田畑と雑木林をよくかき混ぜ、少々の住居をスパイスとして降りかける。あとは緑一色に染まった山に流し込むだけ。
これで田舎というスープの完成だ。
そんな素朴な味のする風景の中を、ほんのわずかな人間と大量の空気を乗せた列車が走っている。
「詐欺だわ」
数少ない乗客のうちの一人がどこか不満そうに口を開いた。
その様子に、ボックスシートの反対側に座っていた相棒がニヤリと唇の端を吊り上げる。
「残念ながら詐欺じゃないんだなぁ。行政区域上はまだ東京なのよ、ここは」
「東京と聞いて連想するものは何だと思う? 天を突くような高層建築物。風情あふれる下町。断じて田園風景ではないわ」
「固定観念がいかに恐ろしいものなのか身をもって体験できたでしょう、メリー?」
メリーと呼ばれた少女は返事もせずに視線を窓の外に戻してしまう。
相棒は肩をすくめ、自身にとっても久しぶりの故郷を堪能することにした。
この東京出身の少女は宇佐見蓮子。普段はメリーことマエリベリー・ハーンと共に京都の大学に通っているが、現在は長期休暇に突入したので学業からは解放されている。
蓮子が帰省計画を立てているところに、まだ東京へ行ったことがなかったメリーが割り込んできたことが、そもそもの始まりであった。
「田舎が嫌いなわけじゃないわ」
怒りが収まってきたのか、メリーは外の風景に謝罪するかのようにボソリとつぶやく。
決して蓮子に謝っているのではない。
「でもね、ちょっとは夢見たっていいじゃない。都心の摩天楼。センター街のきらめき。一億円の夜景……」
「はいはい。明日はメリーさんのお望みどおり“東京”へ遊びに行きましょう。次で降りるから準備して」
蓮子は嬉々として、メリーはため息をついて、各々の荷物をまとめた。少女の旅は何かと持っていく物が多いのだ。
減速する電車の中を、重い荷物を両手にえっちらおっちらドアの前まで移動する。
到着した途端に自動ドアが開き、暑く湿った空気にモフッと抱きしめられる。せめて避暑地と思えるくらい涼しければ、というメリーの儚い望みは絶たれた。温暖化の魔手には都会も田舎も関係ないらしい。
「ようこそ、私の故郷へ」
ホームへ降りると蓮子は慇懃に頭を下げ、異邦人を歓迎する。
「お邪魔させていただきますわ」
その芝居がかったしぐさに対して、メリーはせいぜいお上品に応えるように努める。
この駅で下車したのは彼女たちだけだった。まごうことなき田舎駅である。
「都心に魅力が満ちていることは否定しないわ。だけど、東京の西果てであるこの地にも、たくさんの魅力があることを知って欲しいわね、シティーガールさん?」
「豊かな自然以外に何が魅力的なのかしら、カントリーガールさん?」
錆びついたベンチの横を通り過ぎ、誰もいないホームを進む。
二人の口と足取りこそ軽いものの、額からはもう汗がにじみ出ていた。
「私たちにぴったりのスポットばかりなんだから。ええとね、いにしえから続く寺社や縄文時代の遺跡、町中に点在する廃墟群。あとは、謎多き小学校とか」
「いまいち押しが弱いものばかりね。遺跡はインディー・ジョーンズに任せるとして、寺社や廃墟はありきたりだし、小学校なんかそれこそ教科書通りの七不思議しかないんじゃない?」
「ふふん、義務教育機関を侮るなかれ。聞いて驚きなさい。母校最大の謎、それは……」
「校長先生の髪が実はカツラ」
「大はずれ……というか話の腰を折らないの。母校最大の謎はね、“学校にはお宝が眠っている”なのよ」
蓮子の顔が輝いて見えるのは汗の仕業だけではないだろう。
「お宝とは大きく出たわね。子どもは町の宝、なんてオチだったりして」
「そんなベタな話だったらとっくに忘れられてるって。この謎は今日昨日にわいてきたんじゃなくて、もう何代も前の世代から脈々と語り継がれている由緒正しい謎なんだから。私が二年生くらいのときは、放課後になるたびに何人かとつるんで宝探しをやったものよ」
乗車カードに対応してないばかりか、自動改札口さえ存在しない駅舎を抜けると、そこにはかつて商店街だったものが広がっていた。
どの店もシャッターを下ろしてだんまり。
人の気配はすれども姿はほとんどなく、無人の野原よりも静かに感じる。
「結局何も発見できなかったんでしょ?」
「ま、その通りなんだけどね。宝が出てこなかったからこそ、次の世代の夢も膨らむわけで……あ、母さん!」
蓮子がバッグを持った手を勢いよく振った先に、駅の駐車場に止まった軽自動車とその隣に立つ女性が見えた。
娘のボーイッシュな雰囲気は母親譲りのようだ。
「ただいま!」
「おかえり、蓮子。そちらはお友達の……」
メリーは宝の謎をひとまず脇へ追いやり、脳内を戦闘体制へ移行する。
なにせ東京旅行の宿泊先が天国になるか地獄になるかは、ひとえにこの第一印象にかかっている。俄然、力が入るというものだ。
「はじめまして、マエリベリー・ハーンと申します」
「マ、マリーン……」
マエリベリーが上手く発音できないのも同じ、などと思ってもさすがに口にはしない。代わりに出したのは特上の笑顔と生八ツ橋の折り詰めだった。
「よろしければメリーと呼んでください。友人からはそう呼ばれることが多いですから。あと、つまらないもので申し訳ありませんが……」
「あらま。別にいいのに」
「いえいえ、泊めていただく身ですのでこれくらいは当然です」
メリーは菓子折りを渡しながら、心の中で友人に感謝した。京都駅の売店で何を買っていくか迷っていたとき、宇佐見家の最高権力者の好みをそっと教えてくれたのである。
おかげでファーストコンタクトは成功裏に終えることができそうだ。
「ああそうそう。蓮子に悪いニュースがあるのよ」
一通りの社交辞令を終えたところで、蓮子ママは娘に声をかけた。悪いニュースにしては口調が明るかったが、それでも緩んでいたメリーの口元を引き締めるのには十分だった。
荷物を車に積み込んでいた蓮子の手が止まる。
「じいさまが腰を痛めたから墓掃除を手伝え、とか?」
「墓掃除はおじいちゃんに関係なく手伝ってもらうから覚悟しておいて。まあ、ニュースも悪いほどじゃないんだけど、今度小学校がなくなるらしいのよ。生徒が減ったせいで」
「うそ、小学校って……」
「この町に小学校は一つしかないじゃない」
蓮子のバッグがドサリと音を立てて、焼けたアスファルトに落ちた。
「まーったく。廃校やらお別れ会の日程が分かってたなら、もっと早く連絡して欲しいよね。帰省してから伝えるなんて不親切だと思わない?」
「大学生にもなるとそれくらいが普通じゃないの」
「そりゃそうだけどさぁ」
じりじりと太陽が照りつける中、蓮子とメリーは草が生い茂った農道を歩いていた。
偶然にも廃校となる小学校のお別れ会が午後から予定されていたのだ。
蓮子は即座に参加を決定し、メリーもめったに経験できないから、と金魚の糞になることにした。
車による送迎を断って、かつての通学路を歩くことにしたのは卒業生の希望である。メリーは特に反対しなかったが、日傘を持ってこなかったことを少し後悔し始めていた。
「でも、この年で母校を失うなんて想像したこともなかったなぁ」
「廃校といっても、近くの小学校と統合するだけなんでしょ。歴史の流れが完全に止まるわけではないわ」
「統合小学校の校舎は別の場所にできるし、校歌もリニューアルするんだって。私が知ってる小学校は消えちゃうのよ。ま、大した思い出なんかないんだけどね~」
蓮子はおどけながら、ぐるりと周囲を見回した。
畑では整然と植えられた野菜が育っていたが、ところどころ自然の草花が生えて混沌としている区画がある。そこが休耕地なのか、もはや耕されることのない放棄された土地なのか、物言わぬ畑は教えてくれない。
「地元が危ないのは前から分かってたわ。ここに限らずほとんどの田舎には目ぼしい産業も教育機関もないのよ。あるのは農業くらいだし、工場で野菜を作れるご時勢にきつい農作業をやりたがる若者なんてめったにいないから、地元の人口は減るばかり。都会の方がよっぽど魅力的だからね」
「矛盾してるわ。駅ではたくさんの魅力があるって言ってたじゃない」
「もちろん魅力的よ。だけど、魅力以上に欠点が多いのが現実。病院もスーパーもまばらだから車がないと生活できない上に、バスや電車なんか当てにできない。娯楽施設はないわ、お金がなくて夏祭りは二年に一回になるわで……あっ」
「どうしたの?」
指を折りながら田舎の欠点を列挙していた蓮子が、とある一軒家の庭先で立ち止まった。
「ここの犬、いつも私に向かって吼えてたっけ」
メリーが親友の肩越しにのぞくと、色あせた犬小屋が庭の隅に納まっていた。そこにいるべき主はいない。
「……人間と犬では流れる時間が違うから仕方がないわよ」
「だよね。卒業してから何年もたってるんだもん……あはは、しんみりしてる場合じゃないか。早く行かないとお別れ会が始まっちゃう」
蓮子は笑い飛ばしたが、それが空元気だということを見破れぬメリーではない。
廃校の話を聞いてからというもの、蓮子は無理に気持ちを盛り上げて珍しいイベントを楽しむ姿を装っていた。それは母校が消えるという、未知の恐怖とどう戦っていいのか分からない彼女の苦悩を表しているかのようだった。
「ええ、行きましょう」
一方でメリーも悩んでいる。
友人の苦悩に気づくことはできたが、どのように手を差し伸べたらよいのか分からないのだ。母校を失ったことがないのは彼女も同じなのだから。
「はい、到着。ここが私の通った小学校よ」
農道を抜けて数分も歩かないうちに、白亜の建物が二人を出迎えた。
「何というか、コメントしにくいわね」
「ぶっちゃけ特徴がないのが自慢の校舎です」
「わざわざ胸を張って言うべきことなのかしら」
「ついでに耐震性もないみたい。おかげで校舎の再利用ができないから取り壊しだって」
「あらら」
鉄筋コンクリートの二階建てで、白く塗られた壁には時計盤。校舎の正面には花壇や駐車場があって、さらにその先には校庭とプールがあるという、実に機能的な学校だった。
つまりそれ以上に見るべき箇所はなく、最大限ひいきしたら機能美と言えなくもない校舎である。
「今見えてるのが南館で、裏の北館と渡り廊下でつながってるの。あれ、一号館と二号館だっけ。それとも本館と別館だったかな……」
「やだ。蓮子ったらもうボケちゃったの?」
「違うわよ。教師と生徒がアバウトなせいであって、私に問題があるわけじゃないの。とにかく、お別れ会は北館の隣の体育館でやるから、そっちに行かなきゃ」
「講堂は?」
「そんなぜいたく品ありませーん」
枯れた花が物寂しい花壇の横を通り、南館の裏手へ向かう。
学校は雑木林の中に建っているので、農道に比べればまだしも涼しかった。蓮子に言わせると、ちょっと涼しいせいで教室に冷房が設置されず、秋から冬にかけて枯れ葉が多くて掃除が面倒、ということになる。
裏手に回ると、体育館と鯉が泳ぐ池が見えてくる。池は小規模な学校にしては大きく、中央にコンクリート製の橋がかかっているという、なかなか立派なものだった。
「神奈子様! 諏訪子様! 池がありますよ、池! あっ、ガメラだ!」
「こらこら、そんなに騒ぐんじゃないよ」
「いいじゃん。久しぶりの外なんだし」
ちょうど橋の上で日光浴をしている亀を見てはしゃいでいる不審な集団がいた。
女子高生、妙齢の婦人、小学生くらいの女の子、と見た目は三人ともばらばらである。きっと卒業生と在校生の姉妹なんだろうなぁ、と蓮子とメリーは好意的に解釈しておいた。
「毎年必ず一人は池に落ちてたなぁ。何代も前の校長が庭いじりの好きな人で、こんな橋まで作っちゃったらしいんだけど……鯉や亀も含めてどうするんだろ」
「取り潰されないことを祈りましょう。池は耐震性と関係ないはずだから」
このときメリーは一抹の不安を抱えていた。
いくら卒業生の親友という免罪符があるとはいえ、結局のところ自分はこの小学校と無関係な人間である。会場の人に何年度の卒業生ですか、なんて聞かれでもしたらさすがに気まずい。
「うわっ、すごい人」
しかし、体育館の中へ入った瞬間、そんな不安は吹き飛んでしまった。
下は小学生から上は杖を突いたお年寄りまで、小学校に関係があると思われる、ありとあらゆる年齢の人々が体育館にひしめいていたのだ。子どもの数の方がわずかに多いようで、少し救われた気がした。
「校舎こそ地味でも、歴史は無駄に長いからね。私の記憶が正しければ、開校から百年はたってるはず。卒業生なんか数え切れないわよ」
「これなら一人くらい部外者が紛れ込んでもバレそうにないわね」
「それはどうかな?」
蓮子は入り口に置いてあったお別れ会のしおりを二つ取り、メリーにも渡した。一緒に不気味な笑顔を添えて。
「田舎にプライバシーなし。話し好きなおばちゃんだと、町の人の顔と名前はだいたい覚えちゃってるんじゃないかな。なにせ数が少ないから」
「ご冗談でしょう?」
メリーの頬を熱い汗と冷たい汗が同時に滑り落ちる。
「さすがにオーバーだけどね。でも、大学生くらいの若者はほとんどいないし、ここだとガイジンさんはまだ珍しいから注意しなさいよ」
「その手の忠告は私が生まれる前に言って欲しかったわ。蓮子のお友達は来てないの?」
「顔を見たことがある後輩が二、三人いるだけ。同級生はみんな地元を離れちゃってるし、さっき何人かにメールしたら小学校がなくなるなんて初めて知ったってさ」
「そう……」
体育館に並べられていたパイプ椅子は全て埋まっていたため、二人は壁に寄りかかることにした。
ハンカチで顔を拭き、しおりを扇の代わりにしてパタパタあおいでようやく汗が引いてきた頃、司会役の教頭がお別れ会の始まりを告げた。
「十年で子どもの人数が三割減? 廃校が決まる前から地域の死亡フラグが立ってたわけね」
「あんまり笑えないわよ、蓮子」
「私よりも演説してる教育委員長に言ってよ。もっと明るい話題を提供しなさいって」
お別れ会は良くも悪くも学校の集会、といった雰囲気だった。
町長やら教育委員長やら、町のお偉いさん方の長くてためになる話で幕を開け、その次にはスライドショーや各世代の代表による思い出話が控えている。青春の一ページをこの学校で過ごしていないメリーにとって、いまふたつ魅力に欠けるラインナップだった。
「あたい飽きた! 向こうのでっかい建物に行こうよ!」
「え。待ってよ、チルノちゃん~」
亀と良い勝負になりそうな速度で進む話に退屈してしまったのか、女の子が二人、体育館の入り口へ駈け出して行く。
その様子を何気なく追っていたメリーの瞳に、なにやら不思議なものが映った。
「ねぇ。今の子たち、背中に羽がついてなかった?」
「何言ってるの。子どもには未来へ羽ばたく翼があるに決まってるじゃない」
「いやいや、蓮子の貧相な詩的センスを試してるんじゃなくて……」
律儀に返事をしている間にも身体は入り口へと吸い寄せられていく。
「蓮子、蓮子! ちょっと来て!」
すでに女の子たちの姿は消えていたが、メリーの前にはさらに不思議な光景が待ち受けていた。
「今度は何? 盆踊りしてる死霊でも見つけたの?」
「校舎に妙な境目が見えるのよ!」
マエリベリー・ハーンの目は常人のそれと比べて少し変わっている。
本人曰く、結界の境目や境界が何もしなくても見えてしまうとのことなのだ。この能力を利用してこれまでも相棒と共に冒険をしたり、危ない目にあってきたのだが、それはまた別の話になる。
「本当?」
「嘘をついてどうするのよ」
蓮子はメリーの横に立ち、目前に広がる建物を仰ぎ見た。
お世辞にも綺麗とはいえない壁面。壊れたままの雨どい。ベランダには錆が浮いて傾いた手すり。あまり目に入れたくないものばかりだったが、肝心の境界らしきものはどこにもなかった。
しかし、蓮子はそこに境界が存在するかのように振舞う。彼女は自分の瞳に映る世界と同じくらい、相棒の瞳に映っているはずの不思議な世界を、あるいは彼女の能力を信じていたのだ。
二人の関係とはそういうものだった。
「どんな種類の境目なの?」
「分からないわ……けど、廃校が決まったせいで現実と幻の境界があやふやになってるのかも」
「ありゃりゃ。そんなに急いで消えようとしなくてもいいのに」
蓮子が視線を校舎へ投げかけたままつぶやいたとき、メリーは止まっていた汗がどっと噴き出したかのような、嫌な錯覚に襲われた。
おどろおどろしい声が絞り出されたわけではない。口調は穏やかそのものであった。
ただ、あまりにも厳しかったのだ。母校へ向けられたその目つきが。
加えて、音を立てて握りつぶされたしおりが重い存在感を放っている。
「…………」
思い出はそんなにないと言いつつ、わざわざ昔の通学路を歩いて感傷に浸る。大したことのない校舎だと説明するくせに、いちいち自慢げに微笑む。
そんなに好きになるものかなぁ、とメリーは半ば尊敬し、半ば戸惑っていた。母校が廃校になったとしても、ここまで感情をあらわにしている自分の姿など想像できなかった。
だからといって放置しておくわけにもいかない。こんなセンチメンタルな気分に陥っている相棒は見るに耐えないし、同行者がふてくされていると楽しい東京旅行どころではなくなってしまう。何かしら行動を起こす必要があった。
少し躊躇した後、意を決して声をかける。
「蓮子」
「何?」
「これから校舎に行きたいんだけど、案内を頼んでもいいかしら?」
「え、今? お別れ会をやってる最中なのに?」
「お別れ会が開かれている最中だからこそよ。終わってからだと、ここにいる人たちが校舎に押しかけちゃうでしょう。二人でゆっくりと探索できるチャンスは今しかないわ。もちろん、思い出話を聞けなくなっちゃうし、蓮子が嫌なら無理にお願いしないけど」
「ふむ……」
蓮子はちらりと演台に目をやる。
教育委員長のありがたい話がまだ続いていた。
「たしかに、こんなチャンスはもうないかもね……」
それから消えゆく母校の校舎を見て、最後にメリーへ視線を戻し、微笑んだ。
「よし。秘封倶楽部の活動、やりますか!」
「じゃあ」
「謎多き小学校の案内、喜んで一任されましょう」
不敵に笑った蓮子は手を差し出した。
メリーは迷うことなくその手をとる。久しぶりに相棒の晴れた顔を見た気がした。
「んんー! これぞ母校の香りね」
校舎に足を踏み入れると、蓮子はまず深呼吸をして、次に恍惚とした表情を浮かべた。
「んー……んんっ!? ごほっごほっ」
卒業生にとっては懐かしの母校の香りだが、よそ者にはカビの臭いとホコリがほどよくブレンドされた悪臭以外の何物でもなかった。
涙目になりながらメリーは呆れた。これを嗅いで喜ぶなんて、いくらなんでも過去を美化し過ぎであると。
「どう? たまらないでしょ」
「ええ。本当にたまらないわ。よく六年間も我慢できたわね」
「慣れの問題よ。一週間も通えば気にならなくなって、さらに一ヶ月通えば……」
「ああーっ!!」
母校臭依存者が依存症になるまでの経緯を語ろうとしたとき、可愛い叫び声が廊下にこだました。
何事かと耳を頼りに走ると、たどり着いた先の玄関口で少女がナスビ色をしたとても趣味の悪い傘を振り回して憤慨していた。どうやら、傘立てに大量の傘が残っていることがお気に召さないらしい。
「もー、こんなに傘が忘れられてる! これだから人間はっ!」
「用務員の人かしら? ごほっ」
「にしては若いから、傘マニアの在校生でしょ」
「何それ。傘マニアなんて人いるの?」
「日傘、唐傘、こうもり傘。世界はメリーが思っているよりも広いわよ」
「そこのお二人さん!」
蓮子とメリーの声はひそひそ話しにしては大きすぎたらしい。
二人の存在に気づいた少女が、何本か傘を抱えて近寄ってきた。
「はいはい、何か御用で?」
「この子たちをもらってちょうだいな」
言うが早いが二人に向かって傘を突き出す。
もらってちょうだいな、と頼むわりに強引な渡し方だったが、有無を言わせぬ少女の気迫につい受け取ってしまう。ここでメリーは少女が瞳の色が左右で違うオッドアイであることを知った。
「……微妙に犯罪臭がするんだけどなぁ」
「どうせ捨てられるんだから構わないって。それじゃ、大切に使ってあげてねー!」
傘を渡した途端に笑顔になった少女は、残りの傘を傘立てから引っこ抜くと、脱兎のごとく走り出していった。体育館にいる人たちにも配るつもりのようだ。
「学校に置き傘をしたまま忘れるのって王道パターンだからね」
「ふふっ。愉快なおみやげになったじゃない」
「うちの学校らしいといえばらしいかな」
再び二人きりになった少女たちは、傘をステッキ代わりにして探索を始める。
本来は騒がしいはずの校舎内に二人分の足音しか響かないというのは、どこか奇妙な感覚だった。
「そういえば、宝が眠っている話はしてくれたけど、他にはどんな謎があるのかしら?」
「ああ、お宝以外の話は普通の学校の七不思議に毛が生えたみたいなものよ。そもそも七つもあったか微妙なんだけど……」
傘を振り回していた蓮子の足が、とある教室の前で止まった。ドアの上のプレートには多目的ルームと書かれている。
「今は空き教室になってるみたいだけど、昔ここは四年二組でね。四年二組では物が勝手に消えてしまうって噂が生徒の間でまことしやかに広まっていたのよ」
「あら怖い。性悪な魔法使いが盗みに入ってたのかしら」
「ところが種を明かせば怖いも何も、単にネズミが巣くってただけなのよ。夜中に連中が出没しては生徒が置きっぱなしにしてた物を拾い集めてたわけ。先生がネズミ捕りを仕掛けたら、でっかいのが何匹も捕まったわ。給食の配膳室が近かったせいかなぁ」
「ある意味怖い話よ、それ……」
それからも謎の種明かし兼、蓮子の思い出話が続いた。
教室で飼っていた金魚が一匹づつ消えていったのは、用務員がこっそり飼っていた猫の仕業だった話。雨の日に渡り廊下で女子対男子のサッカーをやって窓ガラスを割ってしまった話。
廊下を一メートル歩くたびに、そこへ染み付いていた思い出が語りかけてくるようだった。
蓮子は思い出を拾い集めて記憶のタンスへ収めることができて嬉しそうだし、メリーも相棒の知られざる過去を聞くことができて楽しかった。記憶なり秘密なりを誰かと共有するのは時として心地の良いものなのだ。
「おっ、職員室じゃない。六年間でここに何度呼び出されたことやら」
年季が入った扉を前にして、元悪がきは目を閉じて感慨深くつぶやいた。
かつての灼熱した日々に思いをはせる姿は、まるで泥棒家業から足を洗った老人さながらである。
「まったく、私の相棒はとんだ悪党だったようね。恐れ入るわ」
「不良サークル活動の片棒を担いでるくせに善人ぶってどうするのよ。さ、中に入りましょ」
「ストップストップ!」
メリーが指差した先には関係者以外立ち入りと書かれたお札。
「卒業生も関係者のうちよ」
しかし、妖怪宇佐見蓮子には効果がなかったようだ。
「……悪党に何を言っても無駄ね」
「先生方は体育館にいるはずだから心配無用よ。これを逃したら職員室に入る機会は二度とないんだから、細かいことは言いっこなし。では、失礼しまーす」
「わひゃっ!?」
意気揚々と不法侵入した瞬間、誰もいないはずの職員室で調子の外れた声と、机の上から本やら教科書やらがバサバサと落下する音がした。
なにやら探し物をしていたらしき女性が大慌てで弁明を始める。
「ままま、待ってくれ。勘違いしないで欲しい。私はただ外の教師がどんな教材を使って授業をしているのか興味があっただけで、ちょっと持って行っちゃおうかなー、なんて気持ちはこれっぽっちも……」
慌てすぎて何を主張しているのか不明である。
頭の上で揺れている珍妙な帽子からも怪しいオーラが出ているが、真面目そうなので泥棒ではなくここの先生なのだろう。
彼女の正体が何であれ、先客がいたからには職員室探索は諦めた方がよさそうだった。
メリーは未だ呆気に取られている蓮子の黒髪をつかんで一緒にお辞儀させる。
「勝手に入ってしまってすいません。それでは失礼いたします」
「あの黒白とは違うんだ。後生だから……あれ?」
ようやく誤解が解けたのか、教師はしばらく固まった後、すぐに姿勢を正した。
慌てている姿は可愛らしかったが、堂々と胸を張る様子は教師としての威厳があってなかなか素敵である。普段は生徒に慕われている良い先生なのだろう。
「うむ。勝手に入るのは良くないな。これからは注意して見学しなさい」
安堵にも似た優しい微笑みに見送られて二人は職員室から退出した。
探索する気満々だった蓮子は追い出されたと感じて不満そうだったが。
「せっかくの機会だったのにぃ~」
「先生がいたから仕方ないじゃない。諦めて次に行きましょう」
愚痴は理科室や家庭科室を過ぎても続き、保健室の前を通過する頃にいい加減わずらわしくなったメリーが手刀を叩き込んでようやく鎮まった。
それでも蓮子は頬を膨らませていたが、二階に上がったところで不満が一気に吹き飛ぶ事態に遭遇した。
「そうそう、この音楽室にも謎があったっけ。夕方になると壁にかかってるベートーヴェンの肖像画が動きだすやつ」
「定番の怪談ね。どうしてP.D.Q.バッハやピーター・シックリーの肖像画じゃないのかしら」
「知名度の問題以前にそんな人の肖像画はあったかな……あれ?」
蓮子が音楽室に向かって聞き耳を立てる。
「中からピアノの音が聞こえる」
「体育館からじゃない?」
「ほら、この中からだって」
二人そろって音楽室のドアに耳をくっつけてみる。
ひんやりとした扉の向こうからは、かすかにピアノの音が聞こえていた。
「校歌の伴奏をする人が練習してるのかしら」
「うーん……校歌のメロディーとは違うみたい。しかも鍵がかかってるし。メリー、もしかしてこれって」
「ポルターガイスト。学校の七不思議。CDの消し忘れ」
「調べてみる必要があるわね」
蓮子は壁一枚を隔てた先で発生している怪奇現象をにらみ、舌なめずりをした。まるで獲物の猿を見つけた猟友会のおじいちゃん、もとい狩人の顔である。
一方、メリーは相棒よりはましな顔で状況を分析していた。
「さて、どうしましょう? ここは二階だけど、北館の二階に回れば中を見られるかもしれないし、もっと直接的に職員室まで鍵を取りに行く?」
「面倒くさいからどっちもパス。まあ、見てなさいって」
蓮子は傘の先っぽ、石突の部分をドアの隙間に差し込むと、何やら押したり引いたり試し始めた。
「てこの原理でも使うのかしら、物理学者の卵さん?」
「音楽室のドアはずっと壊れたままでね。細い棒みたいなのを差し込んで動かすと……」
カシャン
見事な傘さばきの末、あっけないほど軽い音がして鍵は突破された。
満面の笑みで振り向いた蓮子に、メリーは幼き相棒の顔を幻視した。
「ね?」
「悪党だとは分かっていたけれど、まさか空き巣の才能まであったなんて、恐れ入るわ」
「同級生の大半は鍵が開けられたわ。ふう、腕がなまってなくて良かった。それと、石突の細い傘をくれた女の子と、ドアを修理しない学校側の怠慢にも感謝しないとね」
皮肉もなんのその。蓮子は嬉しそうにドアに手をかける。
「準備はオーケー?」
「いいわよ」
「じゃ……ICPOの宇佐見よ! 神妙にお縄につきなさい!」
「げっ、まずい!」
まず蓮子が傘を自動小銃のようにかまえて突入。その背後から渋い表情のメリーが続く。
一歩遅れて入ったメリーにも、小学生くらいの背丈の誰かが小さく声を上げてピアノの後ろへ隠れる様子が確認できた。怪奇現象の主はこの誰かさんで間違いなさそうだった。
「恥もくそもあったものじゃないわね」
「童心に戻れば恥ずかしいものなんて何もないのよ! ほらほら、さっさと手を上げて出てきなさい。ピアノの裏に隠れてるのは分かってるんだから」
三十秒ほど無音の攻防が続いた後、傘の恐怖に耐えかねた誰かさんが姿を現した。
「ふはははっ! よく来たな、お嬢さん方」
「あー……あんたって……」
「モーツァルト?」
音楽界の偉人が床から少し離れた空中にふよふよと浮かんでいた。
キュートなくるくるヘアーに古風な洋服を身にまとう姿は、壁にかかっている肖像画と瓜二つ。あの髪は実はカツラだった、などと言ってはいけない。
「いかにも。私はリリカ・プリズム……じゃなくて、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの幽霊である」
ちょっと失敗したものの、声高らかに正体を暴露されて人間二人はたじろいだ。
蓮子とメリーは大学で秘封倶楽部を結成して以来、様々な怪異を体験してきたが、そんな二人にとっても過去の偉人の霊に出会うのは初めてのことだったのだ。
「いやいやいや。そんな偉い人の幽霊がなんでまた日本のど田舎にいるのよ!」
蓮子は大物っぽいオーラにあてられて、すっかり本人の霊だと思い込んでいるようだった。
メリーは逆に、名前をリリカ何とかと言い間違えた自称モーツァルトを胡散臭そうに見つめている。
ただ、これまで多くの摩訶不思議な体験をしてきたため、目の前の幽霊らしき何かが本物であるという可能性を完全に排除することができない。たとえ、オーストリア生まれのモーツァルトが流暢な日本語をしゃべっていても。
そんな二人の心境を知ってか知らずしてか、モーツァルトはどこか安心した様子で話し始めた。
「うむ、よくぞ聞いてくれた。私はこの学校の校歌を聴きにきたのだよ」
「ここの校歌は外国にまで名声がとどろくほどなの?」
「まさか。PTAが作詞をして、アマチュア音楽家が歌詞をつけただけの、他愛のない校歌よ。私は気に入ってるけど」
「君たちは人々に忘れられてしまった曲がどうなるか知っているかね?」
いきなり飛んできた要領を得ない質問に、蓮子とメリーは同時に首を横に振る。
彼女たちはちょっと不思議な能力を持ってはいるが、音楽家でもイタコでもない、一介の大学生なのだから。
「忘れられてしまった曲はな、この世ならざる場所で私のような騒霊……違った、音楽家の幽霊によって永遠に演奏されるのだ」
「そりゃまたぶっ飛んだ説ね」
「ふーん……ちょっと待って。あなたが来たってことは、つまり私の母校の校歌がピンチだってことなの!?」
「そうだ。廃校によって忘れられる可能性はさらに高まっている」
「な、なんだってぇっ!?」
慌てた蓮子がモーツァルトにつかみかかる。が、フワリと避けられ、たまたま並べられていた木琴の列に突っ込んで良い音を立ててしまう。相棒の痛いシーンに慣れてしまったメリーから見ても痛そうだった。
宙に浮いたままの幽霊は下界の惨状に目もくれず、壁に張られた校歌の歌詞を見つめていた。
「私は時々、忘れられた校歌を弾くが、歌詞を歌ってくれるのはいつも二、三人の仲間だけ。ノリが悪いと私のピアノだけになってしまう。これではいかんのだよ」
大きなため息をついて首を振ったモーツァルトは、視線を壁から窓越しに見える体育館へ映す。
今日のお別れ会でもクライマックスに校歌の合唱が予定されている。時が来れば、体育館は屋根が持ち上がるほどの歌声で満たされるだろう。
「校歌とは大勢の人間が元気いっぱいに、楽しく歌うものだと私は思っている。今回、たまたま廃校寸前の校舎へ来ることができたが、この機会にぜひとも生徒たちの熱い歌声を聴きたいと思ってな。それが私の現れた理由だ」
メリーは思わず考え込んでしまう。
この幽霊が本物なのかはまだ分からないが、少なくとも校歌を聴きに来たというのは信用できそうだ。なにせ、音楽家らしい行為だし、体育館へ投げかけている視線は真っ向から否定するには熱すぎる。
さらに質問したかったが、まずは木琴の山の中でひっくり返っている相棒を救出するのが先だった。
「蓮子、生きてる?」
「校歌を……」
「え?」
ゆらりと立ち上がる蓮子。
「私の校歌を……忘れられた曲なんかにはさせない」
彼女の双眸は郷里を愛する心に燃えていた。
「私は絶対に校歌を忘れないからね!」
『み山の霊と川水の 清き響きにまもられて この虹川の町にすむ』
蓮子が啖呵を切った瞬間、大合唱が上に重なった。
咄嗟の出来事に蓮子もメリーも、そしてモーツァルトさえも唖然とする。
『小鳥の如く睦みあい 高きを目ざす美しき 我が学び舎に光あり』
「え、何これ……?」
合唱は音楽室に設置してあるスピーカーから大音量で流れていた。
お別れ会の校歌斉唱の時間には早すぎる。そもそもスピーカーで流すようなことはしないはずだった。
「モーツァルト、あんたがやってるの?」
「私じゃないよ! というかここ、虹川って地名だったの!?」
「そうよ、この町は虹川町で、ここは虹川小学校。校歌を聴きに来た学校の名前も知らなかったの!?」
「そ、それは廃校旅行が急に決まったから……」
「静かに! 聴こえないわ」
『正常努力は町の道 不断力行は我が教え 立てし誓は花水の』
狼狽する面々を尻目に、校歌は二番に突入していた。
メリーの一声で蓮子とモーツァルトは黙ったが、スピーカーは変わらず合唱を流し続けている。大勢で歌う華やかさの中に、底知れぬ哀しさを含んだ合唱だった。
『坂に挑むる富士がねの 輝く雪にたぐいたる 我が学び舎に宝あり 宝あり 宝あり 宝あり 宝あり』
「壊れ……た?」
「……思い出したわ。みんなが知恵を絞って推測した虹川小学校最大の謎“学校にはお宝が眠っている”が生まれた理由」
一説だけを不気味にリピートするスピーカー。
蓮子はそのスピーカーから目を離さずつぶやいた。
「『我が学び舎に宝あり』この歌詞が原因じゃないかって」
ブツンという機械的な音がして声は途絶えた。
合唱が流れている間も不気味だったが、その合唱の後に続く沈黙はなおさら不気味だった。
蓮子は相方の方を向き、感慨深く息を吐いた。
「教室を二分する大論争になってね。宝なんてないと疑ってた子は歌詞を勝手に勘違いして盛り上がってるだけだと主張して、私を含め宝があると信じてた子は宝を埋めた先人たちが校歌にヒントを混ぜてくれたと主張したわ」
「どうやらその推理で当たってそうね。誰の仕業か知らないけど、こうも宝と歌詞を結びつけるような真似をしてくれるんだから」
「まるで校舎を取り壊される前に見つけてくれって小学校が叫んでるみたいじゃない。ふふ、何年も眠ってたとちびっ子レジャーハンターとしての血が騒いじゃう。こりゃ、謎を解かなきゃ家へ帰れそうにないわね」
「モーツァルトのいたずら……とは違うか」
メリーは視線をスピーカーからモーツァルトに移し、一瞬でも疑ったことを後悔した。
これまでの大物オーラはどこへやら。自称偉人の幽霊はホコリ舞う空中で体育座りをしながら、虹川……変に略すなよ……とぶつぶつ呪詛のようにボヤいている。宝のことなど頭に入ってなさそうだった。
とりあえず二人はネガティブモーツァルトを視界からそらし、謎に意識を集中させることにした。
「まず状況を整理しましょう。謎は大きく分けて二つ。一つ目は宝とは何なのか。二つ目はどこにあるのか。ああ、誰が意味深な放送を流したのかという謎も入れれば三つかしら」
「宝を見つければ、おのずと誰かさんは分りそうだけど……難しいか。数多の虹川小の生徒が何十年も考えて解けなかった謎だからね」
「所詮は小学生の知恵。大学生なら案外あっさりと解けるかも」
「言ってくれるじゃない。最近の大学生の浅知恵なんか小学生と大差ないわよ」
「そうね。蓮子は小学校の頃から全然成長してないもんね」
「ど、どこが小さいままだって!? 失敬な!」
「誰も身体的特徴の話をしていませんわ」
「ま、冗談はさておき、本当に宝が出てきたら大ニュースよ。上手くことが運べば廃校が中止に……」
「宝の種類にもよるし生徒数自体が減ってるから、さすがに廃校撤回は無理なんじゃない。けど、発見の糸口になった校歌は全国的に有名になる可能性はあるわ」
「夢が広がるねぇ」
蓮子の思考は早くも宝から取らぬ狸の皮算用へ移り、頬がだらしなく緩んでいた。
ただ、メリーは柔らかいほっぺをつつきはすれど、思考の脱線まで修正するつもりはない。
母校の校歌が忘却の危機にあると言われたかと思えば、すぐにそれを帳消しにする不思議な放送が行われる。しかも校歌のピンチを救う可能性を秘めているときた。
ここまで物事がうまく回ると、卒業生でなくとも浮かれてしまうというものだ。
「さて、どこから探しましょうか? この音楽室にはなさそうだけど」
「教室は全部探したし、職員室も調べた。私の記憶が正しければ、生徒が普段行ける場所だけじゃなくて、屋上や機械室みたいな出入り禁止の場所もくまなく探したし……」
「さすがは悪党。体育館は?」
「当然。地下にある倉庫まで行ったわ。壁を叩いて空洞がないかも調べたのよ」
「じゃあ、校長室の金庫とか」
「夢も希望もあったもんじゃないわね」
二人は教室の隅から引っ張ってきた椅子に座り、黒板に怪しい場所を書き出していく。
大張り切りで出発した秘封倶楽部お宝発見隊だったが、ものの四半刻もたたない内に行き詰ってしまった。
数十年にわたって子どもたちが積み上げてきた失敗の山は、予想よりもはるかに高かったのだ。
「うーん。考えてみれば、校歌と違って校舎は何度か立て替えられてるから、校舎内に宝が隠されてる可能性は低いか」
「学校の敷地内でまだ探してない所はある?」
「駐車場の桜の下からは冬眠中の蛙しか出なくて、裏山は狸の骨が出てきたせいでみんなが怖がって中途半端にしか探せなかったなぁ。あとは校庭だけど……」
「裏山や校庭を全部掘り返すとしたら、土建屋に依頼する必要があるわね」
「だよねぇ。下手すると校舎の土台よりも下に埋まってて、解体中に偶然見つかったりして」
蓮子はうなり声を上げ、メリーは帽子をかぶり直した。
宝が学校にあるというアバウトな情報だけでは、人手も時間も圧倒的に足りない。
「むむむ」
「もっと場所を絞りたいわね。歌詞にもっとヒントはないかしら」
「そういや、母さんはここの卒業生なんだけど、“学校に宝が埋まっている”なんて謎は知らないって言ってたっけ」
「あら、何世代も前から語り継がれている謎だったんじゃないの?」
「母さんが卒業してから広まったみたい。だから……ええと、何年前かな」
「ね~ね~ちょっとさぁ~」
「うわっ、出たっ!」
いつの間にか復活していたモーツァルトが背後から割り込んできた。
「何でこの町は虹川なんて名前がついてるのさぁ~」
「あんた、さっきとキャラや話し方が変わってない?」
「いいから答えてよ~」
いよいよ怪しくなってきたモーツァルトはそんな些細なことはどうでもいいじゃん、と言わんばかりの表情である。
正直、おっさん声で子どもっぽい口調をやられると、非常にきつい。かといって、これ以上ネチネチ話されるのも嫌なので、仕方なく教えてあげることにした。
「分かった、教えるから、顔を近づけないで。はぁ……昔からこの土地は雨が多かったのよ。何故かというと、東京湾から湿った風が吹いてきて、その風が町の周りにある山に沿って上へ昇るの」
「おー、上昇気流」
「正しくは地形性上昇気流ね。湿った風は雲になり、やがて雨をもたらす。虹川と呼ばれるようになった理由については諸説があって、雨が降った後に虹が三本、漢字の川の字のように出てたとか、川の上にまるで橋のように虹が架かっていたとか、そんなところよ」
「なるほどね~」
「橋のように架かる虹ね……」
モーツァルトは素直に感心し、メリーも相棒の郷土愛に恐れ入った。
称賛の言葉を投げかけようとしたとき、ふと、頭の中で引っかかるものを感じた。まるでのどに刺さった魚の骨のように存在感を放っている。
その正体を探るべく、金色の脳細胞と足を動かす。
「都心に高層ビルが建つようになると、風の流れがさえぎられて雨が減ったみたい。まあ、個人的な感覚だとそれでも雨の日は多いし、虹も良く出ると思うわ」
「そっかぁ。ちゃんと理由があるんだね。虹川だからって馬鹿にするのは良くないか」
「あんた、ヨーロッパ出身のくせに虹川町に恨みでもあんの?」
「恨みはないけど、これには地霊殿よりも深い理由が……」
「地霊殿って何よ?」
蓮子とモーツァルトの会話を聞き流しつつ、音楽室を二周。
窓際へ来たところで謎が氷解し、はじけた。
「そうよ、虹のたもとだわ!」
「虹のたもと?」
音楽界の偉人に襲いかかろうとしていた蓮子が振り返る。
「ほら、よく言うじゃない。虹のたもとには宝があるって」
「んー……ああ。うちの小学校に宝が埋まってるなんて噂が広まったのは、地名とその俗説のせいだって言う懐疑派の友だちもいたなぁ。でも、その話が手がかりなの?」
「民俗学だと虹は橋に例えられることが多いのよ。日本神話ではイザナギとイザナミは虹の橋を渡って下界まで来たと伝えられているし」
「橋、ねぇ」
「この学校にも橋があるじゃない」
二階にある音楽室からだと、体育館からその近くの池までを一望することができた。はしゃいでいた三人組の姿はないものの、相変わらず日光浴をしている亀が良く見える。
そして、亀が上に乗り、池をまたぐように掛かっているコンクリート製の橋も。
「まさか……!」
蓮子が駆け寄り、窓に張りつく。
「蓮子、あの橋や池の周りは調べた?」
「掘るとすぐに水が出てくるから、ほとんど手をつけてない。宝を隠すには不向きな場所だと思って再調査することもなかったけど……いや、盲点だったわ」
「これが私なりの結論。もちろん宝がある確証はない。それでも信じてくれるかしら?」
「わざわざ言わせる気?」
「私はさとり妖怪じゃなくて人間よ。言葉にしてくれないと分からないわ」
「ひねくれ妖怪の間違いでしょうが。まあいいや、私はメリーを信じる。行きましょう!」
「ええ」
言葉以上のつながりを確かめた二人はそろってきびすを返し、そのままの姿勢で固まった。
「……今日はやけに異変に好かれる日だと思わない?」
「……認めたくないけど、同感よ」
楽器だった。
先ほど蓮子が押し倒してめちゃめちゃにした木琴。モーツァルトが弾いていたピアノ。ホコリをかぶったトランペット、ヴァイオリン、ギター、なぜかバグパイプまで。
音楽室の備品のありとあらゆる種類の楽器が宙を漂い、宝探しへ出発しようとしていた二人を待ちかまえていたのだ。
「みんな寂しいんだよ」
楽器の合間を飛び、ピアノに触れたモーツァルトが悲しそうにつぶやく。
「新しい学校に連れてって、連れてって、そんな感じに叫んでる。連れてかないと……お仕置きだってさ」
お仕置きの部分がねっとりと耳をなぞり、不快感を煽る。
メリーは右手のビニール傘と、左手の蓮子の手を強く握った。
右側はあまり当てになりそうにないが、左側は手を握り返してくれた。少なくとも傘よりは心強く感じる。
「その手の交渉は教育委員長や校長とやって欲しいんだけどなぁ。私たちには何の権限もないし」
「私はこの学校と無関係な上に、いわれのないお仕置きなんてお断り。お札かお守りは持ってきてる?」
「まさかこんな目に会うと思ってなかったから、一つも持ってきてないや。あるのは傘だけ。傘とでっかいピアノ、どっちが強いと思う?」
「……ピアノね」
「それじゃ、二人とも頑張って……痛っ!? 痛い痛い!!」
部外者を装って離脱しようとしたモーツァルトは、たちまちハーモニカの群れに襲われて撃ち落されてしまった。ゴーストのくせに物理攻撃が効くらしい。
命からがら、二人の背後へ逃げ込む。
「ちくしょー! 私だって無関係なのに!」
「ご愁傷様。どうやら私たち、運命共同体のようね」
「これが一階だったら窓から逃げられるのに。蓮子なら大丈夫かもしれないけど」
「私を野生児の類だと思ってない? 校舎内を熟知している私に言わせてもらえば、脱出路はドアしかないわ。全速力で走れば人間打楽器にされる前にたどり着ける、はず」
蓮子は簡単に言ってくれるが、廊下へつながるドアは楽器の群れのはるか後方に位置している。凶暴そうにふたを開け閉めするピアノや、大英帝国陸軍の歩兵を髣髴とさせるバグパイプの横を無傷で駆け抜けるには、どれだけの脚力が必要なのだろうかとメリーは自問した。少なくとも、彼女はそんなものを持ち合わせていない。
やはり蓮子は田舎の自然に鍛えられた野生児であるとメリーは再認識した。
「もっと穏便に行きましょう。楽器たちの言葉が聞こえるのなら、説得することはできないかしら、モーツァルトさん?」
「説得なんて無茶だよ! ここの連中、大勢の子どもの感情に影響されて妖怪化してるから、思考がごちゃごちゃで声を拾い集めるのが精一杯。こっちから言葉をかけても理解してくれないと思う。おまけに、やたらと力が強いし」
「やっぱり走るしかないわね」
「それだけは勘弁……あ」
楽器たちの包囲網がじわじわと狭まる中、メリーはもう一つの脱出路を見つけた。
「ユーリカ……」
「アルキメデスが叫んだ“我発見せり”だっけ。少し格好つけ過ぎじゃない? で、比重でも発見したの?」
「黒板の横に浮かんでるシンセサイザー。あれの下に境界が見えるわ」
「境界が多いのはさっきも聞いたけど……え、まさか」
「あそこに飛び込みましょう」
メリーは電車の時間に遅れそうだから駅までタクシーで行きましょう、とでも提案するような軽さだったが、蓮子からしたらとんでもない暴挙である。何故なら、境界を越えた先の世界で何が待ちかまえているか分からないからだ。
無事に元の世界に戻れる保証はどこにもない。もし、運悪く化け物がうようよしている世界に飛び込んでしまったら、到着早々にその世界とおさらばしなくてはならないだろう。
やはりメリーは地に足が着いていない、ふわふわのお嬢様なのだと蓮子は改めて認識した。
「ドアまで走った方がいい気がするなぁ」
「私は人間打楽器になりたくない。もう時間がないわよ。イエスかノーで答えて」
「……イエス、だね」
メリーを酷評しつつも、結局は彼女に賛同してしまう蓮子であった。
逃げるついでに別の世界にお邪魔するのも面白いだけでなく、何より秘封倶楽部的で良いと脳が判断を下した結果であり、好奇心が恐怖に打ち勝った瞬間でもある。
自分はとんでもない楽観主義者なのかもしれないと思ったが、悲観的観測と一緒に笑い飛ばすことにした。
決断したからには、もはや親友を信じるしかないのだ。
「せっかくお宝が埋まっていそうな場所が分かったんだから、絶対にこっちの世界に戻らなきゃ。もし帰れなかったら、ケーキくらいおごりなさいよ!」
「向こうの世界にケーキがあればね」
「ええと、私は何をしたらいいのかな」
にわかに色めき立つ二人の背後で、モーツァルトが恐る恐る尋ねた。出現当初の大物オーラは影も形もない。
「そうね……できれば楽器たちの気をそらしてくるとありがたいけど」
「それならお安い御用さ」
途端にモーツァルトは水を得た魚のように顔を輝かせ、まるで指揮者のように両腕を振り上げた。
はっきり言って、メリーはこの自称音楽家の霊に期待してなかったが、観客の期待を良い意味で裏切ることがエンターテイナーの仕事である。
「交響曲第5番、運命が扉を叩く音!」
デデデデーン デデデデーン
重厚な弦楽器の音が音楽室という狭い空間で荒れ狂う。虚をつかれた楽器たちの動きが一斉に止まった。
手足を使わずに楽器を演奏する程度の能力の本領発揮である。
弦楽器は本来担当ではなかったが、申し分のない出来だ。
「さすがは幽霊……だけど、この曲はあなたじゃなくてベートーヴェンの作曲じゃない?」
「音楽は皆兄弟なり!」
「……いいわ、とにかく走って!」
メリーはこの隙を逃さなかった。
左手で握った蓮子の手を放さないようにして走り出す。ついでに、満足そうにふんぞり返っているモーツァルトの手も傘と一緒につかんで引っ張る。
予想していたよりも幽霊の手は温かかった。ちょうど、ぬるくなったピアノの鍵盤くらいの温度だ。
「そぉいっ!」
いち早く混乱から立ち直ったリコーダーが突進してくるも、蓮子の素晴らしい傘スイングでノックアウトされる。
何かが割れる音がしたが、気にしている暇はなかった。
「境界を越えるわよ!」
行く手をふさぐシンセサイザーを蹴散らして、ようやく脱出路が現れる。
メリーは両手に伝わる温かさをしっかり確認すると、禍々しく開いたスキマへ身を投じた。
「ぐえっ」
境界を越えたときの感覚は、さながら冬のプールへ飛び込むよう。
落ちた先は水底ではなく、固い石畳。
誰のものとも知れない悲鳴が飛び出す。
「あいたた。ここは……」
「神社かしら」
起き上がると朱塗りの鳥居。後ろを振り向くと立派な本殿。足元の石畳は綺麗に掃き清められている。
それなりに由緒のある神社のようであるが、周囲に人や物の怪の気配はない。
とりあえず、来た早々に食われることは避けられたようだ。
「これまた探索のやりがいがありそうな神社……」
境界を越える前の心配はどこへやら。蓮子は新しいおもちゃを見つけた子どものように目を輝かせ、よだれを垂らさんばかりである。
太陽に熱せられていた校舎と異なり、境内を流れる空気は涼やかでどこか清らかだった。深呼吸をするだけで、ここが自分たちの住んでいる世界とは別の場所であり、異質な匂いが染みついた己が部外者であることを教えてくれる。
「もったいないのは分かるけど、探索してる間に人食い妖怪が出ても知らないわよ。絶対に帰ると言ったのはどなたかしら」
「えー、でも……」
「蓮子がどうしてもと言うなら、ここに残ってもいいわよ。その代わり、私は一足先に戻ってお宝を見つけてくるわ」
「さあ急いで帰ろうか!」
小学校の校舎に境界がいくつも現れていたので、帰り道の確保はさほど困らないとメリーは踏んでいた。
案の定、境内は境界だらけである。いずれも校舎へつながっているはずだった。
メリーは手水舎の隣に開いたスキマを選び、また二人と手をつなぐ。
「よそ者は退散することにしましょう。準備はいい?」
「へーい」
「お姉さん、いったい何者? まさか名字に八雲がついてない?」
「八雲? ハーン違いじゃないかしら」
名残惜しそうな蓮子と、何故か落ち着かないモーツァルトを連れて、メリーは再び境界を越えた。
「か、帰れた……」
「みたいね」
おやつの時間はとっくに過ぎたというのに、嫌味のように地上を焦がし続けている太陽が出迎えてくれた。降りた先はどんぴしゃり、池に架かる橋の上だった。
校舎は相変わらずボロいままで、体育館からは誰かの冗談が滑ったのか、乾いた笑い声が聞こえてくる。
秘封倶楽部の二人は命懸けの賭けに勝ったのだ。
さすがのメリーも二百由旬を走りきった気分である。
「よっし! お宝を掘り出さなくちゃ!」
一方、すぐに自失状態から復活した蓮子は、高々と傘を掲げて宣言した。
これをやらない限り、彼女たちの今日の活動は終わらないし、帰ってきた意味もないのだ。
「まさか、傘で掘る気?」
「倉庫から何か取ってくる!」
陸上部も目を見張るようなダッシュで駆け出した野生児は、あっという間にメリーの視界から消えてしまう。
学校の倉庫は鍵がかかってると思うけど、と叫ぼうとして止めた。
今の彼女にとって、鍵などという些細なものは障害にすらならないことに気づいたのだ。
「お待たせー」
予想通り、蓮子が戻ってくるまでに五分もかからなかった。しかも持ってきたスコップは四本。
「あのねぇ。モーツァルトを頭数に入れても三人しかいないのよ。返すのが面倒になるだけじゃない」
「幽霊はスコップを持てないのでパス~」
「いいからいいから。早く掘ろうよ。あ、橋の向こう側は私がやるから、メリーは反対側をよろしくね~」
メリーの苦言は届かず。
自分のスコップを選ぶと、笑みが張りついて取れない蓮子はさっさと掘り始めてしまった。
「やれやれね」
ため息をついたメリーはスコップを手に取り、宝が埋まっているはずの橋のたもとへと向かった。
「フレーフレー頑張れー」
亀と鯉が見守る中、橋の両端で宝探しが開始されて十分ほどが経過した。
上空から投下されるモーツァルトのやる気のない応援も手伝い、メリーの疲労は蓄積するばかりである。
大学は高校や中学と比較して体育の授業が少ない。なので、蓮子や運動部のメンバーといった例外を除き、大学生の大多数は運動不足なのだ。
「はぁ……はぁ」
このままでは宝のたの字も出ない内に干からびてしまいそうである。
掘っている穴が自分の墓穴に思えてきたとき、突然、手元が暗くなった。
「人間のやることは昔からわけの分からんことばかりだが、特にこれはまったく分からんねぇ。しいて言えば……墓穴掘り?」
「いやいや、これが外で有名な配管工なる仕事なんじゃない?」
貧血を起こしたのではなく、長身の女性とちびっ子のアンバランスなコンビが珍獣でも見るような顔つきで立っていたのだ。
二人とも腕に手枷やら鎖やらつけていて、頭には長身の女性は一本、ちびっ子は二本のアクセサリーをはやしていた。
恐らくカチューシャなどを改造してあるのだろうが、メリーにしてみればそのスタイルの方がわけが分からないと強く主張したかった。
おまけに、まだ日が高いというのにアルコール臭がする。
率直なところ、絡んできて欲しくないタイプの上位に入る人々だった。
しかし、今は追い払うどころか、逃げる気力さえない。
「私たちがやっているのは墓穴掘りでも配管工事でもなく、宝探しです」
「宝探し、とな?」
「ええ。そうよね、蓮子?」
正直に話したら思い切り食いついたので、相棒へ丸投げ。
そのまま引き取ってくれることを期待したのだが、事態はやや違う方向へと転がった。
「その通りです! 興味があるなら一緒に掘りませんか?」
「ほう、一緒に?」
長身の女性は眉をひそめた。
「いいのかい? もし宝が出てしまったら、あんたらの取り分が減ってしまうし、最悪、私たちが力にものを言わせて宝を奪ってしまうかもしれないよ?」
「そのときはそのとき。今大事なのは宝を掘り出すことですから」
蓮子は汗で光る健康的な笑顔で、トレジャーハンターの半数が卒倒しかねない発言をサラッと吐いてくれた。
これには二人組みやモーツァルトだけでなくメリーも目を丸くする。
「あはははは、面白い! あんたの言葉に嘘偽りはないな?」
「嘘だったら針千本飲みます」
「うんうん。気に入ったよ、その心意気。よしっ、一丁手伝うかい、萃香!」
「おうとも!」
何だかんだで好意的に解釈してくれたようで、豪快に笑った二人はスコップを手に取ってくれた。
「やれやれ。これしきの労働で音を上げるなんて、近頃の人間はひ弱だねぇ」
「いえ、あなた方がおかしいだけです」
この二人、見た目に反して非常に勤勉かつとんでもない力持ちだった。
長身の女性がスコップで地を崩せば、ちびっ子がかき出した土が山をなす。
どちらか一人だけでも、メリー十人分は働いていた。
特に長身の女性の活躍が目覚しいのは、運動に適した体操着風の服を着ているからだとメリーはにらんだ。
「ふぅ……それにしても、大事なのは宝を掘り出すこと、ね」
メリーは汗をぬぐい、対岸でちびっ子と競うようにしてスコップを振り回す野生児を盗み見た。
一見すると仙人のように無欲だと思われそうな発言をしていたが、彼女に欲がないわけではない。むしろ欲まみれであることは大学で生活を共にすることで嫌というほど実感している。
だが、その欲は不思議なものに対する知的好奇心であったりと、基本的に対象が金銭ではないのだ。
今回の場合は校舎を探索したり、学校に伝わる謎を解き明かしたりと、消えゆく母校と無邪気にはしゃいで思い出を作りたいだけなのだとメリーは分析していた。お宝を発見するまでの過程が重要なのであり、結果として手に入る宝など今は眼中にないのだろう。
と、ここまで考えて、よそ者の参加に文句を言わなかった自分も、やはり金銭欲が薄いことに気づく。相棒と一緒にサークル活動を楽しむことができれば、それで良かったのだ。
「むぅ……」
「おーい、手が止まってるぞ。働け働け~」
野生児と同類になるのは嫌なので、とりあえず宝が価値のあるものだったら月面旅行の軍資金に当てることにしておく。
メリーはまだまだ俗気にまみれたシティーガールでいたい年頃なのだ。
『み山の霊と川水の 清き響きにまもられて この虹川の町にすむ』
「おおうっ、始まったね!」
体育館ではお別れ会のクライマックスを飾る校歌斉唱が始まったようで、体育館の中に納まりきらなかった歌声が外まで漏れ出してきた。
モーツァルトは応援そっちのけで校歌に聴き入っている。両手を広げ、睫毛の先から足の裏まで、全身を使って歌声を受け止めている姿は、自称している偉大な音楽家の名に恥じぬものだ。
『小鳥の如く睦みあい 高きを目ざす美しき 我が学び舎に光あり』
「ああ……いいなぁ、これ。すごくいい……」
恐らく、これが最後の合唱になるからだろう。老いも若きも関係なく声を張り上げている。母校への愛情、生まれ育った土地への誇り。全ての感情を歌にぶつけて一つの歴史の終焉を飾ろうとしているのだ。
ただ、音楽室のスピーカーから流れてきた合唱と違い、体育館からは大きな悲しみは聴こえてこない。彼らは小学校がなくなっても虹川の地で生きて行くのだ。その決意にも諦めにも似たものが織り込まれることで、歌によりいっそう複雑な響きが生まれてくる。
「まずいわね……」
モーツァルトはこれ以上ない至福の中を漂っているようだが、逆にメリーには焦り始めていた。
合唱の終わりはお別れ会の終わりでもある。歌声が止むとすぐに体育館から人があふれ出てくるだろう。
泥まみれで穴を掘る姿を衆目の元に晒されて平然としていられるほど、メリーは修行を積んでいない。
ガツン
「あら?」
やけくそになってスコップを振り下ろした先に、土や石とは異なる手ごたえがあった。
音がした辺りを慎重に掘ってみる。
「これって……」
「おや」
「メリー、見つけたの!?」
出てきたのは防水性の袋に包まれた金属の箱だった。
虹のたもと、という推理を元に掘って出土したのだ。池の造成時に出た廃棄物でない限り、長年子どもたちが捜し求めていたお宝でまず間違いないだろう。
穴を掘っていた三人がスコップを投げ捨てて駆け寄って来る。
「大手柄だよ! にくいぞ、このっ!」
「あ、ありがとう、蓮子」
頭の中を整理できていないメリーに、感極まった蓮子が抱きつく。二人とも泥だらけだったが、気にはならなかった。
「もー、推理が大当たりなんて! 今日からメリーは秘封倶楽部の名誉顧問だ!」
「元から二人しかいないの名誉顧問?」
「おーい、開けないのかい?」
「はっ、そうじゃん! 早く開けよう開けよう開けよう!」
「待って、待ちなさいって! この箱、ボルト止めしてあるみたいで、工具がないと……」
「開けるだけなんだろ? ほら、貸してみな」
言うが早いがちびっ子が金属の箱をひったくる。
箱の上部をつかみ、軽く力を入れただけでボルトが吹っ飛んだ。
「ね、簡単でしょ?」
人間スパナさんですか? と口に出そうになった。
突っ込みたいことは山ほどあったが、今はそれよりも優先すべきことがある。
「大判小判がざっくざく? それとも歴史のミッシングリンクを埋める重大な証拠が……」
「箱の材質やボルトから考えて、そこまで古いものではないはず……」
数十年ぶりに暴かれた箱の中を覗き込み、蓮子とメリーは固まった。
力持ちの二人が中に入っていたものを取り出して、しげしげと眺める。
「何だいこりゃ?」
箱の中身は恐らくこれまで推測、あるいは妄想されてきたどんなものとも違っていただろう。
中に詰まっていたのは、過去の権力者が隠した貴重な宝物ではなく、偶然埋もれてしまった歴史的な価値がある遺物でもなかった。
「手紙、みたいだねぇ」
指でつまんでいる封筒を、ちびっ子が端的に言い表した。几帳面な字で“未来の私へ”と書かれている。
身悶えしているモーツァルト以外、誰も動けないでいると、体育館の扉が開いてドッと人が出てきた。
メリーの予測通り、池の周囲にできた穴と汚い格好の集団に驚き、皆が勝手な憶測を叫んでいたが、やがて何人かの大人が近寄ってきた。そのうちの一人は秘封倶楽部の二人がよく知る人物だった。
「蓮子にメリーさんじゃないの」
「母さん!?」
「こ、こんにちはっ」
彼女は二人の手元にある箱に気づいた途端、顔をほころばせた。
「あらまあ。懐かしいわねぇ」
「母さんはこの箱が何だか知ってるの?」
蓮子は埋められていた宝の正体の見当はついていたが、あえて口にしなかった。
箱は蓮子ママの手に渡り、近寄ってくるおじさんおばさんを喜ばせていた。どうも、同じ世代の人たちのようだ。
「もちろん知っているわ。だって、これは私たちのクラスが埋めたタイムカプセルだもの。それにしても、蓮子やメリーさんはどうしてここに埋めてあると分かったの?」
始まりは謎でも秘密でもなかったのだ。
とある学年が埋めたタイムカプセルの話が、伝言ゲームのように下級生へ語り継がれていくうちに、虹川小学校始まって以来の壮大な謎へと変化してしまったのである。
二十年後に掘り出す予定だったそうだが、皆の予定が合わず延期が続いているうちに忘れられてしまったらしい。それが、お別れ会で懐かしい顔が集まって話をしている中でひょっこりタイムカプセルの話が出て、会の後で掘ろうとしたら先客が掘り出してくれていた、とのこと。
「もしかしたら、音楽室で校歌が流れたのはタイムカプセルの仕業かもしれないね。私を見つけてくれー! って合図みたいな」
「そうかもね。二十年以上放っておかれたら、寂しくて妖怪になってもおかしくないもの」
虹のたもとの俗説にあやかって橋のたもとに埋めることにした、というメリーの推理はやはり的中していた。
当時の担任の先生が民俗学をかじっていて、タイムカプセルをどこに埋めるかで喧嘩が起きそうになったとき、彼が橋のたもとに埋めることを提案したそうだ。
「ま、取り越し苦労だったみたいだけどね~」
蓮子とメリーは第一発見者としての所有権を、掘った穴を埋める労働と交換した。
今頃、いい年をした大人たちが子どものようにスコップを握りつつ、思い出話や自分が書いた手紙のネタに花を咲かせていることだろう。
できればモーツァルトや力持ちの二人にお礼を言いたかったが、いつの間にか消えてしまっていた。
「でも、楽しかったでしょう?」
「もっちろん!」
蓮子は飛びっきりの笑顔で叫んだ。
「メリーが一緒だったおかげで最高の思い出が作れたし、これだけ楽しめば小学校も満足してくれたんじゃないかな。この思い出があれば、校舎が解体されてもあまり悲しまずにすみそう。本当にありがとうね」
「別に、私は金魚の糞になって蓮子の後ろをついて周ってただけよ」
「そうかなぁ? あと、さっき穴を掘りながら校歌の合唱を聞いてたけど、すごいね。お年寄りから子どもまで、あんなに覚えて歌ってくれるなら、完全に忘れられるのは当分先になるかも」
「小学生で習ったことは特に記憶に残りやすいと言うし」
あれだけ騒がしかった太陽はようやく疲れたのか、今は山の向こうへ帰る途中。凶暴だった日差しも、ゆったりとした橙色になっている。東の空はすでに群青色だ。
まるで製作途中の絵画のように刻々と色が変化していく世界を、二人は歩いている。
「ねえ、蓮子はさ」
「ん、何?」
ふと、夕暮れ色に染まった相棒に声をかける。
鼻の奥に残った校舎の匂いのせいか、普段はできないような質問をしてみたくなったのだ。
「大学を卒業したらここに戻るつもりなの?」
いくら大学や秘封倶楽部の活動が楽しくても、いや、楽しいからこそ時間は有限なのである。
その限られた時間を共有する人の未来の予定を知ってしまうと、途端に楽しいはずの活動がつまらなくなってしまいそうで少し怖い。
しかし、今ならどんな答えが返ってきても、優しい色が包み隠してくれる気がした。
「うーん、どうだろう」
蓮子は困ったように帽子をいじる。
「私の同級生には大学を卒業したら、地元に帰ってベンチャー企業を作るつもりの人もいるわ。ゆくゆくは大企業に育てて地元を復活させてやるんだ、なんて息巻いてる。けど、私は地元に戻るか分からないや」
「蓮子の不思議な瞳でも未来は見えないのかしら?」
「それはメリーも同じじゃない?」
夢見る少女はどこか確信めいた笑みを浮かべ、空を見上げた。
空に輝く一番星は彼女だけに今の時間を教えてくる。
「五時五十二分。私の中を流れる時間は一つだけでも、興味があることは無数にあるからね。秘封倶楽部の活動はもちろん大好き。物理学も面白い。その中の天文学なんて素敵じゃない? それに、宇宙へ飛び出すのもスリルがありそう。だけど……」
突然、蓮子は腕を広げて、自分を育ててくれた故郷を抱きしめるようにグルリと一回転した。
遠くの山々。空を行く紫色の雲。家路を急ぐカラスの群れ。雑木林。誰もいない田畑。傾いた廃屋。まだ温かい農道。
全て彼女の一部だ。
「どんな未来へ進むとしても、仮に故郷の外で生活するとしてもね、たまには虹川へ来ると思うわ。だって、私の土台はここに建っているんだもん。ま、ここで暮らして面白い話や、消えてしまった学校の校歌を近所の子どもたちに教えてあげるのも悪くないかもね」
結局、メリーの中につまらないという感情はこれっぽっちも生まれなかった。
それどころか、相棒の実に楽天的な笑顔や、故郷を語る熱い口調を聞いていると、底なしの安堵が沸いてくる。その安堵はすぐに火がつき、赤々と燃え盛る炎となった。
「蓮子ったらずるいわ!」
叫んでから自分の嫉妬心の強さに驚く。
「ずるい?」
「あなたのする未来の話はどれも楽しそうなんだもの。私にも少し分けてちょうだいよ!」
相棒への思いをぶちまけてしまうと、メリーは黙り込んでしまった。
幸いなことに、顔が夕日で赤く染まっていたので、その下にどんな色が隠れているのかよく見えない。
蓮子は当初あっけにとられていたが、しばらくすると口元をいたずらっぽく歪め、嫉妬深い相方へ流し目を送った。
「そうねぇ。未来は分けることはできないけど、共有することはできるわ。メリーがどうしてもってお願いするなら……」
「ワフッ!」
残念ながらメリーは返事をすることができなかった。
とある一軒家の庭先から、聞こえるはずのないものが聞こえてきたのだ。
二人が仰天して庭の方へ振り向くと、そこには毛並みがやや悪くなっているものの、立派な体つきをした柴犬がいた。そして、主に蓮子へ向けて一心不乱に吠えかかってくるではないか。
色あせた犬小屋の主はもうこの世にはいないものだと思っていたが、とんだ勘違いだったようだ。
「行きに通ったときはいなかったのに……」
「もしかしたら、散歩中だったのかも」
「ワフッ!」
数年ぶりに現れたライバルに向かって年老いた柴犬は吼えまくる。
登下校中の悪がきと毎日のように戦っていた頃に、勝るとも劣らぬ誇り高い声だった。
「お前なー、びっくりさせるなよ! 死んじゃったかと思ったじゃないかー!」
「ワフッ! ワフッ!」
ライバルの心中を知ってか知らずしてか、老犬は元気に吼え続ける。
蓮子とメリーは顔を見合わせくすくすと笑うと、やがて手をつないで未来の方向へと歩き始めた。
「乾杯!」
「かんぱーい!」
「いえー!」
博麗神社では八雲紫主催の“ぶらり廃校の旅”の締めを飾る宴会が開かれていた。
酔っ払った誰かが漏らした冗談から始まったこの旅だが、数名が注意を受けただけで無事に終えることができた。これも主催者の式が尽力したおかげだろう。
「校歌かぁ……」
参加者であるリリカは姉たちから離れ、鳥居のそばで独りグラスを傾ける。
賽銭箱の前では鬼たちは戦利品のスコップを自慢げに見せびらかしていた。小傘や妖精たちは置き傘を剣のようにかまえて妖夢に挑もうとしているし、慧音は主催者の協力でコピーしてもらった教材を熱心に読んでいた。
リリカの瞳に映る宴会風景は、いつもとはちょっと違っている。
「どーしたんですかー? 静かにお酒を飲むなんて珍しいですね~」
「素晴らしい合唱の余韻に浸ってるの。邪魔しないでよ」
「んも~、しけたこと言っちゃって~」
まどろみにも似た雰囲気をぶち壊したのは、早くも酒に飲まれた山の上の巫女だった。
肩に手を回し、アルコール臭い息を吐きつけてくる。はっきり言って不快である。
追い払おうとして手を叩こうとしたとき、その手に携帯電話が握られていることに気がついた。
「そういえば、早苗は外の出身だったよね?」
「あれ、よく知ってますね~」
「前に話してくれたじゃん」
「そうでしたっけ?」
「まあ何でもいいけど、小学校の校歌は歌える?」
少し期待をこめて尋ねてみると、お前は何を言っているのだと叫ばんばかりに驚かれた。
「当たり前田の諏訪子様ですよ!」
「何で私じゃないんだ!」
名前を言ってもらえなかった方の神が悲しみのあまりぶっ倒れる。
早苗は尊敬する神の危機に気づかず、やおら立ち上がると博麗神社中に響く声で宣誓した。
「六年二組、出席番号五番、東風谷早苗歌います!」
静まり返った宴会場を占領したこの瞬間、少女は歌姫となる。
『霧ヶ峰 そばたつところ 山風の そよぐ窓辺に 諏訪西小学校 伸びゆくわれら』
リリカはグラスを落としてしまった。
小学校卒業から数年のブランクがあるだけではなく、ピアノによる伴奏さえもないのに、早苗は迷うことなく歌い始めたのだ。
『高らかに理想をかざし 喜びに胸をふるわせ 美しい美しい夢をえがいて学ぶ』
「いいぞー!」
「早苗最高だー!」
杯が飛び、弾幕が夜空を舞う。
思わぬサプライズによって宴会場の温度はうなぎ登りになっていた。あまりの熱さに倒れていた神奈子も飛び上がり、黄色い声を出したほどだ。
早苗もノリノリで声援に手を振り、校歌の二番に突入する。
『高原の希望の夜明け 陽に映える 富士を仰いで 諏訪西小学校 伸びゆくわれら』
澄んだ声からつむぎだされる校歌によって、リリカの目にもまだ見ぬ諏訪の地が浮かんできそうだ。
我に返った自称モーツァルトは、今日出会った少女が叫んだ言葉を思い出した。
「私は絶対に校歌を忘れないからね! か……」
『清らかな 真理をたずね はつらつと明日をめざして 美しい美しい夢をえがいて進む』
転がったグラスを拾って酒を注ぎ直す。
「良い校歌だったけど、次に聴けるのはずっと先になりそうだなぁ」
『清新の息吹は溢れ 歌声の高鳴るところ 諏訪西小学校 伸びゆくわれら』
自分の手で演奏できないことは残念ではあるが、大勢の人間に歌ってもらった方が校歌にとって幸せかもしれない。
万が一、幻想郷に流れついてしまったら、そのときは自分が拾い上げて二度と忘れられることのないよう演奏し、姉たちや仲間と歌い続ければよいのだ。
『友愛の きずなも固く 肩を組み 声をあわせて 美しい美しい夢をえがいて歌う』
独唱は終わった。
ほてった顔の早苗がぺこりとお辞儀をすると、万雷の拍手が彼女を迎える。
幻想の音を受け持つ騒霊はグラスを掲げ、校歌を歌う全ての人々にささげた。
このお話しは大好きなので、復活してくれて嬉しいです。
こーこはー ふふ~ふふ~ん ふ~ふふーふ 小ー学校ー♪(校名は伏せておく)
最後の早苗さんが歌うところで泣いた
もう一度感想を書かせていただきます。
廃校が決定した校舎で秘封倶楽部と幻想郷のキャラクターの兼ね合いが好きで、その上各キャラクターの個性も生かされている
全体のストーリーもまとまっていて校歌が心に響きました。
やっぱ小学校みたいに印象が濃い学校の校歌は大人になっても口ずさむことができるようになりたいです。
本当にいろいろ思い出せていただき、良い作品を読ませていただきありがとうございました。
追記
藍様 本当にいろいろお疲れさまでした。