妖怪は、基本的には群れない生き物だ。
自由気ままに己の本質に従って生き、戯れに人間を襲う。そういう生き物だ。
……なのに、私はその妖怪の本質を見失い始めている。
**花摘み**
そよりと夕暮れ時の涼しい風が頬を撫ぜる。草の清涼な香りが鼻腔をくすぐる。
背中には、柔らかな土と草の感触。目の前には、瞳を紅色に染めた咲夜さん。
薄闇のように霞がかり、ぼんやりとしていた頭が、一気に覚醒した。
「え?」
自分の置かれている状況を把握しようと、目をきょろきょろ動かした。
生え揃った萌黄色の芝生。花芽の膨らんだ花木。咲き始めた小さな草花……。
――そうだ。ここは庭園だ。
紅魔館の庭園の一角、白と赤紫色の木蓮のある植え込みで私はせっせと草むしりに励んでいた……はずなんだけど、気付けば視界が180度ひっくり返っていた。慌てて起き上がろうにも両手首を地面に縫い止められていて上手くいかない。
何? これ……。どうして私は、咲夜さんに組み敷かれているんだろう……?
「……あ、あの」
「何?」
「どうしましたか?」
「どうした、ということもないんだけど、貴女の後ろ姿を見たら、こうしたくなっただけ」
「そ、そうですか……」
……でも、それだけ、ということはないですよね。
私の後ろ姿を見た、というのはあくまでも「きっかけ」であって、咲夜さんがこんなことをした理由は、別のところにあるはずだ。でも、そうは思っても、その理由が分からない。
私と咲夜さんは、一応「恋人同士」だから、無理やり押し倒されるいわれはない。
それに夕暮れ時とはいえここは屋外で、誰の目に触れぬとも限らない。それを気にかけないほど咲夜さんは鈍感でも無関心でもない。基本的に「瀟洒」であることを良しとしている人だから。
「そうだ。庭園に来たのは、花を取りに……ですよね?」
「そう。館内に飾る花をもらいに来たのよ」
「そうですか。じゃあ、お切りしますから、一緒に花を選びましょうよ」
「……そうやって逃げるつもり?」
「逃げる?」
ぐぐっと咲夜さんの手首を押さえつける力が強まった。
……痛い。妖怪だって痛いものは痛い。
痛みに眉を顰めながらも、頭の中で咲夜さんの言葉を反芻した。
この張りつめ、ひりついた状況を切り抜けるには、上手く頭を働かせるしかないだろう。
……逃げる、……逃げる? 咲夜さんは、私に逃げられたくないのかな。
こんな力任せなことをするのも、私を繋ぎとめておきたいから?
この考えがもし、自惚れではなく本当だとしたら、それはどれだけ強い想いなんだろう。
瞳の色が紅く濡れているから、咲夜さん、「力」を使ったんでしょう?
草をむしる私の背後で「時を止めて」こんなことをしたんでしょう?
青い瞳に戻る気配はないから、私が下手な受け答えをしたら、また力を使われるかもしれない。
そうしたら……きっと今度は途中で力を解いてはくれないだろう。時を止められた私は、子供の操る人形のようにされるがまま、咲夜さんのなすがままになってしまう。
この状況は危険だ……。限りなくまずい。
そう思い至ったら、自然と背中に冷たい汗が滲んできた。
「……咲夜さん、私はどこにも行きません。逃げませんよ」
「信じられないわ。だって貴女は妖怪だし」
「信じられない」、「妖怪だし」という言葉がぐさりと鋭利に胸を刺す。
……悲しい。妖怪だって悲しいものは悲しいのに。人間と同じなのに。
何で好きな人にこんなことを言われなくちゃならないの? 一番言われたくない人に。
目の奥がかあっと熱くなって、涙が滲んでくる。咲夜さんの言葉に、私は冷静でいられない。
でも、泣くもんか。ここで泣いたら、きっと咲夜さんのほうが傷つくと思うから……。
「私は妖怪だからって好き勝手に生きませんよ。ここでこうして働いているじゃないですか」
「でも貴女は、紅魔館から出て行こうと思えば出ていけるじゃない」
「それは咲夜さんだって同じでしょう?」
「私は、出ていくつもりはないわよ」
「私だってそうですよ」
「本当に?」
「本当ですよ」
必死に訴えると、咲夜さんはついと視線を外して思案顔になった。瞳は依然として紅いまま。
……どうして信じてくれないんだろう。どうしたら信じてくれるんだろう。
焦燥感が募る。悲しくて……後、少し怖くて。咲夜さんの一挙手一投足から目を逸らせない。
このままじゃ駄目だ。きっとこのままじゃ信じてもらえない。納得してもらえない。
どうしたら、どうしたら……。私はこんなにも咲夜さんのことを考えているのに。
身も心も捧げたのに、咲夜さんはそれでも私の想いを信じてくれない。
これ以上一体何を差し出せば良いの? 差し出せるものは何も残っていないのに……。
成す術なく、絶望的な気持ちで咲夜さんを見つめていると、ふいに強い風が巻き上がった。
辺りの草木をざあっとなびかせ、二人の身体を容赦なく打つ。
「――っ!」
拘束された腕では顔を庇えず、風下を向いて目を細め、やり過ごした。
細めた目に、ぼんやりと黄色の花が映る。蒲公英だ……と認識するや否や突き動かされるように腕を伸ばした。風の衝撃で僅かに弱まった手首の拘束を振り切り、右手を伸ばす。
「美鈴!」
「うぅっ……!」
声を荒げた咲夜さんに頭を押さえつけられた。咄嗟の行動のためか力の加減はまったくない。
側頭部がぐぐっと圧迫されて目がちかちかする。小さな小石のようなものが頭に擦れて痛い。
それでも腕を伸ばして蒲公英を握りしめると、茎からぶちりと引き抜いた。
その勢いのまま、引き抜いた蒲公英を目の前の咲夜さんに突き出す。
「咲夜さん! 私は逃げませんから。貴女の傍にいますから。お願いだから、信じてください。私はこの蒲公英のように咲夜さんに摘まれたんです。貴女の手の中にいるんです。でも、勘違いしないでください。私は無理やり摘まれたんじゃなくて、望んで摘まれたんです。だから咲夜さんの手から逃げるようなことは絶対にしません。お願いです。信じてください。お願いです。お願いだから……」
こめかみを押さえつけられているために咲夜さんの表情が窺えない。
その分、必死で声を出した。これは私の本心。嘘偽りのない心からの叫び。
同族である他の妖怪に聞かれたら軽蔑されると分かっていても、私は咲夜さんに縋りつきたい。
怖いのも痛いのも我慢出来る。だけど信じてもらえないのだけは嫌だ。
私の想いを信じて欲しい。私の想いを受け止めて欲しい。
「お願いです、咲夜さん。何が足りないんですか。何を差し出せば良いんですか? 私にはもう何も残っていません。残ってないんですもん。私、どうしたら良いのか分かりません」
自分の言葉が途中から恨みがましくなるのを自覚しながら、それでも止められなかった。
浅ましい。見っともない。情けない。悲しい。許されたい。信じて欲しい。
様々な思いが、言葉が、ぐるぐる頭を駆け巡って訳が分からなくなる。
息が苦しい。耳の奥で鼓動がうるさいくらい鳴り響いている。
顔が熱く火照って、とうとう涙がぼろりと零れた。
――あぁ、我慢していたのに! 私はもう、滅茶苦茶だ。
「酷いです咲夜さん。酷いです。酷い……」
「美鈴……」
私の頭を圧迫していた手の力が緩んで、さらりと髪を撫でられた。
目頭から鼻筋へ伝い落ちる涙を指先で拭われる。
「ごめんなさい」
自由になった頭を動かして見上げた咲夜さんの瞳の色は、青かった。
それを見た途端に止めどなく涙が溢れてくる。堰を切ったように、ぼろぼろぼろぼろ零れ落ちる。
良かった。良かった。戻った。もう紅くない。もう怖くない。もう痛くない。
「咲夜さん……私、私……本当ですから」
「えぇ、分かったわ。貴女の気持ちは十分、分かったから。……でもね」
そう言葉を区切ると、咲夜さんは手首の拘束を解いて蒲公英に手を伸ばした。
私の手から蒲公英が摘まれる。他の誰でもない、咲夜さんに……。
その様子を涙にぼやけた目で恍惚として見つめていると、ふっと視界から花が消えた。
「え……?」
密かに、くしゃりと音を立て、蒲公英の花はゆっくりと咲夜さんの手の中で押し潰された。
花の青い香りが、まるで断末魔のように強く香り、つんと鼻腔を刺激する。
訳が分からず、咲夜さんの手と、指の隙間からだらりと垂れた茎を見つめた。
「……たとえこんなふうに押し潰してしまったとしても、私は貴女を手放さない」
青い瞳のまま、普段どおりの声音で、咲夜さんはそんなことを事も無げに言う。
私は、貴女を手放さない。手放さない……。
一方私は、私にとって一番大切な言葉を頭の中で反芻する。
「それでも良いの? なんて殊勝なことは言わないから」
「……はい。それでも構いません、私は。咲夜さんが信じてくれるなら」
それで良い。それで良いの。咲夜さんが信じてくれるなら。傍に置いてくれるなら。
私は妖怪で、丈夫だから、痛くてもきっと大丈夫。耐えられる。
たとえ、鋭利な言葉で心を傷つけられても、捨てられるよりはよっぽど良い。
「そう……。良い子ね美鈴。私、そんな従順な貴女が好きよ」
涙に濡れた頬を咲夜さんの指がなぞる。
猫の喉を撫でるみたいに目の下を擦られると、呼応するかのように涙が零れた。
僅かに笑んだ咲夜さんの顔には、恍惚とした支配欲が浮かんでいる。
恐らく、弱々しく微笑む私の顔にも現れているだろう。
圧倒的な力で、暴力的なまでに求められる快感と、被虐の悦びが。
摘まれた花に自由はないけれど、その代わり、狭くて小さな居場所を与えられる。
自分だけの居場所があるという安心感。手の内にあるという心地良さ。
その甘美な空間に捕らわれてしまったら、もう今までのようには生きられない。
自由が、孤独になる。束縛に、安心する。
妖怪とは、基本的には群れない生き物だ。
自由気ままに己の本質に従って生き、戯れに人間を襲う。そういう生き物だ。
だけど、私は、感情が本質を上回るものだということを知っている。
本質なんて、簡単に感情に飲み込まれてしまうものなんだって、私は咲夜さんに教えられた。
……あぁ、だけど、どうしてか涙が止まらない。
高ぶった感情のまま、ぼろぼろと零れ落ちる。目が腫れてひりひり痛む。
試しにぐっと目に力を入れて、溢れる涙を堰き止めてみた。
「……あぁ、駄目よ美鈴。綺麗な涙なんだから、止めちゃ駄目」
優しく窘めるように言われて、そっと目元に口付けられて、私の涙腺は呆気なく決壊した。
甘く痺れるような幸せが全身を駆け巡り、後はもう、何も考えられなくなった。
文章も綺麗で読みやすかったです。
どんよりしているようで奇麗な話だ。
少し病んでる咲夜さんがいいこの2人なら最期は一二の三で逝きそう