求の困った所である。
 昔から彼女はミーハーなところがあり、自分とは違う世界に住む貴族達に憧れていたのだ。
中納言になった今もその癖が抜けず何かと貴族を見ては騒いでいた。
 もっとも、中納言は中央官僚の下っ端ではあったが。

「うん。まあ、断るのもなんだしいいでしょう。」

 阿求は顔に手を当てて身を震わせた。
「今、参ります」と、慧音が答えたその時、正史では妹紅と魔理沙が出会った。








「よう、妹紅」

 背後から突然駆けられた声に妹紅は驚き、慧音の顔のタンポポやら割り箸を取った。

「お前、今何してた?」

「いや。何もしてないよ。ただこうして慧音が酔っぱらったんで、膝枕してるのさ。お前こそ何だ」

 魔理沙は箒から飛び降りた。

「いや。通り過ぎたら、お前の後ろ姿が家の中に見えたんで立ち寄った。ただそれだけ」

「ふうん、そうか。早くどっかへ行くといい」

「失礼なやつだな。言われなくても行くぜ」

 魔理沙は再び、どこかへ飛んでいった。







 再び1300年前、二人は屋敷の正面に回って門からマーガトロイド邸に入った。
慧音はこの屋敷に何度か訪れたことがあった。
広い庭の植え木は綺麗に整えられており、以前と変わりなかった。
 魔理沙と霊夢と萃香は縁側に並んで座っていた。
 萃香と魔理沙は女官衣装だが、神祇官の霊夢は巫女装束を着ている。
萃香の外見であるが、「角」を取った姿を想像していただければ間違いない。
 阿求は「ああ。神々しい」と呟いた。

「どうも、お久しぶりです」

 実はそれほど、久しぶりでもない。
一ヶ月ほど前に挨拶回りで来たばかりだ。
 魔理沙は自分の隣を指さした。

「どうぞ、座って」

 慧音と阿求は頭を下げて座った。
かくして、縁側には5人が並んだ。
一種の日向ぼっこである。

「アリス。挨拶しなさい」

 塀の傍に座っていたアリスはゆっくりと顔を上げた。
金髪に真っ白な肌で、実に美しい。

「こんにちは」

「こんにちは」

 慧音達はまたしても頭を下げた。
アリスはまたしても石造りの塀のそばにかがみ込んでしまう。

「今年で5つなのですが、まだ人に馴れません」

 魔理沙が小声で言った。
先日もそのようなことを誰かが言っていた。

「アリス姫、何をしているのですか」

 慧音が呼びかけると、アリスは手の平一杯の桜の花びらを見せた。
「集めているのです。ずっと、飽きずに」と魔理沙が注釈を入れる。

「とても利発そうな姫でいらっしゃいます」

 萃香と霊夢は絶え間なく酒を飲んでおり、顔を真っ赤にしている。
霊夢は神祇官なのだが、いかんせん祈祷師が優秀なため仕事がなく最近は遊び回っている。
内大臣の萃香も同様で、二人してよくつるんでいるのを見かける。
 アリスは黙々と手を動かしている。

「霊夢様はいつもこうしてここにいらっしゃるのですか」

「まあ。そうかしらね。ねえ、萃香。ここは面白いものねえ」

「ええ。魔理沙がお酒を飲めば、もっと面白いのに」

 阿求は感動の余りか、「ほう」と声を漏らした。
魔理沙は慧音の方に向き直った。

「ところで、妹紅様のご様子はどのようなのです」

「中々、落ち着いてこられたようで」

「嘘はいけません」

 慧音の手が跳ねる。

「何でも、歌合わせのことでお心を痛めていらっしゃると聞きましたよ」

「やはり、隠し事は出来ませんか。おっしゃる通りです。」

 霊夢と萃香も二人の会話に興味を示す。

「確か、お相手が蓬莱山 輝夜姫だとか」

「あの二人は仲がいいですからね」

 慧音は頷いた。

「そうなのです。しかも、私は渡航の件がありますので、翌日には稗田に任せて旅立つしかありません」

 阿求は申し訳なさそうに下を向いた。

「私がしっかりしていればいいのですが。どうも妹紅姫は私のことを避けているみたいで」

「そんなことはありませんよ。何かあった時には私達も頼りになりますから。ねえ?」

 萃香と霊夢も賛同した。
阿求は感極まったようで、身振り手振り交えて感謝の言葉を並べた。
それから、四半刻ばかり経ち慧音は席を立った。

「あら。慧音様。もう行かれるのですか?」

 阿求が物足りなさ気に言う。
慧音は頷いた。

「ええ、まあ。あなたはまだ残ったらどうです?」

 その言葉に阿求の顔は輝いた。

「え? いいのですか」

「私は構いませんよ」

 と魔理沙が言う。

「では、お言葉に甘えて」

 慧音は席を離れようとして、背後に置かれた小さな金髪の人形に驚いた。

「ああ。驚いた。人形でしたか。しかし、これはまた精巧な」

 その瞬間、アリスが顔を上げて人形を指さした。
慧音は首を傾げる。

「それ、メディスン」

「え?」

「メディスン。人形の名前。可愛い?」

 慧音はやっと理解して、頷く。

「ええ。とても可愛らしいです」

 魔理沙が立って慧音を見送ると、アリス姫も「さようなら」と言った。
霊夢と萃香にも声を掛けようとしたが、酔いつぶれているらしく反応がない。

「何てだらしのない」






 さて、これから蓬莱山邸に便りを渡しに行かなければならない。
 慧音の足取りは重かった。
 阿求をマーガトロイド邸に置いてきたのは正解だった。
 数分もしないうちに、蓬莱山邸が見えてきた。
 門の前には、優曇華院とてゐの姿が見える。二人はいつものように桃色と、紺の衣を着ていた。腰に刀は見えなかった。最近は治安がいいためであろう。

「しばらくぶりですね。今日は手紙を妹紅姫から手紙を預かってきました」

 ウドンゲとてゐは稲妻に打たれたかのような表情をした後、恭しく頭を下げた。

「お疲れ様でした。直ちに教育係の永琳様にお知らせいたします。少々お待ちください」

 永琳はとりたてて官位こそないものの優秀な薬学者であったため諏訪子天皇の信頼を獲得し、寵愛されている。
そして、何より輝夜の教育係であった。
 慧音は首を横に振った。

「前もって知らせずに訪問など出来はしません。ただ、一つ気になるのは輝夜様のお加減です。どのような具合でしょうか」

 てゐは声を潜めた。

「それが、最近はお熱が出たり引いたりの繰り返しだそうで、私達も心配しているのですが」

「そうですか。妹紅姫もつい先日まで寝込んでいました」

「輝夜姫は妹紅様のことばかりを話しているのだそうでございます」

 二人はさらに慧音を引き留めようとしたが慧音はどうしても肯んぜず、家路に着いた。
慧音が家の門をくぐると、やはり妹紅が庭で出迎えてくれた。脇にはミスティアまでいた。

「ずっと、待っててくれたのですか」

「ええ。輝夜に渡してくれた?」

「はい。渡しました。何やら、輝夜様は妹紅様のことばかりを話しているそうで」

 妹紅は「まあ」と声を上げた。
ここ数日聞いたことのない、生気に満ちた声だった。
 慧音は笑い、ミスティアも嬉しそうに笑った。







 翌日、慧音は異国人の家に伺うことにした。
彼らに借りた蔵書を返しに行くためであった。
 いつかは返さねばならぬと思っていたのだが、今まで手元に置いていた。
 妹紅は未だに布団の中にこもりがちだったが、昨日は夕食にも手を付けていたので慧音は幾分安心した。

「お便りが来ております」

 ミスティアが慧音に一通の文を差し出した。

「誰からかな」

「大納言・四季映姫様からです」

 慧音は胸騒ぎを覚えた。
何か、渡航の予定に差し支えがあったのではないだろうか。
が、内容は予想外のものだった。

「明日の管弦の会にお誘いしたい。我々の送別会も兼ねており、後任の教育係ということで稗田阿求にも使いをしている。他の出席者は太政大臣・神奈子、内大臣・萃香、宮廷薬師・永琳、左大臣・幽々子、右大臣・雛。中納言・小町。酉の刻に西行寺 幽々子邸へ来られたし。 四季 映姫」

 そうそうたる名前、重臣ばかりである。
いかにも稗田が喜びそうな会だ。
ミスティアは心配そうに慧音の顔を窺っている。

「いや、何のことはない。管弦の集まりに呼ばれただけだ」

「そうでしたか」

 ミスティアは安堵の息を漏らした。

「間もなく牛車が参るでしょう」

 言うとおりで、ものの数分もせずに牛車が現れた。
牛車を牽くレティはいつも通り青い衣を身につけていた。

「さ。どうぞ中納言様、お乗りになってください」

「うむ」

 やはり、何故かは知らねど牛の視線が気になって仕方がなかった。
約10分、慧音は無心で牛車に揺られた。
 異国人の屋敷は、蓬莱山家の更に南。以前は宮中に住んでいたのだが、最近になってようやく邸宅が完成したので引っ越した。

「着きました」

「ああ」

 半分眠りこけていた慧音は急いで牛車から降りた。
異国人の屋敷は朱塗りの壁と柱でよく目立つ。
これを建築したのは河城 にとりだが、相当苦心していたらしく何度も愚痴を漏らしていた。
 真っ赤な門の前に一人の門番が立っていた。
紅 美鈴である。
初めて都に来た頃は実に奇妙な衣装を着ていたが、最近は衣を着るようになった。
 美鈴は深々と頭を下げた。

「どうぞ。パチュリー様は奥にいます」

 慧音は門をくぐって中に入っていった。
慧音はこの大きな朱塗りの門のことを密かに「赤門」と呼んでいた。
 相変わらず目が痛くなる屋敷だった。
柱も壁一面朱塗り。
内部が薄暗いからまだいいものの、それでも刺激が強い。
 すると、すぐに二人の赤ん坊を抱えた銀髪の従者が現れた。

「ようこそ、いらっしゃいました。案内いたしましょう」

 腕には金髪の赤ん坊を抱いて、背中には青髪の赤ん坊を背負っている。
確か、フランドールとレミリアという名前であった。
 背中のレミリアは慧音を指さして笑った。前面のフランドールは指を咥えたまま眠っていた。

「パチュリー様、お連れしました」

「入りなさい」

 一番奥の間を開けると、小さな書斎の中に所狭しと書物が積み重ねられていた。

「中納言・慧音卿」

「はい」

 国博士の面前にて、慧音は萎縮した。
パチュリーは目だけ動かして慧音を見上げた。

「座りなさい」

「失礼します」

 パチュリーの顔を見るなり、レミリアは「パチェ、パチェ」と騒ぎ始めた。
舌足らずなため「パチュ」が発音できないのだ。
 その声に目を覚ましたフランドールは不機嫌になって泣き出した。

「あらあら、話しが終わったら相手するから、しばらくあっちに連れて行って」

「はい。おお、よちよちよち」

 咲夜が一礼して部屋を発ち、泣き声が遠のいていった。
あのように動き回ってよく腰を痛めないものだ、と慧音は感心した。

「これが、お借りした本です」

 パチュリーは神経質そうに中身を確認して咳払いした。

「どうも、気管が弱いのよ。薬師にまた薬を貰いにいかないと」

「永琳卿ですか」

 パチュリーは大きく頷いた。

「そう。あれは名医だわ。私達の国にも中々あれほどのは」
 
 そして、咳をした。

「出発は5日後?」

「そうです。大分、準備も進みました」

「大丈夫よ。嵐にでもぶつからない限り、問題ないわ。天候にさえ気をつければいいのよ」

 慧音はパチュリーが天候についても詳しいことを思い出した。

「質問したいのですが、5日後の天候はどのようでしょうか」

 パチュリーは頭を抱えた。
難しい質問であったようだ。

「風は出るかもしれないけれど、雨はないでしょう。ここしばらくは雨が降りそうな気配はありません」

 4日後の歌合わせの雨天取り止めを熱望していた慧音は内心、肩を落とした。
ある意味、慧音にとっては渡航よりも大きな問題だった。

「しかし、凄まじい覚悟だったでしょう。乳飲み子を二人も抱えて渡航とは私には真似できそうもありません」

「あの時は一歳にも満たない子供で」

 パチュリーは笑った。

「幻想京では、渡航なんて日常茶飯事なのですよ。この方角に来る人間が少ないだけで」

 慧音の胸に熱いものが込み上げてきた。
慧音はでたらめに、まだ見ぬ幻想京の予想図を思い描く。

「幻想京において全ての書物を読破した私にとって、まだ見ぬ国の書物はどれほど魅力的だったか。それに乳飲み子ならば、幻想京に未練は無し、渡航も怖がらず、中途半端に成長しているよりずっと扱いやすいのです」

 慧音は急に自分の影法師に出くわしたような気がした。
それも、どす黒い影法師である。
部屋を見回すと、あたりかしこに歴史書や法律書、薬学書が積まれていた。
中には慧音の書いた歴史書もあった。
 慧音は歴史だけでなく法律学などにも思い入れが深かったが、とても本を書くほどでは無かった。

「あと2年です」

「何がですか」

 慧音が思わず聞き返すと、パチュリーは気味の悪い笑い方をした。

「決まっているでしょう。この都の書物を読破するのにあと2年です。そうしたら、次の予定を立てなければなりません」

 この家はどうする気なのだ。
慧音は思わず息を呑んだ。
パチュリーの家を出るときに咲夜とすれ違ったが、赤ん坊はどちらも眠っていた。
慧音は再び、牛車に揺られて自宅へ戻った。






 慧音はすぐさま自分の部屋に戻ったが、何やら落ち着かないので自編の歴史書を読み返した。
しかし、パチュリーの言動が妙に気になって頭に入ってこない。
 今までに何度も書庫や大学で顔を合わせてきた相手だというのに、今日は別人のような気がした。

「慧音」

 慧音は即座に振り返った。
妹紅が立っていた。縁側の向こうから差し込んでくる夕日に白い髪が映えていた。

「おお。どうされました」

 ここしばらく妹紅の方から話しかけてくることなど無かったので、つい不自然な声が漏れた。

「輝夜からお返事をいただいたの」

 いい返事だったのだ。
慧音は立ち上がった。

「どうでしたか。いいお返事だったのでしょう」

 妹紅は恥ずかしそうに笑った。

「差し支えなければお聞かせいただけませんか」

「ええ、明後日、私を訪問するのですって。いいかしら」

 妹紅は遠慮がちに言った。
駄目なわけがあるものか。

「どうぞ。是非どうぞ。用意をしておきましょう。ああ、本当によかった」

 妹紅の笑顔は本当に久しぶりだった。
ああ、悪いことがあった後には良いことが必ずあるものだ。

「それと、慧音。あなた管弦の会に誘われたの?」

「はい。明日なので、明後日には差し支えありません」

 妹紅は気恥ずかしさの余り、話題を変えようとしていた。
妹紅は遠い目をした。

「管弦の会、雅な所なのでしょうね」

「ええ」

 実のところ慧音も管弦の会に誘われるのは稀で、今回が3、4度目であるから詳しくは知らない。
管弦の会の印象と言えば、弾き手の少納言三姉妹が異様に上手かったことぐらいである。
 と、その時、ミスティアの声が聞こえた。

「夕食が出来ました」

 慧音は妹紅を見る。

「食べられますか」

「ええ。お腹が空いたわ」

「当然です。ここしばらくは、ろくに食べてないのですから。二人分、私の部屋に運んできなさい。さあ、姫、昔のように二人して食べましょう」

 ミスティアが慌ただしくお膳を運んできた。
この日は本来和歌の達者を呼び、指導を受ける日なのだが、ここしばらく妹紅は学問を避けていた。
 慧音も引け目を感じ、うるさくは言わなかった。
 歌合わせまで4日、渡航まであと5日だ。





 渡航がいよいよ近づいたこの頃、妹紅姫は徐々に明るくなっていくようにも見えたが、何か大きな無理をしているようにも見えて仕方がなかった。
 内情は誠にうかがい知れぬものであったのであった。
 その晩、慧音はまたしても悪夢にうなされた。
翌日は朝から夕方まで妹紅に付き添っていたが、夕方になると迎えの牛車がやって来た。
 管弦の会へ行くのだ。
慧音がいつにも増して気合いを入れて身だしなみを整えていると、妹紅がやって来た。

「あんまり、飲んでは駄目。明日は輝夜が来るのだから」

 本当に妹紅姫は輝夜姫が好きだ。
慧音は胸が痛くなった。

「分かっております。それでは行って参ります」

 慧音は妹紅の見送りを受けて、牛車に乗り込んだ。
牛車には先客がいた。いわゆる相乗りである。
 稗田阿求であった。
彼女の衣装は新品であった。

「阿求。やけに気合いを入れたじゃないか」

「そうなんです。管弦の会なんて初めてなんです。私が無名学者だった頃は管弦なんて自分が一生、携わることもないだろうと思っていて、それで、そ、あの、急に呼ばれたものですから」

 自分も中納言に成り立ての頃は浮かれていたが、ここまで酷くはなかった。
慧音が溜息を吐いている間に牛車は西行寺邸に到着した。
 西行寺邸の前には、本来内裏の警備に回されるはずの文と椛がいた。
不思議に思ったが、太政大臣・神奈子が来るためか、と納得した。
 改めて、神奈子の権力を思い知った。







 西行寺邸の大きな庭に面した座敷に一同は集まった。
障子は開け放たれており、桜が月に照らされていた。
 庭は白砂が敷き詰められていて、これらの風景には自称「情趣を解さない」慧音でさえも息を漏らした。
 当主である幽々子は美しく、桃色の礼服がよく似合っていた。
 揃ったのは太政大臣・神奈子、内大臣・萃香、宮廷薬師・永琳、左大臣・幽々子、右大臣・雛、大納言・映姫、以下中納言・小町、慧音、阿求の9名である。
まず幽々子が立ち上がり、挨拶した。

「西行寺 幽々子です。今日はお集まりいただき、感謝しております。さて、今日の主役の皆様をご紹介いたしましょう」

 慧音の心臓が跳ねて、冷や汗が出てきた。

「まずは大納言・四季映姫卿。次に中納言・慧音卿。中納言・小町卿。ご存じしょうが、彼女らは4日後には都を離れて幻想京へ旅立たれます。今日は送別会という趣旨でございます。そして、中納言・阿求卿。彼女は慧音・中納言の後任の教育係ということでお呼びいたしました」

 幽々子は淀みなく話した。

「それでは、まず演奏を聴いていただきたく思います。少納言・ルナサ卿。メルラン卿。リリカ卿。お願いします」

 間もなく琵琶、尺八、琴をそれぞれ持った三姉妹が入場し、演奏を始めた。
と、同時に合図を受けて宮廷庭師の魂魄 妖夢が静かに酒を運んできた。
 明かりと言えば月があるだけの薄暗い空間に響く音色は実に幻想的であった。
慧音は少量の酒しか飲まなかったが、十分に酔った。
 隣の阿求も大分、酔っていた。
 上座の永琳を見ると、無心に聴き入っている様子であった。

 演奏が終わり、少納言三姉妹も酒など飲み始めると、堰を切ったように会話が始まった。
映姫や小町らは勿論、慧音は質問責めに遭ったが、阿求が今にも気絶しないか心配で仕方がなかった。
 意外なことに、雛が渡航の話題に食いついてきた。
何やら海外について大いに感心があるようだった。
 彼女はこういった事に無関心であるという慧音の予想は外れていた。
萃香は対照的に三姉妹に演奏をせがみ、酒を飲みながら一人聴き入っていた。
 意外にも妹紅姫の件はそれほど話題に上がらず、通り一遍の「お加減はいかがか」などといった質問が時折、挟まれるばかりであった。
 酒が無くなりかける度、妖夢が運んできた。
 こうしてみると、自分は遠く離れた国へ旅立つのだなという実感が深まってくる。
 慧音は永琳と話しをしたく思い、端の方に座る彼女の所へわざわざ歩いていった。


「永琳様」

 永琳は仄かに赤く染まった顔で微笑んだ。

「何でしょう」

「お手紙が届いたでしょう」

「ええ。輝夜が喜んでいました」

「お加減はいかがですか」

 永琳はまたしても微笑んだ。

「お便りを頂いてから、元気になりました。明日はそちらに伺うということで。私も参ります」

「そうですか」

 慧音は笑った。
縁側の方ではまた演奏が始まっていた。

「色々と申し訳ありませんね。渡航前にいざこざがあって」

「何をおっしゃられます。申し訳ないなどと」

 永琳は突如、慧音の袖を掴み耳元に口を近づけた。

「お話しがあります。ちょっと」

「あっ」

 慧音は永琳に袖を掴まれたまま、廊下に出でて逆側の縁側に連れて行かれた。
すると、そこには幽々子が既に座っていた。

「遅かったわね」

 幽々子が言った。

「ど、どういうことですか」

 慧音が戸惑って幽々子の顔を凝視すると、幽々子は微笑んだ。
慧音はますます緊張する。

「少し、お話ししましょう」

 遠くから管弦の音が聞こえてきた。

「今度の歌合わせ会のことがあるでしょう?」

 永琳が口を開いた。
慧音が黙ったままでいると、幽々子が続ける。

「何でも、妹紅姫と輝夜姫がお悩みだとか。あの組み合わせを決めてしまったのはご存じの通りでしょうが、私です。本当に申し訳なく思っています」

「いえ、そんな」

 慧音が反論しようとするのを永琳が抑えた。

「帝に指摘をいただいて、初めて私はそのことに気付きました。そこで、償いをしようと思うのです」

 慧音はますます訳が分からない。
永琳は状況を理解しているようである。

「今度の歌合わせ会は私が主催なのは知っていますね」

 慧音が頷くと幽々子は微笑んだ。

「評定(審判)役は秋姉妹なのですが、彼女達は私の弟子なのです。そこで、一計を案じたいと思うのですが」

 秋姉妹は妹紅姫に和歌の手ほどきをしている人物だ。
永琳は慧音の表情を伺っている。
 慧音は途端に酔いの冷める心地がした。

「何ですか。意味がわかりません」

「つまりですね。引き分けにしましょう、と言うことです」

 慧音は理解すると同時に、その場に釘付けとなった。

「秋姉妹は私が頼めば断らないでしょうし、これならば両方が丸く収まりましょう。安心して渡航に臨めます。永琳卿は賛成してくれています。あなたはどうでしょう。いい話しだとは思いませんか?」

 慧音は口をようやく開いた。

「どうして、私にそれを話すのです。黙って行えばいいものを。私の性格はご存じでしょう」

 幽々子は微笑んだままである。

「知っています。私達があなたにこの事を教えるのは単に善意です。一刻も早く安心させたいと思いまして。いえ、普段であれば許されないことですが、場合が場合でしょう」

 自分は信頼されている。
不正の片棒を担ぐに違いない、と。
 慧音は立ちすくんだ。

「こんな言い方をしては何ですけど、秋姉妹によりますと、妹紅姫と輝夜姫の才覚は互角であるとか。引き分けで然るべきなのではないでしょうか。人間、荒波よりもぬるま湯の中において成長する場合もありましょう」

 永琳は慧音の肩に手を掛けた。

「上白沢卿。私達がどんな気持ちで危険を侵してまで、あなたに打ち明けたか。これで全てが丸く収まるのですよ。妹紅姫も輝夜姫も気持ちの上では真剣勝負を行って、しかも最高の結果を迎えられるのです。今回は引き分けで何が悪いのでしょう。勝ち負けなど決めては百害あって一利なし」

 慧音の唇は震えていた。

「帝も、絡んでいるのですか」

 幽々子は微笑んだままで答えなかった。

「どうします」

 妹紅は輝夜が何より好きである。
それに引き替え、自分は都を離れる身。
輝夜は間違いなく心の拠り所になる。
仮に引き分けが不正だったとして誰が気付こう。
妹紅は間違いなく喜ぶ。
この二人は間違いなく正しいことをしようとしている。
 一分近い沈黙の後、慧音は口を開いた。

「ぜひ、そのように、はからっていただきたい」

「よくぞ、ご決心いただきました」

「教育係の鑑です」

 永琳は手すりにもたれかかった。
幽々子は頭を下げる。

「後は私にお任せください」

 永琳は皆のいる座敷に慧音を送り返しながら、囁いた。

「酔いを覚ますのに、いい時間でした」

 慧音が座敷に戻って来ると、雛が声をかけた。

「どちらに行かれていたのですか」

 慧音は笑うと、淀みなく「酔いを覚ましておりました」と答えた。

「先ほどのお話の続きを聞かせていただきたい」

 それからも色々話しかけられたが、何も覚えてはいなかった。
 神奈子は慧音の顔を見ると、口を大きく開いて笑った。
 ようやく分かった。
この会はそういう会だったのだ。
 少しして永琳が戻ってきて、最後に幽々子が戻ってきた。
 お開きになった後、慧音は再び阿求と牛車に揺られた。
阿求は大分酒が入っており、静かだった。
慧音にとっては救いだった。

 慧音は家に帰るなり、布団の上に倒れ込んだ。
妹紅は眠ってしまっていたが、ミスティアは台所で仕事をしていた。
明日は輝夜がやって来る。永琳も。







正史では、一足先に輝夜が妹紅を訪ねていた。

「こんばんは、妹紅」

 輝夜は音もなく中庭に降り立った。
妹紅は一瞬驚いたが、すぐさまコップ酒を置いて慧音を膝の上から座布団の上へ移動させた。

「こんな所までやって来たのか?」

「今晩は満月よ。殺し合いにはいい日でしょう。すっぽかす気? 今すぐやりましょうよ」

 妹紅は立ち上がった。

「いいだろう。ただし慧音には構うな」
次で完結の予定です。
後編で一気にカタルシスやら鬱憤を爆発させたいと思うので、最後までお付き合いいただければ幸いです。
yuz
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コメント



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6.60Jiyu削除
分離した記憶の描写と現実の描写がどうやって一つに収束していくのか、期待です。
今のところ相互に関連性は見えないですが……

必然とは思うのですが、記憶の世界の世界観が幻想郷のそれとは異なるために
キャラクターの魅力が多少減退していますね。
キャラクターの魅力がその世界に多分に支えられていることが、逆説的によく理解できました。

しかしながら、その世界に沿って改変した性質を新たにキャラクターに付与出来ている部分は
流石だなと感じます。
具体的に述べるとパチュリーの「本の虫」っぷりが、記憶の世界観に沿って描写されている点、などです。
これらにより世界を変更することによって失われた魅力が、新たに補われている印象を強く
受けました。
俗な言い方をすると、「その人特有の『味』がよく出ている」、というところでしょうか。

なんかわかりにくいですね。すみません。
とにかく面白かったです。
続編に期待。