竹林の中に、一本だけぽつんと生えたその木は、見事な花を咲かせていた。
梅の花である。辺りには、春を告げるような馥郁たる香りが立ち上っている。
花の色は、紫がかった赤。花びらも、未だ訪れぬ春を待ち侘びるように、しっかりと開き切っている。
その鮮やかな色に引き寄せられるように、散歩を楽しんでいた彼女は、思わず歩みを止めていた。
「……へえ」
「どうした?妹紅」
「いや、綺麗だなと思ってさ」
もう、こんな時期なんだ―――そう言って、妹紅は慧音に向かい合うと、一厘の花を指差す。
慧音は、妹紅の指差した先を見ると「ああ」と一声上げ、その表情を綻ばせた。
「梅だな。たしかに、綺麗に咲いているな」
「うん。最近、暖かくなってきたと思ったら」
「春が来るんだなあ」
「早いもんだよね。毎年言ってる気がするけど」
妹紅は、そう言って小さく微笑んだ。
季節の移り変わりというのは、本当に早いものだ。特に、幾年にも渡る歳月を過ごしてきた彼女は、余計にそう感じていた。
思えば、今年も既に新年が始まりバタバタと忙しない一月、12ヶ月で最も短い二月を終え、早くも三月を迎えているのだ。
当然三月も年度末ということで非常に忙しいし、四月は年度初めである。様々な場所で新しい生活が始まり、加えて催し事も多く、まさに大わらわだ。
そうこうしている内に、一年の3分の1は終わってしまう。
そう考えれば、時の流れがいかに早いか、よく分かるというものだろう。
「一月は行く、二月は逃げる、三月は去る、なんて言い方をしたりするな。それでもう、残り九ヶ月」
「そうこうしている内に、年末になって、お蕎麦食べてたりして」
「光陰矢の如し、か……よく言ったものだなあ」
他愛無いことを話しつつ、二人は改めて、梅の木を見上げる。
『紅梅の 紅の通へる 幹ならん』という俳句に表される通り、人間と同じように、赤い血のような液体が流れているだろう、その梅の木。
堂々たる大木はしかし、表面に、長く生きたであろう事を感じさせる傷を、びっしりと纏わせている。
その姿はまるで、皺くちゃになりながらも矍鑠とした、老人のような趣を感じさせる。
だが、当然のことながら、木は二人に何か話しかけるような事も無く、悠然とその場へ立っているだけであった。
どっしりと太く構えた、物言わぬ幹を見ながら、慧音は思う。
(本当に、見事な木だが……「光陰」と言えば、この木はいつごろからここにあるのだろう。少なくとも、樹齢100年は越えていそうだが)
梅と日本の歴史には、意外なほどの関わりがある。
例えば奈良時代以前に「花」と言えば、それは即ち梅を指すことが多かったし、梅の花を象った家紋も多い。
梅の実が熟す頃に降る雨を「梅雨」と呼ぶのは有名だろう。それだけ、梅は日本人にとって身近な存在なのだ。
少なくとも自分より長生きであろうこの梅の木は、その長い命の中で、果たしてどれだけの歴史を見てきたのだろうか―。
歴史を扱う教師としての本能からか、そんなことを考えだす慧音。
すると、そんな慧音に向かって、妹紅はふと思い出したかのように言った。
「そういえばさ、梅には『春告草』っていう別名もあるんだって」
「ほう。『春告鳥』がうぐいすだというのは知っていたが」
「ああ、『梅にうぐいす』なんて言うね。春を告げるもの同士、相性がいいのかも」
「案外、そういうものかもしれないな」
取り合わせの良いもののことを例えて「梅にうぐいす」と言う事がある。
つまりは互いにお似合いのものということであり、幻想郷風に言うならば、庭師に刀、巫女に御札、魔女に本といったところか。
なるほど、御札を構える巫女の姿がこれ以上ないほど似合うように、この綺麗な花へ向かってうぐいすが飛んでくれば、さぞかし様になるだろう。
(しかし、巫女に御札はたしかに似合うが……単に恐ろしいだけという気がしないでもないな)
自らの想像した巫女の姿に苦笑しつつ、慧音がそんなことを考えていると、妹紅は笑顔を浮かべながら言った。
「私と慧音も、梅にうぐいすと同じくらい相性バッチリだよね?」
「な!?」
「『梅にうぐいす』って、ものに限らず、人や妖怪同士の相性の良さを表すのにも使うからさ。違う?」
ニヤニヤとしながら言う妹紅に対し、顔を真っ赤にしてしまう慧音。
その姿は、普段の冷静な様子からはとても考えられないほどである。
二人が付き合い始めて既に数年が経過しようとしているが、昔から慧音のこういった点は、一切変わっていないのだ。
妹紅も、初めから慧音がこうなると分かっていてからかったようで、ケラケラと声を上げて笑っている。
「ああもう、慧音、可愛すぎるよ!」
「む、むう……」
「いい加減、子供じゃないんだからさあ。これぐらいでそんな真っ赤になるのもどうかと思うよ?」
「わ、分かってはいるが」
当分無理だろうな、と慧音は考える。
何しろ、彼女は今までに、恋心を抱いたのもお付き合いをしたのも、妹紅ただ一人なのだ。
しかも、根っからの純情派である。恋愛事については、彼女はむしろ人から教わる立場にいるといっていい。
これでは、まだまだ初心な点があっても仕方がないだろう。
赤い顔のまま俯きつつ、今後どうやって仕返ししてやろうか、などと考えている慧音。
そんなことなどつゆ知らず、妹紅はひとしきり笑い終えると、一面に生える竹を見ながら言った。
「ねえ、慧音。梅の花も綺麗だけどさ。私が去年見た竹の花も綺麗だったんだよ」
「ほう、竹に花が咲いたのか?それは、珍しいものを見たな」
「うんうん!だから、今年は慧音と一緒に見ようと思って」
竹林を指差しながら、妹紅はそう声をあげる。
わくわくとした表情を浮かべながら、心から楽しそうな声で「一年経ったから、やっと見られるよ」と言う妹紅。
彼女の頭の中には、去年たまたま見つけた竹の花の映像が、鮮明に思い出されていた。
折り合いが悪く、残念ながら去年は慧音と一緒に見る機会に恵まれなかったが、今年こそは二人であの花を見よう。
妹紅の声からは、はっきりとそんな期待が窺われた。
(妹紅……成長したものだ)
慧音は、先程の彼女の言葉を聞いて、そんなことを思う。
何しろ、ほんの数年前まで、妹紅は竹林で、ただただ孤独に暮らしていたのだから。
輝夜への復讐に疲れきり、生きる意義を見失っていた妹紅。当時は、とてもではないが、人と一緒に何かをするなんて、考えられない状態だった。
そんな妹紅が今は、例え時間をかけてでも、誰かと何かを共有したいと考えるまでになったのだ。
これを、成長と言わずに何と言おうか。
(……だが、あの花は)
慧音は、楽しそうに笑う妹紅に向かい、首を横に振りながら言った。
「『珍しい』と言っただろう?竹は、本来滅多に花が咲くものじゃないんだ」
「そうなの?……じゃあ、まだ何年か待たないと駄目ってこと?」
「ああ。あまりに珍しいから、竹の花が咲くのはむしろ不吉だ、とまで言われているしな」
慧音の言葉に、妹紅の表情は一転して、残念そうなものになる。
無理もない。ただでさえ、既に一年慧音と花を一緒に見られる日を待っているというのに、この上更に数年待たなければならないと告げられたのだ。
これでは、誰だって落ち込まざるをえないだろう。
妹紅も例外ではなく、ショックを隠しきれない様子で俯いてしまった。
(さて、何と言ってやるべきか)
すっかり落ち込んだ様子の妹紅に向かって、どう声をかけるべきか考える慧音。
下手な慰めは、却って相手を傷つける。彼女はそれを分かっているだけに、言葉選びには慎重にならざるを得なかった。
悩む慧音と落ち込む妹紅。少しの間、気まずい沈黙が、その場を支配する。
しかし、妹紅はすぐに気を取り直した様子で、慧音に向かって言った。
「でも、逆に言えば、何年か待てば見られるんだよね?」
「……そうだな」
「だったら、待つよ。不吉だなんて信じられないくらい綺麗だったからさ、絶対もう一度見たいよ」
だから、慧音も一緒に待っててくれるよね?と言う妹紅の言葉を聞き、慧音はほっとしたように「ああ、勿論」と言いながら、微笑みを浮かべる。
妹紅もそんな慧音に向かって笑いかけると「じゃあ、そろそろ帰ろうか」と声をかけた。
慧音は一言「ん、そうしよう」と言って頷くと、妹紅と共に帰路へとつくのだった。
――― 一般に竹の花が咲くのは、60年に一度程と言われている。種類によっては、120年に一度というものもあるくらいだ。
これでは、不吉だ何だと言われても仕方がないだろう。見かける頻度が、他の花と比べて圧倒的に少なすぎるからだ。
妹紅が「去年花を見た」と言っていたから、次に見るには、どんなに早くてもあと59年待たなくてはならない。
(59年か)
言葉にするのは簡単だが、決して短いものではない。
慧音は、半妖であるが故に、ただの人よりは幾分寿命が長い。もしこの先何事もなければ、59年後にはまだ普通に生きているだろう。
だが、そうは言っても年月が年月である。
半妖であると同時に半人でもある慧音が、それまでに死なないという保証は何処にもないのだ。
それに、竹の花が確実に59年後に咲いてくれるとも限らない。もし、妹紅が去年、120年に一度の幸運に恵まれたのだとしたら。
(果たして、私は生きてそれを見られるだろうか)
のんびりと鼻歌などを歌いつつ隣を歩く蓬莱人を見ながら、慧音は考える。
いずれ、自分は間違いなく彼女の前から姿を消す。遅かれ早かれ、その日は必ずやって来る。
彼女は、竹の花をいつまでだって待てるだろう。だが、自分はそういう訳にも行かない。
(私だって、妹紅と一緒にその花を見てみたいものだが)
どうにもならない、どうすることもできない問題。そう分かりつつも考え込んでしまい、難しい表情を浮かべる慧音。
すると、その様子を見た妹紅が、思わず少し心配そうな表情を浮かべながら声をかける。
「どうしたのさ?また、何か難しい事考えてるの?」
「いや、そういうわけでもないが……」
「ふうん」
その、いまいち歯切れの悪い慧音の言葉を聞いた妹紅は、若干面白くなさそうな顔をする。
彼女は、慧音が嘘をついているとき、言葉尻がはっきりしなくなるのを知っているからだ。
慧音も、既に自分の嘘がばれていると気付いているのだろう。妹紅と目を合わせられず、あらぬ方を向きながら歩いている。
そんな様子を見かねたかのように、妹紅はため息を一つつくと、慧音に向かって話し出した。
「ねえ、慧音。去年の春の事、覚えてる?」
「去年の事か?ああ、覚えているぞ。二人で、神社のひな祭り宴会に参加したな」
「そうそう。周りは妖怪ばっかりでさ、少女と言って良い様な年齢の子って、霊夢と魔理沙と早苗ぐらいしかいなかった」
「まあ、あそこに集まる連中は、酒さえあればいいというようなところがあるからなあ」
去年を振り返って苦笑をもらしながら、そう言う慧音。
彼女がそんな表情を浮かべるのも、無理もない話である。
去年のひな祭りに行われた宴会は、もはや宴会がメインになってしまって、雛人形も何もほったらかしになっていたからだ。
ひどいものになると、人形の首が取れていたりして、慧音は誰か祟られやしないかと、人事ながら心配したものである。
祟られたところで、自力で何とかしそうなのが、幻想郷の住民でもあるが。
まあ、こうやって、催し事が最終的に宴会となってしまうのも、一種必然なのかもしれない。とかく、幻想郷には酒好きが多いのだから。
冗談抜きに、酒さえ飲めれば何でもいいというのは、幻想郷に住む者たちの特徴の一つといって良いだろう。
ただ、それにしたって、甘酒だけでよくあそこまで盛り上がれるものだと、二人は感心したものだが。
慧音がそんなことを思い出していると、妹紅は屈託のない笑みを浮かべながら言った。
「今年も、あいつらひな祭りにかこつけて、宴会やるみたいだよ。バカみたいに大勢、人やら妖怪やら集めてさ」
「……そうか。それは大変な事になりそうだな」
「うん。そうなんだよ」
妹紅はそこで一旦言葉を切ると、慧音の表情を窺いながら、続ける。
「大変だけど、面白そうでしょ?去年も途中で喧嘩や弾幕ごっこが始まって、大騒ぎになったけどさ」
「ああ。一々それを止めるのが、また一苦労だった」
「そうだったね。だからさ、私たちも、また神社まで二人で行って来ようよ。あいつらだけじゃ、何しでかすか分かったもんじゃないでしょ?」
にっこりと、「何も心配はいらないよ」と言わんばかりの笑顔で、そう言う妹紅。
そんな妹紅を見て、慧音は、自分が大切な事を見落としていた事に気付く。
(59年なんて、そんな先のことばかり気にしていてどうすると言うんだ。それよりも、「今」を妹紅とどれだけ一緒に過ごせるか。こっちの方が、よっぽど大事じゃないか)
未来の事など、例えたったの一日先だって、何が起こるか分からない。何処かの吸血鬼じゃあるまいし、良いも悪いも、そのときまでは見えないのだ。
そうだとすれば、大事なのは共にこうしていられるこの瞬間ではないか。
「……妹紅」
「何?」
「……私は、つまらんことをうだうだと考えすぎていたようだ。すまなかったな」
「別にいいよ。慧音のそういう真面目なところ、私好きだし」
「……」
さらりと言われ、恥ずかしそうに俯く慧音。その顔は、またも真っ赤に染まっている。
その様子を見て、妹紅は(慧音、さっきの梅の花みたいだなあ)などと思うのだった。
梅は咲いたが、桜はまだか。
リリーホワイトの訪れは、明日か明後日か一週間後か。
しかしいずれにせよ、長かった冬は、もう間もなく終わりを告げる。
春は、もう目前である。
梅の花である。辺りには、春を告げるような馥郁たる香りが立ち上っている。
花の色は、紫がかった赤。花びらも、未だ訪れぬ春を待ち侘びるように、しっかりと開き切っている。
その鮮やかな色に引き寄せられるように、散歩を楽しんでいた彼女は、思わず歩みを止めていた。
「……へえ」
「どうした?妹紅」
「いや、綺麗だなと思ってさ」
もう、こんな時期なんだ―――そう言って、妹紅は慧音に向かい合うと、一厘の花を指差す。
慧音は、妹紅の指差した先を見ると「ああ」と一声上げ、その表情を綻ばせた。
「梅だな。たしかに、綺麗に咲いているな」
「うん。最近、暖かくなってきたと思ったら」
「春が来るんだなあ」
「早いもんだよね。毎年言ってる気がするけど」
妹紅は、そう言って小さく微笑んだ。
季節の移り変わりというのは、本当に早いものだ。特に、幾年にも渡る歳月を過ごしてきた彼女は、余計にそう感じていた。
思えば、今年も既に新年が始まりバタバタと忙しない一月、12ヶ月で最も短い二月を終え、早くも三月を迎えているのだ。
当然三月も年度末ということで非常に忙しいし、四月は年度初めである。様々な場所で新しい生活が始まり、加えて催し事も多く、まさに大わらわだ。
そうこうしている内に、一年の3分の1は終わってしまう。
そう考えれば、時の流れがいかに早いか、よく分かるというものだろう。
「一月は行く、二月は逃げる、三月は去る、なんて言い方をしたりするな。それでもう、残り九ヶ月」
「そうこうしている内に、年末になって、お蕎麦食べてたりして」
「光陰矢の如し、か……よく言ったものだなあ」
他愛無いことを話しつつ、二人は改めて、梅の木を見上げる。
『紅梅の 紅の通へる 幹ならん』という俳句に表される通り、人間と同じように、赤い血のような液体が流れているだろう、その梅の木。
堂々たる大木はしかし、表面に、長く生きたであろう事を感じさせる傷を、びっしりと纏わせている。
その姿はまるで、皺くちゃになりながらも矍鑠とした、老人のような趣を感じさせる。
だが、当然のことながら、木は二人に何か話しかけるような事も無く、悠然とその場へ立っているだけであった。
どっしりと太く構えた、物言わぬ幹を見ながら、慧音は思う。
(本当に、見事な木だが……「光陰」と言えば、この木はいつごろからここにあるのだろう。少なくとも、樹齢100年は越えていそうだが)
梅と日本の歴史には、意外なほどの関わりがある。
例えば奈良時代以前に「花」と言えば、それは即ち梅を指すことが多かったし、梅の花を象った家紋も多い。
梅の実が熟す頃に降る雨を「梅雨」と呼ぶのは有名だろう。それだけ、梅は日本人にとって身近な存在なのだ。
少なくとも自分より長生きであろうこの梅の木は、その長い命の中で、果たしてどれだけの歴史を見てきたのだろうか―。
歴史を扱う教師としての本能からか、そんなことを考えだす慧音。
すると、そんな慧音に向かって、妹紅はふと思い出したかのように言った。
「そういえばさ、梅には『春告草』っていう別名もあるんだって」
「ほう。『春告鳥』がうぐいすだというのは知っていたが」
「ああ、『梅にうぐいす』なんて言うね。春を告げるもの同士、相性がいいのかも」
「案外、そういうものかもしれないな」
取り合わせの良いもののことを例えて「梅にうぐいす」と言う事がある。
つまりは互いにお似合いのものということであり、幻想郷風に言うならば、庭師に刀、巫女に御札、魔女に本といったところか。
なるほど、御札を構える巫女の姿がこれ以上ないほど似合うように、この綺麗な花へ向かってうぐいすが飛んでくれば、さぞかし様になるだろう。
(しかし、巫女に御札はたしかに似合うが……単に恐ろしいだけという気がしないでもないな)
自らの想像した巫女の姿に苦笑しつつ、慧音がそんなことを考えていると、妹紅は笑顔を浮かべながら言った。
「私と慧音も、梅にうぐいすと同じくらい相性バッチリだよね?」
「な!?」
「『梅にうぐいす』って、ものに限らず、人や妖怪同士の相性の良さを表すのにも使うからさ。違う?」
ニヤニヤとしながら言う妹紅に対し、顔を真っ赤にしてしまう慧音。
その姿は、普段の冷静な様子からはとても考えられないほどである。
二人が付き合い始めて既に数年が経過しようとしているが、昔から慧音のこういった点は、一切変わっていないのだ。
妹紅も、初めから慧音がこうなると分かっていてからかったようで、ケラケラと声を上げて笑っている。
「ああもう、慧音、可愛すぎるよ!」
「む、むう……」
「いい加減、子供じゃないんだからさあ。これぐらいでそんな真っ赤になるのもどうかと思うよ?」
「わ、分かってはいるが」
当分無理だろうな、と慧音は考える。
何しろ、彼女は今までに、恋心を抱いたのもお付き合いをしたのも、妹紅ただ一人なのだ。
しかも、根っからの純情派である。恋愛事については、彼女はむしろ人から教わる立場にいるといっていい。
これでは、まだまだ初心な点があっても仕方がないだろう。
赤い顔のまま俯きつつ、今後どうやって仕返ししてやろうか、などと考えている慧音。
そんなことなどつゆ知らず、妹紅はひとしきり笑い終えると、一面に生える竹を見ながら言った。
「ねえ、慧音。梅の花も綺麗だけどさ。私が去年見た竹の花も綺麗だったんだよ」
「ほう、竹に花が咲いたのか?それは、珍しいものを見たな」
「うんうん!だから、今年は慧音と一緒に見ようと思って」
竹林を指差しながら、妹紅はそう声をあげる。
わくわくとした表情を浮かべながら、心から楽しそうな声で「一年経ったから、やっと見られるよ」と言う妹紅。
彼女の頭の中には、去年たまたま見つけた竹の花の映像が、鮮明に思い出されていた。
折り合いが悪く、残念ながら去年は慧音と一緒に見る機会に恵まれなかったが、今年こそは二人であの花を見よう。
妹紅の声からは、はっきりとそんな期待が窺われた。
(妹紅……成長したものだ)
慧音は、先程の彼女の言葉を聞いて、そんなことを思う。
何しろ、ほんの数年前まで、妹紅は竹林で、ただただ孤独に暮らしていたのだから。
輝夜への復讐に疲れきり、生きる意義を見失っていた妹紅。当時は、とてもではないが、人と一緒に何かをするなんて、考えられない状態だった。
そんな妹紅が今は、例え時間をかけてでも、誰かと何かを共有したいと考えるまでになったのだ。
これを、成長と言わずに何と言おうか。
(……だが、あの花は)
慧音は、楽しそうに笑う妹紅に向かい、首を横に振りながら言った。
「『珍しい』と言っただろう?竹は、本来滅多に花が咲くものじゃないんだ」
「そうなの?……じゃあ、まだ何年か待たないと駄目ってこと?」
「ああ。あまりに珍しいから、竹の花が咲くのはむしろ不吉だ、とまで言われているしな」
慧音の言葉に、妹紅の表情は一転して、残念そうなものになる。
無理もない。ただでさえ、既に一年慧音と花を一緒に見られる日を待っているというのに、この上更に数年待たなければならないと告げられたのだ。
これでは、誰だって落ち込まざるをえないだろう。
妹紅も例外ではなく、ショックを隠しきれない様子で俯いてしまった。
(さて、何と言ってやるべきか)
すっかり落ち込んだ様子の妹紅に向かって、どう声をかけるべきか考える慧音。
下手な慰めは、却って相手を傷つける。彼女はそれを分かっているだけに、言葉選びには慎重にならざるを得なかった。
悩む慧音と落ち込む妹紅。少しの間、気まずい沈黙が、その場を支配する。
しかし、妹紅はすぐに気を取り直した様子で、慧音に向かって言った。
「でも、逆に言えば、何年か待てば見られるんだよね?」
「……そうだな」
「だったら、待つよ。不吉だなんて信じられないくらい綺麗だったからさ、絶対もう一度見たいよ」
だから、慧音も一緒に待っててくれるよね?と言う妹紅の言葉を聞き、慧音はほっとしたように「ああ、勿論」と言いながら、微笑みを浮かべる。
妹紅もそんな慧音に向かって笑いかけると「じゃあ、そろそろ帰ろうか」と声をかけた。
慧音は一言「ん、そうしよう」と言って頷くと、妹紅と共に帰路へとつくのだった。
――― 一般に竹の花が咲くのは、60年に一度程と言われている。種類によっては、120年に一度というものもあるくらいだ。
これでは、不吉だ何だと言われても仕方がないだろう。見かける頻度が、他の花と比べて圧倒的に少なすぎるからだ。
妹紅が「去年花を見た」と言っていたから、次に見るには、どんなに早くてもあと59年待たなくてはならない。
(59年か)
言葉にするのは簡単だが、決して短いものではない。
慧音は、半妖であるが故に、ただの人よりは幾分寿命が長い。もしこの先何事もなければ、59年後にはまだ普通に生きているだろう。
だが、そうは言っても年月が年月である。
半妖であると同時に半人でもある慧音が、それまでに死なないという保証は何処にもないのだ。
それに、竹の花が確実に59年後に咲いてくれるとも限らない。もし、妹紅が去年、120年に一度の幸運に恵まれたのだとしたら。
(果たして、私は生きてそれを見られるだろうか)
のんびりと鼻歌などを歌いつつ隣を歩く蓬莱人を見ながら、慧音は考える。
いずれ、自分は間違いなく彼女の前から姿を消す。遅かれ早かれ、その日は必ずやって来る。
彼女は、竹の花をいつまでだって待てるだろう。だが、自分はそういう訳にも行かない。
(私だって、妹紅と一緒にその花を見てみたいものだが)
どうにもならない、どうすることもできない問題。そう分かりつつも考え込んでしまい、難しい表情を浮かべる慧音。
すると、その様子を見た妹紅が、思わず少し心配そうな表情を浮かべながら声をかける。
「どうしたのさ?また、何か難しい事考えてるの?」
「いや、そういうわけでもないが……」
「ふうん」
その、いまいち歯切れの悪い慧音の言葉を聞いた妹紅は、若干面白くなさそうな顔をする。
彼女は、慧音が嘘をついているとき、言葉尻がはっきりしなくなるのを知っているからだ。
慧音も、既に自分の嘘がばれていると気付いているのだろう。妹紅と目を合わせられず、あらぬ方を向きながら歩いている。
そんな様子を見かねたかのように、妹紅はため息を一つつくと、慧音に向かって話し出した。
「ねえ、慧音。去年の春の事、覚えてる?」
「去年の事か?ああ、覚えているぞ。二人で、神社のひな祭り宴会に参加したな」
「そうそう。周りは妖怪ばっかりでさ、少女と言って良い様な年齢の子って、霊夢と魔理沙と早苗ぐらいしかいなかった」
「まあ、あそこに集まる連中は、酒さえあればいいというようなところがあるからなあ」
去年を振り返って苦笑をもらしながら、そう言う慧音。
彼女がそんな表情を浮かべるのも、無理もない話である。
去年のひな祭りに行われた宴会は、もはや宴会がメインになってしまって、雛人形も何もほったらかしになっていたからだ。
ひどいものになると、人形の首が取れていたりして、慧音は誰か祟られやしないかと、人事ながら心配したものである。
祟られたところで、自力で何とかしそうなのが、幻想郷の住民でもあるが。
まあ、こうやって、催し事が最終的に宴会となってしまうのも、一種必然なのかもしれない。とかく、幻想郷には酒好きが多いのだから。
冗談抜きに、酒さえ飲めれば何でもいいというのは、幻想郷に住む者たちの特徴の一つといって良いだろう。
ただ、それにしたって、甘酒だけでよくあそこまで盛り上がれるものだと、二人は感心したものだが。
慧音がそんなことを思い出していると、妹紅は屈託のない笑みを浮かべながら言った。
「今年も、あいつらひな祭りにかこつけて、宴会やるみたいだよ。バカみたいに大勢、人やら妖怪やら集めてさ」
「……そうか。それは大変な事になりそうだな」
「うん。そうなんだよ」
妹紅はそこで一旦言葉を切ると、慧音の表情を窺いながら、続ける。
「大変だけど、面白そうでしょ?去年も途中で喧嘩や弾幕ごっこが始まって、大騒ぎになったけどさ」
「ああ。一々それを止めるのが、また一苦労だった」
「そうだったね。だからさ、私たちも、また神社まで二人で行って来ようよ。あいつらだけじゃ、何しでかすか分かったもんじゃないでしょ?」
にっこりと、「何も心配はいらないよ」と言わんばかりの笑顔で、そう言う妹紅。
そんな妹紅を見て、慧音は、自分が大切な事を見落としていた事に気付く。
(59年なんて、そんな先のことばかり気にしていてどうすると言うんだ。それよりも、「今」を妹紅とどれだけ一緒に過ごせるか。こっちの方が、よっぽど大事じゃないか)
未来の事など、例えたったの一日先だって、何が起こるか分からない。何処かの吸血鬼じゃあるまいし、良いも悪いも、そのときまでは見えないのだ。
そうだとすれば、大事なのは共にこうしていられるこの瞬間ではないか。
「……妹紅」
「何?」
「……私は、つまらんことをうだうだと考えすぎていたようだ。すまなかったな」
「別にいいよ。慧音のそういう真面目なところ、私好きだし」
「……」
さらりと言われ、恥ずかしそうに俯く慧音。その顔は、またも真っ赤に染まっている。
その様子を見て、妹紅は(慧音、さっきの梅の花みたいだなあ)などと思うのだった。
梅は咲いたが、桜はまだか。
リリーホワイトの訪れは、明日か明後日か一週間後か。
しかしいずれにせよ、長かった冬は、もう間もなく終わりを告げる。
春は、もう目前である。
個人的にはあまり好みに合わないのでこの点で。
慧音の照れがまだ少女の面影を見せているかな、と。
全体的に落ち着いた雰囲気でよかったと思いますが、
似たような話も多いのでもうひと癖欲しいなと思ったのが正直な感想です。
竹は枯れる直前に花が咲くみたいですので、次に花が咲くまで一緒に生きて居られるかと思うよりも、二人で一緒に花を見てしまうことでこの関係もいつの日か終わりが来てしまうのかと思い起こされるのが怖いと思うのです。
だから慧音は妹紅と一緒に花を見ることに躊躇いがあったのかもしれません。
梅に鶯。けーねにもこー。この関係は完璧です。代わりになる様なものは他には考えられません。