「あなたは私に見合う人間なのかしら?」
射抜くような目線。死刑宣告であった。男がこうべを垂れる。
ここは首都東京のほぼど真ん中に位置する最高学府、東京大学。その中の一角、岡崎教授の研究室である。
奥から、助手が紅茶を持って現われる。
「いや、残念だったね。お帰りはあちらだ、またのお越しを」
手に持ったお盆には紅茶が二つ。助手と、岡崎教授のもの。来客への配慮なんてありはしない。
男は、そのまますごすごと出て行った。岡崎教授はもう男に興味を失くし、別の方を向いている。
助手が、紅茶を渡した。
「これで何人目だっけ? ご主人様も人が悪い」
「ちゆり、そんな無駄な事はどうだっていいのよ。あんな有象無象が、幾ら来たかなんて事は」
ちゆり、助手の名である。本名を北白河ちゆり。幼い頃より天下の秀才と謳われ、本来の半分の速さで大学を卒業。今は岡崎教授の助手をしている。
そして、この岡崎教授。本名を岡崎夢美。彼女は、おおよそ人の言葉では語る事が出来ない。それでも敢えて言うのならば、そう、彼女こそが天才と呼ばれるものだった。
もしも、この世界の常識から逸脱した者を天才と呼ぶのであればの話だが。
二人が、紅茶を啜る音。お茶請けなども無い、ただの午後の一杯。飲み終われば、また煩わしい雑務が待っている。
教授が、口を開く。
「ねえ、ちゆり。やっぱり私……」
また、この話か、とちゆりは思った。既に何度も繰り広げられ、その度に口論になったり、いつかは取っ組み合いの喧嘩になった事もある。そんな程度には重要な話で、そしてそんなに何度やっても進展を見せない程度には、どうしようもない話だった。
ここで、岡崎教授について少し語っておく必要がある。岡崎夢美、女性、十七歳。岡山の、とある田舎に生を受ける。今の世では数少ない、自然の残る場所だった。
そこで彼女はその才を見出され、東京へ移り住む。瞬く間に級を飛び越し、期待の新星として学会に招かれたのが一昨年の事。十五になったばかりの事であった。
だが疑問を感じる。何故、自分の想像していた事と違うのだろう。この世界のあり方。その全てを解明する統一物理学。ここは全ての学問が集まる場所なのに。
次の年、彼女は自分の思っていた世界のあり方を、学会に発表する。第四の力、魔力の存在を。一笑に伏された。理解が出来なかった。自分にとってそれは当然の事だったのに。
岡崎夢美が自分の異質さを理解し、自身の存在を許されないこの世界に絶望を感じるのに、そう時間はかからなかった。まだ未熟な精神には、それは重く、大きくのしかかった。
鬱屈した生活。暫くの間は、大学も休んだ。復帰しても、身が入らない。何も無い自分に嫌気が差し、もう死のうかと思っていたそんな時、北白河ちゆりの噂が耳に入った。
彼女が、この大学に来ると言う。それも、自分に会いに。名前は知っていた。何度か、凄い秀才が居ると言う話が岡崎の耳に入っていた。ただ、彼女と自分との間に、さしたる接点は無いはずだった。専攻している分野も違う。
対面しての第一声は「貴女が好きです」だった。凍りつく場。どうしようもない。なし崩し的に、北白河ちゆりは岡崎教授の助手となる事が決まった。
北白河ちゆり。彼女に、今まで岡崎教授との接点は何も無い。ただ、何かの雑誌で、岡崎教授の事を見つけた。それだけである。その雑誌にはこう書かれていた。期待外れの新星。
後は、一目惚れとも言って良いものだった。何故この科学万能のご時世にこんな奇妙な事を学会で吐けるのか。それだけでちゆりの心をくすぐった。断っておくと、彼女にレズの気は無い。
助手になるにあたり、自分の事をご主人様と呼ぶように、と岡崎教授から言われた。今になって思い返せば、あれはちゆりを追い返すための方便だったのかもしれない。しかし、ちゆりは迷う事無く彼女を主人と呼び、自らの身をその前に跪かせた。
主従の関係は成立してしまった。これ以来、北白河ちゆりが岡崎夢美の事を教授ではなくご主人様と呼ぶのは、大学内での暗黙の了解となっている。
さて、話を戻そう。北白河ちゆりは、教授の右腕として良く働いた。魔力の存在は未だ認められないものの、それ以外の分野ではそれなりの成果を出した。
しかし、どうも楽しくない。決して自由な研究が出来るわけではないこの教授と言う立場に、夢美は飽き飽きしていた。そして、ちゆりに話を持ちかける。
即ち、二人で大学を辞めてしまおうと言う話。この鳥籠から、抜け出してしまおうと言う話だった。
「辞めてどうするんだ。金も無い、設備も無い、お先は真っ暗だぜ」
「そこはホラ、私の名声的な……」
「出資者が居ないと話にならないようなら大学に残ってたって変わりないよ」
バッサリと切り捨てられ、岡崎教授が下を向く。この流れも、長い口論の果て何度か繰り返している事だ。
既に結論は出てしまっているのである。どうすることも出来ないと。何度考えを巡らせてみても、最終的にはそこへ行き着いてしまう。それでもどうにかしたいと思ってしまうのは、果たして人の弱さゆえか。
それだって、私には耐えられない。呟いた声が研究室に響く。紅茶は、もう飲み終わってしまっていた。
ちゆりも、ただ手をこまねいていた訳ではなかった。まだそれほどの人脈を持っているのでもない。自分の主人に敵うほどの力も無い。それでも、八方手を尽くして事態の改善には努めていた。
結果は、見るも無残なものであったが。
結局の所、ただ成績が良いと言うだけで自分はまだ若輩にも至っていないのだと、そう痛感するだけ。無力さを奥歯に噛み締める。
せめて、話くらいなら聞いて上げられる筈だ。毎日、決まった時間になると紅茶が出されるようになったのはそれが理由だ。それが少しでも彼女のストレスを軽減させてくれるのなら。自分だけでも、彼女を信じていられたら。
だからこそ、ちゆりには岡崎夢美が大学を離れるなんて事は許せなかった。計画も、目処も無い、ただ逃げるだけの行為。それを敬愛する彼女が行う事が許せなかったし、何よりそれを実行したが最後、何も出来ずくすぶって行く事は想像に難くない。そんな彼女を見るのが許せなかった。
自分が最後の砦なのだ。いつからか、ちゆりはそんな事を考えるようになっていた。
東京大学は広い。敷地面積もさる事ながら、なによりその人材、設備、学部などは他に類を見ない多彩さを持っている。
暇が出来れば、何か別分野の研究で似たようなものが出ていないか、あるいはそう言った資料が存在しないか。ひたすら探し回る生活。
北白河ちゆり十四歳。その青春は、常に岡崎夢美と共にあった。
ある日、古い文献を漁っていた時、一冊の本を見つけた。昔々の情報誌のようなもので、オカルトと呼ばれるものを扱っている。
オカルト。そんなものは、もうこの世から失われて久しかった。世界の全てを解明し、説明付ける統一物理学。それが発表された年は、科学世紀の夜明けとして教科書にも載っている。
この永い人類の歴史の中で、変換点と呼ばれるものは多数ある。それは例えば、この科学世紀の夜明け。それは例えば二十一世紀の後半。遷都未遂事件などがそうだった。
政府の中の強硬派が二人、皇居を京都に戻そうと言う動きをはじめた。ここはもう育ちすぎた。皇居を移し変え、都を二つに分けるべきだ、と。
主要人物はたったの二人ながらも、その騒動は大波乱を起こし、ついには東京と京都の二箇所に臨時政府が分かれる形となってしまった。
いくつかの機関、大会社も京都への本拠地移転を考えるようになって来たその時である。二人のうちの片方が病死した。陰謀説が囁かれたが、以前から持っている持病のような物だったので、今ではその線は薄いと考えられている。
そうこうしている内に、もう一人が今度は殺された。確実に、他殺であった。周囲の警護をかいくぐり、ライフルで胸を一発。即死だった。
主論者を失った遷都派は急速に勢いを衰えさせていき、皇居は旧江戸城に留まる事となる。もし、あの二人が死んでいなかったらどうなったであろうか? 歴史に、もしは禁物である。だが、きっと今頃、歴史は変わっていただろう。
統一物理学についても同様のことが言える。当時京都を中心に巻き起こっていた自然回帰運動。科学信仰の世の中を疑問視し、何か理解出来ない力の存在を認めてしまおうと言うこの運動は、遷都事件の最中活発化し、その衰えと共に沈静化していった。
もしあのまま自然回帰運動が残っていたとしたら? やはり、今とは違った未来が待っていたのかもしれない。
統一物理学が世に出てから百年以上が経つ。その間に、オカルトと呼ばれるものは死滅していた。ファンタジーにすらならない夢物語。それが、人々のオカルトに対する考え方だ。
しかし、ちゆりはだから、敢えてこそオカルトを研究する必要が有るのではないかと考えた。この世界に認められない自分たちの研究。それは同様に、この世界に認められないものの中にこそ道は開けるのではないかと。
早速、片っ端から資料を集めて研究室に運び込む。周りの人間が、冷ややかな目線を送ってきているのがわかった。また、あいつらか。気にせず、運び続けた。時々、自分たちを馬鹿にしてくる言葉が聞こえた。見ると、自分達の生徒だった。
悔しさが、赤く唇から流れ出た。
研究室には、岡崎教授ともう一人、年配の男性が座っていた。ちゆりも何度か会った事のある、統一物理学の教授。この大学の中でも、それなりに力を持っている人間だ。
彼はちゆりが入って来たのを見ると、もう用は無いとばかりに簡単に挨拶を済まし、部屋から出て行ってしまった。岡崎教授は、難しい顔をしている。
「今のは……?」
「大学側からの催促よ、これ以上無駄な研究を続けるなってね。笑っちゃう。学問の徒が集まるのが、大学じゃあ無かったのかしらね」
「それって」
「ちゆり、お茶を頂戴。なんだか、お茶が飲みたい気分なの」
その目は、何処を見るとも無く虚空を見つめている。荷物を置いて、紅茶を淹れに行った。ちゆりが紅茶を持って戻ってきても、教授はずっと姿勢を変える事すらしていなかった。
二人の前に紅茶が置かれる。ほのかに、柑橘系の香り。教授が、口をつける。
「美味しいわ」
「それはなにより」
「ところでちゆり、その荷物は何?」
「ああ、これは……」
机の上に幾らかの本を広げる。どれも、少し色あせては居るが十分に読む事は出来る。この大学の保管状況の良さを表すものだった。
「オカルト、ね」
教授が、呟く。もしや自分は、とても今更な役に立たない物を持ってきてしまったのだろうか。ちゆりの顔に焦りの色が出始める。
しかしそんな事には構わず、パラパラと本をめくる教授。少し、懐かしそうな、そんな顔をしていた。
あの時、こうしていれば。あれが、起こらなかったら。人生において、そう言った事を考える時は、往々にしてある。それは、岡崎教授と言えども例外ではなかった。
何故自分は科学の道を志してしまったのだろう。この所いつもそれを考えている。自分が例えば医者であったり、弁護士であったりしたのならば、こんな思いはしなかったのではないか。
「私が、田舎で育ったってのは知ってるわよね」
「まあ、前に聞いたけども」
「山の多い場所でね、良く小さい頃は一人で山を駆け回って遊んでたわ。今思うと、随分危ない事もしていた気がする」
何の話をしているのか、ちゆりには分からなかった。ただ、話している姿が、それは楽しそうだったので、黙って聞いていた。
少し、笑みを浮かべている。きっと良い思い出だったのだろう。
「山の中でころんと寝転がっているとね、山が色々な事を教えてくれるような気がしてたの。さわさわ、さわさわ、って。山は、凄い安心した。きっと山には、凄い力があるんだって思ったわ」
一息つき、紅茶を啜る。
「でも、私が志した学者の道は、いとも簡単にそれを否定してくれた。ただの風の音だ、気圧変化だ、近くにはこう言った成分が舞っていたに違いない。そんな事ばかりを言って聞かされた。そしてその度に私は勉強した。本当は、もっと上があって、そこでなら違うはずなんだって」
語る唇が少し震えている。
これが、この人の深淵なのだと、ちゆりは悟った。ずっと、闘っていた。それは、ともすれば揺らぎそうな自分自身と。また、どうあっても覆す事の出来そうに無い、世界と言う名の壁と。
今、彼女はくじけようとしている。それが自分を信じて、周囲を認めたがらなかった者の末路。それを認めてしまうのは、きっとそれを認めてしまった時が、彼女の敗北なのだ。
「ご主人、私は、一生あんたについて行くぞ。ご主人ほどの人間が認められないなんて、そんなのは間違っている。私は、私だけはあんたの味方だからな」
口を突いて出ていた。言わずには居られなかった。きっとこの人を敗北させてしまう事が、そのまま自分の敗北なのだと思った。そしてそれは、間違ってはいない。
北白河ちゆりの青春は、常に岡崎夢美と共にある。それが一度、人を自分の太陽だと仰いだ人間の責務であり、そしてまたそれが、人に惚れると言う事なのだった。
「ありがとう、ちゆり……」
主人の言葉は、どこかはにかんだような、そんな印象を与えて、ちゆりの胸に飛び込んだ。
どこか、こんな筈ではなかった世界があるんだ。そう言って、二人は研究を始めた。大学側に動きをさとられない様、極秘密裏に。
表は笑顔で、でも心の底では、悪態を吐いて。日夜研究室にこもっては、そこで寝食を繰り返す。隠し部屋も作った。小さな、収納スペース。見られたらまずい物は、ここに隠される。
彼女達の全てが、その研究に費やされた。肌も、髪も、おおよそ女の子とは無縁の格好で、日々を過ごした。いつしか二人の目は落ち窪み、怪しい光をギラつかせる様になっていた。
誰か良識のある人間がその姿を見たら、きっとこう言うだろう。奴らは、狂人だ、と。どこかに居る、反体制派が彼女たちを見たら、きっとこう言うだろう。最高に狂っている、もっとやれ、と。
富者、貧者、賢者、愚者。そのどれもが、きっと彼女達の事を認めはしない。でも、それで良いのだと思っていた。
私たちを認めないこの世界を、私たちは捨てるのだ。それはもはや止める事の出来ない、確固たる思いとして彼女達の中に息づいている。
研究は、予想外に早く完成した。一年と少しが経ち、岡崎夢美は十八歳。北白河ちゆりは十五歳になっていた。
研究のために、多少あくどい事も平気でやった。どこかから、物資を盗んできた事もある。それでもこんなに早く完成したのは、二人の実力か、この世界の科学技術の圧倒的な高さによるものか。
可能性空間飛行船と名づけられたそれは、その名の通り可能性のあった世界への移動を可能とする。世界を世界と認識する事が前提のこの機械を使うのが、自分の世界を捨てるためと言うのは、皮肉でしかないだろう。
その日、久しぶりにぐっすりと眠る事が出来た。次の日は、外へ遊びに行った。少し、身だしなみも整えようと思った。本当に酷い格好をしていたのだ。
夜中、二人は船をどこか人目につかない場所へと運び出した。まばらに散った雲の間から、綺麗な三日月が見える。
「良い空だ……」
「絶好の航海日和、って所かしらね?」
二人の身体が、月明かりに照らされる。運動用の、動きやすい服装。前日に服屋を巡って、コーディネートした。ちゆりの服が少し海兵じみているのは、船と言う名前にかけているのだろうか。船の様な形は、一切していないと言うのに。
研究室は、整理して置いていた。テーブルの上には、手紙を残して。そこにはこう書いてある。このクソッタレな世界にさよならを。
私物は、全て整理した。彼女達の所持品は、本当に簡素な着替えと、身の回りの小さな小物のみ。家の中には何も入っていないし、そもそもこの一年、家になど殆ど帰らなかった。
船が、動き出す。景色を見納め、中に入っていく二人。感慨、喜び。たとえもう一度戻ってくる事が無くとも、悔いは無かった。轟音が空に鳴り響く。閃光と共に、この世界から一隻の船が、二人の人間が、消えた。
新天地、二人は何を思うのだろうか。でもきっと、彼女達は笑っている。自分達の認めたかったものが、そこにはあるのだから。
END
楽しませていただきました。
なるほどパラレルワールドってわけですね
友情事情読んだ後だと2度美味しい!
前日譚美味しいですw
まだあっさりしてるけど、淡々と進む感じが好き
ありがとう
雰囲気は抜群によかったです、ただ後書きでも仰ってましたがちっとばかしあっさりしすぎかな?
でも妄想の余地を残したと解釈して満点です