『時々見る事があるの。私がいくら手を伸ばしても、貴方の体を擦り抜けちゃう夢。そして貴方はさもかなしいような微笑みを浮かべるのに、私からゆっくりと離れ、そして最後は完全に消失しちゃうの。ねえ、私はとても怖い』
『どうしてそんな夢を怖がるのかしら? だってそんな事、あるはずがないのに。でも、そうね、もし私が消える日が来るというなら、私は貴方を一緒に連れて行ってあげる。ずっとずっといつまでも、隣にいてあげる。ひとりになんて、させはしないわ』
――握り合った手の平のあったかさとか、交わし合った接吻の柔らかさとか、勝手に流れてた涙のしょっぱさとか。
なまじ賢く育ってしまったものだから、記憶は嫌味なまでに鮮明で。
がたんごとんと、最終電車がすぐ隣を走り抜ける音が妙に耳に響いてきた。
それは現実の音だ。私が今立つ、この世界の音だ。
合成皮のブーツの底で、アスファルトを踏みしめた。
Platform/The train of lotus land ~私と彼女の、錆と鉄の境界~
コンクリ造りの、灰色したプラットホームは、かつて高度成長時代の象徴とか呼ばれたそれだ。
毎日毎日、駅構内から溢れかえるほどに大量の人々が、ここより各々の勤務先や学校へと発ったのだという。
何十万人分、何百万人分の、喜びやら感謝やら幸せやらを浴び続け、そしてそれ以上の諦観やら疲労やら自棄やらそんな感情を受け続け。
そんな数十年間を想起させるような、白線の黒ずんだタールの染み。レンガ壁の罅。赤錆びたレール。
しかし、ここが交通の巨大な血管を担ったのも、今は昔の話。
ヒロシゲが停車する新しい駅舎が近くに建設された今、新京都駅には、もはや文化財以上の価値がないのだという。
ホームに誂られた白と黒のアナログ時計が、その役割を終え、永い眠りについた日から既に久しい。
廃駅の深夜。
星空を見るに、丁度午前0時を回ったところらしい。
灯りを失った標識が、さみしげにここが4番ホームである事を教えてくれた。
今や日本第一の都市となった京都の中で、こんなに静かな場所があったのかと、びっくりするほどの静寂。
ひび割れた時刻表を横目に見ながら、私は青色の丸椅子に腰かける。懐からのラッキーストライクの箱を取り出す。最後の一本。マッチで火をつける。
ふうと、溜息のままに煙を吐き出した。あまりおいしくはない。
これは彼女がいなくなったあの時より吸い始めたものだ。もう数年の付き合いになる。
別に、特段自暴になったとか、そういうわけでもないのだけど。本当に何となく吸い始めたってのが真相なんだろう。
彼女……ああ、なつかしい思い出だ。
私には、親友がいたのだ。
大学に入学したその日に出会った。一緒になって、結界を暴くなんて不良サークルを結成した。
あんまり人に言えない、きもちわるい瞳を持つ者同士、心から信頼しあった。話せない事なんて、なにもなかった。……すくなくとも、私にとっては。
酒なら朝まで浴びるほど飲んでぶったおれてとか、ざらな私たちだったけど、煙草は嫌っていた……というか、彼女が好きでなかった。
『キスするときに、匂いが混じっちゃうわ』
そんな事をよく言っていたのを覚えている。
だから、ぷかぷかと煙を口から吐き出す私を見れば、きっと、彼女は眉をひそめるんだろう。
彼女お気に入りだった黒のハット帽。今はすっかりヤニの匂いが染みついている。
私は随分と変わった。そりゃそうだ。彼女が消えたあの日から、いったい何年が経ったと思っている?
大学を首席で卒業した。博士課程をクリアした。自分で理論を組み立てた研究が評価された。物理学会の若手ホープとか呼ばれ始めた最近じゃ、忙しくて酔っ払うまでお酒を飲むなんて事も滅多にできない。
灰皿を針鼠みたいにしながら、鉛筆握って、スーパーコンピューターとにらめっこして、莫大な数式相手に格闘する毎日だ。
満足してるかって? どうだろうね?
でも、少なくとも不満はないよ。やりたい事をやって、それだけで一生食べていける目星がついてる。それはきっと素晴らしい事だから。
……ああ、しかし。
ふと切なくなる事はもちろんある。ハチャメチャが過ぎた学生時代。
学問以上の存在が確かに存在した、あの時代だ。
専攻する分野の違う彼女……いや、物理学か、精神学か、そんなもので彼女と私の違いを決める事なんて出来ないのだろう。
彼女はいつだって私とは違った価値観を持っていた。そしてその価値観に忠実に行動をしていた。
私も、彼女からはそう見えていたのかもしれない。
きっと、そんな違う部分が面白かったから、私達はあんなにも仲良くなれたのだと思う。
無茶をしまくった毎日だった。どうでもいいような事で笑った。
今になって思えば、あのバイタリティーは私のどこから出ていたんだろうって、酷く不思議ではあるのだけど。
戻りたいかって? まさか。当時の青さは、今の私にとって眩しさが過ぎるから。
でも、今日くらいはいい事にしようか。楽しかったなぁって呟きながら、あの日々を冷笑以外の感情で振りかえる事を。
そう、だって、今日は特別な日なのだから。
ぽんぽんと煙草の灰を落とした。そしてまた咥え、昔を振りかえる。
でろんでろんに酔っ払って、次の朝の二日酔いに全力で目をつぶって、刹那が楽しければ全てよかったあの時代。
0時12分着の最終電車。新京都駅4番ホーム。8月の夜。
『ほら、メリー急いで! 終電来ちゃうわよ!』
『うへぇ……れんこぉ、もう無理、吐く、これ以上走ると吐く』
『あとちょっとだから頑張って』
『むりー、っていうかー、蓮子、ちょっとおっぱいおっきくなった?』
『え、まあ、そういや最近ブラがきついかなー……ってあんた! こんな時になに言ってるのよ!』
『いやいや、そのけしからん胸のふくらみが。ワンピースの隙間から見えそうで見えないその奥ゆかしさが、またとてもよろしい』
『ちょ、メリー何よその目付き。猛禽とか野獣とかそういうあれみたいな……』
『うふふ……私のニルヴァーナはここにあったぁ!』
『もうやだ! この酔っぱらい!』
ふっと、思わず笑いが漏れた。
なんとも馬鹿らしい思い出だ。しかし、彼女だからこその思い出だ。
これからの人生がどれだけ長くとも、きっと二度と彼女以上の友には出会えない。
マエリベリー・ハーンとは、私にとってそれほどの存在だったのだと思う。
紛れも無く変人だった彼女。そのハチャメチャさに振り回された毎日。しかし、今思えば酷く眩しい。
気がつけば、煙草は半分ほどまで短くなっていた。その先端の赤が、夜闇に妙に眩しかった。
ポケットの中。懐中時計の針が、静寂の中、こちこちと微かなリズムを刻む。
私はそれを取り出す事もなく。星空を見上げてそっと呟く。
「0時11分1秒、2秒、3秒……」
煙草はただ右の指に挟まっているだけ。これ以上吸える気分じゃなかった。ぼんやりと煙はくゆる。ぽろりと、灰が落ちた。
あの時、私達がホームへの階段を降り切ったのが、だいたいこの時間だった。
間に合ったと安堵する私。しかしメリーは、私に何にも言ってはくれなかった。
新京都駅4番ホーム。マエリベリー・ハーンは、私の隣から忽然と姿を消した。カツンカツンと、空っぽになったアルミのビール缶が階段を転がる音だけを残して。
つい先ほどまで、彼女が口を付けていたそれだ。今日はこれで最後にするからって、彼女が半ば強引にコンビニで買ったそれだ。
茫然と、私は側面の凹んだビール缶を眺めていた。
電車の到着を知らせるアナウンス。電車が接近する地響き。
余りに、唐突過ぎた別れだった。
「……31秒、32秒、33秒、34秒……」
彼女が消えた日より、私はその消失についてずっと考えてきた。
それに対する思考が、今では学者としての私のバックボーンとなっている。
しかし、いくら研究しようとも、彼女の消失の詳細は不明のままだった。
その答えを教えてくれたのは、昨日私のアパートに届いた、切手のない一枚の便箋だった。
二度と見る事ないと、そう思っていた差出人の名前を目にした時の、胸から溢れんばかりの感情は、ちょっと言葉にできるものではなかった。
動悸をこらえ、文字を指でなぞる。
見間違う事ない、彼女の癖字な日本語がそこにはあった。
「……45秒、46秒、47秒、48秒……」
彼女からの手紙を読みといた私は、妙な納得を抱いていた。
結論から言うなら、私達はきっと距離があり過ぎたのだ。
そう、距離だ。物理的な距離、常識の距離、幻想の距離。全てが遠過ぎた。
全てがあんまりにも離れすぎてしまったから、だから彼女は私の隣にいない。
……って、ああ。勘違いはしないで欲しい。
それでも私と彼女は親友だ。きっと、多分。
それは、そんな距離を悠然と踏破できるほど強い繋がりであったはず。
私は、それを確かめるため、ここへ来た。
「……57秒、58秒、59秒、0時12分ジャスト」
ホームの向こうが、輝きだした。今となっては、もうレールさえ存在していないその向こう。
まばゆくライトを照らし。車輪の重苦しい摩擦音と、ブレーキの甲高い音を響かせて、それはホームへ滑り込んできた。
瓦礫が崩れ、砂埃が舞っていた。
十秒程の間を開けて、真新しい8両編成の電車がゆっくりと停止する。
ぷしゅうと、空気が抜けるような音がして、扉が開く。
私は椅子より腰を上げる。
灯りのともる、よく一緒に肩を寄せ合って眠った、あの頃とまったく同じ車内。
紫色の珍妙な格好をした彼女は、あのとき見たよりも、ずっと大人びた笑顔を浮かべて、そこにいた。
「10秒遅刻だわ。メリー」
「あら、手厳しい。誤差の範囲でなくて?」
あんまりにも懐かしいこのやり取りが、自然にできた事に感謝したい。
いつもは、遅刻してくるのは私の方だったけれども……。
数年の時を隔てて再会したメリーは、表情こそ違うけど、やっぱりぱっと見ただけで分かる変人で。
あの頃みたいな純然たる友情と信頼を私に向けていた。
彼女の人懐っこい声色。今だってそうだ。まったくもって変わっていない。
それに比べて、タールにやられた、私の掠れた喉!
私は、笑う事が出来なかった。眩し過ぎて、思わず目をそらした。
握り締めた手のひらの内側で、煙草がじゅっと微かに音をたて、皮膚を焼いた。突き刺さるような痛みがした。
そんなに苦痛じゃないのかもね。
あとどうでもいい話ですが、煙草吸う女性って格好いいですよねw
蓮子の心を思うとたまんないです。
良作!
きちんと永遠の別れを告げるために再会したのであれば、心待ちにしていた蓮子のことを思うとなんともやるせない気持ちになります。
昔はまったく同じだと思ってたものが、時間と共にちょっとずつレールが別れていって
今はそれぞれの道にただ感慨をはせるだけ、でもシンパシーは感じる、みたいな
ついでに俺も昔ラッキーストライク吸ってたの思い出した
あの、いかにも粗野で、焚き火の煙みたいに乾いてるのに暖かみのある味が好きだった
蓮子にとっては良かったのかな?
この後の妄想や空想や想像がとまらない。
そう妄想してしまってもいいのだろう?
ああ、ちゅっちゅだ!
夢じゃないって確かめたかったのでしょうか。
幻想的な一風景でした。